はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

四国遍路掲載を終えて

2018-04-17 11:00:06 | 四国遍路
  15年前の遍路日誌をブログにアップして何になるのだと云う気持は当初からありました。
自己掲示欲の強い私が36日間一日も休まず1200kmを歩き通したことをアピールしたかっただけかもしれませんが、
これを読んだ方の中で一人でも四国遍路に興味を感じられたら本望です。
そして実際四国を歩いてみる気になった方には一つ助言をしたいと思います。

 ・四国に行く前に地元の霊場巡りをしてみる。 ことです。

例えば静岡県の中西部の方なら 「遠江三十三観音霊場」 を歩いてみましょう。
総距離は約190KMで日数は毎回30km歩いて6日間の工程です。
スタート・ゴールは全て鉄道の駅で済むので宿泊する必要もありません。
遍路道も遍路札も無いので、自分でYafoo!の地図などで把握しなければならないので、当然途中で迷う所が出てきます。
そうした時には積極的に地元の方に声を掛けて道を尋ねましょう。
これは四国に行って、聞かずに歩いて後悔しないための練習にもなります。
最近の私の遍路は 「遍路とは道を聞く事なり」 と、地元に人に話しかける手段として積極的に使っています。

  この霊場を通しで結願できれば四国遍路は夢ではなく実現可能な現実になるでしょう。
とは言え、遍路にも時期があります。短期間の日程ならともかく、30日を越える四国遍路ではこの時期が重要になります。
春に一度しか歩いていない私が言うのもおこがましいのですが、初めての遍路なら春が一番だと思います。
夏は熱さに体力を襲われ熱中症や脱水症になる恐れもあり、長距離歩行には向かないでしょう。
秋は熱さは和らぎますが陽が沈むのが日に日に早くなってしまいます。朝も暗いうちの出発で道の確認に苦労しそうです。
春ならば徐々に明るくなってくるので勇気も湧いてきましたが、だんだん暗くなってくる秋は日に日に不安が増すと思います。
冬の遍路は憧れとしてはありますが遍路初心者としては無理な話で、とても30日や40日では歩き切れないでしょう。
このように考えると遍路の時期は春が一番だと思います。それも3月中旬から4月下旬にかけてが尤も歩きやすい次期でしょう。

  15年前に書いた日誌をブログでアップするだけなので、当時に日程合わせてアップするのは容易な事だと始めたのですが、
あにはからんやでした。当時の日誌の誤字脱字を直すのは当然としても、当時は分って書いているので理解できても、今になると
何の事なのか分らない表現が多々ありました。それらを修正してアップしたのですが、毎日となると中々大変な作業でした。
この作業を行いブログを毎日アップしているきのさんや賢パパさん、松理さんの苦労が実感できました。

  四国遍路はリンクも張りましたのでメニューから希望の所に移動できます。どうぞ利用してみてください。

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四国遍路36日目

2018-04-17 10:00:00 | 四国遍路
          
                          高野山

                     高野山(36日目) (2003/4/17)
    
  高野山までのコースが決まらない。
宿で聞くと鳴門海峡を渡って大坂難波から特急電車で高野山に行くと言う。
鳴門海峡は来る時に渡ったので帰りは和歌山までフェリーで行きたいと言うと、
 「車ならいいがJRでは和歌山港からの接続が分からない」 と言う。

それでも和歌山港も高野山も同じ和歌山県。
交通機関の接続だってきっと考えてあるだろうとフェリーを利用するコースにする。

 早朝で人影が少ない坂東駅から徳島行きの電車に乗る。
37日振りの人口の乗物だが、何の違和感も無いのが寂しくらいなんともない。
歩きと比較にならないそのスピードも別にどうと言うことも無い。

徳島駅からフェリー乗場まではバスと考えていたがフェリーの時間が気になりタクシーを奮発する。
これが最初の予定外。

和歌山港から和歌山駅までは私鉄で繋がっていた。
だがこれが乗車時間は短いが待ち時間が長くイライラしてくる。
更に着いた駅はJR和歌山駅と思っていたのに和歌山市駅だとか。
和歌山駅までは更に乗り継がなければならない。
そしてここも待ち時間ばかり長く、すでに時間は正午を過ぎていた。

やっと着いた和歌山駅。
後は順調に行くだろうと思いきや、高野山に行く電車は1時間に1本。
もう踏んだり蹴ったりでした。宿の人が港からの接続が分からないと言う訳をやっと納得した。

 ケーブルカーを降りてバスで奥の院に向かった。
車窓から今夜泊まる宿坊を物色していたが何か雰囲気が違う。
四国では宿坊に入るのに気後れするような事は無かったのに、ここの宿坊は門を入るにも気構えが必要だ。
何かこけ脅し的に立派で遍路が泊まるには分不相応に感じる。
四国のような宿坊をと探すのだが、そんな雰囲気の寺は見当たらない。

 以前僧侶達が出演していたTVの公開番組で 「何故僧侶の車はベンツが多いのか」 と言う質問に、
ある僧が 「僧侶の身の安全のために、作りが頑丈なベンツに乗る」 と答えていた。
それを聞いてチョット待ってよと言いたくなった。
聖職者たるもの自分の安全より民衆の安全を祈るべきだろうに、ぬけぬけと僧の身の安全のために高価な車に
乗ると言うなんて。
元々世襲制で葬式主体の僧に期待していた訳ではないが、これを聞いて本当にガッカリしてしまった。

 今こうして立派な宿坊を見ていると、ここの僧侶たちもきっとベンツに乗っているだろうと思うと泊まる意欲が
消えてしまった。

  奥の院に続くお墓は歴史上の有名人のオンパレードだった。
何故この人たちのお墓が此処に------ 分からないが見ているだけで歴史の勉強になりそうだ。

それにしても真言宗は中々の知恵者が多い。
深山幽谷の高野山で護摩を焚く密教で神秘性を高め、一方では豪華な宿坊を建て高貴な方や俗福な者を呼び入れる。
そしてその人達が飽きないように有名人のお墓を作る。
お墓も昔のテーマパークの一種だと思えば、ここに信長や家康の墓があるのも納得いく。

 今日は朝から遍路の白衣は脱いでいるが菅笠はしまうわけにはいかずザックに縛り付けてある。
笠には 「同行二人」 と墨書されているし、金剛杖も突いている。
一見して遍路帰りと分かる格好だ。
自意識過剰な私には周りからの視線に耐えられず納経を済ますと早々に退散した。

適当な宿はと、まだ未練たらしくあちこちを見るが、この格好で気楽に入れそうな宿は無い。
その時新幹線でならまだ家に帰れると家の事を思い出した。

 四国では一度も帰りたいなど思ったことは無く、高野山も最初から泊まる積もりでいた。
なのに一度家の事を思い出すと里心に火が付いてしまった。
慌ててバスに乗り込み後は我家を目指して一目散。

乗った新幹線では36日間の遍路は何だったのだと、余りに変わらない自分にガッカリしてしまいました。
これが最後の予定外。

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四国遍路35日目

2018-04-16 10:00:00 | 四国遍路
          
                         総奥の院 與田寺

                     お礼参り(35日目) (2003/4/16)

 宿(5:50)→與田寺(総奥の院)→(3)→(2)→(1)→宿(16:30)     36.7km

昨日は何事も無く結願を迎えることができ、今日は最後の日の爽やかな出発となった。

 四国の道の案内に従い宿の裏手の川沿いの細い道を歩き始める。2k程行き橋を渡った所で少し太い道に出合った。
少し迷ったが早朝のなので聞く人はいない。左に行けばまた川を遡ることになると判断して右手の道をとる。

程なく行くと太い道に出合ったが、通勤の車がスピードを出して走っているだけで歩行者の影は無い。
迷いながらも歩いているが不安が高まる一方なので、意を決して車に手を挙げてみた。
残念ながらどの車も無視。当然といえば当然な事だと思う。朝の忙しい時にヒッチハイクをしそうな遍路になんか、
誰が車を止めるものか。分かってはいるのだが、それでも手を挙げ続けた。結局どの車も止まってくれなかった。

 前方の人家に人影が見えた。急ぎ足で歩きやっと道を確認すると、案の定間違っていた。
目的の道は反対方向で、もう大分下ってしまったらしい。最初に川を渡ったとき左に行けば良かったのだ。

冷静になって遍路地図を確認すると、最初はともかく太い道に出会った時には当然気つくべきだった。
やはり気持ちが浮ついているのだろう。引き締めていかねば。
結局2k以上は歩いたと思うので往復4kの無駄足だった。

 與田寺は改修工事をやっていたせいか、納経所で呼鈴を押しても中々出てこない。
やっと来た人に納経を済ませたあと大坂越の道のことを聞いてみた。
 「私らは歩いているわけではないから分からない。大体徳島の寺なんかに行くよう用は無い」とけんもほろろだった。
ウーン確かにそうだけどもう少し答えようがあるのではないか、チョッと腹がたってしまった。

 昔の遍路は総奥の院をお参りして1番にお礼参りするこのコースが一般的だったという。
それが今は10番に抜けて1番に行く人が多いらしい。
こんな態度を取っていては当たり前かと思う一方で、88ヶ所総奥の院をもっとアピールすれば参詣者は増えるだろう。
與田寺まで来ればJRの駅にも近いので、1番にお礼参りをしない遍路にも便利なのだから。

 時折海も見る国道11号をテクテク歩く。歩き始めて35日。体の具合はすこぶる良好だ。
細かいことを言えば左足の親指の爪が黒く変色している事と(遍路が終わり暫くして黒い部分が割れて剥れてしまい、
その後正常な爪が再生しました)右手小指が赫々する事(バネ指と診断された)くらいで後は無い。
体重は昨夜測ったところ62k台で歩き始めより4kほど減った。
ぷっくり出ていたお腹も大分へこんでくれた。
(体重は遍路後アルバイトをしていて頃は65k台に戻ってしまったが、今は遍路の時と同じく62k台になっている。
ただこれは歩きの成果だけでなく、老齢に伴う体重減少かもしれません。)

 それからこのお遍路でもう一つ実験した事がある。それは髭です。
以前から髭面に憧れていたが、融通のきかない会社勤めで髭を伸ばしたことがなかった。
また私の先祖は中国か朝鮮からの渡来人なのか、髭が薄く足や手も毛深くないので、髭を一週間そのままでも無精髭が
少し生えるだけでした。
そこで今回は秩父に出発した時から、四国遍路が終わるまで髭を剃らないことに決めてきた。
今日で48日目。最近は鼻の下の髭が伸びてきて、食事のとき食べ物以外の物が口に入ったと口を拭うと髭だったりして
不快感を感じている。
鏡を見ると一番欲しい頬の髯は殆ど伸びていず少し黒くなった程度でしかない。鼻の下の髭はポショポショと生えていて、
唇にかかっていて見るに耐えない状態だ。
顎鬚はこれも伸びてはいるが山羊ほども無くみすぼらしい限りだ。
全体的に見ても日に焼けた顔に、無精ひげを伸ばしただけの乞食顔だ。

 白衣と菅笠があるお陰で浮浪者に見られないで済んでいるだけだろう。更に一昨日歯が抜けてしまい喋ると歯抜けの
間抜け顔に見える。もう救いようのない顔に鏡を見るのもいやになってしまっている。
(家に帰ると妻に 「みっともない」 の一言で髯を剃るよう命令された)

 国道から遍路道に入るのに、四国の道の方が分かりやすいと判断して四国の道の標識に従い国道と分かれた。
実はこの四国の道とは四国4県に渡って整備された歩行者案内の標識で、コンクリート製の立派な標識が多い。
遍路道とは付かず離れずで、いたる所で見かけた。
ただ四国の道は名所旧跡や集落を通る事が多いので、そのまま行くととんでもなく遠回りになったりしてしまう。
せめて遍路道と分かれるときは遍路道の案内もしておいてくれると助かるのだが、と常に思っていた。

いやもっと言えば四国には遍路道と言う文化遺産があるのに、何故四国の道を設けなければならないのか疑問に感じた。
四国遍路が現在でも廃れず歩かれているのは、宗教心もさることながら、道中の宿泊施設のあるからだと思う。
例えば東海自然歩道など構想は立派で随分お金もかけたのに余り利用されていない。
それは手頃の場所に宿が無いからだと思う。
ここ四国のように、誰もが歩ける範囲内に民宿等の宿があれば東海自然歩道はもっと利用されるだろう。
そうなれば私も歩いてみたい。

四国の道を策定した国土省は、遍路宿などの宿泊施設は考えずに作っているが、ならば標識に遍路道の案内をするのは
当然だと思うのだが。

 また道に迷ってしまった。四国の道と遍路道が合流して畦道のような細い道を歩いていると新しい太い車道に出た。
付近には標識も遍路札も見当たらない。若干の危惧はあったが新しい太い道を選んだ。
変だな 変だな と思いながらも1kくらい歩いた所で道が突然無くなってしまった。
その先には細い道も無い。あったのは高速道路だった。
今歩いてきた道はその高速道路の工事用の道路だったのだろう。

 迷った地点まで戻り再度注意深く見ると、畦道が新しい道路で中断した先に細い道がある。
ためしに少し歩くと何のことはない四国の道の標識があった。
後で考えても何故新しい道を行ってしまったのか理解できない。
気持ちが浮き立ってしまっていて判断力が散漫になっているのだろう。注意!注意!

 道は歩きやすい草の道になった。土が軟らかく更に草がクッションになるのか足に優しい道だ。
道幅は広く車がすれ違い出来るくらいあるが、歩行者専用になっていて東屋風の休憩所もある。
今日の予定はこの歩きやすい道と別れて、また車道を歩き1番に行く卯辰越を考えているのだが・・・

 卯辰越の道を選んだ訳は簡単で、直接1番に着けば四国を完全に一周したことになると考えたからだ。
他の道は10番から1番。3番から1番が重なってしまい真円にならず面白くないと思っていた。
しかしこの3番に出る歩きやすい山道は魅力だった。
最近短くなったと感じる金剛杖の長さを測ってみたいが、それには杖を購入した2番極楽寺に行く必要がある。
なら直接1番に向かうのではなく、3番に出てから1番に向かえば2番は途中にある。
そうだ! そうしよう! 簡単に真円の事は忘れ、柔らかな道で3番に抜ける道を選んでしまった。

 山道が終わる頃あった階段は、狭く急な階段が何段も続いていて下を見るのが怖いくらいだ。
その階段の途中で蛇が横切るのを見つけた。蛇が嫌いな私はゾク!と身震いをしながらも見つめてしまった。
遍路の本に“マムシ”と何度も書いてあったが、これはマムシではなさそうだ。長さも長い、きっと青大将だと思う。
考えてみると四国で遍路を始めてから、生き物に会ったのは足摺岬のカラスの集団くらいのものだ。
四国には野生動物が少ないのだろうか。

 実はここに来る前の秩父遍路では珍しい体験をした。
26番の奥の院から27番に向かう尾根道で猿の集団に出会ってしまったのだ。
そこは尾根の樹木を伐採した跡で、大きい木も実のなるような木も無い所だ。
そこに猿たちは切り株の上や草の上に三々五々座り込んでいた。
20匹位居ただろうか? 数を数える余裕も無くただ困惑して私は立ちすくんでいた。

 今まで野猿の群れは伊豆の波勝崎と長野の地獄谷で見たことはある。
波勝崎の猿は温暖な伊豆に住んでいながら獰猛で、観光客の隙を見ては手に持っている物を掠め取っていく。
数が多く餌が足りないのだろうか。
その点地獄谷の猿は雪国で自然環境は厳しいのに穏やかで、温泉に浸かり真っ赤になった顔を露天風呂の脇で
冷ましている。回りの観光客などまるで意識していないようだった。

 それらの猿はどちらも野猿とは言え餌付けされた猿で、ここの純野生猿で、しかも私が一人となると話は違う。
5分も経っただろうか猿は一向に動く気配が無い。決して私を無視しているのでなく注意深い観察しているようだ。
進むべきか進まざるべきかハムレットの心境になった。
この猿が波勝崎のような猿なら退却して、地獄谷のような猿なら前進するのだが・・・・・・
 “思案六筒へぼの考え休むに似たり” だったが、どうやらここの猿は地獄谷系らしく威嚇する事はなかった。
よしそれなら少しづつ進んでみよう。幸いな事に山道には猿は座っていない。
少しずつ少しづつ前進を開始するが猿に動きは無い。停まらず急がずゆっくり少しずつ前進を続けて、ようやく
猿の群れから脱出できた。

 麓の札所で 「猿の群れに会って怖かった。 」と言うと 「群れで良かった。離れ猿は獰猛で怖い。」 と、簡単に聞き
流されてしまった。と、秩父ではこんな事もあったのだが、四国の動物はこの蛇でお終いだった。

 海岸沿いに国道と一緒に走っていた鉄道が、こんな山の中も走っている。などと驚いたりしているうちに、道は
1日目に歩いた遍路道に出たらしい。
らしいと言うのはこの道に覚えが無いのだ。遍路札もあるので間違いは無いと思うのだが、わずか36日前に歩いた
道を思い出せないのだ。これではとても逆打ちは出来ないだろう。

 何度か道に迷いはしたが、心の底では道に対しての方向感覚は鋭いと自負していたのに、なんとも情けない。
3番の入口に来ても思い出さない。結局2番に来るまで知らない道を歩いているようだった。

 2番の極楽寺に着くと直接売店に向かった。
 「済みません。行きにここで金剛杖を買った者ですが新しい杖を見せて下さい。」 女主人に言った。
短くなった杖を見た女主人は 「うちではそんな短い杖は売っていませんよ」 と、警戒をあらわに言う。
 「いえそうではなく、この杖のお陰で何とか結願できて、お礼参り行く途中です。きっとこの杖の減った分だけ私の
足や膝は負担が少なくて済んだと思うのです。短くなれば短くなっただけ杖への感謝が増えこそすれ、文句を言いに
来たのではありません。」
初めは警戒していた女主人も、途中から理由を分かってくれて協力的になってくれた。
奥から同じ模様の金剛杖を持ってきて 「それにしても短くなったものだね。この杖は硬くて丈夫なはずなのに」
言いながらスケールを取り出して杖を並べて測ってくれた。
 「なんと16.5cmも短くなっているよ。」 女主人は驚いた声を出した。

16.5cm。これが34日間で結願を迎える事の出来た最大の理由だろう。
この杖が無ければ、そしてこの杖を有意義に使うことが出来なかったなら、まだきっとどこかを歩いているだろう。
この短くなった分が私の足腰を助けてくれたのだ。
平地や上りでは加速を増し、下りでは衝撃の緩和となる。弱点だった下りの膝の痛みも一度も味合わないで済んだ。
これもこの16.55cmのおかげなのだ。有難うございました。

この金剛杖に愛着を感じた。この杖は必ず棺桶に入れてもらい冥土の旅も一緒に行ってもらおう。

 女主人は中々の商売人で、私が今晩の宿を予約していないと知ると
 「荷物は預かっておくから、1番にお参りしてくればよい」 と荷物をさっさと片付けた。
私もこれから宿を探すのも億劫なので、その進めに従い荷物を預け空荷で1番に向かった。
1番と2番の道は出発の時に一往復半も歩き今回で4回目だったので、さすが道は覚えていた。

 1番ではお参りを済ませたあと納経所に行くと
 「ご苦労様でした。出発のとき記入した帳面に今日の日にちを記入して下さい」 とノートを持ってきた。
訳も分からずノートを見ると出発した月日と遍路の名前、それにお礼参りに来た月日が記入してあった。

 「私は納経帳を道路側の売店で買ったけど、何も言われなかったので書いてない」 と少々苦情めいた声を
出してしまった。
自分の出発した3月13日を見ると何人かの署名がある。しかしまだお礼参りの日付は入っていない。
まだ誰も戻っていないのだとチョト鼻が高くなる。
だが出発が3月13日以降の日付なのに、すでにお礼参りの日付が記入されたのもあった。
なんだか少し残念だがホットした感じもした。
ただ歩くだけで四国を味わっていないと言われることに抵抗を感じる私がそこにはいた。

 インターネットや25番のお寺で1番の悪口を言っているが、そうだろうか。
物の値段が高いか安いか分からないが、このようなノートを作ってあるのはここ1番だけだった。

 「遍路が出発する寺は1番でなくてもいい」 と25番の僧は言う。
だが25番を出発して25番にお礼参りをしたらこんなサービスがあるのか、疑問だ。
いや25番ではお礼参りは出発した寺でなく、高野山に行けばよいとも言っていた。
これも遍路の心を理解してない発言だと思う。

出発地から出発地に戻り達成感を味合う遍路は多いと思う。更に歩きたい者はそのまままた歩き続ける。
この無限の円周運動も四国88ヶ所の魅力の一つだと思うのだが・・・・・

 ノートを眺めていると納経所の人がお盆にお茶と和菓子を入れて持ってきてくれて
 「ご苦労さまでした。結願したお遍路さんはどうぞ召し上がって下さい」 とお接待してくれる。
ノートも最後の行に記入しても良いと言ってくれたので
4月16日の行に 「出発3月13日、到着4月16日」 と記入させてもらいました。

 歩き出して35日ようやく1番に戻って来たのだが期待していた感激は無い。
自分がクールなのかと思うが、なら車遍路の時の88番で味わったあの感激は何だったのだろうか。
自分の感情を理解できないもどかしさを感じてしまう。

 今日の宿、2番に向かう道はのんびりとしたものだった。
先への不安感は無く、肩の荷も無い。16.5cmのお陰で足も痛くない。
結願した感激は少なかったが1200kmを一日も休まず歩き通した事実は残った。

この事実がこれからの私の人生の自信にきっとなってくれるだろう。

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四国遍路34日目

2018-04-15 10:00:00 | 四国遍路
          
                         88番 大窪寺

                     結 願(34日目) (2003/4/15)

 宿(7:20)→長尾寺(87)→大窪寺(88)→宿(16:00)    32.8km

 気を引き締めなおして結願の日の旅立ち。
これからのコースは女体山経由で88番に行き、88番からは四国88ヶ所総奥の院といわれる與田寺を参拝してから
1番霊山寺に戻るコースとした。

一般的な88番から10番の切幡寺に抜け、行きと同じ道を1番に戻るコースは上り少なく歩きやすいらしい。
一方與田寺廻りは大坂山越と卯辰越といった難所を越すコースらしい。
まだまだ歩く体力は十分残っているが、いざ88番近くなり気が変わって、楽な切幡寺廻りにならないとも限らないので、
今日の宿は切幡寺分岐を大分過ぎた所にある白鳥温泉に宿を予約してある。ここなら與田寺に行かざるを得ない。

 87番長尾寺も過ぎ静かな車道を歩いていると “遍路館” の案内があり、そこには接待所も併設されているらしい。
是非寄ってみたいと思うのだが、場所が女体山コースにあるかどうか分からない。
女体山コースは今歩いている車道と別れ、ダム湖の対岸を歩くようになっているが、遍路館はどちらにあるのだろうか。
不安を感じながら歩いていたら、対岸への分岐点に気がつかないまま、ダムまで来てしまった。
だがそこには女体山コースはダムの上を通って行けるとあったが、そうなると遍路館は諦めるしかないらしい。
と、思ったら、一つの看板にマジックで小さく 「遍路館経由でも女体山へいけます」 と書いてあった。
悪戯書き? とも思えるような感じもしたが、その言葉を信じて遍路館にお向かう事にした。

 程なくすると新しい立派な建物の遍路館が見えてきた。
遍路館では展示物を見たり、お菓子やお茶の接待を受け思いもかけず長居をしてしまった。

 ダム湖が終わる辺りで女体山コースに向かう対岸から来た遍路道と合流した。
そこからの道は車も殆ど通らない細い道になり、やがて山道となってのんびり歩けた。
途中蕨も生えていて何本か採ったが、今晩の宿は白鳥温泉とあるだけでホテルなのか旅館なのか分からない。
民宿のように家庭的でないことは確かだと、採った蕨は捨ててしまった。

 蕨以外にもイタドリ(虎杖)もあった。こちらのイタドリは静岡の山にある細いイタドリでなく、大人の親指より
太く、折るとポッキと音がして筋も引かずに折れる。皮を剥いて食べると酸味があるが苦味は少ない。
これが静岡の細いイタドリだと、筋っぽいし苦くて吐き出さずにはいられない。
子供の頃は食べたのに不思議に思っていたが、昔は静岡でもこんなイタドリだったのだろう。

 女体山の山頂近くの岩場からの眺めは良かった。
今日は遠くに見えるあの海からここまで歩いたのだと思うと我ながら感心をしてしまう。
言い古されているが、一歩一歩は小さいが、それが積み重なれば偉大なものになることを実感できる眺めだ。

 歩き始めて最初に見た海は23番薬王寺からの紀伊水道の海で、土佐では常に太平洋がついてまわり、
伊予では霧の中の豊後水道だった。58番仙遊寺では瀬戸内海としまなみ海道が一望できた。
そしてここ讃岐の女体山では播磨灘を望んでいる。何事も挑戦すればできるのだとしみじみ思った。
長年のサラリーマン生活で、すっかり衰えたと思っていた体力に改めて自信を持った。

山頂から奥の院経由で行く大窪寺には、急な下り坂を下るとアッと言う間に着いてしまった。

 いよいよ夢にまで見た結願(けちがん)だ。
車遍路の時は感激して目も潤み鼻声で家に電話をしたが今回は--------

そんな馬鹿な! 今までお参りしてきた87ヶ所の札所と同じ感激でしかない。
涙も出なければ鼻声にもならない。そんな馬鹿な! 
何故だろう? まだ歩き足りないと言うのか? 感激しない自分に腹がたった。

 ここ大窪寺では88ヶ所を打ち終わった遍路が金剛杖を奉納する慣わしがあると言う。しかし私は奉納しない。
明日も歩かなければならないが、次回の遍路の時もこの杖と白衣、菅笠は使いたい。
また自分が死んだ時はお棺の中に入れてもらいたいと考えている。

 歩き遍路の多くは88番の前にある民宿八十窪に泊ると言う。
今も何人かのお遍路八十窪の前で話しているが、今晩この八十窪は満員だと話しているようだ。
歩いていると殆ど会わない歩き遍路なのに、打戻しとか、このような場所になると増えてくる。
今日も歩き遍路らしき人とは長尾寺で一人、遍路館で一人、そして山頂の岩場で二人と計4人会っただけだ。
線路が平行で永久に交じ合わないように、遍路も同じような早さだと、いかに会う事が少ないという事だろう。

それにしても早まったと感じた。
この宿へ泊るお遍路さん達はきっと夕食の時など遍路の苦労話に花を咲かせるだろう。
そんな色々な人の話を聞きたかった。私ならきっとトンネルの恐怖を喋ったに違いない。

それが今日の宿の白鳥温泉はまだこの先10kも歩かなければならない。トホホ------

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四国遍路33日目

2018-04-14 10:00:00 | 四国遍路
          
                         85番 八栗寺

                     納め札(33日目) (2003/4/14)

宿(5:40)→一宮寺(83)→屋島寺(84)→ 八栗寺(85)→志度寺(86)→宿(16:00)    37.6km

 この宿の朝食もセルフサービスでいつ出発しても良いシステムだった。おかげでまた早立ちとなった。
遍路地図を見ると車道を少し行くと歩行用の遍路道があるとなっているので、通りかかった若い人に尋ねると
 「私ら遍路道の事なんか知りません。」 と簡単にいなされてしまった。
確かに若い人に遍路道を聞いても無理な話だと納得して車道を行く。

地図の道とは離れてしまったが、このまま東に行けば大きな川(香東川)にぶつかり、そこを右に曲がり川沿いに行けば
次の一宮寺方面だろうと判断し適当な道を歩いて行く。

香東川には河川敷の遊歩道があり散歩している人達が大勢いた。私も仲間に入り地図を見ながら歩く。
地図では次の一宮寺は川を渡り、町の中を電光形に歩くコースで何とも分かりにくい。それでなくても街中は遍路札も少なく
歩きにくいときているのに何とも悩ましい。
地図を見ていると散歩していた人が 「お遍路さん一宮寺に行くのですか」と話しかけてくれた。
私は地図を見せながら 「エー 一宮寺に行きたいですが川の向こうが分からなくて」 と言うと
 「それならこの河川敷と土手の道を行き、6個目の橋を渡れば一宮寺の近くに出る」 と教えてくれた。
地図で見ると確かに分かりやすいし距離も短くなる感じだ。
礼を言って歩き出し三つ目の橋を渡った頃後ろから 「お遍路さーん 」と声がした。
先程道を教えてくれた人が自転車に乗って追いかけてきたのだ。
「さっき6個目の橋と言ったけど、5個目の橋の方が近くて分かりやすいよ」 とわざわざ教えに来てくれたのだった。
有難うございました。

 一宮寺からの道は今まで歩いたどの道より賑やかだった。
しかもラッシュ時間と重なったせいか人混みの中を歩く感じになった。学生も多く後ろで女子学生の笑い声が聞こえると
 「戦争反対!」 のワッペンを見て笑っているのではと自意識過剰な私は背中が熱くなる。
周りには遍路装束は見当たらない。一体他のお遍路さんは何処を歩いているのだろうかと恨めしくなった。

ここが地図上の遍路道かどうかは、もうどうでもいい。国道11号に出たら右に曲がる、とそれだけを目指して歩いた。
それでも途中で今はどの辺を歩いているのか気になり信号待ちの女性に声を掛けた。
 「知りません。知りません。交番に聞いて下さい」 とまるで悲鳴のような声を出して方向を変えて行ってしまった。
悪いことをした。きっと浮浪者に声を掛けられたと思ったのだろう。
日に焼けて真っ黒になった顔にひげ面、たまには洗うが汚れた白衣それに汗も匂ったのだろう。
一応優しそうな中年の女性と思い声を掛けたのだが、女性だろうが男性だろうが嫌なものは嫌だろう。

 そういえばこういう事もあった。
庭に出ていた中年の男性と顔が合ったので会釈をしたらプイと顔を背けられてしまった。
それはそれでいいのだが、そこから少し行った所で軽トラックの男性に道が違うことを教えられた。

遍路の本に書いてあったが四国の人は遍路に対し “同情半分、後の半分は批判に反発” 正にその通りだと思った。

国道11号を歩き始めた頃から小便をしたくなった。
山道や田舎道ならどうと言う事はないが、街中の交通量も多い所だと困ってしまう。こんな時に限ってコンビニもない。
便所を貸してくれと言ってガソリンスタンドに入る勇気も無いが、幸い橋があったので橋の下入ってしてしまった。
女性の遍路はこの便所の問題だけをとっても大変だとつくづく同情をする。

 それにしても讃岐に入ってから遍路の休憩所が少ない気がするが、あっても気がつかなかっただけなのか。
遍路も最後の讃岐まで来ると途中で断念する人が増えて、歩き遍路は少なくなるからだろうか?

 屋島寺でお参りを済ましベンチで休んでいると、立派な身なりの僧が参拝を済まし立去った。
すると納経所の人が出てきて納札箱の中から何かを取り出してきた。
 「何があるのですか?」 と聞くと 「今のお坊さんは50回以上遍路をしているので、納め札が金色で貴重なのだ」
と言って、手に持っていた金色の納め札を見せてくれた。
 「良かったらあげるよ。お姿と一緒に入れもいいし、お守りに入れてもいい」 と金色の納め札を譲ってくれた。
白い私の納め札と違い金色の納め札はそれだけでも貫禄がある。

納め札には 「修弘 68歳 15年4月15日11時10分 68」 と書いてある。
最後の68は68回目の遍路と言うことなのか? 
ともかく良い物を頂いた。修弘さん納経所の方、有難うございました。

 屋島からの下り口は遍路地図と現地の遍路札とは違っていたが遍路札に従って歩いてみた。
廃業したホテルや食堂の前を通ると丁度桜が満開で散り始めていた。誰も通らない道は桜の絨毯を敷いたように見える。
桜吹雪の中に佇む遍路独り。これもきっと絵になる風景だと一人ほくそ笑む。  

 遍路道はそのホテルの前を下るのだが、道が崩れても補修をしてないので急勾配のうえズルズルしている。
オイオイこんな所を歩かせるのよ、下りだからまだ良いが、上りだったら大変そうな道だと独り言。
だが幸いなこと事にそんな道はすぐ終わり普通の山道となる。ドライブウエイを横断したり、屋島の海を眺めながら、
のんびりした歩きとなった。正面には次の札所八栗寺の岩山が見える。

 ここまで来てしまうと険しい道も大歓迎だし、高いのも山も大歓迎。遠いのも大歓迎だ。
屋島は84番。あと残り4ヶ所。もっともっと続いて欲しい。

 話は変わるが屋島に 「食わずの梨」 の伝説があったが、高知の最御崎寺にも 「食わずの芋」 の話があった。
どちらも弘法大師が地元の人に梨や芋を恵んでくれるよう頼んだが恵んで貰えなかったので、怒った弘法大師が
そこから取れる梨や芋を不味くて食べられないようにしてしまったと言う話だ。
話としては分かるが何とも大人気ない大師様だ。これではお接待を受けられなくてイライラしているお遍路と変わりがない。
しかも思うだけでなく意趣払いまでするとは、唯我独尊根性悪の大師様と思われても仕方ない。

アッ御免なさい。大師様どうか罰を与えないで下さい。“南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛”

 今日の昼はうどん屋でうどんを食べた。
中盛(2玉)で280円。これにお稲荷さんを食べて370円で済んでしまった。
何故うどんはこんなに安いのだろう。小麦粉が安いのか? それに比べ蕎麦は何故高いのか? 
手打ちのざる蕎麦で600円はする。しかも量は少なく大盛りにしても満腹感は得られない。
蕎麦粉が高い? いやそれだけではなく蕎麦を打つ過程が大変な作業だと聞くがそれで高いのか? 
ならうどんを打つ過程は楽なのか? 若し楽なら私でも打つ事が出来るのか? 疑問が次々浮かんできた。
こんな安いうどん屋を静岡でやったらどうだろう。きっと大繁盛間違いなしだろう。
少し修行をしてみるかと、出来もしない妄想を楽しみながら歩いている遍路でした。

 道は遍路地図より大分近回りをして八栗寺の麓の州崎寺の近くで遍路道と合流した。
さあこれから85番八栗寺のある五剣山の上りとなる。
ここには地上ケーブルが走っているが勿論そんな物には乗らない。勇気凛々!歩いて出発だ。
気分は高揚しているが体は疲れていて、歩く速度は上らず、ゆっくりしたペースだった。
しかし一歩でも歩けば着実に高度を稼いく。

 牟礼? どこかで聞いたことのある地名だと考えていて思い出した。以前行った長野県にも牟礼村が確かあった筈だ。
そう言えば昨夜泊った所は鬼無(きなし)だが、長野の牟礼村の近くにも鬼無里村(きなさ)がある。
偶然かも知れないが何か因縁を感じる。それにしても “牟礼” とはどう言う意味があるのだろう?

 今日の歩行距離は37kもあるのに、早立ちのせいか宿の近くの志度寺には3時20分に着いてしまった。
宿は今通ってきた門前通りにあったが、入るにはまだ早い。と、自動販売機を探し町の中を歩く。
目的はチュウハイだ。以前はこんな甘い酒は嫌いだったのに今は美味しく感じる。疲れた体が甘味を欲している
のだと言い訳しながら時々飲むようになっていた。

 販売機を見つけ冷たい缶を手にすると宿まで我慢する事ができなくなった。
空き地を見つけ、いかにも水を飲んでいるかのように装い飲んでしまった。
お遍路をしながら、こんな事して良いのかなと反省の気持ちも湧いたが時すでに遅し、心の根の狭い遍照金剛は
許してくれなかった。

夕食に茹蟹が出た。
たまたま含んだ蟹の身の中に殻が入っていたのか “ガリ” と音がした。
出してみると ------ 入れ歯が1本折れて出てきた。

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四国遍路32日目

2018-04-13 10:00:00 | 四国遍路
          
                         81番 白峯寺

                     再会(32日目) (2003/4/13)

宿(7:00)→天皇寺(79)→国分寺(80)→白峯寺(81)→根来寺(82)→宿(16:30)  30.3km

 昨日の擬似熱中症も樽生の十分すぎるほどの補給で無事快癒。
朝食もしっかり食べ、久しぶりのゆっくりした出発となった。

80番国分寺までは平らな車道が続き快調なペースで進む。
国分寺は阿波、土佐、伊予、讃岐とそれぞれにあり、ここが最後の国分寺となる。

そう言えば国分寺は昔の国立の寺で、それに相当する神社は一宮神社だと思う。
その一宮神社に気付いたのは阿波の13番大日寺前と、土佐の30番善楽寺の横にあった一宮だ。
ここ讃岐は今日打つ予定の一宮寺の隣の田村神社がそうだろう。

ただ伊予は気がつかなかった。一宮神社も国分寺の付近にあるのではないかと遍路地図を注意して見るが見当たらない。
もしかすると石鎚神社かと思うが確信はもてない。

 今回の遍路では札所を打つのが精一杯で、それ以外は殆ど目もくれなかった。
次回また遍路をする機会があったら、その時は神社やお城、それに景勝地なども訪ねてみたい。
まだ結願も済んでいないのに次回の事考える余裕も出てきた。

だがそんな余裕も国分寺を過ぎ台地の登りになると、すっ飛んでしまった。
疲れて踏ん張りの利かない足には、左程でもないここの登りがきつく、途中幾度も立止まってしまった。
しかしこんな時でも頭の中は余裕で勝手なことを想像する。

 阿波の焼山寺の登りは “遍路転がし” と云う呼び名が付いている。
こんな恐ろしい名前を付けたのは、きっと難所だからだけでなくお遍路の事を思っての事だろう。
最初の山道で疲れた遍路に 「ここは遍路転がしという難所で、此処より酷い所はありませんよ」 と慰めてくれているのではないか。
何故ならそこと同等かそれ以上の難所は幾つもあったが、そんな恐ろしげな名前は付いていない。
弘法大師が名づけたかどうかは知らないが頭の良い人がいたものだ。

 そうこうしているうちに台地の上に着くと、道は軽い起伏のあるなだらかな車道になった。
車道をしばらく行くとまた山道に変わる。ここは短いが打戻りになっていて81番白峰寺のあと82番根来寺に向かう道でもある。
以前27番神峯寺の行って来いの登山口では、人通りのある道なのに遍路のザックが幾つか置いてあるのを見た事がある。
ここは遍路くらいしか通らない山道なのでザックを置いていこうか迷ったが、以前遍路が言った言葉を思い出した。
 「善通寺辺りからお遍路の荷物がよく盗まれる。狙いは納経帳で10万円くらいで買う人がいるらしい」
そんな馬鹿な。その時は酒を飲んでいたので悪い癖が出た。
 「納経帳は一冊3千円として納経代が300円。掛ける90ヶ所で2万7千円。合わせて3万円だ。それが10万円で売れるなら
こんな旨い商売はない。
30冊持って廻れば200万円以上も儲かってしまう。そんな商売は考えられない」
と余計な事を言う。

遍路をしていても理屈っぽい性格は変わらない。話として聞き流せばよいのに酒が入るとそれが出来ない。
そんな場を白けさせるような事を言ったのを思い出した。
それなのに結局ザックは背負ったまま81番に向かうのだった。

 白峰寺を打ち、打戻しを歩いていると前からお遍路さんが来た。
 「ヤーまた会いましたね」 と気軽に声を掛けてきた。顔を見たが思い出さない。
 「ほら足摺岬で通行止め解除を教えた」 思い出した。そうだあの猛スピードの遍路さんだ。
私が18日かかった所を野宿しながら13日で歩いた人だ。それが今頃何故ここに?
 「アレーどうしたのですか、もうとっくに88番へ行っていると思っていたのに」
 「それがあれから雨にあったり色々あって、停滞を何日もしてしまったもので」
雨で停滞? 今まで下痢をした日に翌日歩けるかどうか心配はしたが、それ以外は雨が降ろうが、風が吹こうが、まめが
出来ようが休むなんて想像もしなかった。
それこそ雨にも負けず風にも負けず冬のような寒さにも、夏のような暑さに負けない。それが遍路と思っていた。
なのに雨くらいで停滞! 信じられない。
自分の遍路への思い込みが偏狭すぎるのか分からなくなってしまった。

 ここの台地の風景は中々いい。
山桜が点在して咲いて、辛夷なのか白い大きな花を付けた高い木があちこちに見える。
それに根来寺の境内がまた素晴らしい。
山門を潜ると一度石段を下り、また石段を登るようになっていて、その辺りの木々が今は新芽が萌えだし柔らかい色をしているが、
秋にはきっと素敵な紅葉になるだろう。
こんな所なら妻も喜んで来そうな気もする。一度誘ってみよう。

 今晩の宿の女将は7日目に泊った民宿あずまの女将と同じように開けっぴろげで、ざっくばらんで話しかけやすい。
そこで気になっていた留守宅へのお土産をお願いしてみた。
四国と言えば讃岐饂飩と当初から決めていたが、どこで買えば良いのか分からない。
歩いていて食べるうどん屋は目に付くが、直送してくれる店は分からなかった。
このまま行くと讃岐を通り越し阿波に戻ってしまう。

それに歩いている時に注文したり荷札を書いたりするのは煩わしかった。
女将に頼むと案の定気軽に引き受けてくれて、早速うどん屋に電話をしてくれた。
荷札も住所を教えてくれれば宿で書くと言ってくれたので助かった。これで一件落着して肩の荷が下りた。

だが、お金を払おうとしてまた失敗をした事に気がついた。小銭入れが無い!
納経料や賽銭を出すため硬貨だけを小銭入れに入れておいたのにそれが見当たらない。
今日最後の根来寺では確かにあった。それが今は無い。入っていた金額はたいしたことはないが前日に引き続いての失敗だ。

結願に近づき気持ちが弛んできているのだろうか。明日は気を引き締めていこう。

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四国遍路31日目

2018-04-12 10:00:00 | 四国遍路
          
                         75番 善通寺

                     善通寺(31日目) (2003/4/12)

宿(5:50)→曼荼羅寺(72)→出釈迦寺(73)→甲山寺(74)→善通寺(75)→
                 金蔵寺(76)→道隆寺(77)→郷照寺(78)→宿(15:55)
  30.7km

 正面の山の中腹には寺のような建物が見える。
あれはきっと73番出釈迦寺の奥の院で、弘法大師が身を投げたと伝わる山だろう。

今日の予定は善通寺を打ったあと金比羅さんにお参りするかどうかでまだ悩んでいる。
行きたい気持ちは非常に強いのだが、観光客の中を一人遍路装束で歩くのに気後れがしてならない。

道後温泉でもそうだったが、ジロジロ眺められたり写真を撮られたりして落ち着かない。
かといってそのまま札所を直行すると今日中に78番まで終わってしまい、残りが10ヶ寺となってしまう。
それも寂しい。仕方ない善通寺まで悩みながら歩く事にしよう。

 73番出釈迦寺に着く。途中見えた山腹の建物はやはり奥の院の捨身ヶ嶽禅定だった。
麓の納経所にザックを置かせてもらい奥の院に向かい歩き出した。
境内には何人かのお遍路さんが居たが、誰も奥の院には登らないらしい。ザックも無くのんびりと簡易舗装の道を行く。

奥の院でお参りをしていると中から僧が出てきて 「どうぞ中でお参りして下さい」 と招き入れてくれた。
お茶の接待を受けながら雑談をしていると 「今日は他に誰も居ないから裏の岩を登っても良いですよ」 と言ってくれた。

外に出て寺の裏に廻ると、突然と言った感じで岩場が現れ、踏跡のついた道には“通行禁止”の立札が。
本来なら登っては駄目だが、私が一人だった事と、通し打ちをしていて体力があると判断して登る事を許してくれたのだろう。

しかし迷った。これが通行禁止の立札がなければ登ってしまうのだが、通行禁止を特別に僧侶が許可してくれたとなると、
若し仮に私が滑落して怪我でもしたら僧侶の責任になってしまう。それは困る。
それに疲れた足はいざと言う時に踏ん張りが利かないかもしれない。自分に似合わず登ることを諦めた。

 奥の院からの眺めは中々良かった。讃岐らしいく溜池もやお結びのような格好の山も眺められる。
あんなに低い山では保水量が少なく、少し雨が降らないと、すぐ水不足になってしまうのだろうと納得もした。

そうだ閃いた。石鎚山に降る雨は吉野川に流れ込む。
その吉野川は時々氾濫するので、古い堰を壊して河口堰を作ろうとしているが反対運動が起きている。
それならトンネルを掘り、吉野川の水を讃岐側に引き込めばどうだろうか。
こんな発想が浮かぶようではまだまだ心身ともに大丈夫だろう。??

 善通寺はさすがに広大で、何処をどう行けば良いのか迷ってしまった。
また日曜日のせいなのか参詣客が多く、まるで縁日のような賑わいだ。

おかしな遍路も居た。長靴を履いて上だけ白衣で菅笠を被って托鉢をしている。付近にはザックも杖も無い。
ウーンこれは偽遍路だと感じた。
次はザックも杖も持った遍路が托鉢をしている。この遍路は本物そうだが何故托鉢しているのか理解が出来ない。
貰ったお金はどうするのだろうか? お賽銭にするのか自分が使ってしまうのか? それとも何処かへ寄付するのか。
それにしても托鉢に応じてくれる参詣客がいるのだろうか。
遍路の前を通るときは自分まで恥ずかしく感じて足早に通り過ぎた。

 金比羅参詣に結論がでた。中止だ。
今日は日曜日、金比羅さんは善通寺より観光客が多そうだし、恥ずかしい気分を味合うのは嫌だ。

 今晩の宿の第一候補の国民宿舎へ予約の電話を入れると、簡単に予約が取れた。ラッキー!
今日は大きなお風呂に入れるゾ。

いつでも入れる大きい風呂は非常に魅力だが、ひとつ困ることがある。それは下着の洗濯だ。
風呂場では洗濯しないのが常識とは知ってはいるが、遍路の旅では中々これが困る。
パンツ、シャツ、靴下の三点セットは、何が何でも毎日洗濯をしなければならないので、風呂場で洗うのが一番簡単で楽だ。
洗面台でも洗えるが洗面台が小さく床を濡らしてしまう。

そこで風呂場で洗う事になるのだが、風呂場に入って誰も居なければ先ず洗濯をする。
誰か居れば様子を見ていて一人になった時に慌ててする。
中々一人になれない時は、仕方なく一番隅の洗い場で小さくなって洗濯をしている。
他人さえいなければ大風呂は大歓迎だ。

 77番道隆寺でヤクルトとお菓子の小袋の接待を受けるが、お寺さんからのお接待は気楽で嬉しい。
 「有難うございます」 と一言って納経所を出ればすぐ食べられる。
ヤクルトなど飲んだこととはないが濃厚な液体がすぐ体力に変身する感じだった。有難うございました。

 今日は天気が良く、太陽光線がギラギラ降りかかってくるような熱い一日だった。
ヤクルトを飲んだ後は、宿での楽しみを倍化しようと水分を取らず我慢して歩く。
楽しみとは、言わずと知れた生ビールを飲むことだ。

私は焼酎と日本酒が好きでビールは乾杯の時一口飲む程度だ。
理由はビールを飲むと何故か喉がノツノツしてきてビールがスムーズに喉を通ってくれない。
それが不思議な事に樽の生ビールだとゴクゴクと幾らでも飲めてしまうのだから不思議なものだ。
友人は “お前は我儘だ” と言うが飲めないものは仕方ない。

 ホテルに着く頃は喉が渇いてゼーゼーする感じでフロントの前に立った。
 「今日予約しました〇〇ですが」 と言おうとするのだがゼーゼー言うだけで声が出ない。
咳払いを何度もするのだが出てこない。
仕方なくゼスチャーで喉を指差した後、飲むまねして水を貰い、やっと声が出た。

酒飲みは意地が汚いと言うが本当だ。
それにしてもこんな度が外れたことをすると熱中症に罹ってしまうと反省。

 今日はもう一つ反省することがあった。
納経のときに “お姿” と言う、お寺のご本尊を印刷した小さなお札を毎回貰っている。
無くさないようにビニール袋に入れていたが、徐々に数が多くなってたので “御本尊御影保存帳” なる物を購入した。
そして宿でその日の受取ったお姿をその保存帳に入れているのだが・・・・・
無い! 76番金蔵寺のお姿が無い! こんな事は初めてだ。
今日は9カ寺と札所の数は多かったが、受取るとすぐビニール袋に入れていたのに無い。
残りが後10カ寺になり気分が弛んできたのか、それとも疲れが溜まり虚ろになっているのか、
いずれにしても気をつけよう。
(お姿は帰郷後返信用封筒を入れて金蔵寺に依頼して送ってもらいました)

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四国遍路30日目

2018-04-11 10:00:00 | 四国遍路
          
                         71番 弥谷寺

                     番外の宿坊(30日目) (2003/4/11)

宿(6:25)→神恵院(68)→観音寺(69)→本山寺(70)→弥谷寺(71)→宿(15:05)  30.3km

 昨日から讃岐に入った。 「涅槃の道場」 と言うらしいがよくわからない。
執着や煩悩を消し悟りを得るとあるが私には無縁のようだ。
昨日は遍路試験に二度も落ちているし、執着心も人一倍強いのに遍路は仕上げの段階に差し掛かってしまった。
ともかく残りを有意義に過ごさなければ。

 朝は雨が残っていたが、合羽を着るほどでもなくザックカバーと菅笠だけで済みそうです。
昨日の雨で靴が湿気ていて、履くときは少々冷たいが、履いてしまえばどうという事は無い。

私の靴は布製のウオーキングシューズなので、雨ともなれば靴の中は水浸しで、靴下はビショビショの状態になってしまう。
それが朝、湿気ている程度になるのは、昨夜のうちに古新聞を丸めて靴の中に入れて水分を吸収してあるからだ。

この方法は本に出ていたのだが、半信半疑で試してみると効果があった。
湿気まで完全に取ることは出来ないが水気は無い。

ただこの新聞紙を宿から貰うとき、何か規定外のサービスを求めるような気がして言い出しづらくなる。
他の遍路さんはどう感じているのかな? 変なところに気を使うと、自分でも思うのだが--------。
それでせめて靴から出した新聞紙は広げてから、折り畳んで返すようにしているが。当たり前か!

 濡れた靴と言えばもう一つ書いておきたい事がある
私は以前から左足の小指の付根が軽い水虫に罹っていて、毎年暖かくなると思い出したように薬を買い、付けたり
付けなかったりする程度の水虫だったが。
それが遍路の出発時点では完全に水虫の事は忘れていて水虫の薬は持ってこなかった。
それが雨で靴の中が濡れて始めて水虫の事に気がついたが、薬を買うのも煩わしいので、悪くなったら買えば良いと居直っていた。
確かに最初は指の付け根に違和感があったのだが、その内それも忘れてしまった。
昨夜久しぶりに水虫の事を思い出して足を見ると、なんと水虫が治っているではないか。
そんな馬鹿な、こんなに悪条件では水虫が悪化しても、良くなるなんて事は無いはずだと、再度見るが綺麗な肌になっている。

原因は何だろうか色々考えてみた。
信心深い人なら 「大師様のおかげ」 と言うだろうが、私にはそのような発想は出来ない。
結局結論は “悪条件” が水虫にも影響しているのではないかと考えた。

毎日30kから40k、歩数にして6万回から8万回も、毎日ペタペタペタペタと足の裏は地面と接触を繰返していたのだから
相当なものだ。足にも悪影響たが水虫の菌にも悪影響となり、その衝撃で水虫菌は消滅してしまったのだ。
そう思うことにする。(結願してから15年、現時点も水虫は再発していません)

 68番神恵院と69番観音寺は本当の隣りあわせで、一つの境内の中と言った感じだ。
これが阿波や土佐なら 「もうけ」 と思っただろうが、さすが讃岐まで来ると一つ損をしたように感じてしまう。

なにせ残りの札所が19カ寺になってしまったのだから。
ところで16番と69番の観音寺は“かんのんじ”ではなく“かんおんじ”と読むらしい。
お寺の読み方は難しい。

 71番弥谷寺は標高も低く、町からも離れていないのに岩壁には苔むした磨崖仏や墳墓が刻まれ深山幽谷の霊場といった
感がある。
45番岩屋寺もそうだったが岩山にある寺は、岩があるだけで存在感を増し神秘的な雰囲気を感じさせる。

 今日の宿はこの弥谷寺から一山越して、瀬戸内海の海辺にある海岸寺の宿坊を予約してある。
海岸寺は番外だが弘法大師の母親の在所で、弘法大師の生まれた寺で大寺らしい。
しかも海岸にあり庭園からの瀬戸内海の眺めが素晴しいとパンフレットに書いてある。
それでわざわざ山越えをしてまで行ってみる気になったのだが。

 弥谷寺から海岸寺に行く山の入口が封鎖され立札が立っていた 「崩壊個所の復旧工事のため通行を禁止します」  
「えー! まさか!」 山越えが出来なければ海岸時までは随分遠回りになってしまう。
がっかりしながらも念のため納経所で 「海岸寺への道は通行止めなのですか」 と確認してみた。すると
「通れますよ」 簡単に言う
「えっ 海岸寺へ行く山道ですよ」 
「大丈夫通れます」 もっと確認したかったが、相手の気が変わり
「それなら止めろ」 と言われても困るのでそれで引き下がった。

 駄目なら戻ればよいと不安を残しながら封鎖箇所を乗越えて出発。
道はしっかりした山道で、遍路道と言うより整備されたハイキングコースのようだ。
尾根道をしばらく行った鞍部に海岸寺への案内が立っていて、ここで尾根道と別れ沢の道に入るらしい。

 この先に崩壊場所があるのかと注意深く下る。沢道は尾根と違い踏み後が薄い。
増水で道が消えて入る人が少なくなって更に薄くなった道を、そのままにしている感じだ。
だが所々に石仏が建っていて遍路道の風情は漂わせている。

 低い山なので迷ってもどうと言う事はないが、崩壊場所が気になる。
もう大分下ってしまったので、ここから弥谷寺へ引き返すのは堪らないな、など考えていると、やっと工事場所に出た。
ここが崩壊箇所なのか新しい堰堤を作っている。工事はやっていなかったので堰堤横の道を下った。
ちょっと急だったが別にどうと云う事はない。堰堤の下に着くとそこには舗装されている農道があった。
やはりこの堰堤のための通行止めの立札だったと合点がいった。がなんとなく釈然としない。
私のように確認した者は通れて、立て札を素直に信じた人は通れないなんてフェアーじゃない。

 海岸寺で納経を済ませてから奥の院にもお参りに行く。その前に庭園から見る海はと眺めたが・・・・・・
マー人により色々感想はあるでしょう。しかし寺の風情は良く、これなら68番と69番を纏めて一つにして、山越えの道を
遍路道にして、ここ海岸時を札所にした方が自然だと感じた。

弘法大師も自分の関係した寺ばかりを札所にするのを遠慮したのかな。
そんなことはないか-------。

 海岸寺で案内された部屋は40畳以上もあり、いかにもお寺の中と言った感じの古い大きな部屋だった。
夜は寒いかなと思ったが部屋の隅に布団が何組か重ねて置いてある。
寒ければあれを掛ければ大丈夫と、一先ず安心したが、やはりスースーして薄ら寒く感じる。

 今まで宿坊は札所の焼山寺、最御崎寺、岩本寺と泊まったが、番外の宿坊はここ海岸時が初めてだ。
そう云えば室戸の番外寺に泊まったお遍路さんが “あそこの宿坊は酷かった” と言っていたが、やはり番外だと
遍路の泊る人数も少なく経営が大変なのだろうか。

 朝飯の時間を確認すると、なんと驚いた返事が返ってきた。 「うちは素泊まりです」
エーまさか! 夕飯も朝飯の支度もしていない。どうしよう。
 「駅の前にお店が2軒あります」 と聞いて一安心。早速買出しに出かけた。

 JR海岸寺駅は寺の少し前にあり、店も確かに2軒ある。しかし駅前の店と聞いて感じたイメージと大分違う。
一軒は総菜屋らしいが店じまいの支度をしていて、売残りがほんのわずかしかない。

 「パンなら隣の店にあるよ」 と教えてくれたので隣の食料品店に入る。
パンはあることはあった。しかしどれもが賞味期限切れで買う気にはなれない。
それでも入った以上は何か買わなければと仕方なく賞味期限切れのパンを2個買った。

隣の総菜屋に戻り残り物のお握りや、そのまま食べられそうな物を買う。
あわせて450円これが今晩の夕食と明日の朝食かと思うと少々情けない。

 宿坊に戻るとグループの客が来たので部屋を替わって欲しいと更に古い部屋に案内される。
お茶も無く寒々しい夕食を一人食べる。
予約の時に一言 「食事は無い」 と言ってくれればと不満を感じながら。

夜になり若い人が相部屋だといって入って来た。
オートバイで観光地巡りをしている人で、食事は済ませてきたと言う。
その人はここがユースホステルで食事が無いことは知っていた。

次にお遍路さんが来た。
この人は私と同じで素泊まりとは思っていなかったので、夕食は昼の残りを食べていた。

そうそう料金のことも書かなければ片手落ちだ。素泊まりの料金はなんと2600円。
この料金ではこの程度の設備や対応で仕方がない。いやそれでも安いくらいだ。
これが予約のとき素泊まりと分かっていれば最高だったのに。

翌朝のことも少し書こう。
早出の癖がついてしまったのか、三人の中で一番早い出発となった。
朝飯は昨日買った残り物を廊下で食べ始めたのだが、もう一人のお遍路さんのことが気にかかる。
何も食べないのでは腹が減るだろう。しかしこんな物を半分渡しても気を悪くはしないだろうか。
迷ったが、結局半分残して渡すことにする。
ご飯が少しとコロッケが半分 「いやなら捨てて下さい」 と言って手渡した。

自己満足かもしれないが、これも遍路試験の成果なのかもしれない。

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四国遍路29日目

2018-04-10 10:00:00 | 四国遍路
       
                       66番雲辺寺
                 遍路試験(29日目) (2003/4/10)

 宿(5:00)→三角寺(65)→雲辺寺(66)→大興寺(67)→宿(16:00)          36.0km

 予定通り早出の5時出発。
遍路道の入口は宿の人に確認してきたのに、いざその場に行ったら分からなくなった。宿の人は
 「高速道路を越えて取付道路を左に曲がった先に発電所の入口があるから、そこを曲がれば後は一本道」と説明してくれた。
 高速道路はすぐ分かり、取付道路も左に曲がった。しかし発電所の入口が分からない。
辺りは薄暗く入口を見落としたかと戻ってみたが分からない。
人に聞きたくても早朝のため誰もいない。結局遍路道はわからず大分遠回りになる車道経由になってしまった。

 三角寺には想定していた時間を少し上回るくらいで到着したが、今日はまだ二つの山越えがある。
そちらが気になるので休憩も取らずに早々に三角寺を出発した。

 三角寺の山を下り国道192号線を歩いていると、僧形姿のお遍路さんが前を歩いていた。
足にマメでも出来たのか右足を引きずって歩いている。
先を急いでいた私は軽い挨拶をして横を通り抜けようとすると、そのお遍路が声をかけてきた。
 「お遍路さん速いですね。今日は何処までの予定ですか。私はお金がありませんので雲辺寺で理由を言って泊めてもらう積りです。
昨日も〇〇寺に泊めてもらいました。右足はマメが出来たのではなく、元々悪かったのが疲れで更に悪くなったようです。」

ラダラと説明してくれた。
私は当惑しながらも早く別れたい、別れるきっかけはないかとそればかり気にしていて、相手の話に身を入れて聞いていなかった。
話が少し中断したのを良い事に 「先を急ぎますので失礼します」 と逃げるようにいや逃げてしまった。

 峠のトンネル先の道が濡れている。よく見るとなんと雨が降っていた。
今日で伊予ともお別れだが伊予は雨がよく降る所だった。11日間歩いて6日も雨にあった。しかも土砂降りも経験した。

 それに山奥の札所も多かった。大宝寺、岩屋寺、横峰寺、三角寺そして雲辺寺。
更に昨日のように札所が一ヶ所も無く一日国道を歩くだけの日もあった。
伊予は 「菩提の道場」 と言われているが、私には土佐より厳しい 「修行の道場」 だった。

 合羽を着てトンネルを出ると県境の標識が立っていた。そこには“徳島県池田町”となっている。
雲辺寺は愛媛と香川の県境と思っていたので、此処に徳島県が出てくるとは思ってもいなかった。
しかも徳島の池田-----となると、あの高校野球の池田高校のある町ではないか。
それにしても随分な山の中で、こんな田舎でよくあのように強いチームが出来たものだ。と少々興奮してしまった。
しかし遍路地図だけでは何故ここが徳島県なのか理解しづらい。高速道路マップのように四国が一枚に収まっている地図が必要だ。

 道路脇に自動販売機があったので水を購入して、持っていたペットボトルは処分する。
サーいよいよ最高峰の雲辺寺への登りに挑戦だ。

森の中の山道に入り急な登りになったが、それなりに快調だ。先方の道の脇に太ったお遍路さんが座って休んでいる。
 「今日は。お先に失礼します」 と言ってそのまま通り過ぎようとすると
 「申し訳ありませんが、少し水を分けてくれませんか」 と、お遍路さんも声を掛けてきた。
聴いた瞬間 「エー」 と思った。まだここは山道に入ったばかりで、少し前には自動販売機もあった。
それなのにもう水が無いなんて何を考えているのだ。と思いながらも買ったばかりで口も空けていないペットボトルを渋々渡す。
意地の悪くなった私は、遠慮して一口飲んで返してきたペットボトルをそのまま受け取り 「ジャー」 と言って立ち去った。

 雲辺寺に着く頃から雨は霙に変わった。
しかも風が強く冷たく歩いても体は暖かくならず寒さがこたえる。納経を済ますと境内を廻ることなく早々に大興寺への道を下った。

 霙が雨になり寒さも緩んできて今日の残りの行程も先が見えてきた。
やっとのんびり歩けるようになると、今日追越したお遍路さんのことが気になりだした。

最初の足の悪いお遍路さんは今どの辺を歩いているのだろうか?お金が無いと言っていたが今日中に雲辺寺に着けるだろうか?
あんなに足を引きずり、しかもお金が無いお遍路さんから私は逃げてしまった。
少なくとも阿波でお接待を受けた千円は渡すべきだったろう。今頃になって悔いはじめる。

そんな時ふとあれは若しかすると私に対する試験、そう遍路の資格試験ではなかったのかと思い始めた。
その試験に落ちたため雨が降り出した。

二人目のお遍路さんもそうだった。
遠慮して水を一口飲んだだけで返してきたのに、何故半分くらい分けてやらなかったのだ。
それが嫌でもせめて 「もう一口どうぞ」 何故と言わなかったのだ。
私は汗を余りかかないので水もそんなに飲まない。あのお遍路さんは太っていて汗で顔がびっしょりだった。
なのに一口しかやらなかった。それも嫌々にだ。

仙遊寺で黒糖を接待してくれたお遍路さんが、私の遠慮に対し 「助けると思って貰って下さい」 と言ってくれたのに私は
学習能力が無い。遍路試験不合格だ。そして雨は冷たい強風と霙に変わった。

 香川県らしく溜池が見えてきた所で女性二人が乗った軽自動車が横に停まった。
 「お遍路さん大興寺まで行くなら乗っていきませんか」
あーもう嫌だ。

濡れて汚れている合羽を着ている遍路に自動車に乗れなんて私にはとても言えない。
今日二度も非情な行いをしてしまった私を神は許してくれるのか。それとも更なる反省を求めてきたのか。
なんとか理由を言って車は遠慮したが立去る車がぼやけて見えた。

 宿での出来事も紹介したい。
珍しくその日の夕食は5人の中年遍路が顔を合わした。
みな一人遍路だったので話が弾み、お接待の話が出たとき私は車の接待を断った話をした。
すると一人の遍路が 「お接待は断っては絶対駄目だ」 と強い口調で言い出した。もう一人の遍路もその意見に賛同する。
私は遍路をするのも目的だが、88番まで全て歩き通す事も目的にしているので丁寧に断ったと弁明するが聞き入れてもらえない。
 「折角お接待をしたのに断られると、その人は二度とお接待をしなくなる。」 確かにその通りだ。
だが自分の目的まで放棄して車のお接待を受けなければならないのか、どうしても納得できなかった。
私は遍路の心を理解してないのかも知れない。

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四国遍路28日目

2018-04-09 10:00:00 | 四国遍路
                  お接待(28日目) (2003/4/9)

 宿(6:00) → 宿(16:00)             39.1km

湯之谷温泉は日帰り入浴で賑わっていた。風呂も混雑していたが周りの話を聞いているだけで楽しい。
地元の人の言葉の終りが高くなるイントネーションが優しく感じる。
話の内容から客は近在の人で銭湯替り温泉に来ているようだ。
被災振りの広い浴槽でいつでも入れる温泉は気持ちよく疲れが体の底から抜けていくようだ。

 朝の出発は6時。ここは遍路宿ではないので朝食は7時過ぎとのこと。
仕方ないので朝食を断り玄関の鍵を自分で開けて出発。

今日のコースは国道11号沿いを、ただただ39k伊予三島まで歩くだけで途中に札所も番外もない。
室戸や足摺のように鯨や綺麗な名所も無く、ただただ歩くだけ。
楽しみは・・・・考えてみたが何も思い当たらない。

湯之谷温泉から国道に出てコンビニを探しながら歩いていると
 「おはようございます」 と自転車の女性が声を掛けて追い抜いていった。
このようにはっきり声を掛けてくれる人は珍しく、殆どの人は無視というか自然の状態だ。たまに横を向かれることもあるが、
それも仕方がない。いい大人が金をかけ暇そうにテクテク歩いているのを見れば腹がたつ人もいるだろう。
分かっている積もりだが、このように声を掛けられると嬉しくなる。

 先方にコンビニの看板を見つけ、やっと朝飯にありつけたと入口に向かう。
中から先ほどの自転車の女性が私のほうに向かって来て言った。
 「私も戦争反対です。気を付けて行ってください」 とお茶とパンを差し出した。
例の如く 「有難うございます」 くらいしか言えず、後は口の中でモグモグしている自分が悲しい。
女性は自転車で走って行ってしまったが、久し振りに背中が熱くなった。

最初こそ 「戦争反対!!」 のワッペンが気になったが、最近では慣れてしまい付けているのも忘れてしまうこともある。
でも、反響があった。嬉しかった。

 国道は交通量が多く、歩いていて車の音がやかましい。それではと旧国道を歩くと今度はクネクネ曲がっていて遠回りになる。
仕方なく気分に任せ国道を歩いたり旧道を歩いたりしていた。そんな時また女性に声を掛けられた。
 「少ないですがお賽銭の代わりにして下さい」 と70円の接待をしてくれた。

 今まで何度もお接待してもらったが、その全ては女性で男性は一人も居ない。
やはり同性には厳しくなるものだろうか、それとも私を含め男には親切心が少ないのか?
若し自分が四国の住民であっても、遍路に対し横は向かないが挨拶も接待もしないだろう。仕方がない事だ。

 国道の上り坂をエッチラコッチラ歩いていると後ろから来た車が横に来て停まった。
助手席の窓が開き運転をしていた男性が 「お遍路さん車に乗りませんか」 と声を掛けてくれた。

ヤバイ! これは断らないと。それも相手の気を悪くしないように。
 「有難うございます。申し訳ございませんが1番から車に乗らずーと歩いてきましたので、このま88番まで歩き通したいと
思っています。申し訳ございません 「そう。それじゃ気をつけて頑張ってね」 」
と車は走り去った。

口下手の私としてはうまく言えた。きっと気を悪くはしなかっただろう。
どうかまたお遍路さんに声を掛けてやってください。お願いします。やはり男性も親切な人は親切だった。

 お接待の話が続いたのでもう一つお接待の話をする。
それは今日の話ではなく讃岐での事なのだが、場所が分かるとその店に迷惑がかかるといけないので今話しておきます。

一度は本場のチャンとした店の讃岐ウドンを食べようと、入った店は客が一杯でカウンター席が一つしか空いていない。
ザックに菅笠に金剛杖とかさ張る荷物があるので、本当はすいている店が良かったが仕方ない。
荷物をなるべく邪魔にならないようにして、ざる饂飩とおろし饂飩を頼んだ。食べ終わって勘定を頼むと会計の女性が
 「お接待しますので結構ですよ」 と言った。吃驚して
 「あの二杯も頼んでしまいましたので、せめて一杯分は払わせて下さい」 とお願いすると奥から主人と思われる男性が
 「うちは歩きの遍路さんには、お接待する事にしているので遠慮しないでいいよ」 と声を掛けてくる。
会計の人も 「旦那がああ言っていますので結構です」 とまた言ってくれた。
胸が熱くなり瞼がジーンとしてきた。小さくなる声を振り絞って 「有難うございます」 と一礼して店の外に出た。
そして店の入口に向かって再度深々とお辞儀をした。

 今日の宿は旅館。
襖越しの隣の部屋は車遍路の女性二人が6時頃着いて、それからずーと話のしずめ。
明日は36kで山を二つも越えなければならない、しかも雲辺寺は88ヶ所の中で標高が一番高い札所だ。
当然早出となるので早く寝なければならない。隣が煩いなと思いつつ8時頃には寝てしまったようだ。

しかしまた例により3時ごろ目を覚ます。それからは30分置きぐらいに目を覚まし、うつらうつらの状態が続いた。
この半睡半覚が疲れの原因かと毎日悩んでいたのだが、それがヒョンな事からある事に気がついて安心した。
だって夜8時に寝て朝3時に起きれば7時間。それから半睡半覚で2時間寝たとしても9時間。
毎日このくらい寝れば朝3時頃に目を覚めるのは当たり前の事だ。
それに気が付き急に気が楽になった。


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