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はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

初詣

2019-01-03 09:52:43 | その他
        
                          上泉 八幡神社

 今年の初詣は昨年の春から 「島田 一社二山三岳」(大井神社、静居寺・智満寺、矢倉山・千葉山、双子山)か
「島田 一社二岳三山」(大井神社、矢倉山・千葉山、静居寺・智満寺、天徳寺)にしようと思っていて下調べにも
出かけてきた。
尤もその下調べでは、静居寺から矢倉山に続く尾根に出る道を探しに行ったのだが、とんでもない沢を詰めて
しまい、二度と行けるような場所ではなかった。
次の調査は下からではなく、尾根から下に下る道を探す予定だったが、それも駄目になってしまった。
なので今年の初詣は近くの神社でお茶を濁す事に。

先ずは地元上泉の八幡神社。
越してきた当時は氏子の仲間に入れてもらい、子供たちも神輿を担いだりしたのでが、団地が大きくなると
 “信教の自由” なる事を言いだす人が出てきて、地元に嫌われ縁を切られてしまった。
寺や神社廻りは好きだが特段の宗教心は無い私には、理解しにくい感情です。

        
                          弥左衛門 稲荷神社

家から杖を突きながらの初詣だが、八幡神社だけでは歩き足りなくて隣の神社にも足を延ばした。
名前は稲荷神社となっているが、赤い鳥居は無く普通の神社ポイ感じの神社だった。
それでも軒下に 「正一位 稲荷大明神」 の赤い幟があったので稲荷神社で間違いはないだろう。
どちらの神社にも神社の謂れを書いたものは無いので何とも張合いが無く、お参りするだけで終わってしまった。


歩行時間1時間、歩数4700歩で疲れはあるが、この程度が一日のリハビリ量としては丁度良いのかもしれない。
肺炎で入院する前は朝5000歩、夕6000歩歩いて、更に筋トレをやっていたのだから疲れたわけだ。
これからは 「無理せず楽せず程々に」 を肝に銘じて行動をしよう。

謹賀新年

2019-01-01 10:50:28 | その他
         

         例年の観観峰は諦めて旧大井川町の標高の一番あるはばたき橋で初日の出を迎えました。
         神に願う事は多々あるが、来年もここで日の出を迎える事は無いようにと見守りをお願いしました。


      

      誰も考える事は同じで普段人が歩いていないはばたき橋も この時間だけは結構大賑わい。
      吉田町側からと旧大井川町から人が集まってきました。


退院

2018-07-21 10:15:32 | その他
  入院して10日目に首のMRIを撮り、その画像と一緒に整形外科の診察受けた。
整形外科医は画像を見て 「首には何の異常も見当たりません。症状から行くと背骨の血管が詰まったと思えるが、症状が改善してきた
ならその詰まりも取れたようです。詳しくは腰のMRIを撮らなければ分からないので、MRIを予約しておきます。」
と言う。
背骨の血管が詰まると脚が痺れて歩行困難になるとの説明も受けた。

  どうやら私の突然発症した歩行困難は “背骨の血管の詰り” のようです。
それも既に詰まりが取れたなら後は治るだけだとホッとしました。
整形外科の診断を受け主治医の神経内科の医師は明日家族との面談をしたいと言ってきた。

  翌日の家族面談で主治医は開口一番
 「色々検査を行ったのですが原因がハッキリしなくて申し訳ございません。」 と謝ってきた。
更に 「検査では脊髄の白血球が若干高かっただけで他には異常は見当たりませんでした。
こんな症状が当てはまるのに “フィッシャー症候群” があるが、この病気の特徴は、手足の痺れと歩行困難、それと目の異常が
セットになっている事です。しかし貴方には目の異常はありません。
仮にフィッシャー症候群だとしても、この病気は原因不明で発生して6月経つと何もしなくても完治してしまう病気です。
また例えフィッシャー症候群でないとしても、貴方の症状は改善してきているので悪い病気ではないので大丈夫治ります。
多分半年後には山歩きもできるでしょう。」

とは言え、昨日整形外科医の言った “背骨の血管の詰り” も気になるの質問すると
 「背骨の血管の詰り即ち “脊髄梗塞” なら足の痺れや歩行困難は理解できるが、手の痺れは考えられません。一応腰のMRIを
月末に予約したので気になるならMRIを撮った方が良いでしょう」
と余りお進めでは無いような感じで言った。
私としては背骨の血管の詰りが取れて改善に向かっていると思いたいのでMRIの予約はそのままにしてもらった。
ただ今日は7月11日でMRIの予約日は7月31日。医師は好きな日に退院すればいいと言うが、何もせずに20日も入院している
なんて馬鹿らしい。 「それなら明日退院します。」 と急遽退院を決めた。

  そんな分けで先々週の木曜日に入院して2週間後の木曜日に退院することになりました。
入院中は消灯時に湿布を貼ってもらっただけで何の治療も行わなかったが、自然快癒で入院前は3・4時間おきに襲ってきた腰の
圧迫感は入院してからは深夜1回だけになり、それも2日前からはなくなっていました。
手足の痺れも何となく和らいできたようです。これなら本当に今年中には山歩きが出来るかもしれません。希望が出てきました。

  入院費は14泊で8万円弱でした。予想は1泊が民宿並みとして12万程度を予想していたの安くて助かりました。
尤も私の医療費負担は1割でしたのでこの料金で済みましたが、私より誕生日が1ヶ月遅い妻は3割負担なのでこの3倍になります。
 「私が入院でなくて良かった。」 と妻は言っていたが私てしては複雑な心境です。
  退院後のリハビリはいくらやってもやり過ぎる事は無い、と主治医が言っていましたので張切ってやるつもりです。

  そうそう退院して最初にネットで調べたのは勿論 “フィッシャー症候群”“脊髄梗塞” でした。
フィッシャー症候群は主治医の言った通りでしたが、脊髄梗塞とはとんでもなく恐ろしい病気で、とても最後まで読む気に
なれませんでした。こうなれば “願わくばフィッシャー症候群であれ” と願うばかりです。


 そんな分けでこれから自宅リハビリに励むつもりですのでブログは一旦休みます。
折角始めたニュージーランド・ドライブ旅行記は8月になったら再開する予定です。
極暑が続いていますので熱中症や脱水症には気を付けて山歩きを楽しんでください。


ドクターストップのその後Ⅲ

2018-07-19 10:02:02 | その他
  病室内も紹介しましょう。
前回紹介したように4人部屋の廊下側のベットに寝転んで天井を見ていると、カーテンレールを撤去した跡に気が付いた。
他にも壁に取り付けられた吸入器や照明、ナースコール等の設備の真中に今のカーテンが付いている。
どうやら6人部屋を4人部屋に改修したようなので、今はベット回りが広く感じられた。
久々の入院で前回の事は忘れてしまったが、TVのドラマなどで見る大部屋は、昼間はカーテンを開けて患者同士が話をするが
夜はカーテンを閉めて寝る。と思っていたが、ここはさにあらず。昼間からカーテンはピッシリ閉めて外からの視線を遮断している。
お陰で2週間の入院だったが、他のベットの患者の顔を見た事は一度もなかった。

  好奇心旺盛な男は、眼が効かなければ耳に頼るしかないと、人間観察ならぬ他人の “会話観察” にせいを出しました。
隣の窓側の人は日曜日に緊急入院した娘さんと2人暮らしの男性です。偶々娘さんがいるときトイレで気を失ったのだそうです。
私の経験ならこの症状は貧血や血圧低下などが思いつくのだが、そんな軽い状態ではないようでした。
入院初日は点滴を打っていたようですが、翌日の月曜日からは検査検査の大忙しで、ベットが温まる気配がありません。
中でも胃カメラの検査は大変だったようで、ベットに戻ってから何の声も発せず、夜見舞いに来た娘さんは心配していました。
ただ看護師曰く 「胃カメラは麻酔をしたので苦しくは無かった筈ですがね」 と言っていた。

更にこの方は低血糖らしく朝血糖値を計ると低すぎてブドウ糖の注射か砂糖水を飲まされていました。
本人は砂糖水は甘すぎるので注射を希望していたが何故か時々は砂糖水も飲まされ
 「どうせ甘いならもっと水を減らして濃くしてくれ」 なんて頼んでいました。

甘い水と云えば冷えていない “ポカリスエット” もそうです。あれを飲むと甘みが口の周りに残り、何時までも不快でした。
そのため歩きの時は冷やして行ったポカリを最初に飲み、ポカリが終ると次はキンキンに凝らせた水を飲んでいました。

色々検査をした結果この方は肝臓に異常がありそうなので、肝臓の一部を摘まみとって検査をする事になりました。
ただ本人は 「俺は若い時から酒を飲んできたが無茶酒をした事なく、今まで一度も肝臓が悪いなんて言われた事は無い。」
抵抗していたようですが、娘さんの説得に折れて検査をする事になりました。
この方は高齢でしかも検査検査の連続で4人の中では一番大変だったが、更に可哀想だったのは血管が細かった事です。
度々行っている採血はまだ良かったようだが、点滴には看護師が悩まされていた。
 「刺さったと思ったら血管が詰まってしまった」 とか 「上手くいったと思っていたら漏れていた」 など嘆きのオンパレード。
ただ幸いなのは男性の 「痛い!」 の声が聞こえない事です。痛みに強い方だったのでしょうか。

 反対側の窓側の人は一番新しく入院した畑農家の人でした。症状は全身に紫斑が出て体が怠いのだそうです。
尿の検査をすると看護師に言われたが 「食う物も水も飲んじゃダメで小便なんか出る訳はない」 と言っていたが本当に出ないようです。
看護師は医師の判断を仰ぎ尿道に管を入れて直接尿を取り出す事にしたのですが、それを病室のベットの上で行うのですから可哀想です。
 「あと少しです。」 とか 「イテエ!」 の声も聞こえてきて 「サー刺さりました。」 と云うとじきに
 「ほら出てきました。赤いのは今の作業の血だからすぐ納まります。尿の色もこの程度ならいいですが色が変わったり血がいつまでも
混じっているようなら連絡してくださいね。」
と一件落着。
この方は食事が重湯になって、看護師か 「食事は全部食べましたか?」 と聞くと 「食べたじゃなく、全部飲んだ。」 と言う愉快な方です。
この方は腎臓が悪いのだそうです。

  私の正面のベット方は私より早く入院していて一時は大変だったようです。
ただ私が入院した翌日、看護師に綿々と訴えているこんな話が聞こえてきてガッカリしてしまいました。
 「眠剤を飲んだけど遠くの部屋から聞こえる大声と、部屋の中のいびきで眠れない。」 と訴えているのです。
実は私も今回の体調不良に陥ってから睡眠薬を2.5g毎晩飲んでいました。
これは数時間おきに襲ってくる腰の圧迫感が耐え難く、せめてその圧迫感に襲われていない時は眠りたいと飲んでいたので
ここでも睡眠薬を要望したのですが、これが中々難しく薬剤師までベットに来て
 「眠剤は常習化しやすく痴呆症にもなりやすいので止めた方が良い」 と言う。
私は 「今までも中々眠れに時は10mgの錠剤を1/4に割って飲んでた。」 と言うと
 「1/4なら2.5mgで、この量は眠剤を止めるときに飲む量だから、できるならこの際止めた方が良い」 と説得されてしまった。
そんな分けで入院初日は環境が変わったり睡眠薬を飲まなかったりで殆どが自分ではウツラウツラの状態だと思っていた。
そんなとき聞こえてきたのは遠くの大声だったが何を言っているのか意味不明で、同室なら煩いだろうが離れているこの部屋では
どうと云う事は無かった。
そのうち聞こえてきたイビキも左程気にすることもない大きさだった。ただそのイビキは私の対面側のベットからも聞こえていた。
他人のイビキは煩くても自分のイビキは聞こえないから煩くない、そんな事でしょう。

この綿々とした訴えに看護師は
 「大声を出す人はなるべくナースセンターに引き取るようにするけど、イビキは部屋を変わっても同じようなものです。あとは個室に
移る方法もあります。」
と説得していた。
 「眠れない」 の訴えはその後も続いたので、睡眠薬を2錠に増量したようです。
私には1/4錠を出してくれなかったが、患者によっては簡単に出すものだと少し驚きました。

 この方は看護師と話をするのが楽しいのか不眠の他にも色々訴えていました。
例えばおしめをしているらしく、ある看護師か巡回に来て 「アラ匂うわね」 と言ってその人のおしめを調べたらしく
 「◯◯さんはウンチをしたのは分かるでしょ。出たと思ったらその時言ってくれないと自分だった汚くなるし、周りにも匂って迷惑に
なりますよ」
と中々激しく説得をしていた。
成程看護師さんも優しいだけでなく言うときは言うものだと思っていたのだが、その方の返事の声は聞こえなかった。
翌日違う看護師が巡回に来ると早速 「◯◯さんにこう言われた。俺だって言いたかったけど遠慮した気持を分かってくれない」
涙声で訴えていた。

  私以外の3人は大小便全てベットの上でやっていたが、特段の臭気は感じなかった。
それより看護師の献身的な作業に感動した。
例えば大便が出そうで出ない患者に対し、「少し顔を出していますのでもう少し頑張って!」 と励ましたり
 「残っているかどうか指を入れて調べますね」 などと言っている。
声しか聞こえないが私には想像すらできない行為です。

  そんな看護師に私も話をしたいのですが、私に看護婦が声を掛けてくれるのは、朝夕の体温と血圧測定の時と消灯時の湿布を貼る時だけ。
何は兎も角4人の患者の中で、否病棟の中で一番暇なのは私のようでした。

私の検査の主な物はMRIを2回と神経検査が1回だけなので、隣の人なら1日でやってしまう量です。
それがMRIの予約が取れなく2週間も入院するのだから暇なわけです。
しかも原因が分からないので何の治療も行わず点滴も薬もありません。
やった治療(?)は毎晩湿布を貼っただけですので、これで手足の痺れや歩行困難は治るのでしょうか。
不安はあるものの病院に居るのだか、あまり考えずに本を読んだりラジオを聞いたりして過ごしていました。

ドクターストップのその後Ⅱ

2018-07-17 10:53:24 | その他
  初めて行く焼津市立病院で受付をすまし建物の一番奥にある神経内科を目指すのだが、
たった50mあるかないかなのに、杖を突いてもハーハー、ヨロヨロで中々辿りつけない。
途中の長椅子に座込んでしまったものの横になって寝るわけにもいかずハーハードキドキは中々治まらなかった。
何とか神経内科の窓口に行くと今度は呼吸器科へ行けと言う、なんで呼吸器科なのか疑問に思ったが聞き返す気力は無かった。
呼吸器科で名前を呼ばれて医師の前に座ると、医師は開口一番 「血液検査に異常があります。」 と言う。
ビックリしながらも血液検査はまだしてないのにと思うと 「◯◯医院から送ってきた血液検査に甲状腺の数値が高くなっています。」
なんだぁー それなら◯◯医院で解決済みの話だったので
 「私は10代の時に甲状腺が張れて入院した事があり、その数値が高いのは甲状腺の既往者に多い症状だと◯◯医師は言っていました。」
医師はしばらく無言だったが、その後甲状腺の話はせずに現在の症状の質問になった。
途中で、何処かに電話ると別の医師と看護婦が来て 「これから神経内科で診断します」 と最初受付をした神経内科の診察室に戻った。
呼吸器科同じように症状の説明をしながら、腕力や脚力を医師が手で押して調べるものの押し返す力はあって異常は無いようだ。
脚気の診断のようは金具で膝や肘辺りを軽く叩いて何かを調べているが良いのか悪いのかの説明は無かった。
その内 「原因は細かく検査しなければ分からないので今日から入院してください。」 と言い出した。
 「エ~ 今日から? 幾日ぐらい入院するのですか?」 と聞き返すと
 「MRIを何ヶ所か撮るので大体20日程度と思っていてください。」
 「20日も!」
と驚いたものの、この苦しみから解放されるなら何でも我慢してやると承諾しました。
とは言え、本人は病院のベットで横になっているだけだが、大変なのは付添ってきた妻の方です。
妻は慌てて家に戻り着替え等を持ってきてくれたりと大忙しでした。

  入院初日は採血、検尿、心電図、レントゲンなど楽な検査をしてから病棟に行き、4人部屋の廊下側のベットに横になりました。
困ったのは便所に行く時の看護師とのやり取りです。私は杖さえつけば便所など一人で大丈夫と思っていたが看護師は違かった。
看護師曰く 「外来から歩行困難の症状だと申し送りが来ているので一人で歩く事はできません。どうしても云うならベットで尿瓶で取ります」
だって。それはもっと嫌だ。仕方なく便所に行く時はナースコールで連絡することにしました。
そして初回のナースコール来てくれた看護師は、前回話をした方と違う人で、私の歩きを見て
 「アラ自分シッカリ歩けますね。これなら注意して歩けば問題ないですね。」 と言ってナースセンターに戻って行った。

  入院後行った検査は採血、検尿が時々と、手足の神経検査、脊髄の髄液の検査、脳と首のMRIを1回づつ。
これを2週間でやるのだから殆どが暇を持て余していた。
それでも入院翌日からリハビリが始まり、午前中は脚のリハビリで午後は手のリハビリを約30分ほど行った。
脚のリハビリは椅子に腰かけ立って座りを30回、壁に手を突いて体を斜めにして足踏み30回等を行ったが何とか
指示通りやる事はできた。
歩行訓練は床に書いた線の上を歩くのだが直線は歩けたが、電光形のジグザクは曲るたびにバランスを崩してしまった。
だがこれも3回目になると要領を覚えた事もあるがふらつかないで歩けるようになった。

歩行訓練で嬉しかったのは病院内を歩く訓練で、パジャマ姿の私を理学療養師が軽く腕を掴んで200m程歩くのだが
今回の症状が発症してからは50m先のゴミ出しに1回行っただけなので歩く事が嬉しかった。
何時もの私なら他人の前をパジャマ姿で、しかも他人に支えられながら歩くなんて考えただけでも嫌だった。
それが諦めなのか、それとも早く良くなりたい一心なのか他人の眼は余り気にならなかった。
それでも恰好を付けて背筋を伸ばしスタスタと歩こうとするので 「もっとゆっくり」 と何度も声を掛けられた。
この歩行訓練には一番軽いウォーキングシューズを履いたので快適だったが、何故か一周するうちに2・3回は右の靴底が
床面と擦れてバランスを崩してしまう。
これはいつも注意して右足をあげるようにしたのだが、最後まで右足の躓きは治らなかった。
考えてみると以前から平地の舗装道路を歩いていても、時折躓いていたのでこれは今回発生した症状ではないようです。

  次に午後の手のリハビリですがこれが案外疲れた。しかも疲れた原因がリハビリの最初に行う運動で、椅子に腰かけ
両足首に1kgの重しを巻いて交互に足を上げて5秒静止するだけなんですが、両手は腹の前で組むのでこれが疲れた。
回数が午前と同じように30回なら何とも無かったでしょうが5分も続けるので息はハーハーとなり、終わって立ちがると
必ずよろめく始末です。手のリハビリに何で足の運動?と聞いてみたい気もありましたがそこは我慢です。

更に壁に向いて片足を上げて何秒保っていられるかの訓練は、左右どちらも2・3秒でよろめく始末です。
これには作業療養師も 「これはチョット早すぎますね」 と言って2回しかやらなかった。
手のリハビリ本命は、箱に入れた大豆の中に最初はボルトを10個入れ、目を閉じて3分内に取り出すことです。
一見簡単風に見えたが手足に痺れが出ている私には、掌の感覚が麻痺しているのか小さな大豆と大き目のボルトの違いが
分かりずらかった。
それでもボルトをクリアすると次はビー玉でした。ビー玉はボルトより軽く小さかったが何回かやるうちにこれもクリア。
最後はおはじきです。大豆よりは大きいおはじきだが重さが無いので形状だけで判断するのが難しく、退院するまでにクリア
する事ができませんでした。
他には鉛筆や箸を使った作業もあったが、箸も鉛筆も普段のようには持てないので余り好きな訓練ではありませんでした。


  病気になってもダラダラ文章は治りません。今日ももう疲れてしまいました。残りは次回です。

ドクターストップのその後

2018-07-15 09:47:37 | その他
  6月6日の日に体調不良の結果精神安定剤を投与された事をブログで紹介しました。
まだ結論は出ませんが一応ここまでの経緯も紹介しておきます。

  6日間精神安定剤を飲んだが効果どころか血圧は増々上昇して高値安定になってしまった。手足の痺れに伴う歩行困難も増々強まり
50m先のゴミの集積所にも行けない状態になってしまいました。
6日分の精神安定剤が終ると同時に医院に行き状態を話すと、やっと医者は真剣になりCTの検査を藤枝市立病院に予約してくれた。
だが、予約日は6月22日と2週間以上先の日だった。
医者は 「CTで分からなければ次は心療内科で自律神経を調べてもらいながら整形外科でも診てもらいましょう。」 と言いながら
 「一応血圧の薬も朝は増量して2錠にしておきましょう。」 という事になった。

  それからの2週間は地獄の日々で、腰と背中が圧迫され数時間おきごとに痛いと云うより圧迫されて息もできない状態が続き
身の置き所が無かった。それは夜中も続き、いたたまれなくなるとベットから起きだしてソファーに横になり深夜のTV観戦が続いた。
昼間も居間のソファーに座るが、すぐ横になり、ほぼ一日中寝ている状態でした。
やっとCT検査を受け結果が掛かりつけ医院に着くのは翌日だと聞き、医院の次の予約日を待たず駆けつける始末でした。

  CTの検査結果は 「頭部には何の異常も見当たらない」 とあり、次の心療内科の予約手続きが始まったが当日は結論がでず、
明日予約日を決まったら連絡してくれる事になった。
その日はそのまま終わりそうになったので、慌てて夜1錠だった血圧の薬を2錠にしてもらった。どうやら医師は今回の症状に血圧の上昇は
関係ないとみているようです。
翌日電話きて 「焼津市立病院の神経内科で今日の午後見てくれるそうですがどうします?」 と聞いてきた。
勿論 「行きます。」 と返答したが、心療内科が神経内科になっていました。普段なら追及する所ですが、私の聞き間違いだったかも
しれないのでそのままにしておきました。
 前回心療内科と聞き “自律神経失調症” を調べると、確かに症状は似ているものが多かったが、決定的に違うと思ったのは失調症を
起こす原因がどれ一つとして私には当てはまらなかったことです。
そんな事もあり受診科名が “神経内科” になったのは大歓迎でした。

  午後焼津市立病院に行く前のもう一つやる事が残っています。
実は昨日近所の整体の予約を今日の午後1時30分に取ってあったのです。この腰痛にマッサージや鍼が効くのかどうか分からないが、
藁にも縋る積りで初回8千円、2回目からは6千円の予約を取ってあったのです。
恐る恐る断りの電話入れると気持ちよく納得してくれました。フ~良かった。

  ここから焼津市立病院の話になるのですが、少々疲れました。続きは明日以降にさせてください。

ウォーキングシューズ

2018-06-09 10:00:00 | その他
  体長は相変わらずで100m歩いても疲れてしまいます。
考えると気分も落ち込んでくるので今日は別の話題を。

  3年前に私の履いているウォーキングシューズを紹介したので(その1その2)その後の経過も報告します。

  3年前には既に履き歩いていて、今では河川敷歩き専用にしている靴の靴底が剥がれだし、底の一部がもう少しで
穴が開いてしまいそうな状態になってしまいました。
それでも穴が開くまで履きたかったが、爪先の先端から捲れだした靴底が歩く度び邪魔になって煩いったらない。

 

  この靴は 「アサヒMedical Wwik EEEE 産・学・医 共同開発」 とかで、靴底にある丸い回転翼が歩行時の推進力を
高め膝への衝撃も分散するのだそうです。
しかし一足履き潰したのですがその実感は分かりませんでした。何しろ回転翼が回っていたのは靴を降ろした当初だけで、
直に回転翼は回らなくなってしまいました。
回転翼があって気づいたのは、翼の間に石が挟まって歩きにくくなって何度か取ったくらいです。
購入時の価格は14,700円と私にしては高価な靴でした。
しかし4年以上も履いたのですから十分元は取ったでしょう。

 

  この靴も最初の靴と同じ靴で、私がこの靴を履きだした当初、妻に 「歩き易い」 と云った事を覚えていた妻が
誕生日に買ってくれたものです。
自分で買うなら別の靴にしたのですが、この靴も幅広設計の4Eのため窮屈感はないし、しっかりしている割には重さも
感じず不満は無かったので喜んで貰いました。今は主にこの靴であちこち歩き回っています。

 

  この靴は通信販売のアイフォーレで購入したウォーキングシューズで美津濃製の靴でした。
宣伝文句の “軽い” に惹かれて購入した靴ですが、履いてみると確かに軽く歩きやすく、着脱も簡単でウォーキング
には最適だと思いました。
それを聞いた妻が早速2足目を購入してしまったが、1足目を暫く履いた後で靴底を見ると、買い替えマークの印が
もう表れていた。
どうやらこの靴はウォーキングシューズといっても近回りの散歩用で、私のような長距離ウォーク用ではないようです。
なので2足目は買い物の時などのお出かけ用にしたので、今でも買換えマークは出ていません。
しかしこの靴を購入した時は12,400円もしたのに、他の通販でも靴の販売が始まると8,000円台に下がり、今ではこの
通販は靴の販売は止めてしまったようです。

 

  以前歩こう会に在籍していた時に多くの会員が履いていたのは星のマークがついたワールドマーチの靴でした。
私には値段も高く手が出なかったので、重くて自分には適さないとか、靴底の張替えをしてまで履きたくないとか
難癖をつけて買えない自分を慰めていました。
その頃私が履いていた靴はダンロップの5千円以下の靴だったので、2万円以上する靴など勿体なくて手が出ません。
それがです。昨年妻が何を思ったのか 「一度は自分が憧れている靴を履けば」 と買ってくれたのがこの靴です。
宣伝文句には 「長距離歩行に適したウォーキングシューズ。着地時の衝撃緩和や安定性、スムーズな蹴り出しが
できる柔軟な設計、耐久性の高いアウトソール等、長距離を快適に歩く事ができる様々な機能を備えています。」

なんて良い事づくめが書いてある。
で、最近履き始めたのですが、格別の感想もなく他の靴と変り映えはしない。
どうやら私は根っからの貧乏性で、しかも価値の分らない男のようです。そんな男には安い靴がお似合いなのでしょう。

 

  河川敷用の靴を廃棄したので、それに代わる靴として 「ニューバランス」 のウォーキングシューズを購入しました。
河川敷を歩くだけなので安い運動靴でも良いのだが、扁平な足の私は横広の靴が必要だが探して見つからなかった。
それに代わるものとして目についたのは、一応ウォーキングシューズで、横幅は4Eの物もあり値段も5千円少々の
このNBの靴でした。

  買ってきた日に早速河川敷を10km履いて歩いてみると、軽くて小指も窮屈でなく歩き易かった。
ところがが歩いているうちに指先が窮屈に感じ痛くなってきた。家に戻り指を見ても変わりはなかったが、2・3日すると
右足の人差し指の爪が変色してしまった。今ではその爪は真っ黒になっています。

  とは言え買ったばかりの靴ですので止めるわけにはいきません。履いていればそのうち広がるだろうと毎回履いてます。
その後も窮屈感は抜けないが爪の変色も増えないので大丈夫そうです。と、思うのは安易すぎた。
先日静岡空港の20k余のウォーキングで履いていくと、途中から両足の爪先が痛くなり、足の指を猫足のように丸めて
歩かざる得なくなってしまった。でもこんな事で諦めたりしません。
河川敷だけなら何とかなるので、それを繰返し何とか靴を足に合わせたいと思っています。

ドクターストップ

2018-06-06 09:08:29 | その他
  静岡空港を歩いたあとから体調が狂いだし、5月も残り5日となった辺りから河川敷を歩いた後で、やけに疲れを
感じるようになった。



しかし1月からの歩行距離が四国遍路換算で後2kmで88番大窪寺に達するし、更に42km歩けば1番霊山寺に戻る
ことができて四国を一周した事になる。
こうなれば少しぐらいに体調不良など構ってはおれないと、30日までに36kmを歩いたので残りは後7kmです。
ところが30日はたった7km歩いただけなのに堤防の階段を上りきれず座りこんでしまった。



  残りは7kmは普段ならなんでもない距離なので、最後の31日は小雨が降っていたが傘を差して家を出た。
でも何とも足が変です。膝から下に力が入らずヨロヨロしてしまう。
これは変だと残り7kmに未練を残しながらも途中で諦めて家に戻った。

 

  階段に座込んだ日の夜から血圧も急上昇して、上が150台、下が80台になってしまった。
私は以前から血圧が高く、朝晩1錠づつの血圧降下剤を30年は飲んでいるので、上は130台で下が70台を維持していた。
なのでこの程度の血圧上昇は許容範囲内だ気楽に考えていた。

しかし上のグラフでは6月になると、160まで表示されるグラフの上限値を突破してしまいました。

 

  朝の血圧も5月までは落着いていたが6月に入ると矢張り上限を突破して、高い日は198-99と200と100の大台に
なりそうな日も出てきた。
しかも膝から下に力が入らずフラフラする感じは相変わらずで、とても河川敷を歩ける状態ではなかった。
そんなとき月に一度の病院の検診があり、医者に相談すると
 「血圧の急な上昇は、患者さんのストレスの結果起きる事が多いけど何か心当たりはありませんか?」
 「今は気楽な生活でストレスを感じるようなことはありません。」
 「本人には気が付かない事があるかもしれませんので精神安定剤を6日分出しておきますので様子を見てください」

こちらとしてはもう少し強い薬を出して貰おうと思っていたので当てが外れたが、医者がそう云うなら大した事は無いだろう。
だが、「山歩きをしたいのですがどうでしょうね?」 と聞くと
 「150台程度ならともかく180台より上では止めるべきでしょう。山の場合は何処で倒れるかもわからないので
本人が苦しいだけでなく家族や周りの人にも迷惑が掛かる。」
御尤もです。
週末には仲間ウォークで高山南峰へコアジサイを見に行く予定だったが、これも早々に中止連絡を取った。

しかし血圧は相変わらず高値安定で一向に下がってくれず、今はゴミ出しに100mを歩くのも億劫になってしまった。
こんな状態が長く続いてほしくはないが、暫くは大人しくしています。

ネモフィラと藤(藤)

2018-05-06 11:40:04 | その他
  ひたち海浜公園を2時に出て、“東水戸道路” ひたちなかICで高速に入ります。何故か同じ路線なのに途中で “北関東道” に
名前が変わり栃木都賀JCT “東北道” に合流します。
ただこの東北道の上り線は大渋滞していて、JCTの大分手前からバスは少し進んでは停まりの繰り返しでした。
大渋滞の東北道を岩舟JCTで脱出して再び北関東道に入ると渋滞はなくなりホッとしました。
しかし次の渋滞は北関東道を佐野ラーメンで有名な佐野田沼ICで下りて、しばらく走った足利フラワーパーク近くになると
また始まりました。
  フラワーパーク近くになると道の両側には田圃を潰した無料駐車場が続いているが、空いていても入る気配は無い。
時刻は既に4時半を過ぎているので帰る車があるのだろうと、少しでも入口に近い駐車場を利用する気なのだろう。
結局ひたち海浜公園を2時に出て足利フラワーパークに着いたのは17時過ぎでした。

 

  足利と聞けば誰もが思い浮かべるのは 「足利幕府」 ですよね。ではその足利幕府から復習しました。
まず足利市のHPならきっと幕府の事を紹介しているだろうと見てみたが何の記述もありません。
で、足利幕府をネットで検索するとヒットするのは 「室町幕府」 ばかりです。
そうでした、そうでした。昔の歴史の授業では鎌倉の次の幕府は室町幕府と習った事を思い出しました。
そして室町とは足利氏が幕府を開いていた場所が “京都北小路室町” だったことからなんですよね。

とは言え、ここ足利は室町幕府とは関係ないのではなく、室町幕府の創始者・足利尊氏はここ足利市の生まれとする説も
ありますが、この説は傍証資料に乏しく最近では概ね否定されているようです。
しかし足利氏の出身地はここ足利市に間違いないようです。

     
         足利市の市票              足利(今川)氏の二つ引紋           鹿児島市の市票

  足利氏の紋は丸に十の字ならぬ、丸に二の字の “足利二つ引” です。この紋は駿府の今川氏の紋と同じなのは
今川氏が足利氏の分家に当るからのようです。
ではこの紋が現在の足利市の市標に使われていないかと思い、調べてみたら面白い事が分かりました。
足利市の市標は丸に二の字ではなく、丸(?)に足の字でしたが、この謂れについて足利氏のHPには
 「外側の線せんは古い鏡の形をあらわし、その中に『足』の字があります。日本で一番古い本、古事記に出てくる、倭建命
(やまとたけるのみこと)の子、『足鏡別王(あしかがみわけのきみ)』が足利市の地を治めていたという言い伝えから
この形ができました。」

成程、足利の元は “足鏡(あしかがみ)” だったのでそれが市標になり、地名は “あしかがみ” が訛って “あしかが” に
なったのか。納得。
しかし “足鏡別王” とは初めて聞く名前なので探してみると
 「ヤマトタケルの息子の一人である仲哀天皇が父を忍んで池で白鳥を飼おうとして、各国に白鳥を求めました。
越国から4羽の白鳥が献上されたのですが、これを宇治川で足鏡別王が白鳥を奪ってしまった。
怒った仲哀天皇は足鏡別王を誅殺してしまいます。これは実質異腹兄弟の争いで、兄の天皇が集めた租税の穀物(白鳥は米の穀物霊)を
弟の足鏡別王が奪ってしまった事だと思われる。」


  紋と云えば今流行りの “丸に十の字” の紋は、ご存知鹿児島藩の紋章です。
では現在の鹿児島市の市標はと調べてみると、矢張り丸に十の字をデザインした市標でした。

 

  栃木県も茨木県と同じように私には馴染みが薄く、栃木で思い浮かぶのは “日光” ぐらいの物でしょうか。
県名も茨木と同じように “栃の木が多い土地” から付いた、田舎の県と思っていました。
栃木より気になったのは県の古称である 「下野(しもつけ)」 です。
下野国はかって鬼怒川(毛野川)流域にあった 「毛野国(けのくに)」 が “下毛野国” と “上毛野国(かみつけのくに)” となり、
更に “諸地名好字二字” の一環で、下野国(しもつけのくに)と上野国(こうずけのくに)と改称したが、この時 “毛” の字は
消えたものの “け” の読みは残ったそうです。

  ついでに何故毛野国なったかと云う面白い説を紹介します。
 『毛の国に住んでいた「蝦夷」 の人の事を、古くは 「毛人」 と記したことから 「毛の国」 とする。』
確かにアイヌの人は毛深いイメージがありますが本当でしょうかね。

  足利フラワーパーク正面ゲートの横にはJR両毛線のあしかがフラワーパーク駅があります。両毛線とは栃木県小山駅と
群馬県前橋駅を結ぶ鉄道ですが、何故 “両毛線” なのか分かりませんでした。
それが今回の “毛野国” を知ったことでスッキリ理解できました。下毛野国+上毛野国だったのでした。


                               大 藤

  正面ゲート前のバス専用駐車場に着いたのは5時を過ぎていたが、チケット売場はまだ列が続いていた。
夜間はライトアップもされるようでそれを目当てに入る人も多いらしい。
これから1時間の自由散策になるが、先ず貰ったパンフレットで当園最大の目玉の大藤を見に行く。
樹齢150年の600畳敷きの藤棚とか、CNN(Cable News Network)に “世界の夢の旅行先10ヶ所” に日本で唯一
選ばれたとか、死ぬ前にもう一度再訪したい場所とか、は頭の中には色々な宣伝文句が蠢いています。
更に以前この大藤を移植した樹木医で浜松フラワーパークで理事長の塚本こなみ氏に、移植についての苦労話を聞いたことも
あり、ネモフィラの丘と同じように私も一度は見てみたかった場所です。


                                大長藤

  そして初印象は。マーこんな物でしょう。ガッカリもしないが感激もしない。多分豊田の “熊野の長藤” を見た事のある
人ならそんな感じになるでしょう。特に長藤に関して言えば熊野の方がもっと長い気がします。
広さはこちらの方が広いが、何しろ人が多くゆっくり感慨に浸るなんて訳にはいきませんでした。


                             白藤のトンネル

  藤と云えば香りが付き物だが、何故か余り匂ってこない。理由は大勢の人波による体臭や人いきれのせいなのか?
早咲きと云われる白藤のトンネルは隙間はあるもののまだまだ見頃だ。


                                白藤の滝

  名前が藤園ではなくフラワーパークと云うだけあって藤だけでなく色々の花が植えられていた。
ここには藤の他にテッセン、ツツジ、シャクナゲが咲いていた。


                             紫藤のスクリーン

  紫藤と書いてあるものの花は無く葉だけのスクリーンだった。既に咲き終わったのか? これから咲くのか?
どちらにしても花の気配が何も無いのは不自然に感じる。


                             きばな藤

  遅咲きのきばな藤が咲いていたがまだ少し早すぎるようだ。
黄色の藤は初めて見たのでネットの植物図鑑を見ると、別名 「金鎖(キングサリ)」 と紹介されていて、属名も藤はフジ属で、
きばな藤はキングサリ属と別だった。


                            池に浮かぶ花壇

  この植物園は狭いながらも水辺が多くあり変化を感じさせる。
ここではサフィニアを植栽した花壇を浮かべていた。


                             モネの庭?

  太鼓橋にもう少し丸みを付け、池の睡蓮を増やせば 「モネの庭」 にそっくりになる。
尤も “モネ” の名を冠すると多額の使用料を払うらしいので、見る人の感性に任せておけばよいが。


                            高台のツツジの海

  ツツジの海と名付けられた場所は少し高台にあり、ツツジの花越しに植物園を眺める事ができる。
ただ残念なことにツツジは既に最盛期を過ぎて萎れかかっていたが、それでも写真を写す気になるくらいは咲いていた。
1時間の散策時間だったが狭い場所の割には見るものが多く、時間が足りない状態でした。

  あしかがフラワーパークを18時に出て一路帰路に向かいます。
コースは北関東道・佐野田沼ICから高速に入り、岩船ICTで東北道に合流するのですが、渋滞がJCTの手前から
始まり、圏央道に入る久喜白岡JCTまで続いていました。
尤も渋滞と云ってもこちらはただ乗っている身で、やる事も無ければ悩み事も無く、居眠りしたり数独をやったりとのんびり
過ごしました。本来なら一杯やりたいところですが、焼津駅から運転をしなければならないのでここは自重します。

  結局焼津駅に戻ったのは予定の1時間遅れの11時50分でしたので、足利から約6時間掛かっています。
今回は朝約6時から夜12時までの約18時間の旅でしたが、散策時間はネモフィラの丘の2時間と藤園の1時間の計
3時間
だけで、残りの15時間はズートバスの中でシートベルトに縛られた状態でした。
しかしこのコースを自分で運手する気にはならないが、バスだと思った以上に楽に感じ、又どこかへ行きたくもなります。
と、久々のゴールデンウイークの旅行でした。

ネモフィラと藤

2018-05-02 10:11:24 | その他
  妻に 「ひたちなか海浜公園のネモフィラと足利の大藤に連れてって」 と頼まれたが、花の時季が大型連休に重なるので
 「渋滞するから嫌だ。」 と断っていた。
すると妻は 「車で行くのが嫌でしょうがツアーならいいでしょう」 と言って本当に申し込んでしまった。
日にちは4月30日とゴールデンウイークの真っ盛りだったが、自分で運転するのでなければマーいいでしょう。
ツアー間近になって送られてきたパンフレットを見ると、出発時間が朝5時50分で解散は夜の10時50分だった。
しかもその予定は大型連休以外も同じ工程なので、大型連休の最中では帰って来る事ができるか疑問だった。

  兎も角4月30日午前5時50分に焼津駅を一路茨木県に向かって出発した。
コースは焼津駅を出て静岡駅と清水駅で客を乗せ、清水から東名に乗り首都高に向かった。途中海老名SAでトイレ休憩を
して、渋滞が予想されていた首都高に入ったが、添乗員曰く 「こんなに空いている首都高は初めてです。」 というくらい
車の少ない首都高を快適に走り、常磐道から北関東道、東水戸道路を乗り継いで “ひたちなかIC” を降りた。
一般的にはその先の “ひたち海浜公園” で降りるのだが、一つ手前で降りた方が空いているとの判断だったが、ICを
降りて少し進むと渋滞は始まり、結局海浜公園翼のゲート駐車場まで渋滞は続いていた。

  あまり縁の無い茨木県に来たのですから茨木県について少し勉強をしましょう。
まず県名の茨木の謂れについては種々あったが、茨城の古くは “茨木” とも記されたことから “茨(いばら)の生えた地域” と
する説が妥当だと思われた。要は田舎だったんですよね茨城は。
と馬鹿にしたが、人口は全国11位で静岡県の次でした。イヤ~これにはビックリしたがさらに驚いたのは、静岡県の面積は
全国13位で茨城県は24位となっているのに、可住地面積(面積から林野と湖沼の面積を差し引いたもの)は茨木県は堂々の
4位だが静岡県は18位と大きく差を付けれれている。
これは茨木県は平地が多く(65%)住む場所が広いのに対し、静岡県は山岳地帯が多く済む場所が狭い(35%)からでしょう。
これではどちらが田舎なのか分からなくなりますよね。
ただ似ているの赤字空港がある事で茨城空港は2010年開港で、静岡空港は2009年とほぼ同じころです。
両空港とも首都圏に近いので、ドル箱の東京への便は無いので苦戦を強いられているのも同じです。

そうそう前々回のNHK朝ドラ “ひよっこ” の主人公が茨木県出身で、ドラマの中で 「イバラギではなくイバラキです。」
強調していたが、私もついつい “イバラギ” と言ってしまいます。

  県が終ったので次は市に行きましょう。
 「ひたちなか」 市はひらがな表記ですが、漢字では 「常陸那珂」 と書きます。
勿論 “常陸” は昔の “常陸国”からきているのですが、那珂は “常陸国那珂郡” からきているようです。
それより興味を持ったのは茨木県には “常陸那珂市” に “日立市” と “那珂市” がある事です。
中でも一番気になったのは日立市で、私は今まで日立製作所の企業城下町なので日立市だったとばかり思っていました。
ところがウイキペディアにはこんな話が紹介されていました。
 「1939年(昭和14年)に、旧日立町と旧助川町が対等合併したが、対等合併のためどちらの町名を使うわけにいかず、
日立鉱山が調停案として新市名に「常陸市」を提案するも協議不調になり、新市名は茨城県に一任されることとなった。
県はすでに日立鉱山と日立製作所が全国的に知られていることを理由に、新市名を日立市に決定した。
  日立製作所の成立以前から「日立村」という自治体は存在しており「日立」の地名は、徳川光圀によって名付けられたと
されるのが定説になっている。」
 
私は愛知県の豊田市と同じようように、企業城主に迎合した市名だったのかと思っていたが違っていました。

  そろそろ海浜公園に入ります。
公園の正式名は 「国営ひたち海浜公園」 と全国17ヶ所ある国営公園の一つです。
戦前は陸軍の飛行場に利用され、敗戦後は米軍射爆撃場として使われていたが1973年(昭和48年)に返還されました。
その後、首都圏整備計画の一環として国営公園として整備され現在に至っています。
当初は公園の砂質土に適した水仙やチューリップを栽培していたが、平成14年公共工事の建設残土を積み上げて造成した
丘に、他では見られなかった景観を演出しようと、ライトブルーのネモフィラを導入し “みはらしの丘” と名付けた。
これが大当たりして今では茨城県民の “県民が自慢したい話題” の1位に選ばれるほどになったそうです。

  ネモフィラってどんな花かって?


  和名のルリカラクサ(瑠璃唐草)は花色が瑠璃色で葉が唐草模様に似ているところから付いたそうです。
最近では白花や花弁の先に斑点あるもの、芯が黒くなったものも見かけるが、矢張り瑠璃色と云うか空色と云うか青い色の
ネモフィラが好きです。
この見晴らしの丘一面に植えられているネモフィラは全てこの空色のネモフィラですが、一部色抜けした白花も混じっていた。



  青い丘の上の青い空。カタカナで言うならライトブルーとスカイブルーの融合なんてものや、更に海のマリンブルーが
加わった青色の競演を見たかったのだが、今日の空は抜けるような青空ではなく、海もどんよりとした黒っぽかったのが
残念でした。



  我家の小さな花壇では毎年ネモフィラを植えていました。何しろこのネモフィラは栽培が容易で、種からでも簡単に苗が
作れるのが魅力でした。このネモフィラと矢張り種から蒔けるアリッサムが我家の庭の定番でした。



  ここひたち海浜公園は非常に広くて、大きく分けて森林エリア、みはらしエリア、草原エリア、砂丘エリア等に分かれていたが
自由時間の1時間50分で見学できたのは、みはらしエリアだけでした。
とは言え見学時間をこれ以上増やされてもとても歩いて回る気にはなれませんでしたが。

  焼津駅を5時50分に出て海浜公園着が12時頃でしたが、昼飯はバスの中での自由食です。
さらに出発が2時と中々忙しい行程です。