はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

知多四国38番正法寺

2015-10-30 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-19(水)
歩行時間:1時間50分   休憩時間:1時間50分   延時間:3時間40分
出発時刻:10時05分     到着時刻:13時45分
歩  数: 11、909歩(推定距離8.9km)    GPS距離8.5km
行程表
大井バス停 0:10> 上陸大師 0:25> 35番 0:15> 36番 0:10> 師崎港 0:10> 篠島港 0:15> 38番 0:05> 番外
 0:05> 39番 0:15> 篠島港 0:06> 日間賀島港 0:05> 37番 0:05> 日間賀島 0:05> 師崎港 

                                38番正法寺(家康との縁)

 
           師崎港フェリ-ターミナル                             師崎港入口

 船が出航する頃には雨も止んだのでデッキで海を眺めていたが、ここは何湾に属するのかと考えた。地図には知多湾、三河湾、
渥美湾、更には伊勢湾の表示もある。
一般的には愛知県と三重県の間は伊勢湾で、その中の知多半島と渥美半島の間は三河湾と呼ぶと思っていた。
これを住所表示的に言うと “伊勢湾 大字三河湾 字知多湾” と “伊勢湾 大字三河湾 字渥美湾” となるのだろうか。
で、ここは知多湾なのかな。

 
                篠 島                                  篠島港ターミナル

 近づいて来る篠島の形が、左右が膨らみ真ん中が凹んだ 「瓢箪島」 の形に見えてきた。見れば真ん中の低い括れ部分に家が
密集しているようだが、あれでは台風や高潮のとき浸水してしまいそうで怖くはないのだろうか。
泳げない私にはとても住めそうもない島だ。

 そんな私でも今日は一時滞在だけなので、心もウキウキ桟橋を渡り篠島に上陸。

          
           名古屋城の築城の石                              篠島漁港

 ターミナルの前に 「加藤清正・名古屋城築城の石」 と書かれた鑿穴が開いた石が展示してあった。案内文によれば
 「加藤清正が名古屋城築城の時、篠島で多くの石を採石したが、展示の石は何かの理由で残された石です。細長い穴は
 『矢穴』 といい、石を切りだすために開けた穴です。」


                    
                 山頭火の句碑                   山頭火

 「春風の声張上げて何でも十銭 」 の山頭火の句碑が、寂れた土産物屋の近くにあった。
きっと土産物屋の人が湯治客に 「何でも十銭だょー」 と呼び込みをしていたのだろう。
山頭火の句碑はターミナル近くにもあり八句紹介されていた。 うち3句を・・・・
 「歩きつづけて荒波に足を洗はせてまた」
 「やっと一人となり私が旅人らしく」
 「山波の上をゆきちがふ挨拶投げかはしつつ」

 
                 狭い路地1                               狭い路地2

 漁村特有の狭い路地の坂道と石段を歩いていると嬉しくなってくる反面、この先に寺があるか不安になる。
丁度通りかかったご婦人が 「この先にお寺の幟が立っているので分かりますよ」 との一言で更に気分は高揚してきた。

 
                 狭い路地3                               正法寺本堂

 露地の左側には六地蔵と墓地、右側には知多四国霊場の幟と寺の入口らしき石柱が見えた。そこが篠島最初の札所正法寺
だった。更に、次の札所に行くには、この道を上に行くのだが、この道は墓地の道ではなく生活道のようだった。

 正法寺は霊場案内などには “正法禅寺” と紹介してあるが、 “正法寺” も “正法禅寺” も同じ事で、曹洞宗や臨済宗などの
禅宗の寺が恰好をつけて呼ぶ時 「禅」 を付けるのだそうです。なのでここでは “正法寺” としておきます。

 この寺には徳川家康に関係する言い伝えが残っていたので紹介します。先ずは篠島の言い伝えを。
 「妙見斎(正法寺の前身)の等膳和尚が、駿河増善寺で徳川家康に会った際、幼い家康が故郷岡崎に帰りたがっているのを
知った。そこで等膳和尚は家康を葛籠に入れて背負い、清水港から船に乗せ 篠島へと連れて帰りました。
そして70日ほど 妙見斎にかくまった後、岡崎に送り届けたのです。
後年家康はその恩に報いるべく、島から等膳和尚を浜松に呼び寄せ話をしていると、旅の疲れから和尚は座ったまま居眠りを
始めてしまいました。困った重臣たちがその無礼を止めようとしましたが、家康はそれを制し 『和尚眠るべし。』 と言い、後に
可睡和尚の号と共に、寺の 『可睡斎』 も贈ったと言われる。」


 この話に出てくる駿河増善寺も遠州可睡斎も何度も訪れているので、この言い伝えも聞いた事がある。だが言い伝えの内容が
各寺で少しづつ違っていた。
先ず駿河増善寺では
 “増善寺の等膳和尚が家康を用宗港からお岡崎に送り届け、後に可睡和尚の名と可睡斎の寺領を貰った” 事になっている。
一方可睡斎では
 “可睡斎の等膳和尚は、幼い家康とその父を戦乱から匿った褒美に、可睡和尚の名と可睡斎の寺号を貰った” 事になっている。

 三つの寺の言い伝えは似たりよったりだが、違うのは可睡和尚の出身地で、
・篠島説では篠島妙見斎 ・駿河説では増善寺 ・遠州説では袋井可睡斎となっているが、どれを信じたらいいものやら。
因みにそんな縁もあって、ここ正法寺は遠州可睡斎の末寺になっている。しかも本堂横には火伏の秋葉堂も建立されている。
これは遠州可睡斎が秋葉総本殿三尺坊大権現の道場であるからだろう。となるとここの話も満更眉唾でもなさそうだ。

 
                  弘法堂                                    六地蔵

 弘法堂の前に南知多町の文化財の案内があった。それによると正法寺で指定されている文化財は梵鐘と雲版(うんばん・座禅や
食事の時刻を知らせる銅板)があるが、そのどちらの銘文にも伊勢とか勢州のの文字があることから、当時(正保年間)は篠島は
伊勢の国に属していたと考えられる、となっていた。
 地図で見れば篠島は明らかに愛知県に近いのに何故伊勢なのだろうかと調べると
 「奈良時代には三河国に属したが、鎌倉時代には志摩国、室町時代には伊勢国、慶長元年に尾張国所属で落ち着いた。」
海上交通の要所にある篠島は、各藩の分捕り合戦の対照になったのだろうが、何故家康は三河国に編入しなかったのだろう。

 納経の際、「今日は明け方まで土砂降りだったのでどうなるかと思ったけど 止んで良かったですね。」と声を掛けられた。
 「そうですか、私が家を出るときは雨が降っていなかったけど、こっちに来たら雨だったのでガッカリした。」
 「アラ お家はどこですか」 「静岡の焼津です」 「私は実家が島田です」 
と会話が弾み、お接待にウエットテッシュを戴いた。

                            篠島フェリーターミナルから38番正法寺への道