はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵2回目-2

2013-09-29 13:55:56 | 寺社遍路
  10番 ~ 20番 地蔵                              歩行月日2013/09/14

歩行時間:9時間45分 休憩時間:2時間00分 延時間:11時間45分
出発時間:5時50分   到着時間:17時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 焼津駅 0:55> 10番 0:20> 11番 0:25> 12番 2:15> 13番 0:15> 芙蓉庵 0:50> 14番 
 2:30> 15番 0:25> 16番 0:40> 17番 0:15> 18番 0:20> 19番 0:20> 20番 0:15> 安倍川駅

              12番目(17番)光泰寺(穴地蔵)

 光泰寺は岡部宿の南の山裾にあるお寺で、岡部町(現藤枝市)が整備した「山辺の道」の通過点になっている。
また、光泰寺には木喰五行上人作の二体の「木喰仏(微笑仏)」が安置されていて、今までに何回か訪れた事が
ある寺なので場所は分かっている。

 
         岡部宿入口                             道端の地蔵さん

 岡部宿の入口に立派な石碑が建っている。言うなればこれは現代版の「棒鼻」ということか。
このまま東海道を歩いても面白くないと、東海道より南にある駿遠線の廃線跡の道を歩く事にした。
既に紹介した日本一長い軽便鉄道駿遠線は、駿河の藤枝から遠州袋井まで結んでいたが、実は一時期、藤枝から
更に東の岡部まで線路が延びていた時期があった。というと誤解されそうなので年表で紹介すると
大正 2年 藤枝大手 ~ 藤枝新駅 開業 
大正13年 藤枝大手 ~ 相良    接続 藤相線
大正14年 駿河岡部 ~ 藤枝大手 開業 岡部線
昭和11年   〃        〃   廃止 
昭和23年 藤枝大手 ~ 遠州袋井 接続 駿遠線(日本一)

 上記年表のように藤枝と袋井が接続された時は、既に岡部までの線路は廃止されていた。
そんなわけで廃止されてから年月の経った廃線跡の道は、当時の面影は何も無く興味を引く物も無かった。
廃線跡の道を直進し岡部・焼津間の県道を横断すると、タイミングが良い事に光泰寺の参道に出た。
この分だと1回目に続き、今日も道に迷わないで済みそうだ。そう願いたい。

 参道の横のお堂に座像と立像の二体のお地蔵さんが祀られている。赤っぽく感じるのは石材のせいだろうが
何か脆そうにも感じる。これは三輪石なのだろうか知りたいが案内板は無かった。

 
            観音堂                         西国33観音菩薩

     光泰寺の地図

 光泰寺は高草山山麓にある寺の中で、焼津市坂本の林叟院に次いで大きな寺だろう。今は曹洞宗だが前身は
天台宗十楽寺で、高草山山上の修験道場だったともいわれている。
しかし十楽院は天正年間(1573頃)に荒廃してしまう。
 その後、文禄年間(11592頃)になり、十楽院が復興され、宗旨を曹洞宗、寺名を光泰寺と改めた。
江戸時代に入り岡部の宿が賑わってくると、現在の東海道に近い現在の岡部町内谷に移転した。

 光泰寺本堂の左側に西国33観音菩薩の安置した観音堂がある。その石仏は、どれも彫がしっかりしていて
痛みが少ない。これはお堂の中で風雨を避ける事ができるからか。
お堂には入り、三十三体の石仏を見渡したが、特に角度があると感じられる石仏は無かった。何故だろう?
これだけ石仏があれば、地元産の三輪石と、地元の石工が制作しただろうに、何故角度が無いのだ。
それに参道にあった地蔵尊とは明らかに石材が違う。どちらが三輪石なのか。ここにも案内板は無い。

 観音堂の横には、扉が閉まり中を窺い見る事も出来ない薬師堂がある。この中には薬師如来や日光菩薩、
月光菩薩などが祀られ、光泰寺の山号の瑠璃山は、薬師如来の別名、瑠璃光如来から来ているともいわれる。
また、この薬師堂の仏たちは、光泰寺の前身の十楽院にゆかりのものだと考えられている。
でも十楽院は天台宗で光泰寺は曹洞宗。仏像は宗派を問わないのかしら?

     

 さらに話を続ける。薬師堂の背後の斜面に小さな洞窟があり、奥に釈迦如来、手前左が役行者、右が地蔵尊の
三体の石像が安置されている。これも十楽院ゆかりのものだという。
この洞窟が穴地蔵と呼ばれるのは、地蔵尊が祀られているからだろう。
そうなると駿河百地蔵の地蔵は、この穴地蔵かと思いきや違った。百地蔵の地蔵は本堂にある寺の本尊だった。

 百地蔵を歩き始める時は、観音巡りと違ってお地蔵さんなら気軽に見る事も触る事も出来るだろうと思っていた。
ところが11カ所の地蔵巡りを終わって、触ることの出来た地蔵は無く、見る事ができた地蔵は三体だけだった。
後の八体は寺やお堂の中で見る事すらできなかった。
この百地蔵を選定したのは大正時代の静岡の寺の住職なのだから、寺の本尊の地蔵尊が選ばれるのは仕方ない。
だが私としては少々面白くなかった。どうせなら道端の地蔵さんとか峠の地蔵さんなど、もっと庶民的な百地蔵が良い。
とはいえ、ただお地蔵さんだけあっても面白くないので○○地蔵と名前があり、謂れの書いた案内板があれば申し分ない。

駿河百地蔵2回目-1

2013-09-26 16:39:30 | 寺社遍路
  10番 ~ 20番 地蔵                                 歩行月日2013/09/15

歩行時間:9時間45分 休憩時間:2時間00分 延時間:11時間45分
出発時間:5時50分   到着時間:17時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 焼津駅 0:55> 10番 0:20> 11番 0:25> 12番 2:15> 13番 0:15> 芙蓉庵 0:50> 14番 
 2:30> 15番 0:25> 16番 0:40> 17番 0:15> 18番 0:20> 19番 0:20> 20番 0:15> 安倍川駅

              10番目(21番)観音寺

 駿河百地蔵の2回目は始発電車に乗る早出とした。
何しろ焼津駅の北にある岡部の玉露の里に向かい、更に奥の宮島小園まで行かなければならない。
そこから東海道に戻り、進路を東に変え宇津ノ谷峠を越えて、静岡市の安倍川駅をゴールにする計画だ。
予測距離は40km前後だが、厳しい残暑が続いているので、余り無理をして新聞沙汰になっては困る。
「無謀ウォーキング 老人が熱中症に」なんて新聞にでも出たら、これから歩きに出る事も出来なくなる。
そこで東海道に戻った時点の体調で、安倍川駅に向かうか岡部の東海道をゴールにするか考えたい。
だがそうなると「駅から遍路」が達成できなくなってしまう。それも困るのだが-------

 

          観音寺                   百地蔵標札        地蔵 

 焼津駅から観音寺までは、車の量は多いが距離が短く分かりやすい東名高速の取付道路を歩く事にした。
観音寺は取付道路が1号線に合流する手前の、葉梨川の堤防下にあり駿河一国33観音札所でもある。
小さな無住の寺で、観音巡りのご朱印を貰うのに、近所の管理人に寺まで来てもらった記憶がある。
その時本堂のご本尊の聖観音をお参りしたが、一緒に地蔵菩薩も祀ってあったかは記憶にも写真にもない。
若しかして境内にお地蔵さんがあるかもと、期待と不安を抱き観音寺に到着。
月極駐車場になっている境内には、何処にでもあるような六地蔵のお堂と露座の地蔵さんを祀ってあった。
百地蔵の地蔵はどれか分からないが、一先ずこの露座の地蔵さんということにしておこう。


              11番目(20番)慈眼寺(傍示杭)


 
         田中藩傍示石                    国道1号と東海道の分岐

 観音寺の浦を流れる、葉梨側の自転車専用橋を渡り東海道に出る。次の慈眼寺は岡部宿の手前にあるので
ここから暫く東海道を東に向かい歩く事になる。
東海道に出ると早速藩境を示す傍示杭が建っていた。いや石製だから傍示石なのだろうか、そこには「従西田中領」
書かれている。前回の百地蔵で歩いた田中城の領地の東外れになるのだろう。傍示石の袂に案内板があり
「この傍示石は田中領と岩村領との境界傍示標である。弘化年中(1846年頃)幕府より諸侯領地の傍示表は全て石材に
改むべしとの布令があったので、長楽寺町の石材業に命じ領地境に建立した。明治4年に廃藩置県令が発布され、
この傍示石は撤去されたが、近年になり本来あるべき地に復元しようと複製を建立した」


 東海道が国1と合流し歩道橋に上がると国1と東海道の分岐がよく分かる。その分岐点にも傍示標が建っていた。

 
        岩村藩傍示杭                     東海道藤川宿「棒鼻ノ図」

 歩道橋を下った東海道の入口に建っている傍示標は、岩村藩のもので「従東巖村藩」と書かれている。
この傍示標は木製でできているので傍示杭なのだろうが、石でできた傍示標はどうしたのだろう。
先程の田中藩の案内では、幕府が石材に変更すよう指令を出したのに従わなかったのか、
それとも本来この地には傍示標は無かったが、街道を歩く人が増えてきてから建てたのか? 
傍示杭の横に案内板があったがその点は書かれていない。

 東海道を歩いているとき、歌川広重の東海道53次の浮世絵と現在の風景と比べてみようと、浮世絵を複写して
持ち歩いていた。その中に傍示標を描いた物が有ったはずだと探してみると三河藤川宿の「棒鼻ノ図」が出てきた。
棒鼻とは浮世絵の説明文には「棒鼻とは棒端ともいい、「ここより何々宿」と書かれた宿場の境界に立っていた棒杭
のことです」
とある。棒鼻については東海道の新居宿に丁寧な説明があったので紹介すると
「棒鼻跡 ここは新居宿の西境で、大勢の人が通行できないように土塁が突出て枡形をなしていた。棒鼻とは駕籠の
棒先の意味があるが、大名行列が宿場に入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになった」

浮世絵を見るとまん中に建っている杭が、あたかも藩の領界を示す傍示杭のように見えるが、実際は宿場の入口を
示す棒鼻なのだ。勘違いしやすいがこれで納得。

  
        馬頭観音                   五智如来像                       敷石   

 ありました。ありました。私が最初に角度のある石仏に気が付いたのは、この馬頭観音でした。
一目見て格好良く感じたので、それから気をつけて歩いているが、これ以上角度のある石仏は見ていない。
どうですか、これなら角度があるのが写真でも分かりますよね。
これだけ角度を造るには、平らな石では石材も大きく必要だし、削る場所も沢山で細工は大変だ。
仮に石の角を利用したとしても、平らな石仏の加工より高い技術が必要だったろう。
しかし建立年号を見てガックリ。「昭和○○○年12月」になっている。この石仏は手彫ではなく機械彫なのか??

 石仏を過ぎ横内に入ると家の軒先に屋号の標札を建てている家が出てきた。
その中に「□□石」と石屋を思わせる屋号が2軒。そして現業の石屋が1軒あった。
こんな小さなに石屋が3軒もあるのは不自然だが、きっと高草山中腹からから取れていた「三輪石」
せいだろう。今では三輪石の採掘は行われていないので、地元の人にも忘れられてしまったが、岡部宿の観光案内所
の横には三輪石で作った「五智如来像」や、このすぐ近くにある白髭神社前には、道路に荷車が通るため敷いた
轍跡のある敷石が残っている。
若しかして角度のある石仏は三輪石で作ったものではないか。そして彫ったのはここの石工だったりして。

  
            あげんだい         馬頭観音            門前の古仏

 朝比奈川を渡ると巨大な松明のような物が立っている。これをこの地方では「あげんだい」とか「とうろん」とかよび
お盆の後の送り火として盛大に燃やす物です。
あげんだいは10mもある孟宗竹の先に、竹で作った籠を取り付け、中に燃えやすい松葉、籾殻などと一緒に花火を
入れてある。これを海岸や川辺に立て、下から火を投げ入れて籠に火をつける。
籠の中に火が燃え移ると、篝火の様になった籠からは、ヒューヒューと音を発てて花火が飛び出してきたり、
籠から五色の火を噴出したりする。きっと花火のドラゴンや流星などを入れてあるのだろう

 そのあげんだいの後ろにある川除地蔵には、やはり角度のある馬頭観音が祀られていた。
さらに百地蔵のある慈眼寺の山門の前には、何を彫ったか分からなくなっているが角度のある石仏もあった。

 
         慈眼寺                          代官地蔵と藩士の墓

 ここ慈眼寺の百地蔵は「抱地蔵」呼ばれていて願いごとが叶うときは、軽く抱き上げることができ、重く感じれば
願い事がかなわないと言われている。だが残念ながら抱地蔵は本堂の中なので見ることは出来なかった。
その代り境内には「代官地蔵」が祀られている。この地蔵はここが美濃国(岐阜県)岩村藩の飛領地で、岩村藩の
代官陣屋が置かれた。そのため、当地で亡くなった岩村藩士らは慈眼寺に葬られた。
特に三代目の代官は村人に慕われていたため、この地蔵を代官地蔵と呼んで親しんでいた。

 境内を見学していると若い僧侶が出てきたので、石仏の角度の事や石屋や三輪石の事を聞いてみた。
だがいずれも明確な返事は無く
「石仏も時代の流行があるので分からない。三輪石の事は聞いた事はあるが気に掛けた事がないので知らない。
また石屋は現在は1軒だけです」
とつれない返事だった。

駿河百地蔵1回目-7

2013-09-25 16:15:36 | 寺社遍路
  1番 ~ 9番 地蔵                                 歩行月日2013/09/10

歩行時間:6時間30分 休憩時間:2時間00分 延時間:9時間00分
出発時間:8時00分   到着時間:17時00分
歩  数:     歩   GPS距離:31.1km
行程表
 島田駅 0:40> 1番 0:45> 2番 0:20> 3番 0:30> 4番 0:35> 5番 0:20> 6番 0:05> 7番
 2:00> 8番 0:40> 9番 0:35> 焼津駅

              8番目(30番)下小田地蔵堂(河童

 8番目の下小田地蔵堂は地図では探しきれなかった。ただ百地蔵のHPには「栄田神社の横を東に約400mした所」
なっていたので、ともかく栄田神社から5.6分の所まで歩いてみようと思っていた。

      
         田中城                          月の砂漠の歌碑

 六角堂から県道215に出ると、後はほぼ一本道で只々歩くだけ。途中に田中城跡もあるが城の知識の無い私には興味は
湧かない。それでも珍しい事に、田中城の模型のある小学校の正門が開いていたので、少しお邪魔をして写真を写す。
城の模型の横に「月の砂漠を はるばると 旅の駱駝が ゆきました まさを」歌碑が建っていた。その歌碑の横に
「加藤正男氏は明治30年に田中に生まれ 本校を卒える」と説明があった。へーそうなんだ。

 東海道線の西焼津駅の高架橋を渡ると道路脇に河童の像が出始めた。焼津に河童? 聞いた事はない。
すると一つの河童に案内がブル下げてあって「龍ちゃんのカッパ館 ギネスブックに登録」とか書いてある。
どうやらこの近くに河童の展示館ができたようだ。河童の昔話が伝わる遠野ならいざ知らず、こんな所に建てたって
長続きはしないだろう。などと思いながら歩いていて写真を写すのを忘れてしまった。

 
          報恩の猫                         鯉と梅花藻(?)

 河童の次は猫が現れた。こっちは立派な案内板が建っていたので紹介します。
「昔この辺りに猫を可愛がっていたお婆さんがいました。ある時お婆さんはひどい熱病に罹ってしまいました。
お見舞いの人が言うには「この熱には水鳥が効き目がある」と聞いたのですが、水鳥を捕まえる事はできません。
水鳥を諦めたお婆さんが熱でウトウトとしていると、猫がしきりにお婆さんお手を舐めていました。
目が覚めたお婆さんが、枕元を見ると何と水鳥が置いてありました」
だって。

 国道150号線を渡った道の南側の川は、水は濁って汚かったが鯉が泳いでいた。さらに川を見ながら歩いて
いると流れに漂っている藻に、白い物が見える。ゴミかな? とよく見ると何と花だった。
若しかしてこれは梅花藻? でも梅花藻って清流に生育するものでしょう、こんな汚い水でも育つのかしら?
静岡県内では梅花藻と云えば三島梅花藻だが、あの川の水は富士山からの湧水で清流そのものだ。
それに比べこの川は汚水(言い過ぎかな)に、鯉に、梅花藻と変わった取り合わせだった。

 
         下小田地蔵堂                     辻・花火・富士見地蔵

     下小田地蔵堂の地図

 栄田神社を通過。あと400mで下小田地蔵堂だが、百地蔵のHPには「四辻に祀られたため辻地蔵と名付けられた」
とあったので見逃すことはないだろうと思っていた。
四辻? 完全な四辻ではないがマーいいだろう。地蔵堂は三辻とも四辻とも云えそうな下小田下公会堂の右隣にあった。
ここの地蔵は子育地蔵とあったが、お堂の中の地蔵は子供抱いた地蔵ではなく、目が真丸で素朴なお地蔵さんだった。

  
          平らな石                  百地蔵標札           お札

 お地蔵さんの前に平らな石を入れた箱が置いてある。この石は子供の夜泣きや疳の虫封じなどのときに一つ持ち帰り
夜泣きをする子供の枕元や枕の下に置くと、夜泣きが治ると信じられている。
そして、願いがかなった後には、借りてきた石と同じ大きさの石を浜で拾い、元の石と一緒に返すことになっている。
 また、地蔵さんの縁日には花火を上げて供養を行ったため、花火地蔵とも呼ばれていて、ここから富士山が見えた
ので富士見地蔵とも呼ばれていた。

 何とも呼び名が多い地蔵さんで「下小田地蔵・辻地蔵・花火地蔵・富士見地蔵」と四つの呼名がある。
こんなに名前の多い地蔵さんも余りないだろう。
地蔵さんお前には、地蔵尊のお札が置いてあったので賽銭を入れて1枚頂いた。
後で何のためか考えたが、ウーン無いな。今更子育てでもないし、ご朱印帳の間に挟んでおこう。


              9番目(29番)海蔵寺(遭難
 
 海蔵寺は焼津の七福神巡りでお詣りしたことがあるので、近くに行けば場所は分かるが、途中の道が明確ではない。
旧150号を行けば良いのだが、その道が150号のバイパスができてから分かりにくくなってしまった。
バイパスができる前は、西から150号を車で走っていれば自然と焼津の市街に入れたが、バイパス完成後、旧150号は
寸断されてしまい、西から焼津に向かうと海の方に行ってしまったり、焼津から西に向かう時は細い道になってしまう
ことが度々ある。これは私だけでなく周りの人も言っているので、分かりにくくなった事は確かだ。
そのため海蔵寺には旧150号より海側の県道31号を焼津に向かい、黒石川の先の交差点を左折して北に向かう道にした。

 
         古い石仏群                       遭難船の慰霊碑

 県道沿いの寺に古い石仏を集めた場所があった。これだけの量だと寺の中だけでなく開拓に伴って邪魔になった
石仏も集めたのだろう。若しかして角度を持った石仏があるかと注意深く見たが一つも見当たらなかった。
ということは焼津市の西部地方は、あの角度のある石仏は作らなかったのか。

 漁業の焼津を象徴するような石碑もあった。
「福壽丸殉難覚霊塔」「福徳丸殉職員覚霊塔」と読める。「板子一枚下は地獄」といわれた船乗りにとって、遭難は
他人事ではなかったし、船主も遺族を大切に扱わないと船員が集まらない事情もあったのだろう。
それにしても「覚霊塔」という言葉は初めて聞く言葉だった。辞書で調べたが載っていない。似たような言葉に
「忠霊塔」があり、こちらは「国家のために忠義や忠誠をもって戦死した者の霊を、顕彰する塔」とある。
では「覚霊塔」は遭難した事を忘れずに覚えておくための塔なのか?

 四国遍路の土佐で、長い柄杓で地蔵に水を掛ける寺があった。それは船の遭難で行方不明になった船乗りが
喉が乾かないようにと真水を掛けてやると説明があった。ここ焼津にもそんなお地蔵さんがあるのだろうか。

 
        海蔵寺                             扁額と鰐口

     海蔵寺の地図

 海蔵寺は境内に幼稚園があるので入りずらいのだが、到着したのが4時を過ぎていたので門扉は開き園児の姿も
見えない。これ幸いと中に入って見学をする。
ここの地蔵は「こがわのお地蔵さん」として親しまれているお地蔵さんで、寺の前の案内板や百地蔵のHPを引用すると
「御本尊の延命地蔵菩薩は、焼津を大津波で襲った室町時代の明応地震のあと、焼津城之腰の海中から引上げた
もので、等身大の木像半跏像である。寺では地蔵を御本尊とするとともに、安養寺だった寺の名前を「海から現れた
地蔵」
にちなみ「海蔵寺」と改められた。

 伝承によれば、紀州徳川家の殿様が江戸へ向かう途中、大井川の増水で足止めされてた。先を急ぐ殿様は神仏に
祈願すると、大法師が現われて水をせき止め、川を渡れるようにしてくれた。その後、殿様が海蔵寺に立寄り
「川をせき止めてくれたのはあなたですか」と地蔵に尋ねると、地蔵は身をゆすってそれに答えたという。
それに感謝して紀州徳川家では、延命地蔵の厨子や現在の本堂を寄進した。

 安政6年(1859)紀伊州沖で遭難した福壽丸で、ただ一人助けられた焼津の漁師甚助がは、一枚の船板に掴まって
小川の地蔵を念じ続け、三日後に助けられたという。後日「甚助の船板」は海蔵寺に奉納され、小泉八雲はこの話を
題材にして小説「漂流」を著した。」

 さすが由緒のある寺だけあって面白い話が幾つも伝わっている。中で気になったのが小泉八雲の「漂流」の主人公
甚助が乗っていた福壽丸は、先ほど見た「福壽丸殉難覚霊塔」の福壽丸かしら? 
船の名は同じような物が多いので違うとは思うが、いつか調べてみよう。

 
        現役のポスト                        焼津駅                    

 海蔵寺から焼津駅までは焼津七福神で歩いているの気楽に歩けた。
それにしても今日一日、一度も迷わずに歩けたのは大したものだ。こんな調子で百地蔵の最後まで歩けると良いが。

    ***************************************************************************

 昨日4回目の百地蔵を歩き、見終わった地蔵の数いや場所の数は70ヶ所になった。
一方ブログは一回目の9地蔵が終わったばかり、一体何時になったら終わる事やら。

駿河百地蔵1回目-6

2013-09-22 12:16:53 | 寺社遍路
  1番 ~ 9番 地蔵                                 歩行月日2013/09/10

歩行時間:6時間30分 休憩時間:2時間00分 延時間:9時間00分
出発時間:8時00分   到着時間:17時00分
歩  数:     歩   GPS距離:31.1km
行程表
 島田駅 0:40> 1番 0:45> 2番 0:20> 3番 0:30> 4番 0:35> 5番 0:20> 6番 0:05> 7番
 2:00> 8番 0:40> 9番 0:35> 焼津駅

              6番目(24番)向善寺(軽便鉄道

 
      飽波神社付近を走る軽便0鉄道                  瀬戸川を渡る軽便鉄道

 満蔵寺から軽便鉄道の跡を飽波神社まで歩く。この軽便鉄道はかっては駿河の藤枝から遠州袋井までを結ぶ
駿遠線の跡地で、軽便鉄道としては日本最長規模の全長64.6kmを誇っていた。
だが、昭和39年には袋井・御前崎間が廃止となり、昭和45年に全線廃止となった。
私も昭和40年頃には藤枝・相良間を何回か往復していたのだが電車その物の記憶はない。
 昨年まではこの跡地の64kmを1日で歩いてみようと密かに狙っていたが、今年の春に遠州七福神でその一部を
歩いてから考えが変わった。何しろ面白くない。細い直線の道で見る物も無くただ歩くだけ。私のモットーとする
観歩には程遠い道だった。これではウォーキングはスポーツなりと考えている人向きの道だと思った。
(本当は今年に入り、脚力の衰えを感じて、自信が無くなった事が原因だが)

 話は180度変わってしまうが、この駿遠線が廃止になった事で、静岡県内を東西に走る長距離の私鉄は姿を消した。
それ以後静岡県民は、国鉄やJRから提供されるサービスを文句も言えず只々利用してきた。
これは青春18切符を利用して旅行をした人なら分かると思うが、西は豊橋、東は小田原間の普通電車の利用勝手の
悪い事と云ったらない。何しろ無料の快速電車が1本も走っていないのだから。
それでも静県民は対抗する私鉄のない事から、黙って従うしかなかった。
 今度JR東海はリニア新幹線の詳細を発表したが、静岡県民のメリットは東海道新幹線が空く事ぐらいか。
それも乗客が少なくなれば本数も減らされてしまうだろうが。
しかしリニア新幹線は東海沖地震等が発生した時の代替交通機関にもなるので反対はない。しかもその費用の9兆円を
私企業のJR東海1社で賄うのだから反対のしようもない。と思っている貴方! ちょっと待ってください。
9兆円もの金額を設備投資するには莫大な利益を計上しなければならない。それもライフラインを担う公共的企業が。
おなじJRでも北海道や四国、九州では苦しい経営を行っているのに、かたやJR東海は9兆円の金を準備できる。
その違いは明らかに儲け過ぎから来ている。鉄道運賃は幹線・地方線の2本立てになってはいるが人口の多い都市部が
多い方が有利に決まっている。JR東海や東日本の利益を人口の少ないJRに補填するシステムのない今は、全国統一
運賃は国がJR東海などを保護をしているとしか思えない。

 ここからは我田引水になるのだが。東海道を歩いた時のブログで私はこんな主張をした。
JR東海は静岡県民から、他県以上に利益を上げているのだから、リニアを着工する前に静岡県内にも快速電車を
走らせ、更に静岡空港の管制塔の直下にある新幹線に地下駅を造るべきだと。
ブログに幾ら書いてもごまめの歯ぎしりに過ぎないのは知っているが、実は今回同じような主張をし始めた人がいる。
リニアの発表の中に、南アルプスのトンネル掘削に伴い出る残土を、静岡県の大井川上流に埋め立てる話である。
そこで静岡県知事が新幹線の地下駅建設を交換条に残土埋立の許可を出すと云い始めた。
私は儲けで知事は残土と切っ掛けは違うが、これを合わせれば強い主張になるのではないか。と期待している。

 
         向善寺境内のお堂                       お堂の内部

      向善寺の地図

 全然関係ない方向に進んでしまったので話を百地蔵に戻します。
6番向善寺は昨年の藤枝七福神で歩いているので場所は分かっている。東海道を藤枝東高校入口で左折すればすぐにある。
境内には二つのお堂が建っていて、右側のお堂には大きな鯛をもつ恵比須の石像が安置されている。

            
     亀に乗った観音様             水子地蔵           瘡守地蔵

 一方、左側のお堂には水子地蔵を中心に、千手観音と瘡守地蔵が並んでいる。
待てよ!この千手観音は亀の上に立っているが?     調べるとこんな事が分かった。
この「亀に乗った観音様」は西国33観音の第22番、真言宗補陀落山総持寺の千手観音を模したもので、
総持寺にはこんな話が伝わっていた。
「貴族一家が淀川を船で下っていると、漁師が一匹の大亀を捕らえた。貴族は「今日は十八日で観音様の縁日です。
どうかその亀を私に譲ってください」
と自分の着物と交換し、大亀を河に放してやりました。
 その夜、河口で夜を明かしていると、我が子を後妻が河に落としてしまいました。嘆き悲しんだ貴族は
「観音様、今一度我が子に、亡骸としてでも会わせて下さい。」と観音様に祈念すると、昨日助けた大亀が元気な
我が子を背に乗せて現れました」
 
それにしても向善寺の近くには海も大河もない。それなのに亀? チョット理解できない。
後で知ったのだが向善寺の山号は「牛頭山」。ならば牛に乗った観音様の方が似合うかもしれないな。

 中央に建つ水子地蔵は小さな二人の赤ん坊を抱いた光輪のある地蔵だが、名前を子育地蔵としても違和感がない
いや子育地蔵の方が合っているような感じの地蔵さんだった。
私はどうも水子地蔵とか水子観音は苦手だ。妊娠の過程で流産や早産・死産をしたり堕胎をして子供を祀っているのだが
丘全体に玩具の風車を立てたり、小さな地蔵を一杯並べてお詣りする人の気持ちを萎えさせている。
「水子とは本来「すいじ」と読み、 戒名の下に付ける位号の一つで、死産や乳児の頃に夭折した者に対して付けられる
ものであった。
水子とはこのように、もともとは死亡した胎児だけでなく乳児期、幼児期に死亡した子供を含む概念であったが、
戦後の日本で人工妊娠中絶が爆発的に増加したことを受け、1970年代ごろから中絶で死んだ胎児の霊を弔う水子供養の
習慣が広まっていく。その背景には、檀家制度が破綻し経営が苦しくなった多くの寺院が大手墓石業者とタイアップし
水子供養を大々的に宣伝し始めたことが大きく影響している」
 のだって。
でも向善寺の水子地蔵はそんな商業的なものではありません。

 一番右にある「瘡守地蔵」は素朴な形の石仏でいつの時代の物だろうか。デキモノや腫れ物にご利益があるというが
昔はそれ以外に梅毒を指していた。とすると藤枝宿の飯盛り女もお詣りしたのだろうか。

 ところで向善寺の百地蔵は延命地蔵になっているが何処にあるのだろうか。
きっと本堂の中だろうが、ここで瘡守地蔵をお詣りできたので良しとしよう。
そうそう境内にあった石仏の一体は傾斜のある石仏だった。


              7番目(23番)六角堂(子育地蔵

 六角堂は初めての場所だったが、ネットのマピオンの地図で調べると「六角庵地蔵尊」と記載されていた。
この地図があるお蔭で百地蔵参りも余り迷わずに歩けている。感謝!感謝!だ。

   
         六角堂                 標識             墓跡

     六角堂の地図

 広場の隅に建っている六角形のお堂は小振りだが風情を感じる建物だった。広場は子供たちの遊び場だろう。
お堂の中を覗くとかなり大きな地蔵が、岩(?)上に左足を垂らした半跏坐の姿でどっしりと鎮座していた。
像の彩色は剥げ落ちているが、上半身の肌や光背の金箔はまだ残っている。
お顔は何か笑みを浮かべているようにも見え、小さな子供が見ても親しみを感じるかもしれない。
膝の上に小さな仏像が2体あるが、最初からあった物なのか、それとも後で乗せた物なのか。

 お堂の横に「駿河一国百地蔵尊第廿三番」の板が張られていたが、何故か観音像の頭部のレプリカが掛けられていた。
お堂の横にはかっての庵主の墓なのか無縫塔も幾つか見える。だがここには傾斜のある石仏は無かった。

           
                             子育地蔵

駿河百地蔵1回目-5

2013-09-21 12:25:43 | 寺社遍路
  1番 ~ 9番 地蔵                                 歩行月日2013/09/10

歩行時間:6時間30分 休憩時間:2時間00分 延時間:9時間00分
出発時間:8時00分   到着時間:17時00分
歩  数:     歩   GPS距離:31.1km
行程表
 島田駅 0:40> 1番 0:45> 2番 0:20> 3番 0:30> 4番 0:35> 5番 0:20> 6番 0:05> 7番
 2:00> 8番 0:40> 9番 0:35> 焼津駅

              5番目(24番)満蔵寺(一里塚

 
       コンクリート製の小屋                        斜めになった松の木

 鏡池堂から旧東海道を東に向かい5番目の地蔵がある満蔵寺に向かう。
交差点の横にコンクリートで来た頑丈そうな建物が建っていて、以前から気になっていたが何なんだろう?
防空壕では危なそうだし、トーチカがこんな場所に有る分けがない。では戦時中の倉庫なのか?分からない。
国1と交差する青木の五差路を通り過ぎると、また松並木が出てきた。その1本は斜めになり今にも会社の壁に
あたりそうになっている。これでも伐採しないのは会社の好意なのか。

 
      志太の一里塚跡                           国1の瀬戸川橋

 瀬戸川勝草橋左岸にある志太一里塚跡に到着。そこの案内板には
「志太一里塚は江戸から約200kmで50里目に当り、瀬戸川堤から西に50m辺りの両側にあった」とある。
確かに勝草橋より南に掛かる国道1号の瀬戸川橋の道路標識の地点標は、「200km」と東京日本橋からの
距離が表示されている。
これだけ聞けば江戸時代の一里塚の距離の測定は正確だったと思うのだが、昨年東海道を歩いてこんな事も知った。
大井川の西の金谷宿と日坂宿の間にある「佐夜鹿(小夜の中山)一里塚」の案内板に
「ここ小夜の中山の一里塚は、日本橋からの里数を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えに
よる里数や、当初の東海道のルートを考えて56里目と云う説があります。
また、「東海道分間絵図」では52里目に相当し、「東海道宿村大概帳」では54里目に相当すると考えられます。
東海道は時代と共に若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません」

これで行くと小夜の中山一里塚より6ヶ所手前の志太一里塚は、東海道分間絵図では46里目、東海道宿村大概帳では
48里目、そして周辺状況では50里目になるようだ。
地元民の私としては区切りが良い200km、50里、50番目を採用したいし、1里=3.927kmで計算しても一番多い
50里でも196.3kmにしかならないのだから我田引水でもなかろう。

     

      満蔵寺の地図

 満蔵寺は瀬戸川を渡り旧東海道より南側にある 旧軽便鉄道跡の道脇にあった。丁度墓地の入口が
目に付いたので失礼して中に入ると、大きな墓や古い石仏を安置した墓も多く、歴史のある寺らしい。
中にはこの辺りでは珍しい、灯篭の竿の部分が六角になっていて、それぞれの面に地蔵が彫ってある物もある。
これも「六面石幢・六地蔵灯籠」とでむ云うのだろうか。
この灯篭の写真を拡大していて気付いたのだが、土台の部分に三猿の言わ猿の手の形をしている物が見える。
若しそうなら、常夜灯、六地蔵、三猿と目的が違うものが一つになっている事になる。若しかして大発見?
そんな事はないだろうが折角だから再度お詣りをして確認しよう。

 境内に地蔵堂とおぼしき建物があったが、残念ながら文殊、勢至、普賢の3菩薩が祀ってある「三仏堂」だった。
中に入ると赤い布を付けた人形らしき物が何体もブル下がっていた。よく見ると目や鼻など顔の部分が書いてあり
赤が多いのは達磨さんで、赤の少ないのはお地蔵さんだった。お地蔵さんの裏に願い事が書いてあるのを見ると
絵馬と同じ役目をするのだろう。
この三仏堂の菩薩のうち、2体は楠木正成親子の家宝だったと伝えられていて、応仁の乱の頃、楠木家に伝わる
菩薩像を戦火で焼失することを恐れ、満蔵寺に奉納したと云う。その後一体を加えて三仏堂に祀ったとされる。

 さらに、百地蔵の延命地蔵も行基の作と伝えられていて、金箔を施した木造の地蔵らしい。
勿論地蔵尊は満蔵寺の本堂の奥に祀られていて拝見する事はできない。
古い寺ともなれば、色々な伝説が作られ伝えられるものだ。 それもまた楽しいが。

駿河百地蔵1回目-4

2013-09-18 14:58:42 | 寺社遍路
  1番 ~ 9番 地蔵                                 歩行月日2013/09/10

歩行時間:6時間30分 休憩時間:2時間00分 延時間:9時間00分
出発時間:8時00分   到着時間:17時00分
歩  数:     歩   GPS距離:31.1km
行程表
 島田駅 0:40> 1番 0:45> 2番 0:20> 3番 0:30> 4番 0:35> 5番 0:20> 6番 0:05> 7番
 2:00> 8番 0:40> 9番 0:35> 焼津駅

              4番目(26番)鏡池堂(千貫堤

 延命寺からは国道1号を横断して旧東海道に入る。この辺りは松並木も少し残っており「田中藩領牓示石」
あるので街道の雰囲気を味わえるのだが、何しろ狭い道なのに車が多い。仕方なく1本南の線路沿いの道を歩く。

 
         旧東海道                              田中藩領牓示石

 この辺りは江戸時代初期、寛永12(1635)年に大井川の洪水から田中藩領(現藤枝市)を守るため築かれた「千貫堤」
(せんがんづつみ)があった所です。堤の規模は全長500mを超え、幅32m、高さ3.6mほどだったと推定されています。
千貫の名前は、堤を築く費用が千貫掛かった事からと伝えられているが、ここと同じような名前が東海道三島宿にもあった。
三島の場合は堤でなく「千貫樋」と云い、伊豆の国から駿河へと樋で水を流したことにより、千貫の作物の収穫があった
からと云われている。こここで言う千貫とは具体的な金額や数量を指すのではなく「沢山」とか「大きい」の意味合いで
現代の「億ション」とか「億万長者」がそれと同等の意味だろう。
 
 ところで「千貫」て、今の金にしたら幾ら位だろう? と、例により すぐ疑問が湧いてくる。

 江戸時代の貨幣制度はユニークで、金・銀・銅の3種類のお金の制度が有ったので、換算しにくかったのですが
ここでは「貫」の単位を使っている銀の価値を調べました。
江戸時代の平均相場を「1両=13万円」として計算すると、1両=銀60匁(もんめ)で、銀1匁=2166円となります。
次に1,000匁で1貫なので、それが千貫とすると 2166×1000×1000=2166000000 エッ!21億になってしまう?
幾らなんでもこれでは多すぎる。江戸時代の堤防の建設なら材料費は余りかからず、作業員は強制労働もしただろう
からこんなに掛かる筈はない。計算違いでもしたのだろうか????

        
                          千貫堤のジオラマ
 
 千貫堤の様子を再現した藤枝市郷土博物館のジオラマを見ると、当時の状況がよく分かる。
東海道は写真の左上の黒く塗られた瀬戸山の裾を東西に通っていた。その東海道を分断し堤は南の八幡山(岩城山)に
延び、さらに南にある本宮山まで延びている。自然の地形を上手く利用した堤だった事がよく分かる。

 当時江戸方面から来た旅人は、大井川の堤防の千貫堤を渡るとき「大井川はもうすぐだ」と思った事だろう。
だが大井川は これから青島一里塚、島田一里塚そして島田宿を越して やっと辿りつく場所を流れている。
私も初めて大井川から千貫堤を歩いた時 8km以上も離れている堤防の存在価値を疑った。何しろ東海道は東西に通り
大井川は南北に流れている と先入観があるので余計に疑問になる。
後日地図を見て納得した。南北に流れていた大井川は東海道を越すと流れが東西に変わり、大井川と千貫堤の一番近い
場所は3km程度しかなかった。

 
         瀬戸山や千貫堤のあった辺り              八幡山と本宮山

     「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」の地図

 線路沿いの道を歩くと当時の面影がほんの少し残っている。とはいえ千貫堤は自体は明治に入り東海道線の敷設や
田畑開墾、戦後の宅地化によってその大部分が姿を消しまい、今や長さ65m、幅約30m程しか残っていない。
東海道と平行に東西に連なっていた瀬戸山も、東名高速の盛土にするため姿が無くなり、今ではゴルフの練習場、
小学校、商業施設、団地などに変貌してしまった。
左の写真はその瀬戸山跡地に建つゴルフの練習場で、旗の立っている建物は千貫堤の上に建つ観光施設の
「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」
です。右の写真は千貫堤が途中経由した八幡山と本宮山です。
旧東海道を歩いていると、これらは見る事ができないので千貫堤も知らないで通り過ぎてしまう。

 
          追分に建つ鏡池堂                          鏡池堂

      鏡池堂の地図

 旧東海道に戻ると4番目の地蔵のある鏡池堂が見えてきた。駿河百地蔵、第26番 鏡池堂六地蔵である。
堂の前にある案内板によると
「六地蔵尊は神龍が棲んだ鏡ヶ池から出現した事に依り、鏡池堂六地蔵と称し、駿河国24番札所第19番の霊池に
指定される。
また、六地蔵尊の本尊は知証大師の自作とされる。さらに鏡池堂の扁額は渡辺崋山の揮毫であると伝えられている。
六地蔵尊の霊験はあらたかで災難消除、延命長寿、家内安全、交通安全等祈願すれば必ず感応すること疑いなし」

何とも霊験あらたかな地蔵さんだが「駿河国24番札所第19番の霊池」とは何だろう。駿河百地蔵では26番札所だし
霊池19番も分からない。「駿河 霊池」で検索しても伊豆半島の大瀬の神池と富士宮浅間大社の湧玉池しか出てこない。
百地蔵以外にも霊場巡りがあるのだろうか気にかかる。
更に疑問に感じたのは、初めに六地蔵尊は龍が棲んだ池から出現したとあるのに、途中で知証大師の自作となった。
池から出現した六地蔵は本尊ではなく、大師自作の六地蔵が本尊とすると池から出現した六地蔵は何処へ逃げたのか。
まだ言いたい事があるが止めておこう。罰が当たると困る。

       
            板碑六地蔵                        板碑四地蔵?

 鏡池堂の境内に新しい板碑の六地蔵が祀ってある。初めてこの六地蔵を見たとき、なんてコンパクトで最近の雛飾りと
似ていると驚いたが、この様式は新しい物ではなく、昔からあったとは後で知った。だが今日はまた新たな発見をした。
新しい六地蔵の裏に、四体の地蔵を浮き彫りにした板碑があった。既に一体が落剥している古い板碑だったが、
何故四体なのだろう? 昔は四地蔵があったのだろうか?    調べたが分からなかった。

    ******************************************************************************

松理さんへ
 
コメントだと何故かYahoo!のHPのアドレスが表示できませんでしたので ここでリンクしておきます。

 大崩山塊コース案内

まだ未完成ですのでどしどしご意見を下さい。


駿河百地蔵1回目-3

2013-09-16 11:08:54 | 低山歩き
  1番 ~ 9番 地蔵                                 歩行月日2013/09/10

歩行時間:6時間30分 休憩時間:2時間00分 延時間:9時間00分
出発時間:8時00分   到着時間:17時00分
歩  数:     歩   GPS距離:31.1km
行程表
 島田駅 0:40> 1番 0:45> 2番 0:20> 3番 0:30> 4番 0:35> 5番 0:20> 6番 0:05> 7番
 2:00> 8番 0:40> 9番 0:35> 焼津駅

              3番目(27番)延命地蔵(いぼ地蔵

 3番目の地蔵は藤枝内瀬戸の延命寺なので場所は大体わかる。
東海道の北側に続く低い丘陵沿いに東に行き、藤枝市に入った辺りにありそうだ。土地勘のある場所は楽でいい
目的地さえ探しておけば、その付近までは楽に行きつける。
尤も私の土地勘が働くのは、この辺りだけなので、百地蔵廻りでは持っても2回程度だが。
そんなわけで3番目の延命寺にも楽に着く事ができた。
ここの地蔵尊については顕光院のHPには何も書いてない。だが延命寺には「南無延命地蔵菩薩」の赤い幟が
境内に何本も立っていた。山門の左手に石仏が何体か納めた祠があり、先ずそこからお参りすることに。

 
          延命寺                            石仏の祠
        
     
       庚申塔                いぼ地蔵             角度のある石仏

延命寺の地図

一番右にの石塔の字は薄れて読めないが、塔の台座に見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が浮かんでいるので
庚申塔と分かる。ただ残念な事に猿の顔の部分が剥落していて猿の手の位置が見えない。
その横の板碑の六地蔵も一部が剥落している。石材の色が赤っぽいので泥岩のようにも見え崩れやすそうに
感じる。中央に位置するのがお地蔵さんで、多分これが延命地蔵なのだろう。前頭部の螺髪の部分が何故か
白く変色をしていた。
その隣の石仏は石仏の2/3はありそうな赤い前垂れで本体を隠していて判然としない。ただ前垂れの上に出て
いる部分が顔とすると小さすぎる。これが馬なら馬頭観音だが。
最近石仏ならなんでも前垂れを掛けたり、酷いのは舟型の上の部分に帽子を被せたものもある。これらの
飾り物は単体のお地蔵さんには似合うが、ここにあるような板碑の六地蔵とか舟型の石塔には似合わない。
付けてくれた人は優しい気持ちで付けたのだろうが、どうも場所をわきまえていない感じがするが----
一番左端の石仏は像そのものより、舟型に角度がある事に注意がいった。果たしてこの角度のある石仏は
全国的で普通の石仏なのか、それとも駿河地域いや志太地方特有の石仏なのか興味を感じる。

 草取りをしていた女性がいたので声を掛けてみると、延命寺の大黒さんだった。草取りの手を休めて
色々話してもらったので纏めて紹介します。
「百地蔵の札所だが標識はない。百地蔵の延命地蔵は本堂に祀ってあって、この祠の地蔵ではない。
この地蔵は「いぼ地蔵」といって、特に子供の水疣に効果があり、島田からもお詣りに来る人もいる。
藤枝市内の歯医者の先生が本に書いてから、お詣りに来る人が増えた。だけど大人の疣は治らない。
お詣りの仕方は、疣の出来た所をお地蔵さんの頭の粒粒に擦ってから「疣が治りますよう」にお祈りをする。
治る理由は多分、子供でもお地蔵さんお詣りをした事で、疣に触るのを止めようと思うからだろう。
みんながお地蔵さんの頭を擦るので、その部分だけ白くなってしまった。
昔はお地蔵さんもみな外に出しっぱなしだったので段々欠けてきてしまった。立派な祠を造ってやりたいが
檀家が13軒ではどうしょうもない。住職は代々学校の先生をしながら何とやっている 等々」


 檀家が13軒とは少ない。先ほど寄った関川庵の墓地はもっと多かったし、更に募集もしていた。
春に行った遠州七福神の森町の紫陽花寺も、檀家が少ないので紫陽花でお詣り客を集めていると言っていた。
確かに小さな寺で専業の僧が居たのでは、檀家の負担が増えて檀家は逃げ出してしまうだろう。
小学校のとき坊さんの先生がいたが、こんな事情があったのかしら。
「坊主丸儲け」とはベンツに乗った坊さんとか、大寺の住職等の商売っ気ばかりの坊主の事をいうのだろう。

 話は変わって、表題の「3番目」とは、私が巡拝している順番です。何しろ百カ所もある地蔵を回るので
札所の番号では頭に入りきらない。それに札所順にお詣りをするのではないので余計に分からなくなる。
そこで札所の番号は小さくカッコ内に表示する事にしました。

駿河百地蔵1回目-2

2013-09-15 15:37:04 | 寺社遍路
  1番 ~ 9番 地蔵                                 歩行月日2013/09/10

歩行時間:6時間30分 休憩時間:2時間00分 延時間:9時間00分
出発時間:8時00分   到着時間:17時00分
歩  数:     歩   GPS距離:31.1km
行程表
 島田駅 0:40> 1番 0:45> 2番 0:20> 3番 0:30> 4番 0:35> 5番 0:20> 6番 0:05> 7番
 2:00> 8番 0:40> 9番 0:35> 焼津駅

              2番目(27番)恐山地蔵(旗指岩は

 2番目の恐山地蔵は、国道1号線のバイパス旗指ICの近くにあるので、大まかな方向は分かると、適当に北東に
延びる道を歩いていた。信号で止まった交差点から右を覗いてみると、何と大井神社が見えている。
これでは東に来過ぎている、北東に歩いていた積りが南東に歩いたようだ。慌てて左折して北に進路を変更。
出た場所は国1の「中溝4丁目交差点」だった。旗指ICには更に西に戻った信号を曲がらなければならないが、
戻るのも悔しいので、そのまま直進して進む。200mも行くと川があり橋を渡ると白い杭が立っていた。
「旗指恐山地蔵尊 北へ200m」と書いてある。ピンポン!間違えたと思ったが最短距離の道だったのだ。
さらに直進すると、ありました。ありました。木の香もしそうな程の新しい社殿がありました。
社の格子戸の横には「駿河一國 百地蔵尊第廿七番」の標識も付いている。御詠歌を書いた物もあり、ここで
間違いはない。関川庵ではこれを確認するのを忘れてしまったが、今後は忘れないようにしよう。それにしても
最短距離を一発で歩けるとはて、今日はツイテいそうだと気分もよくなる。(最短距離ではなかったが)

 
         旗指恐山地蔵堂                     百地蔵番号札と御詠歌

     恐山地蔵の地図

 境内にある縁起書を書いた石碑はには、
「明治時代の中頃、旗指地区で疫病が流行し住民は大いに苦しんでいた。当時地元の寺に隠棲していた西有穆山師が
(後に曹洞宗大本山鶴見総持寺貫主)病気平癒と村内安全を祈念して、青森県下北半島の恐山から本尊地蔵菩薩の
御分身を譲り受けた。御分躰の運搬は、鉄道が青森まで開通していたにもかかわらず、住民信者が二百数十里
(1130km)を背負って運んできたと伝えられている。」

 なるほどね、恐山からご分身を譲り受けたから恐山地蔵か。だけど御分身って一体何なのだ。仏舎利のように
釈迦の骨なら幾つかに分けられるが、恐山の地蔵像を欠いたのでは像が見難くなるし、分身を貰った方でも有難味が
薄かろう。

       
             地蔵堂内部                         恐山地蔵尊

 地蔵堂の格子の隙間から中を覗き込むと、何々心配する事はない。金箔は大分剥げかかってはいるが立派らしき
地蔵が鎮座していた。ご分身を辞書で調べると「一つの本体が二つ以上に分かれること。または、仏菩薩が衆生を
救済するために身を分かち、仮の姿をとってこの世に現われること」
ウーン、マーいいとするか。
それにしても後に曹洞宗の貫主になった坊様が隠棲していた理由は何なんだろう。調べてみたが分からなかった。
西有穆山は青森県出身で明治31年能登総持寺が火災により焼失した後の、明治33年に貫主になり総本山を鶴見
移転に向けて舵取りを行った。鶴見移転が決定したあと明治38年に貫主の地位を退いている。
旗指の恐山地蔵が青森恐山より分身を受けた年が明治33年だが、そのころ西有穆山は一番忙しい頃だったろう。
なのにこんな田舎の小さなのために------ いや名僧だからこその行い、と思うべきだろう。

 ところで青森県のいたこで有名な恐山は仏教の宗派でいえばてっきり真言宗か天台宗と思っていた。
それなのに曹洞宗の僧が依頼して地蔵の分身ができるなんて、と思い調べてみると。
恐山は高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊場の一つで、当初は天台宗だったが、一度廃寺となり、のちに曹洞宗の
寺として復興した。また西有穆山は青森県出身で恐山の住職とも知り合いだったとか ---- これで納得。

 碑文でもう一つ気になる事がある。「鉄道が青森まで開通していたのに、住民が1130kmを背負って運んだ」件だ。
1日40km歩いたとしても29日間はかかる。それが複数人とすれば、その労力と旅費はかなりのものだろう。
「信心岩をも通す」とは言うけど、碑文の中に「運んできたと伝えられている」と、弱気な伝聞形式になっている。
本来なら「住民信者が29日もかけて二百数十里(1130km)を背負って運んできました」と書きたかったのに
断定形式で書けない何かの理由があったのだ、と想像する。
そうそう、同じ島田市内の松島地区に「歩き地蔵」がある。この地蔵は淋しい松島地区から旅人で賑あう
東海道小夜の中山に移してやろうと住民が背負って行ったが、すぐ元の場所に戻ってしまうという。
ここの恐山地蔵は青森恐山まで戻らないで良かったな。

 実はここでは地蔵さんより興味を感じていたは「旗指」の地名だった。
焼津にも「旗掛石」と云う似たような名前で、徳川家康が狩りの時に旗竿を掛けたと云われる石がある。
ここの旗指もきっと何か謂れがあるだろうと楽しみにしていた。
地蔵堂に来るまでは旗指に関しての表示は見当たらなかった。そこで近くの田圃で稲刈りの準備をしている人に
「ここは地名が旗指(はたさし)ですが、何か旗を指した石でもあるのですか?」
「はたさしではなく「はっさし」だけどね。旗を指した石など聞いた事はないな」
だって。
旗指が訛って「はっさし」とは、ありそうな呼び方だが。そのはっさしの謂れの場所は知らなかった。
他にも3人に聞いたが分からない。ただそのうち一人が
「むかし戦の時に、旗を指したから地名になったとは聞いた事はあるが場所は知らい」だった。
どうも気になったので調べてみると
「旗指は永禄年間に徳川家康と武田勝頼が戦闘を繰り返した場所である。当時、兵力で劣っていた家康は、
河原に多くの旗を立てて将兵を多くみせかけた。それに因んで、この一帯は後に「旗指」と呼ばれるようになった」

了解! 1本の旗を立てたのではなく、先ほど渡ってきた川の土手に、何本もの旗を立てたからなのか。

駿河百地蔵1回目-1

2013-09-13 17:30:41 | 寺社遍路
  1番 ~ 9番 地蔵                                 歩行月日2013/09/10

歩行時間:6時間30分 休憩時間:2時間00分 延時間:9時間00分
出発時間:8時00分   到着時間:17時00分
歩  数:     歩   GPS距離:31.1km
行程表
 島田駅 0:40> 1番 0:45> 2番 0:20> 3番 0:30> 4番 0:35> 5番 0:20> 6番 0:05> 7番
 2:00> 8番 0:40> 9番 0:35> 焼津駅

           1番 吉三地蔵(八百屋お七
 地蔵巡りは百地蔵の中で一番西にある大井川川越遺跡の吉三地蔵から始めた。
島田駅から川越遺跡までは旧東海道を歩く事にしたが、途中にある大井神社や大井川の時の鐘で知られている
大善寺はパスして川越遺跡に直行。

 
         大井川川越遺跡                   大井川川越遺跡3番宿

 大井川川越遺跡は何度も歩いているので、通りから写真を写すだけで通過する。代わりに今まで余り興味を覚え
なかった「朝顔の松」の碑の建つ広場に行ってみた。
広場には石碑の他に「あさがほ堂」「朝顔目明観音・川除地蔵」と表示のあるお堂が二棟と歌碑や案内板が建っている。
朝顔の松など今まで聞いた事はなく案内板を読むと

「安芸の国の娘、深雪は、京で宮仕使いをしているとき宮城阿曽次郎と恋仲になった。その後、国元に帰った深雪は、
親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされた。深雪はその人が駒沢家を継いだ阿曽次郎であった
とは知らず家出をしてしまった。深雪は朝顔という名の門付けとなり、阿曽次郎を探し諸国をさ迷ううちに目が見えなく
なってしまった。

 ある時、島田宿で門付けををしていると座敷から声がかかった。その声の主こそ阿曽次郎だったが、朝顔は目が
見えないので判らない。また、阿曽次郎も主命をおびた急ぎ旅のため、名乗りあえずに別れてしまった。

 あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけて大井川まで来ると生憎の川止め。半狂乱となった朝顔は激流に
飛び込もうとすると、。宿屋の主人に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになった。
その時、初めて朝顔の目に映ったのが、大きな一本の松でした。
この物語は江戸後期に浄瑠璃として上演されて大評判となり「生写朝顔話」は今でも上演されているという」


 この説明では、話が分かったようで分からない。どうも釈然としない。
先ず何故朝顔という門付けになったのか? 急用で名乗りあえない人が門付けを呼ぶ? 宿の主人の犠牲的行為で
他人の目が治る? と思いませんか。そこで、「生写朝顔話」を検索すると納得できた。

 阿曽次郎と深雪が初めて会った時、阿曽次郎が扇に「朝顔の歌」を書いて深雪に渡していたのです。これなら門付けに
なって朝顔と名乗った理由が分かりますよね。
 次の門付けを呼ぶ余裕があるのに名乗りをあげなかった処は大分省略されていた。
島田の宿で阿曽次郎は衝立に書かれた「朝顔の歌」を見て宿の主人から、流浪しているうちに目を泣き潰してしまった
哀れな門付けの話を聞く。話を聞いた阿曽次郎は、その門付けが深雪ではないかと思い朝顔を呼んでもらう。
朝顔の話を聞き、深雪だと確信した阿曽次郎は、名乗りたかったが近くに悪人がいて名乗れない。
あとでもう一度朝顔に会おうとしたが、朝顔は出かけてしまったあとだった。
出発の時刻が近づいてきたので阿曽次郎は、宿の主人にお金と扇と薬を朝顔に渡して欲しいと依頼する。
その薬は甲子歳生まれの男性の生き血で飲むと、どんな眼病でも治るという薬だそうです。(ここで最終話の伏線が)
 朝顔の眼病の治った理由は、宿の主人が犠牲的行為で朝顔の川越しを止めたからではなく、甲子歳生まれだった
主人が自害して、その生き血で深雪の目を治そうとしたのでした。自害こそが犠牲的行為だったのです。
尤も見も知らずの門付けのために自害したのではなく、宿の主人は深雪の父親にかって恩を受けていたからでした。

 今の案内板でも随分長いので、これ以上浄瑠璃話を詳細に説明する余裕はなかったのでしょう。
しかしこの場所は朝顔の松とかあさがほ堂と朝顔を売りにしている。それなら深雪が門付けの名前を朝顔にした理由を
もっと説明する必要があったのではないでしょうか。
哀話が伝わる朝顔の松公園だが、何でもない広場で、あさがほ堂はトイレのようにも感じた。勿体ないな。

        
       朝顔の松の碑34                    朝顔目明観音・川除け地蔵堂37

    朝顔の松公園の地図

 道を少し戻り川越遺跡の中に立つ「関川庵 八百屋七の恋人吉三郎の墓」の杭の横の路地に入る。
「八百屋お七とは天和の大火のとき、避難した寺の小姓吉三郎と恋仲となったが。帰宅してから恋情は募り逢いたい
一心で放火をする。しかしお七は放火犯で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された」

お七が処刑された鈴ヶ森刑場は、去年の東海道街道歩きで寄っていたので、その恋人の墓なら縁がある。
しかもその恋人が吉三地蔵となって百地蔵の一つになっているので更に興味も湧く。

 関川庵は名前の通り庵のような感じで小さな建物だった。だが本堂の隣の庫裏には人が住んでいる気配もあり
無住ではなさそうだ。狭い境内にお地蔵様を探して歩いたがそれらしき物は見つからない。
印刷してきた百地蔵の一覧表を見ると設置場所は「本堂正面」になっている。これでは諦めるしかなさそうだ。
代わりに「吉三郎の墓」なる物を写真に写した。

 
             関川庵                            吉三郎の墓

    関川庵の地図

 駿河百地蔵を提唱した顕光院のHPから吉三郎の話を引用させてもらいます。
「関川庵は大井川の川越えを前に亡くなった旅人も葬られた。また、関川庵の名前は大井川の別名、「関所川」
由来するという。
 関川庵の伝承によれば、吉三郎はお七の菩提を弔うために、江戸から西国に向けて旅立った。しかし、吉三郎は
大井川を前にして亡くなり、この地に葬られた。
さらに幾年か後に、廓應という名の僧が江戸からやってきた。この僧はお七と吉三郎の息子だと言い、終生、関川庵で
二人の菩提を弔ったという。
 同庵で祀られている吉三地蔵は、吉三郎が江戸から背負ってきたものとも、廓應がこの地で刻んだものともいわれて
いる。尊像の裏側には、「經蓮社願譽夢覺信士大徳、寶永七年正月十九日、妙譽貞經信女靈位、元祿五年八月十五日、
願主廓應」
と記されている」


 ヤー面白いですねー。八百屋お七と恋人吉三郎の間に子供がいたなんて初めて聞く話だ。興味を覚え更に検索すると

「天和3年(1683)3月29日、江戸に大火をもたらした14歳の八百屋お七は江戸市中を引き回しの上、鈴が森の処刑場で
火焙りの刑に刑に処せられました。お七は2才上の寺小姓生田庄之助に激しい恋心を持ち、火を点ければ逢えるだろうと
思ったのです。庄之助はお七の処刑後、僧となって、名を「西運」と改め諸国を行脚、後に大円寺の下隣りの明王院に
入って、お七の菩提を弔うために往復十里、およそ40kmの道のりを、夜から明け方に掛けて浅草観音まで鉦を叩き
念仏を唱え歩き続けました。
大円寺の阿弥陀堂にお七地蔵が祀られています。磔にされた時、お七は役人に向かってこういったそうです。
「ありがとうございました」と。ふと首を傾げたあどけないお顔のお七地蔵は、隔夜日参り一万日の行を27年5ヶ月
かけて満行した日に、お七が夢枕に立って成仏したことを告げた姿を西運が仏師に彫らせたものです。」

 更にウィキペディアを引用すると

「お七の家は天和2(1683)年12月28日の天和の大火で焼け出され、避難先の寺で寺小姓の生田庄之介と恋仲になる。
やがて店が再建され、寺を引き払ったお七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また
庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ
小火にとどまったが、お七は放火の罪で天和3年3月28日捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された。」


 どうですか関川庵の伝承とは随分違いますよね。だいたいお七が焼け出された火事は天和2年12月の事。そこで
吉三郎と出会い恋仲となり深い関係になったとしても、お七が処刑された天和3年3月では十月十日どころか4か月
にしかならない。これでは超未熟児で、当時はおろか現代でも助かる可能性は低い。
これらの事を考えれば、関川庵に居ついた僧は二人の子供ではない事は確かだ。
更に地蔵像の後ろに書かれた年号は、お七の死んだ年と思われるが元禄5年(1693)では、お七の処刑されてから
10年も過ぎている。そうなるとこの地蔵尊もお七や吉三郎には関係なさそうだ。
また、吉三郎と生田庄之介の名前の違いは、この事件の後、多くの物語が作られ、その物語での名前が吉三郎とか
吉三だったので何通りもの名前があるらしい。
それにしても寺の僧が二人の子供だったら、父親の像の名前を本名でなく物語の名前を使うなんて考えられない。
しかしこういう事があると歩いていても楽しいし、ブログを書く興味も湧いてくる。

        
          角度のある舟型の石仏                     石仏拡大

 長くなってしまったが関川庵ではもう一つ気になった物があった。
それは石仏の舟型光背石というのか、石仏の形が舟型なのは一般的なのだが、その水平面が平らではなく
像の中心から角度をもっていることだ。この角度を持った石仏は、ここ志太地方ではよく見かけるが他の地区では
水平な物が多いように感じる。
今回の遍路は志太地方だけでなく、駿河一国全体に広がっているので比較してみよう。



駿河一国百地蔵

2013-09-11 10:16:51 | 寺社遍路
 夏の青春18切符で歩く予定だった「甲州道中」も、街道マップを購入したが極暑に恐れをなし中止。
富士山のプリンスルートも封鎖破りまでして登る気にもならず、これも止めてしまった。
では何処を歩こうかと思案した結果、急浮上したのが「駿河一国百地蔵」でした。

「駿河一国百地蔵」とは、昭和7年静岡市顕光院の住職により制定された霊場巡りで、顕光院のHPには
「一般に地蔵尊の信仰があついけれども、個々の存在であって一連の関係がない。由緒ある地蔵尊をまとめて
巡拝するよすがとした。
在来の御詠歌があるものは、それを採用し、無いものには新たに作歌して、駿河一国百地蔵菩薩御詠歌を編集した。
駿河一国百地蔵菩薩第何番札所と彫刻された標識が建てられ、更に篤信家によって御詠歌の扁額がかけられた」

 
 今までに秩父、四国、駿河、遠江、遠州と何ヵ所もの霊場巡りをしてきたが、そのほとんどの札所では
ご本尊に接する事はなかった。札所側では、ご朱印代金を帰納するだけの遍路を、わざわざ本堂に上げて
お詣りさせていては手間がかかりすぎる。
一方遍路としても、長距離意を歩いて疲れているのに靴をぬぎ、本堂で正座をするのも億劫になる。
そうなると自然に本堂の前のお詣りだけで良しとしてしまうようになり、遍路とはそんなものだと思っていた。

 だがお地蔵さんなら本堂に上がらずとも境内にありそうなので直接お詣りができるし、それに最近になって
興味を覚え出した色々な石仏にも対面できそうだ。
100カ所もあればご朱印だけで3万円になってしまう。これも省略できるなど好い事ずくめだ。

 HPの札所一覧を見ると、西は島田市の大井川沿いから、東は三島市に跨っているが、その多くの地蔵は
提唱寺のある静岡に点在している。少々偏り過ぎの気もするが、歴史のある駿府(静岡)の中を歩くのも
面白いかもしれないと思っている。
 遍路コースはなるべく同じ道は歩かないようにして、今回も駅から駅のコースを目指す事にする。
ただ最近は、近所の寺の場所を聞いても分からない人が多くなってきているので、地蔵さんの事を聞いても
分かる人は少ないと、地蔵の所在地だけは詳細に調べておく事にする。
また、観歩を心がけている最近だが、事前に地蔵以外を調べていくと、興味がそちらに飛び主題が薄れてしまう
恐れがある。歩いていて興味を覚えたものだけを見てこようと思う。

 これから1週間に一度歩けば今年中には結願できるだろう。
そんな予定で「駿河一国百地蔵」の遍路を始めます。