はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

城ロマン:大崩山塊の四城址巡り(石脇城址)

2017-11-23 11:29:58 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-11-15(水)
歩行時間:7時間25分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時50分     到着時刻:16時35分
歩  数: 歩(推定距離km)    GPS距離18.7km
行程表
 関方BS 0:40> 方の上城跡 1:30> 石脇登山口 0:15> 石脇城跡 0:45> 花沢城跡 1:40> 満観峰 1:00>
 小坂堂 1:10> 持宗城跡 0:25> 用宗駅

                           方の上・石脇・花沢城址位置関係


  方の上・石脇・花沢の3城址は高草山の南麓に位置し、往時も今も交通の要所になっています。
奈良時代に最古の東海道だった道は、今は 「やきつ辺の道」 とハイキングなどに利用されています。それが現在では石脇城や
花沢城の横には東名高速を初めとして東海道新幹線、東海道本線、国道150号線も走る日本の交通の要になっています。

  この3城は今川家の勢力下にあったので、敵の遠州斯波氏の行動を監視し、その情報を共有していたと思います。
そのため遠州方面が良く見える方の上城では、敵の動静を狼煙で発していたと思われます。しかし3城のメインとなる花沢城と
方の上城の間には狼煙場(230m)より高い尾根(266m)があるため、気象条件によっては花沢城では狼煙が見えそうもありません。
それを補完するために中間にある石脇城が中継役を果たしていたのでないか、なんて地図を見ていると思えてきます。

 
                農道の分岐                              策牛(むちうし)山の神入口

  方の上城址の案内板のある農道を下ればバス停や案内板のある登山口に出ます。
上に向かう農道は少し登ると分岐があり、分岐を直進(北)すれば潮見平に出て富士見峠経由で高草山に行けます。
右(東)は途中で高草山の西の谷、坂本B・Aコースを横断して石脇口の登山道に出ます。
今日はその石脇口に向かう農道を行くのですが、本来なら石脇城-花沢城-方の上城と回り、富士見峠から高草山、満観峰と行く
のが順当なコースになります。しかし最近の足の衰えを考慮して高草山は省略することにしたのでした。何とも情けない事です。

  途中にある 「策牛(むちうし)山の神」 の標石横の踏み跡を辿れば、小さな石の社が祀ってある場所に出ます。
一見ここは登山口にあった案内板の 「山の神祭り」 の場所と思えるが、案内板には 「山の神の磐座は、高草山の標高200mの所の
沢の源流部にあります。」
となっていた。
ところがここは既に標高230mの石合山より高く標石の所でも280mあります。しかも祠のある場所は沢の源流部でも、磐座になる
ような岩も石もありません。
標石には “策牛” とあり、登山口の案内板は “関方” となっているので、どうやらここは別物のようです。
いつかは関方の磐座を探してみたい思っているが、何時のことになるやら・・・・・・

  標石の所には大きな山桑の木があり、春に来ると赤黒い実を一杯付け、下の農道は落ちた実で変色しています。
ただ木が大きすぎて実を採りたくても中々手が届かず余り採って食べれませんが。

  
                       何でしょう?                                   これかな?

  農道の脇に長い鉄管が立っていて、それを支える針金が張ってあった。一瞬 「ウン?」 と思ったがすぐ気づいた。
毎年クリスマスイブに高草山中腹に一夜だけのイルミネーションが現れるという。
多分この鉄柱はそのための物だろう。と勝手に想像したが多分当たりでしょう。
まだ見た事のないイルミネーションだが我家からも見えるだろうか?

 
            高草山のアンテナ塔                             花沢城址との分岐

  高草山山頂のドコモのアンテナが見てきた。随分近くに見えるが歩いている農道は稜線から2本目の農道で、山頂との間には
まだ農道が走っています。
2本目の農道を更に高草山山頂に行く西の谷、坂本B・Aコースの標識を見ながら進むと、上に行く農道と合流します。
合流した農道を上に行けば山頂直下の農道で、下に下れば笛吹段公園に出ます。
石脇城址は石脇登山口にあるので、合流してすぐある “石脇” の標識に従い山道に入ります。あとは標識に従い下れば石脇の
登山口に出ます。
山道が左の農道が分岐した所で合流する。その下に下る道が花沢城址入口の四差路に出る道です。石脇は更に山道を下ります。

 
              花沢城址                                      石脇城址

  農道分岐から再度山道に入ると左側に花沢城址のある小山が見えてくる。山頂部が拓けている所が第一曲輪です。
更に少し下ると今度は石脇城址が見えてくる。それこそ小さな山で山と云うより丘? 高台? と云った感じです。
後ろに見える工場はサッポロビールの静岡工場です。石脇城址の前後には東名高速や新幹線が見えています。

 
                やきつ辺の道                              風口坂(かざぐちざか)

  山道が終り最古の東海道と言われるやきつ辺の道に合流すると古い石の道標が立っている。道標の文字は大分薄れているが
 「右ハ大くづれふちう道 左ハ成沢くあんおん日本坂府中道 高崎風口坂 文政4年9月 成沢せわ人 直右エ門」 と彫られている
ようだが、私には青く表示した部分しか読めなかった。それでも道標の大意は分かり、この道を直進(左)すれば日本坂を経由して
府中(静岡)に抜ける事が出来、右に行けば大崩経由で府中に行けるという事だろう。

  以前試しに右の山道から大崩に行こうと山道に入ったが、少し行って東名高速に突当り、そのフェンス横を苦労して下った事がある。
後で思えば東名まで行かずに下に下る道があったので、そこをに行けば難なく大崩方面に行ける事が分かった。

  やきつ辺の道の風雅な名称の “風口坂” を下って高草山石脇登山口に出る。

 
              石脇登山口入口                                   旗掛石

  旗掛石とは石の横にある 「石脇探訪絵図」 によれば
 「この石は、高草山周辺にたびたび鷹狩に来ていた徳川家康の家臣・原川新三郎の家に立寄った際に、旗や鞍を掛けた事から
この名が付きました。また、石脇の地名もこの石に由来していると言われています。」

今見る石は鞍を置くならともかく、旗竿をどのようにして掛けたのか疑問を感じるが マーいいでしょう。

  近くにある浅間神社には、この石について、
 「浅間神社登り口右側に、大きな岩が二つある。鞍掛石または旗掛石と言う。
本来この二つの岩は、我が国の古い信仰である神の依つかれる磐座であった。」
とも紹介されている。
今でこそ道路から余り高くない岩だが、大水の被害で周辺が嵩上げされる以前は、もっと高くて大きく見えていたそうです。
旗掛石の後ろに見えるフェンスは東名の遮音壁で山は高草山です。
こうして見ると高草山を御神体とした磐座がここにあった事を信じたくなります。

 
                石脇城址(西側より)                         石脇城址西側入口

  以前来た時は樹木や竹が鬱蒼とした石脇城址だったが、今は下から見ても山上のお堂も見えていた。
城の入口は標識は無いものの整備されていて、すぐ分かるようになっていた。
前回は入口も分からず近所の人に聞いてようやく分かったのだが、階段は無く、しかも蜘蛛巣が密集していた。

 この石脇城も歴史の一端に顔を出している。現地の案内板には
 「この城は「駿河記」によると文明年間に今川義忠が伊勢新九郎(後の北条早雲)を住まわせたとある。
伊勢新九郎は応仁の乱の影響で今川の当主、義忠が遠江の塩買坂での戦死により、次代をめぐる家督争いが起きた際、嫡子の
竜王丸(後の氏親)を助け活躍した。
伊勢新九郎はこの功績により富士下方十二郷を与えられそれ以後伊豆平定にのりだし、やがて関東八国を治めた戦国大名北条家
(後北条)の基礎を築いた。」


  ここで書かれている今川の家督争いとは、方の上城や花倉城が舞台となった “花倉の乱” の義元の家督争いではなく、義元の
父親今川氏親の家督争いの事です。
更に今川義忠が討死した塩買坂の戦いとは、前回の東遠の3城巡りで寄った勝間田城と横地城を落城させた義忠が、凱旋のする
途中の塩買坂で横地城の残党に殺された戦いです。
こうして歴史を振り返りながら歩くと、何でもない小山も曰くのある小山に思え楽しくなってきます。

 
            第三曲輪跡の城山八幡宮                            城址から南東の眺め

  上に登った先の右(南)に見える鳥居は城山八幡宮ですが、旗掛石で紹介した八幡宮とは違うものです。
八幡宮前の樹木も伐採されていて広場になっていた。その先にはサッポロビールや簡保の宿が見え、尾根の先端が虚空蔵山です。
この虚空蔵山の麓にある那閉神社でこんな話を紹介してありました

 「戦国時代の駿河では、たびたび武田と徳川の合戦が繰返されていました。天正9(1581)年、浜当目近くの青木の森(現サッポロ
ビール近く)付近で、用宗(持舟)城にいる武田勢と徳川勢とで争いが起きました。
そのとき武田の武将として名高い須藤左門は、次々と徳川勢を打倒し、徳川勢の石川という将兵と槍をあわせました。
この石川と云う武将は初陣の若者であるため、須藤には勝てるはずもなく、あっさりと組み敷かれてしまいました。
須藤は石川の首を取ろうとしたが、石川の余りの若さに故郷の息子たちの顔と重なり、そのまま背を向けたとき後から討たれてしまい
ました。
 須藤を討ち取った手柄から石川家は旗本の身分に出世をしました。しかし何代後かの石川家の当主が、 駿府城に行くたびに急死
するので、須藤左門の怒りを鎮めるため石祠を造り、青木の森に祀りました。」

その青木の森にあった石川家の石祠は、明治の初め頃に那閉神社に写されたそうです。

  その古戦場も今はサッポロビールの工場が建ち当時の面影はありません。
石脇城で伊勢新九郎が旗揚げしたのは文明19年(1487年)で、青木の森で徳川と武田が戦ったのは天正9(1581)年と、100年近く
離れています。そのとき石脇城はどうなっていたのでしょう? 今川本家復興の火の手が挙がった石脇城を今川氏親は廃城にして
しまったのでしょうか。それとも残っていたのでしょうか、気になります。

 
          第一曲輪への登り口にある墓地                     第一曲輪跡の大日堂と稲荷社

  墓地の裏には第二曲輪の空地があり、ここも以前は樹木や竹で分け入る事ができなかったが整備されている。
その第二曲輪の南横に墓地があり、前回来た時に墓地の中に川中八兵衛さんの石碑がある事を見つけた。
水難予防の八兵衛さんが小山の上にある事に疑問を持ったが、旗掛石周辺は水害の被害を受けることがあったので、その際の
疫病除けに八兵衛さんを祀ったのだろう。

  更に、更にです。第一曲輪に建つ大日堂には、微笑仏で知られる木喰上人の吉祥天と不動明王の二体の木喰仏が祀られていた。
この木食上人は石脇では大日堂以外にも常楽寺と宝積寺にも木喰仏を奉納しています。このうち大日堂と常楽寺は無住のため、
木喰仏は焼津歴史資料館で保管しています。

           

  城山八幡宮の前にあった石脇城の縄張り図です。これを見て興味を覚えたのは縄張り図左下に “旧方上郡代 原川屋敷” と
ある事です。方上とは方ノ上の古い書き方で “方上御厨” という伊勢神宮の荘園あったそうです。
その郡代の屋敷がここにあるという事は、もしや花倉の乱に登場する方ノ上城とは、ここ石脇城の事ではなかったのか。
そんな妄想も広がってきます。

  現在城址の入口は南側にあるだけだが、当時は郡代屋敷のある北側の入口がメインではなかったのでしょうか。

 
           大日堂裏の第一曲輪跡                                 南側入り口

  大日堂裏の第一曲輪の後も樹木が伐採され広場になっていた。今は整備が終わったばかりで立入りできるがこのままの状態では
訪れる人も少なく、また元の原野に戻ってしまうだろう。
自治体も財政不足で毎年補助金を出すのは難しそうだが、ではどうすれば良いのかいい案は浮かんでこない。
第一曲輪から直接下る道を探したが踏み跡は見つかりませんでした。

城ロマン:大崩山塊の四城址巡り(方の上城址)

2017-11-19 09:00:39 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-11-15(水)
歩行時間:7時間25分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時50分     到着時刻:16時35分
歩  数: 歩(推定距離km)    GPS距離18.7km
行程表
 関方BS 0:40> 方の上城跡 1:30> 石脇登山口 0:15> 石脇城跡 0:45> 花沢城跡 1:40> 満観峰 1:00>
 小坂堂 1:10> 持宗城跡 0:25> 用宗駅

  十月の天候不順と体調不良でグズグズしている間に紅葉の十一月に入りました。
妻との久し振りのドライブ旅行も無事終わり、それでは安倍奥へ紅葉でも見に行こうかと思っていたら、何と今度は高校生の孫が
クラブ活動で足を骨折してしまいました。バスの便も悪く自転車通学をしていたので通学の足が必要になります。
そうなれば一番暇を持て余している私にその役が回ってくるのは仕方ありません。
気持よく引き受けたものの土日もクラブ活動を見学したいという事で休みの無い毎日になってしまいました。
そんな中、一日朝の送りを休ませてもらい歩きに出かける事ができました。

                      大崩山塊四城址(方の上・石脇・花沢・持宗)概略図


  東遠の山城跡を廻った歩きが結構楽しく、他にも無いかと考えれば、すぐ思いつくのは大崩山塊の山城です。
南の山域には石脇、花沢、方の上、持宗の四城跡に、北の山域には丸子城跡もあります。
コースは方の上・石脇・花沢と歩いて満観峰に登り、そこから北に向きを変えて舟川に下ります。
そして丸子城址を見学したら芹が谷峠を越えて小坂集落へ下り、今度は赤坂峠を越えて海岸沿いを持宗城址に向かいます。
東遠の山城と違い低いながらも山越えを2回しなければならず、今の私には結構きつそうなコースですが何とかなるでしょう。

 
        高草山関方登山口(関方バス停)                          方の上城址登山口

  最近ではすっかり恒例となってしまった登山口までのバス利用。今回も方の上(かたのかみ)城跡への他山口がある関方まで
バスを利用してしまいました。
バスを降りると石碑に 「高草山登山道 山の手口」 とあり、ここは潮見平経由で富士見峠から高草山に登る通称関方口の入口です。
他にもイラスト風地図や関方地区で行われる “山の神祭り” の案内板もあり、ついつい時間を取られてしまいました。
その案内板の近くには 「方の上城址登山口(狼煙台・幻の池)」 の標識もあり迷う事はありません。

 
             石合山(方の上城址)                                  分 岐

  登山道入口から北東に見える三角の山が、これから向かう方の上城址のある石合山です。この山の名前は先程のイラスト地図に
 「いしやばい」 と書かれていたが “やばい” とは何の意味があるのでしょう。考えても分かりません。

  登山口を入り最初の分岐に 「⇦方の上城址 狼煙台⇨」 の標識がある。最初これを見た時は城址と狼煙台は同じ場所にあるのに
何故行き先が違うのか理解できなかったが、多分ハイキングなら右の狼煙台に向かい、車なら左の城址に向かうのだろうと勝手に
解釈する事にしました。で、今回はハイキングですの右の狼煙台方向に向かいます。

 
                 猪の罠                                     山道入口

  民家の場所から左程離れていない場所に猪の罠が仕掛けてありました。以前の罠は入口が片方向だったが、今の罠はどちらでも
猪が入る様に両方が開いて、檻の中には猪が好きだという薩摩芋の上に小糠を撒いてあるようです。

  分岐から農道を10分も歩くと右に今度は 「方の上城址 狼煙台⇨」 と同一方向を指した標識が建っていて、ここからが山道の
始まりです。

 
                 網のフェンスがある道                          林の中に入る

  道は最草刈りをしてくれたのか歩きやく道の横には網のフェンスもあり至れり尽くせりです。
でも登山道のためのフェンスなのか、この先にあるミカン畑のフェンスなのだろうか? マーどちらにしてご丁寧な事です。
そのフェンスが終ると道は林の中に入りミカン畑の横に出る。

 
             ミカン畑からの景色                                   古 墳

  ミカン畑に出ると右に虚空蔵山や簡保の宿が見えたが霞んでいてはっきりは見えない。
道はミカン畑の横のモノラックのレールに沿って登り、終点の手前でまた林の中に入る。林の入口には標識もあり迷う事はありません。
林の中に入ると 「古墳」「狼煙台」 の標識がある穴があり “一体どっちなのだ” と言いたくなります。
仕方ないので昔、古墳だった所を戦国時代に狼煙台にしたのだと思う事にしました。

 
                  石合山                                  狼煙台(穴)

  古墳を過ぎて林を抜けるとそこが狼煙台で、自然石が組合っていて “石合山” の名前が納得できる場所です。
狼煙はどうやらこの組合っている石の穴辺りで揚げたようで、確かにここなら火も燃えやすそうだ。だが狼煙は煙が命なので余り
燃えすぎても良くないだろうから。水を掛けていぶらしたのだろうか。

それにしてもここの狼煙は何処に連絡していたのだろう。これから行く農道にある方の上城址の案内板には
 「南北朝の初期に安部城主の狩野貞長によって築城されたと伝えられている。
明応2年に今川氏親により改修され、今川の遠州方面進出の連絡拠点として監視や警備を行っていた。」
ある。
今は植林された木々で清々景色は見えないが、当時は当然邪魔な樹木は伐採してあったので西の遠州方面はよく見えただろう。

  案内板では触れてないがこの方の上城が歴史の一端に登場した事がある。
 「今川氏親の後を継いだ氏輝が急死すると今川家では跡目相続が起こった。嫡流の義元と腹違いの兄・玄広恵探による花倉の乱で
ある。駿府の義元の住む今川館を急襲した惠探だったが襲撃が失敗すると、方ノ上城と花倉城を拠点として抵抗したが、方の上城が
岡部の岡部氏の攻撃によって落城してしまう。勢いを得た義元側は惠探のいる花倉城も落とし惠探を自刃させ義元が今川当主となる。」


  こうしてみるとこの狼煙台で狼煙を挙げたのは岡部氏に攻撃された時と、落城する時に花倉城に向けて揚げた時ぐらいで、本来の
目的であった遠州方面の監視でなく、跡目相続による近隣の岡部から攻撃だった。これには方の上城を整備した氏親もさぞ残念だろう。
確かに花倉城址からはこの方面は良く見えるので、花倉城では方の上城が落城した事は狼煙が挙がれば分っただろう。
尤も狼煙で方の上城の落城を知った花倉城の城兵は、必死の覚悟を持つのではなく、諦めてしまい花倉城も簡単に落城してしまった。

        
                      石合山山頂                                    経 塚

  狼煙台の少し上に 「方の上城址・石合山頂上(標高230m)」 の標識が立っているが、平坦部は狭く城はおろか精々物見台の櫓が
建つぐらいの広さしかない。これで本当に山城があったのか疑問を生じてしまう。
ここに来る途中には山城に付き物の掘割らしき跡も無く、素直に考えれば農道の開始点辺りの平坦地に武将の館があり、石合山は
物見櫓と狼煙台があっただけではないか。なんて想像してしまう。

  山頂には 「経塚」 の標識もあり石で囲んだ所がある。これが経塚跡? どちらかと言えば植物を植えて保護のため石で囲んだ
ようにも見える。ここに物見櫓を建てるにしても石は邪魔になったろうしな・・・・・ いやいやそうではない、この経塚は方ノ上城が
落城してから、その時の戦死者を悼んで造ったと思えば辻褄があいそうだ。

  後ろに見える脚立はここで毎年11月3日年に狼煙を揚げるそうなので、その時のためのものだろう。
その狼煙が果たして花倉城址から確認できるかどうか一度確認してみたい気もします。

 
            山頂から焼津方面                              山頂から花倉城址方面

  今日は空が霞んでいて景色は諦めるしかないが、山頂からの眺めは樹木さえ無ければ南東から北西の180度見る事ができる。
城を建てるのはともかく、遠州方面の物見台としての役目は十分果たせただろう。

 
                  掘 割                                       掘 割

  山頂から北東に延びる細尾根を行くと少し凹んだ場所がある。そこには 「掘割」 の標識がある。
自然の地形なのか人工の凹みなのか私には判断しにくいが、標識があるのだから掘割なのだろう。
そうなると敵の攻撃は今登ってきた下からではなく、上からの攻撃を想定したのだろうか。分からない。

 
                  幻の池                                 作業小屋横の入口         

  標識に従い尾根を外れ少し下に行くと平坦地になる。今は植林された林の中だが館を建てる広さは十分にある。
勝手に想像するなら、物見役の城兵が寝泊まりしていた建物か、麓にあった館に敵が攻めてきたら重役が逃げ込む詰城的建物が
有ったとも想像できる。
その場所にある水溜りに 「幻の池」 の標識が建っている。ここが方の上城の井戸跡なのかもしれないな。

 
               農道先の入口                          農道にある案内板    案内板の場所

  他山口にあったイラスト風マップには、方の上城址の入口付近から高草山山頂に向けてハイキングコースが書かれていたので、
以前農道終点の標識の所の踏み跡から北に向かって登った事がある。しかしすぐ放置茶畑に遭遇し前に進めなくなってしまった。
この方の上城址を見た後、直接高草山に登るコースがあれば、利用者はあると思うのだが、城址を整備してくれている地元の
 「山の手未来の会」  で再整備してくれないだろうか。

そうそうこの山の手未来の会が建ててくれた城の案内板には石合山に 「いしあいやま」 とルビが振ってあった。一方登山口の
イラストマップには 「いしやばい」 とあった。地元ではどちらが名前を使っているのだう。

  疑問の多い方の上城址だが、それだけ空想も広がり楽しく観歩できます。是非一度歩いてみてください。

  
                                                               (春の夜の夢より)
  ネットに方の上城址の鳥観図があったので無断コピーをしました。ご免なさい。