はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

東海道10回目-4

2011-09-30 09:24:31 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」10回目-4      2011.9.8


                関宿へ(神戸)
    

亀山宿 ― 野村一里塚 ― 和田一里塚 ― 亀山宿 ―野村一里塚
15:30       16:00        14:55       15:30     16:00

 野村一里塚を出たあと道路の塗装の色が、いつの間にか白線の内側だけになったいたが、前回その写真を載せるのを忘れてしまったので今日を紹介します。

     
      東海道のしるし(歩道の内側に色塗装)

 何か由緒ありそうな神社が出て来た。鳥居の中は薄暗く常夜灯が列を作っている。神社の名前は布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社というが、聞いた事のない名前の神社だった。だがそんな神社のことよりこの神社の縁起書に面白い事が書いてあった。
「夫レ神戸と申し申侍るは、崇守天皇の勅命て、御館を改め 其郡の宗廟として荒魂の御神を社(まつる)神戸なり」と書いてある。
余り良く分らないが大意は「この地に天皇の勅命て社を建てたから、この地を神戸(かんべ)という」となるだろうか。余りピンとこないのでネットで調べると明解な解釈が載っていた。
「神戸(かんべ)とは、神社に租税を納める民のこと」だという。
それならこの辺りは布気皇舘太神社に租税を納めていたのだろう。縁起書は税金を搾取するとは書きづらかったので「御神を祀ったから神戸という」になったのだろう。

     
      布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社

 県道とJRの関西本線の線路を越すと直線の桜並木の道になった。案内板には「大岡寺畷」と書いてある。畷(なわて)とは田圃の中の直線の道の意味なのだから、この辺りはかっての街道に間違い無いだろう。なのに桜並木とは何故だ。理由はすぐ解消した。以前は松並木だったが桜に植え替えたそうだ。

      
      大岡寺畷の桜並木

 大岡寺畷が終る辺りに東名阪自動車道と名神国道のガードがある。そのガードの壁には東海道53次の浮世絵が描かれていた。

     
     浮世絵の描かれたガード

時間はもう4時40分。関駅まで後どの位掛かるのだろうか。予定している電車は関駅を5時30分だから遅くても5時10分には着きたい。気分は段々焦ってきて足は自然と速くなる。
こんなとき畷のような直線道路は、前に進んでいる気がしないので余計イライラしてくる。国道1号線と合流したので、そのまま街道を離れて1号線を歩こうかとまで思ったが何とか我慢をする。

     
      旧関町のマンホール

 エイ!遅れたら遅れたで次の電車に乗ればいい、と気分を落着かせてマンホールの写真を撮る。
マントを被った旅人が旅籠の並ぶ街道を歩いている図柄だ。例えマンホールの蓋でも、このように特徴があると面白い。と気を紛らわせていた。

     
      関宿 東の追分

 やっと関宿の入口の東の追分に着いた。この追分は鳥居のある左の道は伊勢に通じる伊勢別街道の入口になる。ここから伊勢まで15里というから60km程度で2日か1日半位の行程だろう。鳥居は伊勢神宮の鳥居だとか。矢張りここは伊勢の国なんだなーとつくづく感じる。
この追分に関の一里塚があるというが、それが見当たらない。一度諦めた5時半の電車だが今の時間は4時55分。急げば間に合うかも知れないと思い出すと、一里塚を探すのも疎かになる。エイ!もういいや、次回この追分まで戻って一里塚を探そうと歩き出した。

     
      関宿の町並み

 何はともあれ駅の入口まで必死に歩いたので古い町並みもただ通り過ぎるだけ。お陰で関駅入口の標識のある四辻に5時到着した。もう大丈夫だろうと、安心したら今日の乾杯用の氷結が気になりだした。街道筋と違い店の少なくなった駅への道には酒類を売っている店は無かった。後は駅にキオスクがありますように。

     
     JR関駅(駅前の道は国1)

 関駅に5時5分到着。余裕を持って体を拭いて着替えを済ませたあと駅の待合室に。
残念でした関駅は無人駅でキオスクなどの売店はありませんでした。


蛇足:今回もJR東海に一言
 
 実は今回と次回の東海道歩きは、残っている2枚の青春18切符で、日本橋から小田原で歩く予定でした。
その電車の時間は8月に調べてあったのでのんびりしていたのですが、念のためと前日に電車の時間を再確認しました。
 ところが無い! 予定していた夜行電車ムーンライトながらがヒットしない。そんな馬鹿な。
調べてみるとムーンライトながらは、9月4日から運行中止になっていました。
そんな~ 何も青春18切符の有効期間の10日までなのだから、その日まで運転すればいいのに----

 ムーンライトながらに乗らず鈍行で東京に行くと10時頃になってしまう。
日本橋は七つ立ちはともかく、朝6時前には日本橋を出発する予定だったのにーーーーーーー しかも日本橋から小田原まで約86kmあるが、日本橋を早立ちすれば2回で歩けると踏んでいた。それが10時過ぎの出発となると、とてもじゃないが2回では無理だ。

 泣言を言ってても始まらない。仕方ないので行き先を四日市からの続きに変更した。
これで日本橋からの歩きは何時になることやら、トホホ! 
それにしても昨日は忙しかった。

 JR東海さん、ムーンライトながらが季節列車になった事は仕方ありません。でもせめて運行期間を青春18切符の運用期間と同じにしてください。お願いします。

東海道10回目-3

2011-09-29 15:48:15 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」10回目-3      2011.9.8


                亀山へ(蝋燭)    

庄野宿 ― 中富田一里塚 ― 和田一里塚―亀山宿―野村一里塚
13:20       13:45        14:55     15:30    16:00

 庄野宿を出て国道1号線に合流する手前に旧東海道の迂回ルートの案内板が立っていた。手前にある国1は横断できないので少し戻って地下道を渡るようになっていた。石薬師でもそうだったが、ここも国道優先で旧東海道は寸断されてしまったようだ。

              
 
 新旧二つの領界石が建っていて、どちらも「従是東神戸領」となっていた。このあたりに「女人堤防碑」も建っているらしいが見当たらなかった。
この女人堤防碑とは、近くを流れている鈴鹿川の堤防は、川の南側に神戸城があるため、川の北側は堤防の築造を禁止されていた。それを女人なら禁を犯しても罪は軽かろうと堤防を築いてしまったという。そしてその結果は! でも残念案内板を見る事ができなかった。

     
      中富田の一里塚跡

 中富田の一里塚は日本橋より103里目の一里塚で、案内板には「現在でも東百里屋(ともりや)という屋号で呼ばれている家がある。この地から江戸へおよそ百里(400k)であったので、この屋号が付けられた伝えられている」
なるほど1.3×3.93≒404kmだ。本来なら1個前の石薬師の一里塚が400kmだが、マーこの位なら許容範囲内だろう。
一里塚の碑の横には「従是西亀山領」の領界石が建っていた。これを見て気分はもう亀山宿がすぐ近くになったように感じた。

     
      石山寺

 城の石垣のような寺が見えてきた。その名も石山寺で昔は砦でも兼ねていたのだろうか?ネットで検索したが出てくるのは大津の石山寺ばかりで、ここの石山寺にはいきつかなかった。

     
      和田の一里塚

 和田の一里塚は日本橋から104里目で一見した時は江戸時代からの一里塚と思ったが再建した物だった。それも昭和59年までは塚は現存していたが、道路拡張に伴い破壊してしまったらしい。惜しいことをしたものだ。

 亀山領内に入ってから一里塚を一つ越したのにまだ宿の中には来ていない。それでも和田の一里塚を過ぎて国道を過ぎた辺りから市街地に入った雰囲気になった。左側に亀山蝋燭の工場がある。特に特徴もない工場で写真を写すのも忘れてしまった。
 
 亀山の地名は宿場町としてでなく知っていた。何故知っていたのだろうと考えていたが、この工場を見て気が付いた。きっと亀山蝋燭が有名だったので亀山が記憶の中に入っていたのだろうと。
だがこのあと亀山の市内を歩いても蝋燭専門店や蝋燭の表示が見当たらなかった。何故だ?亀山は蝋燭の産地ではないのか?
亀山市のHPを開いてみると「日本一の生産量を誇る神仏用ローソク」と書かれているが、その歴史などには触れていない。
次にカメヤ(株)のHPを見ると「カメヤマ株式会社は2007年に80周年を迎えました」とある。それなら会社が誕生したのは昭和に入ってからだ。
何のことはない商品名に亀山が入っていたので亀山が蝋燭の産地だと思い込んでしまっていたのだ。因みに蝋燭の産地は既に歩き終わった三河の三州岡崎和蝋燭が有名だとか。そういえば蝋燭を売っていた店が有ったような気がしないでもない。

 ところで和蝋燭の上が太くなっている理由を知っていますか?私は上を太くして下に垂れる蝋を少なくしていると思っていましたが違っていました。
今回蝋燭を検索していて知ったのですが、あれは「和蝋燭は蝋が減っても炎の高さが変わりにくいように上の方が太く作られていた」のだそうです。

     
      能褒野(のぼの)神社の鳥居

 道の左側に何の変哲もない鳥居が建っていた。鳥居の根元には幾つかの標識がある。一番大きいのは「屋号札の表示」で余り興味は無い。次が「従是西亀山宿」となっている、ではここからが亀山宿かと一安心した。更に横にある道の指導票は北を指し「能褒野神社」としてある。
能褒野(のぼの)神社? ウーン聞いたことがある。東海道の参考本を取り出して確認すると
「ここに鳥居のある能褒野神社は日本武尊の墓と宮内庁が認定した王塚古墳に建てられた神社で、ここから3km北にある」と説明があった。
これで思い出した、確か日本武尊は杖衝坂を越えたあと倒れて死んでしまい、白鳥になって都に飛んで行ったはずだ。そしてその地に白鳥塚を築いて日本武尊の墓としたと憶えている。
だが、この説明では明治になって白鳥塚とは違う古墳の能褒野を宮内庁が尊の墓と認定したとなっている。本当にそんな事があるのだろうか?それにしてもこの鳥居の下に能褒野神社神社の説明が無いのは何故だろう。地元は宮内庁の判断を納得していないのだろうか。

 ところで白鳥塚古墳は何所にあるのだろうか、見落としてはいけないと参考本で調べてみると、何の事はない、もうとっくに通り過ぎていた。塚の場所は杖衝坂や血塚社を過ぎ、石薬師宿も通り過ぎ、庄野宿の手前あたりを北に行った加佐登神社に白鳥塚はあった。今更どうしょうもないが何か案内でもあったのだろうか。残念だった。(しかしその場で気付いても街道を離れるとなると、きっと行かなかっただろう)

     
      亀山市のマンホールの蓋
 
 亀山市のマンホールの蓋には城の絵が描かれている。きっと亀山城なのだろう。高い石垣の上に櫓が建っている。堀にはアヤメが咲いている絵だ。

     
      街中の城に似た建物

 おっとこれは何だ。城を模した建物なのか。下にある鉄の網は石垣を表しているのだろうか。どうか街道から亀山城が見えますように。と祈りたくなる。

     
      古民家「まつばや」

 古い民家を過ぎ道は左にカーブして、次は直角に右に曲る所に「江戸口門跡」の案内板がある。そこにはここが「亀山城下の東端」と書かれていた。

 
樋口本陣跡

 その江戸口門の先には樋口本陣跡があった。今は八百屋になっていて当時の面影は無い。
東海道はその先の交番前交差点を左に曲るのだが、亀山城は直進するようだ。この城も見る事が出来ないのかと諦める。
どだい街道から清々と城が見えたのは桑名城だけだったのだから、ほかは警護のため街道から直接入れないようにしてあるのかと邪推したくなる。

     
      枡形?

 久し振りに枡形らしき道の曲りに出た。だが案内板が無いので何ともいえない。
三河あたりまでは枡形とか棒鼻、曲尺手など書かれた案内板をよく見かけたが、伊勢に入ってからは桑名宿で一度見かけただけだ。江戸から遠く離れてくると風習が変わってくるのか、それとも江戸幕府の指示が浸透しなくなってくるのか。

     
      亀山城の多門櫓

 見えました。枡形から坂を下った所にある京口門への登り坂の所からやっと亀山城を見る事が出来ました。城といっても櫓だが、この櫓は亀山城で現存する唯一の建物だそうです。マンホールの蓋より横に広いかな。

     
      街道の舗装の塗装1
     
 今頃になってやっと気付いたのだが、道の舗装に色が付いている。交差する左右の道には色が付いていないので、この塗装が東海道を表しているのだろうか。若しそうならこんな分りやすい道しるべは他に無いだろう。これなら迷うことなく順調に歩ける。

     
      街道の舗装の塗装2

 ただ少し派手なので落着かない嫌いはあるが。

     
     野村の一里塚

 野村の一意塚は現存している一里塚で、塚には椋(むく)の木が植えられていた。この椋の木が植えられている塚はここだけだという。
椋の木の名前は、椋の木の実を椋鳥が好んで食べるから椋の木になったとか、椋の木の名前は聞いたことがあるような無いような。
日本橋から105里目の一里塚。

 道路の舗装はいつしか歩道の部分だけになった。これでも充分に分る。いやこの方が落ついていていい感じだ。
東海道の舗装の部分は、全てこれで表してくれれば分りやすくて助かる。若し金が掛かるなら現在の白線の色を変えるだけでも良いのだが。
調子に乗って歩いていたら、太い道に合流し旧東海道は途絶えてしまった。道の塗装もここで終ってしまっている。
街道マップで確認すると10mほど戻って道路と関西本線を跨ぐ弧線橋があった。

清水山原に行って来ました

2011-09-28 18:41:07 | 低山歩き

 富士山が初冠雪したというニュースを見て、急遽富士山の眺めの良い山に登る事にしました。
満観峰、浜石岳どちらにしようの迷ったが、結局まだ登った事の無い山原(やんばら)にした。
山原は清水の国道、東名、東海道のいずれを走っていても、北側に見える山で、山頂にアンテナが何本も建っている山です。

     
      山原無線中継所

 コースは清水駅から山原の麓に行き、そこから山頂まで続いている農道を歩きます。
山頂からは一度東に下りて再度農道を柏尾峠まで登り直して梶原山に向いました。
本来は山原から尾根伝いにいけるようですが道が分りませんでした。

梶原山からは瀬名に下りて、今度は谷津山という低山を縦走して静岡駅に向いました。
距離は約27km、時間は約8時間掛かりました。

 景色ですが、山原は登る途中の清水の街はよく見えたが、山頂はアンテナの敷地の周りをフェンスで仕切ってあり景色は見えません。
富士山は山頂直下の農道から見えました。こんな状態だから人気が無いのかもしれませんね。
そうそう富士山の雪は融けれしっまたのか見えませんでした。

     
      山原から

景色は矢張り一本松公園(帆掛山)からの景色が一番でした。

    
     一本松公園から清水市街


東海道10回目-2

2011-09-27 14:37:27 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」10回目-2      2011.9.8


                庄野へ(小さな宿場)
    

      石薬師宿 ― 石薬師一里塚 ― 庄野宿
        12:30       12:45      13:20

 石薬師寺は宿場側の門は裏門で、寺の中を下った南側の門が正門のようだった。その山門を出て旧国1だったと思われる道を下って行く。前方に川を越える坂が出て来たが、その横に平らな道が続いている。街道マップを確認せず平らな道を直進すると、アレ―道が無くなってしまった。慌てて引き返し土手の上の橋を渡る。

     
      石薬師の一里塚

 程なくして石薬師の一里塚に出る。日本橋から120里目の一里塚だ。
この一里塚の案内板に愉快な川柳が載っていた。
   くたびれた 奴が見つける 一里塚
全くその通りと言いたいが、現在の一里塚は石碑が1本で、それも家と家の間とか、個人の庭の中にあったりして中々見つけるのが大変だ。予め一里塚出てきそうな場所を予想をしていて、その辺りに来たらキョロキョロして探さなければ見つける事が出来ない。
この川柳のようにくたびれていては探す事はほぼ不可能だろう。

     
      庄野宿への案内板

 一里塚で旧国1と別れ関西本線の線路方面に進む。ガードを潜ると道はまた90度曲って線路沿いを西に向かう。道は更に国1や県道の下を潜ってやっと国1に合流する。
このあたりの道は旧東海道ではなく、鉄道や国道で寸断された旧東海道を、田圃道や取付道路などを繫いで辻褄を合わせているのだろう。
多分私が間違えた川の手前で無くっていた道が、旧東海道ではなかったのかな?

     
      庄野の白雨

 庄野といえば広重の浮世絵「庄野の白雨」が有名だが、何所を描いたものだろう。石薬師から庄野までは緩い下りか平らな道だったので亀山宿に行く途中なのかもしれない。
東海道の歩き初めは浮世絵と似たような場所はないかと気にかけていたが、所詮絵は絵で写真ではない。しかも浮世絵は誇張が多く現実の風景とはかけ離れているので同じような場所を見つける事は難しい。

     
      庄野宿入口

 石薬師・庄野間は短く、見学を含めても1時間掛からず衝いてしまった。距離にして4km程しかないだろう。
宿場の入口には庄野宿案内板と東海道庄野宿立柱が立っている。その中に「他宿に比べ、宿が出来たのは遅く」と書いてある。
宿場が遅く出来たのなら、きっと必要があって出来たのだから大きな宿場だろう。それに浮世絵でも有名な庄野宿だと期待を懐いて宿の中に入っていった。

 連子格子の古い家もあり街道の雰囲気は残されているが、何かひっそりとした町並みだった。更に歩を進めていくと庄野宿資料館があり、その前には「鈴鹿市指定建造物 旧小林住宅」の標識が立っている。ここはもと菜種油屋の建物で、現在は宿場関係資料や農機具・生活用品などが展示されている。

     
      庄野宿資料館

 庄野宿は本陣1軒あったが、その痕跡は、この標識のみ。

     

 本陣の標識の横「距津市元標九里拾九町」の標識がたっている。
最初にこれを見たときは「距津市」という名前の市があり、そこからここ庄野まで9里19丁あるのかと思ったが、どうやらそれは間違いで「距」にはへだるとも読めるので「へだたること津市から9里19丁」となるらしい。

 それにしても小さな宿場だった。今まで歩いた中で駿河の日坂宿が小さかったが、それと同規模程度の宿場だ。それでも日坂宿は大井川の川止めで金谷宿が一杯になった時の補完的な役目もあったようだが、庄野宿は何の目的があって東海道で一番遅く宿場になったのだろう。

東海道10回目-1

2011-09-26 17:49:01 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」10回目-1      2011.9.8

四日市駅 ― 石薬師宿 ― 庄野宿 ― 亀山宿 ― 関宿 ― 関駅
 9:15       12:05      13:20    15:30    16:55   17:05
          12.7k      16.7k    26.4k    33.1k   33.9kk


  10回目歩行ルート
  

               石薬師宿へ(日本武尊)
     

四日市駅 ― 日永追分 ― 杖衝坂 ― 采女一里塚 ― 石薬師宿
 9:15       10:40      11:20     11:30       12:05     
                 
 JR四日市駅前の太い道を近鉄の駅に向けて歩き始めた。前回歩き終わったアーケードの出口からの続きの東海道を歩く事になるのだが、ついウッカリして近鉄の駅の近くまで行ってしまった。
気がついて戻るのだが、そのまま戻るのも馬鹿らしいと途中の道を入ったのが間違いの元。最初の立寄り地に予定していた丹羽文雄生誕の寺が分らなくなってしまった。地元の人に尋ねたが「丹羽文雄?サー」って感じで分らない。3人目でやっと場所が分り行って見た。

     
     丹羽文雄の生誕地

 幼稚園の前に「崇顕精舎 文雄」と刻まれた石碑が建っていた。丹羽文雄の筆跡なのだろう。
丹羽文雄ではチョト恥ずかしい想い出がある。その頃の作家で鞍馬天狗を書いた大仏次郎という作家がいた。名前は大仏と書いて「おさらぎ」と読むのだが、それを「だいぶつ」と読む人がいたので馬鹿にしていた頃があった。
その生意気な私が「にわ文雄」の事を「たんば文雄」と読んでいたのだからアホたれる。

 崇顕寺の前の道が東海道だったので西に向かって進む。
四日市は空襲にあったので古い建物が無いと聞いていたが、赤堀町あたりまで来ると時折古い民家がある。その格子戸には板に東海道と書かれた案内板が時折目に付いが、余り目立たない道標だった。
派手な色の板にすれば目に付くだろうが、そうなると格子とのバランスが悪くなる。難しいものだ。

 日永神社には東海道で一番古い道標があるとのことで寄ってみた。しかし道標は神社の入口には無く、境内の本殿の右前に石碑と案内板が立っていた。

     
      東海道最古の道標

 案内板を読むとこの道標は元は、この先にある伊勢街道と東海道が分かれる日永追分に建てられていたが、日永追分に新しい道標が出来たので不要になった道標をこの神社に移転したとある。追分に立てられたのは明暦2年(1656)で東海道にある道標の中では一番古いとあった。
今2011年なので今から355年前に立てられたことになる。さすがに読めないヶ所もあるが正面の「大神宮」ははっきりと、「いせおいわけ」何となく読む事が出来る。側面の「京」とか「山田」の行き先も読む事ができた。

 ところで「山田」とは何だろう。伊勢と京の追分なのだから「伊勢」ではないのかな?
家に帰り伊勢街道を地図を追ってみると、伊勢市駅の先に宇治山田駅があった。
何故宇治山田なのか伊勢市をHPで見てやっと分った。伊勢市は昭和30年までは宇治山田市と称していたが、近隣町村の合併のおり伊勢市に改称したとある。
因みに宇治とは内宮周辺をさし、外宮周辺は山田に当たるとあるから、この道標は伊勢神宮の内宮を指していることになる。

 この宇治は調べると色々な説があるらしい。京都の宇治は「内(うち)」「兎路」「畝路」などの解釈があるらしく、宇治=内(うち)なら内宮と解釈しても良さそうな気もしてきた。
これ以上突っ込むと石薬師宿に着かなくなりそうなので止めにします。

          

 家と家の狭い隙間に日永の一里塚の碑があった。日本橋より丁度100里目にあたる一里塚だ。

     
      日永の追分(左伊勢 右京)

 日永の追分は追分らしい追分だ。以前見た江尻(清水)宿の追分は、直角のT字路で、これでは追分でなく辻だ、と文句を言いたくなったが、ここの追分は文句無く追分だった。

     
      追分の新しい道標

 追分には新しい道標が立っていた。さすが古い道標を追っ払ってしまっただけの事はあり、彫りが深い立派な道標だ。文字も「左いせ参宮道」「右京大坂道」とはっきり分る。
オット待った。また疑問だ。道標には「大坂」とあるが大「阪」の間違いではないのか、更に大阪は昔は難波とか浪花と呼んでいたのではないのか。
 この疑問は簡単に解消した。先ず大坂と大阪の違いではこんな記事を見つけた。
「大坂の「坂」の字を分解すると「土に反る」と読め縁起が悪いので、江戸時代の頃から「大阪」とも書くようになった」とあった。
では難波や浪花は「古くは難波、浪華、浪花、浪速などと称されてきたが、浄土真宗の中興の祖である蓮如が現在の大阪城域に大坂御坊(いわゆる石山本願寺)を建立し、大坂という呼称が定着した」あった。

     
      杖衝坂(つえつきざか)

 先を急ごうと思ったが、今度は日本武尊が現れた。
日本武尊は墓は白鳥古墳でまだ先のはずだ。だが、この坂の途中に「史蹟 杖衝坂」の石碑が立っていた。坂といっても現在の坂は左程の事はない坂なのだが、面白い謂れのある坂だった。
 
 東征の帰途、伊吹山での戦いで負傷を負った日本武尊は、弱った体で都への帰還を目指して杖を衝いて、この急坂を登る途中 『吾足如三重勾而甚疲』 (私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた)と言ったらしい。
これが三重郡の名前の由来となり、のちに県名にもなったとか。またこの坂も杖衝坂と呼ぶようになった。フーン初めて聞いた。

     
      血塚社

 杖衝坂を登りきると今度は鳥居に「血塚社」の額が掛り、中に「日本武尊御立塚」の石碑がある。ここは坂を登りきった日本武尊が血を洗い流し血止めをした場所とのことだ。

 采女(うねめ)の一里塚は1号線の渡った所にある。交通量が多いのだが近くには横断歩道も無い。諦めて1号線越しに写真を撮る。ここが日本橋か101里目。

     
      采女の一里塚跡

 国道1号を地下道で渡ると石薬師宿に入口になる。入口にあった案内板を見ると石薬師宿は小さな宿場のようだ。実際歩いてみても1k程度しかない。
それなのに本陣が3軒もあったのは何故だろう。しかも脇本陣は無く旅籠も15軒しかなかった。それでなくても本陣経営は厳しかったようでよく経営できたものだ。

     
      小澤本陣跡

 石薬師の生んだ偉人佐々木信綱の記念館が生家の隣にある。入館料は無料らしいが時間が惜しくて覗く気にはなれない。
素通りとなるのだが--チョット待った。記念館の名前が「佐佐木」になっている。佐々木でなく佐佐木とは何故だ。
これは佐々木信綱が中国に滞在した時、佐々木の「々」の漢字が中国には無くて、止む無く佐佐木と書いたが、それが以後も使われるようになったようだ。

     
     佐佐木信綱の生家

 国道1号の陸橋を渡ると宿場の名称になった石薬師寺の門がある。
  
     
      石薬師寺の門

 チョット待った! マタマタ疑問が出て来た。この石薬師宿の名前の由来は先ほど書いたように、石薬師寺の名前から取ったと、殆どのHPは説明しているが、こんな記述を見つけた。
「弘法大師が巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行ったことにより、嵯峨天皇は勅願寺とし名を高富山西福寺瑠璃光院と称していたと伝える」とある。更に
「元和2年(1616)に、東海道五十三次の宿場 石薬師宿にちなみ、高富山瑠璃光院石薬師寺と改称し、今日に至っている」とあった。

     
      石薬師寺本堂

 私の考えでは当時の庶民はこの寺を呼ぶときは、正式名称の西福寺とか瑠璃光院とは言わず、薬師如来を岩に彫ってあるから石薬師様と呼んでいたのだろう。
それが東海道の宿場名になって全国に知られるようになったため、寺もそのご利益に授かろうと石薬師寺と改称したのだろう。

東海道9回目-3

2011-09-22 10:49:32 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」9回目-3      2011/9/6

             四日市宿へ(焼蛤)
         
            
矢田立場 ― 町屋橋 ― 富田一里塚 ― 四日市宿 ― JR四日市駅
 13:40      14:00      15:15       16:35       16:50 

 員弁(いなべ)川に架かる町屋橋の袂に常夜灯が建っている。安永の伊勢雨宮常夜灯らしいが隣に立っている石碑には「○町屋川○○桑名郡」と書いてある。更に常夜灯には「中屋木材」とも彫ってある。これが文政元年に造られた常夜灯と云うが本当だろうか。

         
          安永の伊勢雨宮常夜灯    

 常夜灯の先に江戸時代の町屋橋があったが今は無い。現在は国道1号の町屋橋を渡る。
橋の袂には両岸とも町屋橋の歴史を書いた案内板が立っているが、その中に気になる表現があった。
東海道名所図会(1797)の一部を紹介して「名物焼蛤、東冨田、小向の多所の茶店にて火鉢を軒端へ出し、松毬にて蛤を焼き旅客を饗す。桑名の焼蛤とはこれなり」と書いてある。
富田も小向もここより先にある地名で桑名方面ではない。??

 後で分ったのだが、この町屋橋を渡った所に縄生の一里塚があったらしい。
尾張の宮宿の入口にあった伝馬町の一里塚が日本橋から89里目。そして縄生の一里塚が97里目になるという。その間の7つの一里塚は七里の渡しの分だとか。上手くできている。
ウーン残念! それを確認するためにも見ておきたかった。

         
          多賀神社の常夜灯

 今日は素晴らしい天気で雲一つ無い。こんな天気は街道歩きには適していないのだが、青空をバックにした、こんな物を見ると気分もスッキリする。
近くに神社など見えないが多賀神社の常夜灯らしい。伊勢に入り常夜灯に秋葉神社の文字が見られなくなったのは、伊勢神宮の影響か?
それでは近江に入るとどうだろう、秋葉山のある遠江とは親戚のような国だから。

     
      朝明川
 
 台風12号は紀伊半島の奈良、和歌山、三重県に甚大なる被害を出していった。ここも三重県だが被害の大きかった南部と違い余り影響は無かったようだ。それでも鈴鹿山系から流れ出る、この川などは河川敷の草がみな下流に靡いている。
川の上流に見える鉄橋はJR関西本線で、右に見える高架は伊勢湾岸自動車道だった。

 冨田の一里塚はJRと三岐鉄道のガードを越した所にあった。桑名からここまで既に10km弱は歩いて来ているので、一里塚はまだかまだかと思っていたのでホットした。
だがここで気がついた。10kも歩いて一里塚無いのはおかしい、見落としてしまったのか。慌てて街道マップを戻したが見当たらない。今更あっても戻るわけには行かないと諦めたが。
家に帰り街道マップを丁寧に見たが載っていない。だが参考本には「町屋橋を渡った人家の前に「一里塚」以外は何も書かれていない碑がある」となっている。
そんな碑は見ても見なくても同じだが、HPに東海道をUPするとき一里塚の一覧表を作ろうと思っているので少々ガッカリした。尤もここまででも既に何ヶ所もの一里塚を見逃しているのだが。

         
          冨田の一里塚

 冨田小学校の入口に「明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)跡」の石碑が立っていた。今までも明治天皇の立寄った石碑は飽きるほどあったが「御駐輦」と刻まれた石碑は少なかった。気づいたのは駿河の岩淵間の宿と遠江金谷宿の石畳、そしてここ冨田の立場の3ヶ所だった。
何故気になるかというと、天皇が乗った「輦」と言う乗物がどの様な物か知りたいと思っている。手押し車とか御輿のような物というが、実際はどんな形をした乗物だったのだろうかと興味がある。
ここの案内板には「車駕(しゃが)にて京都を出発し---」と書いてあるが、車駕の意味を調べても「天子が行幸の際に乗るくるま」ぐらいしか書いてない。

         
          明治天皇御駐輦跡

 他にもこの案内板には、焼蛤で興味を引く事が書いてあった。
「明治天皇は冨田で焼蛤をご賞味になされ---」となっている。桑名名物を何故桑名に着く前に食べるのか、これでは桑名の住民が怒ったのではないか心配になる。

焼蛤を調べていると、こんな事を書いてあるものもあった。
「冨田は焼蛤が名物の立場で、桑名はしぐれ蛤が名物」
さらに「その手はクワナの焼蛤」の解釈は、普通は「いくら上手いことを言っても、そんなことぐらいではひっかからない」とか「その手は食わぬぞ!」と食わないと桑名を引っ掛けたものとなっている。だがこんな解釈もあった
「西から来た旅人は冨田で名物焼蛤を食べたあと、桑名で再度勧められたとき「その手は桑名の焼蛤」と言ったとか。ウーンこれは説得力が有りますね。
私の解釈では桑名でも焼蛤は売ってはいたが、本場は冨田や小向だったのだと思う。
しかし冨田にも小向にも焼蛤を商っている店は目につかなかった。

     
      力石

 明治時代近くの寺を再建するとき、土台の石で力比べをしたとか。
大きい石は32貫(120kg)で、小さい方は5貫(19kg)だとか、私の力では小さい子供用の石を持ち上げる事はできるが、肩までは担ぎ上げる事は出来ないだろう。

 四日市といえば私たちの年代では「公害」「大気汚染」そして「四日市喘息」など負の面を思い浮かべてしまうが、しかしご覧ください

         

ご覧のようにスモックなど無くすっきり晴れ渡った青空が見えてます。四日市では公害は過去のものになったのでしょうか。

 今日は一日雲も無く陽射しが強いのので注意力が落ちていたのだろうか、それとも焼蛤を食べ損ねてガックリきているのか、また一里塚を見落としてしまった。
見落とした一里塚は三ツ谷の一里塚で平成13年に再建された塚だという。逃がした魚は大きいと言うが残念だった。

      
       なが餅の笹井屋

 三滝橋を渡るといよいよ四日市宿が始まる。橋の袂には名物のなが餅を商う笹井屋のお蔵のような店がある。
なが餅とは何ぞや?と調べてみたら
なが餅とは、餅の中に餡を入れて細長く伸ばして表面を焼いた焼餅のことで、分類上は焼餅で、商品名は「永餅」なのだそうだ。だからなが餅の名前は笹井屋しか使えないらしい。
このなが餅が有名になったのは藤堂高虎が足軽の頃出世払いで食べさせてもらい、後に出世をして津の城主になったとき、高虎が笹井屋の当主を召して、厚く遇したという。以来、参勤交代の折には必ず笹井屋に立ち寄ってなが餅を賞味したので、なが餅が有名になったとされる。
家康流ならば出世餅というところか。

 このあたりに本陣などがあったはずだがとキョロキョロしながら歩いたが、そのような表示は見当たらなかった。出て来たの写真のような表示だった。

      

「すぐ 京いせ道」とか「すぐ 江戸道」と書いてある。これを見た弥次さんは
「喜多さんや、すぐ京道とあるから街道はこの道だろう」
と最初の角を曲ってしまった。
「この道は街道じゃなくて田舎道じゃないのかよー」と喜多さんがブツブツ言い出した。
弥次さんも少々不安になってきたとき前の方にお百姓が歩いていた。
「お百姓さんや チョット聞きたいのだが東海道はこの道かねー」
「東海道? これはおかしな事をお言っしゃる。お旅人さんが歩いてきた角に道しるべがあっただろうに」
「おーさ その道しるべに すぐ京道と書いてあったから、すぐ曲ってここに来たのだ」
「アハハ 四日市じゃー すぐは近くじゃなく まっすぐってことだに」
マーこんな調子になったかどうか。ともか「すぐ」とは「まっすぐ」のことらしい。
道標の立っている付近の道は江戸時代と変わっているようだが、どうも道標の指す方角が納得できなかった。

     
      表参道 諏訪前アーケード

 諏訪神社の横からは東海道はアーケードの中に続いていた。店から流れ出るクーラーの涼風が強烈な陽射しの中を歩いてきた体を冷やしてくれる。
アーケードを出ると四日市駅に通じる大通りに出る。右に行けば近鉄の駅、左はJRの駅なので当然左折してJRの駅に向う。駅まで行く間にあったマンホールの蓋で面白い図柄があったのでパチリ。   

     

 広重の描いた東海道の浮世絵の図柄を採用していた。しかもカラーで。
アーケードからJRの駅まで思っていた以上に時間が掛かった。距離もそうだが気分もだらけてきてしまったいる。
電車の予定時間は17時24分。駅に着いたのは16時50分。丁度良い待ち時間だ。トイレで上半身裸になり汗を拭い、着替えを済ませて駅の構内に。
アレー三重県一の都市なのに何となくガランとしている。乗降客も少ないし---
アッ良かった。キオスクはあった。ただ氷結は無かったので缶酎杯で乾杯!

      
       JR四日市駅

 蛇足:四日市から藤枝までの電車を紹介すると

四日市―<快速>―名古屋―<快速>―豊橋―<鈍行>―浜松―<鈍行>―藤枝

となります。豊橋から藤枝まで鈍行になっていますが、これは鈍行を選んだわけではありません。豊橋から藤枝間には快速が走っていないのです。
何故?と思いませか。もっと詳しく言えば静岡県に快速電車は走っていないのです。
イエ間違えました。ホームライナーなるものが通勤時間帯に朝2本、夜4本走っています。しかしこの電車は乗車整理券を310円で購入しなければなりません。
よって静岡県には無料の快速電車は皆無です。

 その理由は明白です。静岡県にJRを脅かすような私鉄が走っていないからです。
愛知県には名古屋鉄道、三重県は近畿鉄道そして神奈川県には小田急電鉄が走っています。
JRも私企業ですので競争の原理が働いて、相手のいる場所ではサーにビスを厚くし、いない所はそれなりにする。それは仕方ない事だと諦めていました。

 ところがリニア新幹線の建設資金のニュースを見てからその考えは変わった。
東京・名古屋間の建設費5兆円余をJR東海が全額自己負担で賄う計画を発表したのだ。
今までJRは私鉄との競争で大変だと思っていた。それなのにJR東海では5兆円もの資金を自己調達できるくらい内部保留金が出来ていたのだ。更に云うならばリニア新幹線は静岡県は通過しないので、その恩恵は少ない。

なら我慢する必要はない。「静岡県にも快速電車を走らせてくれ」と要求したい。

東海道9回目-2

2011-09-21 14:18:01 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」9回目-2  2011/9/6

             桑名宿へ(長良川)

         

            
木曽川 ― 長良川 ― 揖斐川 ― 住吉浦 ― 七里の渡し ― 矢田立場
11:20     12:05     12:35    12:45      12:55       13:40

 木曽川を渡りいよいよ鈴鹿峠の伊勢に入った。難所の無い三河や尾張より歩き甲斐がありそうで嬉しくなる。
だが鈴鹿峠はまだまだ先だ。先ずその前に「その手は桑名の焼きハマグリ」を食べなければ。

     
      蓮生寺(長島城の大手門)

 長島温泉と遊園地で有名な長島は愛知県とばかり思っていたが勘違いだった。木曽川と長良川の間の中州で長島か。
地図を見ればその通りだと思える。だが街道は特に見るべきもの物もなく、またこの道が街道とも思えなくなると興味がなくなってしまった。
途中にあった長島城の大手門を移築した門もあったが、この程度の門では本陣の門よりスケールが落ちる。

 次に出て来たのは道標で正面に左方向を指した手首があり「前ケ須・津島 宮名古屋道」と刻まれている。
左右の側面に刻まれた文字は「右 くはなミち」「左 く○なみち」と読める。
道標のある場所はT字路で、確かに道標を正面に見れば左は今歩いてきた道で、津島や名古屋方面だ。
側面に立てば、どちらも表示された方角は、これから行く桑名への道だ。当り前と言えばそれまでだが分りやすい道標だった。

             

 正面にコンクリートの堤防が見えてきた。いよいよ長良川だろう。
堤防の下まで行って、堤防と並行に下ると国道1号線の伊勢大橋の信号に出た。今度も直接橋を渡らず更に南下する。
この先に渡し跡があるわけではないが、一度長良川河口堰見てみたかったからだ。
予定では河口堰の上を歩いて長良川と揖斐川の中洲に下り、次に中州から先ほどの伊勢大橋に登って揖斐川を渡る。
実際そのように歩けるかどうか自信は無かったが、下調べをした状態では歩けると判断した。

     
      アクアプラザながら

右手高台に展示場のような立派な建物が見える。まずはそれを目指して行くと、建物は矢張り「アクアプラザながら」という河口堰の事を展示公開する建物だった。
そこはそのまま通過、前方の高台に行くと「ながらがわかこうぜき」の銘版の入った橋に出た。
そしてその前方には、 オーカッコいい!

     
      長良川河口堰

何やら次世代の世界に紛れ込んだような景色だった。あのカプセルのような物で堰を上げたり下げたりするのだろう。
覗き込んでみたが今、堰は閉められているのか開けられているのか分らなかった。
上流を見ると国道1号の伊勢大橋が見える。下流には木曽川で見えた遊園地が更に大きく見ていた。どうやらあの遊園地は木曽川の河口でなく、長良川の河口にあるようだ。よって長島温泉は愛知県で無く三重県だという事がハッキリした。

     
      河口堰から伊勢大橋

 台風12号の影響なのか、川の水は堰の上も下も同じように濁っている。水位も同じ高さのように感じる。なら堰は開いているのか?だが流れが遅いので分らなかった。
誰も居ない堰の上を歩いていたが、本当に歩いていいのか不安になる。ともかく渡ってしまおう。

 中洲に下りて上流に向う。河口堰は無事通過したが今度は伊勢大橋に登れるかどうか不安になってきた。今更戻るとなると小1時間は余計に掛かってしまいそうだ。もうこうなれば居直って、なるようにしかならない。昼飯でも食って気分を落着かせよう。

     
      水門が開いている?(中洲から)

今渡ってきた河口堰を見ると水門の下から下流の水が見えている。なら水門は開いているのだろう。

     
      揖斐川部分の伊勢大橋

揖斐川は長良川より短かいのか橋のアーチの数を数えると1・2本少ないようだった。
簡単な昼飯を済ませ、気になっている伊勢大橋の近くに行くが上り口は無い。ただ道は鉄橋の下を潜って上流に向っている。
もう半分諦めながら鉄橋を潜ると、何と何と2車線の道が上流から鉄橋に向けて延びていて、トラックが鉄橋の中に入っていく。

     
      伊勢大橋の中間地点にある交差点

鉄橋を見上げると鉄橋の一部が切り取られ信号が付いていた。
鉄橋の途中がT字路になっていて信号があるとは思いもかけなかったが、これで今日は桑名でなく四日市まで歩けそうだとホッとした。
 
 揖斐川を渡り堤防沿いに歩くと桑名の町はすぐ近くに見える。
サー早く焼き蛤を食べよう。

     
      七里の渡し跡

 七里の渡し跡の手前には割烹料理屋が並んでいて、そのいずれもが江戸時代の本陣や脇本陣の跡だという。
石碑の後ろは船着場になっているので、渡し船舟を降りるとすぐ宿に入れるようになっている。
こんなに海に近い本陣は今までなかったが、この辺りは津波の被害がないのだろうか、心配になる。

     
      七里の渡しの船着場と幡竜櫓

 船着場の後に見える櫓は桑名城の幡竜櫓だそうです。
アレーどこかで見た覚えがあると思ったら、安藤広重が描いた東海道53次の桑名に似ていると思いませんか。
ここまで歩いてきて、浮世絵と似ていると思ったのは由比だけだったが、これで2ヶ所目になった。



 蛇足ながら現在の桑名城址は九華公園になっているそうですが、この九華は「くわな」と読むと書いてあるHPがあった。
確かに道標には「くはな」と書かれているのもあったので、それなりに納得していたのですが、今回桑名市のHPを見ると九華公園(きゅうかこうえん)となっていました。

 桑名の街中に入り、焼蛤はないかと探したが見当たらない。料理屋の看板に蛤料理と書かれたものはあったが、私の食べたいものは蛤料理でなく焼き蛤なのだが。

     
      桑名宿の様子

 江戸時代の桑名では、名物焼蛤を焼きながら売る店が何軒もあったようだが、今は見当たらなかった。

     

変わりに見つけたのは桑名市のマンホールの蓋に描かれた蛤のイラストだった。

     
      春日神社の鳥居としるべ石

 更に桑名宿の中を歩いて行くと、春日神社の青銅の鳥居の横に石碑が立っている。私には読めなかったが案内板に「しるべ石は人探し用の掲示石で、左右の「たづぬるかた」「おしへるかた」に、それぞれが紙を貼る」となっていた。
この石は尋ね人用だが、駿河の駿府城の入口には「教導石」と名付けた石がある。これは右側の「尋ル方」に知りたいこと等を貼ってておくと、その事を知っている人が左側の「教ル方」に答えを貼る、というものでした。
ただ駿河の教導石は明治になってから建てられた物で、若しかすると桑名のしるべ石を参考にしたのかもしれないな。

     

 アレーこれは何だ?歴史を語る公園の一角に富士山のモニュメントと沼津、原と彫られた石塔がある。何だろう?富士講の富士塚なのか、それにしては沼津や原の意味が分らない。沼津と桑名は姉妹都市なのだろうか?

     
      桑名城の堀

 公園の左の堀は舟の係留場所に利用していた。その堀の石垣は桑名城のもので案内板には「堀の積石の状態は乱積で---」と書かれている。成程確かに乱雑な積方で素人が積んだようにも見える。これでは忍者ならたやすく忍び込めそうだ。
アッそうか!伊勢は忍者の故里なのだから、忍者を警戒する必要ない。だからこんな簡単な積み方でよかったのか----
案内板には更に「この城壁には老松が並木を作り、枝は堀に垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑った」とある。
城の堀なのに荷船で賑うとは、なんか城の堀のイメージが変わってしまいそうだ。

         

 京町の交差点を横切ろうとしたら左側にある桑名博物館の前に道標が見えた。「右 京いせ道」と「左 江戸道」と刻まれている。
私の見ている街道マップでは、この博物館の前の道は東海道ではないのに-----
案内板を見てすぐ納得した。そこには「旧東海道筋(場所不明)に建てられていたものを移設しました」とあった。
同じような道標がまたあった。こちらは石も白く新しいので、さっきの道標を真似して作られたものだろう。
道標の指示方向は正しいかって? ご免なさい写真は写したけど場所が分らなくなってしまいました。でも疑問を感じなかったので、きっと方向は正しかったのでしょう。

        
         矢田立場の火の見櫓

 桑名の中心部を抜けて矢田町に入る。この辺りは昔の矢田立場にあたるところで、案内板には「食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」と書いてある。
物価の高い桑名宿を避けて、郊外の立場で食事する旅人の気持ちが分かるけど、現在では焼き蛤を売っている店はおろか普通の食堂もあまり無いようだった。
もーここまで来てしまったのだから焼蛤は諦めるしかないな。


   ---------------------------------

 東海道の8回目-3で荘内川のことを紹介したが、今度の台風15号で荘内川の堤防から水が溢れ出したそうです。少しでも被害が少ないようにと祈っております。

東海道9回目-1

2011-09-20 09:39:17 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」9回目-1  2011/9/6

津島駅 ― 佐屋宿 ― 木曽川 ― 桑名宿 ― 四日市宿 ― 四日市駅
 8:30     9:50     11:05     13:00     16:30      16:50
                10.7k     16.2k     33.3      34.6k


      9回目歩行ルート
     

             木曽川へ(三里の渡し)

            

津島駅 ― 佐屋宿 ― ふたつやの渡し ― 木曽川
 8:30     9:50       11:00        11:20     
                  10.7k        11.0k 

 前回の失敗に懲りて持物は昨晩点検し、トイレも藤枝駅で済ましてきた。
出発地が徐々に遠くなり、出発時間もそれに伴い遅くなる。青春18切符を使っているので、なるべくJRの路線を利用したいのだが、今日の出発地のように私鉄の駅だと中々思うようには行かない。
藤枝駅からJRを最大限使うと 藤枝―豊橋―名古屋―弥富―津島となり、私鉄の利用料金は290円ですむ。だが到着時間は8時59分になってしまう。
一方もう少し私鉄利用を増やして 藤枝―豊橋―金山―津島とすると料金は440円と増えるが到着時間は8時28分と30分早く出発駅に到着する。
150円で30分が高いか安いかは別にして、出発時間が30分早くなるのは大きい。というわけで今回は金山から名鉄線で津島に来ました。

     
      名鉄津島駅

 津島駅を8時30分に出て、前回佐屋街道を離れた地点まで戻る。
前回の行程は宮宿から内陸部の北に向かい、佐屋街道に入ってから西に向かってきた。今日はその方向を南に向けて、桑名の海を目指すことになる。
前回七里の渡しから津島までは約25kmで5時間かかった。そして今日ここから桑名までどの位かかるか。七里の渡しが28kmで4時間。それが陸路の佐屋街道回りだとはたして何kmになるのだろう。

     
      佐屋街道址

 津島から愛宕神社までは直線道路を南下してきたが、愛宕神社からは住宅地の中の細い道を歩く。駅から50分も歩いた頃田圃の中に「佐屋街道址」と彫られた石碑があった。これは史跡となっているが石碑自体は昭和54年に建てられた物だった。
その石碑の少し先の信力寺に、一対の切支丹灯篭があるというので寄ってみた。小さな寺で境内も狭いのだが灯篭は見当たらない。だが一対の建造物というと五輪塔の前に立つ2本の石塔、これが切支丹灯篭なのか? 自信は無い。

     
      信力寺の切支丹灯篭??

 佐屋宿に入ったようだが宿場町の風情は残っていない。江戸時代には佐屋宿から桑名宿には三里の渡しがあり木曽川を桑名まで下っていた。その名残の道標が立っていた。
「左 さや舟場○」とある。古くて読みにくい案内板を見ると「この道標は舟乗場に行く道を指しているが個人の屋敷内にあったのを移設した」と書いてある。なら乗場は何所だろう?
さらに隣にある「きこくの生垣」の案内板には「江戸時代このあたりは佐屋宿舟番所前で旅籠があった」と書いてある。ならこのあたりが宿場であったのは間違いないようだが舟乗場の位置は分らなかった。

     
      舟場への道標

「きこくの生垣」も話しておかないと分りませんね。
この「きこく」とはカラタチの別名で天保(1841)の「尾張名所図鑑」に描かれていて、当時の姿を今に伝える大変貴重な物だそうです。

     
      きこくの生垣

でもコンクリ-トブロックの上の生垣は柘植の生垣のようにしか見えませんでした。

 そうそう前回歩いていて私が勝手に勘違いして悩んでいた木曾三川の事が分りました。
勘違いの元は佐屋街道に入って出合った橋に、長良橋の名前付いていたかとに端を発します。長良橋のの名前を見た私は、当然その川は長良川と思い込んでしまいました。
それが間違いの元で、その川は中川運河だそうです。
実際の長良川は県境の木曽川を越えてから、更に三重県に入った所にあり、長良川とその横には揖斐川が流れているそうです。

 木曾三川の事はそれで解決したが、今度は佐屋川について疑問が発生した。
ネットの中にこんな表現があった。
「かつて佐屋に、木曽川に通じる佐屋川が流れていた。川幅は通常でも127メートル余りあったという。佐屋湊から漕ぎ出す船は、木曽川、加路戸川、鰻江川、揖斐川と伝って、桑名まで運行した。
 時が過ぎ、治水技術も発達したため、水害対策もかねて佐屋川は木曽川から締め切られて廃川とされることになった。 佐屋川の埋立工事は明治20年から行われた。
これによってかつて佐屋を潤していた大河は、地図上から抹消されたのだった」
 となると矢張りこの辺りから三里の渡しは始っていたのだろう。

     
      旧佐屋町のマンホールの蓋

 船場の道標からは見所も無くただ歩くのみ。時折目につくマンホールの図柄が人魚が泳いでいる絵になった。これはきっとローレライを表しているのだろう。木曽川=ライン下り=ライン川=ローレライ=人魚 の発想で出て来たのだろう。しかしライン下りはここよりずっと上流だが。

     
      尾張大橋

 木曽川を渡る国道1号線の尾張大橋に着いた。さすが木曽川だけのことはある。900mに近い川幅一杯に、満々と水を湛えユックリ流れるさまは、まさに大河そのものだ。
静岡県にも木曽川より川幅の広い川はあるが、何せ水が少ない。それこそ河原砂漠で渇水期などは広い河原の中を、チョロチョロと流れているだけの事もある。
しかしまだこの橋は渡らず、もう少し先に渡し跡の石碑があるらしい。


 ふたつやの渡し跡の石碑            渡し跡の裏には役場跡文字が

 佐屋の三里の渡しと、ここのふたつやの渡しの関係は共に影響しあっていたようだ。
東海道の陸路の脇街道として三里の渡しが賑っていたころは、ここのふたつやの渡しは近郷の人たちの足として使われたようだ。
それが明治5年に新東海道が制定され、ここ弥富が宿場に指定されるとふたつやの渡しは急に活気が出て来た。
その反面三里の渡しは急速に衰えていったらしい。
そしてふたつやの渡しも昭和8年尾張大橋の竣工で消えていったという。

 色々の説があり、どれが真実なのか不明だが、私には理解できない事がある。
1.陸路といいながらも佐屋から桑名までは三里の渡しに乗らなければならない。
 そのため宮宿から佐屋まで6時間以上歩く事になる。
2.明治になり海岸近い弥富が宿場町に指定されたが、佐屋街道と違う街道が指定されたのか。
 同じ街道だとすると佐屋かここまでの1時間余計にかけて歩く事になる。何故だ。

 歩く事が好きな私でも6時間7時間歩いた後、渡しに乗るなら、七里の渡しで4時間で桑名に行ったほうのが良い。
海路も陸路も朝宮宿を出たとして、海路は4時間後に桑名到着する。ならまだまだ歩けるので次の宿の四日市までは行けただろ。
一方陸路は6時間かけて佐屋に行き、そこから三里の渡しに乗らなければならに。渡しが1時間としてもその日は桑名泊まりになるだろう。
歩く事が好きな私でも、これなら七里の渡しを利用するだろうな。


 河口に遊園地が見える              尾張大橋の途中にあった県境

 尾張大橋を渡りきったところに東海道の石碑が建っていた。

     
      尾張大橋右岸に建つ石碑

 これが新東海道の証拠なのか? 1号線の交通量が多く渡るのを諦めたが、石碑の横面には「明治○六年 四月の字が見える。
アレー明治ならまだ尾張大橋は完成しておらず、ふたつやの渡しは弥富から桑名に渡船で渡っていたはずだ。
それならここは新東海道でないはずだが-----  

大井川河川敷マラソンコースを歩きました

2011-09-19 09:55:47 | ウォーキング
 昨日の朝、雨戸を開けると久し振りの快晴。富士山も見えている。
これではどこかに行かないと、と急遽出かける事にした。
昨日の雨で山はぬかるんでいる可能性があるので止め、近場の大井川河川敷マラソンコースを歩く事にした。

 大井川マラソンコースリバティは、焼津、藤枝、島田の3市に跨る全長17.9kmのコースで、一般道から完全分離され、途中にはトイレや水道設備があり、安全気楽に利用できるコースです。
また、コース内には500mおきに距離が表示されているので、自分の歩行速度や歩幅も計算できます。
しかしコースは平坦で起伏は殆ど無く、詰まらないといえば詰まらないかもしれません。

 JR利用の最寄り駅は島田駅が最も便が良く、マラソンコースまで約1kmです。
車の駐車場は各市に複数の駐車場がありますが、私のお薦めはマラソンコースから少し離れた大井川野鳥園の駐車場です。
場所は大井川港の西側で、大井川が海に合流する完全な河口です。
そこからは駿河湾や伊豆半島を初め、天気さえ良ければ雄大な富士山を眺める事が出来ます。
野鳥園からマラソンコースまでは堤防の上の遊歩道を1kmほど上流に進めばマラソンコースの起点に到着します。

     
      大井川野鳥園から

 昨日の歩行距離はGPS測定では45km。しかしマラソンコースの距離などから算出すれば40km程度ではないかと思われます。
起伏の無い道なので40km程度ならと気楽に考えていたのですが、それがどっこい。朝から強い陽射しに晒され、勝手知ったる道のせいで興味を引く物もなく、ただ歩くのみ。思っていた以上に疲れました。
朝島田駅を8時35分に出発し、帰りは17時40分。就寝前の体重は今年最低を記録しました。

東海道8回目-3

2011-09-16 10:01:10 | ウォーキング
             津島駅へ(七宝)

   

七里の渡 ― 熱田神宮 ― 佐屋街道入口 ― 長良橋 ― 岩塚
 12:10      12:25       13:05       13:35     14:15
 16.0k                19.8k       22.6k     26.4k

― 七宝道標 ― 神守一里塚 ― 日光川 ― 津島駅
    15:50      16:20       16:50     17:15
    32.6k      35.4k       38.1k     41.0k 

 七里の渡しから焙烙地蔵まで来た道を戻り熱田神宮に向う。
さすが熱田神宮で平日といえども参拝客が結構居る。私もその中の一人になって木陰で涼しい参道に入る。

     
      熱田神宮鳥居

 熱田神宮には日本武尊の墓があるので参拝していこうと思い、神社の案内板を見るが載っていない。
待てよ、この神社は草薙の剣を祀ってあって、日本武尊の墳墓は確か三重県にある白鳥古墳だったはずだ。それならここで余り時間をかけるわけにもいかない。と早足の参拝になった。

     
      熱田神宮宝物殿

 この宝物殿の中に草薙の剣が奉納されているのだろうか?草薙の剣は静岡県でも、いささか縁があるので紹介すると

 草薙の剣は熱田神社の説明では、
「日本武尊は神剣を今の名古屋市火上山に置かれたまま三重県亀山市でなくなられました。尊のお妃は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました」とあり草薙の剣は日本武尊の死後から現在までここで祀ってあるような表現をしている。

 一方静岡県の草薙神社の説明では
「日本武尊の父の景行天皇は、日本尊命の死後、その子の勲功の地を尋ねられたおり、賊に襲われ剣で草を薙ぎ倒した地に一社を建立した。神社は日本武尊を奉祀し、御霊代として、草薙の剣 を奉納された。
その後、草薙の剣 は天武天皇の勅命により熱田神宮に奉祀された」とある。
私は静岡県人なので草薙神社の肩を持ちたくなるが、真実はどうなっているのだろう。

 熱田神宮を出て宮宿から桑名宿を陸路で結ぶ佐屋街道の入口を目指して歩くのだが、一向にその交差点が出てこない。街道の入口は金山駅の横の金山新橋南交差点なので見落とす事はない。道は太い国道19号線なのだから間違いようが無い。
 歩くのが嫌になってきた頃ようようにして街道の入口に着いた。

     
      佐屋街道入口の道標

 道標には「南 左 さや-- 津しま---」と読める。確かに佐屋街道や津島はここを左折して西(左)に向うのだが、一番上に書いてある「南」は何を意味するのだろう。
さらに「西 右 宮--- 左 なごや---」ともある。これは右に行くと宮海道、左は名古屋に行く道だと分る。確かにこれも道標の書かれている面を正面にすれば、右は宮宿に行く道だ。だが矢張り一番上の「西」の意味が分らない。
ウーン若しかして南を背にして、或いは西を背にしてと言う意味なのだろうか?分らない。

 佐屋街道に入ると、ここの歩道にも佐屋街道と書かれた絵を貼ってある。図柄は何故か野次さん喜多さんのような旅人の絵だった。

     
      歩道にある佐屋街道の目印

 五女子とか二女子といった変わった地名が出て来た。五人姉妹とかが住んでいたのだろうか、それにしては二女子は頷けない。調べてみたら
「昔この辺りの庄屋の家に7人の娘がいた。成長した娘達は近在の村々に嫁いで行ったが、その嫁ぎ先の場所を一女子から七女子までの地名にした」らしい。
地名を自分の都合で変えるとは、何とも権力のある庄屋だ。

     
      長良橋の親柱

 街道入口から30分も歩いたところで長良橋に着いた。
ヘーあの鵜飼や河口堰で有名な長良川は河口は随分名古屋寄りなのだ。と妙に感心してしまった。
橋から見た川の幅は想像していたよりよっぽども狭かったが、その川幅一杯に流れている水量は多かった。そしてその流れの遅いこと。
大井川を見慣れている私にはダム湖のようにも見える。大雨の後でもないのに、こんなに水量が多くて大雨の時はどうなるのだろう? 
流れが遅いの堤防の決壊は少ないが、堤防より水があふれ出てしまわないのか、不安になる。
長良橋の親柱には大名行列の絵が書いてあった。七里の渡しを行かずに陸路を通った大名行列もあったのだろうか、それとも佐屋までに領地を持った大名か。


 能舞台?                      八幡神社の覆堂

 この辺りが岩塚宿だろうが何の案内も無い。佐屋街道の入口のコンビニで握飯を買ったのだが食べる場所が無く、時間は2時を過ぎてしまった。何所で食べようか物色して入った場所は八幡神社だった。左程大きくない八幡さんだが、社の前に踊舞台のような建物がある。また、社は隙間の空いた覆堂で覆われていて静岡では見ることの無い造りだった。

     
      荘内川

 また水量の多い川に出くわした。揖斐川かな?と思ったら看板には荘内川とあった。確か長良川と揖斐川は近くにあったはずだが、何故荘内川なのだ。分らなかった。

 荘内川を越すとようやく名古屋市が大冶町に入った。名古屋市は今朝、桶狭間を過ぎた所から始まり荘内川を越してようやく終った。約5時間30分掛かった事になる。
歩いていて市町村が次々変わっていくと、いかにも前に進んでいく実感が湧いて楽しいのだが、平成の大合併で大きな市が更に大きくなり、その楽しみも半減してしまっている。
街道は荘内川を渡るまでは、ほぼ一本道で分りやすかったが、川を渡ると旧道に入る。

     
      万場宿の光圓寺

 この辺りが万場宿らしが案内は無い。だが右手には国王神社と由緒ありそうな神社が、と思ったが良く見てみたら国玉神社だった。
その先には裕福そうな寺、光圓寺(こうえんじ)があった。この寺の山門は織田信長と斉藤道三が会見した寺の山門を移築したとある。寺の前には大きな石灯籠があった。

 大冶町は狭く、小さな川を渡ると「あま市」には行った。あま市?聞いた事がない。大体「あま」とはどんな漢字なのか、海女なのか海人か、それとも尼か。或いは天か。平仮名では名前を聞いても想像力が湧いてこない。
さいたま、むつ、つくば、あわら等々平仮名の市は枚挙にいとまがない。この様に市名を平仮名にしたのは何故だろう? 難しい感じで市民が書けないと思ったのか、それとも外部の人が読めないと思ったのか、いずれにしろ人を馬鹿にした話だ。

 「あま」がどんな字を書くのか注意深く歩くが、市境の看板以外漢字も平仮名も出てこない。変わりに目につくのは「七宝」だ。七宝店、七宝支店、七宝病院、アレアレ七宝小学校まである。どうやらここは以前は七宝町と名乗っていたが、平成の合併で「あま」に変わったようだ。それにしても「あま」は漢字も平仮名も目に触れなかった。

     
      七宝焼原産地道標

 七宝焼原産地道標がこの先にあるらしい。七宝焼きで作った道標か?期待して行くとナーンだ、ただの道標だった。アレ待てよ道標の上の方にローマ字が彫ってある。肉眼では読めなかったが案内板には「shippoyaki toshima」と書いてあると説明している。さらに案内板には「江戸時代創始された七宝焼きは、この辺りを中心に広まった。七宝町の由来はこれによる」ある。なら何故新市名を七宝市にしなかったのだろう。七宝焼きの発祥の地なら憶えやすいし七宝焼きの宣伝にもなる。もったいないなー。
そうそう何故ローマ字表記があるのかの説明もあった。それは明治時代外国人バイヤーが直接当地に買付けに来たためとあった。

 後日「あま市」を調べてみた。あま市は平成22年3月七宝町、美和町、甚目寺町の3町が合併して誕生した新しい市だった。そして問題の「あま」は3町の属していた海部郡から名付けていた。海部があまと読む? 知らなかったな~。
海部はかいふと読むとばかり思っていた。以前の海部首相も愛知県出身で「かいふ」だったし。
こうして見ると平仮名の市だからといって一概に攻めるわけにもいかないな、若し海部市とかいってあったら私は「かいふ町」と読んでいたのだから-----

     
      神守の一里塚 

 ようようにして街道らしき遺物に出あった。神守の一里塚だ。
東海道で一里塚を何ヶ所目見ているので、どうと言う事もない一里塚だったが、その宿場町神守も何も宿場の面影の無い町だった。

     
      神守宿


 神守宿の通過予定時間は5時になっているが今は4時半。ここから津島駅までは50分の予定になっている。
なら津島駅には5時10分頃には着きそうだ。そうなれば一電車早い17時25分の電車に乗れそうだ。そう決断すると急速ににピッチを上げた。幸い立ち止ってみるような物も無いので無駄な時間もかからない。

     
      日光川

 また水量の多い川に出合った。しかしこの川も揖斐川で無く日光川だった。
荘内川に日光川。どちらも他県にありそうな川の名前だが聞いた事は無い。
しかし変だ。もうすぐ津島駅に着くがその先には木曽川があるはずだ。これは昨晩手持地図を作成するとき調べてあるから間違いない。だとすると揖斐川は何所に行ってしまったのだろう。若しかして津島駅と木曽川の間にあるのか? しかしそうなると長良川と揖斐川は並んでいると思ったのは私の勘違いか。実際は揖斐川と木曽川が並んでいるのだろう。自信は無いがそう思うしかない。

     
      名鉄津島駅

 17時15分津島駅到着。服は汗でビッショリになっていて、このまま電車に乗れば周りの乗客に迷惑をかけてしまう。どこかにトイレがないかと探すと改札口の中にあった。サテ困った慌てれば5時25分の電車に乗れるが、そうなると道々楽しみにしていた氷結でのお祝いが出来なくなる。
仕方ない電車は1本遅らせるとして着替えの前に氷結を買いに行こう。