はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

知多四国60番安楽寺

2015-11-30 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分   休憩時間:2時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分     到着時刻:17時55分
歩  数: 40、334歩(推定距離30.2km)    GPS距離29.0km
行程表
 内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
  55番 0:30> 57番 1:35> 番外 0:05  58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
  63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅

                                  60番安楽寺(回向文)

 
              放置されている西瓜                             安楽寺遠望

 次の60番安楽寺(あんらくじ)も旧道と思しき道を北に向かう。高台に向かい歩いて行くと右手に安楽寺を示した標識があった。
手持ちの地図ではまだ先にある中学校の所を右折するようになっていたが、一先ず標識に従って早めの右折をした。
 畑に西瓜が放置してある。手ごろな大きさになっているがどうしたのだろう。病気なのか、甘味が無いのか。折角ここまで育てた
のに口惜しいだろうに、どうせなら西瓜割にでも使って憂さ晴らしでもしたらいいのに。

 下の方に寺が見えてきた。きっと安楽寺だろう。どうやら標識は車用で歩き遍路には遠回りになったようだ。

 
                 土管の土留                                安楽寺

 石垣の代わりに土管が使われているのは如何にも常滑らしい眺めだ。石垣と土管を比べるとどちらの方が安いのだろう。
生産地だから格安に土管が手に入るのか、それとも一部不良品の土管を使っているのか。そんな罰当たりの想像は良くないが
土管の裏の一部が欠けていてもどうと言った事は無い。それなら私ならきっとそうする。

 本堂と弘法堂が並んで建つ配置は境内の広さが増す感じで、間にある層搭や大師像がこの二坊を分けているようにも見える。
境内には石や砂紋を配した禅宗風の庭園が美しく整えられていた。

        
                  安楽寺本堂                              弘法堂

 安楽寺の本尊阿弥陀如来は行基菩薩作と伝えられ、今川と織田の戦火から守るため次の札所高讃寺から移されたという。
ここで不思議なのはなぜ戦火が治まったら阿弥陀如来を元の高讃寺へ戻さなかったかだ。高讃寺が廃寺になったのなら
ともかく現在も札所として残っているのだから。

 弘法堂の前には久し振りに幟旗が立っていた。しかし幟の文字は “南無弘法大師” で、今まだ多くあった “知多四国霊場”
ではない。この違いは何だろう。

   
          修行大師                   石 仏                   オビンズル様

 修行大師像の台座に 「願わくば此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に 仏道を成ぜん」 の回向文が刻まれて
いた。この回向文とは読経の終わりに唱える短い経(?)なので、四国霊場を廻ったとき高祖宝号と共に最初に覚えたることが
出来た。意味? 習わぬ経を読むです。

 安置されていた石仏の中心は多分青面金剛だろう。その前に水瓶を手にした小さな石仏達は観音さんだろうか。
下に置いてある卵形の石は何だろう? 分からない。

 ここのオビンズル様は見慣れ風体のものだった。でも撫ぜ擦る気は起きない。

                                  59番玉泉寺から60番安楽寺への道


知多四国59番玉泉寺

2015-11-29 10:10:10 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分   休憩時間:2時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分     到着時刻:17時55分
歩  数: 40、334歩(推定距離30.2km)    GPS距離29.0km
行程表
 内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
  55番 0:30> 57番 1:35> 番外 0:05  58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
  63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅

                               59番玉泉寺(錫杖)
 
                玉泉寺参道                                   山 門

 58番来応寺から今度もまた門前の道を200mほど北西に行った場所に59番玉泉寺(ぎょくせんじ)の参道入口はあった。
これで57、58、59と直線300m程の道に3寺連続してあった事になる。
この直線状の道は地図には国道や県道の表示は無いが、道の周りは民家は密集している。さらにこの道の東には平行して走る
国道247号があるが、地図上ではこちらには民家は疎らにしかない。
どうやら以前はこの道が国道で東の国道は新しくできたようだ。そんな目で見れば古そうな写真館も建っていた。

 道路から奥まった所にあった玉泉寺だが、道から覗き込むと山門が見えていたので迷う事は無かった。

 
                 本 堂                                    薬師如来と脇侍

 本堂内にはご本尊の伝聖徳太子作と伝わる秘仏の延命地蔵菩薩が祀られているが、秘仏なので普段は見る事はできない。
しかも本堂は閉まっていらのでそのままパス。
何しろ今日は16札所を打つ予定なので忙しい。ここで12寺目なので、まだ4寺も残っている。予定では玉泉寺に着くのは
5時頃だったので一応常滑駅に向かうバス停や時刻は調べてあった。
納経所の閉まる時間は6時となっているが、余り遅い時間に100円のためにわざわざ呼び出すのも申し訳ない。そこで5時半を
過ぎたら納経は止めようと思っていた。ただ正確な到着時間は分からないので、一応この後の札所のルートも調べてある。
だが、まだ3時前なのでこれなら残りの4寺も打てそうでホッとしが、これも歩行時間を短縮したのではなく、札所の参拝時間を
短くしているので、本来弘法堂で唱える般若心経も高祖宝号だけになっていた。これが良いのか悪いのか ・・・・・

 薬師堂には金ぴかの薬師如来の横に日光・月光菩薩と十二神将が祀られていた。

  
        オビンズル様?                  地蔵三體              錫杖(しゃくじょう)

 一見オビンズル様のように見えるが私のイメージするオビンズル様より若く見える。しかも撫で擦った痕も無い。
尤も知多のオビンズル様は撫ぜ擦った痕の無いのが普通だったが。
気になってオビンズル様を調べてみると、あるわあるわこの像と同じように赤い風体で若い像が、しかも胸にイボイボが
あるのもこの像と同じだ。
 どうやら私の抱いている “年寄りで瘠せているオビンズル様” のイメージは変えた方が良さそうな程あった。

 中央メインのお地蔵さんは帽子というより頭巾、いや鉢巻を巻いてリボンを付けているように見える。所変われば品変わるか。

 「ごりやく錫杖 まわしてください」 と書いてあったので少し持ち上げると、かなり重かった。
こんな杖を突いてはとても長距離は歩けそうもない。
杖を元の位置に戻すとき上に付いている金具がぶつかり 「シャリ」 って鳴った。そうこの杖の名前の錫杖(しゃくじょう)は
この音からきたそうです。ウィキペディアによれば
 「銅や鉄などで造られた頭部の輪形に遊環(ゆかん)が6個または12個通してあり、音が出る仕組みになっている。
このシャクシャク(錫々)という音から錫杖の名がつけられたともいわれる。別名有声杖、鳴杖ともいう」


なるほど確かに杖の上に着いた丸い輪は6個ついていある。この輪がぶつかり音を出すのだ。
この音を出して 「托僧が来たぞ、喜捨の準備をしろ」 合図をしていたのかな。いやそう悪くとってはいけない。
山野をかけめぐる修行僧にとっては、野獣は邪魔な存在。そこで獣除けに輪環を付けたとしておきましょう。
そうです錫杖こそが現在の獣除けの鈴の原点なのです。と妄想的歴史観はうったえる。

                                    58番来応寺から59番玉泉寺への道

知多四国58番来応寺

2015-11-28 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分   休憩時間:2時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分     到着時刻:17時55分
歩  数: 40、334歩(推定距離30.2km)    GPS距離29.0km
行程表
 内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
  55番 0:30> 57番 1:35> 番外 0:05  58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
  63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅

                               58番来応寺(何も無い)

 
                  来応寺山門                              本 堂

 番外曹源寺から58番来応寺(らいおうじ)は、門前の道を北西に100m程度行った所にあり、曹源寺までの長い距離を歩いた
後なのでホッとした。着いた来応寺も街中の境内の狭い寺だった。

 本堂の横に立つ2体の像に近づいて見ると、何だ面白くない、地元の女子教育に貢献した親子の像だった。

         
               弘法堂                                 ぽっくり地蔵

 なんか極端に頭が小さいのか、或いは無いのか、5体の石像を祀ってある祠に 「ぽっくり地蔵」 の札が掛けてある。
そこには 「昔から村人が “ぽっくり往生” するよう祈りを込めた霊験あらたかなお地蔵様です。
この度奥の方からお移ししました。 「極楽往生」 のいのりを込めて お詣り下さい。」


 ぽっくり地蔵の隣には、安産に御利益のある腹掛け地蔵、商売繁盛にご利益のある分身弘法も祀られていた。

 困ったな。写真を見てもメモも見てもこれ以上は思いだせなかった。ともかく幟旗も無く静かな札所だったと思います。

                                    番外曹源寺から58番来応寺の道

知多四国番外曹源寺

2015-11-27 11:21:02 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分   休憩時間:2時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分     到着時刻:17時55分
歩  数: 40、334歩(推定距離30.2km)    GPS距離29.0km
行程表
 内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
  55番 0:30> 57番 1:35>  番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
  63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅

                               番外曹源寺(大河ドラマ)
 
              海苔の支柱とセントレア                      緑地の先にセントレアへの橋

 57番報恩寺から番外曹源寺(そうげんじ)への距離は今日一番長い約7kmもある。
道は国道を歩けば分かりやすいが、それは極力避け途中からは海岸の防潮堤横の道を歩いた。
飛行機の爆音が小さく聞こえてきて海を見ると、中部国際空港セントレアが見えていた。手前には海苔の養殖に使う杭が乱立
している。この杭は南知多町の札所で海苔の栽培用と聞いたが、この杭をどのように利用するのか調べてみると。
 海苔の栽培には2種類の方法があり、このように杭を使うのは 「支柱式栽培法」 といい、海苔の胞子の付着した長さ20m程の
種網を支柱の括り付けて育苗します。時期は初秋の頃で収穫は冬ですので、今の杭には何も付いていないようです。

        
                    味噌蔵                                葡萄蔵

 案内板によるとこの蔵は 「170年前の味噌仕込み蔵を利用して、盛田KKが自然、健康、本物をテーマに350年の清酒、
みそ、たまり醤油の伝統を生かし発信しています」
とある。現在は醸造所の展示館と利用しているようだ。

 次の葡萄蔵の案内板には
  「ワイン醸造のため、明治10年代に当地に建立されました。今では甲州の地で “シャンモリワイン”を醸造しています。」
しかし清酒の “盛田” もワインの “シャンモリワイン” も聞いた事は無い。多分地酒の一つだらうと思っていたら
清酒は 「ねのひ」 の醸造元だった。“ねのひ” なら飲んだ事は無いが名前を聞いた事はある酒だった。

 
                   曹源寺入口                               本 堂

 民家が密集してきた場所に曹源寺はあった。寺の周りを黒塀で囲んだ、如何にも街中の寺の風情がしている。
先程の報恩寺までは美浜町だったが、この曹源寺から常滑市に入り、遍路もいよいよ終盤に入る事になる。
曹源寺に入り何となく淋しく感じるのは、美浜町の札所では幟が林立していたが、ここでは僅か4本しか立っていないからか。
美浜町では霊場の幟の他にも派手な武者の絵の入った幟も立っていた。その幟には 「源義家公 大河ドラマで活躍」 とあった。
大河ドラマは見ていないので何時放送されたか知らないが、再来年の放送予定は知っている。
それは遠州井の国(浜松市引佐町)の女城主 「井伊直虎」 だ。
井伊直虎と聞いても殆どの人は知らないだろうが、幕末桜田門で暗殺された彦根藩主井伊直弼の先祖で、彦根藩の初代城主を
守り育てた女性です。一部では 「戦国女大名」 と言う向きもあるが、頼朝の妻・北条政子のように謀略ばかり謀ったり、ましてや
木曽の巴御前のように戦場で戦ったわけでもない。ただただ片田舎の井の国にヒッソリ過ごしていた女性だ。

 大河ドラマがどのような筋なるかは知らないが、本では梓沢要の 「女(おなご)にこそあれ次郎法師」 がある。
女性なのに 「次郎法師井伊直虎・裕圓尼」 を名乗った直虎は、井伊家の長女と産まれが許嫁の従兄と結婚できず、その子を
今川から匿いながら育て彦根藩主までにした話です。

 静岡県で大河ドラマの主人公になりそうな人を考えると、先ず北条政子、次に徳川家康の正室築山御前、今川義元の母・
寿桂尼、最後に井伊直虎かと思っていた。それが4番手が最初に来るなんて私の想像も当てにならにものだ。
私の押したいのは2番手の築山御前で、彼女なら家康と出会った瀬名姫の時代。岡崎に来てからの姑・於大の方との確執、
息子信康の切腹、最後には家康の命により斬殺と見所満載のドラマになりそうです。いつかはドラマ化して欲しいと思う。
そうそう築山御前の母親は井伊家の出なので、今回のドラマには直虎と築山御前の絡み合いもあるかもしれないな。
再来年の大河ドラマは必ず見てみよう。(忘れなければだが)

 
               入口に立っていた石碑                          躄(いざり)車

 曹源寺の入口の石碑に 「躄車 奉納霊場」 とある。躄とは足の悪い人の事で、その人の乗る車とは今の車椅子の事だろう。
寺の中には木製の如何にも重そうな車が展示してあり
 「大正12年、足腰を患った26歳の男性が、車を犬にひかせて知多四国を巡礼されていました。
前夜、男性の夢枕に御大師様が立たれ、番外の御坊に参拝せよとお告げになりました。
翌朝、寺に着きお詣りをすると、自らの力で立ち上がり歩くことが出来ました。」


 以前会社で 「昭和のいざり」 なる言葉がはやった時がある。意味は車の免許証を持っていない人のことを指した。
さすが本人の前では言わなかったが、余りいい言葉ではなかったな。
しかし今では車も自動運転が可能な時代も近く、運転免許証もいらなくなるだろうか。

 知多四国を歩いている時、電動車椅子の横を歩いて、その速さに驚いた事がある。
その事が新聞が取り上げていて、静かで早い車椅子と衝突する事故が増えているとあり、そのため現在最高速度時速の
6kを4k程度に抑えたいとか書いてあった。

 ここに展示してある重くて遅い車椅子が、今やスピード抑制が必要な車椅子になったとは。

 
                   庚申堂                              青面金剛像

 庚申堂には役行者・青面金剛・天神(菅原道真公)が祀られていた。
知多半島には道祖神や庚申塔などが非常に少なく感じるが、青面金剛像の庚申塔はここで2ヶ所目になる。
そのどちらも青面金剛像が刻まれていたが文字の石塔は見てなかったと思う。
尾張地方は庚申信仰は薄かったのだろうか。

                               57番報恩寺から番外曹源寺への道

知多四国57番報恩寺

2015-11-26 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分   休憩時間:2時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分     到着時刻:17時55分
歩  数: 40、334歩(推定距離30.2km)    GPS距離29.0km
行程表
 内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
  55番 0:30> 57番 1:35>  番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
  63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅

                                 57番報恩寺(乳竇山)

 
                  乱橋跡                                   現在の乱橋

 55番法山寺から57番報恩寺(ほうおんじ)へは、来た道を少し戻って名鉄の線路を越してから北に向かった所にある。
指定されたルートを平面図の地図で見ると、何となく遠回りに見えるので近道を探したが、何故か道が途中で切れていた。
これは現地に行けば道は繋がっているのではないかと思ったが、念のために地図を地形図に置き換えてみると、途切れている
場所はどれも緑色の濃い山の中だった。 フー危ない危ない。中途半端な判断をしないで良かった。

 55番に行くときは気づかなかったが、川の袂に案内板や石碑が建っていた。
 「義朝公謀殺の大事を聞いた家来らが湯殿に駆けつけるとき、長田の家臣とこの地にあった橋の辺りで乱戦となった。
後にこの橋を 「乱橋」 と言われる様になった。
 また、法山寺への参詣者が潮の満ち引きの間に、この橋を競って渡り、常に橋板が乱れがちであったとも言われている。」


 今の乱橋はコンクリ製の小さな橋だが、例え昔でも海から離れているこの橋が、満潮で通れなかったとは考えられないな。
そうそう “いざ鎌倉” ならぬ “いざ湯殿” で駆けつけた義朝の家来の中に 「渋谷金王丸」 なる人物もいたが、この人物は
東京渋谷の地名の元となった人だそうです。

        
                     報恩寺山門                                修行大師

 法山寺の門前にあった案内板によると
 「報恩寺は源義朝公の乳母で、鎌田政清(義朝の重臣で義朝を謀殺した長田忠致の娘婿)の母が、政清の菩提を弔うために
建立した」
寺だそうです。
一度読んでも理解できず再度読み直したが納得できなかった。
これでは政清は義朝側か長田側か不明だし、いつ死んだ何故死んだかも分からない。
多分政清は義朝側の武将で、乱橋の戦いで死んだのだと思うが。

 報恩寺の山号は 「乳竇山(にゅうとうざん)」 だが “竇” の字が何とも難しく読めなかった。
多分義朝の乳母が建てた寺だから 「乳頭」 から来ているのだろうと漢字辞書をみると、あたまではなく 「あな」 の意味だそうだ。
となると乳竇とはどういう意味だろう

        
                       本 堂                                 弘法堂

 この地で飲み水が無く雨水を飲んでいた頃、弘法大師が立ち寄ったとき金剛杖で地面を突くと綺麗な水が湧きだしたそうだ。
出た! 矢張り 「弘法の井戸」 は知多にもあった。
この霊水の湧く場所が報恩寺の裏山にあるらしいが入口が分からなかった。
更に弘法大師が報恩寺に寄ったとき、石造りの観音像を一夜で彫ったと伝えられている 「一夜彫石観音」 が、弘法堂に祀られ
ているらしいが、弘法堂の扉は締っていて中を窺う事はできなかった。

 報恩寺の納経所の呼び出し方法はインターホンやブザーではなく小さな鐘だった。こんな事でも面白く感じたが、家の人が
気付いてくれるか心配だった。

                             55番法山寺から57番報恩寺への道

        **************************************************************
 三浦綾子の 「海嶺」 に源義家と長田忠致の話が載っていたので掲載します。

 平治の乱で平家に敗れた源義朝は、4人の従者と従者1人鎌田政家の舅、長田忠致の荘園のある野田に都落ちしてきた。
12月28日に野田に辿り着くと、長田忠致は下へもおかぬもてなしをしたが、年が明けるや長田は変心して、義朝の首を
平清盛に献じて褒賞を得ようとした。
年が開けた正月2日、先ず鎌田政家が殺され、翌3日、その変事を知らぬ義朝は入浴中不覚にも謀殺された。
義朝の首を挙げた長田は、それを平家に献じたが、平重盛の不興を買って、何の恩賞も得られなかった。只、壹岐守という
名を与えられたに過ぎない。
やがて平家が衰え、頼朝の時代が来た。最早身の置き所の無い長田は、自かの罪状を頼朝に申し出た。
その長田に頼朝は 「平家平定の暁には美濃尾張をを汝に与える」 と約束をした。感服した長田は大いに軍功を立て、
やがて頼朝に召し出された。喜び勇んで頼朝の前にまかり出ると、頼朝は長田をはったと睨みつけて
 「この裏切り者奴が、今日こそ約束通り “身の(美濃)終わり(尾張)” を与えてやろう」 と磔の松の木に打付けた。
長田忠致の辞世 “永らえて 命ばかりは 壹岐守 美濃尾張をば 今ぞ知る” が残る。


 この話が正史とは思わないが、これを読み私の妄想的歴史観が蠢いた。
●乱橋で義朝方と長田方の戦いは無かった。あったとしても長田方の勝利だった。
 ・義朝を謀殺した後も長田忠致は野田に勢力を張っていた。
 ・義朝が野田に逃げ延びて来てから1週間では、荘園の司に逆らって新参者へ味方する者はいない。

●千人塚は無かった。
 ・乱橋の戦いは無かったか、あっても少人数の争いで多数の死者が出たと思えない。
 ・戦ったとしても地元同士で、亡骸は遺族が引き取る。

●義家の首は伊豆に埋められた。
 ・義家の首は長田忠致の手で都に運ばれた可能性があり、当時都にいて伊豆へ島流しになった文覚上人が、義家の首を
  手に入れる可能性がある。



知多四国55番法山寺

2015-11-25 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分   休憩時間:2時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分     到着時刻:17時55分
歩  数: 40、334歩(推定距離30.2km)    GPS距離29.0km
行程表
 内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
  55番 0:30> 57番 1:35>  番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
  63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅

                             55番法山寺(間違っていた朱印)
                    
                                        山の神

 大御堂寺を参詣中に雨はあがったが、用心のため傘を手に持って歩いていた。それも途中から明るくなってい来たので
ザックにしまい込んだ。どうかもう降らないでくださいと拝みたいくらいだ。

 55番法山寺(ほうさんじ)は名鉄野間駅を左に見ながら東に行った山の付根にあった。
藪の中の札所で蚊がブンブン飛んでいて、3ヶ所も刺されてしまった。
寺の入口に 「やまのかみ大明神」 の白い幟が立った社があったが謂れなどは分からなかった。
それにしても知多には幟旗が多いとあらためて感じる。
 
 
                  弘法堂                                    弘法堂内部

 弘法堂を覗き込んだが特に変わった物はない。右手前に人が座ってお辞儀をしているように見えるのは木魚です。

        
                    本堂(湯殿薬師)                               鐘 楼

 一見お堂に見える建物に 「瑠璃光」 の扁額と 「御湯殿薬師」 の看板も立ある。それに法山寺のご本尊は “湯殿薬師” なので
ここが本堂なのだろう。
寺の案内版によると、法山寺の山号は 「曇華山(どんげざん)」 で、これは行基菩薩がこの地を訪れた時に山上いっぱいに咲く
優雲花(うどんげ)の花を(3千年に一度咲くといわれている)見て、衆生済度を願い薬師如来を刻んでお堂に奉安したのが
法山寺の始まりとある。 因みに ”どんげの花” とはカンナ科の多年草とあった。
鐘楼にも 「源義朝公霊」 とあるのを見ると、法山寺も源義朝と因縁があるようだが理由は分からなかった。

 納経所で朱印を貰うとき住職が 「うちの場所にもう朱印が押してあるので重ねて押しときますよ」 と言う。
そんな馬鹿な!と思い、納経帳を見ると、確かに55番の所に朱印が押してある。
嫌になるなぁと、55番に押してある朱印を確認すると 「54番 海潮寺」 となっていた。
海潮寺?海潮寺? アッ思いだした。海潮寺は知多四国遍路初日の日に、疲れ果てて辿り着いた札所だ。あの時納経所には
人がいず、納経印を自分で押したのだった。間違いないようにと確認したのに間違ってしまったのだ。
あの日は家に戻ってから熱中症気味でダウンしてしまったが、その時から体調がおかしかったのだろう。

あーあ。これで知多四国霊場の納経帳は不完全な物になってしまった。頭に来るが自分でやった事なので諦めるしかない。
いつか知多半島に来た時に押して貰おうかと思うが、知多半島に来るとはまずないだろう。 

 法山寺と源義朝の関係が分かったのは家に戻ってからだった。
法山寺の近くに 「源義朝公最期の地 湯殿跡」「千人塚」 にあるらしい。
湯殿跡は、平治の乱に敗れ家臣を頼ってこの地に落ちのびてきた義朝が、法山寺の薬師如来に参詣したあと、近くの湯殿で
入浴中に家臣に謀殺殺された場所。
千人塚とは、義朝を殺害した長田一族が、義家の家来との戦いで討死にした死者を祀った塚があるそうだ。
千人塚はともかく湯殿跡は見てみたかった。義家が 「我れに木太刀の一本なりともあれば」 と無念の叫びをあげた場所なのだ。

 考えてみると法山寺の昔の住職は機転がきいていたと思う。行基が刻んだ薬師如来を “湯殿薬師” と改名するのだから。
だが惜しむらくは義家の墓なり塚を寺に築かなかったので、以後の人気は大御堂寺に奪われてしまったのだ。
当時義家は謀反人で、源氏の棟梁と云えども天皇の勅願寺の大御堂寺に墓を造る事はできなかったはずだ。
その時密かに法山寺で墓を引き受けていれば、その後は頼朝の庇護のもと大寺に変身できたものをと、私の妄想的歴史観は
訴えている。

                                50番大御堂寺から55番法山寺への道

島田3山縦走Ⅱ

2015-11-24 10:58:50 | 低山歩き
歩行記録                                                          H27-11-21(土)
歩行時間:7時間55分   休憩時間:1時間10分   延時間:9時間05分
出発時刻:7時00分     到着時刻:16時05分
歩  数: 37、050歩(推定距離26.6km)    GPS距離23.5km
行程表
六合駅 1:00> 駿河台出合 1:05> 心岳寺出合 0:40> 中山出合 0:10> 双子山 1:05> 智満寺 0:20> 千葉山
 0:35> どうだん原 0:25> 伊太和里の湯 0:50> 矢倉山 0:25> 林道出合 1:00> 島田2中 0:20> 島田駅


                     双子山・千葉山・矢倉山3山縦走Ⅱ

 
                 智満寺                                    奥之院

 智満寺本堂の屋根を見ながら奥の院のある千葉山に向かう。千葉山は島田3山の中で標高(496m)が一番高いが、智満寺で
休憩しているせいか一番楽な感じで登れた。
千葉山に12時ジャストに到着。これで3山中の2山を踏破、いやそれでは大袈裟で2山目に到着した。
六合駅を7時に出て双子山に10時着、そして千葉山に12時着で、ここまでの5時間は想定通りだ。

奥之院は山頂標識を少し下がった所にあり、どうと行った事もない建物だが、ここにもハイカーや参拝者が10人ほどいた。

   
           大杉                       雷杉                    つねたね杉

 奥之院周辺には国の天然記念物に指定されている 「智満寺の十本杉」 そそりたっている。
ハイキングコース上にある写真の3本はいつも見るが、少し離れた所にある一本杉などは、あまり変わり映えはしないだろうと
見に行った事がない。

 
                 吊橋跡                               ペンション前から矢倉山

 前回歩いた時は確かあったと思ったペンションに渡る吊橋が撤去されていた。最近は地方自治体の財政状況が悪いのか、
この様な場所の施設は補修もされず撤去される運命のようだ。
いずれ日本は環境整備の行きと届かない二等国になってしまうのか。
東南アジアなどに行くと公衆電話がイタズラされ受話器が無かったり傷つけられた物が多いが、最近の日本の公衆電話も故障
したり傷ついたままの物も見かけるようになった。収益の上がらない物には手を付けないのだろう。
なのに何十億もかけて国立競技場を造ろうとしたり、動きもしない文殊に兆の金をかけるのだから気が知れない。
段々住みにくい日本になってくるのだろうかと格差社会の底辺に住む年金生活者は憂うのです。

 矢倉山は写真の右側にある山で、麓の煙突のある建物は島田市の焼却場です。


                                  ペンション前から

 
                                     どうだん原

 今年のどうだん原の紅葉は遅すぎたが、それでも紅葉狩りの人は多く中々の盛況です。
(平地の我家のドウダンも紅葉が終わり始めているので覚悟はしていたが)

 
                伊太和里の湯                              ハイキングコースへ
  
 ペンションから続いてきた 「伊太丁仏参道」 と途中で別れ尾川に向かう。分岐に立つ道標は “尾川” となっているがマジック
インクで “伊太和里の湯” と追加しえある。確かにこの方が分かりやすい。
矢倉山にはこの分岐を丁仏参道に下った方が距離は短いのだが、丁仏参道入口の駐車場から焼却場までの上り坂がいやなため
ついつい尾川への道になってしまう。

 前方が開け平地に開墾された先に、車道と田代霊園が見える場所に着いた。ここに立つ道標に、山道の右(西)を指して
 “伊太和里の湯” と書いてある。以前2回道標の指示通り歩いたら伊太和里の湯は沢を挟んだ位置にあり苦労してしまった。
若しかして双子山の標高標識とおなじ団体が設置したのなら連絡をしようかと思っていたら違う団体だった。
それは兎も角3度目の正直と、今回も道標の指示通り右折して行って見た。
するとなんともはや、場違いのような立派な道に繋がっていて、無事伊太和里の湯に着くことができた。
それにしても見てください。例え入浴客のために造ったとしても立派すぎます。この道を入浴客のどの位の人が登るでしょうか。

 
                焼却場の登山口                           一般コース直登コース分岐

 伊太和里の湯の下の広大な空き地が全面太陽光発電に変身していた。以前はこの広い場所をどうするのか疑問だったが、幸い
太陽光発電という収入を得る手段が生まれて島田市は万々歳だろう。

 田代環境プラザの焼却場に 「ご支援に対し心から感謝申し上げます。私たちは必ず復興します! 岩手県山田町」 の垂幕が
掛かっていた。これは東日本大震災で山田町の瓦礫を焼却した事によるお礼だろう。
当時一部市民には、がれきが放射性物質に汚染されていないか心配され、反対運動も起きたていた。

 矢倉山登山道は焼却場を回り込むように建物の右からフェンス沿いに行った裏側にある。
フェンスの曲がり角に毎回見る立札があり、その左前方には矢印の標識もある。
いつもそのまま矢印に従い左折していたのだが、今回は何気なく立札の小さな文字を文字を読んでみた。
 「矢倉山急登コース(バリエーションコース) 一般ルートは左に折れフェンス沿いに進む事」となっていた。
急登コース! それも面白い。急坂は下りは大変だが登りは我慢して歩きさえすればいい。よしこの道を行こう。
だが今まではこの標識に気づいていたのに何故読まなかったのだろう。読めばきっと直登コースに向かっただろうに。
観歩、観歩と云いながらも、まだまだ注意力が足りない。と又もや反省。

 
           ピークに付いた(目印はある)                      壊れたベンチ先は急斜面

 道標こそないが踏み跡はハッキリあり、目印もソコソコに着いていたので迷う事こと無く歩けた。
ロープ場も無く又それを必要とするような場所も無かったが、道は昨日の雨で湿っていてよく滑った。一度は胸から転んでしまった。

 標識から20分ほどで頂の平坦部に到着、思ったよりスムーズに着くことができた。これからこのルートは上りに使って下りは
一般ルートに使おうなど考えながら平らになった踏み跡を行く。
踏み跡の分岐に来たがどちらにも目印は無い。では踏み跡が濃そうな直進の道はと行くと、ベンチが壊れて鉄枠だけになった
物が置いてあった。で、その前方はナントマーとてつもない急斜面で草付だがとても下れる状態ではない。
しかし右にも左に踏み跡はない。仕方なく強引に右に行ってみたが駄目。今度はベンチを経由して分岐まで戻り右の道を行く。
じきに踏み跡は無くなったが更に進むと下りだし、さらに下からは車の排気音が湧きあがってきた。この音は新東名の音か。
これはいけない、矢倉山はピークが幾つもあるのでなく山頂部分は平坦なはずだ。下ってはいけないと又もや分岐まで引返した。
山頂が分からなければ最悪目印のあった平坦部の開始点まで戻ればよい。それでも駄目なら直登コースを下ってもいい。
ただその前に左にある少し高い所を確認しておこうと踏み跡は無いが適当に高台に向かった・

 
                 矢倉山                               掘り返された花壇

 目印があった。と思ったら見慣れた矢倉山が目の前に現れた。何のことは無い最初に平坦部に着いたとき高い所に向かえば
2・3分で山頂に着いたものを、踏み跡と思って直進したのがいけなかった。この時、山頂部に着いたと思い油断して次の目印を
確認しなかったのがいけなかった。それに間違いに気づいてから、矢倉山の山容を考えずに踏み跡ばかり気にしたのも悪かった。
今日は反省の多い日だ。

 矢倉山に2時5分に到着。想定では千葉山から2時間半だが2時間丁度で着いている。順調なペースだ。
しかし道迷いをしたので焼却場から山頂まで40分掛かってしまったが、迷わなければ30分は掛からず登れるだろう。
これは一般ルート歩いた時と殆ど変らないタイムだった。結局山頂部で15分ほど無駄な時間を使ってしまったのだ。

 春来ると黄色の花弁つけたカタクリの花が咲く花壇が、見るも無残に掘り返されていた。
猪の仕業だろう。これでは来春カタクリは見れそうもない。

 矢倉山に登った人で 「景色は見えない」 と言う人がいるが、これは間違いで山頂から西に20mも行くと展望台がある。
山頂に標識もあるので是非寄ってみてください。

                                 矢倉山展望台から
  
                            矢倉山展望台から

 こんな景色を眺めることができます。右の写真の中央には今朝岸山下で見た大井川に架かる島田大橋も見えています。
もっとすっきりした日なら静岡空港を飛び立つ飛行機も見えたでしょう。

 
     農道出合・直進が尾川、右がバラの丘                千葉山(中腹の白い物がペンション)

 矢倉山山頂への一般コースは小さな笠を被った道標のある四辻からは1本しかありません。この四辻で伊太和里の湯や
田代方面、そしてこれから歩くバラの丘方面に分かれています。

 山道が尾川から上がってくる農道と合流したら、左の写真の右の農道に進みます。左は尾川に下る道で、ここを下れば
尾川にはバス停もあります。
しかし私はここからの道が好きなので今日も右の農道を歩きます。

 
                イチョウ                                     ぎんなん

 右の農道に入ってすぐ黄色い葉を付けイチョウの木がある。近寄ってみると枝にはぎんなんの実は無いが、下には
無数のぎんなんの実が落ちていた。実の外皮は既に変色をしているが、食べるのは実の中身なのだから支障はないだろう。
しかし今日はビニール袋もないので諦める事にしよう。

   
                                  快適な山道

 農道部分も自然林になっている所もあり気持ちが良いが、この道の良さは農道が終わった山道でその良さを味わえる。
若干下り勾配の道は今日一番の速度で歩けただろう。いつもなら終盤モードになってダラダラ歩きになるのだが、そんな事も
なく快適なピッチが続く。

   
                                    板 根

 板根は熱帯地方に多いとされるが、ここでも何本もの板根を見る事が出来る。
残念なのはこの木の名前が分からない事だ。

 途中にバラの丘団地へ分岐と、国一バイパスのガード下に出る分岐があるが、バラの丘に下る分岐の標識が無かった。
しかし団地上の農道は見えているので道が通れなくなったのではないだろう。

        
            ジグザクな道 (ジグザクな場所の地図)                     国1バイパス

 千葉山から続いていた山並みが終盤に掛かった頃、なんとも理解できない道に出る。 
九十九折れになった道が柵で囲まれているのだが、北側の斜面は5回も折れ曲がっている。これが急傾斜ならまだ頷けるが
それ程の斜面ではない。一体この道は歩くのはどういう人だろうか、車も通れない道なので農家の人が歩くとは思えない。
ハイカーもここまで山伝いに歩くのは私のような物好きだけで数は少ないはずだ。
止めよう。この道があるお蔭で山の末端まで歩けるのだから、感謝して当然で文句を言う筋合いではない。
しかしそれにしても面倒くさい九十九折れだ。

 
                   車道合流                              丘陵の最終部

 国1バイパスを渡った最後のピークは茶畑になっている。茶畑の間の簡易舗装された急な坂を下れば島田第2中学校横の
車道に出る。と、坂道の途中で写真を撮り終ったと思ったら、思い切り尻餅をついてしまった。
傾斜が急で滑りそうだと用心はしていたのだが最後に来て油断してしまったのか。何しろ靴底が減って平らになっている靴では
滑るのも当然かもしれないが、膝や足腰が弱ってきたことも確かだ。気を付けないと、と思が何ともしがたい。

 島田駅に4時5分に到着。矢倉山からは1時間45分掛かっている。想定の1時間半より15分余計に掛かったがマーマーの
到着時間だ。全体で9時間5分で5分オーバーだがこれも良しとしよう。

島田3山縦走

2015-11-23 12:12:03 | 低山歩き
歩行記録                                                          H27-11-21(土)
歩行時間:7時間55分   休憩時間:1時間10分   延時間:9時間05分
出発時刻:7時00分     到着時刻:16時05分
歩  数: 37、050歩(推定距離26.6km)    GPS距離23.5km
行程表
六合駅 1:00> 駿河台出合 1:05> 心岳寺出合 0:40> 中山出合 0:10> 双子山 1:05> 智満寺 0:20> 千葉山
 0:35> どうだん原 0:25> 伊太和里の湯 0:50> 矢倉山 0:25> 林道出合 1:00> 島田2中 0:20> 島田駅


                     双子山・千葉山・矢倉山3山縦走

どうだん原の紅葉に行ってきました。コースは六合駅を出て双子山、千葉山、矢倉山を回り島田駅がゴールの凡そ25km程の
コースです。特段面白味のないコースと思われていますが、私は双子山の途中の景色、千葉山智満寺の歴史、島田中央公園
西上のなだらかで歩きやすい道が気に入り年に1度は歩いています。
コースタイムは六合-双子山が3時間、双子山-千葉山が2時間、千葉山-矢倉山が2時間半、矢倉山-島田を1時間半の
計9時間を想定しています。これ以上早くなる事はないが遅くなっても10時間は掛からないと思っています。

              
                                     岸の浅間神社(場所

 六合駅の北にある岸の浅間神社の右(東)横から山道に入るが、本の2・3分で農道に合流します。合流したら農道を上に
向かえば藤枝駿河台からのハイキングコースに合流します。そこからは要所要所の道標が建っています。


                              岸山下からの島田市街。

 岸山下の農道は地元の人が元旦にお神酒を飲みながら初日を向かえる場所だそうです。
今日は薄靄が掛かっていて眺めは良くなかった。右端の山は阿知谷アルプスの白岩寺山で下に見える長い白い物は大井川に
架かる島田大橋です。

        
                             ベンチ

 洒落たベンチが道端にあります。右は根の残った切株を利用してあります。
私はまだ一度も座った事はありません。

 
                砦の石垣か?                          藤枝ハイキングコース合流部            

大井川からも見えていた砦の石垣のような物は近づいて見れば、何のことはない農道法面の擁壁でした。
その擁壁の間から藤枝ハイキングコースの駿河台からの道が来ています。道に詳しくない当初はここから駿河台に下っていたが
六合への道を知ってからは、もっぱら六合への道を歩くようになってしまいました。
何しろ駿河台への道は林の中が多く、冬以外では蜘蛛巣攻撃にあう確率が高いので。


                           合流部付近からの志太の山並みと富士山

 駿河台との合流部からは西側が開けていて、春ともなればお茶の新芽の柔らかそうな緑色が山裾に広がって見えます。
一方東側の眺めは合流部から2・3分行くと志太の山々の上に富士山が顔を覗かせています。
今日も生憎と云うか毎度と云うか富士山は薄っすらとしか見えません。雪も8合目か9合目から上にあるだけで淋しいものです。

 
              新しい道からの分岐点                     農道から尾根道への分岐点

 道標は要所要所に建っているが、新しく道ができたな所から細い農道に入る場所は見落とし易くなってしまった。
太く新しい道が下り初めカーブになった所から左に入る道が登山道への道です。道を少し入った所に道標が有ります。

 その農道に入り、時折あった道標が見えなくなり不安を覚えた頃道標が出てきます。入口から30分程度の場所でしょうか。
そこまでは軽トラなら走れそうだった道幅が突然細くなったと思ったら5mほど先からまた元の太さの道に戻ります。
細くなった場所は下を見ても崩れた気配はないのに何ででしょうね。疑問です。

 その細くなった所から3分ほどの場所から農道と別れ尾根の山道に入ります。入口には道標が2本立っているので見落とす
事はありません。

  
          細い農道                  山 道                     双子山下の階段  

 こんな山道が続きます。
途中で出合う心岳寺からの道は、藤枝市のハイキングコースになっていて標識もあるし、途中にお地蔵さんも立っている。
昔は千葉山に続く遍路道だったかもしれない風情のある道です。

 ガサッガサッと音がしたら、すごい勢いで黒っぽい物体が斜面を駆け下りて行った。ウッ! 鹿か?
でも鹿にしては黒っぽ過ぎるし、尻尾が上に向きふさふさした白い部分があるのも変だ。それに角も見えなかった。
でも跳躍して行ったのだから猪ではないし、カモシカならあんなに早く飛び跳ねないだろう。
考えながら歩いていると又もやガサガサ。今度も同じような動物が駆け下りて行った。
この山塊で動物を見るのは初めてだったが、何だろうな?矢張り鹿だろうな。そう云う事にしておこう。

中山からの道に合流。ここまで来れば双子山は目と鼻の先だ。
この中山からの道もハイキングコースに指定されています。

        
                      双子山から                               双子山の寅

 双子山から見る富士山が先ほどよりはっきりしてきたようだ。ただこの双子山山頂は今までで一番荒れていた。
広場はススキや雑草が生えこのままでは今に展望台に行くのも大変になりそうだ。その展望台も下の木が延びてきて富士山を
隠してしまうかもしれない。そんな荒れだした山頂で一番似合っていたのは寅です。もっとススキの背丈が伸び、虎の台座を
隠してしまえば更に似合うだろう。

 双子山の入口に新しい標識が立っていて 「双子山 345m」 とある。エッ! 双子山って400m台ではなかったのか。
そう間違いなく双子山の標高は436.5mだった。
それにしても何故だろう? 標識の立つ場所が双子山の三角点の所でないのも変だが、標高が100m近く低い理由が分からない。
標識も手軽な木製の物ではなくアルミ製立派なもので、立てた団体もこの山域の標識ではよく見かける団体だ。 
単なる間違いなのか、それとも意味があるのか???

 
                千葉山(496m)                            矢倉山(311m)

 双子山から農道を西に向かうと十字路に出て、東側の農道の先には富士山が見える。千葉山には直進する農道を行くのだが
ここで少し農道を離れピークハンターをするのも面白い。斜面にある木の階段を登り茶畑の間を上に向かうと未舗装の農道に出る。
更にその道を上に向かうとピーク付近からは舗装された農道になる。
この辺りからは西も東も開けた景色を眺めることができる。尤も景色と云っても今まで見てきた景色と余り変わり映えはしないが。
ただこの頂にお地蔵さんを祀った祠があるのをみると、この道も千葉山智満寺から東光寺や心岳寺に続く遍路道だったのだろう。

 舗装された農道を下ると双子山からの農道に合流する。

   
         智満寺仁王門               仁王門から中門                  境内から中門

 智満寺へは千葉公会堂のある駐車場側から入ると長い階段を登らないで済むせこいルートをとった。
それでも県の文化財に指定されている仁王門ぐらいは通らないと、と途中から階段の途中にある仁王門に向かう。
ここまではただの一人とも出会わなかったのが、ここでは何組かのハイカーや参拝者がいた。流石智満寺だ。
残りの階段を登り中門を潜って境内に入る。茅葺の屋根に草が生えている中門に風情を感じる。

 
              千葉山智満寺                                 薬師堂

 60年に一度御開帳されるご本尊千手観音と3年前に倒れた国の天然記念物 「頼朝杉」 の幹からから制作された、阿弥陀如来の
特別開帳が今年の秋に行われるのを新聞で知ったのですが、つい忘れてしまい拝観することができませんでした。
年寄りは思い立ったが吉日で、すぐ実行しないと忘れてしまう。と反省するが、その反省もすぐ忘れてしまいます。

 まだ新しく見える本堂の屋根の茅の一部は、我が故郷御殿場の萱も使われていると茅葺をしていた職人に聞いていたので
何となく愛着も感じます。
この智満寺の山号は当初 「宝龜山」 だったが、源頼朝が家臣の千葉氏に寺の中興を命じ、その功により 「千葉山」 になったと
伝えられている。
同じように源頼朝の命を受けて創建した、知多四国霊場の 「大御堂寺 」に比べどうだろう。
本来ならその地で父親の義朝が忙殺されて墓もあり、供養のために建てた大御堂寺の方が立派になる筈ですよね。
なのに戦勝祈願を行っただけの智満寺は国の重要文化財になるほどの建物だとは。
尤も両寺とも鎌倉時代からの建物ではなく、智満寺は安土桃山時代の1589年、大御堂寺は江戸中期の1754年に再建されて
いるので、その年代差なのでしょうかね。

   
          本堂向拝                  オビンズル様                    ぎんなん

 自分の悪いところを撫ぜると治るとされるオビンズル様だが、膝のあたりがピカピカしている。
私も痛みを感じる左足首を撫ぜたいが、胡坐を組んでいるの撫ぜようがない。残念。
このオビンズル様も愛知の知多半島に行くと撫ぜた気配を感じないものが多い。どちらかと云うと前掛けを沢山つけ撫ぜさせ
ないようにしているのではと、邪推したくなるほど前掛けが多い。
しかもその前掛けが古くし、その上から撫ぜても治癒の効果はなさそうだ。
所変われば品変わるとはいえ、それではオビンズル様を安置する意味がない様に感じるのだが。

 日も当たりベンチもあるので昼飯を食べて行こう。今のところ時間は想定通りだ。

知多四国50番大御堂寺

2015-11-22 10:46:38 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分   休憩時間:2時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分     到着時刻:17時55分
歩  数: 40、334歩(推定距離30.2km)    GPS距離29.0km
行程表
 内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
  55番 0:30> 57番 1:35>  番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
  63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅

                                50番大御堂寺(源義家)

 
                  大御堂寺大門                              大御堂寺

 50番大御堂寺(おおみどうじ)と51番野間大坊と同じ境内にあり、本堂が大御堂寺に、本殿が野間大坊になっている。
弘法堂は本殿の左側に祀られていた。

  大御堂寺の歴史は古く、寺のHPには、「天武天皇の時代に “阿弥陀寺” として建立され、その後衰えた寺を行基菩薩が
中興します。 のちに弘法大師が知多半島をまわった折に、護摩修行を行いました。その後白河天皇が阿弥陀字を勅願寺と
して阿弥陀寺を 「大御堂寺」 と改称されました。
 平安時代末期に入り、平治の乱で平清盛に敗れた 「源義朝」 が、この大御堂寺のある野間へ家臣を頼ってやってきました。
その家臣の裏切りにあい、義朝公はこの地、野間で殺されてしまいました。 義朝公のお墓や、義朝公の御首を洗ったとされる
 「血の池」 等いわれのものが境内に多数あります。 後に源頼朝公が、亡くなった義朝公の菩提を弔うために、延命地蔵尊と
不動明王・毘沙門天をおさめました。そして七堂伽藍を造営します。」


これで大御堂寺と野間大坊の関係が凡そ理解できた。ようは野間大坊は大御堂寺の十四坊の一坊と云う事だろう。
 大御堂寺の門は山門といわずに 「大門」 と呼ぶのらしい。その大門の周りは柵が設けられ立入禁止になっていた。
案内板によれば
 「建久元年(1190)、源頼朝公が亡き父義朝公の法要に伴い、境内の様々な伽藍を建立した折に創建された。」 とある。
一方大御堂の案内板は
 「大御堂寺一山の根本堂。現在の建物は3度の火災等により、宝暦4年(1754)に鎌倉様式にのっとり再建されたもの。」
とあるがどちらも文化財の事には触れていない。不思議に思い寺のHPを確認するが、本堂にある仏像は県重要文化財に
指定されていたが、建物については記載がない。何故だろう? 
鎌倉時代のしかも天下の将軍頼朝が創建した建物が文化財でないなんて?  不思議だ。

        
                    源義朝の墓                                 血の池

 大御堂寺の横に 「源頼朝公御廟」 があった。中央にある義朝の宝篋印塔を埋め尽くすように、長い板切れが置かれている
のは1本500円で売っている木太刀で、これに願い事を書いて奉納するらしい。。
何故絵馬でなく木太刀かと云うと、義朝が家臣の裏切りにで入浴中に襲撃を受けた際、
 「我れに木太刀の一本なりともあれば」
と無念の叫びをあげたとされる故事に因んだとされる。

 入浴中に殺害されて有名なのは町奴の幡随院長兵衛だが、ここにもこんな事件があったのだと初めて知りました。
(義朝の墓所の写真を何故か撮り忘れてしまい、ネットから複写させてもらいました。)

 その義朝の首を洗った 「血の池」 も境内にあり、この池の水は国家の一大事が発生すると赤くなると言い伝えられている。
ではいつ水の色が赤くなったのかと、突っ込みを入れたくなるが、「今は水草が生茂り水面が見えません。」と逃げられそうだ。

 源義朝の墓に関して以前下田街道を歩いた時、河津町小鍋の 「小鍋神社」 にこんな案内がされていた。
 「昔、文覚上人が伊豆の源頼朝に父義朝の髑髏を見せ、「疾く、疾く、謀反を起こし、平家を討ち亡ぼして、父の恥をぞ清め、
又、国の主とぞなりたまへ」
と激励したと「源平盛衰記」に見え、また後にこの地に義朝の髑髏を埋め弔ったと伝えられている。
文覚が髑髏を葬った場所は、神社の南側にある四抱ばかりの樫の巨木の根本であると伝えられ、この木を髑髏樹と呼んでいる」


 中々面白い話だったので文覚(もんがく)上人について調べてると、文覚上人は伊豆に流罪になり、同じく伊豆国蛭ヶ島に
配流の身だった源頼朝と知遇を得ているのであながち出鱈目の話でもない。
だが何故文覚上人が源義朝の髑髏を持っていたのか、まして蛭ヶ小島と離れたここに義朝の髑髏を埋葬したのかも分からない。
しかも頼朝が父親の髑髏を見て、そのままにするのが不自然で、普通なら近くに手厚く埋葬するだろう。
所詮は他愛のない作り話なのだろうと思った事がある。
 
        
               マニ車                             愛染明王堂と弁財天堂
            
 マニ車が収められているお堂の前に 「インドネパールより伝来 般若心経が刻まれています。世界で最初のマニ車。
一回まわす事により、苦しみ悪を除きます。」

これを読んで疑問を感じないあなたは協調性豊かで素直な人。先ほど天邪鬼に睨まれる程のヘソ曲りの私には到底承服でき
ない話です。何故かですって、最初に “インドネパールより伝来” とありながら “世界で最初のマニ車” となっている。
これが “本邦最初” ならそんな物かと思うのだが。
これではまるで日本の文化のあれもこれも、全て伝授したと言っている、何処かの国と同じになってしまいそうだ。

 境内の片隅にヒッソリ建っていた愛染明王と弁財天のお堂。下に置かれた石は ・・・・・・・

知多四国51番野間大坊

2015-11-21 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分   休憩時間:2時間20分   延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分     到着時刻:17時55分
歩  数: 40、334歩(推定距離30.2km)    GPS距離29.0km
行程表
 内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
  55番 0:30> 57番 1:35>  番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
  63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅

                                51番野間大坊(お砂踏み)

        
        境内の入口にあった石塔                   義朝と常盤御前の顔出し写真

 密蔵院では小雨だった雨も安養院では止んだので、傘をザックしまい野間大坊(のまだいぼう)に向かったのだが、つい目と
鼻の先にある野間大坊に付く前に又もやポツポツし始めた。仕方なくまた傘を取り出した。

 何処に山門があるのか分からにまま境内に入ってしまいウロウロしていると、片隅に源義朝と常盤御前の顔出し写真の板が
目に付いた。そう義朝は頼朝の父親と云うより、常盤御前の旦那で義経(牛若丸)の父親と云った方がイメージが湧く。

 
                お砂踏み                                   本殿入口

 お砂踏みとは四国八十八カ所の札所の砂を踏めば、実際に遍路をしたのと同じご利益があるとされる事から、四国霊場の砂を
埋めてその上を歩くようになっている。案外多いのは砂と共に札所の本尊の石仏を安置してあるのだが、ここでは石仏の代りに
赤い賽銭箱が札所の数だけ置かれていた。

 入口の案内板には 「本殿」 と書いてあるが一般の寺の本堂にあたるのだろう。

 
                 本 殿                                本殿前の庭園とお砂踏み
 
 入口から中に入ると横に長く古くて開放的な建物が建っている。一見古びた土産物屋に見えない事もないが、この建物が愛知県
重要文化財指定の客殿で、豊臣秀吉が晩年住んでいた 「伏見桃山城」 の一部を江戸の寛永年間に移築した物だという。

 お札やお守りなどが並べられた奥には、卍のマークや弘法大師の文字も見える事から、この奥が弘法堂にあたるのか。
この本殿には国の重要文化財に指定されている 「源義朝御最後の絵解」 があり、それを元に義家の生涯の話をしているらしい。
勿論有料で5名以下は1人3000円だとか。周りに参拝者はおらず私一人だ。聞きたい気持ちはあるが30000円も出す気はない。
納経代の100円を払って早々に退散した。

本殿の前の庭園の周りは先程の残りのお砂踏みが造れていた。勿論赤い賽銭箱もしっかり建っている。

 
                 信徒会館                                    天邪鬼

 信徒会館と書かれた建物は、一見昔の役場か小学校のように見える建物だが、以前はこの信徒会館が一杯になるほど信者が
お詣りに来ていたのだろう。それが今では広い境内を歩いているのは私一人とは ・・・・・・・・・

 私の行動を馬鹿にするように 「天邪鬼」 が睨んでいた。
この顔どこかで見た事がある。そうだ藤枝双子山にある 「一生我慢」 の像にそっくりだ。

                                53番安養院から51番野間大坊への道