はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江33観音 9番

2016-06-30 12:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-27(月)
歩行時間:7時間00分   休憩時間:1時間46分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時00分     到着時刻:15時45分
歩  数: 36、968歩(推定距離26.24km)    GPS距離26.3km
行程表
 袋井駅 1:05> 成道寺 0:05> 8番観正寺 0:45> 11番遍照寺 1:00> 遠江一宮駅 1:40> 9番清瀧寺 1:00> 小國神社
 1:05> 10番蓮華寺 0:20> 天浜線戸綿駅 

                                     9番・清瀧寺
 岩室山 清瀧寺 (いわむろざん せいりゅうじ)
 宗 派 : 真言宗   本 尊 : 聖観世音菩薩 
 ご詠歌 : 「岩室の 苔の細道踏み分けて 参る心は浄土なるらん」

 住 所 : 磐田市岩室68-3   11番遍照寺から9番清瀧寺への道

 
                 もろこし直売所                              もろこし畑

 森町名物 「甘々娘」 の直売所が有りました。甘々娘を知らない? あなたは静岡県人ではありませんね。
甘々娘はメロンにも匹敵する甘さがある(少々オーバーか)のが特徴で、全てが朝採りのため、新鮮でみずみずしく生でも美味しく
食べられます。と宣伝しているトウモロコシです。
その生産場所に来たのですが思ったよりもろこし畑が少なかった。四角に整地された大規模農園だがその大部分は水田で肝心の
トウモロコシ畑は1割か2割程度しかない。それでもまだ定植したばかりの苗から、すでに収穫が終わり荒れている畑もある。
開いていた直売所には客の姿が見えないが、まだ営業中のようだ。値段を知りたかったが値札は出ていない。土産にと思わない
ことも無いが、炎天下の元、ザックに入れて歩いたのではそれだけで蒸れてしまいそうだ。それに重たいし・・・・・

 暑いです。広い農地の中は陽を遮るものも無く、もろに直射日光を浴びて歩くしかないので、いつも持参している折り畳み傘を
日傘替りに差そうかとさえ思った。
何しろ前回の事があるので熱中症には十分注意しなければならない。それに小便の回数が減って菌が増殖して膀胱炎になるのも怖い。
その対策としては水分の補給を怠らないことだ。
今朝妻が支度してくれた水分は、凍ったポカリ500ccと900CCの凍らせた水道水だ。いつもは喉が乾いたら飲んでいたが今日からは
歩き始める前と休憩前には喉が渇いてなくても飲むようにしている。
これで病気にならないのなら楽なもんだ。

    
                    遠江一宮駅                                登録有形文化財の証

 標高87mの遍照寺を下り、太田川を渡って大農園を横断すると再度小さな峠を越す。峠と云っても名も無く標高55mと低いので
別にどうと云った事はないが、今日はこんな峠越えを何度か繰り返さなければならない。
まだ体力に自信が無いので今日はゴール地点以外に離脱地を決めてあり、その最初の離脱地の遠江一宮駅に10時25分に着いた。
距離はここまで12.3kmだがまだ頭痛や吐き気は無い。疲れ? 疲れはそれなりにあるが、まだ中止するほどの疲れではない。
これなら次の離脱地までは頑張れそうだ。

 遠江一宮駅は文化庁の登録有形文化財に認定されている。その特徴等も列記されているが要は古いと云う事だろう。
建設されたのが昭和15年とあるので、私より古くて75年以上は経っていることになる。
 駅の入口と中に新聞紙を敷いてあるのはツバメの巣が上にあるので、その糞除けです。
以前構内にはソバ屋があったが今日は暖簾が出ていなかった。休みなのかもしれないが、雰囲気的に休業しているような気もした。

 
              獅子ヶ鼻公園への入口                         トンネルがあった

 一宮駅から北に向かい県道を左折して2本目の角を右折して北に向かう。ここを間違えたら獅子ヶ鼻に行けないので慎重になった。
その角に来て北の方向を眺めると右に寺があり、正面には新東名の高架橋が見える。OKこれで間違いない。
そう云えば道の入口に 「景流苑」 の看板が出ていたので、次回からはこの看板を目標にすれば良さそうだ。

 新東名の下を通り過ぎると “ホタルの里 大久保” とか書かれた看板があり、右側には数軒の民家が建っていて道も分岐していた。
ここはメインの道をと、そのまま直進していくと、県道とに分岐点にあった “景流苑” の看板の建物があり、そこはラブホテルだった。
待てよ獅子ヶ鼻からの道にラブホテルがあったかしらと考えるが、無かったような気がするが確かではない。
きっとあったのだろう更に直進するがおかしな事にある筈のゴルフ場の施設が出てこない。それに右側には時折断崖まである。
これは変だ。どうやら道を間違ったようだが何処で間違えたか覚えがない。分岐した入口の右側には安養院があったから間違いは
ないし、あとは1本道を歩いて来ただけだ。
ただこの道は獅子ヶ鼻からは3回も下っていて自信があったので地図も余り確認していない。それが原因で迷ったのだろう。

 県道から分かれ25分程も歩いた所にあったトンネルから道は下りだし、トンネルの先には磐田市の標識まであった。
アー完全に間違ってしまった。獅子ヶ鼻公園に行くにはトンネルは無く、しかも道は上りが続いていて下る所はなかった。
どうしよう、戻るべきか先に行くべきか。ウーンしかし戻ったとしても分岐ヶ所が分からなければ県道まで行ってしまいそうだ。
なら先に進んだらどうか。多分この先から獅子ヶ鼻に登る車道がある筈だ。と直進することにした。

 
               旧豊岡町のマンホール                     見た覚えのある場所があった。

 トンネルの道を下って行くと梅の花をあしらったマンホールがあった。これは今は磐田市と合併している豊岡梅園のある旧豊岡町の
マンホールだ。獅子ヶ鼻の西からの登り口の敷地も旧豊岡町なので、ここから北の方角に登り口があるのは間違いはないだろう。
暫く下ると矢張り北に向かう道が分岐していたので、山とは離れないようにして北に向かえば、間違いはないだろうとその道に入る。
結構太めの車道だが車は1台も走っておらず、しかも民家もなければ人影もないので聞く事もままならず黙って歩くしかない。

 前方の 「神道修正派 大元祠」 の看板を見て思い出した。獅子ヶ鼻公園には大きな鳥居のある新興宗教のような神社があった。
確かこんな風な名前の宗教だったはずだ。と、勢いづいた。

                 

 そこには獅子ヶ鼻公園の散策マップも掲示されていて、山に登る車道は間違いなく清瀧寺に向かう道だった。
この道は3年前に歩き仲間から誘われて獅子ヶ鼻トレッキングコースに来たとき歩いた車道だったが、その時は仲間に会う事が
できず一人でトレッキングコースを歩いていた。コース自体は中々面白い道だったと記憶している。

 散策マップを見ると9番札所の清瀧寺には、車道経由とトレッキングコースの2種類があるようだ。それなら前回と違うトレッキング
コースを歩こうと更に川沿いの道を進んだ。

 
         獅子ヶ鼻トレッキングコース入口                              途中の岩壁

 県道283号線横にあったトレッキングコースの出発点は、駐車場も備えた中々立派な物だった。
ただ心配なのはコースの入口に2台のウマが置いてあり通行の邪魔をしている。特に貼紙は無いので何のための置いてあるのか
分からないが、多分 “マウンテンバイク進入禁止” のための物だろうと、都合よく解釈してコースを進むことにした。

 今日最初の木陰の道でホッとしながら、夏は街道歩きより山歩きの方が熱中症に罹る割合は少ないだろうなと感じた。
道はトレッキングと云うより遊歩道に近くよく整備されていた。難を云えば初めて歩く者にとっては標識の表示が分かり難い事だが
マー間違っても多寡が知れているだろう。

    
           ◯◯記念碑                            豊岡の街と新東名

 イエイエ実際にはそんな余裕はなく、何処にも寄らず清瀧寺に一番近そうな道を探しながら歩きました。
途中に上の二文字が読めない記念碑があり、そこからは豊岡の街が見えていた。遊具もあるが 「がけに注意して遊びましょう」
貼紙を見て、遊具を置くなら崖の手前にはフェンス位しろと、余計な事も思う。

 記念碑から少し上に登ると舗装された車道があり、場違いなほど立派なトイレもある。だがそこの建つ標識には上に行く車道には
行先がない。自分の勘では清瀧寺はまだ上の筈だと行先の書いてない車道を登る。

    
         岩室廃寺跡の標識                             塔の礎石

 「岩室廃寺遺跡(塔跡)」 の標識が建っていて、近くには塔の礎石と思われる丸く穿った石があった。
清瀧寺にあった説明には 「礎石は五間四面のお堂の物で、八尺の間隔を置いて東西に六個、南北に五個の割で置いてある」 等と
説明してあった。
 五間と云えば一間が六尺で、一尺が0.303cmとすると5✖6✖0.303≒9mとなり、一面が9mの塔になる。
エッ!エッ!エッ! 本当かな? 遠州三山油山寺にある国の重要文化財の三重の塔の下層の幅は3,6m四方とあった。
それが9m??? 計算違いか、私の勘違いか? 現存しておれば国宝間違いないだろう。惜しい事をした。

 
              9番札所清瀧寺                                     清瀧寺

 私は獅子ヶ鼻にある札所の寺号を清瀧寺と書いているが、これは遠江33観音霊場の遍路をしているためで現地には清瀧寺の
表示は一切なかった。散策マップにはこのお堂は “馬頭観音” とあり、お堂横の案内板には “岩村廃寺跡(観音堂)” とあった。
それがなぜ清瀧寺なのか調べたが分からなかった。

 6年前のブログの表記を紹介します。
 『お堂に掲げられた説明板 「敷地 岩室遺跡について」 によると
 「このお堂の辺りはビクニ(比丘尼)と呼ばれていた所で、磐田の国分寺の古文書には 「是より北方三里に尼寺あり」 と記されている。
当時の岩室山は遠江の守護所として政治、宗教、文化の中心地であった。その後1546年比叡山と岩室山は本末の論議で争いで、
比叡山から来襲した僧徒により焼き討ちされた」
となっている。
 一方その隣に掲げられた 「岩室遺跡」 には
 「真言宗祖弘法大師開山の地にして七堂伽藍をはじめ数多の坊舎があった。しかるに戦国のおり織田信長の攻むるところとなり、
堂宇伽藍悉く兵火に罹り延焼数日、敷地村全部を焼尽された」
と書かれている。
 弘法大師が開山したなら真言宗だが、比叡山となると空海の宗敵最澄の天台宗だ。更に此処が焼かれたのは片や織田信長で片や
天台宗の僧徒となっている。どちらが正しいのか? ウーン謎だ。

                 

 お堂の中を覗きこむと更におかしな事に葵の御紋の付いた「東照大権現 台徳院殿 崇源院殿」と書かれた位牌が置いてある。
東照大権現は言わずと知れた徳川家康。台徳院殿は家康の三男で二代将軍家忠。そして崇源院は家忠の正室で浅井長政と
お市方の娘の江(ごう)である。
そんな位牌が何故此処にあるのだ。徳川家康が浜松城に居たとき家忠が生まれた事が関連しているのだろうか? 
でも何のためにここにあるのか?
比較的新しく見える位牌の横には安っぽい(失礼)仏像の横に置かれていた。そのため位牌も何故かインチキぽく見えてしまった。』


 6年前も今も感想は変わらない。要は私は進歩していないということだ。

 清瀧寺までの道を間違えて予定より50分ほど遅れてしまったが、新しい道、しかもトレッキングコースを歩けたので結果的には良しと
しよう。今時点熱中症の自覚症状は出ていないが、一宮駅の時と比べ足腰と肩が痛くなってきている。
まだ17.5kmしか歩いていないのだから、だらしがないったらない。

遠江33観音 11番

2016-06-29 12:00:00 | 低山歩き
歩行記録                                                           H28-6-27(月)
歩行時間:7時間00分   休憩時間:1時間46分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時00分     到着時刻:15時45分
歩  数: 36、968歩(推定距離26.24km)    GPS距離26.3km
行程表
 袋井駅 1:05> 成道寺 0:05> 8番観正寺 0:45> 11番遍照寺 1:00> 遠江一宮駅 1:40> 9番清瀧寺 1:00> 小國神社
 1:05> 10番蓮華寺 0:20> 天浜線戸綿駅 

                                     11番・遍照寺
 高平山 遍照寺 内 観音寺 (たかひらさん へんしょうじ ない かんのんじ)
 宗 派 : 真言宗   本 尊 : 十一面観世音菩薩 
 ご詠歌 : 「宝をば 救世(ぐせい)の舟に積みおさめ 五色の島へ着くぞ嬉しき」

 住 所 : 周智郡森町飯田2130   8番観正寺から11番遍照寺への道

 8番までは札所順にお参りしてきたが、次の9番清瀧寺は森町の西外れの旧豊岡村にある。更に10番はそこから東に向かい
森町の町内にある蓮華寺だ。そして11番は森町の南に戻り8番の近くの遍照寺になる。
これは明らかに札所順が不自然で、遍照寺は後世になって札所になったのではないかと思われる。ただガイドブックにはその事に
触れていないが、遍照寺の創建が “元和元年(1615)” となっていた。
元和と云えば徳川幕府初期なので、今川時代の遠江33観音霊場設立(1592年)当時には遍照寺は無かったことになる。
早速調べてみると、矢張り当初札所だった観音寺は現在の天浜線戸綿駅の近くにあった事が分かった。そこは10番と12番の
間にあり札所順に歩くコースにあった。
それなら何も札無理して所順に拘る事はないと、8番の次に11番遍照寺を打つことにした。

  
    石屋に置かれている石仏              気に入った石仏                    遍照寺表参道            

 8番観正寺を出てまた信濃街道の旧道を北に向かう。途中にあった石屋の前には6年前と同じように古い石仏が並んでいた。
あの時も思ったが、この石仏はどうしたのだろう? 道路拡張などで邪魔になった石仏を石屋が引き取ってきたのか。
そしてここに展示して売っているのだろうか? そんな罰当たりな事をする地域があるのか、疑問だ。
この石仏をよく見ると両方共に戒名らしき “信女、大姉、居士” などの文字が見える。まさか墓場から・・・・・

 そんな事はどうでもよいが、実は二つの石仏に挟まれて置かれている、座して合掌している小さな石仏が気にかかる。
猫の額のように狭い我が家の庭に、小さな石仏をお祀りしたいと以前から思っていたが、新しい石仏は機械で彫ったようで精密では
あるが何故か風情が無い。ところがこの小さな石仏は目鼻立ちはハッキリしていないが、自然石に荒く彫られて姿に何か威厳さえ
感じさせる。きっと売り物なのだろうが一体幾らくらいする物だろうか、確認てみたいが聞く勇気が無い。
3千円程度なら購入してお祀りできれば、遍路が出来なくなっても淋しくないだろう。

 6年前に歩いた時、遍照寺の場所が分からなかったので地元の人に遍照寺の場所を聞くと
 「遍照寺? 知らないなぁ この辺りにはないと思うよ」
 「遠江33観音の札所で若しかすると観音寺と言うかもしれません。」
 「観音寺? それも無いなぁ。地図には載っているの?」
と地図を覗き込んで
 「アー “たかひらさん” のことか。高平さんなら、あの平屋の家の横を登った頂上にあるよ。あの寺は大仏さんで有名な寺だ」
そんな問答をしていた。今回は勿論場所を覚えているので聞く必要はなかったが。

 その高平さんの参道入口にユニークな石碑が建っている。石碑には 「表参道」 とあるのだが、その “参” の字の部首の “ム” の
部分が◯を三つで代用している。更に斜めに三本ある部分は真横に真っすぐな横線で、あたかも “三” を表しているようだ。
月見里の山梨もそうだが、この地区の人たちはユーモアを表現することが得意らしい。好きだなぁー。

 
               11番札所 高平山遍照寺                            大日如来像

 寺名の 「遍照」 が示すように遍照寺は真言宗の寺で本尊は弘法大師像とか。そうそう33観音霊場の本尊が十一面観音と
なっているのは、移転してきた観音堂の本尊の事です。

 本堂横に鎮座する大仏は大日如来像座像で、高5m、周囲8mの青銅製で、享保三(1718)年に開眼したものだそうです。
青銅製では東海一の大きさを誇るそうで、ご利益は縁結びだそうです。
そこで我不肖の息子のために 「おんあびらうんけん ばさらだとばん」 と大日如来の真言を3回唱えておきました。

 ご朱印を受けるべき庫裏に行ってチャイムを押したが、家の中で響いているのですが応答がない。車も無くカーテンも閉まって
いるのでどうやら留守のようです。

 
             境内から見えた遠江の山                       参道から見えた森町の農地

 ガイドブックの等には境内からの見晴が良いと書いてあるがマーこの程度です。竹藪の丈をもっと短くしてくれれば良いのですが。
一方参道から見えた森町の広域農場です。ここでは森町名物のトウモロコシ 「甘々娘」 を栽培しているそうですが、上から見た
限りでは水田との違いが判りませんでした。手前に見える川が “流れも清き太田川” です。

遠江33観音 8番

2016-06-28 12:13:52 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-27(月)
歩行時間:7時間00分   休憩時間:1時間46分   延時間:8時間45分
出発時刻:7時00分     到着時刻:15時45分
歩  数: 36、968歩(推定距離26.24km)    GPS距離26.3km
行程表
 袋井駅 1:05> 成道寺 0:05> 8番観正寺 0:45> 11番遍照寺 1:00> 遠江一宮駅 1:40> 9番清瀧寺 1:00> 小國神社
 1:05> 10番蓮華寺 0:20> 天浜線戸綿駅 

                                     8番・観正寺
 月見山 観正寺 (つきみざん かんしょうじ)
 宗 派 : 曹洞宗   本 尊 : 六観世音菩薩 
 ご詠歌 : 「幾たびも 参る功徳の たまり水 浮かぶ救世(ぐせい)の 舟寄せの松」

 住 所 : 袋井市下山梨524   袋井駅から8番朱印場所成道寺までの道   朱印場所から8番観正寺への道

 前回のダウンに懲りて、2回目の今日は当初ルートの33kmを大幅に短縮して、約23kmと10kmも減らすことにした。
さらに予定していた八形山の縦走も止め、山越えもやらないことにしている。
それでも病み上がりの体と、30度にもなるらしい気温を考えて、第1目標を遠江一宮駅、第2目標を戸綿駅、そして最終ゴールは
原田駅とした。

 
                新装なった袋井駅                             静橋

 新装なった袋井駅で私に関係するのは、キヨスクが出来て駅の構内で氷結を購入できるようになった事と、南側からも駅に入る事が
できるようになり、狭いガードを歩かないで済むようになった事ぐらいです。

 袋井駅前から北に向かい3本の道が延びているが、今日歩く道は西側の一番のメイン道路で、県道58号袋井春野線で所謂 「信州
街道」
である。
 遠江地方から信州に延びる道は、天竜の先からは国道152号の 「秋葉街道」 1本になるが、そこまでには3本の主な道がある。
そのうち1本が袋井から森町を経由して秋葉さんに向かう、この 「信州街道」 だが、森町では南遠相良から掛川を経由してきた
 「塩の道」 に合流する。あと1本は浜松からの国道152号の 「秋葉街道」 だ。

 江戸時代には伊勢参りに次いで秋葉詣も流行っていたと云うが、信者たちはどの道を歩いたのだろう。
当然尾張や関西から来た信者は浜松からの秋葉街道を歩いただろう。と同時に、相模や江戸から来た人はどの道を歩いたかと
云えば、当然掛川からの塩の道を歩いたと思いたい。
 だが、駿府の人たちは東海道を掛川に出ず、山中の道を川根に抜けて秋葉神社詣でをしていたらしい。その証拠に浅間神社
参道の入口や、藁科街道の入口の秋葉神社に続く道には大きな秋葉さんの常夜灯がある。
そうなれば当然東から来た信者はその道を歩くと思うので、掛川から塩の道を歩いて秋葉さんに行く信者は、藤枝・島田以西の
人間と云う事になる。
そしてここ袋井からの信州街道は、地元袋井と磐田付近の人たちしか歩かず、名前こそ立派だが歩く人は少なかっただろう。

 信州街道を歩きだすと原野谷川にかかる。この川は遍路3回目に予定している13番札所大尾山顕光寺付近の山を水源と
している川なので、3回目はこの川の上流を辿る事になる。
信州街道は原野谷川に架かる 「静(しずか)橋」 を渡るのだが、そこからは上流に2本と下流に1本の橋が見えていて、上流から
 「和橋・圓橋・静橋・睦美橋」 と名前が付いています。
 どうですかこの4つの橋の名前を見て何か感じませんか? 偏屈な私はすぐ “何故全て一文字の名前にしなかったのだ” と
いちゃもんを付けたくなります。
しかもですよ、睦美橋の袂の町名が 「睦町」 となれば尚更です。何故態々 “睦美” にしたのですかねぇ。疑問です。

            
            秋葉総本殿遥拝所                         秋葉山本宮の案内板

 原野谷川を渡り、江戸時代の東海道、旧国1、国1バイパスを越し、東名高速の手前に着くと可睡斎への分岐、可睡口がある。
ここには大きな常夜灯と、上に天狗の乗った 「秋葉総本殿 火防総本山 可睡斎」 の看板、そして 「秋葉総本殿遥拝所」 の石碑が
建っている。
 今回は可睡斎は寄らないので、こまかい話は止めるが、私は “遥拝所” と聞くと、その場所から目的物が見えるのではないかと
思ってしまう。しかし今までも掛川の塩の道にある “秋葉山遥拝所” や、四国遍路の “石鎚山遥拝所” 等の遥拝所から目的物が
見えた事が無い。でも何時しか分かりました。遥拝とは読んで字の如し 「はるかに隔たった所からおがむこと。」 なのです。
だから例えこんなゴミゴミした所で、何も見えなくて遥拝所でもおかしくはないのですね。

 東名のガードを越すと 「秋葉山本宮 ⇒」 と書かれた案内板が現れた。これは可睡斎の案内ではなく春野町にある秋葉神社の
案内板です。江戸時代から本家争いをしてきた秋葉神社と可睡斎。全国的には秋葉神社が有名でも、地元では火防の神となれば
可睡斎なのでしょう。

 面白みのない道、信州街道だが、6年前はこんな事を書いていた。
 「8番札所に近づいてくると 『山梨』 の字が目に付くようになった。下山梨、上山梨、沖山梨などの地名もある。
この辺りは今は袋井市になっているが以前は周智郡山梨町だった。その所為で山梨が多いのは分かるが、何故山梨と言うよう
なったのか面白い説を聞いたので紹介しておきたい。
 子供の頃 『山が有っても山なし県』 『痛くなくても大いた県』 とか言って遊んだ経験は無いだろうか。ここの山梨はその言葉通り
 『山が無くて山なし』 なのだ。
この辺りの地形は低い岡はあっても視界を遮るような高い山が無い。しかしそれで 『山なし』 ではチョット芸が無さ過ぎて面白くない。
トンチの利いた昔の人はもう一ひねりしてある。近くに山が無いので月見に適していたこの地は 『月見里』 と書き表していたが単純に
 『つきみさと』 と言わずに、月が見えるのは山が無いからだ。だから 『月見里』 は『 やまなし』 なのだと月見里=やまなし=山梨に
なったとか。
嘘? いえ嘘ではなさそうです。その証拠として苗字でも 『月見里』 は 『やまなし』 さんとか
それに藤枝にある月見里神社はやまなし神社と読むらしいですよ。
ジャー山梨県のやまなしは本来は月見里県かと言いたくなるが、ウィキペディアにはこんな事が書いてありました。

 『山梨郡の名前の由来は 「旧春日居町にある山梨岡神社の裏山に梨の有名な古木があり、そのためこの地域はいつしか山梨と
呼ばれるようになった」 という伝説が存在しているため、果物のヤマナシに由来していると思われがちである。
しかし風土記には 「山無瀬」 「夜萬奈之」 と記されており、語源としては「山平らす(やまならす)」、つまり甲府盆地の高低の少ない
平坦な様子を表す言葉が次第に「やまなし」へ転化したとみるのが妥当であるとある。
そして「梨園」などの言葉に見られる一種の優雅さを感じさせる 「梨」 という好字を当てて 「山梨」 と呼ぶようになったといわれている。』

と書かれていました。

 
              用水路の蓋                                朱印場所成道寺

 分かり難そうだと思っていた8番札所の朱印場所の成道寺には矢張り迷ってしまった。
中学校の近くなので歩いているのは中学生ばかり、多分分からないだろうなと思いながら聞いてみるが矢張り 「知りません」 でした。
 余り歩いて寺から遠くなってもいけないと、今度は人を探しながらのブラブラ歩きでした。ようやく畑仕事していた女性を見つけて
 「済みません。この近くにせいどう寺と言うお寺さんはありませんか。」 と聞くと
 「せいどう寺? ありませんね。」 と答えた後で、手で空中に字を書くような恰好をして 「なるみちと書いてじょうどう寺なら有ります。」
 「そーそのお寺さんです。」
と道を聞いた。成道寺は意外に近くにあり、その説明の中に 「三角屋根の保育園」 があり、その保育園の
近くに行くと用水路に金網が掛かっていた。用水路全体を覆う金網で、これなら水難事故は起きそうもないと思った。

 朱印場所の成道寺で呼び鈴を押すが返答はない。車が停まっているので誰か居そうな感じもするが、何度押しても駄目だった。
そこで玄関の引き戸を曳くと鍵は掛かっておらず中に入る事ができた。若しや自分で朱印を押す事ができるかと思ったが、肝心の
朱印は置いて有りませんでした。

 
                 8番観正寺                                      厄除け石

 今度は迷ってはならずと地図に指示通り慎重に歩いた。細い路地のような感じの道で不安も感じたが、出た所は観正寺の目の前
だった。正に街中の遍路道と言った感じだ。
 この8番観正寺は分かり難い場所で、地元の人に聞いても知らない人が多く、寺と言っても小さなお堂に過ぎない。赤い霊場の
幟も無く、信州街道に面していないので私も6年前はここでは手こずってしまった。
だが一度来れば札所の隣が下山梨の公会堂なので分かりやすい。他人に聞く時も札所名ではなく公会堂を聞けば地元の人なら
分かってくれるだろう。

 正直面白みのない札所だが前回見落とした “石の中から丸い石が顔を覗かせている厄除け石” なる物を探してみた。
雑草の中に放置されていた石はすぐ見つかったが、厄除け石として信仰しているなら、もう少し大事にしたらと感じた。
それに厄除け石と云うより、子宝石として子授け、安産の石とした方がよさそうだと感じた。

 ケチばかり付けるので初めて朱印を貰う事が出来なかった。いや朱印を貰えないのでケチを付けているのかな?

遠江33観音 7番

2016-06-24 12:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-6(月)
歩行時間:5時間30分   休憩時間:2時間25分   延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分     到着時刻:15時50分
歩  数: 29、466歩(推定距離20.9km)    GPS距離21.8km
行程表
 掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
 0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅

                                     7番・慈眼寺
 福聚山 慈眼寺 (ふくじゅざん じげんじ)
 宗 派 : 曹洞宗   本 尊 : 聖観世音菩薩 
 ご詠歌 : 「慈眼して 導き給え 法(のり)の道 ただ一筋に たのむ観音」

 住 所 : 袋井市高尾1169-1   6番岩松寺から7番慈眼寺までの道

 6番岩松寺から7番への道は分りやすい道だった。尤も途中の一部は月に1回は袋井の温泉に行く時に車で通る道だった。
岩松寺の西側から寺の裏を登って、東を走っている車道に出た所が “篠ヶ谷” という信号のある交差点だった。
信号の名前は “Sinogaya” となっているので岩松寺の山号と読みは同じだ。それなのにご詠歌は “ささ谷” と “篠” を “ささ” と
読ませている。何故こんな面倒な事を態々するのだろう? 

 次の信号 “平芝” を左折するのだが、この先には日帰り温泉 「和(やわらぎ)の湯」 がある。だが7番札所はそちらに行かず
途中から北に下る道に入る。道は太く間違いようもないが面白みのない道だ。
新幹線の高架を潜った所で右に折れ、高台に出た所の北に行く道を行けば7番慈眼寺のある袋井駅前に出る。

  
              福聚山 慈眼寺                              慈眼寺の山門(鐘楼)
                  
 慈眼寺の言い伝えに 「後醍醐天皇の皇子が天竜川河口に上陸し、この地にお堂を立て亡くなるまでの17年間を住まわれた。
その従者が皇子の逝去を嘆いて観音堂を建て霊を慰めた。」
とあり、その観音堂が慈眼寺の始めだと云う。
一見すればへ~そんなものか、と思ってしまうが、あちこち歩いていると色々な情報が頭に残っていて素直には頷けなかった。
 
 井の国井伊谷には後醍醐天皇の 「皇子宗良(むねなが)親王」 を祀る井伊谷宮がある。その祭神宗良親王も暦応元年(1338)
陸奥に渡る途中、天竜川河口で座礁し遠江に上陸し、井伊谷の豪族井伊家に身を寄せている。
かたや慈眼寺の皇氏はそれより3年前の1335年に天竜川河口に上陸している。仮のこれらの話が事実なら先着している皇子は
当然宗良親王を出迎え、共に手を取り合って北朝方と戦ったと思う。
それが宗良親王は史実に残る戦を繰り返したのに対し、慈眼寺の皇子は何もしていないばかりか、その名前さえ伝わっていない。
これはどう考えても不自然だ。
久し振りに湧いてきた私の妄想的歴史観はこう訴えている。
 「座礁した船には京から連れてきた宗良親王の愛人も乗っていたが、座礁の際の衝撃で怪我を負ってしまった。これ以上連れ歩く
事もままならず、親王はやむを得ずその地にお堂を建てて愛人を住まわせることにした。生活の面倒を見させるため家来の堀江
新右衛門を残し、自らは伊井谷を目指して進軍をした。
 残された愛人は怪我のため歩く事もままならぬ身になり、いつもお堂の中でひっそり暮らしていた。そのため村人はお堂に住む人の
正体が分からなかったが、お堂を建てたり家来も居るのできっと皇子に違いないと思うようになった。」


 
                慈眼寺本堂                              本堂前のサフランモドキ

 箒目も立てられ綺麗に掃き清められている境内を、恐る恐る横切り本堂前でで読経をあげる。庫裏の呼び鈴を押して暫く待つと
老僧が現れて、何だと! という目をしている。慌ててご朱印を頼みながら、庫裏の玄関の中に飾ってあった遠江33観音の新しい
看板を指して 「何処の札所も看板が新しくなったのですね。」 と声を掛けると 「互助会が持ってきた。」 と簡単な返事。
それでは 「他所の霊場だと赤い霊場の幟が目につくけど、この霊場は少ないですねと。」 と聞いてみた。
  「それは寺の考えによる。」 と取り付く島もないないのでそれ以上の会話は諦めた。

 この寺は駅前の一等地に広い土地を持ち随分裕福に見える。なのに寺前の無駄に空いている土地に税金が掛からないなんて
変な話だ。


  7番慈眼寺から袋井駅までの道
 慈眼寺から袋井駅はほんの目と鼻の先。でも乾杯用の氷結を求めにコンビニに寄ってから駅前に向かった。
今日の歩行距離はたったの21km。なのにそれなりに疲れている。これで次回2回目の遍路の33kmを歩く事ができるだろうか。
弱くなる一方の脚力が恨めしい。でも久し振りの遍路は楽しかった。次回も頑張るしかないか。

遠江33観音 6番

2016-06-23 12:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-6(月)
歩行時間:5時間30分   休憩時間:2時間25分   延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分     到着時刻:15時50分
歩  数: 29、466歩(推定距離20.9km)    GPS距離21.8km
行程表
 掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
 0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅

                                     6番・岩松寺
 篠ヶ谷山 岩松寺 (しのがやざん がんしょうじ)
 宗 派 : 真言宗   本 尊 : 聖観世音菩薩 
 ご詠歌 : 「ささ谷や 岩に松風おとずれて すなわちみてら 浄土なるらん」

 住 所 : 袋井市浅羽3598   5番尊永寺から6番岩松寺までの道

 
             改修前の尊永寺山門                               現在の尊永寺山門

 どちらも尊永寺の山門ですが左が2012年の初詣の時に写したもので、右が翌年2013年11月に写したものです。
山号寺号の石碑が右から左に移り。それに伴って石碑も新しくなっている。彫られた文言は同じだが大きさが一回り小さくなり
新しいためか石は白く落ち着きがない。こんな事なら以前の石碑を再利用した方が良かったのに。

   
                                     色々な道標

 6年前と違う道を歩こうと、今回は参道にあるトイレの横から県道251号に抜けて、JA遠州茶ピアなるJAの建物の近くを西に
行く道を選んだ。途中遍路道の道標なのか分からないが幾つかの石の道標があった。最初に見た道標には 「左 法多山」 の文字が
見え、その先の小道を目で辿ると、今歩いてきた道に続いている。多分以前はこの道が法多山に行く道だったのだろう。

 
             工事中の山の斜面                                豊沢の丘公園

 山の斜面が工事中だが崩壊防止にしては斜面一帯を鉄筋か鉄骨で覆っていて大袈裟過ぎる。ここも太陽光パネルでも設置する
のだろうか。

 「豊沢の丘公園」 の横に出た。ここには前回も来ていたが今日はここから先で違う道に入り6番札所に直接出る道を歩く予定だ。
手持ちの地図には公園の表示は無く、その辺りと思われる所を左折して、南に少しってから西に向かう道になっていた。
だが公園の近くには南に向かう道は無く、公園を通り過ぎ登りだった道が下りになった所でようやく左側に道が出て来た。
その道は地図とは違い鋭角に左に曲がり、向きは東を向いている。道の入口には上水道の大きなタンクがあり、明らかに地図とは違う。
一瞬迷ったものの多分地図の道に合流するだろうと登りだすと、またタンクが現れた。これはタンクへの道かと後悔しはじめたがタンクの
入口からは道は下りになったものの、道の向きは相変わらず東を向いている。嫌だと思いながらも、こうなれば進むしかない。
6番の方向は西南西の方向にあるのだから、分岐があったらその向きの道を選べばいい。間違っても知れているだろう、と。

 
             手作り灌漑装置                                   岩松寺の交差点

 その決断が良く道の向きが南に変わった所で西に向かう道に合流した。あとは車も通らない農道をのんびり西に下るだけだった。
前方に車の往来のある車道が見えてきた。問題はここからだ。ここを右折するか左折するかで正反対の向きに行ってしまう。
道を訪ねれそうな人も居ないし民家も無い。さてどうしようと合流した交差点の先を見ると何やらお墓のような物が見えている。
若しかして、と交差点を直進すると何と何とそこが6番岩松寺だった。

   
          岩松寺の参道                                    古仏群

 6番岩松寺の創建は神亀2年(725)で、開基が伝行基、本尊の聖観世音菩薩も伝行基作と伝えられ、最盛期には三十の僧坊が
あったとされる古刹だ。多分当時は同じ真言宗として法多山尊永寺と覇を競い合ったのだろう。
私の利用している遠江33観音のガイドブックには岩松寺について
 「慶安元年(1648)に24石のご朱印を受けているが、永禄年間(1558~69)に戦火に遭いその全てを失った。」 とある。
素直に読むと1500年代に戦火に遭いその全てを失った岩松寺が、その百年後にご朱印を受ける事になる。
何となく納得でき無いので、少し調べてみるとこんな記事が見つかった。
 「慶安元年(1548)2月に24石の御朱印を受けたが、永禄年代の1558~1573の兵火及び、寛文(1661~1672)の火災で
伽藍僧坊、諸記録すべて消失。」
とあった。
これで一応納得と思ったが、よく見れば慶安元年が1548年となっていて、これは明らかに1648年の間違いだ。
そうなるとまた元の疑問に戻ってしまい、そこから抜け出す術はなかった。

 
               観音堂と行者堂                               地蔵尊

 観音堂は今から300年前の建物とあるが、改修されているのかそんな古さは感じなかった。お堂の造りは1番結縁寺と同じ
方形造りだが、屋根の傾斜が緩いせいか三角形がだだっ広く美しさは感じられなかった。
 隣の行者堂も古い建物だが建立年不詳で今から150年前の修理記録が残っていると云う。お堂の中に役行者像や天狗面があると
云うので上がってみると、床板が波打ちギシギシ音を立てたので慌てて降りてしまった。

 6年目と同じ柄の着物を着せられている2体の地蔵尊。特に坐像の地蔵尊はまるで庄屋のおかみさんのような雰囲気だ。
この恰好は赤い前垂れ姿より面白い感じだが、これだけ仏の体を覆い隠してもいいのだろうか? 良く分からない。

   
            参道の階段                                  地 層?

 自然石を積み上げた石段はかって三十余の僧坊を有した古刹の趣がある。前回はここに着いたのが夕方で、暗くなり始めた境内に
向かう時は、タイムスリップするような感触に襲われた。だが今は昼日中、そんな感じは微塵もしなかった。

 石段を下って道向こうにある本堂でご朱印を受けるのだが、行者堂の先に歩き易そうな道が続いていた。行き先は分からないが
多分本堂に向かう道だろうと進んでみる。途中には小さな切通もあり、そこの法面には面白い形に小砂利が残っていた。
道はすぐ下りになり車道に出て、その正面は岩松寺の本堂前だった。

遠江33観音 5番

2016-06-22 12:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-6(月)
歩行時間:5時間30分   休憩時間:2時間25分   延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分     到着時刻:15時50分
歩  数: 29、466歩(推定距離20.9km)    GPS距離21.8km
行程表
 掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
 0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅

                             5番・尊永寺(北谷寺)
 法多山 尊永寺 内 北谷寺(はったさん そんえいじ  きただにじ)
 宗 派 : 真言宗   本 尊 : 聖観世音菩薩 
 ご詠歌 : 「北谷や 雪や氷と へだつれど とけては同じ 谷川の水」

 住 所 : 袋井市豊沢2777   4番正法寺から山道入口までの道

 4番正法寺から5番法多山への道は、2本の山越えの道と、小笠丘陵を巻きながら小笠山運動公園の中の行く道がある。
前回は迷った末に運動公園の中の道を歩いたが、今回は山道を行こうと思っている。
問題は2本の山道のどちらの道を歩くかという事だが・・・・・

         

 上の地図は掛川遊歩会が発行している 「小笠山ハイキングマップ」 の一部だが、正法寺の横から腹摺峠と三ツ峰に向かって
道は延びている。だがその道の尾根の近くには 「やせ尾根危険」 とか 「上部ルート崩壊 危険」 などの文字が見える。
こうなると怖い事が苦手な私にはそのコースは歩く事ができなくなる。何せ小笠山はそれでなくても危険が一杯隠されている山と
認識しているので余計歩く気にはなれない。

 あと1本の山道は、正法寺から来た道を戻り中電柱の541号の所を南に入る道がある。その道は県道のガードを潜ると始まる
山道を、腹摺岩経由で腹摺峠に向かう道だ。この道は何度も歩いているので何の不安もない安全な道です。

           
                  正法寺横の道                       尾根の正法寺への道

 出入口が分かっているのに歩く事ができないのは淋しいが、尾根道から分岐した正法寺のへの道は一見何ともなさそうに見えるので、
地図の注意書きを見ていなければ私の事だ、多分入り込んでいただろう。だが知った以上は無理はしない。
そうそう、麓に建っているハイキングコースの案内板にも、このコースは紹介されているが注意書きは無いので余計悩ましくなる。
誰かこの道を歩いてブログなどで紹介してくれないかしら。その結果を見て入り込んでみたい気は残っている。

  
                        分岐点                                  遍路道道標
 山道と云うか遍路道と云うか、兎も角その分岐には3本の標識が建っていて、新しく大きいのは「➡正法寺」 の看板。
次いで小さな手作りの 「⇦腹摺峠」 の案内板もある。遍路道の案内は道路に直接置かれた自然石に 「右 四番札所 正法寺  
左 法多山」
の文字が読み取れる。いつ設置されたか分からないが、正法寺には “四番札所” とあるが、法多山には何も書かれて
いないのを考えると古いものではなさそうだ。江戸時代以前の物なら多分 “法多山” ではなく正規の札所 “北谷寺” となっている筈だ。
だが何れにしろこの道が遍路道として使われていたことは事実だろう。
多分正法寺の横から直接山に向かう道は熟練の修行僧。そして横須賀街道でもあったこの道を歩くのは一般巡礼者。そう私のような
者が利用した道なのだろう。

  
             腹摺岩                                   腹摺峠

 昔の街道だったこの道は、急な登りも無く腹摺峠まで行く事ができる。途中には峠の名前になった腹摺岩を通るおまけもある。
街道時代には峠の茶屋があったと云われる腹摺峠は、確かに広くなっていて茶屋があったとしてもおかしくない。
街道はここを南に下って行くが遍路道はどうだったのだろう。街道と同じ道を下ったたのか、それとも山越えをして行ったのか?
峠には石仏が一つあるだけで道標は無いので正確な事は分からない。
昔の人は足は強いが、遠回りするよりは少しは大変でも近い道を歩いたと云う。ならばここも当然山越えをしたのだろうと勝手に
思い込んで、私も山越えを遍路道として歩く事にする。

 
                 掛川方面                                    絶 壁

 峠からモノラックのレールの横の急坂を登りきってしまえば後は小さなアップダウンの続く稜線の道になる。景色はたまに北側が
開けるが余り大した眺めではない。時折その北側が絶壁の縁になっているので躓かない様に注意をする必要がある。

 
                 エコパ                                   奥の院から法多山

 三ツ峰を過ぎて、エコパが見えだしても中々奥の院に着かなくてイライラしてきた頃、エコパが邪魔者無しで見える場所にでる。
そうなれば奥の院の分岐は近い。

 奥の院の分岐には奥の院の表示はないが、送電線の点検路案内が4号鉄塔のある南を指しているのでそれに従えばよい。
縦走路からも南の林の中を覗けば4号鉄塔の塔脚がすぐ近くに見える。
4号鉄塔を通り過ぎすぎ広場に出れば、足元には法多山が見えてくる。

  
          稲荷神社                合羽地蔵                    亀?ナメクジ?

 奥の院から境内に降りるには南でも西でもよいが私は多くの場合西に下る道を歩いている。理由は急坂でない事と手を使わず
降りる事ができるからだ。
今日も西の尾根を下り鐘撞堂の後ろに出て、稲荷神社の祠から赤い鳥居を潜って境内に出た。

 アラー似合っている。赤い前垂れではなく、ポンチョ式の合羽を着たお地蔵さん。色々考えるもんだ。
 こちらは亀かナメクジか。そんな罰当たりの考えは止めようと思っても、一度浮かんだナメクジが離れない。

 
                 北谷寺

 5番札所の北谷寺は今は尊永寺本堂横の東堂に祀られているが、以前は参道を出てエコパ南駐車場に向かう道の横にあったという。
それが明治の廃仏毀釈で無住になった折りに、尊永寺参道の階段横に移転して 「北谷観音」 として祀っていた。
ところが平成10年の秋の集中豪雨により堂が流出してしまい、無事だったご本尊を現在の場所に移したという。

 北谷寺のお堂の天井に、中央に三つ葉葵の紋を配し、周りに干支の絵を描いた円形(正しくは12角形か)の物が取付けられていた。
一番外側の枠に東西南北と書かれ、それに対応する干支は東は卯、西は酉、南は午、北は子、になっていた。
どうやらを方位を示しているようだが正確な事は分からない。因みに私の干支の猿は西の隣で西南西の位置だった。
家に帰り干支の方位を調べると東西南北も西南西の猿の配置も正しかった。

ただ干支の絵の内側に書いてある、東に義延、西に正観、南に尊永寺、北に奉納の意味はいくら考えても分からなかった。
そうそう干支の方位を調べている時に、こんな事が書いてあった。
 「南北を結ぶ線を『子午線』と呼ぶのは、北は子、南は午に由来する。」 のだそうだ。ならば子午線ならぬ午子線ではないか。

                    
                                      法多山尊永寺

 納経所は尊永寺本堂の半地下の場所にあり受付の僧が2名も座っていた。
 「ここのご朱印と23番のご朱印をください。」 と言うが 「ここには北谷寺の朱印しかありません」 と言う。
 「先日ここで納経帳を買ったら、粟ヶ岳にある23番の朱印が押してあったとネットに出ていたのですがねぇ。」
新しい納経を開いて調べてくれたが、いずれの納経帳も23番に朱印は押してなかった。
家に戻りそのブログを調べ直してみると。なんだー! 朱印帳を買ったのは尊永寺ではなく常現寺だった。
この寺は粟ヶ岳山頂にある札所が老朽化して、お堂が崩壊寸前のため、ご本尊を麓の常現寺に移して祀っている寺だった。

 年を取ると思い込みが強くなるので、気を付けないといけないな。

遠江33観音 4番

2016-06-21 10:28:19 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-6(月)
歩行時間:5時間30分   休憩時間:2時間25分   延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分     到着時刻:15時50分
歩  数: 29、466歩(推定距離20.9km)    GPS距離21.8km
行程表
 掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
 0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅

                             4番・正法寺
 鶏足山 正法寺 内 真福寺(けいそくざん しょうぼうじ しんぷくじ)
 宗 派 : 曹洞宗   本 尊 : 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 : 「参るより 罪はあらじの新福寺 御手(おんて)の花を みるにつけても」

 住 所 : 掛川市高御所1312   3番長谷寺から4番正法寺への道

 
               跨線橋から掛川市街                            洒落たアパート

 長谷寺を出て東海道線と新幹線の跨線橋を渡ると跨線橋の上から掛川の市街が見えていた。中央の森の上にポツンと出ている
のは掛川市役所のドーム状の議場だそうだ。今まではアンテナと思っていたが今回調べてみると最上階にある議場だと分かった。
ソー聞いても議場のイメージは湧かず矢張りアンテナに見えるが、横から見た時はビーナス誕生の帆立貝のようにも見えた。
また正面から見るとソロバンの珠のように見えなくもない。このドームがあるため市役所は遠くからでもすぐ分かります。
 市役所の左に見える山は粟ヶ岳で、この山頂に23番札所があるので遍路4回目辺りに登る事になる。

 跨線橋西側下に見える建物の事で6年前にはこんな事を書いていた。
 「新幹線と東海道線の誇線橋を渡るとき4棟の奇妙な建物が目に入った。新しい建物だが形が江戸時代のような建物で屋根が
切妻造りになっている。何かイベントをやる場所かと見てみるがそんな感じはしない。いやどちらかと言うとアパートのような
感じがする。1棟に3軒入るのか、エアコンが3台付いている。なんだろう? 宿場に面した所なら、こんな建物も理解できるが
この場所では・・・・・ こんど掛川の人に聞いてみよう。」

で、掛川在住の人に聞いてみたら単なるアパートだそうです。しかしこんな建て方では土地に対して効率が悪すぎる。矢張り何か
意味があって建てたような気がするのだが。

 
                  匠工舎                                 複雑によじれた木

 東名のガード潜りまた山裾に近い場所に来ると 「関西地車製作事業協同組合 匠工舎」 と書かれた作業所があった。
ちぐるま(地車)って何だろう。ポースターが貼ってあったので近づいて見ると、各地のお祭りに使う山車(屋台)のポスターだった。
工場の中を覗いてみたが材木ばかりで完成品は無い。それにしても地車って何だろう? 山の車に対して地の車? 分かりません。
そこで家に戻ってから地車を調べてみたら、地車と書いて 「だんじり」 って読むのだそうだ。
だんじりと云えば大阪岸和田のだんじり祭りが有名で私も以前TVで見た事がある。凄いスピードで走ってきた山車が急カーブを
曲がる際に家の屋根を壊したり、乗っている人が落ちたりするらしい。
 で、“だんじり(地車)” と “だし(山車)” の違いを調べてみると
 「地車 : 日本の祭礼に奉納される山車に用いられる西日本特有の呼称。、大小二つに分かれた独特の破風屋根を持つ」
 「山車 : 日本で祭礼の際に引いたり担いだりする出し物の総称。」

始めは屋根のあるダシを地車と呼ぶのかと思ったが、画像を検索すると屋根のあるダシが幾つもあった。 しかもその屋根には
破風が付いているので、とても屋根や破風が地車の専売特許とはいえる状態ではなかった。
結局今回は “地車は屋台や曳山と同じようにダシの呼称の一つ” と思うしかなかった。

 地車製作所の近くに柏槇(びゃくしん)と思われる木が幹や枝をクネクネさせていた。どこが幹でどこか枝なのか見当もつかない。
これで幹の一部が白くなって白骨のような舎利(シャリ)や神(ジン)ができれば素晴らしいだろう。

 
               4番正法寺                                      観音堂

 バイパスのガードを潜り舗装路を一登りした所に4番正法寺(新福寺)がある。以前この寺に来ると境内に入る前から大型犬が
煩く吠えていたが、今日はその鳴き声が聞こえない。当時は寺に番犬って何だ! と腹がたったが、こうして静寂の中で般若心経を
唱える方が余程も気持がいい。矢張り寺に犬の吠え声は似あわない。

 本堂の屋根に 「鶏足山」 の山号が見えているが、これは付近の山の形が鶏の足の形に似ていたことに因んだらしい。
でも山の形が鶏の足に似ているって、どうなっているのだろう? まさか足を逆さにしたような山ではないよな。
それではすぐ崩壊してしまうだろう。
そうではなく山を上から見下ろして、その支陵が鶏の足のように伸びていると云う事ではないかな。と思い付近の地形図や航空写真を
眺めたが、そんな場所は見当たらなかった。

 「観音堂も変わっていて鰐口が無ければ宿坊か合宿所に見えないこともない。何しろ2階には欄干が付いているのだから変っている。
そしてその観音堂の隣の古い建物はどちらかと言えばこっちの方が観音堂に見える。
その正面の柱の上には彫物もあり、入口は格子の戸になっている。昔はこっちが観音堂ではなかったのではないだろうか。
格子の隙間から中を覗いてみると・・・・・・・・・ 覗かなければよかった。整理整頓を知らない人の部屋のように乱雑を極めていた。
更に変っていたのは、この建物と同じ屋根の下に幾つかの石仏がある。それは良いのだがその石仏の間や前に袋に入った遺骨箱や、
むき出しになった骨瓶が置いてある。蓋をしてない骨瓶もある。
一体これはなんだ! さすがの私も気持ち悪くて骨瓶を覗く勇気はなかった」


 6年前にあった観音堂の横の建物は、今は撤去され更地になっていて、石仏も骨瓶も整理されていた。

 
                  観音堂内部                                   観音堂内部

 ご朱印は観音堂の軒下に準備されていて自分で押す事ができる。ここは遠江33観音と共に遠州33観音の札所でもあるので
両方のご朱印が準備されていた。
これで2番から4番までの3札所は自分でご朱印を押してきたが、このシステムでもご朱印の場所さえ分かれば何の支障もない。
どうせなら無住の1番結縁寺も、観音堂の中にご朱印を置いててくれた方が電話で呼び出すよりお互い楽ではないかな。

症状記?

2016-06-20 10:38:26 | その他
 6月6日(月)に遠江33観音の1回目の遍路を終えたあと体調を崩してしまいました。
自分では熱中症の影響と思ってるのですが、医者は熱中症ではないと言う。
果たしてどちらが正しいか症状を紹介します。

 6日- 21kmの1回目の遍路を終え、350mlの氷結(5%)を乾杯で飲む。疲れたが普段通り

 7日- 普段通り

 8日- 普段通り 晩酌に焼酎1号と9%の氷結1本(いつもより氷結が多い)

 9日- 午前中普段通り 昼飯を食べた後で吐気に襲われ全て吐く。その後も吐気は続き出るのは胃液のみ。
      小便時の排尿痛が始まる。夕方かかりつけに医院に行くが、歩く事ができず車椅子で移動。熱は38.5度
      小便の中に雑菌が大量に含まれていて膀胱炎と診断。
      放置しておくと前立腺や腎盂炎になるので専門医の受診を進められる。
      点滴も注射も無く菌を殺す抗生物質と解熱・吐気止の座薬を投与される。
      以後症状が重くなったら緊急病院に行くように言われる。
      夜、熱は38度前後が続く。吐気は続き水を飲んだり動いただけでも胃液を吐く。
      小便はしたいが便所まで行けずベットで排尿。出るまでが痛くて痛くて地獄の苦しみ。

10日- 朝泌尿器科を受診しようと2階から車に移動するが、大邸宅でもあるまいのに30分以上かかる。
      尿の検査の結果雑菌が大量に検出され引き続き抗生物質を飲むように言われる。
      エコー検査の結果、前立腺が少し肥大しているがこの年になれば仕方ないと言われる。
      点滴2本を討つと途中からハーハーしていた息遣いが穏やかになり吐き気も治まってきた。
      投薬は無し。家に戻っても落着きを取り戻し、熱は37度台になり夕飯におかゆを食べるが吐気は無し。

11日- 朝自分で車を運転して点滴を受けに泌尿器科に行く。既に排尿時の痛み以外は回復してきた。
      前立腺肥大をこのまま放っておくのも良くないとの事で前立腺の薬を投与される。

12日- 日曜日なので病院は休み。排尿痛以外の症状は回復したがだるさが酷く布団から出る気がしない。
      今日は知人ウォークで高山南峰にコアジサイを見に行く予定だたが、妻に中止の連絡をしてもらってある。

13日- 泌尿器科に行くも菌が少なくなったので点滴はやらず抗生物質の薬の追加投与を受ける。
      微熱、だるさが治まらず終日ベットの上。

14-16日 平熱、だるさは続いているが排尿痛は徐々に軽くなってきた。夜小便に4・5回起きる。

17日- 排尿痛は治まり以前より小便の出が良くなった。だるいがいつまでも寝ていられないと起きるが1日ダラダラ過ごす。

18日- 妻と買い物に行く。若干のだるさがあるがほぼ普段通りに戻った。ようやくPCを起動する気も起きる。
      夜の頻尿は前立腺の薬に利尿剤が入っているせいのようだ。次回医者に聞いてみよう。

19日- もう寝てばかりいられないと、あえて通常通りの生活を送る。晩酌に日本酒1合飲むも特段変わりは無し。
      完全に治癒したのだろう。後はやる気が湧いてくるのを待つだけだ。
    

 以上のような経過を辿りやっとブログを触る気も起きてきました。
今回の主原因は膀胱炎だとしても、その引き金を引いたのは遍路の時の疲れと熱中症ではないかと思っている。
昨年の7月にも知多半島を遍路した夜に同じ症状が起きた事があるので、それ以後はなるべく歩いている時に
水分を取るようにしているのだが、まだ少ないのだろうか。
今はポカリスエット1本と水道水を1本持参しているが、大概水の半分は残っている。
これからはせめて2本を飲み切るようにしよう。

 さて次回の遍路はいつにしようとまではヤル気は回復していないが、次回の歩行距離は30kmを越える。
それも心配の種になってきた。

遠江33観音 3番

2016-06-09 12:43:18 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-6(月)
歩行時間:5時間30分   休憩時間:2時間25分   延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分     到着時刻:15時50分
歩  数: 29、466歩(推定距離20.9km)    GPS距離21.8km
行程表
 掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
 0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅

                             3番・長谷寺
 東陽山 長谷寺 (とうようざん ちょうこくじ)
 宗 派 : 曹洞宗   本 尊 : 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 : 「西国も東も同じ長谷寺 詣る心は後の世のため」

 住 所 : 掛川市長谷(ながや)1615⁻1   2番常楽寺から3番長谷寺への道

   
                    新 池                                  資生堂企業資料館
 
 前回の遍路では2番から3番には新幹線と東海道線の線路を渡ってから西にある長谷寺に向かったが、今日は線路を越さずに
線路の南側を歩く事にした。
 新幹線のガードの手前に延喜式内社でもある利神社が鎮座している。この神社は掛川祭りを構成するを七神社の一つとか。
境内にある神社の縁起書には 「1100年以前から当地に鎮座する由緒正しき神社」 とあり歴史ある事は分かるが、なじみの薄い
神様の名前や事柄が多くて読んでも殆ど理解できない。なので神社が見えても寄る事は少なくなってしまった。
今も境内入口にある縁起書だけを見て本殿には参拝もせず通過してしまった。

 利神社の裏は溜池になっていた。掛川の南側にある小笠丘陵の麓にはこのような溜池が散在している。標高の低い小笠丘陵には
川らしい川が無いので昔は水不足に悩み溜池を彼方此方に造ったのだろう。ただこの辺りの溜池は入組んだ山裾に造ってあるので
一方を閉め切るだけで比較的に容易に作る事ができそうだ。そんな事もあって溜池が多いのか。
それが現在では大井川水系や天竜川水系の農業用水が完備されていて、蛇口を捻れば水が出る農地が多くなっている。

 溜池の次に出て来たのは資生堂の企業資料館とアートハウスだった。ここでは無料の絵画展が行われると聞いた事があるがまだ
一度も来た事はない。今も入口はおろか建物が見える場所で写真を撮って引き返してしまった。
おかげで絵画展が行われるアートハウスかと思った写真の建物は企業資料館だった。

 新幹線横の道を5・600m歩いただけで上り下りの新幹線が2本づつ走り去っていった。一方在来線の姿はみる事はなく、正に
静岡県は鉄道後進県です。
 
   
             長谷神社の山門と地蔵堂                             地蔵堂内部        

 前回の遍路ではこの札所に辿りつくのに大分苦労をしてしまった。寺の場所を聞くのに 「ハセ寺はどこでしょうか?」 と聞いて
しまったのだから分かるわけはない。寺の名前は長谷寺と書いて 「ちょうこくじ」 と読むのだから。
そこで寺の名前を思い出して今度は 「チョウコク寺はどこでしょうか?」 と聞いたがそれでも分からなかった。
その原因が今日やっと解明した。寺の名前はチョウコク寺だが、地元人たちは地名から 「ナガヤのお寺」 と呼んでいるようだ。
それだけでも十分紛らわしいのにナガヤのお寺の本尊は十一面観音で、その姿は奈良の長谷(はせ)寺の本尊を模した物だという。
更にあるブログには 「石柱には寺名がハセデラとなっていたが。その石柱は今は無い。」 とあったが本当かしら?

3番札所の寺号は地名の長谷を取って名付けたとあるが、読み方を変えてチョウコク寺にしたのはまだ理解できる。だが漢字が同じ
だからと云って奈良の長谷寺の本尊を真似するとはチョッと安易すぎないか。何となく寺の品格を疑りたくなる。

 山門の正面に地蔵堂があり、あたかもこの山門はその地蔵堂の山門に相応しいくらい質素だ。
長谷寺は元来この地蔵堂の堂守だったと掛川誌稿にあり、安産祈願の地蔵として祀られていたようだ。
 お堂の中を覗くと正面には座像の地蔵尊が安置され、両側の桟には鎌と包丁の絵を描いた半紙が貼られていた。半紙をよく見ると
 「健康でやさしい子に育ちますように」 とか 「無事生まれました。ありがとうございました」 「安産御礼」 とか書いてある。
更によく見れば鎌の半紙には 「楓太・守道・諒・憲次」 などと男名があり、包丁の半紙には 「あすか・結衣・和花」 等の女名が書いて
あった。
どうや男の子が生まれると農作業に従事できるようにと鎌の絵を、女の子は料理上手になりますようにと包丁の絵を奉納したようだ。
何とも微笑ましく何時までも続いてほしい風習だが、そのうち子供の名前がキラキラネームになってしまうのか少々不安だ。
いやそんな事はない。このような風習を守る人たちはキラキラネームなぞ我子に付けるわけがない。そう思いたい。

  
           鯖大師                      如意輪観音                   スイリュウヒバ

 「寺の正面のお堂の横に赤い色が残った石碑がある。絵が彫ってあって図柄は旅の和尚が魚を手にしている。字も書いてあるが
読めるのは 「大坂・八坂・鯖ひとつ・大師・馬」 などだが、風化して読めないのでなく知識が無くて読めないのだから情けない。
だが絵と分かった字で判断するなら、きっと四国遍路のとき立ち寄った阿波の鯖大師の事だと思う。そこの伝説は弘法大師が倒れた
馬や塩漬の鯖に薬をやると馬や鯖が生き返ったとか、それ以来3年鯖断をして願い事をすると願いが叶うようになったと言う。」
 
と6年前のブログには書いている。
今でも読解力は同じよう、いやそれより下がっているが、調査力は向上している。読み取れた文字で調べるとこんな事が分かった。
 「弘法大師が四国を巡錫してこの地を訪れた際、鯖を馬に背負わせた馬追が通りがかった。大師が鯖を所望したところ馬追はこれを
断った。大師はこれに対し 大坂八坂坂中鯖ひとつ 大師ににくれでの腹や(病)む」 と歌を詠んだ。
すると、馬は急に腹痛で動かなくなった。困った馬追は大師に鯖を差し出した。
大師は今度は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれて馬の腹や(止)む」と詠むだけで、馬の苦しみは治まった。」
そうです。

 境内に植えられている木に 「掛川市保存樹木スイリュウヒバ」 とあった。ヒバは何となくわかるがスイリュウは見当がつかない。
これも早速調べてみると 「スイリュウヒバ(垂柳檜葉): ヒノキの園芸品種。紐状の細長い枝が垂れ下がり、葉先が余りとがらない。
枝葉が下垂してヤナギに似ていることから 『垂柳檜葉』 の名が付いた。」
と分かった。
それなら 「シダレヒバ(枝垂檜葉)」 のが分かりやいと思うが・・・・・・・・・・このスイリュウヒバは6年前に比べ樹勢が衰えていた。

   
                 3番長谷寺                                 長谷寺本堂    

 庫裏の呼び鈴を押したが応答がない。仕方ないの本堂の扉を曳いてみるとここもスーと開いた。
今までの遍路では無断で本堂に入る事はしなかったが、今回はご朱印を貰いたいので無礼を承知の行為だ。
本堂の中にはご朱印のセットが置いてあり自分で押印すればよいようになっていた。アー助かった。
こんな事なら入口に 「ご朱印は中で押してください」 と書いてくれてあると助かるが、と思ったが、そうなると不審者が気安く出入り
する可能性がある。矢張り少しは遠慮しいしい本堂に入るしかないだろう。

 奈良の長谷寺と同じ形態の十一面観音を期待していたが、須弥壇には幕が垂れ下がっていて中を拝む事はできなかった。
                           

遠江33観音 2番

2016-06-08 11:27:20 | 寺社遍路
歩行記録                                                           H28-6-6(月)
歩行時間:5時間30分   休憩時間:2時間25分   延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分     到着時刻:15時50分
歩  数: 29、466歩(推定距離20.9km)    GPS距離21.8km
行程表
 掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
 0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅

                             2番・常楽寺
 保福山 常楽寺 (ほふくざん じょうらくじ)
 宗 派 : 曹洞宗  本 尊:聖観世音菩薩
 ご詠歌 : 「これやこの 常に楽しむ 寺なれば み法の船に さおやさすらん」
(み法:)
 住 所 : 掛川市下俣南1⁻19⁻18      1番結縁寺から2番常楽寺への道

 
              掛川花鳥園                                     2番常楽寺

 6年前のブログでは1番から2番の道でこんな事を書いていた。
 「昔の遍路道はと地図を見るが花鳥園や東名で分断されていて分からない。もと来た道を戻るしかないと東名まで逆戻り。
掛川の町は東名高速のICや新幹線の駅、東海道線の駅、国道1号線などが狭い地域に集中していて交通の便は良い。発展途上の
町なのだろうが東名の南側と北側の格差が大きい。
北側は狭い地域にビルが林立しているが東名を潜ると一転郊外の雰囲気になる。これで花鳥園とパチンコ屋が無ければ本当の田舎に
過ぎないだろう。
 東名ICも開通当初からのICではなく途中からだし、新幹線も市民の署名を集めて陳情して造ったと聞いている。
また掛川城も平成6年に完成させたり、外国に市営の牧場を作って生涯学習に使っているとか、最近では木造のJR掛川駅を保存する
運動も起している。ヤル気は感じるが頑張りすぎてないか気になる。

 東名横の道を歩き始めると薄い水色のビルが見えた。お茶屋かと想像したが海苔屋だった、一体海苔を何所から持ってくるのだろう?
この辺りの海で海苔の養殖など聞いたことがない。これも交通至便の地を求めて進出してきたのだろう。
最初の信号を曲り、次の信号を左折して、少し歩くと常楽寺入口の看板があった。看板の先を覗くと大きな銀杏の木が見える、
あそこが2番常楽寺だろう。」


 6年前も今も東名の南側は基本的には変わっていない。しかしアメリカに作った 「オレゴン生涯学習村」 は既に解散してしまったり
木造駅舎の保存は決まり工事も終了している等の変化があった。
さらに6年前に何故こんな所に海苔の工場が? と思った海苔屋は、つぶれてしまったのか建物は残っていたが海苔の表示も無く
空きビルのような感じだった。

 最近の掛川で目につくのは 「掛川深蒸し茶」 だろう。2011年に 「NHKのためしてガッテン」 で掛川茶が紹介される以前は、
茶処静岡の中の銘茶と云えば本山茶(静岡市)と川根茶が代表だった。
当時の銘茶の生産地は川筋の川霧が出て半日陰のような場所が適しているとされてきた。そのため安倍川や藁科川、そして大井川
筋が銘茶の産地だった。
一方牧の原台地も茶の生産量は多く一大産地だが、日照時間が長いため茶自体の品質は一段下とされてきた。
掛川茶はその牧の原台地に続く粟ヶ岳の麓一帯で栽培されている。
なのに今では掛川茶が静岡のお茶の代表のような感じで、新聞などの通販の広告では “掛川茶” が幅を利かせている。
これも “ためしてガッテン” のおかげで、掛川のお茶の関係者にとってはNHKの方向には足を向けて寝る事は出来ないだろう。

 掛川のお茶と云えば粟ヶ岳山麓の東山地区で行われている 「茶草場農法」 が世界農業遺産に登録された事もニュースになった。
茶草場農法とは茶畑の畝間にススキ等を刈敷きする農法だとか。そのススキなどが育っている場所を “茶草場” と云うようです。
 私の故郷御殿場には広大なススキの群生地大野原(東富士演習地)があるが、ここのススキを刈取り茶畑の間に敷く事は昔から
やってきた。なのにその栄誉は掛川に独占されてしまった。
これも掛川市の積極的な行動のなせる業なのだろう。掛川には静岡西部地方の “やらまいか精神” があるようです。

 6年前の道をなぞるように歩き難なく常楽寺に着いた。門前には遠江33観音の幟が1本淋しく立っていた。

  
        “二番札所”                       青面金剛

 門前にある 「二番札所」 の石碑には “文化三年” の文字が読み取れる。今から210年前の物だ。
私の好きな 「青面金剛」 の石仏もある。小振りな石仏だが台座には三猿があり、六臂には弓・矢・宝輪・三叉鉾・太刀などを持って
いるのが分かる。小振りな石仏のため日輪や月輪、あるいは邪鬼や鶏は彫られていないが、静岡ではこれだけ揃った青面金剛の
石仏は少ないと思う。狭い境内だが良く片付けられていた。

 
                  納経場所                                    本堂内部

 本堂の入口で何度か声を掛けたが応答が無いので引き戸を曳くと難なく開いてしまった。
この寺も無住のようだが玄関を入った所に 「弐番札所常楽寺 奉納経帳壱冊 伍百円 御朱印代 適誼にお願いします」 とあった。
 “御朱印代 適誼にお願いします” を見て思わずニヤリとしてしまった。寺の人に対面してこの言葉を聞くと嫌な感じを受けるが
このように文字で見ると何となく嬉しくなる。言葉で聞けば割増を強制されたようで 「一体いくら払えばいいのだ。」 となるが、
このように文字で見ると書いてくれた人の優しさを感じる事ができる。常楽寺の方はきっと優しく穏やかな人なのだろう。

 ご朱印は後にして先ずお詣りをと内部を見ると、無人とはいえ綺麗に掃き清められている座敷にはゴミ一つ落ちていなかった。
空気も密室のような熱気はなく爽やかだ。きっと毎日開け閉めしてくれているのだろう。

    
                     須弥壇                                   閻魔大王・奪衣婆

 正面の須弥壇(しゅみだん)には、左から地蔵菩薩、大日如来、聖観音が祀られている。この配置だけ見れば中央の大日如来が
この寺の本尊と思えるが、実際は聖観音が本尊だった。

 須弥壇右手に閻魔大王と奪衣婆(だつえば)の像が安置してある。この組み合わせは時々見ることがあり、遠州33観音霊場の
3番札所にもこの組み合わせがあって、その時はこんな事を書いていた。
 「三途の川の三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことで、この川の辺に 「衣領樹」(えりょうじゅ) という木がある。
その木の下には 「奪衣婆」 という老婆がいて、木の上には「懸衣翁」(けんえおう) という老爺がのっている。
奪衣婆が着ている衣類を脱がせ、木の上の懸衣翁に渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。
枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けである。
その 「懸衣翁」 と 「奪衣婆」 が、35日目の閻魔大王の裁判に陪席しているので、嘘の申告は出来ないのである。」

  成程ね。でもそれなら懸衣翁も入れて三人一セットの方が良かったのに。
待てよ、これも思いだした。駿河一国33観音の番外東光寺(熱海十国峠)に矢張り閻魔大王と奪衣婆の石像が あった。
確かあそこも懸衣翁の像は無かったと思う。きっと恐ろしい形相の奪衣婆は閻魔像とマッチするのだろう。
それにしてはここの奪衣婆像は余り怖い顔をしていないな。     
    

 なんて書いていた。それで今回再度閻魔と奪衣婆の関係を調べてみたらウィキペディアにこんな事が書いてあった。
 「俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。」 成程! これで納得。