はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天子ヶ岳から朝霧高原道の駅-2

2015-03-30 16:24:03 | 低山歩き
歩行記録                                                          27-3-17(火)
歩行時間:6時間35分   休憩時間:1時間20分   延時間:7時間55分
出発時刻:8時20分     到着時刻:16時15分
歩  数: 32、352歩(推定距離24.3km)    GPS距離21.2km
行程表
 立石バス停 0:35> 林道横断 1:40> 天子ヶ岳 0:40> 長者ヶ岳 0:30> 休暇村分岐 0:25> 長者ヶ岳登山口 0:40>
 陣場の滝 1:00> 麓の吊橋 0:15> 麓 山の家 0:35> 自然歩道分岐 0:15> 朝霧高原道の駅

                                朝霧高原道の駅へ

           
              明るい尾根道                      東海自然歩道合流

 天子ヶ岳から長者ヶ岳への尾根道は、両側に雑木の裸木が続く明るい道だった。こんな道を歩いているとホッとするのは
明るいからか? いやいやそうではなくて単に道が平か下りなので体が楽になるからだろう。
 右手の樹間にドカンと大きい富士山が付いてて離れない。勿論天ケ岳の展望台からも邪魔物も無い富士山は見えていた。
なのに何故、写真を掲載しないかと云うと、何処で写した富士山も、正面に大沢崩れを構え皆同じように見えてしまう。
それなら長者ヶ岳からの富士山で充分だと思った。

 双耳峰と思われる二つの山の鞍部で東海自然歩道と合流した。ここを下れば山梨県の天子湖に下るらしいが、天子湖とは
初めて聞く名前なので、調べてみると富士川支流の佐野川にあるダム湖の名前だった。自然の湖なら何か伝説でも伝わって
いないかと期待したがダム湖では諦めざるを得ない。

 
              長者ヶ岳山頂広場                          富士山とベンチを独り占

 11時35分に長者ヶ岳に到着。登り口にあった案内板には、ここまで210分とあったが、それより若干短い180分で着く事が
できた。最近とみに弱くなったきた脚力なので、これなら上出来の速さだろう。
 ここに来る前は天子山地と天子ヶ岳の名前は知っていたが長者ヶ岳の名前は知らなかった。なので山自体の人気や眺めは
天子ヶ岳の方が良いと勝手に思い込んでいた。それが実際来てみると天子ヶ岳山頂は何も無かったのに、長者ヶ岳の山頂には
東海自然歩道の案内板やベンチも何脚も備えられていて 「山梨百名山」 の杭も建っていた。
しかも山の標高も長者ヶ岳の方が高かったとは・・・・

 誰も居ない山頂では、富士山の展望もベンチも独り占めの贅沢な昼食をとることができた。
眼下には田貫湖が見えていて、そこから徐々に視線を上げていくと富士山の大沢崩れになる。更に視線を上にやると富士山頂に
至る。田貫湖と云えばダイヤモンド富士が湖面に映り、ダブルダイヤモンド富士として有名だが、此処の山頂からもダイヤモンド
富士なら眺められそうだ。
そのチャンスは毎年4月20日頃と8月20日頃にあるらしいが誰か挑戦してみてくれませんか。

昼飯が終わるころ同年輩の単独行の男性が上ってきたので少し話をした。
「以前はここからも木が邪魔をしていて、富士山が清々見えなかったが、誰かがここの木を切っての富士山が見えるようにして
くれた。だけどその人は山を下った所で待っていたパトカーの警官に職務質問をされた」
という。
ウン!如何にも尤もらしい話だけど誰が警察に知らせたのだろう。しかも男性が何処へ下るのかも分からないのに、パトカーは
何故待ち伏せできたのかな。
考えられるのは、ここの木を切ったのは携帯電話が普及してからの事で、警察に連絡したのは木を切った男性の仲間と云う事だ。
勿論そんな屁理屈は言いませんでしたが。ケイカンを作ってケイカンに捕まったカイカンの話でした。

 単独行の男性はこの辺りの地理に詳しいようなので毛無山のことを聞いてみた。
「ここから5・6時間で麓まで行けますよ」 だって。今12時だから6時過ぎになってしまう。今日は無理だ。
「毛無を縦走するとバスも無いし、車で行っても帰りに長い距離を歩かなければならないので、麓に車を置いて毛無だけを登る
人が多い」
とも教えてくれた。

 天子山地も今日、天子と長者に登ったので一応歩いた事になる。だが天子山地の主峰は毛無山なので 「毛無に登らずして
天子を語る事なかれ」
だろう。何時かは行ってみたい。


                                     南アルプス

 富士山の見える反対側からは、前衛の山の後ろに白銀を輝かした南アルプスが見えていた。山の名前は分からないが
一番左に尖った高い山が見える。あれは北岳だろうか? 毛無山の方からならもっとよく見えるだろうな。と、更に自分を
追い込んでしまう悪い癖が始まった。

 
          休暇村分岐から富士山と田貫湖                    長者ヶ岳登山口

 下りは広目の道に程よい傾斜、しかも小石がないのでツイツイ小走りになってしまう。登りはなく、ただ下るのみで景観は無い。
最初の頃は楽で良かったが、その内に使い慣れない太腿の前が張ってきた。
この道を登るのも張り合いは無さそうだが、途中で母子連れと自転車を担いだ単独の人とすれ違った。
飽きが出かかった頃ようやく休暇村への分岐点に着いた。何故かここだけは富士山方向の木が刈り取られていて、富士山と
田貫湖を見る事ができた。ここも誰かが木を切ってくれたのだろうか。ありがたいことだ。

 実は帰りのコースをまだ決めてなかった。候補としてはこの分岐に1時過ぎに付いたなら休暇村に下り白糸の滝に行く。
1時前なら東海自然歩道を歩いて朝霧高原に向かおうと思っていた。どちらも道は調べてないが、以前も歩いているの多分
大丈夫だろう。そして今は12時30分。迷うことなく東海自然歩道を歩く事にした。
山道の下りを更に30分弱歩いて、やっと長者ヶ岳登山口に付いた。山頂からここまで55分かかったが、案内板では70分と
あったので、これも小走りした成果かもしれないが少々疲れた。
車道の右側を覗き込むと田貫湖が見えたが、そこまで行く気にはならなかった。

 
              小田貫湿原                                 むじな石

 小田貫湿原には何回も来ているが、ここが湿原になっていたことは一度も無い。湿原には大小125個の池があると案内して
いるが、今日も見えるのは枯草だけ。もう湿原は乾燥して草原になってしまったのだろうか。
湿原の横を走る車道の側溝には澄んだ水が勢いよく流れている。この水を湿原に注ぎこんだら湿原は復活するのではないかな。

 湿原を過ぎた林の中に 「むじな石」 と書かれた大きな石があった。でも「むじな」って何だっけ? 改めて考えても思い浮かば
なかった。「同じ穴の狢(むじな)」 って云うから悪そうな獣を想像するが分からない。そこで調べてみました。
「狢は、狸に似た動物でアナグマの異名。山林に深い穴を掘ってすむことから、悪事を働く同類の意味で「「同じ穴の貉」という」
アライグマラスカルなら知っているが、アナグマは雰囲気では分かるが本体は知らない。それに日本の本州にツキノワグマ以外の
熊がいるとも思えない。
調べてみたら、アナグマは 「ネコ目イタチ科アナグマ属」 で、ツキノワグマは 「ネコ目クマ科クマ属」 でした。
「科」がイタチとクマの違いがあるので同じ仲間ではないようだ。次にイタチはと云うと 「ネコ目イタチ科イタチ」 なのでどうやら
イタチと親戚のようだ。因みにアナグマと形の似ている狸も調べてみると 「ネコ目イヌ科タヌキ属」 でした。

 そう云われればこの石は、薄暗い林の中に背を丸め息を潜めて獲物を狙っている獣に見えない事もないかな。
しかしアナグマが悪さをするとは何処にも書いてなかったが。

 
                 陣場の滝                             陣場の滝の水汲み場

 陣場の滝は以前来た時より水の量が少なく、更に水が落ちている場所も少なくなっていた。以前は白糸の滝の小型版と思って
人にも話していたが、これではとても宣伝するわけにはいかない。
 この辺りの今の地名は 「猪之頭」 と書くが、明治の初めまでは、泉の源という意味で 「井之頭」 と書いていたらしい。
ところで猪之頭と井之頭。どちらが良いと思います? 私は断然井之頭の方が好きなので、何故改名したのか信じられない
気持ちです。だって猪之頭では山間僻地のイメージだが、井之頭なら水の豊富な場所を思い浮かべる事ができます。
その証拠には、近くに県立の 「富士養鱒場」 もあり有料で見学もできるようです。

 水といえば陣場の滝の水辺には水汲み場があって、今日もポリタンクを幾つも待った人が水を汲んでいた。駐車場と離れて
いるので台車まで準備しているから本格的だ。ただ近くには富士宮市で建てた看板に
「ご注意 湧水を利用される方は、煮沸などをしてご利用ください」
と書いてあった。
そこで水を汲んでいた人に 「生では飲めないのですか?」 と聞くと 「私等は生で飲んでますよ」 だって。
マーそうだろうな、役所としては知らん顔をしていて、何か起こったら困るので責任逃れをしたくなるだろう。
ここの水にはバナジュウムが含まれていて血糖値を下げるとか。私も持っていたペットボトルを空にして水を汲みました。

 そうそう陣場の滝とは 「源頼朝が富士の巻狩りのとき、一夜の陣を敷いた事から陣場の滝と呼ぶようになった」 そうです。

          
          溶岩が落ちている道                        通行止だ!

 東海自然歩道は猪之頭中学校を過ぎると、また山道に入る。その山道の所々に溶岩の破片が落ちていた。
富士山の麓では、この溶岩を拾って庭の縁石にしたりするが、溶岩って溶岩流で流れてくるから、噴火口からズット続いている
のではないのか。だがこの辺りにある小さな溶岩がアチコチに落ちている。
しかもこの辺りは高台で溶岩の流れがあるようには思えない。それでは噴火のときに火山弾と同じように飛ばされてきたのか。
気になって調べてみると、ウイきペディアの火山弾の項でこんな説明があった。
「火山弾とは、火山の噴火に際して、溶岩の破片が放出されるときに形成される直径65mm以上の溶融した岩石の塊である。
ただし火山弾は地面に達する前に冷えて固まる。」
と溶岩が飛んできた物とあった。
デモデモです。富士山周辺の火山弾と溶岩の破片は明らかに違い、火山弾は赤っぽく紡錘形で、如何にも弾といった感じです。
一方溶岩は黒っぽくブツブツ穴がと空いていて、形もてんでにバラバラです。
結局私を納得させてくれるような物は見つからなかったが、ここにある石は火山弾なのか、溶岩なのか??

 道標の先にロープが張ってあり 「通行禁止」 となっている。ここまで来て戻るわけにはいかない。
恐々近づいて見ると、大丈夫でした迂回路が出来ていました。

 
           またもや通行禁止だ                            川底から吊橋

 「麓の吊橋」 の入口に大きな 「通行禁止」 の看板が見える。又かよ、でもここもさっきと同じように迂回路があるだろう。
近づいて見ると迂回路は川底を渡る道だった。今日は水が無いのでいいが、これで水が出ていたらどうするのだ。
そんな目で吊橋を見ると全然大丈夫そうで、私一人が渡る分には支障は無さそうだ。さてどうしよう。
イヤイヤ今日は水が出ていない。これで若しもの事が起り怪我でもしたら、いい恥晒しになってしまう。と川底を渡りました。
対岸には工事の現場事務所があり、工期は平成27年3月20日となっていた。
びく石の農道もそうだったが、こういう工事は工期を余り気にしないのだろうか。

 
             ふもっとぱら入口                             麓 山の家

 吊橋を渡った先で、いや川底を渡った先で車道に合流した。この車道を右に行くと国道139号でバス停に出るようだ。
山に向かって進む東海自然歩道の右側には、広い草原?芝生?牧場?があって、その真ん中にテントが張られていた。
広々として気持ち良いか、それとも何もない広場の真中で寂しいか分からないが、天気さえ良ければ満天の星と黒々とした
巨大な富士山を望むことができるだろう。
そこは 「ふもとっぱら」 自然体験休暇施設で、キャンプや森林体験、気球体験などもできる宿泊施設でした。
 更に車道を進むと、今度は富士宮市営の宿泊施設 「麓 山の家」 があった。この山の家は名前に合わないほど広く、
維持するのが大変そうだ。だが、ここを利用すれば毛無山にも容易に登れそうだ。
 更に道を進むと、自然歩道は三角点の頂点の鋭角を曲がるようになっていて、そこには 「毛無山登山口」 の標識が有った。


           
                   東海自然歩道分岐                          自然歩道の標識

 自然歩道は車道と離れ再び山道に入ってから林の中を出ると、牧草地の先に牛舎らしき建物が見えた。
林と牧草地の間の道は、以前は草が生茂り不安も感じたが、今は踏み跡もしっかり付いていて明らかな山道だった。
 前方に四阿が見えてきた。ここまで来れば朝霧道の駅はつい目と鼻の先なので20分もあれば充分着くだろう。
ここの道標に気になる事が書いてあり、以前にも疑問に感じていた。
「県境方面迂回路 (悪天候・自然歩道通行不能時のみ)」 と書いてあるのだ。
何故そんな事を書いてあるのか不思議だったが、今回自然歩道の案内板を見て分かった。
「この先一部区間が、降雨、雪時に水が溜りができてしまい、通行困難になる場合があります。土地の使用者のご厚意により
悪天候・自然報道通行不能時のみ
を条件として、迂回路として一時的に通行を許可して頂いています。
あくまでも私有地ですので、晴天時や自然歩道歩行可能時は使用しないでください。」
と書いてあった。

読まなければよかったな。疑問は解決したが、気兼しいしいの歩くになってしまう。

 
         ハングライダーの離陸場                         ハングライダーと毛無山

 前回歩いた時は草が茫々で国道近くで道を外れてしまったが、今は轍の跡がハッキリ付いた完全な道になっていた。
これなら気兼しいしいと云っても、畑の中とか牧草地の中ではないので左程の事はない。どちらかと云えばうるさい地主だと思った。

 ハングライダーの離陸場の丸い塚があるが人の気配はしない。だが後ろを振り返り上空を見ると、ハングライダーが3機空中を
舞っていた。ウワー!毛無山の上には雪が残っている。寒いだろうなー。ここの気温は5℃なので、あの上空なら零度以下だろう。
良くやるよな。私にはとてもできないしやる気もない。なんかこっちまで寒くなって身震いが出てきた。

 
                毛無山と雨ヶ岳                          朝霧高原道の駅

 毛無山や雨ヶ岳に残っている雪は17日降ったのではないだろうか。だとするとあの日は矢張り天子山地を止めて、小笠山に
変更したのは正解だった。毛無山の標高は1964mでほぼ2000mもある。低山歩き専門の私には2000mとなると荷が重す
ぎるのかもしれない。

 朝霧高原道の駅に4時15分到着。バスの時間は5時3分なので十分時間はある。それでは氷結を手に入れようと思ったが
道の駅でアルコールを売っているのかな? 確か高速のSAではアルコールは売っていない。
氷結やビールは売ってなかったが地酒のワンカップはあった。これまで乾杯を清酒でやった事はないが背に腹はかえれない。
最初の一口は違和感があったが、後は何でも同じだった。アルコールなら。

天子ヶ岳から朝霧高原道の駅

2015-03-28 18:48:36 | 低山歩き
歩行記録                                                          27-3-17(火)
歩行時間:6時間35分   休憩時間:1時間20分   延時間:7時間55分
出発時刻:8時20分     到着時刻:16時15分
歩  数: 32、352歩(推定距離24.3km)    GPS距離21.2km
行程表
 立石バス停 0:35> 林道横断 1:40> 天子ヶ岳 0:40> 長者ヶ岳 0:30> 休暇村分岐 0:25> 長者ヶ岳登山口 0:40>
 陣場の滝 1:00> 麓の吊橋 0:15> 麓 山の家 0:35> 自然歩道分岐 0:15> 朝霧高原道の駅

                                初めての天子山地
 一人歩きをしていると何か目標を決めないと、何処に行くか悩んだり、途中で歩くのも嫌になってしまう。
そこで私はウォーキングでは歩き遍路や街道歩き、低山では山域にある全ての道を踏破するとか勝手な目標を掲げて歩いています。
その中の富士山では、麓の道を一周するとか、富士山の眺めの良い低山歩きもありますが、中でも富士山の前景に他の山が入らない
山歩きがあと少しで終わりそうです。その最後に残されていた天子山地の天子ヶ岳と長者ヶ岳に行ってきました。


 
 上の図は既に歩き終わった麓道の一周コースと、そのままの富士山が見える低山です。
当り前の事だがそれらの山は一周コースと似たような場所になるので、それを繋げば平地コースと山道コースの富士山一周
コースが出来そうです。
平らな麓道だけでは物足りない人でも、これらの山を入れれば結構面白いコースになると思います。

 それなのに天子山地だけは、麓は何回も歩いているのに山には登った事がない。その理由は?
平らな所から突然山が生えたように、そそり立っている山形に恐れを感じてしまい、あんな急峻な山は俺には無理だと・・・・
そんな訳でもう登る事はないと思っていたが、先日ブログ 「大人の遠足」 の山行記録を見て驚いた。
バスを利用して行っても天子ヶ岳と長者ヶ岳に登り、午後1時前には田貫湖に下っていた。
それなら私でも何とかなりそうだと、やっと出かける気になりました。

 
                ミツマタ(三椏)                        以外になだらかな天子ヶ岳

 道の土手のミツマタが満開の花を付けていた。山地で見るより木も大きく花の数も多いようだ。
ミツマタと云えば富士宮の 「倭文(しどり)神社」 は日本最古唯一の織物・製紙の神である健羽雷神を祀っていた。
その由緒書には 「元来当地方には、藤、三椏、楮等が山野に自生して居り」 とあり
「ミツマタが計画的に生産されるようになったのは、今から200年前現在の静岡県富士宮市の白糸の滝近くで栽培されたのが
最初と記録されています。」
と紹介したものもある。
ならばここは白糸の滝の近くなのだからミツマタの産地のど真ん中だ。今日はきっとミツマタの花を楽しむことができるだろう。

 正面が天子ヶ岳と思うがやけになだらかに見える。これならどうと云う事のない山だが何故急峻な山だと思い込んだのだろう。
記憶では天子ヶ岳と長者ヶ岳は双耳峰で、山頂部は鉄兜を二つ並べたような形だったと思うのだが・・・・・
しかも写真左奥のピークが長者ヶ岳なのだから、記憶違いもいいとこだった。

          
                  双体道祖神                           甲子塔

 静岡県の道祖神の多くは 「道祖神」 と文字が刻まれた石仏で、双体の道祖神は県境近くで時々見かけるだけだった。
例えば信州との国境の水窪や甲斐との境の御殿場。そしてここ富士宮も甲斐との国境だ。多分江戸時代から隣国との交流が
多かったのだろう。此処の案内板には
佐折の石幢(せきどう) 幢とは、六角や八角の筒状の幡(はた)のことで、石幢は石で作った幡のことである。
この石幢は幢身の六面に地蔵菩薩像が彫られている。」
と紹介してあった。
しまったな~ 側面の地蔵菩薩像を確認しなかった。

 次も他所では見た事のない 「甲子塔」 があった。甲子塔とは庚申塔とは違い、
「干十二支の甲子(きのえね)の晩に、大黒天を祀り、豊作や商売繁盛を願う民間信仰を甲子待ちという。庚申待ちは徹夜を
原則とするのに対して、これは子の刻(深夜12時)までとする。とくに子の月である11月の甲子待ちを重視する。」

甲子塔は倭文神社の近くもあったがミツマタ(製紙)と何か関係があるのかな。

          
                               登山口の案内板

 立石バス停から10分も行った分岐点に西山本門寺と田貫湖キャンプ場への案内があったが天子ヶ岳は無い。一瞬田貫湖の
方かなと思ったが、左上の方にある案内板に気が付いた。危ない、危ない、気を付けないといけないな。
その案内板には、ここから天子ヶ岳まで150分で長者ヶ岳までは60分となっていた。今8時35分だから11時頃には天子へ、
昼までには長者ヶ岳に着きそうだ。これなら予定通り長者ヶ岳で昼飯ができる。
途中には展望台やら桜並木もあるようなので楽しみが増えた。

 
            石に彫られた道しるべ                         二股の道

 天子ヶ岳への道は要所要所に道標があり迷う事はないが、こんな所もあった。
大きな石に 「右天子 ⇒」 となっている。そしてその先の道は確かに二俣になっている。だが案内された右の道は沢状の道で
入口が抉られたようになっていた。踏み跡はあるので一本道なら躊躇なく踏み入って行くのだが、それに比べもう一方の道は
余りにもしっかりした道だった。さてどうしようと迷ったが、右の道を見ながら、歩きやすい左の道を行く事にした。
暫く行くと道は合流していて、右の道の入口には小枝が積んであった。きっと元の道が抉れたので新しい道を作ったのだろう。

              
                  霜柱                             二股の道

 案内図にもあった林道の合流部を過ぎると、道は傾斜は増して高度があがったのか霜柱が目に付きようになった。
こんな物でも珍しくて、わざと踏たくなるのだから幼すぎる。でもザックザックの音とグサッとぐずれる感触は面白いですよね。

 前方でまた道が分岐していた。ここには標識は無かったが、一方は登り勾配で、もう一方は平らな道だった。
今度は迷うことなく登りの道に入ったが、その理由は単に山頂に向かっているのだから登りの道だろうと単純に思っただけで
きっと誰でもそう思うような分岐だった。
なのに何故態々書いたのか。それはバス停から田貫湖までの間でサテ?と、思ったのはこの二ヶ所の分岐だけだった。
それ程道標がしっかりして分かりやすいので、初めて天子ヶ岳に登る人でも不安はありません。

 
           山頂広場の瓔珞(ようらく)つつじ                      天ケ岳山頂

 直登だった道が西に巻くようになり、芝川の上稲子への分岐を過ぎると山頂の広場に着いた。その中央に案内板が建っていて
「昔、この地に都から嫁いできたお姫様が亡くなるとき、この場所に一緒に埋めた瓔珞 (ようらく:宝石などを連ねた装身具) から
芽吹いたことから瓔珞つつじとよばれています。
 このつつじの花は真白で、風鈴のように下向きになって枝にぎっしりと美しく揺れて咲くので、別名「風鈴つつじ」とも言われます。
 また、この瓔珞つつじの枝を折ると、暴風雨に見舞われるということで地元の人はこのつつじを恐れ、村人は急いで山頂に枝を
返しに行くという。逆に干ばつの際は、麓の青年が二人で枝を折りに登ることもあったといわれる。」


 揺籃ツツジは初めて聞く名前だが 「花は真白で、風鈴のように下向きになって咲く」 ツツジならドウダンツツジ(満天星つつじ)
と思うが。そこで植物図鑑を調べたが揺籃ツツジの記述はなく、ネットで検索すると天子ヶ岳の物ばかりがヒットした。
その中にあった写真をみると、花は真っ白ではなく先の方が赤みを帯びた 「サラサ(更紗)ドウダンツツジ」 だった。
となると案内板と矛盾するが、果たしてどちらが正しいか、確認する必要がありそうだな。

 登りながら天子ヶ岳の名前の謂れを考えてみた。
天子といえば 「日出ずる処の天子」 で天皇のことで、まさかこの山に天皇が行幸したとは思えない。
また、西洋なら背中に羽根の生えたキューピットの事だが、異国の愛の天子が異教徒の住む日本に来ることはなかろう。
となれば、駿河には三保の天女伝説と吉原のかぐや姫の降臨伝説がある。矢張りここも天から女性が降りてきた事にしたい。
そこで 「天子が山頂に下りて遊んでいるのを隣の山から見た男が、その天子を捕まえて、見世物にして大儲けをした」
それから天子が遊んでいた山を天ケ岳として、男が見ていた山を長者ヶ岳とした。なんて俗物的な空想しか浮かばなかった。

 天子ヶ岳に着いたが、途中には展望台も桜並木も無かった。いや気が付かないだけだったのかもしれない。
山頂の富士山の展望台は揺籃ツツジの先にあった。

伊豆山稜歩道(船原峠から金冠山)

2015-03-24 10:09:13 | 低山歩き
歩行記録                                                   歩行月日:27-3-22(日)
歩行時間:4時間10分   休憩時間:0時間55分   延時間:5時間05分
出発時間:9時10分     到着時間:14時15分
歩  数: 20、631歩(推定距離15.5km)    GPS距離12.7km
行程表
 修善寺駅 <バス> 大曲茶屋 0:45> 船原峠 0:45> 土肥駐車場 0:40> 古稀山 0:30> 達磨山 0:50> 戸田峠
 0:10> 金冠山 0:30> 達磨山レストハウス <バス> 修善寺駅

 月に一度の仲間数人の低山歩きは、今回は古希を迎えた仲間の祝い(?)を兼ねて 「伊豆山稜歩道」 の古稀山としました。
古稀山には去年の4月1日に自分の古稀の誕生日にも来ているが、歳をとり余り感動する心の少なくなった仲間でも、駿河湾
越しの富士山が見える絶景なら、キット感動してくれるのではないかと案内したのですが・・・・・・

 電車の中で仲間の一人が
「古稀山まではスカイラインを歩くので危ないらしい」 とか
「この山は富士山が見えれば最高だけど、見えないと価値が無いらしい」 等と言っている。
確かに船原峠から伽藍山を過ぎた辺りまでは、車道歩きが多く詰まらないし気を使う事も多い。
景色も富士山が見えなければ価値が無いとまでは云わないが半減する事も間違いない。
しかし登る前から否定的な事をばかり言われてもなぁ、と仲間の持つ資料を見せて貰った。

 1枚目に印刷されている戸田峠のバス停と雪の残る階段の写真を見て、アレー何処かで見た事がある写真だと思い表題を
見ると。 エッ! エッ! エッ! 何と!何と 「大人の遠足」 だった。
彼曰く 「参考になりそうなので印刷してきた。」 のだそうだ。
愛読しているブログが、この様な使い方をされて嬉しいが、このまま黙っていると他の仲間にも影響が出てしまう。
そうでなくても今日はどんよりした日で、電車の中からも富士山は全然見えていなかった。
「ほら、ここに『古稀山からが一番景色も良く、人があまり来ないので静かでのんびりできます。』って書いてあるけど、ここで
昼飯の予定だし、景色は古稀山からもいいけど、金冠山からの富士山の方がいいよ」
と防戦するが、富士山が見えない
のでは説得力が無い。そこで
「ここの尾根道は大崩山塊にはない熊笹の尾根道で気持ちいいよ」 とか
「金冠山からレストハウスまでの防火帯の道は、芝の広い道でアセビの群落もあり、今なら花が満開だと思う」

アーア 山に登る前から一汗かかせるなんて、あやさんは罪作りな人だ(笑)

        
               土肥駐車場にオートバイ勢揃い                        熊笹の間の道

 今までこの道を歩いた時は車は少なかったが、今日は日曜日とあってやけに車が多い。それもオートバイが多く車道の脇を
歩いている私たちを次々と追い越して行く。新聞に最近中高年ライダーが増えて、昔取った杵柄と腕を過信して事故を起こす
ケースが多いとか。気を付けてくれよナ。
 左側を歩いているのは船原峠から戸田峠にかけての登山路は、スカイラインの西側に設置されていて、古稀山に至るまでの
登山路の7割方はスカイラインの左隅を歩く事になる。歩道はなくガードレールの内側を歩くので左側通行になってしまうが、
スカイラインを横断するより安全なのですから許してください。

 土肥駐車場にオートバイが勢揃いをしていた。ナンバーは首都圏が多いが中には大阪や愛知のナンバーも見える。
ライダーの顔ぶれは中高年と言っては失礼だし、若者とも呼べない20代後半から30台が多いようだ。
殆どが一人乗りだが二人乗りのはカップルの場合が多い。そのためか昔の雷族や暴走族と違いスピードも控えめだし、排気音も
小さく無駄吹かしもなかった。

 土肥駐車場から伽藍山を過ぎると熊笹の広い尾根道になる。この様な道は焼津近辺には無いし、最近は林の中の踏み跡の
ようでも踏み跡でもないような道を歩いていたので、安心して解放感にしたりながら歩く事ができた。
 古稀山から達磨山や富士山が見える場所着いたが、案の定富士山方面は視界不良。それどころか麓に見えている土肥港も
ボンヤリとしか見えなかった

          
                          古稀1 古稀前1 古稀後2+1 の記念写真

 富士山は見えなくても一応写真を写して昼飯にした。祝酒? 残念ながらありません。山中は禁酒です。

古稀山前後の道は、ぬかるんでいて歩き難かったが、伽藍山から達磨山にかけての尾根道は歩いていて気持ちがいい。
場所によっては前を見ればこれから行く道が見え、後ろを振り返れば歩いて来た道が見える。
これで富士山さえ見えれば文句はないのだが・・・・・・

 達磨山からの下りの階段は段差が高く登りでは疲れそうな道だ。ここを避けたわけではないが今迄は全て船原峠から北上
してきた。理由は富士山を正面にして歩きたいからだったが、実際歩いてみると船原峠から主峰の達磨山までの方が、距離は
長いが若干なだらかなように感じる。
一方戸田峠から南下すると、達磨山までの距離は短いが傾斜が急で疲れそうな感じがする。
ただ、富士山狙いなら午前中に富士山が見る事ができる、今回とは逆の方がベターのようです。

 戸田峠でバスの時間を再確認してから金冠山に向かう事にしていた。普段のゴールなら駅が多いので余りゴール時間は気に
しないのだが今日はそうもいかない。レストハウスから修善寺まで歩くなんて言えば、仲間に殺されかねない。
バスの予定はレストハウスを14時43分だが、次のバスは17時23分と約3時間待ちになってしまう。
一応調べてはきたが最近の私は見落しや勘違いが多く油断はならない。
でも大丈夫でした、戸田峠の時間はレストハウスより数分前になっていた。

         
               戸田港も                             沼津方面も

 戸田の街も御浜岬の砂州も見えてはいるがはっきりしていない。そして待望の金冠山からの眺めも期待外れ。
既に途中で諦めていたと云え、仲間に申し訳ない気持ちも湧く。しかし優しい仲間は
「ここから富士山が見えれば最高だ。」 と言ってくれた。

 金冠山からレストハウスに続く道のアセビはまだ少し早く、蕾の物が多かったが、広々とした芝の防火帯の道を歩いていると、
ここまでの疲れが抜けるような気がする。
14時15分。予定通りに達磨山レストハウスに到着。

 乾杯は修善寺から一等車(?)に座りながらやる予定だったが、普段なら5時過ぎの電車が今日はまだ3時台。
その所為か乗った電車はお見合い座席だった。それでも乗客が少なかったので乾杯をしてしまった。

小笠丘陵周回(六枚屏風から138度展望台)2

2015-03-21 19:24:06 | 低山歩き
歩行記録                                                   歩行月日:27-3-17(火)
歩行時間:6時間35分   休憩時間:2時間00分   延時間:8時間35分
出発時間:6時45分     到着時間:15時20分
歩  数: 28、331歩(推定距離21.2km)    GPS距離19.7km
行程表
 掛川駅 0:55> 登山口 0:25> 六枚屏風 0:20> 小笠山 0:10> 小笠神社 1:20> 送電線鉄塔 0:15> 県道出合
 0:20> 腹摺峠入口 0:15> 腹摺峠 0:25> 138度展望台 0:40> 林道出合 0:30> バイパスガード 0:15> 結縁寺
 0:30> 掛川城 0:15> 掛川駅

 

 小笠神社からは本当なら小笠池まで下り無線中継所へ登り返して、鳥居のある四辻に戻るのが良いのだが、小笠池から
中継所の間が通行禁止らしい。君子危うきに近寄らずで調べもせずに諦めた。
 小笠丘陵は小笠山を中心にして、東西に4本の尾根が走っている。一番北側は腹摺峠からエコパに至る尾根で、変化に
富んでいる尾根道だと思う。
次の尾根は今日歩く予定の尾根だが、視界は効かず眺めが良くない。だがアップダウンが少ないのでのんびりした尾根歩き
が出来ます。
3本目の尾根も同じように視界の効かない尾根道だが、下った場所が駅から遠く不便な場所になる。1度歩いたが同じ道を
引返したことがある。
一番南の尾根はまだ歩いた事がないが、3本目と同じように駅から遠い場所に下る事になるので歩く気は今のところない。

 
               四辻の標識                                県道の先に登山道

 四辻に建っている標識は「小笠神社0、4km」 、「無線中継搭0、8km」、「袋井市山本3、7km 法多山4、3km」、「掛川市矢崎
6km」 となっている。
更に小笠丘陵でよく見かける手製の標識も取り付けてあり、矢崎方面と同じ方向に 「板沢、久保、腹摺峠、掛川駅」 となっている。
実は小笠山に初めて来たとき、この標識で頭を抱えてしまった。その時は腹摺峠から法多山やエコパ方面に行こうと思っていたが
公的標識の法多山に向かうのか、手製の標識の腹摺峠に向かうのか判断がつかなかった。悩んだ末に腹摺峠に向かって正解
だったが分かりにくい標識だった。
小笠山に何回か来て、ようやく 「袋井市山本、法多山」 がどうやら県道を下る道だと理解できた。
また 「掛川市矢崎」 とは、今朝歩いた 「上張矢崎」 交差点辺りなので、六枚屏風経由の道を指しているのだろう。
しかし六枚屏風からの道が尾根に合流した所の公的標識の下りは、矢崎ではなく 「板沢」 になっている。
そうそうそれに六枚屏風は公的標識には一切なく、合流地点の手製の標識の上に、手書きで薄くあるだけだ。
更に掛川市のHPにも紹介してないのをみると、六枚屏風は危険と判断して周知をしてないのかもしれないな。

 前置きは兎も角、今日は2本目の尾根を歩くので、先ずは 「袋井市山本、法多山 」 方面に向かう。
標識のある四辻から下り勾配の道を少し行くと、法多山へ行く県道と2本目の尾根との分岐がある。右に下る道は県道経由
法多山の道で、すぐ下に県道が走っている。2本目の尾根から法多山への道は尾根を直進するが、ここも少し行くと県道に
合流する。その県道の先には山道も見え手製の標識もあり 「袋井,豊沢,法多山」 となっていた。

     
                              ピンクと黄色のリボン

 尾根道に入ると左右の木にピンクと黄色のリボンが巻きつけてあるのが目に付く。目印にしては多すぎるし、リボンの下には
番号を書いたテープも付いて、リボンのピンクは生木で黄色は枯れ木に巻いてある。伐採予定の木? にしては多すぎるが・・・・
このリボンは送電線の鉄塔の所まで続き、北の尾根も展望台を過ぎ、林道の出会いの所まで続いていた。
お蔭で道が明確でいいが、1月に歩いた時は無かったのに何なんだろうな。

          
                   北の尾根が低く見える                     法多山と鉄塔

 小笠丘陵は傾斜がきつい所為か植林されていないので道を歩いていて気持ちがいい。冬は枯枝が多く陽が射してくれるし
夏は木陰を作ってくれる。変に薄暗くならないので気持ちが悪い事も無い。だがこの尾根も小笠丘陵だけの事はあり、数は
少ないが所々に崖が口を開けているので注意が必要です。

 右側に北の尾根が何故か低く見えている。場所によっては尾根越しに町並みが見える所もあった。後で地図で調べると
いま歩いている道は小笠山から徐々に低くなり、送電線の手前のピークで登りらしい登りがあるだけだった。
一方北の尾根は展望台のピークから県道のトンネルにかけて下り、再度登り返して腹摺峠でグンと低くなる。
腹摺峠からはきつい登りで三つ峰の三角点になる。結構アップダウンの多い尾根になっている。
尾根越しに町が見えた所は腹摺峠なのかもしれないな。

 法多山の屋根が見えてきて、手前には送電線の鉄塔も見える。あの送電線の下に行きたいのだが果たして道はあるか。

          
                     19号鉄塔                            奥の院の鉄塔

 県道から1時間ほどで尾根にある送電線の鉄塔下に到着。ここから県道へのの下りは赤土と昨夜の雨でズルズルしていた。
ここで滑ったら汚れてしまうと今日一番の慎重さで下った。
山道を下りきった所にはシイタケの榾木があり、その横を少し行くと右側に茶畑の間の道が見え、その先が県道だった。
茶畑の間の道で前方を見ると2本の鉄塔が重なって見える。あの2本目の鉄塔の下が奥の院だが道を発見できるだろうか。

          
                   山本橋横の道                            側溝に猪が

 県道に出た所の電柱に、今歩いて来た鉄塔への案内が表示してあるが、反対方向の奥の院の鉄塔の案内はない。
次の鉄塔に行くには川を越さなければならないが、点検路のために橋など掛ける訳はないと、近くにあった橋を渡ってから
川沿いに遡り点検路を探した。
アッ!マテヨ!今の橋は山本橋だったが、小笠山の四辻の公的標識に 「袋井市山本、法多山」 とあった。その山本とは
この辺りの事なのか。
地図で山本の地名を探したが見つからなかったが、どうやら字名のようだ。標識に字名を書かれてもなぁ・・・・・・・・

 川の横には踏み跡があり、そこを辿って行くと林の中に入った。踏み跡と思われる所を少し登ったが、どこもかしこも道と
云えば道とも思える状態だ。ウーンここはびく石ではなく小笠丘陵だ。何処に断崖絶壁が有るか分からない。
止めよう。と、いうわけで点検路探索はあっさり諦めました。

 ここから法多山までは車道を1kmも行けば着くので、北の尾根から行くより面白味はないが楽は楽そうだ。子供連れなら
こっちの方が安全でしかも早いだろう。

 さてこれから腹摺峠に向かうのだが、その入口も分からない。ただ地図で見る限り民家のある橋の手前から峠に向かって
道があった。しかも2本線で表示されている道だったので多分大丈夫だろう。

 ウァー! ビックリした。県道の右側を下を向いて黙々と歩いていたら、側溝に獣が横たわっていた。慌てて少し下がってから
様子を見ると既に死んでいるようで、死後硬直で後ろ足がピンと伸びている。鼻の状態が判別できないがどうやら猪のようだ。
生きている猪なら離れて所からなら遭遇したいが、死んだ猪ではなぁ。交通事故にあったのだろうか。

 
          太陽光発電の所から道があった                      林に入る所に目印が

 「民家のある橋の手前を入る」 を頼りに歩いているが、そこには腹摺峠の掛川側入口と同じように 「遠江33観音」 の石の
道標が建っているのではないかと期待していた。
山本橋から20分も歩いた頃に前方に民家と橋が見えた。民家の手前には新しい太陽光発電が設置されていて、その手前に
巾3m程の道とも思えるような奥に続く空地はあった。しかし石の道標はない。
一先ず太陽光設備の空地とも見える道の奥を確認しようと林の入口まで行くと。ありました! 同じような幅の道が林の奥に
向かっていて、しかも林の入口の杭には赤い目印も。石の道標では無いがこの道が腹摺峠に行く峠道に間違いはない。

      
         紅白の布が                沢のような道                 峠の障害物

 広場のような場所に紅白の大きな布が垂下がっていた。大坂道頓堀の食いだおれ太郎が着ているよな柄だが、サーカスの
テント小屋のようにも見える。まさかこんな場所に有るわけはないが、道の反対側にも同じように垂下がっている。
これが広がっていた頃はこの道もすっぽり包まれていたと思われるが、一体何だったのだろう。

 道幅は同じまま続いていたが、上の方に行くと水が流れ、沢のようにもなっていた。その道を良く見ると平らなコンクリートの
破片があちこちに見えていた。どうやらこの道は昔は簡易舗装がされていた道のようだ。
この腹摺峠の道は県道の小笠山トンネルが出来る前は、掛川と海辺の横須賀地方を結ぶ重要な街道だったとも云う。
また遠江33観音正法寺と法多山を結ぶ遍路道でもあった。
だからと云って舗装はその時代と合わないし、峠から掛川側の道は一部は細い山道になっている。
と、そこで思い出した。峠から西の山上に向かってモノラックのレールが伸び、そこには小笠丘陵では珍しい茶畑がある事を。
その茶畑用の道に使っていたので道が舗装されていたのだろうか。
だが今では茶畑も道も放棄されて荒れるに任せている。少し自信はないがそうしておこう。

 腹摺峠の県道側には、相変わらず通行不可を表すように木の枝が積み上げられている。しかし実際に歩いてみればどうと
云う事は、いや安全この上ない道だった。ではこの障害物は自然に積もったのか? それも不自然な気がする。
アッ! そうだ。途中にあった紅白の布地、あれを使っていたときは登山者が邪魔になり、ここに障害物を置いたのかも。
そうして見れば、ここの木の枝は年代物の古い物ばかりだ。きっとそうに違いないと勝手に想像したが、撤去はしませんでした。

          
           峠のお不動さん                         峠の茶店跡

 腹摺り峠には昔は茶店があり繁盛していたという。その守り神なのか高台には不動明王の石仏が祀られている。
峠と云えばお地蔵さんが多いのだが、お不動さんは珍しい。
不動明王は悪魔をやっつけるらしいので、山の悪霊や山賊から旅人を守ってくれたのだろう。
 お不動さんお土台をよく見ると、左から 「長谷村 ?御?村 領家村」 と読める。長谷も領家も掛川側の麓にある地名なので
?御?村は 「高御所村」 ではないだろうか。そして茶店の経営者は掛川の人だった。と、これもそうしておこう。

 写真は峠の東を写してあります。138度展望台や小笠山には右のハイキングコースですが、腹摺峠の名前の由来となった
岩には、凹んだ所を進みます。5分もかからず行けるし危険な所も無いので話の種に行ってみてください。

          
           138度線の表示                         138度展望台

 結局今日は一日中ぼんやりして景色の見えない日だった。これなら天子ヶ岳からの富士山もきっと見えなかっただろうと諦め
がつく。雪はどうだったのかな、降ったのか降らなかったのか。これも気になる。

 
                林道出合                                林道のゲート

 展望台から先の道は考えてなかったが、朝歩いた六枚屏風の板沢の道は止めて、富士見台霊園下の西沢池に下ろうと思う。
そこへも 「下俣・久保・掛川駅」「久保・結縁寺・掛川駅」 2本の道があるが、標識を見ただけではわからない。
簡単に言えば最初の道は展望台や腹摺峠に近く、2本目は小笠山への近道になる。
今は展望台にいるので最初の道を下ったの方が近いのだが、まだ時間は1時前、しかも距離も13kmしか歩いていない。
このまま下ったのでは2時頃掛川駅に着いてしまう。それでは早すぎて乾杯がしづらい。なら遠回りの道で帰ろう。

 最初の分岐には標識の下に 「マスラノ池」 の補助標識が付いて、2本目にも 「与左衛門池」 が付いていた。
 下の図を見て下さい。黄色は山道で、赤の実線は今回歩いた道を表しています。
最初のマスラノ池への分岐は、図右下の展望台から直接林道に下る道で、林道に出合ったら左に行けばマスラノ池に出ます。
2本目の与左衛門池への分岐は図中央下の小笠山からの道になります。ここの林道出合いには正面方向に 「掛川・結縁寺・
久保」
の標識が建っています。この直進するとすぐ山道になり、与左衛門池の手前でマスラノ池からの林道に合流します。

 今回は与左衛門池への分岐を下り、林道に合流したら右折して、わざわざ林道を遠回りをして下りました。
その林道の終点(入口)地点には進入禁止の鎖が林道を塞いでいて、その先は四ツ角になっていた。
ブログには案内図など表示して、いかにも分かったように書いていますが、実際は地図も持たないので、こんな四ツ角に来ると
頭を悩ませます。今回も左の道は先程の林道と合流するだろうと見当はついたが、さて直進すべきか右折するべきか悩みました。
直進の道は一番細い道でバイパスに向かっているので果たしてガードが有るか心配だし、右の登りの道は、また山の中に
向かってしまう恐れがある。
結局バイパスに向かう道を行き、ガードが無かったら、ここまで戻り左の確かな道に行こうと直進しました。
そして案ずるより産むが易しの例えの如く、カーブした道の先にバイパスを潜るガードが現れました・

               

 のんびり道なりに下って行くと民家が現れ遠江三十三観音一番札所結縁寺の横に出た。この先は朝歩いた道を行くだけだ。
今回は時間が早かったので林道を遠回りしたが、林道には途中に見るべき物もなかったのでこんなルートは取る必要も無い。
ただ与左衛門池から掛川駅は街中を通らなければならないので、距離は若干伸びるが、この道を一部利用するのも面白いかも。

 
              掛川桜と掛川城                                掛川駅

 掛川駅に2時55分に到着。このまま帰るのでは早すぎるのでTVで先週放送していた、掛川城の掛川桜を見に行く事にした。
掛川桜とは河津桜に似ているが開花時期が7〜10日遅く、ソメイヨシノより一足早く咲く、小さい花が手毬状に咲くのが特徴だ
そうです。しかし桜は盛りを過ぎているようだった。それにしても赤みが強い桜だと感じた。

 掛川駅北口の木造駅舎は、昭和8年に建設され駅舎で、掛川市は市民から募金を募り保存することにしたようです。
掛川で募金と聞くと掛川城の再建、掛川新幹線駅の新設、たしかアメリカに生涯学習センタの時も募金を募ったのではないかな。
掛川市民だった知人が 「普通の募金ならいいが、班で集めるので半強制的だった 」と言っていたが本当だったのだろうか。
おっと止めよう。不確かな事を書くのは。

小笠丘陵周回(六枚屏風から138度展望台)

2015-03-19 19:27:56 | 低山歩き
歩行記録                                                   歩行月日:27-3-17(火)
歩行時間:6時間35分   休憩時間:2時間00分   延時間:8時間35分
出発時間:6時45分     到着時間:15時20分
歩  数: 28、331歩(推定距離21.2km)    GPS距離19.7km
行程表
 掛川駅 0:55> 登山口 0:25> 六枚屏風 0:20> 小笠山 0:10> 小笠神社 1:20> 送電線鉄塔 0:15> 県道出合
 0:20> 腹摺峠入口 0:15> 腹摺峠 0:25> 138度展望台 0:40> 林道出合 0:30> バイパスガード 0:15> 結縁寺
 0:30> 掛川城 0:15> 掛川駅

 前夜までは富士宮の天子ヶ岳に行く予定で電車やバスの時間を調べておいたが、午後から降り出した雨が夜になっても
降り続いていたので、急に心配になってしまった。標高1300mの天子ヶ岳は雨ではなく雪ではないかと・・・・・
低い山専門の私は、靴はウオーキングシューズで、登山靴もスパッツも無い。と、弱気の虫に取りつかれてしまった。
結局朝になって天子ヶ岳は中止して、久し振りに小笠丘陵の六枚屏風に行先変更する決断がやっとできた。

  
                     板沢の案内板(赤点が今回のルート 黒点が予定ルート)

 コースは去年は一度も行かなかった六枚屏風から小笠山に登り、小笠山からは中の尾根を西に向かう。
中の尾根の終わりの送電線の鉄塔から県道に下り、今度は送電線の点検路を探して法多山の奥の院に出るコースです。
若し、点検路が見つからなかった時は、県道を東に向かい腹摺峠への道を探してみようと思っていました。

 低山歩きは山に入ってしまえば標識などである程度判断できるが、登山口を探すのに案外苦労をする。
小笠丘陵も山の中には標識や目印は多いのだが登山口への案内が無い。そこで今回は六枚屏風の登山口を紹介します。
                                                 1図
                             
 1図の上の掛川駅南口(新幹線側)に下車したら駅正面の道を真っ直ぐ南下する。
東名高速のガードを潜ったら左折して、次はパチンコ屋の駐車場の所を右折する。
細めの道を道なりにに500mも行くと太い車道に出る。
正面に遠江三十三観音1番札所結縁時の看板や屋根が見える車道を横断し、左折すると 「上張矢崎」 交差点に出る。
                    2図                                   3図
       

 2図上の上張矢崎交差点を渡り右折して西に向かうが、交差点すぐの所から上に向かう舗装された農道が有るので農道に
入る。以前ここには小笠山への標識があったのだが今は見当たらなくなってしまった。
登り坂になった農道を行くと右に掛川の街が見えてきて、更に進むと左下に溜池(猿田池)が見えてくる。
その先は細い分岐はあるがメインの道を辿って行き、3図中上の最初の民家の所は、家に沿って右折しないで直進する。
車道に出て右折すると広報無線の電柱と半鐘があり、その前を直進して行くと道が三つに分岐しているので中央の道を行く。
すぐ太めの車道の出るので車道を横断して、川の流れに沿った農道を山に向かって進む。
川沿いの農道を行くと再度太い車道に出るので、そこを横断すると最初の写真の案内板が立っている。

 
               農道の分岐(写真1)                   山道入口(写真2)
案内板から更に川沿いの道を約1km10分も行くと、分岐の所に小笠山への標識が立っている。(写真1)
橋を渡り70mほど行くと、今度は上に登る階段を指した標識があり、そこから山道になる(写真2)

 
          上張交差点上からの掛川市街                     最初の民家のツツジ

 昨夜の雨の影響か朝靄が残り掛川市街がボンヤリしている。果たして天子ヶ岳からは富士山は見えただろうか気にはなるが
今更考えても仕方ない事だ。
最初の民家のミツバツツジが満開だったが、こちらも果たして山の中のツツジはどうだろう? 咲いているかな?と気になる。
車道を横断して案内板が建っている辺りから、山が近づいてきて川の右岸は崖状になった所が目立ってくる。
小笠丘陵は丘陵と呼ぶだけに低い山ばかりだが、この様な崖状の場所がいたる所にあるので、余り道の端や、標識の無い道は
歩かない方が無難です。

      
               六枚屏風の標識                           六枚屏風入口

 写真2の階段を登った所から始まる尾根道を25分も行くと 「絶景!六枚屏風」 の標識が建っている。
その標識の所を左に下った所が六枚屏風だが、この標識が建つ以前はこの道は踏み跡も薄く傾斜も急な道だった。
しかし今はロープなども設置してくれてあり、誰でも行けるようになっている。

  
         六枚屏風入口                  六枚屏風内部                   六枚屏風

 六枚屏風は幅は1m前後で高さは10m以上はある天井の無い洞窟のような感じだ。ここは沢が長い年月をかけ山を削って
作ったとされているが、今見る沢は沢と言っても巾30cmほどで、とてもこの岩肌を削ったとは思えない大きさだ。
現に昨夜あれほど降った雨だが、沢を流れている水は、深さが数cmも無くチョロチョロ流れているだけだった。
いつもなら沢の最奥部まで行くのだが、この水で靴が濡れるのは嫌なので、入口を少し入っただけで引返してしまった。

 六枚屏風の内部の写真を見てください。屏風の壁は岩ではなく土の間に小石が積重なっている状態で、その飛び出している
石を杖の先で叩いてもびくともしません。これはただ単に土と石が積重なってできただけではなく、上から強い圧力を受けて
土と石が凝縮して固まってしまったのではないかと思われます。

 四国遍路をしたとき45番岩屋寺の近くで同じような岩肌をした岩峯があったが、その時の事をこんな風に書いていた。
「沢沿いの遍路道はのんびり歩ける気分のいい散歩道のようだった。この辺りは景勝地で、国民宿舎を過ぎた辺りから
突如地面が隆起したような円柱状の岩峯がそそり立っている。
その岩峯は河原の石と泥が堆積したのか、岩肌には無数の石が露出していて、その石が抜けて落ちたのか至る所に穴があき、
まるであばた顔のような肌で余り綺麗なものではない。説明板に礫岩と書いてあったが正にその通りの感じの岩だった。」


 岩屋寺の岩峯と六枚屏風の岩肌は同じように土と小石で成立っているが、岩屋寺の岩峯は海底が隆起したのに対し、六枚
屏風の小笠丘陵は、大井川が隆起したとされている。海からできた崖は脆くてボロボロしているのに対し、川からできた崖は
圧着されたようで頑丈で抜け落ちない。この違いはどこから来ているのだろう。

 以前六枚屏風を上から見たくて、尾根道のロープ場を過ぎた所の踏み跡を左に行った事がある。確かに上から見えたが
左程の事はなかった。滑りやすい道なので、わざわざ無理して見に行く事もなそうです。

 
             南北の尾根に合流                             小笠山三角点

 六枚屏風から10分ほどで丘陵の南北を走る尾根道に合流する。山道に入ってからここまで、途中に分岐個所はあるが、
太い尾根道を上に来るだけで迷うよう所はない。
小笠山や小笠神社はここを南の左に行き、右に行けば138度展望台を通り腹摺峠を越してエコパや法多山方面に行きます。

 小笠山の三角点は縦走路より少し左奥にあるので、下を向いて歩いていると通り過ぎてしまいます。
三角点は尾根の合流地点からほんの数分の場所の、登りが終わって平らになった所にあります。
ただ周りは雑木林で視界は効きませんが、三角点を通り過た奥の所から掛川市街を少し見る事ができます。
ここに着いたら三角点の広場の東側を覗いて見てください。木が生えていて覗かないと分からないが、ここは断崖絶壁に
なっています。この様な場所が小笠丘陵にはあちこちにあるので十分に注意してください。

          
                    鳥居のある四辻                            空堀か

 三角点を過ぎると赤樫の大木と鳥居や昔風な案内板のある四辻に出る。
ここの道の説明は次回に回し、今回はここにあった小笠山砦の案内板を紹介をします。
小笠山砦 高天神城跡より北方約4kmの入山瀬に所在する標高約250mの小笠山山頂付近に築かれた。
徳川家康が永禄11年(1568)に掛川城の今川氏真を攻めた時に陣を置いたとされる。笹ヶ峰御殿という名も残されており
高天神城攻めに際しては再びここに陣を置いた。遺構は、各曲輪や横堀、土塁などが残存している。」

 案内板にあるように確かにこの辺りは砦が築けそうな広場になっている。掛川城攻の時はさっきの三角点の所に物見台を築き
掛川城を監視したのかもしれない。
一方高天神城もここからは見えないので、南側の眺めの良い小笠神社に物見台を設置したのかもしれない。

 小笠神社に向かって下る途中に空堀のような凹みがあったが、これは自然の地形なのか空堀なのか判断できなかった。

            
            神社の結界?                           小笠神社

 竹の先に白い紙を付けた物が何本も地面に挿してある。これは時々神社で見かけるが何を現しているだろう。
この先は “神域” と神社の結界を示す物なのか。

 小笠神社からの眺めはぼんやりして遠くは霞んで見えなかった。
この分では富士山は無理だったろう。やっと天子ヶ岳の諦めがついた。

びく石周回 2

2015-03-15 11:50:59 | 低山歩き
歩行記録                                                      27-3-11(水)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間00分   延時間:10時間05分
出発時間:8時10分     到着時間:18時15分
歩  数: 41、564歩(推定距離31.2km)    GPS距離28.7km
行程表
 西北小バス停 0:30> 新農道合流 0:20> 農道工事地点 0:15> 山道入口 1:25> 地蔵の峠 0:45> びく石 1:05>
 びく石橋 1:10> ゆらく 0:25> 石仏トンネル 0:10> 山道入口 0:30> 花倉城跡 0:50> 上川町公民館 0:30>
 藤の里トンネル 1:10> 藤枝駅 
                              おまけに花倉城跡へ
 
                               山頂にあった案内図

 前回の下山道は山頂から青線のふれあい広場の道を歩いたが、今回は赤線の登山口バス停への道を歩く予定だった。
わざわざ遠回りをするのは、登山口バス停の次の峠バス停付近に 「八兵衛さん」 石碑が有るらしいと聞いたからだ。
八兵衛さんの石碑は全て歩いて探そうと思っているのだが、それだけの事でここまで歩くのも大変だ。
そこで今回は丁度良い機会なので少し遠回りをして下山することにしている。

 
               トサミズキ?                              シキミ(樒)
           びく石橋の場所      峠バス停の場所
 特に見るべき物も無いまま農道に合流してしまった。農道に入ると道路脇に咲いていた花に注意がいき、どこかで山道に入る
標識を見落としてしまったようだ。山道に入らないまま着いた所は県道手前の 「びく石橋」 だった。
さて峠バス停は右に行くべきか左に行くべきか迷ったが、多分もっと下流だろうと県道を藤枝に向かって歩く事に。
 左の奥に古めかし建物の 「峠公民館」 があったが、その前の道は草が生えたりしていてバスが走るような状態ではない。
更に県道を進むとトイレが設置されている広い駐車場が出てきた。
ウーンこれが登山口の駐車場か? しかし峠の公民館は既に通り過ぎたのに???
あすこにバス停がある。とバス停の名前を見ると 「峠」 になっている。しかし周りには石仏見当たらない。
このバス停は蔵田方面行のバス停なので、藤枝行のバス停はと探すが、無い。
若しかしてさっきの公民館の近くにあったのだろうか? だが既に戻って確認する気はなくなっていた。

     
                           ユニークな瀬戸川沿いの石仏

 八兵衛さんは探せなかったが代わりにユニークな石仏をあったので紹介します。
先ず最初は馬頭観音ですが、変わっているのは合掌した両腕が模様の付いた筒のような物を抱えている事だ。何んだろう?
「馬頭観世音 大正十三年七月二十?日 木曽馬 遠藤勝右エ門建立」 と刻まれている。
木曽馬の頭数は現在は少ないらしいが、大正時代には藤枝でも飼っていたようだ。隣の馬頭観音には馬種は書いてなかった。

 写真中央の石仏は何の仏を彫ってあるのか分からないがいい雰囲気だ。
片膝立ちで左手にぐい飲みを持って 「酒を飲んで何が悪い」 と坊主頭の男が棒を片手に睨みつけている。
オットあまり調子にのると罰が当たるので止めておこう。

 着物を着た田舎のお婆さんが両手を合わせて拝んでいる。そんな感じの木彫りの像を見た事がありません? 
その像とそっくりのような気がします。
頭部はセントで接着してあるので一度落ちてしまったようだ。目鼻立ちが無いのは別の頭部をのせたのかな。

 日帰り温泉ゆらくの前を通ったが、まだ再開されていなかった。相変わらず外装は工事の気配が無いので、内装を大幅に
リニューアルするのだろ。ゆらくのHPには
「12/1~12月末までの間、臨時休業をさせていただきました「瀬戸谷温泉ゆらく」ですが、点検中に修繕しなければならない
箇所が見つかったため、休業期間を3月31日まで延長させていただきます。」
とありました。

  
              石仏隧道前の石仏                              石仏隧道
         石仏トンネルの場所
 県道32号とは大出橋の袂で別れ、今度は県道81号を西方に向けて歩く。分岐点に有った 「石仏トンネル」 の文字を見て
期待が湧いてきた。果たしてどんな石仏があるのか、それとも沢山の石仏があるのかと ・・・・・・・
だが、だがですよ。あったのは二体の石仏でしかも一体は最近の大量生産型仏像で興味は引かれない。
もう一体は頭部が長いの多分馬頭観音だろう。左手は赤ん坊を抱いているようにも見えた。

 イヤイヤ石仏の本命はトンネルの反対側に有るのではと、微かな期待を持ってトンネルを潜ったが、期待は裏切られてしまった
しかし西方側のトンネルの上には 「石仏隧道」 の文字が見えていた。確かにトンネルより隧道の方のが感じが良いが、肝心の
石仏があれだけでは名前負けしてしまうな。

 
                                花倉城跡見晴台から志太方面
            県道分岐点      花倉城跡と烏帽子形山の峠
 隧道から5分も歩いた所のハイキングコースの標識が 「烏帽子形山」 となっている。この道は3年前に下りで歩いた事があるが
上りでは歩いた事はない。丁度良い機会だと県道と別れ細い林道に入った。
簡易舗装はされているが今は車は通れそうもない林道の横には水音を建てて沢が流れている。
今日のように風花が舞っている時に、この沢音は更に寒さを感じさせるだけだが夏に歩けば涼しく感じるだろう。
なだらかな上りの道の傾斜がきつくなった先に烏帽子形山と花倉城跡の分岐になる。

 分岐にある標識にも烏帽子形山だけで花倉城跡の案内はないが、ここを左に5分も行けば花倉城跡になる。
3年前にここに来た時、何故花倉城跡がないのか疑問に感じたが、どうやら藤枝市が認定しているハイキングコースが烏帽子
形山コースと花倉城跡コースと別れているからのようだ。
でも山を歩く人はハイキングコースを歩くとは限らないのだから花倉城跡も書くべきだろう。
ついでに言えば花倉城跡コースが初級で烏帽子形山コースが上級になっているのは理解できるが、2月に登った志太奥3山の
高尾山と菩提山は上級だが一番傾斜が急で道も分かりにくかった笠張山は中級になっている。更に言えば蔦の細道コースが
上級になっているのだからわけが分からない。折角見やすいハイキングガイドマップなのだから惜しい気がする

 オットくだらない文句はこの位にして花倉城跡に向けて歩くと急な傾斜のコンクリの舗装路になる。普通コンクリの道なら
滑る事はないが、ここは余りにも傾斜が強く油断をするとズルッと滑ってしまう。一体何故ここが舗装されているのか?
疑問を感じながら登って行くと右側が開けて大崩山塊や焼津、藤枝さらにその奥には駿河湾も見える。右の山は清水山で
山頂近くにはタンクも見えている。これで富士山が見えれば最高なのだがそれは無理だった。

          
                   花倉城跡空堀                           花倉城跡土橋
           花倉城跡入口場所
 普通に花倉城跡を歩くとこの見晴らし良い場所には行けないので案内しておきます。
花倉城跡入口の土橋を渡ると本丸等のメインは正面から右側ですが、左に行くと 「本郷・西方」 と標識があります。それに従い
左に行き、城址の林を抜けた所が見晴台です。
 城音痴の私には空堀や土橋を見ても自然の地形ぐらいにしか見えないが、ここが花倉の乱の舞台で今川義元と腹違いの兄
玄広恵探らが戦ったと思うと楽しくなる。結局恵探は花倉城を放棄し、今歩いて来た道を敗走して瀬戸川側に出た。などと空想
しながら歩いていると疲れも忘れる。

 
                                    天王山からびく石の尾根

 花倉城跡から西方に下れば周回ルートは完成するが、もうそんな気はなくなっていた。
当初予定した周回コースは、岡部側の笹川八十八石から登る予定だったが見事に失敗し、一宇戸坂峠から上大沢の剣ヶ峰
コースになってしまった。
マーこれでも周回には違いないが、途中踏み跡を見失い右往左往していて歩行時間のデータとしては意味がない。
なら今更西方まで行行っても仕方ない。と、花倉城跡から花倉集落に向かう尾根道を下る事にした。
(実際は遠回りになる西方ルートを避けただけだが)

 この尾根道はハイキングコースとして最適で、正面に大崩山塊や志太平野、左から奥には今日歩いた山々が見えている。
写真右のこんもりした山は天王山で、その横から書いてある赤い線が今日歩いたと思われる稜線だ。
びく石の位置が分からなかったので、ミカン畑で作業していた人に聞くと
「ラクダの瘤の左がびく石だ」 と教えてくれた。チョット納得できなかったが一先ずそうしておこう。
「私は今日天王山の下から尾根道を通ってびく石を歩いてきました。」
「道が荒れてなかったかね。私らが子供のころは山はもっと綺麗で、どの尾根にも道があって何処にでも行けたのだがなぁ」

これは丁度良いと羽佐間に抜ける道の事を聞いたが 「一宇戸坂峠? 知らないなぁ」 だった。

 右側には烏帽子形山から三角山の稜線が見えている。花倉城跡より一段高い(約100m)烏帽子形山と三角山の上り下りは
見るからに大変そうだ。それに比べこちら側の尾根は楽なものだ。舗装された農道は少々風情を欠けるが、疲れだした足には
躓く物も無く却って歩きやすいぐらいのものだ。

 尾根道は続くが花倉集落に下る分岐で、この尾根の農道が何処まで続くか確かめて見たくなった。多分途中で終わってしまう
事もないだろうと、都合よい解釈をして前に進んだ。
農道は左にダラダラと下っていき、しばらく行くと集落が近くに見えてきた。

 
                早咲きの桜                                 芝桜
          農道入口の場所     上川町内会館の場所
 早咲きの桜や白や紫の芝桜で縁取りされた花園が出てきた。花園の中はまだ花を付けていない色々な花木が名札を付けて
植えられている。花園の名前も書いてあったが忘れてしまった。
その花園の下で車道と合流したが、その農道の入口には
「この先は私道に付き 車の通り抜けは ご遠慮ください」 の表示があった。
歩く分なら構わないだろうが今歩いて来た道が私道? チョット納得できなかった。

 車道の合流した先に 「上川町内会館」 があったが藤枝に上川町? 聞いた事はないな。家に帰り調べてみたが、この辺りは
「下之郷」 で近くに上川公園もあった。きっと藤枝市下之郷字上川 なのだろう。

 ここから藤枝駅には藤の里トンネルを潜り、瀬戸川の桜トンネル、勝草橋、藤枝駅ルートが楽で一番近道だ。
今迄は花倉城跡から花倉集落、新東名下りPA下、清水寺、桜トンネルと歩いていたが、この下之郷の道の方のが花園も見る
事ができるし、しかも楽で速そうだ。新しい道は何でも歩いてみるものだ。

 風花は花倉城跡を過ぎた所で止んだが冷たい強い風は相変わらず吹いている。平らな道では歩いても歩いても体は温まらず
藤枝駅に着いた頃は冷え切ってしまった。いつもならここで乾杯をするのだが、今は冷たい氷結を思うだけで身震いが出る。
本当は燗酒を飲みたいところだが我慢!我慢! まだ家まで帰らなければならない。

びく石周回

2015-03-13 19:32:23 | 低山歩き
歩行記録                                                      27-3-11(水)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間00分   延時間:10時間05分
出発時間:8時10分     到着時間:18時15分
歩  数: 41、564歩(推定距離31.2km)    GPS距離28.7km
行程表
 西北小バス停 0:30> 新農道合流 0:20> 農道工事地点 0:15> 山道入口 1:25> 地蔵の峠 0:45> びく石 1:05>
 びく石橋 1:10> ゆらく 0:25> 石仏トンネル 0:10> 山道入口 0:30> 花倉城跡 0:50> 上川町公民館 0:30>
 藤の里トンネル 1:10> 藤枝駅 
                              びく石周回 ・・・ 失敗!
 バスの降り場は 「西方(にしかた)小学校前」 だと思っていたが、バスのアナウンスは 「せいほく小学校」 と案内している。
腑に落ちないが場所は間違いないので、兎も角降りてバス停を診る「西北小学校前」となっていた。
そうか、この辺りは地名が西方と北方があるので、その両者の頭文字を取って 「西北」 なのか。仲がいいのか悪いのか。
尤も正式名称は 「葉梨西北小学校」 だったが。

 3月も中旬に入ったというのに今日は寒い。朝雨戸を開けると近所の屋根が薄っすらと白くなっていた。霜ではなく雪のよう
だったが、今年初めて見る景色だった。
今もバスを降りると風花が舞っていて余計寒さを感じるが、太陽は射しているし雲も少ない。雨や雪の心配はなさそうだ。
 今日の予定は葉梨の西方から2月に開通する筈の農道を通り、岡部の羽佐間に抜け、玉露の里、新舟と朝比奈川を遡って
から、笹川88石のハイキングコースでびく石に登る予定だ。
下山コースは前回のびく石ふれあい広場側ではなく、びく石登山口とされている一ノ瀬側に下ってから県道を藤枝に向かう。
ただ今回は周回コースと思っているので県道32号の途中から分岐する、石仏トンネルを通り県道81号で西方に戻る予定だ。
西方から藤枝駅は時間と疲れ具合でバスを含めて決めればよいと思っている。

          
              まだ立っていた工事中の案内板                      新しい農道
           案内板のある場所
 アレーまだ工事中の看板が立っていて 「岡部町羽佐間へ抜ける農道を造っています。平成27年2月27日」 とあるが今日は
もう3月も半ばだ。きっと看板の撤去が遅れているのだろうとそのまま通過した。
 次の分岐は前回倒木が多くて引返した農道とは別の農道を登って行くと、木漏れ日に反射した細かな風花が、まるで埃の
ように舞っている。最近では歩き始めに脱ぐジャンパーやトレーナーもとても寒くて脱ぐ気にはなれなかった。

 前方に新しい道が見えた。その正面にはさっきと同じ看板が立っているが、今度は 「速度厳守 お願いします」 の看板もある。
これで一応安心して歩く事ができる。

  
       びく石への標識              地蔵尊                   天王山への標識
 今日この道を歩く時は、前回びく石の地蔵尊の峠で見た 「天応山へ」 の標識の道も確認したいと思っていたが、その標識と
同じ形式の標識が農道脇のフェンスに取付けたあった。これなら次回は是非この道を歩いてみよう。
更に新しい農道を登って行くと左側に地蔵さんが祀られていた。この地蔵さんは4年前に今回と同じように羽佐間に抜けようと
ここに来た時に見た地蔵尊だ。あの時は農道の工事をしていて地蔵の前はデコボコの赤土の道で、確かこの先で道は終わって
いたはずだ。それが4年経ってやっと開通したことになる。
ここに地蔵さんが祀られているという事は、昔は岡部の羽佐間から、この地蔵の前を通って葉梨や藤枝に抜けていた事になる。
と、4年前もこの地蔵を見て思ったものだ。だが結局道は見つからず茶畑や廃ミカン畑、更には道のない急斜面を下ってやっと
羽佐間に下りる事ができた苦い体験がある。
でも今日は大丈夫! 新しい農道が羽佐間までできたのだから。

 ガードレールに 「一宇戸峠」 の標識が立っていた。ウン峠名まであるのだから古道に間違いはない。
ガードレールの先には 「天王山」 への標識もある。これでびく石から天王山の道は確認できた。次回は必ずここを歩いてみよう。

 
              工事現場の先に富士山が見えた                    工事現場が終点だった
 一宇戸峠を過ぎ間もなく右側に大崩山塊の山脈も見えてきた。そして正面には富士山も ・・・・・・・
でもでもナンダ? 舗装はそこで終わり鉄骨のバリケードに 「あぶないから 入ってはいけません」 と垂れ幕が。
工事は平成27年2月20日に終わっている筈なのに何故だ。マテヨ!今年は平成26年だったかしら。急に自信が無くなる。
しかしここまで来ている以上、こんな垂れ幕程度で引き下がるわけにはいかない。と、工事中の道を前進した。
だがそこから少し行った所で作業員が作業していて 「危険ですから戻ってください。」 と注意をする。
「下の看板に2月20日に羽佐間に抜けられるとあったので来たのですが、まだ開通していないのですか?」
「ここもそうだけど、先の方はまだ全然出来てないので、いつ開通するか分からない。ともかく今日は役所の人が来るので
出て行ってください。こっちが怒られてしまう」
と取りつく島も無かった。
この先に山道が無いかと聞いたが 「無い」 の一言で終わりだった。
工事の人に文句を言ってもしょうがないのでおとなしく引き下がったが、役所の人が来たら一言云ってやりたかった。
「工事が伸びるのは仕方ないが、入口の看板の工事期間は訂正すべきだ」 と。でも今年は平成26年だったらどうしよう・・・・・・

     
   大崩山塊と同じ形式の標識          太い山道が続く             倒木の処理もしてある

 工事現場の先も確認しないでおとなしく引き下ったのは、びく石に続く尾根道を歩いてみたい気があったからだ。
農道を戻りフェンス横の標識に従い法面を登って行くと、大崩山塊の脇道でよく見かけるのと同じ形式の標識があった。
多分これは岡部のSさんが付けてくれたのに違いない。この標識があれば信用できる。
こんなハイキングコースでもない山道なのにやけにしっかりした道だった。倒木も綺麗に処理されているし道も太い。
 前回沢を遡って倒木が多くて引返したと思われる鞍部から下を覗き込むと沢の最上部は急斜面だったが倒木は無かった。
だがその下の方には倒れた竹が見えている。そして反対の羽佐間側には下に下る踏み跡は見当たらなかった。
これではあの時に強引に稜線まで登っても、結局羽佐間には下れず、この尾根道をどちらかに向かって歩いた事だろう。
それならあの時引返して正解だったのだ。

     
        竹林の道                  倒木が3本                  ドラム缶が

 森林を伐採している所を過ぎると、太目でハッキリしていた尾根道は終わり、竹林の道になった。竹林は竹の落葉で道は
鮮明ではなくなったが、次々と出てくる目印で迷う事もなく歩く事ができた。
だが竹林が終り道が林の中の道になると徐々に踏み跡が判りにくくなり、3本の倒木を渡ると踏み跡は無く目印も見当たら
なくなってしまった。
今日の道は前回びく石から帰った後で確認したが、たしか天王山から尾根伝いに行けばびく石に続いていたはずだ。
ならばここは下がっては駄目で、稜線を北に向かえば良いと、上の方に踏み跡は探すが見当たらない。更に上に行くとドラム
缶が何個か放棄されていてその上には放置された茶畑があった。茶畑があったなら特に心配はないが、茶畑の中は歩くことは
出来ない。ここは一先ず倒木まで戻って再度目印を確認しなおそうと倒木まで戻り歩き直した。だが結局目印は無くドラム缶の
所に出てしまったので、茶畑には行かずに杉林の中を横断することにした。
モノラックのレールが下から上に延びていて、その上には作業小屋があった。一先ずそこまで行こうとすると前の林の中の赤い
リボン目に入った。フー助かったと林の中のリボンの下に移動したが踏み跡らしい踏み跡はない。
だいたい林の中は何処もが踏み跡のようにも、踏み跡ではないようにも見える。仕方ないので上に見えてきた稜線を目指して
斜め上に登る事にした。

          
                   稜線にあった尾根道                        瘠せ尾根の道

 稜線に出るとそこにはハッキリとした尾根道があった。ウーン何処で道を見失ったのだろうか、倒木までは目印があったのに。
あの林の中の2・300mがハッキリしなければ他人にこのコースを紹介できない。次回は逆コースを歩いて確かめてみよう。

 
               稜線から見えた富士山                        地蔵の祠の峠

 右側には先ほど農道で見た富士山と同じように、上の方だけ顔を出した姿を眺める事ができた。
新しい農道のフェンスからここまで1時間半近く掛かったが、道さえ見失しはなければ1時間チョットでここまで来る事ができる。
そうなれば西方からこの道を歩いても、西方から大沢経由で歩いても左程は変わらないだろう。なら登りと下りに分ければ
周遊コースができる。ウン面白いコースになるかもな。いつか歩いてみよう。

           
           びく石山頂の四阿                        びく石山頂広場

 期待していた椿は又もや外れで落下した椿が前回より少し多い位だけだった。椿の木には花も蕾も余り見えず、どうやら
びく石の椿は大した事はなさそうだ。
 山頂広場の手前に屋根の真ん中をくり抜き、桜の木を伸ばした四阿があり、一見面白そうだがこれでは花見もできない。
誰がこの四阿を利用するのだろう。              
山頂広場には誰も居なかった。

          
                      びく石山頂                            びく石

 びく石の標高は526mで確か三角点も有る筈だと探したが見当たらなかった。家に帰り地図を見ると三角点のある山は、
びく石の南にある山だった。尾根道を歩いていたとき西(左)に見えた山がそうだろう。あの山ならびく石から尾根伝いに行けて
山頂近くには農道も走っている。それなら山道もあるかもしれない。次回は探してみよう。

 びく石の名前の元になった巨石があり案内板に
「標高526mの石谷山は、通称びく石と呼ばれています。山頂付近から岡部側の笹川八十八石には、茶摘に使うびくに似て
いる事から『びく石』と名付けられた巨大岩をはじめに、大小様々な奇岩が点在しています。」
とあった。
そうかびく石の正式名称は 「石谷山」 なのだ。覚えておこう。

八兵衛さんを探して

2015-03-09 17:10:28 | 八兵衛さん
 志太地方を歩いていると時折 ○○八兵衛」 と刻んだ石碑を見かける。これはこの地方にのみ伝わる信仰で、元禄時代に
川の氾濫で疫病が流行り苦しんでいると、通りかかった旅の僧が持っていた薬で疫病を完治させ 「私を祀れば悪病には罹ら
ない」
と言い残したと伝えられている。その僧の名が 「八兵衛」 さんと云い、彼の名を記した石碑が73基も存在するという。

 今まで歩いていて20基ほどの八兵衛さんを見かけ、40基位になったらHPで写真と位置地図を紹介したいと思っていた。
だが街中を歩く機会は少なく中々件数が増えないでいたのが、最近になって2ヶ所の新しい八兵衛さんを見つける事ができた
これでHP化する意欲が再燃してきたが、闇雲に歩いても見つける可能性は少ない。そこで大井川図書館で 「川中島八兵衛
見聞の記 所在地一覧 」川村辰己著
を借り受け、それを元にして八兵衛さん探索ウォークをすることにした。

 その1回目探索は藤枝市内の西部地区とした。
1・旧国道三叉路鏡池堂(瀬戸新屋)「川中島 八兵衛之墓」 昭和36年再建
 鏡池堂は旧国道でもあるが旧東海道と言った方のが分かりは良く、鏡池堂も何度も寄った事のある場所だった。
しかしそこでは新旧の六地蔵の板碑はあったが八兵衛さんの石碑は見た事がない。不思議に思いながら鏡池堂に行くが
矢張り八兵衛さんはいなかった。それでもそれらしき石碑の写真は写して家に帰り拡大して見ると、微かに 右端に「川中島」
文字が見える。中央にも何か書いてあるが判読は出来なかった。
見聞記によればこの石碑には 「川中島 八兵衛之墓」 と刻まれているとあったが、白く苔むした石碑は、川中島(赤字)しか
読むことは出来ませんでした。

          
                     鏡池堂の石碑類                         苔むした八兵衛さん
             八兵衛さんの場所

2・青島中学校前 南へ50m(青葉町2丁目)「紀伊國 川中島 小長谷八兵衛」 大正5年
 事前に地図で青島中学の前から南に行く道を探しておいたので、容易に八兵衛さんを見つける事ができた。
小川の横にある祠の中の石碑の文字は、ハッキリしていて全て読むことができたが、建造年月は彫られていなかった。
見落としたのだろうか? 先程の鏡池堂の石碑は昭和36年で判読できなかったが、ここのは大正5年製。45年以上前に
造られているのに、これ程石碑がしっかりしているのは祠の中に祀られているせいか。
石碑の前には香花や団子が捧げられ蝋燭もあるのを見ると地元で大事に祀られているのだろう。

          
                     青島中学前の祠                          八兵衛さん
               八兵衛さんの場所

3・県立藤枝養護学校 東堤防上(高丘町)「川中島八兵衛」 建立不明
 藤枝養護学校の横に栃山川が流れているので、養護学校の東側になる川の右岸を探したが無い。行ったり来たりしたが
小さな石碑すらなかった。諦めかけたとき対岸を見ると何やら祠のような物が見える。堤防上の道を県道まで戻り青洲橋を
渡り、今度は栃山川の左岸を下って行くと 「川中島八兵衛」 と書いた杭が立っていた。
 ここの八兵衛さんも地元の人に大事にされているようで線香なども用意されている。
石碑の文字は見聞記には川中島八兵衛となっているが 「西國川中」 は読めるが後の文字は判読できない。指でなぞって
みたが私の指感覚では所詮は何も分からなかった。何か良い方法がないものだろうか。

          
             後ろが栃山川と養護学校                              八兵衛さん
            八兵衛さんの場所
 私が祠の前に長いこと居たので近所の人が不審に思ったのか 「何をしているの?」 と声を掛けてきた。
「石碑に何て書いてあるか見ていたのだけど分かります?」 と逆に聞き返した。
「古いからねぇ。その案内板に書いてある事しか知らないよ」 だそうです。案内板には

「川中島の八兵衛さん 今から300年程前の元禄年間に紀の国日高郡川中島(現在の和歌山県御坊市藤田町吉田)に
生まれ、若い時から仏心を起こし、諸国を回って疫病に苦しむ人々を助けた。
 川の水が生活に使われていた当時は、河川に沿って流行した伝染病を人々は大変恐れていた。
 焼津市大島の小長谷家に婿養子となり、亡くなる時の遺言で 「自分が死んだ後もなお疫病除けになってやろう」 と誓願を
起こし亡くなったという。
 大井川水系、特に栃山川沿いの島田、藤枝、焼津の河川のほとりの72ヶ所の地で祀られている。
 ここ高岡では毎年8月16日に供養がおこなわれている」
とありました。

案内板の中で気になったのは 「栃山川沿いに72ヶ所祀られている。」 と書かれている事で、見聞記では志太地方で73ヶ所と
なっていた。果たしてどちらが正しいのか、これからの楽しみが増えた。

     
                              案内板

※下青島川原組(青葉町2丁目))「紀伊國 川中島 小長谷八兵衛」 明治3年
 青島中学前の八兵衛さんと同じ青島2丁目で、下青島をヒントに探したが、バス停の下青島はあったが八兵衛さんは見つから
なかった。

確定申告

2015-03-06 10:58:54 | その他
 退職後確定申告をやるようになってから約10年余、今やこの時期の習慣となってしまったようです。
最初の頃は手計算だったので、電卓で少ない収入金額に定数を掛けたり足したり引いたりと、面倒くさくてならなかった。
しかし還付される金額を無視するには惜しくて、嫌々やっていました。それが今では還付される金額が減ったにも拘らず
相変わらず申告しています。     それは何故でしょう。

 

 実は還付金の減少に反比例するように申告書の計算時間が減りだしたのです。収入や支出の項目は変わらないのにです。
理由は国税庁の 「確定申告書等作成コーナー」 が充実され、e-TaXの送信機能を使わなくても計算印刷ができるように
なったからです。今では1時間もかからず申告書の印刷まで出来てしまいます。
この機能で嬉しいのは還付金額が容易に確認出来る事で、若し追加金額が算出されたら作業はそこで終了しまえがいいし、
還付される金があったら印刷して終了します。尤も私の場合は還付金が無かった年はありませんでしたが。

「追加金額があるのに申告しないのは脱税ではないか」 と疑問を持つ方もいるかもしれませんが、私の場合は
「公的年金の収入金が400万円以下で、かつそれ以外の収入は20万円以下場合は所得税の確定申告は(提出・納税)は
不要です。」
の条件に当て嵌まるので、何ら問題は有りません。
小1時間の手間で何千円か貰えるなら、こんな条件のいいアルバイトは有りません。今年は5千円弱の戻りですの還付されたら
妻とランチ、いやディナーにでも行ってきます。
確定申告を面倒だと思ってやっていない方は、是非一度国税庁のシステムで還付金を確認してみてください。
そして若し還付金があった場合は、その1割を私の口座に振り込んで下さいね。

私は自動送信のe-TaXは使わずに今年も6kmほど離れた税務署に印刷された申告書を歩いて提出してきます。

 明日と明後日は御殿場にて両親の法事です。久し振りに宝永山が左の富士山や、麓まで雪に覆われた姿を見る事ができると
期待していたのですが、残念ながら予報は曇りや雨でした。

遠江四十九薬師霊場4-5

2015-03-03 10:10:16 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                               48番 西光寺(樟・楠)
 
               西光寺表門                                西光寺本堂
             西光寺の地図
 福王寺から西に下り今之浦川と加茂川を渡ったら、今度は北の方角にある見付方面に向かう。国道1号の加茂川交差点を
渡ると48番西光寺は左側にあった。
前後に参道も無く周囲を駐車場に囲まれポツンと建っている山門は、何か場違いの感がしないでもなかった。だがこの山門は
山門とは呼ばず 「表門」 と呼ぶようだ。その表門の横に立つ案内板には
「この表門は、徳川家康が別荘として中泉村( 磐田駅南側)に築かせた中泉御殿の表門を移築したものと伝えられています。」
と、云う事は家康もこの門を潜った事があるのだと、感慨を持って門を潜ったが・・・・・・・・

西光寺の山号は 「東福山」 だが、これにも謂れがあった。
「徳川二代将軍秀忠と正室江の五女和子姫が後水尾天皇の皇后となり東福門院と称された。この和子姫が嫁入りの為に京へ
上る途中、西光寺に立寄り七堂伽藍の建立、東福山の山号、阿弥陀三尊仏と地蔵尊を賜わりました。」

成程NHKの大河ドラマ 「江〜姫たちの戦国」 で一躍有名になった、織田信長の妹・お市の方の娘の 「江」 の娘にあやかろうと
して立てた看板が目立つのか。
だがチョット腑に落ちなくて調べてみた。何故って女が結婚する前から東福院なる院号を名乗るなんて不自然じゃないのかな。
で、分かったのは 「後水尾天皇が譲位し、娘に内親王宣下が下された年に院号宣下があり、東福門院の号を賜る。」 となって
いた。マー大して違いはないから問題はないが正確ではなかった。

 若い僧侶にご朱印を依頼して朱印帳を手渡したのだが中々戻ってこない。たかが3個の印を押すだけなのに何をやっている
のだ。とイライラし始めたとき別の僧が来たので催促をした。その僧も奥に行ったがすぐ戻ってきた 「今書いてます」 と云う。
書く? 押すの間違いではと思ったが黙っていた。10分ほどして朱印帳を手にした僧が戻り 「空いている場所が1ヶ所しか
なかったので、そこに書いておきました。」
と云う。またしても 「書く」 が出てきたので、慌てて納経帳を確認すると、西光寺の
ページに朱印は打ってなかった。そして最後のペ-ジをめくると、なんとそこに 「薬師如来西光寺」 の筆文字が・・・・
どうやらこの僧は遠江四十九薬師霊場会制定の朱印帳を知らないようだ。仕方ないこれで良しとするか、でも今後の事もある
ので朱印を打つ場所は知らせておこうと、西光寺のページを広げて 「ここに朱印を押すだけでいいようですよ」 と言った。
それを聞いた僧は平謝りになって 「打ってきます」 とまた奥に走って行きました。

      
           楼門?                     薙の木                      大樟
 この門の正式名称は何だろう? 山門とおぼしき物が表門だったので、ならこれは山門か、案内板が無いので一先ず楼門と
しておけば間違いないだろう。
その楼門を潜ると右には楠の大木と薙の木が聳えている。それぞれに案内板があり、薙の木には
「ナギの木は葉は楕円形、縦の方向だけに多数の葉脈があり、横には切れにくくなっている事から、縁結びの印とされています」
フーンそうなんだ。ナギの木が縁結びの木とは知っていたが葉が切れにくいのが謂れの元なのか。一つ物知りになった。
もう1本の楠には 「西光寺の大樟 鐘楼堂(山門)をくぐると」 アッ!ここに楼門の名前があった。矢張りこの楼門は福王寺と
同じように山門と呼ぶのだ。この様に山門らしき物が複数あると、寺により呼び名が違うので分からなくて面倒だ。
「推定樹齢500年の老大樹です。最近は、縁結びのパワースポットの木として有名になり、沢山の人達に参拝されています。」
それ以外にも 「恋愛成就隠れパワースポット」 の看板があり、そこに縁切りの方法も書いてあった。
「悪縁を切りたい時は、ナギの木が(大楠に隠れて)見えない場所から、大楠に向かって願い事を念じ、そのあとナギの木に
同じ願い事を念じてください。」
とある。
ただ、ここで注意しなければならないのは、縁結びの願いはナギの木に念じてから、楠に念じるとと成就するので、念じる順番を
間違えると縁結びが縁切りになってしまう。これからお参りしようと思っている方はくれぐれもご注意を。

 ところで楠の案内板に 「楠」 ではなく、わざわざ 「樟」 と書いてあるが、樟と楠は違うものだろうか? 
また興味を感じて調べてみた。
「クスノキ(樟、楠)とは、ともにクスノキ科ニッケイ属の常緑高木のことである。一般的にクスノキに使われる「楠」という字は
本来は中国のタブノキを指す字である。
クスノキは各部全体から「樟脳」の香りがする。樟脳とは、すなわちクスノキの枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体のことで、
防虫剤や医薬品等に使用される。このため、クスノキに「樟」という字が使われる。クスノキの葉をちぎると、ツンとする 「樟脳」 の
香りがする。クスノキは独特な芳香をもつ事から 「臭し(くすし)木」 が語源です。」


こうしてみると漢字表記の時は 「樟」 の方に軍配は上がりそうだ。よって西光寺の案内板は正しかった。
でも、でもですよ。調べている過程でこんな事も書いてあった。
「クスノキの葉脈の付け根にはダニ部屋と呼ばれる1mmはどのふくらみがあり、そこにダニ(フシダニ)が棲んでいます。」
エッー! 待ってよ。クスノキは防虫剤に使われているのに、何故ダニが棲んでいるのだ。わけが分からなくなった。
しかし 「ダニ部屋」 本当なら、ナギの葉とクスノキの葉を間違って拾うと、ダニを飼う事になってしまう。これは大変だ!


                             49番 慈恩院(坂の多い街)
 
                慈恩院の山門                            慈恩院本堂
             慈恩院の地図
 磐田の街中は坂が多いが、神戸や熱海のように海に向かう一方向の坂ではなく、登ったり下ったりの坂が多い。
以前東海道を歩いた時は、この先に坂があると思うと事前に身構え準備したものだ。県内なら箱根西坂、薩埵峠、宇津ノ谷峠、
小夜の中山日坂峠、塩見坂などがそうだが、これらの坂に近づくと “どの位の坂なのだ” と挑戦する気になったものだ。
その所為か案外容易に坂を乗り越える事ができた。
一方予備知識が無く現れる坂には案外手こずる事がある。その代表がここ磐田の坂だった。
見付宿の東の袋井宿を出て標高9mの太田川を渡ると磐田原台地の登りになる。台地の上の標高は45mだが、またすぐ
下りになる。今度は17mまで下って次は鈴ヶ森の刑場跡への登りになる。刑場跡の30mに来るとまた下りとなり見付宿を
流れる標高5mの今之浦川を渡る。
いえ、これで終わりではなく次は姫街道の分岐のある西木戸までの軽い登り、そこから西光時の国道1号までの下り、さらに
国分寺跡への登りとアップダウンは続く。
一つ一つの坂は大した事は無いが、幾つも続くアップダウンは疲れた足には案外響いた。

 このように磐田の街中に上り下りの多いのは、ここが台地の上とは云え、台地の外れ部分なので土地の起伏があり故に坂が
多くなるのだ。今は台地の南下には広い平野が広がっているが、かってはそこに湾や湖がある湿地地帯で、街道や役所などを
建設することができなかったのだろう。でもなぜこんなに起伏が多い所が国府になったのか疑問は残る。

 薬師霊場最後の札所、慈恩院はそんな見付宿の路地の奥にあった。
その山門の前に立ち、まず目を引いたのは 「半僧坊」 の石碑だった。半僧坊と云えば浜松市引佐にある奥山方広寺が有名だが
この慈恩院とは何か関係があるのだろうか? 山門に掛かった額には 「臨済宗妙心寺派」 となっている。確か方広寺は 「臨済宗
方広寺派」
の本山だったはずだ。そして半僧坊とは方広寺を火事から守った守護神だった筈だ。
ご朱印を受ける際に住職に 「何故半僧坊の石碑が有るのですか?」 と聞いてみた。
しかし住職は 「私も興味があったので、先代に聞こうと思っていたが聞き忘れてしまった」との事でした。
この方は僧侶と云うより会社員風で気さくに話ができた。でも僧侶の仕事にはまだ慣れていないのか、ご朱印を頼むと
「判だけならいいけど書くことは出来ない」 と言った。48番西光寺もそうだったが49薬師の納経帳を見た事がないのだろうか。
霊場巡りも最後になると途中で諦めてしまう人が多く、ここまで来る人はいないのだろうか?

 半僧坊が気になり調べてみると
「半僧坊信仰が全国に広まったのは明治時代で、方広寺の山火事の際、円明大師(無文元選禅師)の墓と方広寺の鎮守 「半僧坊」
が類焼を免れたことから、半僧坊の威徳によるものという評判が広まり、半僧坊の信仰が全国に広がった。」
そうです。
そうか 「半僧坊」 とは方広寺だけの守り神ではなく、宗派にかかわらず寺の守護神になっているのか。
そう云えば藤枝の奥にある曹洞宗の盤脚院でも半僧坊を祀っていた。

 49番を打ち終り、これで遠江薬師の札所49寺と番外、客番2寺、合わせて51寺全てを打ち終り結願(けちがん)を迎える事ができた。
しかしどうと云う感激は湧いてこない。初めて霊場巡りをしたのは10年ほど前に、マイカーで四国88カ所を10日ほどで廻ったのだが、
その時は88番大窪寺で感激して涙ぐんでしまった。
翌年今度は歩き遍路で36日掛けて廻ったのだが、その時の感激は期待に反して薄いものだった。信仰心の薄い私は霊場巡りを
スタンプラリーのようにして廻っているので、仏様が感激と云うご利益を私には授けてくれなくなったのだろう。
でも、でもですよ、今回の約霊場巡りでは、般若心経だけでなく 「延命十句観音経」 を唱えていたら、いつの間にか暗唱できるように
なっていた。これが今回のご利益と思えば仏様はまだ私を見放してはいない。

「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法相縁。常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心。」
(かんぜおん、なむぶつ、よぶつういん、よぶつうえん、ぶっぽうそうえん、じょうらくがじょう、ちょうねんかんぜおん、
ぼねんかんぜおん、ねんねんじゅうしんき、ねんねんふりしん)
「南無大慈大悲観世音菩薩、種々重罪、五逆消滅、自他平等、即身成仏」
(なむだいじだいひかんぜおんぼさつ、しゅじゅじゅうざい、ごぎゃくしょうめつ、じたびょうどう、そくしんじょうぶつ)

意味? 私は門前の小僧と同じですので無理な事は聞かないでください。

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 satoさん、まだこのブログを見てくれているのでしょうか。
satoさんに催促されたのは去年の4月ですから、1年がかりで約束を果たした事になります。
遍路の観歩記を再開した時は、当時の事を覚えているか心配でしたが、写真やメモや地図を見ると不思議に思いだすものですね。
これなら今現在私には認知症の恐れはないと思いますが、時々日にちや曜日を忘れることが・・・・・・
しかし今日が何日で何曜日も関係ないオールサンデーの年金生活者にとっては、不要なデータで仕方ないかも。