歩行記録 H28-7-8(金)
歩行時間:4時間50分 休憩時間:1時間30分 延時間:6時間20分
出発時刻:6時20分 到着時刻:12時40分
歩 数: 10、632歩(推定距離11.4km) GPS距離10.1km
行程表
須走口5合目 1:10> 6合目・長田山荘 0:30> 須走口砂払5合目分岐 0:45> 吉田口6合目 0:40> 砂払5合目分岐
0:35> 6合目・長田山荘 0:20> 砂払5合目 0:15> 須走口5合目 0:20> 小富士 0:15> 須走口5合目
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/44/4a9c68b97ba666ccf2ac7c94478775e1.jpg)
古御嶽神社 三十三度 登頂記念碑
通行禁止ゲートの手前に小さな 「古御嶽(こみたけ)神社」 があり、ここにはかって4合目にあった 「御室(おむろ)浅間神社」 と
2合目にあった 「雲霧(くもきり)神社」 も合祀されているとある。
古御嶽・御室・雲霧 といずれの名前も和風で恰好よいが、山梨県にも小御岳神社や小室神社もあるのも面白い。
中でもコミタケ神社は、ここ須走口も吉田口も5合目に鎮座しているのには何か訳があるのだろうか?
5合目だから富士山の半分の場所に祀った、と思いたいが、5合目自体の名称がバスの終点の都合で変わった経緯を考えると
それも違うようだ。後で考えてみよう。
社の横に 「三十三度 大願成就 大先達」 の石碑が建っている。かって富士講が盛んだった頃の先達だった方の物だろう。
この33回の富士登山は、今では決して多い数ではないが、乗り物の無い時代の登山回数としては多かったのだろう。
その33回に比べダントツに多いのは、御殿場の強力 梶房吉さんの1672回がある。梶さんは富士山頂で2回目の通年観測を
した佐藤順一氏の手助けをしたり、測候所の強力や御殿場口九合目の山小屋の経営もしていました。
その九合目の小屋は50年前には既に倒壊して廃材があっただけだったが、3年前には数本の廃材が残っていただけだった。
小屋の場所は山頂の銀名水から宝永山にかけての低地にあり、冬季は雪崩の恐れから測候所の職員はそこを避けて南側の
尾根に鉄柵を設けた長田尾根を登っていた。そんな条件に加へ尾根に両側を遮られてご来光も見る事も出来ない。
今この小屋があったとしても泊まる人はいないだろう。強力としての才能は豊かだったが経営者としての才能は???かな。
高校時代同級生だった梶さんの孫と2人で閉山後の富士山に登り、7号8尺で引き返した事がある。その時はバスは無かった
筈なのに5合目までは自転車で行ったのだろうか? 覚えていない。
覚えているのは下山中に一緒になったヤンキー(米兵)と相撲を取ってチョコレートを貰った事だけだ。
富士山登頂記録と云えば今月7日現在1855回登頂した沼津の実川さんがいるが、この方と梶さんの登頂回数とは一概に
比較はできないと思っている。方や仕事として登った回数で、方や暇に飽かせて1日に何度も登ったりした記録狙いの回数だ。
凄いとは思うが私の感覚では理解できない。
エッ! 私の登頂回数ですか? 正確な回数は分からないが剣が峰に立ったのは10回程度かな? 頂上ではないが8合目まで
なら50回は登っていると思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/94/3dfd8e20eec00b0e51fabf36c945f623.jpg)
通行禁止ゲート 小富士への標識
古御嶽神社の下に通行禁止ゲートがあり、そこに林の中を示す標識が見てきた。近づいて見ると 「小富士 20分」 となっている。
他にも 「冨士浅間神社」 や 「馬返し」 もあって、小さく 「富士箱根トレイル」 とも書いてある。
この富士箱根トレイルは2011年秋に歩こうとしたが、出発点が須走口5合目だったがそこまで行く手段が無かった。
車で行ったとしても5合目から須走まで歩き、そこから同じ道を5合目まで車を取りに戻るなんてとてもヤル気にはなれなかった。
仕方なく出発地を籠坂峠として歩き始めたのだが、これでは富士箱根トレイルを歩いた事にならない。そこでゴールだった金時山を
更に先の三島駅に変更して、勝手に 「富士眺望トレイル」 と称して歩いた事がある。
1回目を 籠坂峠-三国山-明神山-不老山-駿河小山駅
2回目は 駿河小山駅-足柄峠-金時山-乙女峠-長尾峠-湖尻峠-岩波駅
3回目を 岩波駅-湖尻峠-三国山-箱根峠-旧東海道-三島駅 と富士山の南側をグルリ回った。
このコースでは同じような富士山の眺めで面白くないと云う向きもあるが、歩いた感想は 「イヤー中々良かった。」 だった。
特に長尾峠を過ぎた所で、自分が歩いて来た稜線を眺めた時は人間の足とは素晴らしい、と感激した事を覚えている。
オッと今は小富士の話だった。話を元に戻そう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/43/fc6f6d4f481d02dc697177de7d4ce91b.jpg)
整備された登山道 木の根が凄い
今日は腹積もりしてあった吉田の御庭を止めたので、時刻はまだ12時前で時間的余裕は十分ある。それなら小富士へ行くのも
面白いかとハイキングコースに入った。
小富士への道は気持が良く、コノスジ中途道や登山道より整備されていた。道脇の誘導ロープは入口から小富士まで続いていて
これなら途中でガスられたとしても道に迷う事はない。ダケカンバなのだろうか、真っすぐ上に延びた木々も清々しく感じた。
5分ほど行った所に馬返しの標識が建っていたが、その入口は誘導ロープで遮られている。その先には踏み跡はあるがロープを
跨いて行っていいのか悪いのか判断に迷いそうだ。最も今日は関係ないが。
木の根が地表に張り廻ってた所もあったが、どうやら地表のすぐ下が岩盤で根が下に張れないようだ。その所為か倒木も多かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/82/b12300113ceee45945869df51d4b9bd4.jpg)
砂礫にケルン? 先にもケルンが見える
突然林が終わり木も草も何も生えていない砂礫帯に出た。前方に大型のケルンがあるのを見るとここが小富士のようだ。
山とも岡とも言えないような低い膨らみしかない細長い砂礫帯が続いていて、更に先にもケルンが見えたので行ってみると、ケルンの
中腹には石の祠が安置してあった。更にその先にも下り気味の砂礫帯が続いている。
余り正確ではないが横幅30m位で長さ100mの砂利場と云った感じだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/31/30094cdd84c015a04dd90459963ebf9a.jpg)
後ろを振り返ると富士山が 更に先に道は続いていた
後ろを振り返ると霧のとれた富士山が見えていて、霧を心配したのが取り越し苦労だったようだ。
実はこの “コフジ” の事は幼い時から知っていたが、漢字は “古富士” だと思っていた。場所は須走の街の斜め北の上にあり他の
場所に雪が消えてもそこだけは何時までも雪が残っていたので、古冨士は砂走と同じような火山灰に覆われている所と思っていた。
そしてその火山灰は今の富士山の物ではなく、それ以上昔にあった古富士火山の噴出物だと思っていた。
その後に古富士火山より大きい新富士火山が誕生して古富士火山を覆いつくしてしまったと思っていた。
だがそれはとんだ早とちりでだったのだが、その正しく分かりやすい説明が静大防災総合センターのHPにあったので・・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/30/a25aa766c702a923f205b51bacacee45.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/71/4e63ae539d241fd14be5821c6547c376.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/96/21a8a3508b9745a12f43a724b508eba2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/ca/64e5d8dbaeb19f17870d4157d20cb1ce.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/ab/7ac41a47fb2e4ce019fac1dfafb8ce76.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/85/321b168d87213a9531b58312aa979644.jpg)
勘違いの元は、富士山の火山活動は小御岳火山、古富士、新富士と三期に亘っていたが、私は小御岳火山を知らなかった。
しかもコ富士火山はその名前からてっきり須走にあるコ富士だと思い込んでいた事だ。。
それが富士山に何度か登るようになり、その生い立ちに興味を覚えて火山が三期に亘っていたことを知る事ができた。
しかし静大の説明にも紛らわしいヶ所もある。
例えば①の小御岳火山について 「富士山のやや北側に、小御岳火山が誕生しました。」 とあるが、これでは古御岳神社や
小富士がある須走口と思ってしまうのも無理はない。
だがこの場所について国土交通省富士砂防事務所の広報誌には、静大と同じイラストを使ってこんな風に説明している。
「現在の富士山よりやや北側に小御岳火山と呼ばれる火山が誕生しました。その山体の一部は、富士吉田登山口5合目の
小御岳神社付近で今も見ることができます。小御岳は高さ2400mくらいまで成長し、これが最初の富士山となりました。」
そうなると須走口の古御岳神社や小富士は小御岳火山とは関係ない事になる。
このあたりの事を説明足した案内板が欲しいとことだが小富士には何もない。
②の古富士火山について砂防事務所の広報誌には 「小御岳の南側で噴火がおこり、古富士という2番目の富士山が現れました。
古富士は2700mにもなり、小御岳を覆ってしまいました。」
ここでは小富士の場所は “小御岳の南側” とあるだけで具体的な場所の指定はない。だがウィキペディアには
「古富士火山の山体は宝永山周辺等富士山中腹にかなり認められる。」とはっきり宝永山と名指ししている。
この説については昨年NHKTVで放送された 「プラタモリ」 の “宝永山編” で、ゲストの静大教授も同じような事を話していたので
これが主流の説なのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/4f/c8f574356f468e2df4b2eaae8bcb2df1.jpg)
離れた積雪地が小富士?(今日のではありません) 八ケ岳か
今日の写真ではないが小富士の場所は雪が無いと分かり難いので・・・。写真の中央より右の下に離れた場所に雪がある場所が
小富士だと思われます。
宝永山は富士山左中腹の凹んだ所がそうですが、その下の雪が一杯ある場所が、かってはスキー場のあった御殿場口です。
ここも貸切だと思いながらケルンの横に座り込んでいると、若い親子連れと思われる4人が近づいてい来た。
荷物はカメラだけでリュックも無く、女性の服装が何となく日本人離れしていると感じた。
「こんにちは」 と声を掛けると 「コンニチハ」 と返ってきたが矢張りニュアンスが違う。そんなとき子供が母親に話しかける
「ママ ◯▽□◇・・・・・」 を聞いて中国人だと分かった。富士山には外国人が多いと聞いていたが、こんな所にも来るんだと驚いた。
それにしても子供が使った 「ママ」 って言葉は英語ではないか、中国人も英語を使うのかと気になって調べて見ると、ママとは
「日本語、中国語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語などの言語において母親を呼ぶときの言葉」 とあった。
エッ! ママが日本の言葉? とても納得できず他も調べてが余りに簡単な言葉過ぎるのか見当たらなかった。
ただ中国語に関しては 「中国語の漢字表記では “媽媽”」 となっていた。そうなると日本の “ママ” の語源は中国語なのかしら?
私の子供の頃は母親をママと呼ぶのは金持とか、シャコッタ家でしかなかったが、語源が中国語だったとしたら慌てて止めるだろな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/c2/89c68b359b9f784f52741b8bfd0d48d4.jpg)
逃げなかった鹿 アザミラインは霧だった
5合目に向かう途中で若い鹿に遭遇した。今まで出合った鹿は、こちらに気付くとピョーンと跳ねてすぐ逃げていたが、ここの鹿は
人慣れしているのか、若いので人間の怖さを知らないのか、こちらに気付いても平気で餌を食べていた。
12時45分に5合目に到着。今回のルートは “暑くなく、長くない” を主眼にしたが、距離は11km程度で長くなく、しかも標高が
2400mで曇ったり霧が出たりと余り暑くなかったので、目的を達する事ができた
問題は帰途で、朝は新東名を走り2時間10分で着いたが帰りをどうするかだ。高速代は2500円だったが往復だと5千円を越して
しまう。なんか勿体ない~とケチ根性が出て高速を使わず下で帰る事にした。
ルートは国号246は止めて須走から十里木に抜けて、新富士駅の横を通り国1バイパスで帰る事にした。
途中少し混んでいた所もあったので3時間20分掛かってしまったが、1時間強で2500円は年金生活者としては魅力だ。
ただ運転で同じ姿勢を続けるのは流石に疲れた。
車で須走口5合目を少し下った辺りから霧が出始めて、一時は中々の濃霧になったが、アザミラインは舗装も新しく黄色のセンター
ラインがハッキリしていて困る事は無かった。
後で知ったのだが明日(9日)からはこの道はマイカー規制になるとか。そうなると5合目まではバス代が掛かるようになるのだから
丁度よい時に登ったことになる。
歩行時間:4時間50分 休憩時間:1時間30分 延時間:6時間20分
出発時刻:6時20分 到着時刻:12時40分
歩 数: 10、632歩(推定距離11.4km) GPS距離10.1km
行程表
須走口5合目 1:10> 6合目・長田山荘 0:30> 須走口砂払5合目分岐 0:45> 吉田口6合目 0:40> 砂払5合目分岐
0:35> 6合目・長田山荘 0:20> 砂払5合目 0:15> 須走口5合目 0:20> 小富士 0:15> 須走口5合目
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/eb/1f1c09b5a472931c19e2b6be8c8246a8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/44/4a9c68b97ba666ccf2ac7c94478775e1.jpg)
古御嶽神社 三十三度 登頂記念碑
通行禁止ゲートの手前に小さな 「古御嶽(こみたけ)神社」 があり、ここにはかって4合目にあった 「御室(おむろ)浅間神社」 と
2合目にあった 「雲霧(くもきり)神社」 も合祀されているとある。
古御嶽・御室・雲霧 といずれの名前も和風で恰好よいが、山梨県にも小御岳神社や小室神社もあるのも面白い。
中でもコミタケ神社は、ここ須走口も吉田口も5合目に鎮座しているのには何か訳があるのだろうか?
5合目だから富士山の半分の場所に祀った、と思いたいが、5合目自体の名称がバスの終点の都合で変わった経緯を考えると
それも違うようだ。後で考えてみよう。
社の横に 「三十三度 大願成就 大先達」 の石碑が建っている。かって富士講が盛んだった頃の先達だった方の物だろう。
この33回の富士登山は、今では決して多い数ではないが、乗り物の無い時代の登山回数としては多かったのだろう。
その33回に比べダントツに多いのは、御殿場の強力 梶房吉さんの1672回がある。梶さんは富士山頂で2回目の通年観測を
した佐藤順一氏の手助けをしたり、測候所の強力や御殿場口九合目の山小屋の経営もしていました。
その九合目の小屋は50年前には既に倒壊して廃材があっただけだったが、3年前には数本の廃材が残っていただけだった。
小屋の場所は山頂の銀名水から宝永山にかけての低地にあり、冬季は雪崩の恐れから測候所の職員はそこを避けて南側の
尾根に鉄柵を設けた長田尾根を登っていた。そんな条件に加へ尾根に両側を遮られてご来光も見る事も出来ない。
今この小屋があったとしても泊まる人はいないだろう。強力としての才能は豊かだったが経営者としての才能は???かな。
高校時代同級生だった梶さんの孫と2人で閉山後の富士山に登り、7号8尺で引き返した事がある。その時はバスは無かった
筈なのに5合目までは自転車で行ったのだろうか? 覚えていない。
覚えているのは下山中に一緒になったヤンキー(米兵)と相撲を取ってチョコレートを貰った事だけだ。
富士山登頂記録と云えば今月7日現在1855回登頂した沼津の実川さんがいるが、この方と梶さんの登頂回数とは一概に
比較はできないと思っている。方や仕事として登った回数で、方や暇に飽かせて1日に何度も登ったりした記録狙いの回数だ。
凄いとは思うが私の感覚では理解できない。
エッ! 私の登頂回数ですか? 正確な回数は分からないが剣が峰に立ったのは10回程度かな? 頂上ではないが8合目まで
なら50回は登っていると思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/c2/fed0a36a79d5ae0d5c41dd8e36f56a92.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/94/3dfd8e20eec00b0e51fabf36c945f623.jpg)
通行禁止ゲート 小富士への標識
古御嶽神社の下に通行禁止ゲートがあり、そこに林の中を示す標識が見てきた。近づいて見ると 「小富士 20分」 となっている。
他にも 「冨士浅間神社」 や 「馬返し」 もあって、小さく 「富士箱根トレイル」 とも書いてある。
この富士箱根トレイルは2011年秋に歩こうとしたが、出発点が須走口5合目だったがそこまで行く手段が無かった。
車で行ったとしても5合目から須走まで歩き、そこから同じ道を5合目まで車を取りに戻るなんてとてもヤル気にはなれなかった。
仕方なく出発地を籠坂峠として歩き始めたのだが、これでは富士箱根トレイルを歩いた事にならない。そこでゴールだった金時山を
更に先の三島駅に変更して、勝手に 「富士眺望トレイル」 と称して歩いた事がある。
1回目を 籠坂峠-三国山-明神山-不老山-駿河小山駅
2回目は 駿河小山駅-足柄峠-金時山-乙女峠-長尾峠-湖尻峠-岩波駅
3回目を 岩波駅-湖尻峠-三国山-箱根峠-旧東海道-三島駅 と富士山の南側をグルリ回った。
このコースでは同じような富士山の眺めで面白くないと云う向きもあるが、歩いた感想は 「イヤー中々良かった。」 だった。
特に長尾峠を過ぎた所で、自分が歩いて来た稜線を眺めた時は人間の足とは素晴らしい、と感激した事を覚えている。
オッと今は小富士の話だった。話を元に戻そう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/6c/6db5d198194cf4e53033c92766231caf.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/43/fc6f6d4f481d02dc697177de7d4ce91b.jpg)
整備された登山道 木の根が凄い
今日は腹積もりしてあった吉田の御庭を止めたので、時刻はまだ12時前で時間的余裕は十分ある。それなら小富士へ行くのも
面白いかとハイキングコースに入った。
小富士への道は気持が良く、コノスジ中途道や登山道より整備されていた。道脇の誘導ロープは入口から小富士まで続いていて
これなら途中でガスられたとしても道に迷う事はない。ダケカンバなのだろうか、真っすぐ上に延びた木々も清々しく感じた。
5分ほど行った所に馬返しの標識が建っていたが、その入口は誘導ロープで遮られている。その先には踏み跡はあるがロープを
跨いて行っていいのか悪いのか判断に迷いそうだ。最も今日は関係ないが。
木の根が地表に張り廻ってた所もあったが、どうやら地表のすぐ下が岩盤で根が下に張れないようだ。その所為か倒木も多かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/32/0b90e9bbbc6c3ea9ba0d5ff37fddbec8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/82/b12300113ceee45945869df51d4b9bd4.jpg)
砂礫にケルン? 先にもケルンが見える
突然林が終わり木も草も何も生えていない砂礫帯に出た。前方に大型のケルンがあるのを見るとここが小富士のようだ。
山とも岡とも言えないような低い膨らみしかない細長い砂礫帯が続いていて、更に先にもケルンが見えたので行ってみると、ケルンの
中腹には石の祠が安置してあった。更にその先にも下り気味の砂礫帯が続いている。
余り正確ではないが横幅30m位で長さ100mの砂利場と云った感じだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/91/a777f62ac45972da691ef5918fbb9a8b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/31/30094cdd84c015a04dd90459963ebf9a.jpg)
後ろを振り返ると富士山が 更に先に道は続いていた
後ろを振り返ると霧のとれた富士山が見えていて、霧を心配したのが取り越し苦労だったようだ。
実はこの “コフジ” の事は幼い時から知っていたが、漢字は “古富士” だと思っていた。場所は須走の街の斜め北の上にあり他の
場所に雪が消えてもそこだけは何時までも雪が残っていたので、古冨士は砂走と同じような火山灰に覆われている所と思っていた。
そしてその火山灰は今の富士山の物ではなく、それ以上昔にあった古富士火山の噴出物だと思っていた。
その後に古富士火山より大きい新富士火山が誕生して古富士火山を覆いつくしてしまったと思っていた。
だがそれはとんだ早とちりでだったのだが、その正しく分かりやすい説明が静大防災総合センターのHPにあったので・・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/30/a25aa766c702a923f205b51bacacee45.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/71/4e63ae539d241fd14be5821c6547c376.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/96/21a8a3508b9745a12f43a724b508eba2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/ca/64e5d8dbaeb19f17870d4157d20cb1ce.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/ab/7ac41a47fb2e4ce019fac1dfafb8ce76.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/85/321b168d87213a9531b58312aa979644.jpg)
勘違いの元は、富士山の火山活動は小御岳火山、古富士、新富士と三期に亘っていたが、私は小御岳火山を知らなかった。
しかもコ富士火山はその名前からてっきり須走にあるコ富士だと思い込んでいた事だ。。
それが富士山に何度か登るようになり、その生い立ちに興味を覚えて火山が三期に亘っていたことを知る事ができた。
しかし静大の説明にも紛らわしいヶ所もある。
例えば①の小御岳火山について 「富士山のやや北側に、小御岳火山が誕生しました。」 とあるが、これでは古御岳神社や
小富士がある須走口と思ってしまうのも無理はない。
だがこの場所について国土交通省富士砂防事務所の広報誌には、静大と同じイラストを使ってこんな風に説明している。
「現在の富士山よりやや北側に小御岳火山と呼ばれる火山が誕生しました。その山体の一部は、富士吉田登山口5合目の
小御岳神社付近で今も見ることができます。小御岳は高さ2400mくらいまで成長し、これが最初の富士山となりました。」
そうなると須走口の古御岳神社や小富士は小御岳火山とは関係ない事になる。
このあたりの事を説明足した案内板が欲しいとことだが小富士には何もない。
②の古富士火山について砂防事務所の広報誌には 「小御岳の南側で噴火がおこり、古富士という2番目の富士山が現れました。
古富士は2700mにもなり、小御岳を覆ってしまいました。」
ここでは小富士の場所は “小御岳の南側” とあるだけで具体的な場所の指定はない。だがウィキペディアには
「古富士火山の山体は宝永山周辺等富士山中腹にかなり認められる。」とはっきり宝永山と名指ししている。
この説については昨年NHKTVで放送された 「プラタモリ」 の “宝永山編” で、ゲストの静大教授も同じような事を話していたので
これが主流の説なのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/7f/bad57d5ac8f171f2384696e10a55faba.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/4f/c8f574356f468e2df4b2eaae8bcb2df1.jpg)
離れた積雪地が小富士?(今日のではありません) 八ケ岳か
今日の写真ではないが小富士の場所は雪が無いと分かり難いので・・・。写真の中央より右の下に離れた場所に雪がある場所が
小富士だと思われます。
宝永山は富士山左中腹の凹んだ所がそうですが、その下の雪が一杯ある場所が、かってはスキー場のあった御殿場口です。
ここも貸切だと思いながらケルンの横に座り込んでいると、若い親子連れと思われる4人が近づいてい来た。
荷物はカメラだけでリュックも無く、女性の服装が何となく日本人離れしていると感じた。
「こんにちは」 と声を掛けると 「コンニチハ」 と返ってきたが矢張りニュアンスが違う。そんなとき子供が母親に話しかける
「ママ ◯▽□◇・・・・・」 を聞いて中国人だと分かった。富士山には外国人が多いと聞いていたが、こんな所にも来るんだと驚いた。
それにしても子供が使った 「ママ」 って言葉は英語ではないか、中国人も英語を使うのかと気になって調べて見ると、ママとは
「日本語、中国語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語などの言語において母親を呼ぶときの言葉」 とあった。
エッ! ママが日本の言葉? とても納得できず他も調べてが余りに簡単な言葉過ぎるのか見当たらなかった。
ただ中国語に関しては 「中国語の漢字表記では “媽媽”」 となっていた。そうなると日本の “ママ” の語源は中国語なのかしら?
私の子供の頃は母親をママと呼ぶのは金持とか、シャコッタ家でしかなかったが、語源が中国語だったとしたら慌てて止めるだろな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/d7/68ea39b30847fe31850957f96ed34624.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/c2/89c68b359b9f784f52741b8bfd0d48d4.jpg)
逃げなかった鹿 アザミラインは霧だった
5合目に向かう途中で若い鹿に遭遇した。今まで出合った鹿は、こちらに気付くとピョーンと跳ねてすぐ逃げていたが、ここの鹿は
人慣れしているのか、若いので人間の怖さを知らないのか、こちらに気付いても平気で餌を食べていた。
12時45分に5合目に到着。今回のルートは “暑くなく、長くない” を主眼にしたが、距離は11km程度で長くなく、しかも標高が
2400mで曇ったり霧が出たりと余り暑くなかったので、目的を達する事ができた
問題は帰途で、朝は新東名を走り2時間10分で着いたが帰りをどうするかだ。高速代は2500円だったが往復だと5千円を越して
しまう。なんか勿体ない~とケチ根性が出て高速を使わず下で帰る事にした。
ルートは国号246は止めて須走から十里木に抜けて、新富士駅の横を通り国1バイパスで帰る事にした。
途中少し混んでいた所もあったので3時間20分掛かってしまったが、1時間強で2500円は年金生活者としては魅力だ。
ただ運転で同じ姿勢を続けるのは流石に疲れた。
車で須走口5合目を少し下った辺りから霧が出始めて、一時は中々の濃霧になったが、アザミラインは舗装も新しく黄色のセンター
ラインがハッキリしていて困る事は無かった。
後で知ったのだが明日(9日)からはこの道はマイカー規制になるとか。そうなると5合目まではバス代が掛かるようになるのだから
丁度よい時に登ったことになる。