はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

塩の道&秋葉道Ⅳ(春野-西渡3)

2012-11-29 11:06:59 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅳ(春野~西渡3)                   歩行月日2012/10/21

歩行時間:8時間30分 休憩時間:9時間10分 延時間:6時間25分
出発時間:7時55分   到着時間:17時05分
歩 数: 40、440歩   GPS距離:24.7km

行程表
 秋葉橋 0:10> 九里橋 1:25> 三尺坊 0:25> 秋葉神社 0:45> 第2駐車場 0:10> 八町
 0:25
> 八町 0:45> 前不動 1:00> 八幡神社 2:30> 半血沢 0:55> 西渡バス停

 
     倒れていた道標                  階段の参道

観歩記
秋葉神社では塩の道を大事にしていないのかな? 研究会の道標は倒れたままだし、境内に
塩の道を案内する物も無い。確かに塩の道を歩く人は少ないし、入れる賽銭も少額で参拝者の
対象にはならないかもしれないが、境内の中を古代からの流通の道が通っている事を知れば
一般の参拝者は秋葉神社が伝統ある神社であること再認識してくれるだろう。
それより何より塩の道は秋葉山の表参道であり、裏参道でもある。さらに言えば「北遠の道は
秋葉山に続いている」
と題して駿河、遠州、三河、信濃からのあきは道の概略図を掲げれば
より実感してもらえると思うのだが。

社務所から連なる建物の中に秋葉茶屋がある。その辺りから参道は二手に分かれ、右に段差の
ない道、左に階段の道になっていた。頭にある塩の道の分岐点の写真は、平らな参道だったが、
分岐を左折するようになっていた。それなら左側の階段を歩いても大丈夫だろう。それにブログの
写真には階段の参道もあった。
さらに言えば階段は西の方向に向かい、その左手は東の谷になっている。塩の道は天竜川に沿って
北に向かっているので、当分分岐点は無いと判断して階段を下っていた。
(その判断が間違いだったと気づいた時は、すでに遅かった)

 
           神 門                           青龍

   
           玄武                    白虎 

階段の途中にあった神門の柱には、高松塚古墳で有名になった、四神の彫刻が取り付けてあった。
東の青龍、西は白虎、北は玄武、南の朱雀の四獣で四方を守る神なので四神(しじん)だとか。

西に向かう階段はまだ続く。右側には時折段差のない道も見えるので分岐はまだなのだろう。
神社の中にも参拝客が居たが、この参道を登ってくる人も結構いる。紅葉にはまだ早い平日だが
さすが天下の秋葉神社だ。

         
                 駐車所の鳥居

遂に駐車場まで来てしまった。参道を注意して歩いてきたが塩の道の道標は無かった。だが
駐車場の中には参道はない。サー困った。
駐車場の中をウロウロするが参道は見当たらない。ではあの写真は何だったのか、左に曲がる
ように写っていたが、あれは反対方向から写したもので、本当は右折するべきだったのか。
疑問が湧いてきて、もう戻るしかない。それも今度は段差の無い道を戻ってみようと決断した。
そんな時、駐車場の入口の方に大きな案内板があるのに気付いた。

         
        案内板                案内板拡大

アッ!塩の道がある! 案内板には第2駐車場の先に塩の道が描かれていた。
どうやら駐車場へ下る道を間違えてしまったようだ。どうしよう? 神社まで戻るべきか、それとも
この案内板が示すように、スーパー林道を歩いて塩の道入口まで行くべきか?
少し迷ったがすぐ決断をした。さっき下った参道を登り返すのも大変だし、戻っても塩の道の
分岐場所がすぐ分かるわけではない。それなら林道を行けば間違いなくもう一つの駐車場と
塩の道の入口に行く事が出来る。ヨシ!林道を歩こう。(これが二度目の判断ミス)

駐車場を出た林道はズンズン下って行く。嫌だな塩の道は尾根にあるのだから、また登り返さな
ければならない。そのうちに秋葉ダムへと書かれた標識も出てきた。
心配になり先程写した案内板の写真を拡大してみると、スーパー林道は秋葉ダムに向かう道とは
途中で分かれている。大丈夫、大丈夫、塩の道はこの先にある、と自分に言い聞かせながら坂道を
下って行く。

秋葉ダムへの分岐点には、左は秋葉ダム、右は秋葉神社第2駐車場の標識も立っていた。
これで一安心だ。
分岐点から道は上り坂になり、今まで下った分を取り戻さなければならない。
こんな事なら先ほどの駐車場から神社に戻った方のが楽だったに違いない。

秋葉神社に着いてからガイドブックを一度も見ていない。第2駐車場の先の神秘もあるので、確認して
みると、塩の道は秋葉神社の所を左折ではなく、右折して北に向かい、第2駐車場に延びている。
一方塩の道ガイドブックは、神社の手前で北に向かい、第2駐車場に延びている。でもこれは明らかに
おかしい。塩の道ガイドブックと連動している研究会の道標は、神社を通り過ぎた社務所の角にあった
のだから。更にガイドビックには「駐車場東の小道を辿る」と書いてある。先程の案内板には塩の道は
林道の左(西)から延びていた。フー!危ないとこだった。ガイドブックを確認して良かった。

  
         第2駐車場                   藪の中に続く塩の道

ようやく第2駐車場に到着。社務所横の道標を見付けてから、ここの第2駐車場まで45分掛かって
しまった。どの位ロスしたか正確には分からないが、この程度なら帰りの4時台のバスには十分
間に合うはずだ。
今回間違った原因は、時系列も分からないブログの写真に頼りすぎ、「左折」する事ばかりに気を
取られ過ぎたのが原因だ。思い込みは良くないですね。
(一見反省しているようだが、この後歩いた伊豆の達磨山でも思い込みにより失敗してしまった。
塩の道を歩く予定のある人は、秋葉神社の境内で迷ったら「第2駐車場」向かってください)

塩の道の道標は第2駐車場の東側ですぐ見つける事が出来た。だがその先を見ると、笹が生茂り
何とも歩きにくそうな道だった。

  
  秋葉神社の常夜燈                     常夜燈と道標

笹は陽の射さない林の中は生えていず歩き易いのだが、林が途切れると本当にここに道が続いている
のか疑いたくなるくらい笹が密生している。しかし時折ある常夜燈や道標がその不安を鎮めてくれた。
塩の道がスーパー林道に出たので後ろを振り返ると、何の事はない、先ほどの第2駐車場の入口から
50mも離れていなかった。

また山道に入る。先程から塩の道の横に、幅広く雑草を刈り取った道(?)が続いている。そこには黄色の
杭も打ってある。最初のうちは笹の中の道を歩いていたが、誘惑に負けて歩き易い方を歩く事にした。
杭を頼りに快調に歩いて行くと、その内登りがきつくなり踏み跡もかすかに。変だゾー! と思う間もなく
ピークに到着。そこには道標ならねコンクリの杭が立っていて、黄色の杭は左下の方に見えた。
杭を頼りにまた歩きやすくなった道を進んで行くと、右側から車の音が。林道は左に有る筈だが?? 
と思う間もなく林道に合流。その林道の先には駐車場の看板が!!そして後を振り返れば、こちらにも
さっき入った山道の入口があった。
何とマー! 山の中を一周して、また元の場所に戻ってしまったのだった。
一周するのにかった時間は25分だが、先ほどの間違いと合わせると小1時間にはなる。4時台のバスの
時間が少し気になりだした。

 
  正面が杭のある迷い道。塩の道は左の藪の中         ホッとした道標  

サーここからどうしよう?一瞬林道を歩く誘惑に駆られたが、山道で間違えた所はほぼ分かっている。
それならもう一度再挑戦だと、山道を行く事に。
間違った場所で杭と分かれ藪漕ぎの道に入って行く。笹や林の中に細い道は続いて10分も歩いた頃、
待望の塩の道の標識があった。感謝!感謝!でした。

 
     富士山が                   電波塔

左側に富士山が顔を出している。塩の道を歩き出して初めての富士山だが、これが最初で最後だろう。
富士山が見える場所の左には電波塔があった。これはガイドブックにも記載されている施設で、若し
この辺りで迷ったら、このアンテナを探すのも一つの方法だろう。

電波塔から5分ほどで再度スパー林道に合流。これなら林道を歩いた方が早かったが、これも一つの
経験だ。そして林道を歩く事5分で前不動に到着。これで迷いやすい個所は終わった筈だ。
だが今度は崩壊した橋や朽ちた橋がある沢が待ち受けている。楽しみのような心配なような----

塩の道&秋葉道Ⅳ(春野-西渡2)

2012-11-27 18:00:25 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅳ(春野~西渡2)                   歩行月日2012/10/21

歩行時間:8時間30分 休憩時間:9時間10分 延時間:6時間25分
出発時間:7時55分   到着時間:17時05分
歩 数: 40、440歩   GPS距離:24.7km

行程表
 秋葉橋 0:10> 九里橋 1:25> 三尺坊 0:25> 秋葉神社 0:45> 第2駐車場 0:10> 八町
 0:25
> 八町 0:45> 前不動 1:00> 八幡神社 2:30> 半血沢 0:55> 西渡バス停

               
                     秋葉山秋葉寺
観歩記
秋葉寺前には広い空地がある。これは12月の火祭りの中の火渡りの神事を行う場所なのだろう。
火祭りは同じ日に秋葉寺と秋葉神社で行われるが内容は違うと言う。秋葉寺の火祭りは僧と修験者に
よって営まれ、大護摩供が焚かれ、修験者と参拝客による火渡りの神事をクライマックスとしている。
一方秋葉神社では神官によって弓の舞、剣の舞、火の舞が行われるが、火渡りはないらしい。
では神仏分離令で秋葉山から排除された仏像仏具が移った袋井の可睡斎はというと。矢張り火渡りの
火祭りは行われていた。

駿河の江尻にも秋葉さんと呼ばれている「秋葉山本坊峰本院」という真言宗の寺がある。
この寺は宝暦年間に遠州秋葉山と寺社奉行所で本末を争った寺でもある。その寺でも火渡りの神事は
行われている。この清水の秋葉山峰本院では、もう一つ面白い事が分かった。それはここの住職は春野の
犬居城主天野氏の末裔だという事だ。
犬居城の天野氏は、前回紹介した徳川家康の一度目の攻撃の時は反撃して勝利したが、二度目の犬居城
攻撃で敗れ犬居の地を迫われている。その追われた中に天野一族だった本坊の住職がいて、逃亡先の
駿河の江尻で寺を再建した。どうですかこれで辻褄が合うでしょう。

もっとも峰本院のHPには「信玄の駿河進攻の軍功により、庵原軍の郡司となり、その信仰篤かりし
秋葉三尺坊大権現の霊感により大権現の尊像を奉じ当地にに堂宇を建設した」
となっている。
どっちにしても秋葉山と本家争いをする程の寺でない事は確かである。

寺の前の空き地から話が逸れてしまったが、こうして現地に立ってみると秋葉寺は貧弱に感じてしまう。
これが「伊勢参りの八割の人がお詣りをした」とも言われた秋葉さんとはとても思えない

秋葉山の来歴を簡単に整理すると、和銅2(709)年火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を
祀る岐陛保神社(きへほのかみのやしろ)が作られた。その9年後行基が自ら刻んだ聖観音を本尊とした
大登山霊雲院が開創された。
それから90年後の大同4年(809)に、越後より三尺坊が空を飛び当地にきて、霊雲院を秋葉山秋葉寺と名を
改め、秋葉大権現を祀る神仏混交の寺として大いに栄え、山頂には大伽藍を構え、36坊もあった宿坊に
多くの修験者や僧を住まわせていたという。
明治元(1868)年の神仏分離でが出て、秋葉寺は廃寺に追い込まれれ、本尊(三尺坊大権現)を含む仏像や
仏具は袋井の萬松山可睡斎に引き取られ秋葉寺は廃寺になる。
その2年後の明治5年に新政府は修験宗廃止令を強行し、秋葉山に残っていた秋葉社も廃社とされたが、
翌明治6年に地元の人々の強い願いにより、祭神を火之迦具土大神とする秋葉神社として再建された。
その後を追うように明治13年秋葉寺も地元の人々の強い願いにより、本尊を観世音菩薩とする寺として、
山頂下の8合目の杉平に再建された。

だがkの神仏分離令により一体だった火伏の神秋葉さんは三つに分離してしまった。
一、可睡斎  → 秋葉総本殿 → 秋葉三尺坊大権現
二、秋葉神社 → 秋葉山本宮 → 火之迦具土大神
三、秋葉寺  → 秋葉山   → 聖観音(秋葉三尺坊大権現)

それが理由かどうか火伏の能力が低下してしまい、昭和18(1943)年3月、山頂の秋葉神社から出火した
火事で、秋葉神社は神門を残すだけで後は全て灰燼と化してしまう。
一方は秋葉寺は本堂も庫裏も類焼から免れた。(この火事で富士見茶屋は焼失)

諺の「秋葉山から火事」と言えば「人を戒める立場の者が同じような過ちを犯してしまう」ことですが
この火事から生まれた諺なのか、それとも「医者の不養生」のように昔からあった諺なのか----
秋葉寺については、まだまだ紹介したい事はあるが、切りが無いので先に進もう。

秋葉寺の庫裏は学校の講堂のような感じだが宿坊なのだろうか、この宿坊は団体の宿泊は可能だが
一人二人の少人数では宿泊は出来ないらしい。私は当初森町からこの秋葉寺まで歩き、宿坊に泊まって
翌日は水窪まで行く計画を建てたが、これを聞いて断念した経緯がある。本当はこの宿坊にに泊まって
色々見たり聞いたりしたかった。特に可睡斎に移したとされる秋葉三尺坊大権現が秋葉寺にも秘仏として
祀ってあるらしいが、その経緯を聞いてみたかった。

   
         東海自然歩道の案内板            五の鳥居跡

宿坊の隣に続く参道は東海自然歩道でもある。案内板を見ると秋葉山山頂から下社に下り、犬居城跡や
春埜山を通り川根に抜けている。犬居城跡も遠州三霊山の春埜山、さらには駿河からの秋葉道も歩いて
みたいと思っているので丁度よいのだが、歩きたい場所が多くどうなることやら。

五の鳥居跡に出た。秋葉山の一の鳥居は掛川大池の秋葉山遥拝所。二の鳥居は森町大鳥居。三の鳥居
からは秋葉山の登りに入ってからだったが、その全ては鳥居跡だった。街中や車道に鳥居は再建しず
らいだろうが、この秋葉山の中なら何処でも建てる事は出来たろうに、なぜ建てないのだろう。
三分割されてしまった影響なのか。
この五の鳥居跡に朽ちた姿を晒している二本の柱は、秋葉さんの衰退した象徴のように感じた。

            
                  秋葉神社神門(隋神門)

秋葉山の火災から免れた門なのだが、神社なので山門はいわず神門とか随身門となっている。
案内板を見ると、この神門は旧春野町の指定文化財で、天保2(1831)年に諏訪の宮大工によって建てられ
門内の彫刻も諏訪三郎とあるので諏訪の人か。
遠州もこの辺りまで来ると遠州より信州の文化圏だったのか?そういえば秋葉寺の山門の仁王像は、
奥三河で廃寺なった寺が捨てた仁王像を再利用したとあった。
それらを考えれば、この北遠の地は遠州、三河、信濃の文化の入り混じった地域だったと思える。

 
      隋神門の扁額                 隋神門の彫刻

神門に掲げられている扁額には「火防秋葉神社」とあるから、これは明治以後の取り付けたのだろう。
更に寺なら仁王像が安置されている場所には右大臣・左大臣(随身)の像がある。これも明治に入って
仁王像と取り替えたのだろう。なら取り外した仁王様はどうしたのだ、秋葉寺に呉れてやれば良かった
のにと思うが、一度仲違いしてしまった仲は簡単には修復できないのか。

神門の欄干にある「獅子に乗った邪鬼」は珍しい形態とか。


          
                    正一位秋葉神社

秋葉神社上社に着いて驚いた。下社の人気のない境内や秋葉寺の落ちぶれた風情から想像して
秋葉神社上社も寂しい景色だろうと想像していた。それがあに計らんや、金ぴかの黄金の鳥居の先には
これまた虚仮威かし的な建物も見える。説明を読むと社殿は
「昭和61(1986)年の再建。流れ造りの本殿と入母屋造りの拝殿を幣殿で繋ぐ権現造りで、建坪130坪、
総檜造り拝殿正面には唐破風の向拝が続く」
とある。
という事は昭和61年までの神社は現在の秋葉寺と同じような感じだったのだろうか。だがそれにしても
この建物は成金主義と言うか新興宗教的と言うか、私には重さを感じることの出来ない神社だった。

現在秋葉山には「スーパー林道天竜線」が走っている。そのお蔭で秋葉神社は林道横に駐車場を作り、
そこから参道で秋葉神社にお詣りできるので、車の参拝は便利になった。
そのスーパー林道が開通したのは昭和58(1983)年で、その3年後に秋葉神社は再建された。火事で
衰退してしまった秋葉詣を、今度は車による秋葉詣で再開発しようと、あの神社を建てたのだろう。
その所為かどうか、今日は平日にもかかわらずチラホラ参拝客もいる。しかし車道の通じていない
秋葉寺は更にお参りする人が減ってしまったのではないか。寂しい限りだ。

 
         秋葉神社                  社務所横に倒れていた道標

秋葉神社の境内の塩の道は分かり難いらしいので注意しないといけない。彼方此方注意を払いながら
歩いて、社務所の横で踏破研究会の道標を見付けた。これで一安心。後は参道の皐月の植込みにある
道標を目指せばよい。

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秋葉さんが全国的な庶民信仰の霊峰になったのは次のような伝説が有る。
大同4年の後桃園帝の御世に、京の都で大火事が起り、御所に燃え移ろうとした。その時、御所の屋根に
異形な者が現れ、大きな葉団扇をふるって火を消した。
人々が名を聞くと「われは秋葉の三尺坊なり」と答えて空中を去って行った。

またある時は、御所に猛火が迫ると四条通りを秋葉寺の定紋である「剣花菱」の付いた高張提灯75丁が
通り過ぎた。すると不思議に洛中の火はことごとく消えたという。

こうして秋葉の三尺坊は火伏の神として、木と藁で作った家に住む庶民の間に広まっていった。

  
       花剣菱                     秋葉寺の屋根にあった花剣菱
     

塩の道&秋葉道Ⅳ(春野-西渡1)

2012-11-25 12:21:50 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅲ(春野~西渡1)                   歩行月日2012/10/21

歩行時間:8時間30分 休憩時間:9時間10分 延時間:6時間25分
出発時間:7時55分   到着時間:17時05分
歩 数: 40、440歩   GPS距離:24.7km

行程表
 秋葉橋 0:10> 九里橋 1:25> 三尺坊 0:25> 秋葉神社 0:45> 第2駐車場 0:10> 八町
 0:25
> 八町 0:45> 前不動 1:00> 八幡神社 2:30> 半血沢 0:55> 西渡バス停

観歩記
今日の予定は秋葉神社の表参道を登り、参拝後裏参道を下って旧佐久間町の西渡までを予定している。
ただ西渡から天竜までの帰りのバスが、16時26分と19時4分の2本しかないので、当然4時のバスに乗り
たいと思っているが、秋葉神社から西渡までの歩行時間がはっきりしない。
そこでネットで調べてみると、知人のKさんのHPに細かい通過時間が掲載されていた。それによれば
同じ時間のバスで出発して西渡到着は15時45分になっていた。これなら私も16時には着けそうだ。
そのHPの中に「橋が渡れない」と書かれた場所が三ヶ所もあり、気になって他のHPも調べてみると、
やはり橋が崩壊していると書いてある。中には沢の中に入り靴を濡らしたと書いてあるものもある。
余り危険な場所や水のある沢を渡るのも嫌だが、ガイドブックにも「橋崩壊」とか「橋は朽ちて渡れず」
書いてあるのをみると、地元は橋を直す気は無いのだろう。それでは諦めて沢越えをするしかない。

それともう一つ気になる事が書いてあった。「秋葉神社の境内は迷いやすい」となっていて「90分ロスをした」
ともある。これは気を付けなければいけない、幸いそのポイント場所の写真も載っていたので頭に叩き込む。
「参道左の皐月の植込みにある標識を左折する」  ウンこれで大丈夫。

   
      下社前の茶店                   火の見櫓の小天狗

天竜西鹿島駅から乗ったバスは秋葉神社下社まで行かないので気田川を渡った秋葉橋で下車。
かっての人達も遠州の海岸から運んできた海産物を荷車から降ろし、渡し船に乗せ、この辺りで陸揚げした後
馬や人が背負い、秋葉山を越えていったのだろう。
私も軽いストレッチのあと7時55分歩き出した。秋葉神社下社前の茶店は開いていず人気は無い。
ここから先は初めての道になるので気分は高揚してきている。
果たして今日は何を見て、何を体験できるのや、嬉しくてワクワクしてくる。

公園の広場の火の見櫓に半鐘と小天狗がチョコンと座っている。小天狗が三尺坊なのか?

 
      九里橋                       旧旅籠?

コンクリート橋の擬宝珠(ぎぼし)高欄に「九里(くり)橋」の文字が白く浮かんでいる。浜松からも、掛川からも
今では秋葉さんの本家のような可睡斎のある袋井からも、丁度9里(36km)の場所にあるから九里橋とか。
早速突っ込みを入れたくなる。
この塩の道の2回目と3回目で歩いた掛川から九里橋までのGPSの距離は40km余、袋井からだと34kmと
なっている。その差は1里以上あるが、マー良しとしておくか。

九里橋を渡ると旅籠のような感じの建物が何棟か並んでいる。かっては秋葉詣の人で賑わった坂下宿だが
今は営業している気配はない。山頂の秋葉神社まで車道が出来てしまい、歩く人もいなくなり門前町は
ただ寂れていくのみか。

          
     インターロッキングの参道            石畳の参道

坂下宿の名前の通り家並みが終わると急な坂になった。両脇に丁目石が立つ道は、インターロッキングや
石畳で整備されていて歩きやすい。
森町はかって「森の横町なぜ日が照らぬ 秋葉道者の笠のかげ」と唄われるほど、秋葉詣の人が多かった
いう。ならこの辺りは駿河からの秋葉道も合流するするので、森町より賑わった事になる。
整備された道が終わり山道に入ると、とてもさんな面影はない。

    
   四丁目の常夜燈4435     三の鳥居跡の常夜燈        金原明善の父親寄進の常夜燈

秋葉神社といえば常夜灯は付き物で、ここに来るまでも何十塔か分からないほどの常夜燈を見てきた。
だからきっと秋葉山の入口には、大きな常夜灯が建てられているのだろうと思っていた。
それが何故か大きな常夜灯は見当たらず、多いは四丁目にあったような基礎から火袋まで一本の石で
構成し、火袋を四角く刳り貫き、全面だけを照らし、その火袋の上に笠を置いた物が多かった。
このような常夜灯の形は麓では見かけなかったので秋葉式常夜灯なのだろうか?
参道横に説明板によれば「表参道に残る常夜燈の多く嘉永五年(1850)の開帳時に奉納されたもの」と
あった。今から160年余りも前の石にしては綺麗だし、崩れていない感じだ。

   
   海抜表示               富士見茶屋跡                

参道脇には海抜が表示されていた。最初に気付いたのは三の鳥居跡にあった「海抜160m」だったが
国土地理院の地図を見ると、下社前の海抜は110mとなっている。
秋葉山は885mなので770m余を一気に登ることになるので、中々厳しい登りだ。

私の知人に、秋葉神社表参道の富士見茶屋で子供時代を過ごしたAさんがいる。
そのAさんの書いた手記を読むと当時の山での生活の一端を知る事が出来る。だが読めば知識として
知ることは出来るが、Aさんが体験した実際の大変さはとても想像がつかない。

例えば「飲み水は50分ほど山を降りた谷川まで汲みに行き、天秤棒で担いで山を登り家に帰った。
それは決して無駄にできない大切な水だった。飲み水以外は、地面に大きな穴を掘り雨水を溜め、
洗い物に使ったり、ふろ水として使ったりした。食事の時間になると、外にホウバの葉を取りにいき
その葉の上にご飯やおかずをのせてお皿にした。使用後は洗わず山に返し、次にまた新しい葉を
取りに行った。箸は木の枝を折ってきて使った。上等な黒文字と思って使えば楽しいものである」

「富士見茶屋から犬居中学校までは、山を下って片道六キロあり、一時間かかった。中学校へは
カバンと背負子で通学した。小学生の弟を歩かせると時間が倍かかってしまう。そこで弟を背負い
駆け足をした。手には薩摩芋や柿と小田原提灯を持った。十三丁の辺りにある穴の前で弟をおろし、
おやつにする薩摩芋や柿と小田原提灯をその穴に入れ、再び弟を背負い学校に向かった。」


Aさんは私より3・4才上の上品な女性で、とても子供時代にそんな体験をしたとは思えない方です。
ただ子供時代に培われたのか足がとっても強く、3年前の浜名湖一周55kでは70才にして女性で
一番早く完歩しています。
(Aさんの手記は「おさむくんのホームページ」に記載されていますので一読してください)

その富士見茶屋のあった四の鳥居の手前に一軒の廃屋があった。これが富士見茶屋なのだろうか?

 
       子安観音                   信玄岩

秋葉山は明治の廃仏毀釈で石仏などは破壊された思っていたが、二体の石仏が安置されていた。
石仏は子安地蔵だそうだで、これは秋葉山が神仏混淆の施設だった時代の名残なのだろう。
その地蔵の前に幾つかの柄杓が置いてある。良く見るとどの柄杓にも穴が空いている。
これではお地蔵さんに水を掛ける事も出来ない。一体何だろう? 柄杓の柄には
「健康で良い子に育ちますように」と書いた物もある。
ネットで調べてみると「穴の開いた柄杓を、お供えすれば安産になり、出産後穴のない柄杓をお供え
すれば子が丈夫に育つというという慣習もあるようですが、秋葉山の子安地蔵尊は、出産前にお参り
をして、産後に穴開き柄杓を供えます。」
とあった。
でも何故柄杓なのか、何故穴を開けるのかは分からなかった。

信玄岩と名付けた岩があった。案内板は朽ち始めていて「信玄岩(信玄足掛けの岩」と書かれた
最初の部分しか判読できなかった。多分武田信玄が遠州侵攻の時に、この石に足を掛けたと言い
たいのだろう。

   
      三尺坊山門4453               三尺坊の扁額

ほぼ予定通りに三尺坊に到着。
ここは通称三尺坊と呼ばれているが正式には「秋葉山秋葉寺(しゅうようじ)」だそうだ。
今では秋葉山といえば秋葉神社を思い浮かべるが、明治の廃仏毀釈令以前の秋葉山には
秋葉大権現を祀る秋葉神社と、三尺坊大権現を祀る秋葉寺が併存し、両社が秋葉信仰の中心で
あったという。
この三尺坊には面白い伝説が有るので紹介すると
「信州の戸隠で、母が夢で迦楼羅天(かるらてん)を見て生れた。長じて越後の蔵王権現に入り
三尺坊で阿闍梨の位を得たことから、“三尺坊”と呼ばれるようになった。
荒行の満願の日、火焔の中で鳥のような翼を生やして、左右の手に剣と索を持つ姿で、飛行が自在と
なり白狐にまたがって飛ぶ秘術を得たという。
三尺坊は降り立つ場所を求めて全国を飛び回り、遠江の秋葉山を見付けて、そこに降り立ち秋葉山に
一祠を建てて祀ったのが秋葉の始まり」
だそうです。

三尺坊の名前には異説もあり、身長が本当に三尺(90cm)だったからという説もあります。
更に秋葉の名前は、三尺坊が飛んできたとき、カエルの背に「秋葉」という文字が浮かんでいるのを
見たので秋葉山という名を付けたとか、「春ひらきし山を春埜山、秋ひらきし山を秋葉山」とする説も
ありました。

ところで「迦楼羅天(かるらてん)」など聞いた事のない神様ですが、どうやら元はヒンズー教の神様
ガルーダらしい。ほらインドネシアのガルーダ航空の名前になっているガルーダです。
「想像上の大鳥。翼は金色で、口から火を吐き、竜を好んで食う。神様の乗物」だったガルーダと
体が小さく翼をもった三尺坊とは大分イメージが違くなってしまう。
どちらかというとガルーダは三尺坊が乗った白狐のような気もするが、日本では迦楼羅は乗物でなく
迦楼羅に天を付けて神様にしてしまった。

奈良興福寺の迦楼羅天には翼が無いが、京都の三十三間堂の迦楼羅天は烏天狗で翼がある。
どうやら越後で迦楼羅天に変身した当時の三尺坊は、まだ成長過程で翼の力が弱く、白狐に乗らな
ければ自在に飛行できなかった。それが秋葉山に来て、京の御所の火事を消ようになると屋根から
屋根と飛び回る飛翔力が備わったのだろう。
つまりカル-ダが神の乗物だとは知らなかった当時の日本の作仏家(?)が、カルーダを迦楼羅天に
してしまった。後日その間違いに気づいて、慌てて迦楼羅天に翼を付けて空を飛べるようにした。
と、一先ずこういう事にしておこう。
これで自分の背中に翼があるのに、空飛ぶ白狐に乗った理由が分かった??

  
      可睡斎の烏天狗の像              可睡斎の烏天狗の面

ここでようやく烏天狗が登場した。下社の近くにあった烏天狗は、この迦楼羅天だったのだ。
そういえば袋井の秋葉総本可睡斎にも狛犬代わりか、神社の左右に烏天狗の像が立っている。また、
秋葉さんの麓の春野町には天狗広場があり、そこには大天狗面が飾ってあるが、その天狗は鼻高の
天狗だそうだ。

            
               春野の大天狗


千葉山どうだん原

2012-11-23 14:09:21 | 低山歩き
週末に伊豆天城の二本杉峠に行く予定だったが、天気があまり良くないようだ。
そこで急遽地元の千葉山の紅葉を見に行く事にした。
去年は11月30日に行ったが、すでにどうだんの葉は枯れ落ちていた。が今年はそれより一週間も
早いがどうだろう?

私が実際歩いたコースは
 六合駅 2:30> 双子山 1:00>  智満寺 0:20>  千葉山 0:30> どうだん原 1:10>
 矢倉山
 1:40> 島田駅  でGPS距離は23.5kmでした。
でも今日紹介するコースは、それより距離は短く、ゴールも日帰り温泉にしました。

参考コース(湯ったりコース)
 島田駅 バス> 尾川丁仏参道入口 1:30>  智満寺 0:20>  千葉山  0:30> どうだん原
 0:30> 伊太和里の湯 バス> 島田駅
このコースなら歩行時間は約3時間で(GPS7.7km)ゴールでは温泉に入り乾杯もも来ます。 

コース案内
バスの停留所は尾川丁仏参道入口の前にあり、参道に入れば智満寺までは丁仏や道標に導かれ
迷うことなく行く事が出来ます。

 

国指定の重要文化財の智満寺は昨年屋根の葺き替えが行われ、当初は萱が白っぽくて落ち着かない
感じの屋根だったが、日にちと共に次第に辺りの風景に馴染んできています。
丁度正午で鐘突堂で鐘を鳴らし始めました。

                 
        元三大師                   頼朝杉

智満寺は天台宗ですの「元三(がんざん)大師」を祀ってあります。この元三さんは天台宗の中興の祖と
崇められ、またおみくじの発案者だとも言われています。でも元三さんで一番印象深いのは、天台宗の
お札の「悪魔のタイツ」姿でしょう。あれもモデルは元三大師だそうです。

千葉山の山頂にある国指定の「智満寺の十本杉」は一見の価値があります。道は少々急坂ですが
20分もかかるらないで登れますので是非一度は見てください。
道は日吉神社の鳥居を潜りって行きますが、登り始めてすぐの所に「頼朝杉」の標識があります。
しかしこの杉は今年の9月2日に倒れてしまい、今は根元を無惨な姿でさらしています。
見ると幹の中心は空洞で、周りもスカスカの状態になっていて、これでは倒れて当然な感じがします。

これで智満寺の十本杉は何本になったのだろう、私の知る限りでは頼朝杉、子持杉、開山杉は
倒れているので残りは多くて7本か。今に「智満寺の七本杉」と呼ぶようになるかもしれない。


          
        雷杉                    常胤(つねたね)杉

前回紹介した伊豆の河内の大杉は、根元から3mほどの所で幹が分岐していたが、ここの十本杉は
杉本来の形の一本の幹が空に向かって延びている樹形で、一見して杉の大木と分かります。

山頂からどうだん原に向かう道は、少々急な下りの個所もあるので注意して下さい。
車道に合流したらペンションの西側の横を通って、どうだん原に向かいます。
先程歩いた尾川から智満寺までの道はを尾川丁仏参道というのにに対し、この道は
「伊太丁仏参道」といわれ、伊太から智満寺を結ぶ参道です。

 
        丁仏に紅葉                 どうだん原

どうだん原の紅葉は今は盛りを少し過ぎた感じですが、まだまだ見頃です。
今週末が良いでしょうが天気が今一。でも来週初めぐらいまでは何とか見る事が出来るでしょう。
今日は何故か紅葉狩りの人が多く、それも年配のオールサンディーの感じの人達ばかりで、中には
足元の覚束ない人もいて追い越すにも、行き違うにも神経を使いました。この人達はペンション前に
置いてあった車で見物に来たようです。

 

どうだん原には竜胆が所々に咲いていました。

 

どうだん原を過ぎ最初の分岐は「伊太田代 八幡神社」「尾川・伊太」方面の左の道を行きます。
次の分岐はどちらでも良いのですが温泉に行くなら「尾川」方面の左の道の方のが若干楽な感じです。
この尾川方面に行った場合は舗装道路に合流したら、霊園のある右側を下ればすぐ温泉です。
また右の伊太丁仏参道を下ると参道の入口は低い場所にあり、そこから始まる舗装道路に登って行く。
上に出ると正面に高い煙突のある廃棄物処理場が見えるので、その前を通り高台に見える温泉施設に
向かう。バスは温泉の前より島田行と金谷行が出ています。

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       六合の尾根から                  双子山から

六合駅から尾根沿いに双子山への道は、春には淡い新緑の茶畑や富士山が見える素敵なコースです。
今日は富士山がはっきり見えませんが、緑の低山の上に見える富士山は、伊豆の海の上の富士山とは
違った風情で中々いいものです。
双子山からも富士山は正面に見え、左に志太平野とその先には大崩山塊もばっちり見える展望地です。

    

次に温泉の先にある矢倉山からは真下に新東名が見えます。新東名はこの矢倉山のトンネルの中に
吸い込まれていきます。
次のイチョウの紅葉は昨年唯一紅葉していた木ですが今年も紅葉していました。

 
    国1バイパスに出た              合流部は中学校だった

矢倉山から島田に抜けるコースは、いつもは国1バイパスの手前で車道に下りていたが、今回は尾根
伝いに最後まで歩く事にした。心配してたのはバイパスに出た所の道の有無だったが、ともかく
進んでみた。
山道は最後の分岐から細くなったがはっきりある。さらに進むと白い鉄の柵が道を誘導している。
その柵は傾斜を直線で下る為の手摺ではなく、電光系?いやそんなに斜めでなく弓の字のように右に
行ったら今度は左と、何だか真っ直ぐな道で、その繰り返しで何とも歯痒い。
そんな事を繰り返しやっとバイパスに出た。果たして道は---
大丈夫バイパスを跨ぐ歩道橋がありました。その歩道橋を渡って、また何度も右に左にを繰り返し
上に行くが、その度に草が増え踏み跡は薄くなって行く。でも大丈夫でしょう。この辺りの山の下は
住宅地のはず。何とかなる。

やっと高台に着くと、そこには茶畑があり農道も延びていた。あとはこの農道を下るだけだったが
農道が思ったより長く急な下り坂で疲れた身には厳しかった。
そして出た場所は島田第二中学校の体育館の所で、その横には車道が走っていた。車道に出て
振り返ってみると、千葉山や矢倉山から続いてきた尾根はそこで完全に終わり後はな平地だった。
多分この道はバイパスができる前のハイキングコースの入口だったのだろう。
今のハイキングコースの入口はバイパスの北側に道標が建っている。

ではあのバイパスの歩道橋は何のため設置したのか、今は歩く人もいなそうな歩道橋だが、作る
ときは地元から強い要望があったのだろ。農家の人が徒歩でバイパスを越して農作業に行くとは
思えない。だとするとハイキングコースのためと思うが、あの道は何回も歩きたい道では無い。
次回も利用してやりたいが、あの弓型の道を思うと嫌になる。
大体あの弓型の道の理由も分からない。バイパスに土砂を落とさないためなのか?
せっかく作った道なのだから歩きやすい道にして欲しかった。

伊豆達磨山・金冠山3

2012-11-22 18:05:54 | 低山歩き
       伊豆達磨山・金冠山3                   歩行月日2012/11/15

歩行時間:5時間00分 休憩時間:1時間50分 延時間:6時間50分
出発時間:8時40分   到着時間:15時30分
歩 数: 30、100歩   GPS距離:21.4km

行程表
 修善寺駅 バス> 大曲茶屋 0:40>  船原峠 0:40>  土肥P 0:30> 古稀山 0:20> 達磨山 0:35>
 戸田峠 0:15> 金冠山 0:35> 市民の森 0:10> 大洞展望台 1:15> 木負 バス> 沼津駅 
 (※迷い時間は除きました) 

   
                    金冠山から伊豆3山
山行記
山頂より少し下がった所から伊豆3山の全てが見えた。
城山の岩場も見え、葛城山の山頂の鉄塔も見えている。これならあの山からもこの金冠山を見る
事が出来そうだ。次回伊豆3山に登った時は確認する事にしよう。

金冠山の山頂の石仏というか墓石のような置石は、戸田村(現沼津市)の観光課と青年団が建てた
「金冠山」と彫ってある標識だった。
それにしても金冠とは何を意味するのだろう? 麓から見て山頂付近が金の冠のように光って見えた
のか? ならこの岩が朝日か夕日に反射して輝いたのか?

  
  金冠山の標識4948              沼津側降口           熊笹の道

遅れた時間も挽回し、逆に早まってきている。予定では金冠山を13時30分に出る予定だが今は
12時30分で、余り早くバス停についても仕方ないので、少し長いが30分の休憩を取り13時に出発する。
此処から海までの下りで、道が分からないなど最悪の場合は、林道を下る積りだ。しかしハイキング
コースがあれば極力その道を歩くつもりでいた。そして金冠山からの下りは----

有りました!「沼津市市民の森」の標識が草叢に建っている。そしてその先は熊笹を切り開いて気持ち
良さそうな道が延びている。よしこの道を行こう。


  
   ハイキングコースの標識      日本庭園        林道横の展望台      

オッ!標識があった。今までの標識は「伊豆山稜歩道」だったが、この標識は「金冠山ハイキング道」
になっている。この標識に従って行けば海の近くまで下れそうだ。

「日本庭園」の名札のある前には倒木があり庭園の面影はない。いや倒木が無くても庭園は少々過大
評価過ぎるだろう。だが何も建っていないより、こんな物でもあれば心強い。
舗装された林道に出て少し下ると木製の展望台があった。高度が下がって来たので愛鷹山が徐々に
富士山の下を隠し始めている。
ハイキングコースは展望台の右側から、まだ下に続いていた。


   列石                  リンカーンの椅子            四辻

林の中に山道が続き不安になりそうな頃木製の段々が現れホッとする。今度は「列石」と書いてある
標識があった。きっと石が列状に続いているからだろう。次は「リンカーンの椅子」とある。何故
リンカーンか分からず普段なら突っ込みを入れるとこだが、今はこんな物でも有りがたい。

標識があり、前方が堂山展望広場、右は管理棟、左はカラスビラとなっている。
さてどちらに行こう。標識の横に「堂山展望台 駿河湾を前にした日本一の富士山を眺めるに
一番ふさわしい所です。展望台まで12分、大杉まで17分。 戦争中は、この細長くて平坦な尾根を
利用して飛行場が計画されたことがあります」
と書いた案内板が立っていた。
うーんこれなら展望台や大杉に行ってみたい。だが大杉から先の道はどうなっているのだろう、
続いているのか、それともここに引返すのか----- 
右下に市民の森の管理棟があるようなので聞いてみよう。

 
     市民の森の工作室               展望台への道

工作室と表示のある建物に行くと、入口は開いていて中の明かりは付いている。しかも下駄箱には
靴も脱いであるので誰かいるだろう。しかし声を掛けるのだが返事が無い。工作室の中に入って
呼びかけたが駄目。外には軽自動車も停まっていて誰かいるに違いないのだが応答は無かった。
ウーン諦めるしかないか。しかしどうしよう、展望台に行ってみるか、それとも林道を下るか。
戸田峠からここまで4km歩いている。ならば残った距離は6km前後だ。今の時間は13時30分で
最終バスまでには2時間半以上ある。
ここから大杉まで17分で先に道が無くて、またここに戻ってくると40分は必要だ。それでも14時10分で
最終バスまでには2時間ある。2時間あれば舗装された下りの林道なら十分余裕のある時間だ。
よし行ってみようと展望台に向けて歩き出した。

四辻からの道は上りが終わると平坦な道で、飛行場ができるとは思えなかったが歩きやすい道だった。

 
   堂山展望台                       展望台からの富士山

管理棟から8分で展望台に到着。先程の展望台と同じような景色だが淡島はズンズン近付いてきている。
今日は富士山よりも淡島のある内浦湾の景色の方が綺麗に感じる。
サー次の大杉から先の道が心配だ先を急ごう。

  
   大杉への道               大杉              河内の大杉

展望台から大杉への道は、標識は立派だったが、道には雑草が生い茂り見た目は不安を誘う。
どうやら大杉まで行く人は少ないようだ。それでも擬木で作った段々があるので迷う心配は無い。
だが植林された林の中に入ると、その段々も終わり、木の根が張った場所は道も定かではなくなる。
何処が道なのか分からないが真っ直ぐ下に向かうと、また段々が出てきた。そんな場所が30m程度
あったが心配するほどではない。
小さな沢の先に太い幹が見えてきた。あれが大杉なのだろう。
時々行く島田千葉山の十本杉は真っ直ぐ一本で上に延びているが、ここの大杉は地上3m位の
所で幹分れしている。その幹が分かれた所から黄色の花が顔を出していた。宿花?

此処からの道はあるのだろうか、少々不安を感じながら辺りを見ると、下の方に案内板があった。
そしてその先には下に続く道が見えている。ラッキーきっとあれは下から来る林道に続く道だ。

案内板には「河内の大杉」として「樹高43m根回り13m 県指定天然記念物」と案内してあった。
案内板から下に伸びる道は、今歩いてきた展望台からの道より太くはっきりしていて、この大杉の
見学者は上から来る人より下の林道からの多い感じだ。これで一安心。


   大杉への標識          林道合流              谷は深い

大杉から2・3分で道が太くなり標識が建っていて「禅長寺 2.2km」となっている。たしか禅長寺は昨夜
点検した地図にも載っていた。これで道の心配はなくなった。

標識か50mも行かないうちに舗装された林道に合流。その合流部は四辻になっていて左右は舗装された
林道で、正面の下りの道の入口には線が張ってあり進入禁止のようだ。
さて右に行くべきか、左に行くべきか判断に迷う。山から下って来たのだから、この先も当然下り坂の
はずだ。なのに左右の林道はどちらも上り坂になっている。
気持ちは正面の下りの道に行きたいが進入禁止だし、仕方ない左右の道を確認してから決定しよう。

先ず左の道を登ってみる。しかし上り坂は続き、このまま行けば最初の展望台の横に出てしまいそうだ。
次に右側の道を歩き始める。こちらもズンズン高度を上げていき前方が開けた所から見えた景色は----
まいったな、この谷を越して前の尾根に行くとはとても思えないし、この下に道があるとも思えない。
この先はきっとさっきの市民の森の管理棟への道なのだ。仕方ない合流部まで戻ろう。

合流部へ戻る途中から道の脇に2本の線が張ってある。これは動物除けの高圧線だ。ならさっき進入
禁止の線はこの高圧線に違いない。
合流部に戻り確認すると間違いなく動物除けの線で進入禁止ではなかった。馬鹿だなー、線が張って
あるのをチラッと見て進入禁止と思い込むなんて。無駄な時間を費やしたがこの線を跨いで行こう。

合流部から5分も下って行くと再び禅長寺への標識が出てきました。

 
      林道下の富士山4995                内浦湾4997

林から抜けるとみかん畑の先にに富士山が見えた。ミカンと富士山はいかにも静岡からの富士山だ。
静岡には幾つかのミカンの産地があるが、この辺りのミカンは西浦ミカンと呼ぶ産地だ。
でも甘いかどうかは分からないが、海に近く潮風をふんだんに受けるのできっと甘味は強いだろう。

 
     源頼政墓所                     菖蒲塚  

今度こそメインの林道に合流。その林道は左は上り坂で、右は下り坂。もう間違いようはない。
林道を少し下ると寺らしき屋根が見えてきた。あれが禅長寺なのだろう。道脇に墓地もあり、
その中に何やら由緒あり気な立派な墓がある。「史蹟 頼政 菖蒲之前 墓所」の標識がある。
案内板が無いので多分、源頼政の墓だろうと思うが定かではない。家で調べてみると
「源頼政は保元の乱、平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として
中央政界に留まった。平清盛から信頼されたが、平氏の専横に不満が高まる中で、以仁王と
結んで平氏打倒の挙兵を計画したが露見して準備不足のまま余儀なく挙兵し、宇治平等院の
戦いで敗れ自害した(以仁王の挙兵)」
とあった。
頼政の事は余り知らないが、宇治で討死した頼政の墓が何故伊豆のこんな所にあるのか、
ウィキペディアにも書いてない。
その墓の前には「菖蒲塚」もあった。折角こんなに立派な墓を作ったのだから、せめて案内板
くらい設置して欲しかった。そうそう菖蒲之前とは頼政の妻ことだそうだ。

     

河内農協の横に「金冠山ハイキングコース」の案内板が建っていた。
自分が歩いてきた道をジックリ確認をすると、まず金冠山から「尾根道ルート」を管理棟まで
歩き、その先は堂山展望台と大杉を訪ねる「大杉・堂山ルート」を歩いている。よく見ると
大杉の先で林道を横断しているのも分かる。そしてその林道の先を見てみると------

先ず左の林道の先は辿ってみると、矢張り林道横の展望台を通り戸田峠に抜けていた。
ただ途中で道は合流していて、その合流した道は今立っている河内農協の道だった。
しかし私が歩いてきた道より随分遠回りをしている。

右の谷が深いと引返した道も、やはり市民の森の管理棟に行く道だった。こちらも道も途中で
合流していて、最初に合流した道は「河内川ルート」といい、川筋を下って禅長寺辺りに抜ける
道だった。更に上で合流する道は「中野・手越ルート」といい車で市民の森へ行く道で、
私がこの下にもあの尾根にも道は無いと判断した所を道が走っていたことになる。
だがいずれの道もも歩いてきた道よりずっと距離は長く、私が歩いた「大杉・堂山天ルート」
距離が短く、歩きでは最適の道のようだった。

この案内板が金冠山の山頂か林道横の展望台の所にも設置してくれてあれば、あれほど
迷ったり悩んだりしないものをと残念な気がする。

ウーやっと目の前に海が見えてきた。あの交差点がバス停の「木負(きしょう)」だ時間は
15時30分で丁度良い。だけど「木負」で何故「きしょう」なのだろう、とても読めない字だ。
漢字辞典を見ても「負」「しょう」とは読まない。勝負の字を勘違いして逆に解釈して
しまったのだろうか。今度誰かに知ったかぶりをして教えてやろう。

その時後ろから何やらバスのエンジン音らしき音が、慌てて振り向くと「沼津駅」行先表示の
あるバスが--------
何故??最終は16時7分なのに、何故今バスが来たのだ。バスは海岸線を大瀬崎から来る
のだから、前の道を走っている筈だ。それが後ろから来るとは考えられない。でもそんな事を
考えている時ではない、今はあのバスを停めなければ。
私の横を通り過ぎたバスに両手を振って合図をする。ドライバーに見えますように!

バスは停まってくれた。

伊豆達磨山・金冠山2

2012-11-20 15:45:44 | 低山歩き
       伊豆達磨山・金冠山2                   歩行月日2012/11/15

歩行時間:5時間00分 休憩時間:1時間50分 延時間:6時間50分
出発時間:8時40分   到着時間:15時30分
歩 数: 30、100歩   GPS距離:21.4km

行程表
 修善寺駅 バス> 大曲茶屋 0:40>  船原峠 0:40>  土肥P 0:30> 古稀山 0:20> 達磨山 0:35>
 戸田峠 0:15> 金冠山 0:35> 市民の森 0:10> 大洞展望台 1:15> 木負 バス> 沼津駅 
 (※迷い時間は除きました) 


                         金冠山山頂より
山行記
達磨山に11時35分到着。予定ではここに11時30分に着いて昼飯をとり12時に出る積りだった。
だが昼飯は古稀山で済ませてあるので予定タイムより大分速くなっている。これならもう安心だ。

一等三角点のある達磨山山頂からは360°の景色を眺める事が出来た。西の方向には駿河湾が見え
その手前には戸田港。さらに駿河湾越しには富士から沼津にかけての町並みも見える。
その街の上には雪を被った南アルプス、そしてその中央には相変わらず山頂部を雲で覆った富士山が
ある。更に視線を移動していくと、淡島が浮かぶ内浦湾が箱庭のように見える。更に目を転じて見える
丸い山は箱根駒ケ岳か、その向こうには海らしきものが見えるが、きっとあれは相模湾なのだろう。
更に移動していくと伊豆の山々も見えてくる。今年登った万二郎や万三郎も見えている筈なのだが、
どの山なのか分からない。ここに円形の案内板があればもっと楽しめるのに残念だ。

 
    達磨山山頂                     達磨山の一等三角点

登っている途中には石は無かったが山頂には石がゴロゴロしていた。「山岳の誌」と刻まれた石碑もあったが
彫が浅く残念ながら読む事が出来ない。三角点は悪戯なのだろうか「一等」の所をマジックで墨入れしてある
のでハッキリしている。三角点には時々一等なのか二等なのか判別できず、指で確認する事もあるが、こん
な悪戯なら分かりやすくてよい。
三角点が一等だと眺めも一等と思ってしまうのだが、今年登った同じ伊豆の山の「万三郎(万城山)」の眺め
は駄目だった。それに比べればまさにここの眺めは一等だ。
眺めといえば伊豆市のHPに面白い事を紹介していた。
「達磨山は眺めの良い事から十三国峠とも呼ばれている。十三国とは阿波(千葉)・相模(神奈川)・武蔵(埼玉)
・甲斐(山梨)・信濃(長野)・伊豆(静岡東部)・駿河(静岡中部)・遠江(静岡西部)・三河(愛知東部)・尾張(愛知
西部)・美濃(岐阜南部)・伊賀(三重西部)・伊勢(三重中部)の十三国である」

いささかオーバーな呼称だが、確かに箱根の十国峠より広範囲に見えるのは間違いはない。

      
    達磨山からの下り              小達磨山

達磨山から富士山に向かって下る道は中々厳しく感じた。いつもそうだが登りより下りの時に感じるのは、
この下りを登らないで良かったと思う事だ。ここも北の方向にある富士山に向かって歩くのと、南の天城
に向かうのとでは、私は北に向かって歩く方が楽に感じる。
それに何と言っても、富士山を常に見て歩けるので気分的にも楽しい。
若しここを歩く予定の人は船原峠から達磨山・金冠山に向かう方がお勧めです。

小達磨山からは熊笹の背が高く視界は効かなかった。名前に小が付く位なので標高は達磨山981mに
対し、小達磨山は890mとあった。
矢張り伊豆市のHPに「達磨山とは清水・由比方面から見ると、丁度ダルマさんの姿に見える」とあったが
そのダルマの胴体の下の丸い部分が、この一段低い小達磨山なのかしら?
ところで清水や由比からダルマさんのように見える山なんてあったかな、最近は由比から沼津アルプスの
存在は分かるようになったが、次回はこの達磨山を確認してみよう。

 
    アセビのトンネル               紅白のアセビ

熊笹の道が馬酔木やビンカ(犬柘植)のトンネルに変わってきた。このような馬酔木のトンネルは箱根にも
あったが、熊笹といい馬酔木といいどちらも同じ植物が多いという事は、気候や地質が似ているのだろう。
その馬酔木だがよく見ると2種類あるようだ。多いのは葉の色が薄くて花の蕾が白っぽいもの。もう一つは
葉の緑が濃く蕾が赤っぽい物だった。ただネットの植物図鑑に「赤花馬酔木は園芸種」とあるし、矢張り
伊豆市のHPに「春はアセビの白い花で染まる」とあるので蕾は赤っぽいが白い花が咲くのかな。


  
   戸田峠の伊豆山稜歩道の標識            戸田峠

戸田峠に到着。伊豆山稜歩道はここから修善寺の虹の郷に下るのだが、私はもう一つ金冠山を越えて
沼津西浦の海まで行こうと思っている。問題は金冠山から先なのだが、今の時間は12時20分で予定を
20分早まっている。これなら残りは10kmあるが最終バスの14時7分には十分間に合いそうだ。
それでも一応戸田峠のバス停で時間を調べると14:41・17:01・18:51と3本もあり、途中で引き返して
来たとしても何とかなる。

      
    金冠山への道              あれが山頂か?  
      
金冠山への道は防火帯のように広い道だった。上に見える電波塔が頂上かしら、それならあと一息だ。
途中紅葉した木や赤い実などを眺めながらのんびり登る。前方にむき出しになった岩が見えてきて、
その先には石仏のような石碑も見える。更に少し行くと山頂の標識と富士山が見えた。山頂だ。
ゆっくり歩いたが15分も掛からず山頂に到着。
これで予定の山は全て歩いた。後は海に下る下り坂が残されているだけだ。



金冠山から沼津方面の景色は素晴らしかった。この景色だけなら達磨山よりここ金冠山の眺めの方が
上だろう。いや富士山だって金冠山の方が上かもしれない。達磨山は海から少し離れ過ぎだ。
ウーンこうなったら富士山が見える時に、もう一度ここに来て確認しなければならないな。

去年秋に歩いた伊豆3山や南アルプスが見えている。伊豆3山の葛城山と発端丈山が見えている。城山は
木の陰で岩場が少ししか見えない。
だが沼津アルプスの山は全てが見えている。去年はあの尾根から尾根を歩いて富士山を見て歩いた。
生憎今は富士山は雲の影だが、若し富士山の見えたとして、ここと伊豆3山と沼津アルプスと眺望比べを
したら何処が一番上だろう。
私は絵葉書的だと言われるかもしれないが、発端丈山中腹の展望台から見た富士山が一番だと思う。
沼津アルプスからの富士山は、正面に愛鷹山あって富士山の下部を隠しているのが難点だ。
金冠山からは良いと思うのだが、なにせ富士山が見えていないのだからハッキリした事は言えない。

                     発端丈山展望台より
    

伊豆達磨山・金冠山

2012-11-18 15:02:00 | 低山歩き
       伊豆達磨山・金冠山                   歩行月日2012/11/15

歩行時間:5時間00分 休憩時間:1時間50分 延時間:6時間50分
出発時間:8時40分   到着時間:15時30分
歩 数: 30、100歩   GPS距離:21.4km

行程表
 修善寺駅 バス> 大曲茶屋 0:40>  船原峠 0:40>  土肥P 0:30> 古稀山 0:20> 達磨山 0:35>
 戸田峠 0:15> 金冠山 0:35> 市民の森 0:10> 大洞展望台 1:15> 木負 バス> 沼津駅 
 (※迷い時間は除きました) 

 

山行記
昨年に引き続き「富士山眺望低山」の低山歩きに、今日は〝富士山の展望台〟とも呼ばれる達磨山と、
ついでに地図で見ると達磨山より富士山や海に近くスケールが大きい眺めが期待できそうな金冠山にも
登る予定です。
何しろ富士山眺望と名付けてあるので富士山が見えなければ意味が無く、天気予報に注意して朝の
冷え込みが一番強いと報じていた木曜日(15日)に登る事に。お蔭で朝一番の電車から見えた富士山は
雲一つなく黒々と浮かび上がっていました。これは朝から幸先が良いと気持ちも乗ってきます。

コース予定は富士山を眺めながら歩こうと、南の船原峠から北に向かい古稀山・達磨山・戸田峠・金冠山へ
と登り、帰りは沼津西浦の木負(きしょう)という海に面したバス停まで歩く予定です。ただ心配なのは木負から
沼津駅への最終バスが16時7分なので、そのバスに乗るしかないのですが、金冠山から木負までの距離が
10km近くあり、そのうえ道が明確でない事です。マー最悪の場合は戸田峠から木負までは舗装された林道が
あるようなので、その林道を下れば迷う事はなさそうです。
それでも10kmというと2時間半はかかりそうなので、金冠山を1時半までに出る事が出来ない場合は戸田峠から
直接修善寺に戻る予定です。こちらは本数は少ないが戸田峠からバスも出ているので安心です。

 
    前方はガードレールで遮断             国道下に道がある
       
ハイキングコースはコースに入ってしまえば標識もあり安心なのですが、困るのはコースの入口に行くまで
です。しかし今回は伊豆市のHPに達磨山の紹介があったので何の不安もありません。
そして修善寺駅から松崎行のバスの乗り大曲茶屋で下車してHPの。
「大曲茶屋で下車、国道をそのまま進んで、旧道に入り、およそ3km先の船原峠へ」の言葉通り、国道を
歩き出すと、50mも行かないうちに太い舗装道路が右側にあった。よしこれが旧道だと、その道を進む。
また50mも行くと道が右にカーブしてその先はガードレールで遮断してある。そして青の先は草ボウボウ。
アレーと辺りを見ると、国道の下にガードがあり、その先に道は延びている。標識を探した見当たらない、
だがこれが旧道に違いないとガードを潜って先に進む。

 
   荷馬車道?                       広場の先には国道が

舗装はすぐ終わってしまったが、まさに荷馬車道といった道が続き、昔はこの道を海沿いの土肥から海産物を
荷馬車に積んで、温泉地の修善寺に運んだのだろうと想像しながら歩いていた。沢を渡り更に進んで行くと
道は徐々に草に覆われだし余り利用されている感じがしない。しかし塩の道に比べれば何という事はないと
思っていたら、やいやいここも道が崩れている。でも崩れた先には細いが道はある。崩壊場所を捲いて更に
進んで行くと今度は広場に出た。そしてその先には車道があり車が走っている。どうやら国道のようだ。
さて旧道は何処に延びているのだろうと、広場の周りを探すが、道や踏み跡らしき物は見当たらない。
国道を横断するのかなと思いながら、HPを印刷した紙を取り出して見てみると。
文章は先に紹介した通りだが略図には旧道は国道の右側にあり、しかも国道とは交差していない。
しまった! さっきガードレールの先を点検もせず、この道に入ってしまったのが間違いだった。仕方ない戻る
しかない、と今来た道を戻る事にした。

ガードレールの所に戻りその先を点検するが道らしき物は無い。一体どうなっているのだ。私はHPに書いて
ある通り歩いている。なのに進む道は無い。だんだん腹が立ってきたが、しかしここで無駄な時間をつぶすわけ
にはいかない。こうなれば国道を進むしかないと藪を突っ切って国道に出る。
略図を見ると国道は旧道と違う場所で、尾根を走る西伊豆スカイラインと交差している。少し遠回りになるが
スカイラインを北に戻れば必ず船原峠にでる。そこから仕切り直ししようと国道を歩き出した。

 
船原峠への道路標識                 船原峠

国道を5分も歩いた頃、前方に道路標識が出てきて、直進が国道136号線で土肥方面。右は県道411号で
船原峠へ行くようになっていた。エッ!まさかこれが旧道? ウン多分そうだ。これが旧道に違いない。
それなら修善寺市のHPはこう書くべきだと増々腹が立った。
「大曲茶屋で下車、国道を●km進んで、旧道(県道411)に入り、およそ3km先の船原峠へ」こう書いてあれば
間違う人はいない。
ここには旧道に着く前に間違いやすい道まであるのに、旧道だけの表現では曖昧すぎる。
それに旧道のイメージは人によって違う。ここのように舗装された2車線の県道もあれば、同じ伊豆市にある
下田街道の天城トンネルや二本杉峠に行く山道もある。塩の道なんて崩壊ヶ所だらけの旧道だった。
標識や案内は知らない人が分かるように書くべきだと思う。

しかし冷静になった今考えれば、やはり私の手落ちだと思う。今回は金冠山から海までの道は地図で確認
したが船原峠側はHPの紹介があったので一度も見ていない。これは私の反省点だ。
ところで山から戻ってから確認した地図には、県道は無く分岐した方も国道になっていた?
さらに新しい国道はスカイラインとは接しておらず、長いトンネルで峠を抜けている。あの時すぐ引返す
決断をして本当に良かった。あのまま国道を進んだと思うとゾーとする。

 
     船原峠に伊豆山稜歩道入口          土肥港

ピッチを上げて船原峠に向かう。船原峠でスカイラインの下を通った所に伊豆山稜線歩道の標識と
登山道があった。ここから先の金冠山までは、標識は要所要所にあり迷う事も悩む事もなかった。
尾根に出るとスカイラインの歩道を歩く事もあるが、交通量も少なく危険はない。後ろを振り返れば尾根
筋にスカイラインが延びているのが分かり、左を見ると駿河湾と土肥港も見えている。
土肥駐車場を過ぎ伽藍山(がらんざん)の標識の所に出るが、標識の前にはスカイラインが走り右は
下り坂で左は上り坂の、何とも山頂らしからぬ山頂だった。

  
     小土肥駐車場から南ア             小土肥駐車場から富士山

小土肥駐車場からは駿河湾越しに雪を被った南アルプスが見えてきた。そしてさらにその横の見える
富士山は 残念! 山頂部分に雲がかかっていた。
朝はバッチリだったのに情けない。でも達磨山に着くまでには------

さっきの土肥駐車場にもあったが、この小土肥駐車場にも何故か鉄棒が設置してある。ドライバーの
眠気覚まし用なのか? ここは標高900mと表示があった。

 
   熊笹の中の標識          竜胆           食害防止のネット

箱根の山にも多かった熊笹の道になる。日当たりの良い所には竜胆の花も咲いていた。途中にあった
木は鹿の食害防止なのか、下の方をネットで包み込んである。
この辺りまで来てやっと時間の遅れの挽回もできてきた。腹立ちも収まり気分的にも余裕が出てきた。
後これで富士山が顔を出してくれれば文句は無いのだが-----

  
   食害された木?                 道の先に富士山が       戸田港が見えた

ネットの効果が無かったのか、それとも被害が出たのでネットを被せたのか分からないが、立ち枯れの
ような木が林立していた。道の前方に富士山が見える。相変わらず山頂部分は雲に隠されているが
きっとなくなるだろう。それにしても気持ち良い道だ、朝の最低気温は低かったが、今は太陽が背中を
照らし、暑くも無し、寒くも無しで快適だ。こんな気持ちの良い景色を独り占めできる事は余りない。
だから尾根歩きが好きなのだ。
左下に見える港は鳥の嘴のような砂嘴(さし)が見えるから戸田港だろう。 

 
   スカイラインと山道4908                古稀山

気持ち良い尾根道は続く。右にスカイライン。左には熊笹の中を直線で伸びる山道。その先の山は
達磨山だろう。富士山の山頂部分は相変わら雲を被っている。
10時57分古稀山(こきやま)に到着。標高920mで何が古稀なのだろう?理由は分からないが古稀に近い
私には丁度合っている。朝飯が早かったので腹も減ってきた。ここで昼飯にしよう。

塩の道&秋葉道Ⅲ(森-春野4)

2012-11-16 10:09:33 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅲ(森~春野4)                   歩行月日2012/10/8

 
       七里の道標                 田能小沢宿の案内板

観歩記

旧大久保小学校付近が今日の最高地点なのだろうか、午後からは軽い下りの道が続き快調に歩ける。
道の右側が開けている所では遠州の山々が見えるが、あの中に遠州三霊山の春埜山があるのだろうか。
手持ちの地図では判読できない。

戦国夢街道の案内板は、相変わらずあちこちに建っていが案内している物は茶屋や旅籠などが多い。
「鶯餅」を名付けたのは山中鹿之助とか、武田の軍師・山本勘助が商いを進めてできた「若杉家」
信濃の人が開いた旅籠「信濃屋」では泊めるだけでなく、馬で人や荷物を運ぶ運送業もしていて大繁盛したとか、
中でも「田能小沢宿は、春埜山、大日山、信濃に近い常光山(山住)を結ぶ、廻峯(修行道)の宿として古くから
栄えていたと想定される」
と書かれた案内文の下には、イラストで街道脇に建った家々を描いてある。
それを見ると旅籠は先ほどの信濃屋を含め2軒しかないが、芸者、酒屋、髪結い、理髪、豆腐屋、小間物屋、
駄菓子屋などが描かれている。
でもこのイラストは一寸眉唾ぽくないか、こんな山の中に本当にに芸者屋があったり理髪があったりしただろうか。
そうそう仕立屋もあったが注文客は芸者だけ?
またここ田能には秋葉神社の七里標があり、七里とは東海道掛川からの距離と説明してあった。さらに光明寺の
事にもふれていて
遠い昔から人々の信仰は災難(刀難・火難・水難)から免れる事でした。ところが江戸中期に入ると治安が安定し、
刀難の災禍は薄らいできましたが、依然として多かったのは水害や火災による災難でした。
特に、享保から安永にかけての約50年間に江戸大火と命名された火災は、実に7回も記録されています。この為
江戸の人のみならず、全国の人々の火難の恐ろしさ知らしめ、火防の神仏秋葉山への信仰は一層盛んになりました。
加えて、水難除けの霊験あらたかな光明山があり、両山への連続参拝の人々で街道は賑わいました」


この案内板で初めて秋葉山と光明山のついで詣りの事が紹介されていた。これで春埜山に刀難除けの霊験が
あれば三点セットでもっと賑わったかもしれないな。

  
    小奈良安の常夜燈               これは何の木?         日暮峠の林道

前回は小奈良安集落から地図に馬力道と書かれた道を歩いたので、今回は日暮峠や大日峠の道を歩く事に。
小奈良安を過ぎると道は林道状態になり、周囲は植林された林ばかりになってしまった。薄暗い平らな道が続き
地図には日暮峠と書いてあるが、明るさはまさにそんな風だが、峠のような起伏のある所は出てこない。
道を間違えたかと不安になりながらも進む。
不安が頂点になってきたころ、有りました。例の踏破研究会の道標が。本当にこの道標は助かります。
この道標が無く地図だけでは、遠州の塩の道は踏破出来そうもない。そんな感じがする。

途中に「堀之内 城山ハイキングコース」の標識が出てきたが、この堀之内とか城山は犬居城の事なのか?
それにしてはまだ大きな川を渡っていない。確かの途中にあった案内板の幾つかには
「増水した気田川を渡河できず、犬居城を攻める事が出来なかった」
とあった。それなのに城に行く道がある、
何故だ?  地図で確認すると犬居城は確かに気田川渡った高台にあった。それではこの標識の地名は城を
表しているのではないのか? 後で確認すると犬居城とは別の城がありました。
「堀之内城山城址は犬居城址の東南約1.5kmの山頂に位置します。森から犬居に至る秋葉街道に接しており、
二俣に続く街道の眺望も開けています。山頂の本曲輪を中心に、東南方向に伸びる尾根づたいに曲輪や堀切、
堅堀などがみられます。 2010年の発掘調査では、数多くの出土遺物が出土しました。出土遺物から、この城の
使用時期が、徳川家康の犬居城攻めの機関(16世紀後半)と捉えてよいことが確認できます」
となっていた。

戦国夢街道の案内板は徳川家康の犬居城攻めの失敗の原因に、徳川軍の地理不案内をあげていた。
だがこのような攻撃用の城まで築いているのだから、地形が分からないとは言えないのではないか。
では負戦の真の原因は何だったのだろう。軍師はぐれは三つの案を家康に提案する。
一、食料が尽きた頃、一気に退却する。(惨敗)
二、1/3の兵力を気田川域に残し、敵が渡河してきたら矢衾をもって殲滅してから退却する。
三、1/3を退却さえ、1/3を川岸に残し、1/3を堀之内城山城に残す。
   渡河した敵兵を攻撃した後、更に敵が追撃してきたら城に残った兵が後ろより攻撃し挟み撃ちにする。

どうですか第三の策は。こうなれば最初に退却した兵が、天方城から食料を調達して堀之内城山城に運び込み、
陣形を整えて再度犬居城攻撃を図る事もできる。なにしろ敵が増水した川の渡河地点を教えてくれたのだから。
冗談はともかく家康は何の思惑があってこの城を築いたのか? 本当に犬居城の攻撃の時の城だったのか疑問だ。

    
    大日峠の大日如来              大日峠の降り口

大日峠に着いた。峠といっても平らな林道が延々と続いき、その林道が丁字状に他の林道と合流する所だった。
塩の道はその丁字路を突っ切り、急斜面の杉林を下って行く山道なのだが、平らな道を歩いてきたので、ここが
峠の気分にはならなかった。だが逆に春野から急坂を登ってきた時はホッと一息つきたくなる場所だろう。
林の中に峠の名前になった大日如来像がある。見た限りでは表面がすべすべしていて石仏というより青銅製と
いった感じがする。いつ設置したのだろう、 目鼻立ちもしかっりしているから明治以後の物なのか、などと
思いながらお詣りをした。

 
   大日峠からの瑞雲坂                大日峠からの瑞雲坂                  

何とも急で石がゴロゴロしていて街道らしからぬ道だ。道は杉林の中を電光形についていて、これではとても
馬力(荷馬車)は通ることは出来そうもない。そこでこの坂を避けて「馬力道」ができたのだろう。
そういえばガイドブックには、この坂の事を「瑞雲坂」と紹介してある。瑞雲とはこの坂の下にある春野の寺の
名前で、峠の名前は坂の上に安置してある大日如来から「大日峠」となっている。
なら、この坂は最近になって、たまたま塩の道や秋葉道になったのではなく、昔からの街道なのだ。
それにしては嫌な道だ。若しかすると戦後の植林奨励の時代に、その頃は利用されなくなっていた塩の道を無視
して植林をしてしまい、後になって木を縫うように道を付けたのかもしれないな。
だが、この斜面の何処かに塩の道が有ったのは事実だろう。

やっと嫌な道を下り切った所は河原の草叢のような場所で意外に感じた。実は前回馬力道を下った所は
如何にも宿場通りと言った感じの道で、両側には民家が連なっていた。それが今降り立った場所は、その通りを
過ぎた河原近くの場所だ。何故だろう? 街道が宿場町を通り過ぎた場所に出るなんて、有りなのか?

そこで妄想的歴史観が働き出す。この道は三倉の栄泉寺からの古代の塩の道と同じで、馬力(荷馬車)で運搬
するようになった江戸時代には、秋葉山詣での信者も、信州街道を旅する人も皆馬力道を歩くようになっていて
大日峠の急坂を歩く人はいなかった。宿場もそれに連れて馬力道の方に発展していったのだろう。
そして時代は過ぎ塩の道復活の機運が湧きあがると、既に消滅していた大日如来が安置されている場所からの
道を、急遽大日峠の道として作ったのだろう。そう、そうに違いない、と決定する。

前方に寺が見えるがあれが瑞雲寺だろう。だが時間が気になるので寄るのは止めよう。
気田川に架かる犬井橋を渡る。右前方には武田勢が居た犬井城のあった高台が見える。
家康はこの川を渡る事が出来ず武田軍にやられてしまったのか、今日の川の流れは穏やかで、これならだれでも
渡れそうだ。だが当時は「五月雨を 集めて疾し 気田の川」だったのだろう。

 
    気田川の新秋葉橋                     ふれあい公園

地図に「渡船所跡」の表示がある。橋が無いのだから当然な事だが、三倉から来た荷馬車はここで荷を下ろして
船に乗せ換える。そして秋葉山へは馬や人の背に背負られて運ばれたのだろう。
相良からここまで歩いてきて塩の道について今まで持っていた概念が少し変化してきている。それがここの
渡船場跡を知って更に強くなってきた。だがそれは青崩峠まで歩いた後もう一度考えてから紹介することにする。

 
       ダンスの銅像                   菫の花の敷石

道横の広場に風変わりな銅像が建っている。近付いて見ると正装をした紳士淑女がダンスをしている姿だ。
案内板は無く、何の銅像かと思ったが、下に敷かれてある菫の花の絵を見て思い出した。
確かここ春野町出身者で宝塚の主題歌(?)の「菫の歌」を作詞か作曲をした人がいた。
きっとそれを記念して建てた銅像だろう。
それにしても何の説明が無いという事はないだろうから、見落としたに違いない。

集落の中を歩いていると犬居城へのハイキングコース入口の看板が建っていて、城まで40分となっている。
行ってみたいが今日は光明山へ登るのでそんな余裕はない。残念ながらパスだ。

塩の道ガイドブックは気田川右岸の集落やふれあい公園を過ぎると高台に向けて登っている。一方秋葉街道の
ガイドブックは北の高台に向かう道と、川なりに進む道を案内している。高台の道は秋葉神社の下社は通らず
直接秋葉山へ向かう道だ。一方川なりに行く道は下社をお参りしてから秋葉山に向かう道になっている。
今日の私の予定は秋葉山には登らず、下社をお参りした後、光明山に登る予定なので川沿いの道を歩いた。
途中気田川渡る秋葉橋の袂に道路標識があり、その標識を見て驚くと同時に一気に気持ちが萎えてしまった。
今時間は14時08分。そして歩いた距離は約24km。それが道路標識にある天竜までの距離は何と「20km」
なっていた。20kmというと時速5kmで歩いたとしても4時間。すると途中光明山に登って天竜まで歩くとなると
一体何時になるのだろう、距離も増え山道だからとても時速5kmでは歩けない。ウーン困った。どうしよう!
立止っていても仕方ない、ともかく下社までは行こう。

 
    秋葉神社下社門前茶屋                 秋葉神社下社本殿

今日は平日という事もあり、参拝者のいない寂しい秋葉神社下社をお参りする。しかし頭の中はこの先
どうするかで一杯で何の感想も湧かない。
鳥居の前がバス停になっているのでバスの時間を確認すると、次のバスは15時43分で1時間半はある。
そして次のバスは最終バスで19時29分となっている。仮にここから光明山まで歩いて行き、光明山から
バスの走っている道へ、すぐ下るとしてもバス時間は7時半過ぎ。それでは辺りは真っ暗だ。
かと言って暗い車道を次のバス停まで渡り歩くの危なくて嫌だ。アーアなんて杜撰な計画なのだ。
大体下社から天竜まで何kあるか考えもしなかった。ただ下社に2時前に着けば何とかなると思っていた
のだから情けない。
こんな事ならさっき瑞雲寺に寄って犬居城へも登れば良かった。と嘆く事しきり。
結局光明山は諦め、犬居城の行ける所まで行ってみようと、城まで後20分の標識の所まで行ってきました。

塩の道&秋葉道Ⅲ(森-春野3)

2012-11-14 09:43:43 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅲ(森~春野3)                   歩行月日2012/10/8

    
       戦国夢街道標識                 戦国夢街道入口

観歩記

三倉から塩の道は江戸時代の道と、それ以前の古道とに分かれる。
江戸時代の道は三倉の合流部から県道を行く道で、古道は栄泉寺の山門の手前から山道が延びている。
塩の道のガイドブックは江戸時代の道は「車の交通量多く、カーブが多い上に歩道も無く通行注意」
書いあり、道の表示も実線でなく点線で表示してあり、暗に古代の道を歩くよう勧めている。
一方の秋葉街道のガイドブックは両方のとも注意書きは書いてないが、江戸時代の道の方が見所の
印が多く付いている。
さてどちらの道を歩こうか、古代の道は今までに2回歩いているが、江戸時代の道はまだ歩いた事がない。
となれば当然江戸時代の道だろうと、折角登った栄泉寺の坂道を三倉まで下って再度仕切り直しをした。

川沿いの道を登って行くと一ノ瀬に着く。三倉を過ぎてから急に多くなってきた案内板を見ながら
歩くので、どうしても速度は遅くなる。でも矢張り紹介しないわけにはいかない。
「一ノ瀬 道は各所で三倉川の流れと交差していたが、そういう所が瀬と呼ばれていた。瀬には簡単な
木橋が架けられていたが、流れを徒歩で渡る所も少なからずあった。
一ノ瀬とは、この流域の一番上流の瀬のことで、ここより下流には二ノ瀬、三の瀬があり、三倉川全域は
48ヶ所を数えてので「四十八瀬川」あるいは「いろは川」と別称されていた」
とある。
今見れば左程大きな川ではないが、それでも橋が無ければ大変だったろう。荷車の通行はどうしたのだろう?

また案内板があった。今度は「古戦場 一ノ瀬の戦い」とある。
「天正2年(1574)徳川家康は武田勢の勢力下にあった犬居城を攻めるため春野に向かった。
時は五月雨の頃で、豪雨が続き気田川を渡河して犬居城を攻める事が出来なかった。そのうち食料も底を
尽いてきたので、一旦兵を引き引返し始めたときに、敵の城兵が家康軍を追撃してきた。
山は高く、谷は深く不案内の地で、しかも地元の郷民が武田勢に加勢したこともあり、家康軍はこの辺りに
おいて多くの将兵が討死した」

長篠の戦以前の家康は負け戦が多かった。その逃げるさい穴に隠れたり、土地の人に匿われたりしている。
私が歩いているだけでも、東海道袋井の可睡斎の「出世六字穴」。同じく東海道の藤川宿近くの「鳩ご窟」では
穴に隠れている。
また、土地の人助けれたのは、先ほどの「見晴し御朱印」を初め、見付の「冷酒清兵衛」や藤枝白子には
本能寺の変で伊勢から家康が脱出する手助けをした漁師が賜った土地もある。
浜松には三方原の戦いで逃走中に、粥を振舞われた家に「小粥」の名字を与えてもいる。
こうなると家康が逃げ惑った場所を見るのが楽しくなってきた。

塩の道は「戦国夢街道」と名付けたハイキングコースになっているようだ。お蔭で道々に案内板や標識がある
ので迷わずに歩ける。戦国夢街道とは戦国時代徳川や武田勢が必死に戦った武将たちの夢にちなみ名付け
たとある。一つの道に塩の道、あきは道、信州街道、戦国夢街道と幾つも呼び名が付いて正直チョット紛らわし
く感じるが、地元としては新しい名前を付けたかったのだろう。

  
   万歳坂                       阿弥陀像道標           花立茶屋跡

オッとまた案内板が出てきた。今までは徳川方の事ばかり書いてあったが、ここのは武田方の事が書いてある。
「徳川軍との戦いを優勢に展開した犬居城方(武田)が、この付近で勝鬨をあげた」ので万歳坂だそうだ。

次は石仏の阿弥陀さんに「右あきは 左光明山」と刻んである。案内板には
「ここは秋葉街道と光明山への街道の分岐点である。光明寺は鏡山地区に山頂にあり、明鏡山光明寺という
古刹である。秋葉・春埜と並び称され、修験の山と云われる遠州三霊山の一つであった」

へーそーなんだ。遠州三山なら今までも何回も歩いているが遠州三霊山は初めて聞いた。しかも光明寺の
山号は、今まで光明山と思っていたが、それも明鏡山となっている。どちらが本当なのだろうか。
ネットで調べると、現在の光明寺は天竜市街地近くにあって、山号は「金光明山・光明山・明鏡山」と色々だ。
これでは一度光明寺へ参拝して、自分の目で確かめるしかない。

東屋のある所に大きな「通行不能」の標識が見える。近寄ってみると左は県道で、右が通行不能な道。
正面は石張歩道と名付けた塩の道だった。アー良かった。
この石張歩道が過ぎた辺りで栄泉寺からの古道と合流したが、秋葉街道のガイドブックの表示通り古道より
見る物が多く楽しかった。
「車多く・危険」は車が走っていたっけ?てな感じだったので、歩くなら江戸時代の道の方がお勧めです。

  
   大久保                    八幡宮の大木         旧大久保小校門

またまた家康の敗走記録がありました。「家康が逃げてきたとき谷より濃い霧が立ちのぼり、家康軍を覆った
場所を霧吹谷。家康軍が身をひそめた森を権現森という」
のだそうです。
この名前は本当に江戸時代からあったのか、戦国夢街道なるものを制定したとき名付けたのか?

旧大久保小の校庭跡で昼飯。時間は丁度12時だが果たして光明山に行ける時間があるかどうか。
ここから春野の秋葉神社下社までは、2時間半はかかるだろうから昼休みを短くして出かけるとする。

塩の道&秋葉道Ⅲ(森-春野2)

2012-11-12 10:18:26 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅲ(森~春野2)                   歩行月日2012/10/8

 
       元開橋                     天方駐在所

観歩記
太田川が三倉川と分岐する地点で県道も分岐している。東の道は太田川ダムを越えて駿河の川根家山へ延び、
西側の県道は三倉川沿いに春野方面に向かっている。
塩の道はその三倉川沿いの県道58号を北に向かう道なのだが、ネットの地図を見るとこの県道に「信州街道」
名前を付けてある。その信州街道を地図で辿ってみると、袋井宿の国道1号線をスタートして春野町の若見橋で
終わっている。ようは県道58号の区間が地図では信州街道と表示されていた。
そして秋葉山を越えて再度車道と合流する西渡地区の国道152号線は「秋葉街道」となっている。
余り釈然としないが仕方ない、現在の道の名称は兎も角、今回は昔の塩の道と秋葉道を歩ければ良いとする。

話を元に戻して、道が左右に分岐している元開橋交差点付近の地名は「大鳥居」と言う。これは昔この辺りに
秋葉神社の二の鳥居が建っていたことに由来するらしい。
一の鳥居は掛川の秋葉山の遥拝所に、二の鳥居はここ森町の大鳥居に有ったのだが、そのいずれの鳥居も
今は現存していない。古い施設の再建は掛川市では掛川城を、森町では天方城跡を整備を行ったが、
宗教施設である鳥居では公金を支出するわけにはいかないのだだろう。

鳥居が何処に建っていたか興味を覚えたが、鳥居の位置を表示する物は見当たらなかった。地図で見ると
元開橋は、ほぼ北の方に向けて架かっているが、秋葉山は北北東の方向にある。道が分岐した信州街道から
だとほぼ道の延長方向に秋葉山はある。さて実際は何処に鳥居は建っていたのだろう?

白い板の壁に屋根の正面には鬼瓦が付いた「天方警察官駐在所」が建っていた。丁度お祭りなのか祭典用の
飾りを窓にセンス良く貼ってある。その見た目の雰囲気と、天方(あまかた)の語感の雰囲気から小説家
内田康夫の浅井光彦シリーズを思い出した。
ルポライターで素人探偵の浅井が難事件を解決する話だが、全国各地の伝説や故事に纏わる話を、作家の
薀蓄を交えて面白く展開していている。
最近は少々マンネリ化したきらいもあるが、このシリーズが出るたびに図書館から借り受けて読んでいる。
その内田康夫がここを訪れたなら、こんな構想を描くに違いない。
題名は「塩の道回廊殺人事件」とし、雨宮神社の土屋宮司が何者かに殺された。
地元の天方駐在所の久野巡査長は、浅井光彦の助けを借りて難事件解決に向けて捜査を開始する--------
馬鹿な空想をしていたお蔭で、元開橋と交番前にあるはずの道標を見落としてしまった。

馬鹿はまだ続く。次の葛布の滝の道標は見落とさないように、と注意していたがまた見逃してしまった。
幸い店があり、その主らしい男性が自動販売機へ飲み物の補充をしていた。
「済みません。この辺りに葛布(くずふ)の滝の秋葉さんの道標があるらしいのですが-----」
「くずふ?アー葛布(かっぷ)の滝の道標なら、その入口にあるよ。だけど秋葉さんのじゃ-なくて「葛の滝 入口」
となっているけどね」

イヤー恥をかいてしまった。葛布と書いて「かっぷ」と読むんだ。確かに漢方薬の「葛根湯」「かっこん湯」
読むのだからカップの滝でおかしくない。でもそれじゃ-掛川特産の「葛布」「かっぷ」と言うのだろうか?
心配になり掛川手織葛布組合HPで確認すると「くずふ」となっていました。

そうそう葛布の滝の名前は「ここは葛がたくさん繁り、これを葛布(くずふ)にしたことから地名がつきました」
と紹介してある。それでは何故くずふの滝でなく、かっぷの滝なんだ?

本題の道標は秋葉さんのでなければ意味が無いと、確認は省略した。

  
    城下常夜灯         黒石常夜燈          四里標?         黒田常夜燈

森町を過ぎた辺りから常夜燈をよく見かけるようになった。しかもそのどれもが鞘堂に覆われた物が多い。
今まで鞘堂の中を覗き込んだことは何度かあるが、その中に入っている物は石造りの常夜燈が多かった。
しかし木製の常夜燈や、中には小さな社が置いてあったり、秋葉神社のお札を貼っただけの物もあった。
更には鞘堂が朽ちかけ出した物や、中に何も入ってない物、物置に利用している物など様々だった。

写真左端の城下の常夜燈は、鞘堂の中に鋳物で作られた丸い形の常夜燈が据えられていた。
2番目は黒石の常夜燈で旧黒石村の住民が建てたとあり、常夜燈の横には「四里標」があるとあったが
秋葉道は読めたが下の文字は読めなかった。鞘堂の中や道標の文字を確認したかったが、道路より
一段高く、しかも草が生い茂っていたので止めてしまった
それにしても四里標の四里とは何処からの距離なのだろうか? 掛川? 袋井? それとも秋葉神社?

  
    三倉                 大日山道標              春埜山道標

森町と春野の中間にある三倉に到着。当初の予定では2回目の歩きでここ三倉まで来たかったが、
帰りのバスが自主運行バスで、予約が必要だったのため、距離は短かったが戸綿駅をゴールにした。
それが三倉に来てみると遠州鉄道のバス停があり、袋井駅から路線バスも運行していた。ガク! 失敗だ。

今日の予定は春野に早く着いたら、帰りに水防の神様を祀ってある光明山に寄っていこうと思っていた。
今では光明山光明寺の名前は余り聞かなくなってしまったが、秋葉詣が盛んだった江戸時代は、火防の神様
秋葉さんと水防の神様光明さんを、合わせてお詣りすることを「ついで詣り」が盛んに行われていたという。
私も今回秋葉山に登るからには光明山にも行ってみたいと思っていたが、果たしてそんな時間があるか微妙に
なってきている。と、いって焦って歩いて見るべきものを見落としてしまっては意味がない。
観歩しながら、それで時間があったら光明山に行けば良いと思う事にしている。

三倉の名前の由来は
・家康が戦で負け逃げるときに三つの馬の鞍の陰に隠れたから。
・二つの川がここで合流して、あたかも三本の川があるように見えてから(倉は谷や崖を表す)。
・かっての支配者が三つの倉(農・財・穀)を建てたから。
どれも本当のようでも嘘のようでもある。そういえば大きな看板に「三鞍山荘」あった。一番嘘っぽい
名前だが字のイメージが良くて採用したのかな?

ここ三倉からも川沿いに道が分かれている。右に行けば先ほど太田川沿いに行った道と合流して川根方面に
抜ける道で、塩の道はまたもや左(西)の道を進む。
その右の道に「従是大日山」「右春埜山道」の道標が建っていた。大日山には大日山金剛院。春埜山には
春埜山大光寺があるので、それに続く道なのだろう。

さらに「見渡し御朱印」と書かれた案内板も建っていた。その概略は
「昔、徳川家康が武田信玄との戦いに敗れ、三倉村に逃げてきた。家康は草刈りをしていた農夫に求めると、
農夫は急いで家康を草籠の中に入れ、その上に刈った草を一面にかぶせ、姿が見えぬようにして敵兵の探索
から家康をかくまった。助かった家康は礼状を書き立ち去った。やがて天下を取った家康は、農夫を江戸に
呼び出し褒美として、
「門前に立って見える限りの田畑を与える」と御朱印のある書状を手渡した」そうです。
ここでは三つの鞍の陰に隠れた話は無い。マー伝説なんてそんなものでしょう。


     栄泉寺               太平山の扁額              境内の石仏

三倉から県道を離れて栄泉寺に向かう。この寺は森町最古の寺で寛政三年(1696)となっていた。
待てよ! 寛政では江戸時代だ。それなら森町には古くから勢力を持っていた蓮華寺がある。あちらの方が
古いのではないかと調べてみると、案の定蓮華寺は慶雲元年(704)開基となっている。
それ見ろと思ったところ、実は最古とは建物の事で蓮華寺の建物は文化10年(1813)だった。

山号の「太平山」は家康から賜った山号で、扁額は水戸黄門から贈られた物だとか。