はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河一国33ヶ所巡り7-2

2010-02-28 10:23:37 | 寺社遍路
 28番妙善寺の境内には溶岩を置石代わりに置いてある。この寺に来る途中の庭にも溶岩があったので、この辺りには富士山の噴火の溶岩が流れてきたのだろう。それとも愛鷹山も噴火して山頂部分が飛ばされたと聞いたこともあるので愛鷹山の溶岩なのかしら?

          
          妙善寺境内
 
 ご朱印を貰いに庫裏に入ると「妙善禅寺」と彫った置物があった。以前にも寺の名前で「禅」の字が付いたり付かなかったりした事があったので
「ここのお寺の名前は妙善寺が正しいのですか、それともここに書いてある妙善禅寺が正しいのですか?」と聞いてみた。
「禅とは禅宗の寺を表す字で臨済宗と曹洞宗の寺と言う事です。これを付けるか付けないかは特に決まりはないが、付けてあれば一目で座禅をやる寺だと分かりいます。マー普通は付けないで妙善寺と言うが、格好をつける時は妙善禅寺と言うのかな」ハイ良く分かりました。
「それにしても早いですね。何所から来たのですか」
「家は焼津ですが、今日は身延線の入山瀬から歩いてきました」
「エー!歩いてきたの、それは大変だ」など久し振りにお寺での話が弾みました。

 次の29番の道を尋ねると県道しか無いと言う。この県道は通称「根方街道」と呼ばれていて愛鷹山の麓を東西に延びている道で、まだ箱根が東海道の本道になっていない頃はこの根方街道が東海道であったと言はれている。現在は県道だが道が細い割りには交通量が多く大型同士のすれ違いには困っているらしい。
その道を歩くのは余りゾーとしないが、他に無いなら仕方ない歩くしかないか。

 案の定嫌な道だった。車がすれ違う時は私まで避けなければならない事が何度かあったり、スピードを落とさず通り抜ける車に肝を冷やす事もあった。ただ時折ある古い石仏は、この道が古道だった証だろう。

 暇な頭は色々な妄想が浮かぶ。この道が箱根以前の東海道なら足柄峠に向かっていたはずだ。それなら愛鷹山の南を迂回せず、北側の富士山の間を歩いた方が距離は短いのに何故そうしなかったのか? 富士山と愛鷹山の間にある十里木地方は頼朝の富士の巻狩りの本陣になったり、またその近くには勢子辻と言う当時の名前も残っている。なのできっと当時も道はあったに違いないのだが。

          
               福聚院入口の石塔

 愛鷹山の裾が迫ってきている。29番はそろそろのはずだ。
道端の石塔の中にドラえもんの姿をした石塔が立っていた。なんと風情がないと思ったら、そこが29番福聚院だった。階段を登り境内に入ると、あちこちに石の置物がある。小坊主や漫画チックな物、中国風とあるが、どれも安っぽくいただけない。本堂の中から子供達の声が聞こえてきた。下駄箱には大小の靴が何足も。どうやら簡易な保育所でもやっているいるようだ。それでこんな置物があるのだろう。

          
               福聚院本堂

 29番を打ち終わり、また根方街道に戻る。次の30番広大寺は、この街道を東に進み、更に山に入り込んだ所にある。ここからおおよそ10k程先になる。
狭い道路を歩くのに飽きてきたが仕方ない。地名など見ながら気を紛らわすして歩いていこう。地名と言えば沼津市に入って浮島小学校や中学校があったが、その辺りは既に台地の上で浮島とは呼べそうも無い。きっとこの台地付近から田子の浦にかけての地名かと思い後で調べてみたが沼津市には浮島と言う名の地名は無かった。浮島とは小字なのだろうか?

 富士市の地図はこの浮島小学校で終わってしまっている。沼津市の地図を出して見てみると浮島小学校は出てなく、沼津市の外れは30番のある柳沢からだった。
浮島と柳沢の間は省略されるくらいだから距離は短いだろうと気を良くして歩く。
だが何故か柳沢が出てこない。

 左手の立派な銅像が二体も立った公園があった。岡野公園と名前が書いてある。洋服を着ているので近代の人だろう。散歩していた人に聞いてみると、駿河銀行の創始者とのことだ。そうだ確か駿河銀行の創始者は確か岡野何某と言ったはずだ。それで公園の名前が岡野公園になっているのだ。納得。

          
               岡野公園
 
 それにしても柳沢が出てこない。地図に記載が無くなってからも大分歩いたのに出てこないのはどうしてだ。都市地図でこんなに省略するなんてけしからん、と腹が立ってくる。
通り過ぎた? とんでもない。柳沢の手前には川が流れているが、それは越してない。これだけ注意しながら歩いているのだから見過ごす事は絶対にない。
腹も減ってきたせいもありイライラが増してくる。
そうしてやっと川が出てきました。 
----<後で地図を確認すると道中見ていた地図は詳細図で広域地図には載っていた>----

          
               東名と第2東名

 川の手前からも山に向かって道は延びている。道の先には新幹線や東名そして第二東名の高架が見える。札所は新幹線と東名の間にある。この道を行っても行けそうな気がする。地図を見てもこの道は30番の方に続いている。少しでも近いほうが良いと早速左折して歩き出す。新幹線の下を潜り札所とは違うお寺の前に出た。何か立札が立っている。
「寺に用の無い方の通り抜けは お断りします」なんだって!ここまで来てそんな!
でもまてよ通り抜けを断っているという事は通り抜けが出来るのだ。ヨシ注意されたら謝ればいい。と寺の境内に入っていった。見つかりませんように。早く通り過ぎよう。
また立札があった。今度は「ここは犬の散歩道ではありません----」なるほど犬の糞で迷惑しているのでこんな立札をしているのか。理由は分かったが今回は許してもらおうと足早に歩く私でした。
----<後でネットの地図で確認すると道は中断していた>----

          
               広大寺のカヤの木

 30番広大寺にやっと付いた。境内には大きなカヤの木が1本スキット立っている。敷地を充分取り葉も清々広げいる。これならまだまだ大きくなりそうだ。
本堂でお参りをして、観音堂は?と見回すが見当たらない。きっと無いのだろうと決め付けご朱印を貰いに行く。
「観音堂はお参りしましたか」と言いながら略図を手渡してくれる。見ると観音堂はまだ先で東名を過ぎ第2東名の袂まで行かなければならないようだ。
「車で---」「歩いて来たのですが」「歩きですか、それは大変だ。この急坂を登って20分ぐらい掛かるかな」と車道と違う道を指して説明してくれた。

 東名の高架の下を潜り車道と別れて急な登りの農道に入る。坂は東名の高架の上まで一気に登るきつい坂で、既に20k歩き、腹の減っている身にはかなり堪えた。
やっと東名の高さまで来ると愛鷹SAの看板が見えた。確かこの辺りには「動物飛出し注意」の看板が立っていたはずだ。熊では困るが鹿か猿でも出てこないか等考える余裕もやっと出てきた。
 大師堂の横を通り切通しの道になる。ここの切通しの土留めが変わっていて廃棄されたコンクリート柱を使っている。中々いい方法だ。こうすれば資源の再利用が出来る。以前大崩山塊で古タイヤを階段に使っていたが、古タイヤだと経年劣化すると不純物が出る恐れがある。それがコンクリート柱なら安全だ。

          
               切通しの廃柱

 高台に出ると前方に森が見えてきた。あれが観音堂だろう。やれやれ、やっと着いた。
 



駿河一国33ヶ所巡り7-1

2010-02-27 10:06:03 | 寺社遍路
今日(2月24日)のコース

    9.0k    4.5k   10.7k   9.8k    1.9k   2.4k   5.8k
入山瀬-明善寺-福聚院-広大寺-長谷寺-蓮光寺-潮音寺-三島駅
    1:40    50    2:00   2:00    25    25    1:20

 歩行距離     44.1k
 総時間      10時間40分
 歩行時間     8時間33分
 平均歩行時速   5.2k

 今回の駿河一国巡りは過去最高の44kも歩いてしまった。だが疲れは4回目や6回目と違い、まだ余裕があるように感じた。それも今日は登りらしい登りは30番の広大寺の観音堂に向かう所だけだったからだろう。お陰で平均歩行時速は5.2kと掛川歩こう会並みの早さだった。いかに登りが無いと楽なのかが良く分かるデータだ。

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 駿河一国巡りも27番まで打ち終えて残りは番外を含めて7ヶ寺になっている。
あとの予定は一日目は28番から33番までを打ってゴールを三島駅にする。番外の十国峠にある東光寺は三島から歩いて熱海峠から登り、東光寺を打ったあと熱海に下ろうと考えている。
これを実現するには一日目にどうしても三島駅まで行っていなければならない。理由は一日目に一ヶ寺でも残すと、二日目の沼津出発が7時半になってしまい、熱海駅につくのが夕方の6時を過ぎてしまうからだ。街中の遍路道なら6時過ぎでもよいが東光寺は山の中のお寺なので、出来るなら明るいうちに下りたい。そのためには一日目は頑張って三島まで歩こうと思っている。そして結願を3月の第一週までには達成したい。

 そんな気持ちでTVを見ていると天気予報で「明日(24日)は良い天気ですが、その後は週末まで曇りがちになるでしょう」と放送している。週末過ぎまで行けないとなると予定が遅れてしまう。と急遽明日24日に7回目の駿河一国巡りをすることにした。

 朝一番の登り電車は藤枝を5時58分発。となると自転車置場は6時開始のため置く事ができない。仕方なく---<丁度良くかも>---妻に車の送迎を頼んでの出発。
 身延線は3番目の入山瀬駅で降りるのだが、通勤時間帯で席が空いていず、ドアの横に身体を寄せて立っていた。駅に着いたときドアの近くに来た人が私を見て笑いながら定期券をかざしている。知っている人かなと思ったが思い出せない。するとその後ろにいたおばさんが「降りるからどいてください」と言う。エッ?と思い姿勢を正すと出来た隙間に手が伸びてきた。慌てて退くとそこにはドアの開閉釦があった。
そうか身延線は客が少ないので寒い時期のドアの開閉は自動でなく乗客が手動で行うシステムなのだ。恥をかいてしまった。

          
              入山瀬からの富士山

 入山瀬駅に降りると大きな富士山が薄っすらと見える。私の写真技術では写りそうもないが、ともかく1枚写す。
 これから山梨県に行く国道139号に出て東名まで下る。東名に出たら東名の側道をひたすら東に進む予定だ。側道を選んだのは距離が近そうなのと交通量の多い道より歩きやすいと思ったからだ。
 東名の側道に入り車の音が静かになる。だが思っていたより起伏が多い。東名は平だが側道は地形のままなのか上ったり下がったりする。しかも所々で側道が途絶えるので右側や左側に移動しなければならない。これならこの下の道を歩いた方が良かったかもしれない等少し後悔もした。

 目標にしていた滝川まで来ると右も左も側道が途絶えてしまった。ここを滝川沿いに下がるが余り下がっては駄目。なるべく東名から離れないように進む予定だった。が東名は全然見えなくなってしまった。仕方ない後は例の五感(山感)に頼るしかないと、余り南に下らない道を選んで歩いていた。すると富士市のウォーキングコースの道標が出てきて難問解決。無事28番妙善寺に到着。

          
              28番 妙善寺


駿河一国33ヶ所巡り6-4

2010-02-25 16:09:30 | 寺社遍路
 ここの坂を下れば富士川橋の袂に行けるようだ。だが迷ってしまった。富士川から富士宮に延びている川沿いの県道は交通量も多くダンプも多そうな気がする。そんな道の路肩を歩くのは面白くない。
地図を見ると東名の富士川SAの横を通り県道に抜ける道があった。もう迷わずその道を歩き出した。しかし初っ端から急な登りが続き、下の川沿いの道なら平坦なのにと少し後悔が出始めた。
ともかくSAに着く。ここのSAはETCカードのみ出入りが出来るスマートICになっているが、今は工事中で閉鎖されていた。

          
            スマートICの富士川SA

SAからの下って直に県道と合流したが、県道横に旧道があったのでそこを歩いていた。そのうち旧道が登りになり高台のの方に延びている。地図を見てもどちらも距離は変わらない。もう疲れるのは嫌だと今度は県道を歩くことにした。
前方に第2東名が見えてきた。今まで見てきた橋桁の格好は垂直に伸びた物だったが、ここの富士川の橋桁はアーチ型をしている。どんな効果の違いがあるのか知らないが見た目にはアーチ型の方が格好がいいし安定感がある。

 第2東名が近づいてくると前方にトンネルが見えてきた。嫌だなと思い巻き道はないかと見渡すと左上に道が見える。地図を見るとを通ってきた旧道のようだ。しかしその道はトンネルが無いため大分大回りをしている。しかも県道より高いところを通っているので、そこまで登らなければならない。トンネルも嫌だが遠回りも嫌だ。最初から旧道を歩いていればこんな事にはならなかったのに後悔もし始めた。仕方ないトンネルを歩くか。

          
               富士川を渡る第2東名

 トンネルの中は明るく歩道もあって四国のトンネルのような恐怖感はない。だが排気ガスが凄い。入口に立っただけで排煙がモウモウとしているのが見える。マスクも無いので手で口を覆い急ぎ足で歩くしかなかった。トンネルを出てみるとトンネルの名前は馬坂トンネルで全長550mほどあった。

          
              馬坂トンネル 右に第2東名が見える

 大分疲れが出てきた。ときおり川越しに見える対岸の景色を見ると余計疲れが増してくる。何故かと言うと、この先にある橋を渡ると、次の札所は対岸を下流に下がって更に山に登らなければならないからだ。この辺に橋があれば楽なのに、と思ってしまう。
大きな道路標識が見えてきた。あと300mで富士宮の分岐だ。橋のアーチの上部も見えてきた。
          
              蓬莱橋の標識

 3時丁度蓬莱橋に到着。ここ迄で30.5kその割には疲れた。チョット一息入れて出発。
橋を渡ると店屋があり、その軒先に「富士宮焼そば」の幟が立っている。そうかここはもう富士宮市なのか。さっきの休憩でバナナやパンを食べなければ良かった。そうすれば富士宮焼そばを食べる事が出来たのに。今日は後悔が多い。

 次の札所はこの先のヘヤピンカーブの2本目の道を右折するらしい。1本目の道は途中で行き止まりになっているので注意しなければいけない。そうだ今日は地図の話をしよう。
私の持っている地図は昭文社の都市地図で縮尺は都市によって違いがあって、静岡市は45000:1、今見ている富士市は28000:1、そして富士宮市は18000:1と色々ある。
札所は表示されている寺もあれば無い寺もあるのでヤフーの地図ソフトで寺の住所を打込んで確認してから地図上に札所番号を朱書きしておく。
次にゼンリンの地図ソフトでおおよその距離を算出して一日の行程の計画を練るようにしている。この位しておけばそんなに困る事はない。今までも大きな間違いはせずにここ迄来れたのだから。尤も初日の山の中の農道のように幾ら地図を見ても分からない場合もあが、こんな時は現地で判断するしかないだろう。

 昭文社の都市地図の購入は地元の本屋では揃わないのでインターネットのe-honネットを利用した。このe-honネットは手数料も送料も掛からず、近所の書店を指定しておけば3~4日で到着する便利なツールです。
地図の検索はこだわり検索で書名に「静岡 都市地図」出版社に「昭文社」とすれば静岡県の都市地図が表示されます。

 ところでヘヤピンカーブの分岐点は、と言うと富士の地図には道しか表示されていないが、富士宮の地図にはスイミングセンタの建物が載っていた。これで迷わず行く事が出来る。これが28000:1と18000:1の違いなのだ。

 その分岐された道に入ると「私有地につき許可無く通行できませ」と書かれた看板が所々にある。道は優にすれ違えもでき、簡易舗装もされていて一見私道には見えない。マー イイカ 注意されたら謝ろうと開き直って歩いていた。時折すれ違う車も乗用車ありトラックあり軽トラも走っていて一企業の車には見えない。そのうちこんな看板が出てきた。「通学路につき運転注意!」なんだかよく分からない。

 27番大悟庵のある地域は星山と呼ばれている。星山などと言うと何か宗教儀式が行われた場所のように感じるが、田圃の中にある古びたお墓や、道脇にある由緒ありげな甲子塔を見ると尚更そんな気持ちが強くなった。甲子塔と一緒に立っていた道祖神も静岡県では珍しい男女の姿が彫ってあった。

          
              星山地区の甲子塔

 前方にお墓見えてきた。道は下ってしまうがお墓は少し登りになる。27番のお墓かどうか分からないが下る前にお墓を確かめようとお墓の中に入っていくと 大正解お寺がありました。27番大悟庵にやっと着きました。

          
            27番大悟庵の観音堂

 大悟庵の隣に難しい名前の神社があった。倭文神社と書いて「しどり神社」と読ませる織物の神らしい。書かれていた事をわたし流に解釈すると
「古代からこの地に住む者が中央に従わないので、機織の神でもある健(天)羽雷神を遣わし征伐した。討伐後も健羽雷神はこの地に住み着き機織や製紙の技術を指導した。よって富士地区は紙の主産地になった」となる。
成程、健羽雷神が住み着いたかどうかは別としても製紙技術を教えた事は考えられる。それなら富士地区の製紙業者はもう少し寄付を出して社を立派にすべきだと思った。

 今日の最終地は身延線の入山瀬駅にしようと思っている。理由は次回行く28番妙善寺は東海道線の富士駅よりも入山瀬の方が近そうだからだ。と言っても入山瀬に行く道を知っているわけではない。地図上で一番距離が短くなりそうな道を選んで歩く積もりだ。
札所を出ると正面の高台に真直ぐ伸びた道が見える。まずあの道を登り高校の手前を左に曲る予定だった。散歩している人がいたので
「入山瀬に行きたいのですがこの道を真直ぐ行けばいいですか?」
「入山瀬?とんでもない、ここから入山瀬など歩いて行くには二山も越さなければならない。バスで富士宮に出てから行くしかない」と言う。
「歩いて行きたいのですが」
「もうすぐ4時半になるし途中で暗くなってしまうから止めたほうがいい」と盛んに止める。
「でもこの道でも行ける事は行けるんですね」と確認を取ってから歩き出した。
悪い事をしてしまった。聞くだけ聞いて忠告を無視するなんて。こんな事なら聞くべきではなかった。

 アッ!富士山が見える。山頂付近だけだが柔らかそうな雪がこんもり積もった富士山見える。
この姿を見たくて今日にしたのに、ようやく見えてきた。足は自然早足になる。高台の見晴らしの良い所に出たが中腹は雲に覆われて見えなった。残念だが少しだけでも見えた事で満足としよう。

           
                新雪の富士山

 入山瀬の駅に5時半到着。27番からは70分程度で着いた事になる。
越えた山は一つだけ。あの道を聞いた人は何か勘違いをしていたのだろうか?それにしても忠告に従わなくて良かった。

駿河一国33ヶ所巡り7

2010-02-24 22:54:51 | 寺社遍路
 今日駿河一国巡りの7回目に行ってきました。身延線の入山瀬駅を出だしに、富士市の28番、29番。沼津市の30番から33番まで打ち終わりました。ゴールは三島駅で44.1kの長丁場になってしまいました。お陰で残りは番外の東光寺のみ、後1回で終えることが出来ます。
報告は後日します。

駿河一国33ヶ所巡り6-3

2010-02-23 08:42:45 | 寺社遍路
 24番西明寺の観音堂に物見山観音と標識が立っている。確かに由比の町を眺める事ができるが大分物足りない。どうせなら観音堂の裏手にある高台の上に祠を建て、そこでお参りすれば、それこそ名前の通りの物見になるのに残念だ。

          
           観音堂前から由比の町(海が見えている)

 納経のさい「お接待です」と”心の道いるべ”という七曜暦を頂いた。開けてみると曜日ごとに格言とイラストが書かれた葉書大のもだった。因みに今日金曜日の格言は「拝む姿の美しさ」となっている。ヨシこれからは山門に入る時もしっかりと合掌して入ろうと、今更ながら決心する情けない遍路です。
しかし何であれお接待を受けるのは嬉しいものだ。ここは四国と違って一般の人はお接待の風習がないので望むべきもないが、札所でのお接待は時々ある。物のお接待だけでなく言葉のお接待も在り難い。「気をつけてお参りしてください」とか「道中ご無事で」と言ってくれるだけで心が和み次に向かう気力が湧いてくる。
しかし札所によっては------ 止めよう水曜日の格言には「足るを知る」となっている。

 最明寺を出て旧東海道まで来た道を戻る。
ここ由比の町は駅と宿場が離れている逆境を上手く利用して観光客を誘導している。宿場の本陣跡に浮世絵の広重美術館を作り、由比駅から2k程ある旧街道を歩かせてる事により途中の商店も多少なりとも恩恵を被ることができるようにしている。今日も平日ながら中高年の女性の姿を見ることができた。

          
             広重美術館

 広重美術館に到着。ここは掛川歩こう会の11月の例会で来たばかりなので写真を撮っただけでパスし次の25番大法寺に向かう事にした。
大法寺は美術館の近くにあるから注意しなければと思う間もなく、と言うより美術館の横の小路の奥に何やら寺らしきものが見えた。近づいてみると間違いなく25番大法寺だった。

 次の竜26番龍雲寺は蒲原の宿の中にあるので、ここの由井の宿からは東海道を歩くことになる。国1のバイパスが出来て県道に格落ちした道は交通量はめっきり少なくなっている。更に蒲原に入り県道から離れた街道にに入るともっと少なくなる。蒲原もこの辺りを重点的に整備し蒲原宿の売り出したいようだが余り上手く行っていないようだ。今日も観光客らしき姿は私一人しか見当たらない。

          
             26番龍雲寺

 26番龍雲寺の入口に彫りの深い立派な石碑が建っていた。
「岩戸山」「一国廿六番」「文政十丁?十月吉日 當山?一世蓬山代」と彫られている。だが文政十何年となると1830年頃にあたり先の瑞雲院に書かれていた1600年と比べ随分新しい。
だとするとこの石碑は何の為に建てられたのか疑問が湧いてくる。
第1に考えられるのは駿河一国に指定された記念と思うが、そうなると龍雲寺は途中指定と言う事になる。
第2にこの寺の?一世の就任記念かもしれない。
第3は駿河一国巡りが誕生したのは本当は文政十丁?十月吉日で1600年と書いてあった瑞雲寺の看板が間違いとも考えられる。
サー果たしてこの疑問は結願までに解決するだろうか-----
(石碑の?は字が不鮮明ではなく、単に私が読めないだけです)

 寺の墓越しに御殿山の桜が見える。後40日も経てば雑木色の山もピンクに大変身するだろう。四国のように連続して歩くなら桜の時季を選べば、この遍路道は彼方此方で花の饗宴を受けることができるだろう。
丁度お昼になったので境内の隅に座り込んで昼飯にした。風もなく日向ぼっこのようで眠気が差してきた。今日のこれからの予定は富士川駅まで歩いて時間が2時前だったら富士宮の28番大伍庵に向かう積もりだ。何しろ大伍庵までは概算で11kもあるので2時を過ぎると5時前に着かなくなる恐れがある。ここまでは予定通り歩いているので2時前には富士川駅に着きそうだ。

           
               龍雲寺から御殿山

 龍雲寺を出てからも東海道を歩く。道が登りになった所に「富士川へ」の看板が目に付いた。駅にわざわざ寄る必要はないので、少しでも近道になるだろうとその道を進む。
上り坂終わった所で道が二股に。左を見ると東名の上を越えて山裾を進む道が見えている。左は舗装がされていない道だ。雰囲気的にはこの舗装されていない道が正しいと五感が知らせる。ヨシと進みだすと道はU字に曲り元来た方に曲っている。これは失敗だと分岐に戻り東名を越す。
なんか不安が増してくるが、あの標識から右に行く道は無かったのだからと自分を勇気付ける。暫く進むと人家が出てきた。そして「明治天皇車立寄所」?と書いた石碑が建っていた。これで間違いは無い。この道は富士川に向かっている。
その後も何ヶ所か分岐はあったが太いほうを選んだり、常夜灯があればそちらに向かったりして歩く。ただ左手の山に向かう道は避けて歩いた。金鶴神社の横の東名のガードを潜り、一体何所へ着くのか皆目分からないまま歩いていた。そうしてやっと交通量の多い道に出たので歩いている人に聞くと県道だと言う。富士川はこの道を登っていけば良いと聞き勇気百倍になった。

          
               岩淵の一里塚跡

更に途中にあった標識なので、この道が東海道だったのを知って驚いてしまった。東海道は富士川駅の前の旧国1だとばかり思っていたので、まさかこんな上を通っているとは思いもかけなかった。家に帰って自分の歩いたルートをGPSの軌跡で確認すると東海道とぴったり合っていた。なんと素晴らしいんだろう私の五感は!
ついでに東海道は江戸時代の始めは駅の近くを通っていたが津波や地震などでたびたび道が破壊されるので山手の道になったと書いてあった。

 時間はまだ2時前富士宮に向かおう。

駿河一国33ヶ所巡り6-2

2010-02-22 20:24:53 | 寺社遍路
   
            
            清見寺の総門 総門と山門の間に線路がある

 23番瑞雲院をを出て隣の清見寺に寄ってみた。さすが大寺で今まで打ち終わった何所の札所より規模が大きい。それなのに何故駿河一国の札所にならなかったのか? 駿河一国巡りができた600年当時は瑞雲寺のが栄えていたのか? それとも徳川家康のお手植え蜜柑もあることから、時の権力者の意向があったのか? 瑞雲院のご本尊は如意輪観世音菩薩だが清見寺の本尊は観音さんではないのではないか? 疑問ばかり湧いてくる。早速清見寺のHPを見てみると1600年に以前の室町時代には「全国十刹」にも選ばれていた日本有数の寺だった事が分かる。また時の権力者だった足利尊氏や今川義元、徳川家康らの厚い帰依も受けていた。ではご本尊はと言うと清見寺は本尊は「釈迦如来」で観世音菩薩ではなかった。これが清見寺が札所に選ばれなかった理由なのだろう。か。
 寺の由来書を見て気づいたが両寺とも同じような事が書かれていて、宗派も同く臨済宗妙心寺派だ。これは瑞雲院は清見寺の隠居寺だった事の証ではないか。だから現代も寺の門を共用しているのだ。そう結論つけることにした。
            
             清見寺山門

 興津宿を歩く。今日は江尻から岩淵まで旧東海道を歩く事になる。何時か東海道を歩こうと思っている私には嬉しいのか詰まらないのか分からない不思議な感覚だ。若し今日歩いて余り興味を感じないなら東海道は止めようかとも思っている。

 興津川を渡ると東海道の難所の一つ薩埵峠の入口は近い。
この薩埵峠は前回12月に掛川歩こう会で歩いたばかりなので道は充分分かっている積もりだった。ところが興津川を渡ると標識に薩埵峠は左折して川を遡るように書いてある。いや確か前回は国1沿いに歩いたはずだと標識を無視して直進した。すると今度は立看板に「この先のバイパスには歩道がありません」となっている。しかしバイパスを歩くのではなく山の中腹を歩くのだからと、その看板も無視して進む。前方に踏切がある、そして山の上を見ると中腹辺りにお墓見える。確か薩埵峠の山道の入口はお墓だったと思い出し踏み切りを渡った。そしたら、そこには「薩埵峠官道中道」の看板が。アー良かった。

 最近掛川歩こう会であちこちを歩いているが道を憶えない。これはドライブにカーナビを使うと同じで、先導の後ろを黙々と歩いているだけなので道を憶えないのだろう。最近は注意して四方を見るようにしているが、遅れてはならない気持ちが強くキョロキョロする余裕はまだ少ない。マー何はともかく薩埵峠の入口に着いた。

 薩埵峠と言っても知らない人もいるだろうけど、安藤広重の東海道五十三次の浮世絵の中の

             

この絵は見たことはあるでしょう。宿名は由比となっているが、ここは薩埵峠から吉原方面に見える富士山を描いたものです。この風景は現在でも同じような感じで見えるはずなんですが------

 前回もそして今回も冨士さんには嫌われてしまいました。今日見れればきっと新雪の真っ白な富士山が見えたのにと思うと余計悔しさが増してきます。そして撮れた写真はこんな物でした。

             

 下に見える道路は上(右)側が東名高速道路、下が国道1号線そして山よりにJR東海道本線が走っている日本の大動脈です。
私の写真技術が稚拙のため山が急峻に見えないのが難ですが、これに富士山が写っていれば広重の絵に似ていると思いませんか。53次の浮世絵の中で、この絵が現代と一番似ていると言っても過言ではないと思っています。
それにしても富士山が見えないのは残念だ。

 今日唯一の山道であろう薩埵峠を快調に歩く。人により山道を嫌う人もいるが私は好きだ。一般的に言って山道は分岐が少なく、あっても標識がある。それに比べ農道は標識が殆どなく分岐のたびに決断をしなければならない苦労がある。
今日は平日で富士山も見えないせいか歩いている人はいない。お陰で山道に入り15分ほどで峠に着いた。木で作った見晴台を通り先に進むがまだ登り坂が続く。と、また薩埵峠の標識が。どうやら先ほどの峠は旧清水市の峠で、今度の峠は旧由比町の峠のようだ。更に道を進むと農道と合流部の駐車場にまた薩埵峠の表示が。今度は車の為の薩埵峠なのか。更に農道を下り始めると、またまた薩埵峠が出てきた。今度の峠は古い石碑もあり、これが江戸時代の薩埵峠だったと思われるのだが景色が悪い。富士山も見えず駿河湾しか見えない。昔の人でも景色が良く坂の頂点が峠なのが良かったろうに何故こんな中途半端な所が峠だったのだろう?それに比べ現代の峠は分かりやすい。見晴らしが良い場所で、自治体の縄張り争い、そして車へのサービスが重なって合計4箇所の薩埵峠が出来てしまったのだから。

 薩埵峠を下り由比の町へと入る。由比は桜海老で有名な漁港があるので桜海老料理の看板が目立つ。私はと言うと桜海老は、あの長い髭が喉に触り余り好きではない。それより由比に来ると必ず買っているのは黒はんぺんだ。それも安く薄いのではなく厚めのチョット高めの奴が好きだ。これを直火で少し焙り山葵漬けで食べれば最高のつまみになる。買う店も決まっていて一に△を書いた商号の「いちうろこ」商店に決めている。今日もその店の前を歩いているのだが、これから7時間以上歩かなければならないので残念ながら我慢する事にした。
店を過ぎ暫くして浜石岳の入口の案内板の所を左折する。次の札所の24番最明寺は、この浜石岳に続く道の脇にあるはずだ。国道を渡り更に坂道を登っていくと右手に城の石垣に使うような大きな石の石垣が見えてきた。ここが24番最明寺だった。

          
               西明寺の石垣

駿河一国33ヶ所巡り6-1

2010-02-20 14:33:34 | 寺社遍路
 薩埵峠から富士山の写真を撮りたくて延期に延期を重ねてきた駿河一国だが、ようやく前日の天気予報も晴れマーク、そして朝刊の天気予報は水戸から静岡までオール晴れ一色。待った甲斐があった。

今日のコース

      4.3k     8.6k      1.9k     5.2k      13.7     5.7k
 清水駅 - 瑞雲院 - 西明寺 - 大法寺 - 龍雲寺 - 大悟庵 - 入山瀬駅
      50      2:00     15       55      3:10     1:15

 歩行距離     39.4k
 総時間      10時間25分
 歩行時間     8時間21分
 平均歩行時速   4.7k

 朝5時45分自転車で家を出発。お陰で自転車通勤(?)は三日坊主にならずに続いている。寒いのは寒いが今日は小2の孫が縫ってくれたマフラーを首にしているので暖かい。マフラーと言ってもネルのような厚手の布を筒状にしただけの物だが、鼻や耳の上まで覆う事ができるので暖かさが逃げず快適だ。ただ指先が冷たい。前々回の駿河一国で失くしてしまった手袋の事を妻に言えず、黙って軍手にしているので寒風が通ってしまい指先が凍ってしまう。これも自業自得なのだから今冬は我慢するしかない。

 清水駅に7時前に着く。条件が良い時は2階の改札口を出た所のコーンコースから富士山が正面に見えている。筈だ-------- それが見えない。
自転車に乗っていた時も明け方の暗さだけでなく、なんか暗く感じていたのだが今空を見ると薄雲が一面に広がっている。しかも富士山のある辺りはしっかり雲がかかり富士山の影すら見えない。アーアッ延期を重ねてこの日にしたのに、その甲斐が無かった。天気予報士は、もっとしっかりしろと八つ当たりをしたい気分になってしまった。

          
             ほそいの松

 気を取り直して7時丁度に清水駅を出発。駅前の国1を右折し暫く進むと旧東海道と合流する。合流地点にヒョロットした松と記念碑が建っていた。読んでみると江戸時代はこの辺りに松並木があり「ほそいの松原」と呼んでいたそうだ。それで細い松を植えてあるのか?そんな事あるわけ無いか。
 橋の北側に雪が積もった山が見える。この地方では山とは言えこんな雪景色を見る事は先ず無いが時折降る山の雪も、山に雪が降ると春になるとも言われている。その証拠か川の土手には梅?桃?分からないが桃色の花が見える。だが雪景色を見ると心が騒ぐ。今日の行程に山越えが無いのが残念だ。

          
            雪の見える山

 23番瑞雲院は興津宿の清見寺の手前にあるはずだ。清見寺は朝鮮通信使が宿泊した事もある有名な寺だが瑞雲院は聞いた事は無い。注意深く山側を見ながら歩いていたが看板は見当たらないまま清見寺に着いてしまった。そんな馬鹿な、あれだけ注意深く見てきたのだから見落とす筈も無い。それに線路を横切る踏み切りも無かった。
そうだ話の前に興津の地形を説明しないと理解してもらえないな。
 興津の町は北に山が迫っていて南には海がある東西に細長い町で、山側からJR東海道線の線路、次いで旧東海道(旧国1)、それに海を埋め立てて作った国1バイパスが走っている。だから踏切が無ければ山側には行く事が出来ないはずだ。

           
              清見寺の総門

 迷っていても仕方ないので清見寺の総門の階段を登り誇線橋を渡ってみる。正面右手に清見寺の山門があり、本堂などの屋根が見えている。左手を見ると30mほど先にお寺らしき建物が見える。雰囲気的に清見寺とは別の建物のようだ。
行ってみると間違いなく瑞雲院だった。それでは正規の入口はと山門の先に行ってみると線路の方に道は延びてはいるが踏み切りは無い。きっと最近になって踏み切りを撤去したのだろう。それにしても別の寺の門を利用するとは珍しい事ではないかな。清見寺と瑞雲寺は仲が良いのか?ウーンしかしそれにしては瑞雲寺の看板は無かった。やはり札所である以上表示がないと始めての遍路は困ると思うのだが。

          
             23番 瑞雲院

 瑞雲院の略歴を書いた看板に気になっていた事が書いてあった。そこには
「西暦1600年(慶長5年)駿河一国観音霊場第23番札所となる」と書かれている。1600年と言えば関が原の戦いがあった年なのだから、この駿河一国巡りは江戸時代より前からあった事になる。凄い物だな。
更にこんな事も書いてあった。
「1602年 徳川家康自ら当院に紀州蜜柑を植え庭木となす」だとすると駿府城址や11番安養寺のお手植え蜜柑より前に植えたことになりそうだ。だが更に「1849年 山の上より現地に堂宇を移転し現在に至る」となっていた。きっと蜜柑はその時移植しなかったのだろう。惜しい事をしたものだ。

 瑞雲院の山門の前にこんな立札があった。
「性海庵の湧水 
性海庵の湧水って知ってるかね。この水は清見寺の裏山から湧いていてね、東海道の天下の名水と言われていたんだ。
この湧水の名は、この水が沸いていた近くに清見寺を開いた性海和尚が住んだいたことから付けられたそうだよ。
この場所はね、今は瑞雲寺の墓地だけど、わしが子供のころは畑だったんだ。湧水がこのこの中をさらさらと小川となって流れていたんだよ。
夏になると小川には蛍や蟹がたんといたっけ。この水は東海道まで、かけひと言って、竹でできたといで引かれていたんだ。百メートルくらいあったと思いますよ。
かけひの一番下には、樽が置いてあって、水が溜まるようになっていたんだ。このあたりの家の飲み水や炊事洗濯の水として使ってたよ。朝、おばさんたちが洗濯や炊事にここに集まってくるとにぎやかだったね。手よりも口を動かしている方が多かったもんね。
そのころはまだ東海道を歩いて旅する人がいてね、この水で喉を潤したんだ。乗合馬車や荷物を運ぶ馬も飲んだりしたっけ。東海道の給水所だったんだなあ。
夏は冷たくて冬は暖かいこの水は、今まで涸れることはなかったよ。三十軒くらいの家がつかっているよ。
こんなおいしい水が飲めて、わしらは幸せに思うな。」

駿河一国6回目決行

2010-02-19 22:44:50 | 寺社遍路
 清水駅を朝7時に出発し旧東海道沿いにある23番、24案、25番、26番と打ち、最後に富士宮の27番に回って身延線の入山瀬駅に付いたのが5時30分。歩行距離39.4kmの遍路でした。
 家を5時45分に出て帰ってきたのが20時。さすが疲れて眠いので報告は明日からにします。

駿河一国

2010-02-18 19:09:35 | 寺社遍路
 明日の天気予報は久し振りに晴れマーク。やっと6回目の駿河一国巡りに行けそうだ。
曇っていても雨さへ降らなければ良さそうなものだが、富士山の写真を撮りたいばかりに晴れて視界が利きそうな日を狙っている。しかも明日は富士山と駿河湾の眺めの名所でもある薩埵峠を通るのだかなおさらだ。そして歩けるものなら富士宮まで歩きたいと思っているので、そうなると遮蔽物の無い富士山も眺められる。となるとどうしても晴れてもらわねば困る。

 ブログを中断している間に大崩山塊のHP作りに没頭していました。お陰でほぼ完成。1年越しの課題が達成できました。
前回の駿河一国で日本平のハイキングコースを探したが結局分からないまま行ってしまい、道を迷ったりしてしまった。今回完成したHPは大崩山塊の全てのコースを紹介してあるのでそのようなことは無い。歩行時間も表示してあるのでコースの選定も容易に出来るはずだ。
静岡県中部地方にお住みの方は是非このHPを見て高草山、満観峰、花沢山や朝鮮岩に登ってください。
幼稚園児から私のような高齢者でも楽に登れるコースや健脚向きのコースも設定できます。是非一度HPを覗いて挑戦してください。そして願わくばその感想などコメント下されば望外の幸せです。

HPはこのブログのブックマーク「大崩山塊彷徨」をクリックしてください。

駿河一国33ヶ所巡り5-2

2010-02-09 19:12:27 | 寺社遍路
 山道に入ると道は切通し(?)の道になった。道の底は40cm位で上部は60cm、高さは2m位あって人がすれ違うのも難しい感じだ。こんなに深くての細い道を人間が掘ったのか、それとも自然に出来たのか? しかしどう見ても自然には出来そうもない。では何の理由があってわざわざ苦労して、こんなに深く地面を掘って道を作ったのだろう。聴いてみたい気がする。

          
              深く掘られた道

 そんな変わった道も終ると古い石の道標や石仏が道脇にでてきた。若しかするとこの道は20番と21番の古い遍路道かも知れないなど空想し、次回駿河一国を歩くならこの道を通って21番に抜けるルートも検討しようと考えていた。

 道はゴルフ場の下に出て、そのゴルフ場に沿って進む。ハイキングコースの道標が立っている所で下から来た農道にぶつかった。道標の矢印は真っ直ぐ延びているがその先に道は無かった。
当然右か左に曲るのだが、迷いもせず登りの方向に右折をする。途中クラブハウスへ行く道が分岐しているが農道を直進する。緩やかな登りでカーブの無い道は歩きやすい。余り疲れていないが時間はもう2時近いので昼飯にすることにした。今日は霊山寺から平沢寺までの間に昼飯を食べれるような場所が無かったので、行動食替りに持ってきた芋切干を食べながら歩いていたので余りお腹は空いていない。
この芋切干は掛川歩こう会の例会のとき買ったのだが中々便利だ。余りがさばらずポケットに入れておいて、お腹が空いたとき食べているのでガス欠を起さないで済む。

 握り飯を食べ終え歩き出すと山頂の鉄塔群が真近に見えてきた。「この先農道が行き止まり」と書かれた立札が立っている。ハイキングコースの案内は先ほどのゴルフ場の所にあっただけだ。この農道の途中に一ヶ所くらい道標があればハイカーは安心して歩けるのにと思いながら歩く。
 農道の終点になったが通行止めの杭の先も簡易な舗装は続いていた。
その舗装が終わると-- ウン大丈夫道はある。道標は無いがしっかりした山道が延びていた。
どうも静岡市役所は道標の立て方がヘタだ。おまけに直線の案内図も見難い。など苦情を思い浮かべながら山道を進む。
何か変だ。踏み跡が段々薄くなってくる。おかしい。道を間違えたのか? しかしあの道標があった分岐からは間違えていないはずだ。となるとあの分岐を登ったのが間違いで下るべきだったのか?それともチラリ見た直進方向に山道があったのか? 
でも取りあえずどうしよう。日本平は山も低いし、ここは頂上にも近い。それにこのまま南の方向に進めば必ずドライブコースに出合うはずだ。ここは進んだほうが良さそうだ。
 踏み跡とらしき所を進んでいくと正面にコンクリートの壁が現れた。堰堤か?それにしてはここは沢らしくない。近寄ってみるとコンクリートの上にはガードレールが。アレもうドライブコースに出たのか、それにしては車の音がしない。
コンクリートの上に出るとそこは正しくドライブコースだった。右の下り方にはトンネルが、上を見れば鉄塔が見える。道標はないかと辺りを探したが何所にもない。矢張り道を間違えてしまったのだ。

          
            ここに出た
          
            山頂は すぐそこ

この先はどうしよう。どうせ間違い続きだから車道を通らず山頂に直登してやろうと前方を見るが立入禁止になっている。仕方ない車道を行こう。
300m位歩いたのだろうか無事日本平に到着。

 この4日後掛川歩こう会で清水から平沢寺に抜ける今日とは逆のコースを歩く例会があった。当初は同じようなコースだったので行かないつもりだったが、間違えた所を確認しようと参加してみた。その結果分かりました。間違えた所が。
想像していたように平沢寺からゴルフ場に出て最初に農道に出たとき、道標を注意せず右折し農道を登ってしまったが、正しい道は農道を左折して20m位下って山道に入るのだった。
では道標は何故真直ぐ道のない所を指していたのかと思いそちらを見ると、何とありました。木の高い位置に左の方向に矢印が。
どうも間違える人が多くて後から付けたような感じがする。マーともかく気を付ければ迷う事はなかったという事です。
ソーソーこの分岐から山頂まで正規のコースはGPS測定で1.2k。間違ったコースは3.3kでした。倍以上距離が長かったせいか登りはなだらかで楽だった。正規のコースは階段が多く傾斜がきつく感じた。

 日本平で富士山の写真を撮ろうと思ってきたのだが、富士山は雲の中。他の景色はバッチリ見えるのに難しい物だ。
東展望台から富士山方向を見ると愛鷹山が薄っすら白くなっている。一昨日降った雪だろう。この雪姿の富士山を見たかったのに残念だ。
フト案内板に目をやると愛鷹山と思われる所が天城山になっている。まさか?しかし間違いない。子供の頃から見慣れている愛鷹山を見間違えるはずはない。県だか市だか知らないが困ったものだ。観光客を誘致に力を入れるのは良いが基本的な事はしっかりしてもらいたい。

          
              日本平のアンテナ群

 次は村松にある鉄舟寺に行きたいが何所を行けば良いか分からない。あちこちの案内板を見るがハイキングコースは分からない。結局東展望台の案内図に書いてあった地図しか参考にならなかったが、そには村松と言うには道は無かった。仕方ないので村松の隣のでエスパルスのサッカー場がある宮加三に下りる事にした。
宮加三に行くにはホテルの前を通り、と案内図通り歩いて行くと、また分岐があって標識がある。だが例により直線の案内図でよく分からない。仕方が無いので太い道を進むとサッカー場に行く太い道に出てしまった。今更戻るのも面倒なので車道を降りていくと又案内票が。今度ははっきり山実を指している。間違ってはいなかったのだ。あー良かった。
 後日歩こう会ではこの山道から車道に出て、そのまま車道を山頂まで行った。この方がホテル経由より余程近かった。

 山道が農道に変わる辺りから、周りはミカン畑の連続になった。静岡側の斜面は茶畑しかなかったが、清水側はミカン畑だけしかない。そのミカンも収獲が終り残っているのは夏みかんのように大きくて色が黄色の物ばかり。
右の下には清水港の折戸湾が蟷螂の斧のように見えている。蟷螂の斧か! そう言えば前期高齢者になりながら、こうして独りで山野を彷徨っている私も見ようによっては蟷螂の斧かもしれないな。自分が弱い事に気が付かず無茶ばかりして------

          
              鉄舟寺山門

22番鉄舟寺の納経の際、山岡鉄舟の遺墨を書いた紙を貰った。そこには
「お前百まで わしゃ九十九まで 共に白髪が生えるまで」と書かれていた。
どこかで聞いた事のある文句だが、これを鉄舟が作ったのだと思ったが、どうも気になり、後で調べてみた。そしたらこの文句は伊勢音頭の歌詞とあった。
伊勢音頭?確か「伊勢は津でもつ 尾張名古屋は城でもつ」とか言うのではなかったのか?
止めた。また変な方向に進んでしまいそうだ。でも後一言。
百歳や九十九歳なら白髪が生えるのではなく、白髪が抜けるのではないか。
「お前百まで わしゃ九十九まで 共に白髪が抜けるまで」