はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

HP「海から富士山剣ヶ峰へ」が完成!

2013-06-27 10:50:41 | その他
  HP「海から富士山剣ヶ峰へ」の部分が完成しました

 富士山が「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録され、新聞・TVは想像通り大騒ぎです。
富士山好きの気持ちは誰にも負けない積りですので、富士山が世界遺産登録に挑戦した以上、登録されて嬉しいのですが
何故か戸惑う気持ちも湧いてきます。

「入山料」が色々取り沙汰され、今年は8月の10日間で試験的に1000円徴収するとか。
個人的には1000円程度の入山料は当然支払い、それで登山道やトイレの整備をするのは大賛成です。
しかし今年は徴収したお金の使途が決まっていないのに、ともかく徴収しようとしています。

入山料が登山者の減少を図るため導入するとの意見もありますが、1000円のため登山を止める人が果たしているでしょうか
山梨県の市長が「入山料2万円説」を言い出した時は、その常識外れな考えにビックリしましたが、登山者の減少が目的なら
その位にしないと減少しないでしょう。

しかし本当に登山者を減少させたいなら、入山料で減少させるのではなく富士山を昔の形に戻せばよいと思います。
現在登山バスは麓の浅間神社はおろか1合目をはるかに越えた新5合目まで登山者を運んでます。
そしてその道路脇の自然林は、排気ガス等の影響で立ち枯れが目立っていて、8月にはマイカー規制の措置も取られる
ようになっています。
それならいっそのこと、登山区間の道路は封鎖してしまい、登山者は麓の浅間神社で禊をしてから歩いて登ったらどう
でしょう。そのほうが世界遺産の「富士山-信仰の対象と---」に合致していると思います。
これなら登山者は激減間違いなしでしょう。
マー浅間神社からは無理としても、1合目から歩くようにしても半減はすると思います。

「弾丸登山」は毎年富士山に登っている私も知らない言葉でした。
途中山小屋に泊まらず徹夜で登山して、ご来光を拝んで下山する事だそうですが、名前はサッカーワールドカップの
「弾丸ツアー」を真似をしたのでしょうか。
最近の私は海から歩いているため、途中の山小屋に1泊していますが、それ以前は殆どこの弾丸登山か日帰り登山でした。
新聞などでは弾丸登山で夜歩くのは体調を崩しやすく、転倒などの危険が多くなると指摘しています。
確かに寝不足で疲れやすいのは確かですが、日影のない陽の下を歩くのも大変です。
私には歩いている時の大変さだけなら日中の登山の方が辛く感じます。
ようはこの弾丸登山なる物は、山小屋に金を落とさないため嫌われるのではないでしょうか。(僻みかな)
とは言え、登山者の全員が山小屋泊まりとなれば、現状でも一杯の山小屋は対処できなくなるでしょう。

こうなると矢張り浅間神社なり1合目から登るようにすべきですね。
歩く距離が延びて日帰り登山が無理になり、山小屋に泊まったとしても激減した登山者は収容できるでしょう。

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 7月1日の富士山山開きの日も近付いてきました。
私は今年もまた「海から富士山剣ヶ峰」に挑戦します。
最終的には来年の古稀の歳に「海から富士山剣ヶ峰」を完結したいと思っていますが、
今年は果たして剣ヶ峰まで行けるでしょうか-------

以前ブログで紹介した田子の浦海岸から富士宮口6合目までの「海から富士山剣ヶ峰へ」のルート紹介を
HPに纏めましたので、一読の上挑戦してみたら如何でしょうか。コメントをお待ちしています。

牧ノ原:坂本竜馬を切った男

2013-06-25 09:22:14 | ウォーキング
牧ノ原:坂本竜馬を切った今井信郎の墓と屋敷跡

行程表
 大井川・島田大橋 0:30> タンク 0:10> 屋敷跡 0:15> 天王神社 0:05> 種月院 0:30> 大井川・矢口橋

 今井信郎(のぶお)の経歴を屋敷跡にあった案内板を元に紹介します。
「天保12年(1841)10月2日、江戸本郷湯島天神下の幕臣の家に生まれる。
10歳で元服して為忠と名乗る。湯島聖堂に出仕し和漢の道や絵画などを学ぶ。安政5年直心影流・榊原鍵吉の
門下に入り、20歳で免許皆伝、講武所師範代を拝命した。片手打ちの剣法を編み出す。
 慶応3年、京都見廻組を拝命、京都守護職松平容保の支配下に属し、同年11月15日京都近江屋を同志と
共に襲撃し、坂本竜馬を殺害する。
 翌年戊辰戦争が起きると同志と共に衝鉾隊を結成。副隊長として奥州に転戦し函館五稜郭で降伏入牢。
その際近江屋事件の糾問を受け、坂本龍馬暗殺に関わったと自供し、禁固刑となったが、明治5年(1872)に
特赦を以て出所。 
 明治11年(1878)中条景昭等の勧めにより、坂本の文字通りの谷間の一隅に一居を構えた後、同志を募り
政治結社「三養社」を創設し「教育・産業・衛生」の重要性を説き、村内および吉田、榛原方面にも会を広めた。
その後は初倉村(現島田市)の村議および村長を務める。
大正7年(1918)6月25日 旧幕臣、明治政府官員、そして郷土の繁栄に尽くし、波乱の一生を自宅で終えた。
 享年78歳」


 坂本竜馬を殺害した犯人は他にも取り沙汰されて、新選組説、紀州藩士報復説、薩摩藩陰謀説等があるが
今井信郎の属していた見回り組の説が定説になっているようです。
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 島田大橋を渡り県道34号線を吉田方面に南下していく。20分も歩かないうちに県道前方右側に大きな貯水
タンクが見えてくる。そのタンクを通り過ぎると、右に別れる細い車道があるのでその道に入る。
道はすぐ二手に分かれて、左は平らな道、右は急な下り坂になっている(車両通行禁止)。
その急な下り坂を下って右にカーブした前方に見える山と山との谷間が今井信郎の屋敷跡です。

 

 谷の奥に進んで行くと石垣の一部が見えてきます。その石垣の右奥が屋敷跡になっています。
想像していたよりズート広い屋敷跡に驚きましたが、案内板で村会議員や村長をやっていたことを読み
納得できました。

 

屋敷跡には今井信郎の業績を顕彰する石碑が建立されていて、石碑には「今井信郎 屋敷跡」と彫られていた。
また他にも今井信郎の三男健彦の嫁、今井邦子の歌碑も建っている。

 

 「ようやくに 歩み近づき 来つる家 ひっそりとして 木瓜の花赤し」
 三男健彦は初倉で生れ育ち、長じて中央新聞社の記者となる。そこで邦子と知り合い結婚をして二子を
もうける。その後衆議院議員を8期務め、商工政務次官などを歴任。選挙区銚子市の漁港の建設、鉄道敷設など
地元と中央政官界との連関を図り、銚子市名誉市民にもなっている。

 

 屋敷跡を見たら、また水道タンクまで戻り、県道を500mも南下すると道の前方左に鎮守の森が見えてくる。
その手前に鎮守の森に向かっている道があるので、その道を行くと林の中に天王神社がある。
神社には「おせん女踊り 発祥の地」と彫られた石碑が建っていたが意味が分からなかった。
茶畑の中の階段の参道を下り民家の方に行くと、正面に新幹線の側壁が見えてくる。その側壁の近くまで行き
左(東)側を見ると大きな観音菩薩像が建っているが見える。そこが今井伸郎の墓のある種月院だ。

  

 今井伸郎の墓は墓地の中央奥側にあり、墓石には「今井伸郎之碑」と彫られている。
 

寺の境内には「牧之原開拓先駆者の記念碑」があり、その中で墓について「墓は現在在東京に在り、
その碑は種月院に建立されている」
と記されていた。
 同時期活躍した新選組近藤勇の墓は5ヶ所。同じ牧ノ原で活躍?暗躍?した日本左衛門だって金谷と磐田に
ある。ここだって墓と称しても文句は無いと思うが、遺族に遠慮したのだろう。
しかし息子の健彦は銚子市の名誉市民で、銚子を選挙区としている。嫁の歌人の邦子の墓は東京にあったが、
今は富士霊園にあるとか。墓が落ち着かないのは故人にとっても落ち着かない事だろう。



 種月院からの帰りは新幹線の側道を東に行くと、すぐ矢口橋に向かう県道に出る。
県道を横断し用水路の橋を渡ると、そこは静岡空港ウォークで歩く用水路脇の道に出た。
ここを左折して北に向かえば矢口橋は近い。そうそう、その角に建つ旧初公民館の前に
「おせん女踊り発祥の地」の由来を書いた石碑が建っていた。

「氏神様の天王神社が建立されたのを祝い奉納したのが始まりで、橋のたもとで一文商いをしながら機を
織り、道行く旅人に初倉の香り高き美味しいお茶をすすめていた娘さんを描いた歌と踊りと思われます。
一、初倉の サアア 橋のふもとで おせん女が 茶を煮る
二、橋のふもとで おせん女が茶を煮りゃ 芝茶も濃くでる
 (略)」
と続いていました。

 それにしても昔は橋の袂のことを「ふもと」と言っていたのか。それと「おせん女」は「おんな」と
よむのだろうか。ルビが無いので分からないが不自然のような気がする。
ついでに「芝茶」とはどんなお茶なのかだろう。芝の緑のイメージなら新茶だが番茶かな?
この名前を商品名にして新茶を売り出したらどうだろう。もう出ているかな?
どうでもいい空想をしながら谷口橋に向かう。

                    

大崩山塊・芹ヶ谷峠

2013-06-19 15:00:22 | 低山歩き
 大崩山塊・芹が谷峠

 以前朝鮮岩から芹が谷(丸子川中流)へ下る道があると聞いた事があるが、朝鮮岩付近を探しても
見付ける事ができなかった。すっかり諦めていたところ、そのコースがブログで紹介されていたので
歩いてきました。
実際に歩いたコースは芹ヶ谷峠以外にもありましたが、今日は芹ヶ谷峠だけを紹介します。

行程表
 安倍駅 0:25> 井尻橋 0:50> 朝鮮岩 0:25> 芹ヶ谷峠 0:35> 沢川下橋 0:30> 安倍川駅
 逆コース
 安倍駅 0:40> 沢川下橋 0:40> 芹ヶ谷峠 0:25> 朝鮮岩 0:40> 井尻橋 0:30> 安倍川駅


 朝鮮岩までは今まで何度も紹介してきたので省略します。
朝鮮岩からロープ場を過ぎたピークの右側に芹ヶ谷峠の入口はあった。左側は公設の標識が建っており
右には何個かの目印のテープが付いているのに、なぜ今まで気付かなかったのかと思える場所だった。

     
      芹ヶ谷方面から(正面が公設標識で朝鮮岩は左に行く)

北に向かう薄い踏跡の林の中を下って行くと、大分昔に放棄された茶畑の所で道は右に曲がっていた。
そこを曲がると「芹ヶ谷峠」と書れた標識のある分岐に出る。
(直進する道は送電線の点検路で、どうやら小野薬師寺の裏に出る道のようだ)

     
      コース上唯一の標識

標識を右折すると道は登りになり、すぐ送電線の鉄塔に出る。さらに登って行くと標高307mの芹ヶ谷峠に
到着する。視界も効かない林の中の峠だが気になる物が幾つもあった。

     

何なのだろう? 新興宗教なのか? 姓名判断の宣伝なの? 少々薄気味悪く感じる物だった。

     

芹ヶ谷峠からは道は下りになるが、相変わらずの林の中の道で視界は効かない。だが林が途切れると
視界は開け、正面には徳願寺尾根の梵天山等が見えてくる。更に進み畑や展望用(?)小屋の辺りまで
来ると静岡市街も一望できるようになった。
注意:最初に歩いた5月3日は林から畑までは、何の疑問も不安も感じず歩いたが、次の5月27日に歩い
た時は、林を出て畑までの区間の内の10m位に雑草が生い茂り、どこが道なのか分からない状態だった。
初めて芹ヶ谷峠に行くときは、雑草が消える11月~4月頃歩いた方のが無難です)


     
      蛇を踏まないかな?

小屋を過ぎ農道への取付口を下れば、芹ヶ谷口から登ってくる農道に合流する。だが朝鮮岩から来た
時は自然に農道に出るが、下から登ってきた時は、この畑の取付口を見落としやすい。
目印は、農道左の取付口上にある送電線の点検路の標識と、小屋も見えている。

     
      山道と農道の合流部

農道に出たら後は下るだけだが、農道が芹が谷方面と二軒屋方面に分岐している地点から眺める景色は
素晴らしく雄大だった。私の個人的な感想では、富士山と静岡市街の眺めは大崩山塊の中でも一、二を
競う眺めだと思う。



分岐点は右の急な下りの農道が芹が谷、左を行けば二軒屋の旧東海道に出る。
時間に余裕があれば徳願寺尾根を眺めながら二軒屋に下り、丸子城跡へ行くのも良いだろう。

右の急な下りの農道を10分も歩けば丸子川に架かる沢川下橋に出て、橋を渡れば遊歩道に出る。

     
      丸子川遊歩道より(広場の手前左に沢川下橋がある)

牧の原・倉沢の棚田

2013-06-11 09:49:11 | ウォーキング
お久しぶりです。
先日自分のブログを開いてみたら表示パタ-ンが変わってしまっていた。
編集画面にログインすると「2ヶ月間更新が無いため表示パターンを基本に戻します」マーそんな事が書いてあった。
では、このまま更新しないでいると、このブログは削除されてしまうのだろうか?
今削除されてしまうとブログの中には見たいデータがあるので困ってしまう。

そこでHPの区切りがつくまで、月に数回更新していく事にしました。
以前のようにダラダラ長いだけの観歩記ではなく報告だけの物になりますが。

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牧の原台地の西の登り口にある倉沢の棚田に2回歩いてきました。
1回目(5/31)は大井川に架かる島田大橋からお茶の郷に行き、茶畑の中を横断して棚田に行き
帰りは静岡空港に向かい、途中から初めての道を適当に歩いて矢口橋に出る31kの行程でした。

2回目(6/6)は知人と行き、金谷駅からお茶の郷に向かい、そこからは1回目と同じコースで棚田に向かい、
帰りは菊川間の宿・旧東海道の石畳と歩いて金谷駅に戻る12kのコースでした。

棚田の状態は5/31は棚田の中ほどから下の田植は終わり、上の小さな棚田水を入れた状態でした。
6/6の2回目は既に全ての棚田の田植は終わっていましたが、稲の苗はまだ小さかったので良い眺めでした。
矢張り棚田は田圃に水が入った状態から、苗が小さく水面が見える頃が一番だと思います。

そんな訳で今年の見頃もそろそろ終わりではないかと思います。若し来年行く予定のある人は
6月1日の一週間前後がベターと思います。

写真の1枚は棚田で写生をしていた人の許可を貰って写しました。100号の大判だそうです。

    
    倉沢の棚田(2013/5/31)

    
    倉沢の棚田(2013/5/31)