歩行記録 H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分 休憩時間:2時間00分 延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分 到着時刻:16時10分
歩 数: 36、270歩(推定距離27.2km) GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
29番 0:45> 34番・33番・32番・31番・30番 0:05> 大井BS
32番 宝乗院(忘れました)
宝乗院山門 弘法堂
32番宝乗院(ほうじょういん)は31番の県道を挟んだ前にあった。
困ったなぁ、一度に何ヵ所も回ったので記憶が薄れて写真を見てみても何も思い出せない。その写真の枚数も極端に少なかった。
覚えているのは境内に金毘羅宮が祀ってあったくらい。漁港が近いから海上安全の守り神の金毘羅さんは、漁業関係者の信仰を
集めているのだろうと思った。
それとここで31番のご朱印を貰うようになっていた。以上 ご免なさい。
31番 利生院(波切不動)
利生院の山門 波切不動案内板
32番と小道を挟んだ向かい側に31番利生院(りしょういん)の朱色の山門が建っていて、門の脇には “御納経朱印は32番
宝乗院で” と書かれている。一見するとこちらの利生院の方が大きいように見えるが無住なのだろうか。
本堂の横の案内板に波切不動の絵と説明文が書かれていた。空海が唐に渡るとき嵐に巻き込まれたが、空海が不動明王を
念じると不動明王が現れて降魔の剣を振って波を切り鎮め、無事唐に渡る事が出来たと書いてある。
ならば不動明王は航海のでもあるので漁港に近いこの地に祀れていて当然だろう。これで航海安全の神の金毘羅さんと
お不動さんが揃った事になる。
だが案内文を読んでいて頭の隅に引っ掛かった所があった。それはここの案内では波切不動が現れたのは空海が唐に入る
時となっているが、今月歩いた藤枝四不動の中の一つビク石不動には、空海が修行を終え日本に帰る際に海で嵐に襲われて
波切地蔵に助けられたとなっていた。 果たしてどちらが正しいか。
ネットで検索すると行きも帰りもあるが、回数の多い方は “帰朝の際に波切不動が現れた ”という説の方が多かった。
普通に考えても空海は日本から唐に修行に行ったのだから、その修行の前に念じて波切地蔵を出現させるのは無理がある。
やはり修行が終わった後での出来事とした方が無理がない様に感じるが。
弘法堂 小坊主
白い鉄筋作りの弘法堂は山門の赤門に対比させたのだろうか。
ここには 「弘法様の一年お守り」 と呼ぶ木片のお守りがあるが、効力は1年限りだそうです。
日を限って祈願すると願いが叶えられる 「日限地蔵」 はよくあるが、 「年限弘法」 ?は初めて聞いた。
境内の一角に木魚に寄りかかり居眠りをしている子坊主の新しい石像があった。
まてよ無住の寺にこんな新しい石像を建てるだろうか?
30番 医王寺(真向)
医王寺本堂
いよいよ大井五ヶ寺の最後の札所で本寺でもある医王寺を参拝する。
医王寺のご本尊の薬師如来は行基の作で、行基はこの地の仏山(現在医王寺の裏山付近)に医王寺を建立し、薬師如来を
安置したのが始まりとされる。
それから90年経った弘仁5年(814年)、空海が東国巡錫の途中、知多半島聖崎より知多郡に渡り、仏山で巡錫の歩を留め、
21日間の護摩修行を修し、興廃していた伽藍を再興されたと伝えられている。 当時再建された塔頭は十二坊あったが、
その後、仏山の伽藍は火事で焼失し、仏山からこの地に移り、再建された時は一山四坊になったという。
現在の医王寺の裏山あたりが仏平だったとの記述に興味を覚え、地図で確認したが仏平は無かったが面白い事に気付いた。
医王寺のある場所の地名は 「真向(まむき)」 と呼ぶが、“まむき” とは “まむかい” の事だらう。
でも何に対しての真向いなのか ・・・・
地図の医王寺から東を見ると弘法大師が上陸した聖崎になる。更にその岬の先端には弘法大師が立つ 「上陸大師」 もある。
この事から医王寺と上陸大師の方向は真東でもあり真西になるので、地名が真向になったのではないか。
そんな話はどこにも書いてなかったが ・・・・・・・・
本山の割には山門は無かったが真新しい本堂が正面に立っていた。事前調べで見た医王寺はどの建物も古くて今にも倒れ
そうな感じだったので建替えをしたのだろう。古くて倒れてしっまのでは困るが、余り新しすぎるの風情がないものだ。
西国33観音石仏 本堂内部
医王寺のご朱印はすでに押して貰ってあるので不都合はないが、ここは本山でありながら無住でした。手持ち資料を見ると
知多四国の霊場で電話番号が記載されていない札所は医王寺だけだった。すると先程お詣りして、無住だったと思った赤門の
利生院は、無住ではなかったことになる。失礼な事を書いてしまい申し分けありませんでした。
かってはこのような護摩修行を洞窟があったとか (コピー)
ここ医王寺には弘法大師が護摩修行をした洞窟があると書いたブログもあったので探したが見つからなかった。
家に戻り再度洞窟を探すと 「2010年9月20日、裏山の崖崩れ防止工事が完了後、洞窟はなくなった。」 そうです。
大井バス停と上陸大師の聖崎方面
医王寺前の小路を通り国道に抜けるとき、地元に人に弘法大師が上陸をした聖崎の 「上陸大師」 の場所を聞くと
「少し離れているから車で案内するよ」 と言われた。こういうお接待は嬉しいけど内心は困ってしまう。
“遍路とは歩くものなり” とか “遍路とは迷うものなり” を標榜としている私としては丁重にお断りするしかない。
「じゃぁ、場所だけ教えるよ」 と一緒に国道際まで行き教えてもらいました。
場所は知多半島で初めて海を見た時に見えた大きな建物の近くだった。
本来なら今回半島先端の師崎まで歩く予定だったが、体調を懸念して島泊りを止めたので、ここが今日のゴールになる。
歩行距離はまだ25km程度だが時間は既に4時を回っていた。
今日の遍路は最初から間違いの連続で、最後は考えられない間違いもしてしまった。距離を短くしたので気の緩みもあったのか。
次回からはもっと緊張感を持って歩かなければと、反省しきりでした。
31番医王寺から大井バス停への道
歩行時間:5時間40分 休憩時間:2時間00分 延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分 到着時刻:16時10分
歩 数: 36、270歩(推定距離27.2km) GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
29番 0:45> 34番・33番・32番・31番・30番 0:05> 大井BS
32番 宝乗院(忘れました)
宝乗院山門 弘法堂
32番宝乗院(ほうじょういん)は31番の県道を挟んだ前にあった。
困ったなぁ、一度に何ヵ所も回ったので記憶が薄れて写真を見てみても何も思い出せない。その写真の枚数も極端に少なかった。
覚えているのは境内に金毘羅宮が祀ってあったくらい。漁港が近いから海上安全の守り神の金毘羅さんは、漁業関係者の信仰を
集めているのだろうと思った。
それとここで31番のご朱印を貰うようになっていた。以上 ご免なさい。
31番 利生院(波切不動)
利生院の山門 波切不動案内板
32番と小道を挟んだ向かい側に31番利生院(りしょういん)の朱色の山門が建っていて、門の脇には “御納経朱印は32番
宝乗院で” と書かれている。一見するとこちらの利生院の方が大きいように見えるが無住なのだろうか。
本堂の横の案内板に波切不動の絵と説明文が書かれていた。空海が唐に渡るとき嵐に巻き込まれたが、空海が不動明王を
念じると不動明王が現れて降魔の剣を振って波を切り鎮め、無事唐に渡る事が出来たと書いてある。
ならば不動明王は航海のでもあるので漁港に近いこの地に祀れていて当然だろう。これで航海安全の神の金毘羅さんと
お不動さんが揃った事になる。
だが案内文を読んでいて頭の隅に引っ掛かった所があった。それはここの案内では波切不動が現れたのは空海が唐に入る
時となっているが、今月歩いた藤枝四不動の中の一つビク石不動には、空海が修行を終え日本に帰る際に海で嵐に襲われて
波切地蔵に助けられたとなっていた。 果たしてどちらが正しいか。
ネットで検索すると行きも帰りもあるが、回数の多い方は “帰朝の際に波切不動が現れた ”という説の方が多かった。
普通に考えても空海は日本から唐に修行に行ったのだから、その修行の前に念じて波切地蔵を出現させるのは無理がある。
やはり修行が終わった後での出来事とした方が無理がない様に感じるが。
弘法堂 小坊主
白い鉄筋作りの弘法堂は山門の赤門に対比させたのだろうか。
ここには 「弘法様の一年お守り」 と呼ぶ木片のお守りがあるが、効力は1年限りだそうです。
日を限って祈願すると願いが叶えられる 「日限地蔵」 はよくあるが、 「年限弘法」 ?は初めて聞いた。
境内の一角に木魚に寄りかかり居眠りをしている子坊主の新しい石像があった。
まてよ無住の寺にこんな新しい石像を建てるだろうか?
30番 医王寺(真向)
医王寺本堂
いよいよ大井五ヶ寺の最後の札所で本寺でもある医王寺を参拝する。
医王寺のご本尊の薬師如来は行基の作で、行基はこの地の仏山(現在医王寺の裏山付近)に医王寺を建立し、薬師如来を
安置したのが始まりとされる。
それから90年経った弘仁5年(814年)、空海が東国巡錫の途中、知多半島聖崎より知多郡に渡り、仏山で巡錫の歩を留め、
21日間の護摩修行を修し、興廃していた伽藍を再興されたと伝えられている。 当時再建された塔頭は十二坊あったが、
その後、仏山の伽藍は火事で焼失し、仏山からこの地に移り、再建された時は一山四坊になったという。
現在の医王寺の裏山あたりが仏平だったとの記述に興味を覚え、地図で確認したが仏平は無かったが面白い事に気付いた。
医王寺のある場所の地名は 「真向(まむき)」 と呼ぶが、“まむき” とは “まむかい” の事だらう。
でも何に対しての真向いなのか ・・・・
地図の医王寺から東を見ると弘法大師が上陸した聖崎になる。更にその岬の先端には弘法大師が立つ 「上陸大師」 もある。
この事から医王寺と上陸大師の方向は真東でもあり真西になるので、地名が真向になったのではないか。
そんな話はどこにも書いてなかったが ・・・・・・・・
本山の割には山門は無かったが真新しい本堂が正面に立っていた。事前調べで見た医王寺はどの建物も古くて今にも倒れ
そうな感じだったので建替えをしたのだろう。古くて倒れてしっまのでは困るが、余り新しすぎるの風情がないものだ。
西国33観音石仏 本堂内部
医王寺のご朱印はすでに押して貰ってあるので不都合はないが、ここは本山でありながら無住でした。手持ち資料を見ると
知多四国の霊場で電話番号が記載されていない札所は医王寺だけだった。すると先程お詣りして、無住だったと思った赤門の
利生院は、無住ではなかったことになる。失礼な事を書いてしまい申し分けありませんでした。
かってはこのような護摩修行を洞窟があったとか (コピー)
ここ医王寺には弘法大師が護摩修行をした洞窟があると書いたブログもあったので探したが見つからなかった。
家に戻り再度洞窟を探すと 「2010年9月20日、裏山の崖崩れ防止工事が完了後、洞窟はなくなった。」 そうです。
大井バス停と上陸大師の聖崎方面
医王寺前の小路を通り国道に抜けるとき、地元に人に弘法大師が上陸をした聖崎の 「上陸大師」 の場所を聞くと
「少し離れているから車で案内するよ」 と言われた。こういうお接待は嬉しいけど内心は困ってしまう。
“遍路とは歩くものなり” とか “遍路とは迷うものなり” を標榜としている私としては丁重にお断りするしかない。
「じゃぁ、場所だけ教えるよ」 と一緒に国道際まで行き教えてもらいました。
場所は知多半島で初めて海を見た時に見えた大きな建物の近くだった。
本来なら今回半島先端の師崎まで歩く予定だったが、体調を懸念して島泊りを止めたので、ここが今日のゴールになる。
歩行距離はまだ25km程度だが時間は既に4時を回っていた。
今日の遍路は最初から間違いの連続で、最後は考えられない間違いもしてしまった。距離を短くしたので気の緩みもあったのか。
次回からはもっと緊張感を持って歩かなければと、反省しきりでした。
31番医王寺から大井バス停への道