はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

紅葉のお裾分け

2015-10-31 09:43:44 | その他
女房孝行で紅葉狩りツアーに行ってきました。
紅葉は場所により違いはあったものの遅すぎたようです。それでも静岡では見られない紅葉を何枚か・・・・・・

     

     

     

     

   

     

 週3回の晩酌が旅行に行けば連日連夜! 応えられませんねー! 

知多四国38番正法寺

2015-10-30 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-19(水)
歩行時間:1時間50分   休憩時間:1時間50分   延時間:3時間40分
出発時刻:10時05分     到着時刻:13時45分
歩  数: 11、909歩(推定距離8.9km)    GPS距離8.5km
行程表
大井バス停 0:10> 上陸大師 0:25> 35番 0:15> 36番 0:10> 師崎港 0:10> 篠島港 0:15> 38番 0:05> 番外
 0:05> 39番 0:15> 篠島港 0:06> 日間賀島港 0:05> 37番 0:05> 日間賀島 0:05> 師崎港 

                                38番正法寺(家康との縁)

 
           師崎港フェリ-ターミナル                             師崎港入口

 船が出航する頃には雨も止んだのでデッキで海を眺めていたが、ここは何湾に属するのかと考えた。地図には知多湾、三河湾、
渥美湾、更には伊勢湾の表示もある。
一般的には愛知県と三重県の間は伊勢湾で、その中の知多半島と渥美半島の間は三河湾と呼ぶと思っていた。
これを住所表示的に言うと “伊勢湾 大字三河湾 字知多湾” と “伊勢湾 大字三河湾 字渥美湾” となるのだろうか。
で、ここは知多湾なのかな。

 
                篠 島                                  篠島港ターミナル

 近づいて来る篠島の形が、左右が膨らみ真ん中が凹んだ 「瓢箪島」 の形に見えてきた。見れば真ん中の低い括れ部分に家が
密集しているようだが、あれでは台風や高潮のとき浸水してしまいそうで怖くはないのだろうか。
泳げない私にはとても住めそうもない島だ。

 そんな私でも今日は一時滞在だけなので、心もウキウキ桟橋を渡り篠島に上陸。

          
           名古屋城の築城の石                              篠島漁港

 ターミナルの前に 「加藤清正・名古屋城築城の石」 と書かれた鑿穴が開いた石が展示してあった。案内文によれば
 「加藤清正が名古屋城築城の時、篠島で多くの石を採石したが、展示の石は何かの理由で残された石です。細長い穴は
 『矢穴』 といい、石を切りだすために開けた穴です。」


                    
                 山頭火の句碑                   山頭火

 「春風の声張上げて何でも十銭 」 の山頭火の句碑が、寂れた土産物屋の近くにあった。
きっと土産物屋の人が湯治客に 「何でも十銭だょー」 と呼び込みをしていたのだろう。
山頭火の句碑はターミナル近くにもあり八句紹介されていた。 うち3句を・・・・
 「歩きつづけて荒波に足を洗はせてまた」
 「やっと一人となり私が旅人らしく」
 「山波の上をゆきちがふ挨拶投げかはしつつ」

 
                 狭い路地1                               狭い路地2

 漁村特有の狭い路地の坂道と石段を歩いていると嬉しくなってくる反面、この先に寺があるか不安になる。
丁度通りかかったご婦人が 「この先にお寺の幟が立っているので分かりますよ」 との一言で更に気分は高揚してきた。

 
                 狭い路地3                               正法寺本堂

 露地の左側には六地蔵と墓地、右側には知多四国霊場の幟と寺の入口らしき石柱が見えた。そこが篠島最初の札所正法寺
だった。更に、次の札所に行くには、この道を上に行くのだが、この道は墓地の道ではなく生活道のようだった。

 正法寺は霊場案内などには “正法禅寺” と紹介してあるが、 “正法寺” も “正法禅寺” も同じ事で、曹洞宗や臨済宗などの
禅宗の寺が恰好をつけて呼ぶ時 「禅」 を付けるのだそうです。なのでここでは “正法寺” としておきます。

 この寺には徳川家康に関係する言い伝えが残っていたので紹介します。先ずは篠島の言い伝えを。
 「妙見斎(正法寺の前身)の等膳和尚が、駿河増善寺で徳川家康に会った際、幼い家康が故郷岡崎に帰りたがっているのを
知った。そこで等膳和尚は家康を葛籠に入れて背負い、清水港から船に乗せ 篠島へと連れて帰りました。
そして70日ほど 妙見斎にかくまった後、岡崎に送り届けたのです。
後年家康はその恩に報いるべく、島から等膳和尚を浜松に呼び寄せ話をしていると、旅の疲れから和尚は座ったまま居眠りを
始めてしまいました。困った重臣たちがその無礼を止めようとしましたが、家康はそれを制し 『和尚眠るべし。』 と言い、後に
可睡和尚の号と共に、寺の 『可睡斎』 も贈ったと言われる。」


 この話に出てくる駿河増善寺も遠州可睡斎も何度も訪れているので、この言い伝えも聞いた事がある。だが言い伝えの内容が
各寺で少しづつ違っていた。
先ず駿河増善寺では
 “増善寺の等膳和尚が家康を用宗港からお岡崎に送り届け、後に可睡和尚の名と可睡斎の寺領を貰った” 事になっている。
一方可睡斎では
 “可睡斎の等膳和尚は、幼い家康とその父を戦乱から匿った褒美に、可睡和尚の名と可睡斎の寺号を貰った” 事になっている。

 三つの寺の言い伝えは似たりよったりだが、違うのは可睡和尚の出身地で、
・篠島説では篠島妙見斎 ・駿河説では増善寺 ・遠州説では袋井可睡斎となっているが、どれを信じたらいいものやら。
因みにそんな縁もあって、ここ正法寺は遠州可睡斎の末寺になっている。しかも本堂横には火伏の秋葉堂も建立されている。
これは遠州可睡斎が秋葉総本殿三尺坊大権現の道場であるからだろう。となるとここの話も満更眉唾でもなさそうだ。

 
                  弘法堂                                    六地蔵

 弘法堂の前に南知多町の文化財の案内があった。それによると正法寺で指定されている文化財は梵鐘と雲版(うんばん・座禅や
食事の時刻を知らせる銅板)があるが、そのどちらの銘文にも伊勢とか勢州のの文字があることから、当時(正保年間)は篠島は
伊勢の国に属していたと考えられる、となっていた。
 地図で見れば篠島は明らかに愛知県に近いのに何故伊勢なのだろうかと調べると
 「奈良時代には三河国に属したが、鎌倉時代には志摩国、室町時代には伊勢国、慶長元年に尾張国所属で落ち着いた。」
海上交通の要所にある篠島は、各藩の分捕り合戦の対照になったのだろうが、何故家康は三河国に編入しなかったのだろう。

 納経の際、「今日は明け方まで土砂降りだったのでどうなるかと思ったけど 止んで良かったですね。」と声を掛けられた。
 「そうですか、私が家を出るときは雨が降っていなかったけど、こっちに来たら雨だったのでガッカリした。」
 「アラ お家はどこですか」 「静岡の焼津です」 「私は実家が島田です」 
と会話が弾み、お接待にウエットテッシュを戴いた。

                            篠島フェリーターミナルから38番正法寺への道

知多四国36番偏照寺

2015-10-29 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-19(水)
歩行時間:1時間50分   休憩時間:1時間50分   延時間:3時間40分
出発時刻:10時05分     到着時刻:13時45分
歩  数: 11、909歩(推定距離8.9km)    GPS距離8.5km
行程表
大井バス停 0:10> 上陸大師 0:25> 35番 0:15> 36番 0:10> 師崎港 0:10> 篠島港 0:15> 38番 0:05> 番外
 0:05> 39番 0:15> 篠島港 0:06> 日間賀島港 0:05> 37番 0:05> 日間賀島 0:05> 師崎港 

                                36番偏照寺(弁財天)

 
                  遍照時山門                                 弁財天

 35番を出て、また民家の間の細道を歩くが今度は一度国道に戻るので気は楽だ。ようは山のある方でなく南東の山の無い方に
向かって歩けば自然と国道に出る。そんな時に限って余り地図を見なくても不思議と地図通りに歩けるから不思議だ。
36番遍照寺(へんじょうじ)は国道が大きくカーブしている所を左折すると白い幟が立っていたのですぐ分かった。

 朱色の山門を潜ると 「弁財尊天」 の幟に囲まれた弁天さんが目に入った。弁財天はこの寺の本尊だが、知多四国霊場の中でも
弁財天が本尊なのは唯一この寺だけだった。
今まであちこち遍路をして、弁天さんを祀った寺は多かったが、本尊だったのは記憶にない。弁天さんというと何か軽い感じがして
本尊というより脇本尊(?)といったイメージを持ってしまう。
まして、この寺の名前は “遍照寺” と生粋の真言宗なのだから、本尊も 「大日如来」 とか 寺の名前の「弘法大師」 と思いたくなる。
それが弁天さんなら、何か面白い話があるのではないかと探したが見つからなかった。

 
                  本 堂                                  本堂内部

 遍照寺は元は大井の医王寺の12坊の一つだったが、1212年の火事で焼失しこの地に移ってきたと伝えられれいる。
本堂の中を覗いたが弁財天は確認できなかった。

 
               御手引大師堂?                                内 部

 「道中安全 御手引大師」 の立札のあるお堂があったが、説明がないので分からない。
多分霊場を巡礼する遍路の安全の手助けをしてくれるのだろうと、一礼しておいた。

 納経所のご朱印の際、篠島行の定期船の時間の事を思いだした。今日は出発が1時間遅れたので船の時間も当然遅くなると
思っていたが、その事を失念していた。だが時計を見ると11時15分で船が出るまでに15分あった。
朱印を押している大黒さんに港までの時間を聞くと急げば10分で行けると言う。よしそれならばと慌てて遍照寺を出発した。

                             35番から36番遍照時への道

                 

 納経所で 「港への近道を知っていますか」 と聞かれたが、今はそれを聞いている暇はない。手持ちのYAHOO!の地図は、
その区間の最短距離になっているはずだ。
傘を片手に、もう一方には地図を持ち、小走りする姿は恰好が悪いだろうが、この際そんな事は言っていられない。
雨も小振りになってきたので途中からは傘も閉じ、ようやくフェリーターミナルに着いた時は出航時間を1分過ぎていた。
兎も角乗船券発売所に行き 「篠島行きはまだ間に合いますか」 と聞くと 「大丈夫ですよ」 の声に一安心した。
 定期船に乗り込んだが直ぐには出航しない? しばらくして中高年の女性4・5人が 「ご免、ご免」 と言いながら乗船すると船は
動き出した。どうやらこの女性たちを待っていたようだ。

                             36番から師崎港への道

知多四国35番成願寺

2015-10-28 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-19(水)
歩行時間:1時間50分   休憩時間:1時間50分   延時間:3時間40分
出発時刻:10時05分     到着時刻:13時45分
歩  数: 11、909歩(推定距離8.9km)    GPS距離8.5km
行程表
大井バス停 0:10> 上陸大師 0:25> 35番 0:15> 36番 0:10> 師崎港 0:10> 篠島港 0:15> 38番 0:05> 番外
 0:05> 39番 0:15> 篠島港 0:06> 日間賀島港 0:05> 37番 0:05> 日間賀島 0:05> 師崎港 

                              35番成願寺(思惟観音)

 
                成願寺本堂                                 風吹不動

 師崎中学から国道に出て南下していくとチッタ・ナポリの入口があったが、余り高級とも繁盛しているとも見えなかった。
35番成願寺(じょうがんじ)はその先を右折して民家が密集しだした細い道に入った。目標になる建物も無く地図だけを頼りに
行くと寺の屋根が見えてきた。そこが成願寺だった。

 成願寺の宗派は曹洞宗で、知多四国霊場では珍しくない宗派だが、寺のHPにこんな話が載っていた。
「知多半島の中で 知多四国霊場を作る時に、真言宗だけでは88ヶ所が作れなくて、 他宗に声をかけたんでしょう。」とあった。
でもそうだろうか、本家の四国霊場は流石真言宗が多いが他宗の寺も札所になっている。
知多四国霊場を開創した時も、優先的に真言宗の寺を札所にしただろうが、全てを真言宗にしたかったとは思えない。
知多四国の遍路を始めてこの札所で40寺目だが、真言宗は前回打った大井五ヶ寺だけで後は真言宗以外の宗派だった。
だいたいこの成願寺だって、曹洞宗なのに真言宗の開祖の弘法大師を祀っているし、HPにはこんな言い伝えも紹介している。
 「弘法大師が知多半島に上陸した際、この片名の地に悪病が流行っていた。大師は『この門をよけて通れよ風の神 とふりに
姿のあらん限りは』 との歌を詠み、厄除けの祈祷を修行し、後に修行大師として別堂に祀った。」
と、なれば札所になる資格は
十二分、いや札所にならなければおかしい位だ。何かあの一文には引っ掛かってしまった。

 境内の片隅に古い鬼瓦を飾ってあり 「風吹不動」 となっていたが、これは大師の歌に関連しているのか。

 
              本堂須弥壇                                 弘法堂須弥壇

 本堂を覗くと須弥壇の上に仏像の頭部を写した写真が飾ってあるが何だろう?
 弘法堂には 「南無修行大師」 の提灯が下がり須弥壇には弘法大師像と弘法大師の厄除のお札が祀られていた。

   
             役行者                      思惟観音                    善女竜王像
             
 境内には高下駄を履き座った姿の役行者や、右手を頬にあてた如意輪観音の石像もあった。
アレー待てよ、この石仏の台座に 「思惟(しい)観音」 と書いてある。思惟とは “考えること。思いはからうこと。分別すること。”
なので間違いではないだろうが、思惟と云えば優雅な半跏思惟像の弥勒菩薩を思い浮かべてしまう。
一方如意輪観音を “歯痛の神様” と信仰している所もある大衆的仏様だ。はたしてこの石仏は弥勒菩薩か如意輪観音か・

 南知多町の案内板に、本堂に飾ってあった写真の説明があった。
あの写真は弘法大師の修行した加持祈祷と関係の深いとされる円空仏 「善女竜王像」なのだそうだ。

 円空の仏像は岐阜県に2回見に行った事があるが、鉈の一刀彫で彫られた荒々しい仏像で知られている。
もう一度本堂に戻って中を覗いたが円空仏は分からなかった。

                             師崎中学から35番成願寺への道

知多四国-上陸大師

2015-10-27 10:10:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-19(水)
歩行時間:1時間50分   休憩時間:1時間50分   延時間:3時間40分
出発時刻:10時05分     到着時刻:13時45分
歩  数: 11、909歩(推定距離8.9km)    GPS距離8.5km
行程表
大井バス停 0:10> 上陸大師 0:25> 35番 0:15> 36番 0:10> 師崎港 0:10> 篠島港 0:15> 38番 0:05> 番外
 0:05> 39番 0:15> 篠島港 0:06> 日間賀島港 0:05> 37番 0:05> 日間賀島 0:05> 師崎港 

                              上陸大師(乗換え)
 知多四国霊場の遍路8回のうち3回は終わったが、まだ半分以上残っている。利用している青春18切符の期限は9月10日
までなのだが、天候不順の日が続き中々出かける事ができなかった。
今迄の私の遍路は降水確率30%以下は出発していたが、40%以上は止めていた。だがそんな事も言っておれず今日は降水
確率40%だったが出発した。

 案の定JRの終点武豊駅では雨が降っていて、乗換先の名鉄知多武豊駅までは傘をして歩く嵌めになった。
実は豊橋から名鉄に乗ればこの区間は歩かなくても済むのだが、折角青春18を使うのだからとJR優先の行程にしたのです。
藤枝駅 - 豊橋駅 - 武豊駅 -(徒歩)- 知多武豊河和 (青春18以外の料金300円)
藤枝駅 - 豊橋駅河和 (青春18以外の料金1550円)となり、ここを歩けば1250円も徳になるのです。
ただこの工程で武豊駅~知多武豊駅の間が700m程あるので乗換時間を注意しなければなりません。

 今日は電車間隔が12分あったので余裕で間に合うはずが、知多武豊駅前の踏切に引っ掛かり、目の前を河和行電車が
走り去って行きました。理由は今日は平日なのに休日用の時刻表を見ていたからでした。
結局スタート地点の大井バス停着は、予定を1時間ほど遅れてしまった。今日も朝から幸先が悪い。
 ただ今日の行程は歩行距離が短く1時間出発が遅れようが、島に渡る船させタイミングよく乗船できれば問題ない。
これも余裕があっても始発電車に乗って来たおかげです。 

 
           上陸大師の陸側の施設                             山側にあった女遍路

 大井漁港の中を前回教えて貰った聖崎の突端に向かって行くと、知多四国霊場の幟や案内板、駐車場があった。そこを過ぎ
更に奥に行くと、休憩所なのか祈祷所なのか、どちらともとれる白い石造りの施設があった。
そこに立てかけてある看板に 「お納経朱印は 33番札所で出ます。」 となっている。今更遅いよな33番は既に打ち終っている。
こういう事は33番にも書いておいて欲しいと思ったが、書いてあったのを私が見落としたのかもしれない。
山側の擁壁の下には女遍路の小さな像が列を組むように並べてある。余り意味が分からない。 

 
                  上陸大師                              展望台から上陸大師

 上陸大師の謂れが掲示されていました。
 「ここ大井聖崎は、弘仁5年(1814)弘法大師さまが尾張上陸の第一歩を印された宿縁の地であります。
時は下り、弘法大師御入定千五百年記念事業として、その言い伝えを基に昭和59年海上の双子岩に建立されました。(略)」


 干潮の時は陸続きになり大師像の下まで行く事が出来るらしいが、今は潮が満ちていて残念ながら渡る事はできなかった。
かわりに岬の上の展望台に登り大師像を上からもお詣りした。

 上陸大師とは上手いネーミングをしたものだが、この地に弘法大師が上陸し、最初に医王寺で修業をしたのなら、何故医王寺を
1番札所にしなかったのだろう。折角 “弘法大師が尾張上陸の第一歩を印された宿縁の地” なのに惜しい気がする 

 
              上陸大師像のある入江                        チッタ・ナポリリゾートマンション

 展望台から海に戻らずに国道に出ようと山道を進んだが、道はUターンして海側に戻ってしまう。途中にあったあまり使われて
いそうもない道を強引に下って行くと学校の裏に出てしまった。幸い夏休みで誰も居ない校舎の間を通り校庭に出ると、そこでは
野球の練習が行われていた。
早速教師が走ってきて何故ここに来たのか理由を聞かれた。最近の学校は校門に 「関係者以外の立ち入りはご遠慮ください」
貼紙があるので仕方ない。理由を言って国道までの道を聞いて校庭を後にした。

 遠くから見えていた高い建物が近くに見えた。この建物はチッタ・ナポリリゾートマンションとかで、HPによれば
 「海陽系ウォーターフロントリゾート」 だそうです。近くにヨットハーバーや白砂青松の海水浴場も無さそうだが、ここに別荘を持って
何に使う積りだろう。金持の気持ちは分からない。ところでチッタ・ナポリって知多・ナポリの事?

                         大井バス停から上陸太子への道

知多四国32・31・30番

2015-10-26 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・33番・32番・31番・30番 0:05> 大井BS 

                                   32番 宝乗院(忘れました)

 
                  宝乗院山門                               弘法堂

 32番宝乗院(ほうじょういん)は31番の県道を挟んだ前にあった。
 困ったなぁ、一度に何ヵ所も回ったので記憶が薄れて写真を見てみても何も思い出せない。その写真の枚数も極端に少なかった。
覚えているのは境内に金毘羅宮が祀ってあったくらい。漁港が近いから海上安全の守り神の金毘羅さんは、漁業関係者の信仰を
集めているのだろうと思った。
それとここで31番のご朱印を貰うようになっていた。以上 ご免なさい。

                                   31番 利生院(波切不動)

 
                  利生院の山門                           波切不動案内板

 32番と小道を挟んだ向かい側に31番利生院(りしょういん)の朱色の山門が建っていて、門の脇には “御納経朱印は32番
宝乗院で” と書かれている。一見するとこちらの利生院の方が大きいように見えるが無住なのだろうか。
本堂の横の案内板に波切不動の絵と説明文が書かれていた。空海が唐に渡るとき嵐に巻き込まれたが、空海が不動明王を
念じると不動明王が現れて降魔の剣を振って波を切り鎮め、無事唐に渡る事が出来たと書いてある。
ならば不動明王は航海のでもあるので漁港に近いこの地に祀れていて当然だろう。これで航海安全の神の金毘羅さんと
お不動さんが揃った事になる。

 だが案内文を読んでいて頭の隅に引っ掛かった所があった。それはここの案内では波切不動が現れたのは空海が唐に入る
時となっているが、今月歩いた藤枝四不動の中の一つビク石不動には、空海が修行を終え日本に帰る際に海で嵐に襲われて
波切地蔵に助けられたとなっていた。 果たしてどちらが正しいか。
 ネットで検索すると行きも帰りもあるが、回数の多い方は “帰朝の際に波切不動が現れた ”という説の方が多かった。
普通に考えても空海は日本から唐に修行に行ったのだから、その修行の前に念じて波切地蔵を出現させるのは無理がある。
やはり修行が終わった後での出来事とした方が無理がない様に感じるが。

          
                        弘法堂                                  小坊主

白い鉄筋作りの弘法堂は山門の赤門に対比させたのだろうか。
ここには 「弘法様の一年お守り」 と呼ぶ木片のお守りがあるが、効力は1年限りだそうです。
日を限って祈願すると願いが叶えられる 「日限地蔵」 はよくあるが、 「年限弘法」 ?は初めて聞いた。

 境内の一角に木魚に寄りかかり居眠りをしている子坊主の新しい石像があった。
まてよ無住の寺にこんな新しい石像を建てるだろうか?

                                   30番 医王寺(真向)

                    
                                         医王寺本堂

 いよいよ大井五ヶ寺の最後の札所で本寺でもある医王寺を参拝する。
医王寺のご本尊の薬師如来は行基の作で、行基はこの地の仏山(現在医王寺の裏山付近)に医王寺を建立し、薬師如来を
安置したのが始まりとされる。
それから90年経った弘仁5年(814年)、空海が東国巡錫の途中、知多半島聖崎より知多郡に渡り、仏山で巡錫の歩を留め、
21日間の護摩修行を修し、興廃していた伽藍を再興されたと伝えられている。 当時再建された塔頭は十二坊あったが、
その後、仏山の伽藍は火事で焼失し、仏山からこの地に移り、再建された時は一山四坊になったという。

 現在の医王寺の裏山あたりが仏平だったとの記述に興味を覚え、地図で確認したが仏平は無かったが面白い事に気付いた。
医王寺のある場所の地名は 「真向(まむき)」 と呼ぶが、“まむき” とは “まむかい” の事だらう。
でも何に対しての真向いなのか ・・・・
 地図の医王寺から東を見ると弘法大師が上陸した聖崎になる。更にその岬の先端には弘法大師が立つ 「上陸大師」 もある。
この事から医王寺と上陸大師の方向は真東でもあり真西になるので、地名が真向になったのではないか。
そんな話はどこにも書いてなかったが ・・・・・・・・

 本山の割には山門は無かったが真新しい本堂が正面に立っていた。事前調べで見た医王寺はどの建物も古くて今にも倒れ
そうな感じだったので建替えをしたのだろう。古くて倒れてしっまのでは困るが、余り新しすぎるの風情がないものだ。


 
                西国33観音石仏                             本堂内部

 医王寺のご朱印はすでに押して貰ってあるので不都合はないが、ここは本山でありながら無住でした。手持ち資料を見ると
知多四国の霊場で電話番号が記載されていない札所は医王寺だけだった。すると先程お詣りして、無住だったと思った赤門の
利生院は、無住ではなかったことになる。失礼な事を書いてしまい申し分けありませんでした。


    
                     かってはこのような護摩修行を洞窟があったとか   (コピー)

 ここ医王寺には弘法大師が護摩修行をした洞窟があると書いたブログもあったので探したが見つからなかった。
家に戻り再度洞窟を探すと 「2010年9月20日、裏山の崖崩れ防止工事が完了後、洞窟はなくなった。」 そうです。

                      
                                   大井バス停と上陸大師の聖崎方面

 医王寺前の小路を通り国道に抜けるとき、地元に人に弘法大師が上陸をした聖崎の 「上陸大師」 の場所を聞くと
 「少し離れているから車で案内するよ」 と言われた。こういうお接待は嬉しいけど内心は困ってしまう。
 “遍路とは歩くものなり” とか “遍路とは迷うものなり” を標榜としている私としては丁重にお断りするしかない。
 「じゃぁ、場所だけ教えるよ」 と一緒に国道際まで行き教えてもらいました。
場所は知多半島で初めて海を見た時に見えた大きな建物の近くだった。

 本来なら今回半島先端の師崎まで歩く予定だったが、体調を懸念して島泊りを止めたので、ここが今日のゴールになる。
歩行距離はまだ25km程度だが時間は既に4時を回っていた。
今日の遍路は最初から間違いの連続で、最後は考えられない間違いもしてしまった。距離を短くしたので気の緩みもあったのか。
次回からはもっと緊張感を持って歩かなければと、反省しきりでした。

                            31番医王寺から大井バス停への道

プラタモリ・宝永山

2015-10-25 10:39:58 | その他
 昨晩放映されたNHKTV 「プラタモリ」 の宝永山特集を見ました。
お笑い芸人のタモリが出る番組は一度も見た事は無かったが、NHKのやる宝永山に惹かれてチャンネルを回す事に・・・・・

そして見た結果は  非常に良かった! 

中でも感激したのは、高校時代7合5勺の山小屋でバイトをしていた時、宝永山の中に下りてよく遊びました。
そのとき登った 「恐竜の背鰭」 の様な物の名前が 「岩脈(がんみゃく)」 という事も初めて知ったし、
その岩脈が火山の割れ目噴火の際、溶岩が台地の間から 「貫入」 してできた岩だとも知りました。

また、岩脈の方向が全て山頂方向に向いてている事は知っていたが、その事に理由があったとは思ってもいなかった。
これは割れ目噴火の起きる場所の向きで、富士山は北アメリカプレートと接するフィリピン海プレートの外縁部にあり、
常に南東方向から圧力を受けている状態になっている。
このため大地の割れ目は、その圧力の方向に平行に裂け、そこが割れ目噴火の噴火口となっているようだ。
故に岩脈は北西方向の山頂に向かう事になる。

これからは宝永火口に下りた時、“恐竜の背鰭” のような物ではなく “岩脈” と言えるのが嬉しいな。

       
                           宝永山の 「岩脈」

次に知ったのは宝永山の火口壁の色の違った地層の事だった。
今迄あの色の違いは、宝永山の噴火の時に出来た物だろうと単純に考えていたが、それにも理由があった。
あの地層は宝永山の噴火で形成された地層ではなく、富士山の成立ちを現す地層そのものだそうだ。
それが宝永山の噴火により火口に穴が開いて現れたものだという。

今に “あの赤い地層は○○時代の△△噴火の際の溶岩跡です” なんて説明できるようになるかもね。

       
                            宝永火口壁の地層

宝永山そのものの話もあった。
標高2693m(フロクのサン=付録の山)の宝永山の上に立ってしまうと、その場所が盛り上がっている事は分からない。
しかし宝永山の西側から見ると、宝永山の山頂はピョコンと盛り上がっている岩の上であることが良く分かる。

       
                                宝永山

今迄ここも宝永噴火の際に出来た噴火口の一部だと思っていた。だがこれも大間違いで、あの宝永山の盛り上がった岩は
現在の 「新富士」 の前の 「古富士」 の一部だという。
3000m程あったいわれる古富士は、新富士と共に噴火を繰り返していたが、約2500年前ころ、風化が進み古富士の
山頂部が大規模な山体崩壊を起こして崩壊してしまった。
その後新富士は噴火を繰り返しながら成長を続け、残っていた古富士を覆い尽くしてしまったようだ。
その古富士が宝永噴火により顔を出したのだという。

私は今まで勘違いをしていた。所謂 “こ富士” は須走口の近くにある塚だと思い込んでいた。
そこで慌てて確認すると、須走口近くの “こ富士” は 「小富士」 でした。

       
                            宝永山と宝永火口

他にもこんな話があった。
富士山の御殿庭辺りを歩いていると、白い模様の付いた石があり、ペンキで書いた目印と勘違いする事がある。
私はこれを古い苔が岩に染み付いて白っぽくなったと思っていた。
だがTVでは、あの白い部分は石英の一種で、温泉の湯の花のような物だと説明していた。

 
             白い染みのある石                             白い染みのある石 
  
どうやらこの説明は私が聞き間違えたらしく、
 「石英は六角柱状のきれいな自形結晶をなすことが多く、中でも特に無色透明なものを水晶と呼ぶ。
石英は非常に一般的な造岩鉱物で、一般的に砂漠・砂丘の砂は石英が主成分となる事が多い。
また、どこにでもあるため砂埃(すなぼこり)にも石英が含まれている。」
なのだそうです。
その説明と上の写真では一致点は見いだせなかった。


次回のプラタモリは31日の土曜日に 「富士山頂」 が放送されるそうなので是非見なくちゃぁー。

知多四国34番・33番

2015-10-24 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・33番・32番・31番・30番 0:05> 大井BS 

 30番から34番の札所は南知多町大井字真向にあり、それぞれの寺は隣り合った所にある。宗派も全て真言宗で、山号も
  「寶珠山」 に統一されていた。この5寺の中で “寺” と付くのは30番医王寺だけで、後は全て “院”なのをみると、医王寺が
本寺で後の寺は塔頭(たっちゅう)なのだろう。

 29番からはさっきと同じように丘の上の開拓された中の道を歩いたが、こちらの方がグーッと広い。その畑の中の直線の
道が信号の所で県道に合流したら、左折して県道を歩くとは分かっていた。
農道が最高部に達した所で信号からの農道に合流した。右を見ると交差点の信号が見え、あそこを左折すればよいのだが
前方にも細い道が延びていて県道に繋がっているように見える。近道かもしれない。
さらに信号から来た農道も県道と同じ方向に向かっているのだが、手持ちの地図は農道の先は印刷されていない。

 そこで何を思ったのか、右折して信号へ向かうべき所を、左折して農道を歩き始めてしまった。
その時の心境を後で考えたがよく分からず、近道をしようと考えたのかもしれない。
 農道を歩き出したが県道に向かいそうな南に行く道が出てこない。ようやく出てきた右折の道に入ったが、そこも両側畑の
農道だった。遠くに農作業をしていた人が見えたので畦道伝わって近づき
 「大井の真向(まむき)にあるお寺に向かう県道に行きたいのですが、あの道を行けば県道にでますか?」
 「イヤあの道は行き止まりで県道には出ないよ。県道に行くには元の道に戻って左に行った所にある信号がそうだ。」
 「じゃあの元の道を右折しても県道には出られないのですか?」
 「あの道をズート行けば海のそばの国道に出てしまう。県道には信号まで戻るしかない。」
との事でした。

 仕方なく今来た道をトボトボ戻りました。後悔というより信号を見ていながら故反対方に歩いてしまったのか不安を感じながら。
 後で歩いた道を地図で確認すると、何と何と農家の人に聞いた場所の道を行けば、県道には出ないが札所へ行く道があった。
あの人は私が県道を主体に尋ねたので、県道には出られないと言いたかったのだろう。あそこで寺を主体に聞いていれば信号に
戻らなくてもいい道を教えてくれたに違いない。矢張りあの時はどうかしていたのだ。
                                   34番 性慶院(青面金剛) 

 
                  性慶院山門                                 キツネ?

 県道7号と281号が交差する大井西交差点を右折して、東に向かった道の左右に寺が見えた。ここが寺団地か。
先ず最初の寺は34番性慶院(しょうけいいん)とあり、札所の順番では最後になるがマーいいだろう。

 性慶院のご本尊も 「青面(しょうめん)金剛」 と珍しい仏だった。青面金剛とは庚申講のご本尊で静岡県内を歩いていても、
石仏を見かける事がある。その石仏に刻まれている青面金剛像は中々ユニークな姿なのだが、小さく堅い石のため明確には
表現しきれない場合が多く、実際の青面金剛の像容はウィキペディアでは
 「一身四手、左辺の上手は三叉を把る。下手は棒を把る。右辺の上手は掌に一輪を拈し、下手は羂索を把る。面に三眼あり、
頂に髑髏を戴き、頭髪は竪に聳え、頂に大蛇を纏う。其の腰に二大赤蛇を纏い、両脚腕上に亦大赤蛇を纏い、把る棒状も亦
大蛇を纏う。・・・・・」
と、恐ろしい形相で知られている不動明王より更に恐ろしく紹介されていた。
 だが恐ろしい形相の青面金剛の光背には、二匹の鶏や丸い太陽、三日月等も彫られており、台座にも何ともユーモラスな
「見ざる言わざる聞かざる」
の三猿が刻まれている。

 この青面金剛像の石仏は知多四国を歩き出してからまだ一度も見ていない。庚申信仰は関東に人気があったらしいが、ここ
尾張ではどうだろう。果たしてこれから先の遍路で青面金剛の石仏を見る事が出来るかどうか。

   
    塩の道水窪で見た青面金剛像       塩の道切開で見た青面金剛像       東海道藤沢で見た青面金剛像

 境内を見て回ったが青面金剛の石仏は見つける事が出来なかった。ご本尊だから境内名ではなく本堂に立派な像を祀って
あるのだろう。拝観をしたかったが言い出せませんでした。

 境内に祀られているお稲荷さんの前に三体の犬? いや、お稲荷さんだから狐が安置されていた。
どのキツネも顔や体の一部が欠けているが、これはこのキツネが賭事に御利益があるとかで、賭事好きが削って持ち帰る
のだそうだ。
遠州森町大洞院の森の石松の墓碑も同じ理由で欠けているが、今では金網を張って削り取られないようにしてある。
その点ここのおきつねさんの欠け跡は古いのばかりなのをみると、どうやらご利益が薄いようだ。
それでも真ん中のおキツネさんの台座の上に、金槌替わりらしき石が置いてあるのには笑えた。

                                   33番 北室院(明星井)

          
                   北室院の仁王門                                 仏手石

 33番北室院(きたむろいん)は性慶院の隣にあった。仁王門に鎮座している一対の仁王の肌はまだ新しく、樹の匂いがして
くるようだった。
境内には仏足石ならぬ 「仏手石」 なる珍しい物が置かれていた。ある説によると、仏足石の上に裸足で立って祈願すると健脚、
交通安全。仏手石は知恵や技能のご利益があるらしい。ここの仏手石にそのご利益があるかどうかは分かりません。

          
                        明星井?                                 大草鞋

 北室院には弘法大師が護摩供養に使ったという 「明星井」 があるという。だが写真を写してきたものの案内が無かったので
このポンプの井戸が本当に明星井なのか自信はない。この井戸以外に水に関する物は、御釈迦様の灌仏もあったが、そこの
水は水道水だったので明星井だはなさそうだ。北室院では今でも明星井の水を毎日の供え物に用いているそうなので、多分
手押しポンプのある井戸が明星井なのだろう。
ところで “明星井” は何と読むのか? ネットを見ると伊勢には “あけぼののい”があり、京には “めいせいい” があった。

 弘法堂の前に大草鞋が奉納されていた。その横には石の蛙。草鞋を履いて遍路をして無事カエルということか。

                              29番から34番性慶院への道

知多四国29番正法寺

2015-10-23 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・31番・32番・30番 0:05> 大井BS
                                29番 正法寺(千枚通し)

 
               風情のある遍路道                            埋もれた道標

 28番永寿寺からの開拓された丘の上の道が雑木林の道になった。道幅は広いが落ち葉が積り車は余り走っていないようだ。
道の脇に大師道の道標が半分埋もれ 「卍 十」 だけが見えていた。
この道は28番から29番正法寺(しょうぼうじ)に抜ける道なのに何故 “十” なのか。幾ら想像力を働かせても分からなかった。
ヨシ次の寺で聞いてみようと思ったが見事に忘れてしまった。

 この道は昔、“遍路泣かせの弘法道” と呼ばれていたようだが、四国霊場の “遍路ころがし” を経験した身にとっては、この
道は歩きやすく “遍路笑い” の道でしかなかった。

          
                  遍路道にあった弘法堂                          秋葉神社の常夜燈

 雑木林の遍路笑いの道が終わり、民家が出始めた所に弘法大師を祀っているお堂があった。お堂の前の幟には 「知多四国
霊場」
の文字も見える。寺の境内でなく道端に弘法堂があったのは初めてだが、一先ず “南無大師遍照金剛” と宝号を唱えた。
だが次の遍路道はお堂の右の山裾を行くのか、それともお堂の前を通って民家のある方へ下るのか・・・・・
縮尺が大きい地図を見てもお堂は勿論、カーブしている道があるかどうかも分からない。周りに人も居ないし、仕方ない山裾の
道を行く事にしよう。

          
                     川沿いの民家                             「すぐそこ」の道標
 
 お堂から100mも行くと前方に南知多自動堂が見えてきた。シマッタこれは来過ぎてしまったと慌てて次の角を左折した。
そして出た所は太い車道で県道280号だった。
お堂の所を左折してもこの県道に出て、バス停の近くで橋を渡って細い道に出る事になっている。もう大丈夫だ。
県道と平行に流れる川沿いの民家は、赤っぽい石垣と黒壁が調和して良い雰囲気だった。

 県道のバス停の所を右折して入った露地が、再び車道に合流して、その車道を南へ暫く行くと 「卍 ☚ すぐそこ」 と刻まれた
石の道標が建っていた。こんな表現の道標は珍しいが、この “すぐそこ” は実感が溢れていていい感じだ。。

 
               正法寺山門                                赤いレンガ塀と本堂

 “すぐそこ” の道標から本当にすぐそこの所に正法寺の山門はあった。
 正法寺の新しい山門の前には 「開運毘沙門天王」 の石碑や境内には白い多宝塔らしき建物も見えている。
山門から続く古い赤レンガの塀には、崩壊防止の鉄枠が取り付けられている。更に山門の右奥には大きな観音像も見ていた。
こりゃぁ面白そうだ。山門に来ただけでこんなに期待を持たせる札所は久しぶりだ。

 
               本堂と厄除観音                               弘法堂

 まず訂正をします。多宝塔と紹介した建物は本堂だそうです。この寺は1999年12月24日(えっクリスマスだ)未明、不審火に
よって、弘法堂、客殿、庫裡を全焼し、町の重要文化財の室町時代の写経300巻も焼失したそうです。と云う事は多宝塔形式の
本堂は焼失を免れた事になるが、見た目は綺麗で新しそうに見える。
 
 本堂のご本尊は毘沙門天だが、一緒に毘沙門天の妃と言われている吉祥天も祀られている。
毘沙門天が本尊なのも珍しいらしいが、毘沙門天を夫婦で一緒に祀ってあるのは、日本の寺でも珍しいのだそうです。
因みに知多四国霊場88ヶ寺の中で、ご本尊が毘沙門天なのは正法寺だけでした。
そんなに夫婦一緒が珍しいのなら、山門の左側に 「開運吉祥天妃」 と、毘沙門天の石碑より小振りの石碑を建てればと思う。
お詣りしたい(見てみたい)が本堂の扉は閉まっていた。

 本堂の前に白文字で 「千本通し霊場」 と刻まれた石碑が見える。千本通し霊場とは四国霊場にもあったが、たしか薄いお札を
丸めて飲み込むと病気が治るとされていつやつだ。
果たしてここ正法寺の “千枚通し” も同じように、薄い和紙に「南無阿弥陀仏 法忍」と書かれたお札を、病気の時に飲むと病気が
治るとあった。
何故千枚通しかと云うと、 “法忍和尚” が書を書くと、その文字が千枚も通ったという事からその名が興ったと言われています。
たしか四国霊場では法忍和尚ではなく弘法大師が書いたと思うけどな。

                                 28番から29番正法寺への道

知多四国28番永寿寺

2015-10-22 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・31番・32番・30番 0:05> 大井BS 

                                   28番 永寿寺(六字名号)

          
             料金所の案内                        南知多道路とつくだ煮街道の看板

 27番から28番永寿寺(えいじゅじ)には、一度九條の交差点まで戻り、そこを右折し南下していく道になる。
海軍飛行場があった古布の方面は信号を直進して東の海の方向に向かうようだ。

 前方に 「豊岡料金所 窓口営業時間 午前9時~午後6時」 と書いてある。何々、有料道路の料金所に営業時間があるのか?
では時間外はこの料金所から道路に出入りできないのか? 何とも変わったシステムだが、田舎の利用者の少ないICでは24
時間社員を配置していては元を取れない。かと言って自動料金収納機を設置しても採算が合わないのだろう。
でも不思議なのは手持ちの地図には、古布ICの表示はあるが豊岡ICの表示が無い事だ。何か狐に騙されたような感じだった。

 家に戻り豊岡料金所を調べてみると 「南知多道路の本線料金所。古布出口と豊丘ICに料金所がないので、半田方面から来た
車はここで通行料を支払う。」
となっていた。今一理解できないので地図を見て一応納得した。
先ず、豊岡ICは南知多道路の南の終点にあり、次に古布ICがある。更に先の半田側に豊岡料金所は設置されている。
地図で見ると古布ICの形状は南行きの下り出口しかなく入る事はできないようだ。
となると半田側から来た車の料金は古布も豊岡も同じ料金を支払って出る事はできるが、豊岡ICから入った時は古布では下りる
事が出来なくて、更に古布ICは出口専用だから入る事が出来ない。
何とも不便なシステムだが、どうせ古布も豊岡も同じ料金なら古布ICに上りの入口を造っても良いような気がする。
序に古布ICも調べてみると 「半田方面からの出口と半田方面への入口のみのハーフICである。」 と書いてある。
それなら私の考えと同じだが地図上のICの形状は・・・・・・ アレーよく見ると上り線の入口は写真の所がICで、一般道がそのまま
自動車道に繋がっていたのだ。大山鳴動鼠一匹。申しわけありませんでした。
でも夜間に出るときは料金は払わないでいいのですかネェー と最後の抵抗。

 
                つくだ煮街道                               師崎への分岐

 道々に 「つくだ煮街道」 と書いてある手作りの看板が立っていた。昔は海で採れた小魚をつくだ煮にして、この道を通り町に
運んだのだろう。古い道標や石仏があるといいのだが。
でも残念でした。つくだ煮街道とは街道の名前ではなく食堂兼土産物屋の名前でした。

 食堂を右にチラチラ見ながら坂を上りきった所で分岐に出た。28番永寿寺はこの辺りから左折して脇道に入るの事になって
いるので、ここを曲がるのかと思ったが手持ちの地図となんか雰囲気が違う。
地図をよく見ると28番の道は、分岐すると自動車道路のトンネルの手前にあるガードを潜って行くことになっている。
しかしここはもう最高点まで来ているのでトンネルなど造れる場所では無い。マイッタナー脇道を見落としてしまったようだ。
未練がましく辺りを見回していたがこの道が正しいという根拠は見つからなかった。仕方ない戻るしかない。

          
            永寿寺の案内板                          南知多道路のトンネル

 折角登った坂を右側を注意しながら下って行くと、さっき見たつくだ煮街道の食堂まで戻ってしまった。
エーまさかさっきの道が正しかったのかと一瞬不安を感じた時、永寿寺の案内板が電柱にあった。アー良かった。
さっきはつくだ煮街道に気を取られて右側の店ばかり見ていたので、左側の分岐に気が付かなかったのだ。反省。
脇道といえども、しっかりした道で普通に注意して歩いていれば見落とす事のない道だった。

 
                永寿寺山門                                 弘法堂

 永寿寺ある場所の地名は字西側といい、近くには東側と北側もある。雰囲気的に寺のある場所を中心として西・東・北と名付けて
あるようだ。また、南側が無いのは南は山になっているからだろう。
 この集落の起こりは戦国時代の京の方から逃げ込んだ落人が切り開いたようだが、まさかここに碁盤の目のような道を造ろうと
思ったのか。そんな事はあるわけないか。

 永寿寺は山間の小さな札所だったが綺麗に整備された気持ち良い寺だった。山門の正面に見える弘法堂の前には2mもあり
そうな聖観音が鎮座してる。この観音は 「ことぶき観音」 と呼ぶらしいが謂れは分からなかった。

            
                       オビンズル様                        南無阿弥陀仏の六字名号碑

 例によりオビンズル様が祀られているが、撫で擦った様子は見えなかった。
石仏の奥に台座が少し見えているのが右の写真の 「六字名号碑」 です。六字名号の名号とは 「仏や菩薩の称号」 と云う事で、
ここの場合は 「南無阿弥陀仏」 と六字で書いてあるので “六字名号” と云うらしい。
他にも九字名号→南無不可思議光如来。十字名号→帰命尽十方無碍光如来 があるそうです。

 で、すぐ疑問を感じるのが私の悪い癖。静岡県東部の寺を歩いていると、髭が跳ねたような特徴のある字体で
 「南無妙法蓮華経」
と書いた 「髭題目」 と呼ばれてるの石碑を良く見かける。だがこれは “七字名号” とは云わないらしい。
理由は “妙法蓮華経” はお経で仏様ではないからのようだ。

                              27番から28番永寿寺への道