はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

志太奥4山縦走

2015-02-28 14:31:57 | 低山歩き
歩行記録                                                      27-2-24(水)
歩行時間:6時間05分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:8時20分     到着時間:18時05分
歩  数: 42、333歩(推定距離31.7km)    GPS距離29.3km
行程表
 蔵田バス停 1:05> 高尾山 0:40> 笠張山 1:10> 菩提山 0:35> 桧峠 0:35> 椿山 1:15> 上滝沢 0:35>
 中山公園 0:45> 赤坂橋 0:30> 金吹橋 0:25> 勝草橋 0:30> 藤枝駅 
                              志太奥4山縦走
 何やらこの時期の恒例になってしまった志太奥4山縦走に行ってきました。
このコースは余り景観に恵まれてなく、花も無いので雨さえ降らなければいつ行っても良い場所です。
なので逆に何か切っ掛けがないと中々歩く気にはならなくて、この時期になると 「去年も歩いた時期になった」 と自分でハッパを
かけて歩くようになってしまってます。今日の天気予報は 「晴れ時々曇り風弱し」 で、やっと行く気になった。

 藤枝駅から日帰り温泉「ゆらく」まで自主運行バスで行き、そこでバスを乗り換えて蔵田まで行きます。
私のモットーとしている 「駅から・・・・」 ですが、今日の様なコースではどうしょうもありません。何しろ駅から出発地の蔵田までが
20kmもあるので、そこまで行くのに時間を取られ、山を歩く時間が無くなっていしまいます。

          
            鼻崎の大杉                            高尾山山頂
           蔵田の地図                高尾山の地図
 バスの運転手と話をしていると
「山を一人で歩るけば、道を考えながら歩くのでボケなくていいね」 と言った。私はすかさず
「家の者は、私がボケたら足が丈夫なので何処へ行ったか分からくなると心配してますよ」 と言って笑いあった。
ミニバンを改造した自主運行バスは、運転手が近いので気楽に話ができるのが楽しい。

 高根神社参道入口に大きく立つ杉の木は、既に老樹のくせに勢力旺盛で枝先は赤っぽく変色していた。これで一風吹けば
子孫繁栄のために、花粉を撒き散らすのだろう。
今日は幸い無風状態なので花粉は飛んでないが、何となく鼻がムズムズしてくるようだ。

 林道と別れて山道に入るが、まだ体が動き慣れしていないので上り坂がきつく感じる。準備運動を兼ねて一歩一歩ゆっくり歩く。
最初にここを歩いた時は、長い2本目の林道を歩きながら、いつ山道に入るのか標識や目印を見落としてはならないと、注意を
しながら歩いたが4・5回目ともなると余裕綽々、余裕を持って気楽に歩ける。(当りまえだよ)
このコースで登山者に会ったのは一度だけだが、その割には標識がしっかり付いていて、初めての人でも不安なく歩けます。

 高尾山山頂は北東の方向が少し開けていて、富士山が覗けるのだが、今日は富士山どころか近くの山もぼやけていた。
高尾山の海抜は675mで出発地の蔵田が419mなので標高差は256mしかない楽な山頂です。
それでも今日歩く4山の中では2番目に高い山です。

 
                林道崩壊                               笠張山山頂
 高尾山を下り林道を行くと崩壊現場に出た。人の歩くところは確保されていたので助かったが、崩壊当時ここに来たら断念する
事は無いが一苦労した事だろう。崩壊は昨年10月に襲った台風18号によるものだと杭が立っていた。
更に林道を進んだ笠張山の入口には、標識が林道の左右に有り見落とす事は無いが、標識に従い左に行くと道が分からなく
なってしまう。ここは標識の下を入ったら、すぐ鋭角に曲がった先の急な登りに付いた踏み跡が登山道です。注意してみると先の
方には目印もも付いています。私も最初来た時は間違えてしまいました。
この道は標識に 「笠張山新登山口」 となっていたが、道が新しいので余り歩かれていないようだ。登り口には茨の枝が伸びていて
痛い思いをしてしまった。
雑木林の中に入ると今度は落葉で道が埋まり見にくなっているが、前方を注意深く見れば目印があります。と云うか開いた所を
上に向かって行けば自然に目印や踏み跡に出ます。

 笠張山の標高は698mで高尾山より高い。だが何故か名前は知られてなくて、今朝乗ったバスの運転手も高尾山と菩提山は
知っていたが笠張山は知らなかった。
山頂標識のある所は林の中で視界はないが、南に20mも行った所は少し開けていて、丸太のベンチなどもあるので休憩には
都合が良い。とは言え今日は墨絵をさらに薄くした状態で見に行くほどもなかったが。
 笠張山の大変なのは上りよりも下りで、こんな道は登りたくないとか、下りで助かったと感じる道です。それでも熊笹の間に
道が有るので、熊笹を握りながら下れるのが救いですが。

 
                菩提山山頂付近                         菩提山からの眺め
 10分以上の悪戦苦闘は下に農道が見えてくれば終わりで、正面に次に登る山頂部分が見えてきます。この菩提山の山頂
付近は遠くから見ると仏舎利塔の塔のようで、搭本体の丸い頂点部に更に小さな丸みが有るように見えます。
実際歩くと搭本体の急な上りが終わると平らになり、少しするとまた登りになるを4回ほど繰り返して山頂に辿り着きます。
まさか昔の人がこの形状から 「菩提山」 としたとは思えないが何となく気になります。
ここの登りがこのコースで一番大変な所ですが、距離は短かく林道から30分も掛からず登れるのが救いです。

 
                 菩提山山頂                          山名表示
              菩提山の地図
 菩提山山頂には何か浮き彫りにされている石仏と祠? それとも賽銭箱? が置かれている。ここの標高は691mで今日の
最高峰だが景色は相変わらず霞んだままだった。

          
           いかにも尾根道                       二等三角点「伊久美村」
 菩提山を少し下ると今日唯一とも云うべきいかにも尾根道らしい道になるが、それもすぐ終わり林の中の道になる。
その道の途中に三角点を案内する標識があり、林の中に入ると石杭だけが顔を出した三角点があった。余りに淋しいので
近くに落ちていた赤いペグを拾い三角点の横に挿しておいた。ただこの三角点はこれでも二等三角点で、富士山の剣ヶ峰に
ある三角点と同等だった。試しに三角点の上に方位磁石を置いてみると北が正面を向いていた。

 
                   桧峠上の茶畑                       桧峠の地蔵堂
                 桧峠の地図
 菩提山からの山道が農道になると前方が開け茶畑が広がってくる。茶畑の色はまだ濃い緑だが、後2ヶ月もすれば柔らかい
緑色の新芽が出てくるだろう。
今日の行程で山道はここで終わるが、後は長~い舗装路歩きが待っている。ここまでの距離はおよそ10km強だが、予定距離は
30kmなのであと20kmは残っている計算になる。フー疲れるなー。

 農道と県道215号が合流する所が島田市伊久美の桧峠となる。この桧峠はかっては藤枝と川根を結ぶ重要な峠で、明治までは
川根側からはお茶を含む山間の産物を、藤枝からは塩等の日用雑貨を牛馬の背や人が背負って、この峠を越えて運んでいた。
大正に入ると索道や道路が建設され、やっと大量輸送が可能になったという。
当時の藤枝の商圏は大井川左岸まで広がっていたので、盛んに利用された峠だったが、大井川沿いに鉄道が敷設されたり、島田
までの道が開通すると、いつしか桧峠は静かな峠になったという。

 地蔵堂には当時の事を紹介した新聞の切り抜きが張られていて、読んでいると時間の経つのも忘れてしまいそうになる。
しかしまだ先は長い、余りユックリできないと重い腰を上げた。

 
            椿山の最頂部のブッシュ                          椿山山頂標識
 県道と別れて椿山への農道に入る。分岐には標識が建つ迷う事はない舗装路が続くのだが、国土地理院のウエブ地図では
農道が複雑怪奇に交じり合い、とても一筋縄では歩けそうもないように見える。そんな農道だが疲れが出はじめた足にはかなり
きつく感じる。椿山の標高は三角点は485mで、手前にある最高部は499mと、今日の中では一番低い山だが眺めは一番
良い山だ。今日歩いた高尾、笠張、菩提の3山は一望できるし、南アルプス、富士山、駿河湾なども眺める事ができる。
だが勿論今日は遠くは駄目で、近くもぼやけているので見甲斐はない。それでも登るのだから我ながら呆れてしまう。

 椿山の山頂標識は明らかに山頂とは思えない農道脇に立っているので、今日は最高部に行ってみようと思っていた。
農道がの一番高い所の上には茶畑があり、更にその上には低木の塊が見える。多分そこが最高部だと見当を付けて茶畑の
上に出ると踏み跡がブッシュの中に続いていた。
しかしブッシュの中は何の変哲もない雑木の落ち葉が堆積していただけで景色は勿論見えない。山名の椿の木は無いかと
辺りを見回すと、何やら椿の葉に似た木はあるが椿かどうか判断できなかった。
すぐ諦めて農道に戻り、先に進んで山頂標識のある場所に行くが、これでは如何せん山頂の雰囲気は出なかった。

 
                ログハウス                                 三角点「椿山」
 以前にも覗いた事のあるログハウスの敷地の中に入ってみた。勿論誰も居ないし最近立ち入った気配も無い。
チョット中を覗かせてもらおうと階段を登りウッドテラスに登ると、今まで見えなかった南側の景色が少し見えてきた。 
更に進むとその景色を見ながら入れる風呂もある。随分金の掛かった建物だが、どのくらい利用したのだろう。
きっと金の価値を知らない成金が道楽で建てたのだろうと、僻み半分で勝手に思う。(ご免なさい)
反対側の庭に出ると、オヤあれは何だ? 庭の中ほどに国土地理院の白い木の杭と石の杭の頭が見えていた。
これが標高485mの三等三角点 「椿山」 でした。

 農道が下り始めた所にある 「開拓の礎」 の辺りの景色が一番良いのだが、今日は勿論駄目、来年に希望を託そう。
それでも一昨年写した写真をアップしましょうかね。

     
                                椿山より 志太奥の山

     
                                椿山より 富士山
 椿山から県道215までの農道は急な下りで、逆コースでなくて良かったと感じてしまう。蔵田を出てからここまで誰とも会わず、
また車道で車にも合わなかった。この縦走の一番の魅力は静さかなので、今日もその魅力を存分に味合う事ができた。
そうそうこちら側のバスの終点に朝乗ったバスが停まっていて運転手が手を挙げてくれた。
でもご免なさい、ここでバスに乗ってしまうと歩行距離が20kmになってしまう。軽く頭を下げて通り過ぎるしかなかった。
きっと運転手さんはアホたれただろうな。

遠江四十九薬師霊場4-4

2015-02-24 15:57:03 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              47番 東昌寺(貝塚)
 
              47番東昌寺
           東昌寺の地図
 47番東昌寺は医王寺から西へ1km程で、医王寺では新幹線が寺の後ろを走っていたが、東昌寺は新幹線は前に、後ろには
東海道本線が走っていた。地図上では煩そうな所と感じるが実際歩くと特に騒々しいとは思わなかった。どちらかと云えば畑に
囲まれた静かな住宅地と言った感じがした。
 寺の前のバス停が 「東貝塚」 で地名も東貝塚。そう云えば遠州33観音で磐田のを歩いた時は 「西貝塚」 の地名もあった。
となればこの台地の下には矢張り蜆の取れる大きな湖があったのだろう。
尤も貝が蜆ではなくアサリなら海あるいは塩分が混じった汽水湖だったかもしれない。以前聞いた説で徳川家康が磐田に城を
築こうとしたが、井戸に塩水が湧き真水を得る事ができなかった。仕方なく磐田での築城を諦めて浜松に築城した云う。
その城普請をした場所の地名は 「城之崎」 とか。上手く纏めた話で成程と頷けてしまった。
だが若し家康が磐田市に城を築いていたら三方原の戦いは行われず、家康は負戦をしないで済んだ。となると日本の歴史は
変わったものになっていただろう。

   

  東昌寺では遠江49薬師の全てのご朱印を預かっており、ここで無住の寺などのご朱印を受けられるという。私もここまでに
48寺廻ってきたが9寺のご朱印を受けてない。この際無住らしき寺のご朱印は貰ってしまおうと思ってその旨を申し出ると。
「今はご朱印は預かっていません。今は油山寺さんが全ての寺のご朱印を持っています。」 だって。

                              客番 福王寺(名刹)
 
                 総門(山門)                             山門(鐘楼)
             福王寺の地図
 福王寺は寺名だけでなく山号も含めて 「風祭山福王寺」 と書くと寺のイメージが湧いてくる。この 「風祭山」 と称する謂われは
永観2年(984)の寺の開創当時、遠州一帯を暴風が来襲した。そのとき諸国行脚で福王寺に逗留していた陰陽師安倍晴明が、
風雨鎮めのご祈祷を行い、暴風を鎮めて多くの人々を救った。これ以後福王寺の山号を 「風祭山」 と称するようになった。

 福王寺は43番松秀寺と同じように49薬師だけでなく、33観音と七福神の札所なので既に何回も来ている。外にも歩こう会でも
来ているので磐田地区では一番馴染みのある寺だ。しかしいつも迷うのが寺の門の呼称だ。普通なら寺の入口にある門を山門と
呼び、次の門は鐘をのせているので鐘楼と呼びたい。だがその鐘楼には寺の案内板があり、そこには 「山門」 と紹介している。
では入口の門は総門なのか? 門の外に立つ仁王像が門の中なら仁王門だがなー。そこには寺の説明は見当たらなかった。

 
                  本堂                                万両園(庭園)
 福王寺は現在は曹洞宗だが開創当時は真言宗だったと云う。静岡県の寺では良くある例で驚く事は無いが、福王寺の前に
寄った東昌寺も曹洞宗だった。今はそれに不思議さは感じないが、福王寺が真言宗だった頃はどうだろう。
東西に真言宗の大きな寺に挟まれた寺が別の宗派でやっていけたのだろうか。一般的にはどちらかの寺の末寺だったのでは
ないかと考えてしまう。だいたい寺の宗派はそれほど厳密な物ではなく、変更に際しては一般檀家の思惑など考慮せず有力な
檀家や時の住職の考えで宗派を変えた様だ。例えば伊豆修善寺にある修禅寺は、真言宗の空海により開創されたが途中で
臨済宗に宗旨替えをし、更に今では曹洞宗である。寺の名前の 「禅」 が町の名前の 「善」 と違うのも禅宗の臨済宗になって
から変えたのではないかと私は感じている。
話しを元に戻して東昌寺だが、今曹洞宗である事を考えると、寺の開創当初は福王寺の末寺の真言宗で、福王寺が曹洞宗に
なるのに合わせて、東昌寺も曹洞宗に宗旨替えさせられたのではないかと想像している。   

           
                観音堂                              江月堂
 山門の入口には 「本尊聖観世音菩薩」 の大きな看板が下がっていたが、これは遠州三十三観音霊場のご本尊の方で、
49薬師は境内にあるお堂の前に 「客番札所 遠江四十九薬師霊場」 の看板が立っていた。
お堂の中を覗きこむと沙弥壇の上には扉の開いた厨子が安置されていたが、格子が邪魔をして良く見えなかった。
多分これが薬師観音なのだろうと思ったが、私の注意は本尊より手前に置かれている2体の木彫りの動物に引かれた。
ライオン? 獅子? 狛犬のように座ってはいないで4本の足で歩いている形だ。だが口は阿吽のように一匹は口を結び、
一匹は開いている状態だ。矢張り狛犬としてここに安置したのだろうが、何となくこの場にはそぐわない様に感じた。 

 雰囲気が金閣寺を思い起こさせるような建物 「江月堂」 は、安政期から明治初期まで開かれていた寺子屋があった所に
あり、今は1階に寺宝展示、2階は図書文庫として利用されているようだ。
何回も福王寺は来ているが、この建物の中には入った事がない。今日も入口をチラリと見ただけで素通りをする。

 
                 晴明堂                                安倍晴明祈祷跡      
 福王寺で忘れてはならないのは、平安時代に活躍?暗躍?した 「陰陽師安倍晴明」 だ。その晴明を祀ったのが 「清明堂」 で、
扁額には 「晴明大権現」 とあり、お堂の幔幕やガラス戸の桟にも 「晴明紋」 がある。
晴明紋とは 「五芒星」 といわれる形をしているのだが、これにもう一つ角を増やせば 「六芒星」「ダビデの星」 と同じになる。
若しかして安倍晴明は世界に散ったユダヤ民族の末裔か。とまたもや妄想が蠢きだした。
境内には晴明が祈祷したと場所 「晴明塚」 もある。

           
                      石仏群                            今川範国の墓
 屋根の下にある石仏は余り傷んではいない。医王寺の六地蔵は表面が崩壊し始めていたが、ここの六地蔵は江戸時代の
文化9年(1813)と200年以上前の物だが傷みは無く剥がれてくる兆しも無い。それは他の石仏も同じで屋根が有るか無い
かで、こうも違うのかと驚いてしまう。尤も石の材質による方のが影響が有るのだろうが。

 一般の墓地の後ろに、駿河今川家の初代当主で今川氏の礎を築いた 「今川範国」 の墓がある。駿河の守護代の墓が何故
遠州のここに有るのか、以前から疑問に感じていたので調べてみたがよく分からなかった。
範国は後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕の元弘の乱でも戦い、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏に従い、北朝方として活躍する。
その功績により遠州の守護職、次いで駿河の守護職になる。その後守護職を子の範氏に渡し、本人は足利幕府の出仕する。
1384年に死去し、当初菩提寺は磐田市岩井の東光寺だったが、廃寺となったことで五輪塔は福王寺に移されたとある。
だがこの時代の今川は駿河守護代と云っても、まだ駿府には入る事ができず、2代目範氏は島田市大草の山城にいて、墓も
その地にある。そうしてみると範国の亡くなった頃は駿河守護代と云ってもその勢力は弱く、駿河に墓を築くよりも遠州の方が
無難だったのかもしれない。

  

富士川梅園と岩本山梅園

2015-02-22 17:34:23 | ウォーキング
歩行記録                                                      27-2-21(土)
歩行時間:4時間20分   休憩時間:2時間45分   延時間:7時間5分
出発時間:8時10分     到着時間:15時15分
歩  数:  26、508歩    GPS距離17.8km
行程表
 富士川駅 0:10> 富士川梅園(宗清寺) 0:20> 小休本陣常盤邸 0:15> 水神社 0:15> 雁堤 0:20> 実相寺 0:30>
 岩本山 1:30> 曽我寺 0:05> 入山瀬駅 0:55> 富士駅

                              富士川梅園と岩本山梅園
 富士川駅から西の方角の岡の上一面に墓地が広がっていて、その最頂部がほんのり赤く染まっているのが見える。
そこが宗清寺の墓地にある富士川梅園だが、赤く染まった範囲は狭い。何しろ墓地のほんの一部に植えられた梅なので
梅園と紹介するのもおこがましい感じもする。せめて 「宗清寺梅園」 ならすんなり納まるのだが・・・・・・

 でもでもですよ。先ずは下の写真を見てください。
         
          宗清寺のん地図
 宗清寺本堂の屋根の後ろに聳える山は、まさに霊峰富士。そして梅園は

         
         
 と、こんな具合です。まだ満開には少し早いが十分堪能させてもらいました。
笠被り地蔵にお詣りして旧東海道を東に向かいます。途中にある 「小休本陣常盤邸」 に立寄り案内の人から
「女優の常盤貴子の父親は、この屋敷に住んでいた」 等の話を聞いたりしながら富士川を渡ります。

  
       常盤邸の槇の巨木               水神社の石仏                 水神社の常夜燈
        常盤邸の地図       水神社の地図
 文政3年の馬頭観音の石仏や文化元年の常夜燈がある水神社は、かっては富士登山の出発地で、ここ富士川で水垢離を
済ませてから富士山に登ったという。

 水神社から雁堤(かりがりつつみ)の上を歩いて岩本山の麓にある実相寺に向かう。
宗清寺では雲一つない快晴だったが少し薄雲が出てきて、富士山の中腹にも薄い帯雲が掛かってきている。これでは富士山は
お出かけして見えなくなってしまうだろう。
私の生まれ育った御殿場地方には富士山に掛かる雲で天気を占い、富士山に帯雲が掛かると
「富士山が帯を巻き、おめかをしてお出かけの支度をしている」 と富士山が雲に隠れて見えなくなると言っていた。
その伝でいくと今日も見えなくなってしまうが果たしてどうか。
実はこのウォーキングは明日(22日)の予定だったが、降水確率が高くなったので1日早めて今日にしていた。仲間を誘っての
ウォーキングなので清々した景色を見てもらいたいと思うのだが。

 
              実相寺総門                             展望台から富士川と雁堤
        雁堤の地図             実相寺の地図
 日蓮宗霊山本山の実相寺の境内の中を通り岩本山ハイキングコースに向かう。
途中下って来た人に岩本山の梅の状態を聞くと
「ウーン! 行ってのお楽しみですな!」 と言われてしまった.
と云う事は見頃なのか、それとも・・・・・・ マーそれは楽しみにしておこう。

 山頂の近くに子供の滑り台と展望台を兼ねた塔がある。ここから富士市の町並みと今歩いて来た雁堤や富士川が一望できる。
岩本山山頂からは富士山や南アルプスなどの遠景を眺める事は出来るが、南や東の景色は余り良くないので、ここから眺める
事をお勧めします。

で、梅園の状態はと云うと…・

       
           岩本山の地図
 胸高に締めた帯の富士山が辛うじて見えていました。この場所は梅園の中でも特に花が咲いていた場所で、それ以外の
場所は全然咲いていない木が殆どで、全体でみても1分か2分咲きと言ったところです。あと10日後あたりが満開かな。

 同じような場所にある富士川梅園は見頃が近いのに、ここの梅はまだまだなのは木の種類の違いなのか。それとも標高の
違いなのか。岩本山梅園の標高は192mで富士川梅園は70m。確かに100m以上違うので温度も1度以上は違うだろう。
さらに富士川梅園は東と南の方角が開け、太陽を燦々と受けているが、冷たい数が吹く北と西は高台で塞がれている。
きっと幾つもの条件が重なり10日以上の開花日の違いになるのだろう。

 
              勘助坂から新東名                            曽我兄弟像
              勘助坂の地図                           曽我寺の地図
 岩本山からの帰路は少し悩んだ。歩き慣れしていない仲間を余り歩かせると不満は出るし、かと言ってJRの爽やかウォー
キングと同じ程度だと案内する私が満足しない。今日もそのためJRのウォーキングではやりそうもない富士川霊園を出発地に
してある。帰りもこのまま最寄りの身延線の駅にしたのでは私の沽券に係わると、選んだのは武田の軍師山本勘助が散歩した
とされる 「勘助坂」 を歩いて、ゴールを身延線入山瀬駅とした。これで歩行距離は大体15km。これなら不満は出ないだろう。

 勘助坂からは富士山とその裾野を走る新東名を一望する予定だったが、富士山は何処かへお出かけしてしまい見る事ができ
なかった。
ゴールの入山瀬駅の近くでも予定の2時半にはなっていず、距離も予定の15kmに達していない。そこで曽我兄弟の墓所の
曽我寺を追加することにした。私にはお馴染みの所だが、仲間は興味深めに案内板を読み銅像を眺めていた。

 入山瀬駅に着いたのは2時で歩行距離は約15km。仲間には丁度良いウォーキングコースだっただろうが、私にはまだ半煮えの
状態で満足していなかった。折角妻に弁当を作ってもらい、交通費を使って来たのに15kmでは余りにも少なすぎる。
そこで仲間と入山瀬駅で別れ、私は一人で富士駅を目指した。1時間の行程だったが見る物の無い車道歩きで終わってしまった。

遠江四十九薬師霊場4-3

2015-02-20 15:20:11 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 
0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              44番 寿正寺(大之浦)
 
              44番寿正寺                                   観音堂
            寿正寺の地図
 番外を打ち終れば後は進路を北に変え磐田市のオールドタウン見付に向かって北上する。札所も残りは6寺だが、客番とお礼
参りの1番を入れると8寺となる。数は多いが皆狭い範囲内にあるので何とか今日中に結願を迎えたい。いや残ってしまうと後が
面倒になるので是非とも今日中に結願する。
 平らで変化の少ない田圃の間の道を歩くのは面白くないので勝手な妄想が湧いてくる。
遠江の語源は 「遠津淡海(とおつあわうみ)」 で、近江が都に近い琵琶湖なのに対し、そこより遠い所にある淡水湖を指していた。
今ではその湖は浜名湖だったと云う説が有力だが、実はここにあった 「大之浦」 と云う湖だったという説もある。
その証拠には遠江の国府は見付にあり、国分寺や国分尼寺も見付にある。仮に浜名湖が遠津淡海だったら、国府は浜松の西部に
置かれたのではないかと云う。
どちらの説が正しいか判断はできないが、磐田付近を歩いていると狭い台地の上の凹凸のある地が何故国府なのだと疑問が湧く。
台地の南下にあるもっと広く開いた土地があるのにと思うが、だがそこは当時大きな大之浦があり周辺は湿地帯になっていた。
では台地の東側と云うと、そこは太田川が流れ桶ヶ沼や鶴ヶ池もある湿地帯だった。
更に台地の西には天竜川が流れ大雨のたびに流域を変え暴れまくっていた。となるとこの辺りで国府を造るとなると台地の上しかない。
そんな理由で遠江の国府は台地の上になったのだろう。
よって私は遠江は浜名湖ではなく、ここ磐田にあった「大之浦」 に軍配を揚げたい。

 
              寿正寺の白木蓮                             寿正寺の????
 寿正寺の山門は山門と云うより民家の門のようで、本堂も入口の間口が広いので、寺と言えば寺だが住職のいる感じのしない
建物だ。境内を歩いても人気は無く案の定無住の寺だった。
だが無住で適度に荒れた境内には、大きく育った白木蓮や雪柳の花木が花をつけていた。公園の整理された花壇ではなく自由に
枝を伸ばした花木は無住の寺には合うようだ。

                              45番 全久院(役行者) 
  
              45番全久院                                山門扁額
 全久院の山門の横には六地蔵ならぬ四体の地蔵が祀られ、その横には案内板のあるお堂が建っていた。
これが薬師堂かと思い近寄り案内板を読んでみると珍しく役行者の来歴が記されていた。

役行者(鍬陰の行事由来) 舒明天王の御代、大和国葛上郡葦原に生まれました。幼少の頃から聡明で、あらゆる典籍を読破し
大和や熊野の山で苦行を重ね神の業を現すに至りました。その後は修験道を開き悪魔悪病の退散を祈り霊験を現しました。
鍬陰では、ある時期疫病が流行り、天地の異変も加わって苦難の年が続きました。村人は挙って山の上に役行者のお堂を造り
村の平安を祈りました。お堂は明治期に移転し平成16年に修復工事を行いました。役行者奉賛会」


 静岡県内を歩いていると行基や弘法大師の逸話や二人が彫ったとされる仏像は多い。だが役行者に関連した話は少なく覚えて
いるのは掛川市本郷にある 「長福寺」 に伝わっている話だけです。
「むかし、掛川の長福寺に旅の僧が立ち寄り 「大和の国まで行くのだが、少しお金を恵んでくだされ」 と頼むと、 長福寺の和尚は
自慢の大鐘を指差して 「金ならあそこに吊してある。あれでよければ持っていけ」 とからかった。
旅の僧は釣鐘堂にあった鐘を軽々と下におろし、ふわりと肩に担ぎあげて 「和尚、もらっていくぞ!」 と叫び西の空に飛んで行って
しまいました。
その夜のこと、役の行者尊を祀った大和の国の大峰山では、ひどい嵐が吹き荒れました。翌朝、村人が外に出てみると険しい
岩山の松に大きなつり鐘がかかっています。不思議になって、やっとの思いで近づいてみると、その鐘には 「遠江国佐野郡原田郷
長福寺鐘」
と彫ってありました。
旅の僧が役行者尊の化身だったと気づいた村人たちは、長福寺の裏山にお堂を建立して、行者尊を祀りました。
けれどそれ以来、何度つり鐘を造っても、その鐘の音は寺の外には聞こえなかったそうです」


 今に残る言い伝えとは、こんな風に逸話を含めて残っているものが多いのに、ここの鍬掛行事の由来案内は単に役行者の履歴と、
疫病が流行って困り役行者のお堂を建てたと云う事実だけだ。
これでは鍬陰の行事とは何か分からないし、何をするのかも分からない。仕方なくネットで鍬陰を検索したがヒットしなかった。

 
              全久院本堂                                 お堂の内部
 ここの本堂の屋根は一見イスラム教的雰囲気のあると思いませんか。遍路をしていると時折こんな屋根の寺を見かける事が
あるが私にはどうもしっくりこない。ここの屋根も実際は何をデザインしたのだろう? 蓮の花を逆さにしたものか、合掌した掌の
形なのかよく分からないな。
 だが全久院は屋根の形こそ斬新的だがその歴史は古く、開創は670年頃の天部天皇の時代だったという。当時は虚空蔵
菩薩を祀る寺で明星山虚空蔵寺と呼ばれていたが、923年頃には 「蔵前山虚空蔵寺」 と改めている。
その山号の蔵前とは、寺の裏手に七つの蔵があり、そこから米を舟で伊勢まで運んでいたから付けられた名前だと云う。当時の
ここの地名は 「船戸」 と呼ばれていたと云う。
なら太田川利用した水運はここが発着点だったのか。云われてみれば寺の後ろ辺りから磐田原台地への登りが始まっていた。

 現在全久院の山号は 「護国山」 。折角歴史を感じさせる山号だったのに改名は惜しい気がする。
そして今の地名は鎌田だが蔵前山の山号を使った頃の823年頃では舟戸で、役行者のお堂を建てた1754年は鍬陰だった。
地名の変換は仕方ない事だが、その謂れが残っていれば郷土史に更に興味も湧いてくのだが。

 境内に新しいお堂が建っていた。その正面には扁額の代わりに天狗のお面が飾ってある。何のお堂だろうと中を覗いて見ると、
沙弥壇上の正面には社の様な形の物が置かれ、その左右には十二神将ならぬ十二支の置物と人形の置物が飾られていた。
一体何のお堂だろう?

                              46番 医王寺(古刹)
 46番医王寺は既に磐田原台地への登りが始まる台地の最南端の地にある。この寺の歴史も古く天平16年(744)行基が
聖武天皇の勅命でこの地を訪れ、薬師如来の霊験ありとし、山内の木で薬師如来像を彫り、伽藍を造って祀ったのが始まりと
伝えられている。寺の正式名称は 「鎌田山金剛院醫王寺」 だが、今迄遍路をしていて行基が本尊の仏像を彫り、その仏像を
祀った寺は多かったが、行基自身が開基と云う寺は少なかった。
否、記憶に無いくらいだ。そこで興味を覚えて調べてみると医王寺のHPを見つけた。以下はそのHPからの受売りです。
 
 平安時代(810~822)に嵯峨天皇の厚い帰依を受け、七堂伽藍が整い、真言密教の根本道場となりました。
当時の山容は、広大な境内に本堂、金堂、講堂、五重塔、三重塔、鐘楼堂、仁王門、三十六ヶ坊の末寺などが配置されて
いましたが、戦国時代に武田信玄勢の兵火にかかり寺塔ことごとく灰燼に帰したのでした。
 のちに徳川家康は兵火による焼失をいたく惜しまれ、家康自ら浄財を出してその再興を援助されましたが、ついに旧観に
復帰させることが出来ませんでした。
 三代将軍徳川家光からは、祖父徳川家康のかつて与えた 「黒印」 を改めて、石高135石の 「朱印」 を与えられます。
おかげで寺運は大いに振るい、江戸時代末期まで代々135石を領していました。
 当時の本寺金剛院は、多くの塔頭を擁していました。医王寺はその塔頭の一つで、鎌田薬師の名称で親しまれていました。
しかし本寺の金剛院が明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の嵐により寺運がゆらいだため、明治8年医王寺を再興する形で
法灯を守ったのです。この時三十六ヶ坊のほとんどが廃寺になっています。

 
             石垣の寺の入口                              山門への道
         医王寺の地図
 寺の入口にある石垣は、小さなめな河原石を積んだ脆そうな石垣だった。HPによれば、この石垣は 「百姓積みの石垣」 とか。
意味の説明は無かったが、きっと鎌田薬師に参拝する百姓が、畑や田圃から出た石を持ってきて奉納したのだろう。
島田の大井神社にも同じような風習があり、川越人夫が大井神社に参拝する時は、石垣用の石を大井川から持っていったとか。

 山門に続く参道の左右は、杉苔が生茂り緑の絨毯のようになっていて、厳かな気分にさせてくれる。

 
                山門                                     山門
 海鼠壁を左右に張りだした四足門の山門は、折から咲き出した桜の花にも彩られ、厳かな気分の中に期待感も抱かせてくれる。
この山門は建立から160余年を経っているが、昭和19年の東南海地震では、大きな被害を受けた。左右にある海鼠壁は崩れ
落ち、山門だけがかろうじて建っている状態になってしまった。
それから60年近く経った平成14年に、大規模な工事を行い、以前のように海鼠壁を持つ山門に修復されました。

 
               山門の彫刻                               山門の彫刻
 山門の各所には種々の彫刻が彫られていて、中でも目を引いたのは番の鶏が餌を啄ばむ姿だった。色彩が施されていない
ので地味な感じがする彫物で威圧感は無い。山門と云えば阿吽の仁王がそれこそ仁王立ちして、不審者を睨みつけているのに
ここの 「鶏」 は何を意味しているのだろ?

 
                 客殿                                   庫裏
 山門を潜った境内は杉苔が一面に生茂っていて厳かな感じを醸し出している。その先にある建物は本堂と見えるがHPに
依れば客殿となっている。しかし元々は客殿として使われていたが、明治に入ってからは普通の寺院にある本堂と同じような
用途で使用しているそうだ。

 庫裏の建物も本堂と思えるような堂々とした建物だった。ご朱印を貰うべき入った庫裏の天井は、黒光りをした太い梁が幾重
にも重なっていて伊豆長岡の江川邸より立派だと思えた。そして座敷へ上がる板の間も磨きが掛けられ黒く光っていた。
こんなに立派な建物も明治に入ると荒廃し、一時は無住の時もあったというのが信じられないほど綺麗にされていた。。
明治の新政府の行った廃仏毀釈運動は、今ならさしずめアフガニスタンのタリバンがやったバーミヤン渓谷の仏像破壊に等しい
愚行だったと思う。しかし当時の一部の輩は、日本古来の神道を敬い、東洋伝来の仏教を破壊することが正義とする流行病に
罹っていた患者だったのだろう。

 
                 薬師堂                                 旧薬師堂
 現在の薬師堂はどこにでも見られような小振りのお堂だが、昭和19年に起こった東南海地震までは、右の写真のように
風格のある薬師堂だった。だが地震により薬師堂の棟瓦は全てすべり落ち、薬師堂内一面に雨漏りするようになってしまった。
しかし戦時中の貧しい中では、物資も人出も不足し改修工事もままならず、雨漏りの応急処置すら出来ぬまま歳月が流れた。
 戦争の末期に同じ真言宗の浜松鴨江寺は米軍の艦砲射撃と焼夷弾による浜松空襲で、寺の諸堂伽藍すべてが灰燼に帰して
いた。そんな時、医王寺の薬師堂を鴨江寺に移築し、鴨江寺の末寺の小寺を医王寺の薬師堂にする案が浮上した。金の無い
医王寺としては薬師堂をこのまま朽ちさせるよりは、鴨江寺との両替案に賛同した方がベターとして建替えを行った。
 
 医王寺のHPには
「薬師堂は多くの参詣者に親しまれるお堂として今現在も、鴨江寺にて大切にされ、その法灯は脈々と受け継がれています。」

書かれている。だが、鴨江寺のHPにはその件の案内は一切無かった。

     
               鎮守堂                               大師堂
 小高く積れた石垣の上に一見社とも見える建物がある。両脇には常夜灯や狛犬も供えているが案内板も無かった
のでただ見るだけで済ましてしまったが、後でHPを確認すると 「鎮守堂」 とあり、白山権現、八王子権現、熊野権現の
三体を祀る三部権現との説明が有った。
この鎮守堂は名前の通り、医王寺に降りかかる災い事を鎮めることを目的に、天保7年(1837)に建立されたともあるが、
今思い出してもお堂の向きが客殿とは逆の方向を向いて、医王寺を見守っているようには見えなかったが・・・・・・ 
次回訪ねた時に確認しよう。

 大師堂と云えば弘法大師を思い浮かべるが、ここの大師堂には行基菩薩、弘法大師、興教(こうぎょう)大師の3人の
祖師をお詣りしている。元々は 「三祖御影堂」 と呼んでいたが、現在は便宜上大師堂と呼んでいるそうです。
御影堂(みえいどう)の名は余り聞かないが、祖師堂とか開山堂と同じものなのだろう。
ここのHPでまた面白い記述を見つけた。そこには 「医王寺は遠州二十一大師の第二十一番札所です。」 とあった。
遠州、駿河の霊場巡りも底をついて、次回は何処を歩くか迷うこの頃なので恰好の題材だ

  
              2墓制による墓                               古い石仏
 大師堂の裏に無縫塔の墓が何体もある。どれもが古い石塔で現在の物は見当たらない。いつもなら住職の墓か、と思うだけで
終わってしまうのだが、これにHPには面白い紹介がなされていた。
「医王寺周辺の地域では、古くからの風習で2墓制による先祖祀りが行われていました。亡くなったご先祖さまのご遺骨を納める
墳墓と、その家系の大先祖さまをお祀りする墓碑の2種類であり、墓碑は、信仰していたお大師さま(弘法大師空海)の近くに
建てることで、お大師さまの徳と、慈悲を授かれるようにしたのでした。  
大先祖さまを祀るということから、その家系の本家すじにあたる者しか、大師堂の近くに墓碑を持つことが出来ませんでした。」

初めて聞く風習だった。

 大師堂の近くには古い石仏群が安置されている。どの石仏も崩壊しているが、六地蔵の下部は石の表面が剥がれ落ちていて
痛みが一番激しい。隣の青面金剛(だと思う)の足元には踏みつけられた邪鬼や鶏も見える。
ほかの観音像もそれぞれ彫り出し部分が高く、それだけに惜しまれる感じの石仏群だった。
               
     
     行基作薬師如来像               御前立ち薬師如来像           薬師如来像
 御前立ち(おまえだち)とは、秘仏の本尊の替りに、本尊が安置されている厨子前に置かれた仏像の事です。なので私は今迄
本尊を模した仏像が御前立ちだと思っていた。ところが医王寺の御前立ち釈迦如来は座像で本尊は立像の釈迦如来だった。

 医王寺はこれ以外にも枯山水の庭園等があるが、時間が気になり今回は見学をしなかった。
医王寺はは今まで多くの寺院を参拝した中でも五指に残る寺だと思う。是非近いうちにもう一度お参りに来たい。
その時は時間の余裕を持って参詣しよう。

遠江四十九薬師霊場4-2

2015-02-17 10:19:39 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              42番 長溝院(いぼ薬師)
 
                長溝院                              薬師堂の中
              長溝院の地図
 41番心宋院から県道255号を1.5kmほど南に下った長溝(ながみぞ)の地名の所に42番長溝院(ちょうこういん)はあった。
現在の寺は原野谷川の東にあるが、昔は太田川の西にあったという。原野谷川と太田川の違う川の名前だが、実はこの二つの
川はここで合流している。かってはこの二つの川が一つになったり合体したり長い溝のようになっていたのだろう。
この二つの川に挟まれた地域からは、集落跡などの遺跡が幾つか発掘されている。これはかってここは遠州国府の見付への
海の入口だった事を現していないか。
今でこそ無住の寺となっているが、いにしえの長溝院は相当な寺だったかもしれない。
 
 薬師堂の中を覗き込むと 「いぼ薬師如来」 の文字が見えた。お薬師さんが疣神さんなんて何とも庶民的なお薬師さんだが
きっとご利益があるのだろう。
                              43番 松秀寺(健康重訓)
           
           東照堂と火の見櫓                      東照薬師観音堂内部
 43番松秀寺は遠州33観音霊場と遠州49薬師観音霊場にも指定されていて、ご本尊は33観音は聖観音、49薬師は当然
薬師観音である。その薬師観音は元から松秀寺で祀られていたのではなく、近くの平福寺の東照堂で祀られていたのを明治の
廃仏毀釈により無住になった東照堂から松秀寺に移転したのだという。
その東照堂が松秀寺に行く途中の火の見櫓の近くにあった。一見作業小屋の見えるが内部は整理され掃除が行き届いている。
正面の須弥壇の上にある黒い厨子は扉が締っていて薬師如来は見えないが、本当にあの厨子の中に薬師如来を安置してある
のか? 明治に松秀寺に移したという話はどうなるのだろう。

 
            松秀寺門前の蓮池                             朝観音の草鞋 
          松秀寺の地図
 東照堂のお詣りを済ませ松秀寺に向かう。この寺は二つの観音霊場以外にも遠州七福神にも指定されているので私がここを
訪れるのも3回目になる。
門前にある大きな蓮池は当然今は花は咲いていないが花の時期に一度は訪れてみたい感じがする池だ。
ここで問題です。この松秀寺に祀られている七福神は誰でしょう? 
七福神を見ただけでは分からないが、一度でも七福神巡りをした人はすぐ分かりますよね。答えは 「弁財天」 です。
ヒントは 「池」 です。ここからは受売りになりますが、弁財天とは元々は水の神様だとか。因みに 「日本三大弁才」 といわれる
竹生島(滋賀県、琵琶湖)、江ノ島(神奈川県)、厳島(広島県)などはいずれも水辺に祀られています。
また、お金を洗うと倍になる 「銭洗弁天」 は、弁財天の 「財」 の蓄財の神様と水の神が合体した生じた風習なのだそうです。
他にも水の流れる音が音楽を奏でるようだと音楽の女神にも、さらには 「弁才天」 と書いてその 「弁才」 から、言葉(弁)の
才に優れた神ともなり、弁舌、学芸、智恵の女神として信仰されているのだそうです。

 色々なお寺巡りをしていると七福神に指定されていなくても境内の池に弁天さんを祀ってある寺が多い。
ただ 「焼津七福神」 に指定されている寺に池が有ったか無かったか? 未確認なのでいつか確認したいと思っている。

 松秀寺の山門横の格子にミニ草鞋が沢山奉納されている。これはここの観音さんは早朝に参拝すると足が丈夫になると
云われる 「朝観音」 で、草鞋は朝観音の功徳を授かった人がお礼に奉納したものだそうです。
格子の中には幾つもの石仏が安置されていて、どれが朝観音なのか分からない。
中央に座像の石仏があるが、座っている石仏が足腰の神と云うのも変だし・・・・・・・

 遠州33観音巡りで松秀寺で貰った 「つもりちがいの十条」 が中々良くて以前にもブログに掲載したが再度紹介します。
 1条  高いつもりで低いのが  教養
 2条  低いつもりで高いのは  気位
 3条  深いつもりで浅いのは  知識
 4条  浅いつもりで深いのは  欲の皮
 5条  厚いつもりで薄いのは  人情
 6条  薄いつもりで厚いのが  面の皮
 7条  強いつもりで弱いのが  根性
 8条  弱いつもりで強いのが  我
 9条  多いつもりで少ないのは 分別
10条  少ないつもりで多いのが 無駄
どれもこれもごもっとも。特に4条から後は私のための格言のようだ。

 次に七福神巡りで貰った 「人の世は山坂多い旅の道、年齢60に迎えがきたら」
還暦 60歳 とんでもないよと追い返せ
古希 70歳 未だ末だ早いと突っ放せ
喜寿 77歳 せくな老薬これからよ
傘寿 80歳 なんの未だ末だ役に立つ
米寿 88歳 もう少しお米を食べてから
卒寿 90歳 年齢に卒業はない筈よ
白寿 99歳 百歳のお祝いが済むまでは
茶寿108歳 まだまだお茶が飲み足らん
皇寿111歳 そろそろゆずろうか日本一
そうですね、まだ早いと死神は追い返したいな。せめて喜寿の歳に、おっと不言実行だった。

 そして今回の 「健康重訓」
 「健康は嬉しい美しい素晴らしい 何はなくとも やっぱり健康」
壱 少肉多菜 お肉はほどほどにして、野菜をたっぷりで健康もりもり
弐 少塩多酢 塩分取りすぎは高血圧のもと、酢は健康のもと
参 少糖多果 甘いものは果物から、砂糖は肥満への直通切符
四 少食多噛 腹八分目でよく噛めば 幸せも噛みしめられる
五 少衣多浴 薄着で風呂好きの人は 健康を身につけている人
六 少言多行 べらべら喋っている間に 行動を開始せよ
七 少欲多施 自分の欲望のために走らず 他人のために走れ
八 少憂多眠 くよくよしたって同じ とっとと寝てしまう
九 少車多歩 自動車は確かに速い 歩けば健康への近道
十 少憤多笑 怒ったときでもニコニコしてれば 忘れてしまう
第4項の少言多行が心に重い。「古稀に海から富士登山」と公言していたのに挫折するとは・・・・

                              番外 長泉寺(別珍)
 
               旧福田町の繊維工場                       太田川と原野谷川合流地点
 松秀寺を出て南に向かうと繊維工場が見えてきた。この辺りで繊維と云えば旧福田町のコールテンや別珍が有名だが、太田川を
渡らないのにもう旧福田町(現磐田市)に入ったらしい。
別珍とコールテンの違いは分からないが、ここ福田で日本の生産量の90%以上を織っているという。そう云われても工場が左程
多いとは思えないので、日本では別珍やコールテンの消費自体が少ないのだろう。
しかし何故こんな田舎が特殊な織物の産地になったのか気になり調べてみた。
 福田の東隣にある横須賀城は、徳川家康が高天神城攻略のため建てた城だが、遠州灘の海上の押さえや南遠州の要の位置に
あった事から横須賀藩の城として明治維新まで続いていた。その横須賀城は築城当初は遠州灘から直接城の堀に船が接岸できる
城として海上輸送の起点となっていた。それが宝永の大地震による地盤隆起より、海が後退し港として機能しなくなると近くにあった
福田港に海上輸送を任せるようになった。そのため港として栄えるようになった福田港には船の帆布が多く作られるようになった。
この帆の厚い布を織る技術を、後の別珍やコールテンの生産に利用出来たのが、日本有数な産地になった大きな理由だそうです。

 豊浜橋を渡り太田川左(西)岸に渡るのだが、その前にこの先にあるらしい 「命山」 に寄って行きたいと思っていた。
命山とは高台の無い地方の津波の避難所で、平地に土を高く盛った高台の事で昔からあったそうです。
東日本大震災後では各地に 「津波タワー」 が作られているが、命山はまだ見た事がないので、丁度良い機会だと実際に登って
雰囲気を感じようと思っていた。
だが豊浜橋まで来ると、命山の場所も明白でなく明らかに遠回りになると思い急に行く気を失くしてしまった。

 
                  番外長泉寺                            地震で歪んだ墓
               長泉寺の地図
 次の長泉寺は番外の札所で私の持っている遠江四十九薬師奉賛会の 「薬師のある ふるさと遠江」 には記載が無い。
しかし、同じ奉賛会のHPには番外として掲載されている。それでは行かないと禍根を残すと、少し遠回りだが寄る事にした。
若しかしたら最近になってわざわざ番外に指定したのなら、何か貴重な物でもあるのではと期待もあったが。
しかし長泉寺の境内にも本堂の中にも特段目を引くような物は無かった。ただ墓場に目をやると石碑や墓石の土台が歪んで
見える所があり、中でも写真の墓は土台の石垣が崩れ、周りの手摺も斜めになっている。
いつの地震にやられたのだろう? 静岡県で最近地震の被害が出たのは2009年8月の地震で、あの地震では我家の団地でも
瓦屋根の家では被害が出た。確か震源は御前崎沖だったと思うが、その地震でやられたのかしら? しかしあれから4年以上も
経っているのだから一つの墓石だけでなく何ヵ所も直してないとは考えにくい。それとも私の住む焼津では余り揺れなかったが
地盤が悪いと云われている袋井地区では揺れが大きかったのか?
遠州国府見付の水上輸送を担った太田川や原野谷川は、上流からの泥が堆積して下流地域の地盤を弱めてしまったのだろう。

遠江四十九薬師霊場4-1

2015-02-15 10:27:51 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              40番 宋円寺(妻薬師)
 4回目の今回で遠江四十九薬師の遍路も結願を迎える事ができる。前回は開始時の岩水寺の受付時間に合わせたため
出発が遅くなり、最後の油山寺に着いた時は既に暗闇だった。それに懲りて今日は歩き初めを一時間早めたが札所の数が
14寺と前回より3寺多いので、果たして明るいうちに結願できるかどうか・・・・・

 袋井駅の北に流れる原野谷川には3本の橋が架かっている。東からそれぞれ 「和・静・睦」 と一文字の名前だ。
橋の名目の由来は知らないが、この三つの名前から感じるのは平和な家族を象徴しているように思う。家族が和み、睦あって
静かに暮らす。そんな思いで名付けたのかな。
更に袋井市の愛野駅の近くの原野谷川に架かる橋は 「曙橋」 の名前が付いているがこれはどう解釈しよう。 仮に「明るい」
すれば 「睦あい静かに暮せば家庭は和み明るくなる」 きっとそんな思いでつけたのだろう。そう云う事にしておこう。
 今日はその橋の中の一番西に架かる睦橋を渡って最初の札所・宋円寺に向かう。

 
              宋円寺                                 宋円寺薬師堂内
          宋円寺の地図
 宋円寺は旧古道1号線沿いにある変わり映えのしない寺だった。境内に建つ案内板によると 「宋円寺の鉄造の薬師如来像は、
鎌倉末期の仏像で県下唯一の鉄仏として貴重なものであり、地域の人に 「川井妻薬師」 と親しまれている。」
と書かれていた。
妻薬師? どこかで聞いた名前だと考え、前回歩いた34番建福寺の薬師如来も確か妻如来だったと思い出した。案内本には
「建福寺の薬師様は、またの名を妻薬師ともいい、縁談を祈願すると、ご利益がてきめんに現れます。」 と紹介されていた。
一方ここ宋円寺の妻薬師は 「縁結びの妻薬師とて有名で、遠くからお参りに来る方も絶えません。お堂には可愛い紅白の枕が
沢山下げられているが、これは良縁を得た方々から奉納されたものです。」
と紹介されている。

二つの妻薬師は似たような御利益だが、他にも類似している事に気が付いた。それはどちらの寺も 「かわい」 と云う地名に
ある事で、宋円寺が袋井市川井で建福寺が袋井市川会だった。
地形もどちらも川が合流する場所で当初は 「川合」 だったのではないか。川の出合う所は人の出合う所。そこで愛が芽生え
夫婦となり 「静に睦あう和みのある明る家庭」 になるのだろう。ウン上手く纏まった。
それにしてもお礼の品が枕とは、随分露骨だと思いお堂の中を覗きこんだが枕は見当たらなかった。

          
      境内の千手観音               宋円寺ご朱印              建福寺ご朱印

                              39番 鶴松院(観音堂)
 
                鶴松院                                 鶴松院薬師堂
             鶴松院の地図
 お詣りする順番が39番と40番が入れ替わってしまった。これは前回38番油山寺の次に39番40番と打って袋井駅に戻る
予定だったが、38番で夜になってしまい駅に帰ってしまった。そして今日は駅の近い寺から回ったので順番が逆になったのだ。
39番は40番の宋円寺から更に北に行った東名高速道路の取付道路沿いにあり、近くには袋井ICもある。このICが無ければ
淋しそうな所だがICのお蔭で開発されて大型店等も建っていた。

 鶴松院の薬師堂は遠江四十九薬師の赤い幟が林立していて遠くからでも一目で分かった。鶴松院とは何とも縁起が良さそうな
名前で山号も「献壽山」と、こちらも縁起がいい。名前の謂れはハッキリしないが鶴松院の住所の袋井市山科は、昔は山科村と
呼び、別名鶴松村と呼んでいたとか。そこから鶴松院になったらしいが、何故鶴松村と言ったのかが分からなかった。

 観音堂はまだ新しくお参りに来ていた地元の人に聞くと「あの高台にあったのを下ろしてきた。」そうだ。
本来なら山上にあったものは山上でお祀りするのが筋だが、僧侶や信者が高齢化して誰もお詣りしないのでは意味が無い。
ここの観音堂のように山上から麓に下して、お詣りの人が絶えない方のが時代に合っているのだろう。

観音堂の入口に 「當国 三十九番 釈迦如来 安政四巳年」 の石碑が建っている。きっと観音堂と一緒に高台から下してきた物
だろうが、安政四年の文字で嬉しくなる。今から160年ほど前から私と同じように薬師遍路をしていた人がいるなんて・・・・・
鶴松堂に境内には 「鶴松庚申堂」 の扁額の架かる祠もあり、地元がお寺を大切にしている感じが伝わってくる。

        
                       釈迦如来石碑                            鶴松庚申堂

                              41番 心宋院(お礼回り)
 袋井駅から北に向かって40番39番と打ったが、41番は一転して南に向かう。
今日の予定はこれから東名、国1バイパス、東海道本線、新幹線を越して南に入ると、今度は西に向かい磐田駅の東側の札所を
廻り、最後の49番は見付宿にある慈恩院で結願する予定だ。
今回の49薬師の順路はほぼ順番通り廻る事ができ、しかも磐田を出発して磐田に終わるようになっているので歩きやすい。
その順路を簡単に説明すると、磐田駅近くの1番国分寺を振り出しに2番3番と線路沿いに西に向かうのだが、4番はとんでも
なく離れた場所にある。これは旧4番少林寺が廃寺となり、新しい札所が宗安寺になったからで、とても順路通りには歩く気には
なれない。宗安寺自体は三重塔もあり札所として適しているが場所が離れ過ぎだ。(順路に拘らなければ何ともないが)
5番から磐田の西の札所を廻り天竜川を渡る。東海道線沿いの札所を廻りながら、一番西にある高塚駅近くの15番まで行き、
ここから少し東に戻る。次は浜松の街に入る手前から北に向かって天竜二俣駅近くの29番栄林寺まで北に向かって歩く。
29番からは山奥の寺30・31番と打ったら南下し、袋井の北側にある札所を打って一番東にある油山寺を打ち袋井駅に出る。
ここからが4日目の今日のコースになるのだが、今日最後の49番が出発時の1番の近くなのでお礼回りができるのが嬉しい。
今回1番のお詣りが早朝だったためご朱印を受けてなかったので更に丁度良いと思っている。

 考えてみると今まで歩いた霊場は幾つかあるが、その殆どは1番と最後の結願の寺が近くにある事が多い。四国遍路の1番
霊山寺と88番大窪寺は、県は違うが1日で歩ける範囲内にあり、お礼回りする人も多い。
秩父34観音は1番四萬部寺と34番水潜寺とは12kmで、これもお礼回り可能だ。静岡県内の霊場では一番古い遠江33観音
は4kmほど、遠州33観音が6km。この遠江49薬師が1.2kmしかない。
こうしてみると霊場巡りは円を描くよう設定されていて、悟りを得られない者は再度遍路を続けるように出来ているのか。
(それだと私は永久に回り続けなければならないが)
しかし駿河一国33観音はその例に入らない。1番清水山は藤枝にあり33番潮音寺は沼津と三島の境、黄瀬川近くにある。
その距離は80kmを超えている。これではとてもお礼回りなど考えられない距離で実際誰もやらないだろう。これは駿河国の
海岸線と山との距離が狭い地形が影響したのだろう。この様に例外はあるが霊場は円を描いている方のが歩き甲斐がある。

 
                      心宋院                         薬師堂内部
                 心宋院の地図
 心宋院の観音堂の中を見ると厨子は閉じられていて薬師如来は見えないが、厨子の横には十二神将が並んでいた。
だが、日光・月光菩薩は厨子の中なのか見当たらなかった。
境内に古い石仏が安置されていて左が寛政3年の如意輪観音で、右が安永5年の弘法大師像だとある。どちらも古い石仏だが
祠の中に安置されているので細部まで確認できる。しかし心宋院は曹洞宗なのに真言宗開祖の弘法大師像? 
きっと心宋院の開創当時は真言宗だったのだろ。そうしておこう。

 
       如意輪観世音菩薩・南無大師遍照金剛                    五輪塔・宝篋印塔

 もう一つの祠には鎌倉時代の五輪塔と室町時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並んでいる。だが五輪塔を数えると4段し
かない。五輪塔の下に丸い石が見えるが、あれは塔の一番上に乗る 「空輪」 ではないか? 落ちたのだろうか? 
それにしては石の色が違うが。

 宝篋印塔とは 「呪文を収めた塔。日本では供養塔や墓碑塔として建てられた。」 そうです。
私流に解釈するなら「宝(呪文・教文)を収めた箱(篋)型の塔」となるのだが 「印」 の解釈が出来ない。
どこか印を結んだ手の格好があればもっと分かりやすいのだが。
それにしてもこの宝篋印塔は古くて崩れかけているので、上の相輪が無ければ宝篋印塔とは思えない。
          

大崩3山と444m峰-Ⅱ

2015-02-13 16:50:47 | 低山歩き
歩行記録                                                           2015-2-9(月)
歩行時間:7時間45分   休憩時間:1時間45分   延時間:9時間30分
出発時間:7時15分    到着時間:16時45分
歩  数:  26、751歩(推定20km)   GPS距離:15.7km
行程表
 焼津駅 0:35> カンポ下 1:00> 砂張屋道標 0:40> 石部峠 0:25> 花沢山 0:20> 日本坂峠 0:55> 満観峰 0:30>
 444m峰 0:45> 廻沢林道 0:35> 28号峰 0:30> 富士見峠 0:15> 高草山 0:45> 石脇口 0:30> 焼津駅 

                           大崩3山と444m峰 観歩記-Ⅱ
 
                立入禁止の四阿                             八高山?
 満観峰の山頂の四阿の周りを虎テープで囲み 危険 この四阿は、柱の腐食が激しく倒壊の危険があるので使用を禁止します。
ロープ内へは入らないでください。 静岡市市役所スポーツ振興課」
の貼紙があった。
そんな目で柱を見ると、確かにボロボロしていて腐りが出始めているようだ。普段は何気なく見ているので、見落としてしまうが
言われて初めて気付く事も多い。観歩を心がけている私だが、まだまだだ。
それにしてもこの四阿はどうなるのだろう。撤去か再建か。いずれにしても折角の景観が損なわれてしまうので早急に対処してほしい。
マテヨ! スポーツ振興課 そうかここへ花沢山の整備の申請をすれば良いのだろう。

 満観峰から西の方向に先週登った八高山らしき山形が見える。頂上は双耳峰で八高山と天狗の座敷だろう。八高山の下部には
樹木を伐採て草原になったような場所も見える。その下にはすぐ前の山が八高山の下を隠している。そうだ馬王平では大崩山塊は
見えなかったが、少し登ると見えだした。となるとあそこが馬王平だろう。
また口惜しい気が湧いてきた。何故って? だって今日行けば本物の氷瀑が見えたかも知れないのだから。

 満観峰で昼飯を食べ12時10分に出発。今日の行程予定は満観峰で昼飯を食べ、高草山に3時頃到着して焼津駅には4時半
ごろに着くのではないかと思っている。ただ今日は平日なので帰りの電車が、通勤ラッシュに合わないようにしたい。その為には
遅くても5時までに焼津駅に着きたいのだが、この分では大丈夫そうだ。

 
            蔦の細道分岐先の分岐(前)                   蔦の細道分岐先の分岐(後)
 鞍掛峠と蔦の細道への分岐から少し行くと標識や目印のない分岐がある。一方は直進だが丸太が道を塞いでいて、もう一方は
左に曲り傾斜を直登する感じだ。何時もは習慣的に丸太で塞がれていない道を登っていたが、若しかしてこの直進する道は、
この先にある南アルプスが見える場所に続いているのか、と思いだすと確認したくなった。
で、その道に入ってみたが、南アルプスの見える場所の西の方角には進まず、北に向かっている。そのうち道の左上に稜線が
見えたので強引に登って尾根に出ると、そこは踏み跡も無く背丈より高い草や雑木ばかりで周りは見えなかった。
この尾根伝いに行けば南アルプスの見える場所には行けそうだが、無理して進んでも意味が無いと引返す事にした。

しかし北に向かっている道は何処に通じているのだろ? 444m峰から蔦の細道に続く尾根の左(西)側には廻沢集落がある。
一方不明の道がある尾根の右(東)側には逆川集落がある。なら若しかしてこの道は逆川へ通じる道か?
家に戻り 「安倍山系 下」 で確認したが、この道の事は載っていなかった。そこで国土地理院の地図を見ると、何となく逆川集落に
通じる農道に向かっているような気がする。果たして集落まで続いているのか。いつか歩いてみよう。



 
            444m峰手前から                               444m峰
 元の道に戻り444m峰へ向かい尾根に出た所にピンクリボンや赤テープの目印がある。そこを右に入ると南アルプスが一望
できる場所に出る。以前は 「南アルプス展望地」 の標識があったが、朽ちてしまったのか最近は見かけない。
富士山は満観峰の影から頭だけ出した状態で見えるが、余りいただけない眺めだ。でも満観峰の人混みが苦手な人はここの
丸太のベンチに腰かけて休憩するのも良いかもしれません。

 登り勾配の道を西向かって行くと、突然道が右に折れ北に向かうようになる。そこが444m峰のピークなのだが、余りにも平らで
山頂の雰囲気はない。それでも白いペグが何本か刺さっていたり、何故か目の高さに針金が張ってあり赤いテープが下がっている
ので見落とす事は無い。更に蔦の細道に行く人が入り込まないように丸太も置いてある。

 その丸太を乗り越え、針金の後ろを少し右に行くと、真っ直ぐ下に下る踏み跡があり、目印も何ヶ所かに付いている。

 
              通行止の印?                                沢の合流部
 さてここからが2度目となる廻沢林道の下りだが、初めての時のような不安はない。標識は3ヶ所くらいしかなかったが、要所
要所には目印のテープが有ったし、虎ロープも張ってあった。要は目印を見落とさなければどうと云う事のない道だ。

 踏み跡の最初は直滑降のように真っ直ぐ下る道で、枯葉のクッションもあり調子よく下って行ける。だが前回より目印が少なく
感じるが、そんな事は無いはずだ。きっと2回目の余裕でしっかり確認をしていないのだろう。
直滑降で大分下った所の正面に小枝を積んだ場所に出た。ウン? 通行止の印か? 確か前回はこの辺りで右にトラバスして、
倒木帯の手前にあった虎テープの横を下った筈だと、右側を見回ったがテープも目印も無かった。
マテヨ調子よく下り過ぎたかと思い、元来た道を目印の所まで戻って右を探したが目印は無い。さて困った、どうしよう。
仕方なく積み上げてある小枝を乗り越えて、今度は下を探したがテープは見当たらない。余り下ってしまって若し引返す羽目に
なった時、帰り道が分からなくなるといけないと思い、途中から目印のテープを付ながら歩いた。
少し下った所でようやく右に横断する目印を見つけて一安心。そして虎ロープも出てきたので後は林の中のはっきりした道を
下るだけだ。

           
               小さな滝                            林道合流部
 ようやく合流した沢筋の道には標識が付いていた。28号峰への林道は沢を下るのだが、沢を遡る側にも道があり、そこには
細い丸太を置いてある。これはきっと通行注意の印なのだろう。
このルートを登りに使うときは、近くに標識があるから良いが、無ければきっと悩む事になりそうな場所だ。
 この通行注意の目印は結構悩むことが多い。前回の八高山の天狗の座敷でも、分岐点に木が倒れていて、それが自然の
倒木なのか、注意のために置いてくれたのか悩んでしまった。何かうまい識別方法がないものだろうか。

 沢筋の荒れた道を少し下ると廻沢林道に合流する。前回初めてここに下った時は、この場所が林道のどの位置になるのか
分からず、28号峰へは林道を下るべきか登るべきか迷ってしまった。でも今日は大丈夫! さっさと林道を登り始めた。
それにしても444m峰の下りは想定していたより手間取ってしまった。少し急がないと。

 
             28号峰への登り口                           これも枕状溶岩か
 鞍掛峠に向かう林道を少し登ると林道の分岐になる。左は峠に向かう道で車が走っている跡はある。一方右の28号峰に
向かう道は既に廃道にちかい荒れた感じの道になる。そんな道を5分も行くと正面に、かって段々畑だった痕跡を示す石垣が
現れる。ここが28号峰の登り口で、入口には中電の鉄塔点検路の標識がある。

 急な斜面を25分も登ると石垣状の岩が出てくる。この岩は自然の岩で28号峰のピークを支える土台の岩のようにも見える。
この壊れた石垣のようにデコボコして見える石は、見るたびに 「枕状溶岩」 ではないかと思ってしまう。
この岩が出てくればピークはすぐ先だ。

 
             28号峰に咲く椿                              28号峰の椿の蕾
 思ったより疲れた。今日はカンポの尾根では三角点を探してピークに登ったり、444m峰手前では登山道を離れて新しい道を
探すなど、余計な事をしてしまった報いが出てしまったのか。尾根に咲いた椿を見ながら大休止になってしまった。
椿と云えばびく石の椿は咲きだしただろうか? 3月に入ったら新しい道を歩きながら椿も確認してみたいな。

  
                             28号峰から富士見峠への尾根道
 28号峰から30号鉄塔のある尾根道は、人が入っているとは思えないがしっかりした尾根道が続く。岩が多いから一度道を
作ると木や雑草が生えにくく、人が歩かなくても道が残るのだろうか。
この尾根にはタラノキが何本もあるので春にはタラの芽が採れそうだ。

 
              高草山の山名表示と社                        高草山からの富士山
 疲れを感じ始めていたので、富士見峠から高草山まではいつもより時間が掛かるだろうと思っていた。それが同じタイムの
15分で着いてしまった。
前回より遅くなりそうだと思ったせいで、馬鹿な競争心が湧いてきてしまい、負けん気になって歩いてしまったのだろう。幾つに
なってもやる事が幼すぎる。
しかしここまで来れば後は下るだけ。前回歩いた右回りの大崩3山は、最後にカンポの尾根が残っているので、3山目の花沢山
でも気を許せないが、それに比べれば、ここ高草山から焼津駅は比較にならないくらい楽だ。それにもう上りが無いと思えば
気楽なものだった。

 真冬の平日3時を過ぎると、さすがの高草山にも人の姿はなかった。山頂にある温度計は1℃を指しているが、私の持って
いる温度計は7℃を指している。1度や2度の違いなら分かるが6度も違うのは、どちらかが壊れているしかない。
体感温度? 風が無いのと歩いているので体温が上がっているせいか寒さは感じない。 
(家に戻り家にある温度計と比較したら合っていた。とすると・・・・・・・)

 
               石脇・坂本分岐から                         何処かに三角点が
 今日人に会ったのは日本坂峠から満観峰にかけてだけで、後は貸切の山で静かなものだった。
こんな一人歩きばかりしていると、偏屈な頑固爺になってしまわないかフト心配になる。それを防ぐため近所の同年輩の人と
月1回のウォーキングをやるようになって、今月は富士川梅園と岩本山梅園を廻る計画をたててある。そんな事で性格が変わる
わけはないが、悪くはならないだろうと思って実行しています。

 前方に今朝歩いたカンポの尾根が見えてきた。あの尾根の何処かに三角点があるのだが中々見つけれないでいる。
マー慌てる事もないので今年中に見つかればよい。

 焼津駅に16時45分到着。ほぼ予定通りでラッシュ前の電車に乗れそうだ。と、思ったら踏切事故で30分も遅れていた。

大崩3山と444m峰

2015-02-11 14:52:02 | 低山歩き
歩行記録                                                           2015-2-9(月)
歩行時間:7時間45分   休憩時間:1時間45分   延時間:9時間30分
出発時間:7時15分    到着時間:16時45分
歩  数:  26、751歩(推定20km)   GPS距離:15.7km
行程表
 焼津駅 0:35> カンポ下 1:00> 砂張屋道標 0:40> 石部峠 0:25> 花沢山 0:20> 日本坂峠 0:55> 満観峰 0:30>
 444m峰 0:45> 廻沢林道 0:35> 28号峰 0:30> 富士見峠 0:15> 高草山 0:45> 石脇口 0:30> 焼津駅 

                           大崩3山と444m峰 観歩記
 家から藤枝駅までの水溜りが全て凍っている。先週今冬一番の寒気団の日本列島を覆うと報道されていたので、氷瀑(?)を
見に行ったのに、昨夜はまたもや今シーズン一番の寒気団が来襲すると報じていた。記録は破られる為に有るとは分かってい
ても悔しさは拭えない。(それが今日(10日)は更に冷え込んで我家の洗面所は3.5℃と今冬一番の低さだった)
アーア! 氷瀑見物が1週間遅ければ 「静岡県的氷瀑」 等と自虐的に書かないで済んだものを・・・・・

 
                  枕状溶岩?                             枕状溶岩?拡大
             枕状溶岩?の地図
 以前にも紹介したが、焼津簡保の宿へ行く道の左側に結構大きい岩場がある。その岩をよく見ると丸みの帯びた岩がゴツゴツと
はみ出した状態になっている。知人に聞いたところ 「枕状溶岩だ」 と言っていたがまだ確信が持てないでいる。
大崩山塊は海中火山が噴火してできた山なので、枕状溶岩が多いとは聞いているが、果たしてこの岩が枕状溶岩か?
もしこれが枕状溶岩なら案内板等を建てれば簡保の宿に行く人が興味を示すのではないかな。

 
                  カンポ下                             ピークにあった祠
 カンポ下の登山口では、何時もの通り通行禁止の表示を無視して通過。ご免なさい。
登山道の周囲が猪に荒らされて、あちこち掘り返されている。この辺りは時季になれば彼岸花が一面に咲くのだが、荒らされた
跡には球根は無かった。確か彼岸花の球根には毒があり、昔はモグラ除けに土手に植えたと云うが、体の大きい猪にはそんな
毒など効かないのか、それとも球根を避けて掘り返しているのか。

 私のHPで大崩の三角点を紹介しているページがあるのだが、ここカンポの尾根にある浜当目の三角点はまだ見つけて無い。
それが前回ここを歩いた時に、ピンクのリボンがピ-クに向かって何枚か付いているのを目にした。以前は無かったので最近
付けた物のようで、こんな所なら多分三角点への目印だと思われる。と、今日はそこも確認する予定だった
 カンポの尾根は何度も歩いているが、場所から云って出発時かゴール時になってしまう。しかもここの登山道はピークを避けて
内側を通っているので、三角点確認するには登山道を離れてピ-クに登らなければならない。
しかし出発したばかりだと後の行程の事を考え無駄な体力を使いたくないし、またゴールの時だと既に体力を使い果たして、疲れ
果てているので矢張り敬遠してしまっていた。だが今日は目印も見つけってあったので、やっと探す気になっていた。
 最初のピークはリボンのあった場所ではないが、以前からピ-クに向かう踏み跡が気になっていた所だ。そこでついでなので
踏み跡に入ると、写真の様に石の祠が海に向かって安置されていた。カンポの尾根には他にも二つ祠があるが、どちらも集落の
方を向いているのに何故だろうと思い、祠の向いている方向を覗き込むと、その先にはホテル松風閣が見えた。
それではこの祠は住民が安置したのではなくホテルで置いたのか? そう思えば祠に鳥居が付いている等の違いもある。
その祠の先は断崖絶壁のようで 「君子危うきに近寄らず」 で覗き込みもしなかった。勿論三角点は無かった。

 次のピークへも踏み跡はあったが、このピークは高そうなので今回はパス。次の目印のあったピークに向かう。
最近付けたようでピンクの色も鮮やかだ。だが少し登るとそのリボンがあちこちに付いて道案内のようではない。
よく見るとリボンの近くには、先端を赤く色付けした木札が刺さっていて、木札には英数文字が書かれている。どうやらリボンは
この木札の目印のようだ。
でも何故ここにこんな物があるのか? 少し考えて思い当たった事があった。それはこのピ-クの下辺り土砂崩れが発生して
旧国道150線が通行止めになっている。復旧は現在の道では無理なので、新しくトンネルを掘るとか。
この木札はその工事に関係あるのだろう。一先ずそう云う事にしておこう。と云うわけで今回も三角点は見つかりませんでした。

 
              カンポのから駿河湾                         カンポの尾根から焼津市街
 先月歩いた時、駿河湾沖に見えた島影の名を特定しようと思い双眼鏡を持参したのだが、海は太陽が反射して眩しくて見る
事ができなかった。後を振り返ると焼津市街が見えている。カンポの尾根で景色の見えるのはここだけで、しかも春になると
蕨摘みもできる貴重な場所だ。私はここを 「ワラビ平」 と名付けたいのだが。
このワラビ平を過ぎると 「山の神」 の祠が集落の方を向いて安置されている。

           
                      石部峠                                瘤桜
 カンポの尾根最大の難所(?)の階段登りになると、ただ下を向いて一歩一歩歩くだけになる。それでも “花沢山まで500m” の
標識までくれば階段の半分は登ったとホッとする。階段が終わり左に幹が瘤状に膨らんだ気色に悪い桜の木があれば、山頂まで
半分は過ぎた事になる。この辺りは山桜の大木が多いのだが、春来ても桜の花はチラチラ散るばかりで咲いているのを見た事が
ない。その代り遠くからここを見ると、白くこんもり盛り上がった桜を見る事ができる。その時期も近い。

 花沢山山頂では気になっていた 「大崩山塊タイム表」 の残り具合を調べてみた。タイム表は元旦の日に満観峰に30部置い
てきたが17日後に見てみたら20部も残っていた。なので登山者の少ない花沢山では余り減っていないのではと思っていた。
で、山頂ポスト開けてみると案の定タイム表は残っている。それは承知だがでも厚さは薄い。そう残り部数は6部でした。
思っていたより少ない残り部数で喜ぶ単純な私は、山頂ノートに書かれた 「タイム表を戴いていきます。美女二人組」 を読んで
更に舞い上がってしまいました。
でも登山者の少ない花沢山の方が何故タイム表を持って行ってくれた人が多かったのか? 
それは周りに人が多い満観峰では、山頂ポストを開けるのに抵抗感があるが、他の登山者がいない花沢山は休憩がてらに、
山頂ポストを気楽に開けることができるのだろう。かく言う私も満観峰の山頂ポストを開けたのは前回が初めてだった。

 花沢山山頂にある電波反射板の向きを調べる積りだったが忘れてしまった。その反射板の前は虎テープが張られ 「工事中」
と書かれた紙が貼られていた。ペンキを塗る直すのだろうか?

 
          花沢山中腹から静岡市街                         花沢山中腹から焼津市街
 毎回同じ写真になってしまうが中々の景色でしょう。 「花沢山からは景色が見えない」 と云う人がいるけど、この景色を見れば
満更ではないと思いますよね。尤もここからしか見えないけど。
カンポ下から日本坂峠までは貸切の山だったが、日本坂を過ぎてから満観峰まで5人4組の人とすれ違った。
満観峰に登るには鞍掛峠らと日本坂峠からとがあるが、日本坂峠から登った方のがよっぽど大分大変だと思う。日本坂峠からは
先ず水分大神の石碑への上り、鞍掛分岐から三角点への登り等がある。一方鞍掛峠からだと満観峰の最後の短い上りしかない。
皆それを知っているので鞍掛峠からの往復は多いが、日本坂峠からの往復は聞いた事はないし私もやっていない。

 
            三角点からの新しい道                           尾根道にある畑
 三角点から鞍掛峠に向かって新しい目印が最近付いて踏み跡もハッキリしている。何年か前に初めて鞍掛峠から尾根の鞍掛
分岐に向かった時、途中で別の道に迷い込んでしまった。その道も茶畑があった辺りまでは識別できたが、その後は踏み跡と
思えば踏み跡状態になってしまい強引に尾根を目指した。そして出た所がこの三角点の場所だった。尤もその時は高い方、高い
方を目指して登ったのでピークに出るのは当り前の事だが。
その三角点の近くには花沢で設置した祠もあり、薄い踏み跡は住民の参拝用の道かと思った事がある。
きっとその道を整備してくれたのだろう。でも私にはこの道は余りメリットを感じられず歩く事は無さそうだが。

 尾根筋にある唯一の家庭菜園(?)を見て、新しい道に一番メリットを受ける人を思い当たった。以前この畑で作業していた人と
話したが、当然損得の問題でこんな場所に畑を作っているのではなく、健康のためだと言っていた。畑に来る道は鞍掛峠から
尾根の鞍掛分岐に出て三角点経由で来ると言っていたが、新しい道ができれば鞍掛峠から直接三角点に向かう事ができる。
そうなれば距離は大分短縮されるだろう。今度会ったら感想を聞いてみる事にしよう。

 
                満観峰                                花沢山の反射板(2014/2/11)
 満観峰に着いたのが11時45分で丁度昼時だった。山頂には7・8人の人が昼飯を食べていて、その多くの人はラジュースで
水を沸かし料理をしている。今日のように寒い日は暖かい汁物があれば体が暖まるだろうな。と羨ましく見ていた。
とは言え自分で水やラジュースを持ってくる元気はもうない。最近では背負うのは少しでも軽くしようと、降水確率の低い日は
合羽すら持たなくなってしまった。
 写真中央の案内台は、前回紹介した満観峰の山頂風景で、どこかの山岳会が登山靴のままこの上に登って話をしていた
案内台です。常識外れの行動が多いと非難される、何処かの国の人のようにはなりたくないものですね。

 満観峰では特ダネを仕入れた。
山頂で他の登山者の話を聞いていると 「花沢山の反射板が撤去されるって聞いたけで、今はどうなっているのかな?」 などと
話している。私がタイミングをみて 「今日歩いて来たけど工事中の貼紙はあったが工事はしてなかった」 と言うと、その人は
「あの反射板はズート使われていなくて、3月までだかに撤去される」
と云う。

若しその話が本当ならビックニュースだ。今日紹介した花沢山中腹からの富士山や焼津の景色が山頂から見えるようになる。
そうなれば 「花沢山は気色が悪い」 など誰も言わなくなるし、静岡側にある反射板の左側をもう少し整備してくれれば、南アル
プスも見えるようになる(と思う)。更に南側の木を伐採してくれれば、何の障害物も無く駿河湾も見え、元旦の初日の出の
絶好ポイントにもなる(と思う)。更に焼津側からは焼津市街だけでなく藤枝などの志太平野も見えるようになるだろう(と思う)。
そうなれば富士山の眺めは最高だが、焼津側の眺めが今一の満観峰より、富士山と志太平野が見える場所が違う高草山より
眺めが良くなること請負だ(と思う)。まさに大崩山塊一の眺めの良い場所となるだろう(と思う)。

この山頂は静岡市と焼津市の境界になっているので、整備は主に両市で行って貰うが、今まで反射板で利用してきたJRにも
協力してもらいたい。まだある。この尾根道は東海自然歩道のバイパスコースにも指定されているのだから、静岡県や環境庁
にも協力してもら事だって可能かもしれない。
どうでしょうこんな案は。ただ問題なのはこれをどうやって各機関い依頼するかという事だ。年金生活者の無力な私には発言力も
無いし、有力者のコネも無い。何かいい方法が無いだろうか。
誰か良い案が有ったら教えてください。そして一緒に働きかけましょう。

大井川河川敷に防災広場が!

2015-02-08 10:43:56 | その他
 大井川河川敷に防災広場が!
                     
 大井川の工事現場の地図                  工事の案内板
 私がウォーキングのホームグランドにしている大井川河川敷で、また土木工事が始まった。
工事の看板には 「防災広場を整備しています」 とあり工期は3月末までとあった。
しかし川の中に防災広場とはなんだろう。住民の避難場所か? それとも防災物資の備蓄広場か?
だがここは大井川の堤防の外の遊水地ではなく、堤防の中の河川敷なのだ。今までも台風の進路によっては河川敷内に設置
してある仮設トイレは移動し、折畳式四阿の屋根は折畳むなどの対処をしている場所だ。
こんな場所が住民の避難場所になるわけないし、備蓄倉庫を設置しても台風が接近する度に移動しなければならなくなる。
更に言うならここは大井川の河口から9km程しかなく、予想されている駿河湾沖地震の際、津波が押し寄せる危険もある。
一体どんな 「防災広場」 が出来るの興味を持っていた。

                
                                 工事前の河川敷の草原
 河川敷の中と言っても工事現場は背丈ほどの薄が生茂り、とても足を踏み入れる気にはならない状態の場所で、自然が豊か
と言っても野鳥も余り飛んでいない。こんな場所なので整備してくれるなら有りがたいようなものですが・・・・・・

 
      工事現場(後ろに新幹線の鉄橋が見える)                     工事現場
 工事はまず雑草を刈り取りブルで平坦にならし、その上に土を入れて圧縮していきます。ただ工期は3月末までと短いので
建物などは建ちそうもない。
石ころだらけの河原も整備すると綺麗な平地に変身した。これなんらこのまま家庭菜園の貸し出してくれないかな、など自分に
都合の良い考えが浮かんだ。
                     
                                   新しい案内板

 先日そんな事を考え歩いていると新しい案内板が設置された。そこにはグランドゴルフやゲートボール、野球やサッカーを
楽しむイラストが描かれていて、こんな事も書いてあった。
「地震などの災害時に地域の皆さんの避難する場所です。通常は憩いの広場として使用します。」 と書いてあった。
ヤッパリ最初危惧したように、ここに地震のときの避難場所を作るようだ。
最初にも書いたが、ここは地震の際の津波や台風の大水に襲われる危険もあるが、それ以外にも私には心配の種がある。
それは世間ではまだ話題になっていないが大井川上流のダムの崩壊だ。大井川上流にはダムが無数にある。そのダムの
一つが地震や大雨の土砂崩れで崩壊したらどうなる。ダムを壊して流れ出した水は次のダムを襲い、そのダムも破壊していく。
ドミノ倒しのように次々と崩壊していくダムと、鉄砲水いや大砲水となった濁流は下流の街々を押し流すであろう。
当然堤防の内側にあるここの避難場所も・・・・・
 そんな事は起きないよ!と思いたいが、阪神淡路大震災では高速道路の橋げたが横倒しになったり、山梨県の笹子トンネル
では天井版が大量に落下するなど、まさかと思うような事故が起きている。
更に懸念するのは、この場所が藤枝市の最西部であって、更に西にある浜岡原発から23kmの地点でもある。
まさか原発事故が、と思いたいがわざわざ原発の近くに避難する事はない。。

 藤枝市役所のHPを覗いてみた。
「都市防災総合推進事業と一体となって防災関係機関集結地として大井川河川敷防災広場を整備し、集積された物資を
防災備蓄倉庫に円滑に供給し安全安心な生活の実現を。
大井川河川敷防災広場の整備5,300万円 物資の供給や人的救助活動の拠点として整備」
となっていた。
 
 当たり前と云えば当たり前だが、私の感じる不安については一切触れて無かった。本当に大丈夫だろうか。

八高山と大垂滝の氷瀑-Ⅱ

2015-02-06 11:35:25 | 低山歩き
歩行記録                                                    2015-2-2(月)
歩行時間:5時間15分   休憩時間:1時間05分   延時間:6時間20分
出発時間:8時15分     到着時間:14時35分
歩  数:20、203歩(推定15km)   GPS距離:14.0km
行程表
 福用駅 1:10> 小文堂分岐 0:15> 馬王平 0:25> 反射板 0:20> 白光神社 0:05> 八高山 0:50> 風倒峠下 0:30>
 大垂滝  0:35> 馬王平 0:15> 小文堂分岐  0:50> 福用駅

                             八高山と大垂滝の氷瀑-Ⅱ
           
          気持ちの良い尾根道                        見落としやすい分岐
 前回は八高山の山頂から東に下る急降下的道を大垂滝に向かって下ったが、今日は北に延びる尾根道を下って風倒峠に
向かう。その尾根道は道を少し左に入れば富士山や南アや川根の町全体も見える気持ちの良い尾根道だった。
八高山の道は面白味の少ない急坂が多いが、白光神社からこの辺りにかけての道は、春にはサラサドウダンも咲くし一番
雰囲気がいい感じの道です。。
 気分良く鞍部まで下り、調子よく登り始めると、右に黒いタイヤの様な物が木に打付けてあるのに気が付いた。ナンダ?
文字は見えないのか、書いてないのか分からないが、何かの目印に違いない。と後ろを振り返ると朽ちかけた杭に 「家山 
八高山」
の古い標識が立っていた。危ない、危ない見落とすところだったが、ここは右折しなければ。

           
                 天狗の座敷付近の分岐                         ヒメシャラの根
 間違いそうになった分岐から一気に登り着いたピークが  「天狗の座敷」。ここを右に行けば昨年歩いた掛川泉集落への道で、
直進すれば風倒峠だが、イヤダナー! その方向は木で塞がれている。この先は危険と云う事なのか、それともたまたま木が
倒れただけなのか。木の根もとを見れば倒木のように思えるが、それ以外の木の枝も置かれ道を塞いでいるようにも見える。
まだここなら八高山まで戻り、急な斜面を下って大垂滝に行く事は出来るが。さてどうしよう。
 昨年歩いた時は風倒峠から天狗の座敷までで危険そうな所は無かった。ただ一部斜面をトラバスする所がガレ状だったが
あそこはピークの巻道だったので、通れなければ尾根道を歩けばよい。外に危険そうな所は無い。と決断して直進した。

 よくこんな道を登ったものだと感心するような急な下りの道が続く。途中にヒメシャラの根が剥き出しになっていたが、根っ子も
幹肌と同じように赤くツルツルしていた。

 
              女小天狗の峰分岐                       踏み跡が薄いトラバス状の道
 天狗の座敷から15分ほどで 「女小天狗の峰」 への分岐に到着。この辺りの峰の名は、やたらと 「天狗」 が付いていて分かり
にくいし意味も不明だ。昔、猿の事を天狗と呼んだのか、それとも馬王平の僧たちが、女性の事を天狗と称し、この辺りに住まわ
せていたのか。そんな事はないよな。

 そんな冗談よりここまでの道は異常なかったが、ここで尾根の峰越えの道と林の中をトラバスする道とが分岐している。
当然峰越えの道はアップダウンがあり距離も長い、その点、林を横断する道は緩い下りで距離も短いが途中にガレ場がある。
心は決まっていて、当然楽な林をトラバスする道を選んだ。
ガレ状の場所は昨年あるいた時と変わっておらず、途中の倒木もそのままだった。ただ踏み跡が薄くなってきた感じがするので
この状態が続くと道が分からなくなる恐れがある。人気のある八高山の往復だけでなく、大垂滝を含んだ周回ルート皆が歩いて
くれれば良いのだが。
女小天狗の峰から20分程で林道に合流。林道に出た場所は風倒峠へ2・3分下の所だが、今日は峠に行く気もなく、そのまま
大垂滝に向かった。

          
                2本目の沢のつらら                2ホン目の沢の状態
 サァー! 滝の状態はどうだろう。今回の表題を 「大垂滝の氷瀑」 と名付けたいが可能だろうか? せめて 「薄氷の大垂滝」
にはしたいが、それすら無理で、ただの 「大垂滝」 になってしまうのだろうか。期待と不安を抱いて林道を下って行った。
 沢の音が聞こえてきて林道に水溜りが出来ていた。だが水溜りの水は凍っていず水のままだ。沢の水は勢いよく流れていて、
これでは凍る筈もない。だが水しぶきが掛かっている所にも氷は見えない。ガク!
 
林道は下り坂なので標高は下がってきているので、これから先で凍る可能性は少ない。頭にはただの 「大垂滝」 が頭をよぎる。
 2本目の沢の音が聞こえてきた。水溜りは無かったが岩肌に染みた水がつららを作っていた。オッこれなら。
でも沢本体は薄い透明な氷が張っていただけだった。ウーン 「薄氷の大垂滝」 かな―。
林道を歩き出してから日影ばかりだったが、2本目の沢の前は陽がしていた。当初は氷瀑を見ながら昼飯を食べる予定だったが
体が大分冷えてきている。このまま大垂滝に行っても氷瀑は望めそうもないと日溜りの林道で昼飯にした。

 
                大垂滝1                                  大垂滝2
               大垂滝の地図
 下りが続く林道を歩いていると悲観的な気持ちが湧いてくる。標高が下がるのだから滝が凍っている可能性は低くなるのは
当り前で、矢張り表題は 「大垂滝」 だけになってしまうのか。でも標高が一番高かった最初の滝は凍っていなかったが、そこ
より標高が低い2番目の滝は薄氷が張っていた。ならそれより低い大垂滝は氷瀑になっているかも・・・・・・・・・・・

 前方に大垂橋の白いガードレールが見えてきた。その橋の上にも何やら白い物が見える。雪?馬鹿な。雪であるわけがない。
それなら氷か! 小走りになって橋に近づいてしまった。

 
                大垂滝3                                  つらら
 滝には今も水が流れているので、もっと気温が下がれば更に氷の量は増すだろう。そうなれば今の 「静岡県民風氷瀑」
自他共に認められる 「氷瀑」 になる可能性もある。そうなったら再度訪れてみたいな。

 ここの気温は5℃で山頂より1度高いが、日影のせいか体感温度を下がっていて寒いくらいだ。さっきは林道の水溜りは水の
ままだったが、ここでは凍っていてストックで突いても割れない。水の表面だけ凍っているのではなく水全体が凍っているようだ。
何故同じような場所でこれだけの違いが出るのだろう? 気温だってそんなに違いはしない。地温?それも無いな地温が高けれ
ば気温も上がるだろうし・・・・・・・ 私の頭では理解できなかった。

  
             林道に車とリボンが                                三椏の蕾
 前回八高山山頂から急降下して出た林道から滝までは、5分もかからなかったと記憶している。次回滝を見に来る時は馬王平
から直接滝に向かい、そこから山頂に直登するのも面白そうだ。と思い、直登する入口を探しながら歩いたが見つからなかった。
それが滝から30分も歩いた所に軽トラが2台と乗用車が2台停まっていた。その内1台は足立ナンバーだ。
そして山側の斜面には踏み跡やリボン。更には杉の木に白いペンキの目印も付いている。間違いなく登山口だ。
だが八高山山頂の道ではない事は確かだ(家に帰り当時の記録と写真で確認した)。では何処に行く道なのだろう? 
そうだ今日反射板の近くに作業員が3人いたが、その人たちの車ではないか。でも3人なのに車が4台??
結局正解は分からないが、場所から云って反射板への道が一番濃厚と思われる。そうなると車で来る作業員には近道だが、
歩きのハイカーには特段有利な道ではないと思うと、急に興味はなくなった。

 道端の三椏に固い蕾が付いていた。1週間前にはびく石の上大沢で、もっと膨らんだ三椏の蕾を見たが、標高の高いここに
も春がきはじめている。嬉しいけどそうなると氷瀑は来年までのお預けか。それも寂しいなー。

 
                     小文堂分岐
                  小文堂分岐の地図
 馬王平まで戻り、さてこれから先どの道を歩こう。
先ず①林道を掛川黒股に下るコースは林道が調べてきていないので却下。
②経塚山・神尾山経由で大鉄の神尾駅に下るコース。これが一番魅力的だがどうやらコースが不鮮明らしい。となると時間が
かかるので、電車で来ている今日は時間的余裕が無いので却下。
そうなると後は朝登った道を下るか、ゆるかな道と道標にあった左への分岐の道、それと右に分岐する当り前の道しか残って
いない。それなら行った先の雰囲気で決めよう。

 結局最初にあった小文堂分岐で右に折れる事にした。林の中を横断する道が終わると電光形になった道になったが、これが
駅の案内板に書いてあった 「七曲り」 なのだろう。一辺の長さが短いので余りどうと言った感じはないが、朝登った道ほどでは
ないが傾斜はきつかった。

 国道に出たのは2時30分。電車の時間は3時23分なので、まだ1時間近くある。それなら次の神尾駅まで歩こうと思い国道を
福用駅とは逆に右折して歩き出した。どうせ田舎の鉄道だから30分も歩けば次の駅に着くだろうと考えて。
タイミングよく前方に人がいた。早速次の神尾駅までの道を確認すると思いがけない返事が返ってきた。
「神尾駅に行くにはあの山の上の地蔵峠に登って、そこから大井川の方にあるの方に行ってから、また駅まで戻らなければ
ならない。」 
と言った。指さす方を見れば確かにあそこまでで2・30分は掛かりそうだ。
「どのくらい時間はかかりますか?」 「そうだネェ 1時間は掛かるじゃないかな」 だって。
勿論慌てて回れ右して福用駅に引返しました。

 こんな田舎にはコンビニは無いし酒屋も無いだろう。今日は乾杯が出来ないなと諦めると、さっき道を聞いた人がいた。
「さっきは有り難うございました。この辺にビールを売っている店は無いでしょねー」 と駄目元で聞いてみた。
「エーッ なに言ってんのそこにあるじゃない」 と私の横にある自動販売機を指さす。そこにはビールに交じって氷結もあった。
しかもコンビニより安い150円で。まさに捨てる神もあれば拾う神もありだ。