はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

コノスジ中途道&小富士 Ⅲ

2016-07-14 11:04:52 | 低山歩き
歩行記録                                                           H28-7-8(金)
歩行時間:4時間50分   休憩時間:1時間30分   延時間:6時間20分
出発時刻:6時20分     到着時刻:12時40分
歩  数: 10、632歩(推定距離11.4km)    GPS距離10.1km
行程表
 須走口5合目 1:10> 6合目・長田山荘 0:30> 須走口砂払5合目分岐 0:45> 吉田口6合目 0:40> 砂払5合目分岐
 0:35> 6合目・長田山荘 0:20> 砂払5合目 0:15> 須走口5合目 0:20> 小富士 0:15> 須走口5合目

 
                    古御嶽神社                                 三十三度 登頂記念碑

 通行禁止ゲートの手前に小さな 「古御嶽(こみたけ)神社」 があり、ここにはかって4合目にあった 「御室(おむろ)浅間神社」
2合目にあった 「雲霧(くもきり)神社」 も合祀されているとある。
 古御嶽・御室・雲霧 といずれの名前も和風で恰好よいが、山梨県にも小御岳神社や小室神社もあるのも面白い。
中でもコミタケ神社は、ここ須走口も吉田口も5合目に鎮座しているのには何か訳があるのだろうか?
5合目だから富士山の半分の場所に祀った、と思いたいが、5合目自体の名称がバスの終点の都合で変わった経緯を考えると
それも違うようだ。後で考えてみよう。

 社の横に 「三十三度 大願成就 大先達」 の石碑が建っている。かって富士講が盛んだった頃の先達だった方の物だろう。
この33回の富士登山は、今では決して多い数ではないが、乗り物の無い時代の登山回数としては多かったのだろう。
その33回に比べダントツに多いのは、御殿場の強力 梶房吉さんの1672回がある。梶さんは富士山頂で2回目の通年観測を
した佐藤順一氏の手助けをしたり、測候所の強力や御殿場口九合目の山小屋の経営もしていました。
その九合目の小屋は50年前には既に倒壊して廃材があっただけだったが、3年前には数本の廃材が残っていただけだった。
小屋の場所は山頂の銀名水から宝永山にかけての低地にあり、冬季は雪崩の恐れから測候所の職員はそこを避けて南側の
尾根に鉄柵を設けた長田尾根を登っていた。そんな条件に加へ尾根に両側を遮られてご来光も見る事も出来ない。
今この小屋があったとしても泊まる人はいないだろう。強力としての才能は豊かだったが経営者としての才能は???かな。

 高校時代同級生だった梶さんの孫と2人で閉山後の富士山に登り、7号8尺で引き返した事がある。その時はバスは無かった
筈なのに5合目までは自転車で行ったのだろうか? 覚えていない。
覚えているのは下山中に一緒になったヤンキー(米兵)と相撲を取ってチョコレートを貰った事だけだ。

 富士山登頂記録と云えば今月7日現在1855回登頂した沼津の実川さんがいるが、この方と梶さんの登頂回数とは一概に
比較はできないと思っている。方や仕事として登った回数で、方や暇に飽かせて1日に何度も登ったりした記録狙いの回数だ。
凄いとは思うが私の感覚では理解できない。
エッ! 私の登頂回数ですか? 正確な回数は分からないが剣が峰に立ったのは10回程度かな? 頂上ではないが8合目まで
なら50回は登っていると思います。

 
              通行禁止ゲート                                小富士への標識

 古御嶽神社の下に通行禁止ゲートがあり、そこに林の中を示す標識が見てきた。近づいて見ると 「小富士 20分」 となっている。
他にも 「冨士浅間神社」「馬返し」 もあって、小さく 「富士箱根トレイル」 とも書いてある。
この富士箱根トレイルは2011年秋に歩こうとしたが、出発点が須走口5合目だったがそこまで行く手段が無かった。
車で行ったとしても5合目から須走まで歩き、そこから同じ道を5合目まで車を取りに戻るなんてとてもヤル気にはなれなかった。
仕方なく出発地を籠坂峠として歩き始めたのだが、これでは富士箱根トレイルを歩いた事にならない。そこでゴールだった金時山を
更に先の三島駅に変更して、勝手に 「富士眺望トレイル」 と称して歩いた事がある。
1回目を 籠坂峠-三国山-明神山-不老山-駿河小山駅
2回目は 駿河小山駅-足柄峠-金時山-乙女峠-長尾峠-湖尻峠-岩波駅
3回目を 岩波駅-湖尻峠-三国山-箱根峠-旧東海道-三島駅 と富士山の南側をグルリ回った。
このコースでは同じような富士山の眺めで面白くないと云う向きもあるが、歩いた感想は 「イヤー中々良かった。」 だった。
特に長尾峠を過ぎた所で、自分が歩いて来た稜線を眺めた時は人間の足とは素晴らしい、と感激した事を覚えている。
オッと今は小富士の話だった。話を元に戻そう。

 
         整備された登山道                            木の根が凄い

 今日は腹積もりしてあった吉田の御庭を止めたので、時刻はまだ12時前で時間的余裕は十分ある。それなら小富士へ行くのも
面白いかとハイキングコースに入った。
 小富士への道は気持が良く、コノスジ中途道や登山道より整備されていた。道脇の誘導ロープは入口から小富士まで続いていて
これなら途中でガスられたとしても道に迷う事はない。ダケカンバなのだろうか、真っすぐ上に延びた木々も清々しく感じた。

 5分ほど行った所に馬返しの標識が建っていたが、その入口は誘導ロープで遮られている。その先には踏み跡はあるがロープを
跨いて行っていいのか悪いのか判断に迷いそうだ。最も今日は関係ないが。

 木の根が地表に張り廻ってた所もあったが、どうやら地表のすぐ下が岩盤で根が下に張れないようだ。その所為か倒木も多かった。

 
               砂礫にケルン?                             先にもケルンが見える

 突然林が終わり木も草も何も生えていない砂礫帯に出た。前方に大型のケルンがあるのを見るとここが小富士のようだ。
山とも岡とも言えないような低い膨らみしかない細長い砂礫帯が続いていて、更に先にもケルンが見えたので行ってみると、ケルンの
中腹には石の祠が安置してあった。更にその先にも下り気味の砂礫帯が続いている。
余り正確ではないが横幅30m位で長さ100mの砂利場と云った感じだ。

 
             後ろを振り返ると富士山が                        更に先に道は続いていた

 後ろを振り返ると霧のとれた富士山が見えていて、霧を心配したのが取り越し苦労だったようだ。
実はこの “コフジ” の事は幼い時から知っていたが、漢字は “古富士” だと思っていた。場所は須走の街の斜め北の上にあり他の
場所に雪が消えてもそこだけは何時までも雪が残っていたので、古冨士は砂走と同じような火山灰に覆われている所と思っていた。
そしてその火山灰は今の富士山の物ではなく、それ以上昔にあった古富士火山の噴出物だと思っていた。
その後に古富士火山より大きい新富士火山が誕生して古富士火山を覆いつくしてしまったと思っていた。

 だがそれはとんだ早とちりでだったのだが、その正しく分かりやすい説明が静大防災総合センターのHPにあったので・・・・・







 勘違いの元は、富士山の火山活動は小御岳火山、古富士、新富士と三期に亘っていたが、私は小御岳火山を知らなかった。
しかもコ富士火山はその名前からてっきり須走にあるコ富士だと思い込んでいた事だ。。
それが富士山に何度か登るようになり、その生い立ちに興味を覚えて火山が三期に亘っていたことを知る事ができた。

 しかし静大の説明にも紛らわしいヶ所もある。
例えば①の小御岳火山について 「富士山のやや北側に、小御岳火山が誕生しました。」 とあるが、これでは古御岳神社や
小富士がある須走口と思ってしまうのも無理はない。
だがこの場所について国土交通省富士砂防事務所の広報誌には、静大と同じイラストを使ってこんな風に説明している。
 「現在の富士山よりやや北側に小御岳火山と呼ばれる火山が誕生しました。その山体の一部は、富士吉田登山口5合目の
小御岳神社付近で今も見ることができます。小御岳は高さ2400mくらいまで成長し、これが最初の富士山となりました。」

 そうなると須走口の古御岳神社や小富士は小御岳火山とは関係ない事になる。
このあたりの事を説明足した案内板が欲しいとことだが小富士には何もない。

 ②の古富士火山について砂防事務所の広報誌には 「小御岳の南側で噴火がおこり、古富士という2番目の富士山が現れました。
古富士は2700mにもなり、小御岳を覆ってしまいました。」

ここでは小富士の場所は “小御岳の南側” とあるだけで具体的な場所の指定はない。だがウィキペディアには
 「古富士火山の山体は宝永山周辺等富士山中腹にかなり認められる。」とはっきり宝永山と名指ししている。
この説については昨年NHKTVで放送された 「プラタモリ」 の “宝永山編” で、ゲストの静大教授も同じような事を話していたので
これが主流の説なのだろう。

 
     離れた積雪地が小富士?(今日のではありません)                      八ケ岳か

 今日の写真ではないが小富士の場所は雪が無いと分かり難いので・・・。写真の中央より右の下に離れた場所に雪がある場所が
小富士だと思われます。
宝永山は富士山左中腹の凹んだ所がそうですが、その下の雪が一杯ある場所が、かってはスキー場のあった御殿場口です。

 ここも貸切だと思いながらケルンの横に座り込んでいると、若い親子連れと思われる4人が近づいてい来た。
荷物はカメラだけでリュックも無く、女性の服装が何となく日本人離れしていると感じた。
 「こんにちは」 と声を掛けると 「コンニチハ」 と返ってきたが矢張りニュアンスが違う。そんなとき子供が母親に話しかける
 「ママ ◯▽□◇・・・・・」
を聞いて中国人だと分かった。富士山には外国人が多いと聞いていたが、こんな所にも来るんだと驚いた。
それにしても子供が使った 「ママ」 って言葉は英語ではないか、中国人も英語を使うのかと気になって調べて見ると、ママとは
 「日本語、中国語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語などの言語において母親を呼ぶときの言葉」 とあった。
エッ! ママが日本の言葉? とても納得できず他も調べてが余りに簡単な言葉過ぎるのか見当たらなかった。
ただ中国語に関しては 「中国語の漢字表記では “媽媽”」 となっていた。そうなると日本の “ママ” の語源は中国語なのかしら? 
私の子供の頃は母親をママと呼ぶのは金持とか、シャコッタ家でしかなかったが、語源が中国語だったとしたら慌てて止めるだろな。

 
              逃げなかった鹿                            アザミラインは霧だった

 5合目に向かう途中で若い鹿に遭遇した。今まで出合った鹿は、こちらに気付くとピョーンと跳ねてすぐ逃げていたが、ここの鹿は
人慣れしているのか、若いので人間の怖さを知らないのか、こちらに気付いても平気で餌を食べていた。

 12時45分に5合目に到着。今回のルートは “暑くなく、長くない” を主眼にしたが、距離は11km程度で長くなく、しかも標高が
2400mで曇ったり霧が出たりと余り暑くなかったので、目的を達する事ができた
問題は帰途で、朝は新東名を走り2時間10分で着いたが帰りをどうするかだ。高速代は2500円だったが往復だと5千円を越して
しまう。なんか勿体ない~とケチ根性が出て高速を使わず下で帰る事にした。
ルートは国号246は止めて須走から十里木に抜けて、新富士駅の横を通り国1バイパスで帰る事にした。
途中少し混んでいた所もあったので3時間20分掛かってしまったが、1時間強で2500円は年金生活者としては魅力だ。
ただ運転で同じ姿勢を続けるのは流石に疲れた。

 車で須走口5合目を少し下った辺りから霧が出始めて、一時は中々の濃霧になったが、アザミラインは舗装も新しく黄色のセンター
ラインがハッキリしていて困る事は無かった。
後で知ったのだが明日(9日)からはこの道はマイカー規制になるとか。そうなると5合目まではバス代が掛かるようになるのだから
丁度よい時に登ったことになる。

コノスジ中途道&小富士 Ⅱ

2016-07-12 10:21:46 | 低山歩き
歩行記録                                                           H28-7-8(金)
歩行時間:4時間50分   休憩時間:1時間30分   延時間:6時間20分
出発時刻:6時20分     到着時刻:12時40分
歩  数: 10、632歩(推定距離11.4km)    GPS距離10.1km
行程表
 須走口5合目 1:10> 6合目・長田山荘 0:30> 須走口砂払5合目分岐 0:45> 吉田口6合目 0:40> 砂払5合目分岐
 0:35> 6合目・長田山荘 0:20> 砂払5合目 0:15> 須走口5合目 0:20> 小富士 0:15> 須走口5合目

 
          滑沢(なめさわ)                              滑沢(なめさわ)

 石楠花が少なくなってきた辺りで岩盤の沢に遭遇した。
この沢は粘度の低い溶岩が流れた跡とかで、普通の黒くゴツゴツした溶岩と違い、白くて滑らかな感じだった。
一見滑りそうだったがそんな事もなく渡り終り、後ろを振り向くと沢の表面を溶岩が流れた事が一目で分かる状態になっていた。
この沢の事を 「滑沢(なめさわ)」と紹介しているブログがありました。

 
                   下山道への分岐                                 また滑沢

 石楠花は須走側の方が多く咲いていて、吉田側に行くに従い花も木も少なくなってきた。
須走口六合目から30分ほどの所に 「須走口砂払い五合➡」 の道標があった。それなら帰りはこの道を下れば新しい道でしかも
近道になりそうだ。と、思ったのだが、考えて見ると納得がいかなかった。
何故なら五合目から六合目の登山道は下山道の右側(南)にあり、さらに六合目から左に真横に進んでここに来ている。
それなのに何故下山道にある砂払い五合に行けるのだろう? 
登山道では途中に下山道との合流部があったが、それ以外の道は気づかなかったが、大丈夫だろうか。
決断は帰りにここに戻ってきた時にしよう。その時の疲れの状態でも違ってくるのだからと先延ばしにした。

 また滑沢があった。今度は先ほどより細かったが上にも下にズット続いているように見える。この沢の先に何かあれば歩くのも
面白そうだ。

 
            雲海がちぎれてきた                                  砂礫地帯

 雲海が千切れてきて山の姿が大きくなってきたが、山の名前は皆目わからない。もう山梨県側の山なのだろう。
広い砂礫地帯に出合うが上にも下にも何もなく、ただ細い踏み跡が前方に続いているだけだった。

 
                 傾斜した白樺                             白樺の間に石楠花が

 砂礫帯を過ぎまた樹林帯に入ると今までと樹形が変わり、白樺(多分)が上に延びずに根元から斜めに伸びていた。
多分雪が下に滑る圧力で変形したのだろう。
林中を進んでいくと白樺の下にまた石楠花が増えてきた。ただ花は殆ど咲いていなく葉っぱばかりだ。
盛りを過ぎたのかこれからなのか分からないが、須走側と吉田側の標高は殆ど変わらないのにどうしてなのだろう。
雪の量は白樺の変形でも分かるように吉田側のが多そうだし、気温も須走より富士五湖方面はのが低そうだ。
ならここの石楠花の盛りはこれからなのだろうか? ただ花だけでなく蕾も殆ど無いのが気にかかる。

 
           砂礫帯の先に吉田口が                             上には 何だろう?

 また砂礫帯に突入。今度は前方には何やら構造物が見えるが多分あれが吉田口だろう。
上を見ると何だろう? 擁壁のような物が見えているが何だか分からない。さらに近づくと擁壁と思われるコンクリの下には脚のような
土台が付いている。雪崩除け? でもその下はこの砂礫帯で雪崩でつぶれるような物はない。
 下を見るとはるか下の方に砂防ダムらしき堰堤が幾つか見えていた。

 イヤーなんだあれは。雲海から千切れてきた雲が下からズンズン上がってきているが、まさか霧がくるのか。
何しろ3年前に御殿場口の二子山で濃霧に遭遇して怖い経験をしている。それでもあそこはロープが地表に張ってあって、
そのロープが切れた所だけで済んだので良かったが、あの時と同じような濃霧はここを襲ったら・・・・・・
あらためて踏み跡を見たが余りにも薄くて濃霧の中で判断できるだろうか? 
吉田口はすぐ先だが、若し霧が濃くなって帰れなくなったらどうしよう。吉田口は開山しているので麓までバスはあるし、須走にも
路線バスは走っている。問題は開山前の須走口で、5合目に行くバスは走っていない。そこのアザミラインの距離は12kmもあり
とても歩くわけにもいかない。ではタクシーとなるのだが山岳料金も掛かるだろうし幾ら取られるだろう・・・・・

急に不安になってきたが、先ずは吉田口までは行ってみようと先を急ぐことにした。

 
               ◯◯(?)バラ                                   ◯◯(?)バラ

 山のバラは “ゼロ富士” のおり、須山登山道の富士バラ平で見た事があるが、そこのバラの花は白かった。
だがここに咲いているバラは、濃いピンクや赤紫色で富士バラ平の物と種類が違いそうだ。
サンショウバラの特徴を調べて見ると
 「葉が山椒に似ていて茎に棘がある。花はバラに似ていて色はピンク色。樹高は3m以上にもなる」 とある。
ここの花も山椒の葉と同じように互生して羽状複葉で茎には棘もある。花はバラに似ているがピンク? マーいいだろう。
だが決定的に違うのは樹の高さで、ここのバラは藪状態で膝下しかない。余り株数は無かったが他の株も同じような高さだった。
これでもサンショウバラとして良いのだろうか?

オッとのんびり花を観賞している暇はない。先を急ごう。

 
         吉田口六合目(安全指導センター)                        六合目の標識が入口

 バラの所から10分ほどで富士宮6合目に着いた。いや6合目と言っていいのかどうか、標識には 「富士山安全指導センタ」とあり
プレハブの小さな小屋は 「富士山保全協力金」 を聴取する事務所だった。小屋の前には揃いのジャンパーを着た係員が登山者に
声を掛けていた。 兎も角小屋の前まで行き歩行記録を書いていると
 「須走側から来たのですか。良く道を知っていましたね。」 と声を掛けてきた。
 「丁度石楠花が見ごろで良かったです。」 「そうらしいですね。行ったことはないけど。」
そんな話をしたが私には協力金を求めてこなかった。尤も協力金は “5合目から山頂を目指す登山者” なので私は対象外だが。

 実はここから先、頭の中には吉田口の 「御庭」 に行ってみようかとの思いもあった。しかし体調が不安だったこともあり現地で
決断しようとも思っていた。
だが現地の付いた今は、兎も角ガスに巻かれないうちにと六合目の小屋も確認しないまま戻る気になっていいた。
休憩もそこそこにして標識の所に行ったのだが、今歩いて来た道が分からなくなってしまった。
来た時は標識の少し上で登山道に合流したが、そこは岩盤で踏み跡はついていない。来た時は先が見えていたので何ともなく
歩いてしまったのが恨めしい。
黄色のジャンパーの係員も見ているので、冷静な振りをしながらも必死になって踏み跡を探した。
何とか踏み跡を探し当てホッとしたが、何故ここに道標が無いのだろう? 疑問を感じた。
須走口は丸太の道標もあり、その先も樹林帯の中のハッキリした道だった。それに比べ吉田側は道標も無く踏み跡もない。
更に先の砂礫帯の踏み跡も薄かった。
吉田側ではコノスジ中途道をハイキングコースとして認めていないようだ。

 吉田側からコノスジ中途道に入るには、標識の上の岩盤を少し先に見えている草付きの丘の下に向えば踏み跡があります。
そこから先は薄いとは云え、霧でも出なければ見失ったり悩んだりする場所はありません。
標識の先に踏み跡が見つからない? そんな人はコノスジ中途道に入らない方が良いでしょう。

 
            ガスが上がってきた                                前方にもガスが

 増々ガスが近くになってきた。まだ時刻は9時で昼飯には早いが、朝飯が3時半と早かったので既に腹が減ってきた。
でも我慢!我慢! なんとか二つあった広い砂礫帯を通り越して樹林帯まで行こう。そこで昼飯にしようと先を急いだ。

 お陰でガスの中に閉じ込められる事は無く樹林帯に戻る事ができた。
砂払い五合の分岐に着いたが、すでに新しい道を歩く気力は無く、そのまま来た道を六合目に戻った。
結局コノスジ中途道は完全貸切で歩く事ができたので200円かかるトイレは利用しないで済んだ。ご免なさい。

 
            下山道(ブル道)                                 砂払い五合目

 六合目の小屋からブル道を下り砂払い五合目に向かった。分岐からの道を気にしながら歩いていると、標識は無かったが
一カ所ロープを張って登山道側に延びている道ああった。多分この道がコノスジ中途道の分岐からの道に違いない。
次回ここを歩く時はこの道を歩いてみよう。

 ブル道は途中で七合目から下って来る本来の下山道と合流して五合目に向かう。
砂払い五合目の小屋はまだ営業していなかったが、下山者とも2人に会っただけなので当然と云えば当然か。

コノスジ中途道&小富士

2016-07-10 17:16:36 | 低山歩き
歩行記録                                                           H28-7-8(金)
歩行時間:4時間50分   休憩時間:1時間30分   延時間:6時間20分
出発時刻:6時20分     到着時刻:12時40分
歩  数: 10、632歩(推定距離11.4km)    GPS距離10.1km
行程表
 須走口5合目 1:10> 6合目・長田山荘 0:30> 須走口砂払5合目分岐 0:45> 吉田口6合目 0:40> 砂払5合目分岐
 0:35> 6合目・長田山荘 0:20> 砂払5合目 0:15> 須走口5合目 0:20> 小富士 0:15> 須走口5合目

 2回続けて不本意な歩きをしたため、今回はコースの選定を “暑くなく、長くない” を主眼に探しました。
そして出てきたのが表題の 「コノスジ中途道」 です。
しかし何と読むのでしょう?  “コノスジちゅうとみち” では何となく中途半端な感じがするので、調べてみたら
  「コノスジ なかとどう」 とルビを振ってあるのを見つけました。
 “なかとどう” ?  これでもしっくりこないが他になかったので一先ずそうしておきましょう。

 場所は富士山須走口6合目と吉田口6合目を結ぶルートで、御中道より1段下のルートになり、標高が須走側が2420mで、
吉田側が2390mと、ほぼ平坦なコースです。殆どが樹林帯に属しているので暑さも左程の事はないと思います。
距離は須走口5合目からピストンして約8km程度とこれも短く、目標の “暑くなく、長くない” をクリアできそうです。

 
              須走口5合目標識                               通行禁止ゲート

 朝6時10分に須走口5合目に到着。下の駐車場は6分程度で混み具合で、上の駐車場はポツンポツン程度でした。
お山開きは7月10日なので、まだ本来は登山禁止なのですが、登る人はかなりいるようです。

 須走口5合目はこれで3回目なのですが、初回に来たのは昭和34年(1959)と57年前の高校1年の夏の時です。
初めての富士登山に近所のお兄さんに連れてきてもらったのですが、これっぽちの記憶もありません。
 当時の御殿場の人の多くは、夜バスで須走口に来て夜を徹して山頂を目指し、ご来光を見て御殿場具を下るケースが殆ど
だったと思います。山小屋に泊まるのは遠方から来た登山者や団体の人が多かったと思います。
それが今では夜間登山を 「弾丸登山」 と称して遣らないよう指導しています。
かと言って登山者全員が山小屋に泊まる事は物理的に不可能ですので、必然的に昼間の登山しかありません。
しかしどうでしょうね、富士山といえども夏の日中の陽射しは強く、その陽射しを避ける場所もない登山道です。それに比べ
夜間はかなり涼しく、明け方は寒いくらいの中の登山なら、熱中症の危険は少なくなります。
暗い中の登山は危険だとの意見もありますが、灯りを頼りに登るのですから危険なほどの速さでは登れません。
更に睡眠不足の体調不良を心配しているようですが、山小屋の鮨詰め状態でどれほど休む事ができるか疑問です。
 今年は登山バスの終車時間を早めて、少しでも弾丸登山を減らすよう対策をとっています。
好き勝手に登りたと思っている私のような登山者には、富士山は登りにくい山になってきています。

 2回目はそれから2年後、御殿場口で馬方のアルバイトをしていたとき、須走口の催し事に馬を曳いて参加しました。
朝御殿場口の太郎坊を馬に乗り、砂礫地帯の薄い踏み跡を辿って須走口5合目に着きました。そこから客を馬に乗せ、確か
8合目まで行ったと思います。
 荷揚げの時には、馬2頭に馬方1人、帰りの下山は馬3・4頭でも1人の馬方だったが、人を乗せる時は馬1頭に馬方1人で
それも馬の前で手綱を曳いての歩きになります。荷揚げの時のように馬の後ろで尻尾に掴まりながらとは全然違います。
確かその時にチップを貰ったのですが幾らだったかは忘れてしまいした。
 今回その事を思い出し、国土地理院の地図を確かめると、今でも御殿場口から須走口の間に破線の道が記入されてます。
今でも踏み跡が有るのか、有るとすればどんな人が歩いているのか気になりますね。でも自分では歩く気はしませんが。
 
 須走口の出発点5合目は富士宮口とも御殿場口とも雰囲気が違い違い、登山道左に茶屋が続き、登山道を挟んで右はベンチと
テーブルのある休憩場所になっていました。
富士宮口のような車と人と一体となった喧騒さは無く、かと言って御殿場口のような寂れた感も無くイイ感じでした。

 茶店を過ぎた所に冬季通行禁止のゲートがあり、通行するのには支障はないが、あえてここを通る人は 「自己責任」 でと云う
感じでこれもいいと思う。ゲートを頑丈にしても広い富士山の事、どこでも通り抜け出来てしまうのですから。

 
                  登山道                                    登山道横の林

 須走口は4つの登山道の中で一番高所まで樹林帯が続くので、本来は登りやすい登山道ですが、今ではここを利用しようとは
思いません。理由は8合目で超混雑している吉田口と合流するからで、8合目から上は時折渋滞も発生するとかですが、どんな状態
なのですかね。気にはなるが体験はしたくありません。
今までの富士山は、天気と混み具合を勘案して時期を決めてきたので、あまり混んだ富士山は経験した事はありません。

 この登山道は昔は周りの林の高さだったのが、人が歩く事により草が剥がれ少しづつ沈んできて、やがて雨や雪解け水の流路と
なり更に土砂が流れ凹んでしまったようです。そんな事を繰返して今の沢のような登山道になったとか。
これでは天井川ならぬ沈下川状態ですね。
 この様な登山道は富士宮口でも御殿場口でも見る事はないが、富士宮口は岩盤で道が固く沈む事は無く、御殿場口は火山灰
地帯だが、夏にへこんだ道も、それ以外の季節の風や雪崩なので火山灰が元に戻ってしまうようです。
この道もこのままいったら100年後、200年後にどうなっているのでしょか。

 
                  富士山頂                                   雲 海

 登山道の左側が開けていて山頂や下界の雲海が見えた。今日の天気予報は午前中は曇りで午後は所によっては雨だったが
車で来る途中も曇っていて富士山は見えていなかった。途中ラジオで 「須走の国道139号線は濃霧に注意」 と放送していたが
そんな事も無く、かえって途中からは陽の射す天気になってきた。きっと雲海を突き抜けたからなのだろう。
 
 雲海に浮かぶ山頂は皆目見当がつかなかった。

               
                  竜巻か?                                 竜巻か?

 疲れてフト目を上げると縦に一直線の雲が見えた。若しや竜巻かと思ってズームにして写した。
時刻は7時35分。ここでは風は無いが山頂付近が風が出ているのだろうか。

 

 途中にあった案内板には5合目と6合目間は60分とあったが70分かかってしまった。最近の私の歩きからすれば妥当な線だろう。
途中で3人の若者グループを追い抜いたが登山者はそれだけだった。駐車していた車は多かったが意外に登山者が少ない。

 それでも6合目の小屋の前には4・5人の人が休憩していて、皆山頂を目指すのだろうが天気予報の事を知っているのか心配だ。

 小屋の案内板には標高が2400mとなっていたが、5合目にはは2000mとあったので400mを登ったことになる。
ここから先のコノスジ中途道は水平移動なので今日の難所は終わった事になる。フー!

 確か富士宮口の新五合目の標高は2400mだからここと同じ高さだ。樹林帯の中の道はいえ既に1時間歩いているとなると
矢張り富士宮口の方が楽なのかな? 一方御殿場口新5合目の標高は1440mだった。となると御殿場口ではここより1000mも
低い場所からの出発になる。これでは御殿場口は大変なはずだ。

 でもどこの出発地も新5合目となっているので、どの登山口も同じような高さだと思うが、実際は大きな違いがある。
同じ5合目なのにと思うが、その理由は国土地理院の地図を見れば何となくわかる気がする。
 先ず須走口はバスの終点は 「五合目」 となっていて、ここ長田山荘の場所は 「本五合」 となっている。
更にこの上にある小屋は 「六合」 となっている。要はここ長田山荘はバスが来るまでは五合目だったが、バスの終点を他の登山口に
合わせて5合目にした関係で六合目に変更したのだろう。そして従来の六合目には “本” を付けて本六合目にしたのだろう。

 富士宮口も地理院の地図ではバスの終点は 「新五合」 。その上の小屋は 「新六合」 で更に上の小屋は 「六合」 となっている。
ここも5合目だった場所が新六合に変更になったのだろう。

 更に面白いのが御殿場口で、従来は 「二合目」 だった場所が、突然他の登山口に合わせて 「新五合」 になってしまった。
そのため今は小屋は無いが下山道と登山道が交差した場所が 「二合五勺」 、更に上の測候所の避難小屋は 「二合八勺」 とある。
要は御殿場口の出発点は昔 「一合」 だった辺りが、突然 「五合」 に昇格したのだから驚いてしまう。
更に御殿場口では昔は 「七号九尺赤岩館」 が最近では 「八合目赤岩館」 と称するようになった。これは赤岩館の上にあった本来の
八合目が廃業して、今では残骸が残っているだけになったので 「八合」 と称するようになったのだろう。

 赤岩館のケチを付けてしまったみたいで申し訳ないので、少々ここの宣伝をしておきます。
以前自分の子供や孫を初めて富士山に連れて来た時や、職場や地元の人を案内して富士登山した時は必ず赤岩館に泊まった。
コースは富士宮口五合目から八合目まで登り、ここで富士宮口と別れ御殿場口に抜ける。
抜ける場所は八合目のトイレの横を通るのだが、多分ロープを張ってあると思う。そのロープを越して少しブル道を行くと、すぐ上に
御殿場口に抜ける道がある。
距離は2・300mの水平移動で危険な場所はない。馬方のアルバイトしていた時は毎日のように通った道で、御殿場口七号八勺の
避難小屋の前に出ます。八号九尺の赤岩館はすぐ上に見ています。

 では何故御殿場口7号8尺の赤岩館がお勧めかと言うと、先ずご来光を見る事ができる事です。小屋が空いていれば小屋の中で
ご来光を待っていて、クライマックスに近づいたら外に出るなんてこともできます。
一方富士宮口は南口なので、東側にある御殿場側の斜面が邪魔をしてご来光を清々見る事ができません。そのためご来光を見る
には必死になって山頂に向かわなければならなく、山頂に辿りついても御殿場側の山頂から見たくなると思います。
 次に小屋が空いている事です。下山口の御殿場は余り小屋に寄る登山者が居なく、山小屋が次々の廃業した経緯もあります。
とは言え、最近では富士宮口から宝永山経由で登る 「プリントルート」 が人気になり、結構混むようになったと聞いています。
それでも他の登山口に比べれべ空いているでしょう。
 更に山頂に登った後に御殿場口に下るなら、小屋に不要な荷物を預け身軽になって登る事もできます。例え富士宮口に下ると
しても宝永山の火口の底を通って富士宮の5合目に行けば、砂走も経験でき火口の底を歩くと云った珍しい体験もできます。

 このコースで何回か子供を連れて登っているが、全員が山頂に登りお鉢巡りもしています。ただ誰でもと云う事でなく一応
小学校3年生以上の子供たちでしたが。

 好きな富士山の事を書きだすと、次から次へと話題が出てきて先に進まなくなってしまうので、この辺りで止めましょう。

 
           コノスジ中途道の入口                           コノスジ中途道の丸太の道標

 上の写真の木の階段は山頂に向かう登山道で、コノスジ中途道はロープで遮断されたブル道に入ります。
小屋の前から見るとブル道のロープの先にもう1本のロープが見えるが、これは進入禁止のロープではなく、コノスジ中途道の
誘導ロープです。
 進入禁止のブル道のロープをまたげば、大きな丸太を利用した道標があるので、後は水平移動のコノスジ中途道に入ります。

 
                   石楠花                                      石楠花

 コノスジ中途道に入ってすぐに目につくのは石楠花の葉っぱだったっが、もう時季は遅いだろうなんて考えたの大間違いで
200mも進むと次から次へと満開の石楠花が現れた。
例により下調べの少ない私は思わぬ石楠花の登場に興奮して、下手な写真を何枚も写しながら歩くので遅くなること遅くなること。

  
        白っぽい石楠花               少し赤みの入った石楠花            更に赤みの増した石楠花

 自然の石楠花は余り見た事はないが、藤枝の蓮華寺池公園の栽培している石楠花はもっと赤いものが多かったと思う。
ここの石楠花全体に白ぽい花が多く、なと言う名前なのでしょうか。

  
        花芽? 葉芽?                     蕾1                         蕾2

 今が満開の時期なのか、これから更に満開になるのか分からないが、蕾の数は咲いている花より少なく感じた。
ただ花が咲いている木は満開状態だが、場所によっては花も蕾もない木も多くあった。その木の葉の付根をよく見るとポツンとした
膨らみがあり、これがもし蕾なら満開はこれからで、葉芽としたら今が盛りだと思う。

 コノスジ中途道に入ると歩いている人はいなく、完全に貸し切り状態の道に独りでに笑みが浮かんできた。

遠江33観音遍路を断念

2016-07-04 14:30:00 | 寺社遍路
 2回目の遍路を終り、幸い寝込むなどの症状は出なかったが、疲れが抜けずダラダラと一週間を過ごしてしまった。
今日になりやっとやる気も湧いてきて次回3回目の遍路ルートを調べだしたのだが・・・・・・・・・

 前回の3回目の歩行記録では、天浜線の原田駅から12番札所を打ったあと、標高661mの大尾山にある13番札所までの
約14mの上り道をテクテク歩く。そこから一転して高度差480mの急斜面を原野谷川まで急降下する。
更に途中にある 「ならここの湯」 を横目に見ながら川沿いの道を原野谷ダムまで下る。ダムからは峠を越えて10kほど先にある
14番札所に向うのだが、ここまででも約31kmもある。
更に14番から掛川駅までが5kあるのだから全歩行距離は36kmになってしまう。

 今回の遍路は1回目に22kmで病院通いをして、2回目は27kmだったがフラフラのゴールで一週間を無為に過ごしてしまった。
なのに山越えをして36kmとなると、今の体調ではとてもではないが自信がない。
分割して歩く方法もあるが、大尾山を下り原野谷ダムから出発地点の原田駅に戻っても歩行距離は30kmになってしまう。
ウーンこれでも自信はない。
こうなれば仕方ない。今回の遍路は一旦中断して涼しくなった頃に再開するしかない。と決断しました。


では次回はどこを歩こう? この時期暑くない所は高山しかないが、一人歩きの私には高山の登山は許可がおりそうもない。
そうなるとこの夏は静かに暮らすしかないのだろな。


遠江33観音 10番

2016-07-02 12:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-27(月)
歩行時間:7時間00分   休憩時間:1時間46分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時00分     到着時刻:15時45分
歩  数: 36、968歩(推定距離26.24km)    GPS距離26.3km
行程表
 袋井駅 1:05> 成道寺 0:05> 8番観正寺 0:45> 11番遍照寺 1:00> 遠江一宮駅 1:40> 9番清瀧寺 1:00> 小國神社
 1:05> 10番蓮華寺 0:20> 天浜線戸綿駅 

                                     10番・蓮華寺
 八形山 蓮華寺 (やがたざん れんげじ)
 宗 派 : 天台宗   本 尊 : 聖観世音菩薩 
 ご詠歌 : 「はちすばや なにあふ寺の法の声 雲ゐにひびく いりあいの鐘」

 住 所 : 周智郡森町森2144   山道出口から10番蓮華寺への道

 道路脇の縁石に座って10分、一向に歩く気にはならなかったが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
小國神社の鳥居は目と鼻の先にあるが今回はパスして蓮華寺に向かう事にした。ただ無情にも道は上りになって疲れは増す。
この道も以前歩いた事があり心配はしていなかったが、手持ちの地図を見ると道がヘアピンカーブのように曲がっている。
メインの道は直線で、曲がっている道の入口には小國神社の第六駐車場の案内がある。
はて蓮華寺へは駐車場経由で行くのか、それともメインの道を行くのか悩んでしまった。
蓮華寺までの距離が予定の半分もないなら、メインの道ではないかもしれないと駐車場の道を行きかけたが、どうも気になる。
気になるのは蓮華寺の案内板が無い事と、この先が駐車場と云う事だ。再度駐車場の案内板を見ると、そこには道を閉鎖する
鎖が下がっていた。通り抜けする一般道に鎖があるわけはない。この道は駐車場に行く道だと慌ててメインの道に戻った。

 こんな単純な事に迷うとは疲れが体だけでなく頭にも来ていて思考力も落ちてしまったようだ。注意しないといけないな。

  
        枯れたササユリ                   アジサイ?                        アジサイ?

 峠を越えて道が下りだすと塩井神社への入口の案内があった。細くて急に下る道はあるが神社がどこにあるのかもわからない。
ここも当然パスして車道をくだる。

 後日塩井神社を調べて見ると塩井神社は小國神社の摂社で 「此の塩井は一宮山の内八分目あたり常に干満あり味わい潮の如し
霖雨洪水の時分塩無之時は此の塩水を汲みて用ふる也」
とありました。
潮の満ち引きのような干潮や満潮は兎も角、塩が手に入らないときは塩代わりにしていたらしい。そんな塩水が湧いているなら
塩化物泉、温まる温泉として日帰り温泉を作ったらどうだろう。

 塩井神社の境内なのかフェンスがある辺りに、時季を逸したササユリの残骸がチラホラ見えた。今年は浜石岳にササユリを
見に行きたいと思っていたが、体調不良で行く事ができなかった。それに高山南峰のコアジサイの確認にも行けなかった。
そんな私を神は可哀想と思ったのか、残骸だがササユリを見せてくれた。そして次にはアジサイの一種だろうが一見コアジサイを
巨大にしたような花も見せてくれた。感謝です。

 
                 八形山                                      分岐の標識

 前方に見える山は八形山だろう。当初の予定ではあの山の北(左)にある大洞院から登りだし、尾根を縦断して蓮華寺に下りる
予定だった。だが今こうして八形山を眺めると行かないで良かったと本当に思う。

 直射日光に晒されながら歩いているので水分補給と思うのだが、ポカリは終ってしまい後は凍らせてきた水道水のみ。その水も
今は溶けてしまって生暖かく不味いったらない。喉も乾いていなにのに無理やり飲んでいるので腹がボコボコして気分も悪い。
たった水を飲むだけの行為が、こんなに面倒だとは思わなかった。

 丁字路の正面に道路の行き先案内が見えた。小國神社を出てから35分経っているので既に2km以上は歩いている筈だ。
時間的には蓮華寺に着いても良い頃だが、景色は山に囲まれた田園地帯で八形山も正面(東)に見えている。とても街中の
蓮華寺がある雰囲気ではない。
 それでも期待を持って案内板を見ると 「蓮華寺(はぎの寺)2.0km」 とある。
エーなんでぇ~ 35分も歩いたのに1.5kmだった距離が2kmに増えてしまった。途中に蓮華寺への案内板は無かったのに何故だ!
一挙に疲れが倍加してしまった。

 
                 蓮華寺入口                                蓮華寺山門   

 分岐から始まった登り坂をハーハーしながらやっと上りきると、ロープで閉鎖された広場に 「陣場峠」 と書かれた杭が見える。
その横には峠の謂れを書いた案内板も見えたが、ロープを越して見に行く気力はなかった。
下り坂になってもダラダラ歩きは続き、民家のある辺りから手持ちの地図は蓮華寺に行く近道を示していた。だが判断力の鈍った
頭でクネクネ曲った近道を行くより、少し遠回りでも太い道を行こうと、遠江総合高校のある太い道を歩く事にした。

 見慣れた蓮華寺の入口でホッとしてしまい、涼しげな蓮華寺の山門までのたった10m足らずの階段が地獄の責めに感じた。
倒れるように山門下の階段に座り込み、ハーハー荒い息づかいを静めるべく10分程も座ったままでいた。
涼しげに見える山門だが実際に涼しくて、いつまでも座っていたいがそれではキリがないと重い腰をようようあげて山門を潜った。

 
           10番札所蓮華寺本堂                                萩と蓮華寺

 本堂前で般若心経を唱え終ると、草取りをしていた老婆が 「ご苦労さまです。」 と声を掛けてきたので
 「遠江33観音のご朱印をお願いします。」と言いながら朱印帳を渡すと
 「ハイハイ観音巡りの1番のご朱印ですね」 と気軽に引き受けてくれた。でもそれでは違います。慌てて
 「いや遠州ではなくて遠江10番のご朱印です。」と言うがピンとこないようだ。

 蓮華寺は遠江33観音霊場の札所であると同時に遠州33観音の札所でもあるのだが、そう云えば小國神社にあった案内板も
蓮華寺入口にあった看板にも遠江観音霊場の名前は書いてなかった。と云う事は遠江の霊場巡りをする人が少ないのだろうか。
間違えられては困ると思い、本堂の掲げられた遠江33観音の新し看板を指して 「あの遠江のご朱印です。」 と念を押した。

 私は遠江も遠州もどちらの霊場も歩いているが好きなのは遠江の方だ。遠江の開設は今川時代なの対し遠州は昭和になって
開設された新しい霊場だ。しかも遠江は山寺や小寺が多く無住の寺も多いが、大型バスが駐車できる事が条件の遠州の札所は
交通量の多い車道歩きがメインになっている。
遍路距離は遠州が約292kを7回で歩いているので1回平均42kだったが、遠江の方は187kを6回で平均31kmと1回で
歩く距離は10kも少なかった。
しかし遠江の方は平坦な車道歩きが多いのに対し、遠江は必ず山越えや峠越えがあり、距離は短くても厳しい遍路道だった。
札所の場所も当然大寺のが多い遠州の方が分かりやすいので、霊場巡りをする人が多いのかもしれない。

 ご朱印は間違いなく遠江10番の物だったのでホッとしたが、本堂前に座り込んでいる私が心配になったのか
 「車に酔われたの」 と聞いてきた。 「イエ袋井駅から札所を回ってきたので疲れてしまって」 と言うと
 「袋井駅から歩いて来たの~ それは大変だ。ここから何処に行くの~」
 「疲れたから戸綿駅に行こうと思います」 「それなら森駅の方が近いですよ。」
と教えたくれた。

 萩で名高い蓮華寺だが、萩の花は赤紫の小さな花がチラホラ見えているだけだった。

  

 距離が近いとせっかく教えてくれた森駅には向かわず掛川に近い戸綿駅に向かった。
イエイエ乗車賃が安くなるからではなく、次の12番札所がそっちの方が近かったからです。
 次に行く12番札所長源庵は戸綿駅の次の原田駅から山に向かった所にあり、今日のゴールは当然原田駅だったのだが、
これ以上無理をすると家に帰ってからが恐ろしい。
 「無理せず 楽せず 程々に」 をモットウに歩いているのに、既に今日は無理をしすぎている。これ以上歩くのは止めよう。
遍路歩きをしていてこのように途中で挫折したのは初めてだが、これからはこんな事も多くなるだろう。それでもまだ歩けることに
感謝しなければな。

 そんな殊勝な考えをしているのに、目は酒屋を探していた。小さな店を見つけ氷結を求めると
 「氷結は見本しかないので差し上げます。」 と言ってくれた。
だが余りに小さな店でタダで貰うわけにはいかず、強引にコンビニ料金を置いてきた。

 ただゴールした戸綿駅で乾杯の一口を飲むと、体中に疲れが出たようにぐったりしてしまった。
アーァ 飲まなければ良かった。と、思いながらも飲み干してしまう意地の汚さよ。

遠江33観音 番外

2016-07-01 12:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-27(月)
歩行時間:7時間00分   休憩時間:1時間46分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時00分     到着時刻:15時45分
歩  数: 36、968歩(推定距離26.24km)    GPS距離26.3km
行程表
 袋井駅 1:05> 成道寺 0:05> 8番観正寺 0:45> 11番遍照寺 1:00> 遠江一宮駅 1:40> 9番清瀧寺 1:00> 小國神社
 1:05> 10番蓮華寺 0:20> 天浜線戸綿駅 

                                     番外・小國神社
        
                                     コース概略図

 遠江33観音2回目の今日のコースを概略図で説明します。
袋井駅から遍照寺までは信州街道を北上してきたが、そこから信州街道と分かれて太田川を渡り、トウモロコシ畑などのある広い
農地の中を行く。次に峠を越して天浜線の遠江一宮駅にでる。駅から少し北上し駐在所の信号を県道40号に入る。
県道を少しに西に向い新東名の見える交差点を右折して新東名に向かって北上をする。
ここまでは順調に来たのだが新東名を越した所で右折する個所を見落とし、そのまま道なりに直進してしまった。
予定では黄色の道を歩き直接清瀧寺に向う筈だったのが、歩いた道はトンネルの峠を越えてから北上し、再度山に登る道だった。
少し大変な思いをしたが新しい道も歩け、それなりに満足して清瀧寺に着く事ができた。

 ここまでは前回案内したが、これから先も当初予定していたコースを大幅に変更した。
先ず大茶園の中を東に向かい、途中から新東名まで南下して小國神社に行く道に出たら今度は北上して小國神社に向う予定だ。
だが、大茶園からは直接小國神社近くに出る近道があり、以前一度歩いたのだが、その近道の入口が分からなくなっていた。
3年前の獅子ヶ鼻のトレッキングの帰りにも、その道を探したが結局分からずじまいで新東名まで下ってしまった。
今回は端からその道は諦めて新東名まで下る予定だったが、距離を短くしたい一心でネットで色々検索した結果、一番有力な
情報 「石垣の上にある記念碑の裏に蓮僧院に向かう道がある。」 を得る事ができた。
果たしと道を見つける事ができるか分からないが、兎も角石垣を探してみる積りだ。
 小國神社からは秋には紅葉が綺麗な沢を溯って大洞院に行き、大洞院からは八形山を縦走して10番蓮華寺行く予定だったが
ここでも距離を大幅に短縮して大洞院には行かず、八形山の縦走も止めて、低い峠を二つ越えて蓮華寺に行く道を選んだ。
これで33kmはあった歩行距離が約7km減って約26kmになる。これなら病み上がりの身でも何とかなるだろう。

 
              獅子ヶ鼻公園のトイレ                             白い幹肌の柿の木

 9番札所清瀧寺の前にはユニークな入口のトイレがある。最初見た時は驚いたが慣れてしまうと・・・・・
札所横の車道を更に北に登り、新興宗教らしき神社の手前を右折して柿園と茶園のある広い農地に出る。ここからはまた直射日光の
当たる暑い道になった。
 農園の西の入口にある柿畑は多分森町名産の次郎柿だろうが、次郎柿にしては木の幹の色が白すぎる。まるで幹に白い布を巻き
それが幹と同化したみたいに見える。しかし近づいて見ても布などは巻いてなかった。
それに隣の柿園の幹は普通の幹肌だったので、この白い幹は次郎柿ではなく別種の柿なのだろうか?

 柿園の間の道に「通り抜けできません」 の案内板がるが、そこに 「豊岡町」 と書いてある。と云う事は、ここは森町ではないのか?
不思議に思い家に戻り調べてみたら、次に紹介する記念碑からゴルフ場に続くメインの道が町境になっていた。

 
                開墾記念碑                                   大茶園

 ゴルフ場から来るメインの道の角に開墾記念碑が建っている。6年前に初めて来た時のブログにこんな事が書いてあった。

 『茶畑の上に来て、そろそろ左に曲らなければならないが何所を曲るのだろう? と思案を始めるとタイミングよくエンジン音が
近づいてきた。覗き込むと茶摘機に乗った人がこちらに向かってくる。
 「済みませ~ん。獅ヶ鼻公園に行きたいのですが」
 「そこに石碑が見えるだろう。そこを左に曲ればすぐだよ」
と教えてくれた。だがその石碑が分からない。
忙しそうにしている人にそれ以上聞けず歩き出した。
石碑?石碑なんかない。その替わりタンクのような物はあるが、これを石碑とは言わないだろう。変だなーと思いながら歩いて行くと
右の方に小さな薮があった。中を覗き込んでみると石碑が建っていた。
石碑には「自立自興」と彫ってあるようだ。銘は3代前の県知事だった山本敬三郎となっている。きっと茶園を開墾した記念碑だろうが、
今は薮のようになった木に囲まれていて、外から石碑は見る事も出来ない。』 と書いてあり藪の写真まで掲載してあった。

 現在その藪は切り払われ記念碑がしっかり顔を出している。私のブログを見て藪を切り払ったのかしら。そんな事はないよな。


                               地理院の地図に出ている山道

 ゴルフ場に下る道もメインだが、記念碑から二つ目の角を曲がり東に向かい新東名に下る道もメイン通路のようで道端には電柱が
続いていた。さてさて小國神社の近道はこの道の横にあるのだがヒントは 「石垣の上にある記念碑」 の言葉だけ。
兎も角石垣を見落とさない様に下ったが、あるのは害獣除けのフェンスばかりで石垣など出てこない。地理院の地図には車道が
カーブしている所から山道はあるので、カーブの所は特に念入りに見たがそれらしきものは無い。

  

 大茶園を大分下り既に林も出てきて茶園も見えなくなってきた。今回も諦めるしかないかと思い始めた時に石垣が見えてきた。
石垣の横は滑り降りたような痕跡もある。記念碑が見えないかと覗き込むと木の枝の影に何やら黒い物体が微かに見える。
若しや記念碑かと思い登ろうと思ったが、手を使わなければ登れそうもない。石垣の先を見ると徐々に低くなり次の電柱の所で
石垣は終っていた。それなら無理することは無いと次の電柱の所まで行く事にした。

 最初にあった電柱番号は202号で次の電柱は203号だった。若しここに近道があるのならこの電柱番号と石垣で次からは何とか
なりそうだ。
203号から雑草の中に入ると アラー林の中に下る道がある。なら記念碑はと見るが無い。

  
       石垣の上の記念碑                 記念碑の裏の道               遍路道のような近道     

 近道を紹介したブログには 「石垣の上にある記念碑の裏に蓮僧院に向かう道がある。」 とあったので、この下る道ではなさそうだ。
石垣の上へ行く踏み跡もあったので辿っていくと、有りました、ありました。雑草の生茂った広場に記念碑がポツンと建っていました。
石碑には “記念碑” ではなく 「彰徳碑」 と刻まれていたが内容は読む気にもなりませんでした。イエ読めませんでした。
 彰徳碑の裏に回ってみると思っていたよりハッキリした踏み跡、イエ道が伸びていました。これなら間違いはないと迷うことなく
その道を下り始めた。
 その道には見出標なのか、黒い杭で上部が赤い杭が数m置きに差し込まれているので何の心配も迷う事も無く歩く事ができた。
道は低い沢状にへこんでいて、よく遍路していると見る形状の道だった。昔は遠江33観音の遍路が歩いた道かもしれないな。
そして今でも歩く人がいるような感じがする道だった。

 
              山道が出た所の民家                         正面にお寺(蓮僧院)が見えた

 山道に入り10分も歩くと茶畑に出て民家があった。ウン大成功だ。民家の道らしき舗装路を下ると、すぐ正面にお寺が見える道に
出た。あれが蓮僧院なのだろう。
 この近道を歩かなければ新東名まで下り、再度登ってこなければならない。その距離は約3.5km。近道を500mとしても3kは短縮
できた計算になる。次回ここを歩く時にはこの道を利用しよう。

 蓮僧院の前で散歩中のお年寄りに 「何処から来なさった?」 と声を掛けられた。
 「大茶園からあの山を越えてきました。」 と言うと
 「そうですか、あの道は昔は遍路さんが歩いた道だったが今でもその道が分かるのかね。」
 「え~ 思ったよりハッキリしていて今でも歩く人がいるようですよ。」
 「昔のお遍路さんは敷地から山を越えてここに出て、小國神社や塩井神社にお参りして森の方に行っていたがナ~」 
 「私もお遍路をしていて、獅子ヶ鼻の清瀧寺から森の蓮華寺に行く予定です」
と言ったが獅子ヶ鼻も清瀧寺も分からないようだった。
 「じゃぁ気を付けて行きなさいよ。」 と別れました。

 
                  小國神社                              10番蓮華寺の案内板

 道を探さなければならなかった近道では、緊張していたのか快調に歩けたのだが、蓮僧院から小國神社にかけての県道歩きでは
気分が緩んだのか疲れ果ててしまった。蓮僧院から小國神社の入口まではたったの400m程しかないのに入口に着いた途端に
道路の縁石に座り込んで先に進む気にならなかった。ここに駅があれば途中離脱をしたいと思ったが、駅は勿論バス停もない。
まだ21km程しか歩いてないのにこの疲れ方は異常で、前回のダウンした後遺症でも出たのかもしれない。
さて、この先はどうしよう、無理せずここから遠江一宮駅まで引き返すか。それとも予定通り4kmほど先の蓮華寺まで頑張ろうか。
迷っていると道路脇に10番札所の蓮華寺の案内板が目に入った。その案内板には何と 「萩の寺 これより1.5k」 となっている。
1.5kなら想定していたよりズート短いし、遠江一宮駅へ行くのと同じくらいだろう。
それなら迷う事はないと予定通り10番札所蓮華寺に向かう事にした。
(蓮華寺の案内板に 「遠州観音第一番札所」 とあるのは、蓮華寺は遠江、遠州それぞれの札所になっているためです)