はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

歩き納め

2014-12-31 15:46:30 | ウォーキング
牧ノ原台地と小夜の中山西行歌碑周遊ウォーク

歩行記録                                         2014-12-28(日)
歩行時間:10時間25分   休憩時間:0時間35分   延時間:11時間00分
出発時間:7時00分   到着時間:18時00分
歩  数:  57、187歩   GPS距離45.2km
行程表
 自宅 1:00> 谷口橋 4:20> 松島歩き観音 0:40> 火剣山 0:25> 小夜の中山 0:20> 夜泣石 0:50> 金谷一里塚
 0:40> 大井川 1:10> 谷口橋 1:00> 自宅 

 
         早朝の大井川河川敷マラソンコース                       大井川谷口橋

 歩き納めは毎年小夜の中山にある西行法師の歌碑を見に行く事にしている。昨年は金谷駅から松島歩き地蔵にお詣りを
して、小夜の中山から粟ヶ岳に登り掛川駅がゴールの27kmだった。中々良いコースだったが今年は距離をもう少し伸ばし
て35km程にしたかった。とは言え余り早い出発では自転車に乗る手が冷たい。そんな横着の気持ちが湧き自宅を出発地と
するコースにした。

 さすが日が昇ったばかりの河川敷を歩いている人は少なかったが、自転車の人はかなりいた。私は寒い自転車が嫌で歩く
事にしたのに物好きな人がいるもんだ・・・・・・ イエイエ自転車の人は私を見て 「河川敷をザックを背負って歩く変わった奴」
思っただろう。

 大井川の河口から6番目に架かる谷口橋を渡ると牧之原台地の麓に出る。だがそこからは台地には登らず、なるべく台地の
西側から登るようにして、帰りは台地の東側の大井川に沿って帰れば35kmにはなるだろう。

 
            台地の東側より                               台地の西側より

 地図を持たず適当に歩いて行き台地の上にさしかかると富士山が見てきた。その富士山の下には大井川が・・・・
そんな馬鹿な? 台地の西側からなら富士山は見えても大井川は見えるはずない。
自惚れて地図も持たないで歩いて早々に間違えてしまった。早速軌道修正し台地を横断して西側に移動。
そう西側の景色はこれですよね。茶畑の斜面と粟ヶ岳の 「茶」 の文字がクッキリ見えていた。

           
                双体地蔵                       岩松寺(歩き観音)
        岩松寺(歩き観音)
 岩松寺の参道はすでに新年の準備が終えていて、参道入口の双体の地蔵尊には菊の花も供えられていた。
岩松寺は無住でお堂だけの寺だが、高台の上のお堂の屋根と境内の木々、そして階段下の案内板がマッチしているので
記憶に残りやすい寺の一つだ。

   
      歩き観音の祠                 歩き観音                   千手観音

 松島の歩き観音に今年一年無事に歩けたお礼のお詣りをする。この観音さんは火剣山の参道にひっそりと立っていたので
村人がさぞ寂しかろうと、賑やかな東海道筋の小夜の中山に移してやっても、すぐ戻ってきて しまうので「歩き観音」の名前が
付いたとか。居なくなるのではなく何処かへ行っても戻って来るのなら、将来の私には丁度良いかもしれない。何しろ家族には
「足が強くて痴呆になったら何処へ行ったか分からなくなる」 と心配されているのだから

          
          火剣山参道の石仏                         墓の峠から

 島田市と菊川市の境から火剣坊の参道に入るが、この参道は余り利用されていないのか木や竹の倒木が道を塞いでいた。
それが菊川からの表参道に合流すると、道端の石仏にも新年のお供え餅や輪飾りが供えられていて参道も整備されていた。
墓の峠展望台に12時40分到着。当初はここで昼飯予定だったが、迷い道のせいで30分以上想定より送れたので昼飯は歩き
観音で食べてきた。距離はここまでで24.4kmになっているので、同じ道を帰れば45kmは十分越えるだろう。
とは云え同じ道は歩く気はないので、どの道を帰るかはまだ決めていない。
墓の峠展望台から富士山は見えていたが薄くて写真では分かりずらい。大崩山塊はかろうじて分かるが伊豆半島は微かに
見えるだけだった。

          
                文殊菩薩と大日如来                         火剣坊大権現
          火剣坊大権現の地図
 昨年は29日にここに来ているが、その時は地元の人たちが新年を迎える準備をしていた。今年はすでに終わっているのか
本堂にはお飾りが飾られ周辺は箒の目が付いていた。
この本堂の前の小さな石の横に 「日の出拝礼石」 の杭が立っている。だが東の方向は木の枝が生茂り日の出などは見える
状態ではなかった。折角杭があるのだから拝礼を邪魔する木の枝は剪定すれば良いのに。と来もしないのにブツブツ言う私で
した。
          
            西行歌碑                        小夜の中山から粟ヶ岳
           西行歌碑の地図
           「年たけて また越ゆべしと おもいきや 命なりけり 小夜の中山」

 西行法師が69歳のとき詠った歌で、解釈は 「年老いてから、この山をまた超えることができると思っただろうか、いや思いは
しなかった。小夜の中山を越えることができるのは、命があるからこそだなぁ」

西行の歳を越してしまった今年、なんとかまたここに来る事ができた。だがこの1年はウォーキングを始めて最悪の年となって
しまった。6月下中から睡眠障害による体調不良が10月中旬まで続き、お蔭で 「古稀の歳に海から富士山」 が見事挫折して
しまった。1日平均の歩行距離も昨年の10kmから8kmに下げたが既に達成不能になっているし、ウォーキングや低山歩きでも
疲れ過ぎたり、乾杯後に気持ちが悪くなったりと散々だった。しかし今年も歩き納めにここに立てたことで良しとすべきだろう。
来年は 「無理せず 楽せず 程々に」 をモットーにして脚力減退の速度を遅くすることにしよう。
そして来年の歩き納めも、ここに来る事を願い 「歳たけて また来てみるべしと おもいきや 命なりける 小夜の中山」

 粟ヶ岳の「茶」の字が大きくなった。昨年はここから粟ヶ岳に登ったが今年は別ルートにするのだが、はたしてどの道を。

          
                 ハイキングコース入口                          快適な山道
              ハイキングコース入口の地図
 帰りのコースを決めた。先ずは小夜の中山から国1中山トンネルに下り中山新道を探しながら県道を金谷駅に行く。
そこで距離が35kmを超えていればゴールとし、超えていなければ大井川を越えて島田駅ゴールとしよう。

 何時もは雑草の生茂っているハイキングコースの入口が整理されていた。林の中も例年は竹が倒れていてバキバキと竹を
踏割ながら下ったのが嘘のように綺麗になっていた。イベントでもあったのだろうか?

          
       中山トンネル上から国道1号線                   本物夜泣石
          中山トンネル上の地図
           夜泣石の地図
 小夜の中山から下りの道を10分ほどで中山トンネルの上に出る。ここは明治の初め大井川に橋が架かり川越人足の職場
確保と森林開発のため、金谷宿より新しい道を日坂宿まで開通させた。また開通に伴いこの道を有料で旅人にも利用させた。
すると有料でありながらも東海道を旅する旅人は小夜の中山を避けこの道を歩くようになったとか。
昔の旅人がお金を払ってでも歩いた気持ちは小夜の中山から中山トンネルを歩いただけでも実感できる。小夜の中山の標高
が254mに対しトンネルの上は178m、それだけでも76mの標高差になる。小夜の中山を歩くメリットは富士山や粟ヶ岳を眺める
事ができる事だが、ハイキングならいざ知らず実用の旅なら楽な方が良かったのだろう。

 トンネルの上から国道1号線を見ると時々車が開く時がある。これなら横断できるだろうと今までは一度も横断した事のない
国1を渡る事に。一応難なく渡れたが、渡った先から夜泣石に出るには草茫々の法面を登らなければならない。そこも登ると
今度は胸の高さぐらいのフェンスが塞いでいた。
マイッタナーとフェンス伝いに歩いて、ようやく切れ目を見つけて夜泣石のある緑地に入る事ができた。しかしよく見るとおまけ
が一杯付いていた。そう!引っ付虫が靴、ズボン、シャツと体の前側にびっしり付いている。やはりこんなバカはしてはいけな
いという事だ。このままにしておくと洗濯のとき怒られるので、歩きながらや休憩のときに取るのだが、アメリカセンダンのダーツ
の形ではなく、コバンザメの吸盤の様な平たい小判の形だったので、中々取りにくく往生してしまった。

          
                     大井川橋                            永仰景迹
 夜泣石からの県道は坂道にカーブに車と歩きには余り適さない道だったが、旧東海道の石畳を歩くより楽に金谷駅に抜ける
事ができた。
金谷駅手前の一里塚の距離は29.6km。これでは金谷ゴールという分けにはいかない。サー次を目指そう。
金谷宿を過ぎ大井川に出て見えた大井川橋は長く見えた。同じ大井川の橋でも朝渡った谷口橋の方が短く感じたが、疲れが出て
来ている今は、長く感じるのか?

 橋を渡ると 「永仰景迹」 と彫られた大きな石碑がある。何度も見ているのだが案内板も無く意味が分からなかった。
これを自分流で解釈するなら読んで字の如く “長く景色を見ていた跡” となるのだが、そんなに長く眺めるような景色は無い。
そこで今回調べてみると辞書には “永仰景迹” も “永仰” も載っていない。ただ “景迹” は読みは 「きょうじゃく」 で意味は
「人のおこなったこと。行状。経歴」
とあった。となると私の解釈もあながち間違いではなさそうだ。
次回は石碑の裏を確認しよう。文字の解釈が書かれているかもしれない。

 
                  蓬莱橋                            大井川河川敷マラソンコース
             蓬莱橋の地図
 大井川橋の袂から河川敷のマラソンコースに入る。ここまでの歩行距離は33kmだったので島田駅をゴールにしても良いの
だが、まだ元気は残っている。それにここからは海に向かって真っ直ぐ歩くだけだ。残りの距離も橋の近くに14kmの距離標識が
立っていたので、家までは約10kmも歩けば着く計算だ。サー後一踏ん張りだ。

 木造で世界一長い 「蓬莱橋」 は歩いている人がいたが、その辺りから徐々に暗くなってきて、マラソンコースは歩く人もジョギ
ングする人の姿も見えなくなった。その暗い中を黙々と歩く。どうやら距離は40kmを超したようだが足は快調で朝と同じペースで
歩く事ができた。色々あった1年だったがこの調子を来年も引き続けられたらと思う。

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 明日元旦の天気は降水確率30%だが日の出は難しいようだ。ただ今晩の雨の予報が気にかかる。
若しかして雪? そうなれば初めての経験になる。雨が降っていない限り満観峰に行ってみよう。

安倍七観音2-9

2014-12-25 16:53:46 | 寺社遍路
歩行記録                                 2014-10-4(土)
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間20分   延時間:11時間05分
出発時間:6時05分   到着時間:17時10分
歩  数:  42、893歩   GPS距離30.9km
行程表
 静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺 2:00>

 霊山寺 
0:25> 帆掛山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅  
                             霊山寺(巴川)
 
               巴川左岸                                  帆掛山と中腹の霊山寺

 街中の道も国1バイパスを過ぎると静かな道になる。更に静かな道をと巴川沿いの左岸をこんな道を選んで歩いた。
道の脇にはセイタカアワダチソウやススキが背丈より大きくなっている。昔はススキの穂が耳に入ると耳垂れになると云ったが、
今はどうだろう? 
またセイタカアワダチソウも一時は喘息や花粉症の元凶だと云われていたが、最近では特に関係ないと云うようになっている。
理由はセイタカアワダチソウは虫媒花で風媒花ではなく、花粉が少ない上に比較的重く、形も風で飛ぶのには不適だかららしい。
私の住む町内でも、地域の住民総出で東名法面に蔓延ったセイタカアワダチソウの刈取りを行った事がある。今にして思えば
当時の生物学者は何故 「影響は少ない」 と発言しなかったのだろうか。最近でも原子力関係は、御用学者とか企業の雇われ
学者ばかりで困ったものだ。真に国民の事を考えてくれる学者はいないのか疑問に感じてしまう。

 巴川の右側は広い空地になっていて葦の茂っている。多分ここは巴川の遊水地なのだろう。グラウンドが1面作られている
だけでもったない気がする。若し水害になったときの賠償は無し、復旧も自力でやらせる家庭菜園などにしたらどうだろう。
何年に一度、いや十何年に一度の程度の水害なら希望者は殺到するのではないか。

 
                               巴川の流れ

 普段は水の量も少なくユックリした流れの巴川だが時々悪さをする。何しろ巴川の上流にある麻機沼の標高は4.5m程しか
ないのに河口までの距離が約17kmもあるので、必然的に水の流れはユックリとなる。単純に計算しても17kmで5mの勾配と
なるが、ある説では巴川の流路勾配が1/750~1/50,000しかないと説明している。
言い換えれば巴川は水捌けの悪い川で、普段はのどかで良いのだが、一旦大雨が降ると川の水は流れず、各所で氾濫する
ことになる。また巴川の水位が上がったままなので、巴川に流れ込む支流も合流部で水が溜まり氾濫や決壊を起こしてしまう。
最近では1974年(昭和49年)7月7日に起きた七夕豪雨がその代表的な例だろう。この災害を機に大谷川放水路が建設された。

 話を昔に戻します。徳川家康は駿府城を江戸や大坂と水運で結ぼうと考え、巴川河口に新たな清水湊を作りました。港から
駿府城までは巴川を利用し、上土あたりからは横内川を拡幅して駿府城まで運河を作ったのです。しかし案に相違して、この
水路は余り利用されなかったようです。
清水の街中に東西に延びた 「牛道」 と呼ばれている道があります。この道は清水湊に荷揚げされた荷を牛車に積んでが駿府に
運んだ事から名付けられた道だそうです。そうなると気になるのは水運と陸運の荷物の割合ですが、舟運が2割程度と少なく、
あとの8割は牛車に載せて運んだそうです。
何故運河まで作ったのに舟運が少なかったのか気になり調べてみると、二つの相反する説があったので紹介します。
・薩摩土手が構築されると、安倍川の流れは西に移動して、運河付近では伏流水が湧かなくなった。
・運河拡幅工事に当たり、江戸時代に書かれた 「当代記」 には「水多くして掘られ間敷」とあり、水が湧き過ぎて大規模な運河が
造れなかったと言っている。
さてさてどちらの説が真実なのでしょうか?

        
       新しい観音道の標識             洪水痕跡表示                    拡大

 新しい「観音道」の標識が有ったが何故か風情が無い。矢張りこのような物は自然石に彫った物の方が有難味が湧く。
マー無いよりはいいけど。
電柱に「洪水痕跡」の標識が有った。「昭和49年7月7日」とあるのを見ると七夕豪雨の事だ。
私の胸程の高さだが巴川からは400mは離れている。近くには1m程の小川しかないが、この川の水が行先が無くなり
溢れたのだろうか。今付近を見てもとても、こんな高い位置まで水に浸かるなど想像もつかない場所だった。

 私がここを歩いたのは10月4日だったが、この2日後の10月6日に静岡県に台風18号が襲った。
その時も巴川の水位が上り、またもや巴川周囲と巴川に注ぐ支流の各所で氾濫が起り、多くの人家に被害が出た。
このため静岡県と静岡市は大谷川放水路と別に、更に放水路の建設を検討し始めたそうです。
 2日後にそんな被害が出るなど夢にも思わず、愚にもならない事を考えながらテクテク霊山寺に向かう私です。

 
                ウワー怖!                               霊山寺参道入口
           霊山寺参道入口の地図
 霊山寺参道入口に熊 出没注意!の看板が。
静岡県内の山を歩いていて今迄に出合った獣は鹿、カモシカ、ウリ坊くらいで、時々注意看板のある猪はミミズの掘り跡程度
しか見た事がない。ましてや熊などはその痕跡にすら出合った事はない。尤もそれは幸せな事で、実際に猪や熊に出合ったら
どうなるのだろう? 逃げる? ストックで戦う? 考えるだけで恐ろしくなる。
と、云いながらクマ除けの鈴は持たずラジオも持たない困った年寄りだ。

 霊山寺参道の入口にある墓地の墓石を見ると 「大木」 の姓が多い事に気づく。これは地元の大内地区に大木姓が多い事に
よるが、この大木姓は駿河七観音を彫った大楠に因んだ姓とも云うが本当だろうか。本当ならここではなく大楠があった足久保
辺りに大木の名は多いはずだ。
 大分疲れれが出てきている脚には中々大変な参道だ。この参道に曲がり角が多いのは観音さんの 「三十三化現」 に因んで
三十三曲がりにしてあるとか。また参道入口から本堂まで6基の丁目石があるが、これも「六波羅蜜」を意味するという。
 この 「三十三化現 」とは、 「観音さんは三十三種に変化身して衆生の悩みを済度す」 こととか、この三十三により三十三霊場や
三十三間堂が生まれたそうです。
また、 「六波羅蜜」 とは、観音さんの境涯に到るための六つの修行の事で、 「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵」 を指すのだ
そうです。


                  霊山寺仁王門                             宝珠のような蘇鉄の実
           霊山寺の地図
 国指定重要文化財の仁王門の屋根の萱が葺き替えられていた。余りにスッキリしていて古さを感じさせないほどだ。
この仁王門は静岡県内で2番目に古い建物で、門内には 「蟇股(かえるまた)」 という、梁の上で上の荷重を支える材があり、
これは日本に三つしかない特異な形状の物らしいが、写真を写すのを忘れてしまった。

「鷲峰山 (じゅうほうさん)霊山寺(りょうせんじ)」 の本尊の千手観音立像は、県の文化財に指定されていて、地元では霊山寺
と云うより 「大内観音(オーチのカンノン)」 と呼ばれ親しまれている。春には桜祭りも兼ねて観音祭りが行われている。
この寺は元々は現在地より東の山にあったが、火事で焼失したため村人が用材を用意したところ、いつの間にか峰を越えた
現在地に移されていた。これは当寺本尊の千手観音が現在地への移転を望み、金剛力士(仁王)に用材を運ばせた、という
伝説が残っている。
また、観音霊場だけではなく、かつては雨乞いも行われ農民の信仰も受けていた。さらに、裏山には大きな一本松があって、
沖の漁師の目印になったという。こうしたこともあって現在も、有度・三保・興津辺りまで大内観音信仰が広がっているという。

 本堂の拝殿にあるベンチにドカと腰かけ日本平や清水港を眺める。これで何とか安倍七観音は結願したが、これから先は
どうしよう。寺の裏山の帆掛山には勿論登るが、その先梶原山はどうしよう。梶原山まで行くと静岡側の瀬名に下りなければ
ならないのでゴールの草薙駅は遠くなる。今日は空が霞んでいて景色も良くないから、このまま下山してしまおうか・・・・・・・・
大分弱気の虫が起きてきたが結論は帆掛山に登ってから考えよう。

静岡空港一周コース案内

2014-12-23 17:06:59 | ウォーキング
                        富士山静岡空港一周コース案内

 行程表
 静岡空港 <0:50 0:50> 坂口神社展望台 <0:35 0:30> 東展望台 <0:35 0:30> 八兵衛碑 <0:50 0:50>
 空港入口島田 <0:50 1:00> 静岡空港 
 歩行時間 右回り・左回り 共に3時間40分(休憩含まず)
 歩行距離 約15.5km
 富士山静岡空港時刻表(11時~16時台)
  11:25(着) 福岡  FDA
  11:30(着) ソール アシアナ(月・水・木・土・日)
  12;00(発) 鹿児島 FDA
  12;25(着) 札幌  ANA
  12;30(発) ソール アシアナ(月・水・木・土・日)
  13;05(発) 沖縄  ANA
  13;25(着) 福岡  FDA
  13;55(発) 福岡  FDA
  14;45(着) 上海  中国東方(月・水・金・日)
  15;40(着) 鹿児島 FDA
  15;40(着) 沖縄  ANA
  15:40(発) 上海  中国東方(月・水・金・日)
  16;15(発) 札幌  ANA
  16:40(発) 福岡  FDA

 駐車場  富士山空港・東展望台 共に無料駐車場有
 参考コース
  静岡空港  →  東展望台  →  坂口神社展望台  → 石雲院展望デッキ
    9:30      12:00 12:40      13:20 14:00        15:00 


        ターミナル~東展望台コース案内
  
富士山静岡空港を出発
 ①最初の信号 「富士山静岡空港」 交差点をを右折
 ②途中の左側に 「富士山静岡空港太陽光発電所」 がある
 ③左下に公園が見え、下る道がある。(トイレ有無は不明)
 ④ 「空港入口島田」 交差点を右折

 ⑤新幹線が見える旧道を行く
 ⑥ 「畑の谷の貝化石」 の看板のある 「東泉寺」 に貝の化石がある。新道と合流
 ⑦ 「空港トンネル」 信号は直進し、次の交差点を右折。正面に 「喫茶 カオ」 の看板がある
  
 ⑧ゴルフ場横の坂の途中にドコモの基地局あり、その先道は右にカーブする
 ⑨5差路の右から2番目の道に入る。一番右はゴルフ場コース管理への道
    
 ⑩5差路より800m右の 「消火器販売営業所(休業)」 の先を右折。角に中電柱 「68テ 854」 有
 ⑪茶畑の中の道を400m行った先の分岐を右に行く(右の防霜柱に赤テープ有)
 ⑫民家のある道を左折する
 ⑬右にある 「川中島八兵衛碑」 と 「秋葉神社」 の常夜燈の先を右折する
 ⑭右折するとすぐ分岐があるので そこを右折する(右の電柱に赤テープ有)
 ⑮再度すぐの分岐を左の林の中の道を行く
 ⑯富士山や初倉の街が見えた後、上の茶畑に出たら両側茶畑の右の道に入る
 ⑰ 「リサイクルセンター」 からの道に合流したら右折し、道なりに登って行く。左下にリサイクルセンタの煙突が見える
 
 ⑱飛行機の誘導路の始(終)端がある
 ⑲飛行場地域に入り、左右草原の中を行くとフェンスにぶつかるので鋭角に左に行く。
  この辺りは離着陸する飛行機の横が間近に見える
 ⑳ 「東展望台」 に到着。東屋、ベンチ、トイレがある。


       東展望台~ターミナルコース案内
  
東展望台を出発
 ①東展望台から南に下る道を行く。
 ②左に 「山道入口」 の標識が有る。入口は雑草があるが林の中は歩きやすい山道
  出口も日の当たる部分に雑草がある。標識もあり車道に出たら左に下る
 ③車道を少し下った所の溜池堤防の所を右折し、突き当りを右折する。共に標識がある。トイレ有
 ④ビオトープの看板有。直進は 「竹林コース」 で、左は階段を登る 「マンサクコース」 になる。ここから再度山道
 ⑤マンサクコース入口の階段を登り尾根に出たら右折する。左にマンサクがあるらしいが未確認
 ⑥竹林コースとマンサクコース合流。どちらでもあまり変わらない
  踏み跡は幾つかあるが全て合流する。ただし逆コースで竹林コースを行く時は左寄りの道を取ること
 ⑦草原になった山頂部分を更に行くと手製のベンチがある 「坂口神社展望台」に到着
  フェンスに沿って5mも行った所にある急な階段を下る
 ⑧坂口神社にはトイレあり。神社の西側に行けば車道を下り、神社正面に行けば階段の参道になる
   
 ⑨坂口神社の階段を下り、下の道に合流したら右折
 ⑩4差路の上に行く細い道は神社に続く車道。右が民家へ。左の太い道の方へ行く
  トンネルに行く太い道を横断して正面の細い道を道なりに西に行く

 ⑪太い道に出たら右折して少し行くと 「高尾山石雲寺」 の看板がある
 ⑫メインの太い道は左に曲がるが石雲院の石碑の横の車道を直進する 

 ⑫-1左折して赤い龍門橋を渡る
 ⑬「龍門山」の石碑が建つ石雲院の参道に入る
 ⑭階段を登り石雲院の山門に出たら右に曲がり、下から来る車道との分岐を左の登り道を行く
 ⑮飛行場のフェンス横の道に出ると左にトイレがある。右に行けば「石雲院展望デッキ」で、左に行けば「ターミナル」

     **************************************************************************
 ブログを見た先輩から 「いくら紹介してくれたって、あんな小っちゃい地図では歩けない」 と苦情がきた。
細かい案内はHPと思っていたが、そう云われちゃぁ知らん顔も出来ない。ともかく地図だけの案内を作った。
先輩 「これで分からなきゃ 一人で歩くのは止めた方がいいよ」 と返したい。

静岡空港一周ウォーク(逆回り)

2014-12-21 17:51:54 | ウォーキング
歩行記録                                 2014-12-19(金)
歩行時間:3時間20分   休憩時間:2時間20分   延時間:4時間40分
出発時間:9時20分   到着時間:14時00分
歩  数:  20、458歩   GPS距離15.4km
行程表
 八兵衛碑 0:50> 空港入口島田 0:50> 静岡空港 0:45> 坂口神社展望台 0:25> 東展望台
 0:30> 八兵衛碑 



 雨戸を開けると雲一つない空に富士山が浮き出ていた。昨日の冷たい強風は嘘のように風も治まっていて、これじゃ何処か
富士山を見に行かなくちゃぁ。ならば前回富士山が見えなかった静岡空港がいい、と家から歩いて行く事にした。
 前回は静岡空港の東展望台に車を置いて時計回りに坂口神社に向かって歩いたが、今日は先ず家から八兵衛碑まで歩いて
そこから反対周りに空港入口島田交差点を目指そう。そうすれば空港一周ウォークの歩行データも取れる。

 
           翔(はばたき)橋から                               翔(はばたき)橋から
 大井川に架かる一番新しい橋のはばたき橋は名前のようには中々はばたかなかった。空港開港に合わせて開通する予定
だったが、一人に地権者の反対で開港後4年経った昨年開通したばかりだ。尤も飛行場用のための橋だったが空港の需要が
県の予測を大幅に下回り、橋が開通しなくても何ら問題は生じなかったのはお笑いだが。
開通後の今は飛行場の為ではなく、もっぱら国道150号の渋滞緩和の役に立っている。

 
           川中島八兵衛碑                                茶畑と富士山
          川中島八兵衛碑の場所
 川中島八兵衛碑は牧ノ原台地の東端の下部にあり、ここからはどちら周りでも台地への上り坂になる。
空港一周コースと云うと滑走路の周りの平坦なコースと思われそうだが、ここの空港は台地の上にあるので滑走路の周囲は
アップダウンの道が続いている。コースの中の主な低地高台をピックアップすると
川中島八兵衛碑(25m) - ゴルフ場(65m) - 空港入口島田交差点(38m) - ターミナル(132m) - 坂口神社下(22m)
 - 坂口神社展望台(129m) - ビオトープ(41m) - 東展望台(122m)
この程度の高低差は山の事を考えれば大した事はないが、飛行場一周ウォークと甘い気で歩くと驚く事になります。
距離も一応15kmを越すのでJRのさわやかウォーキングより大変なことは確かです。

           
                   ビック(リ)タイヤ
          空港入口島田の公園
 県道の空港入口島田交差点の西側に公園がある。以前歩こう会でここに来た時はトイレがあったと思ったが今日は判からな
かった。無いのかな? 代わりに今まで気付かなかったビック(リ)タイヤを見つけた。高さが5.1mもあり、タイヤ1本の値段が
220万円もして、このタイヤを付けたダンプカーは1億6千万円もするそうだ。案内板には書いてなかったが、このダンプカーが
静岡空港でも活躍したのだろうか。

 ここからの県道の登りは、このコースの中で2番目に厳しい場所で、1人のときは県道の途中に出る寺のお墓の中の道を歩く
事が多いが、今日は歩行データを取りたいので公園から県道に出て登る道を歩く事にした。
この歩行データを整理してHPで空港付近のウォーキングコースとして紹介しようと思っているのだが何時になることやら。

 
          富士山静岡空港太陽光発電所                         除草山羊

 昨日のTVで静岡空港太陽光発電所開所のニュースを見たが、川勝知事も参加した盛大な竣工式のようだった。
ここの発電量は約164万KWhで一般家庭の約330世帯の年間電力消費量に相当するそうです。
だが固定価格で全量買取する筈だった電力会社が、太陽光は発電が平準化されないので全量買取でなく電力会社が必要な
だけの買取しかしないと言い出している。ここの事業会社は「国が何とかしてくれるだろう」と思っているようだが、果たしてどう
なる事やら。私流に解釈するなら、全ての原発が停止し全力不足の恐れがでてきたため、慌てた政府が甘い計算で長期に亘る
全量買取を約束したことが発端なのだから、矢張り政府が何とかしなければならないと思う。
実は我が家も3年前に少量の太陽光発電設備を屋根の上に乗せた。1KWH時42円の売渡価格で元を取るには10年はかかる
計算だ。それが買取停止や価格引下げになっては元を取る前に経年劣化で補修費用が掛かってしまう。そうならないためにも
言い出しっぺの政府には責任を取って欲しいのは私も同じだ。

 メガソーラの施設から4・5頭のヤギが女性に追われて出てきた。何をするのか気になって聞いてみると
「除草用です」 と返ってきた。そうかヤギに雑草を食べさせて草取りをさせるのか。まさに 「エコ発電」「エコ除草」 だ。
以前何かで読んだがヤギに草を食べさせると根こそぎ食べてしまうので牧草地に向かず。ヒツジは草の上しか食べず、
また草の好き嫌いが多いので除草用には向かないとあった。
よく見ると乳房が乳で膨らんだヤギが何頭かいる。あの乳を搾ってバターが出来ないかしら。いま家庭用のバターが不足している
らしいので丁度良くはないか。イヤイヤわざわざバターにしなくてもそのまま飲んだろどうだろう。
私が子供のころは近所の農家でヤギを飼っていて、ヤギの乳搾りはヤギを狭い台に乗せ、支柱に4本の足を縛って乳搾りを
していた。確か飲んだ事はあったと思うが味は忘れてしまった。でもヤギ臭いと言ってたような覚えはある。
尤もヤギ臭いってどんな匂いなのかも覚えていないが。
何処に連れて行かれるのか軽トラに乗せられれヤギは 「メー」 と一声鳴いて去って行った。

 
            石雲院デッキ山名案内板                           石雲院デッキより     
          富士山静岡空港の場所
 静岡空港に11時10分に到着。何時もの事でターミナル内には入らずそのまま石雲院の展望デッキに向かった。
この展望デッキは去年完成したばかりの時に来て視界の広さに驚いた。以前の展望台に比べて倍以上視界は広くなっていた。
だが折角広くなり幾重にも連なる山も見えていたが、それらの山の名前が分からなかった。どうせ展望デッキを作ったのだから
「山名案内板」 を作ったらどうかと県に提案してみると、 「既に検討中です」 と答えが返ってきた。
これがその山名案内板です。中々見やすいですよ。

 次の飛行機は11時25分と30分の着陸便がある。それを見てから先に進もう。
25分の飛行機は福岡からのFDAの飛行機で予定より5分早く着陸をした。富士山をバックにして飛んでいる飛行機を写した
かったが、ここからは既に着陸した後で飛行機しか写せなかった。次の歩行機はどうだろう。だが30分過ぎても次の飛行機は
来ない。40分まで待ったがまだ来ないので痺れを切らせ時刻表を再確認すると、韓国から来るアシアナ機は週5便で金曜日は
運休日だった。チェッついてないな。

          
                     石雲院                              坂口神社
 石雲院では誰とも会わず 「龍門院石雲院」「高尾山石雲院」 のどちらが正しいか聞く事は出来なかった。
お蔭で宿題はそのまま継続してしまった。
 今回は途中にあったミカンの無人販売で1袋買ってみた。しかしカメムシに刺されたのか何ヵ所もイボの様な物があって
剥きにくく、かつあまり美味しくなかった。

 この一周コースで一番の難所は、坂口神社の階段参道から展望台までの上りで、100m差を一気に登る。途中に2ヶ所の
階段もあるが距離が短いのが救いだ。

 
             坂口神社展望台より                           安倍奥の山
          坂口神社展望台の地図
 長いレンズのカメラを持った人が数人いたので、 「次の飛行機はいつですか?」 と聞くと 「すぐ来ますよ」 との返事。
ラッキー! ツイテいる。 時刻表を写した写真で確認すると次の飛行機は12時25分着の札幌からのANAの飛行機だった。
その飛行機は5分遅れで着陸。
もう少し飛行機を富士山の上にしたかったがマーこれ位で満足しないと。周りのカメラからは連写の音が聞こえる。かたや私の
カメラは連写も利かず1枚写すと次までに間があり飛行機はレンズから離れてしまう。ともかく1枚が勝負だから仕方ない。
 
 昼飯を食べ終わり次の飛行機を確認すると、13時5分の離陸便だった。今12時45分で後20分ある。ここでその飛行機を
待つか、それとも次の東展望台で見るか。だが後20分で果たして間に合うかどうか。
時間も勿体ないのでともかく挑戦しようと、近年まれにみる早足で尾根道をビオト-プに向かった。

 
              ビオトープ                                  大島が見えています
 今日は風も無く小春日和のような陽気なので溜池には太公望が沢山いた。茶いく濁った溜池で釣れるのは鮒なのか。
きっとキャチアンドリリースとか云って釣った魚を逃がしているのだろう。全く気が知れないと思うのだが、太公望たちも私を見て
「いい年をして、全く気が知れない」 と思っている事だろう。

 東展望台すぐ下の山道の出口で1時になってしまった。だが飛行機の音は聞こえない。まだ間に合いそうだと速度を落とさず
農道を展望台に向かって急ぐ。何とか間に合った。と思う間もなく離陸音が聞こえてきて、立ったままカメラを上空に向ける。
だがカメラに飛行機が入ってこない、と思っているうちに足元がふらついてしまった。急ぎ足のあと真上を向いたのでふらついて
しまったようだ。飛行機は既に遠く離れてしまった。

 次の飛行機は13時25分の福岡行だ。それを見てから帰る事にしよう。
時間もありフラフラ辺りを見ていると海の中に島影が見える。肉眼では薄く見えるが私の安いカメラでは写るかどうかだ。
ともかく写してみた。案の定PC上でも島影は薄くて分かりずらかったので濃淡を調整して何となく分かる程度になった。
上の夜の様な写真の右上に島影が見えませんか。
しかしこの島は何島だろうか。地図で見れば大島は伊豆半島に隠れて見えない筈だ。利島は伊豆半島の先端のすぐ横だし
見えた島は大海の孤島にしか見えない。となると新島、式根島、神津島は固まっているので違う。
結局島名は分からず終いになってしまったが、次回は方位磁石で角度を測り再度地図で確認しよう。

 
               離陸したばかり                     何とか下から
              静岡空港東展望台の地図
 25分の飛行機は先ず離陸したところを1枚写し、座ってカメラを構えバッチリ写し終えた。
東展望台からは富士山が見えないが、例え見えたとしても余りに真下過ぎて、富士山と飛行機は同時には写せないのだから
これで上等だ。
今日は石雲院展望デッキからは滑走路を行く飛行機と富士山。坂口神社展望台からは富士山の上を飛ぶ飛行機。そしてここ
東展望台からは飛行機を下から写す事ができた。
どうですか三種三様な飛行機の写真を撮る事できるこの一周コースは。一度歩く価値ありですよ。

 東展望台から八兵衛碑までは下りの農道歩きで、茶畑越しの富士山が見えます。

安倍七観音2-8

2014-12-17 11:36:39 | 寺社遍路
歩行記録                                 2014-10-4(土)
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間20分   延時間:11時間05分
出発時間:6時05分   到着時間:17時10分
歩  数:  42、893歩   GPS距離30.9km
行程表
 静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺
 2:00>
 霊山寺 0:25> 帆掛山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅 

 
                       霊山寺(久能道)

        
          久能寺観音道道標         静岡駅前の久能山東照宮案内
          道標の場所
 鉄舟寺からは太い車道を避けて山沿い、と云っても西にある日本平の付根の道は百地蔵で歩いて
いるので、今日は1本外側の道を歩く事にした。このどちらかの道がかっては「久能道」と呼ばれた道
らしいが、どちらの道も古道らしき面影は感じられなかった。しいて言うなら山際の道の方が誓願寺、
楞巌寺、玉泉寺、東海寺、能満寺などの寺があり面白味があるかな。

 旧東海道に出て少し西に行った所に「久能寺観音堂」の道標が建っていて、案内板には
「安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺
観音堂は、この平川地から有東坂、矢部、妙音寺、鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道の事で
ある。 有度まちづくり委員会」
とあった。
 普通に読めばそれだけの案内板だが、私は文中の妙音寺に引っかかってしまった。
何故久能寺の手前にある妙音寺村が旧東海道に久能寺の道標を建てたのか? そもそも妙音寺村は
何処にあったのか? 
地図で探してみると平川地、有東坂、矢部などの地名は今も残っていたが、妙音寺は地名も寺も見当
たらない。鉄舟寺近くには---- アッあった!
鉄舟寺前の県道脇に 「妙音寺自治会館」 が、その県道を少し行った所には妙音寺バス停もありました。
たぶん江戸時代にはこの辺りに妙音寺村で妙音寺が建っていたのでしょう。
しかしこれでは何故妙音寺村が旧東海道に道標を建てたかは判りません。さらに調べていくとこんな
興味深い説に辿り着きました。
「古来有度山北東部は大沼、船越堤、上原堤など今でも名前の残る湿地帯だった。当時妙音寺村では
大沼の渡しの権利を持ち、旅人や農民を大沼の対岸に渡す稼業をしていた。
ところが今川の末期、。甲斐の武田がこの地を制すと盛んに開拓を行い、湿地や沼は埋め立てられて、
次第に農地として開墾されていった。そのため妙音寺村では家業の渡しが出来なった。
妙音寺村は更に不幸が重なり、久能山山頂にあった久能寺が武田の砦を作るため強制移転となり、
その移転先が妙音寺村だったのです。
土地も仕事も無くなった妙音寺村だったが、徳川が駿府を治めるようになると、新たに安倍川の渡しを
行う事になり、その仕事を渡しに慣れている妙音寺村の住民に任せる事にした。
そのため妙音寺村の住民は安倍川の西岸に移住させられ、安倍川の渡しに従事するようになった。
そして村内には新たに妙音寺を建造した」
のだそうです。
確かに安倍川西岸の安倍川橋近くには今でも妙音寺と云うなのお寺は建っている。だがこれだけでは
妙音寺村が東海道に道標を建てた理由にはならない。
話はさらに続く。
「村は移転しても移せないものがあります。それは先祖のお墓です。つまり久能寺観音みち道標は新た
な妙音寺村の人々がお墓参りのみちの道しるべとして建設したのではないでしょうか?」
と閉めてある。

 この様な説は私の妄想的歴史観に若干似ていて大好きなのだが、少し気になる点もある。
先ず大沼の渡しをやっていた妙音寺村だが、大沼が開拓され農地になったのなら、そこを耕せば渡し
稼業より安定した生活が送れただろう。
更に大沼の渡しは舟で人や荷を対岸に運んでいただろうが、安倍川は舟は使わず人による“川越”
“渡し”ではない。
更に言うならば、武田の駿河進攻で今川が駿府から逃げ出したのが永禄11年(1568)。その武田も
天正11年(1582)滅亡してしまった。世の中が落ちつき将軍を譲って駿府に来た家康が、薩摩土手を
築いたのが慶長10年(1605年)で、この時初めて安倍川の流れは現在の流れとなった。
この間約40年もあり、大沼の渡しを家業にしていた人達は皆年を取ってしまった。一方農地は40年
も耕してきたのだから土地も肥え愛着も湧いていただろう。果たして簡単に安倍川へ移住できたか?
マー疑問はあっても面白い説だと思う。特に道標が子孫の墓参りのためだったとは泣かせる話だ。
      妙音寺自治会館の場所           安倍川西岸の妙音寺の場所

 話がまたまたおかしな方向に行ってしまったので久能道に戻そう。
昨年百地蔵を歩いているとき静岡駅南側の八幡山の麓で久能道の道標を見た覚えがある。場所から
いって清水の久能寺(現鉄舟寺)とは考えられないので、久能山の久能寺の遍路道だったと思われる。
ならば武田信玄の駿河進攻よりも前の道標ではないか、と思い写真を探したのだが見つからない。
写したと思ったが写さなかったのだろうか。
代わりに出てきたのが静岡駅南口に建っている 「久能山 東照宮」 の記念碑の写真だった。
これには 「従是 貮里拾壹町」 とあるから、久能山の道標の一種と考えても良いのかもしれないな。
この立派な記念碑は 「大正四年四月十七日」「三百年祭 奉齊會」 とあるのを見ると、久能山が今年
「久能山東照宮御鎮座四百年」
と盛んに宣伝し、静岡市も 「徳川家康没後400年」 の催しを行っていた。
その300年の時にこの記念碑を建てたのだろう。
ここでまたまた屁理屈を。この記念碑の大正4年は西暦で云えば1915年。今年は2014年。
因みに徳川家康は元和2年4月17日に亡くなっている。西暦なら1616年。マー大正時代は“満”とか
“数え”等があるので置くとしても、今年の没後400年は数が合わないのではないか。
下衆の勘繰りで云うならば、昨年久能山東照宮が国宝に指定されて、上がった熱を冷まさないために
早めたのではないかと。     間違っていたらご免なさい。

大崩山塊富士山競演

2014-12-15 12:02:18 | ウォーキング
歩行記録                                          2014-11-14(日) 
歩行時間:4時間25分   休憩時間:0時間55分   延時間:5時間20分
出発時間:9時10分    到着時間:14時30分
歩  数:     歩     GPS距離12.2km
行程表
 安倍川駅 1:00> 丸山展望台 0:10> 徳願寺 0:15> 手児の呼坂 0:50> 芹ヶ谷峠下農道出合 0:30>
 芹ヶ谷峠 0:30> 朝鮮岩 1:10> 安倍川駅 

 今回の近所の人とのウォーキングは初夢のネタ探しとして、大崩山塊から富士山の展望の良い場所を
巡る事にした。大崩山塊から富士山となれば満観峰を欠かす事は出来ないが、それは月の1回しか歩か
ない仲間には強行軍過ぎる。それでなくても「長すぎる」と文句を言われているのだから。

     

 安倍川駅から雪煙を上げている富士山がバッチリ見えている。
何時もならここで写真を1枚写すのだが、今日はこの先もっといい富士山が待っているので、そのまま
パスして最初の目的地丸山展望台に向かう。

 今日の仲間は丸山展望台は初めてなので、さぞ感激するかと思いきや、皆冷静で写真すら写さない。
眼下には安倍川は新東名の橋を初めに、狩野橋、国1バイパス、安西橋、安倍川橋、駿河大橋、静岡
大橋、東名の橋が見えている。河口には風力発電のプロペラが回っているのも見える。
濃紺の駿河湾の先には伊豆半島の山並が続き、その先端の波勝崎が海に没している。
正面を見れば風が強いのか富士山の斜面に雪煙がへばりついているように見える。その横には夏に
登った愛鷹山も見ている。こんな眺めに一人私は嬉しがって写真を写していた。

 農道を登って徳願寺へ。丸山展望台を知る前は、ここからの眺めに感激したが、たった今素晴らしい
眺めを見てきた目には左程の感情は湧かなかった。これが目が肥えるという事か?
次に寄った万葉の古道・手児の呼坂は景色は見えないが、歴史的に興味のある所なので、私が 「この
道を源頼朝達が通った」
と説明するが余り興味を示さない。普通はこんなものなのかしら? 
何でも興味津々になる私が異常なのか?
でも景色にも歴史にも興味が湧かなければ、ウォーキングの楽しさは半減なのに・・・・・

 芹ヶ谷峠下の農道出合の所の富士山は、それでも 「さっきの景色のが良かった」 との声が上がり、
何となくホッとした。私もそう云われればそうかともしれないと納得したが、ここに初めてきた時は感激
して写真を撮りまくったのだが。
 農道から送電塔の点検路の山道に入る所が少し荒れていたが、踏み跡もあり私は全然気にならな
いのだが、仲間たちは 「道なき道だ」 と興奮していた。
確かに雑草の生茂った時期は踏み跡が判らなくなるので避けた方が良いだろう。
連れの一人が慣れない道に疲れたのかペースが大分落ちてきた。
この芹ヶ谷峠は初心者には無理だったのかと反省した。

 想定した時間を30分ほどオーバーして朝鮮岩に到着。富士山の山頂部分は時折雲はかかるが
素晴らしい姿を見せていた。すると一人が 「俺はここの富士山が一番だ」 と云うと すかさず 「俺は
丸山展望台からの方のが安倍川も一望できて好きだ」
との意見も出た。ソーそうこなくちゃー 。
少しは景色の話で盛り上がらなければ登った甲斐が無い。

 安倍川駅に2時半到着。
今日のウォーキングは、第1目標の富士山の眺めがバッチリだったので、自分としては良かったと
思ったが、次回からはコース設定にもっと注意しようと反省点も生まれた。


 家に帰り早速PCに写真を取り込もうと、メモリを出すためカメラを蓋を開けた。
アレー! 無い。メモリが無い。そんな-。慌ててPCのスロットルを触るとメモリが入っていた。
以前百地蔵のときもメモリを忘れたが、その時は1枚目の写真を写すとき気が付いた。それを今日は
2・30枚も写したのに最後まで気が付かなかった。
試しにメモリを入れないまま写してみると、写す前に 「カードがありません」 と出て、撮影後には
「記録できません」 と表示される。
ウーン! メモリを忘れる事は無きにしも非ずだが、何枚も写していて、この表示に気が付かないなんて
いよいよアルコール性痴呆症に加えて老人性痴呆症の症状も出てきたのか・・・・・・・・・・・・・・

安倍七観音2-7

2014-12-14 16:06:55 | 寺社遍路
歩行記録                                 2014-10-4(土)
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間20分   延時間:11時間05分
出発時間:6時05分   到着時間:17時10分
歩  数:  42、893歩   GPS距離30.9km
行程表
 静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺 2:00>
 霊山寺 
0:25> 帆立山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅 

 
                       鉄舟寺(宝物館)

   
                        徳川家康の位牌
 徳川家康は自分の死後について遺言で 「遺体は駿河久能山に葬る事、葬礼は江戸増上寺で行う事、
位牌は三河大樹寺に立てる事、一周忌が過ぎたら下野日光山に小堂を建てて勧請せよ」
と遺している。
その遺言通り岡崎市の大樹寺には家康の背丈と同じ159cmの位牌があるという。
しかしこの位牌も大樹寺が安政の火災で焼失しているため、家康の十三周忌に尾張藩主が調進した
ものだそうです。
そうなるとここの位牌は何だ? 尤も位牌に偽物、本物があるかどうかは知らないが。

 両脇の仏像は日光・月光菩薩だそうです。薬師如来の脇侍の日光・月光菩薩は遠江四十九薬師で
沢山見てきたが、これだけ損傷していると私には判断できなかった。表情は穏やかで自然体で立つ
姿は良いが、余りに損傷がひどく小さな子供が見れば 「幽霊だ」と泣き出すかもしれない。

   
       高橋泥舟               勝海舟             山岡鉄舟

  「幕末の三舟」 の書が展示してある。三舟とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した、幕臣の
高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟の事だが、この3人の関係が面白い。
高橋泥舟は槍の自得院流開祖の山岡家の次男と生まれるが、母方の高橋家の養子となる。その後、
山岡家の長男が早世したため、山岡家に残る娘の婿養子に迎えたのが山岡鉄舟だった。故に鉄舟は
泥舟の義弟になる。
 勝海舟は当初駿府での西郷隆盛との談判を高橋泥州に依頼したが、泥舟は徳川慶喜の庇護で江戸
を離れることが出来ず、義弟の山岡鉄舟を勝に推薦して実現した経緯もある。
また泥舟は鉄舟が被害を被った相良油田の負債返済にも協力している。さらに静岡県との関係では徳川
宗家の駿府移住に伴い、藤枝田中城の最後の城主(代官)にもなっていた。

 勝海舟と静岡を結ぶ話は特に見つからなかったが、今日最初に寄った沓谷の蓮永寺には海舟の母親
と妹の墓があった。海舟の親と云えば父親の勝小吉が有名だが、小吉の墓は東京青山霊園にある。
その妻の墓が何故静岡に? 
 妹順子の墓も不思議だ。順子は幕末の思想家・佐久間象山と結婚していたが、京で象山が暗殺され
ると、子供の居なかった順子は母親と同居したのだろう。
しかし海舟が静岡に移住していたなら母親がそれに伴ったとも考えられるが、海舟は静岡に移住して
いない。それでは何故静岡に墓があるのだ。いつか蓮永寺に行ったときに寺で聞いてみよう。
マーそんな話はともかく、三舟さんは共に武術も書も優れていたようです。

 ところで薄墨の笛は何処にあるのだろう。と、探したが笛は無くこんな張り紙があった。
「源義経 牛若丸時代から愛用したとされる横笛 800年の風雪に絶えて奏者を得ればいまだにさえた
音色をおしむところがない 横笛は予約なしでは見れません」

 絶えて?耐えてじゃあないのかな? そんな事はどうでもいいが、予約なしでは見れないなんて
これは詐欺だ!
山門横の受付に戻り 「薄墨の笛を見たかったのに展示されてないかった。」 と言うと。受付の老人は
「ここに書いてあります。」 と山門外側の所にあろ貼紙を案内した。
そこには宝物館の中と同じような事が書いてあったが、こちらは“耐えて”になっていた。
受付の人に文句を言ってもしょうがないが、貼紙の場所が山門を潜ると目に付かない所なんて-----
 それより気になったのは同じ場所に山岡鉄舟の略歴が書かれていて、その中に鉄舟が駿府の西郷に
会いに行く場面が 「朝敵 徳川慶喜の家来山岡鉄太郎まかり通る」 と名乗って動ずるところが無かった
と書いてあった。そうなると前回紹介した 「薩埵峠で官軍に行く手を阻まれ、地元の料亭望嶽亭に逃げ
込んだ鉄舟は、清水次郎長に助けられ舟で清水に渡り、身なりを整えてから駿府の次郎長の知人宅に
行き、そこで西郷隆盛の会見した。」
と紹介したのは間違いだったのか。でも望岳亭には証拠の短銃も
あるというのに。
 
                       霊山寺(杉原山)

      
      言い成り地蔵尊           杉原山入口          徳富蘇峰顕彰碑
      言い成り地蔵尊の場所        杉原山の場所
 昨年遍路した駿河一国百地蔵の中で一番手入れがされ、今でも参詣者が多い 「言い成り地蔵」
お詣りに寄る。“どうか脚力が維持できますように”
お詣りをしていた女性に杉原山の話を聞くと
「わたしは杉原山から見た景色が一番だと思います。道も近所の人が歩きやすくしたので是非行って
みてください。」
と進めてくれる。それでは行かねばならぬと、円空仏と木喰仏らしき木像が安置されて
いる 「杉原山虚空蔵堂」 の手前から山道に入った。
 なるほど先ほどの女性が言ったように、色付いたミカンの横の道はコンクリの簡易舗装がされていて
歩きやすく、5分もかからず杉原山に到着した。

 
              杉原山山頂                       山頂から眺め
 杉原山山頂は顕彰碑と共に桜も植えられていた。これらも簡易舗装や案内板などを含めて、すべて
地元の人達の好意なのだが、折角の景観を桜の枝が隠し始めている。1年を通し10日程の花のため
残りの日々は眺めの邪魔をしている。どうせ桜を植えるなら眺めの反対側に植えて、視界を邪魔しない
ようにくれればと思うのは私だけだろうか。

 徳富蘇峰の顕彰碑は無知な私には読むことができなったが、ここに蘇峰の顕彰碑を建てた理由は、
蘇峰が日本平で富士山の眺めの良い場所に吟望台、鍾秀台、超然台、望嶽台と名付けたが、他にも
「徳富蘇峰が杉原山からの眺望を絶賛し、「富士見台」と名づけ望嶽. の詩碑を建立した。」(静岡市観
光基本計画概要)
とあった。
碑文の中に富士見台の文字は見当たらなかったが、多分富士山の眺めを褒めているのだろう。

  
 下山の途中から見えた景色で、薄く見える山の向う側に富士山が見えるのだろう。
前回の安倍七観音で丸山花木展望台から見た景色に比べると・・・・・・・・・・

ダイラボウ周回

2014-12-12 11:04:12 | 低山歩き
歩行記録                                       2014-11-8(火)
歩行時間:3時間25分   休憩時間:0時間25分   延時間:3時間50分
出発時間:8時20分    到着時間:12時10分
歩  数:     歩     GPS距離11.8km
行程表
 小園芙蓉庵 0:50> 西又峠 1:00> ダイラボウ 0:25> 富厚里峠 1:10> 小園芙蓉庵 


                     藁科川狩野橋からダイラボウの落とした石

 先月安倍城址に行く途中、藁科川で地元の人に眺めが良いと聞いた 「ダイラボウ」 に行ってきました。
一風変わった名前のダイラボウとは、山頂にあった案内板で紹介します。
「むかし、「だいらぼう」 という大男がおりました。富士山をつくると言って琵琶湖の土を大きなもっこに入れ
て運びました。大男は富厚里(ふこおり)山の上から水見色の高山(たかやま)へと一跨ぎに歩きました。
その時の足跡があるので 「だいらぼう」 と名付けられました。
木枯しの森と下流の舟山は、その時もっこから零れ落ちてできたものだとと言われています。」

ダイラボウの西側に矢張り巨人伝説が残る 「びく石」 と言う山があるので紹介しておきます。
「日本各地に巨人伝説が伝わるダイダラボッチが、琵琶湖から土をモッコ(背中に背負って運ぶ道具)に入
れて運ぶ途中、大井川を跨ぐ時に躓いた。モッコから落ちた石が転がり落ちた石ころが、びく石の山頂に
群れる岩石群という。」

 こうして見ればダイラボウとは、巨人伝説で有名なダイダラボッチの別名なのだろう。ダイダラボッチを漢
字で書くなら「大太郎法師」とか。「ダイ=大 たら≒太郎 ボッチ≒法師」 で何となく納得できる。
だが近くの山だというのに、お互い無視をしているのは何故だろう? 

       

 山頂への道は南の西又峠と北の富厚里峠からハイキングコースがあり、どちらも1時間程度で登れ
そうだ。だがそれでは余りに距離が短く面白くない。と云っても峠から峠の往復も何か馬鹿らしい。
そこで西又峠の道を岡部側に下がってみると、なんとそこには百地蔵でお詣りした芙蓉庵があった。
なら焼津駅から歩いて 西又峠-ダイラボウ-富厚里峠-安倍川駅 のコースが考えられる。と調べて
みると往復で36km程度になる。昨年までなら丁度良い距離と挑戦しただろうが、まだ本調子でない今は
二の足を踏んでしまい “往復10時間以上になり、到着が暗くなってしまう” と弱気の虫に取りつかれて
しまった。
なら仕方ない、岡部小園の芙蓉庵に車を置き 西又峠-ダイラボウ-富厚里峠-芙蓉庵 の推定13km
の短距離コースにしよう。          

 
                茶畑に霜が降りていた              峠の地蔵
           芙蓉庵の場所
 芙蓉庵の境内に無断駐車して出発した時の気温は6℃で、日影の茶畑の上には薄っすら白っぽい霜が
降りていた。暖かい車から降りた体は寒くて、自然に早足になってしまう。それでも峠のお地蔵さんまで
歩くと体は温まってきた。

 ここまでは一度歩いた道だが、ここから先は初めての道になる。県道と言えども道は細く林道に毛が
生えた様なものか。民家は無く途中に養鶏場が2軒あっただけだった。


              静岡市の標識                  西又峠(静岡側から)
 藤枝と静岡の境を過ぎたのに道は登り勾配が続いて、峠は出てこない。なのに民家が見えてきた。
何かしっくりしない感じで、普通なら峠や川を境に市や県の境は設定されるのに、ここではまだ峠に
着かない前に境界があった。
 山梨と静岡の県境のある籠坂峠も、ここと同じように峠から少し静岡県側に下がった所が県境に
なっている。あれは戦国時代甲斐の武田信玄の勢力が強かった名残だと聞いた事がある。
ここの西又峠も同じように駿府の力が強くて岡部側に入り込んでいたのだろうか。
 道は何故か静岡市に入ると広く良くなってきた。県道なのに市によって待遇が違うのか? 
いやきっとここの集落の人の生活圏は岡部側でなく静岡側なので道が補修されているのだろう。
 2車線の県道が下り坂になった所にダイラボウの案内板が立っていた。ここが西又峠だろう。
 
        
        姫紗羅                 朴の木               小楢(こなら)
 道路の法面の急な坂を登りきり尾根道に入ると、所々の木に樹名表示が付いていた。
木や花の名前を覚えたいが中々難しく植物辞典を持ち歩いていても判断がつかない場合が多い。
その点このように名札が付いていると一目瞭然で非常に助かる。
姫紗羅は木肌に特徴があるので一目見て分かるが、夏咲く花はまだ見た事がない。
朴の木も大きな葉と白っぽい幹肌で葉が付いていれば判断できるが、これも花は見た事はない。
一方小楢はこうして見れば、何となく分かった気になるのだが、似たような幹肌が多くて名札が
無いと分からなくなってしまう。
他にも 「円ら椎(つぶらじい)」 などもあったが初めて聞く名前だった。説明に 「ドングリは丸くて小さく
味はいい」
とあったので上を見上げたがドングリは付いていなかった。残念!

 
   ダイラボウ山頂広場(足跡の地?)                  小人と富士山
 西又峠から1時間で山頂に着いた。西又峠の案内に山頂まで70分となっていたので意識してしまった。
以前ならコースタイムに70分とあれば凡そ50分程度行けるだろうと判断していたが、今は案内タイムで
歩ければヨシ!としていた。それが60分で歩けたという事は少しは体調が改善してきたのか、それとも
案内タイムが優しいのか・・・・・・・・
 
 山頂は広場になっていて小屋のある中央部分が凹んでいる。これがダイダラボッチいやダイラボウの
足跡なのだろうか。それにしてもこの凹みからダイダラボッチを想定した人の発想力は凄い。
興味を覚えたのは隣の山のびく石の巨人伝説と、ダイラボウの巨人伝説のどちらが早く言い出したかだ。
多分びく石の方が先だろうが、負けず嫌いな駿府側の住民はダイダラボッチの名前を使わずに、新しく
巨人名をダイラボウと名付けたのだと、私の妄想的歴史観は訴えている。
 何故か知らないが白雪姫と7人の小人たちが切株の上に乗っていた。巨人対小人そんな事かな。

 
            竜爪山(?)と富士山               藁科川に架かる新東名
 山頂にはバイオトイレやベンチも設置され、更に東側部分の樹木が伐採されているので眺めが良い。
富士山は勿論のこと藁科川を中心に静岡市街や日本平、清水市街も見えている。
ただ残念なのはここ数日スッキリ澄んでいた空気が、今日はぼんやりしてはっきりしない事だ。お蔭で
日本平は霞んでいて駿河湾や伊豆半島は見る事ができなかった。
そうだダイラボウがモッコから落としたと云う木枯しの森はどうだろうと藁科川を見ると、川原の中に緑の
小山が見えている。あれが木枯しの森だろう。

 
                             大崩山塊の山並
 南の方角にはお馴染みの大崩山塊が見えている。アンテナの建つ高草山と三角錐の形の丸子富士は
一目で分かるが、後の山はそこからの位置関係で判断できる。
ここからこのように見えるという事は、満観峰や北のピーク辺りからはダイラボウが見える筈だ。次回
登った時は確かめてみよう。

 小屋の裏手の高台にある三角点を確認して富厚里峠に向かう。高台を過ぎた所からは南アルプスの
白銀の峰が見ていた。こちら側の斜面も樹木は伐採されていて色々な花木が植えられていた。
一般的なら同じ仲間の木を纏めて植えるだろうが、ここは百花園、そう百種の花木を植えた場所だ。
これなら春に来れば何かの花が咲いているだろう。来春には駅から歩いて来れるといいな。

 
             林道出合                            富厚里峠
         富厚里峠の場所
 富厚里峠へ向かう途中で出合う林道は、右の下りの道を行けばすぐ次の山道の案内がある。
山頂から25分で富厚里峠に到着。どうやらこちら側の道の方が距離が短いようだ。
それにしても富厚里(ふこおり)とは変わった地名だが、実はこの地名も渡来人に由来するようです。
今まで服織・賎機・麻機など古来の機織に関係する地名の話はしてきたが、ここ富厚里も矢張り機織に
関係していたようです。地名は「ふくおり(服織)→ふこぅり →ふこおり(富厚里)」と変化したとする説が
あった。少し強引な気がするが富厚里の場所が服織地区の近くなのでそう解釈したい気持ちも分から
なくはない。
 富厚里を調べていたら面白い事が載っていたので紹介しておきます。
駿府出身の山田長政は実は富厚里生まれだったとか。その記念碑建設資金を集めるために、清水
次郎長が大相撲を駿府城跡で開催したそうです。ところが主催の一人がその収益金を持ち逃げした
ため、この目的は達成できなかったそうだ。それにしてもヤクザだった次郎長をだますなんて勇気の
ある奴がいたもんですな。

 富厚里峠を少し岡部側に下った所に車4~5台置けそうな空地があった。ここに車を置けば山頂まで
1時間チョットで往復できそうだ。
峠からは車の全然通らない下りの車道同歩きになり、体が自然に前に行き快調に下って行ける。

 
          市境の山中入口バス停                    たまゆら
          たまゆらの場所
 山中集落を過ぎ道が川沿いの県道に合流する所にバス停と市境の標識が立っていた。西又峠も
そうだったが、ここも市の境が朝比奈川中流の中途半端な所にある。今まで私は朝比奈川の奥まで
岡部だと思っていたが間違いだった。それにしても何故だろう。西又峠もここも何故駿府の勢力が
こんな所まで延びていたのか、地形的には明らかに岡部側に属しているのに。
またまた妄想的歴史観が湧いてきた。先ほど富厚里の地名は服織が変化したとの説を紹介したが、
ここは富厚里をそのまま字の如く「富が厚い里」だったと思いたい。ようはこの富厚里周辺の山には
富を呼ぶような物が産出されていたのだ。例えば金や銀。いや鉱物ではなく椎茸の菌が舞い降りる
場所だったかもしれないな。そのため駿府はこの山間の地を手放さなかったのだろう。

 朝比奈川沿いの県道を下って行くと「朝比奈活性化施設たまゆら」なる施設が現れた。
施設は興味はないが建物の前に置かれていた丸い石に興味を覚えた。この石は、黒い色をしていて
川を流れて角が取れ丸くなったようには見えなく、最初から丸かったように思える。
この様な丸い石は、相良町(現牧之原市)の「子生まれ石」で見る事ができるが、ここでも丸石が発生
する場所があるのだろうか?
この施設のある場所は「玉取」。きっと地名の謂れは丸い玉のような石が採れるからなのだろうが、
その玉石が産する場所を知りたかった。

          
         青面金剛像                      芙蓉庵の石仏

 岡部町を歩いていて感じるのは石仏が多い事で、特に朝比奈川上流は多いと思っていた。だが今日
歩いた限りでは峠の地蔵以外では目ぼしい石仏は見当たらなかった。それがコースの終わりになって
ようやく庚申塔の「青面金剛像」見る事ができた。祠も無く露店のため風化が進んでいるが、台座には
三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)があり、青面金剛は弓や矢や太刀を持っている。頭上には月と日も
刻まれている。静岡県内の庚申塔は文字搭が多く、この様に青面金剛が刻まれた庚申塔は少ないので
風化に任せっぱなしなのは惜しい気がした。

 12時10分に出発地の芙蓉庵に到着。たった12km弱だったが、それなりに疲れた。

安倍七観音2-6

2014-12-06 10:29:06 | 寺社遍路
歩行記録                                 2014-10-4(土)
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間20分   延時間:11時間05分
出発時間:6時05分   到着時間:17時10分
歩  数:  42、893歩   GPS距離30.9km
行程表
 静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺 2:00>
 霊山寺 0:25> 帆立山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅 

 
                 鉄舟寺(薄墨の笛)
 
           鉄舟寺仁王門                      鉄舟寺
      鉄舟寺の場所
 日本平から清水運動公園に下るハイキングコースの途中に「望岳台」があるらしいが、その事を思い
出したのは運動公園に着いてからだった。今更戻る気にもなれず見学は止めにする。
 鉄舟寺の手前にある寺の門前に「富士山の眺めの良いお寺 観富山龍華寺」とあった。寺の山号が
観富山なら富士山の眺めもいいだろうと入る気になった。しかしその横の案内板に「拝観料300円」とある
のを見つけやっぱり止めにした。
どうも清水の寺は観光慣れしたのか、左程見る物も無いのに金を取るので好きになれない。

 鉄舟寺は駿河一国33観音や駿河一国百地蔵の札所なので馴染みの寺だ。その鉄舟寺の山門を潜り
階段の参道に向かうと 「ここより有料」 の立札が立っていた。本来なら有料の所は入らないが、今日は
特別で見たい物があるので仕方ない入るとしよう。見たい物? それは 「薄墨の笛」 です。
この薄墨の笛については過去何度もブログに書いてきたので、ここでは流れだけを紹介します。

           
                            薄墨の笛(複写)
 
        足柄峠の吹笙之石(笛吹石)                蒲原の義経硯水
伝承1
「八幡太郎義家の弟、森羅三郎義光は笙(しょう)を豊原時元から学び秘曲の奥義を伝授された。
師亡き後義光は奥州で苦戦していた兄八幡太郎義家を助けるために奥州へ向かった。
師の子は秘曲の奥義が絶えることを恐れ義家の後を追い、足柄峠で奥義の伝授を受ける。
そのとき義光が座った石が吹笙之石(笛吹石)として今に残る」

伝承2
「薄墨の笛は義光から八幡太郎義家の孫の源義朝(源頼朝・義経の父)に譲られる。義朝は平治の
乱で敗れると、薄墨の笛を妻の常盤御前に与え都を落ち延びた。
常盤は我が身を平将門に捧げ我が子の助命を願い、幼き牛若丸(義経)が鞍馬寺に預けられるとき
牛若丸に薄墨の笛を託した。(牛若丸が五条の橋で弁慶と戦ったとき吹いていた笛)」

伝承3
「義経が鞍馬寺を脱出し、金売り吉次と奥州を目指して東へ下る途中、三河の矢作宿で美しい姫君・
浄瑠璃姫と恋に落ち、一夜の契りを結んだ。しかし大事な旅の途中のこと、義経は姫と別れ、その際に
薄墨の笛を手渡して奥州に向け旅立った。」

伝承4
「駿河の国に入った義経は、海路で有度浜から狩野川の河口沼津を目指したが、突然激しい風雨に
見舞われ、蒲原の浜に打ち上げられてしまった。それが元に病の床に臥した義経は涌水(義経硯水)で
浄瑠璃姫に手紙を書いた。蒲原に駆けつけた浄瑠璃姫は必死の介護をしながら神仏に願うと、さしもの
病もほどなく回復したが、またもや義経は浄瑠璃姫を置いたまま奥州を目指し旅立ってしまう。」

伝承5
「残された浄瑠璃姫の悲しみは日に日に深まり、三河の国へ帰る気力も失せ、蒲原の地に病に臥すと
義経から譲り受けた薄墨の笛を久能寺(久能山)に預けて、十六歳の若き命の御霊は浄土の世界へ
飛び去ってしまった。」

伝承6
「武田信玄の駿河進攻の際、要害の地にあった久能山の久能寺は、村松の地に移転を余儀なくされ、
薄墨の笛と共に清水村松に移転する。
時は移り豊臣秀吉の小田原征伐で功を挙げた中村一氏が、駿河国を任された際に久能寺にあった
薄墨の笛が破損している事を知り修理する。」

伝承7
久能寺は江戸時代後期になと衰退し、明治に入ると無住になって寺は荒廃してしまった。その後、
山岡鉄舟が寺を復興し、寺号を鉄舟寺と改めた。
鉄舟寺の薄墨の笛は静岡市の文化財にも指定され、今では薄墨の笛で鑑笛会も開催されている。」

 (薄墨の笛の音色を聞く事ができます

 足柄峠で奥義譲受のため義光が吹き、京の五条大橋では牛若丸が吹いた薄墨の笛は 
「森羅三郎義光 ⇒ 源義朝 ⇒ 常盤御前 ⇒ 牛若丸(義経) ⇒ 浄瑠璃姫 ⇒ 久能寺 ⇒
 鉄舟寺」
と渡り歩いて、今は鉄舟寺の宝仏殿に収まっている。

 そんなわけで今回はどうしても薄墨の笛を見たくて300円も払って宝仏殿に入る事にした。
オッとその前にこんな話もあったので備忘録代わり紹介しておきます。
薄墨の笛と同じ源平時代には 「一の谷の 戦敗れ 討たれし平家の 公達あわれ ----」 の歌曲
で有名な 「青葉の笛」 があります。この歌曲の主人公・平敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期
の武将・平清盛の甥で17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、馬で海上の船に逃げようと
した敦盛を、源氏の熊谷直実が 「逃げるとは卑怯なり」 と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦
盛を馬から組み落とし、首を斬ろうとすると、我が子と同じ年頃の若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛
を助けようとしたが、敦盛は 「すみやかに首を取れ」 と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。
 その熊谷次郎直実は、志太地区には縁があり、大崩山塊に咲く熊谷草や熊谷直実の伝説が残る藤枝
の熊谷山蓮生寺もあるが、今回は省略------

 青葉の笛は現在神戸の須磨寺の寺宝として展示されているが、黄金の厨子にある笛はボロボロに
風化し吹く事は勿論、手に取ることさえ出来ないような状態だそうです。
同じ時代の、源義経と平敦盛の二人の笛が、かたや現役で片やボロボロ? 一体何故だろう?

  
                 山岡鉄舟銅像                     撤収の遺墨
 鉄舟寺と云えば寺の名前の元になった山岡鉄舟の紹介をしない訳にはいかない。
静岡県で鉄舟と聞いて思い浮かぶのは、・西郷隆盛との会見 ・咸臨丸の壮士の墓 ・鉄舟寺再建 
・相良油田
などがあるが、この全ての話に清水次郎長が関係していたとは知らなかった。

 駿府で西郷隆盛と江戸城無血開城の会見をするため駿府に向かった鉄舟は、薩埵峠で官軍に行く
手を阻まれ地元の料亭 「望嶽亭」 に逃げ込んだ。望嶽亭の主は鉄舟を匿うと同時に、親交のあった
清水次郎長に連絡して、鉄舟を舟で清水の次郎長宅に送った。身なりを整えた鉄舟は次郎長の知人
「松崎屋源兵衛」 宅に案内された。
ここで山岡鉄舟は西郷隆盛との会見を行い、有名な江戸城無血開城を成功させる談判を行った。
この逸話の証拠物件と云うべき、鉄舟が持っていたピストルが、望嶽亭で大切に保管されている。

 そうこうしているうちに清水湊で幕府の軍艦 「咸臨丸」 が新政府軍から攻撃を受け沈没した。賊軍の
屍が湾内に浮遊するも、官軍の咎めを恐れ誰も手を出さなかったなか、一人次郎長が屍を拾い集め、
手厚く供養し葬った。それを聞いた鉄舟はいたく感心して「壮士の墓」 の墓碑銘を次郎長に贈った。

 清水の由緒ある久能寺が荒れ果てていたのを惜しんで、鉄舟は再興を図った。その資金とすべき自ら
揮毫した沢山の書とともに募金の趣意書を次郎長に送り協力を依頼している。
ただ惜しむべきは、鉄舟寺の完成を鉄舟は見る事ができなかった。

 

 ここまでは一般的な話だが、相良の油田に鉄舟が関係しているとは知らなかった。
その相良油田とは太平洋岸で唯一の産油地だったが、産油量の激減などのため昭和30年(1955)に
廃止になり、今では 「油田の里公園」 として周辺が整備されている。
この油田で採掘された石油は希少な軽質油で、精製せずにそのままで自動車が動くほどだったいう。
その油田に鉄舟何故関わったのか?
相良油田の社長石坂周造は鉄舟と同じ 「浪士組」 のメンバーで、しかも鉄舟の妻の妹と結婚していた。
そのため鉄舟は資金集めに協力して次郎長に手紙を出し、油田開発に協力してくれるよう依頼していた。
次郎長も親分鉄舟のため一肌脱ぎ株券募集に奔走して資金集めに協力した。この株券は明治25年に
発行されたもので、一株が25円という巨額のものだった。
しかし相良油田は採算的には失敗に終わり、債務の償還のため山岡鉄舟は莫大な負担を余儀なくされ、
その連帯保証の債務は26万円に達し、鉄舟が侍従として明治政府に仕えた月給350円のうち250円を、
亡くなるまでの十数年間も差し押さえられたという。

さてそろそろ宝物館に入ろう。

大井川の天正の瀬替えと平成の大改修

2014-12-04 12:16:08 | その他
                                                  2014-11-29(土)
              
 本来の目的の 「殺人光線実験所」 より気になったのは、大井川の河原にあった 「平成の大改修」 の看板。
看板に見える「天正の瀬替え」とは、天正18年(1590)に行われた大井川の流域変更を指しています。

 
 瀬替え前の大井川は、今は金谷側になる牛尾山が島田側の山と陸続きだったため、牛尾山にぶつかった
流れは西に大きく向きを変え、横岡、竹下、志戸呂を経て二軒屋の崖に当たり、今度は東に向きを変えていた。
そのため対岸の旗指、野田方面は大雨の降ると洪水を起こしていたので、牛尾山を掘削し蛇行していた流れを
直線にして洪水を防ぐ対策が取られた。
 それに対し平成の大改修とは、天正の瀬替えで掘削した牛尾山と相賀の間が狭くて、大雨の時は大井川の
流れがとどこってしまい、牛尾山上流の住民に不安を与えていた。そこで平成の大改修で現在は金谷側に
残っている牛尾山の一部を掘削して、大井川の流れをスムーズにするのが目的です。

 
 現在の大井川の流れです。既に牛尾山の一部は削られ始めているが、牛尾山を挟んだ上流と下流の
川幅が広い事が分かると思います。

 
 こんな感じで牛尾山は掘削されるそうです。

 
 工事現場にあった案内図を見れば牛尾山が流れの中に突き出ている事が分かります。

 
 更に現場にはこんな案内図も紹介されていました。
これらを見て天正の瀬替えと平成の大改修の関連は大体は理解できたが、何故天正の時に牛尾山も含めて
掘削しなかったのか疑問を感じた。それに対し現地の説明員は
「当時の土木技術では岩盤が多かった牛尾山の掘削は無理だったのでしょう。掘削した大井川の中にも掘削
しきれなかった大きな岩が 『豊年岩』 として今も残っています」
と説明された。
 
 この件をもう少し詳しく調べると
「島田側から大井川に大きくはみ出していた牛尾山の一部(260m)を切だし、その時の跡と思われる河床に
露出した岩礁(豊年岩)や牛尾山の岩盤面が今でも見られます。
強固な岩盤の切割は難工事だったと考えられます。かってこの地域を治めていた武田氏によりもたらされた
甲州流金掘技術が工事に活かされたと伝えられています。」


 では天正の瀬替えが終わった以降は大井川は氾濫しなかったか? イエそんな事はなかったようです。
大井川扇状地では1600年以降から明治末期までの期間に、およそ70回の堤防決壊による洪水の記録が
残されています。その中で最大級といわれる洪水は、慶長9年(1604)に起きた向谷の決壊では島田宿は
ほぼ全て流失してしまいました。

 この向谷の氾濫は最初に紹介した見取り図の中に 「島田宿が流された後に11年間だけ使用された東海
道」
として書かれています。この時の氾濫の原因は、天正の瀬替えで狭い範囲しか掘削されなかった流路
で勢いを付けた流れが、島田側の山が終わった向谷(現1号線バイパス付近)で決壊し島田宿を流して
しまいました。この向谷だけでも決壊したのは、この後にも5回もあり最近では1906年にも起こっています。
それらを考えると天正の瀬替えは、島田側では決壊場所が変わっただけで効果が無かったのではと思う。

 現地説明会では平成の大改修の目的は 「大雨が降ると牛尾山上流は水位が上昇して神座(左岸)や
横岡地区(右岸)は洪水の恐れがあるので平成の大改修を行う」
との説明だった。
また地元の参加者は 「横岡地区には舟屋敷や沖の島などの地名も残り、水はけが悪い」 と話された。
 では大井川右岸の横岡地区にどんな洪水が起きたのか調べると、規模は不明だったが右岸でも洪水が
4回起きている事が分かった。さらにこんな一文を見つけた。
「1800年以降における破堤・決壊の多くは左岸の扇状地です。自然状態においては大井川本流は牛尾山の
西側を金谷方向に流れていたのですが、天正18年(1590)に山を開削して牛尾山の東に河道が付け替えら
れました。これが決壊の多発に関わったと推定され、また,現在でもこの著しい狭窄部は治水上の問題を
提起しています。このため拡幅や掘り下げによる河道断面の拡大が計画されています。」
とあった。
アレレ?なんか現地説明とは逆な事が書いてある。

 実は私の住んでいる所は、この牛尾山より下流の大井川左岸の上泉ですが、過去の氾濫個所を見ると
この上泉地区が一番多くなっていました。また私の家付近の古称は「裸島」とか。ようは何も無い高台と云う
事でしょう。
最近は「台風や集中豪雨により数十年に一度の降雨量になる大雨が予想されとき」 特別警報なるものが
発令されるなど自然災害増えてきている。更に当地は東海地震の震源域で、津波は勿論大井川上流にある
ダムの崩壊による出水の恐れもある。
更に言うなれば浜岡原発から23km地点でもありその不安も無いではない。
終の棲家と思っていたのに安住の地にはならないのだろうか。

 
                一豊堤                           横岡水神社
 話が後先になってしまったが、この天正の瀬替えを行ったのは駿河側が駿府城主中村一氏、遠州側が掛川
城主山内一豊でした。ここで若干腑に落ちないのは、天正の瀬替えが行われた天正18年です。この年は秀吉に
よる小田原征がが行われ、その功績により二人が城主になっている。
そんな慌ただしい時に何故大井川の瀬替えが行われたのか。城主の住む駿府や掛川から離れた場所にある
大井川の実態が新城主になった二人に、こんなに早く伝わったとは思えないのだが、何か切羽詰まった事でも
あったのだろうか。

 一氏と一豊の二人の顕彰碑が横岡水神社にあると聞いて見に行ってきた。
 中村一氏 山内一豊   天正18年駿河領主中村一氏が駿河山を切り割り 大井川の流れを駿河側に
替えた(現在の牛尾山を駿河山相賀山と言う) 掛川城主山内一豊は堤防を築き 五和金谷河原を開き黄金の
波打つ美田を造成した これを天正の瀬替えと言う (後略) 平成七年五月」

後略の部分は慶長九年の向谷の堤防決壊により変わった東海道の道筋が書いてあった。
碑文の中の「五和金谷河原」の五和とは、瀬替えにより金谷河原には竹下、牛尾、島、番生寺、横岡新田の
五和村が新しく誕生したそうです。その五和の事だと思います。
 こうしてみると遠州側には新村が誕生し所領が大幅に増えたのに対し、駿河側は決壊場所が変わっただけで
メリットは無かった。中村さんは何を急いで牛尾山の掘削を急いだのか増々分からなくなってしまった。

 説明会が終わり「一豊堤」を確認した。写真では見難いが写真左中程から走っている線状の物が一豊堤です。
この天正の瀬替えはまだまだ興味は尽きない。一度この辺りをゆっくり歩いてみよう。