はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

知多四国番外海蔵寺

2015-09-30 10:09:11 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-8(土)
歩行時間:6時間05分   休憩時間:1時間45分   延時間:7時間50分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時20分
歩  数: 33、879歩(推定距離25.4km)    GPS距離24.2km
行程表
亀崎駅 0:35> 12番 0:35> 13番 0:05> 14番 0:20> 15番 0:30> 17番 0:05> 16番 0:45> 番外 0:15> 18番
  0:20> 19番 0:10> 20番 1:30> 21番 0:40> 22番 0:05> 23番 0:10> 武豊駅

                                  番外海蔵寺(49度)

 
                 温度計                                    海蔵寺境内

 次の番外海蔵寺(かいぞうじ)は、平泉寺から真っ直ぐ南下しアピタの手前の川を左折して線路を渡る。と、地図はなっていた。
だが川の手前まで行くと東西に延びる道はあるのだが、いずれもガードレールで塞がれていた。ただガードレールの先には草の
影から舗装面が見えている。なら車だけが通行止かとも思うが、その先の線路には踏切らしき物は見えない。
更に線路の手前には高いフェンスが見えているので、とてもじゃないがフェンスを越してまで線路を渡る勇気は無い。仕方なく
今来た道を引き返すしかなかった。
後で分かった事だが、この辺りに前回紹介した 「唐松の井戸」 があったようだ。先に知っていればと残念な思いをしている。
 
 私の印刷してきた地図は、YAHOO!の地図からスタートとゴールに札所を指定して、徒歩のルートを検索したものを印刷して
きている。これが中々の優れ物で、今迄も知らない道のウォーキングや遍路には利用してきたが、まず間違いはなかった。
しかも徒歩で指定してあるので、車の入れない道も探し出してくれ距離も大幅に短縮になる。
この地図さえれば日本中の知らない道でも歩く事ができると信頼していた。
それが今回のように踏切の無くて歩けない道を指定してあるなんて初めての事だ。踏切は最近廃止したのだろうか?

 今日のコースでこの16番と地蔵寺間は、距離が一番長くて時間も丁度昼頃だった事もあり暑くて仕方なかった。
ようよう海蔵寺に着いて先ずは水をガブガブと飲む。すると汗がドット吹きだし、タオルで何度拭ってもキリが無かった。
一体今の気温は何度だろうと背中の温度計を見てみると。  嘘か真か 49度 を指していた。
これは証拠写真を撮らなければとGPSの距離計と一緒に写しておきました。

でも49度ですよ。49度! 風呂の温度より高い。そんな中を何kも何時間も歩くなんて正気な沙汰ではない。
また前回のように熱が出て寝込んでしまうのではないか不安も感じる。ウーンこの先どうしよう?
止めるか、続けるか。ここが思案のしどころだ。と、思うものの、暑くはあるが体には異変は起きていない。
歩いた距離もまだ15kmに過ぎない。
 2回目の今回は前回に懲りてゴールも予定より短くし、途中からでも中止できるよう各札所からの駅への道も調べてきてある。
まだ大丈夫! もう少し様子を見ながら歩く事にしよう。
(49度の温度計が狂っているのではないかと思い、家で別の温度計と並べておいたのだが異常はなかった)

 海蔵寺も白っぽい境内の広い寺で片隅には大きな宝篋印塔も建っていた。何を誰を祀ってあるのか分からないが中々立派だ。
海蔵寺の所在地は阿久比町から半田市になっていた。そのため阿久比町の札所にはあった案内板は、ここ半田市の海蔵寺には
無かった。案内板があれば興味のある話を読めたのに ------

 
                 薬師・弘法堂                       「この寺に大師法来の法衣あり」の石碑

 薬師如来と弘法大師を祀ってあったお堂は薬師堂だったか弘法堂だったか忘れてしまったが、そのお堂の前には 「この寺に
大師法来の法衣あり」
と刻まれた石碑が建っていた。この謂れは海蔵寺第2世は神通力を備えた和尚で、遠く離れた高野山で
大火が発生するのを予知して、未然に防いだ威徳により高野山から「蓮糸の法衣」 を賜った逸話だという。

 第2世の和尚は神通力のある人で、遠く離れた高野山で大火が発生するのを神通力で予知され祈祷して庭に散水し、その
大火を未然に防いだという伝説があります。その威徳で高野山から贈られた「蓮糸の法衣」が寺の宝になっているそうです。
その法衣は今でも寺宝として海蔵寺に収納されているらしい。

 この石碑にある大師とは誰を指すのか。高野山の火事を防いだお礼なのだから当然真言宗の大師と云う事になる。
だが海蔵寺の開創は1489年なのに真言宗の大師7人の全ては1200年以前の人だった。
そうか 高野山即ち弘法大師と解釈させて、高野山から授与する物は全て弘法大師が授与した事にしているのか。
よって “大師法来” とは “弘法大師法来” となるのだろう。そのためか寺宝ではあるが市の文化財にも指定されていなかった。

 
                 弘法大師                                 薬師如来

 お堂の中には弘法大師が祀られていて、その前には 「知多四国」「直伝弘法」 の二つの霊場の幟が立っていた。
その横には薬師如来も祀られていて 「東海薬師霊場」 の立看板が掲げられていた。
一つの寺で三つの霊場の札所なのだろう。

 ところでこの海蔵寺の宗派は “蓮糸の法衣” から云っても真言宗と思いますよね。しかし現在は曹洞宗でした。
日本の寺の宗派は分かりにくいですね。

 お詣りが終わったが、まだまだ余力はあり遍路を続けることにした。

                            16番から番外海蔵寺への道

知多四国16番平泉寺

2015-09-29 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-8(土)
歩行時間:6時間05分   休憩時間:1時間45分   延時間:7時間50分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時20分
歩  数: 33、879歩(推定距離25.4km)    GPS距離24.2km
行程表
亀崎駅 0:35> 12番 0:35> 13番 0:05> 14番 0:20> 15番 0:30> 17番 0:05> 16番 0:45> 番外 0:15> 18番
  0:20> 19番 0:10> 20番 1:30> 21番 0:40> 22番 0:05> 23番 0:10> 武豊駅

                                  16番平泉寺(創建説)

 
                    平泉寺                               平泉寺弘法堂

 16番平泉寺の読み方は「へいせんじ」だそうだ。変わった読み方なので謂れがあるかと阿久比町の案内板を見るが、特に
それに付いては書かれていなかったが、町のHPにはこんな話が紹介されていた。
 「平安時代、淳和天皇は吉鳥の鳳凰が何羽も尾張の国へ舞い降りた夢を見て、それを確認してくるように比叡山の僧に命じた。
僧は知多郡英比で、日照りが続き、田畑はおろか、飲み水も無く困っている村人に出会い水の無い井戸に祈祷を行った。すると
不思議なことに井戸から水が湧き出し、村人を飢渇から救ったと言われる。
僧は井戸の近くに天皇の霊夢に因んで、山号を鳳凰山と名付けた寺を創建した。平泉寺は千年を超える古刹である。」


案内板にはさらにこんな創建時の逸話も紹介していた。
 「かってこの地に邪鬼が棲んでいて人々を苦しめていた。その邪鬼を武勇に優れた英比丸(菅原道真の孫か)が、その邪鬼を
退治して地中深く埋め、再び出現しないようにと魔除けの柊(ひいらぎ)を植えたと言われる。ある夜、邪鬼を埋めた柊の下で僧が
野宿をされた時、夢の中に童子が苦しんでいる姿を見られ、翌朝、柊を倒して、その柊で仏像を刻み祀ったのが平泉寺の起こりで
あると言われている。」

成程と云いたいところだが、これでは創建にまつわる逸話が二つになってしまう。どちらの話も千年を超す前の話なのだが、前者の
鳳凰説の井戸は現在も 「唐松の井戸」 として残っているという。それなら山号の “鳳凰山” の話もあるので軍配は前者に挙げたい。

 これで寺の謂れは分かったが、平泉寺の名の起こりと “へいせいじ” の読みは依然不明だ。後は勝手に空想するしかない。
 「井戸から湧き出した水は、近くの平地に徐々に溜まってやがて泉になった。喜んだ村人は泉を “平泉(ひらいずみ)” と呼ぶように
なったが、水を湧き出してくれた僧が 『私は今から1185年後のへいせいの時代に再びこの地を訪れるので、それまでこの井戸を
大事にしなさい』 と云って姿を消した。それ以来村人は泉を “へいせい” と呼び、近くに “へいせいじ” を建て井戸を守ってきた。」

 そしてそれから1185年後の平成27年。この地を訪れた男は井戸を探し当てずにウロウロするだけでした。

 千年を超える古刹らしいが平泉寺の境内は、明るく広々としていたが案内板以外には特に目を引くものは無かった。
ご朱印を受けているときリュックを背負った歩き遍路らしき人が納経所に来たので、何処から歩いて来たのか聞くと、この先の
阿久比駅だと言う。今日は暑いのでここで終えるとの事だった。
私が亀崎駅から歩いて来たと言うと驚いていたが、まだここまで12km程度しか歩いていない。そんな驚かれるような事ではない。

                                 17番から16番平泉寺への道

知多四国17番観音寺

2015-09-28 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-8(土)
歩行時間:6時間05分   休憩時間:1時間45分   延時間:7時間50分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時20分
歩  数: 33、879歩(推定距離25.4km)    GPS距離24.2km
行程表
亀崎駅 0:35> 12番 0:35> 13番 0:05> 14番 0:20> 15番 0:30> 17番 0:05> 16番 0:45> 番外 0:15> 18番
  0:20> 19番 0:10> 20番 1:30> 21番 0:40> 22番 0:05> 23番 0:10> 武豊駅

                              17番観音寺(寺名の読み方)

 
                観音寺本堂                                山門への階段

 札所の順に回るなら次は16番だが、次の次の18番の場所を見ると15番の次に17番観音寺(かんのんじ)を先に打ってから、
16、18番と回った方が、距離が短くて済む。そこで17番を先に打つことにしたが、実はこれが最終日に禍根を残す事になった。
 15番から県道55号に戻りその道を南下していくと 「城街道」 の交差点に出た。ここ阿久比には於大の方が再婚して住んだ久
松家の居城があるので、その城に続く街道なのだろう。
この城には徳川家康が桶狭間の戦いの折、母親の於大の方と対面するために訪れている。今川の武将である家康が戦の最中に
何故が織田側の城に来ることができたのか疑問だが、城主の於大の夫が、余り戦いを好まない日和見主義だったのではないか。
そのため妻の子である家康の部下にもなるし、久松の名を捨て松平を名乗るのも抵抗なかったのだろう。
尤もそのお蔭で彼の子孫は繁栄し現在まで続いている。

 交差点から城址らしき物は分からなかったが、少し行くと現代の城とも云えそうな建物が建設中だった。この大掛かりな工事は
阿久比町役場の建て替え中で、完成後は町内一の建物になりそうな様子だ。
役場を過ぎ阿久比駅前を右折すると山手の静かな道になる。矢張り歩くには車の多い車道より鄙びた道の方が歩きやすい。
その道から更に細い道に入りそろそろ札所が有る筈だと思ったら、タイミング良く観音寺駐車場の看板があった。自然とその道に
向かったが、結局遠回りになってしまった。高台で駐車場が寺と離れていた為だが、地図だけ見ていればこんな目にあわなかった。

 寺号は似た名前が多いが、観音寺も前回打った10番や最後に回る86番も同じ観音寺だ。
この観音寺は読み方が 「かんのんじ」「かんおんじ」 の2種類があるが、知多四国霊場は三寺とも 「かんのんじ」 だった。
だが、以前歩いた四国霊場の2軒の観音寺は、どちらも 「かんおんじ」 だった記憶がある。
そこで四国霊場の公式HPで再確認すると、なんとチョンボを見つけてしまった。
四国霊場の69番観音寺は一覧表も本文ともに “かんおんじ” になっているが、阿波にある16番札所観音寺は一覧表では
“かんのんじ
” で 本文では “かんおんじ” になっていた。

 この “かんおん” と “かんのん” の読み方の違いは、ウィキペディアによれば
 『日本語の 「カンノン」 は「 観音」 の呉音読みであり、連声によって 「オン 」が 「ノン」 になったものである 』

となっているがよく分からない。更に“呉音読” も “連声” も???だった。さらに調べて
  『漢字音(音読み)が 「ん」 で終わり、次に母音で始まる漢字が続くと、その漢字が 「な行」 に変化する。
例 ・「銀杏」 ぎん+あん → ぎんなん  ・「観音」 かん+おん → かんのん  ・「云々」 うん+うん → うんぬん 』

これで何となく理解できた。この使い方は頭で考えると複雑だが、実生活では結構無意識に使っている。
今日も歩いていて 「感応式」 の信号にたびたび出合った。これも普通なら “かんおうしき” だが、頭は自然に
“感応式” と読んでいる。これが日本語の難しいところで、日本語を習慣で覚えた日本人は読み分けが出来ても、頭で覚えた
外国人は難しいだろう。そうそうこれに類した言葉に、1本(いっぽん)、2本(にほん)、3本(さんぼん)がある。
これは日本人なら幼稚園の子供でも言えるが、外国人はどうだろう。一度聞いてみたいものだ。

 グジャグジャ書いたけど、要は今では 「な行」 に変化するのが一般的なのだから、振り仮名が無ければ 「かんのん」
読んだほうが正解だろう。
と言いながらも気になって知多四国の公式HPで確認すると、残念ながらルビが振ってなかった。
かんのん でも かんおん でもかまわないが、玄猷寺とか葦航寺など読めない名前もあるので、矢張りルビは振って欲しい。

 観音寺には裏から入る事になってしまい、では山門は何処だと参道の階段を見ると、下りでのありそうな階段だった。
帰りに行こうと思ったが次の16番への道は今来た道を戻るようになっている。しかも納経の時に16番への道を確認すると、
寺の裏から行った方のが近くて分かりやすいと言う。では仕方ない。と、これ幸いとばかり山門に下る階段は歩かなかった。

 阿久比町の案内板によると観音寺前身は1kmほど離れた所にあった観音堂で、昭和23年に観音寺に寺号は変わったが、
観音堂の時代から知多四国の札所であったそうだ。

                            15番から17番観音寺への道

藤枝四不動巡り-4

2015-09-27 10:00:00 | 低山歩き
歩行記録                                                          H27-9-21(月)
歩行時間:9時間50分   休憩時間:1時間45分   延時間:11時間35分
出発時刻:6時00分     到着時刻:17時35分
歩  数: 55、110歩(推定距離41.3km)    GPS距離39.2km
行程表
藤枝駅 1:20> 清水不動 0:05>  清水寺 1:35> 西方八幡宮 0:20> 大沢不動 0:05> 上大沢 1:00> びく石山頂
 0:35> びく石不動 0:10> 県道合流 0:35> 陶芸センタ 1:30> 滝沢不動 0:35> 中山 2:00> 藤枝駅

                                     滝沢不動
 
                落ちていた栗                                  収穫した栗

 びく石ふれあい広場の案内に 「市民の森 ここから40分」 とあったが、市民の森とは山頂広場の事らしい。ならここから40分で
山頂と云う事になるが、私はここまで40分以上かかって下って来た。勿論お不動さんの参詣時間は抜いてある。
私が下りで40分かかったのに、登り坂オンリーの道を同じ40分で行く? どうもびく石のコースタイムは納得がいかないな。

 県道を下りながらこれから越す西(右)側の山を見るが、峠になりそうな低い鞍部は見えない。まさか峠越えでなく山越えか。
その山越えの開始地点となる、玉田橋右岸にある藤枝陶芸センタ横の農道に行く標識があり、それには滝ノ谷と高尾山を2段に
書き、その横に4.5kmと書いてある。これは滝ノ谷、高尾山はそれぞれ同じ4.5kmと云う事なのか。チョット分からない。
まさか高尾山経由滝ノ谷て事は無いだろうな、と気になってきた。
それにこの農道がどこまで続いているかも気になる。山道になった後の道が果たしてどんな状態か・・・・・・
初めての道は何でも気になってしまう私は、気弱な性格です。

 上大沢で住居不法侵入+窃盗罪の邪な犯罪を犯さなかった事で、お不動さんは褒美を支度してくれていた。
車も人も通らない農道横の栗の木の下に栗が何個か落ちていた。勿論喜んで頂きました。
だがこれは取得物横領罪になるのかしら。

 
                 烏帽子形山                               びく石(石谷山)

 鞍部らしき所は見えず農道は上に上にと続いている。時折視界が開けると前方に烏帽子形山らしき山が見えている。
その下に見える集落は本郷辺りだろうか。それにしても県道から随分登って来たもんだ。
 後ろに見える中央の山は今下って来たびく石だろう。びく石の標高は526mとあったが、この辺りは300mはあるかもしれない。
家に戻ってから標高を調べると、登り始めた玉田橋は124m、農道の最高点は330m位、農道終点の滝ノ谷は150mでした。
その標高差は200m程度ですから、上りがきついと云っても実際は大した事は無かったのでしょう。
しかし既に20km以上歩いて来た身にはかなり応えた登りでした。

 
               廃茶畑の桧植林                              高尾山・滝ノ谷分岐

 しっかりした農道の割には畑が少ないと感じた農道の横に、茶畑の間に桧を植林した場所があった。茶の木はまだ若い感じで
老木になったので廃園にした感じではない。きっと手間暇の掛かる茶畑を止めて、手間のかからない植林に変更したのだろう。
それにしても無用の長物となった茶の木をそのままにして、桧を植林してあるのは初めて見た。これで木が成長すると地面に陽が
当らなくなり茶の木は枯れるのかしら。マー枯れなくても成長は止まるだろう。
この方法なら茶の木を抜く手間が無いので良い方法かもしれない。今、殆どの茶の廃園は茶ノ木が野放図に育ち、手が付けられ
なくなった所が多いのだから、この方法で上手く行くなら一石二鳥になる。

 高尾山と滝ノ谷の分岐の標識に、高尾山2.4km、陶芸センタ2.1kmとあった。だが滝の谷の距離は書いてない。となると陶芸
センタの所の標識にあった4.5kmは、陶芸センタ~高尾山だったと、ここまで来てやっと分かった。
高尾山に行く道は入口にガードレ-ルだけはあったが、すぐ細い山道になっていた。

 
                 展望広場?                               憩いの広場

 自然石ではない岩を組み合わせたオブジェと四阿が出てきた。どうやら不動峡に近づいてきたようだが、ここは何だろう?
駐車場まであるのだから何か意味が有る筈だと思ったが分からなかった。
後で見た憩いの広場の案内板には、四阿の所は 「展望広場」 とあったが、あそこから辺りが見えたかしら???

 四阿を過ぎると農道は不動峡への道と合流した。結局陶芸センタから不動峡までの間には山道は無く全て舗装された農道で、
雑草や蛇の心配をしていた私の不安は、全て杞憂で終わった。
 合流点から少し下流の広場に 「不動峡 山の市 ふれあいの広場」 と看板を掲げた建物が建っていた。多分休日だけ開く農作
物等の直売所なのだろう。マテヨ? 休日だけって云っても今日だって休日だ。それに時間はまだ3時前だ。なのに開いてない。
一体いつ開くのだろう? 紅葉の時季だけなのか?

 ここまで来た農道を歩いていて、この農道を開通するのに幾らの費用が掛かったのかと考えた。農道の周辺にはミカン畑も
茶畑も少く、そこで収穫した作物に農道開通の費用を上乗せしたら、とんでもない金額になって、とても商品にはならない。
この山の市も個人経営ならとうに潰れていただろう。農村振興もよいが、もっと費用対効果を考えないと税金の無駄遣いに
なってしまう。オットまた始まってしまった。今日は煩悩を失くすために不動巡りをしているのに。

     
                                 滝ノ谷不動峡磨崖仏

 まだ3時前だったが谷は狭く木が生い茂っているため暗くて不動明王の磨崖仏がハッキリ見えない。それでも最近のカメラは
優秀だからと写したが、所詮はこの程度でした。
そこで以前何かの冊子に掲載されていた磨崖仏の写真を切り抜いてあったのでスキャンしてしまいました。

       
                               滝ノ谷不動峡磨崖仏

 不動峡には明治の頃から不動明王が祀られていて、昭和12年にはセメントの像も建てられた。現在の磨崖仏は
昭和64年に開眼供養された日本最大級の磨崖仏で、高さ10m 幅7mもあります。
磨崖仏の頭上に小さな置物のように見える物は、磨崖仏の原型だった不動明王のブロンズ像です。
 磨崖仏の右下にも立像の不動明王が見えているが、これが昭和12年のセメント製不動明王なのだろうか?
しかしそれにしては火焔の部分に赤い塗料も残っているし、索状や剣、顔、着物、足と全てが崩れている気配がない。
これが約80年前のセメント製ならボロボロした感じで、みすぼらしい不動明王になっていると思う。
ではこの像は? と思っても調べようがなかった。

 現地で磨崖仏の不動明王を見ている時は、てっきり立像だと思っていたが実際は座像だそうです。そう云われて写真を見直し
ても立像にしか見えない。本当に座像なのだろうか。

    
             不動峡1                                不動峡2

 不動峡の渓谷も大沢峡と同じように 「峡」 と云うのが少々恥ずかしいくなる峡谷だ。でもここが紅葉で名高い不動峡です。
今はまだ紅葉の雰囲気は微塵も無いが、11月も中旬下旬になればモミジもあるので色付きそうです。

 不動峡を下った所で合流する県道は、毎年冬に歩く 「藤枝4山」(高尾山・笠張山・菩提山・椿山)のコースです。その県道を
更に下り合流する道は、びく石や双子山の帰りに何度も歩いている瀬戸川沿いの県道です。慣れた道ですが結構距離があり、
不動峡から藤枝駅までは12km余もありました。
結局藤枝駅に着いたのは5時35分で、想定していた最悪の時間より30分余も遅くなってしまった。原因は陶芸センタから
不動峡への山越えが思っていたより大変だった事。それと年々遅くなる脚のため全体的に時間が遅くなっているのでしょう。
ようは歳には勝てない。と云う事でしょうか。

 ブログを読んだ方で 「藤枝四不動巡り」 を歩きたくなった方はおりませんか。紅葉の季節に歩けば、今回よりもっと素晴らしい
景色を堪能できるかもしれません。是非歩いてみてください。

                            陶芸センタから滝ノ谷磨崖仏への道
 

                            滝ノ谷から藤枝駅までの道



藤枝四不動巡り-3

2015-09-26 10:00:00 | 低山歩き
歩行記録                                                          H27-9-21(月)
歩行時間:9時間50分   休憩時間:1時間45分   延時間:11時間35分
出発時刻:6時00分     到着時刻:17時35分
歩  数: 55、110歩(推定距離41.3km)    GPS距離39.2km
行程表
藤枝駅 1:20> 清水不動 0:05>  清水寺 1:35> 西方八幡宮 0:20> 大沢不動 0:05> 上大沢 1:00> びく石山頂
 0:35> びく石不動 0:10> 県道合流 0:35> 陶芸センタ 1:30> 滝沢不動 0:35> 中山 2:00> 藤枝駅

                                     びく石不動
 
                  上大沢集落                              登山口駐車場

 大沢不動から5分程で上大沢入口に着くと、川の土手の青い標識に 「葉梨川起点」 とあるのが目に入った。
この葉梨川を下って行くと、旧東海道を越した所で岡部を流れる朝比奈川と合流し、更に下って国道150号の所で、今度は
瀬戸川と合流して駿河湾に注いでいる。
この3本の川には、それぞれびく石の登山口があり、東から朝比奈川の岡部口、真ん中は葉梨川の大沢口、西は瀬戸川の瀬戸
ノ谷口の登山口があります。
中でも瀬戸川は、今朝もその土手を歩いて出発し、帰りも10kmほど土手を下る予定です。。

 びく石の登山口は、登山用駐車場横の今は無人の土物産屋の前の細い道を行く。上大沢集落のメインは車道を直進して行く
ようだが、そっちにはまだ行った事はない。

    
                           びく石ハイキングコース案内

 無人の土産物屋の壁にびく石ハイキングコースの案内があり、それにはここ上大沢からびく石には仙沢川(初心者)コースと
剣ヶ峰(中堅者)コースがあり、沢コースは40分、剣ヶ峰コースは60分となっていた。
剣ヶ峰コースは今年に入り2回歩いているので、今回は沢コースを歩こうと思っているが、まだ時間は10時前、これでは随分早い
ゴールになりそうで、こんな事なら清水山か花倉城跡に登って来るんだったと少々反省。

 細い舗装された道沿いに民家はあるが、その全ての家は無人だった。中には庭の栗の木にイガを付けた木も見えていた。
ウーン栗拾いをしたいな、と思うが庭の入口には虎テープが張ってある。これを越して敷地の中に入れば例え無人とはいえ住居
不法侵入になりかねない。そして栗を取れば窃盗罪も加わるのではないか。
今日は不動尊巡りをしているのだから邪な考えは捨てよう。と諦める私でした。

 
              剣ヶ峰コース分岐                              沢コース登山口

 無人の民家も終わり道が完全な寂れた農道状態になる頃、剣ヶ峰コースの分岐点に出た。登山道は小さな草に覆われていたが、
これなら歩くには支障は無さそうだ。それに剣ヶ峰コースは地蔵峠からは尾根道なので余り雑草の心配は無い。
 沢コースは更に簡易舗装の道を細い沢沿いに進む。途中 「ホタルの池」 の標識が有ったが、確かに蛍はいそうだが、夜ここまで
来る人は今はいないだろう。

 簡易舗装の道が終わり林の中に続く登山道に入る。ウワー早速蜘蛛巣が待ち構えていた。慌てて蜘蛛の巣払い用に杖を出す。
今日はこの杖は蜘蛛の巣払い用だけでなく蛇払いにも使う予定だ。
実は先日あるブログに蛇の写真と 「蝮は簡単には逃げないので誤って踏んでしまうと噛まれる恐れがある」 と出ていた。
蛇が苦手な私としては蛇と遭遇はしたくないが、さっきも道を横断する蛇を見たばかりだ。せめて雑草が深い所は、杖で草を払って
蛇を逃がしてから歩きたい、と思っている。尤もマムシは逃げないらしいが、遣らないよりはいいだろう。

 
               農道が見えた                              沢・尾根コース合流

 沢コースの道は初心者コースとあったが、所々道を探す必要があった。立派な標識もあるが、その間にせめてリボンのマークが
あと数ヵ所あれば初心者でも道の心配をしないで歩けると思う。
沢から離れ林の中の急な道を歩き出したが中々尾根道の合流点に着かない。上大沢の案内板には40分でびく石山頂とあったが
40分を過ぎても、山頂より下の合流部にさえ着かなかった。
今日は駅から上大沢まで約15kmを歩いて来ているので、疲れが出て初心者より遅いのかもしれないが変だなー?

 上大沢から50分を過ぎたころ上に標識が見えた。やっと合流かと思ったが標識は合流部の標識ではなかった。
今度は農道の一部が見える場所に出た。あの農道は山頂の農道だろう。なら山頂は近いと思ったが、駄目だ まだ合流部に着い
ていない。ジャーあの農道は何だろう? 何処に続く農道か? 新しい農道か? (家に戻ってから地図を見たが農道は無かった)
若しかすると今歩いている道は合流部に出ないで直接山頂に行く道かもしれないと疑問を感じだした頃、ようやく合流部に到着した。

 
     大崩山塊(丸子富士・満観峰・花沢山・高草山)                  ダイラボウ・後ろに竜爪

 結局びく石の山頂広場に着いたのは、初心者で40分で歩くところを1時間かけて到着した事になった。これは私の足が遅い
のか、それとも案内板の表示が早すぎるのか。
 こんなとき 「大人の遠足」 のあやさんのブログがあればハッキリするのだが。彼女なら足が速いので、案内が40分なら30分で
歩くだろう。今はそのブログが閉鎖されていて確認する事ができなくなってしまった。早く再開して欲しいな。

 山頂から富士山は見えていなかった。今日の予報は降水確率は低いが雲りあったので初めから富士山は期待していなかった。
見慣れた景色だが一応は写真を撮っておいた。

 
               びく石の巨岩                                びく石山頂

 びく石は今年中に岡部側の 「笹川八十八石ハイキングコース」 を登る予定だ。このコースは下りでは歩いた事はあるが、上りは
歩いた事がない。びく石の魅力の巨岩は山頂でも見られるが、岡部側から登れば更に色々な巨岩を見る事ができる。
何しろ88の石があるコースなのだから。そして下りは剣ヶ峰コースの地蔵峠から岡部に下る周回コースを歩く予定だ。

 山頂から不動尊には瀬戸川側の 「びく石ふれあい広場」 (旧びく石牧場)に行く道を下る。
途中で今日初めて登山者とすれ違ったが連休なのにやけに少ない感じだ。まだ暑いので登山は敬遠しているのだろうか。


                               びく石不動1

 「谷沢峡は、昔弘法大師が百谷の霊場を探し求めて訪れた際、こんこんと湧き出る霊泉をお授けになったところであります。
この弘法大師ゆかりの霊地谷沢峡に波切不動明王を奉安いたしました。
 波切不動明王とは、弘法大師が唐に留学しているとき阿闍梨から与えられた木材で、自分で彫刻した不動明王像で、大師が
帰国の途中で暴風雨に遭い、船が難破しそうになった時、その尊像に祈念すると不動明王が剣を振って波を切る形を示し、波が
静まり事なきを得た それによって波切不動と明王と呼ぶ。」


            
                                    びく石不動2

 森の中の大岩の上に立つ不動明王の立像は背景が合っているせいか威厳を感じさせていた。右手に持った剣には蛇が、
いや龍が巻きつき、足元には荒波が逆立っている。この波が波切不動の特徴なのだろう。
 案内板にはご利益は 「功徳 : 除災 開運求福自在 商売繁盛 家運隆盛 治病 怨敵 盗難 諸願成就するなり」 とある。
何でも有の仏さんだが、名前や謂れなどからいって 「航海の安全」 がメインだと思ったが、それは無かった。気になって調べると
 「始めは【波切不動明王】のご利益は航海安全が主でしたが、現在は、【諸願成就】に変わってきました。」とあった。
突っ込みを入れたい事のある案内板だが、今日のところは止めておこう。

                          上大沢からふれあい広場までの道
 
      

藤枝四不動巡り-2

2015-09-25 10:00:00 | 低山歩き
歩行記録                                                          H27-9-21(月)
歩行時間:9時間50分   休憩時間:1時間45分   延時間:11時間35分
出発時刻:6時00分     到着時刻:17時35分
歩  数: 55、110歩(推定距離41.3km)    GPS距離39.2km
行程表
藤枝駅 1:20> 清水不動 0:05>  清水寺 1:35> 西方八幡宮 0:20> 大沢不動 0:05> 上大沢 1:00> びく石山頂
 0:35> びく石不動 0:10> 県道合流 0:35> 陶芸センタ 1:30> 滝沢不動 0:35> 中山 2:00> 藤枝駅

                                     大沢不動

 
              清水寺の子授石(正面)                          清水寺の子授石(裏)
 
 清水不動から5分も歩くと真言宗音羽山清水寺の山門に続く階段に着く。実はこれと全く同じ寺が静岡市内にある。
静岡 真言宗  音羽山 清水寺 静岡市音羽町
藤枝 真言宗  音羽山 清水寺 藤枝市原 
         
更に京都の清水寺も比較すると
京都 北法相宗 音羽山 清水寺 京都市清水町 

 実は私の想像では3寺とも宗派山号寺号住所は全て同じだと考えていた。要は静岡と藤枝の清水寺は京都の清水寺を模した
寺だと思っていたのです。それが先ず宗派が違っていた。
京都の北法相宗(きたほっそうしゅう)はこの辺りには馴染みのない宗派で、若しかして真言宗と縁があるのかと調べたが真言宗
より古い宗派でした。
次に住所だが藤枝の清水寺の住所は “原” となっているが、今日歩いて来た山の麓の地名は “音羽町” でした。
現在の住所は “原” だが、これは区画整理などで音羽町から原に変更されたのか、それとも新興団地のような雰囲気のある
音羽町は、団地が出来たとき清水寺の山号を新しい地名にしたのだろうか。
 京都の清水寺は音羽山の山麓で開創したから “音羽山” になったのだそうです。
私の想像とは違っていたが、藤枝も静岡も京都の清水寺を模したには違いなく、これは日本の仏教は宗派間の境が低い事を
あらわしているのではないかと思います。

 「子授けの石 この石に祈願すれば、桃太郎のような健康名子宝が授かります。」  これを読んで、さてどちらが前なのか悩む
私は邪な煩悩から解放されていないようです。

           
                     清水山との分岐                           新東名

 清水寺を出るとすぐ分岐に出る。右は清水山へ登るハイキングコースで、左は助宗や花倉に下る道だ。
次に行く大沢不動はどちらの道を行っても行けるが、清水山経由だと眺めは良いが大分登らなければならない。さてどうしようと
一応思案はするが心は決まっていた。今日は先がハッキリしないので午前中に余計な体力は使いたくない。よって左の楽な道を
選択する。

 シルバーウィークなる連休の合間だが新東名は空いていて、上りも下りも同じようにガラガラの状態だ。
近くにある下り線のサービスエリアもトラックが数台停まっているだけで乗用車は見えなかった。
こんな状態を前都知事は見せたくないな。何故って? だってあの人が新東名に反対して大問題になり、最高時速は抑えられ
車線も減らされ開通も遅くなった経緯がある。当時の私は新東名建設には賛成で前都知事に反感を抱いていた。
マーそんな訳で新東名が空いていると心がザワザワしてしまう私です。

                
                 花倉八幡宮                  葉梨川沿いの彼岸花

 山を下りきった所は花倉集落で、ここから花倉城跡(山)に行けるのだが、ここも当然パスし葉梨川に向かう。この葉梨川を
遡って行くと途中に大沢不動のある大沢峡を経て、登山口の上大沢に出る。
 葉梨川の土手にも彼岸花が咲いていたが、ここには白い彼岸花は咲いていなかった。
途中にあった花倉八幡宮は、今川家が駿河に進出した際、花倉に居住していたので、今川家の産土神(うぶすながみ)として
崇啓した八幡宮だ。花倉は今川家とは縁が深い地だが今日はその話題は止めよう。

               
                  葉梨川土手の彼岸花                             西方八幡宮    

 紅白の彼岸花かと対岸をよく見ると、白いのはノビル(野蒜)のようだ。ノビルは春、球根を採って味噌を付けて食べるが、
沢山食べると口は不味くなり、腹が張って屁が出やすくなる。そこで1年に一度柔らかそうな物を少しだけ食べるようにしている。
春、自分で採って食べる野草で、蕨や蕗は有れば有るだけ採りたくなるが、このノビルは春の味覚として一度食べれば充分だ。

 西方の八幡宮はお祭りではなかった。案内板を見ると祭りは10月15日となっているが、同じ八幡さんでも花倉の八幡宮は
今日がお祭りだった。同じ八幡宮なのにお祭りの日が違うのは何故だろう。
八幡宮の本家の “宇佐八幡宮” を調べてみたら、大祭は10月の第2月土日月の3日間だった。
お不動さんの縁日と違って、八幡さんのお祭りは場所によって変わるようだ。

 西方八幡宮に着いたのは9時10分で、藤枝駅から3時間10分経っていた。距離はここまでおよそ14kmなので時速4.5kmで
歩いた事になる。最近の私としてはマーマーの速度だろう。
だがこのままだとゴールが早すぎるのではないか心配になってきた。今日の予定は昼飯をびく石山頂で食べ、ゴールの藤枝駅に
5時までに着きたい。そして5時半までに家に戻りテレビで大相撲を見る予定だ。
早い到着は問題ないが折角朝早く出てきたのだから、余り早いゴールは勿体ない。何処か寄って行こうかなんて、余裕な考えも
湧いてきた。

 西方八幡宮から上は車も殆ど走ってなく人も見えない。大沢集落には民家はあるが人が住んでいる気配のある家は3軒ほど
しかない。立派な家もあるが庭の入口は虎テープで塞がれていた。
西方から車で数分の所なのに、こんなにも過疎になるのは、大沢集落に入ると山が迫り日照時間が短い事、裏山の傾斜は強く
山崩れの心配もある事、更に葉梨川の鉄砲水も警戒しなければならない。そんなこんなで過疎になったのだろう。
私も若し無料でここの家を呉れると言われても住む気は湧かないと思う。


                                大沢不動1

 古い大沢峡の看板のある山側法面に穴を開けてお不動さんを安置してあった。
今でこそ舗装された道が通じているが、かっては崖の中腹に付けられた細い道で、深い渓谷に落ちて亡くなった人も居るだろう。
そんな人の霊を慰めるため、そして通る人の無事を祈って不動尊は祀られたのか。
しかし不動尊は煩悩を断つ仏さんとなると少し違うかもしれないな。

                
                                  大沢不動2

 大沢不動は小さな石のお不動さんだが、花瓶にはサカキの枝が活けられていた。こんな場所にあるのにまだ現役の仏さんだ。
何だか嬉しくなってきた。

        
                        大沢峡                              段々畑の彼岸花

 上から見下ろす大沢峡は、今まで道の横を流れていた葉梨川とは違い、白い流れを見せていた。だが谷面まで遠い事と、
途中の木の枝が視線を遮っていて良く見えない。紅葉と云われても綺麗に色づく木では無さそうなので、わざわざ大沢峡を
目的に来る人はいないだろう。
その大沢峡の上には、放棄された段々のミカン畑の中に彼岸花が沢山咲いていた。
ここにもっと彼岸花を増やせば物好きな人は見に来るかも。


                         清水寺から上大沢までの道

藤枝四不動巡り-1

2015-09-24 10:00:00 | 低山歩き
歩行記録                                                          H27-9-21(月)
歩行時間:9時間50分   休憩時間:1時間45分   延時間:11時間35分
出発時刻:6時00分     到着時刻:17時35分
歩  数: 55、110歩(推定距離41.3km)    GPS距離39.2km
行程表
藤枝駅 1:20> 清水不動 0:05>  清水寺 1:35> 西方八幡宮 0:20> 大沢不動 0:05> 上大沢 1:00> びく石山頂
 0:35> びく石不動 0:10> 県道合流 0:35> 陶芸センタ 1:30> 滝沢不動 0:35> 中山 2:00> 藤枝駅

 「長距離のウォーキングは一人では歩く事ができない。」 と言う人が多い。
私も目的も無く長距離のウォーキングは苦手と云うかできない。そこで色々理由を付けては歩く事になる。
その代表的な物が霊場巡りの遍路で、これは札所と云う確かな目標物と結願をする大目的が生じる事で案外完歩しやすい。
それにスタンプラリー替わりの納経システム、更には昼飯場所や休憩、トイレも札所で容易に解決できる。

 次に街道歩きもやるが、これはこれで街道沿いの歴史や風物など知る事ができ楽しく歩ける。
山歩きでは 「日本百名山」 など代表的な目標物があるが、年老いた私には肉体的にも経済的にも難しい。
そこで地元の山の登山ルートを全て歩きつくす。例えば 「大崩山塊全ルート踏破」 など目標にすると次から次へと歩きたく
なってくる。今は大崩山塊と小笠山が終わり、次は何処の山域を狙おうか思案中だ。

 それ以外に自分で勝手にルート名と付けて歩くのも楽しい。
今回の 「藤枝四不動巡り」 もその中の一つで、四つのお不動さんは何れも個別には見ているので、それを一つのルートに
収め、一度で歩いてしまおうと思ったのが切っ掛けでした。

             

 一番下(南)の藤枝駅から上方(北)にある びく石不動の石谷山(びく石)までは、何度も歩いた事はあり、距離は片道15km
程度なので1日で歩ける範囲内です。
今回初めて歩く場所はびく石不動から県道を下り、途中から山越えのハイキングコースを歩き滝沢不動へ行く道です。
しかし山越えとは云え、きっと低い峠越の道なのだと思うが、一抹の不安は人の歩く事の少ないこの時期は、雑草が生茂って
いないか心配です。ですが距離はこの山越えをすれば2・3k増しで済むが、県道伝いに歩くと7km程増えてしまい、下手をすると
歩行距離が40kを越える可能性が出てきます。
山を含んだコースで40k越えは私の足では無理ですので、どうしても短距離の山越えのしたいと考えていました。

 それぞれのお不動さんの名前ですが、これは私が勝手に付けた名前で、正確には “清水寺の下にある不動尊” と呼ぶべきで
しょうが、これでは長ったらしくて面倒です。そこでこれを略して “清水不動” 。同じように “大沢峡” にあるので “大沢不動”
びく石の麓にあるので “びく石不動”としました。最後の不動峡にあるお不動さんは “不動不動” となってしまうので、これでは
余りにも不自然ですので、この地の地名の滝沢をとって “滝沢不動” にしておきました。

                                     清水不動

 
                田沼街道蹟                                勝草橋から上流

 藤枝駅から清水寺に向かうときは、途中から田沼街道のだった道を歩いていく。だが行きつく所は田沼街道の起点の先ではなく
起点の常夜燈の右に出る道になってしまう。当初は道を間違えたかと思い地図を確認したが、常夜燈の先から自然な感じで田沼
街道に接続する道はなかった。
常夜燈の手前に立つ案内板には 「田沼街道も近世中期末か近代初頭にかけての道路拡幅や整備事業等で昔の面影はない。」
と書いてあるので仕方ないのかも知れないが。
 田沼街道は今まで3度ほど歩いているが、確かに昔の面影を感じる所は少ない。今では田沼街道と言いながらもその一部は藤枝
から相良まで通じていた軽便鉄道の跡を歩く事もある。

 江戸時代の瀬戸川は 「徒歩渡り」 で橋など無かったが、今は綺麗な勝草橋が架かっている。
今日の最北部にあるびく石は、この瀬戸川沿いにあるので、上流に見える山の一つはびく石なのだろうか。

 
               瀬戸川沿いの彼岸花                            瀬戸川の延命地蔵

 瀬戸川左岸の桜並木の土手は彼岸花で最盛期だった。赤い彼岸花の間に白い彼岸花も見えて一層風情を誘う。
この白花の彼岸花は以前は殆ど見かけなかったが、最近はあちこちで見かけるようになり増えているようだ。
理由を調べたがはっきりしない。ある説は突然変種だと云い、ある説は園芸種だとも云っている。
しかし突然変種としてもなぜ今突然変種が多くなったのか理由が分からない。
以前は白い彼岸花は庭で栽培している場合が多かったが、その球根が増えて土手に移植したと考えるのが自然と思う。
ところが最近では、庭に黄色の彼岸花も見る事もある。とすると何年後かには、あちこちで黄色い彼岸花を見る事ができる
かもしれませんね。
いつの時代かには “並んだ 並んだ 赤・白・黄色” なんて歌われる時が来るかも----------
それにしても白い彼岸花が主流になるのは、何となく淋しい気がするのは私だけでしょうか。

 瀬戸川金吹橋の袂に延命地蔵が祀られている。 つい最近まではお地蔵さんに頭を下げるときは 「南無大師遍照金剛 」
唱えていたが、お地蔵さんに弘法大師の名前を唱えてもしょうがない、何か良い言葉はないかと探し、今では地蔵菩薩のご真言
  「おんかかび さんまえいそわか」 を三唱するようにしています。意味? 全然分かりません。


                                        清水不動1


                                        清水不動2 

 清水不動(仮称)は清水寺に向かう参道の途中にある。
赤い布に白く 「南無不動明王」 と染め抜かれた幟が何本も立っているので見落とす事はない。
評判が良いお不動さんらしく、まだ朝の7時20分なのに燈明が2本捧げられていた。
ところでお不動さんって何のご利益があるのか知らなかったので事前に調べたが難しくて理解できなかった。
 「右手の剣で人々の煩悩を断ち、左手に持つ縄は煩悩を縛り煩悩から抜け出せない人々を救い出すため、後背の火炎は世間の
闇を照らし迷いや災難を焼きつくし、大きな石に安座するのは悪霊の重い障りを大きな石で押さえつけ動けないようにしている。」

のだそうです。更に
 「不動明王は弘法大師が唐より密教を伝えた際に持ち込まれたと言われ、弘法大師は不動明王を大日如来の化身として如来の
脇侍としている。」
他にも 「不動明王は酉年生まれの本尊で縁日は28日です。」などとあった。

 この春大崩山塊へ蕨採りに行った時に寄った 「大鈩のお不動さん」 は丁度縁日で、確かにあの日は4月28日だった。
要はお不動さんは私のように煩悩が多い者を救ってくれるようだが、私のようなお不動さんを利用して自分の趣味を満足させる邪な
考えを持つ者も救ってくれるのだろうか。そう云えばお不動さんの 「ご真言」 を唱えれば、その効果は倍増するとも書いてあった。
なら 「なうまくさんまんだ ばざらだんせんだん まかろしや そわたや うんたらたがんまん」 と、何を言っているのか皆目見当はつか
ないご真言だが、この四不動巡りの間に覚えよう。

                               藤枝駅から清水寺までの道


知多四国15番洞雲院

2015-09-23 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-8(土)
歩行時間:6時間05分   休憩時間:1時間45分   延時間:7時間50分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時20分
歩  数: 33、879歩(推定距離25.4km)    GPS距離24.2km
行程表
亀崎駅 0:35> 12番 0:35> 13番 0:05> 14番 0:20> 15番 0:30> 17番 0:05> 16番 0:45> 番外 0:15> 18番
  0:20> 19番 0:10> 20番 1:30> 21番 0:40> 22番 0:05> 23番 0:10> 武豊駅

                                  15番洞雲院(町の名)

 
               洞雲院山門                                    洞雲院

 14番から15番洞雲院(どううんいん)へは、まだ続いていた川沿いの小道を途中まで西に向かい、名鉄坂部駅の横を通った
案外分かりやすい場所にあった
ここにも山門の下に阿久比町の案内板が建っているのみると、阿久比町は文化に力を入れているのだろう。
私のように事前知識のない者にとっては、このような案内板が有ると無いとでは大違いで本当にありがたい事です。

 その案内板によるとこの寺を創建(天暦2年(948))したのは菅原道真の孫の 「英比(あぐい)殿」 とある。
アーそれで町の名前が 「阿久比(あぐい)町」 なのかと納得した。
だが後で阿久比町のHPを見ると、町の名の謂れに付いてこんな説明がなされていた。
 『町名の由来は不明ですが、藤原京から出土した木簡に 「甲午年(西暦694年)9月12日知多評阿具比」 と書かれたものが、
今までに知られている最古の資料です。』

私の推理は大外れで、菅原道真の孫は土地の名前 「阿具比」 を自分の名前 「英比(あぐい)」 にしたのだった。

 案内板にはもっと興味が引かれる事も書いてあった。
「阿久比城主久松俊勝のもとに徳川家康の生母於大の方が再嫁された。於大の方3男3女の子女を出生。俊勝の子は松平姓に
改められ、後に桑名城主、松山城主をはじめ多くの大名・旗本として出世した。当山の墓地には於大の方の墓がある。」

於大の方が再婚した相手は織田側の武将だったので、今川側だった於大の生家より尾張に近い所にあっただろうと思っていた。
それが更に半島の先端側だったのでは、生家と久松家とは絶えずいざこざが起こっていたのではないか。
政略結婚は戦国女性の習いとはいえ、於大の方には辛い再婚だったろう。
 蛇足だが、以前NHKアナウンサーが酔ってタクシーの運転手を暴行した事があった。たしか当時そのアナウンサーは家康の
末裔とか言っていたと思うが、実際には久松俊勝と於大の末裔との事で、家康の血筋、いや松平の血筋でもなかったようだ。

 案内板を読んだ時には必ず於大の方の墓を見に行こうと思っていた。だがそれに気づいたのは次の札所に着いてからでした。

             
                  弘法堂の大師像                                ???

 山門も本堂も何もかも新しい寺で、これだけを一度に新しくすると檀家はどの位のお布施をするのだろうと心配になる。
我家では2年前に墓を買ったが、宗教不問の民間霊園なのでお布施や寄付の心配は無いと思っている。

 黒い色の仏像は何だったろうか。姿、形はおびんずる様に似ているが?

                          14番から15番洞雲院への道

知多四国14番興昌寺

2015-09-22 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-8(土)
歩行時間:6時間05分   休憩時間:1時間45分   延時間:7時間50分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時20分
歩  数: 33、879歩(推定距離25.4km)    GPS距離24.2km
行程表
亀崎駅 0:35> 12番 0:35>  13番 0:05> 14番 0:20> 15番 0:30> 17番 0:05> 16番 0:45> 番外 0:15> 18番
  0:20> 19番 0:10> 20番 1:30> 21番 0:40> 22番 0:05> 23番 0:10> 武豊駅

                                  14番興昌寺(半蔵行者)

 
              興昌寺山門                                    行者堂

 13番から14番興昌寺(こうしょうじ)へは、14番の山門の前を流れている小川沿いの小道を5分も歩くと着いてしまった。
この寺の山門の前にも阿久比町の案内板があり、それによればこの寺は桶狭間の戦いで敗れた今川の落人が建てた寺だと云う。
戦いの後は落人狩が厳しかったと言われているが、戦場からここまで離れると落人狩は無かったのだろうか。

  
          半蔵行者                    おびんずるさま                    役行者

 門前の案内板にもあったが行者堂にもこんな案内があった。
 「日本三大霊場の中、尤も景勝に優れたこの知多の地に 八十八ヶ所の霊場を私財と七年の歳月を費やし 大変苦労して開創
されました。近隣に在住する者にはありがたい事ででございます。」

 そう云えば知多四国霊場の開創に当たっては、3人の僧の並々ならぬ努力があったと紹介されていた。その3人にはそれぞれの
開山所が指定され祀られているあったが、ここがその開山所の一つなのか?
慌てて手持ちの資料を見るが、この寺は飽く迄も14番札所であって開山所ではなかった。
資料では開山所の二つは次回のコースで廻り、後りの開山所は、まだまだずーと先とある。
ではここに祀ってある半蔵行者は、行者が地元の人と云う事で祀っているのか。何とも義理堅い。

 案内文で少し気になった事がある。一つは 「日本三大霊場」 だが、これは一般的には 「高野山、比叡山、恐山」 を指している。
なのでここに書いてある三大霊場とは霊場巡りの霊場を指すのだろう。となると何処か?
私の霊場巡りの知識では、先ず四国霊場、次いで西国、坂東、秩父となるが、知多四国はそれら霊場と比較すらならないだろう。
他に最近得た知識に 「日本三大新四国霊場」 がある。これは以前にも話したが小豆島八十八ヶ所霊場、篠栗八十八ヶ所霊場、
知多四国八十八ヶ所霊場の事で、これらが “日本三大新四国霊場“ と呼ばれている。
ここに書いてある “三大霊場” とは、多分この新四国霊場の事を言っているのだろう。

 更に案内文の中に「日本三大霊場の中、尤も景勝に優れた」 との記述もある。まだ1回しか歩いていないが、その景色に関して
言えば、最低、いや当り前程度に過ぎなかった。ならこれからに期待が持てるのだろう---------

 行者堂には 「半蔵行者尊」 の提灯の先に、着物姿で菅笠を被り杖を突いた普通の人間像が祀られていた。
行者とは、何となく分かるが正確には知らなかったので調べてみた。するとウィキペディアには
 「・行者(ぎょうじゃ)とは、修行を行う者の意であり、日本に於いては特に山岳修行を行う者を指すようになり、修験道の開祖である
役小角は 「役行者」 と呼ばれている。
  ・行者(あんじゃ)とは、仏教寺院において僧侶のように出家をせず、俗人のまま寺の雑務を行う労働者の事である。
現在の日本の禅宗寺院では、高位の僧侶の身辺の世話をしたり、秘書的な仕事を行う僧侶を行者と呼ぶ場合がある。」

となると半蔵行者は、“はんぞうぎょうじゃ” ではなく “はんぞうあんじゃ” なのだろう。
この事を遍路した時に知っていれば、納経の時に何て呼んでいるのか聞けたのに残念な事をした。

 半蔵行者の横は知多四国霊場の札所でよく見かけるおびんずる様。ここのおびんずる様も余り撫ぜられた形跡は無かった。
 高歯の下駄を履いているので多分 「役行者」 だろう。
今迄 “あんじゃ” の事は知らなかったが、役行者が “ぎょうじゃ” で良かった。恥をかくところだった。


                         13番から14番興昌寺への道

知多四国13番安楽寺

2015-09-21 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-8(土)
歩行時間:6時間05分   休憩時間:1時間45分   延時間:7時間50分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時20分
歩  数: 33、879歩(推定距離25.4km)    GPS距離24.2km
行程表
亀崎駅 0:35> 12番 0:35>  13番 0:05> 14番 0:20> 15番 0:30> 17番 0:05> 16番 0:45> 番外 0:15> 18番
  0:20> 19番 0:10> 20番 1:30> 21番 0:40> 22番 0:05> 23番 0:10> 武豊駅

                                  13番安楽寺(天白地蔵)

 
            道路標識に飛行機マークが                           安楽寺山門
    
 先程間違っている事に気付かせてくれた安楽寺の標識に礼をして南西に続く道を登り、暫くして太い国道のような道に合流した。
太くて周りに家も無く登り坂の道は日影が無いので暑くて仕方なかった。

前方に 「中部空港」 の文字と飛行機の絵の標識が見えてきた。現在この辺りが知多半島のどの辺りなのか分からないが、まだ
知多半島を歩き出してまだ2回目の最初なので半島の上(北)の方だろう。だが飛行場の標識が出てきた云う事は、知多半島の背骨
辺りまで来ているのか。幅の狭い半島なのだ知多半島は。

 1回目は東浦町の札所が多かったが、次の札所は阿久比(あぐい)町にある。いずれも初めて聞く名前だった。
“阿久比板山” の交差点を左折すると小川が道の右を流れていて細い道が続いていた。うるさい車道を避けてその小路を行くと
すぐ安楽寺の山門に出た。山門横に立つ阿久比(あぐい)町の案内板で知識を入れて境内に入る。

 
                  安楽寺本堂                           安楽寺弘法堂

 弘法堂の横に立つ弘法大師像の左手には、前掛けは勿論、右手の錫杖には千羽鶴やら前掛けが一杯かけてある。これでは
お大師様も重かろうと心配になるほどだ。オッと良く見ると足には脚絆いやザックカバー、もとい草鞋覆いまで巻いてある。
ホント日本人は好きだよなぁ。野に立つ地蔵に1枚の前掛けや帽子なら可愛いが、何枚も重なっていると見苦しい。と私は思う。

 
                 天白地蔵?                              知多四国の絵馬

 「天白地蔵」 の案内は山門にあった阿久比町の案内に
 「天白地蔵に耳の悪い人が穴の開いた柄杓を供え、お祈りするとよく耳が聞こえるようになる」
とあった。
地蔵? しかし写真に写っているのはお地蔵さんではなく僧侶の格好をしている。どちらかと云えば弘法大師像のようにも見える。
これは私が勘違いしていて、この像は天白地蔵ではないのか。
だが考えてみれば地蔵さんだってお坊さんなんだから、像をリアルに造ればこんな姿だってあり得るわけだ。
疑問に感じて “天白地蔵“ で検索したが、ヒットしたのは名古屋市天白区の地蔵寺ばかりだった。
次に “天白” で検索するとウィキペディアの 「天白信仰」 がヒットした。それによれば天白の説は種々あるが、天白とは日本古来の
神か、修験道からきたもので、いずれも風水除の神とされていた。
となると耳の仏さんとは関係ない。ではこの天白地蔵はこの寺独自の地蔵尊なのだろうか。
それにしても穴の開いた柄杓を供えるのは、穴が開いているので良く聞こえる。から来ているのだろうか。
それなら目の悪い人なら“先が良く見える” にもなる。いずれにして調査不足でよく分からない仏像だった。

 その仏像と同じお堂に掲げられていた知多四国の遍路絵馬。古そうに見えたのでよく見たら、名鉄の線路が半島の上下に書か
れていた。調べると絵馬の下にある線路は名鉄河和線で、この線路が完成したのは1931年なので昭和以後の絵馬だった。



                         12番から13番安楽寺への道