はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

知多四国27番誓海寺

2015-10-21 10:00:00 | 低山歩き
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・31番・32番・30番 0:05> 大井BS 

                       27番 誓海寺 ・ 開山 禅林堂(幻の南セントレア町)

 
             誓海寺山門                                    千手観音・聖観音

 26番から27番誓海寺(せいかいじ)へは、一度国道247まで戻ったら、河和駅の横を通り抜ける国道を南下する。
河和駅の近くには役場があるせいか、今朝電車を下りた武豊駅より賑やかで、国道沿いには商店や民家が建ち並んでいた。
 この美浜町は平成の大合併で隣の南知多町と合併し、町名を 「南セントレア町」 とすると発表したが抗議が殺到。そのため
住民投票を行った結果 “合併拒否” が過半数を占めてしまい、結局合併そのものも白紙に戻り全国で有名になった事がある。

 片仮名の町名といえば北海道の 「ニセコ町」 が有名だが、ニセコはアイヌ語で漢字表記そのものが無いのだから片仮名表
記は当然だと思う。
一方山梨県にある 「南アルプス市」 の片仮名の市名は余り好きではない。確かに南アルプスの最高峰北岳は南アルプス市に
属しているが、南アルプス自体はもっと広大で、人気のある赤石岳や聖岳は山梨県さえも接していない。
そのため新市名を発表すると全国から抗議が集まり、住民投票を求める声もあがったが、結局そのまま南アルプスしになった
経緯がある。

 こんな事を想像してみてください。北アルプスの最高峰奥穂岳は、かって長野県安曇野村と岐阜県上宝村の境界だった。
それをどちらか一方の村が 「北アルプス村」 と名乗ったらどうでしょう。きっと抗議をする人は多いでしょうし、不自然に思う人は
もっと多いでしょう。でも幸いな事に現在はどちらも高山市と松本市に合併したので、そんな不安はなくなっていますが。

 おっとまた脱線をしてしまった。話を元に戻し、河和駅前の信号を左折して国道を暫く南下したあと、山側の道に入ると民家は
少なくなった。そろそろ昼飯を食べたいのだ適当な場所がない。このまま歩くとガス欠を起こしかねない。
何しろ朝飯を4時半に食べているので、既に7時間以上経っている。あれこれ昼飯場所を品定めをしながら歩き、結局峠のような
場所の道の脇に座り込み昼飯を食べた。

 そこから誓海寺入口までは下り坂で楽に歩く事ができた。途中に何故こんな田舎にと思うよな九條の信号を右折して南知多
道路のガードを潜った所に誓海寺の入口はあった。

 四足門の立派な山門があるが、左右が開けているので門があるというより、門を置いてあるといった感じに見える。
その山門の奥には一対の金色の観音像が立っていた。

 
            27番と開山堂の分岐                              弘法堂と本堂

 ここは27番誓海寺と開山所の禅林寺の二つの札所が同じ敷地内にあるので、先ず誓海寺に弘法堂をお詣りした。
お堂の中は 「南無弘法大師」 の提灯が下った祭壇と、「愛染明王尊」 の提灯の祭壇があった。この愛染明王像は弘法大師作と
伝えられているが所謂 「伝弘法大師作」 なのだろう。

 
                 禅林堂                                 山門越しに南知多道路

 弘法堂の隣のお堂が禅林堂で、そのまま横に行く事ができた。お堂の額には 「新四国開創者 禅林堂」 とあり、このお堂は
知多四国霊場 開創に協力した二人行者の一人、岡戸半蔵行者を祀ったお堂だった。お堂の中の祭壇には、杖を持った僧形の
像が安置してあり、これが半蔵行者なのだろう。
 ここでは二つの朱印を同時に押して貰ったが、禅林堂の朱印は 「禅林行者」 となっていた。同じ岡戸半蔵を祀ってあった14番
興昌寺では 「半蔵行者」 と呼んでいたが呼名が変わってしまった。

 この札所は元々は海の近くにあったが、 第2次世界大戦の時、河和海軍航空隊の施設建設のため村ごとこの地区へ(強制)
移住させられたという。その施設跡に行くと、今でも水上機を海に移動するためのスリップ(滑り台)等が残っているという。
地図で海軍航空隊の施設があった辺りを探すと、どこもかしこも 「古布(こう)」 の地名ばかりで、海の近くは大字古布字屋敷で
札所の字は膳切、海に向かって九條、砂行、大坪、溝相と続いていた。大字古布の下にある字の数は14カ所もあった。

 山門を庫裏の方から眺めると後ろの南知多道路が見えていた。
                                    26番から27番誓海寺への道

知多四国26番弥勒寺

2015-10-20 10:10:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・31番・32番・30番 0:05> 大井BS 

                                  26番 弥勒寺(不苦労)

 知多四国霊場は当初、島に1泊して7回で結願しようと思っていた。それが1回目のハプニングで体調が心配で外泊するのが
嫌になり、行程を見直して島の宿泊は止め遍路回数を1回増やし8回にすることにした。
当初3回目の今日の予定は、武豊駅から半島の先端の師崎まで打ち、定期船で篠島に渡り宿に泊るつもりだった。
それを今日のゴールを師崎の手前の大井漁港までとして、次回は大井から師崎までの札所と、篠島・日間賀島の2島の札所を
回ってゴールの師崎港に戻るように変更した。
そのため今日のコースは距離が短縮されて楽な日程になっていた。

 
                  弥勒寺山門                                本 堂

 番外影現寺から更に国道を南下して名鉄河和駅から200m程の所に26番弥勒寺(みろくじ)はあった。
白塀に挟まれた山門を潜ると正面に余り飾り気のない本堂が建っている。時間が丁度昼時だったので、ここで昼飯を食べようと
思ったが、境内には陽射しを避ける木陰も無く、太陽が白砂利に反射して暑っ苦しくてならなかった。
仕方ない時間は少し遅くなるが昼飯は次の札所で取る事にして、ここは簡単にお詣りして出よう。

 
                  弘法堂                                  弘法堂内陣

 ここで一番目立ったのは白い霊場の幟旗だった。山門にも本堂にも弘法堂にも林立していた。

 
                   弘法堂の屋根                            納経所前の民芸品

 弘法堂はどっしりした感じの屋根と重厚な感じの向拝がついていた。その向拝の軒下には 「五鈷杵」 が彫られた彫刻が掲げ
られていたが、何か意味があるのだろうか?
 納経所に行くと地区の老人クラブが作った民芸品の無人販売があった。その中のフクロウに 「不苦労」 とあったのには笑えた。
時々土産物で見かけるフクロウにこんな意味があるとは知らなかった。

                            番外かげ現寺から26番弥勒寺への道

浜石岳と興津川遊歩道

2015-10-19 12:18:52 | 低山歩き
歩行記録                                                          H27-10-18(日)
歩行時間:?時間?分   休憩時間:?時間?分   延時間:7時間20分
出発時刻:8時25分     到着時刻:15時45分
歩  数: 31、725歩(推定距離23.2km)    GPS距離19.2km
行程表
由比駅 1:20>(農道歩き) 登山道入口 1:10>  浜石岳 0:30> 但沼分岐 1:10> 但沼大橋 0:15> 立花の吊橋
 1:55>(遊歩道経由) 興津駅  
                             浜石岳と興津川遊歩道 観歩記

 天気予報では昨日の土曜日が雨で今日は晴マーク一色。ならば富士山の展望で名高い浜石山頂から、冠雪した富士山を
眺める事が出来ると期待したのだが、その目論みは見事に外れ土曜日は雨が降らなかった。
それでも雪は駄目でも富士山は大丈夫だろうと期待していたのだが。

 10月の知人たちとの低山歩きは浜石岳に行こうと思っていたが、中々コースが決まらなかった。
私の第1候補としては、興津駅-薩埵峠-尾根歩き-浜石岳-青少年センタ--由比駅コースだが、これでは山道が多すぎて
仲間の不評を買ってしまう。
第2案は由比駅-青少年センタ--浜石岳と、浜石までの上りはすぐ決まるが下りの道に適当なコースがない。
同じコースを、登りは山道経由として下りは農道歩きでも良いが、それでは私が面白くない。
他に浜石岳-銚子の滝-由比駅コースもあるが、このコースは車の多い車道歩きが長くてあまり好きではない。
5月に歩いた陣場山経由も面白いが、ここも山道が長くしかも下った所から興津までの距離が長すぎる。
色々悩んだ結果、由比駅-青少年センタ--浜石岳-但沼分岐-但沼-興津川遊歩道-興津駅とした。
ただこのコースは興津川に下ってから興津駅までが7km以上もあり、全体の歩行距離が18km程度になってしまう。
仲間との低山歩きの歩行距離は15km程度に抑える事になっているので、何か言い訳を考えなければならない。
で、興津川の近くを川と平行に走っている国道52号線には、路線バスが走っているので、疲れたらそれを利用すると案内して
何とかクリアした。

   
            登山道入口                              浜石岳山頂

 農道に入った “いっぷく休み処” のベンチから雲一つない富士山が見えていたが、写真は山頂で写せばよいと写さない。
暑い日差しで友人が 「富士山より日影がいい」 と罰当たりな事を言っていた。
先程からユックリ歩いているが仲間の一人が遅れ気味で休憩が多くなってきた。農道でこのペースだと山道になるともっと
大変になるかもと思い、急遽山道を止め農道を山頂まで行く事にした。

 農道を歩いてみてビックリしたのは、このコースを歩く人は殆どが山道を行くと思っていたのに、4組5人の人が私たちを
追抜いて行った事だ。山歩きの好きな人の多くは 「舗装路より山道が好き」 と言うが何なんだろうな?

 山頂直下の無線中継所の所から山道に入った。ここは山頂まで後一息の所で、ここから登ると丸い浜石の山頂の向うに
富士山が徐々に頭を出してくるのが見える。それを仲間にも教えてやりたく山道にしたのだが、残念!無念!
富士山の所だけが雲が高く発生していた。
途中で仲間が 「富士山より日影がいい」 と言った事が現実になってしまった。

 
                 アジサイ                                   紫陽花

 下りは山頂を通り抜け農道の駐車場から、先程の無線中継所まで戻り、そこから再度山道に入った。
急な坂を下りきった所に立つ青少年センタ分岐の道標を直進し、薩埵峠に続く尾根道に入る。
この尾根道で注意を要するのは、ここの分岐から但沼分岐の間にある急な階段だが、仲間は難なく降りる事が出来た。
ここさえ過ぎれば後は注意を要する場所は無い。

 但沼分岐からの長い林の中を下る山道は、前回歩いた時と少し様相が違っていた。道の先には倒木があったり、或いは
崖側が崩れた個所も何ヵ所もあったりしたが、その多くは新しい道が作られ虎ロープで案内してくれてあった。
補修をした道で注意を要する個所もあったが全員難なく通過。この程度なら気分が引き締まって、あった方が良い位かも。

                    
                   立花の吊橋                            立花の吊橋で

 それでも農道に合流してホッとした。後は本当に危ない場所は無く、ただ歩けばよい。

 バス停に着き時刻表を見ると3分後に清水駅行のバスがあった。だが全員バスには乗らず歩く事になった。
大丈夫かな? 一抹の不安はあったものの全員興津駅まで完歩することができた。
歩行距離は約20km位で、今までの最長記録だった。年寄りでも月に一度歩いていると足が強くなるのかな?

 そんな訳で休憩した回数が多く歩行時間の算出はできませんでした。多分タイムはこのコースの最遅タイムでしょう。

知多四国番外影現寺

2015-10-18 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・31番・32番・30番 0:05> 大井BS

                                  番外 影現寺(時志観音)

 
             国道より武豊町方面                            国道より南知多町方面

 開山葦航寺から国道247号に出て国道を南下した海沿いの高台に番外影現寺(ようげんじ)はある。
途中にあった小さな名鉄河和駅を過ぎると国道は海岸沿いの道になり、この遍路を始めて初めて海を見る事ができた。
後ろの北の方向には相変わらず武豊町の火力発電所の櫓らしき物が見えている。前方の南方向にはホテルだろうか1棟だけ
ポツンと高い建物が見えた。
 途中の海岸では春には潮干狩りが出来るらしく、潮干狩り会場の文字も見える。その中に 「今年の潮干狩りは中止します」
看板があった。潮干狩りの中止と云えば浜名湖でもアサリの不漁で中止が続いていたが、今年から時期を縮めて再開したという。
不漁はアサリの採り過ぎだと思ったが、ここでも潮干狩りが中止だったのをみると、人的影響より自然的影響の方が強そうだ。
鰻も不漁で段々高くなり私には手が出なくなってきたが、今にアサリの味噌汁も飲めなくなる時代が来るのかも。

      
        影現寺の階段の参道                                観音堂

 国道の電柱の看板に影現寺の看板が何ヵ所もあったが、そのどれもが寺名より 「時志観音」 の文字の方のが大きかった。
到着した寺の入口にあった大きな石碑も寺名は無く時志観音の文字だけだった。
それにしてもヤダナー 温度計が42度を指している日中にあんな長い階段を登るなんて。
げんなりしながらも128段の階段を登る私でした。

階段の上にと立つと正面に本堂。いや薬師堂だそうです。その前には巨大な一対の金剛力士石像。中央の焼香台には葵の
御紋が見えていた。

   
                               観音堂から海を眺める

 薬師堂から後ろを振り返ると三河湾の海が見えていた。風光明媚な知多四国霊場と紹介されていたが3回目の遍路でようやく
その片鱗を眺める事ができた。これからもこんな風景に期待したい。

 焼香台の正面には葵の御紋が描かれていた。
 「初代尾張藩主・徳川義直が領内を巡察中、この観音堂に安産祈願したところ、無事男子が誕生しました。それ以来、寺紋に
三つ葉葵が許されています。」
 との事です。

    
                       観音堂                                 観音像

 本堂と見間違うような立派な観音堂です。ここには時志観音である十一面観音が祀られているそうです。
この時志観音の謂れは寺のパンフレットによれば
 『むかし、十一面観音が三河湾に浮かぶ佐久島の漁夫の網にかかり島内に安置されていた。疫病流行のとき、島守りの夢枕に
観音菩薩が現れ 「ここでは救う人が少なく、自分の願いに背いてしまう。願わくば対岸に写してくれ」とお告げがあり、観音像より
光明が射した対岸の戸岸(時志)村に草庵を建て遷座した事による。』

佐久島では疫病退散がご利益だった観音さんが安産のご利益になったのは、尾張藩主が安産祈願をしてからの事だそうです。

 観音堂の横に建つ巨大な観音像は
 「高さ6m、重さ25t。御影石の 『聖観音』 で、一枚岩で造られたものとしては日本一」 だそうです。
チョット待った。私の地元の藤枝にある、藤枝霊園の観音像の方がもっと大きいと思い調べてみたら、藤枝霊園の観音様は
 “青銅製で高さ17m” との事でした。
 その聖観音(しょうかんのん)を見ていて少々違和感を感じた。普通なら聖観音の頭上は宝髺(ほうけい)と呼ばれる高く盛り
上がった髪なのに、ここのは聖観音は髪が無く、代わりに舟型の阿弥陀さんの石仏が乗っていた。
そんなの有かな? と思いウィキペディアを見てみると、こんな事が書いてあった。
 「観音像の頭上、頭髪部の正面に化仏(けぶつ)と称する阿弥陀如来の小像を置く」 と書いてあった。
成程ここの聖観音は石仏のため細かい作業がしずらくて、小像が普通像になってしまったのだろう。マーそうしておこう。

 
                  弘法堂                                  石造物の集まり

 影現寺の境内は約1万坪あるらしいが、前回お詣りした半田の常楽寺より狭い感じがした。なら全部を見て歩きたいが暑くて
暑くて気後れがして観音像に行くのさえ止めてしまった。とはいえ弘法堂と納経所は行かなければならない。
と、汗を拭き拭き訪ねるのでした。

 帰りは石段を下るのは止め、自動車用の参道を下る事にした。長い階段で途中で転倒するかもしれないと思って。

                            開山医王寺から番外影現寺への道

菩提山下見 2

2015-10-17 10:00:00 | 低山歩き
歩行記録                                                          H27-10-13(火)
歩行時間:8時間40分   休憩時間:1時間15分   延時間:9時間55分
出発時刻:7時55分     到着時刻:17時50分
歩  数: 45、269歩(推定距離33.0km)    GPS距離32.1km
行程表
中山BS 0:40> 不動峡 0:20>  水車村 1:00> 菩提山登山道入口 0:10> 滝之谷峠 0:25> 道不明 0:55> 
菩提山登山道入口 0:25> 菩提山 0:40> 桧峠  0:35> 椿山 1:00 上滝沢 0:35 中山BS 1:55 藤枝駅
 
                      不動峡・菩提山・椿山観歩記

                    
                  滝ノ谷峠の祠                         滝谷峠の標識

 菩提山入口から10分ほどで滝ノ谷峠入口に着いた。入口の標識は間違いなく 「滝ノ谷↑」 となっている。
峠の地蔵さんの前に組んである細い竹の櫓も農道途中にあった地蔵尊の所と同じだ物だ。
それなら間違いなくこの道を下ればさっきの地蔵尊の所に出る。と林の中の山道を下りだした。

 
               唯一あった標識                            道が陥没していた

 林の中の道は余り歩かれていそうもない道だったが、唯一あった標識の辺りからは更に踏み跡が薄くなった。
これでは山歩きに慣れていない仲間達に、また 「道なき道を歩かされた」 などと言われそうだ。
先に進んでも踏み跡も濃くなる気配も無いし、朽ちた倒木が道を塞いでいて踏むとボキッと折れたりする。どうやら山に慣れていない
人には適さない道のようだ。止めようこの道を仲間と歩くのは。かわりに農道を歩いて来ればいいのだから。

 そう決心したのだが下るのは止めなかった。後は下見ではなく自分の好奇心を満足させるために下った過ぎない。
朽ち始めた作業小屋の所で道が分からなくなった。前・左・右と見ても目印は無い。木間を透かして下を覗くと、沢沿いに踏み跡
らしきものが見える。一先ずあれを歩いてみよう。と、右側の沢沿いに進んで行った。
最初右から聞こえていた沢音が左からも聞こえてきた。オッと危ない。薄い踏み跡が突然無くなってしまった。
イヤイヤ無くなったのは踏み跡だけでなく細い稜線(?)すら無くなっていて、写真では見にくいが、前方にある太い木の根元と
手前の草が盛り上がった所の2m程が消失していた。
危なかったな。知らないで進んでいれば落ちてしまうところだった。危ない!危ない!

 
                  左の沢                                    右の沢

 左側を覗き込むと下の方の岩の川底を水が流れていてる。右側は斜面になった岩を水が滑り落ちていた。
どうやら大水が出たとき左右の沢の水流で稜線(?)が削り取られ、沢が合体してしまったようだ。前に見える部分は島状に
なっているのだろう。止めた、止めたこれ以上進むのは。命あってのもの種だ。

       

 家に戻り地図を見てみると、地蔵尊の所らしき所から沢沿いに山道が引かれ稜線まで延びていた。これがきっと昔の峠道で
あり、ハイキングコースだったのだろう。
一応歩いた所を赤線で書いたが、地図の沢の場所と私が出合った沢が同じ場所かは自信はありません。

 
                 菩提山入口                               菩提山山頂

 菩提山入口の標識ある農道の分岐点まで戻ったが、約1時間40分のロスとなってしまったが、マーいいだろう。
これで下見に来た甲斐があったと云うものだ。
 
 写真の農道を直進すれば今日歩いて来た農道で滝ノ谷に向かい、右に農道を曲がれば藤枝市大久保集落の下る道です。
菩提山はその中間にある山道を登って行きます。また農道を逆に戻れば滝ノ谷峠、笠張山、高尾山方面に向かいます。

 農道を西(右)に下る道が大久保集落に出ると初めて知った。今まではてっきり島田の伊久美出るのだと思っていたのだ。
大久保集落は瀬戸川上流の蔵田から峠を下った所の集落で、本来なら峠から大分下がっているので島田市属すると思う。
それが藤枝に属しているとなると何か理由がある筈だ。そこでこの峠道の事を知りピンときた。
大久保集落は蔵田と縁があるのではなく、滝ノ谷集落とこの峠道を通じて縁があったのだ。
滝ノ谷集落には今川側の臼井氏が住んでいたが、大久保集落も同じように臼井氏が住んでいたのではないか。
もうこうなると妄想的歴史観は止りません。

 滝沢城の案内には、滝沢城は大井川上流の徳山城の出城で葉梨城と対峙していたあったが、それは間違いで実は滝沢城は
葉梨城の出城で徳山城の攻撃に備えていたのではないか。
城も東西にあったのではなく、あったのは大井川に抜ける街道のある西砦だけで、両砦の間にある滝谷から大久保に抜ける
間道に対しては、今川の家来である臼井氏が集落を作り農林業をしながら守備をしていた。所謂屯田兵であったのだ。

 その根拠は滝沢城と対峙していた葉梨城は、瀬戸川右岸の烏帽子形山の中腹にある花倉城のことで、その麓の花倉の里は
今川家が駿河に来た時の最初の居住地で、謂わば今川家の聖地でもある。
その葉梨城から滝沢城までの直線距離は僅か3kmしかなく、道を辿っても4kmほどだ。これでは滝沢城は常に敵の攻撃に
さらされていて、怯えていなければならない。
一方味方の徳山城は直線距離で18kmだが、これは山越え川越えの直線距離で、現在の道を辿ると36km程にになってしまう。
例え応援は身近な出城から来るとしても、滝沢城から大井川まで15kmはある。
これでは今川方がその気になればいつでも城を攻略する事ができてしまう。そんな場所に出城を造るわけはない。

 そこで滝沢城を葉梨城の出城として考え、今川方が西の大井川からの敵に備えた出城と考えれば万事うまく収まる。
どうですか今日の妄想的歴史観は。これで朝読んだとき感じた滝沢城の謂れの違和感は無くなった。

 菩提山の上りは最初急な上りが続き、中だるみがあって最後にまた急な上りを行けば山頂です。

 
                山頂から東の眺め                            山頂から西の眺め

 標高691mの菩提山山頂からの眺めは余り良くない。それでも東南の方向は少し開けていて藤枝の街が見えていた。西側は
木の間から見えた山は何処の山か分かないが、手前の山並が伊久美川右岸で、奥の山脈は大井川右岸だという事は分かる。

   
                        苔の道                               悩む標識

 菩提山から三角点のある所までは緩いアップダウが続いたが、後は下りばかりになる。
林の中の道がズート続くが、椎茸の榾木置場が茶畑になった所で山道は終わりになる。そこに緑の絨毯が続いていて、
その上を歩くとまさに厚い絨毯の上を歩いているようにフカフカした感触がした。緑の絨毯の正体は杉苔(多分)だった。
こんな道が続けば足に優しく幾ら歩いても疲れないだろな、などと無い物ねだりをしてしまう。

 茶畑の間の道を下って来た所に立っていた標識を見て考えてしまった。今上から下りて来たのにその道が × になっている。
一体何故? 正解は × が付いた道を縦に書いているが、それを横にすれば良いのだ。
これでは下から来た人は一瞬考えてしまうだろうな。そして考えた結果正しい道に行くだろう。

 
                桧峠付近の茶畑                               桧峠のお堂

 前方がスッキリ開け茶畑が広がっている。ここまで来れば桧峠は近い。
桧峠は市境になっていて集落のある所は島田市伊久美だった。峠のお堂には地区を紹介する古い新聞記事が張ってあり読み
だすときりが無くなる。その話は今までも何回も紹介したので今日はパス。

 
               椿山と県道の分岐                             秋番茶の収穫

 桧峠を少し下った所に椿山と県道の分岐がある。仲間と来た時は疲れているようなら、ここを左に行けば登りは無い下りだけの
道で上滝沢に行く事が出来る。尤も中々厳しい下りだが。
今は直進する椿山の道を行くが、この道が中々疲れる道で、毎回ここを最後に登っているので椿山は大変だというイメージが強い。

 椿山の農道脇では秋番茶の刈取りが行われていた。この秋番茶の刈取りは菊川や掛川の遠州では見かけるが大井川以東では
あまり見た事がない。茶の葉は春の新芽に比べ色も濃くて堅そうに感じるが、これで美味しいお茶が出来るのだろうか。
値段は多分安いだろうから一度飲んでみたい。

 
                椿山山頂標識                                 椿山三角点

 椿山の山頂標識は最高点とは言えない農道の脇に立っていて、三角点も民家の庭にある。
何とも張り合いのない山頂なので、以前最高点を求めて藪を掻き分け尾根に登った事がある。
だがそこからは農道からだと見えなかった西の方向が見えたが、藪を掻き分けて行くほどの価値は無かった。
そんな無理をしなくてもこの先の 「開拓の礎」 まで行けば絶景が待っている。

                                       椿山開拓の礎から北から東にかけての眺め

                                       椿山開拓の礎から東から南にかけての眺め

 今日も晴れてはいるが遠くは霞んだ状態で、富士山は肉眼では見えているが写真では拡大しなければ見えない状態だった。
それでも左は菩提山から右は千葉山まで300度以上の範囲を眺める事ができる。ここの景色は私に言わせれば藤枝の山の
中では最高の部類に属する眺めだと思っている。
ただ椿山自体が周りの山に比べ標高も低く、道の全てが舗装された農道のため登る人も少なくて知られていないのが残念だ。
菩提山に登るときは是非椿山にも立ち寄って、ここからの景色を眺めてください。

今日は菩提山しか登ってないが、いつかは高根山、高尾山、笠張山、菩提山を縦走して、ここ椿山で歩いてきた山並を振り返り
ながら一服してみたい。きっと達成感に満ちた休憩となるだろう。

山の名前は “当たらずとも遠からず” と、思ってください。

 
              富士山の雲が取れた                              県道合流

 農道を下り始めると、開拓の礎では富士山の中腹にかかっていた雲がとれ、初冠雪をした山頂も顔を出してくれた。

 長い下りの農道がようやく県道215号に合流すれば、バスの終点 「上滝沢」 はもうすぐだ。
バスは平日なら2時46分、土曜日は3時16分があるが、予約制とか書いてあり利用方法はよく分からない。
ここからもうひと頑張りすれば藤枝駅行の中山バスがある。私? 私はさらに頑張って瀬戸川沿いを藤枝駅まで歩きます。

                               桧峠から椿山経由中山までの道

       ******************************************************************

 明日18日は9月の仲間たちとのウォーキングで、浜石岳と興津川遊歩道を歩いてきます。
天気予報は今日土曜日は雨で、明日は晴となっている。予報通りなら更に雪化粧をした富士山を眺められるかもしれません。

菩提山下見

2015-10-16 10:00:00 | 低山歩き
歩行記録                                                          H27-10-13(火)
歩行時間:8時間40分   休憩時間:1時間15分   延時間:9時間55分
出発時刻:7時55分     到着時刻:17時50分
歩  数: 45、269歩(推定距離33.0km)    GPS距離32.1km
行程表
中山BS 0:40> 不動峡 0:20>  水車村 1:00> 菩提山登山道入口 0:10> 滝之谷峠 0:25> 道不明 0:55> 
菩提山登山道入口 0:25> 菩提山 0:40> 桧峠  0:35> 椿山 1:00 上滝沢 0:35 中山BS 1:55 藤枝駅
 
                      不動峡・菩提山・椿山観歩記

 来月の知人ウォーキングに、紅葉の不動峡から菩提山と椿山を回るコースを考えていたが、コースの一部を歩いた事が
なかったので下見に行ってきました。
 朝の出発も当日と同じようにバスを利用したのでのんびりモードの山行になりそうです。

 
                  滝沢城跡                                滝沢城跡案内

 島田市相賀に向かう県道81号と別れ、滝ノ谷に向かう所に、地域の観光案内板に 「滝沢城」 の事が書いてあった。
その中に 「滝之谷川を挟んで西砦・東砦の二城一連式」 とあるので、写真の左の山が西砦で右が東砦であったようだ。
更に “徳山城の出城”とか “葉梨城との対峙関係” から、この城の味方は城後方の西にいて、敵は城の東前面にいた事になる。
この様な状況で出城を造るなら、東の敵からの進路を食い止める、当然西に向かう街道の守備が目的になる。
そのため街道を挟む東西の山に城を造ったのかた思ったのだが ---------
だが二城一連式の滝沢城の間の道は、細い谷間を抜けて山を越える道で、本城のある徳山とはズート離れた場所に出てしまう。
一方西砦のある山の西側には大井川に抜ける街道があるのだから不思議だ。
敵を攻撃するための進軍なら、当然出城なんかは蹴散らかして進むだろうし、大軍なら狭い道より広い道の方が進軍しやすい。
本当に城が両方の山の上にあったのだろうか?
私の妄想的歴史観は疑問を投げかけるのでした。
 国土地理院の地図では左の東砦の山は 「城山」 で380mの山頂には三等三角点が設置されていた。だが案内板には
“西砦には堀切、曲輪などが残る” とあり、どちらがメインの砦だったのか考えてしまう。

 
                  滝ノ谷川                               通行禁止の橋

 滝ノ谷川が渓流ポクなった所に、元は立派だったと偲ばせる石の太鼓橋がかかっている。今は対岸に何の建物はないが、
整然とした石垣や階段などが見えているので、最初見た時は滝沢城の守り神の神社があったのかと思ってしまった。
だがそんな貴重な神社を村人がそのままにするわけはないので、新興宗教の施設があったのでは、とも思った。
今は通行禁止で橋は渡れないが、いつかは入ってみたいと思っている。

 その太鼓橋から少し上流で地元の建設業者が川の護岸工事をしていた。川の底を眺めていた作業員がいたので
 「あそこに太鼓橋があったけど、元は何だったのですか?」 と聞いてみた。
 「あの太鼓橋の渡った所は旅館があって、しかも温泉旅館だったって話だ。」
エー旅館が-? 太い杉の木や石垣があるのでてっきり神社と思っていたが、旅館とは意外だった。旅館が建つほどの敷地が
あるようには見えなかったし、それより何よりジメジメしていて気持ち悪そうな場所だった。
しかし若し旅館だったら、あの太鼓橋からおしてかなり立派な旅館だったろう。いや旅館と云うより金持が金にあかせて建てた
別宅って感じの方があっている。
温泉? もし本当としても高温の温泉ではなく、低温の鉱泉だっただろう。
地元の町興しに太鼓橋の所に案内板を建てれば興味を深く読む人も多いのではないかな。尤も歩いて来る人は少ないが。

 
                      磨崖仏のお堂                         不動峡の磨崖仏

 不動峡の磨崖仏の所にはお堂が建っていて、建物の周りにある通路から磨崖仏を眺める事ができます。
今日は午前中で明るかったせいか、へたな私でも写真を写す事ができました。
木の枝が大きくなって磨崖仏を見えにくくしているが、これが数少ない紅葉するモミジだから切るに切れないか。

 
              ホトトギス(上から)                           ホトトギス(横から)

 磨崖仏の説明板の下にホトトギスが咲いていた。花の形や斑点の状態からしてホトトギスに違いない。
大崩山塊では1株しか目にしなかったが、ここでは注意してみるとアチコチに咲いていた。ただどれも背丈が低く、花も2輪か3輪の
ものが多いのは土壌が瘠せているのかな。

      
             囲炉裏                                炭焼き小屋

 磨崖仏を過ぎた所にある “山の市” は今日もお休み。尤も今日は平日の8時台だから閉店していて当然だろう。
前回来た9月21日の祝日に店が開いてなかったので、一年中開かないのではとブログに書いてしまったが、後日ittaさんの
コメントで開店している時もある事を知りました。悪い事を書いてしまった。ご免なさい。

 山の市から更に上流に向かうと、自在鉤を吊るした囲炉裏のある小屋が見えたので中に入ってみた。
囲炉裏は兎も角、目に付いたのが地区共同の新聞受だった。9軒分ある新聞受は全て静岡新聞を購読していて、そのうち
1軒が朝日も併せて取っていた。更に気を引かれたのは9軒ある購買者の名字のうち6軒が “臼井” 姓だった事だ。
 「静岡県の苗字(渡辺三義)」 によれば 「臼井姓は県内228位で下田市に多く、島田の臼井氏は下総国稲葉郡臼井庄から
起った千葉氏の流れで、後に今川の家臣になった臼井平八郎の流れを汲む」
とあった。
この滝の谷の臼井氏も多分その流れの末裔だろう。
 思いだ出してください。今朝一番に見た滝沢城は今川氏に敵対する城だったが、その城より敵側に住む滝の谷の臼井氏は、
今川氏が滝沢城を破ったあと住み着いた事になるのでしょうね。

 見学用なのか 「滝ノ谷 黒窯」 と看板がある炭焼き窯も出てきた。水車村は近そうだ。

 
              兜造りの屋根                                   水車小屋

 来月の知人ウオークは近郷の紅葉の名所不動峡から、菩提山・椿山を回る周回コースを考えています。
このコースの一部は歩いた事はないが、藤枝市のハイキングコースにも指定されているコースなので多分大丈夫でしょう。
とは言え、山仲間と歩くならそれで良いが山の初心者を案内するとなると山での障害は極力避けなければならない。
そこで下見をする事にして今日の山行になった。
 藤枝市のハイキングコースは、上滝沢BS-桧峠-菩提山-滝ノ谷峠-水車むら-不動峡-中山BS のコースで、所要時間
6時間5分、距離12.5kmとなっていた。
だがこのコースでは景色を眺める場所がないので、菩提山の横にある展望の良い椿山も加えた周回コースにして、さらに椿山の
長い登り坂を避けるため逆回りのコースを考えている。
この中で私が歩いていないのは水車村から滝ノ谷峠間だが、滝ノ谷峠自体は今迄高尾山から菩提山の縦走で何度も通過している。

 川向こうに屋根が兜造りになった民家見え、その家に行く吊橋もあり風情は良い。だが兜造りの民家は正面から見ると屋根の
補修がされておず見る影もない。そしてその隣が水車小屋だったが、そこの水車も回転するようには見えなかった。

 
              水車村の分岐                               地蔵のある分岐

 結局水車はこれ一つあったきりで道が分岐していた。右に曲がる道にはやまめの里、パターゴルフ、手打ちソバなどの看板の
中に 「高尾山ハイキングコース 蔵田・高尾山」 の道標もあった。だが滝ノ谷峠や菩提山の標識は無い。
さて困った。菩提山コースは水車村から滝ノ谷峠となっていたが何処が水車村なのか? 来る途中には水車村の案内はあったが、
この分岐近くには水車村の表示はない。この壊れかけた水車が水車村か? それとも水車村はまだ先にあるのか?
聞きたくても周りに人はいなかった。
結局この1台の水車のある所を水車村として。左を直進する多分滝ノ谷峠の上に出る舗装された農道を登る事にした。

 実はこの分岐で嬉しい事があった。私が前から探している 「紀ノ国屋八兵衛」 の石碑が分岐の所に立っていたのです。
紀ノ国屋八兵衛とは志太地方だけに伝わる川の護岸と疫病退治する六部さんで、川の畔に建つ石碑は80基ほどあると言われ
ている。私はまだ40基ほどしか見ていないが、その内にHPで所在地の一覧表を作ろうと思っている。

 分岐から農道を20分ほど登った所に地蔵が祀られていた。ヨシ!OK。あの地蔵の所から滝ノ谷峠の地蔵さんに向かって
昔の峠道があるのだろう。
だが右には舗装されていない農道はあるものの、滝ノ谷峠への標識は無かった。またここで悩んでしまった。
 ・近年に造った農道に地蔵を祀る事はない。故にここに地蔵があるのは昔の道があった証拠。
 ・若し分岐点なら藤枝市のハイキングコースなので、ここに標識が無いとは考えられない。。
どっちとも考えられるが、一先ず舗装された農道を行って、滝ノ谷峠を上から下りてみる事にした。
 
 
              菩提山入口                                  滝之谷峠

 上がが明るくなってもう少しで稜線かと期待をするが、曲がりくねったの道は中々稜線に着かない。
やっと菩提山の登山道入口に着いて一先ずホッとした。
ここから菩提山には何度も歩いているが、問題は滝ノ谷峠から下の部分だ。果たして峠を下るとさっきの地蔵の所に出るのか、
或いは高尾山コースの途中に出るのか興味は深い。
もしないで来てしまった。峠から下る農道が何処に伸びているのかも調べて来ていない。慢心、油断、反省します。

 農道の山側には菩提山入口の標識と共に、今登って来た農道方向を指して 「水車むら滝沢」 の標識はあった。
だが滝ノ谷峠の標識は無いので、ここは滝ノ谷峠とは云わないのだろう。先ずは兎も角、山道の入口である滝ノ谷峠に行こう。

                            中山から滝ノ谷峠への農道の道


知多四国開山葦航寺

2015-10-15 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・31番・32番・30番 0:05> 大井BS 

                                  開山 葦航寺(一心大師堂)

                
                またもや火力発電所?                         聖徳太子堂

 25番から開山 葦航寺(いこうじ)への道は、富貴駅の横を通り名鉄の線路と平行に南に下った所にあった。
火力発電所(?)の櫓が更に近く見え、3本と思っていた柱の数が4本だった。今度はあれが何か必ず聞こう。

 道路沿いの石碑に 「聖徳太子御堂」 とあるお堂が建っていた。静岡県にも太子堂はあるが、大概寺院の境内に建っていて、
このように道路脇では見た事がなかった。確か三島にあった太子堂は建築関係の人達が寄進して建てたお堂で、その前に立つ
太子像は手に曲尺を持っていたが、それは曲尺は聖徳太子が発明しと事によるらしい。
で、ここの太子堂は聖徳太子に何のご利益を求めて建てたのか、とお堂の中を覗いたが分からなかった。

 地図には線路の横を通り抜けるようになっていたが、そこには道は無く線路に横は工場が建っていた場所があった。
こんな事は稀な事で、私の信頼するYHOO!さんしっかりしてくれよと、工場の前を通り次の角を曲がった。
幸い道は線路脇に戻ったが、そこには醤油の絞り粕が捨ててあり、前回道を間違えた時と同じ匂いがしていた。

            
                    葦航寺本堂                              開山所ご朱印

 葦航寺が読めなくてネットでようやく 「いこうじ」 と探し当てた。
 「葦」「イ・あし・よし」 と読むようで沼地に生えるイネ科の植物の事だった。
この “あし” と “よし” は同じもので、昔 “アシ”は “悪し” を連想し縁起が悪いので “ヨシ” にしたとか。
 “するめ” を “あたりめ” と言うが如し、ですね。
 達磨山葦航寺とは、達磨大師が中国の揚子江を渡るのに、葦の舟に乗って渡った故事による山号寺号だった。

 知多四国霊場の開山所とは、霊場開創の時の創始者阿闍梨に協力をした、岡戸半蔵行者と武田安兵衛行者を祀った寺です。
前回打つ終わった14番の興昌寺では半蔵行者を祀ってあったが、ここでは武田安兵衛行者の墓があることから開山所に指定
されていた。葦航寺のご朱印には 「開山廻翁行者」 の文字があった。
     
 
                  裏 門                                      弘法堂

 寺には石柱のある裏口から入ったので、最初に目に入った庫裏と納屋を見て一瞬農家の庭先に入ってしまったと錯覚した。
庫裏の奥にはまだ新しい本堂があり、その扁額の 「達磨山」 の文字が輝いて見えた。
 私がお詣りをしていると庫裏から住職らしき人が、弘法堂にある納経所に入り私を待っているようだった。
ご朱印を頼む私は待っていてくれるのはありがたいが、これがご朱印をしない人はバツが悪いだろうな。
マーご朱印代は100円なので境内の使用料とも見学料とも考えれば安いものだが、98ヶ所となると約1万円になってしまう。
これが朱印代として多い300円だったらどうしよう? 3万円となると止めたかもしれない。そうなると待たれるのも困るな。


 ご朱印を受けている時に住職に
 「ここに来る途中に3本か4本の鉄管で櫓を組んだ高い搭みたいな物があったが、あれは何ですか」 と聞いてみた。
 「櫓? 知らないなー どの辺に有ったのかな」
 「富貴駅の近くでした」
 「それなら武豊町だから火力発電所の設備と思うがよく分からない」
そうです。
聞き方が悪かったのか、櫓の表現が悪かったのか。それとも高齢な方故に -----------

           
             一心大師堂                                弘法大師?

 お堂の扁額は 「一心大師堂」 とあったが、中に祀られている大師像は田舎の金持親父にしか見えなかった。
弘法堂の弘法大師に、この一心大師の違いは? 住職に聞いてみようとしたが既に庫裏に戻っていた。
それにしても一心大師と聞いた事がなかったのでネットで調べたがヒットする物はなかった。
大師は大師でも達磨大師のことなのか、はたまた曹洞宗の開祖道元禅師(大師)のことなのか皆目見当がつかなかった。

 
               亀の石碑                                    参 道

 オッとこの寺にも亀がいた。背負っている石碑には 「福寿法亀竜王菩薩」 とありがたい名前が付いていた。
この亀は近くの浜で上がった海亀を祀ったもので通称「おかめさん」と呼ばれているとか。

 こちらの参道が正面なのだろう。下から眺める葦航寺は山城の感じがしないでもなかった。
寺のすぐ横を名鉄河和線が走っていた。
                                 25番から開山 葦航寺への道

知多四国25番円観寺

2015-10-14 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番  0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・31番・32番・30番 0:05> 大井BS 
 

                                  25番円観寺(千体大師?)

       
                      醤油醸造元                            火力発電所?

 24番から25番円観寺(えんかんじ)へは、国道247号の西側の道とほぼ平行な狭い道を歩ように地図はなっている。
なのに徳正寺を出て黒塀の醤油の醸造元の横を歩いて行くと国道に出てしまった。一旦醸造元まで戻り今度は別の細い道を
行くと又もや国道だった。
まだ寺を出てたったの50mしか歩いていないのに2回も間違えてしまった。まだ調子が出ないのか。仕方ないので寺まで戻り
仕切り直しをしようと醤油屋の横に行くと、さっきまで芳しと感じた匂いも何回か嗅いだのか今度は鼻についてしまった。

 迷った原因はルートを設定するとき、寺の入口が分からないと適当に設定しているのだが、今回はそれが悪かった。
手持ち地図は尺度を大きくしているので、最初の分岐は寺の角て曲がるように見えたのですぐ曲がっていた。
しかし実際には寺を出た場所と地図のスタート地点とは違っていて、寺を出た所からなら実際は曲がらずに直進すれば良かった
のだった。分かってしまえば何の事はないが迷っている時は結構焦るものです。

 前方東に3本の管で櫓を組んだ建造物が見えるが何だろう。送電線も何本も見えているが火力発電所か。
次の札所で聞いてみよう。

 
                円観寺山門                                弘法堂と護摩堂

 円観寺の住所は武豊町富貴だが例により地名の富貴が気になった。多分貴い人でも住んでいただろう思いながら調べると
 『富貴には浦島太郎の伝説が伝わっていて、言い伝えによると浦島太郎は富貴で海亀を助けたという。富貴には浦島川という
川がある他、古い地名に浦ノ島、負亀という名もある。
また、富貴という地名は元々は 「負亀」「おぶがめ」 の読みが 「ふき」 に転じたという。』

 浦島伝説は東海道を歩いた時神奈川宿にも伝わっていたが、今日はその伝説はさておいて地名で気になった事がある。
先程打ち終った徳正寺の境内に亀が石碑を背負って(負ぶって)いたが、あれはここの古い地名 “負亀” に関係ないのだろうか。
山号も “慶亀山” だったが。
しかし考えてみれば山号が慶亀山なので亀の像があっても変な事ではない。亀がいたからといって浦島太郎と結びつける方が
無理がある。

 
                弘法堂内部                              小石に描いた太子像

 弘法堂の中に弘法大師の御姿を描いた小石が幾つも祀られていた。今迄歩いて来て焼物の 「千体地蔵」 は何度とあったが、
このように自然石に描いてあるのは初めて見た。これをもっと増やして 「千体大師」 とできないものか。
きっと規格品の千体地蔵よりありがたく見えること間違いなしだ。尤も小石が不揃いなので置き方には悩むかもしれないが。

 
                 西国観音                                 仏足石

 西国観音霊場の本尊を石仏にして33体並べてあるこの形式は静岡にもあるが、ここで変わっているのは石仏中央に祀られた
金色の観音さんだった。なんでもこの観音さんは 「呆け封じ観音」 だそうです。

 「仏足石」 もお寺では時々見かける物だが、元々は仏像の無い時代にこの仏足石や菩提樹、仏搭などを拝んでいたようです。
古いインドではお釈迦様のお姿を直接見て拝むのは、畏れ多く勿体ないという当時の人々の敬虔な態度が顕れだそうです。  
 仏足石の描き方にも色々あって、ここの仏足石のように足の五指に卍が書かれ、足の中央部に輪宝が書いてある方式は
ネットには 「足下二輪相」 となっていました。何故二輪なのか分かりませんが。

 しまった。3本の櫓の事を聞くのを忘れてしまった。

                             24番から25番円観寺の道

知多四国24番徳正寺

2015-10-13 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-12(水)
歩行時間:5時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:7時間40分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時10分
歩  数: 36、270歩(推定距離27.2km)    GPS距離24.4km
行程表
武豊駅 0:15> 24番 0:35> 25番 
0:40> 開山 0:30> 番外 0:20> 26番 0:50> 27番 ・ 開山 0:55> 28番 0:45>
 29番 0:45> 34番・31番・32番・30番 0:05> 大井BS 
                                  24番徳正寺(上り?)

       
                    JR武豊駅                               駅前の銅像

 JR武豊線の終点武豊駅で下車。武豊? タケユタカって競馬の騎手にもいたが、ここはタケトヨ町でした。
それでも何かタケユタカと関係ある物がないかと町のHPを見たが、名誉町民でもないし競馬関係の施設も無かった。

 武豊駅前に 「高橋熙君之像」 が建っていた。軍人の像かと思ったが何となく違う感じがしたので調べてみた。
 「昭和23年(1953)に武豊町を襲来した台風13号から列車を守るために殉職した国鉄職員の高橋熙(ひろし)氏の胸像です」
そうだよな、軍人の銅像をこんな駅前に建てる訳はないか。それにしても台風から列車を守るって具体的には何をしたのだろう。
三浦綾子の小説 「塩狩り峠」 では、峠にさしかかった列車が突然離れて下りだした。たまたま乗っていた国鉄職員が身を挺して
列車を停めた話だが、この辺りは平らな土地でそんな事は置きそうもない。
気になってさらに調べると、何の事はないウィキペディアに載っていた。

 「折から襲来した台風13号の影響で発生した高潮により、武豊-東成岩間の線路が流失した。この異変を武豊駅に向かって
進行中の上り列車に知らせるべく、武豊駅駅手・高橋煕(ひろし)が発炎筒を手に、東成岩駅方面へ走り出した。
上り列車の機関士は前方に振られる発炎筒に気付き、非常停止した後東成岩駅まで後退し、列車の乗客乗員約100名は難を
逃れる事ができた。しかしながら高橋駅手は武豊駅に戻ることはできず、翌日線路際で殉職した彼を捜索隊が発見する。」


成程と思ったが説明の中に “武豊駅行き上り列車” とあるのが理解できない。
武豊駅は終点なのだから、武富駅に向かってくる列車は全て下りの筈だ。それが上り列車とは?????
私が勘違いしているのか、それともウィキペディアが間違っているのか --------


                 徳正寺山門                               弘法堂

 どうも歩き出しは地図を読む勘が準備できていないのかまた間違ってしまった。1回目は2番目の札所に行く途中で、2回目は
最初の札所で間違ってしまった。今日も地図のメモには 「信号があったら行き過ぎ」 とあるのに信号まで来てしまった。
戻ってもよいが丁度若者がきたので聞いてみた。
 「私はここの者ではないので分かりませ。アッチョト待ってください」とケイタイを取り出して操作をした。
 「徳正寺と云うお寺は、その家の間を行けばすぐあります。」と教えてくれた。
言われたように家の間を行くとすぐ24番徳正寺はあった。
まるでカーナビのように便利だが、これを使いだしたら遍路の面白味が半減してしまいそうだ。今は事前にネットで地図を調べ
それなりに道の状態が分かってから歩いている。
そのお蔭で遍路が終わっても写真とその地図を見ると色々な事を思い出す事ができブログも書く事ができる。

 オット札所の話もしなければ。
徳正寺の山門に 「願掛 千体地蔵」 のポスターが貼ってあった。この寺にも小さな焼物の千体地蔵があるのだろうと思ったが
次に千体地蔵に気が付いたのは山門を出る時だった。
境内を歩いた限りでは千体地蔵は無かったので本堂の中に祀ってあるのかな。

      
                        撫地蔵                              六角堂

 弘法堂の前に 「撫地蔵」 が祀ってあり 「まず、自分の痛い所を撫でて下さい。次に、お地蔵様の同じ場所を撫でて下さい。
一度では治りませんので、数回繰り返して下さい。二十四番徳正寺」

オビンズル様と同じご利益のお地蔵さんだが、お寺さんも色々考えるのだな。その内に “撫大師” も現れるかもしれない。

 六角堂の中に 「慶亀尊天」 と刻まれた六角柱の石碑を背負った亀の像が安置されていた。徳正寺の山号が 「慶亀山」
よるものだろう。山号に亀が付くのだから海は近いと思うが知多半島を歩き出してからまだ一度も海は見ていない。
しかし今日は海辺の国道を歩くので海は100%見られるだろう。

                                武豊駅から24番徳正寺への道
 

知多四国23番蓮花院

2015-10-12 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                         H27-8-8(土)
歩行時間:6時間05分   休憩時間:1時間45分   延時間:7時間50分
出発時刻:8時30分     到着時刻:16時20分
歩  数: 33、879歩(推定距離25.4km)    GPS距離24.2km
行程表
亀崎駅 0:35> 12番 0:35> 13番 0:05> 14番 0:20> 15番 0:30> 17番 0:05> 16番 0:45> 番外 0:15> 18番
 0:20> 19番 0:10> 20番 1:30> 21番 0:40> 22番 0:05> 23番 0:10> 武豊駅

                                  23番蓮花院(張子大師)

 
              23番蓮花院山門                            本堂(右)と弘法堂

 22番から23番蓮花院(れんかいん)へは国道247まで戻り少し南下した、地名が “ヒジリ田” の住宅地の中にあった。
 「ヒジリ田」 とは、またもや曰くがありそうな地名なので調べてみると案の定だった。
 「戦国時代ここを訪れた旅の僧が、飢えに苦しんでいた村人に農耕の技術を教え飢餓から救った。収穫の喜び湧く村人は、
その地を “聖田” と名付け、近くにお堂を建て僧の偉業に感謝した。そのお堂が蓮花院の始まりと伝えられている。」


 知多四国を歩いていて四国霊場と少し違うなと感じるのは、この様な伝説が四国なら全て弘法大師の遺業になっている。
それが知多四国では平泉寺の井戸もそうだったように弘法大師以外の僧の話と伝わっている。
これは知多半島は四国と違い弘法大師を余り身近に感じていなかったのではないか。いや違うな。知多半島には知多四国霊場
以外にも四国直傳弘法霊場等もあり、決して知多半島の人が弘法大師に親しみを感じていなかったわけではない。では何故か。
また勝手な空想をするならば、知多半島の人は正直者が多く、昔からの言い伝えを子孫にそのまま伝えてきたのだろう。
一方四国では弘法大師誕生の地であるので、なんでも弘法大師の遺業としてしまったのではないのか。

 知多地方の正直者の気持ちが地名表記も現れている気がする。上ケ、ヒジリ田、エゲ屋敷、ヲヲガケなど片仮名表記の地名が
多いが、これは地元の人は読めるが、余所者には読めないではないかと優しく気を使ってくれたのだろう。
ヒジリ田→聖田、エゲ屋敷→会下屋敷、ヲヲガケ→大崖(多分)となるのではないかと思うが、確かに読み難い地名もある。

 
                   弘法堂                                   本 堂

 目立つ蓮花院の案内板に誘導されて小路に入ると、余り変わり映えのしない蓮花院の山門が見てきた。だが山門の上に何やら
派手な色彩の建物が見えている。あれは何だ? と期待を込めて境内に入ると異様な建物が目に入った。
正面(左)の弘法堂は二層になっていてカラフルな五色の幕を廻らせてある。建物も赤く彩色されていて派手な感じがする。

 右側の本堂は一転して屋根に唐門風曲線を多用した建物だった。この建築様式をなんと呼ぶのか分からないが、一般寺院に
比べて変わっている事は確かだ。私流にあえて言うなら 「虚仮脅かし風」 建築様式とよびたい。
本堂が2階にあったのも変わっていた。

 
                  弘法堂内部                           手水場の観音さん

 弘法堂の内部は外観に比べ、いたってシンプルだった。イエ失礼を顧みずハッキリ言うなら外観に比べいたって質素だった。
そして境内の手水場には矢張り仏像があり、それも取って付けたような金色の観世音菩薩の立像だった。。
細身の姿に少し体を傾げたお姿は艶めかしくもあり、これぞまさしく蓮花院風だと思った。

  
         張子大師                                  名称不明

 癒したい箇所を収め札を貼ると身代わりになってくれるという大師像。
貼られてある紙をよく見ると 「病魔即」 と見えるのは 「病魔即退散」 の事だろう。他にも人体の図もあるので、体の悪い個所を
具体的に図示しているのか。それにしてもどの紙も古くて重篤な皮膚病患者の肌の様に見え、とても触る気にはなれなかった。
でもこのお大師さんの前掛けには 「CUTE STYLE」 とあったのには笑えた。

 今度は鳥追い風な形をした女性像があったが、鳥追いにしては被っている笠が違うし、手にしている物も三味線ではなく杖を
突いている。多分女性のお遍路姿を現しているのだろうが、この像も何となく色っぽく感じた。
でもとても触る気にはなれません。こちらの像も人体図や般若心経の一部らしき文字、それに “昭和60年9月” 等の年月を
書いた古い紙が体一面に貼ってあった。
でもこうして見ていると他の寺に多い “オビンズル様” より興味は湧く。もう少し新しい納め札等を貼ってあれば真似をする人も
現れるだろう。

それにしても変わった寺だったが、それなりに楽しかった。
                                 22番から23番蓮花院への道

 蓮花院からJRの武豊駅には線路伝いに行く分かりやすい道だった。
JRの武豊線はこの武豊駅で終点だが、更に先には名鉄の河和線が走っていて、次回からは利用することになる。
今日歩いてみてJRと名鉄の線路は余り離れていなかったので多分駅も近いだろう。
何しろ青春18切符を利用しているので、不便でも何でも最大限JRを使う積りなので駅の間が離れていると困るのだ。

 1回目の遍路で熱中症に起因する急性膀胱炎(?)に罹ったので、今日は体の様子を気にしながら歩いた。
だが歩き終わった今、何処にも不調は感じない。多分家に帰った後も大丈夫だろう。
全部で98寺ある札所だが、今日までに廻ったのはたったの25寺。先を急がないと青春18切符が使えなくなってしまう。

                                 23番番蓮花院から武豊駅への道