はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠州33観音6-2

2010-10-30 10:51:21 | 寺社遍路
「駅から遍路」
 遠州33観音6回目  遍路日2010/10/27 距離46.4km 歩行時間8時間55分

鷲津駅 ― 24岩松寺 ― 25正太寺 ― 26閑田寺 ― 27龍泉寺 ― 28龍秀寺 ― 
 6:45      7:50       8:45      9:45       16:45      17:09
          4.6k       7.6k      11.4k      43.2k      45.1k    
積志駅
 17:40
 46.4k

                      26番閑田寺(浦)
               

今来た道を少し戻り西宮神社の所から小山を越えて松見ヶ浦にでる。
この道の入口に浜名湖メグロード」と書かれた標識があったが、この標識は自動車用か歩行者用か分らなかった。自動車用にしては小さくて走っていては見落としてしまいそうだし、歩行者用にしては目的地が遠すぎるような気がする。
この後も何度かこの標識を見かけるのだが、その設置目的が分らなかった。家に帰り調べてみると、どうやらサイクルロードらしい事が分った。
そう自転車ならあの位の大きさで、あの距離なら丁度良いだろう。

ビニールを外したハウスが何棟かあった。そこには背が低く枝が根元から何本も出た木が植わっている。何だろう?ハウスで栽培する木だとブルーベリー?いや違うブルベリーにしては背が低く込みすぎている。所々に咲き残りなのか、咲き初めなのか分らないが花が咲いていた。近づいて見ると「こでまり(小手鞠)」の花だった。こでまりって春咲く花ですよね。それをハウスで促成だか抑制栽培をさせているのだろう。


 

松見ヶ浦に入るとマリーナや別荘が目立ち始めた。湖は波が無く静かなものだ。ただ水の色が茶色というか濃緑というのか余り綺麗に見えない。近づいてみれば汚くないのだが何故外国の湖のように青く見えないのだろう。NZで見た湖はどれも青く輝き、それだけで感激してしまった覚えがある。

湖と云うと私は大きい湖は余り好きではない。琵琶湖、猪苗代湖、十和田湖など大きいだけで風情を感じない。それより山にある小さな湖の方が好きだ。例えば上高地の大正池や明神池。八ヶ岳の白駒池などは訪れるたびに感動してしまう。
ここ浜名湖もその例に漏れず大きいだけの湖で繊細な綺麗さは無い。

               

ところで"浦"って何だろう? 私のイメージは浦とは丸みを帯びた海岸の事だと思っていた。だがここの松見が浦は入江のように深く陸地に入り込んでいる。それなのに浦?調べてみると
浦=海や湖が湾曲して陸地に入り込んだ所
入江=湖や海が陸地に入り込んだ部分。湾
となっていた。違いは湾曲だが湾曲とは弓形に曲る事となのだから私のイメージは間違いなかった事になる。そうなるとここは松見ヶ浦ではなく松見ヶ入江もとい松見ヶ湾が正しいだろう。

道はいつしか国道301号に合流し国道を暫く歩く。天浜線のガードの手前で国道を離れ旧道に入ると直に大きな木の陰に寺が見えてきた。あれが26番閑田寺だろう。

 


遠州33観音6-1

2010-10-29 14:20:08 | 寺社遍路
「駅から遍路」
 遠州33観音6回目  遍路日2010/10/27 距離46.4km 歩行時間8時間55分

鷲津駅 ― 24岩松寺 ― 25正太寺 ― 26閑田寺 ― 27龍泉寺 ― 28龍秀寺 ― 
 6:45      7:50       8:45      9:45       16:45      17:09
          4.6k       7.6k      11.4k      43.2k      45.1k    
積志駅
 17:40
 46.4k
               

今まで5回の遍路で25ヶ寺を打ち終わり、残すは8寺になった。そして今日は5寺回るのでもう結願も真近にだ。
今日のコースは東海道線の鷲津駅を出発して浜名湖の西側の3寺を打ち、そこから今度は浜名湖の北側を東に向けて歩く。最後は浜名湖を離れ浜松市の北部の2寺を打って天竜川近くまで歩くコースを予定している。

ゴール駅は天竜浜名湖線(第3セクタ)通称天浜線の宮口駅で、予定歩行距離46.7kになってしまった。しかしこの距離だと朝1番の電車の乗っていっても到着時間は18時を過ぎてしまうし、この時季の6時過ぎとなると既に真っ暗で周りの景色は見えない。
それでは歩いていても面白くないし、道の判断もつけにくい。と言って距離を残して2寺を次回に回すと、今度は一回では回り切れなくなる恐れが出てくる。さてどうしたものか----

地図を見ていて気が付いた。天竜川西岸には浜松から天竜までの遠州鉄道が延びている。そ電車を利用したらどうだろう。早速調べてみると最後の札所から天浜線の宮口駅までが7.9km。それに対し遠州鉄道積志駅だと1.1km。これなら薄暗いうちにゴール駅に着くことができるだろう。
次回のコースを調べてみると宮口駅から次の札所までは15.3km。積志駅からだと16.7kmと1.4km長くなるだけだ。しかも遠州鉄道の方が電車の本数が多く待ち時間も少なく早く家にも帰れる。料金は天浜線に比べ10円安い。

これで気持ちはほぼ積志駅着になったが心の奥に引っ掛かる物が残った。それは積志駅が私鉄の遠州鉄道だったからだ。
当初「駅から遍路」を始めるとき、その対象とする駅はJRと第三セクタそれに伊豆急を思い浮かべていた。それ以外の私鉄の遠鉄、大鉄、静鉄、岳南、箱根登山の電車はバス停の大きいものとして除外する気持ちが強かった。だが現実に今回の問題にぶつかり気持ちは揺れている。果たしてどちらの駅にすべきか、ハムレットの心境だ ------

仕方ない最後の札所に着いたとき明るかったら宮口駅、暗かったら積志にしよう。そんな心境で蒲団に入った。

                      24番岩松寺(鷲津)
                  

鷲津駅を6時45分出発。
今日は寒い! 先週まではシャツとチョッキだったが、今日は下着を着て、チョッキの上にはジャンパーも着ているがそれでも寒い。
昨日は北海道は初雪で関西では木枯し1号が吹いたとか。今年は何とも極端な気候だ。猛暑の残暑が続いていると思ったら秋を跳ばして一挙に冬になってしまった。
しかし歩きにはこの程度の寒さが丁度良い。寒さは歩けば暖かくなる。

                

ここ鷲津は駅は鷲津だが湖西市の中心地になる。では何故駅が鷲津かと云うと昭和の合併のとき鷲津、白須賀など5ヶ町村が合併して湖西町になった。その時中心だった鷲津町の駅がそのまま残ってしまった。
本来なら湖西駅にした方のが通りが良いがコンピューターの無い当時の国鉄では駅名の変更は難しかったろう。全国の駅に鷲津→湖西の変更通知を出したとしても、実際に窓口で湖西駅への切符を買に来た客に「湖西なんて駅はありません」と駅員が言いかねない。
しかし平成の合併で新居町と合併した時なら変更は可能だったような気がする。なぜなら現在はコンピュータの時代で、駅員が駅名を憶える必要はなく、機械で全国一斉に変更できるだろうから、やろうと思えば出来るはずだ。
尤も元の鷲津町の住民はそのまま鷲津駅の方が嬉しいかもしれないが。

 

浜名湖の姿は時々右手に見えてくるが、その全容は見えてこない。でも焦る事はない、そのうち嫌というほど見えてくる。
国道を離れ湖岸沿いの道に入る。といっても湖は見えない程度の内側の道を行く。そんな道を暫く行くと、もう24番岩松寺に着いてしまった。

この寺は近代的デザインとでもいうのか寺にしては洒落た格好をしていた。
境内に置かれたベンチを見ると寄贈元が愛知県豊橋市の石屋になっている。この辺りの経済圏は浜松ではなく豊橋なのだろうか。前回の白須賀の寺にも豊橋の業者のベンチが置いてあった。
他には特に気を引く物も無く早々に出発した。


                      25番正太寺(半跏思惟像)
                    

次の札所正太寺への道は車も少なく静かな道が続く。途中西洋ススキのパンパスが所々にある。栽培しているのだろうか、ある所にはまとまって生えていた。

正太寺の前に来てやっと浜名湖の全容が見えた。南には前回歩いた弁天島方面、東には舘山寺の観覧車も見えている。生憎曇っているので湖水の色もハッキリしないが私の写真技術ではこの程度にしか写せない。尤も技術も何も被写体にカメラを向けシャッターを押すだけだが。

 

寺への参道を登って行って見えた札所はこんな建物でした。

 

読経していて面白いことに気が付いた。
本堂の入口のガラスに海と参拝している私が写っている。分りますか?

               

境内に変わった物があった。形は石灯籠だが灯を燈す所は無く、その部分に仏像を彫ってある。こんな形のものは何と呼ぶのだろう?少し調べたが分らなかった。
隣の石仏は私の好きな石仏のポーズで、弥勒菩薩の半跏思惟像だと思うのだが、この石仏は指の位置が悪い。指は頬に触れるか触れない程度が良いのに、ここのは手が頬杖のようにしっかり頬に密着してしまっている。これでは半跏思惟像が居眠りしているようになってしまって思慮深さが感じられなくなってしまう。
マー分かりもしない事を云うのはこの位にしておこう。

           

タイミングよく住職が出てきたので朱印を受けた。そのとき境内にあったハイキングコースの事を尋ねると「春は花が咲いて綺麗ですけど、この時季は夏草がはびこっていて歩きにくいでしょう」だった。
今日はまだ先が長い自重しよう。
   

遠州33観音5-4

2010-10-28 15:10:29 | 寺社遍路
font size="3" color="red" style="line-height:160%;">「駅から遍路」
 遠州33観音5回目  遍路日2010/10/20 距離46.3km 歩行時間8時間27分

豊田駅 ― 31成金寺 ― 弁天島駅 ― 新居駅 ― 22蔵法寺 ― 23礼雲寺 ― 
 6:10      9:00       12:00     12:50      14:20      15:10
          12k       27.1k     30.9k      37.3k      39.4k    
鷲津駅
 16:32
 46.3k
                      23番禮雲寺(須賀)

               

蔵法寺を出て旧の東海道を西に進む。道が二股になっていて右は「旧道」と書かれた坂道。左は「新道」と書いてある比較的なだらかな道。
さてどちらにしよう。旧道とは東海道より以前の道を指しているのか、東海道そのものを指しているのか分らない。自作の地図を見てみるが何故かこの分岐が無い。
雰囲気的には右の坂道の方が東海道と思うが----エイ!このさい楽な方を行ってやれ。と新道の方を歩き出した。歩き出して直に左側の国道が近づいてくる。ここで考えた。あの新道と表示してあったのは旧国道1号線を指していたのではないか、そして旧道とは旧東海道を指していたのだろう。慌ててさっきの分岐まで引き返して坂道を上り始めた。

それにしても急な坂道だ。今日の行程には上り坂は無いだろうと思っていたのに予定外だ。こんな傾斜の強い上り坂は遠州33観音では初めてだ。ブツブツ云いながら坂道を上る。
右手に合流する道があった。
アレー若しかすると、と慌てて手製の地図を見てみると、分りました。昨夜作った地図は蔵法寺を出たら街道まで戻らず、寺の横の道を北に向かうようになっている。
それを寺を出て無意識に街道まで戻ってしまったので、さっきの分岐が地図に載っていなかったのだ。
それにしても急な坂だ。35k以上も歩いてきた足には、かなりきつい坂だった。

坂?? そうだこの辺りで坂といえば潮見坂がある。この坂が潮見坂か?
しかし辺りを見回しても林ばかりで海は勿論、木以外のものは見えない。
やっと平らな所に着いた。右側に「おんやど白須賀」と書かれた建物がある。こんな所に泊まる人がいるのかなと不思議に思うが営業はしてるようだ。その横に石碑や看板が立っている。立ち寄ってみるとこんな浮世絵の看板がありました。

 

今歩いてきた坂道は、矢張り潮見坂だった。それにしてはこの浮世絵は偽りだ。坂から海など見えなかった。それとも江戸時代は見えたのかな?尤も安藤広重は実際に現地は行かずに想像でも描いていたというから、ここも名前から連想して描いたのかもしれないな。

更に道を進むと、また石碑が立っていた。そしてそこからの景色は紛れも無く海が見えた。浮世絵ほどではないにしろ、山と山のV字の間に海が見える。写真は生憎天気が悪くハッキリしないが海は見えました。
地の上に来ると中学や小学校があって、その先からまた道の両側に家並みがでてきた。
ここが宝永の地震のとき下から逃げてきた人達が新たに宿を作った場所なのだろう。確かにここなら津波の心配は無いだろうと感じる場所だった。

畑でお婆さんが作業をしている。見ると畑の土の色は赤土特有な赤茶けた色をしている。これではこの宿は白須賀では無く赤須賀が似合っているーーーー
実は「須賀」の意味を大須賀、横須賀が続いた時に調べてみた。
スカ=海水などにより生じた砂地。 からきているようだ。
大須賀は大きい砂地。横須賀は砂地が横にある。そして白須賀は白い砂地があったからだろう。その連想から赤須賀と言ったが、赤土は砂ではありませんね。済みませんでした。

       

23番禮雲寺はこじんまりした札所だった。境内には不動明王の下が水琴窟になっていたり、子供を抱いた観音さんの胸がはだけていて乳首まで見えていた。
タイミング良く寺の人が外に出てきたので、ご朱印をお願いした。するとご朱印を終えた朱印帳を三宝にのせ持ってきて、「ご供物です。どうぞ」と私に差し出す。三宝の上には、ご朱印帳以外にも菓子袋や熨斗紙で包んだ物、印刷物などがある。ビックリしていると
「これは、うちの住職が毎月発行している「枯木堂」です」と印刷物を指す。枯木堂?どこで聞いた事がある名称だ?考えたが思いつかなっかたので、一先ずお礼を言って受け取った。

四国を含めて何回かお接待は受けたが、今回のように三宝にのせた物を受け取った事やそれを供物だと云われたのも初めての経験だった。
熨斗紙の物は中に高級な煎餅が2枚入っていた。 有難うございました。

「枯木堂」の事は、このあと歩きながら考えていて思いついた。たしか遠州33観音の霊場境界のHPの中で見たような気がする。自信が無かったので家に帰りHPを見てみたら間違いなくイベント情報の中に枯木堂がのっていた。
そうそうこのHPは良くできていて札所案内の中には寺の縁起や見どころは勿論のかと、花便りとか寺への略図も掲載されています。ここの遍路を考えている人は一読すると良いと思います。
実は私も遠州33観音のHPの作成を考えているが、今まで作った駿河や遠江のような形式では、このHPの後追いで程度の低い内容のものしかできない。ではどんな形にすべきかと歩きながら考えているところです。

               

寺を出て鷲津駅に向かう。道は今来た道を小学校の所まで戻り、そこから北の方角に向かう。
途中にこんな綺麗な花が咲いていた。合歓の木の花?でも合歓の木の花は夏咲くのではなかったのか?しかし葉っぱも合歓の木だった。

そして今年はやけに目につくセイタカアワダチソウ。この草は猛暑が適応するのか到る所に咲いている。外国からの帰化植物のこの草が各地にはびこりだした頃、私の住む地域でも住民総出でこの草を刈り取った事がある。何でも喘息やアレルギーに良くないと言った理由だったが、今写真を撮るために近づいてみると、私の息で今にも黄色の花粉が飛んできそうだった。

 

しかし最近ではアレルギーの元というと杉が主体でセイタカアワダチソウの名前は出てこない。アレルギ-の元では無かったのか?では部落総出の刈り取りは何だったろう。考えてみれば不可解な事が多い。

「おんやど白須賀」ほ宿ではなく、市営の白須賀宿歴史拠点資料館で白須賀や東海道の歴史を紹介しているようです。次回は寄ってみようと思っています。

遠州33観音巡り

2010-10-27 21:42:49 | 寺社遍路
6回目の遠州33観音巡りに行ってきました。
コースは鷲津駅を出発して浜名湖の西側から北上して約半周して浜松市の北部に出るコースでした。打った札所は5ヶ寺。残りは遂に3ヶ寺になりました。次回で遠州も結願です。

それにしても今日は寒かった。1週間前は下着は着てなかったのが、今日は下着を着て、更に一番上にジャンパーまで着たのに寒かった。手袋を持っていかなかったのでポケットに手を入れて歩いていた。

遠州33観音5-3

2010-10-26 20:09:03 | 低山歩き
font size="3" color="red" style="line-height:160%;">「駅から遍路」
 遠州33観音5回目  遍路日2010/10/20 距離46.3km 歩行時間8時間27分

豊田駅 ― 31成金寺 ― 弁天島駅 ― 新居駅 ― 22蔵法寺 ― 23礼雲寺 ― 
 6:10      9:00       12:00     12:50      14:20      15:10
          12k       27.1k     30.9k      37.3k      39.4k    
鷲津駅
 16:32
 46.3k
                      22番蔵法寺(白須賀宿)

               

舞阪宿と弁天島駅は一つ橋を渡ればすぐ着いた。今丁度12時でここまで27km歩いている。やっと半分強の距離でしかない。だが舞阪宿まで降っていた雨もあがったので気を取り直して歩き続けよう。

ここ舞阪は潮干狩りの有名な海岸で5月ともなると静岡県の中西部、そしてお隣愛知県の三河の方からも潮干狩りの人が集ってくる。そのため浜松西IC付近は毎年渋滞してしまっている。
私も子供が小さい頃は毎年のように来ていたが、最近はサッパリご無沙汰している。
当時は渡船に乗らなくても、それなりの収獲があったが、今は乗らないと収獲は望めないようだ。根っからのケチな私としてはタダで取れる山菜や貝などを取るのは大好きだが、お金を払うとなると二の足を踏んでしまう。それに子供が大きくなった事もあり今は来なくなっていた。

 

舞阪駅前には潮干狩りや海水浴客を目当ての大きなホテルが建っていた。しかしどのホテルも自動車が停まっていない。2~3日前の新聞に弁天島の大きなホテルが二つも閉鎖したと書いてあったが、その影響だろうか。
一時のバブル景気で調子に乗り大きくなったところで、今回のリーマンショックで潰れてしまった所もある。それはそれで仕方ないだろう。未来永劫同じところが繁栄していたのでは不公平だ。時代によって繁栄すところ消滅するところがあってこそ自然の摂理だ。
「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず」と平家物語に謡われている。娑羅双樹の花は知らないが、土手を赤く染めていた彼岸花の花は今では見る影もない。

舞阪から新居までの国1の歩道は、今年の春、浜名湖一周ビックウォーク55kで歩いた事がある。あの時は既に50k歩いた後のゴール真近かだったの、この歩道が辛かった。特に歩道が側溝に向かって少し斜めになっているのが歩きづらくて嫌だった。今日はまだ28kでそれほど疲れてはいない。だが矢張り歩きにくくて側溝の蓋の上を歩いてしまった。
水捌けをよくすために仕方ないだろうが、もう少し歩きやすい歩道にして欲しい。

鉄橋で釣りをしている人がいる。その人達は保護用の金網の外に出て釣っている。どこから外に出たのか見てみると、金網を止めてあるネジを外し金網をまくってしまってあった。
そんな場所が何ヶ所もあり、金網の外への出入りは自由の状態になっている。これは明らかに器物破損罪に該当すると思うが黙認状態になっている。ただ一見する限り金網の外にも枠があり安全そうに見えるが。
このように不法行為が起きた原因は金網と外枠の間が人が通れるくらいの隙間がある事だと思う。枠と金網をどちらが先か、同時に取り付けたかはしらないが、わざわざお金を掛けて隙間を作り無法を助長さているようなものだ。
金網の設置者が真から安全を考えたら枠との間に隙間を作らないか、金網だけにしたと思う。また金網の外に出た人の安全を考えて枠を設置するなら金網は要らない。
結局役所は事故が起きた時「安全は二重にした」と弁解するため、金を使って地元の無法状態を宣伝しているような物だ。

 

やっと新居駅に着いた。東海道はこのまま真直ぐ新居関所に向かう。私は左にカーブする国1に添って進む。
川の両側に漁船が係留してある。若布だろうか海草を満杯に積んだ舟も走っている。普段見かけないこんな風景を見ると、如何にも旅に出ている感じがしてくる。
「知らない街を歩いてみたい~」を望んでいる私としては非常に満足した気持ちになる。

旧道に入り暫く進むと前方左に大きな木が見える。立派な寺の境内にある槙の木だった。カヤの木とかなら見たことがあるが槙でこれほど大きいのは初めて見た。この寺はやけに大きく立派な寺だった。

アレー前にザックを背負った人が歩いている。あの服装は新居駅の辺りで私の大分前を歩いていた人だ。確かあの人は駅に寄らず関所の方向に向かったので、てっきり東海道を歩いていると思った。なのにこんな所を歩いているなんて何だろう?
立ち止って看板を見ている。アッ歩き出した。
私もその場所で立看板を見てみると「旧東海道の----」(忘れた)と旧東海道の事が書いてある。
何故だろう? 旧東海道は新居の駅から西の関所の方に向かったはずなのに、何故こんな看板があるのだ。
手製の地図を確認するが私が道を間違えたようでもない。幸い前を歩く人の足取りは遅い。追いついて聞いてみよう。
「東海道を歩いているのですか?」
「エーそうです」
「今日はどちらからですか?」
「浜松からです」
「私は遠州33観音を歩いています」
「そうですか」
同じような年頃の男性だったが会話が弾まない。しかし目的は達せられた。矢張りこの道は東海道だったのだ。

考えてみると私の東海道の知識は小田原から浜松までで、その先のことは殆ど知らない。浜松の次の宿場は舞阪で次は新居? ではその次は、となると???だ。
いやいや宿場どころかJRの駅の名前も覚束ない。
浜松-舞阪-弁天島-新居-新所原-程度は思いつくが後は分らない。同じ静岡県でも浜松以西となると殆ど来る事もなく他県の様な感じになってしまう。
因みに正確な駅の順序は浜松-高塚-舞阪-弁天島-新居-鷲津-新所原だった。

余り東海道の事を書くと本番のとき紹介することが無くなってしまうので、今回は少しに留めておこう。ただこの立札だけは紹介しておこう。
「明治天皇御野立所跡」として
「明治元年9月20日東京へ行幸のため、京都を出発した明治天皇が、10月1日に豊橋から新居に向かう途中休憩した場所。明治天皇はその後新居の本陣に宿泊10月13日に東京に着いた」と書いてあった。
明治天皇は京から江戸までを23日間掛かり、豊橋から江戸までを13日掛かった事になる。すると私の予定している駿河と遠州の東海道はどの位かかるだろう。豊橋―江戸間の半分として6日か7日。天皇一行はきっとゆっくりだったろうから更に短くして5日。
ヨシ! 5日を軸にして計画を練ってみよう。

「東海道53次白須賀宿マップ」の案内板もでてきた。どうやら新居の宿の次の宿場は白須賀だったらしい。白須賀は余り聞きなれないが、確かこの辺りは潮見坂があったはずだとマップを見てみると、あったあったマップの中央辺りに潮見坂がでていた。
それにしても長い宿場町だ。記載されている距離を合計すると4kmにもなってしまう。何か理由でもあるのだろうか。

 

古い民家もチラホラできた。チョット気になった事があったが、それは本番の時の話題にしよう。

 

露地の奥に開放的な良い雰囲気のお寺が見えた。ここが22番札所蔵法寺だった。山門越しに見える芝生の緑や低い裏山、広々とした境内がこの寺を明るくさせている。鬱蒼とした木々のある境内、所狭しと石仏を置いた境内など色々のお寺を見てきたが。この様に広い空間があった寺はあっただろうか。余り覚えはない。

犬が2匹繋がられているが私を見て一度立ち上がったが、また座ってしまった。私を不審者ではないと判断してくれたのか。オット今度は猫が来た。やけに馴れ馴れしい猫で身体を私の足に押し付けてくる。握飯を飯を食べ始めると私の膝に前足を乗せて「ニャーニャー」泣きながら呉れろとせがんでくる。
どうも生き物は苦手で、猫の目を見ていると今にも飛び掛ってくるのでは心配になる。何処かの札所のように「ワンワン」吼える犬も困るが、こんな馴れ馴れしい猫も困る。

境内に潮見観音が立っていた。その紹介の立札にこんな事が書いてある。
「宝永4年(1707)10月4日大地震が発生して、そのとき起きた大津波によって元町宿は一瞬にして呑みこまれてしまった。そのとき坂の上に逃げてた人で、そのまま坂の上に住んだ人もいる」
そうか白須賀宿が4kも長いのは、この影響なのかもしれない。津波の前は坂の下が宿場町だったが、津波で被害を受けた宿は坂の上で再建した。だから宿場が長くなったのではないか--- 来年東海道を歩く時までに調べておこう。

 

そうそう、この寺を22番札所と書いたが実際は今は札所を返上して、22番は違う寺になっているようだ。遍路を始める前にその情報を知ったので札所霊場会に問合せたが返事が無かった。
ただ私の遍路は信心ではなくウォーキングが主なので、札所ははっきり言ってチェックポイントに過ぎない。だからあまり気にはしていない。とは言ってもそのチェックポイントの雰囲気で満足感は随分変わってくるが。そういう意味でここは札所から外れるのは残念な気がする。

遠州33観音5-2

2010-10-25 11:16:32 | 寺社遍路
font size="3" color="red" style="line-height:160%;">「駅から遍路」
 遠州33観音5回目  遍路日2010/10/20 距離46.3km 歩行時間8時間27分

豊田駅 ― 31成金寺 ― 弁天島駅 ― 新居駅 ― 22蔵法寺 ― 23礼雲寺 ― 
 6:10      9:00       12:00     12:50      14:20      15:10
          12k       27.1k     30.9k      37.3k      39.4k    
鷲津駅
 16:32
 46.3k
                      22番蔵法寺(舞阪宿)

               

次の札所蔵法寺までの予定距離は22.9kある。これは2回目の御前崎から掛川駅に戻った時の距離に次いで長い距離になる。雨が降っている中の歩きになるので嫌になったら途中で止めればいい、幸い途中にはJRの駅が幾つかある。と半分やけ気味で歩き出した。

このルートは札所を出て暫くすると旧東海道にぶつかり、そのまま旧東海道を新居まで歩く事になる。折角、来年県内の東海道を歩こうと決心したのに、その道を事前に歩いては本番の時の楽しみが半減してしまう。そんな気持ちがあるので余計気が重い。

実は昨夜こんな気持ちがあったので別のルートを考えていた。
それは浜名湖の尤も海寄りを走っている国1の浜名湖バイパスを歩いて浜名湖を渡るルートだ。幸い次の札所は海寄りにあるので距離も近くなる。
ほぼそのコースにしようと思ったが一つ不安が浮かんだ。それは歩行者用の歩道があるかどうかだ。
先日歩いたバイパスでは歩道が無くて危険を感じたが、明日歩く浜名湖バイパスはそれに比べ全然距離が長い。更に海の上にあるので歩き出したら途中での逃げ道は無い。
そして調べてみると、アー良かった!この浜名湖バイパスは歩行者や自転車は通行禁止だった。
アー良かった!の意味は通行禁止だったからでなく、調べて良かったという意味です。若し調べずにバイパスまで行ってしまったらと考えただけでも疲れてしまう。
そんな訳で嫌々東海道を歩く事に。

東海道に入る前にこんな風景があった。近頃では珍しい刈り取った稲の天日干の先に浜松駅近くのアクトタワーがあった。もう浜松駅より西に来ていることになるだろう。
ところでこの稲の干し方は何て言ったけ?。くい掛け?はさ掛け?

 

東海道に入ると流石東海道!街道沿いにある神社の大きい事。
諏訪神社、熊野神社、稲荷神社と聞きなれた神社の規模が大きい。正面の向きが違くて名前が分らなかったが狛犬の代わりが鹿だった神社もある。春日神社?でも後で地図を調べてみると春日神社は無く愛宕神社の名前があった。

更に進んでいくとこれぞ東海道と言った松並木に出くわす。東海道の松並木は今までも見たことがあるが、こんなに松の数が多いのは初めてだ。それこそ今までは松並木跡でしかなかったが、ここは松並木と言い切ってもいいだろう。また車の数が少ないのもいい。

 

松並木が終わり国道1号を横断して舞阪宿の町並みに入る。
お祭りが近いのか宿場の入口には祭りの幟が立ち、家々の前には竹を立て注連縄をズート通してある。でも何かものたりない?なんだろう。 アッそうだ四手が付いていないのだ。矢張り縄にあの白い紙が付いていないと気分が盛り上がらない気がする。
きっと小雨が降っているので付けるのを遅らせているのだろう。

歩いていて感心した事がある。それはどこの家の前の竹がピンと自立している事だ。私の子供の頃は道路に浅い穴を掘ったり、電柱等他の物に抱き合わせたりしていた。そのため竹が斜めになったり、列が曲ったりしていたが、ここのはピシッと立っている。
竹の下を見ると道路に取り付けられている管の中に差し込んである。そのためにどの竹も真直ぐたっている。

見てみれば何でもないことだが、道路工事のときに気が付いて管を埋め込んでから舗装したのだろう。
祭りと関係ない道路工事で、それに思いつくのは祭りに対する愛着が強いからだろう。

 

舞阪宿の西の突き当たりは海になっている。昔の旅人はここから渡し舟に乗って対岸の新居の関所まで船旅になったようだ。
そして今の旅人は国道1号線横の歩道を排気ガスを浴びながら歩かなければならない。

              

写真の後ろの方に写っているのが浜名湖バイパスです。


遠州33観音5-1

2010-10-23 15:36:16 | 寺社遍路
font size="3" color="red" style="line-height:160%;">「駅から遍路」
 遠州33観音5回目  遍路日2010/10/20 距離46.3km 歩行時間8時間27分

豊田駅 ― 31成金寺 ― 弁天島駅 ― 新居駅 ― 22蔵法寺 ― 23礼雲寺 ― 
 6:10      9:00       12:00     12:50      14:20      15:10
          12k       27.1k     30.9k      37.3k      39.4k    
鷲津駅
 16:32
 46.3k
               
今回も予定を変更した。前回磐田駅のゴールの予定だったのを豊田町駅まで引っ張ったので今日の行程に余裕が生じた。そこで今日中に22番と23番を打って鷲津駅をゴールとする43kのコースに組み直した。
40kを越えてもこのコースは平坦の道のはず、だと思うので何とかなるだろう。
それでも朝を早めて始発電車に乗ることにした。

                  31番成金寺(なりきん)

               

当初10月20日(水)を予定していたのだが、天気予報が芳しくない。降水確率60%ではチョット気後れしてしまい、降水確率の低い21日木曜日に変更する気でいた。
それが火曜日の夜のTVの天気用では翌日の降水確率が20%になったのを見て急遽予定通り水曜日に歩く事にした。

そして水曜日午前4時起床。準備万端整えて家を出てみたら、何と雨が降っていた。
弱い雨だが合羽か傘がなければとても歩けない状態だ。止めようかなー。とも思ったが折角4時に起きたのだ、行くしかないかと傘をさして自転車で駅に向かった。
天気は西から回復すると、淡い期待を抱いて豊田町駅に着いたが、残念雨は止んでくれなかった。合羽を着るほどでもないので傘をさして6時10分豊田町駅を出発した。

例により昨夜作成した地図を片手に進むのだが、地図が雨に濡れると印刷が滲んで見えなくなってしまう。傘で隠し濡れない様にして見るのだが、それも度々だと面倒になり「要は天竜川の掛塚橋を渡れば良いのだ」と道路標識を見ながら進む事にした。

              

掛塚橋とは国道150号線の天竜川に掛かる橋で渋滞の名所としても知られている。次の札所が浜松駅の南側にあるので国道1号の東海道を行くより、海よりの150線の方が距離が短いだろうと判断して掛塚橋を目指している。

豊田町からの道が150線に出合ったのは掛塚橋のすぐ袂だった。幸い自転車と歩行者専用の橋があったため傘をさしていても歩きやすかったのでホッとしながら歩いていた。車道を見ると通勤時間帯だからか噂通り渋滞している。それも上り方面の方が込んでいるようだ。
確か夕方の交通情報でも上りの渋滞を毎回知らせているのに朝も上りが渋滞している。
何か分けがわからないが間違いなく上りの方が渋滞していた。

天竜川を過ぎたら150号と離れて県道316を西に国道1号まで行けばよい。今日は地図の先、先の目的地を決めて余り地図を見ないようにして歩く。サー国1が過ぎた。次の目標は何所にしよう。と地図を見るが中々適当な物がない。札所に近づいた事もあり通り過ぎては困るといった事もあり、結局時々地図を見るようになってしまった。お陰で札所に着く頃は地図はグニャグニャになってしまった。

         

8時30分31番成金寺に到着。豊田町駅から12k、時速5.1kの速さになるが雨で傘をさしているにしてはマーマーの早さだろう。雨も少し小降りになってきたようだ。
31番成金寺は最近31番に指定されたらしく寺の前の看板も余り有名でない遠州薬師霊場になっている。
寺は寶林山成金寺。なんとも縁起がよい名前だが「なりきん」ではなく「じょうきん」だった。しかし寺の中の様子や石仏などを見ると「なりきん」そのままといった風情もある。
山門の右手には黒光りをした財宝地蔵なる物が鎮座していて、境内の奥には七観音堂があり、近づくとスピーカーから自動的にお経が流れてくる。

 

堂内には馬頭観音を初めとし聖観音、千手観音などの石仏が安置され、その下の台座にも浮き彫りされた石像が嵌め込まれていた。

更にこの七観音の後ろは戒壇巡りになっていて、不動明王の下の垂幕の中に入ると真暗の闇が待っていた。と書きたいところだが途中に石像を照らした豆球があって中は薄ボンヤリしていた。

 

このお寺何も新しい物ばかりでなく古い感じの良い石仏もあった。寺の縁起書を見ると昭和29年に寺は焼失し、それ以後20年も無住になり昭和55年に再興されたとある。
再興した住職は信者や檀家を求め色々手を尽くしているのだろう。
そうそうこの寺が正式の札所になったのは最近の事で、私の持っているガイドブックには成金寺は掲載されていない。
歴史の浅い遠州33観音でも寺まで歴史が浅いのは困るだろうから、成金寺が札所になるには住職の相当の努力が必要だったと思う。その努力が実り歩が金になることを願っています。

  

雨も大分小雨になってきた。次の札所までは25km以上はある。そろそろ出発しよう。

遠州33観音4-6

2010-10-22 17:07:09 | 寺社遍路
font size="3" color="red" style="line-height:160%;">「駅から遍路」
 遠州33観音4回目  遍路日2010/10/6 距離29.7km 歩行時間5時間58分

袋井駅 ― 30可睡斎 ― 29法雲寺 ― 17宣光寺 ― 18福王寺 ― 20永福寺 ― 
 6:55      7:55       9:15      10:30       11:00      11:50
          3.3k      9.5k       14.1k       15.1k      16.8k

21観音寺 ― 19正医寺 ― 豊田駅
  13:05     14:50     15:06
  20.6k      28.1k     29.7k


                   19番正医寺(大池)

               

今日の当初の予定は21番を打ち終わったら磐田駅で終わる予定だった。だが昨夜ルートを調べてみると距離が26kほどしかないので物足りない。次の札所を調べてみると、磐田の次の駅豊田駅の近くにある。
そこで急遽19番の医王寺を追加したが、それでも30k程にしかならない、がたまに楽をしようと豊田駅をゴールにした。

              

21番を出るとズート県道や、それ近い面白味のない車道を歩かなければならない。
そこで昨夜ルートを作る時なるべく短距離で目的地に着くように、細い道や団地の中の道を選んでおいた。今日はその道を忠実に歩いている。

県道を離れ産業大学の横を通ると、グランドの芝生の散水を電気掃除機のような形の物でやっていた。長いホースを引きずって果たして移動が出きるのかたと見ていたが、一向に動く気配がない。移動を確認できないまま、こっちが移動せざるを得なかった。
あんな小さな図体で長く重い水の入ったホースを引っ張って動けるものだろうか。
無理な気がするが、何しろここは産業大学なのだから、そんな事は検証済みだろう。素人がいらぬ心配をすることは無い。

大学の次は灌漑用水用の溜池があった。名前を大池と言い、名前の通り大きな池で回りは葦が生えていて池と言うより沼に近い感じだ。
ここが遠淡海の残骸かとも思ったが水門もあり名前も池では、どうやら人工的な溜池で自然な物ではなそうだ。位置としてはここら辺りが丁度良いのだが諦めるしかないか。

ところが家で大池を検索するとこんな事が書いてある
「(大池にある)池主神社は、明治初年に大池の水利権をめぐる問題を公平に解決した松岡萬の功績をたたえ、建立された神社です」
ということは明治になる前からこの大池はあった事になる。更に
「この大池は淡水性の池ですが潮の干満により水位が上下する内陸性干潟という珍しい環境を有しています」とあるのは海と繋がっていた証拠か。

以上の事や今日歩いてきた感想から。遠淡海の結論を出した。
1.戦国時代は城之崎から大池にかけては今乃浦と呼ばれる海だった。
 根拠:徳川家康が城之崎で井戸を掘ったが真水が出なかった理由は、城之崎の先の今乃浦は湖でなく海だったから。
2.今乃浦は縄文時代には蜆が取れる淡水湖だった。
 根拠:西貝塚遺跡の発掘物は蜆が主だった
3.浜名湖より大きな湖か入江とすると現在の天竜川左岸から小笠台地まで続く事になる。
 そうなると国府となる磐田は平野部の少ない狭い国府になってしまう。

そんな訳で私の妄想的考古学推理は遠淡海=浜名湖という結論になります。
磐田にも縄文時代は大池を中心に淡水湖があったが、地殻変動により戦国時代は海と通じてしまった。更に江戸時代の宝永大地震の海の隆起により、大池となった一部を残し陸地となった。
これが私の結論です。つまらない話に長々つき合わせてご免なさい。

 

大池の横の団地の中を右に左に折れながら進む。手製の地図は細かい場所は出ていないが、所々にある会社などで道が正しいかどうかがわかる。
今も団地を出て工場の裏を通って川にぶつかったら、川に沿って西に向かう。
中々楽しくなる。オット新幹線のガードになったら左折して、また川沿いに北に向かう。
オリエンテーリングをやったことはないが、こんな調子でやるのだろうか。磁石で北を確認しながら地図の上を北に向ける。これだけで道の角度がハッキリして見やすくなる。
やっと東海道線に出た。この弧線橋を渡れば後は線路伝いに西に行き水路の所を曲れば最後の札所は近いはずだ。

貨物列車が走ってきた。どの車両も「TOYOTA」と書かれたコンテナを積んでいる。20両か30両、全てトヨタのマークが付いているので専用列車なのだろう。
そうか、とここでまた下らない事を思い出した。
最近読んだビックコミックオリジナルの漫画に、競争敵の自動車会社と鉄道が手を結び、貨物列車を走らせることが書いてあったが、あれは空想でなく実際の話を取材してあったんだ。成程ね。
しかしあのコンテナの中に新車は入れないだろうから部品なのか。部品となるとトヨタはカンバン方式を取っているので列車では即応できないはずだ。マーそんな事はどうでもいいだろう。閑な頭は余計な事を空想しすぎだ。

               

水路のある工場の間を曲ると聞いた事のない会社があった。
「高砂珈琲」聞いた事あります? 缶コーヒーでも見たことはないし、粉末のインスタントコーヒーでも聞いた事はない。一体どんなコーヒーを製造しているのだろう?
そうだ豊田町には香水の会社や香り博物館があったはずだ。若しかしてこの会社はコーヒーの香りの元を作っているのかな。
その香りの元を入れると、何でもコーヒー風味になる、なんて物を。

高砂珈琲の角を抜けると、ありましたありました。駐車場越しにお寺の屋根が見える。
今日の最後の札所19番正医寺に2時半に到着。

        

境内にチョット風変わりな灯篭があった。
全体的にはずんぐりむっくりしていてスマートさがない。一番上の宝珠の部分は徳利みたいだ。火袋の部分の彫り物は土瓶や茶碗など食べ物に関係あるものが浮き彫りになっている。更にその下の中台にはハートの模様が並んでいる。
中太りした竿の部分に「昭和55年」となっているので最近作られた物だ。これならお寺で理由を聞けば彫り物の意味が分るだろうと思ったが誰も出てこない。仕方ない諦めよう。

今日は結局1ヶ所も朱印を受けれなかった。こんな調子でいくと納経帳はどのくらい埋まるんだろう。
今日までに22札所を回って5ヶ寺しかご朱印を受けていない。
確立23%となると後2・3件受けてお終いになりそうだ。何とも値打ちの少ない納経帳になってしまいそうだ。

 

駅までは寺の前の道を真直ぐ1.5kも西に向かえば着く。
両側が田圃の道の先の一部に高いマンションが何棟も建っている。きっとあそこが駅だろう。
豊田町駅は新しい駅なので、駅の開設に伴い浜松などへの通勤する会社員を目当てにマンションができたのだろう。

駅前の広場に和服の女性のモニュメントが。
そうかここは長い藤の花で有名な「熊野(ゆや)の長藤」がある所なのだ。
樹齢数百年も経つ藤の木が国指定天然記念物に指定されていて、花の時季ともなると見物客で賑うという。
私も10数年前に一度来た事があり、場所は磐田だと思っていたが正確には豊田だったんだ。もっとも今では豊田でも磐田でもどっちも間違いではなくなったが。

そうそう和服の舞姿で藤を思い出したのは、藤の花を植えたのが「熊野(ゆや)御前」という人だったのを覚えていたからだ。

午後15時6分豊田駅に到着。
距離を延長しても、まだ30kにも届かない距離で今までで一番楽だった。

遠州33観音4-5

2010-10-21 09:22:35 | 寺社遍路
font size="3" color="red" style="line-height:160%;">「駅から遍路」
 遠州33観音4回目  遍路日2010/10/6 距離29.7km 歩行時間5時間58分

袋井駅 ― 30可睡斎 ― 29法雲寺 ― 17宣光寺 ― 18福王寺 ― 20永福寺 ― 
 6:55      7:55       9:15      10:30       11:00      11:50
          3.3k      9.5k       14.1k       15.1k      16.8k

21観音寺 ― 19正医寺 ― 豊田駅
  13:05     14:50     15:06
  20.6k      28.1k     29.7k


                  21番観音寺(平成の大合併)

                  

21番札所は旧福田町にある。福田町で知っているのは、かってコールテンや別珍の織物の産地だったと言う事位しかない。
コールテン?別珍? 一体なんだと思う人もいるだろうが、私も厚手の織物というぐらいの知識しかない。そこで調べてみると。
「コール天とは、コーデュロイの別名で、縦畝(たてうね)のある綿ビロードの一種の生地をさす」とあったが良く分からない。別珍も
「ベッチン(別珍、綿ビロード)は、綿を横ビロード織りした織物。手触りがやわらかく厚手の光沢のある布地のため帽子、スカジャンになどに使われる」だって。

                

磐田市の広報に分りやすい記述がありました。
「別珍・コール天は表面がパイル(毛)で覆われた、光沢を帯び、滑(なめ)らかに仕上げられた織物です。コール天にはタテ方向に畝(うね)状の凹凸(おうとつ)がありますが、別珍には目立った畝はありません。実は、この地域での生産量は全国シェアの90%以上を占めているんです。しかも、世界中で日本が最も生産量が多い…と言うことは…世界一の生産地なんです」
へー今でも世界一なんだ!。ただ問題は現在の消費量がどの位あるかということだ。町の中を歩いていて繊維工場らしき屋根はあるが織機の音は聞こえなかった。

ここで大井川以西、天竜川以東の遠州の海岸沿いの町を紹介すると。
西から吉田町、榛原町、御前崎町、浜岡町、小笠町、大東町、大須賀町、浅羽町、福田町、竜洋町、更に海には面していないが菊川町と豊田町の12町があった。
一応全部の名前は知ってはいるが、その町の特徴となると余り分からない。
例えば吉田町には小山城があり、榛原町は海水浴場で有名な静波海岸がある。相良は田沼意次の城下町で、御前崎は言わずと知れた灯台がある。浜岡には原子力発電所があるが、この先からアヤフヤニなってくる。小笠、大東、大須賀と分らず浅羽に来てやっとメロンと言える。福田が別珍とコールテン、竜洋?豊田?全然知らない。菊川は東海道線に駅が、東名にICもあるが、それしか知らない。

それが平成の大合併により、殆どが吸収合併されたので、更に分からなくなってしまった。
今回どことも合併しなかったのは吉田町だけで、他の町は全て合併してしまった。
榛原と相良が合併して牧の原市に。御前崎と浜岡が一緒になって御前崎市に、菊川と小笠で菊川市になった。あとは掛川市に大東、大須賀が吸収され、袋井に浅羽が吸収された。残りの福田、竜洋、豊田は磐田市に吸収合併されてしまった。

むかし「大きい事はいい事だ」なんてTVのCMがあったが、静岡県でいうと静岡市のように富士川を渡ると静岡市になってしまうと広すぎてイメージが湧かない。
また、合併後の市の名前も伊豆のように伊豆市とか伊豆の国市なんて自己中心的な名前の遠州市とか遠州灘市なんてのが出てこなくて良かった。

 

ここ21番観音寺は中々ユニークな札所で色々な置物がある。
山門を入り観音堂にお参りをする、その横には可睡斎にもいた烏天狗がいる。この辺りの寺は何故かどの寺も火防せの秋葉さんを祭ってあるが、ここではご丁寧にも烏天狗まで鎮座していた。

 

福田は海に近く漁港もあるので海に関する物ある。
境内に立つ観音様が持つ籠の中には魚が、岩の上には亀もいる。
更に千石船の錨やスクリュウ、浮球もある。

 

動物を供養する塚には、何故か鹿が2頭。おっと達磨さんもいる。
さらに面白いのは格言を書いてある立札。少し紹介すると

「人生は70歳より  
 70才にてお迎えあるときは 今留守と言え
 80才にてお迎えあるときは まだ早いと言え
 90才にてお迎えあるときは そう急がずともよいと言え
 百 才にてお迎えあるときは 時機を見てこちらからボツボツ行くと言え」だってさ。
他にも、こんなのもあった

「みえなくても  お花を供えたい
 食べなくても  美味を供えたい
 聞こえなくても 話したい
 見えざるものへの 真心は美しい」 などがあった。

他にも江戸から運んだ手水鉢、満州開拓団の慰霊碑など見ているだけで時間が過ぎてしまった。   

遠州33観音4-4

2010-10-20 21:09:07 | 寺社遍路
font size="3" color="red" style="line-height:160%;">「駅から遍路」
 遠州33観音4回目  遍路日2010/10/6 距離29.7km 歩行時間5時間58分

袋井駅 ― 30可睡斎 ― 29法雲寺 ― 17宣光寺 ― 18福王寺 ― 20永福寺 ― 
 6:55      7:55       9:15      10:30       11:00      11:50
          3.3k      9.5k       14.1k       15.1k      16.8k

21観音寺 ― 19正医寺 ― 豊田駅
  13:05     14:50     15:06
  20.6k      28.1k     29.7k
                    
                     20番永福寺(遠淡海)

                

磐田と言うと前から気になることがある。それは遠江の元になった遠淡海がどこを指すかと言う事だ。少し前までは遠淡海は当然浜名湖のことだと思っていたのだが、最近になって知人で「磐田に大きな淡水湖があって、それが遠淡海だ」だとの説を言う人が現れた。最初はそんな馬鹿な、琵琶湖に匹敵するような大きな湖なら、その痕跡が残っているはずだ。と思っていた。
それが遠江や遠州の観音巡りを始めて、遠州の事を調べていると、時々この問題にぶつかるようになった。そこで今日の遍路でその痕跡を探してやろうと思っていた。

だが早速疑問が生じてしまった。見附の語源を調べていると、こんな文章があった。
「徳川家康は磐田の見附で城を築城しようとしたが、井戸を掘ることができず、見附を諦めて浜松に城を建てた」とあった。更に
「城を建てようとした場所は今乃浦の近くで、築城を断念した後から、そこの地名を「城之崎」と称している」とある。
この文章の中に井戸云々とあるのは井戸を掘ったが引用に適する水が湧かなかった。つまり海水が湧いたのではないだろうか。となると今乃浦は淡水湖ではなく、あくまでも内海と言う事になると思う。

城之崎という場所は18番福王寺がある地域で少し高台にある。それから少し南に下ると海まで続く平野となっている。
現在ではそこから海までの距離は6k以上はあるが、家康がいた頃は今乃浦が内陸まで迫っていた事になる。それが浜岡や横須賀と同じように、地震による地殻変動で海が隆起して、海が後退してしまい、現在のようになったと思われる。

               

20番永福寺の前に「西貝塚遺跡」の看板がこんな事が書いてあった。
「寺の北側には縄文時代の遺跡があり、西側には入江が広がり貝塚にはそこで取れたシジミを主体に川や海の貝で構成されている」何とも曖昧で、これでは海なのか湖なのかハッキリしない。
私の思惑としては、ここは海だったので遠淡海では無いと思うが、若し磐田に大きな淡水湖があったとしたらこの辺りだったと思う。
若しかして縄文や万葉時代はここは淡水湖だったのが、浜名湖と同じように海と湖が繋がり汽水湖になったのかもしれない。
しかしそれにしても浜名湖より大きな湖が(浜名湖より小さければ、矢張り浜名湖を遠淡海としたと思うから)本当にあったのだろうか。どうも信じられない。

 

寺の前は低地だったのだろう「ふる里のカン」と書かれた看板が立っていて、モズクガニやベンケイガ二、アカテガニなどの説明がしてある。
私の故郷ではサワガニしか見たことがなかったので珍しかった。

季節は秋真っ盛り、秋祭りも本番の時期を迎えている。あちこちに祭りの日の交通規制を告げる看板が立っている。祭りの多いのは次の土日の連休が多いようだ。
こうして遍路をしていて祭りに遭遇するのも楽しいだろうが、中々出あえない。
お祭りは土日、私の遍路は平日が多いのだから仕方ないか。

 
 
 
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夕べNHKBSで「安倍晴明」があったので、これも何かの縁だと思い見てみました。
だが10分もしない内に嫌になってチャンネルを変えてしまいました。
晴明大権現はお参りしたけど、、あの手の映画は付いていけません。
これも加齢現象の一つかな? いやいや若い頃からアー言う理不尽な映画は嫌いだった。