はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠州七福神3-3

2013-04-09 09:33:53 | 寺社遍路
遠州七福神(大黒天・寿老天・布袋天)3              歩行月日2013/03/29

歩行時間:8時間45分 休憩時間:1時間45分 延時間:10時間30分
出発時間:6時00分  到着時間:16時30分
歩  数: 52、450歩  GPS距離:40.0km
行程表
 袋井駅 1:00> 桶ヶ谷沼 1:15> 法雲寺 1:45> 極楽寺 1:00> 森大橋 1:25> 春林院
 1:50> 永江院 0:30> 掛川駅

 観歩記
極楽寺の次は掛川の永江寺で遠州七福神は結願になる。この七福神巡りの1回目は50km、
2回目も40km以上と歩行距離が延びていたが今日はどうだろう。ここの極楽寺までで16.5kmと
余り延びていない。残りの森から掛川も15km程度などで30km程度しかならないだろう。
しかしそれでは少々寂しい気がする、せめて40km近くにはしたいのだが。
森・掛川間は何回となく歩いているが、一番距離が稼げそうなのが北の方向にある合歓の木
学園を経由するコースだ。他には塩の道コース、飛行場トンネルコース、遠江33観音コース、
可睡斎経由コースなどが考えられる。
さてどのコースにしようか、一先ず森の街に行ってから決定する事にしよう。

県道40号の詰まらない道をテクテク歩く。まだ3月なのだが日中で陽が射していると暑くなって
くる。もうジャンパーもいらないし手袋も薄手の物が1枚で充分だ。寒い分は歩いていれば何と
かなるが暑いときは何ともできない。当分この程度の気温が続いてくれると嬉しいのだが。

森大橋に12時に到着し距離は22kmになっていた。極楽寺から5.5kmと思っていたより距離があり
これなら合歓の木学園経由だと42kmは越しそうだ。だが永江院では納経をするので5時前には
到着したい。今12時なら時速4kmで丁度5時には着く計算だがチョット危ない気もする。などと
他のコースを含め色々迷った結果、まだ一人で歩いた事のない飛行場トンネルを抜け、その先は
適宜東に向かって歩き、南に永江院がある辺りで南下するコースにした。
これなら40kmには少し足りない程度にはなるだろう。

      
          森町トルシエ通り

「トルシエ通り」のトルシエとは、2002年サッカー日韓ワールドカップのときの日本代表監督で、
日本を初の決勝トーナメント進出に導くが、決勝トーナメント1回戦トルコに敗れW杯終了後、
監督を退任した人です。
そのトルシエの名前が何故こんな場所に残っているのかと言うと、当時のサッカー日本代表が
この通りの先にある宿泊施設「葛城北の丸」をベースキャンプホテルとしたからだろう。
それにしても道の片側に10軒ほどしか家のない通りを、トルシエが見たら何て言うだろうか。
口の悪いので有名な彼でも両手を曲げ、肩をすくめながら「オー!」と言うだけだろうな。

 

飛行機トンネルのことは以前詳しく紹介したので、今回は写真の紹介だけにします。
この写真の場所以外にも実際に飛行機の部品を作った地下工場が、この付近にあるそうです。
何にでも好奇心が強い私ですので、気になると探したくなるのですが、どうも暗い穴は苦手で
穴の中に蛇? 熊? 蝙蝠? 蜘蛛?と思うと中に入る気がしません。今回も外から写真を
撮っただけで退散しました。若しかすると私は閉所恐怖症かもしれない。

 

飛行機トンネルを抜けると嘘のように広々とした場所に出る。以前誰かが「地下工場で作った
飛行機を、ここで飛ばした」
などと言っていたが、そんな冗談を信じたくなるように広い。
その広場は今は「サカタの種」の温室が何棟も建っている。温室の中を覗き込むとネギなどの
野菜を栽培している温室もあったが、殆どの温室はカラフルな色の花が咲いていた。
ここは種の会社なのだから、あの花の苗を売るのではなく、これから種を作るのだろうか? 
それにしては一つの温室に何種類もの花があるのは何故だろう?

 
        吉岡大塚古墳                吉岡大塚古墳(前方後円墳)

吉岡大塚古墳とは「原谷川右岸の河岸段丘上の南北約2.5km、東西約1キロメートルの範囲の
中に、前方後円墳4基、円墳16基、方墳3基が確認されており、東遠地域における一大中期
古墳群を形成している。これらの古墳のうちの前方後円墳4基と円墳1基が、和田岡古墳群と
して国の史跡に指定された。
吉岡大塚古墳は前方後円墳で、この古墳の特徴は後円部の大きさに比べ前方部が極めて
小さく低い事である。墳丘の立地から考えて5世紀中ごろに築造された首長の墓と推定される。
埋葬施設は調査されていない。   平成8年3月29日指定」


            
                       案内板より
そう確かに離れて見た時は円墳と感じたのだが、近寄ってみると確かに方墳部分もある。
今まで持っていた前方後円墳のイメージとは大分違うが、周りに周堀もめぐらされたいる
本格的な前方後円墳のようにも思える。
昨年ここを通ったとき丁度円墳部分の発掘調査をしていて、作業をしていた人が
「見学していきませんか」
と声を掛けてくれたのだが、団体歩行だったので諦めてしまった。
惜しい事をしてしまったと今でも残念に思っている。

実はこの和田岡古墳群は、初詣ウオークで歩いた油山寺の近くまで広がっていて、中でも
古墳群の中で最大の各和金塚古墳は、初詣のとき少し足を延ばすだけで行けそうだ。
これなら来年の初詣ウォークのルートも再検討をしなければならない。

 
         春林院                     塩の道の常夜燈

古墳から台地を降りて遠州33観音札所の春林院で少し休憩をする。
ここからは遠州33観音で歩いた垂木の大雲院まで行くのだが、途中は塩の道とも重なり
馴染みのある道だ。だが大雲院から先はそれらの道と別れ、まだ一度も歩いた事のない道
になるが太い車道なので間違うことは無いだろう。その道を更に東の進み倉真川に出たら
掛川の街に向かって南下する。分かりやすいから間違う事もないだろう。

でも間違えてしまいました。車道を黙々と歩いていて信号のある交差点でフト南側を見ると
高架になった道路が近くに見える。この辺りで高架の道路なら国1号線のバイパスしかない。
そのバイパスが近くに見えるとは? 急に不安になってきた。確かに少し前に川はあったが
倉真川とは思わず通過してしまった。誰か聞く人が居ないかしら・・・・・・

矢張り来過ぎていた。南に見えるのはバイパスの西郷ICで、この道を直進すれば掛川駅に
ぶつかるとの事だった。永江院の場所も聞いたのだが生憎知らなかった。
確か永江院は倉真川の西にあり、バイパスを越してすぐの所の筈だから何とかなるだろうと
西郷ICを目指して歩き出した。ICを通り越した所に小さな川があったので、川沿いに歩きた
かったが道は無い。多分この川は倉真川の支流だと思うと少しイライラしてきた。
道を聞きたいが人は居ない。仕方ない次の西に向かう道を曲がるしかないな。

あった!ようやく川に出た。川の名前は分からないが多分倉真川だろう、と橋を渡り少し
行くと見覚えのある景色になり、その先に寺があった。
迷った割には案外早く15時35分に永江院に到着した。

 
           永江院                       山門の竜

永江院の山門の竜は案内板によると
「永江院門頭の竜は、御陽成天皇の御代で豊臣秀次のとき(1600年頃)掛川城主山内対馬守
一豊が、左甚五郎につくらせて、寺門にかかげたものだといわれている   掛川市誌より」

一方遠州33観音のHPには
「総門と龍の彫刻は掛川城主山内一豊が寄進したものである。文禄2年(1593)の棟札によれば
この龍の彫刻は飛騨高山の名匠藤原棟教の作で・・・・・・」

となっているが、どちらが正しいのやら。
この竜の彫刻は、掛川市の文化財にも指定されていないようなので、左甚五郎作は眉唾の
気もするが、掛川市誌に書いてあるとなると・・・・・・

  
           布袋天祭壇                     境内の石仏

納経を済ませ本堂で七福神のお参りをさせて貰ってから境内を散策する。整然とした境内に
は何体かの石仏があり、その中で目を引いた石仏があった。
赤い毛糸の帽子を被り一見は地蔵のように見えるが、よく見ると手が六本あり二臂合掌形の
地蔵とは明らかに違う。六臂合掌形ともいえるこの石仏が持っている物は、棒状な物が三本
と先端が丸い物を持っている。最近購入した石仏の本を見ると棒状な物は宝棒らしいが丸い
物は金剛鈴? 結局何の仏様なのかが分からない。情けないなー。

    
       掛川城                      掛川城
 
永江院からは終盤モードでのんびり歩いていると散歩中の人が声を掛けてきた。
「ウォーキングですか、 私は家の周りを毎日1万歩は歩いているけど、そうして外を歩く時は
一回で何歩くらい歩くものですか?」
聞いてきた。
歩数計を取り出して「此処までで4万9千歩を越えています」と言うと驚いて
「そんなに歩いたら却って腰が湧くなってしまう」とアホたれていた。
本当に少々歩き過ぎだとも思うが、今日も念願がかなって掛川駅に着いた時のGPSは
ジャスト40km。歩数は52.450歩だった。これで行き過ぎた甲斐があった(?)

結局遠州七福神の3回の合計はGPS距離が134.9kmで、一回平均だと45kmになる事になる。
コース設定が拙かったり、わざと距離を延ばしたりして思ったより長くなってしまった。
でも中々楽しい七福神巡りだった。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
HPの更新ができなくなり未完成のまま2年を過ぎてしまいました。
何とかしなければ思いつつ、ブログに時間を取られ見苦しい姿を晒していますので、
ここで一念発起してHPを作り直す事にします。
とは言うもの六十の手習いどころか七十の手習い、しかも独学ですので満足できるHPには
ほど遠い出来になると思いますが、兎も角挑戦してみます。

そんな訳で当分の間このブログは開店休業状態になります。再開のときはまた寄ってください。

遠州七福神3-2

2013-04-06 17:16:32 | 寺社遍路
遠州七福神(大黒天・寿老天・布袋天)2              歩行月日2013/03/29

歩行時間:8時間45分 休憩時間:1時間45分 延時間:10時間30分
出発時間:6時00分  到着時間:16時30分
歩  数: 52、450歩  GPS距離:40.0km
行程表
 袋井駅 1:00> 桶ヶ谷沼 1:15> 法雲寺 1:45> 極楽寺 1:00> 森大橋 1:25> 春林院
 1:50> 永江院 0:30> 掛川駅
 
        法雲寺山門                       大黒天祭壇
 観歩記
法雲寺は七福神の大黒天をお祀りしていて、祭壇には何体もの大黒天像を置いてあった。
通常寺の本尊が聖観音なら聖観音一体が本尊になるのに、何故か七福神は本尊を何体か
置いてある場合が多い。
こんな事を書くと札所の方が怒るかもしれないが、七福神はご本尊があったから札所になった
のでなく、七福神の札所になったから七福神像を準備したのではないのか。と、思う。
感じ方は人それぞれだが、私にはチャチナ像が何体もあると、重々しい雰囲気でなく軽く感じ
られてしまう。

大黒天は中々ユニークな神様だと思う。大黒さんと聞いて思いうかべるのは米俵の上に乗って
大きな袋を背負い、打ちでの小槌を振りながら満面な笑みを浮かべている。頭にはベレー帽を
平たく長くしたような帽子を被った大黒さんがお馴染みだが、あの像を後から見ると、とんでも
ない形に見えるらしい。
頭の帽子は亀頭で体が陰茎、そして俵は陰嚢だという。私は確認していないので確かではない
が、元々大黒天はヒンドゥー教のシヴァ神の化身のマハーカーラで、マハーは大、カーラは黒の
意味から、大黒天と名付けられたので、その起源のシヴァ神と同様に、大黒天も性的な性格を
持つ仏でもあるらしい。
また大黒天が台所の神と言われるのは、天台宗寺院で台所に大黒天を守護神として祀るように
なった事からで、また昔の家は土間と座敷の間に、中心となる柱を立て、その柱が台所にも隣接
していたので、そこに大黒様を祀り、その柱のことを「大黒柱」とも呼ぶようになっていった。
さらに台所のあるじはその家の主婦だったので、寺の主婦の事を「大黒さん」と呼ぶようになった
ともある。尤もこの呼称は幕末期まで、真宗以外は寺には主婦は居なかったのだから、最初は
隠語として寺にいた女性(隠し妻)の事を大黒と言っていたのかもしれないな。 

聞きかじりの講釈はこの位にして、法雲寺の境内を歩いてみると梅園やあじさい園と名付けた
場所があった。余り手入れはされおらず、これから花の時季を迎える紫陽花も勢いがない。
先程押してもらった朱印の中に「いわた あじさい寺」の印もあったが、これでは名前負けだ。
簡単に挿し木で増やせ、栽培の楽な紫陽花で人寄せを計ったのなら、あじさい寺の印を打つ
以上は手入れをするべきだと思った。

次の森町の極楽寺に行くには、太田川の支流の敷地川沿いに北に向かう。
県道277号から別れて入ったその堤防の道は長かった。見るものも特になく、時折生えていた
蕨を取るかどうか迷ったりしながらの1時間半ほどの道は少々飽きてしまった。

 
           極楽寺                    境内と本堂

寺の入口の看板に「日本三大霊場」と書いてある。何が三大霊場なのだろう? 案内板を読ん
だがその説明はない。後で寺のHPを調べたが分からなかった。ただ一般的に日本三大霊場
とは「 恐山・白山・立山」の事だ・。では紫陽花のある霊場で調べてがヒットしない。
一体看板にある「日本三大霊場」とは何を指しているのだろうか。

看板には寺を開創した僧行基が詠んだ
「極楽へ ゆく人の乗る 紫の 雲の色なる あじさいの花 」の歌も紹介されていた。
この歌から境内に紫陽花を植えるようになったとしたら、これは中々良いアイデアだ。
さっき寄った法雲寺の紫陽花と違い、これなら立派な根拠がある。しかも本堂は紫陽花のある
庭園より一段高くなっているので、紫陽花が盛りの時は「紫の雲」の上に本堂が浮かぶように
見えるかもしれない。一度見てみたい気もする

境内にも寺の中にも人の気配が無い。これではご朱印を貰うことができないと思っていると
庭師らしい恰好をした人が入ってきた。「お寺の人は、いませんか?」と聞くと
「いないけど何の用? ご朱印だけでよかったら俺が押すよ」と言ってくれた。
勿論それで結構だが、七福神はご朱印だけでなく墨書もして欲しいと言うと
「事前に書いたので良かったらあるよ」との事だった。
私の場合は信心でお寺参りをしているのではなく、一種のスタンプラリーのような物なので
極端に言えば自分が寄ったという証拠ができれば何でもいいようなものだから文句は無い。

    
       寿老天像                  聖観音像

お詣りを済ませ境内のベンチで昼飯を食べていると、先ほどの人が面白い話をしてくれた。
「70歳のとき富士登山をして山頂で署名をして来たら、後から浅間大社から寄付の要請が
何度かきた」
 それは困った、私も70才になったら署名をしようと思っているので
「それでどうしました」と聞くと「すっぽかしておいたら、そのままになった」それなら安心だ。
「この寺は27軒の檀家しかないので住職は外で働いている。俺がボランティアで、この寺に来
てから葬式は一度もない。それでアジサイ園をやっているのだが最近はあちこちに同じような
所が出来て参詣者も減ってしまった。入場料も500円にして絵馬を付けているのだがなー」

そーか紫陽花園は単なる金儲けだけではなく、寺の維持する上で必要だったのだ。
「だいたい森は人口の割に寺が多いので寺が大変で、萩とか桔梗でも客寄せをしている」
そう言えば以前萩寺の蓮華寺に行ったとき、寺の大黒さんが「檀家が少ない」と言っていた。
小さな寺がそれなりの努力をしているのに観光寺だと馬鹿にしてはいけない。

45億円で朝鮮総連本部を落札した鹿児島の最福寺、信徒から集めたお布施で資金運用に
失敗して6億円の損失を出した高野山。名古屋の寺では僧籍の無いアルバイトに、お通夜を
させていた住職は「修行の一環で問題ない」と言っているとか。
凡人の私には理解できない事ばかりが最近の新聞で報道されている。しかもその寺の宗派は
全て真言宗だった。それこそ「南無大師遍照金剛」と唱えたくなるが、その効果は----

遠州七福神3-1

2013-04-02 16:25:49 | 寺社遍路
遠州七福神(大黒天・寿老天・布袋天)1
              歩行月日2013/03/29

歩行時間:8時間45分 休憩時間:1時間45分 延時間:10時間30分
出発時間:6時00分  到着時間:16時30分
歩  数: 52、450歩  GPS距離:40.0km
行程表
 袋井駅 1:00> 桶ヶ谷沼 1:15> 法雲寺 1:45> 極楽寺 1:00> 森大橋 1:25> 春林院
 1:50> 永江院 0:30> 掛川駅
 観歩記
今朝の一番電車の岐阜行は空いていた。過去2回の七福神めぐりは中高年のリュック姿が多く
ロマンスシートは一人で座る事ができなかった。それが今日は空席が目立っていた。
今は青春18切符の期間で、土曜日や日曜日ともなると中高年がリュックを背負い京都辺りに
花見に行くのだろう。
思い出してみれば、昨年は私も青春18切符を使って東海道を歩いていた。あれから1年も過ぎ
てしまい、近々60代最後の誕生日を迎えなければならない。果たしていつまでこのように歩いて
いることができるのだろうか。
願わくば来年古稀の夏の「海から富士山」を成し遂げたいと思っているのだが。
話を戻して、今日一番電車が空いているのは平日だからだろう。前回の2回は土曜日だったので
中高年とは言え、仕事で平日は動く事ができないのだろう。その点オールサンデーの私は好きな
日に動く事ができ幸せこの上ない。でも---平日の電車は余り好きでない。特に通勤電車だと一人
山の恰好をして乗るのも気が引けるし、帰りは汗臭い臭いを発散するのも申し訳ない。
とは言いながら週末の天気次第では平日にも電車に乗ってはいるが。

    
       静橋の彫刻                     満開の桜

6時丁度に袋井駅を出発。旧東海道に合流する手前に架かっている静橋の彫刻に丁度朝日が
掛かっていた。
旧東海道の袋井宿に注ぐ小さな川の桜が満開。その下の菜の花もいまだ盛りと黄色い花をつ
けている。今日は何処へ行っても桜を初め色々な花の歓迎を受ける事ができるだろう。

    
        東海道どまん中西小学校              木原一里塚

折角袋井宿を歩いているのだから一つくらいはそれらしい物を紹介しなければ。
東海道のどまん中に力を入れている袋井を象徴するような小学校の正門です。
「東海道どまん中西小学校」
思わずニヤリとしてしまいます。何故どまん中なのかって?
それは東海道五十三次の宿場の数が袋井宿は江戸から数えても京から数えても27番目で
中間点にあたる事から「どまん中」を標榜しているようですよ。
まん中と言えば袋井宿の隣の掛川宿には、京と江戸から歩き始めた宮大工が出会った所に
建つ「仲道寺」もあるし、更に西の天竜川を越した所には
「江戸へも六十里、京都へも六十里にて ふりわけの処なれば中の町といえるよし」と十返舎
一九の東海道中膝栗毛に書かれている中野町間の宿もあります。
十返舎一九といえば駿府の生まれで、俗説では一九は駿府宿が江戸から19番目の宿だった
事から名付けたとも言われています。

あと一つは、もう少し東海道らしい景色を紹介しておきます。「木原一里塚」は袋井宿の西側に
あり江戸から数えて61里目の一里塚と紹介されています。
ここでアレーと気づいた人は流石です。先ほど中野町の紹介で60里目とあったのに、そこより
東にある木原の一里塚が61里目と紹介されている。何故でしょう?
東海道を歩いている時も、この一里塚の数え方には疑問を感じていたが、夜泣石で有名な小
夜の中山の小夜鹿一里塚にこんな説明があった。
「日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の
里数や当初の東海道のルートを考えて56里目という説があります。
また、元禄時代(1690)の「東海道分間絵図」では日本橋から日坂宿までは52里30町ですので、
この一里塚は52里目に相当します。
天保時代(1843)の「東海道宿村大概帳」では日坂宿まで54里26町、小夜の中山までは54里2町
ですので、この一里塚は54里に相当すると思われます」


一つの一里塚で52里目、54里目、56里目の三つの説があるとは驚いたがGPSとてない時代の
話だから目くじらを立てても始まらない。ようは木原の一里塚が61番目とは、案内の最初にあ
「周辺の一里塚の里数や当初の東海道のルートを考えて」61番目になったのでしょうし、
十返舎一九が中野町を「江戸から京都から60里」と書いたのは「東海道分間絵図」を利用した
のでしょう。個人的にはこの東海道分間絵図を採用したいのだが、一般的には最初の数え方
が広まっているようです。

 
          桶ヶ谷沼                     桶ヶ谷沼の案内板

太田川を渡った所で東海道と別れて桶ヶ谷沼に入る。入口にビジターセンターがあるが、当然
閉まっている。実はこの桶ヶ谷沼と隣にある鶴ヶ池を周遊するルートがハッキリしていなかった
が現地くれば案内板があるだろうと高を括っていた。
そして現地の案内板を見てみると、確かに案内図はあった。だが鶴ヶ池に向かう道や鶴ヶ池の
周遊ルートがはっきりしていない。マー何とかなるだろうと先ずは桶ヶ沼の周遊ルートを歩き
出した。



沼の中には葦(?)が蔓延っていて水面が見えない。これじゃ水鳥は生息できそうもないがトンボ
には天敵がおらず天国だろう。など思いながら歩いていると、そんな事はなかった。岸辺は葦が
生茂っていたが沼の中心部はしっかり水面が見えていた。
ただ、それにしても鳥が一羽もいないのはどうした事だ。地元の小さな川にも鴨はいるのに
この沼には一羽の鳥もいない。今時刻は7時だが鳥たちはまだ林の塒で寝ているのだろうか?
水鳥なら水面で寝る?では何故いないのだろう? 分からなかった。

鶴ヶ池に行く道が分からない。途中にある標識には観察小屋とかは書いてあるが鶴ヶ池の文字
は見えない。ただ桶ヶ沼を一周し、ビジターセンターの標識が出始めた所に「尾根コース」とか
「東部ハイキングコース」と書かれた標識が山道を指して立っていた。
鶴ヶ池も良いが、所詮はここの桶ヶ谷沼と同じだろう。それなら山道を歩く方が楽しそうだ。
それにこれから行く法雲寺は、ここより北の台地の上にあるのだから、上手くいけば車道を歩か
ずに寺近くに行けるかもしれない。ヨシ!このハイキングコースに入ってみよう。

この辺りは標高も低く斜面も急ではないが、植林された林でなく自然林になっている。これは
桶ヶ谷沼周辺が、静岡県の自然環境保全地区に指定されているからなのだろうか。
同じ山道を歩くにしても植林された林の中より、自然林の林の方が何倍も雰囲気が良く感じる。

   
鶴ヶ池と尾根の案内 鶴ヶ池だけの案内  東名高速手前のハイキングコース入口
 
標識があった。そこにはこの山道は東部ハイキングコースで、右に尾根を下ると鶴ヶ池となって
いる。ウン間違いはない。ではここで池に下るか一瞬迷ったが、まだ先に続いている尾根道を
行く事にした。
そこから更に5分も行った所に、今度は鶴ヶ池へ行く道だけの表示の標識が立っていた。
だが尾根の道はまだ先にも伸びている。
さてどうしよう。ここを鶴ヶ池に下るか、それとも標識には書いてないが、このまま尾根道を
進んでみるか-----  エイ!思い切って直進してみよう。ここで遭難するわけはないし、迷った
ところで多寡が法雲寺に着くのが遅れるだけだ。

ハイキングコースの終点にはドコモの篠原無線局があり、その先には東名高速の取付道路と
その下には東名が走っていた。近くにあった標識の地図に東名高速を越す橋の表示があった
のでその橋を渡る。
東名を越せば法雲寺は近い。寺の屋根を気にしながら行くと、有りました車道の右側に寺の
屋根が。8時15分法雲寺到着。

桶ヶ谷沼からのハイキングコースの道は正解だった。次回ここを歩く事があったらまたこの
ハイキングコースを歩く事にする。今日はツイテいるようで先が楽しみだ。

遠州七福神2-3

2013-04-01 09:13:30 | 寺社遍路
遠州七福神(弁財天・福禄寿天)3              歩行月日2013/03/23

歩行時間:8時間50分 休憩時間:2時間15分 延時間:11時間05分
出発時間:5時45分  到着時間:16時50分
歩  数: 54、766歩  GPS距離:41.8km
行程表
 菊川駅 1:30> 上張南交差点 0:55> 六枚屏風 0:15> 小笠山 1:15> 山本橋
 1:15> 馬伏塚城跡 0:50> 松秀寺 1:05> 福王寺 0:45> 大日堂>1:00> 袋井駅

 
           太田川                   秋葉山・春埜山の石碑
観歩記
松秀寺を出て西に向かうとすぐ太田川の堤防に出た。太田川の上流は塩の道で歩いた森町
を流れている川で、沈下橋の延城橋を渡った川だ。またこの川で森の石松が産湯を使ったと
浪曲で唄われてもいる。そのイメージで川を見ると、どうしてどうして静岡県では余り見かける
事がない景色で、水が川巾一杯に流れている川だった。
川を渡り磐田市に入ると東貝塚とか西貝塚と言った地名が出てきた。この辺りは古代では
大きな湖があったと言われていて、遠江の地名は古くは「遠淡海(とほつあはうみ)」と表記
されていた。今では遠淡海は一般的に浜名湖を指しているが、遠江の国府のあった、ここ
の湖がその「磐田湖(大之浦)」を指すとする説もある。

道の途中に秋葉山の常夜燈と春埜山と彫られた石碑が建っていた。これも塩の道で知った
のだが秋葉山・春埜山・光明山は遠州三霊山と称され、修験の山と云われていた。その内の
二つが一緒に祀られていた。
昔は「ついで詣り」といって、火伏の秋葉山と水防の光明山を一緒にお詣りしたらしいが、春埜
山は何の御利益があって祀っているのだろう。一説には山犬(狼)を祀ってあるとあったが、
昔はこの辺りは大湖か平地だったので、とても農作物を荒らす猪や鹿を退治を願ったとは思
えない。近所に地元の人がいれば聞いてみたいのだが誰もいなかった。

 
         福王寺山門                   福王寺鐘楼

福王寺は磐田台地の取っ付きにあり、余り登坂も無かったので思っていたより早く福王寺に
着いてしまった。早速ご朱印を貰うべく納経所の呼鈴を押し、出てきた女性に2冊の納経帳を
渡して待つことしばし。
「はい400円ですね」と言われ準備してあったお金を渡すと、声を掛ける間もなく女性は奥に引
込んでしまった。シマッタ! 福禄寿天を祀ってある場所を聞けなかった。でもこの寺は過去に
何度か来たことがあるので何とかなるだろう。

    
 本堂にあった七福神の置物                   庭園

先ず本堂に行き扉を開けて中に入った。本堂の正面は寺の御本尊を祀ってあったが福禄寿
天は無く、ただ七福神の置物が一つ置いてあるだけだった。そこに「奉納 招福七福神尊像」
と書いてあったが、これが七福神のご本尊?まさかナー。
念のため境内を一回りした。本堂裏の名園と言われる庭園。今川氏初代の守護大名だった
今川範国の墓所。陰陽師安倍晴明が大風を避けるため祈祷を行った岩、など見て回ったが
七福神関連の物は無かった。

 
         今川範国墓所                   安倍晴明祈祷跡
                
こんな大寺でも客寄せのために七福神を騙ったりするのかと、少々腹だしく感じ早々に寺を出
てしまった。(後で調べてみると本堂横にあった「晴明大権現堂」の中に福禄寿天を祀ってある
事が分かった。アーア何であのお堂の中に入らなかったのだ。今更後悔しても既に遅いが)


寺を出たのは良いがここからどうしよう。このまま磐田駅に帰るにしては、まだ3時なので早す
ぎる。次回の法雲寺はこの台地の北の方にあるが、今から行くのでは駅に帰るのが遅くなり
そうだ。確か法雲寺のある台地の下にはトンボの生息地で有名な桶ヶ沼があったはずだ。
次回はその沼に寄ってから法雲寺に向かおう。
それなら磐田駅より袋井駅の方が便利だ。ヨシ! これから袋井駅に戻ろう。

袋井に行く道は調べてないが簡単だ。ここから北に向かって国道1号線に出たら右に曲がって
行けば袋井に着く。
国道に出るとジュビロ磐田の服を着た人が、歩いたり車に乗ったりしてぞろぞろ来る。どうやら
近くにあるヤマハスタジアムでジュビロの試合があったようだ。最近はジュビロもエスパルスも
めっきり弱くなって、静岡県民のサッカー熱も下がってきたと思っていたがそうでもないようだ。
国道から旧東海道の旧道に入ると南の道から更に制服組がやってくる。その方角を見るとス
タジアムの照明塔が見えていた。あれがヤマハスタジアムなのだろう。

旧東海道に入り思い出した。一昨年秋に東海道を歩いたとき磐田台地の登りに江戸・明治・
大正時代の道があり江戸時代の道を歩くつもりがいつの間にか明治の道をあるいてしまって
いた事を。今日は丁度良い機会なので江戸時代の道を歩いてみよう。

 
        江戸時代の道の標識               太田川

何々江戸から大正3本の道でなく7本の道があると書いてある。鎌倉・江戸・明治・大正・昭和
・平成で6本。それと後1本は磐田見付に抜ける間道で質屋通いの隠れ道だと書いてある。
7本の道と掛けて質屋道? それでは時代が合わないが兎も角この狭い台地の登りに7本の
道があると云うことだ。
前回は明治の道を歩いたので今日は江戸の道を歩いたのだが、インターロッキングで整備さ
れている道は時代を感じさせる物も無く、100mも歩かないうちに車道でもある明治の道に合流
してしまった。

桶ヶ沼への入口の標識がある。次回はあの沼の周囲を歩いてから法雲寺に向かう事にする。
渡り鳥はすでに渡りの時期は過ぎてしまいトンボは早すぎる。この時季に沼で何が見れるか
分からないが、若しかすれば三光鳥いやオオルリが見えるかも。

太田川に架かる橋を渡ったが、太田川もここまで来ると水の量も川幅も狭くなり見慣れた川に
なっていた。旧東海道は次回の朝歩く事にして、今日はこのまま国道の歩道を歩いて袋井に
向かう事にする。4時50分袋井駅に到着。