はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

小笠山・六枚屏風

2011-10-29 17:17:20 | 低山歩き
 今年の6月に知人のMさんの案内で小笠山に登ったとき話が出た「六枚屏風」が気になっていたので行ってきました。

 六枚屏風とは砂利含みの山が雨水等によって浸食され、巾1m弱、高さは十数m、奥行きが30m程のチムニー状の沢のようですが、案内標識もなく分りにくい所にあるようです。
実際行ってみると確かに標識も無く予備知識がなければ見落としてしまいそうな場所にありましたが、そこは低山の小笠山にこんな奇観があるとは信じられない眺めでした。
大体小笠山自体は掛川駅からも近く、標高も264mしかない低山とも呼べないような山ですが、その谷は深く痩せ尾根が連続しており、谷底を覗き込むと身震いしてしまう程です。
しかしハイキングコースの山道はしっかりしていて、分岐点にも標識が完備されいるので迷う心配はありません。

 今回歩いたコースは六枚屏風をメインに138°展望台と小笠神社を加えたコースでしたが、少々距離が短くて13kmしかありませんでした。それでもこのコースは小笠山の魅力が一杯詰まったコースだと思います。


                  小笠山ルート図

掛川駅 ― 富士見霊園 ― 小笠トンネル ― 138°展望台 ― 小笠山 ― 小笠神社 ― 小笠山
     30分        20           8          45      10        10      

 ― 六枚屏風 ― 農道出合 ― 県道38号 ― 掛川駅
 10        25        40        20分


 今回はこのブログを見ている方に是非歩いてほしいので道案内をメインに報告します。

掛川駅南口(新幹線側)を下車し、駅前にあるグランドホテル前を通り次の交差点を右折する。
ガソリンスタンドのある交差点を直進し次の信号を左折する。道路標識に「富士見霊園」の案内がある。
東名高速のガードを潜り、少し行くと右側に掛川東高校が見えてくる。そのまま道なりに坂道を登っていくと


 ハイキングコース案内板                 富士見霊園入口

今度は左に小笠山ハイキングコースの案内板が立っているが、今回をそれを無視して車道を直進する。
駅から30分ほどで富士見霊園に到着。ここにはトイレがあるので利用すると良い。
さらに霊園内には入らず車道を直進すると県道403号の信号に出る。そのまま県道を横断し更に急になった
車道を南へと進んでいく。
この道は車の量は少ないが、たまに下ってくる車はスピードが出ているので道端を歩く等充分に注意してください。


 小笠トンネル                         ハイキングコース入口

前方にトンネルが見えて来たら今日最大の急登はすでに終りで、あとは快適な尾根歩きになります。
トンネルを抜けて南に出たら右側にある「ごみ捨て禁止」の看板と虎テープを張ってある所から山道に入る。
そこにはハイキングコースの案内板も無く、少し不安も感じたが、このロープはゴミ捨ての人の進入禁止だと勝手に解釈してロープ脇から山道に入った。
すぐ尾根に出ると、そこには法多山・エコパ  小笠山の案内標識が立っていた。これで一安心。序に正面を覗き込むと急斜面というか崖になっている。なぜこんな崖?と少々腑に落ちなかった。

「ここは東経138°線上」「日本を東西に分ける中心線です」の看板が立っていた。
東経138°が日本の中心かどうかは知らないが、このあたりが東経138°である事は国土地理院の地図で確認したから間違いないようだ。案内板には138°線が小笠山から諏訪湖を通り上越市に抜けるイラストも描いてあった。
その案内板を過ぎると右側に「展望台」の標識が立っているので見落とさないで必ず寄ってください。



その「138°展望台」からはご覧のように掛川や袋井の市街が一望でき、その背後には遠州の山々が見えました。天候に恵まれれば南アルプスや富士山も見えるそうです。しかし今日は残念ながら富士山は見えません。天気は良いのですが遠くが霞んでしまっていました。
日本の中心線から138°展望台と名付けたのだろうが、視界が180度あるから180°展望台でも良さそうな気がした。

展望台からは小笠神社や小笠山の道標に従い尾根道を行く。途中何ヶ所か分岐があるがそれぞれに道標があり迷う心配はない。感じの良い山道が続くが道の東(左)側は崖になっているので注意が必要だ。



こんな看板もあり、余りの痩せ尾根にはこんな橋もついていた。



何故小笠山は低山なのに急峻な崖が多くあるのか気になったので調べてみるた。以下受売りで紹介すると。

「日本列島がまだ大陸と陸続きだった100万年以上昔、海の底だった海底には泥層の堆積物(掛川層群)が溜まっていった。その後この辺りが隆起して陸地になると、大井川が流れ出し上流から運ばれた土砂が堆積して小笠層群(石が地層の中にある)となった。長い年月の間に気候や地殻変動、地震などにより隆起や侵食を繰り返して現在の小笠山がつくられた。北東側に分布する掛川層群は侵蝕されやすいため急峻な崖となり、南西側に広がる小笠層群は比較的固い礫層のため、ゆるかな傾斜となっている」

スーと読めば何となく納得してしまうが、南西側に大井川の砂利が溜まり北東側には砂利が無い理由が今一納得できない。現在の大井川は小笠山の東を流れているのだから北東側に砂利が溜まるはずなのに?
若しかすると大井川でなく西を流れている天竜川がこの地を流れていたのではないか?などと疑問を感じてしまった。


 砂利の層が剥き出している

 静岡の低山といえば山の麓はお茶やミカンが栽培され、上の方は杉や桧が山頂まで植林されている山が多い。だがこの小笠山はトンネルを潜り山道になってからは人工的に植栽されている物はなかった。これも山が急峻なため市街地から近く、さらに標高も低いのに開発されなかった理由だろう。お陰でこうして自然林の中を気持ちよく歩く事が出来る。
尾根に出ると樹皮が縦方向にひび割れているウバメガシ(姥目樫)が目に付いた。この木は備長炭の原料なのだから、この辺りでも炭焼きをやっているのだろうか。余り聞いた事はないが ------


 三角点                              山頂から南東の眺め

 幾つか分岐を過ぎて小笠山の山頂に着く。山頂には4等三角点があるが視界は利かない。三角点の後に延びる道を行くと木陰から南東側の景色を見る事が出来た。

 
 高札?                            アカガシの大木

 三角点に戻り下り始めた道を進むと少し広がった所に出る。そこには高札のような物が立っていて
「車馬乗入れ、鳥獣捕獲、植物採取、火の用心」などの禁止項目が書かれていた。その横には大きなアカガシ(赤樫)の木が立っていて案内もあった。

この辺り一帯は、徳川家康が今川方の掛川城や武田の高天神城を攻める時に砦を築いた場所と案内板で紹介してある。確かに断崖絶壁の多いこの山なら山城としては難攻不落な砦となるだろう。しかし細い痩せ尾根の道では攻撃の移動の際、充分な機動力を活かせるのだろうか。とは言っても掛川城は降参して開城し、高天神城は兵糧攻めのあと、城から討って出た武田群を壊滅している。
俄歴史家の私の判断は、この小笠砦は攻撃の為の砦ではなく、家康の身を守る為の砦で謂わば御殿のような物だ。それが証拠には「笹峰御殿跡」なる案内板もあった。

 アカガシの所から太い参道が小笠神社まで続いていて、途中に東屋のある展望台があるが138°展望台を見た後では見劣りがする眺めだった。
小笠神社が建っている場所は尾根の先端の上部を平らにしたような場所で、それこそ砦とか櫓に適した所だった。社務所前のベンチからは南に広がる遠州灘を眺める事ができ、神社の前のケーブルの所からは浜岡原発も見えていた。

 
  小笠神社

 普通なら神社から南に下って小笠山を縦断するところだが、今日はメインの六枚屏風がまだ残っている。そこで小笠山から南西部は次回にして今日はここから三角点まで引き返すことにした。


 三角点直下の分岐点                    六枚屏風の下り口

 三角点を過ぎ道が下りになると六枚屏風への入口である板沢分岐にでる。標識には「板沢方面→」とあり六枚屏風の表現は無いがそこを下っていく。尾根道から離れ急に薄くなった山道も30mも行くと下りの尾根道になり、そこからはまたハッキリした道が続くので心配は無い。途中左側にロープを張った場所もあるので注意深く下っていく。
ロープ場を過ぎてすぐの所の左側に「小笠山→」の標識があるが、これを見落としてはいけない。尾根道から右の沢に降りる道が薄く付いているが、それが六枚屏風の入口になる。他に標識は無いが入口の木の枝にはナイロンテープがぶら下っていた。
六枚屏風への道は危険ではないが、道は細く整備もされていないのでユックリ下っていく。20mも下るのだろうか沢に出ると正面に岩と岩との裂け目が見えた。

  
 六枚屏風入口                    六枚屏風の内部

 この裂け目いや裂け目ではなく右と左の岩は離れていたので岩の間を進んでいくのだが中は薄暗くなっていた。
今日は歩き始めてから誰とも会っていない、一人ぽっちの山の中で、しかも薄暗い洞窟のような中に入るのに若干の不安を覚えた。この先に蛇やコーモリはいないか、猪や熊の住処になっていないかなど弱気な気持ちも湧き上がってきた。だがそんな不安より好奇心の方が数段勝っていて躊躇無く岩の間に入っていった。

 岩と岩の間は1mもなく、両肘を広げれば付くくらいの広さなので、ロッククライミングをやる人ならチムニーを登るようにすれば上部にも登れそうだ。岩の底には水溜りがあり雨が降れば沢になって水が流れるのだろう。その水が岩を穿ちこの様な景観を産んだのだから年月とは凄いものだと改めて感心する。
途中に大分古い倒木があり前方を塞いでいた。だが左右の岩にはホールドやスタンスになる石が一杯飛び出しているので、難なく倒木を乗り越え更に奥に進むことができた。

 確かこんな岸壁を四国の45番札所岩屋寺の下で見た事がある。それは河原から突然突き出し立っている土柱のような物で、その肌は泥の間に石が挟まっているように見え汚い感じだった。だがここの岩肌はそれに比べればスベスベしていて汚さは感じない。また、挟まっている石もしっかり固まっていて容易に抜けるようではなかった。

 入口から最奥部まで30mはあっただろうか、行止まりになった所で引き返すと入口が明るくなって岩の間から光りが見えていた。

  
   六枚屏風内部から入口を見る

 尾根に戻り何故六枚屏風の標識が無いのか考えた。きっと山道の管理者は六枚屏風への道を危険と判断し標識を付けなかったのだろう。それを私がブログで紹介してしまって良いものなのか?
少し気にはなるが、この位の道はどの山でもある道で特に危険とは思えない。と判断して紹介してしたので、行かれる方は注意して歩いてください。

 六枚屏風から尾根道を気持ちよく下っていく。途中の分岐は左に向かう板沢方面に進めば掛川駅に近くなります。


 農道出合                           旧道のトンネル

 尾根が突然無くなり農道に出合った。あとはこの道を北東方向に進んで行き県道38号の信号に出たら県道を横断してから左折する。右手に旧道が始まるのでその道に入れば車のの少ない旧道歩きが出来る。

 今回紹介したコースは私としてはお薦めコースです。ただチョト距離が短く物足りないので次回は小笠神社から小笠池に下りトンネルを通って無線中継所に出てから六枚屏風に行くコースを歩こうと思っています。時季は紅葉するしないは分からないが11月下旬を狙っています。

掛川茶の里 スリーデー

2011-10-13 19:02:10 | ウォーキング
 明日からいよいよスリ-デーが始まります。
天気予報は余り芳しくなく雨は避けられそうもない。
雨の中の40kmを歩くのは辛いものがあるが、それも一つの経験と思って歩くしかない。

私の予定は初日と二日目が40km、最終日は20kmを歩こうと考えています。

果たして予定通り歩けるか-----------------


疲れ果てた高山・竜爪山 2

2011-10-10 17:59:16 | 低山歩き
一日経った今日は腰の痛みはなくなり、少し脹脛が痛いだけになりました。 本来なら今日は伊豆方面に出かける予定でしたが、妻の目が恐ろしく「チョット出かけてくる」とは言えません。 それで昨日の続きを書き始めました  ----------------------------------------------------------------   苦労して上り詰めた高山の山頂は---------             高山山頂(836m)  林の中に三角点と山頂名が表示されているだけの寂しい山頂だった。 景色は------ ゼロ 見えるのは植林された木の肌だけ。いや微かに紅白の鉄塔の土台も木の間に見えていた。 柏尾峠から2時間半かけて登ったご褒美がこれでは情けない。登る人が少ないはずだと納得できた。 今日は秋の3連休で絶好の行楽日和なのに、一本松を出てからは誰にも会っていない。 登る人が少ないから道の整備をしないのか、道が整備されていないから登る人が少ないのか分らないが、私はもう二度と高山には来たくない。  時間は12時。予定ではここから山原中継所への分岐まで引き返し、山原に向う予定だった。だがさっきの道を下る自信もやる気も無くなってしまったので違うルートにしたいのだが------ 山頂の標識には南に吉原、北に穂積神社の標識がある。吉原の地名は知らないが多分清水の北の名だろう。とすると今来た道と同じような森林の中の急な下り坂だと思われる。 一方穂積神社は竜爪山の神社で、神社までは麓から林道やハイキングコースもあると聞いている。それなら迷うことなく行き先は穂積神社だ。 だが問題はそこまでどの位掛かるか分らない事だ。来る途中梶原山から見た感じでは高山と竜爪山の間は平らな尾根で繫がり、それほどの急坂は無さそうに見えた。それなら神社まで2時間、神社から麓まで2時間として、急いでここを出発すれば4時半ごろには麓に着けそうだ。 一度そう思い出すとユックリ食事をする気もなくなり慌しい出発になった。  高山からの正規な道はハッキリしていて迷う心配はない。少し下るとロープやテープを張り巡らした所に出た。そこが先ほど途中で引き返した道の続きとの合流場所だった。 山頂から10分ほど下ると林道と出合った。そこには高山登山口とあり、高山山頂まで20分と書いてある。なるほど高山から道がハッキリしていたのは、ここから歩く人がいるからかと納得できた。しかし私は例え20分でも登る気は起きないだろう。              登山口にあった案内図を見て、この林道は静岡の平山と興津を結んだ「林道炭焼平山線」という事も分った。更に穂積神社に行くには、この林道のほかに帆掛山経由で行く山道もあった。そこは途中には富士山のビューポイントや樅や杉の大木もあるらしい。 林道と案内板を見て元気を取り戻した私は当然富士山のビューポイントある山道を進んだ。  登山口から数分の所に人だかりがしていた。カメラや双眼鏡の三脚が林立している。何だろう?何を見ているのだろうか、今日は遠くは曇っていて富士山は見えていない。 「何を見ているのですか?」と聞いてみると 「鷹です。鷹の渡りを見ています」との事だった。 渡り?鷹って留鳥じゃあなかったけ、と思ったのはその場所を離れてからだった。 後で鷹の渡りを調べると 「野鳥は餌の多いところに行って繁殖し、その繁殖地と越冬地の間を定期的に行き来することを「渡り」と言い、移動する経路を「渡りのルート」と言っています」 更にここの林道平山炭焼線の富士見台は渡りの観察地として載っていた。 鷹は留鳥だが繁殖地と越冬地が違うらしい。だがこれから越冬地に向うのか? それともここは越冬地で繁殖地から飛んできているのか分らなかった。アー聞けば良かったな。  帆掛山も景観の利かない林の中の山頂だった。ただ高山からの道はハッキリして歩きやすい道だ。高山から帆掛山まで50分で来れたので、これならこの先は10分も歩けば神社に着くだろう。 気持ちに余裕が出来たからか、余計に道が歩きやすく感じてきた。案内図にあったように杉や樅の大木も出て来た。もう穂積神社は近いだろう。               穂積神社  穂積神社に13時20分到着。予想より30分以上早い。ここからは東海自然歩道になるので案内板が幾つも立っている。それによると神社から竜爪山の東にある薬師岳まで60分。その横の文殊岳まで20分となっていて、帰りは神社までが65分となっていた。 合計2時間30分とすると今から行けば3時半までには神社まで帰ってこれる。神社から麓の平山まで1時間30分として5時までには平山に帰り着くことが出来る。 迷った末ともかく最初の薬師岳までは行ってみる事にした。  やはり東海自然歩道の竜爪山だけのことはあり、一本松からずっと会わなかったハイカーにもすれ違うようになった。その中の一人に神社から平山までの帰りの道の事を聞くと「道はしっかりしていて1時間ぐらいで着く」と分った。これで安心だ。ついでに案内板にあった文殊岳から測沢への下り道の事を聞くと、「以前は側沢からの道がメインだったが最近は歩いた事はない」と言う事だった。  薬師岳へは急な登りになると鉄製の階段が付いていた。最初は一時的に付けた物と思ったら延々と鉄の階段が続く。山の傾斜に合わせて階段の巾が高くなったり低くなったりしている。階段の横にはしっかりした手摺が着いているので登りやすくて助かった。階段も中々辛いものがあるが急な道を直登するよりは全然良い。(写真をアップしようと思ったら写してなかった。大変で写真まで気が回らなかったのか)             薬師岳山頂(1051m)  薬師岳に神社から案内板より20分早く到着。ここもまた視界の利かない山頂だったので写真を1枚写して次の文殊岳に向かう。薬師岳の登りではすれ違ったハイカーにも会わなくなった。           文殊岳山頂(1041m)  薬師から10分で文殊岳に到着。林の中で暗かった道も西側が開けて急に明るくなった。景色は静岡の町並みや駿河湾が見えるが、西日が強くボンヤリしか見えない。だがここまで来ると建物も小さく景色としては標高の低い梶原山の方が素敵だと思う。富士山は残念ながら見えない。いえ曇っているから見えないでなく地理的に見えそうもなかった。 少し休んでいると寒くなってきた。さすが標高1000mの事はあり、陽は射しているが動いていないと寒くなる。早々に次ぎの決断をした。 山頂の標識を見ると東海自然歩道は次の経由地牛妻まで125分としてある。牛妻は安倍川沿いのでバスの便もある。そこへと2時間なら4時半には着く。今来た道を引き返して平山に出るより早そうだと早速歩き出す。  山頂から10分ほど下った所に測沢への分岐点があった。ライオンズクラブの立てた案内図もあり、それには測沢までの時間は書いてないが、道ははるかに測沢のほうが短く感じる。もっともこの案内図は略図なので参考程度にしかならないが、昨夜見た地図でも測沢の方が近かった気がする。 またここで迷う。このまま牛妻に行くより測沢に出たほうが速そうだし、道は踏み跡も深くしっかりした道だ。そこで今日何度目かの変心をして測沢への道を下り始める。  下りが始まると下りばかりの道が続くが、途中には鳥兜の花が咲いていたり、小さな沢を越えたりする山道で時間の余裕さえあれば楽しい道だろう。と思う間もなく「山道崩壊のため迂回路← 自己責任で通行願います」と貼紙がしてあった。 山頂から既に30分以上は下ってきている。この急な道を昇るとなる多1時間以上掛かりそうだ。そうなると麓へ着くまでに日が暮れてしまいそうだ。さてどうしよう。 迂回路の先を見ると安全の為のロープが張ってあるのが見える。それに本当に危険なら、こんな現地に貼紙をするのではなく、先ほどの分岐点に貼ってあるはずだ。どだい山は自己責任の世界なのは言われなくても承知している。と勝手な理屈をつけて迂回路に入っていった。 迂回路はロープの色などで判断するとここ1・2年に崩壊したのでは無さそうだ。また崩壊現場と思われる所はすぐ過ぎたが、その後も滑りそうな場所にはロープが張ってあったので何の不安も無く通る事が出来た。ただそれは今が明るいからで、これが薄暗くなると足元が見えず危険です。若しこのルートを歩くなら明るい時に歩くようにして下さい。  左前方に林道が見えてきた。まだ山頂から45分しか歩いていないのに思ったより早く林道に着いた。と思ったら山道は林道には行かず、そのまま林の中を下っていく。道しるべもあったので、林道を下るより山道の方が直線で速かろうとそのまま山道を下る事にした。 だがそこからが長かった。蜘蛛の巣、雑草、分りづらい道と高山への道と同じような道になってしまい、一度林道を見て緩んでしまった気持ちは中々持ち上がらなかった。おかげでさっきの林道に出なかった事を何度も後悔してしまった。 山頂では寒くなったのに、また汗ビッショリになった頃、ようやく山道が終り林道に出た。時間は4時だから山頂から1時間30分掛かった事になる。厄介な山道はこうして終った。  測沢のバスの停留所で時間を見ると、次のバスは5時20分になっている。ここで1時間以上座っていえていても仕方ないと車道を歩き出した。実は測沢の停留所で見たGPSの距離がたったの17kmしかなく少々ショックを感じていた。時々歩く河川敷では2時間も歩けば12kmは歩く事が出来るのが、それが今日は9時間経っているの経ったの17kmとは----- もう少し距離を稼がないと。そんな気持ちも正直あった。  17時40分先週梶原山から下ってきた瀬名のJAに着く。この辺りは静岡駅行きのバスは頻繁に出ているが歩行距離が短いので、心の中は草薙駅まで歩く気になっている。 段々暗くなってきた道を更に草薙に向けて歩いて行く。 草薙駅に18時30分到着、歩行距離(GPS)28.5km、歩数42900歩、歩行時間11時間30分の長い低山歩きはこうして終った。  今回の低山歩きは反省が多すぎて反省しようも無いくらいです。 こんな馬鹿な歩きをブログで公表すれば、もう二度とこんな歩きはしないだろうと思いアップしました。

疲れ果てた高山・竜爪山

2011-10-09 16:51:55 | 低山歩き
 昨日は静岡市の高山と竜爪山に行ってきたが疲れ果ててしまった。
静岡市の北にある竜爪山を知っている人なら「そんな馬鹿な!」と思うだろうが真実疲れ果てている。
それも昨日より今日の方が疲れの出方がひどく、腰、脹脛が痛くて仕方ない。頭もフラっとする事もあるから、かなり重症だ。
歩いた距離は特に長くなく29kmしかなかった。そろそろ歳の影響が出始めたのだろうか?

       

草薙―梶原山―一本松―柏尾峠―高山―穂積神社―薬師岳―文殊岳―測沢―草薙
7:00   8:40    9:00   9:25  12:00   13:20   14:10   14:25  16:00 18:30
     3.8k    4.6k   5.9k   10.0k  13.2k   13.9k   14.4k  17.0k 28.5

 最初の想定外は梶原山への上りだった。先週山原から梶原山を歩いたとき尾根筋に「大福寺へ」の道しるべを見ていたので、今日はその道を登ろうと大福寺に向った。寺に着いて山に行く道を探していると地元のが来て教えてくれた。

       
        大福寺からの狭い舗装道

 その道はこれで車が登れるのかなと思う程の狭さで更にジグザクしていて、とても車は曲れそうもない道だった。歩くには特段支障はなかったが、終点にあったのは既に放棄されている茶畑とミカン畑だった。茶畑は私の背より高く伸び、小枝がはびこり中に入れる状態ではない。と言ってもミカン畑も木の間は無理なので枝の下を這って進むしかなかった。そこが終わると今度は葛の蔓が縦横無尽に延びていて横切る事は出来ない。仕方なく靴先を手で持って蔓の上に足を上げて渡るのだが---大変だった。
ただ全てがこの調子ではなく、状態の悪い場所の5mほど先には歩けそうな道も見えるので先に行きたくなる。また上を見れば尾根も近くに見えるので、どうしても上に進みたくなってしまった。
なんとか尾根道に辿り着いた時はホッとすると同時に心身ともに疲れてしまった。

 今計算してみると草薙から大福寺まで1分間に100m弱だった歩行速度が、寺から尾根までは分速12mしか進んでいない。それも舗装部分を抜かせば10m以下の速度だったろう。
 薮漕ぎを終え尾根に出た場所は大福山の直下で、山頂にはすぐ着いた。前回道しるべを見たのは、もっと先だったので矢張りあの舗装された道は間違いだったのだろう

 最近では自分の歩きに制約を付けていて
1.シュラフや炊事道具は持たない  2.鎖場が無い 事を行程の条件にして歩いている。
しかしこれからは 3.薮漕ぎがない ことも条件に加えなければならなくなってしまった。

     
      梶原山山頂

 梶原山は人気がありいつ来ても登山者がいる。麓の人は運動代わり山に来ているようだ。
そうそうこの山は以前にも紹介したが、鎌倉武士の梶原景時が鎌倉から逃げてきて、地元の地侍に追い詰められ自害した山です。標高は279mと低いが静岡と清水が良く見える山です。

     
      梶原山から竜爪山

 写真左に見える双耳峰の山が竜爪山で、左が文殊岳(1041m)右が薬師岳(1051m)です。そこから右の尾根伝いにある双耳峰が高山(836)です。
この時点では竜爪山には行く予定はなく、高山から先週行った山原に登ろうと思っていました。

     
      一本松公園

 名前が山なのに公園と付いていて非常に言いづらい山の一本松公園ですが、ここも標高304mと低いのに眺めが良く、特に清水市街が良く見えます。

ここから柏尾峠までの尾根の山道は先週歩いたので、今日は農道を歩いてみました。すると

     
      土砂崩れの農道       

 台風15号にやられたのか農道が完全に遮断していた。写真では良く分らないでしょうが白い部分がガードレールです。
今更戻るわけにも行かず山側に登ってみると、私のような物好きがいるのか踏跡があり無事渡る事が出来ました。
 先週来た柏尾峠からは山道になります。道しるべには「山原90分」となっていました。先週山原から農道を一度麓のまで下り、再度農道で柏尾峠まで来て80分でしたので、少し時間が掛かりすぎの感じがしました。
 柏尾峠までと違い、こちらの山道は余り人が入っていないのか、蜘蛛の巣、山林内の倒木、竹林の中の倒竹(?)が多く歩きにくい状態でした。倒木などを見ても今年の倒木とはとても思えないような物も多く、行政もこのハイキングコースには力を入れていない感じです。
 山原への分岐へ1時間で着きました。思ったより遠い感じです。
道はここから更に悪くなり山林の中は枝折れが多く道が判然としません。山林を出て日向になると今度は雑草が生茂っていて草を掻き分けながら進みます。倒木も多くなりました。

     
     倒木地帯

 綺麗に枝打ちされた山林に入ると踏跡は殆ど見分けがつかなくなり、所々の木に巻いてある赤や黄色のテープが目印になる。見つけたテープの木の下に来て次のテープがすぐ見つける事が出来れば問題ないが、殆どがそうはいかない。そこで勘を働かして今までのテープは頂上に向って直登の状態にあったので、頂目指して直登して行く。
これが下りだったらどうしよう。登りなら頂を目指して上に上に進めば頂に着く。だが下りは全てが下りで少し方向が違えれば飛んでもない方向に行ってしまう危険性がある。

     
      綺麗な林だが

 そんな不安を感じながらピークに出る。どうやらここは高山の山頂でなく双耳峰の一つの峰のようだ。眺望は何も無し、苦労させた割には面白くないピークだった。
柏尾峠から既に2時間以上、山原分岐からも1時間以上経っている。帰りはこの道を下り山原分岐から山原無線中継所を経て清水駅に戻り予定だったが、しかしこの林の中の道を下る気はなくなってしまった。だが高山からの眺めはきっと素晴らしいだろうと期待を先延ばしにして気分を盛上げる。

 ピークを過ぎてからの道は何故か分りやすくなった。10分ほどで麓からも見える送電線の鉄塔の下に出る。鉄塔の上が山頂と思うが、道しるべには高山山頂はもっと先に分岐があるようになっていた。素直にその指示に従い鉄塔には寄らずに前進する。そのうち山頂と思えるピークが過ぎてしまった。これはあの道しるべの分岐は鉄塔経由を意味してたのではないかと思い出した。そうなると前に進む気は失せてしまったが、かと言って後戻りも癪だ。山林の中は幸い歩ける状態だったので鉄塔を目指して進みだした。だが急な斜面を斜めに進むのは中々歩きにくく、足首をぐらしてしまう恐れがある。そこで鉄塔させ見失わなければ大丈夫と直登に変えた。
12時丁度高山山頂に着く。麓から正午を知らせるサイレンの音が聞こえてきた。

東海道11回目-3

2011-10-06 15:32:29 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」11回目-3      2011.9.10

               水口宿へ(馬子唄)
 

     
土山宿 ― 大野一里塚跡 ― 旅籠跡 ― 水口宿 ― 水口石橋駅
14:40       15:30       15:55     17:00      17:15

 土山宿本陣跡を出て暫く行くと高札場跡の標識があり、その横には大黒屋本陣跡の表示もある。土山宿は鈴鹿峠を控えていたので大名行列や旅人で賑わった事だろうが、峠と宿の間が長すぎるような気がした。
坂下宿から鈴鹿峠まで約2.5km。峠から土山宿までが約8km、計10.5km以上になる。一番の難所の箱根峠は峠には箱根宿があり、小田原側には間の宿の畑宿もある。日坂の中山峠では金谷・日坂間が7.4kmしかないのに菊川間の宿がある。
なのにここには間の宿は無かった。そこで気になったのは鈴鹿の馬子唄で歌われている「あいの土山」だ。この言葉が枕詞のように使われているのだが「あい」が平仮名のため意味が分らない。
そこでネットで調べてみると「道の駅あいの土山」のHPに色々な説が書いてあった。代表的なものをあげると
○間の宿説 :宿駅制度ができ、土山が本宿に設定される前は、間宿であった。
○相の土山説:鈴鹿峠を三重県坂下宿と相対する土山宿
○藍の土山説:藍染が盛んであった。
○鮎の土山説:鮎漁が盛んであった。
○あいのう土山説:「間もなく」という意味の「あいのう」という方言。

とあったが、どれもが土山に拘ったものばかりだった。
一つ思い出してください前回紹介した箱根馬子唄を。あれには
「三島照る照る 小田原曇る 間の関所は雨が降る」となっています。ここでは三島と小田原の間に関所があり、それを「あいの」と歌っています。確かに東海道が箱根を通るようになった時は箱根宿は無く、幕府は三島と小田原の住民に依頼して宿場を作った経緯もあり、間の関所はあながち間違いとは言えない。
一方鈴鹿の馬子唄は
は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」の「坂」を注目すると、一見坂道に陽が射すとなる。これを坂は「坂下」の略だとすると坂下と鈴鹿峠の間に土山がある事になる。
しかしあるのは洪水で消滅した旧坂下宿があるだけだ。これでは私の仮説は成り立たない。
ならばこれならだろうか。この馬子唄を作詞した人は地元の住人でなく、土山が坂下と鈴鹿峠の間にあると思っていた。余りにも強引な説だが、こうでもしないと最終電車に乗れなくなってしまう。でも坂下宿と土山宿の距離が長すぎことの解決にはならないが。

     
      土山宿の高札場と本陣跡

 垂水頓宮(とんぐう)御殿跡の標識がある。頓宮とは天皇が即位すると伊勢神宮参拝の名代と遣わした皇女達(斎宮)が宿泊した社のことらしい。ただここの御殿跡とは斎宮が泊った所ではなく頓宮に関連した施設があった場所となっていた。
しまったな!以前に斎宮の事を題材にした小説を読んでいたので、頓宮を見てみたいと思っていた。なのにここは頓宮ではなかった。頓宮はもう大分通り過ぎていた。

 
頓宮御殿跡          大野の一里塚跡

日本橋から110里目大野の一里塚跡は頓宮御殿跡から暫く行った所にあった。

 生垣の後に石柱の頭が見えていたので覗いてみると「従是東淀領」と刻まれた領界石だった。いくら土地感の無い私でも、ここが京ではないことは分る。きっと淀藩の飛び地だったのだろう。

 屋号を掲げた家が出はじめた。東海道を歩いていると屋号を掲げた宿場が多いのに気がつく。お金も余りかからず手軽なので真似するのだろうが、一つ注文がある。
例えば「伊勢屋」の表示があっても、これでは何を商っていたのか分らない。出来たら「油屋(伊勢屋)」としてくれれば興味はもっと増すのだが。

     

 写真は明治天皇の立寄り地の記念碑ですが、その左にある小さな石碑には「旅籠 小幡屋跡」となったいた。明治天皇がこの小幡屋で休憩を取ったとある。
旅籠があったなら水口宿は近い。気がつかなかったが既に水口宿に入ったらしい。この分だ終電前の電車にも充分間に合いそうだ。
しかし予想に反して水口宿は中々出てこない。途中の屋号には旅籠は何軒もあったのに何故だろう。
江戸時代の東海道の宿は宿場内だけで、間の宿を含めて宿場外では営業できないはずだ。ならここは水口宿のはずだ。

 少しイライラしてきた。旅籠跡はあるが一向に宿場の町並みが出てこない。交差点の手前に石碑と大きな常夜灯が立っている。石碑には「東海道土山 今宿」となっていた。
ナニ!土山?一体ここは土山なのか水口なのか。しかも今宿とは何だ。
イライラしたまま合流した1号線の先を見ると、右側には白線を引いた歩道があるが左にはない。それならそのまま右側を進もうと、1号線を直進した。だが白線の歩道はすぐ先の橋の手前でなくなってしまった。幸い右に下りる細い道があり、その先は1号線に沿って先に延びているようなので、その道を下りる。1号線と田圃の間の道を進むが街道マップにはある民家は無い。丁度稲刈りをしていた家族が居たので聞いてみた。
「この辺りに浄土寺というお寺はありませんか?」「一里塚が知りませんか」と聞くが分らない。
「今郷公民館は分りますか」と聞いてやっと答えが返ってきた。
「あーそれなら、この1号線を越した南側になるから次のガードを潜ればいい」と教えてくれた。
そこでもう一度街道マップを見直すと完全に私が感違いしていた事に気付いた。地図には先ほどの交差点の所に「横断歩道で左の道に移る」と書いてあった。それを無視してしまったのだから。
イライラしたお陰で随分遠回りをしてしまった。
やっと東海道に戻ったが今在家の一里塚はとっくに通り過ぎていた。これから戻るか?でもこの調子だと水口宿に何時着くか分らない。諦めよう。折角復元されている一里塚なのに残念だが。
しかし旅籠が何軒もあったのは何故だろう。江戸から遠く離れたこの辺りに来ると江戸幕府の威光は薄れてしまうのか?

      
      水口宿東見付

 17時水口宿東見付に到着。電車は17時20分と最終の17時56分の2本だが最終には何と間に合うだろう。

     
      水口宿 この辺りに本陣跡が
 
 この辺りに本陣跡があるはずだが探している余裕は無い。次回歩く時もう一度戻って紹介しますので今回は写真だけ。

     
     東の三叉路 高札場跡

 水口宿は宿場内が三筋の道に分かれている。今日は少しでも早くと中の道を直進した。特に見るものなく駅を目指して進む。途中にからくりをあしらった時計台があるところを見ると、ここはからくり人形が盛んだったのか、次回は事前に調べておこう。

 17時15分近江鉄道の水口石橋駅に到着。プレハブの小さな無人駅で当然売店も無かった。今回も乾杯は見送りだ。今日は最後の青春18切符だったので飲みたかったのにな。

     
      水口石橋駅

 次回の東海道はまた青春18切符が売り出された歩き出そう。それまで東海道とはお別れだ。

東海道11回目-2

2011-10-05 19:44:04 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」11回目-2      2011.9.10


               土山宿へ(鈴鹿峠)
     

坂下宿 ― 鈴鹿峠 ― 山中一里塚 ― 田村神社 ― 土山宿
12:10     12:45      13:30       14:10      14:35


 さて次の目標は難所の鈴鹿峠越えだ。若干の不安もあるが楽しみの方が断然勝っている。これまで難所といわれた場所は何ヶ所もあったが、実際大変に感じた難所は何と言っても箱根越えだろう。次は上ったり下ったりの小夜の中山峠だろうか。3番目はサッタ峠をだが、この辺りになると随分楽な難所になってしまう。果たして鈴鹿峠の難所具合はどのあたりに入るのだろうか。

 鈴鹿峠にはもう一つの期待がある。遠州袋井宿のどまん中茶屋で東海道のガイドをやっている人が
「鈴鹿峠の石畳が一番歩きづらい」とか「石畳はわざと歩きづらくしてあり、そのため近くには必ず荷車の通る生活道がある」などと話してくれた。今日はその証拠を見つけようと思っている。

     
      鈴鹿峠への道

 前方に見える山の鞍部が峠だろうか、それともあの鞍部の先にはまだ山があるのかなど自問しながら歩いて行く。道の傾斜はまだ緩い。
何だろう右側に老夫婦(?)の立像がある。男は刀を持った武士のようだが説明板がないので、何の為の像なのか分らなかった。

     
      片山神社(東海自然歩道)入口

 坂下宿から15分も歩いた所で国1と別れ、東海自然歩道の標識や片山神社の石柱の方向に道をとる。このあたりの林の中にも石垣の残骸が見えるが、この石垣は旧坂下宿の跡だという。当初坂下宿はここにあったが、江戸時代初期の慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅して現在の地に移ったと説明があった。林の中で全体像は不明だが、随分狭い場所に感じた。

     
      片山神社

 片山神社は駿河では馴染が無く初めて聞く名前だが案内板が無いので詳細は分らない。ただ石垣の横に「鈴鹿流薙刀術○生之地」とあるところを見ると昔は神官が大勢いたのだろう。若しかしてここが忍者発祥の地だだったかも?
片山神社の神殿は火事で消滅してしまい、石垣の補修もされていないのか入口には「危険ですので 立入を御遠慮願います 片山神社」とあった。

     
      鈴鹿峠の石畳

 街道は片山神社の右手の坂道を登っている。そしてすぐに待望の石畳が出て来た。
ここの石畳は日坂の石畳と違い川原石でなく山石なので平で歩きやすい。また箱根の石畳のような大きな石は使っていない。まず最初の石畳は予想に反していた。
 街道の上には国1上り線の高架が走っている。道は階段などもあり整備されているのをみると、どうやら国道建設で新しく作り直したようだ。
東海自然歩道の大きな案内板や、芭蕉の句碑、馬の水のみ鉢などがあったが石畳は無かった。
忍者芭蕉が気になっていたので句碑を見ると「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」とある。きっと京にいた芭蕉が旅立とうと決心して最初の難所が鈴鹿山だったと詠んだものだろうか。
でも違っていました。この句は弟子が江戸に旅立つはなむけに詠んだ句だそうです。

     
      馬の水のみ鉢

ついでに馬の水のみ鉢にも突っ込みをいれよう。この水のみ鉢なる物はコンクリート製で「かって街道を上り下りする人馬のために水溜がおかれていた」と書いてある。いまも水がチョロチョロでていて四角い桝の中には水が溜まっている。でも何故コンクリート製なのか?それとも私の見間違いだったのか。

 馬の水のみ鉢から4分ほど歩くと道が平らになり案内板や道標が立っていた。なんとそこが難所の鈴鹿峠だった。坂下宿から約30分で登りという登りは片山神社からほんの10分あっただけ、これが箱根に次いでの難所?なんだか狐に摘まれたようだった。

     
      鈴鹿峠

途中にあった鈴鹿峠の案内板には
「八町二十七曲りといわれるほど、急な曲り道の連続する険しい峠道には、山賊に襲われたが撃退した話、坂上田村麻呂が山賊を退治した話など、山賊に関する伝承の多く、箱根に次ぐ難所であった」とある。
まてよ、そうなると鈴鹿峠の難所の理由は地形よりも山賊などの盗賊が出没していたための難所なのか? だが近くには薙刀を操る武芸者がいるのに山賊が跋扈していたとは?
再度まてよだ、山賊とは現在の知識でイメージする山賊ではなく、山の民(山窩)が峠を通行する旅人から通行税を徴収していたのではないのかな。それが時代と共に忍者集団や薙刀を使う神官に変化していったのではないだろうか。私の妄想は勝手な方向にドンドン向かっていく。

 峠の上に田村神社跡があったので行ってみたが、石碑が1本立っていただけだった。更に奥には鏡岩と称する磐座遺跡もあるらしいが時間が気になるのでパスする事にした。

 峠を越したここは近江の国に入った事になるが、その道はなだらかな下り坂の農道のような感じの道で、気分も自然とゆったりとしてきて歩く速度も落ちてしまった。

     
      万人講常夜灯

 前方に大きな常夜灯が見えてきた。
これは「江戸時代に金比羅参りの講中が道中の安全を祈願して設立した物である。重さ27t、高さ4.44mの自然石」と説明があり、さらに説明は「もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿峠のトンネル工事のため現在の位置に移された」となっている。これを読んで気になる私は変わっているのだろうか?
「もともとは東海道沿いに立っていたが、現在の位置に移された」とあるが、それではここは東海道ではないのか。更に「鈴鹿峠のトンネル工事のため」とあるが今歩いて来た所にはトンネルの入口も出口も無かった。一体東海道は何所を走っていたのだろう。

          
     
 国道1号線に合流して道路標識を見て、やっと滋賀県に入った実感を味わった。また東京からここは435k地点になると分った。日本橋から歩いていれば、この435kmがより実感できたのに残念だった。
ところでこの標識を見て始めて知ったのだが「甲賀」とは「こうが」と濁らず「こうか」と読むらしい。しかし私は甲賀忍者は「こうがにんじゃ」と言っていたが、これも間違いだったのだろうか。

 国道に入り、緩い下りが続くが特に見るべき物もなくただ歩く。9月に入ったとはいえまだ強い陽射しが容赦なく降り注ぐ。まだ歩き始めて13kmほどだが少し疲れてきたようだ。

     
      馬子唄の石碑

 国道の山中西交差点の信号を渡ると大きな石碑がある。句碑だろうかと近づくと「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」と馬子唄の石碑だった。どこかで聞いたような文句だがと考えていて、ようやく思い出した
「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」なんか似ていると思いませんか。それに「越すに越されぬ」となるとなると箱根馬子唄も気になる。早速調べると
「箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」とあり3番の歌詞は「三島照る照る 小田原曇る 間の関所は雨が降る」とあった。面白い物ですね、みんな似かよっていて今作れば盗作騒ぎになりそうです。

     
      山中一里塚のモニュメント 上は新名神高速道路

 新名神高速道路の高架を潜った所に再現した一里塚のモニュメントがある。何ともユニークで近代的な形をしているが、たまにはこんな物があってもいいかとも思う。ここは日本橋から108里目の一里塚です。
 このあたりで鈴鹿峠の上り下りは終わりだろうが、結局石畳らしい石畳は一ヶ所あっただけだった。袋井宿であった東海道のガイドは偽物なのか?いやそんな事はない、少し前に静岡のTVにそのガイドが江戸時代の旅人の服装をして東海道の説明をしていた。それでは私が石畳を見落としたのだろうか、そんな事はありえないので歩く道を間違えたのだろうか? 結局謎のままになってしまった。

     
      馬子と馬のモニュメント

 一里塚の横には馬子が馬を引くモニュメントもあった。この像を過ぎるとまた単調な国道歩きになる。
国道の標識に「湯の山温泉」とある。湯の山温泉とは三重県の御在所岳の湯の山温泉なのか、でもここは滋賀県。腑に落ちなかったので家で地図を見ると県道507を東に向かい国道477に合流して南に行けば湯の山温泉だった。
私は東海地方に住んでいるので三重県は馴染はあるが、近畿地方の滋賀県は遠くに感じていた。だが滋賀県と三重県は県境を接しているのだから近いのは当然だった。

 国道と別れまた旧道の東海道に入る。蟹坂古戦場跡の碑と案内板が立っている。私には馴染のない武将のだったので興味は引かれなかったが、その中に山中城の文字があった。箱根峠でも三島宿にに行く途中に山中城があった。その山中城は秀吉の小田原攻めにあい落城したが、こちらの山中城は何とか助かったようだ。

     
      田村川橋

 田村神社手前の田村川橋に高札が掛かっている。内容は読めなかったが隣に案内板があった。それによると、この橋は有料橋で幕府御用の者と武士、それと川向こうに田畑のある百姓は無料で、それ以外の者は有料だったとある。左程長くない橋なのにせこい事だ。

 橋を渡ると田村神社の境内で右手に鳥居が見えてきた。鳥居には「従一位田村大明神」となっている。本殿まで行ったが特に気を引く様な物は無かった。

     
      田村神社

 田村神社を出て参道を1号線に向っていくと道の駅あいの土山がある。トイレも用が無いのでそのままパス。道が右に曲るとそこからが土山宿の始まりだった。
左に「扇屋伝承文化館」や「本家櫛所」の看板掛かった店があり、その玄関先には赤い毛氈を敷いた台や、同じく赤い暖簾が掛かっている。ここは江戸時代に扇や櫛を売っていた商家を地元が購入し伝承館に改造したとある。だが時間に追われている私は又もやパス。これでは街道を歩いている価値が半減してしまう。分っているけどご免なさい。

 扇屋の筋向いに日本橋から109里目の土山の一里塚がある。民家の玄関先に石柱が1本と生垣の中に案内板が立っていた。
 土山宿の本陣跡の建物は現存しているが何故か貧相な気がする。建物の入口も唐風の屋根も無く平坦のままだ。だが説明によると「徳川3代将軍家光の上洛の時に建てられ、大名や公家、役人らが宿泊・休憩した」となっている。
前の宿場、坂下宿の本陣の屋根を見てきたばかりなので余計みすぼらしく感じてしまった。

     
      土山宿本陣跡

 土山宿にはそれなりの町並みは残っているし本陣跡の建物もある。それが坂下宿では何も残っていないのは何故だろうと改めて疑問を感じてしまった。

東海道11回目-1

2011-10-04 15:36:45 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」11回目-1      2011.9.10

関駅 ― 関宿 ― 坂下宿 ― 土山宿 ― 水口宿 ― 水口駅
10:10   10:20    11:55    14:30     17:00     17:10
      0.9k      8.3k    18.7k    32.4k     32.8kk
 
  11回目歩行ルート
  

               坂下宿へ(忍者)
     

関駅 ― 東の追分 ― 一里塚 ― 馬子唄会館 ― 坂下宿
10:10    10:20      11:20     11:45       11:55

 5枚目の青春18切符で、しかも今日は有効期限の最終日でもある。
今年の夏は清々と晴の天気が続く日が少なく、富士登山が延び延びになってしまった。
お陰で街道歩きが遅くなり今日まで延びてしまったが、幸いな事に最終日の今日も晴れたので良しとしよう。

 出発時間が段々遅くなり関駅を出たのが10時過ぎてしまった。
今日の行程の中には難所の鈴鹿峠も控えていて、距離はおおよそ28kmを予想している。
帰りの電車の予定時間は理想は17時20分だが、最終の17時56分には何としても間に合わせなければならない。しかも電車の駅は関を出ると目的地の水口までは無い。ともかく水口駅まで頑張って歩くしかない。今日もせわしない一日になりそうだ。

     
      関宿 東の追分一里塚跡

 前回関宿の東の追分付近にある一里塚を見つける事が出来なかったので、戻って探す事にした。その一里塚跡は伊勢神宮の鳥居から始まる伊勢別街道の入口の石垣の上に石碑が1本立っていた。何のことはないこれが日本橋から106里目の一里塚だった。
折角見事な町並みが残っているのに、その入口にある一里塚は無造作すぎる。空地もあるのだから一里塚を再現して観光客の流れをここまで引張ればいいのに。更に昔風の茶店も作って茶菓子の接待(有料)をすれば繁盛間違いなしだ。(甘すぎるかな)

     
      関宿東側の町並み

 関宿の宿場の町並みは、東海道で唯一「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された町並みで現在でも江戸時代の街並みが保存されている景観は、中々見応えがある。
途中にある銀行は宿場風の外観になっていたり、郵便ポストは「書状集箱」となっていて、ウーンこれは江戸時代というより明治時代かもしれないな。

 途中の商家には馬を繫いだ馬繫ぎの輪があると聞いていたので興味を持っていた。それは西部劇の酒場の前のあるようなものなのか? 中々見つける事が出来ず余計に期待が高まったが。

     
      商家跡の馬繫ぎ輪

現実はこんな物で鉄の輪が一個、柱に付いていただけだった。なんだ~。

 宿場の中心地の四つ角には、山門に本陣の門を移築した寺がある。桑名かどこかで城の門を移築した寺があったが、それより立派な感じがする。
家で写真を見ていると門の横木のまん中に丸い紋のような物が見える。拡大してみると丸の中に蛇の頭が二つあるように見える。まさか蛇ではないだろうが何だったんだろう。しっかり見てくれば良かった。ネットで検索したがそんな物を取り上げているものは無かった。

     
      延命寺の山門

 街道の通りに面した公園は「百六里庭」といい、関宿が江戸から106里目だった事からきている。このように106里目を協調するなら06里目の一里塚も大事にすればよいのになと思いながら公園の建物「眺関亭(ちょうかんてい)」に上がると、そこからは関宿の家並みが一望できた。
通りの奥の大きな屋根は地蔵院の屋根です。

     
      百六里庭・眺関亭から関宿

 郵便局の前には高札場が復元されている。ここまで何ヶ所も復元された高札場を見てきたが、ここの高札場が一番大きいだろう。町がいかに宿場に力を入れているかがわかる。
だからこそ東の追分一里塚のを再建して欲しい(くどい)。

     
      高札場跡

 地蔵院の周辺は観光客でごった返していた。ツアーの団体が添乗員の旗に従って歩いている。境内は露天商のテントで写真も撮れなかった。
ここの地蔵院に安置されている地蔵菩薩は、わが国最古の地蔵菩薩で通称・関のお地蔵さんと呼ばれている。
また「関の地蔵さんに振袖きせて 奈良の大仏むこに取る」の俗謡があるほど名高い関地蔵院だそうです。
でも不思議な事に建物は本堂や鐘楼などは国の重要文化財なのに日本最古の地蔵菩薩が指定されていないのは何故でしょう。


 地蔵院の鐘楼                       地蔵院の扁額

 地蔵院を過ぎると急に静かな通りになり、観光客は誰もいなくなった。だが町並みは地蔵院から東の町並みに決して劣っていない、いやかえって静かなだけ古い街道の雰囲気があるような気がする。
関宿に行った時は少し足を延ばしてみてください。

     
      西側の静かな町並み
 
 宿場の西側にも西の追分があった。ここの追分は東海道と伊賀へとの分岐点で道標には
「ひたりは いかやまと みち」と刻まれている。
いかは伊賀でやまとは奈良のことだから、この追分を左(西)に進めば伊賀や奈良方面に行くのだろう。

     
      西の追分

伊賀といえば甲賀だが、その甲賀はこの追分を直進して東海道を北に進む。だが道標にはそんな文字は刻まれていない。本来なら「みぎ こうかきょう みち」とあっても良さそうなものだが----

     
      大和街道の道標

 伊賀・甲賀といえば忍者を連想し、忍者といえば猿飛佐助や霧隠才蔵を思い出す。そして猿飛佐助は甲賀忍者で霧隠才蔵は伊賀忍者。そのせいか甲賀=善で伊賀は悪、そんなイメージが私の頭の中に出来てしまっている。
他に忍者といえば忍者ハットリ君ならぬ服部半蔵がいる。これは徳川家康に仕えた伊賀忍者ということになっているが、実際は甲冑を着て足軽を率いた武士だったらしい。
有名な松尾芭蕉にも忍者説があるが、これは芭蕉が伊賀出身で身分が百姓にも係わらず姓があったことなどが起因しているらしい。当時伊賀では農家で姓を持つのは庄屋階級だが、忍者では上忍や中忍でも姓を名乗ることが出来たという。
さらに芭蕉の時代は旅は簡単にはできず、各地の関所手形の調達や多額な路銀の準備など、普通の俳匠の立場では不可能な事にも関わらず、芭蕉は数回にわたり旅を行っていた。中でも奥の細道はその行程や日数などにより密偵説が噂されているようだ。

 知ったかぶりはこれ位にしておこう。だが関の宿場は終ってしまったのに肝心の関所跡が無かった。関所があったから関だろうに何故だろう。それに53次の広重の浮世絵も関所を描いたものなのに。
調べて自分の勘違いに気が付いた。先ず浮世絵は関所ではなく本陣を描いたものだった。紋付の幔幕があるのでてっきり関所だと思い込んでいた。
次に関所は古代東海道の三関のひとつ鈴鹿関がここ関にあったようだが場所は不詳らしい。しかしともかく関所はあった事は確かだった。

 すっかり関に時間が掛かってしまった。先を急がないと今日中に家に帰れなくなってしまう。
東海道は旧道に入ったり国道1号線と合流したりしながら北の山に向かって進む。道も少しづつ勾配を持ってきていよいよ鈴鹿の山に入ってきたようだ。
正面に三角形の山が見えるが、ありきたりの山だったので写真も撮らなかった。しかしその山が筆捨山という名所だと看板があった。それによると室町時代の絵師がこの山を写生しようとしたが、天気が変わって山の色が定まらなかった。絵師は諦めて筆を納めたので筆捨山と呼ぶようになったとか。な~んだ。

 国1の向こうに107里目の一里塚の碑が見えたが、わざわざ国道を横断して見る程のものではなかったので写真を1枚写して通過。
東海道のの宿場名を書いた柱を見ながら行くと鈴鹿馬子唄会館があった。

     
      鈴鹿馬子唄会館

今日は土曜日なので東海道を歩いているのだろうか、リュックを背負った人が会館の中に入っていく。私はまだ12時前なので坂下宿までは頑張ろうと素通りをした。

     
      坂下松屋本陣跡

 フーやっと坂下宿に着いた。この坂下宿は宿場らしき面影は皆無で、やけに太い道だけが印象に残った。
正直に言うと私は関宿までの宿場名は聞いた事はあったが、ここからの坂下、土山、水口は始めて聞く宿場名だった。きっと小さな宿場だったのだろうと思いながら案内板を読むと大間違いだった。そこには
「江戸時代には48番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所の鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。江戸時代後半には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒を数える東海道有数の宿場なり」と書いてある。
だが現在はその面影は全然無く、普通の民家すら少ない。今までの宿場で一番廃れた感じの宿場だ。その理由も案内場にはあった。「明治23年関西鉄道の開通により通行者が激減したため宿場としての役割を終えた」とあった。
その鉄道だが坂下の近くに出来たなら、これほど寂れなかっただろうが、一番近い駅は関駅で7km近くは離れている。これでは寂れるわけだ。


竹屋本陣跡                         梅屋本陣跡 

ここの本陣の名前が面白い松屋、竹屋、梅屋と松竹梅になっている。本陣のランクもこの通りだったのかな?案内板にはそこまで書いてなかった。


法安寺山門                         法安寺の本陣玄関跡
    
 法安寺の玄関は松屋本陣の屋根が使われているとあったので寄ってみた。寺自体も現在の集落の寺としては貫禄もあり、その玄関もさすが本陣の玄関だと思わせるものがあった。本陣3軒、旅籠48軒は嘘ではないようだ。

     
      名残の石垣

街道に戻り北に向かうと右手に石垣が残っている。この石垣が宿場時代の数少ない名残とあるが、この石垣の上に何があったのだろう。旅籠や茶屋としたらこの太い道は何だろう。この道の両側には旅籠や茶屋が建つスペースは充分ある。
大体この宿場は何故古い建物が1軒も無いのだ。空襲で焼かれたのか、それとも大火でもあったのだろうか。だがそのような事は案内板には書いてなかった。
何とも不思議な宿場だ。