はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

安倍七観音1-6

2014-10-31 10:14:22 | 寺社遍路
歩行記録                                           2014-9-27
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間30分   延時間:11時間15分
出発時間:5時55分   到着時間:17時10分
歩  数:  52、824歩   GPS距離38.2km
行程表
 安倍川駅 0:45> 徳願寺 0:30> 建穂神社 0:10> 建穂寺 1:20> 増善寺 0:45> 西ヶ谷運動場
 1:50> 法明寺 1:00>  新東名 1:55> 浅間神社 0:30> 静岡駅 

                      増善寺(今川氏親)
    
              ハナミョウガ                       ヤブミョウガ
 次もまた気になっていた「ハナミョウガ(花茗荷)」「ヤブミョウガ(藪茗荷)」
この二つは今までどちらもヤブミョウガと思っていたので、「はぐれのHP」 にはヤブミョウガの項にゴッチャにして
紹介してしまっていた。それが今年の春、大崩山塊を歩いていて、紅白のまだら模様に咲いた花を確認したのに
次いで、夏には白い小さな花と黒い実の付いたのを見つけた。更にその近くには同じような葉の根元から緑の丸
い実を付けたものもあった。この二つが同じ名前の訳はないと、ネットの植物図鑑で探したが分からなかった。
だいたい植物や鳥を辞典で調べるのは大変で、色や形で分類してあっても、見た時のイメージが人によって違う
ので中々目的物に辿り着けない。今回は「高草山・低山の四季博物誌」の索引に、ヤブミョウガと似たような名前の
ハナミョウガを見つけた事により、その違いが分かった。
「ヤブミョウガ・高さ50-100cm。葉の長さ15-30cm。和名は葉がミョウガに似ていることに由来する。茎の先に長い
  花茎をのばし、数段に白い花を輪生する。花は白色で直径7-10mm。」
「ハナミョウガ・高さ30-60cm。葉は長さ15-40cmで。和名は葉がミョウガに似て花が美しいことに由来する。
 10cm以上に伸びた花茎に穂状の花序をつける。花は白色に紅色の筋が入る。果実は薬用とされる。」

どちらも名前の由来が茗荷に似ているのだから、私が混同してしまうのも無理はない。とも思うが、違いが分かって
から見てみると、明らかにその違いは明確だ。先ず花や実の付く場所が明らかに違っていて、ヤブミョウガは茎の先
(葉の上)に咲くのに対し、ハナミョウガは葉の茎と違い、それ専用の茎に花や実が付く。更にハナミョウガは1本では
生えずに、一固まりでまとまって生えている。これらの事を注意すれば以後は混同する事は多分ないだろう。

 
              増善寺山門                           増善寺本堂
 林道が終わり市道に合流した先に増善寺はある。
その山門の前に「顕彰 曹洞宗大本山總持寺元輪番地」と刻まれた石碑が立っていた。元輪番地? 
またまた知らない言葉ができた。早速調べてみると元輪番地とは
「曹洞宗大本山總持寺の正住(住職)は輪番制で就いていて、正住となる資格のある住職のいる寺を輪番地と
呼んでいた。この輪番制も次第に名誉職化し、明治維新後に廃された。」

と、云う事は、増善寺から總持寺の正住(住職)になった和尚がいるという事だろうか。
今は山間の寺に過ぎないが、かっては七堂伽藍を備え曹洞宗の歴史に大きな足跡を刻む寺院であったのだ。
そんな増善寺の事を門前の案内板は、次のように記していた。

 「慈悲山(じひざん)増善寺  増善寺は白鳳22年(681)法相宗の始祖道照法師が開いた真言宗の寺で、当時は
「慈悲寺(じひじ)」と呼ばれていた。明応9年(1500)、曹洞宗に関心の深かった駿河の国守今川氏親(うじちか)は、
辰応性寅(しんおうしょうえん)禅師に帰依し、性寅を開山として七堂伽藍を整え再興し、曹洞宗に改め今川家官寺
増善寺となった。
 大永6年(1526)、今川中興の祖と呼ばれた今川氏親が亡くなると、この寺で盛大な葬儀が営まれた。
寺の裏山には南北朝期の安倍城址がある。一代城塞網の拠点としての、安倍城主狩野貞長との戦乱において、
多大な年月と戦乱の末、間もなく今川氏は根拠地を駿府に移し、守護大名として東海に君臨するようになった。
その後、度重なる内紛が起り、その渦中で幼少を過ごした氏親にとって、安倍城をひかえた自然の要塞の地「慈悲
尾(しいのお)」に今川家の菩提寺として、自らの安息の地を求めたのは、決して偶然のことではない。 静岡市」

 氏親の葬儀に関しては、こんな風に紹介しているものもあった。
「大永6年、氏親は駿府の今川館で息を引き取った。氏親の葬儀は増善寺で執行され、7,000人の僧侶が参加し、
葬儀の喪主である嫡男の氏輝が祭文を読み、棺の綱は栴岳承芳(後の今川義元)、位牌は玄広恵探(義元の諸兄)
がもって曹洞宗最高の法式で行われた。」

 僧侶7、000人がこの狭いに谷筋を埋めたのでは、歩く事もままならなかっただろう。そのような盛大な葬儀も今川
中興の祖、氏親ならではと思うが、本人が死した後も、その威勢を示すには確固たる後継者が必要となる。
氏親の場合、嫡男の氏真は14歳と若年で、しかも病弱ときているので、とても確固たる後継者とは成りえない。
では氏親の威勢を継続でき、盛大な葬儀を強行できた実力者は誰か。
それは氏親の死後、剃髪して「瑞光院寿桂尼(ずいこういんじゅけいに)」と称した正室です。この寿桂尼については
安倍七観音の途中で、寿桂尼の墓所のある竜雲寺で紹介しようと思っています。

 7000人の僧侶たちが法要を行った増善寺の本堂は、当時の面影は皆無で、白く塗られたいセメントが場違いの
明るさを漂わせていた。ただ入口のガラス戸に印刷された「丸に二つ引」の紋が僅かに今川家との縁を示していた。
         
           今川氏親(増善寺)                   大原雪舟(臨済寺)
 「今川中興の祖」と呼ばれる氏親は中々興味を覚える人生を送っている。
氏親の父義忠は応仁の乱に際し、京の花の御所に住む足利将軍の警固をしていた。この時の義忠の申次衆(将が
将軍に拝謁する際の報告取り次ぎをする役目)伊勢盛定の娘で伊勢新九郎(後の北条早雲)の姉妹であった北川殿
と縁談が整った。このとき義忠31歳で当然駿府には正室がいたと思われるが北川殿は義忠の正室とされている。
駿河に戻った義忠は隣国遠州の守護職を斯波氏と争っていた。1476年遠州見付城を攻略して駿府に帰る途中遠州
小笠の塩買坂で残党に襲撃され討死してしまった。
これにより当時6歳であった嫡男龍王丸(氏親)と、義忠の従兄弟の子小鹿範満との間に家督争いが勃発して、北川
殿は龍王丸を連れて小川城(焼津市)に難を逃れた。更に北川殿は申次衆になっていた兄弟の伊勢新九郎に調停を
依頼し、その結果龍王丸が成人するまでは、範満に駿府館で家督を代行させることになった。
この決着を受け、北川殿は龍王丸と共に駿府近くの城丸子城(静岡市)に移っている。この時、小鹿範満派として
太田道灌が兵を率いて八幡城(静岡市)へ進駐している。
 静岡市の案内板にある「度重なる内紛が起り、その渦中で幼少を過ごした氏親にとって」とはこれらを指している
のだが、内紛劇はまだ続く。
 竜王丸が15歳の成人になっても範満は家督を返さず、更に家督奪取の動きまで見せてきたため、北川殿は再度
伊勢新九郎に助勢を求めた。再び駿河へ下向した新九郎は、石脇城(焼津市)を拠点に兵を集め、駿河の今川館を
襲撃し範満を殺した。ようやく龍王丸は今川館で元服して氏親と名乗り今川家の当主となった。
この功により伊勢新九郎(北条早雲)に富士下方12郷と興国寺城(沼津市)が与えられた事が後北条氏の元となる。
 このように今川家の歴史は次々と知った地名が出てくるので興味が湧いてくる。

 北川殿も氏親と共に駿府に帰ったが、今川館に近い安倍川支流の北川沿いに別荘を建て移り住んだ。おのため
川の名前を採って北川殿と呼ばれるようになる。この別荘の変転も興味が湧く。
北川殿が亡くなると、氏親は別荘を建直し出家した我が子・義元の寺とし、名を善徳院とする。さらに氏親の跡目を
継いだ嫡男氏輝も亡くなると義元は還俗し、善徳院を氏輝を弔う臨済寺と改名して、義元の教育係だった大原雪斎を
住職とした。この雪斎は後に今川家の「黒衣の宰相」とも称された軍師となり、今川家の全盛期を築き上げている。
また雪斎は駿河今川家を滅亡に追い込んだ徳川家康を、ここ臨済寺で指導しており、見方によっては今川家にとって
雪斎は大恩人であると同時に、今川滅亡の原因を作った張本人でもあるのだから歴史は面白い。
慧眼の持ち主と云われている雪斎は、義元の天下取りの野望を助勢するために家康を指導したのだろうが、結果は
本家の今川は滅ぼされ、家康の天下取りの土台にされてしまった。家康は雪斎の想像以上に大物だったのか、それとも
雪斎は義元、家康の何れかが天下取を果たせばよいと思ったのか-------

 先に進む前に静岡市の案内板にケチを付けておこう。
「安倍城をひかえた要塞の地に、自らの安息の地を求めたのは、決して偶然のことではない。」と案内板にはあるが
南朝方だった安倍城が、北朝の今川氏に敗れ従属したのは、氏親の死より100年余りも前の事で、その後は歴史上
に名前は出てきていない。なら南北朝期の山城だった安倍城は、氏親の時代には立地場所が山奥過ぎ、戦略的価値が
低くすでに廃城にとなっていたと思われる。
そう考えると、氏親が安息の地の条件として 「安倍城をひかえた要塞の地」 としたとは思えない。

自分間違いは目を瞑っているくせに、他人の間違いに厳しい嫌な性格なんです。私は。

安倍七観音1-5

2014-10-28 10:01:35 | 寺社遍路
歩行記録                                           2014-9-27
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間30分   延時間:11時間15分
出発時間:5時55分   到着時間:17時10分
歩  数:  52、824歩   GPS距離38.2km
行程表
 安倍川駅 0:45> 徳願寺 0:30> 建穂神社 0:10> 建穂寺 1:20> 増善寺 0:45> 西ヶ谷運動場
 1:50> 法明寺 1:00>  新東名 1:55> 浅間神社 0:30> 静岡駅 

                      増善寺(極楽峠)
  
                林道慈悲尾線記念碑                  安倍城址のある城山

 建穂寺の前の道を山に向かうと道は二股に別れ、左の道には「慈悲尾林道」の表示があった。この道を4年前に
駿河一国33観音で歩いた時は荒れていて、何のために作った林道なのか疑問を感じたが、今回はそれなりに利用
されている感じがした。いや前回は1月だったので山仕事が休みで荒れた感じがしたのかもしれないな。
 林道の記念碑の前に 「ここは極楽峠です」「常住山を経て千代山へ至る」 の標識が掛けられていた。
極楽峠? 今は林道となっているこの道も、かっては増善寺と建穂寺を結ぶ観音道であったというから、それ故に
極楽と名付けたのか? だが建穂には極楽寺と云う名前の寺もある。
観音道を巡る事により極楽に誘えられるからか、それとも極楽寺に通じる道で極楽峠なのか--------

 この峠道にはこんな話も伝わっていた。
「徳川家康公が竹千代と名乗り、今川の人質として駿府にいた頃、殺生禁断の場所であった増善寺の境内で鳥を
捕っているのを村人に見つかり、散々に叱責された。このとき寺の等膳和尚が竹千代を諭したが、和尚も人質だった
竹千代の身の上に同情して、用宗港から舟に乗せて密かに故郷・岡崎に送り、先祖の墓参をさせた。
後に家康が遠江・三河を平定して浜松城主になると、等膳和尚に「可睡」和尚の名と、萬松山可睡斎(袋井市)の
寺領を与え、更に駿河、遠江、三河、伊豆の曹洞宗寺院の僧録司(統括)の地位を贈った。」

ここまでは理解できるのだが、話はさらに続く。
「増善寺は家康の生前には御朱印(寺領安堵)が与えられなかった。これは家康が竹千代時代に受けた屈辱を根に
持ってのことだとされている。加えて家康の命で築造された安倍川左岸の堤防「薩摩土手」により、慈悲尾の田畑は
安倍川の川底に沈み、駿府への道もなくなり慈悲尾は陸の孤島になってしまった。このため慈悲尾から府中に出る
には峠を越えて建穂寺を経由して行ったという。これは新道ができる昭和初期に至るまで続いていた。」


 なるほど家康は増善寺の住職だった等膳和尚に、袋井の可睡斎を与え旧恩に応えたのか。
それなら現在の可睡斎はこの事をどのように紹介しているのだろうか、可睡斎のHPを開いた。
「11代目の住職仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚は、幼い家康とその父を戦乱の中から救い出しかくまいました。
その後、浜松城主になられた徳川家康は、和尚を招いて旧恩を謝し、その席上でいねむりをする和尚を見て家康は
「和尚、眠るべし」と申されました。それ以来等膳和尚は「可睡和尚」と称せられ、後に寺号も「可睡齋」と改めた。
また家康公の帰依を受けて、天正11年(1583年)に東海4ケ国(駿河、遠江、三河、伊豆)の僧録司となりました。」

 若干雰囲気の違いはあるが、似たりよったりで等膳和尚が可睡和尚となり僧録司となったことは確かだろう。
ただ気になるのは、等膳和尚が駿河増善寺出身だった事に触れていない事だ。家康のお蔭で大寺になった可睡斎は
敵となった今川に縁のある事は触れないようにしたのだろうか。
更に権力を握ったばかりの武将(家康)が、既存の寺の住職や宗門の地位を任命できたのだろうか。
天正11年とは前年に本能寺の変があったばかりで家康自身の地位も安定してなかったのに。

安倍川左岸に築いた薩摩土手の事も気になった。
 

 薩摩土手とは、賎機山の下から安倍川にかけての堤防で薩摩藩が築造していた。当時の安倍川は東(右)の山の
近くを流れ、現在の静岡市内に流れ込んでいたが、堤防の完成により流域が西の山裾に移動し、藁科川と合流する
ようになった。そのため慈悲尾側の田畑や道は川底に沈んだ事は理解できる。だが堤防を作った理由が家康が
子供時代に受けた慈悲尾への恨みとはとても思えない。
家康は駿府を繁栄させるには、安倍川の流れを西に移動・安定させ、城下を拡張する事が必須事項だと感じていた。
その為に伴う若干の犠牲は止む終えないとしたが、田畑を失う慈悲尾村民に対しては、増善寺の住職を栄転させて
不満を抑えたのではないか。と同時に今川家の官寺であった増善寺の力を削ぐ目的もあったのだろう。
 これで話の結末は一応ついたと思ったが、少し気になり薩摩土手の築造年を調べてみると----
慶長11年(1606)頃開始したとあり、等膳和尚が可睡と名を改め僧録司の地位を得たのは天正11年(1583)で
23年も前の話だった。これでは私の説は成り立たない。

 もう一枚の標識にあった常住山や千代山は聞いた事はないが、千代(せんだい)の地名は記憶がある。
千代は安倍川と山に挟まれた細長い地形の所で、山向うの小学校に行くには山裾を辿って行かなければならない。
そこで現在はどうしているか分からないが、30年ほど前の登校路は山を越して小学校に行っていたという。
ならばこの標識の道は、その山越えの峠に通じ、千代に行く事ができるだろう。
ここでいいアイデアが閃いた。この近くには南北朝時代に築城された、山城の安倍城址があるが、まだ一度も
行った事がない。何時か行こうと思うのだが、駅から歩くとなると適当なコースが思い浮かばなかった。
それがここの極楽峠から千代に行けるなら下のような周遊コースも可能になる。
   安倍川駅-歓昌院坂-洞慶院-安倍城址-増善寺-極楽峠-千代-徳願寺-安倍川駅 
どうですか これで「安倍城址周遊ウォーキングコース」の出来上がりです。今年中には歩いてみたいな。

        
         ミズヒキ(赤花・白花)            ミズヒキ(赤花を逆にした)
 この峠道にはミズヒキの花が沢山咲いていた。それも赤花も白花も咲いている。
花沢山ではミズヒキの名前の由来になった「花が紐状に紅白である」事がハッキリ確認出来なかった。
そこで今日は先ず、赤花と白花を砂に埋けて少し上向きから写真(左)を写してみると-----
どうですか赤花は赤、白花は白しか見えませんよね。次に赤花を逆さまにして砂に埋けてみると-----
何となく紅白に見えますよね。これを見て水引を連想したののでしょうか。
そうそうウィキペディアには「花の色は上半分は赤色、下半分は白色である。」と書いてあったが、こうして
見ると、花の上下が赤白というより、表裏が赤白と云った方が正解のような気がしました。

ノンビリ日本平

2014-10-26 21:54:31 | ウォーキング
歩行記録                                           2014-10-26
歩行時間:3時間35分   休憩時間:1時間20分   延時間:4時間55分
出発時間:9時25分   到着時間:14時20分
歩  数:  20、912歩   GPS距離14.4km
行程表
 草薙駅 0:20> 草薙神社 0:50> 日本平 0:40> 運動場 0:30> 言いなり地蔵 0:30> 次郎長生家
 0:45> 清水駅 

       
                             草薙神社の御神木
 今日は町内の人6人で日本平をのんびり歩いてきました。富士山の冠雪した姿を期待して行ったのですが
4日と同じように富士山は雲の中。
前回と変わっていたものは、コースの途中にあるミカンが大分色づいていた事ぐらいかな。
アッ!そうだ。今晩清水エスパレスの試合が日本平スタジアムで行われるので、既に進入禁止になっていた
道路がありました。エスパレスは今晩負けるとJ2に陥落する恐れが大なので頑張ってほしいのだが----
(今速報を見たら3:1で敗戦だった)
これで磐田がJ1に復帰できなければサッカー王国静岡の名が泣いてしまう。
アーそれなのにJR東静岡駅前にサッカー場を作れなんて、よく要請できたものだ。

 距離は15kmと短かったが、ゴールの清水駅ではそれなりに疲れました。
                     
                             赤い靴の銅像

安倍七観音1-4

2014-10-16 12:37:22 | 寺社遍路
歩行記録                                           2014-9-27
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間30分   延時間:11時間15分
出発時間:5時55分   到着時間:17時10分
歩  数:  52、824歩   GPS距離38.2km
行程表
 安倍川駅 0:45> 徳願寺 0:30> 建穂神社 0:10> 建穂寺 1:20> 増善寺 0:45> 西ヶ谷運動場
 1:50> 法明寺 1:00>  新東名 1:55> 浅間神社 0:30> 静岡駅 

                      建穂寺(観音堂)
 
               建穂神社                      建穂神社本殿
 建穂神社の地図                   
 電柱の地名が「建穂」になってきた。
一体何と読むと思いますか? きっと読める人は少ないと思うが、これで「タキョウ」と読むそうです。
この地名も帰化人が付けたと思えば、そんな風にも感じる名前ですよね。
 
 建穂神社と建穂寺は切っても切れない縁があったようです。
この建穂神社の地は建穂寺の跡で、建穂寺は「神仏混淆」の寺として中近世大寺であった云われています。
当時建穂神社の里宮は羽鳥にあり、ここは奥宮の場所だったのに、建穂寺が割り込んで建てたようです。
その後、建穗神社の別当寺となった建穂寺は大いに発展して、建穂神社の奥宮もそれに伴って存続していました。
たが、里宮の方は次第に衰退し廃社となってしまいました。
里宮の跡地は羽鳥に「古社地」として残っているらしいが場所は分からなかった。若しかして木枯しの森の神社が
里宮だと面白いが、と思ったが、木枯しの森の神社は八幡神社だった。残念。
処が処がですよ! こんな記事を見付けました。
京都太秦にある「大酒神社」には「木枯神社」が合祀されていて、この「大酒神社」こそが渡来人の秦氏の総鎮守で
あったという。そうなると木枯しの森も建穂神社も建穂寺も、帰来人秦氏と濃厚な関係だったと思われます。
さらに奥宮に祀られていたのは「馬鳴大明神」で、その馬鳴とは蚕虫に化生した馬鳴菩薩によるものという。
つまり、養蚕を営んでいた人々によって祀られた神社が「建穂神社」と云う事になる。

建穂神社は山の上にあると思って歩いて行くと、何と坂道の登り口にあった。その由緒ある筈の神社は何処にでも
ある普通の神社で、縁起書も無ければ馬の狛犬(?)も無かった。これで式内社なのだからガッカリだ。
神社の横の道で草取りをしている人がいたので「この上には何かありますか?」と聞くと「何もないよ」だった。

      
                                建穂寺観音堂と仁王
 建穂寺の場所
 建穂神社を後にして「建穂寺(たきょうじ)」に行く。寺前にある静岡市の案内板には
「建穂寺は、白鳳13年(662)法相宗の道昭が草創し、養老7年(723)に行基が再興したと伝えられる。
創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として天平7年(735)の寺領寄進の記録が寺の古さを特徴づけている。
平安中期の『延喜式神名帳』に、建穂神社の名がみえ「神仏混淆」の寺であった。安倍七観音の霊場でもあり、観音堂
には珍しい稚児舞が伝わっていた。(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)
 学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川・徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり
廃寺となった。  文化財の一部は、観音堂内に保存されている。」
 これにもう少し付加えるなら
「江戸時代までは21の塔頭をもつ駿河有数の大寺院だったが、明治初年(1688)の神仏分離令につづく廃仏毀釈と、
明治3年の火事により全山が消失した。 現在の建穂寺は昭和に入り、地元の有志により建てられた観音堂である。」

というわけで現在の建穂寺は寺と言うより「建穂寺観音堂」と呼ぶ方が相応し感じがします。

    
            前立千手観音                      仏像群
 観音堂の正面には千手観音が安置されていたので、これが行基作の仏像かと思ったが、銘は「前立千手観音」
なっていた。ここに書かれた 「お前立(まえだち)」 とは 「平常公開されない仏像(秘仏)の厨子の前に身代りとして
安置され、礼拝者にその尊容を偲ばせる仏像である。」
と云う事なので、後ろの黒い厨子の中に行基の千手観音が
収められているのだろうか。しかし建穂寺の本尊の千手観音についてこんな記述もあった。
「本尊は1576年に焼失した建穂寺の観音堂の再興本尊として造られ、像高は約130cmの立像で、楠の寄木造、玉眼。
像内の銘には1577年の年や仏師長勤の名前があり、この像が建穂寺の本尊として造立されたことが記されている」

更に建穂寺で貰った「幻の寺 建穂寺」の栞には、本尊は桃山時代作とあるので行基の千手観音ではない事が分かる。

  
             長源寺の阿弥陀如来                      長源寺の薬師如来
 かって函南町桑原長源寺の観音堂にも、ここ建穂寺の観音堂と同じように何体もの仏像が所狭しと安置されていた。
だが「かんなみ仏の里美術館」の完成に伴い、仏像たちは美術館に移されると、観音堂では親しく感じていた仏達が
薄暗いガラスの中で取り澄ました美術品に様変わりしてしまった。
ここの仏像たちも、もう少し広い場所でお詣りできれば良いのだが、函南のような美術品としてではなく、あくまでも
仏さんとしてお詣りできる場所が良い。

  
     仏の里の薬師如来           仏の里の阿弥陀如来          仏の里の弘法大師像
 かんなみ仏の里美術館の場所
 観音堂の後ろに初めて行ってみると、現在の建穂神社の場所から移転してきたと思われる六地蔵があった。
だが良く見ると六地蔵の台座には一丁目ならぬ「初町」と刻まれている。普通は一丁か一町で初町は珍しい。
で、次は「二町・三町・・・・六町」と続いていた。このように纏めてあるから六地蔵と見えるが、台座に刻まれている
「元禄九丙子年」の頃は、山の上にあった建穂寺の丁目石だったのだろう。

 
           六地蔵(丁目石)                        建穂寺の古絵図(複写) 
 観音堂前にある説明板だけでは余り興味が湧いてこない。建穂の謂れや元の場所などの説明がないと、かっては
駿河を代表する大寺だったとは誰も想像しないだろう。

           
                    木枯しの森から建穂寺の地図

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                 喪中につきしばらく休みます

安倍七観音1-3

2014-10-14 09:21:50 | 寺社遍路
歩行記録                                           2014-9-27
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間30分   延時間:11時間15分
出発時間:5時55分   到着時間:17時10分
歩  数:  52、824歩   GPS距離38.2km
行程表
 安倍川駅 0:45> 徳願寺 0:30> 建穂神社 0:10> 建穂寺 1:20> 増善寺 0:45> 西ヶ谷運動場
 1:50> 法明寺 1:00>  新東名 1:55> 浅間神社 0:30> 静岡駅 

                      建穂寺(服織・羽鳥)
         

 藁科川渡ると電信柱の地名が「羽鳥」になっている。地図の地名を見ても羽鳥だが中学校は「服織中学」とある。
この服織はハトリと読むのだが、何故か地名は羽鳥なのだ。
今まで私は服織では読みにくいため、誰でも読み書きできる羽鳥に変えたと思っていた。そう「埼玉市」「さいたま市」
なったように住民を馬鹿にした改名だと思っていた。
それが今回ウィキペディアの「服織村」の項目を見ると 「1889年(明治22年)- 町村制の施行により、慈悲尾村、羽鳥村、
建穂村等が合併して発足」
となっている。また服織小学校のHPには「羽鳥竜津寺を仮校舎として明治7年創立」とある。
となると江戸時代は、この辺りは羽鳥村だったのだろうか。そうかなー? 未練たらしくネットを彷徨っていたら
「羽鳥の地名の由来には、いくつかの説があり、大昔に住んでいた「はた織」をする一族ハトリベからきたもの、また鶴が
飛来していたことから名づけられたものがある。」 
そうこの説を待っていたのです。

 私のブログを読んでいる人は、私がまた麻機や賎機、服織の帰来人の話をすると思うでしょうが、今回は違います。
文中にある「鶴が飛来した」事に注目してみました。実はこの辺りには 「白鳥(しらとり)」 さんと言う名字が多いので、
「鶴≒白鳥≒羽鳥」 とならないか想定し、さらに調べると 「静岡県名字の話」 にこんな事が書いてありました。
「白鳥」 姓は静岡県内の90%が静岡市に住み、その多くはここ安倍川や藁科川の流域に住んでいるとあります。
更に 「白鳥姓は日本武尊が死後、白鳥と化した白鳥伝説があり、各地に白鳥の地名がある。駿河の国の白鳥姓は
日本武尊と所縁がある。」
と書いてある。
これを根拠にして、羽鳥と日本武尊を強引に結びつけてみるなら、日本平麓の草薙で日本武尊が賊に襲われている。
その時逃げ出した家来がここに住みついて名字を白鳥に地名を羽鳥にした。とならないだろうか。
ウーン! 何とかこじつけられたが大分無理がある。それなら素直に羽鳥は服織だった方がが正解のような気がする。
この辺りに来た渡来人は麻機、賎機、服織などに根を下ろし、蚕の養殖や機織を生業として、建穂寺も建立して先祖を
祀って暮していたのだろう。ウン それが正解だ。

蛇足だが「静岡県名字の話」には次のような記述ある
「古くは服部はハトリベと読み、古代職業部の一つで機織を職とし、これらの人々の居住地を服織庄と名付けたので
各地にこの名がある。安倍郡服織庄もその一つで、古くは服部氏が住んでいた。」

しかしこれでも明治の初めに羽鳥村だった疑問は解けないが、こんな解釈もできるのではないか。
漢字辞書や国語辞書の無い時代、正しい漢字を思い出せない時は、同音で簡単に書ける漢字等で代用することが
しばしば行われていたと云う。そのため筆画が多くて読みにくい服織を、羽鳥と表記したとは十分考えられる。
ここ羽鳥も明治の町村合併により正しい服織村としたが、静岡市に吸収合併されると静岡市羽鳥になってしまった。
と考えられないだろうか。この辺りの経緯がどうだったのか、もっと知りたいが調べる術が無い。


藤枝2Dウォ-ク

2014-10-12 08:58:04 | ウォーキング
藤枝市市制施行60周年の記念行事として「ツーデー60km ウォーキング」が10月11・12日に行われた。
日頃は自分の考えたコースを「観歩」と称しながら歩いているのだが、たまには人任せの歩きも楽ではないか、
それに自由歩行なので自分のペースで歩けるのも魅力だ。と考え参加してきました。

歩行記録                                           2014-10-11
歩行時間:6時間00分   休憩時間:0時間25分   延時間:6時間25分
出発時間:8時50分   到着時間:15時15分
歩  数:  39、095歩   GPS距離31.9km
行程表
 藤枝総合運動場 1:00> 志太泉酒造 1:50> 千貫堤 1:50> 藤枝駅 1:20> 藤枝総合運動場 


 コースは3種類あり30km、18km、8.8kmの3コースで勿論私は30kmコース。しかし今年の夏以後は体調不良が続き
(これが本来の体調になってしまったのかもしれないが)1日目の30kmは自信があるが2日目は自信が無い。
(ホンの2年前までは40kmの3Dを歩いていたのに何とも情けない限りだ)
ただ心配な歩行時間は30kmは9時から出発し、最終ゴールは4時半とある。最近の私の歩行速度は時速4km程に
なっており、30kmだと7時間以上は欲しい。となると先頭グールプで出発しなければならない。
そんな訳で出発式前に会場に行くとナントマー大勢の人が出発式会場に集まっていたのには驚いた。こんな集団の
歩きは初めてなので少々心配したが、今日の事前申込者の総数は1000人で200人が30kmと紹介されたのにホッとした。
最初は先頭グループをと思っていたが、集団で出発する階段は狭く早速渋滞してしまい、気弱な(?)私は最終尾に
なってしまった。

 最初は清水寺への上り坂だがペースは速い。最初からこんな速度で行くと途中でバテテしまいそうだと思うが
爺さん婆さんや小学生も歩いている。そうなると私も頑張らざるをえなかった。
清水寺は全員立寄らず通過。リュックに付けたゼッケンに「観歩」と書いてある私もそのまま通過。何やら自由
歩行とは私の考えていたものとは違うようだ。
 道が林の中に入ると、前の方で「痛い!」とか「蜂だ!」の声が聞こえてきた。そのうち首筋を押さえた人や腕を
擦っている人が立止っていたが蜂の姿は見えなかった。車道に出た所でスッタフから治療を受けていた人もいた。
一人歩きなら蜂は見逃してくれるが、集団だと蜂も興奮してしまうのだろうか。

 農道が終り平らな車道に出てもスピードは落ちない。自由歩行だから自分のペースで歩いてもいいとは分かって
いても何故かペースを落とす事ができなかった。
最初のチェックポイントで「お酒の仕込み水が無料で飲めます」と案内していたが、酒ではなく水なら無料で当り前だ
と判を貰っただけで出発。ここまで約5km。

 見るべき物なく、イヤ例え見たい物があったとしても、無視して通過するのは以前所属していた歩こう会と同じだ。
そう云えば出発式で、その歩こう会の人に何人か会ったが、当然この辺りにはいない。
2回目のチェックポイントの千貫堤に11時45分に到着。ここまででGPSは15kmとなっているので、ほぼ時速5kmで
歩いて来たことになる。順調すぎる速度だが、今日はともかくは明日が心配になる速度だ。

 千貫堤で昼飯を食べ出発すると周りを歩く人が少なくなった。昼飯で集団がばらけたのだろう。私は昼飯の時間を
15分しか取らなかったので集団を追い越したのだろうか、千貫堤にはそれほどの人はいなかったが。
今日貰った地図は大きく見やすく分かりやすい。私の手作り地図とは段違いで、しかも主な場所には大会の標識も
立っているので迷う事無く歩ける。

 午前中は抜いたり抜かしたりで同じような位置にいたと思うが、午後になるとほぼ抜かされる事はなくなった。
これは早い人は既に先に行ってしまい、この辺りを歩いている人は私と同等の脚力の人なのだろう。それでも
落穂拾いのように一人二人と追抜けた。こうなると頑張ってしまうのが私の悪い癖で、休憩もせずに次の藤枝駅の
チェックポイントを目指して必死に歩いた。

 藤枝駅に1時50分に到着。ここで約25km弱なので時速5kmはキープしている。5分ほど休憩して出発した。
駅を出ると前後に歩く人の姿が見えなくなってしまった。何処へ行ってしまったのだろうか、私の歩いている道は
コースに間違いはないのに不思議な感じだ。交通整理をしていたスタッフに
「私は何人目ぐらいですかね?」と聞くと
「まだ100人は通過してないから半分より前くらいですね」だって。
そんな馬鹿な、スタートの時は後ろの方だったし、その後も大勢を追抜いた認識はない。多分スタッフが元気づけに
言ってくれたのだろう。
 瀬戸川の堤防に出ると前の方にチラホラと歩いている姿が見えだした。必死に歩くのだが差は縮まらない。
それはそうだ、似たり寄ったりの速さで同じ方向に歩いているのだから、その差が縮むわけはない。分かっているが
もどかしいものですよね。それでもゴール近くの運動場の上り坂で10人程度を追い越す事ができた。
そんな事で喜んでいるのだから古稀とは云え幼いものだ。我ながら恥ずかしい。

 3時15分ゴール到着。休憩時間を除けば時速5kmにドンピシャリだった。多分今後はこの速さで歩くとはできないと
思う。勿論明日は今日の疲れが有るので、これより遅くなるだろう。
そうだ、ゴールで何番目ぐらいか聞こうと思っていたが忘れてしまった。だが雰囲気的に中間ぐらいではなく、後ろの
方だった感じがする。それでも到着予定の4時より早く着けた事で今日の歩きはヨシ!としよう。

                ****************** ---------- ********************

 帰宅後、入院中の義母の容態が悪化したとの連絡があり、2日目の今日は自宅待機を命じられてしまいました。




 

安倍七観音1-2

2014-10-10 10:15:13 | 寺社遍路
歩行記録                                           2014-9-27
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間30分   延時間:11時間15分
出発時間:5時55分   到着時間:17時10分
歩  数:  52、824歩   GPS距離38.2km
行程表
 安倍川駅 0:45> 徳願寺 0:30> 建穂神社 0:10> 建穂寺 1:20> 増善寺 0:45> 西ヶ谷運動場
 1:50> 法明寺 1:00>  新東名 1:55> 浅間神社 0:30> 静岡駅 


                            建穂寺(展望台)
 徳願寺の前の農道を梵天山入口まで登ると農道は下り坂になる。前回紹介した徳願寺山や大窪山、仏平、扇松平の
ある徳願寺の尾根は、この入口から山道を登っていた所にある。が、今日はそちらには行かず農道を下って行く。


                     展望台からの眺め
 農道が分岐する右側に山道がある。入口には何か看板があった気もするが、ともかく分岐の右の山道に入る。
するとそこには視界180度を見渡せられる展望台があった。視線を左奥にやれば安倍奥の山から続く竜爪や
高山の尾根。その先は安倍七観音の札所・霊山寺ある一本松、梶原山まで続いている。更にその奥には富士山が
優雅な傾斜を見せている。その富士山の横に薄く見えるのは先月大変な目にあった愛鷹山だ。
視線を戻し竜爪山の下にやれば、安倍川の流れと共に白い橋が2本見える。奥が新東名で手前が国1バイパスだ。
今日はあの新東名より奥まで歩かなければばらないが、大丈夫だろうか少々不安になる。
安倍川を下ってくると静岡の市街も一望できる。ビルの合間に見える緑の丘は谷津山だろう。そしてその後ろには
日本平がその名の如く低く平らな姿を見せている。安倍川の下流は幾重にも分流して駿河湾に流れ込み、そこに
建っている風力発電の搭は見えるが、羽根が回転しているかは分からない。今日は伊豆半島は見えないが天候
次第では見えるだろう。
 大崩山塊から眺める富士山の展望地としては、芹ヶ谷峠下の農道、朝鮮岩、満観峰が代表的な場所だが、その
いずれの場所も前の山で一部の視界が遮られている。だがここは遮るもの一つなく、安倍川と静岡の町を見る事が
できる。ならここが大崩山塊の中で一番の富士山の展望地と言っても良いだろう。欲を言えばコスモスの花の先の
ブッシュが無ければ最高だが。

「ここは始めてかね?」と後から来た地元のお年寄りに声を掛けられた。
「ここは富士山の眺めも良いが安倍川の花火の時は特等席だよ。俺は毎年来ている。」
確かに安倍川の花火会場は目の下に見えるのだから最高だろう。チョット興味を覚えて色々聞いてみると
「最近この場所も有名になったのか混むようになってしまい、車の人も増えて農道が渋滞する」など教えてくれた。
ついでにこの展望台の名前を聞くと 「特にないが、普段はマルヤマ(多分丸山)と呼んでいる」 そうだ。
 展望台の場所

 お年寄りと別れ分岐している農道に戻り、左に下る農道を下った。下りながらさっき聞いた花火の事を考えた。
この展望台から安倍川で打上げた花火は下に見えるのか上に見えるのか、それとも平らな位置に見えるのか?
興味を覚えてネットで調べるてみた。まず展望台の標高は170mで安倍川は20m。標高差は150mだった。
一方花火は小さい3号玉で120mの高さで開花するので展望台より低い。4号玉は150mと展望台と同じ高さだった。
前に花火は上から見ても横ら見ても下から見ても同じように丸く見えると聞いた事がある。確かに丸い打上げなら
それで納得できるが、最近の花火は土星やハート、魚などの形をした花火もある。それも同じように見えるのか?
花火屋さんのHPには「型物の花火は、鑑賞する方向や玉の開く向きが違うと、そのように見えないということが
しばしばあります。」
だって。他にも 「正面から見るとハートですか、斜めから見ると歪んだハートに見えて真横から
見ると直線にしか見えません。」 
フーン一度見てみたくなった。
 更に4号玉より大きい尺玉(10号)の開花は330mで、30号玉は600mの高さで開花するそうですので、

 
           安倍川と藁科川合流部にある舟山              藁科川の木枯しの森

 農道の途中から安倍川と藁科川合流部にある舟山が見えた。
古代の東海道は手児坂を下ると、直接安倍川には向かわず徳願寺の山の裾を辿って、この舟山を中継点として
駿府に渡ったとか。
これは一応納得できる経路だが、では江戸時代になって何故下流でも渡れるようになったのか? 川底を整備した
のか、それとも堤防を築いたのか? 私の妄想的歴史観が蠢いてきた。昔の旅人は水量の少ない場所を自分で
渡ったが、江戸時代になりプロの川越人足が発生すると、街道を遠回りさせる事無く、少しくらいなら水量が多くても
旅人を渡すようになった。逆に水量が少ないと旅人は自分で渡ってしまう恐れもあるし、水嵩により渡し賃が違うので、
わざと深い所を渡した可能性もある。
駿府出身の十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」では、弥次さん喜多さんが川越人足に水嵩が高いと言われ、一人64文
を払い対岸に渡してもらい、更に酒代16文ずつを払った。すると川越人足は川上の浅い所を渡って帰って行った。
口惜しがった喜多さんの詠んだ一句である。「川越しの 肩車にて われわれを ふかいところへ ひきまわしたり」
エッ! 旅人は勝手に川を渡ってはいけないって? そうですね、大井川はそのようですが、安倍川はどうも自由に
渡れたようですよ。それは安倍川の袂に静岡市の建てた「安倍川義夫の碑」を読むと分かります。
「元文3年(1738年)初秋の頃、安倍川を渡るとき渡し賃が高いため、自分で川を渡った。」とある。

閑話休題。
展望台からの農道を下り、合流した安倍川右岸の道を牧ヶ谷橋まで遡る。橋の所を左に行けば歓昌院坂の峠を越して
東海道の丸子宿に抜ける道がある。東国に向かう旅人の中には、安倍川が川止めになると、この峠を越え安倍川が
二手になっているここから藁科川と安倍川を渡って駿府に行ったともいう。
今はそんな川越えの苦労もなく牧ヶ谷橋を渡って行くと、川の中州にある小島が見える。この小島は「木枯しの森」と云い
万葉時代の文化人には有名だったらしい。古今和歌六帖には
「人知れぬ おもひするがの国にこそ 身はこがらしの森は ありけれ」と謳われていて、清少納言の枕草子には
「森は うへ木の森、石田の森、木枯の森・・・」とあるそうだ。
今見る木枯しの森は、ただの中洲にある小島に過ぎないが、万葉人が何故この小島に風流を感じたのか想像できない。

            
                       徳願寺・展望台付近の地図

安倍七観音1-1

2014-10-08 10:33:16 | 寺社遍路
歩行記録                                           2014-9-27
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間30分   延時間:11時間15分
出発時間:5時55分   到着時間:17時10分
歩  数:  52、824歩   GPS距離38.2km
行程表
 安倍川駅 0:45> 徳願寺 0:30> 建穂神社 0:10> 建穂寺 1:20> 増善寺 0:45> 西ヶ谷運動場
 1:50> 法明寺 1:00>  新東名 1:55> 浅間神社 0:30> 静岡駅 

                    

 安倍七観音の遍路の1回目は、安倍川右岸を下流から遡り徳願寺-増善寺-建穂(たきょう)寺-法明寺の順で巡り
静岡駅に戻りました。途中の慈悲尾林道(標高差約170m)と増善寺裏(標高差約110m)の峠越は左程の事は無かったが
法明寺までの長い安倍川堤防の往復に疲れ果ててしまい、静岡駅にはフラフラの状態で到着しました。
                             徳願寺(北川殿)
            
                          徳願寺までのコース

 
             手児の呼坂                   徳願寺入口
 朝6時に安倍川駅を出発。いつもなら国道1号線の手越原と佐渡交差点を通り、徳願寺尾根の佐渡山に登るのだが
今日は尾根には登らず、山裾を徳願寺の参道入口を目指す。
 国道から少し行くと小さな石塔が二基建ってる。ここが古代の東路の手児の呼坂の入口で、左折すれば手児の呼坂を
経て日本坂峠、やきつ辺の道に通じる古代の東海道と云われている道だ。また、ここを右折すれば鎌倉時代の東海道で
安倍川手前の手越で江戸時代の東海道と合流する。この手越には鎌倉時代日本一の美人とも云われる千手の前を
祀った少将井神社や、手越の灸で知られた東林寺などもある。(千手の前の記事

 古代の東海道はこの石仏の辺りから山裾を北上し、安倍川と藁科川の合流部にある舟山経由で駿府に渡ったらしい。
徳願寺の参道入口もその途中にあるので、今日は県道は歩かず山裾の道を歩いたのだが気になるような物は無かった 
道が右にカーブした所に洒落た感じの料理屋があり、そこより徳願寺の参道の上りが始まっていた。

 
             徳願寺山門下から                       山門先の石仏

 参道入口から10分も歩くと右に富士山が見えてくる。ここからは富士山と共に静岡市街も一望できるのだが、それ故
に起きたある話が伝わっている。
 慶長19(1614)年、京都方広寺の釣鐘の「国家安康 君臣豊楽」の銘に、徳川家康が「家康を分断し豊家を繁栄させる
呪詛によるものだ」
と難癖をつけた。困った豊臣家は弁明のため片桐且元を駿府城の家康を元に派遣するが、家康は
対面を許さなかった。一先ず且元は駿府から離れ徳願寺に滞在したのだが、境内から駿府の町や駿府城を見下ろす事が
できる事に気づき、これではまた家康に言いがかりを付けられそうだと、更に西にある大鈩の誓願寺に滞在先を移した。
ここからの景色を見ていると、その話が如何にも本当にあった話だと思えてくるくらい静岡の町が一望できる。

山門を潜るとこの時季らしく彼岸花をお供えした地蔵が祀られていた。

 
                 徳願寺                       北川殿墓所
 徳願寺の場所
曹洞宗 大窪山(だいあさん)徳願寺 本尊:千手観音
徳願寺境内に建つ静岡市教育委員会監修の案内板には、次のような説明があった。
「徳願寺山頂には堀切を伴う曲輪状の山城の遺構がある。大窪山徳願寺は、山頂に祀ってあった千手観音を降ろして
現在の寺がここに開かれたとの伝承がある。
 このため徳願寺の前身は、安倍七観音の一つである大窪寺に関連した遺構の可能性が考えられる。大窪寺が山岳
仏教ととして栄えていたことは鎌倉初期の「久能寺大般若経」の奥書に寺名がしばしば登場する事から理解できる。
 現在の徳願寺は、戦国時代に今川家七代氏親の生母で北側殿(北条早雲の妹)が曹洞宗に改修し今日に至る。」


 徳願寺の前身の大窪寺が山上の何処に有ったかネットで調べたが、徳願寺山は勿論、大窪山とか扇松平や仏平の
地名があがり明白ではない。過去何回も歩いている徳願寺の裏山だが、未だ徳願寺山も大窪山も確認できていない。
実際徳願寺の裏山の道を辿って行くと、途中に大窪山・徳願寺の標識があり踏跡もあるがまだ行った事はない。
更に登ると扇松平や仏平の標識もあるが案内板も無く寺の存在の有無は不明だ。

 境内には北側殿の墓所があり、その案内板には「徳願寺開基 北側殿墓所 今川義元の祖母」と書かれている。
開基? 寺の開基って宗派を変えることも含まれているのか? いやそんな事はないはずだ。だとすると山上の
大窪寺を現在地に移設したのも北側殿なのだろうか。

 
       大窪山と徳願寺山の標識(以前に撮影)             仏平と扇松平の標識(以前に撮影)

 安倍七観音の祀ってある寺は、北川殿を初め今川家と因縁が深いので今川家の事を簡単に紹介します。
今川家8代義忠は駿河と遠州の守護代となるが遠州の反乱は続き、その征伐の帰りに小笠郡塩買坂(菊川市)にて
遠州方残党の襲撃に遭い討死をする。当時義忠の嫡子・氏親は6歳と幼かったため、従兄の小鹿範満との間に家督
争いが生じた。太田道灌らの助勢を受けた範満側の勢いは強く、氏親は実母の北川殿と共に焼津小川城に避難を
しざるを得なかった。だがここで北川殿の存在が重要になる。
北川殿は兄弟の伊勢新九郎(後の北条早雲)に仲裁を頼み、範満が氏親が成人するまでの後見人として家督を代行
することで決着し、氏親母子は駿府に近い丸子城にて暮らすようになる。
しかし氏親が成人しても範満は家督を返えそうとしないため、再度伊勢新九郎に助勢を依頼する。駿河に来た新九郎は
石脇城(焼津市)を拠点に兵を集めて駿府の今川館を襲撃して範満を誅する。これにより新九郎には沼津の興国寺城が
与えられた。このことが伊勢新九郎と今川氏との絆を更に強め、後の新九郎の関東進出と後北条氏誕生の契機になる。

 こうしてみると北川殿は今川家にとって重要な人物だった事が分かります。もう少し丁寧な案内板が欲しい感じだ。
後の人物は安倍七観音を歩きながら案内していきます。

 8代 今川義忠(塩買坂にて討死)--------------------------- 北川殿(北条早雲の姉(妹))
        | 
 9代 今川氏親(家督争い北条早雲の助力) ------------- 寿桂尼(女戦国大名)
        |
 11代 今川義元(家督争い花倉の乱・桶狭間で討死)
        |
 12代 今川氏真(今川家駿河・遠州より脱出)

安倍七観音とは

2014-10-05 11:58:11 | 寺社遍路
                             安倍七観音とは

 行基菩薩が安倍奥足久保法明寺の楠の巨木から、七体の千手観音菩薩像を彫り、これを
法明寺、鉄舟寺(久能寺)、霊山寺、平沢寺、徳願寺、増善寺、建穂寺の7ヶ寺に安置した事から始まる。
 曹洞宗静岡県第一宗務所青年会のHPで安倍七観音を次のように紹介していた。
『養老2年(718)天正天皇の皇子(後の聖武天皇)の病が悪化した。そこで陰陽師に占わせたところ
「東国にある楠の大木の寿命が尽きようとしている。樹は観音菩薩となり、人々を救済したいと願っている。」
と言ったそうだ。天皇は都で徳の優れた行基菩薩を東国の駿河国へ下らせた。
駿河国に来た行基菩薩は、法明寺にて高さ約50m、直径約24mの巨大な楠と出合った。行基菩薩が、その楠を
切り倒そうとしたところ、樹の切口から血が流れ出した。行基菩薩は地面に伏して「観音様としてお祀り致しますので、
どうかお許し下さい」
と拝んだそうだ。そして楠を切り倒した行基菩薩は、身を清め一刀三礼し、七体の観音菩薩像を
彫りあげた。この菩薩像を七つのお寺に安置し、21日間、王子の病気回復を祈願したところ、王子の病気は快方に
向かったと言われている。この7ヶ寺が「安倍七観音の霊場」である。』


      
                               安倍七観音七ヶ寺

 安倍七観音の安置されている寺は、静岡市近郊では最も古い部類の寺で、いずれも大規模な寺院であった。
高福山法明寺 曹洞宗 静岡市葵区足久保奥組1043
補陀落山鉄舟寺 臨済宗  静岡市清水区村松2188
鷲峰山霊山寺  真言宗  静岡市清水区清水大内597
布袋山平沢寺  真言宗  静岡市駿河区平沢50
大窪山徳願寺  曹洞宗  静岡市駿河区向敷地689
慈悲山増善寺  曹洞宗  静岡市葵区慈悲尾302
瑞祥山建穂寺 (真言宗) 静岡市葵区建穂2−12−6

安倍七観音

2014-10-05 11:03:34 | 寺社遍路
安倍七観音の2回目を歩いてきました。
コースは
静岡駅 - 平沢寺 - 鉄舟寺 - 霊山寺 - 草薙駅 歩行距離31k

途中で富士山の景勝地・日本平も歩いたのですが、生憎富士山は雲の中。
イエイエ富士山どころか近くの山も薄ボンヤリの1日でした。


     静岡県では藤枝市岡部の神神社にしかない筈の三つ鳥居が---