はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

知多四国18番光照寺

2015-10-01 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-8(土)
歩行時間:6時間05分   休憩時間:1時間45分   延時間:7時間50分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時20分
歩  数: 33、879歩(推定距離25.4km)    GPS距離24.2km
行程表
亀崎駅 0:35> 12番 0:35> 13番 0:05> 14番 0:20> 15番 0:30> 17番 0:05> 16番 0:45> 番外 0:15> 18番
 
0:20> 19番 0:10> 20番 1:30> 21番 0:40> 22番 0:05> 23番 0:10> 武豊駅

                                  18番光照寺(次郎長地蔵)

 
                光照寺山門                              光照寺本堂

 番外から18番光照寺(こうしょうじ)へは来た道を乙川西宮交差点まで戻るのだが、その間の道は細くて車も通れない道が
指示されていた。民家の間の小路だが通路として利用されているようで丁度宅配の人が配達する荷物を持って歩いていた。
こんな道は地元の、それもこの近くに住む人しか分からないような道だが、YAHOO!の徒歩地図ではシッカリ案内してくれる。
心強い遍路の友です。

 光照寺の駐車場が県道に面して分かりやすかった。駐車場から入るのを止め白塀沿いに回って山門から入った。
鐘楼になった山門も立派で、先程打ってきた観音寺に比べ大分内福な寺のようだ。

               
                         観音堂                                弘法堂内

 二層になった立派な観音堂の建物は何処かで見たような感じがするが、長野の北向観音? ウーン思い出せない。 
弘法大師はその観音堂の中に祀られていたが、私の興味は祭壇の正面上に掲げられている絵馬に移っていた。
絵馬には甲冑姿の武者が戦っている姿が描かれていたが、何を祈願した絵馬なのだろう? 知多半島で有名な戦があったとは
聞いた事はないが。

 
          本堂と観音堂を結ぶ渡り廊下                          次郎長地蔵。

 本堂と観音堂を結び渡り廊下は、渡り廊下とは云え簀子状の板を置いてあるだけの物ではなく、2階の室内の延長のような廊下
で、廊下の下は外の人が横断する通路になっている。所謂立体交差だがこの形式の渡り廊下は大きな寺院で見かける事がある。
静岡県内では可睡斎で見た事がある。

 境内に 「清水次郎長地蔵」 と書かれた祠があり、中には地蔵ならぬ観音さんらしき石仏が祀られていた。次郎長がこんな所に
祀られているとはと興味を覚えて、納経の時に質問すると 「次郎長地蔵尊の略縁起」 と書かれた1枚の資料を呉れた。
 「穂北(ほげた)の久六は次郎長と親交を結んだが悪行の数々を働き、再三次郎長から訓告されていたが、これを逆恨みし、
また次郎長の名声を妬み上司に次郎長の誹謗中傷をする。
次郎長は大衆を救わんがため大政、森の石松、八五郎の3人の子分を引き連れ、亀崎街道の乙川畷で久六と対峙し久六の
右腕を切り落とす。
この一戦の前に次郎長は道端に祀られていた地蔵尊に、久六克服の心願をかけ遂に本望成就した。それ以来地元の人々は、
この地蔵尊を “次郎長地蔵” とか “勝軍地蔵” と敬崇した。
明治初年亀崎街道は県道としての拡張工事に伴い、地蔵尊は光照寺境内に移築し現在に及び。地方の一名所になる。」


 資料は地元の久六を貶し次郎長を持ち上げているが、これでは久六と次郎長の関係が分かりずらい。そこで次郎長に関しては
毎回お世話になる次郎長のHPから引用し紹介します。

 「次郎長39歳の時、甲州の祐天との間に争いが起こり、次郎長は祐天の親分である甲府の隠居を斬ってしまい、役人に追わ
れる身となった。次郎長は妻のお蝶と子分と共に瀬戸の岡一の家に身を隠した。(この時に久六との縁ができたようだ)
瀬戸で身を隠しているとき、お蝶が病に倒れ名古屋の長兵衛の家に移ったが、そこでお蝶は帰らぬ人となってしまう。
 翌年になると親身に世話をした久六が裏切り、捕吏に次郎長が長兵衛の家に身を隠していることを密告してしまう。
この久六の密告により、捕吏が長兵衛の家に踏み込み、次郎長は逃げ切るものの長兵衛は囚われ、その後牢死してしまう。
次郎長はすぐに子分の大政・森の石松を引き連れて金毘羅参拝をし、知多亀崎乙川において久六を斬って長兵衛の怨を晴らす。
 その後、久六討伐のお礼参りに、森の石松を金毘羅神社へ代参に向かわせた。」


 これで次郎長と久六の関係が大分理解できた。それにしても次郎長が四国金毘羅さんに参拝したのが、久六討伐のためで
石松の金毘羅代参がそのお礼回りだったとは知らなかった。石松はこの代参の後、殺されてしまったのだから分からないものだ。

 次郎長と久六の関係はこの位にして、問題の地蔵だが私が見る限りではお地蔵さんには見えない。貰った資料には何か難しい
言葉でこんな事が書いてある。
「地蔵尊を敬崇し、大衆諸人日夜参詣多く所願満足、如意吉祥の三尊(阿弥陀、観音、地蔵)救世主として信仰篤し。」
ここに書かれた意味は何だろう。地元の人は地蔵尊を三尊と同じように信仰したという事か、それと地蔵尊と云いながらも
阿弥陀さんでも観音さんでもあったという事か。分からない。

 何しろこの資料は50年前の昭和37年に作成されているので、古い言い回しが多く読みずらい。と書くと突っ込みが入りそうだ
 「では昭和37年には、お前は何をしていたのだ」 と。ハイその年に私は就職をした古い人間です。


                             番外から18番光照寺への道