はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

大崩山塊・静焼アルプス縦走2

2014-03-31 10:45:36 | 低山歩き
歩行記録     歩行月日2014年3月28日
歩行時間:10時間50分   休憩時間:1時間20分   延時間:12時間10分
出発時間:6時00分   到着時間:18時10分
歩  数: 43、420歩   GPS距離24.2km

行程表
 安倍川駅 0:30> 佐渡山 0:30> 徳願寺 0:30> 仏平 0:10> 梵天山 0:20> 歓昌院坂 0:40>
 駿河峰 0:35> 大鈩山 0:45> 飯間山 0:45> 昼飯場 0:30> 三角点 0:15> 宇津ノ谷峠 0:25>
 蔦の細道 1:05> 444m峰 0:20> 満観峰 0:40> 日本坂峠 0:30> 花沢山 0:45> 砂張屋道標
 1:00> 石脇口 0:35> 焼津駅

観歩記
 旧東海道宇津ノ谷峠に12時20分到着。
静焼アルプスを6分割すると、最初の佐渡山から歓昌院坂が1区画、歓昌院坂~飯間山が第2区画。第3区画が
飯間山~宇津ノ谷峠。第4が宇津ノ谷峠~満観峰。第5が満観峰から花沢山。最後が花沢山~簡保下になりそうだ。
 ここ宇津ノ谷峠で半分の行程が終わったと思えばホットとするが、まだ半分も残っていると思うとガクッとくる。
しかもこれから蔦の細道へと行く道は、道とは言えないような斜面を登らなければならないので余計疲れを感じる。
 東海道を歩いた人は宇津ノ谷峠は左程難所とは思わなかったと思うが、峠の左右の斜面を上り下りすると聞けば
きっと「これが道?」と、ビックリすると思う。マーそれ程に見た目は大変だ。

 何時もなら掴む物の無い斜面は必ず1度はズルズルと滑ってしまうが、今日は一度で越す事が出来た。
理由は昨夜の雨で斜面が湿っていて滑る度合いが少なかったようだ。この斜面を捲くとなると、峠を西の岡部側に
下り、農道に合流したら、農道を登ることになる。これが中々の遠回りなので、どうしてもこの斜面を登りたくなる。
斜面、斜面と書いたが滑るのはホンの3m程で危険性は無い。そこさせ過ぎれば農道はすぐ上にある。

       
      宇津ノ谷峠・左:飯間山 右:満観峰            宇津ノ谷峠から満観峰の道

 農道に出たら国道の排煙施設まで農道を行く。舗装された道は歩きにくいというがとんでもない。さんざ木の根や
ガレ場を下って来た身にとっては、何と歩きやすい道だと思った。
しかし排煙施設からはまた山道になる。最初のなだらかなピ-クで方向を右に取り東に向かう。蔦の細道までは
こんな風な緩やかな起伏が続いて歩き易い。

 
             国道の排煙施設                      蔦の細道

 蔦の細道から富士山が見えるようになったが矢張り今日は駄目だった。静岡側は今迄杉林しか見えなかったが
富士山が見えるようになると、今まで気にしなかった峠の標識がやけに安っぽく見える。富士山にこの標識では
歴史ある蔦の細道の名がすたる。もう少し品のある標識にならないものか。
 峠の桜は5分咲き程度に咲いていた。

       
                 蔦の細道(静岡側)                  峠の桜

 444m峰は蔦の細道から3ッ目のピークになる。登りの厳しいのは最初のピ-クで峠から標高差100mの登らな
ければならない。疲れてきた足に不安を覚えるのこの辺りで、果たして明るい内に完歩できるか心配になる。
2個目のピークは下りが短かった分、登りも少なくて助かる。更にここの下りも短く鞍部には木の根が絡み合った
道もある。3個目のピークの登りはダラダラと長い登りになる。左(東)には正三角形のような丸子富士と満観峰が
樹間から時折見えている。高度を上げていくと前方右(南)に高草山が見えてくる。ここまで来れば444m峰は近い。
 444m峰の山頂は林の中で、しかも平坦なので分かりずらいが、道が左に90度曲がっていて、紐を張ってある。
2月に歩いた444m峰から廻り沢林道の道は、この紐に沿って入る林の中にあったが、一見しただけでは道がある
とは思えないような感じだ。

        
       2個目のコルの木の根の道                    444峰峰

 444m峰から20分で満観峰に到着。ここまで登山者に会わなかったが、ここでカップルの登山者に会う。
挨拶をしても二人の世界に入っていて、私に気が付かないのかこっちは無視。男性の歳は私と似たように見え
るが羨ましい限りだ。
 南の方角に三角点の山と花沢山が見えている。あの花沢山まで行けば厳しい登りは終わりだが、そこまで
行くには三角点と水分大神の石仏のあるピ-クを越して、更に日本坂峠から花沢山の最後の上りを登らな
ければならない。そう思うと大変だが、この尾根は日本坂峠から登るより、満観峰から行く方がよっぽど楽だ。
何しろ一番高い満観峰から、一番低いに日本坂峠に向かうのだ、と思えばいくらか気分は楽になる。

 
              満観峰山頂                           花沢山

 三角点と石仏のピークの下りは擬木の階段があり滑る心配はないが、一歩一歩が膝に響いてくる。それを
嫌って階段の横を歩く人が出て道が荒れてしまう。これを避けるには擬木の太さを細くして、階段の高さを低く
すれば横を歩く人は減るだろう。それに擬木が濡れていると踏んだ時滑るのも嫌いだ。何とかならないだろうか。
マー私は歩くだけで道の整備もしないのだから、そんな文句を言う資格は無いが。

 3時10分日本坂峠に到着。台風による倒木で明るくなった穴地蔵は峠からもよく見える。
この穴に日本武尊が隠れた伝説は面白いのだが、それを案内する標識は無い。岡部宿には小野小町が自分の
姿を映したという小橋に、案内板があり失笑してしまったが、ここなら失笑を買うようなことは無いと思う。
それに日本坂峠の名前の謂れも案内すれば、案外面白がってくれるのではないだろうか。
エッ! 日本坂峠の名前の謂れを知らない? それはこの峠を日本武尊が通った事で名前が付いたのだが、
これと同じ発想で日本平の名前もついたという。

 今日最後の厳しい坂を登り始める。峠の道標に花沢山まで35分と書いてあったが、普段なら30分で歩ける
だろう。しかし疲れている今は40分ぐらいは掛かるだろうか。果たしてどの位で登れるか。
 丸子富士の三角形の姿が後ろに見えてきた。今日は富士山が見えないので並べて写せないが、この山を何故
丸子富士と名付けたのか意味が分からない。これが富士山の見えない地方で、三角形の山を富士山に見立てて
△△富士と名付けたなら納得できる。だが富士山と一緒に見えるこの山を、富士と呼ぶ気が知れない。
 この山の山頂には「金光山蔵王権現」の石碑と祠があるので「金光山」とか、山頂の形からズバリ「三角山」でも
いい。更に言うなら柴屋寺から連歌師宗長が月の上がるのを見た山なので「吐月峰」でも良かったのではないか。
オットまた始まってしまった。止めよう。

 
            日本坂峠の穴地蔵                     丸子富士

 本来花沢山は眺めの良い山だが山頂は樹木に囲まれ視界が効かない。しかし山頂までの途中に焼津側と静岡側が
見える場所がある。焼津側はこれから歩く簡保の尾根も見えているが随分低く見えるので一安心だ。だが実際は
小さなアップダウンが幾つもあり、疲れた足にはダメージになる。でもあそこまで行けば完歩は間違いないだろう。
 一方静岡側は晴れていれば勿論富士山も眺められるので満足してもらえるだろう。今日は残念ながら富士山も
見えず、静岡市街も霞んでしか見えなかった。
しかしここまで登れば花沢山山頂はあと少し。頑張ろう。

 
            簡保の尾根と焼津港                    静岡市街

 何とも味気ない電波の反射板が見えたら花沢山の山頂です。
アレー 簡保の宿の向う道に新しい案内板が建っている。何だろうと見ると「大崩ハイキングコース通行止」
として「大崩海岸の海岸線崩壊が続いているため大崩ハイキングコース簡保の宿入口~砂張屋孫右衛門道標
(小浜地区降口)は現在通行できません。平成25年10月29日 焼津市観光課」
 となっていた。
 この案内板は1月に砂張屋の道標への登り口で見た案内とまるっきり同じものだ。だが花沢山へ2月11日に来た
時はこの案内は無かった。それにブログを見ていると、この区間は「支障なく歩けた」という記事も複数目にする。
それにしても崩壊が進んだのかしら? 困った問題が発生したものだ。しかし今ここで悩んでも仕方ない砂張屋の
道標まで行って、そこに案内板が無ければ簡保下へ行ってしまおう。もし案内板があったら下に降りるしかないか。
と決断した。

 日本坂峠から花沢山まで29分で歩けた。道標の時間が35分で私の予想は40分だった。それが30分を
切って歩けたなら、まだまだ大丈夫だろう。元気が湧いてきた。でも実際は道標の時間を見て無意識に頑張って
歩いてしまったのではないか。マーそれでも歩けたのだからヨシだろう。

 花沢山山頂で山頂日誌を開いてみると前回私が書いた近くに「はぐれさん ブログを読んでますよ」とあった。
単純な私はそれで舞い上がってしまい疲れも半減してしたのは良いのだが・・・・・・ マー止めましょう。
その後、自分のお調子者の性格に嫌気がさしてしまいました。
ともかくコメントを書いてくれた方に感謝します。

 
            花沢山山頂の反射板                    花沢山山頂

 花沢山名物の林の中の長い階段が続く。梵天山の階段の無い下りと比べてどちらが歩きやすいか? 
ウーン!難しいな。階段があれば滑らないしスピードが出ないので安全だが、何か足に響くような気がする。
しかし少しは足に響いても安全を考えれば階段は有った方のが良いと思うし。
 長い階段が終わり石部峠に到着。ここまで来れば厳しい登りも長い下りも無いので一安心だ。かと言って
この下にあるクマガイソウの様子を見に行く元気は無い。山頂ノートに今年のクマガイソウは1株しか芽が
出ていないと書いてあったが、いつごろ咲くのだろう。一度見てみたいのだが。

 石部峠から15分ほど行った左の海側に「簡保下⇒」の新しい標識が目に付いた。日付は今年になっている。
しかしここは道了権現より花沢山よりの場所だ。それなのに尾根より海側の中腹に簡保下までの道があるのか。
頭で考えるに海側の急傾斜地に道なぞ出来そうもないと思うのだが、標識は悪戯とは思えない造りだ。
ただこの標識は私が信頼している「M・S」さんの物ではなかった。
 新しい標識から10分で道了権現の祠に到着。そこから5分ほど下った公的標識の所で桜が咲いていた。
その桜の写真を写そうと脇道に入ると目印のテープが付いている。若しかしてさっきの簡保下の標識は
ここに出てくるのか、桜よりそっちの方が気になってしまった。そこから2分程度で大日堂の切通しに出た。

           
            花沢山の長い階段                   桜が八部咲だった

 ガク! 砂張屋の道標の横に市役所の通行止の案内板が立っていた。私の性格としてこれを無視することは
出来ない。きっと崩壊が進んでハイキングコースも危険になって来たのだろう。とそう思う事にした。
 さてでは焼津駅まではどのコースで帰ろうか、この下の農道を西に向かう道と、JRのガードから西に向かう
車道。それと花沢の里駐車場からやきつべの道を歩き、石脇口に出る道の3本がある。
一番楽なのはガード横の車道を行く道で、大変なのはやきつべの道なのだが、いずれも尾根を歩くより楽になる。
 あと少しで富士山の資格審査に合格できるのに、ここで安易な事をしたら後悔の種になる。なら少しでも苦労の
多いやきつべの道を行こう。そうすれば駅の近くにコンビニがある(これが決定打)。

 この山塊にはヤマブキが多いと紹介しておきながら、その写真が無いのが心苦しかった。
けど、有りました。どうですか、辺りが明るく感じませんか。
チラチラ散った花びらが、下の草の上に落ち、まるで別の花のようにも見えました。

 
            道標の横に通行止の案内が               ヤマブキに出合った

    
            二輪草の群落                     まだ小さい二輪草

 花沢の里駐車場の桜も咲いていた。わざわざこんな遠回りをする馬鹿は私ぐらいだろう。流石に花沢城址の
坂は大変だった。
 左に簡保の尾根が見えてきた。あの尖った山が大日堂だから、あそこから簡保下までのピークは、と数えると
5個もあった。あちらのアップダウンは5回。こちらは2回でしかも緩やかだ。それでも距離はこっちの方が若干
長くなるだろう。
 例年だと砂張屋の道標から簡保下までが長く感じ、中々着かなくてイライラするのだが、この歩き慣れている
車道ではそんな思いも湧かない。それだけでも心身ともに楽なんだろう。

 6時10分焼津駅に到着。ほぼ半日の資格審査は終わった。最後は若干楽をしてしまったが、先ずは合格だ。
乾杯の氷結が美味しかった。

 
             花沢駐車場                           風口坂

大崩山塊・静焼アルプス縦走

2014-03-30 11:44:20 | 低山歩き
歩行記録     歩行月日2014年3月28日
歩行時間:10時間50分   休憩時間:1時間20分   延時間:12時間10分
出発時間:6時00分   到着時間:18時10分
歩  数: 43、420歩   GPS距離24.2km

行程表
 安倍川駅 0:30> 佐渡山 0:30> 徳願寺 0:30> 仏平 0:10> 梵天山 0:20> 歓昌院坂 0:40>
 駿河峰 0:35> 大鈩山 0:45> 飯間山 0:45> 昼飯場 0:30> 三角点 0:15> 宇津ノ谷峠 0:25>
 蔦の細道 1:05> 444m峰 0:20> 満観峰 0:40> 日本坂峠 0:30> 花沢山 0:45> 砂張屋道標
 1:00> 石脇口 0:35> 焼津駅

       
観歩記
 金曜日のリベンジに行ってきた。コースは勿論静焼アルプス縦走。静焼アルプスを再度説明すると、名前は
私が勝手に言っているだけなのだが、国道1号線の佐渡交差点から登り出し、通称丸子アルプスと呼ぶ人もいる
徳願寺の尾根を旧東海道の宇津ノ谷峠まで行く。峠からは蔦の細道を横断し444m峰の尾根を越えて満観峰へ。
満観峰からは花沢山まで行き、そこから焼津アルプスと呼ばれている簡保の尾根を歩き簡保下に出るコースだ。
どちらかと云えば三つのコースを一つにしたようなもので、私には海から富士山に次いで過極なコースでもある。
しかしここを完歩できなければ、当然海から富士山は登れないので、海から富士山の資格審査コースとしている。
 静焼アルプスの名前は丸子アルプスや焼津アルプスでは、例えご当地アルプスにしてもスケールが小さすぎる。
そこで歩行時間が約12時間かかる、この一連の尾根をアルプスに見立てて静(岡)焼(津)アルプスと命名した。
マーこれは私の勝手なお遊びですので許してください。

 静岡県のご当地アルプスとしては、沼津アルプスが景観の素晴らしさとアップダウンが多い難コースとして有名
だが、こちらの静焼アルプスも負けてはいない。佐渡山や満観峰からの富士山、花沢山から見える志太平野の
眺めも中々良い。
だが正直に言えば景観では沼津に少し負けてしまうだろう。でも距離では負けていない。沼津APのGPS距離が
12.7kmに対し、静焼アルプスは23.9kmとほぼ倍の距離がある。
アップダウンは単純には分からんないが、海抜10mをから出発し静焼アルプスの最高峰満観峰470mに登り、帰りは
海の横の橋を渡って焼津駅に戻る。その間のアップダウンは数知れずで、多分こちらも沼津APより厳しいと思う。

 昨年から脚力の衰えが激しいので、予想所要タイムは昨年より1時間増やして13時間とした。出発時間は始発
電車で来ているので6時を変えられないので到着時間が19時頃となるだろう。山中で暗くなることは無いと思うが、
前回のように思わぬ障害に出くわしたら途中離脱すればよいと思っている。

 今までだと佐渡山で日の出を見るのだが、今年は遠江49薬師を歩いてたので約1か月遅い挑戦になっているので
日の出は電車の中で迎え、歩き始めは既に明るい状態だった。
 佐渡交差点から佐渡山の山道に入ると、前夜遅くまで降っていた雨の滴が木や草に残っていて、靴や服が濡れて
しまう。その所為か夜明け時には朝靄が掛かっていたが、靄が晴れればスッキリした富士山が見えるかも・・・・・・
と期待をしたが残念でした。相変わらず靄がかかっていて富士山の姿は見えなかった。

 佐渡山の山頂は家庭菜園的な畑が整備されてきて、立ち入るのは気が咎める状態になっていた。一人なら兎も角
何人もで登るときは、登ってきた道を戻り、農道を歩いた方のが無難だろう。

 
           古墳のような佐渡山山頂                     靄の静岡市街

 佐渡山を下り農道を横断して更に尾根を行く。先日歩いた時は蜘蛛の巣は無かったが、今日は時々蜘蛛の糸が
顔に引っ付く。ただ完全な蜘蛛の巣ではなく、道糸なのか1本だけの蜘蛛の糸だ。これから巣を作る準備をして
いるのだろうか。これが完全な蜘蛛の巣なら、蜘蛛払いを作り、それを回しながら歩くのだが、たまにある1本
の蜘蛛の糸のためにそれも面倒だ。そこで杖を出して気が付いたら払うようにしていたが、時々顔に引っ付く。
ウーン!気持ち悪い。と手で顔を掴むようにして剥がした。その蜘蛛の糸は多い少ないの違いはあったが、最後
まであった。これは夜中まで降った雨の影響なのかしら?

 今日のコ-スは峠道を幾つか横断するが、まず最初に横切るの峠は奈良時代に東海道として利用されていた
「手児の呼坂」。同じ時代の東海道の日本坂峠も横断する。勿論万葉時代の蔦の細道、江戸時代の宇津ノ谷峠も
横断する。また安倍川の川止めのとき上流に向かった峠として歓昌院坂もある。この峠は名所の吐月峰柴屋寺と
木枯しの森を結ぶ風流人の愛した道でもあるらしい。さらに海の産物を駿府に商人・砂張屋が道標を建てた峠も
ある。景色が見えない時は歴史もある。これは沼津アルプスには無いでしょう。エヘン!

 
           手児の呼坂                      レンギョが咲きだした

 手児の呼坂の先も尾根を歩くが、次に農道と合流した所から梵天山の入口までは農道を歩く。
ウワー! 蛇だ-! 正直びっくりした。3匹も道にいる。もう蛇が? 車に轢かれたのか動く気配がない。
近づいて見ると蛇の抜け殻のようだ。いやチョット違うようにも見えるが分からない。里芋の蔓?
気色悪いので触るのも止めて、そこを避けて通過した。アーアヤダナーこれからは蛇が出てくるのか。

 
           蛇が三匹                        蛇の抜け殻?

 7時になっても靄は晴れないところをみると、この靄は朝もやではなく春霞なのか、それとも黄砂? どちらに
しても今日の景色は諦めるしか無い。これからの季節は今日だけでなく景色は当分駄目だろう。
 5日前の山の景色と今日の景色は一変している。前回チラホラ咲だったレンギョは満開になっていたし、
その存在すら分からなかった山桜が、点々と白い塊になって山肌から浮き出ている。
枯れ木だった木々は柔らかな薄緑の葉を揺らしている。これぞまさに山が笑い出したのだ。
これで蛇が出なければ万々歳だが。

 オッ!タラの芽がある。あれだけあれば晩酌のつまみに丁度良いが、少し高い所にあるので取るのに時間が
掛かりそうだ。今日は時間と体力の戦いになりそうなので、残念ながらこれは諦めよう。

 
            徳願寺から静岡市街                  タラの芽だ。

 山道に入っても前回気が付かなった植物に目が入った。何の木か分からないが新芽がまるで花のように見える
木や、真っ赤だった藪茗荷の実が徐々に色褪せてきて橙色に変わっていた。この実は最初は緑色で熟すと濃い
青藍色になり、それが真っ赤になり最後は橙色になって落果すると思っていた。間違ってはいけないとネットの
植物図鑑で調べると、実は青藍色と書いてあるだけで赤や、橙色の事は書いてない。
ではこの実は藪茗荷ではなく別の植物か、しかし葉の形は藪茗荷と同じように見えるのだが・・・・・・

 シャガの花も咲いていた。この花は湿った場所を選ぶようで林の中や寺や墓地に咲いている事が多い。その為か
花は綺麗なのに何故か好かれていないように思える。それに群生して咲くため、希少価値を感じないので余計に
興味を持たれないのだろうか。私は綺麗な花だと思うのだが。

  
      花のような新芽           藪茗荷の実?            シャガの花

 梵天山から歓昌院坂の下りは相変わらず厳しい。海抜375mの梵天山から171mの歓昌院坂の下りは大崩山塊の
下りで1番長い下りだろう。尤も一気に下るのではなく3段に分かれていて、最初は山頂から送電線までは杉林の
中の下りで一番長い。少し平らになった先は雑木林の中の下りになる。その下りが終り前方に次に登る駿河峰の
頂が見えて来るので坂が終わりかと思うと、又もや坂が現れる。
下れば上らなければならず、まして登り返す山が見えると下り坂は本当に嫌になる。

 下ったら登らなければならないのが登山の宿命。171mの峠から堂ヶ谷三角点313mも中々の物がある。
ただこの三角点は駿河峰の中腹にあるため、まだまだ登りは続く。それでも408mの駿河峰に着くとホッと
する。次の飯間山まではアップダウンは続くが今のような坂は無いからだ。
 駿河峰と聞くと何か駿河を代表する山のようにも聞こえるが、そんな事は全然なく、私もこの徳願寺の
尾根を歩いて初めて知った。麓からの見て駿河峰を指せる人は、ここを歩いた人ぐらいだろう。
それに山頂は林の中で展望はきかないのに何故こんな大袈裟な名前を付けたの不思議でならない。
昔からあった名前だろうか。いや昔からの名前なら三角点の名称は堂ヶ谷でなく駿河峰になったと思う。
この山塊には他にも首を傾げたくなる山名があるが、わが愛するホ-ムグラウンドにケチを付けるのは、
この位にしておこう。

 この山塊で一番目にする植物は青木の木。麓から山頂のいたる所に生えていて、まるで昔は栽培していた
のではないかと思えるほどある。この青木は雌雄異株だが、その見分けが出来ない。実が付いていれば雌だと
分かるが、花の段階では区別がつかないので今度勉強しておこう。
 この時季に麓で見かけるヤマブキの華麗な黄色の花は、辺りを明るくするほどだ。
スミレの花も彼方此方の登山道脇に咲いているが、この花の写真は写しにくい。何しろ丈が低いのでしゃがんで
写さなければならず、つい面倒になり写すのを止めてしまう。今日も何輪も見かけたがパスしてしまった。
そうだ高草山の黄スミレが今年は少し遅れていると聞いたが、今日あたりはどうだろうか。
 ほかにも藪茗荷やマムシ草もよく目にする花だが、特に大崩山塊に多いと云う訳でもなそうだ。
 
 羊歯はどの山に行っても見かけるが、この辺りの古名は志太郡で、羊歯が多い里からきているとも言う。
この羊歯の道は夏はどうだろうか。道が羊歯の陰に隠されるかもしれないな。
 この幹立ちした木の横は感じが良い道だ。何という木か分からないがかなり大きな木だった。

  
          青木               羊歯の道               幹立ちの木
  
 順調にコースは進み徳願寺尾根の最高峰飯間山へ10時25分到着。これは昨年の記録と全く同じ時間だが
去年は無意識に、今年は意識して休憩時間も短くした結果だ。しかし前半に体力を使い過ぎてしまうと、後半に
ばててしまうと困る。休憩はしっかり取らなければと頭では分かるのだが・・・・・・・・・・・・

 右側に新東名の静岡SAが見えいる。霞んでいなければその上の方には南アルプスの白い峰が見える場所だ。
今日はここで同じ白でも何だか変な白い物を見た。なんか息苦しいと思って辺りを見回すと、白い浮遊物、いや
水蒸気、いや粉状の物が漂っている。霧のように細かくないが雪虫のように大きくない。何だか分からないが
そんな物が風が無いのでフアフアと漂っていて気色が悪い。
歩く速度をあげてその中を通り抜けた。10m程もあったのだろうか、それにしても気持ちが悪い。
黄砂?杉花粉?と色々考えたが分からない。あの時は気色が悪いのと息苦しさから急いで離れてしまったが、
写真を写しておけばよかった。写るか写らないか分からないが。

 道の駅の分岐の標識からまた急な下り坂が始り、その坂を下りきると四辻になる。宇津ノ谷峠には上りの
杉木の間を進むのだが、以前右に行く道には「桂島」の標識が有ったが今は無い。左側には「悪路通行不可」
看板があったがそれも無い。標識を撤去した意味が分からない。桂島へは通れなくなったのか、また左の道は
悪路が改善され通れるようになったのか、だが何処に出るのだろうか。
 なまじ以前の事を知っていると余計な疑問が湧く。

 四辻から四つ目のピークの左側が開けていて満観峰や丸子富士が良く見える場所がある。いつもここで
昼飯にしているのだが、入口が枯れ木やトタンなどで入り難くしてある。わざわざこんな事をしてあるのは
蕨でも出るのだろうか。却って興味を引いてしまい逆効果のような気もするが。
今日は蕨には早すぎるし、枯れ木やトタンの場所でもない所から入れば文句ないだろうと、勝手な理屈を
付けて満観峰を眺めながらの昼飯にした。

 
            新東名静岡SA                          昼飯場

 昼飯を食べ終わり、いよいよ前回迷った場所に向かう。とは云え今日は不安は無い。前回あの榾木を伐採して
いる場所の様子は頭に入ってる。イヤイヤそれが悪いのだ。前回迷った最大の原因は、以前にもそこは迷った
場所で、二度と迷わないようにしっかり頭にしまい込んであった。その頭の中のイメージと伐採中の現状とが
一致しなくてパニックになってしまったのだ。あれが初めて歩く道だったら少し道を探すだけで、あれほど迷う
事はなかった。
 昼飯場所から10分ほどで問題の場所に到着。前方に榾木が横たわり道が見えなくなっている。その榾木の
上を歩いて上に向かう。ピ-クに行く前に左を注意して行くと踏み跡らしき物が見える。覗き込むと赤い目印の
テープが丸めて置いてある。そこに下りの竹林の道があり、少し先にモノラックのレールがあれば間違いなし。
今は写真の榾木の上に見える青いビニールシートの所を左に曲がれば道になるが、榾木やシートの状態は変わる
恐れがあるので、竹林のピークにきたらモノラックのレールを探してください。
目印のテープを持ってきているが、今付けてもまた変わってしまいそうなので、伐採が一段落してから付けた
方がいいだろうと、付けるのは止めておいた。

 その場所から15分で三角点に到着。この三角点は279mで名前は岡部となっているが場所を特定するのに
「279m峰」では何処の279mだか迷ってしまう。では「岡部三角点」と云っても何処にもそんな表示は無いので
これまた分かりにくい。名も無き山は不便だが、全てのピークに名前を付ける分けにもいかないだろう。

 三角点から林の中の急な下り坂が始まる。この坂を下れば宇津ノ谷峠に着くが、その前にロープを張った
場所がある。そこを過ぎ少し登ってから始まる下り坂が徳願寺尾根の最後の坂になる。
去年は無かったが今年は坂の途中にロープと云うか幅広のテープ状の物を張ってくれてあった。
市でやってくれたのか、それとも誰かがやってくれたのか、いずれにしても有りがたい事です。
下の方に宇津ノ谷峠の峠道が見えてきた。この坂を下れば峠だ頑張ろう。
それにしても目の前に見える斜面が、これから登る蔦の細道への道だと思うと下るのも恐ろしくなる。

  
          迷う場所             新し手摺り        宇津ノ谷峠が下に見える

遠江四十九薬師霊場2-4

2014-03-26 17:07:35 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         4番宗安寺(三重塔)
 25番まで打ったのに次の札所は4番に逆戻りだ。これは元の4番札所は札所順の磐田にあったが、その寺が
廃寺になってしまったので、浜松にある宗安寺に変更されていた。札所を変えるなら元の場所の近くにすれば
良いと思うが、こちらも順番通りに回っているのではないのでブツブツは言えない。

 白華寺から東名高速を越した所に「有玉神社」の表示があったが無視して通り過ぎてしまった。実はこの
「有玉」と云うのは、例の赤蛇伝説の子供が母親の龍から貰った玉の事だと、後で知り残念な思いをした。

 前方に三重塔が見えてきて実にいい眺めだ。浜松の郊外を歩いているのではなく、まるで奈良斑鳩の里を
歩いている風情がする(斑鳩を歩いた事などないのに)
この宗安寺の三重塔は古い建物ではなく平成11年建立された新しい三重塔だった。
 
 
               4番宗安寺の三重塔                        宗安寺境内
          宗安寺の地図
 まず薬師堂をお詣りしてと中を覗きこむと、薬師如来ではなく延命地蔵菩薩が祀られていた。そこで気に
なったのは、地蔵の横の棚に置いてある白い達磨さん。少林寺にも白達磨が有ったが、この寺にも有るという
事は何か意味があるのだろう。とご朱印を貰うときに聞いてみた。
「達磨は赤いのばかりではなく、緑や白いのもありますよ。好き好きじゃありませんか」と大黒さんの返事だった。
そうか檀家から寄進を受けた達磨を飾っただけなのだ。つまらない。

 宗安寺のご本尊は十一面観音菩薩で、三重塔には聖観音菩薩、地蔵堂は延命地蔵で有名なのは薬師如来と
中々賑やかな寺だった。

 
               地蔵堂内部                         薬師三尊

                         26番真光寺(お葉つきイチョウ)
 25番から4番と、4番から26番は、それぞれ一時間ほど掛かってしまった。真光寺に着いたのは既に3時に
なっていたが次の岩水寺まではまだ9km余もある。ノロノロしていると5時までに岩水寺に着かなくなってしまう。
先を急がなければ。
 真光寺に着く頃に、又もや雪なのか風花なのか分からないが猛烈な勢いでぶつかってくる。
ご朱印を受けるとき住職に「雪ですかねー 風花でえすかねー」と聞くと住職は怪訝な子をして外を見た。
「ワー凄い! これは雪ですよ」とビックリしたようだった。

 真光寺の薬師三尊の周りには、十二神将の替りに色々な仏像が祀られていた。余りに雑然としていて、寺の
須弥壇と云うより民家の大きな仏壇といった風情だった。

 
            26番真光寺                           薬師三尊
               真光寺の地図
 ご朱印を貰いお詣りを済ませ境内に出ると雪は止んでいたが、まだ黒い雲が覆っていた。
境内にあった大きな木は、浜松市の保存樹木に指定されているイチョウの木だが、このイチョウは葉っぱに
実がなる「お葉つきイチョウ」という珍しい銀杏だった。
 お葉つきイチョウと云えば、山梨県身延町の国道52号線を走っていると、この看板を幾つか見かけるが、
まだ一度も見た事はない。なんでも全国で何十本しかないイチョウらしいが本当だろうか? それ程貴重
ならこの真光寺のイチョウも、保存樹木ではなく天然記念物に指定されそうなものだ。案内板には
「イチョウの木は三億五千万年前にはすでにあり、イチョウ以外の動植物は数例を除いて全て進化しましたが、
イチョウだけはその当時から少しも進化せず、そのままのものが今日存在しているといわれています。」

イチョウは生きた化石とも云われるが、そう聞いてもあまりピンとこない。余りに見慣れている木で、化石と
云われても「へーそうか」で終わってしまう。

「烏瑟沙摩明王(ウスサマミョウオウ) 全ての不浄の物(悪)を食い尽くすといわれ、修法は産褥の不浄、悪鬼の
祟り、枯木の精、毒蛇の害などまで除くためのものといわれる」
 
右足を上げ片足立ちしている明王の顔は、まるで赤鬼の風情だ。その頭上には何だろう? 狐の頭を乗せている。
これが悪を食い尽くすのか。それにしては可愛い顔をしている。
だがこれは仏像ではなく板に書かれた絵だ。それも色落ちして薄くなってはっきりしていない。
祠に張られている案内は少し難しく書いてあるが、簡単に言えば「シモの神様」という事だ。

 明王の隣の祠には地蔵菩薩と聖観音菩薩の石像が並んでいた・

  
       お葉つきイチョウ           烏瑟沙摩明王            菩薩石像

                         27番光正寺()
 雪雲は何処かに飛んでしまい、また青空が戻り明るくなったのはよいが、27番光正寺に着いたのは3時50分。
気分は段々焦ってきてお詣りも簡単に済ませてしまう。ご朱印を押す住職に「岩水寺までどの位かかりますかね」
と聞いてみた。「歩きですよね。歩きでも1時間は掛からないでしょう。でも岩水寺さんは5時になれば閉めてしまう
から。その前に行かないと。」

そうなんだ、岩水寺は大寺で修行僧たちがやっているので時間厳守なのだ。会社組織で従業員が働く大店と、
家族経営の小売屋との違いがあるのだ。それでは増々急がないといけない。

 早々に寺から出ると気分的に足取りも早くなる。しかしこれから岩水寺にお詣りできたとしても、ゴールの駅は
二俣本町になってしまう最悪のケースだ。イヤ下手をすればそれすらできずに、岩水寺の手前の駅で打ち止めに
なってしまう可能性もある。それこそ想定外で何としてでも避けたい。もう急ぐしかない。

 交差点の名前が「麁玉小南」になっている。難しい字で読めなかったがローマ字で「aratamasyouminami」
なっている。フーンでは麁玉は「あらたま」と読むのだ。
オッ! 待てよ、だとすると麁玉は赤蛇の玉に関係しているのか、と期待をしてしまった。
だが家に戻り「麁玉」を調べたが、赤蛇との関係は見つからず、麁玉とはこの辺りの古い地名で、意味は
「まだ磨かれていない玉」という事だそうだ。ではこの辺りで何か鉱石が発掘されたのかと思うが、そんな記述は
無かった。ただ「宮口まちおこしの会」のHPに
「あらたま」が地名として歴史上に登場するのは、694年に造営された藤原宮跡から出土した木簡に「荒玉評」
(あらたまごおり)と記されていたことが最初だそうです。
713年に、郡名を縁起の良い字に改める命令が出され、「荒」「麁」の字に改められたと考えられています。」
 
とあった。そこにも赤蛇の玉については触れていない。さらに調べていくとこんな解説をしているものが複数あった。
「天竜川の古名は麁玉河で、それが荒玉河、広瀬川、天中川、天龍川と変遷した。」
 この辺で結論を付けよう。この辺りはかって麁玉河(天竜川)の流域で、その川の名前が地名として残ったのであり
赤蛇の玉とは何ら関係ない。と

        
                 光正寺                          大日如来か
                光正寺の地図
 アーア! 遂に5時になってしまった。何が「1時間は掛からず岩水寺に着く」だ。まだここは麁玉の隣の宮口で
岩水寺までは30分以上も掛かりそうだ。もう先程から諦めモードに入りペースはダウンしてしまった。
しかしゴールの駅はどこにしよう。せめて岩水寺に一番近い駅はと手持ちの地図を見ると岩水寺駅だった。
もう仕方ない、全くもって想定外だが、そこをゴールにするしかない。
 岩水寺駅に5時30分に到着。ウーン寒い!冷たい強風が吹き抜けていて震え上がってしまった。早く電車が
来なければ凍ってしまうと時刻表を見ると、何と何と次の電車は18時24分で50分以上あった。
マイッタナー 次の駅まで歩くのはいいが道が分からない。だが幸いな事に駅前に案内板が建っていて、それを
見ると次の駅は西鹿島駅になっている。道は・・・・・ 細かい事は分からないが近くで聞けば何とかなるだろう。
駅員に聞けばって? トンデモナイこの駅の周辺は店は1軒も無く、民家だってチラホラだ。駅の建物も無いから
当然改札も無い。ただホームにバス停のような待合所があるでの駅です。天浜線はこのような駅が多いんです。

 歩いている分には寒さは左程感じないですむ。「根堅」という大きな交差点に出た。さてどちらに行けば良いのだと
聞く人を探すが、こんな寒い夕方に歩いている人はいない。やっと自転車に乗った高校生に道を聞く事が出来た。
「この交差点を直進して踏切に出たら左折して行けば西鹿島の駅です。」アー良かった。

 何だよ線路が下を通っているが踏切は無いし道も無い。アッそうか、ここは第3セクターの天浜線と私鉄の
遠州鉄道が乗り入れているのだった。でも私が乗るのは天浜線で遠鉄線ではない。とは云っても道が無い事には
曲がるわけにも行かないので、そのまま直進をする。
 やっと踏切に着いた。でも今度は踏切の前後に左に行く道がある。ウワー困った。ここまでは聞かなかった。
確かさっきの高校生は踏切を渡るとは云わなかった。ヨシ手前の道を曲がろうう。
 なんだよ、道は線路から離れてしまう。しかも線路の左は高台になっていく。間違ったかな?
それにあちら側の道は時折通る自動車の灯りが見えるが、こっちの道は全然車が通らない。駅前に行くのだから
車が通らないのは不自然だ。きっとあっちの道が駅への道なんだ。急がないと電車に間にあわなくなってしまう。
時間を見たくても暗くて時計の針が見えない。早く決断しないと。エイ!引返そう。

 踏切まで戻り踏切を渡って左へ延びる道を行く。今度は徐々に民家も出てきて賑やかになってきた。
アー!良かった。半分走るよううにしてやっと遠鉄の西鹿島駅に到着。でもこの駅は天浜線の駅ではない。
ジャー天浜線の駅は何処にあるのだ。
「済みません。天浜線の駅にはどうやって行くのでしょうか」
「同じホームだからそこを行けばいいよ」
と言われても、同じホーム? 訳も分からぬまま駅に入ると、そこは
遠鉄の改札だった。エ-なんだよー だから天浜線と言ったのに。段々焦ってきた。隣にいた高校生に
「天浜線にはどう行けばいいの」と聞くと「切符を買って改札を入ればいい」と言って天浜線の自動販売機の場所を
教えてくれた。すると近くにいた高年の女性が「切符は買わなくてもいいから一緒においで」と声を掛けてくれた。
地下道を潜りながら「電車賃は降りる時に払えばいい」と教えてくれた。。
そして階段を登った所が天浜線の西鹿島駅のホームだった。
フーやっと電車に間にあった。ゴールの駅も想定外だったが、最後にこんなにアタフタするのも予想外だった。
お蔭で寒さを飛んでしまったが、乾杯の氷結も今日は望むべきもなかった。アー疲れた。

遠江四十九薬師霊場2-3

2014-03-25 12:06:19 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         24番小林寺(白達磨)
 天林寺から24番少林寺には国道152号線の通称秋葉街道を北に向かった。この秋葉街道と言う名称もあちこちに
あるが、ようは秋葉神社方面に行く道と思えばよい。その太い味気ない道を20分も歩くと少林寺の入口に着いた。
ウワーあの先に薬師堂があるのか、と恐れをなしてしまったのは正面に見える「百段坂」の階段だった。いつもなら
得意になって登るのだが今日は何となく嫌だった。ここまでの距離はまだ17kmだが、ここで体力を使ってゴールが
最悪のケースになってしまっては困る。ここは自重しないとと思っていた。幸いあの階段の上には神社だけだと聞き
ホッとした。
 少林寺の山門の前には大きなヤシの木のようなビロウ(?)の木があった。この木は九州宮崎の青島海岸や近く
では御前崎海岸にある木だと思うが確かではない。
 葉の枝を切り落とした所には寄生樹だか宿り木だか、これまた確かではないが別の葉がビッシリ生えていた。
しかしこれだけ高くなると葉を切り落とすにはどうするのだろう。ヤシの実取のように木に登るのでは、途中にある
別の葉が邪魔になるし、クレーンを使うのでは金が掛かる。それとも葉の枝は衰えて来ると自然に落下してくるのか、
またくだらない疑問が湧く。

 境内に白い達磨が祠に入って祀られていた。祠には「南無達磨大師」とあるが謂れは分からない。達磨大師なら
中国嵩山少林寺で、壁に向かって9年も坐禅を続けたと云うがそれが縁? でも白達磨の意味が分からない。
ここは矢張り案内板が欲しいところだ。

   
           百段坂              少林寺山門              白達磨
               少林寺の地図
 本堂に祀られた薬師如来は金色の立像だが、横に立つ両菩薩と十二神将は木彫りの、どちらかと云えば
民芸風な素朴な仏像だった。中でも十二神将たちは武器も持たず武将にはととても見ない。中には驚いたのか、
真ん丸い目をしている仏像や、頬被りをしているように見える神将もある。
更にその下の段には極彩色の衣装をまとい、手には武器を持った小さな十二神将も並んでいた。

 
          位牌堂の中の薬師三尊                         薬師三尊と二十四神将

                         20番福厳寺(小粥家)
 八坂神社の裏にある福厳寺の参道には、サッパリと剪定されたサルスベリの木が並んでいた。これだけあれば
夏には多くの花が楽しめるだろう。しかし毎年これだけ選定されても夏になれば枝が伸び、百日間も長い間花を
咲かすのだから、凄く生命力のある木だ。
 本堂の入口に掲げられている「祇園林」の扁額は山岡鉄舟の書で、明治の神仏分離令で、八坂神社と福厳寺が
分離されるときに書いたと云われる。何故祇園林か、それは本家本元の八坂神社が祇園さんと呼ばれているからか。

 
            20番福厳寺参道                        「祇園林」
             福厳寺の地図
 薬師堂に入るとまず目に付くのは、薬師三尊の両側の棚に並べられている無数の地蔵たちだ。
これは徳川家康と武田信玄が戦った三方原合戦の戦死者を供養する千体地蔵とか。それにしても凄い数だ。
三方原の戦いと云えば、家康が三方原の戦場から浜松城に逃げ帰るときの逸話が残されている。
「徳川軍は三方原の戦いで武田軍に大敗。家康は命からがら逃げる途中、すっかり腹が空いてしまった。
空腹に耐えきれず家康は、近くの農家に飛び込み食べ物を求めたが、農家の老夫婦は
「今煮ているのは、粗末な粥で、とてもお侍にあげるようなものではありません」と断った。
しかし家康はそれでもいいと粥をもらい食べ終わった家康は「いずれ恩返しをする」と言い残し走り去って行った。
その後天下を取った家康は、その老夫婦を召し出し、お礼にと「小粥」(おがい)の姓を与えた。
後に小粥家は庄屋を務め家は大いに栄えた。小粥の家紋は丸に二引。これは粥を食べたとき、茶碗の上に
箸を置いた形だという。」
浜松の伝説より
 福厳寺にはその小粥家の子孫の墓があると聞いたので墓地に行ってみると、有りました。
確かに家紋は丸に二引で、名字は小粥家。話が本当か嘘かは分からないが上手くできている話だ。

 福厳寺の薬師如来は少し剥離しているが風格を感じる仏像だった。また、仏像の下の岩のような台や、三尊の
後ろには踊るような形の十二神将たちも趣がある。古い時代の仏像なのだろう。

 ご朱印を貰うとき昼飯を境内で取る許可を貰った。すると住職がポットに入ったお茶と茶碗、それにミカンを
持ってきてくれて 「寒いのでお堂でどうぞ」 と招いてくれた。
さすがそれは断ったが、お茶とミカンは有りがたく戴いた。ありがとうございました。

  
           千体地蔵                  薬師三尊                小粥家の墓

                         25番白華寺(坂上田村麻呂)
 相変わらず冷たい風が吹き荒れている。幾ら歩いていても体は温まらず、今日もトレーナーもジャンパーも
脱げないでいた。時折太陽が隠れる事もあったが雨の恐れは無さそうだ。ところがどうした事か急に辺りが暗く
なってきたか思ったら雪が落ちてきた。いや違う舞ってきた。いやこれも違う。ぶつかってきたが相応しい。
ともかく小さな雪が風に飛ばされ猛烈な勢いでぶつかってくる。風花?かもしれないが遠くから舞ってくる感じ
ではなく、上空の黒い雲から降ってくるのだから雪なのか。
 今日の降水確率は20%なので当然合羽は持ってきていない。折り畳みの傘は持っているが、こんな風の中では
さすことは出来そうもない。雪の降るのは今年初めて見るので嬉しいが、何と云っても場所が悪い。早く止む事を
願うしかない。
 それから5分後に白華寺に着く頃には雪は止んで陽が射してきた。黒い雲は無くなっていたので、あれが雪雲
だったのか。雪が降り続けば困るくせに何か惜しい気がした。

 25番白華寺(はっかじ)は朱色のお堂だった。境内の案内板を見ると
「平安初期征夷大将軍坂上田村麻呂東征のみぎり、遠江国岩田の海に赤蛇が住み、渡海の旅人に危害を加えていた。
田村麻呂将軍は住民の難渋を救うべく、遠江国小笠郡の潮海寺より薬師如来を歓請し、当地に薬師堂を建立し祈願。
佛力に依り赤蛇は将軍の子を産み、形見として将軍に預け、以後岩田の海の航行往来の安全を約し、二俣鹿島の
椎ヶ脇の渕に沈むと伝えられる。 境内には田村麻呂の子・二代将軍俊光公誕生の産湯の池があります。」

 坂上田村麻呂は日本武尊より馴染みが無いが、富士宮浅間大社を山宮から現在の場所に遷宮した人物として記憶
にある。その将軍がここでは蛇退治をして二代目の子供を産んでいたとは。
早速二代将軍俊光公を調べてみると アレーヒットするのは白華寺と浜松周辺の場所ばかりだ。
しかも将軍の子孫を調べても俊光公なる人物はいなかった。
マー当然といえば当然の話か、赤蛇は将軍とは契りも交わさず子を産んだりと、神話の域を出ないのだから。

 それでもこの辺りの昔話に何かないかと探していると「中遠昔ばなし 袖ヶ浦由来記」にこんな話が載っていた。
「遠江国岩田梅袖ヶ浦で、村人を苦しめている赤蛇の話を聞いた坂上田村麻呂は、船岡山(現浜松市)の館で赤蛇
退治の作戦を練っていた。そんなある夜、美しい女が館をたずねてきた。
 将軍はその女を館におくが、日を送るうちに女に魅せられ、いつしか情けを重ね女は身重になった。女は将軍に
「お産の最中は絶対に部屋の中を見ないでください」と言ったが、将軍は七日目になると好奇心から中を覗いて
みると、そこには大きな赤蛇が赤ん坊を真紅の舌で嘗めていた。
 驚いた将軍が中に入ると赤蛇は女の姿にもどり、自分は袖ヶ浦に住む大蛇であると打明け、赤ん坊に千珠の玉を
握らせると自分は岩田の海に姿を消した。
 それから後、赤蛇丸と名付けられた子は俊光と改名され、再びこの地を田村麻呂と訪れると、岩田の海が大荒れ
しているところに出くわした。俊光が母の形見の千珠の玉を海に投げ入れると海は静かになり、水が引くと渕に
あの赤蛇がいた。将軍父子は、いたわるように上流にある椎河脇の渕に赤蛇を移した。」

へー「部屋の中を見ないでください」なんてまるで夕鶴の一場面のようで中々面白い。白華寺の話と若干違いも
見られるがマーいいだろう。面白ついでに、両方の話に出てくる「椎ヶ脇の渕」も探してみると、天竜川の上流の
鹿島に「椎ヶ脇神社」があり、その由来書にこんな事も書いてあった。

「椎ヶ脇神社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷反賊の征伐のため下向の折、天竜川が洪水氾濫し、磐田の海と
重なって大海となった。東岸に渡ることも出来ず困っていた。その時、住民が筏を作ると将軍は大変喜ばれ、
この地で減水を祈った。これが現在の椎ヶ脇神社祭神である。」

 こちらには坂上田村麻呂が登場するが、赤蛇は出てこない。そのためか昔話というより史実と云った感じがする。

 探しついでに袖ヶ浦由来記にあった浜松の「船岡山」も探してみると、船岡山の案内板にはこんな説明が。
「坂上田村麻呂が蝦夷地で起きた反乱を平定しての帰りに、天竜川袖ヶ浦の西岸の舟岡山にしばらく滞在した。
その間に里の美女との間に子供をもうけた。だがその美女は実は袖ヶ浦に住む大蛇の化身であり、ある日その
正体を田村麻呂に見られたので、子供を残して渕に姿を消した伝説がある。」

矢張りここにも蛇の話が伝えられていた。

 赤蛇伝説はまだまだ続きがあるが今回はこれにて終了。天竜に行けばまた続きの伝説が有るかもしれないから。

         
           雪が降っているのだが                    25番白華寺
               白華寺の地図
 アラアラ赤蛇が龍に変身したのか、頭上に龍を掲げた木彫りの観音さんがいた。
昭和63年に奉納されたものだが、それならせめて龍だけでも赤くした方が面白かったのに。

 赤いと云えばおびんづるさんは何故赤いのだろう? ここのおびんづるさんは破顔一笑の好々爺の趣で中々良い。
でも何処を撫でようか、撫でなければならない所が多すぎるので全体になってしまう。マー止めておこう。

 浜松市の保存樹になっている大杉。樹齢600年とあるがそれほど古木とも大木とも思えなかった

  
       龍女菩薩               おびんづるさん              大杉

大崩・徳願寺尾根縦走

2014-03-24 11:54:01 | 低山歩き
歩行記録     歩行月日2014年3月23日
歩行時間:8時間35分   休憩時間:1時間05分   延時間:9時間40分
出発時間:6時00分    到着時間:15時40分
歩  数:  31、777歩   GPS距離22.9km

行程表
 安倍川駅 0:30> 佐渡山 0:30> 徳願寺 0:35> 仏平 0:15> 梵天山 0:20> 歓昌院坂 0:35>
 駿河峰 0:35> 大鈩山 0:45> 飯間山 0:20> 道の駅分岐 2:00> ?山(三角点) 0:20>
 宇津ノ谷峠 0:20> 道の駅 1:30> 安倍川駅
 
迷走記
 行程表を一見しただけでは単なる徳願寺尾根縦走と見えますよね。ところがよく見ると道の駅への分岐点から
?山(三角点)の間が2時間も掛かっています。ここは通常なら50分ほどで通過出来る場所なのですが-----
 実は今日のコースの目的は徳願寺尾根の縦走ではなく、例年歩いている「静焼アルプス縦走」です。
静焼アルプスと言っても、私が勝手に言っているだけの事ですが、コースは国道1号線の佐渡交差点から登り出し、
通称丸子アルプスと呼ぶ人もいる徳願寺の尾根を旧東海道の宇津ノ谷峠に行く。峠からは蔦の細道の峠を横断し
444m峰の尾根を経由して満観峰に出る。満観峰からは東海自然歩道のバイパスコースを花沢山まで行き、そこから
焼津アルプスと呼ばれている簡保の尾根を歩き焼津駅がゴールのコースです。
このコースは私が毎年歩いている中で海から富士山に次いで過極なコースで、所要時間は12時間掛かっています。

 今朝も始発電車に乗り安倍川駅を6時に出発して歩き始めた。昨年あたりから脚力が衰えた事もあり、今年の
ゴール到着は例年より1時間増の19時着とし、何としてでも明るいうちに山からは出たいと思っていた。
佐渡山、梵天山、飯間山、道の駅分岐と昨年より10分程遅い程度で通過し順調です。
満観峰や丸子富士の見える場所で昼飯を食べ終わり、次の場所は以前迷った事のある要注意場所だと、気を引き
締めて出発しました。

 ところが以前迷った辺りに来ると又も道が無くなって椎茸のホダ木を作っている場所に出てしまった。以前も
道を見失い出た所はホダ木の作成場所だった。ウン!ここは冷静にならなければ。
この場所は”竹林のある山頂付近にきたら左に曲がり、手製の標識を見て、その先で左斜め下の竹林の中の
道を下る”
はずだった。椎茸のホダ木のある場所では、すでに左に曲がる所を通り過ぎている。
これはきっと違う道に入り込んだのだと今来た道を戻る事にした。10mも戻らないで分岐がありそこには
赤いテープの目印もある。しかし分岐の中央にある目印は、どちらに行くか分からない位置だった。
ともかくその道を歩き出したのだ矢張りホダ木のある場所に出てしまい、さっきの道は数m下にある。
目印が有ったのだからと、辺りを探し回るが手製の標識は見当たらなかった。ウーン困った。どうしよう?
仕方ない昼飯を食べた所まで戻ってやり直そう。と先ほどの道を戻り始めた。アレ?モノラックのレールが。
さっきレールなんかあったかな? いや無かったはずだ。これは戻る道を間違えたと慌てて逆戻り。
再度ホダ木の所の辺りを点検するが標識は分からない。
 気持ちが段々焦ってきた。ここで無駄な時間を過ごしていると明るい内に山から出る事が出来なくなる。
矢張り昼飯の場所まで戻ろうと、また同じ道を戻りだした。さっき通った道?どうも自信が無いが時折目印も
あるし、道もしっかりしているから大丈夫だろう。でもおかしい。
20分も歩いただろうか、やっと待望の標識が2枚もあった。だがそこには今歩いて来た道の歩を指して”飯間山”
となっている。エ! だって俺は飯間山は通過してきたのだからそんな馬鹿な事はない。
後1枚の標識は”明治トンネル”となっていて方向を指す矢印は両方についていた。そんな馬鹿な、これは
誰かが悪戯で矢印を追加したのだろう。しかし飯間山の標識は今までもお世話になったいる岡部のSさんの標識
なので信頼はおける。さてさてどうしたらよいのか。
更に標識の場所は分岐になっていたのでそちらにも行ってみると何と三角点があった。若しかしてこれは?山の
標識のある三角点か、と思ったが?山の標識は無かった。
ではこの三角点は何処の三角点か? ない知識を絞り出すが、徳願寺尾根周辺で未確認の三角点は大鈩山の
中腹の三角点だけのはずだ。でも尾根の北側の方はあまり自信が無いが。
分岐した道は三角点まででその先は踏み跡も無かった。仕方なく標識まで戻り林の中を覗きこむと、道は急な
下り坂になっていて、底の方には白っぽい建物のような物も見える。しかも車のエンジン音が高く聞こえてきた。
ウン!これはヤバい。あれは新東名の静岡SAに違いない。尾根を間違えてしまったのだ。慌てて引返した。
道々色々考えたが何故新東名の方に来てしまったのか、いくら考えても納得できなかった。しかし現実にSAが
有ったのだから仕方ない。グズグズしていたら今日の予定を達成できなくなる。

 ホダ木の場所に戻り再度点検をする。ここには伐採に使うような道具や油もあり椎茸のホダ木を作っている
現場で、今日は日曜日なので作業が休みなのだろう。作業している人がいれば道を聞けたのに。
結局何も分からぬまま一番最初にこの場所に来た道に戻り引返そうとしたとき。上でガサゴソ足音がした。
振り返ってみるとトレランの格好をした若い男性が立っている。
「どちらから来たのですか?」
「宇津ノ谷峠です」
「エッ!宇津ノ谷峠ですか、私はそこに行きたいのですが道が分からなくて」
などと話をしながら宇津ノ谷峠へ
道に案内してもらった。それがナントナントたった今引返して来たばかりの道だった。
「実はこの道はさっき三角点の所まで行って引き返してきたのですが」
「間違いないですよ、私は毎週ここは走っているし、今もこの道から来ました。あの三角点を下ってガレ場を
過ぎれば峠ですよ。ここは伐採していて去年と道の状態が変わってますが、ここら先は同じです。」

フー良かった。しかし去年と同じ道が分からなかったのだから情けない。

 標識の場所まで戻り、今なら飯間山の矢印も納得できる。でも三角点の?山の標識はどうしたのだ。誰かが
ふざけた標識だと取り外してしまったのか。
林を下ると正面の景色は見慣れたものだったし、新東名のSAと思ったのは国道1号線沿い建物だった。
アーアここまで下れば分かったのに----- でもさっきは今日静焼アルプスを完歩する事だけを考えていたので
訳も分からずこの急坂を下るのは無理だった。
ここで1時間以上ロスをしたからには静焼アルプスは諦めなければならい。このまま進めば焼津駅到着は8時
過ぎになってしまうだろう。止めた!止めた!もう今日は宇津ノ谷峠で止めよう。
だいたい大崩山塊をホームグランドにして全ての標識のある道は歩くと豪語したり、しかも過去何度も歩いて
いる道で迷子になるとは何とも情けない。それに山でこんな失敗をしたのは初めてだ。アー情けない!

でも、とまたもや弁解が頭をもたげる。今日が先を急ぐ静焼アルプスでなければ、例え道が分からなくなっても
標識や下の建物が見えたら、きっと何だろう?何処だろう?と持ち前の好奇心で先に進んだと思う。
そうなればこんな失敗ではなくて、新しい道を見つけたと喜んだかもしれない。
何は兎も角今日は宇津ノ谷峠で終わり。次回? いやとても今は考えるのも嫌だ。

遠江四十九薬師霊場2-2

2014-03-22 15:33:43 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         22番心造寺(西郷局)
 大厳寺を過ぎても西側は全てJR関連の土地のようで、この中に新幹線の浜松工場があるのだろうか。
太い雄踏街道を越すと道は賀茂真淵記念館に向かう急な坂になった。短いけどかなり急な坂を登りきると、
記念館の入口と別れるのだが、今日は当然寄る気は無い。だいたい賀茂真淵と云う人も、江戸時代の国学者で
万葉集の研究者、程度の知識しかないし、浜松出身の事も何となく知っている程度だ。

 時折東の方向にアクトタワーが見えるのだが、木や屋根が邪魔をして写真を写す事が出来ない。前回の遍路では
北に見えたタワーだが今回は東に見える。それが今日の終わりには南に見えるだろう。この様な目標物が有ると
自分の位置関係が分かるので歩き甲斐も増す。

 オヤ真っ赤な神社風な建物が見えてきたが、あれは一体何だ、と手持ちの地図を見るが載っていない。ただその
奥の方に鴨江寺と書いてある。若しかして?と思い近づいてみると鴨江観音だった。地図上では歩く道と鴨江寺の
卍マークは離れているが、これは鴨江寺が広い境内を有しているからで、実際は歩く道とは隣接していた。
鴨江寺は前回紹介した比叡山の僧兵と騒動を起こした事もあり、一度寄ってみたいと思っていたが、想像していた
真言宗鴨江寺と、今見ている鴨江寺とは大きな隔たりを感じた。それでも赤い山門を潜り境内に入ると、またもや
赤い大きな建物がある。これでこの寺への興味は半減してしまい早々に境内から出てしまった。

 私の親は家の近くの寺の墓地を購入したため、宗派を変えるくらいの無信心者だった。その子供の私も推して
知るべき程度だが、それでもスタンプラリー感覚の四国遍路をしたせいか、真言宗には親しみを持っている。
今も静岡県内の霊場巡りをしていて、山奥で真言宗の寺に出合うと好感を感じる。
 だが四国のお礼回りで訪ねた高野山で、大旅館のような立派なお寺の宿坊を見てガッカリしてしまった。最近も
高野山真言宗で投資による損失が問題になったり、朝鮮総連の建物を真言宗寺院の住職が落札したが不調に
なった問題も発生している。どうも真言宗は金持の観光寺と、貧乏な山寺がハッキリ分かれているのではないか。
そしてこの鴨江寺は金持の観光寺だ。と勝手な想像をしてしまった。

        
             鴨江寺成田山不動堂                アクトタワーが東に見えた

 22番心造寺は大きな五社神社の隣にあった。両側の建物が接近した狭い入口の奥に赤い山門が見えていた。
薬師霊場の看板は、1番で見た金属製の横書きの物は時々しか見なかったが、白地に縦書きの大きな看板は
大概の札所にあった。どちらの看板にしろ、それと赤い幟を見ると札所に着いたとホッとする。

 心造寺の開基は徳川秀忠の生母の西郷局で、寺の正式名称は「先照山西郷院心造寺」だという。
そして西郷局の戒名は「心造寺殿松誉貞寿大姉」となっていた。
しかし西郷局の墓は駿河百地蔵で寄った静岡市の宝台院にあり、宝台院のHPには戒名は「宝台院殿一品大夫人」
となっている。また「徳川将軍家墓碑総覧」には、当初「龍泉院殿松誉貞樹大姉」と贈諡され、その後息子秀忠が
二代将軍になったので、従一位の「宝台院殿松誉貞樹大姉」と改諡号されたとあった。

 さてさてどれが正しいやら門外漢の私には判断がつかないが、素人目には墓碑総覧の説が正しそうに思える。
しかし菩提寺の宝台院のHPが間違っているとは思えないし-------
たしか宝台院に寄ったとき見た西郷の局の墓には、戒名などは彫られてなかったと思う。

 本堂に祀られている薬師三尊をお詣りする。ここの薬師如来は小振りな立像だったが、それより気になったのは
三尊を祀る台に彫られていた丸に十の字の紋だった。この寺は薩摩に縁があるのか ---------

 
             22番心造寺                            心造寺の薬師三尊
               心造寺の地図
 心造寺の境内の横は切通しになった道を挟んで五社神社の社が見えていた。中々大きな神社で寺に寄る前に
見てきた神社の由緒書には「天正7年4月7日徳川秀忠公浜松城内にて誕生、産土神として崇敬し、社殿建立す。
大正3年国宝建造物に指定されるも、昭和20年戦災に依り焼失せり。」

静岡市もそうだが浜松市も戦災により街中は焼失してしまったようだ。

 心造寺の裏には名園があると案内されていたので、回ってみたが高い塀の扉は閉められていて中を覗く事は
出来なかった。代りに目に付いたのが宝珠を捧げ持つ地蔵さん。では穴地蔵かと思ったが、地蔵の他にも狐が
何匹かいる。お稲荷さん? かもしれないな。

 
              隣の五社神社                          穴地蔵?穴稲荷?

                         21番宗源寺(迷い道)

 心造寺の前の道を北に行くと太い道に合流した。その右側をみると大きな道路標識に天竜と方面とある。今日の
最終予定は天竜なので深く考えずに右の道を下る。更に少し下ると連雀交差点に出て天竜方面の左に曲がる。
この連雀の交差点は旧東海道の時に通っていて、その時はこの交差点を東から来て南に曲がったが、今日は
西から来て北に曲がった。賑やかな通りをキョロキョロしながら歩くと「浜松城大手門跡」の案内板もあった。
次の市役所前交差点に付近の案内図が建っていたので次の行先を探してみた。だがおかしい。心造寺を出る時
次の目印は開誠館高校と思ったのに、この付近や前方に開誠館高校は載っていなかった。そして手持ちの地図には
連雀も市役所前の交差点は無かった。ウーンまたもややってしまった。仕方ない最初に出合った太い道まで戻ろう。
 最初の交差点の紺屋町に戻り手持ちの地図を方角を合わせて置いてみる。アーアさっきは天竜の案内に誘われて
右に曲がったが開成高校は反対の左側方面だった。今日は朝一番い間違ったので注意をしようと思ったのに、又もや
やってしまった。今回の間違いは往復で1km程度で済んだのが救いだったが以後注意しよう。

 姫街道と表示があるこの道は、東海道の脇街道で浜名湖を迂回して三河の御油宿に通じる街道だ。
以前姫街道は磐田の見附宿から御油宿まで歩いたが、この浜松からの道は三方原の追分で見付からの姫街道に
合流している道で、云わば姫街道に通じる街道と言った感じの道だ。この道の行先は標識には引佐方面とあるが、
引佐も天竜も浜松の北にあり、まさか道が正反対に別れるとは思わなかった。

 姫街道を歩き出すと右側に変わったデザインのキリスト教教会が見えてきた。後には時計台も見えている。一応
写真を写して先に進むと、何と教会の隣は結婚式場の出雲殿だった。するとあの十字架の建物は結婚式場なのか。
産まれた時は神社に宮参りをし、結婚式は教会で、そして死んだときは寺でやる。私の宗教観もそうだが、日本人
全体の宗教観も少々狂っているようだ。

 姫街道と別れ、台地を下った所にある21番宗源寺は、木に覆われた参道の奥にあった。

        
           教会?式場?                      21番宗源寺参道
               宗源寺の地図
 宗源寺の境内の中には動物の顔を模した幼稚園のバスが2台も停まっていて、その横に赤い幟の並ぶ薬師堂が
ある。まず観音堂をお詣りして中を覗きこむと、赤い提灯が幾つもぶら下がっていて、中央にある5個の提灯には
「開運不動明王」
と書かれていた。その横は「南無弘法大師」とあり、一番外側の2個が「南無薬師如来」となっていた。
どうやらこの寺での薬師如来の地位は低いようだ。

 
              薬師堂?                       薬師堂内部

                         23番天林寺(十三哲)

 宗源寺の横にあった幼稚園は蜆塚幼稚園で、この辺りの地名は蜆塚。蜆塚遺跡の標識もあると云うことは、
あの悪名高かった佐鳴湖が近くにあると云うことか。佐鳴湖は何年か前までは汚染度全国ワースト1で有名に
なったが、最近では聞かなくなったので汚染は改善されたのだろうか。
マー何れにしろ遺跡も佐鳴湖も今日は行く気は湧かない。

 宗源寺から23番天林寺へは住宅地の中の細い道を辿って行った。途中西来寺や普門寺などの横を通るが、
藪だけで寺の建物は見えない。けれど随分広い境内のように思える。
住宅地の中の道が急に車が通れない道になった。本当にこの道だろうか心配しながら進むと、下には舗装路が
見えている。マーいいか、と狭い道を下って舗装路に降りると、そこはインターロッキングが敷かれた道だった。
遊歩道?かもしれないが少し行った先はトンネルになっている。その横には階段もあり上にも建物が見えていた。
地図は近くに浜松文芸館があるとだけ分かるが、階段やトンネルの表示は無い。ここでもマーいいか、でトンネル
を潜ってみた。トンネルの出口に「懐かしの奥山線」とあり軽便の写真が飾られていた。どうやらこの道は浜松
から引佐奥山を走っていた軽便鉄道の跡地なのだろう。
トンネルを抜けた先に浜松文芸館の標識があり、ここからホテルコンコルド、浜松消防本部など目標になる建物が
あり天林寺には容易に着いた。

 
             この道で大丈夫だろうか?                    奥山軽便鉄道跡

 イヤー!これは大きなお寺だ。天林寺のある高台に登りビックリした。山門は入母屋造りの楼門で、この様に
大きな山門は静岡県内では初めて見た。HPを見ると山門と本堂は市内随一とあるが、文化財の事は書いてない。
これは古い建物の一切が昭和20年の戦災により全焼してしまったからだった。
 天林寺のHPを見ると天林寺も宗源寺も曹洞宗で、途中にあった普門寺の門弟十三哲が開創の寺だった。
そう云えば中部地方には榛原に曹洞宗の石雲院があり、その寺の高弟七哲が全国に800の末寺を開いたと云う。
静岡県に曹洞宗が多いのは、この様に優秀な僧が多かったからなのだろう。

 
             天林寺山門                     23番天林寺
               天林寺の地図

 広い本堂の左側に薬師如来は安置されていて、その左には花山観音と弘法大師、右には手引観音なる仏像が
お祀りされている。厨子に入った座像の薬師如来と、厨子の扉に半分隠れれるように日光・月光菩薩がある。
何回も書いて申し訳ないが、曹洞宗のお寺になぜ他宗の教祖の像があるのか。このようにお祀りすということは
その人の教えを信じる、ということにならないのだろうか。どうも理解できない。
因みに弘法大師は「浜名湖岸 新四国八十八ヶ所 第五十番」、手引観音には「第二十七番 浜松手引観音」とあり
薬師如来には勿論「遠江四十九薬師霊場 第二十三番 真徳山天林寺」とあった。

   
        花山観音                 薬師如来                弘法大師

遠江四十九薬師霊場2-1

2014-03-20 11:54:42 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         17番広隣寺(行き過ぎた)
 1回目の遍路で予定より3寺少なく終えてしまったので今日は始発電車で出発した。
高塚駅に降りると前回にも増して冷たい風が吹き抜けていて、震え上がってしまう。建物の陰に隠れて準備を
したが、こんな日は歩き出す意欲は盛り上がらざず気分は低調。
 今日の予定は終点となる駅の候補が幾つもあり決めかねていた。理想は今回の霊場の中で一番北にある
天竜阿蔵の30番まで打って、天浜鉄道の豊岡駅をゴールにしたいのだが、推定距離が42kになってしまう。
これでは実際の歩行距離は45kmを越えてしまう、と始発電車で来たのだが-------
 次の候補は同じく天竜の29番を打ち、天竜二俣駅がゴールだが、多分このケースになると思える。
最悪は28番岩水寺を打って二俣本町駅ゴールだが、マーこんな事にはならないだろう。
いずれにしろ家康の長男信康が切腹した二俣城は見学する余裕は無さそうだ。

 強い風は幸いな事に西風で、東に向かう私の背中を押してくれる風だった。昨夜の天気予報で
「最高風速は30mから35mで人が立っていられないくらいの風」と言っていたのに、何故か強風警報でなく
強風注意報だった。
 静岡県の遠州灘沿岸地方では強風注意報は左程珍しい事ではなく、冬の風物詩といったところだ。ただ
今日の風は強いだけではなく、3月半ばなのに冷たすぎる。お蔭で歩き出しても体は温まらず、ポケットに
手を入れ肩をすぼめ俯いて歩いてしまった。
 出発時に手持ちの地図で17番広隣寺の場所を確認すると、線路と平行に続いている道を東に進み、太い
道に出たらその道を横断し、少し南側の道を暫く行った所にあった。太い道の手前には可美小学校がある。
寒いので自然と歩きは早くなる。だが一向に可美小学校が出てこない。何故だと疑問に思いだした頃ようやく
太い道に出合った。きっと俯いて歩いていたので小学校を見落としたのだろう、と太い道を横断する。
南寄りの小道に入って少し進んだが、手持ちの地図と実際の道とではカーブの曲がり具合が一致しない。
更にもう1枚のメモを見ると、高塚駅から広隣寺までは1.9kmとなっている。だとすれば20分も歩けば着く
はずなのに、既に駅から40分も歩いている。これはおかしい。絶対間違えたのだ。とスピードを緩め、誰か
いないかキョロキョロしながら歩く。幸い玄関先を掃除している女性が目に付いたので、挨拶をして広隣寺の
場所を聞くが知らないと言う。では可美小学校はと聞くと「ズート西」だと言う。困った顔をした私の手元の地図を
見た女性が「アラこの二ツ御堂は、ここから西に行った所に有りますよ」と言いだした。ナニー 二ツ御堂は
広隣寺の次の札所で広隣寺より東にある。それが今いる場所は、その二つ御堂より東側だという。
寒いからといって俯いて歩いていた罰が当たってしまった。情けない。

 二ツ御堂の場所を聞き、そこから逆に広隣寺に行く事にした。
横目で次の次の札所を見ながら西に向かう馬鹿らしさ。戻り始めて20分ほどでようやく広隣寺着いた。
多分距離にして往復3k位はロスをしただろう。これで今日予定の豊岡駅ゴールは消えた。

    
  何故かマンホールの蓋の絵柄がツバメだった                 広隣寺
               広隣寺の地図
 時刻はまだ7時半で早かったが、ご朱印をお願いして本堂でお詣りをさせてもらった。本堂に祀られているのは、
薬師三尊と十二神将で、他の寺と同じだったが、違うのは薬師如来が座っている事だ。しかもその姿は男性的で
いかにも仏様、如来様といった感じがする。予備知識では薬師如来は座位で菩薩は立位とあったが、今まで
お詣りした薬師如来は全て立位だった。そのため菩薩と同じような感じで、如来と云うより観音さんの雰囲気が
強かった。何故如来の立位が多いのか考えてみたが、多分お祀りしてある場所の関係ではないか。
如来を座位にして隣の菩薩より大きくするには横幅を広くしなければならない。その点、立位なら上に延びても
横は左程広がらないので場所を取らない。狭い沙弥壇のでは立位の方が都合が良いのだろう。

 

                         18番二ツ御堂(言い伝え)
 先程歩いたばかりの国道1号を逆戻りをして18番二ツ御堂に行く。この道は旧東海道なのだが国道1号線と
なったため過日の面影はないが、それでも所々に名残の松が残っていた。
 18番札所二ツ御堂には奥州の覇者藤原秀衛と愛妾の話が伝えられていた。
「平安時代末期藤原秀衛が京に参内したが大病を患ってしまった。それを聞いた愛妾が京に向かって、この地を
歩いているとき秀衡の悲報を聞いた。嘆き悲しんだ愛妾はここにお堂(北堂)を建て秀衡の菩提を弔っていたが、
自身もここで死んでしまった。だが秀衡の死は誤報で、秀衡は病気が回復し奥州に戻る事にした。そしてここを
通った秀衛は愛妾の話を聞くと感激して街道を挟んでお堂(南堂)を建て薬師如来を祀って愛妾を弔った」
という。
フーンでも死んだ人に病気回復の薬師如来では少々遅すぎるのではないか、と茶々を入れたくなる。
 15番地蔵寺から18番の二ツ御堂まで札所の宗派が連続して臨済宗方広寺派だった。さすが地元だけの事はある。

 
              二ツ御堂(南堂)                        二ツ御堂(北堂)
              二ツ御堂の地図

                         19番大厳寺
 19番大厳寺(だいごんじ)へは二ツ御堂から旧東海道を歩く。途中に江戸から66里目の一里塚や天台宗と
真言宗の僧兵が争った場所に「鎧橋」の案内板も建っていた。それによると
「平安時代末期に戒壇設置の件で、比叡山の僧兵が地元の鴨江寺を攻めて来た折に、鴨江寺の軍兵がここで
鎧を着用して迎え撃ったという。その時の双方の戦死者千人を鎧橋の近くに葬ったと言い伝えられている。」

この中にある戒壇設置とは「戒律を授ける(授戒)ための場所」だそうだが、簡単に言えば「僧の資格を認める
機関」
ではないか。日本では最初は国分寺が僧を管理していたが、822年勅許で延暦寺に戒壇が建立された。
そのため延暦寺では既得権を守るため他派とたびたび騒動を起こしている。
鴨江寺も「平安時代には三百余の寺々があり勅許を得ずに戒壇を作り殷盛でした。このため比叡の僧と戒壇の
ことで争い戦をした」
と伝えられています。

 旧東海道と別れ新幹線のガードを潜ると広大な敷地に「西浜松駅」の看板が立っていた。西浜松駅は初めて
聞く名前だが、きっとJRの貨物駅なのだろう。浜松は静岡県一製造業が盛んで、車やバイク、楽器など日本を
代表する工場があるのだから大きくて当然なのだろう。
次にあった在来線のガードを潜りぬけた所に大厳寺はあった。だがその山門は閉じられていた。ウンどうしよう?
一瞬困ったがよく見れば通用門が開いていた。アー助かった。
通用門から境内に入ると正面に宝形造りのスッキリとした水色の屋根の本堂が見える。庭園もその本堂にマッチ
した植込みだった。この寺も蘇鉄が植えられていた。

 
              大厳寺山門                           大厳寺本堂
              大厳寺の地図
 本堂に上がりお詣りをしたが薬師如来は見当たらず、代わりにあったのが写真の仏像。
残念ながら名前は分からないが、左側の仏像は装飾の無い衣や螺髪、白毫があるから如来と思のだが。
一方右の仏像は宝冠を被り、右手に水瓶、左に宝珠を持っているが何観音か分からない。
幾度となく霊場巡りをしているが、実際に仏像をお詣りする機会は多くないし、靴を脱ぐのが面倒で自らその
機会を放棄する時もある。こんな事では一生仏様の名前は覚えられないだろう。

          


    ------------------------------------------------------------------------
 昨日(19日)4回目の遠江49薬師霊場巡りに行き結願しました。

遠江四十九薬師霊場1-5

2014-03-16 17:14:44 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:6時間30分   休憩時間:3時間15分   延時間:9時間45分
出発時間:7時00分   到着時間:16時45分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 磐田駅 0:15> 1番 0:20> 2番 0:10> 3番 0:20> 5番 0:30> 6番 0:25> 7番 0:40> 8番
 0:05> 9番 0:25> 10番 0:35> 11番 0:35> 12番 0:30> 13番 0:10> 14番 1:05> 16番
 0:20> 15番 0:05> 高塚駅

                         14番成金寺(馬頭観音)
 14番成金(じょうきん)寺は馬込川の左岸にある寺で遠州33観音の札所にも指定されている。そう聞けば
何やら古刹を思い浮かべるが、実際は寺名の別読みの「なりきん」寺の方がイメージに合う感じがした。
何しろ冠木門を潜り境内に入ると右側に半跏座の地蔵が鎮座している。その地蔵の名前は「財宝地蔵」とある。
成金寺の財宝地蔵とくれば一攫千金を夢見る金の亡者の信仰を集めそうだ。地蔵さんを良く見れば前回来た
時には無かった金色の鐘が増えている。これは大儲けして成金になった信者が寄進したのかも。(ご免なさい)

 沙弥壇の上には薬師三尊と十二神将、他にも多聞天や広目天、増長天、持国天などの四天王も並んでいる。
後で知ったのだが、この寺には他にも馬込川から出土した一木造の観音像も安置してあるという。残念ながら
見過ごしてしまった。

 
               成金時山門                         薬師三尊                  
               成金寺の地図
 この寺は昭和29年に火災にあった以後、昭和50年代に本堂が建てられるまでは荒れ放題の寺だったという。
それが今では本堂もさることながら、境内に置かれた数々の石像。それにも増して立派なのは境内左手にある
「七観世音堂」だった。その中には千手観音を初め、馬頭、十一面、聖、如意輪観音など七観音が安置してある。
それも自然石をくり抜き、浮かし彫をしてある石像で見応えがある。中でも馬頭観音は、ここの馬頭観音と道端で
良く見かける馬頭観音とは、まるで違う観音様のように見える。
馬頭観音を調べると「像容は忿怒相で体色は赤、頭上に白馬頭を戴き、三面三目八臂」(ウィキペディア)とあるが
ここの馬頭観音は彩色こそ施されていないが後はその表現通りだった。普通道端の馬頭観音は頭上に馬の顔が
あるので馬頭観音と分かるが、観音さんの顔立はおとなしい感じのものが殆どだ。しかもその設置する目的は、
当時、馬は移動や運搬に使われる貴重で高価な財産だった。その馬が死ぬと馬頭観音を祀り供養をしていた。
故に顔立ちは他の観音と同じように、穏やかな表情の方が似合っていたのだろう。
 しかし本来の馬頭観音は「衆生の無智や煩悩、諸悪をまさに大食の馬の如く食らい尽くす菩薩である」らしい。
それなら忿怒相なのも納得できる。だがあの小さな石仏に怒った顔の観音さんを彫るのは難しかったのだろう。

 
               七観世音堂                         馬頭観音

                         16番富春院(竜宮城)
 16番富春院の山門は竜宮城の門を思わせる感じがする。こんな山門を四国霊場でも見た事がある。そうだ
土佐の津照寺(しんしょう)だ。何故記憶にあるかというと、あの寺の住職が特徴がある人で、納経帳に記入
しながら常に1番札所霊山寺の悪口を言っていた。曰く「遍路は1番からやらなくてもいい」とか「お礼回りは
1番ではなく高野山に行けばよい」
などと。聞いていると面白が時々話を振ってくるので油断はできなかったが
ここ富春院はどうだろう。
 この門のような形は楼門と呼ぶのだろうか、それとも鐘楼か。いや2階には鐘が見えないので楼門ではないか
など自問自答しながら境内に入ると、この寺の境内も石仏にオンパレードだった。
その中の「高祖弘法大師像開眼供養塔」と書かれた像は、弘法大師お馴染みの網代笠をかぶった像だった。
こんな像があるならこの寺の宗派は真言宗だろうと思っていたら、何と臨済宗だった。本当によく分からない
何故臨済宗が真言宗の教祖の像をお祀りするのだろう。

 
               富春院山門                         富春院本堂
               富春院の地図
 境内には石仏が多かったが本堂の中にも仏像が所狭しと並べられていた。余りに多すぎて雑然と感じがして
結局薬師如来の印象は無くなってしまった。果たして拝観したのかどうか-----

 
                              富春院の仏像達


                         15番地蔵院
 15番地蔵院はこの霊場の一番西に在りJR高塚駅の近くにあった。今日の予定は地蔵院も入れて後4寺
残っている。時間は4時25分でここをお詣りすれば4時半を回ってしまう。さてどうしよう。
ご朱印を貰うには5時までには札所に着かなければならないが、とても3寺は廻りきれないだろう。と言って
1寺行くにしても高塚駅から離れて浜松駅に近づいてしまう。そうなると次回は今日帰る道をまた浜松駅から
歩かなければならなくなる。エイ!止めた。今日はここで打ち止めにしよう。

 山門前には旧可美村で建てた案内板があった。それによると地蔵院は臨済宗方広寺派で、徳川家康の正妻で
家康の嫡男の信康を産んだ築山殿の守り本尊「築山御前腹篭地蔵尊」があるとなっている。
この霊場巡りでは信康が切腹をさせられた二俣城の横を歩くので、時間があれば寄ってみたい気はしている。
そしてその信康の母親の持っていた地蔵尊なら、お詣りして行こうと思った。
 山門も本堂も庫裏も完成間際のように新しく、その所為か境内までは手が回っていず芝生を張ってあるだけだ。
それが却ってスッキリした感じがした。でも続けて石仏が一杯ある寺を見てきた目には、少将淋しい感もしたが。

 
               地蔵院山門                          地蔵院本堂
               地蔵院の地図

 本堂に入り薬師三尊の閉められている厨子の前でお詣りをしていると住職が厨子の扉を開けてくれた。
姿を見せた三尊は金色の仏像でこれも新しい仏像のように見える。私の購入した「薬師のあるふるさと遠江」
には、「むかし浜の猟師の網に掛かった薬師如来」となっているが、とてもそのような代物には見えない。
マーそれはそれとしてこの薬師三尊にお詣りしよう。
 住職に日光と月光の像の違いを聞くと「私どももよく分からないので持ち物で判断しています」との事だ。
要は菩薩が持つ蓮の葉の上の部分が、如来の側に行くように並べるらしい。蓮の葉の上にある光輪の中に
三足烏や兎が描かれていると言う説もあったが、ここからでは光輪の中は小さくて見えなかった。

  
         月光菩薩              薬師如来               日光菩薩

 天狗のお面が置いてあり、その立札には「半僧坊大権現」とある。これは地蔵院が方広寺派の臨済宗なので、
本山の奥山方広寺の守り神、半僧坊もお詣りしているのだろう。
 僧侶を描いた絵があるが、これは方広寺の開祖で後醍醐天皇の皇子の姿だろうと思っていたが、後で調べて
みると、この髭の僧侶は先代の住職だった。寺を改築した功労者だったのだろう。
 これはこれは、ここまで来ると仏様とは思えないが、立札も「薬師瑠」までしか読めない。下の部分は「璃光如来」
となっていると思うが、前の額が邪魔をして見る事が出来ない。これが網に掛かった薬師如来なのだろうか?
説明がないので分からないが、これがそうなら確かに新しい仏像も欲しくなるだろう。

  
         半僧坊大権現           先代住職               薬師如来木像

 地蔵院を出て高塚駅に向かい4時45分到着。
今日は一日中寒い日で、しかも冷たい風が吹き荒れていてトレーナーもジャンパーも脱ぐ事が出来なかった。
今までも一日中こんな格好で歩く事はなかったのだから、いかに寒かったと云うことだ。
それでも高塚駅では冷たい氷結で無事終了の乾杯をあげる。途中で地図を風で飛ばされてしまい、苦労を
したが代替の地図で何とかなった。
これを薬師如来のお蔭とは言わないが、色々な偶然が助けてくれている。感謝!感謝!だ。

遠江四十九薬師霊場1-4

2014-03-15 16:56:20 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:6時間30分   休憩時間:3時間15分   延時間:9時間45分
出発時間:7時00分   到着時間:16時45分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 磐田駅 0:15> 1番 0:20> 2番 0:10> 3番 0:20> 5番 0:30> 6番 0:25> 7番 0:40> 8番
 0:05> 9番 0:25> 10番 0:35> 11番 0:35> 12番 0:30> 13番 0:10> 14番 1:05> 16番
 0:20> 15番 0:05> 高塚駅

                         11番龍谷寺(鉦)
 次の龍谷寺への道は大きな案内図と寺の所在地のメモに頼るしかなくなった。そうして出した結論は10番から
先ずJR天竜川駅を、次に新幹線の線路を目指し南下する。新幹線を越した所で飯田小学校を聞いてから、その
近くにある龍谷寺を目指す事にした。注意するのは決して国道1号線バイパスを越さないようにすることだった。
天竜川駅西側の歩行者用跨線橋を渡る前までは不安だったが、跨線橋を渡り太い道に出てからは快調になった。
新幹線のガードを潜り最初の交差点の所で飯田小学校の場所を聞くと「次の信号をを右折した所」だった。
ついでに龍谷寺も聞くと「小学校の前」にあると言う。言われた通り行くとあっけなく11番龍谷寺に着いた。
これならわざわざ手持ちの地図を作る必要も無さそうだと不遜な考えも湧いてきた。

 
                龍谷寺本堂                          龍谷寺薬師堂
               龍谷寺の地図
 遠江49薬師の赤い幟が林立する薬師堂をお詣りして、庫裏に向かうとその横に接待所があった。
中に入ると涅槃物が祀ってあり、その枕元に7段の鉦が立てかけられていた。鉦をそばにあった鉄の棒で叩くと
それぞれ違う音階で鳴る。だがドレミの音階とは違っていて、声明の時にでも使う鉦なのだろうか? 
声明といえば念仏でさえ複数の僧侶が併せて唱えると荘厳な感じになるのだから、節がある声明なら更に
敬虔な雰囲気になるに違いない。
以前読んだ小説に、京都大原では声明が盛んに行われていて、声明が行われる時は女性信者が大挙押し寄せ
騒ぎになっという。そして必然的に風紀が乱れ、結果声明は制約されたとあった。
昔も今も変わらないのは、女どもの芸能人好きだ。いや芸能人と云うより有名人好きなのだろう。
政治家やスポーツ選手何でも、時の有名人が好きなのだから始末に負えない。

 境内に白砂を敷いた一画があり、そこには小さな鬼が相撲をしているジオラマがあった。土俵の上には褌姿の
鬼が相撲を取っていて行司もいる。土俵の四隅には声を張り上げ声援している鬼たち。岩の上には雷なのか、
肩に太鼓を担いだ鬼もいる。一体これは何を表現したいのだろう。

 
                涅槃仏                           小鬼の相撲?

                         12番頭陀寺(胡瓜封じ)
 12番頭陀寺も同じ方法で歩く事にした。龍谷寺前の道を川を越すまで西に行き、川を越したら大きな交差点を
左折して南下する。今度は国道150線を越した所で相生小学校を聞いて、その近くの頭陀寺を探す予定だった。
それがどういう訳か川を渡る前に南下をしてしまい完全に現在位置を見失ってしまった。訪ね訪ねようやく頭陀町
に辿り着くと細い道の入口に「敕定額頭陀寺薬師如来 南西1丁」の碑が建っていた。意味は分からないがここから
西へ1丁(100m)も行った所に頭陀寺があるのだろう。フ-助かった。

 頭陀寺の門前には「頭陀寺薬師道」の石碑もあり、この辺りの地名は頭陀寺町なのをみると、かっては大きな
寺だったのだろう。調べてみると平安時代には真言宗の大寺で頭陀寺城と称されていたとある。海から引上げら
れた薬師如来は、時の天皇から勅額「青林山」を賜り「勅願寺」になる。その後「定額寺」にも指定されたとあった。
聞き慣れない言葉が色々出てきたが「勅願寺」とは「時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを
祈願して創建された寺」
これはなんとなく分かる。
「定額(じょうがく)寺」には色々説があるようだが、頭陀寺に相応しいのは「国家が寺号を“定”め、その寺名が
書かれた“額”が授与された“寺”院のこと」
(ウィキペディアより)とあった。
ただ「敕定額」は分からなかったが「敕(ちょく)」と云う字は「みことのり」の意味があるので、それなら
「国家が定めた事を天皇が認めた寺」と云う事なのか。何か重複する気もするが左程の違いは無いだろう。

         
        敕定額頭陀寺薬師如来                     頭陀寺山門
               頭陀寺の地図
 参道横には如何にも真言宗らしく弘法大師の立像が建っていて、横にはお地蔵とお不動さんが並んでいる。
本堂の横に廻ると「きゅうり封じ」の案内板と小さな浅い井戸のような物があった。
「古来より胡瓜には不思議な力があります。胡瓜封じとは、その胡瓜を自分の身代わりに見立て、邪気や病根を
護符と共に封じ込め持ち去ってもらう事です。胡瓜を切ると粘液ですぐ切口を塞ごうとしますので、邪鬼などを
封じた胡瓜は土に埋めるか川に流すなどして、速やかに病根などの消滅を願うものです。
 胡瓜に封じるのは、胡瓜が人間の立ち姿に似ている事と、胡瓜を輪切りにすると切口が転法輪に似ていること
からです。本尊は不動明王です。転法輪とは仏具の一種です。」
 
回りくどく行っているが要は胡瓜を身代わりにして、邪鬼を転生してしまうというのだろう。初めて聞いた話だが
この風習が広まらなかったのは説得力が少ないせいだろう。
小さな井戸は、この中に身代わりの胡瓜を埋めるようだ。なお、胡瓜の一願一本の祈祷料は千円だって。

 
                 頭陀寺本堂                          きゅり封じ

                         13番神宮寺(アクトタワー)
 14番神宮寺からは2枚目の地図に載っているので、もう目的地が分からなくなる事はないが、手持ちの地図を
見ながらだと逆に間違ってはいけないと細かい事が気になってしまう。
距離は若干伸びるがさっきの方法も悪くは無かった。

 途中に揚子公園と云う大きな公園があり、そこからアクトタワーが良く見えていた。今はアクトタワーは北の方角に
見えているが、今日の終わりには東に見えるだろう。そして次回は南の方角に見え、最終回の頃は西の方角に
見えるだろう。この霊場はアクトタワーを中心とは言えないが、天流川を中心にして分布しているようだ。
これは霊場が出来た江戸時代の浜松藩エリアで、東の掛川藩や南の横須賀藩には入っていない。

 神宮寺の前には大きな神社があるので、神宮寺はてっきり別当寺かと思ったが違った。
神宮寺の起源は三島出身の神官がこの地に移住した時に、前任地三島と同じように神社の後ろに寺を建てたのが
始まりという。そのため山号は三島山で前に立つ浜松神社とは何の関係も無いようだ。
私はてっきり前の神社は三島神社と思っていた。

 神宮寺の板塀と山門の後ろには鬱蒼とした木が生い茂り、山門の中心には祠に収まった石仏が見えていた。
なにやら落着いた風情のある寺で期待を持てそうだ。

 
               揚子公園からアクトタワー                    神宮寺本堂と薬師堂

 六地蔵の前に備えてある花は造花では生花だった。それぞれの地蔵の前には湯呑や線香立もある。中々面倒見の
良い寺だと思いながら次のお堂に行ってみると、中は雑多なダンボウールが積み重ねてあった。中にあった仏さんは
どうしたのだろう? ご朱印を貰いに庫裏に入ると、これはこれは物凄い。立錐の余地が無いとは、この事かと思わせる
ような状態に色々な物が積重なっていた。視線のやり場に困るような状態だったが女性は平然とご朱印を押していた。
山門や六地蔵で受けた印象とは正反対の風景に首を傾げてしまった。

 
               神宮寺の六地蔵                         お堂中は-----
               神宮寺の地図



    ----------------------------------------------------------------------------
 昨日(14日)3回目の遠江49薬師観音を廻ってきました。

遠江四十九薬師霊場1-3

2014-03-13 13:52:28 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:6時間30分   休憩時間:3時間15分   延時間:9時間45分
出発時間:7時00分   到着時間:16時45分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 磐田駅 0:15> 1番 0:20> 2番 0:10> 3番 0:20> 5番 0:30> 6番 0:25> 7番 0:40> 8番
 0:05> 9番 0:25> 10番 0:35> 11番 0:35> 12番 0:30> 13番 0:10> 14番 1:05> 16番
 0:20> 15番 0:05> 高塚駅

                         8番松林寺(青面金剛像)
 8番松林寺は天竜川を渡った浜松市中野町にある。冷たい強風に逆らいながら新天竜川橋を渡っていると
川の上流に雪を薄く被った山が見えていた。写真を写そうとジャンパーのポケットからカメラを取り出すと
紙が一緒に出たと思ったら風に飛ばされ遥か彼方に飛んでいってしまった。
ウー!ヤバイ! 地図が飛んでしまった。あの地図が無ければ札所に辿り着く事が出来ない。困った!
私は知らない街道を歩く時はヤフーの地図を切り貼りした地図を印刷して持ち歩いている。今日も1番から
12番頭陀寺までと13番から浜松駅までの2枚の地図を持ってきていたが、その1枚目の地図が飛ばされ
しまったのだ。
その中にはあと5寺分の地図が含まれている。ウーン!どうしよう。とりあえず次の寺は前の寺を出るとき
確認して、中野町の旧東海道の小学校の前にある事は分かっている。ともかくそこまでは行く事にしよう。

 橋を渡った所にあった「東海道 江戸と京の どまんなか 中野町マップ」を見ると8番と9番の札所の
場所も書いてあり、9番松雲寺は8番の近くで分かり易い所にあった。アー!助かった。
その案内板に中野町の事を紹介してあった。
「江戸の日本橋と、京の三条大橋を結ぶ東海道五十三次は全長500kmの道のりですが、中野町は丁度
その中間にある事から、江戸と京の真中の道「なかのまち」と名付けられました。」

東海道を歩いた時の中野町の記事はこちらです。

   
              新天竜川橋                          飛ばされた地図

 少し気が軽くなり旧東海道を歩いていると白壁を持つ松林寺はすぐ分かった。この寺は中々由緒のある寺で
引佐奥山方広寺の開祖後醍醐天皇の皇子 満良親王が南朝方の志士を募りにこの地に留まったとき、南朝方の
忠臣が道場を建ててお迎えしたのがこの松林寺の前身だという。
その後も江戸時代には代々将軍よりご朱印を受けていて、本尊の釈迦如来は徳川家康の寅年にちなんで寅薬師
とも言われ、寅年に御開帳しているという。

 ご朱印をお願いすると「寺の御紋が入ったお菓子をどうぞ」と言って打ち菓子をくれた。有りがたい今回の
遍路で初めてのご接待だった。食べると少し甘みのある懐かしい味がした。ありがとうございました。

 
              8番松林寺                     接待の打ち菓子
          松林寺の地図
 境内には百度石の建った延命地蔵、薬師堂、庚申・十王堂、弁財天を祀る心字池などがあった。その中で気を
引いたのが庚申・十王堂だった。案内には
「庚申様 271年前に建立された 病魔悪鬼を除き五穀豊穣を願う守護神」
少々引っ掛かる説明だがマー良しとしよう。それより堂内にあった庚申塔が素晴らしかった。
中央に立つ一面十臂の青面金剛の腕は、合掌する二手に宝珠を持つ二手。右手には三叉鉾、矢、金剛鈴の三手。
左は宝輪、弓、宝棒の三手で合わせて十手。
脚の下には踏みつけられている一邪鬼。その下の土台には三猿がいる。さらに雄鶏、雌鶏もいるし上には日輪、
月輪もある。オッと青面金剛の髪は炎髪のようだ。
これだけ庚申塔の条件を満たした石仏は初めて見た。これまでは塩の道を歩いて遠州水窪で見た庚申塔が一番
だと思っていたが、それ以上にこの庚申塔の方が素晴らしい。お堂の中にあるので保存状態も良好だ。
静岡県ではあまり見かけない庚申塔なので一見の価値はあると思う。

 一方十王堂の案内板にはこんな事が書いてあった。
「十王像 閻魔王を中心に冥界にある亡者の罪業を裁断する十人の主であって143年前に発願建立。
十王像は一般には木像が多いが当山は石像であり稀に見るあらたかな十王様である」

堂の中を覗くと王冠を被った何体かの石像が見える。あれが閻魔さんや十王なのだろう。
それにしても3番金台寺では閻魔や奪衣婆が地獄の裁判官だったが、ここでは閻魔と十王が裁判官だとある。
どちらも間違っていないと云う事は融通無碍な宗教感を持つ日本人らしいと云う事か。

 朱の塗料が残っている座像は弘法大師像か。右手に金剛杵、左手に数珠を持っている。
アッ! この松林寺は満良親王の関係で奥山方広寺派の臨済宗だ。ならば弘法大師ではないだろう。

  
        青面金剛                弘法大師像?             十王像等

                         9番松雲寺
 9番松雲寺は東海道を西に進み金原明善の生家の手前を左に曲がった所にあった。途中には案内板もあり
今日寄った中では一番分かりやすかった。アー良かった。

 境内の参道には苔むした地蔵像が祀られていて、今はやりの艶やかな色の造花が供えられていた。
工事中なのか大工が出入りしていて寺の女性がお茶の準備をしていた。ご朱印をお願いして本堂でお詣りしたが
なんの記憶も残っていない。きっと次の道順が気になり気もそぞろだったのだろう。

 
                   9番松雲寺                    薬師如来祭壇
                松雲寺の地図
                         10番安正寺
 サー次の10番安正寺への道が皆目わからない。休憩を兼ねてザックの中から無料でもらった霊場の参拝案内を
取り出す。尺図は分からないが縦30cm 横60cm位の地図で、西は浜名湖から東は袋井市までと北は天竜までが
表示されている。遍路をしていると今自分がどの辺りを歩いているのか見当がつかなくなったり、次の札所がどの
方向にあるのかも分からなくなってしまう。そのため今回はこの地図を持ってきていた。
 地図で見ると次の寺は国道1号バイパスの先で旧国道1号沿いにあるようだ。近くに「文」のマークがあるので
学校があるのだろう。ともかくバイパスと学校を目指して進むしかない。

 旧東海道に戻り西に進み金原明善の生家と記念館の前を通る。ここもいつかは寄ろうと思っているのだがいつも
素通りになってしまう。特に遍路のときは立寄りヶ所が多くて時間が気になり寄る事はない。
姫街道の入口に案内板が建っている。ここ中野町は街道の保存に熱心で色々な所に案内板があって東海道を
歩いたときは興味をもって見て歩いた。ただ不思議な事はこの町内にある「安間の一里塚」には表示杭が1本立って
いるだけで案内板も無い。折角「江戸と京のどまんなかの中野町」と紹介しているのだから、その一里塚に案内板が
無いのは淋しすぎる。東海道を歩いた時ここの一里塚に期待を持って来たのだがガッカリしてしまった。

 
             金原明善生家                       安間の一里塚跡

 バイパスを越したら予定通り和田小学校が出てきた。ここから脇道に入るのだろうと適当に入って行くと左の
方に寺の屋根らしき物が見えた。案外簡単に10番安正寺に到着。
ご朱印を貰うべく庫裏に行くと貼紙がしてあった。「ご用に方は電話してください」だって。仕方ない諦めよう。
ここも他には記憶は無い。

    
                       10番 安正寺
               安正寺の地図