10番 ~ 20番 地蔵 歩行月日2013/09/14
歩行時間:9時間45分 休憩時間:2時間00分 延時間:11時間45分
出発時間:5時50分 到着時間:17時35分
歩 数: 58、500歩 GPS距離:43.4km
行程表
焼津駅 0:55> 10番 0:20> 11番 0:25> 12番 2:15> 13番 0:15> 芙蓉庵 0:50> 14番
2:30> 15番 0:25> 16番 0:40> 17番 0:15> 18番 0:20> 19番 0:20> 20番 0:15> 安倍川駅
12番目(17番)光泰寺(穴地蔵)
光泰寺は岡部宿の南の山裾にあるお寺で、岡部町(現藤枝市)が整備した「山辺の道」の通過点になっている。
また、光泰寺には木喰五行上人作の二体の「木喰仏(微笑仏)」が安置されていて、今までに何回か訪れた事が
ある寺なので場所は分かっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/5e/a838d8a642e3f27c7b4c492f5065b840.jpg)
岡部宿入口 道端の地蔵さん
岡部宿の入口に立派な石碑が建っている。言うなればこれは現代版の「棒鼻」ということか。
このまま東海道を歩いても面白くないと、東海道より南にある駿遠線の廃線跡の道を歩く事にした。
既に紹介した日本一長い軽便鉄道駿遠線は、駿河の藤枝から遠州袋井まで結んでいたが、実は一時期、藤枝から
更に東の岡部まで線路が延びていた時期があった。というと誤解されそうなので年表で紹介すると
大正 2年 藤枝大手 ~ 藤枝新駅 開業
大正13年 藤枝大手 ~ 相良 接続 藤相線
大正14年 駿河岡部 ~ 藤枝大手 開業 岡部線
昭和11年 〃 〃 廃止
昭和23年 藤枝大手 ~ 遠州袋井 接続 駿遠線(日本一)
上記年表のように藤枝と袋井が接続された時は、既に岡部までの線路は廃止されていた。
そんなわけで廃止されてから年月の経った廃線跡の道は、当時の面影は何も無く興味を引く物も無かった。
廃線跡の道を直進し岡部・焼津間の県道を横断すると、タイミングが良い事に光泰寺の参道に出た。
この分だと1回目に続き、今日も道に迷わないで済みそうだ。そう願いたい。
参道の横のお堂に座像と立像の二体のお地蔵さんが祀られている。赤っぽく感じるのは石材のせいだろうが
何か脆そうにも感じる。これは三輪石なのだろうか知りたいが案内板は無かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/87/a6f00436dd1c22fa823804e69610a73d.jpg)
観音堂 西国33観音菩薩
光泰寺の地図
光泰寺は高草山山麓にある寺の中で、焼津市坂本の林叟院に次いで大きな寺だろう。今は曹洞宗だが前身は
天台宗十楽寺で、高草山山上の修験道場だったともいわれている。
しかし十楽院は天正年間(1573頃)に荒廃してしまう。
その後、文禄年間(11592頃)になり、十楽院が復興され、宗旨を曹洞宗、寺名を光泰寺と改めた。
江戸時代に入り岡部の宿が賑わってくると、現在の東海道に近い現在の岡部町内谷に移転した。
光泰寺本堂の左側に西国33観音菩薩の安置した観音堂がある。その石仏は、どれも彫がしっかりしていて
痛みが少ない。これはお堂の中で風雨を避ける事ができるからか。
お堂には入り、三十三体の石仏を見渡したが、特に角度があると感じられる石仏は無かった。何故だろう?
これだけ石仏があれば、地元産の三輪石と、地元の石工が制作しただろうに、何故角度が無いのだ。
それに参道にあった地蔵尊とは明らかに石材が違う。どちらが三輪石なのか。ここにも案内板は無い。
観音堂の横には、扉が閉まり中を窺い見る事も出来ない薬師堂がある。この中には薬師如来や日光菩薩、
月光菩薩などが祀られ、光泰寺の山号の瑠璃山は、薬師如来の別名、瑠璃光如来から来ているともいわれる。
また、この薬師堂の仏たちは、光泰寺の前身の十楽院にゆかりのものだと考えられている。
でも十楽院は天台宗で光泰寺は曹洞宗。仏像は宗派を問わないのかしら?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/bc/ff1b3664b7cfb810818f447507178182.jpg)
さらに話を続ける。薬師堂の背後の斜面に小さな洞窟があり、奥に釈迦如来、手前左が役行者、右が地蔵尊の
三体の石像が安置されている。これも十楽院ゆかりのものだという。
この洞窟が穴地蔵と呼ばれるのは、地蔵尊が祀られているからだろう。
そうなると駿河百地蔵の地蔵は、この穴地蔵かと思いきや違った。百地蔵の地蔵は本堂にある寺の本尊だった。
百地蔵を歩き始める時は、観音巡りと違ってお地蔵さんなら気軽に見る事も触る事も出来るだろうと思っていた。
ところが11カ所の地蔵巡りを終わって、触ることの出来た地蔵は無く、見る事ができた地蔵は三体だけだった。
後の八体は寺やお堂の中で見る事すらできなかった。
この百地蔵を選定したのは大正時代の静岡の寺の住職なのだから、寺の本尊の地蔵尊が選ばれるのは仕方ない。
だが私としては少々面白くなかった。どうせなら道端の地蔵さんとか峠の地蔵さんなど、もっと庶民的な百地蔵が良い。
とはいえ、ただお地蔵さんだけあっても面白くないので○○地蔵と名前があり、謂れの書いた案内板があれば申し分ない。
歩行時間:9時間45分 休憩時間:2時間00分 延時間:11時間45分
出発時間:5時50分 到着時間:17時35分
歩 数: 58、500歩 GPS距離:43.4km
行程表
焼津駅 0:55> 10番 0:20> 11番 0:25> 12番 2:15> 13番 0:15> 芙蓉庵 0:50> 14番
2:30> 15番 0:25> 16番 0:40> 17番 0:15> 18番 0:20> 19番 0:20> 20番 0:15> 安倍川駅
12番目(17番)光泰寺(穴地蔵)
光泰寺は岡部宿の南の山裾にあるお寺で、岡部町(現藤枝市)が整備した「山辺の道」の通過点になっている。
また、光泰寺には木喰五行上人作の二体の「木喰仏(微笑仏)」が安置されていて、今までに何回か訪れた事が
ある寺なので場所は分かっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/94/db7656d28e54ef04a1874cac787a65e6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/5e/a838d8a642e3f27c7b4c492f5065b840.jpg)
岡部宿入口 道端の地蔵さん
岡部宿の入口に立派な石碑が建っている。言うなればこれは現代版の「棒鼻」ということか。
このまま東海道を歩いても面白くないと、東海道より南にある駿遠線の廃線跡の道を歩く事にした。
既に紹介した日本一長い軽便鉄道駿遠線は、駿河の藤枝から遠州袋井まで結んでいたが、実は一時期、藤枝から
更に東の岡部まで線路が延びていた時期があった。というと誤解されそうなので年表で紹介すると
大正 2年 藤枝大手 ~ 藤枝新駅 開業
大正13年 藤枝大手 ~ 相良 接続 藤相線
大正14年 駿河岡部 ~ 藤枝大手 開業 岡部線
昭和11年 〃 〃 廃止
昭和23年 藤枝大手 ~ 遠州袋井 接続 駿遠線(日本一)
上記年表のように藤枝と袋井が接続された時は、既に岡部までの線路は廃止されていた。
そんなわけで廃止されてから年月の経った廃線跡の道は、当時の面影は何も無く興味を引く物も無かった。
廃線跡の道を直進し岡部・焼津間の県道を横断すると、タイミングが良い事に光泰寺の参道に出た。
この分だと1回目に続き、今日も道に迷わないで済みそうだ。そう願いたい。
参道の横のお堂に座像と立像の二体のお地蔵さんが祀られている。赤っぽく感じるのは石材のせいだろうが
何か脆そうにも感じる。これは三輪石なのだろうか知りたいが案内板は無かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/e5/4de9644259b2f83efd60cf9739ec383b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/87/a6f00436dd1c22fa823804e69610a73d.jpg)
観音堂 西国33観音菩薩
光泰寺の地図
光泰寺は高草山山麓にある寺の中で、焼津市坂本の林叟院に次いで大きな寺だろう。今は曹洞宗だが前身は
天台宗十楽寺で、高草山山上の修験道場だったともいわれている。
しかし十楽院は天正年間(1573頃)に荒廃してしまう。
その後、文禄年間(11592頃)になり、十楽院が復興され、宗旨を曹洞宗、寺名を光泰寺と改めた。
江戸時代に入り岡部の宿が賑わってくると、現在の東海道に近い現在の岡部町内谷に移転した。
光泰寺本堂の左側に西国33観音菩薩の安置した観音堂がある。その石仏は、どれも彫がしっかりしていて
痛みが少ない。これはお堂の中で風雨を避ける事ができるからか。
お堂には入り、三十三体の石仏を見渡したが、特に角度があると感じられる石仏は無かった。何故だろう?
これだけ石仏があれば、地元産の三輪石と、地元の石工が制作しただろうに、何故角度が無いのだ。
それに参道にあった地蔵尊とは明らかに石材が違う。どちらが三輪石なのか。ここにも案内板は無い。
観音堂の横には、扉が閉まり中を窺い見る事も出来ない薬師堂がある。この中には薬師如来や日光菩薩、
月光菩薩などが祀られ、光泰寺の山号の瑠璃山は、薬師如来の別名、瑠璃光如来から来ているともいわれる。
また、この薬師堂の仏たちは、光泰寺の前身の十楽院にゆかりのものだと考えられている。
でも十楽院は天台宗で光泰寺は曹洞宗。仏像は宗派を問わないのかしら?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/4e/f09269bddc1aa86d02d325b2145fa241.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/bc/ff1b3664b7cfb810818f447507178182.jpg)
さらに話を続ける。薬師堂の背後の斜面に小さな洞窟があり、奥に釈迦如来、手前左が役行者、右が地蔵尊の
三体の石像が安置されている。これも十楽院ゆかりのものだという。
この洞窟が穴地蔵と呼ばれるのは、地蔵尊が祀られているからだろう。
そうなると駿河百地蔵の地蔵は、この穴地蔵かと思いきや違った。百地蔵の地蔵は本堂にある寺の本尊だった。
百地蔵を歩き始める時は、観音巡りと違ってお地蔵さんなら気軽に見る事も触る事も出来るだろうと思っていた。
ところが11カ所の地蔵巡りを終わって、触ることの出来た地蔵は無く、見る事ができた地蔵は三体だけだった。
後の八体は寺やお堂の中で見る事すらできなかった。
この百地蔵を選定したのは大正時代の静岡の寺の住職なのだから、寺の本尊の地蔵尊が選ばれるのは仕方ない。
だが私としては少々面白くなかった。どうせなら道端の地蔵さんとか峠の地蔵さんなど、もっと庶民的な百地蔵が良い。
とはいえ、ただお地蔵さんだけあっても面白くないので○○地蔵と名前があり、謂れの書いた案内板があれば申し分ない。