はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵5回目-1

2013-11-29 11:35:17 | 寺社遍路
  71番目 ~ 89番目 地蔵                              歩行月日2013/10/2

歩行時間:8時間52分 休憩時間:2時間50分 延時間:11時間42分
出発時間:6時13分   到着時間:17時55分
歩  数:  55、474歩   GPS距離:42.0km
行程表
 静岡駅 0:20> 71番 0:05> 72番 0:10> 73番 0:20> 74番 0:30> 番 外 0:23> 75番 0:33>
  76番 0:35> 77番 0:10> 78番 0:20> 79番 0:11> 80番 0:24> 81番 0:30> 82番 0:36>
  83番 0:11> 84番 0:25> 85番 0:29> 86番 0:17> 薩埵峠 1:03> 87番 0:36> 88番 0:32>
  89番 0:12> 新蒲原駅 
              71番目(69番) 上原地蔵堂(穴山梅雪)
 5回目の遍路の予定は草薙駅を出発して、先ずは日本平の東の裾野を廻り、三保半島に近くで折り返して
北に戻る。東海道線まで戻り、清水の街中を打ちながら東に向かう東海道を歩く。興津、由比、蒲原の寺を
巡りながら新蒲原駅がゴールになった。
だが当初は新蒲原の次の富士川駅まで歩きたかった。理由は以前東海道を歩いた時、三島宿から蒲原宿の
手前の新蒲原駅まで歩いたが、その時は東海道の街道を直線で歩くだけだった。だが、今回の駿河百地蔵の
最終は同じ三島なのだが、遍路は街道を歩くだけでなく、北に行ったり、南に入ったりと、単なる街道歩きより
距離が延びてしまう。そうなると街道歩きで三島から新蒲原を歩いていても、遍路になると、とても同じ区間は
歩ききれない。そこで今回頑張って富士川駅まで歩けば、残りは1回で回れそうだ。と思っていた。

 家を5時に出て始発電車に乗ってきても、歩き出しは6時を過ぎてしまう。
今日は富士川駅まで歩く予定なので気分的には焦った気持ちの出発になってしまった。
 今日最初の百地蔵はHPには「上原地蔵堂」と表示があるだけで詳しい事は分からない。ネットの地図にも
地蔵堂の表示は無く、3ヶ所目の不明な地蔵になるかと思ったが「上原地蔵堂」とネットで検索すると簡単に
分かった。そこは東海道を歩いた時に休憩した場所で、当時の写真を見ると地蔵堂の後ろが上原自治会館に
なっている。ネットの地図にも自治館は掲載されていたので不明地蔵は増えないで済んだ。

 地蔵堂の前の案内板にはこんな説明が書いてある。
「天正10年(1582)徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻城主・穴山梅雪と、この地蔵堂で
会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。」

この穴山梅雪は、その後、家康に同行して信長と接見したのちに堺に向かう。ところがその直後に本能寺の
変が起こり、家康は伊勢から海で脱出したが、別ルートで逃げた梅雪は、途中で地元民の落武者狩りにあい
殺されてしまった。「人間万事塞翁が馬」だ。

 境内には地蔵像は無く、お堂の中を覗くと須弥壇の上に地蔵像らしき写真を飾ってあった。とするとここの
地蔵尊は秘仏になっているのか、それとも消失してしまったのか。

 
                上原地蔵堂                                 上原地蔵堂の内部
      上原地蔵堂の地図

              72番目(70番) 狐ヶ崎地蔵堂(聖一国師堂)

 次の「狐ヶ崎地蔵堂」も地図には載ってなく、狐ヶ崎の地名自体が清水区には無かった。
前回歩いて分かったが狐ヶ崎の地名は、ここより5kmほど西の谷津山の麓にあるべき地名で、通称狐ヶ崎と
呼ばれている所は旧狐ヶ崎遊園地の有った場所付近だ。この話は前回の法蔵寺の所で出たし、法蔵寺には
狐ヶ崎地蔵も祀られていたので、この遊園地の場所に狐ヶ崎の名前が付いた地蔵堂がある事に釈然としな
かった。案の定ネットに地図で狐ヶ崎地蔵堂を探したが見つける事が出来なかった。
だが、百地蔵のHPを良く見ると、その記事欄に狐ヶ崎地蔵が「聖一国師堂内」にあると書いてあった。
この聖一国師とは、前々回歩いた安倍川奥の足久保出身で静岡茶の始祖と呼ばれている人だ。
その聖一国師を祀った、お堂が清水の旧狐ヶ崎遊園地の上にある事は知っていた。何しろ真っ赤な四角い
建物で車で走っていても目に付く建物だった。

 上原地蔵堂から聖一国師堂へは、地蔵堂の横の小道をの登り県道に合流した左手にあった。
生憎工事中で、お堂の周りはネットで囲まれていて屋根しか見る事が出来ない。それでも中に入ろうと県道
沿いを見るが入口は無い。どうやら入口は下に見える自動車学校の方から入るしかないようだ。そうなると
随分回り道をしなければならない。それに中に入れたとしても工事中で何も見る事は出来なそうだった。
県道沿いに建つ案内板を読むと気になる事が書いてある。
「昭和29年正一国師が初めて仏門に入った久能寺に近い、ここ狐ヶ崎の御堂に、国師の高徳を讃え、偉大な
功績に感謝して、後世にその遺徳を伝えようと国師像を安置して開眼の儀を執り行いました」

成程と思いたいが、駿河百地蔵の制定は昭和7年。となると、その時この御堂はあったのか?
案内板では昭和29年に開眼供養を行った事は分かるが、その時お堂が有ったのか無かったのか明確でない。
こうなると調べたくなるのが私の癖。ネットを探すと面白い話が出てきた。
実は今回の百地蔵では紹介しなかったが、駿河出身者で歴史上有名な人物は、由比正雪の他にシャム(タイ)
で活躍した山田長政がいる。山田長政は駿府生まれともいわれ、浅間さん通りには石碑が建っているが、
他には記念物を見た事はなかった。ところが聖一国師堂を調べているとこんな記述があった。
昭和2年の静岡新報社の記事で
「静岡が産んだ世界的偉人山田長政公の記念塔を建立して偉人の功業を永久に傳ふべく着々の工程を進めて
ゐるが、此の度暹羅國から釋迦世尊の尊い佛像一體を寄贈されて来た。此の佛像は少なくとも一千年前に鋳造
した物であつて、暹羅國皇室では國法を以て海外輸出を禁じ國寶と等しく保護してゐたが、我山田長政記念塔
建設の企てに大いに賛成の意を表され、暹羅國皇室より遙々寄贈されたものである。」
と載っていた。
ようは山田長政の記念塔を建設するに当たり、当時の暹羅(シャム・現タイ)国より、国宝級の仏像が寄贈された
ようだ。問題はその記念堂が、何処に建てたかいう事だが、
「当初釈迦堂は宝台院境内に新築する予定だったが、それを変更して静岡鉄道の経営する狐ヶ先遊園地に
改めて釈迦堂を建立する事になり、数万円を投じて見事な三間四面の御堂が完成し、宝台院から東海道を経て
遊園地釈迦堂に鎮座された。この釈迦尊像は頭辺に数十の宝石を頂き実に良い仏像だつたが、戦時中盗難に
遭つて終わつた。その後杉本宗一先生作茶祖聖一国師木像を祀り国師堂という。」

狐ヶ崎遊園地に建てた山田長政記念釈迦堂は、本尊を盗まれると、何故か聖一国師堂に変身してしまった。
真っ赤に塗られたお堂は、シャムの仏像を祀ったからと思えば何とは無く納得できる。だが国師の諡号(しごう)
を朝廷より贈られてた高僧を祀る御堂としては似合わない気がするが--------
しかも静岡茶商工業協同組合は、賎機山の麓の臨済寺の境内に、茶祖堂を建立し聖一国師を祀っているのだから
わけが分からなくなる。

 私は当初この辺りに地蔵堂はあったが、狐ヶ崎などと名前は付いていなかった。だが百地蔵のHPを作るとき
分かりやすく狐ヶ崎地蔵堂にしたのかと思った。しかし今回山田長政記念堂の事が分かると、それさえ疑わしく
感じてきた。ところがその考えが間違いだという事が分かった。
「聖一国師堂の仏像で一番古いのは身代り地蔵なので、元は身代り地蔵堂だったのかもしれない」と書かれた
ブログがあった。これも私同様に想像に過ぎないようだが、お堂の中に地蔵が祀られているならその可能性は
強い。せめて静岡新報社の記事の中に「元の地蔵堂を改築して記念堂を建てた」とあればハッキリするのだが。

 工事中のお堂の裏に大きな雛人形の像が建っていた。多分これは聖一国師が中国から茶の種子のほか麺類や
人形などの技術を持ち帰ったから、と思ったが違っていた。
何でも初代静岡雛具組合会長は雛人形に雛具を添え飾ることを考案した人で、その顕彰碑が境内にあるそうです。
この人物は静岡初のデパート田中屋百貨店(現静岡伊勢丹)を建てた人だとか。
まだ他にも東急電鉄五島慶太会長の胸像もあるそうで、こうなるとそのうち狐ヶ崎遊園地の創始者も祀られそうな
気がしてしまう。
なんともはや摩訶不思議な聖一国師堂いや狐ヶ崎地蔵堂だった。

 
                    工事中の聖一国師堂                     聖一国師堂の雛人形
      聖一国師堂の地図

駿河百地蔵4回目-12

2013-11-27 16:47:26 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              67番目(41番) 安南寺
 安南寺は新善光寺の前にあった。安南などと聞くと何となく東南アジアを連想してしまうが、安南寺には何の
説明も無かった。で、仕方なく安南を調べてみるとベトナムの中北部の地名と分かったが、それが寺の名前と
関係しているのかは分からない。案外この寺の元あった場所が安倍川の南だったのかもしれない。
 山門を入った横に苔むした宝塔があったが、説明がないので謂れは分からない。鐘突き堂の前にも大きな
陶器の土瓶も置いてあり、これは若しかしてベトナムの安南焼かと思ったが、こちらにも説明が無いので
分からない。少々不親切な寺だ。

         
             安南寺の宝塔                           安南寺の大土瓶

 地蔵は地蔵堂に大量生産型の六地蔵を祀ってあったが興味は湧かなかった。それより露座の子育て地蔵の
横に置かれた、四角錐に地蔵がビッシリ彫ってある地蔵塚(?)の方が興味を惹かれた。
こんな地蔵像を見るのは初めてだった。

 
             安南寺山門                               安南寺の地蔵塚
      安南寺の地図

              68番目(64番) 少林寺(拳法)
 安南寺の隣が少林寺で、この寺も名前に興味が湧いた。少林寺と言えば、いわずと知れた少林寺拳法の
発祥の寺だ。この寺は関係あるのだろうか? この寺にも案内板は無いので自分で調べるしかない。
先ず驚いたのは少林寺拳法とは、日本発祥の武術で、しかも戦後日本人の「宋道臣」が創始者だった事だ。
私の想像していた中国発祥の拳法は「小林拳」といい、こちらの創始者は、伝説や近年の文献によると禅宗の
開祖の達磨大師ともいわれていて、明代の嵩山少林寺で武術を練習していたらしい。
となれば当然この少林寺は、拳法とは何ら関係が無いのだ。マー少林寺は臨済宗なので禅宗には違いないが。

 百地蔵のHPでは、少林寺には延命地蔵があるとなっていたが、境内にあったのは新し六地蔵だけだった。

 
               少林寺                               少林寺の六地蔵
      少林寺の地図

              69番目(65番) 菩提樹院(国分尼寺)
 寺団地最後の菩提樹院の山門前に建っている案内板を見て興味を惹かれた。
先ず驚いたのが案内板に 「旧国分尼寺」 とあった事だ。
私のホームグランドとしている大崩山塊の焼津市花沢に法華寺という寺がある。その寺の説明に
「当山は奈良時代の聖武天皇の御宇、法華罪の駿河国分尼寺として建立されたといわれる」書いてある。
これを読んだ時は、国府の駿府から離れている焼津の、しかも山の中にある寺が国分尼寺? と疑問を
感じ調べてみると、曹洞宗静岡県第一宗務所青年会 のHPに
「当山は天台宗に属し、奈良時代第45代聖武天皇の御宇、法華滅罪の駿河国分尼寺として建立された」と
あった。その時は宗教家の団体が書いてあるのだから間違いないだろうと思ったいた。
だが今回菩提樹院も国分尼寺かもしれないと分かり、再度HPと案内板を読み返してみると、その文章の
内容も構成も殆ど同じだった。これはどちらかが引用したとも思われる。
更に、案内板が立っている場所は法華寺の境内ではなく、大分離れた場所の見晴台にあるのも不自然だ。
それに比べ、菩提樹院の案内板は
「養老5年、勅命により法相宗定額寺(国分寺や尼寺に次ぐ寺格の寺)北川辺に建立。その後、盛衰を繰り
返し、徳川家康公が駿府城を築くに際し、寺町(常盤公園)に移す。その後、静岡大火や静岡大空襲により
焼失するも、昭和20年の区画整理により移転した」
(概略)
焼津の住民の私としては、法華寺が国分尼寺だとしたいが、どうも分が悪そうだ。

 境内に入ると、今度は「伝 駿河国分寺の塔心礎」の案内板があった。これまた変な話で駿河の国分寺は
前回の百地蔵巡りの最後に寄った国分寺のはずだ。それなのに国分寺の礎石が旧国分尼寺の菩提樹院に
あるとは納得しがたい。だが静岡市の建てた案内板には
「昭和5年、駿府城内から発見され、国分尼寺の後身の伝承を持つ菩提樹院に寄進された。」となっている。
果たして本物と判定した国分寺の塔心礎を、単なる伝承を持つだけの寺院い寄進してしまうだろうか?
更に案内板には「34cmの直径の孔を穿った鑿の痕跡は、本来は寺院の心礎として用いられたもので、中央の
孔は舎利孔であったと考えられる。この舎利孔の大きさは、甲斐や伊豆の国分寺の物とほぼ同じである。」

この石が国分寺の塔心礎と判定されたのは、孔の大きさからだったようだ。
案内板はまだ続いていて、江戸時代には「孔を広げて駿府城内にあった社の手水鉢としていた」とも書いてある。
駿河国分寺は武田信玄の駿河進攻で焼払われたが、江戸時代の安永6年(1777)には、その国分寺跡に
「日本六拾六國於國分寺立之」の石塔が建てられている。それなのに同じ時代に国分寺跡から発掘された
この石を加工して、社の手水鉢として使っただろうか? 私には理解できない。
尤も案内板には、「伝 駿河国分寺の塔心礎」 と 「伝」 が付いてはいたが。

 
                  菩提樹院山門                    「伝駿河国分寺の塔心礎」
      菩提樹院の地図   
 菩提樹院には、まだ気になる物が有った。それは由比正雪の首塚だ。寺の案内板によると
「由比正雪は駿府宮ヶ崎の紺屋に生まれ、江戸へ出て楠流軍学を学んだあと、牛込に道場を構えて軍学を
指南した。時に、徳川幕府の悪政を改革せんと、幕府転覆を計り、自ら久能山に立て籠もり、東西の同志に
号令せんとしたが、事前に露見し、駿府梅屋町の旅籠梅屋に於いて、同志9名と共に自刃した。同志と共に
安倍川畔にさらし首になるが、縁者の女人が秘かにその首を盗み、寺町の菩提樹院へ葬った。それがこの
首塚で、寺の移転と同時に首塚も移転された。」

何も案内板にケチを付けるのが趣味ではないが、この案内板の「由比正雪は駿府宮ヶ崎の紺屋に生まれ」
覚えていてください。百地蔵の遍路できっと「由比正雪の生家」の前を通るので ------

 イヤー!ここにもさらし首を盗んだ女性がいた。静岡県内では江戸時代の大盗賊の一人、日本座衛門の首を
磐田見付の鈴ヶ森処刑場から盗んで、東海道の金谷宿に埋葬した女性がいたが、由比正雪にもそんな女性が
傍にいたのですね。 しかし、とまた妄想が湧いてくる。
さっきお詣りしてきた来迎院の「宮城野・信夫」の話を覚えていますか。あの二人の女性は由比正雪の恩に
報いるため、処刑場の近くに庵を建てて、正雪の菩提を生涯弔ったとあった。どうせ庵を建てるなら正雪の首が
葬られている菩提樹の首塚の近くに建てて、冥福を祈ればよいと思ってしまうのだが ------
アッ若しかして 正雪の首を盗んだのが女性だったので、宮城野と信夫は嫉妬心を感じていたのかな。

        
                    由比正雪の首塚                     由比正雪の銅像

              70番目(71番) 桃原寺
 寺団地の中の5寺は簡単に済むと思っていたが、菩提樹院で思わぬ時間が掛かってしまった。先を急ごう。
谷津山は後ろに去り、右に日本平の丘が近づいてきた。午前中は東海道線の南側歩いたが今は北側を歩く。
今日最後の百地蔵は、この東海道線を渡り、今朝迷子になった東名高速を潜った日本平の中腹にある。
また東名のガードを潜るのかと、嫌な予感に捕らわれてが、案の定、潜った東名のガードと地図のガードが
違って迷子になってしまった。適当に見当を付けて日本平の中腹を目指して登っていたが、民家も無くなり
これ以上登ると畑や林ばかりになっていしまいそうだ。そんな時タイミングよく軽トラが登ってきた。
慌てて手を挙げ軽トラを止めて道を尋ねた。
「桃原寺なら、新しくできた、この道を真っ直ぐ行けば本堂に出ますよ」と。
付いているのか付いていないのか良く分からない。

 桃原寺の百地蔵はHPによると「護国地蔵」とあったので、どんな地蔵像かと興味を持っていたが、境内には
それらしき地蔵像は見当たらなかった。本堂の柱には「駿河一国百地蔵第七十一番」の板が張ってあるので
間違いないのだが、きっと本堂の中に祀ってあるのだろう。
境内に「寛永20年(1643)徳川家康没後27年 三代将軍家光時代」と書かれた小さな案内板がついた地蔵尊が
あった。一先ずこの地蔵尊を百地蔵として良しとしておこう。

        
                    桃原寺参道                       桃原寺の地蔵像
      桃原寺の地図
 今日の遍路は一日で30ヶ所も廻ってしまったが、矢張りこれでは多すぎる。余りに数が多すぎて前日に調査した
道も覚えきれず迷う事が多かった。マー反省はあるが残りは後30ヶ所。遍路もあと2回か3回で終わりそうだ。
先が見えてきて駅前で飲む乾杯の酒は美味しかった。
ブログの方も後15回も書けば終わりそうなので、予定通り今年中には終わる目途がついた。

駿河百地蔵4回目-11

2013-11-22 16:45:54 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              64番目(49番) 天昌寺(厄除地蔵)
 長源寺を出て谷津山から離れ、また北街道を横断して北の平野部にある天昌寺に向かう。
次に行く寺は天昌寺と言うより 「上足洗の厄除地蔵さん」として親しまれているお寺だ。
この厄除地蔵の謂れはHPにはこんな風に紹介してある。
「弘法大師の作と言われている厄除地蔵尊は、伝承によれば地蔵尊が連歌師宗長の夢枕に立ち、自分は今、
河原に埋もれているが、丁重に供養すれば福寿円満を授けるだろうと語った。そこで宗長は駿河国の中を捜し
回ったが、地蔵尊は見つからない。諦めて河原に佇ずんでいると、突然足元に瑞雲がたなびき、石の中から
地蔵尊が現れた。
その後、この地蔵尊は足洗村の有力者だった酒屋半左衛門の屋敷の平見堂に祀られた。半左衛門は慶安4年
由井正雪の乱に加担した罪で処刑された人物で、その後、彼の屋敷も廃墟になったという。
ともあれ、平見堂は明治26年に取り壊されて、地蔵尊は長源院に遷された。しかし、長年この地蔵尊を尊崇
してきた上足洗の人々の要望で、大正5年、地蔵尊は改めて天昌寺に遷座された。
なお、この厄除地蔵尊は見られることが嫌いだとの理由で、秘仏とされている。これは、あらゆる人を区別せず
救うという、地蔵の慈悲の表れである。そのため地蔵尊は晒に幾重にも巻かれ、厨子の中に安置されている」


 弘法大師の作の地蔵尊は川原に埋もれ、連歌師宗長に発見され、由比正雪に加担した人に祀られる。
更に地蔵堂は倒壊されて他所の寺に移され、漸く大正の時代になって天昌寺で祀られるようになった。
こんな話を聞けば、地蔵尊が厄を一身に引き受けたようなものだが。ようは地蔵が信者の厄を一切引受けて
くれるという事なのか。身代地蔵と同じだな。

 境内は工事中でガタガタしていてゆっくりできない雰囲気だった。だが所詮秘仏の厄除地蔵は見る事は
出来ないのだから、境内にあった「水掛地蔵」で我慢しておこう。

 
                  天昌寺                                  水掛け地蔵?
      天昌寺の地図
 天昌寺を出て唐瀬通りに出る。この唐瀬通りを左に行けば前回歩いた麻機街道に合流する。また、右に行けば
静岡市立高校の横を通り北街道と合流する。その合流地点にある蓮永寺には、勝海舟の母親や妹、徳川家康の
側室お万の方の供養塔がある。また、私立高校の南門は徳川家達の屋敷の門を移築した物だという。
どちらも見たかったが、今、時間は3時を回ってしまった。あと5寺を廻って草薙駅に出る予定なので時間的に
厳しくなってきた。蓮永寺と田安門は今日は諦めるしかないな。

 実は市立高校の門は、今まで15代将軍徳川慶喜の屋敷の門だとばかり思っていた。
だが今日の事前調査で門の事を再度確認すると、私の勘違いだということが分かった。
「駿府藩主に任じられた徳川家達は直ちに駿府城に入ったが、翌明治2年藩籍奉還により藩知事に任命された。
公私の別をつけるために家達は城を出て、西草深町の屋敷に移り住んだ。市立高校の南門として移築されている
門は徳川家屋敷の貴重な遺構である。なお家達が田安家の出身であったことから、門は田安門と称されている」

では何故私が慶喜の門と勘違いしていたかは
「慶喜は慶応4年から静岡の宝台院で謹慎生活を続けたが、明治2年に勤慎を解かれて、紺屋町の駿府代官屋敷
(現・浮月楼)に移り住んだ。明治21年にかつて家達が住んでいた西草深町に引っ越した」
とある。
慶喜も同じ屋敷に住んだため、家達と慶喜がゴチャゴチャになってしまったのだろう。

              65番目(67番) 松龍院(愛宕)
 市立高校の裏を歩いて、またまた北街道を渡り谷津山の東端にある愛宕山霊園の中を歩く。
名前に愛宕山が付くのなら、愛宕神社が近くにあるのではないかと地図で探すと、谷津山東端のピークに
愛宕神社があった。神社は徳川家康が、京の愛宕神社から勧請されたとあるので、きっと駿府を火事から
守る火伏のために勧進したのだろう。
だが駿府も静岡もたびたび大火に見舞われ、第2次大戦では戦火にあい焼野原にされている。してみると
この神社、余りご利益はないようだ。(アッご免なさい)

 共同墓地の愛宕霊園の先は、それこそ寺の団地と行ってもおかしくないくらい寺が密集していた。
太い通りに面し11軒のお寺が建ち並んでいる。普通なら地名は寺町と名付けそうだが、まさか愛宕町か、
慌てて寺の住所を見ると「沓谷」だった。これが愛宕町だったら神仏混淆になるところだ。

 松龍院の隣にある浄祐寺の地蔵堂が、通りに面していたので覗いてみた。正面の台座の上に安置された
地蔵尊は、像全体が赤い布に覆われていて、黒光りした顔だけを見る事とが出来た。その周りには小さな
鉄製のような地蔵が何体も並べられている。
近くに張ってある紙を見ると 「水子とうば供養料 四千円 匿名の方は-----」とある。
ここも今はやりの水子地蔵なのだ。

 
       寺町通りと云いたくなるほどお寺がある                        浄祐寺の地蔵堂

 松龍院の境内の地蔵堂には、新しい子安地蔵尊と、その周りには何体かの地蔵像が祀られていた。
この子安地蔵が百地蔵かどうか分からないが、私は地蔵堂の隣にあった。座像の地蔵像を百地蔵としたい。

 
                    松龍院                           松龍院の地蔵堂
      松龍院の地図

66番目(66番) 新善光寺
 アッ私の参拝順序と百地蔵の札所番号が一致した。何か良い事でもあるかと期待したが、残念!
境内に入っても何も見る物は無く、早々に出てしまった。
通りに出ると隣の寺の三重塔が、やけに立派に見えた。

 
                    新善光寺                          蓮長院の三重塔
      新善光寺の地図

駿河百地蔵4回目-10

2013-11-21 12:11:08 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              62番目(38番) 元長寺(新駿河一国)
 来迎院の山門を出た所は、かって駿府城に荷を運ぶ小舟が往来していた横内川が流れているはずだが、今は
暗渠になっているのか、その流れは見る事が出来ない。ネットの中には「北街道の中央を川が流れていた」
書いてある物もあったので確認したかったが聞けそうな人も歩いていない。

 北街道を横断して太田町のきよみずさん通りを歩く。道の両側に商店が並び買物客や車が引っ切り無しに通る。
通りの名前がきよみずさん通りとあるので、かっては清水寺の参道だったのかのかもしれない。
同じ参道でも浅間神社の参道はアーケードで洒落た感じだが、こちらは住民相手の下町の商店街だった。

 100mも行けば清水寺がありそうな所を左(東)に曲がり、谷津山の北の麓を東に向かう。朝はこの谷津山の
南の山麓を歩いているので、このまま行けば谷津山をほぼ一周したことになる。
 元長寺の地蔵堂は参道の入口にあり、そのお堂の柱に「新駿河一国 瓦場町 南無子育延命地蔵願王尊 
三十八番 元長寺」
の板が張り付けてあった。新駿河一国38番? ここは駿河一国百地蔵の38番のはずだが
新駿河一国とは何なのだ。地蔵堂が違うのだろうか?
だが、お堂の中を覗いてみると、そこには「駿河一国百地蔵第丗八番」の板が立掛けてあった。それにしても
札所の番号が同じ「新駿河一国」とは何なのだろう。
 
 お堂には地蔵尊が馬頭観音と並んで祀られていて、馬頭観音には「明和」の文字が見える。明和なら江戸の
中期で約250年前の石仏だが、その割に痛みが少ない。建立当初からお堂の中で大事に祀られてきたのだろう。
一方地蔵尊は左手に宝珠を持ち右手に錫杖を持つ石造りの立像だが、宝珠を持つ手の下に土台のような物が
付いている。よく見れば錫杖の方も杖は後の石に付いている。
今まで沢山の地蔵尊を見てきたが、この地蔵尊は少し変わっていると思うが、何処が変わっているのかはっきり
しなかった。次のお地蔵さんと比べてみよう。
 百地蔵のHPによれば「地蔵尊の背中には、安永九年に瓦場の人々が願主となってこの像を再興したことが記
されている。もとは江戸時代の初め頃、建造中の駿府城の瓦を製造するために、三河国渥美郡から呼び集められ
てこの地で暮らしていた職人たちが、村の鎮守として祀ったものではないだろうか。」
とあった。
 この辺りの地名が「瓦場」なのは、当時ここで瓦造りをしていたからなのだろう。

 
              元長寺の地蔵堂                           馬頭観音と地蔵尊
      元長寺の地図

              63番目(48番) 長源院(三十三體全角尊)
 元長寺の地蔵堂の前の道を東に向かって行くと廃屋のような建物が目に入った。トタン板などが整理されていず
見た目は廃屋だが入口の焼香台はどっしりとして重厚さを感じさせる。新しい注連縄も張ってあるので中を覗いて
見ると、手前中央に左手の平に薬壺を捧げ持ち、右手は施無畏印(せむいいん)の形をしている仏像が祀られて
いた。手にしている物が薬壺なら薬師如来と思うが、髪の形や顔立ちは観音さんのような女性的な感じがする。
その仏像の後ろには、3段6列(仏像の後ろで明確ではなかった)の仏像が安置されていた。
これらの仏像の雰囲気は本尊の同じだが、右手の掌が正面を向いていないで、手刀のような形をしていた。
私の持参した本には、この手の形の事は書いてないが、何と言う印相なのだろう。
お堂の前に石碑があり、そこには「三十三體全角尊」とあったのでネット調べたが分からなかった。

 
             廃屋のようなお堂                            三十三體全角尊
      三十三體全角尊の地図
 廃屋のようなお堂の所を右に曲がり、山の付根に建つ長源院に向かう。
長源院の山門の前には白い石造りの阿吽の像が建ち、山門には「大森山脇 長源禅院」の額が掛かっている
立派な寺だ。それにしても「大森山脇」とは変わった山号だと思ったら、中の案内板には「大森山」となっていた。
これについて百地蔵のHPには「徳川家康が鷹狩の途中、長源院に立ち寄った際、山の麓にある同寺を指して
「山脇へ行け」と言ったという。それ以来、この周辺は「山脇」と呼ばれるようになった。」
とあった。
しかしこれだけでは「大森山脇」の説明にはならない。

 山門の欄干に龍の彫物があり「山門龍のいわれ」の案内板が建っている。
「旅の僧が手越の里で杖が倒れる方に寺を建立することを決めた。すると杖の先から龍が現れ沓谷の方に飛んで
行った。旅の僧は龍が舞い降り谷津山の麓に寺を建てると決意した。
村人達は僧を助け、山を削り、池を埋めた。ところが一ヶ所だけ水が汲めども汲めども尽きない所があった。
ある日、見慣れる老人がやって来て、村人の柄杓で水を一気に汲み干してしまった。
老人は「我は福老人である」(当山鎮守毘沙門天萬福子聖権現)と言い残して忽然と姿を消してしまった」
 だって。
山門にあった龍の彫物の写真を写したが上手く写らなかった。

 
                   長源院の山門                           長源院の六地蔵
      長源院の地図
 境内の鐘突堂の周りには、山門前の阿吽の像と同じ作りの羅漢像が何体も置かれている。羅漢像は機械で
彫ったのであろうか、表面は滑らかで細かい表情まで彫りだしている。確かに手作りの石造より出来栄えは
良いだろうが、私には何故か親しみも温かみも感じられない。

 長源院の百地蔵は地蔵堂の中に祀られいる厄難除地蔵尊で、地蔵堂を覗いてみると正面に極彩色に彩られた
地蔵像が祀られていた。木製の地蔵尊だという。
       
                長源寺の羅漢像                     長源寺の厄除地蔵尊

138度展望台から法多山へ

2013-11-20 18:50:29 | 低山歩き
歩行時間:6時間45分   休憩時間:55分   延時間:7時間40分
出発時間:8時00分   到着時間:15時40分
歩  数:  31、685歩   GPS距離:21.3km
行程表(2013-11-19
 掛川駅 0:35> 138度展望台 1:20> 腹摺峠 0:25> 県道出合 0:30> 腹摺峠 1:00> 奥の院
 0:15> 法多山  バス2:40> 掛川駅

 来年の遠州三山初詣のコースで不明な所があったので、小笠山の展望台から法多山を歩いてきました。
冷たい西風が一日中吹いていて、常に同じような方向に歩くため、右半身ばかり冷えてた一日でした。

 コースは掛川駅から富士見台霊園に向かい、霊園下の西沢池から入るコースにしました。
この道は団体歩行では何度も歩いていたが、一人では初めてでしたが、多分記憶にあるだろうと歩き出した。
しかし全然思い出してはこないで、あとで調べると結局違う道を歩いていた。
矢張り行列の中の一員で歩くとカーナビ任せで運転すると同じで、記憶には残りに難いようだ。

 与左衛門池の畔の「小笠山尾根コース」の標識の所で林道と別れ山道に入って行く。
小笠山の標高は265mと低いのに、このコースは小さなアップダウンが続き尾根道まで45分も掛かってしまった。
合流部の標識には今来た道を「久保・結縁時・掛川駅」 もう一つには「与左衛門池」とある。今日はこの
合流部で小笠山方面とは別れ、尾根を右(西)に曲がり展望台に向かう。合流部から約20分で展望台に到着。
 ここは東経138°の通過点で標識には「日本を東西に分ける中心点」と書いてありました。
眺めは富士山も見え、今までで一番良いような気がするが写真技術がないため、こんな写真しか写せません。
しかし実際はもっと雄大ですが、マー写真はこんな風に見える見本と理解してください。


                  138°展望台からの眺め

 展望台から法多山を目指し、更に尾根を西に向かいます。この尾根の北(右)側はいたる所が絶壁になっていて
山道の左側を歩けば安全だが、右側を歩くのは危険です。
この道の下は雪庇のように下が空洞になっている、などと考えだすと尚更左側に寄って歩いてしまった。
展望台から1時間20分で腹摺峠に到着。今日の目的の一つに腹摺峠の麓の入口を探す事があったので、ここから
一度下山する。標識のある太い山道を下りだしたが、少し行くと道は細くなり草や木の枝が行く手を阻む。
だがこの程度ならどうと言うことは無い。踏み跡さえあれば何とかなるだろう。ただ注意しなければならないのは
小笠山は低山といえども崖が多く脆い岩肌なので、決して踏み跡のない所は行かないと心して歩いていた。
道は切通しのような所を過ぎると沢沿いに出た。後は沢の左岸に着いた道を歩くだけで危険な所はなかった。
腹摺峠の名前は、岩と岩との間が狭く腹を摺るようにして歩く事から名が付いたというが、そんな所は無かった。
峠から25分ほどで麓の県道に出た分岐点には標識が立っていた。

 そしてそこらまた腹摺峠に向かって歩き出した。(馬鹿じゃないかと他人は思うでしょうね)
沢に沿って今下ったばかりの道を歩き始める。当然見た事のある風景だ。沢と離れる切通しもあった。道はある。
だがさっきの道とは違う感じだ。不安が湧き始めると同時に、道は両脇が岩に挟まれた所に向かって行く。
アーここが腹摺岩なのだろうと不安も消し飛んでしまった。何かさっき下った道より歩きやすい感じがするが、何故
この道をハイキングコースにしないのだろう? 理解できない。確かに小笠山東の中腹にある「六枚屏風」より
大分見劣りがするが、それでも何も無い道よりよっぽども良い。この先危険な場所でもあるだろうか、と不安も
束の間、なんと峠に着いてしまった。腹摺岩から僅か3分。変な感じ!
 腹摺岩からの道は、高御所へ下る標識の道と138°展望台からの間の所で、標識は無いがよく見れば
踏み跡があるような感じの場所でした。

      
               腹摺岩                   腹摺岩
 再度腹摺岩まで下り、どこで道が入れ替わったのか確認したかったが、まだ先もあるので諦めてしまった。
 腹摺峠から急な坂をモノレールと一緒に登る。いつも感じるが昔の人は働き者だった。こんな場所を開墾し
茶畑を造るとは。だがその茶畑も今や荒れ放題。モノレールの元は取れたのかしら。
 峠から約1時間で奥の院への分岐に出る。この分岐点には標識が無いが、道の真中に中部電力の送電線監視
「14番・16番」の案内板が立っている。そこを16番の左側の道に入れば30mほど先に奥の院の祠と銀色の貯水
タンクのある場所に出る。
 今年の初詣では、ここから法多山への下る道が分からず、寺の石垣を強引に降りてしいると、見ていた子供が
ビックリしていた。来年は新年早々そんな恥晒しはしたくない。今日はその正規の降り口を探すのも目的の一つだ。
先ず右側の道を下りて、石垣には行かずに道をそのまま下る。途中少し草が茫々に生えていたが、更に進むと
鐘突堂へと道は続いていた。これで初詣の道は解決した。

 
                  上から見た法多山                         法多山尊永寺
 次は春に予定している小笠山一周縦断で、奥の院から送電線の点検路を通り、直接次の尾根に出る道の調査も
したい。そこで再度奥の院まで登り返し、今度は左に延びる道を下った。
さっきの右の道は目印は何も無かったが、この道は目印のテープが何ヵ所もあった。多分道は次の尾根に向かって
いるだろう安心しながら下る。
急な下りになるとロープも張ってあったが、このロープは寺で張ったのか、それとも中電? 
否そのどちらでもなさそうで、きっとハイキングコースの安全のために張ってくれたのだろうと、更に安心をする。
ところがロープが終わった少し先から道は草に覆われてしまった。だが道はある。5mほど草の中を歩き、出た
先は無縫塔が沢山立っている墓の上の広場だった。ここは違うと行ったり来たり目印を探すが見当たらない。
もう一度奥の院に戻る覇気も無く、次の尾根に向かう道の調査は諦めてしまった。

 これから先の道は点検路から次の尾根に行く積りだったが、道が分からなければ仕方ない。
ここからはエコパを通り掛川駅に帰るしかないだろう。
法多山の静かな参道一人下る。この道もあ40日もすれば大混雑になる。神様仏様だって依頼主が多ければ手抜きも
するだろうから、今日のような静かな時に願い事をした方のが効き目がありそうだ。
だいたい初詣は寺に関係あったのだろうか。イメージ的には神社の風習を寺が便乗しているようにも感じるが。

 アレー法多山の仁王門の前の様子が変わった気がする。以前は仁王門に向かって左側に「法多山尊永寺」と彫られた
石碑が建っていたが、今は無い。勘違いかな?

 
                法多山参道                             法多山仁王門

 エコパの中のビオトープに一度も行った事がなかったので行ってみたが大した事はない。次に散策路と書かれた
方に進んでみると、山に向かい何処までも階段が延びている。後悔し始めたが今更戻るの癪に障ると前に行く。
何とか下に降りたと思ったら、今度は案内板に見晴台があると書いてある。そしてその先は掛川方面の駐車場に
なっていた。更に先は山の中に向かい道は終わっている。ヨシそれでは駐車場までこの道を歩いてみようと、
舗装された道を進む。道はエコパの南側の小笠丘陵の中腹を縫うように進んで行く。下の道を歩けば直線で登り
下りも無かったのにと、またもや弱気の虫が鳴きだしたが、ともかく駐車場まで歩いてみよう。
 見晴台からエコパの写真を撮り、さらに車道を進むと右側に駐車場が見えてきた。だがそこに行く道らしい
道が無い。エイ!もっと先まで歩いてみようと行ったは良いが思い出した。ソーダ案内板には道は最終的には山の
中で終わっていた。若しかすると、この道は山に向かっている道か?不安に感じながらもこの際道が終わる所まで
歩いてみようと居直ってしまった。それが良かったのか、暫く行くと道はカーブしたかと思ったら、その先に駐車場が
見えていた。アー良かった。

 エコパからは、午前中に確認した腹摺峠入口の前を通り掛川駅に向かった。
山の中では紅葉は無かったが、今日の最後に紅葉を見る事が出来た。場所は掛川駅構内でした。

 
               見晴台からエコパ                          掛川駅の黄葉

駿河百地蔵4回目-8

2013-11-19 05:43:16 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              60番目(46番) 水落地蔵堂(城壕用水)
 国分寺を出てからサテどうしようと迷ってしまった。実は次の予定の水落地蔵堂も場所が分からなかった。
百地蔵のHPにも何も書いてないし、ネットでもヒットしなかった。ただ水落は御器屋町と違い水落町の地名は
今も残っているので兎も角そこに行くしかない。一先ず駿府城の外堀に出て堀沿いに水落交番まで歩いてみよう。

 この水落という地名は駿府城の堀の水が横内川に流れ落ちる場所の事で、現在の水落交番の場所だという。
私の手元に「城壕用水沿革誌」という分厚い本がある。これは駿府城の堀の水の水利権を有していた城壕用水
土地改良区が、その水利権を静岡市に譲渡したのwp記念して発行した本で、かなり気になる事が書いてあった。
 駿府城の堀の水源は安倍川から引いていたと思っていたが、沿革誌によると
「駿府城は唯、単なる軍略的城郭として存在したのではなく、家康が治世を忘れなかった証として、自然湧水
する城壕の用水を、府中近郷の農民に水利権と認めている」
と書いてある。
堀の中に水が湧いていとは、安倍川の伏流水が湧きだしていたのだろうか。さらに「城壕に蛙が繁殖して、
家康公は眠れない一夜を送った」
とは、まさに堀と田圃が直結していた証だろう。

 この城壕用水は田畑の用水だけでなく運河の水としても利用していて、駿府城二の丸には全国的にも珍しい
船(水)櫓門があった。これは海から直接駿府城に物資を運び込むための櫓で、ここから二の丸水路を経て
外堀に出て、さらに外堀から水落を通り横内川に入る。そして上土の巴橋付近で巴川に繋がっていた。
巴川の河口には清水湊があるので、駿府城から駿河湾は水路で結ばれていたいえる。
ただ水落から巴川の間を流れれる横内川は、川幅が狭く小舟しか通れなかったため、拡幅工事を行ったが
「水多くして掘られ間敷」と江戸時代に書かれた「当代記」には書かれている。
麻機沼を源にした巴川は、河口の清水湊までの高低差が、わずか7メートルしかなく、「九十九曲り」とも称され
ていたようだ。このため巴川は各所で蛇行していて、流域は湿地帯が多く幾度もとなく氾濫したという。
運河の水は欲しいが、多すぎても困ったのだろう。

 もう一つ駿府城について紹介する。城壕用水沿革誌によれば駿府城の別名は「浮島城」とか「霧隠城」と称されて
いたとある。その理由は「麻機沼と賎機沼、谷津山や有度山を要障とにし、安倍川の本流、支流を西南北に廻らした
地形にあった」
とある。現在駿府城を眺めても、地図で見ても、とても浮島とは思えないが、治水工事が思うように
出来なかった時代はそんな状態だったのか。それにしても駿府城が浮島城とか霧隠城とは初めて聞いた。

 
               駿府城二の丸水路                            駿府城外堀水落付近
      水落交番の地図
 本題に戻ろう。御器屋町と違い水落は現に地名が残されているのだから少しは探さなければと、常葉学園の間の
道を入ってみた。この常葉学園はピンクレディーがデビューしたとき在校していた高校だ。当時に比べ倍以上大きく
華美になっているのを見ると、あれで入学生が増えたのだろうか。
余り先に進むと水落町を出てしまうので、途中で右折した。水落公園があったが地蔵堂は勿論、地蔵像も無かった。
突き当りを右折して、さらに右折して歩くが住宅ばかりで緑地も無い。きっとこの辺りも戦災で焼野原になったので
探すのは無理かもしれないと、水落町の隣にある大田町の来迎院に向かった。

              61番目(47番) 来迎院(宮城野・信夫)
 水落町から適当に来迎院方向に向かうと来迎院の裏に出た。併設された幼稚園の横を通り来迎院の山門から
中に入る。早速駿河百地蔵の標札の張られたお堂が目に付き中を覗くと、中央に不動明王を配し、脇には2列に
渡り、色々な仏像を祀ってある。釈迦如来、大日如来、普賢菩薩、阿弥陀如来等々。名札が付いていたので分か
るだけで、後列にある仏像の名は分からなかった。その中に地蔵菩薩があるのかな?
中央の阿弥陀如来の前に「由比民部之助正雪公之霊位」と読める。ここで由比正雪の名が出てくるとは思いも
しなかった。境内にあった寺の由来には「十三仏堂は、もと安倍川の畔にあった正念寺から移したもので、由比
正雪をめぐる宮城野・信夫の物語を伝えています」
と紹介されていた。
これでこのお堂が十三仏堂だと分かり、十三仏とは「冥界の審理に関わる13の仏で、十三回の追善供養を、
それぞれ司る仏様」
だそうだ。尤もこれは後追いの知識で見ているときはそんな事は知らなかった。
更に宮城野・信夫なんて初めて聞く名前だったが、調べてみると人形浄瑠璃「碁太平記白石噺」の通称で、その
主人公姉妹の名前だった。この話が中々面白いので紹介します。

「仙台藩領白石逆戸村に与太郎という百姓がいました。ある日与太郎は二人の娘を連れて田の草をとっていました。
そのとき侍の志賀団七が通りかかりました。たまたま妹信夫が投げた田の草が、団七の袴に当たってしまいました。
団七は烈火のごとく怒り、信夫を切り殺そうとしました。与太郎は土下座して娘が悪かったと謝りました、団七は聞く
耳を持たず、その場で与太郎を切り殺してしまいました。姉妹は命からがら我家に逃げ帰り、病気の母親にその話を
すると、母も与太郎の後を追うように亡くなってしまいました。

 姉妹は親の恨みをはらすため、団七を討ち取る決心をして、一流の剣術家に武術を習うことにしました。
そこで二人は親の形見の土地を売って、江戸の剣術家、由井正雪を訪ねました。
 最初姉妹を相手にしなかった正雪でしたが、玄関払いを何度もしても、願い出る姉妹の熱心さに心が動かされ、
話を聞いて弟子にしてくれました。正雪は姉を宮城野、妹を信夫(しのぶ)と命名し3年の間に仇討をさせることを
約束しました。

 その日から、正雪は宮城野に鎖鎌と手裏剣、信夫に薙刀を指導しました。そして5年間の修行の末、姉妹は
門弟の中で一番に成長して、ついに仇討をするため、門弟3人に付き添われ、白石へと向かいました。

 白石に着いた姉妹は「父母共に亡き今、生きる術もないので、団七様のお手に掛かって死にたい」仙台藩に
申し出ると、団七の無道ぶりを知っていた藩では、伊達家を通じ幕府に伺いいをたてました。
普通ならば認められない仇討でしたが、幕府も孝女であると特別に認めてくれました。

 寛永17年(1640)春まだ浅い2月。白石川六本松河原が仇討の場所となりました。仙台藩の侍150人が周りを
囲い、見物客は1000にもなりました。
 深とした緊張した空気が張りつめた中、宮城野・信夫は正雪から贈られた着物を着て、鉢巻をきりりと締め
前に出ました。一方、志賀団七は2尺5寸の大刀を帯び、華やかな出で立ちで登場しました。

 ドーン、ドーンという太鼓の合図で立ち会いが始まりました。
まず、信夫が薙刀で戦いましたが、勝負がつかず、続いて宮城野が戦いました。宮城野は鎖鎌の分銅を振って
戦いました。その鎖が団七の腕にからまったとき、信夫の薙刀が団七の両腕を切り落としました。
姉妹は、「父母の無念をはらしたまえ」と声高く叫び、団七の首を切り落としました。

 姉妹は、親の仇とはいえ、武士を切った罪を詫びるため、その場で死のうとしました。それを止めようと
する人々の声によって思いとどまった姉妹は、髪を切り駿府の弥勒寺のそばに庵を建てました。
宮城野62才、信夫64才で亡くなるまで、仏に仕えました。」


 由比正雪の出身の地駿河に住まいながら、この話を聞くのは初めてだった気がする。
安倍川橋の袂にある安倍川緑地に、この話を紹介した案内板はあるのだろうか。
この話はもっと静岡県民に知ってもらいたい気がする。

 振り返ると山門の横に地蔵堂があった。5段になった棚には大小の同じ形の地蔵像が並べられている。中央
上段の大き目な地蔵像に「水子地蔵」と書かれているのを見ると、他の地蔵は信者が奉納したようだ。
では百地蔵の本尊はどれか? マーいいか。面白い話を知っただけでも、この寺に寄った甲斐があった。

 
                  来迎院                             地蔵堂と道祖神
       来迎院の地図 

どうだん原の紅葉

2013-11-18 12:20:57 | 低山歩き
島田市の千葉山中腹にある「どうだん原」の紅葉に行ってきました。
今日は珍しく一人ではなく、近所の同年代の知人4人と一緒の山行です。
コースは以前から密かに老人用と考えていた、島田市のコミュニティーバスを利用したコースで、
行と返りにバスを利用し、しかも歩き終わったら日帰り温泉に入る事も出来ます。

歩行時間:3時間05分   休憩時間:45分   延時間:3時間50分
出発時間:10時00分   到着時間:13時50分
歩  数:  13、730歩   GPS距離:7.8km
行程表
 島田駅 バス0:20> 尾川 1:40> 智満寺 0:25> 千葉山 0:20> ペンション 0:15> どうだん原
 0:25> 田代温泉伊太和里の湯  バス0:30> 島田駅

                   

 今年の紅葉は昨年より1週間ほど早い感じで、昨日(17日)は盛りの終盤といった感じでした。
後もっても今週末でしょうので、どうだん原の紅葉狩りを予定している人は、早いうちに出掛けた方が
良いでしょう。

 コース途中には標識があるが概略を案内します。
 島田駅から尾川までは島田市のコミュニティーバスの大津線天徳寺方面行に乗り、尾川で下車します。
バスの時間は8:26 9:36 を利用するとよいでしょう。
歩きたい人は駅から尾川までは4km弱で1時間みれば十分です。
     尾川停留所の地図
登山口は停留所の前にあり、そこからは道標や丁仏参道の石仏を辿って智満寺に行きます。
智満寺から奥の院のある千葉山の登りは、このコースの一番の難所ですが、山頂には国の天然記念物に
指定された「十本杉」があるので、是非登ってください。

山頂からペンションへは、奥の院や雷杉などのある道を進みます。途中滑りやすい斜面があるので注意の事。
鞍部まで下り、休憩所とどうだん原の分岐に出たら休憩所側に行きましょう。こちらには見晴らしの良い場所や
昼飯場所に丁度良い場所があります。今年は休憩所からペンションに行く道路越えの吊橋が通行止めだった。
だが道路に下るだけで何ら支障はありません。

               
                          ペンションどうだん
 ペンションの前を通って伊太丁仏仏参道をどうだん原まで下ります。こちらも石仏や標識があるので明確です。
紅葉を見終わったら更に丁仏参道を下り、最初の分岐を尾川・伊太方面の左側の道に入ります。
次の分岐の標識で伊太太丁仏参道と別れて、尾川方面の左側の平らな道を行きます。
丁仏参道を下っても温泉には行けるが、参道入口から温泉までは車道のきつい登りになります。

 分岐から10分も歩くと、山道の前方が開け、左に広場と階段が見え、正面に道標が立っています。
道標には「右・伊太和里の湯。左・尾川」となっているが、この道標を無視して左に曲がり広場に降りてください。
広場の先には太い車道が走っているので、ここを右に下って行けば伊太和里の湯になります。

この道標は2年ほど前に建ったのですが、今までは地形的に納得が出来ず歩いていませんでした。
ところが昨日は「標識があるのだから」の声に反論できず歩いてみました。
歩きだし温泉の駐車場が見えた時には、矢張り標識があっていた、と思ったが、そこに行く道が無い。
仕方なく更に進み露天風呂の目隠し施設を通り過ぎても温泉に行く道は無かった。結局温泉を通り過ぎ
大型太陽光発電施設の所の橋を渡り、車道に出てから温泉まで登り返してしまった。

 大津自治会で建ててくれた標識だが、温泉の駐車場に出る道を造るか、さもなければ標識の伊太和里の湯の
表示を消すかして欲しい。

               
                           田代温泉伊太和里の湯
      伊太和里の湯の地図
 田代温泉伊太和里の湯から島田駅と金谷駅にバスが出ている。午後は14:00、16:00、18:00があったが
詳細は島田市のHP参照してください。
まだまだ歩き足りない人は今来た車道を戻り、尾川経由で島田駅に歩くと良いでしょう。距離が約7.5kmで
1時間30分程度で行けます。
もっと力が余っていたら矢倉山経由でバイパスまで縦走できますが、こちらは山道で距離は同じようなものだが
時間は2時間30分は掛かります。

駿河百地蔵4回目-7

2013-11-15 17:29:26 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              57番目(1番) 顕光院(火傷地蔵)
 いよいよ駿河百地蔵の1番札所顕光院だ。顕光院は駿河百地蔵を制定をし、百地蔵のHPを作成した寺でも
あるので興味津々かつ期待の大きい寺だ。
顕光院は大鋸町の玄忠寺から大工町を通り抜け、次の研屋町の街中にあった。それにしても昔の地名は面白い。
大鋸町の先には通車(とおりくるま)町まであるのだから、町名だけで」木材の流れが分かってくる。
かって安倍川奥で伐採された木材は、筏に組まれて安倍川を下り陸揚げされる。荷車に積まれた木材は、通車町
を通り大鋸町で降ろされる。ここで大鋸により板や柱になって、隣の大工町に運ばれ加工される。大工町の先には
鋸や鉋の刃砥師が住む研屋町がある。さらにその近くには桶屋町まである。そしてこれらの職人町の先には、木材
を大量消費する駿府城や浅間神社があるのだから文句なしだ。地名もこうなっていれば面白く覚えやすいのだが、
最近多い○○丘とか○○平では、何処も同じように感じてすぐ忘れてしまう。

 1番顕光院には失礼ながら墓地から入ってしまった。何しろ寺によっては山門から入ろうとすると、グルッと
廻らなければならない所もある。今寄ってきた玄忠寺も墓地には出たが、入口が分からず随分遠回りをさせられた。
1番札所の顕光院では色々聞きたい事はあるが、余り余計な事は言わずにおこう。ただ岡部朝比奈の奥の18番の
芙蓉庵には地蔵尊は安置されていず、その先の峠で「峠のお地蔵さん」として祀られている事だけは連絡しようと
思っている。しかし残念な事に境内には誰も居ず、何の話も出来なかった。

 境内に百地蔵1番の延命地蔵が祀られていた。期待していた地蔵像とは違い、新しい機械彫のお地蔵さんだった。
だがこれも仕方ないのだろう、昭和20年の静岡空襲により市内の建物は殆ど消失してしまったのだから、寺といえ
ども仏の功徳により助かるなんて事は有り得ない事だから。
だが、石でできた石仏は猛火にあうとどうなるのだ、熱で割れてしまうのか、それとも表面は黒焦げになるが、
形は残っていいるのかもしれない。もし形があるのなら、その地蔵を「火傷地蔵」名付けて祀ればどうだろう。
案外お参りに来る人が多かったりして----。信心の気持ちがない私は、すぐ罰当たりな事を考えてしまう。

     
                   顕光院                         百地蔵一番の延命地蔵
      顕光院の地図

 顕光院の山門の近くに古仏を集めた塚がある。その中に黒い地蔵像も安置されていた。若しかしてこの地蔵が
元の百地蔵の本尊なのか? 体は黒い染みが染みついているが顔は綺麗な状態だ。この黒さは単なる経年劣化で
付くような色ではない。明らかに何かの作用で黒くなったものだと思える。よく見ると後ろに安置されている石仏の
中にも同じように黒くなっている物もある。
アー誰かに聞いてみたい。物欲しげに境内をウロウロするが誰も出てこなかった。

 古仏の塚の中に手の組み方の表現が変わった地蔵像があった。両手を逆三角で表し、その上には大きな宝珠
がのっている。遠目で見ると品さえ感じられる地蔵像だった。
他にも、一見すると死者が額につける三角形の布を付けたような石仏もあり、これには「童女」と彫跡がある
ところから、娘の供養に建てた石仏なのだろう。
中々気になる石仏が多く、このままでは勿体ない気もする。せめて案内板でも立てて欲しい。

  
       黒くなっている地蔵像           品がある地蔵像            童女の石仏

              58番目(56番) 西蔵寺
 西蔵寺は浅間神社の西側にあるので、久し振りに浅間通りを歩いて行くことにした。先ず通りの入口に建つ
通称「赤鳥居」と秋葉神社の常夜燈をパチリ。この常夜灯と前回の3回目で紹介した安西地蔵堂の常夜燈の
二つが静岡市の有形民俗文化財に指定されている常夜燈だそうです。
 久し振りに歩く浅間通りだが余り人は歩いていない。まして観光客らしい姿はなかった。富士山が世界遺産に
登録され、地元に浅間神社には見学客が増えて村山浅間神社では駐車場を新設するとか。確かに世界遺産に
登録されて2・3年は観光客は来るだろうが、その後はどうだろう。多分以前より少しは多いが閑古鳥が鳴くよう
になると思う。同じ浅間神社でも、国指定の重要文化財がゴッソリあり、見所も多い静岡浅間神社が、こんな姿
なのだから。いやそれとも見学客は貸切バスが多いから浅間神社自体は、もっと観光客が多いかもしれないな。

 
              秋葉山常夜灯と浅間神社の赤鳥居                     大歳御祖神社

 西蔵寺は浅間神社と片羽町の交差点を挟んだ所にあった。入口に赤い大きな看板があるので、ここに寺が
あると分かったが、看板が無ければ探すのに苦労しそうな寺だった。
普通のビルに見えるので少し入りずらいが駐車場の先に墓地が見えたので入って行った。その正面に美術品の
ように地蔵尊を祀ってあった。頭部は新しいが胴体の部分は色が変わっている。だが先ほどの顕光院で見た
黒い色ではなく茶色のような色をしている。この地蔵も戦災で焼けたのだろうか? 案内板も人も見えなかった。
この地蔵像を百地蔵の本尊にして先に進もう。

      
                      西蔵寺               頭部と胴体の色の違う地蔵像
      西蔵寺の地図

 サテサテ次の御器屋町の地蔵堂は、前回廻る予定を今回にしたのだが、その所在地は結局分からなかった。
御器屋町の地名も現在はなく、ネットで調べた結果、浅間神社の東側で西蔵寺の対になる辺りが御器屋町だと
分かった。ネットの地図にも御器屋町鮨とか陶器店もあるから間違いないだろう。
旧御器屋町は賎機山東側の麓道、麻機街道の開始点の所だった。そこの道端には御器屋町の記念碑が
建っていて、そこには 「御器屋町の町名は、江戸時代の初めに御器(食物を盛る蓋つきの椀)を作る職人が
居住していた事に由来する。----- また、町内にはかって以心寺という寺院がありました」(
概略)となっている。
町名は「器」と云う字で大体の想像は出来たので、陶器店はその末裔ではないかと想像していた。それは良い
のだが肝心の地蔵堂の行方は分からない。文中にある「以心寺」にあったのだろうか。
訳も分からず歩いても仕方ないし、静岡大火や戦災で途絶えてしまった可能性が強い。諦めるしかないだろう。

 オヤー「子安観世音」の石碑が建っている。これが子安地蔵か?石碑の後ろの建物は「老人つどいの家」
ある。ここなら何か分かるかもしれにと思ったが、入口の階段は鎖で塞がれていた。矢張り諦めるしかないな。

       
        御器屋町の記念碑                    記念碑の前の老人つどいの家
     旧御器屋町記念碑付近の地図

 次の水落地蔵堂に行く前に浅間神社に寄って、神馬の像を見る事にした。何時もは見向きもせず通り過ぎていた
木馬だったが、3回目の手越高林寺の木馬堂の白馬が 「駿府大火の際に、浅間神社から逃げ出した白馬」 と
なっていたので、こちらでは何て書いてあるか興味があった。
「その昔、浅間神社が火事になったとき、二頭の木の神馬が、三保明神に逃げてしまいました。そして、火事が
おさまると一頭は浅間神社に戻ってきましたが、もう一頭はそのまま三保明神にとどまったと伝えられています」
(ちゃっきり節の歌詞にもでています)
となっていた。
こんな事が分かってもどうと言うことは無いのだが、これはこれで嬉しくなるのだから変な性格だ。
ところで、この神馬の事がちゃっきり節に出てくるとあったが、どの部分だろうと調べてみた。北原白秋作詞で
静岡鉄道のCMソングのちゃっきり節は、静鉄のHPには4番までの歌詞が載っていたが、その中に神馬に触れて
いる部分は無かった。ここれはじょれで面白い。

       
                   静岡浅間神社                         神馬

 浅間神社を出たが、前回暗くてよく見えなかった日限地蔵をもう一度見てみようと、再度安西寺と国分寺に
廻った後、水落地蔵堂に行く事にした。

駿河百地蔵4回目-6

2013-11-14 17:05:12 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              54番目(62番) 善然寺
 54番目にお詣りする善然寺は、宝台院を出て駿河町通りを北に向かうのだが、途中には常磐公園や七軒町
通り、人宿町通り、新通りなど懐かしい通りを幾つか渡って、本通りの手前の細い道を入った所にあった
白壁に赤い山門がスッキリ映る門を潜り境内に入ると、本堂の横に地蔵尊を中心に住職の墓なのか無縫塔が
何体も並んでいる。ここの寺の百地蔵についてはHPには何も書かれていなく、他に地蔵像も見当たらないので
この地蔵像を百地蔵にするしかない。他の見る物も無いので早々に退出することにした。

 
                   善然寺                            善然寺地蔵尊
      善然寺の地図

              55番目(2番) 長善寺
 本通りを渡り次の通りを、西に少し入った所に長禅寺はあった。この道をあと500mも西に行けば、3回目に
寄った浄国寺になる。3回目の時の当初はこの長禅寺を含めた、この辺りの寺を全部廻る予定で計画した。
だがここに寄って行ると、安倍川奥にある新光明寺や、麻機の円光院に行けなくなってしまう。
それで仕方なく4回目に廻るよう変更していた。結局3回目の最後は暗くなってしまい、最後の1ヶ所は中止
したのだから、それで正解だった。しかしこの辺りのルート作りは中々頭を使ってしまった。
それは、この百地蔵を制定した時も悩んだようで、善然寺は62番で長禅寺は2番になっている。しかも1番と
2番の間にあって、次に寄る玄忠寺は61番になっている。
これは私の理解力では善然いや全然理解できなかった。

 長善寺の本堂は2階にあり中は覗きにくいが、地蔵堂は境内にありお詣りする事が出来た。
中にあった地蔵像は、漆喰作りの彩色されてた地蔵で、余りにもスッキリしすぎていて有難味が薄く感じた。
抱いている子供は現代風な顔立ちで黒い頭髪、しかも縁取りで模様も入った前垂れをしているので、まるで
玩具のような感じだった。イヤイヤそんな事を言っては罰が当たる。中々良い子育地蔵様でした。

 
                   長善寺                            長善寺の子育地蔵
      長善寺の地図

              56番目(61番) 玄忠寺(大鋸町)
 今日は静岡駅から東に向かい、日本平の麓で方向を変えて西に向かっていた。それが長禅寺からは、また
東に向きを変え草薙駅に向かう。最初は線路の近くを小回りに、そして今度を大回りして東に向かう。
長善寺から玄忠寺は距離も近く、地図上でも簡単に行ける筈だった。ところが何を勘違いしたのか玄忠寺の裏を
歩いていながら、その寺を違う寺と勘違いしてしまった。本来なら300mもないのに往復2kmは歩いてしまった
だろうか。途中で余りに遠いので歩いている人に「大鋸(おおのこ)町の玄忠寺は何処でしょうか?」と聞いてみた。
「おおのこちょう?? アーおおがまち(大鋸町)の事ですか。ここは四番町だからもっと北ですね。
この道を北に行って、太い土手通りを越した所に、お寺が2軒あるので、そのどちらかだと思うので、近くでまた
聞いてください」
 とのことだった。しかし大鋸(おおのこ)がおおがと言うことは、鋸がと読むとになる。
静岡県には他にも 田牛=とうじ、船明=ふなぎら、月見里=やまなし、など難読地名があるが、ここの大鋸町
も地元の人しか読めないだろう。

 玄忠寺の境内に入ると「ルンビニー保育園」と変わった名前の保育園があった。
お寺の併設保育園だと、梅花とか瑠璃とか何となく抹香臭い名前が多く、カタカナの名前など初めて聞いた。
しかもルンビニーなんて意味も分からない。こうなると調べずにはおれず、調べてみるとルンビニーとは
「=仏教の開祖釈迦の生誕の地」なのだだそうです。矢張りお寺幼稚園だった。
 玄忠寺の本堂を見ると、何となく住職の趣味が分かるような気がする建物で、寺というより教会と呼んだ方の
が似合いそうな本堂だった。これで境内にキリシタン燈籠とか、キリストに似た地蔵でもあればバッチリだが、
残念ながら境内には何もなかった。
本堂が開いていたので中を覗くと金色に輝いている釈迦如来の立像が祀られていた。

 
                   玄忠寺                         玄忠寺本堂にあった仏像
      玄忠寺の地図

駿河百地蔵4回目-5

2013-11-13 09:36:03 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              52番目(32番) 崇福寺(鯖大師)
 八幡山を下り静岡駅南地区を東西に貫く南幹線に出たら、左折して西に進む。静岡駅に行く稲川交差点の細い
道を入った所に52番目の崇福寺があった。 
崇福寺の百地蔵について、HPには簡単に「不座」と書かれているだけだったので、写真を写して次に向かおうと
思っていた。ところがどうして境内には接待所があり、大量生産型だが子安地蔵も六地蔵もあった。
山門には「鯖大師霊場」の石塔が建っていて、この寺が真言宗だと判断できる。境内には右手には鯖を手にした
弘法大師の像もあった。

 
               崇福寺                                鯖大師像
      崇福寺の地図
 鯖大師とは、四国遍路番外札所の八坂寺のことで、通称鯖大師と呼ばれている。そこに伝わる話として
「空海(弘法大師)が八坂八浜を訪れた時に、塩鯖を馬に背負わせた馬子が通りがかった。空海が塩鯖を所望した
ところ、馬子は口汚くののしり断った。空海は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれで馬の腹や(病)む」と詠んだ。
すると、坂の所で馬が急に苦しみ動かなくなった。慌てた馬子は空海の所に戻り、鯖を差し出し馬を治して欲しいと
懇願した。空海が加持水を馬に与えながら「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれて馬の腹や(止)む」、「くれで」
「くれて」と1文字変えて詠むだけで、馬の苦しみは治まった。
さらに空海が塩鯖に加持祈祷を行い、海に放ったところ塩鯖は生き返り泳いで行った。感服した馬子は空海の
弟子となり、この地に空海から譲り受けた行基像と空海像を祀り「行基庵」と名付けた」
その庵が八坂寺だそうです。

 この話に出る僧は、空海と行基の説があるようで、行基説では歌の「大師」「行基」に変わり、当然祀られた像は
行基の像になっている。どの道、伝説上の話だが、もし僧が空海だったのなら、建てた庵の名前は「空海庵」では----

 
              大師堂の鯖大師                            子安地蔵と六地蔵

 本堂の中でご詠歌の練習をしているのか、何度も同じヶ所を繰返し詠っていた。ここのご詠歌は依然聞いた事の
ある御詠歌と違い、歌詞が分かり易く、節も今風な感じだ。御詠歌にも流行り廃りがあるのだろうか?
大師堂には「南無大師遍照金剛」の赤い幟が立ち、隣には接待所がある。まるで四国遍路に戻ったような感じに
なったが、誰も居ない接待所には入って行けなかった。

              53番目(31番) 宝台院(応声教院)
 静岡駅の西側のガ-ドを潜り国道1号線に出る。これで旧静岡市の駅南地区の遍路は終わったが、今日はまだ
後17ヵ所も残っている。時間は12時だが果たして廻りきれるだろうか、マー心配しても仕方ない。

  
 鯖大師御影                  双体わらべ?                    ?
     
 宝台寺は塩の道で遠州菊川の応声教院に寄ってから少し気になっている事があった。応声教院の案内板には
「この山門は、徳川三代将軍家光が,、生母追善供養のため、静岡市宝台院の山門として創建されたもので、
八脚門の桃山時代の風格を持つ、東海地方第一の山門であります。
大正7年宝台院より当山に移築され、小笠郡下で最初に国の重要文化財として指定を受けました」
とあった。
この案内板を読んで、すぐ疑問に感じたのは徳川家光の生母は、あのTYドラマにもなった「江」で、織田信長の
妹の市の方の娘だったはずだ。江は家光の親の二代将軍秀忠の妻で江戸城で生活をしていた。なのに江には
縁も所縁も少ない駿府に墓を建てるとは信じられなかった。
気になって宝台院のHPを見ると
「宝台院は、徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)の菩提寺です。---- 後年将軍職についた秀忠は、母の
ために盛大な法要を営み、その霊を慰めた」」
となっていた。
この事は菊川市の案内板の誤表示に過ぎないが、も一つ気になるのは国の重要文化財の山門についてだ。
この件について、宝台院のHPには何も触れて無く「大正7年米騒動で境内に約1,200人の民衆が集まる。」
書いてあるだけだ。
さらに宝台院のHPを引用すると「江戸増上寺、駿府宝台院は徳川家当用の菩提寺となり、十万石の格式を
与えられました。また、代々の住職が参内上洛の時は、常に紫の衣を着るべしとの綸旨が下されました。」
「昭和15年の静岡大火災で宝台院(本堂国宝建造物)の堂宇全部が灰に帰しました。」

これだけ由緒があり国宝だった本堂と、対の関係になる重要文化財級の山門だけを、他所に移転するなんて
事があるのだろうか。
さらに不思議な事に宝台院がこの事に触れて無い事だ。もしも米騒動の時に集まった暴徒が、山門を破壊した
ため、宝台寺は山門を建て直し、元の山門の材料を応声教院に譲渡したとしても、その記録は書くだろう。
この疑問を今日宝台院で確かめるつもりだった。
だが残念ながら境内には誰もいなく、本堂は宝物館の入口になっているので、質問だけして宝物館に入らない
わけにはいかない。時間も無い事から今回は諦めよう。

 
                   宝台院                               西郷局(お愛の方)之墓

 宝台院は創立時の境内坪数は約9,700坪あったというが、現在はこじんまりした境内になっていた。
その境内には徳川慶喜公謹慎之地の碑や、西郷局(お愛の方)之墓、キリシタン灯篭など気になる物あり、
そして百地蔵の本尊の地蔵は、新しい祠の中に、新しい百地蔵の標札と共に安置されていた。

      宝台院の地図
      
                   キリシタン灯篭                      延命地蔵