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Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド

2023-03-26 | 映画(は行)

◼️「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド/Pirates of the Caribbean: At World's End」(2007年・アメリカ)

監督=ゴア・ヴァービンスキー
主演=ジョニー・デップ オーランド・ブルーム キーラ・ナイトレイ ビル・ナイ

女友達に
👩🏻「キーラ好きなら観ておけば」
と言われて3作目まで観た。第1作が好きになれず、第2作はハリウッド大作なのに話がわからん自分はおかしいのだろうか?と悩んでしまった私💧。Filmarksで皆さまのレビュー読んで、「?」と思ったのは自分だけでないと知って胸をなでおろすw。いろいろ詰め込みすぎでしょ。破綻してるとは言わないけれど、上映時間も含めて観客に優しくないのは確か。

さてその続きとなる第3作。ジャック・スパロウがいない方が話が進むと思ったのは間違いじゃなかった。冒頭、チョウ・ユンファ兄貴のアジトを訪れてからの展開なかなか面白いじゃない。しかもキーラたんの活躍がどんどん正面に出てきて、ファンとしては嬉しい限り😆。やっぱりスパロウが出てくると話がこじれてくるけれど、結果として海賊たちをまとめることに貢献できたのはよし。

巨大な渦巻きを挟んで対峙する2隻が戦う場面は見どころ。大砲撃ちまくるだけでも迫力あるのに、甲板での大群衆チャンバラ、マストにつながるロープを使った空中戦までアイディア満載で楽しい。

だけど、ずーっと引っ張ってきたカリプソの件はミスリードを挟みつつ唐突に本筋から撤退。え?😧それでいいの?「シン・ウルトラマン」の長澤まさみ級に巨大化するシーンとか必要?それでもタコ野郎が愛した人の名を叫ぶ最期は、男として気持ちを汲んであげます。

タコ野郎が素顔に戻る場面、キーラたんがみんなを煽って盛り立てる場面が好き。でも他の個性的な海賊さんたちの活躍がもっと観たかったかな。そして最後までオーランド君とキーラたんが目立つ話だった。3作目でのスパロウは影が薄くて、狂言回しにすらなってない。ジョニデは好きな役者なんだけどな。
キーラたん、よかったです。それで満足しておきます。

え?次作は大好きなペネロペたん?
み、観ようかな😅





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パタリロ!スターダスト計画

2023-03-16 | 映画(は行)

◼️「パタリロ !スターダスト計画」(1983年・日本)

監督=西沢信孝
声の出演=白石冬美 曽我部和恭 藤田淑子

劇場公開当時、シブがき隊の映画と同時上映だった「パタリロ!スターダスト計画」。配信サービスで見つけたので、懐かしくって久々に鑑賞。あの先駆的なBLギャグ漫画をテレビアニメにしてること自体がすごい、今思うと。
👆シブがき隊映画のキャッチコピー、
 意味がわからんw

世界各地で繰り返されるダイヤモンド強奪事件に巻き込まれた常春の国マリネラ。事件がダイヤモンド輸出機構の陰謀と突き止めたわれらがパタリロとMI6のバンコラン少佐が、地球規模の危機と宿命の復讐劇に立ち向かう。お馴染みのクックロビン音頭、最高♪

毎度繰り返されるパタリロの茶々とギャグは、ストーリーの進行を妨げそうなギリギリの線。翻弄されるバンコラン達の反応も含めて、これがなんとも快感なんよねぇ。殿下を演ずる白石冬美は「機動戦士ガンダム」のミライさん以上の名演だし、改めて見ると背景の薔薇盛りすぎww

組織の殺し屋美少年ビョルンとアンドレセンの元ネタは、イタリア映画「ベニスに死す」(ドラマ「半分、青い」で秋風先生が「タジオ!」って言うのもこれが元ネタ)。現代の技術とテイストでアニメ化したら面白いだろうなぁ、もちろん深夜枠で!原作自体が今のテレ東アニメ深夜枠以上の自由さで描かれているんだもん、楽しくないはずがないさ。





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ふたりの女

2023-03-08 | 映画(は行)


◼️「ふたりの女/La Ciociara」(1960年・イタリア)

監督=ヴィットリオ・デ・シーカ
主演=ソフィア・ローレン ジャン・ポール・ベルモンド ラフ・バローネ エレオノラ・ブラウン

戦時下のイタリア。空襲が激しくなるローマを離れた母娘と厳しい状況の中で生きる人々の姿を描いた秀作。ヴィットリオ・デ・シーカ監督は、男と女の軽妙な娯楽作がある一方で、こうしたイタリアン・ネオリアリズモと呼ばれる現実主義的な作品もある。本作はネオリアリズモ路線ではあるが、後の名作「ひまわり」にも通ずる、戦争と男と女の物語でもある。

ローマを離れるチェジラは夫の友人ジョバンニの元を訪れる。戻るまで家を頼むだけのつもりが、暗闇で押し倒されてしまう。そこから娘と疎開するストーリーが進み始めるので、暗闇で抱擁するこの場面が長く感じられた。しかしここでワイルドなラフ・バローネを強調しているから、疎開先で出会う年下の男性ミケーレ(ジャン・ポール・ベルモンド)との対比が生きてくる。チェジラに愛情を示すミケーレに「このご時世では役に立たない男」と切り捨てるのだ。一方で娘もミケーレに好意を抱く。「平和だったらあんたにお似合いなのにね」

疎開先で出会う様々な立場の人々。ドイツ将校に媚びる富裕層の老人、生きるために食料をやり取りする人、脱走兵、ロシア兵、そして敗戦間近のドイツ兵。わずかな登場場面でも印象に残るキャラクターもいる。このあたりは現実主義的な作風が生きている。

母娘は再びローマに向けて歩き始めるが、北アフリカから来た兵士たちに襲われてしまう。心を閉ざした娘の定まらない視線と変わってしまった言動、必死になって守ろうとするチェジラには涙を誘われる。戦時下という状況、気持ちをむき出しにする男性と立場の弱い女性。ジョヴァンニやミケーレだけでなく、男の欲望までもがチェジラの身に迫ってくる。ミケーレがチェジラにくれる優しさが、あの時代に本当は大切なものだったのでは…と気付かされるラスト。とても切ない。




 

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BLUE GIANT

2023-02-24 | 映画(は行)

◼️「BLUE GIANT」(2023年・日本)

監督=立川譲
声の出演=山田裕貴 間宮祥太朗 岡山天音

僕自身の音楽遍歴を振り返ると、ジャズに深くハマった時期はない。理由はジャズを解するには肥えた耳が必要だと思っていたからだ。その演奏のすごさが理解できないなら、演奏者に申し訳ないとずっと思っていた。僕の地元では70年代からジャズの夏イベントが開催されていて、耳に馴染みはあるのだが、どこか距離を置いていた。だんだんとジャズに近づいて行ったのは、自分が楽器を手にするようになってからだ。トロンボーン吹きだった高校時代はビッグバンドジャズに興味があった。鍵盤弾きが主になって友達のフュージョンバンドに参加もした。かっちょいいプレイをコピーして、プロの鍵盤弾きの凄さを感じ憧れるようになった。

同じ頃。スティングのアルバムでブランフォード・マルサリスの演奏を聴いてから、密かにサックス🎷に憧れ始めた。そして今。ウインドシンセでサックス向けの曲ばっかり練習するおいさんになった。音楽ものは毎度前置きが長くて申し訳ないです💧。

だから"音が聴こえる漫画"と巷で評判の「BLUE GIANT」には興味があった。ジャズピアノの上原ひろみが音楽担当でアニメ映画化!と聞いて、もぉー劇場で観るしかない!と心に決めて初日参戦。原作にない音が映像をどのように彩るのか。それが最大の関心事だった。

音楽に対する純粋な気持ちと、努力を積み重ねることの大切さが心に残る。映画化されるより前の高校時代のエピソードでは、ジャズを知らない友人たちに魅力を語る姿と気持ちのこもった演奏で納得させるダイをカッコいい…と思った。その気持ちのまま東京にやって来て、頭角を表していく。

純粋な気持ちだけでなく、障害となる厳しさもきちんと描かれているのが好感。鼻息の荒い若者たちにビシッと厳しい言葉を浴びせる大人たちがまたカッコいいのだ。ジャズクラブSO BLUE支配人の平さんがユキノリのプレイと態度を戒める言葉。あれを抑えたトーンで言える大人に、自分はなれているのだろうかと考えてしまう。チャラい大人だからなぁw。

また、ジャズを演奏するプレイヤーとしての人間関係も生々しい。お互いを踏み台にして名をあげる。だからずっと一緒に組んで演奏するような関係ではない。作曲もこなすユキノリのアドリブが面白くないと指摘されて悩む場面で、本人の問題だからできることはないと言うダイと、仲間として何かできないかと言う玉田。決定的な立場の違いとプレイヤーとしての凄みが同居するいい場面だった。

その反動が映画後半に炸裂する。ユキノリが眼を見開いて演奏するピアノソロの凄まじさ。モーションキャプチャーで演奏を撮影してアニメに置き換えているから、その絵の向こうでは上原ひろみが立ち上がって鍵盤を叩いているわけだ。ダイのテナーサックスがまさに唸りをあげる。ベルから流れる空気の流れや、ライトに照らされた楽器が放つ光の動きが演奏の激しさをビジュアルで表現している。原作のテイストを大事にしつつ、アニメだからできる表現が加わる。

音楽と映像が一体となった瞬間って、映画ファンにとっては最高のエクスタシー。この映画でジャズに興味もってくれる人が増えたら嬉しいな。玉田がダイの影響を受けたように。原作でダイがライブを聴いて衝撃を受けたように。




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バビロン

2023-02-18 | 映画(は行)

◼️「バビロン/Babylon」(2021年・アメリカ)

監督=デイミアン・チャゼル
主演=ブラッド・ピット マーゴット・ロビー ディエゴ・カルバ ジーン・スマート

デイミアン・チャゼル監督が撮る映画はカッコいい。絵になるアングル、長回しで動き回るカメラ、台詞に頼らずに物語を伝える手腕。これまでの作品でも発揮されてきたこうした面は本作でも健在。いや、むしろパワーアップしている。

延々続く酒池肉林のパーティ場面では、人をかき分けてカメラは突き進む。後でストーリーに絡んでくる人を紹介するように止まり、そしてまた動き出す。ギャングに連れて行かれる秘密のクラブに入っていく場面でも、観客もその場に導かれるような気持ちにさせる(嫌だ。もう帰りたい!と思ったもんw)。さらにカメラは自在に動き回り、映画館を俯瞰で捉えたり、踊るマーゴット・ロビーを見上げるエロ目線まで。ヴァラエティ紙の記事や雑誌の表紙で示す成り行きや世間の動き。スマートだし見事だ。

その一方で、観客が娯楽映画で見たくないものを容赦なく示してくれるのもチャゼル監督。象の尻はカメラをも汚し、「猟奇的な彼女」ほど生々しくないけど(笑)激しい嘔吐、秘密クラブの怪しく危険な世界。サイレント時代のハリウッドを描いた映画だから静かな雰囲気かと思ったら、セット撮影場面のうるさいことうるさいこと。音が記録されないからすぐ隣で別な映画撮っても平気。だからこんな無茶苦茶が成り立っていたんだろう。カメラを借りるために車を走らせる場面は、「セッション」みたいに事故るのかと思ったぞ。

特に映画前半、僕は聴覚に不快感を覚えた。ピーター・グリーナウェイの「ベイビー・オブ・マコン」より人であふれかえる映像に、バズ・ラーマン映画よりやかましいサウンドが乗っかる。それが延々続くんだもの。あーもぉー😩、この映画、チャゼル監督の代表作「ラ・ラ・ランド」(大嫌い)より嫌いかも。

ところが、トーキーの時代に物語が進むとピタッと音が止む。同時録音のために撮影現場が静まりかえるからだ。この切り替えが見事。「ファースト・マン」の月面シーンで無音になるところも見事だったな。この撮影場面から先のストーリーの進み方はさらに緻密になっていくし、僕らも映画への没入感が高まっていく。映画が音を伴ったことで地位を追われていくスタアたち。その末路は厳しく哀しい。そして、かつて同じテーマを扱った名作ミュージカル「雨に唄えば」が引用される。

映画のラスト、主人公が映画館で「雨に唄えば」を観て号泣する場面がたまらなく胸に迫るのだ。
「映画という未来に残り続ける大きな存在の一部になりたい。」
そう思って撮影所で働いて頑張ってきたんだもの。トーキー導入の苦しさ。あの現場にいたんだもの。でもその涙はいつしか銀幕を見つめる笑顔に変わっていく。カメラは場内を舐めるように移動して、観客のニコニコした表情を映していく。映画は夢を与え続けるもの。あの頃も今も。この映画への愛が込められた場面の印象が、それまで不快だった部分を吹き飛ばしてくれる。今回も巧さを見せつけるな、チャゼル監督。前半の不快感がなければ好きな映画だったかも。

歴代の映画の名場面をつないで、後の時代から今まで残り続ける映画たちを示す場面。本筋に関係ないからズルいと思うけど、確かに感動的ないい場面。でも似たようなことは、ニール・ジョーダン監督の「インタビュー・ウィズ・バンパイア」で、もっと筋に則してやってるからね。

「セッション」が大好きなだけに、僕はチャゼル監督への期待が大きくて、目線が厳しいのかな。でも最後に言わせて。

長えよ!長けりゃいいってもんじゃねえよ!




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パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト

2023-02-12 | 映画(は行)

◼️「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト/Pirates Of The Caribbean:Dead Man's Chest」(2006年・アメリカ)

監督=ゴア・ヴァーヴァンスキー
主演=ジョニー・デップ オーランド・ブルーム キーラ・ナイトレイ ビル・ナイ

世間が騒ぐ気持ちはわからんでもないのだけれど、第1作がどうしても好きになれない…と、ある飲み会で発言した。僕がキーラ・ナイトレイ好きと知っている女友達が、
👩🏻「素直じゃないなぁ。キーラ好きなら観たら。悪くないよぉ」
と言うので金曜ロードショーを録画して再びジャック・スパロウに挑むの巻。

なんかねー、分かりやすさがモットーのハリウッド大作のくせに、話が首尾一貫してない。コンパスがないと彼女が救えない!ジャック、コンパスがいるんだ。じゃあオレが探しているカギの謎を解かなきゃな。お歯黒女のところに行こう。そしてタコ野郎と対面、死んだ親父とも対面。鍵をタコ野郎から手に入れる。箱を探さなきゃ。中身は××だ。次から次へと求める対象が変わり続ける。コンパスはお前の探しているものを示す。いえいえ、僕らからしたらずーっと対象が変わり続けてるんですけど。そんで結局何がいるんだよ。

本筋がそんな感じでフラフラしてる間に、派手なアクションや見せ場が目の前を通り過ぎて行く。その場その場の楽しさはアイディア満載だし、面白さも認めるけれど、映画半ばで何のためのこの冒険だっけ?と思い始めた。ハリウッド映画がわからんと首をかしげる僕はどこかおかしいのだろうか。続編ありきのクライマックスで、さらにごまかされたような気持ちになる。

オーランド君もキーラたんも熱演。タコ野郎のマスク被ったビル・ナイ先生や、フジツボだらけのステラン・スカルスガルドら名優が、顔も出せないこんな役で脇を固めてくれている。お歯黒ナオミ・ハリスは、「007」のマネーペニー級に名サポート。確かに役者は揃ってる。ステランお父ちゃんは泣かせどころだけど、大タコ以外に何が心に残っただろか。

ジョニー・デップは好きな役者なのに、ジャック・スパロウが出てくるとイライラする。クライマックス、颯爽と船に戻ってくるけどその心情はくみ取れない。ご都合主義?。もしかしたら、話を引っかき回すジャックがいない方が、この映画は話がスッキリするのかな。

これも乗り掛かった(海賊)船なので、第3作もお付き合いします。


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白蛇抄

2023-01-11 | 映画(は行)

◼️「白蛇抄」(1983年・日本)

監督=伊藤俊也
主演=小柳ルミ子 杉本哲太 仙道敦子

公開当時、「小柳ルミ子が!?」がと世間が騒いでいたのをなんとなく覚えている。初めて観たのは公開翌年くらいの地上波での放送だった。今思うとよくもまあこんなドロドロした男と女の話を、お茶の間に流したよなあ、と思う。んで、どんな話だったっけ…と思い、大人になって再鑑賞。

他にも女性はいるでしょ?と言いたくなるくらいに、みんなルミ子に言い寄ってくる。山で襲われそうになったのを杉本哲太が助けたら、その哲太に山小屋で押し倒されてしまう。その後哲太と寺でイチャイチャしてるところを和尚に見られてしまうのだが、和尚が怒ってそのまま成仏。世界史でアナーニ事件を習った時に「憤死」(怒って死んでしまうこと)という言葉が出てくるけど、今思うとこの場面はまさに「憤死」だ。大人になるといろんなことが見えてくる好例(どこがだ)。

どうしようもなくなった気持ちを持て余す演技が、みんな凄すぎる。恋しい相手と話している受話器を足の間に挟み込むルミ子にしても、幼さの残る仙道敦子が振り向いて欲しい一心でレオタード姿で迫る場面にしても、そこまでしなくてもと思うのだけれど、夢中になると人の行動って抑えられなくなる。大人になるといろんなことが見えてくる。

そして何よりももう一度見たかったのは、杉本哲太が×××で障子を次々と破る名場面!枠に当たったらどうすんだ!痛いだろっ!気持ちを持て余した先の激しい行動に、初めて観た時はこの場面が衝撃だった。世間は常套句として女優さんに「体当たり演技」という言葉を使うけれど、この映画の哲太こそ「体当たり」です。



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フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊

2022-12-14 | 映画(は行)

◼️「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊/The French Dispatch」(2021年・アメリカ)

監督=ウェス・アンダーソン
主演=ビル・マーレイ ベネチオ・デル・トロ エイドリアン・ブロディ フランシス・マクドーマンド レア・セドゥ

(注意・嫌いな理由を散々書いてます)
ウェス・アンダーソン監督作がどうも好きになれない。初めて観た「ロイヤル・テネンバウムス」は楽しめた。世間がオシャレ映画とキャーキャー言ってるグランドなんちゃらも、ちゃんと映画館で観た。申し訳ないけど、好かん。キャスティング以外の好きなところを挙げる自信がないので、グランドなんちゃらはレビューを放棄している。色彩と独特な構図でなーんかごまかされたような気持ちになったのだ。個人の感想です。ファンの皆さま、ごめんなさい。

「フレンチ・ディスパッチ…(以下略)」は、活字文化に対するリスペクトあふれる作品と聞いて、文系男子としてちょっと心惹かれた。監督と相性悪い気がするけど、この題材ならイケるかも。かなり期待していた。

映画冒頭、この雑誌「フレンチ・ディスパッチ」が出版業界でどんな位置付けのものか、現在に至る沿革が早口で語られる。編集長が急死したことで、現在編集中のものが最終号となる。掲載される4つの記事をコミカルに描くオムニバス形式だ。

雑誌「ニューヨーカー」からインスパイアされたと聞く。確かに洗練されたハイセンスな雑誌のコラムや記事を読んでるような"外観"(ここ大事ね)で出来あがっている。各エピソードの最初に映し出されるイラスト、ちょっと好き。最初は街を走ってリポートする「自転車レポート」。ところどころに寒いギャグを挟みつつ、淡々と街の様子が描かれる。

続く「確固たる(コンクリートの)名作」では、刑務所に収監されている男が描いた前衛芸術の秘話。鉄格子が映り込む映像だけに、ウェス・アンダーソン監督が好きな縦と横の線、正面から顔を見据えるショットが冴え渡る。というか、この監督これしかできないでしょ。撮影現場で大工が使う直角定規差し金やら水準器でも使ってんじゃないの?と思えるくらいに、真正面から見据えたシンメトリーぽい映像が続く。顔認証かよ。この無機質で淡々とストーリーだけ追ってく作風が、アンダーソン監督作の特徴であり、僕が嫌いなところ。愛しのレアたんや芸達者なエイドリアン・ブロディがいなかったら投げ出してたかも。

やっと映像に躍動感が出てくるのは「宣誓書の改訂」。学生運動のリーダーと記者自身の関係を告白するようなエピソード。やっと人間らしい話が出てきた。この微妙な三角関係や世代ギャップは話としては面白いのに、また舞台劇のような背景チェンジや色彩を突然変える演出で、話に浸らせてくれない。中年女性記者が最終号で秘め事を告白する感じがいいのに、アンダーソン監督はそれを茶化してるように思えて仕方ない。

最後の「警察署長の食事室」は、美食家署長が抱える天才シェフを取材していた記者が遭遇した事件の顛末。お話としては面白い。だが、雑誌社が苦境の記者を救ってくれたエピソードが語られていい感じで進んでいたのに、だんだんと記者目線なのか、署長目線なのか、シェフの活躍物語なのか、話の視点が定まらなくなってくる。ここでもやっぱり縦横に線が引かれる構図は健在。方眼紙の中でもの考えてんじゃないの?これを最後まで貫くかと思ったら、唐突にアニメーション化。ここで初めて画面から直線が消える。結局ビジュアルで驚かせたいんじゃない。

そして編集長の死をスタッフと記者が迎えるクライマックス。デスクの上に横たわる死体の横で記事書きますか。死体を囲んで思い出話しますか。しかも編集長がどこまでみんなに慕われていたのかが、ほぼ語られずに迎えるこの場面。申し訳ない。上っ面の話じゃん。人懐っこい笑顔のビル・マーレイ編集長だから慕われてたんだろうなって含みがあるのかもしれないけど、それってストーリー語ることを放棄して、キャスティングに頼ってるだけでしょ。だからパブリックイメージが強いキャストだらけにしてるんじゃないの。映像ばっかり凝って、喜怒哀楽が伝わってこないのが残念で仕方ない。「ロイヤル・テネンバウムス」は、ちゃんと情が感じられたぞ。活字文化へのリスペクト?、だったらそれを支える編集者や記者こそ讃えるべきでしょ。

ふぅ。言いたいことは言わせていただきました。やっぱりウェス・アンダーソン監督は僕には向かないみたい😞。






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フェーム

2022-11-08 | 映画(は行)
◼️「フェーム/Fame」(1980年・アメリカ)

監督=アラン・パーカー
主演=アイリーン・キャラ バリー・ミラー ローラ・ディーン ポール・マクレーン

アラン・パーカー監督の音楽ものは大好物なのにこれまで何故か観ていなかったのが「フェーム」。実は何度か挑んだのだけど途中で放棄していた。映画館で集中できていたらこんなことはなかっただろう。BSPの録画でやっと全編通しで観ることができた。
音楽、ダンス、演劇を学ぶ芸術専門学校を舞台にした青春群像劇。入学してからの4年間、登場人物それぞれのエピソードを断片的に繋いだ130分。確たるストーリーがあるわけでもないのだが、それらは確実に彼ら彼女らの成長を刻み込んでいる。スクリーンのこちらから僕らはそれを見守る役割だ。

今まで途中で投げ出していたのは、4つの各パートに収められたミュージカルシーンが圧巻で、そこでお腹いっぱいになってしまったからだ。中でも最高なのは、1年生パートに登場するHot Lunch。学食には昼休みも楽器を手にする音楽科の学生たち、身体を動かし続けるダンス科の学生たち、演じることをあれこれ考え続ける演劇科の学生たちで大混雑。ドラムの学生がテーブルで刻みはじめたリズムに演奏がどんどん重なり、みんなが踊り出す。ダンス科在籍の女子(のちに「フラッシュダンス」が大ヒットするアイリーン・キャラ)がボーカルに加わり、即興で学食のおばちゃんのことを歌う。サイコーの場面。この一体感がたまらなくカッコよくて、ここばっかりYou Tubeで何度も観てしまう。1984年頃にオンエアされてたコカコーラのCMに、学食で演奏が重なっていくゴキゲンな(死語)作品があるけれど、「フェーム」のこの場面がルーツにあるんじゃないだろか。

2年生パートでは、この年のアカデミー賞を受賞した主題歌Fameが流れて、学校前の道路を塞ぐ大群衆の乱舞が展開される。シンセサイザー弾き男子が、ダンス科のアイリーンと作ったディスコチューン。「息子が作った曲だ!」とイエローキャブの屋根に付けたスピーカーから大音量で流す親バカっぷりが、今の年齢で観るとクスッと笑える。当時解散前だったピンクレディーが日本語カバーした曲でもあるな。

入学試験の導入部で各キャラクターを印象づけるのも面白い。人種も、生まれも、育ちも、性的嗜好も、家庭状況も様々な学生たち。映画製作に人種的な配慮が必要とされる現在でも十分に通用するストーリー。テレビシリーズ、2000年代にはリメイク映画も製作されている。子離れしない母親の鬱陶しさ、字が読めないことを隠す黒人男子、ゲイ男子をめぐる三角関係、それぞれが抱える悩み。チャンスをモノにできなかった先輩、ショービズに憧れる彼らに投げかけられる甘い言葉と厳しい現実。

途中で観るのを投げ出した時は散漫に感じたエピソードの断片。これが年次が進むうちに絡み合って新たな物語へと向かうのが心地よい。これは短いカットで過剰な演技をさせまいとしたアラン・パーカー監督のやり方なんだろう。巧みな編集で繋がれて一つの成長物語へとなっていく。それらは学校だからつながる人間関係。自分はそんな時代に繋がった関係を大事にできてるんだろうか。おっさんはついそんなことを考えてしまうな。

そんな彼ら彼女らが迎える卒業式。全員で演奏して歌うI Sing The Body Electricが感動的。♪We will all be stars と結ばれる歌詞は、後に「フットルース」でも場面とリンクする歌詞を手がけたディーン・ピッチフォードの手による。彼ら彼女らの全員が将来スターと呼ばれるわけではない。でもそこを目指して頑張ってきたみんなを今は讃えたい。前途はわからない。だからこそ胸にくる。



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パリ13区

2022-10-28 | 映画(は行)


◼️「パリ13区/Les Olympiades(Paris, 13th District)」(2021年・フランス)

監督=ジャック・オーディアール
主演=ルーシー・チャン マキタ・サンバ ノエミ・メルラン

映画観た後に無性に人恋しくなることがある。映画館を出て誰かの声が聞きたいと思ったり、特定の誰かを思い出してとっくに手元にないはずのつながりを感じられるのものを探してみたり。

「パリ13区」も僕にはそんな映画だった。でも他の映画と違うのは、触覚を刺激されたような気持ちになったこと。別にセックスシーンのせいじゃない。文字通りのふれあいを求める気持ち。「ノマドランド」を観た後で感じたどうしようもない寂しさじゃなくって、「パリ13区」ラストシーンのサラリとした幸福感がそんな気持ちにしてくれた。この映画を観終えた今の気持ちを分かってくれる誰かがいてくれたらなぁ。でもこういう映画は大抵一人で浸ってしまう。

この映画でも描かれるように、誰かとつながろうと思えば、いろんな手段がある昨今。広告を見てルームシェアで一緒に暮らすこと、とりあえずのセックス、出会い系アプリで誰か相手を探すこと。お金さえ払えば元ポルノスターがオンラインの画面越しにいいことしてくれる。でも本当に愛し合える相手とつながれるかは別問題。この映画は様々な人種の人々が暮らすパリ13区で、心からつながれる誰かと巡り合うまでの物語。

モノクロの映像がとても優しく感じられる。ウディ・アレンの「マンハッタン」と同様にスタイリッシュだが、それ以上に登場人物を見つめる僕らの視線を変えてくれる。登場するのは、台湾系のエミリー、アフリカ系のカミーユ、フランス人のノラ。キャスティングにあたり人種への配慮があったのかもしれないが、色彩を取り除いたことで人種偏見を緩和する意図があったのかもしれない。その分だけ男女が抱き合う場面ではコントラストがハッキリして、異なる個性が触れ合っているニュアンスが際立つ。果たしてこのつながりは、愛し合えるつながりになれるのだろうか。

エミリーと再び会いたいとカミーユが言い出すあたりから入り乱れる恋模様。でもついた離れたを繰り返すドロドロの恋愛ドラマを観る感覚じゃなく、愛を探す迷子の大人たちの気持ちの行方から目が離せない。元ポルノスターのアンジーとノラが次第に親しくなっていく様子に、こっちまで癒される気がする。

ラストは二つの場面で締めくくられる。インターフォン越しに告げられたひと言。
「聞こえない!もう一度言って!」
その後の表情。もう一つは逆光の中で横顔が重なる美しいシーン。ハリウッドのラブコメで感じる多幸感とは違う、じわーっとくる感覚。これが長く続く関係になりうるのかは別として、少なくとそれぞれが愛と呼べそうなものを見つけたのだ。



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