はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

富士山一周歩道の整備をしては

2013-02-27 09:19:02 | その他
 昨日朝日新聞の声の欄に「富士山一周歩道の整備をしては」と題した投稿が掲載されていた。

『 富士山の世界文化遺産登録に向け、関連資料の整理や遺跡の発掘が行われています。おかげでインターネットで
富士山のことを簡単に調べられるようになりました。
 しかし、目的が文化遺産登録なので、歴史関連など過去の資料が多いのが現状です。そこでこの際、富士山の新し
い文化を創るため、誰でも体験できる「富士山一周歩道」の整備を提案します。
 富士山を一周すると約180㌔ほどあります。一周歩道は新しい道を一から整備するのではなく、既存のハイキン
グコースや東海自然歩道などを極力利用し、道しるべも経費節減のため、四国遍路で見る遍路札のような物にしては
どうでしょう。宿舎も必要ですが、空き家を利用し、シャワーだけで、寝袋や食料は持参する形の簡易宿舎にすれば、
設置費用も維持費も少なくて済むと思います。その管理を地元の老人会などに委託すれば古老の話を聞くこともでき
るでしょう。
 このような誰でも歩ける一周遊歩道ができれば、日本の象徴である富士山に新しい文化が根付くのではないでしょうか。』

私が常日頃から感じていた事と全く同じ意見で------------ それもその筈で、実はこの投書は私が投稿したものです。

2月23日は富士山の日ということで、新聞には、これからのイベントとして「富士山マラソン」とか「富士山駅伝」などが
提案されていましたが、残念ながらウォークングの話は出ていませんでした。きっと富士山でウォークングなら富士登山が
あると決めているからでしょうかね。
マラソンも駅伝も結構ですが、これらの競技に参加するには、普通以上の体力を必要とし一般人の参加は無理でしょう。
しかも賑わうのは大会当日だけで、他の日は閑古鳥が鳴いてしまいます。
それなら「富士山一周歩道」を整備すれば、老若男女が春夏秋冬一年を通し利用する事ができます。そうなれば四国遍路
と同じように地域と一体となった文化が育つのではないかと考えました。
また、東海自然歩道のように、道の整備はしたが宿泊所や交通の便を考量してないため、いまでは利用者は少なくなって
しまっています。富士山ではその轍を踏まないため気軽に利用できる素泊まりの宿舎を提案しました。

実は投書の最後に「富士山一周が終わったら富士山に登り、山頂から自分の歩いた道を追って行くと、より強い感激を
味合う事ができ、自分の足に偉大さに満足するでしょう」
としたのですが蛇足なのでしょう、カットされてしまいました。

私の期待は投書が掲載さる事だけではなく、このあと一周歩道整備の機運が高まり、実際に一周歩道が完成する事です。
若し完成したら、秋の紅葉の富士山は歩いていますので、春の花の富士山一周を歩きたいと思っています。

方の上城跡3

2013-02-23 17:58:07 | 低山歩き
方の上城跡3                        歩行月日2013/02/10
出発時間:7時35分 到着時間:16時35分
歩  数: 33、326歩  GPS距離:20.7km

焼津駅 - 須賀神社 - 砂張屋道標 - 旧国道150 - 高草山 - 方の上城跡 - 焼津駅

 観歩記
高草山の標識から農道を少しだけ歩いて気が付いた。あの標識はハイカー向けの標識ではなく、自動車の
ドライバー向けの標識だと。しかし今更如何ともし難い、諦めて農道を歩くしかなかった。ただこの農道は
簡保の尾根から焼津港にかけての眺めは中々良かった。
見晴台から30分ほどで、笛吹段公園から山頂直下まで伸びる農道に合流。どうも今日はツイテいない
最初の石部への道も、一般のハイキングコースには入れようもない道だったし、この道も鉄塔と高草山間
なら、前回目印を付けた道の方が歩きやすく時間も掛からない。ようはこの道もハイキングには必要ない道だ。

石脇口からの登山道に合流し山道に入りホッとした。このまま石脇口を登ろう。
途中で坂本口からのAコースと合流し、更に登るとベンチのある所で坂本口Bコースと合流する。
この合流した場所からの焼津の眺めは高草山随一なので、木が邪魔をする山頂より是非ここで景観を堪能して
欲しい。時季が3月下旬ならベンチの端奥から藪の中に伸びている小道の先には「黄スミレ」の群生地がある。
ここもお進めの場所です。



鞍掛峠からの合流部の上は、高草山から富士山を見る最適値です。富士山の右裾野の先には愛鷹山も見え
それに続いて今日は霞んでいるが沼津アルプスが見える時もあります。
手前には日本平の丘陵が見え、更に手前には静岡の街と安倍川の河口も見えています。



さてさてこの先はどうしよう。北のピークには今年すでに3回行っているし、今日の富士山は前とおなじだ。
それなら「木喰(微笑)仏」を訪ねて歩いたときに、関方登山口に「方の上城跡」「狼煙台」の案内があった。
いつか行ってみようと思ったが今日は良い機会だ。これから関方口に下り、その場所を確認してから城跡と
狼煙台に行ってみよう。

関方口は富士見峠を下り、途中潮見平で三輪口と別れるコースだ。だがこの三輪口の潮見平コースは標識が
登り専用で、前々回歩いた三輪口池の平コースは下り専用の標識になっている。
お蔭で池の平側からは初めての人は登りにくいし、この潮見台から三輪口に下るときも、初めての人はまず
と言っていいくらい標識の無い関方口に降りてしまう、何ともいやらしい場所だ。
それが近年岡部側のハイキングコースに大理石造りの標識を建ててくれたので、潮見平の分岐がどうなったか
興味があった。

 

矢張り駄目だった。新しい標識はあったが「ここは白帆見平」とあるだけで行先表示は無い。
白帆見平? 近くには岡部が建てた地名の案内板があり、そこには「潮見平(しらみ平) 三輪地区から登り
ますと、最初に海が見える平らな所と言うことで潮見平と言われており、また焼津関方地区では、海に浮かん
でいる船の白帆が見える平らな所と言うことで白帆見平(シロホミダイラ)という。(後略)」
と書いてある。
同じ岡部が建てたのに潮見平と白帆見平の違いは何だろう。
新しい標識を焼津で建てたなら理解できるのだが---------

次の農道に合流した所に「方の上城跡・狼煙台」の標識が立っていた。この標識を見て驚いたのが目的地が
こんな山の中にあると言うことだ。これでは関方口の入口まで下りたら、とても登り直す気にはならない。
その点は良かったが標識の方向は今歩いて来た方向を指している。山道には他に案内板は無かったので、
この農道を行くのだろうか? 半信半疑ながらも農道を行くしかない。
潮見平に向かう山道入口を通り過ぎ、登り勾配の農道を歩く。心配な事があるとピッチは上がらない。
イヤイヤ30分くらい歩いただろうか、前方に何やら看板が見えてきた。多分あれが方の上城跡だろう。
「方の上城は狼煙台を備えた山城で、南北朝初期に築城された伝えられています。
明応二年(1493)今川氏親により改修され、今川軍の遠江国に進撃する連絡拠点として、監視や警備を行って
いたといわれています。山頂付近では曲輪、堀切、土塁など当時の遺構を見る事ができます。(後略)」


 
         方の上城跡の案内板                 幻の池
農道と別れ「狼煙台・幻の池」の標識に従い林の中に入る。まず幻の池だが今は冬で乾季なのに
泥水を溜めた窪みがあった。梅雨時にはこの辺り一帯が水たまりになるのだろうか?
更に進むと細い尾根道になり途中に凹んだ所がある。自然なのか人口なのか私には判断できなないが
「堀切」の案内が立っている。更に行った林を伐採した空地が城跡だったのだろう。

 
        城跡から焼津                    狼煙台跡

伐採してくれたお蔭で焼津の海の方の景色が見えている。これで視界を邪魔している他の杉の木も切って
くれれば、志太平野一円が見えるのだが。
ここに城があった当時はもっと見晴しも良く、今川の敵の斯波氏の軍勢が志太平野の先から攻めてくれば
良く見えただろう。城と言うより見張所とか砦といった感じだったのではないか。
狼煙台の標識は城跡より少し下がった、自然石が折り重なった所にあった。この石の上で単に火を燃やした
だけなのか、それとも何か器具を使ったのか。その説明は無い。

広場の周辺には桜の苗木が植えられていた。これは違うと思った。なんでも桜を植えればいいってものでは
ない。ここは見張りをした場所なのだから、木を植えるのではなく、木を切って狼煙台の再現模型や砦の
ような物を作って欲しいくらいだ。そうなればハイキングがてら高草山の行き帰りに寄る人も増えるだろう。
そうだ高草山をPRしたいと言っていたが、ここなんか丁度良いのではないかな。

3時になってしまった。くだらない妄想は終わらないと帰りが遅くなってしまう。
登ってきた農道を下りながら、城跡に高草山の帰りに寄るにしては、この農道の上り下りは大変過ぎる。
これでは寄る人はいないだろう。城跡から直接潮見平か西の谷登山道に通じる道が無ければ、さっきの
構想は成立しない。矢張り単なる思い付きに過ぎなかった。

焼津駅に4時35分に到着。城跡から約1時間半かかった。途中で寄った朝比奈川堤防の河津桜は蕾は大きく
なっていたが、まだ花は咲いていなかった。

藤枝奥の低山歩き

2013-02-22 21:26:05 | 低山歩き
高尾山・笠張山・菩提山・椿山                        歩行月日2013/02/21

歩行時間:7時間40分 休憩時間:1時間30分 延時間:9時間10分
出発時間:8時30分 到着時間:17時40分
歩  数: 43、612歩  GPS距離:30.2km
行程表
 蔵田バス停 0:60> 高尾山 0:40> 笠張山 1:00> 菩提山 1:10> 椿山1:20>  中山公園 1:00>
 清水寺 1:30> 藤枝駅


                    椿山から歩いてきた3山を

寒波が押し寄せ強風注意報が出る中、藤枝の北の奥にある低山を歩いてきました。
詳しい事はまたいつか紹介すとして、今日は歩いてきた山頂風景を紹介します。
                
蔵田のバス停を出発して高根山と高尾山の分岐に立つ「鼻崎の大杉」です。樹高27.5m 根回り14.5mの
県指定の巨木です。
          

高尾山山頂には三角点があるが富士山の頭が見える程度で景色は余り良くありません。
 
      高尾山(H675m)               山頂からの富士山

次の笠張山に向かい林道から山道に入った所から富士山が見えていました。


笠張山も林の中で景色は見えませんが、少し東南に行った所から高草山や駿河湾が見えました。
しかし今日も霞んでいてはっきりしませんでした。
 
      笠張山(H698m)                 山頂より少し東側より

菩提山の山頂も似たり寄ったりで景色は余り芳しくありませんでした。
山頂には菩提の名前の謂れなのか石仏が安置されていました。
 
      菩提山(691m)                    菩提山東側の眺め

椿山は標高484mと低く、しかも山頂の標識のある場所は林道の横で、しかも後ろにはタンクがある何とも
山頂らしからぬ所でした。
しかし眺めは今まで歩いてきたどの山よりも素晴らしく足を延ばした甲斐がありました。
山頂を少し下って開拓記念碑のある場所は300度の展望が望めます。


椿山からの長い林道の下りは、いささかウンザリしますが、登りの事を考えれば文句を言えません。
中山公園から1時間に1本ですが、藤枝行のバスが走っていますので利用できます。

今日の行程は長いようですが山道は高尾山・笠張山・そして菩提山の上り下りだけで、後は殆ど舗装された
道路でした。藤枝駅まででした9割は舗装道路です。
山道は笠張山の登りで道が枯草に覆われていましたが、目印を見ながら歩けば問題ありません。それと同じく
笠張山の下りが急で、登るのは大変そうですが、下りでしたので笹などに掴まりながら下りました。
全体に山は静かで平日だったせいかハイカーには会いませんでした。山仕事の人とはチエーンソーの音は
聞こえていましたが会う事はなく、完全な貸切状態の山でした。

次回は高尾山の奥にある高根山も同時に縦走しようかと考えています。

方の上城跡2

2013-02-20 11:12:38 | 低山歩き
方の上城跡                        歩行月日2013/02/10

出発時間:7時35分 到着時間:16時35分
歩  数: 33、326歩  GPS距離:20.7km

焼津駅 - 須賀神社 - 砂張屋道標 - 旧国道150 - 高草山 - 方の上城跡 - 焼津駅

 
              道了権現                 道了権現内部の祠
 観歩記 
大日堂のピークの次のピークに道了権現の社がある。この神社についてもネットで検索したのだが
ヒットはしなかった。大日堂より大きな社や石段のある参道をみれば、何か謂れがあると思うのだが分からない。
今日寄った須賀神社には簡単な案内板があったが塩釜神社、道標、大日堂そしてこの道了権現には何もない。
簡単でも良いから何か案内板があればもっと興味が湧くのにと思う。
昨年焼津市主催の講演会で講師が「高草山を観光でアピールしたいので案を提案して欲しい」と言っていた。
その結果かどうか分からないが、昨年所々に「○○山へ△△km」と書いてある頑丈な標識が建てられた。
それが必要ないと言わないが、どちらかと言えば旧跡を説明した案内板の方が有意義のような気がする。
と言うわけで道了権現は写真だけです。

 
              安倍川の風車と日本平           簡保の尾根から富士山が

道了権現の裏手に回ると急な下り坂になる。そこからは安倍川の河口に建つ風車や日本平が見えた。
この簡保の尾根は大崩山塊の中で一番南側で、しかも海寄りの道を歩くのに海が見える場所が少ない。
見えても清々見えるのでなくほんの一部だけといった感じだ。その少ない場所がここ道了尊の後ろです。
日本平の見える場所から少し移動すると今度は富士山が見えてきます。この尾根で富士山が見えるのは
ここだけ(?)ですの貴重な場所です。マー簡単に言ってしまえば簡保の尾根は余り景色は良くないと
いう事です。

 
         石部と水車小屋の分岐           石部の道の小屋

砂張屋道標から40分程で石部(用宗)と花沢の水車小屋との分岐に到着。
ここから花沢山へは急な階段の道が続き、この尾根一番の難所になる。そのためこの尾根道が昔の
塩を運搬した道とはとても思えないが、この鞍部から花沢山の中腹を捲いて石部に行く道があれば
塩を背負っても歩く事が出来るだろうと考えていた。
江戸時代利用されていた塩の道は、この石部の道なのか---------

一昨年まではここに標識は無かったが、今は石部側は「R150」と花沢側には「水車小屋」と書かれた手製の
標識が付けられている。この標識は大崩山塊で余り人の入らない徳願寺の尾根や、北のピークなどに付けられた
標識と同じなので、きっと岡部の澤口さんという方が付けてくれたのだろう。本当に助かっている。
今日もまたその標識に従って旧150線に向かって下って行った。

1分も歩いたろうかと言うあたりで作業小屋というか何というか、写真のような小屋が建っていた。
こんな場所に小屋があるなら道もしかっりしているだろうと気も楽になる。モノレールの線路もあり杉林の
段差を作った石垣もある。これならこの道は大丈夫そうだ。ただ気になるのは道が斜めに東に下るのではなく、
南の海に真っ直ぐ下っていることだ。このまま下ると旧150号の大分焼津寄りに出てしまう事になる。

 
             荒れている道                 旧国道150号

モノレールの線路は林の中で終わってしまったが、一体何を運搬したのだろう?そのうち植林された林も終わり
小さな沢沿いの道になると道が荒れてきた。標識や目印のテープは所々にあったが前回の残りの赤いテープが
あったので追加しながら下って行く。矢張りこの道を歩く人は少ないようだ。
分岐から25分ほどで旧150号の車道に到着。丁度山側に道が入った所で道路標識には「駿河区石部」となっている。
なら一応は静岡市に入ったのだと安心はしたが、ここが用宗駅への道の、どの位の場所か分からない。さてどうしよう
予定通りこのまま車道を用宗駅まで行くか、それとも今の道を引き返して分岐まで戻るか。
迷っているとカブに乗った人が通りかかった。慌てて「すみませーん」声を掛けて聞いてみた。
「用宗には、この先トンネルを潜って海上の橋を通って行くから大分あるなー」それを聞くと何だかやる気が無く
なってしまった。カーブも多くトンネルや海上橋もある舗装道路は余り好きではない。
止めた! 車道歩きは止めて分岐まで引返そう。

今歩いた荒れた道を戻ったのだが、アレー道が分からなくなってしまった。自分でも目印を付けてきたのに
情けない。少し戻って下の目印から歩きなおそう。
下りと上りでは視線の位置が違うので目印も見にくい物が出てきてしまう。気を落ち着けて歩き直し、やっと
次の目印に出た。
そこから少し戻り、下からでも分かる位置に目印を追加してきた。これで次回は迷わないで済むだろう。

         

尾根に近い小屋の下に来ると二人連れが下りてきた。
「ヤーこの道を歩く人がいるのですねー。何処に出るのですか」と聞いてみた。
「花沢山や満観峰ばかりでは面白くないので、久し振りにこの下にある東海道線のトンネル遺跡を見に行く」
と言う。トンネル遺跡? 私は知らなかったので更に聞いてみると
「昔の東海道線は今より海側にあって、その時使っていたトンネルが鉄道遺物として鉄道ファンに人気がある。
今日は久し振りに見に来た」
と携帯電話の画像を見せてくれた。
一瞬行ってみようかな、と思ったが、尾根の近くまで戻ってしまったし、トンネルを見た後に再度ここまで
戻るのも気が進まない。未練はあったが諦める事にした。

それにしてもこの150線に出る道が昔の塩の道とは考えにくい。道の勾配はともかくとして海岸に出た場所が
余りにも焼津側に近い。大崩の崖地帯はすでに尾根を歩いて抜けてきているので、後は花沢山の中腹を斜めに
捲いて行けば石部近くに出れるはずだ。せめて石部側にも道標があれば参考になるのだが----
残念だが簡保の尾根の塩の道は諦めるしかない。

尾根の分岐で昼飯を食いながらこれから先のルートを考えた。
花沢山に登って満観峰に行くルートは3月に大崩山塊十字縦走で歩く予定だし、1月にも歩いたばかりで
面白くない。それならここから水車小屋側に下って途中にある二輪草の状態を見てみよう。
その先は前回歩いた兎沢古墳から農道を見晴台経由で、以前見た焼津市の道標に従って高草山に登るのも
面白い。そうすれば焼津・藤枝・静岡市の建てた公式の標識の全てを歩いた事になる。

実は私のHPでは公式の標識の全てを完歩すると書いてあるのだが、ここの分岐から石部へのルートと
昨年見つけた見晴台先の農道から高草山への道を歩いていなかった。今日はすでに石部の道は歩いたので
高草山への道を歩けば全標識制覇になるので丁度良い。
ただ石部への焼津市の標識は、今日私が下った手製の標識より50m程花沢山に登った所にある。途中で
今日の道と合流するだろうがその部分は確認してない。

 
           兎沢古墳からの農道が見えた           日本坂峠よ鞍掛峠の間の景色

林の中を快調に下れる道は、石部への道とは大違いだ。歩きやすいから人が増えるのか、人が歩くから
歩き易くなるのか分からないが、花沢山周遊コースの近道で、しかも春には二輪草も見る事が出来るので
歩く人が増えた事は確かだ。だが二輪草は花が咲いていなかったので場所も分からなかった。

農道の水車小屋と見晴台の分岐から日本坂峠登山道入口には5分ほどで着いた。そこには
「平成24年7月31日に、この付近で”猿”(日本猿)が目撃されました。もし見かけたら、絶対に
近づかないようにしてください   焼津市 観光課」
とあった。
大崩山塊では猪注意の貼紙は見るが、実際には蛇以外の動物を見た事がない。でも猿も居るんだ、と
何となく嬉しくなった。遠くでいいから、いや遠くなら猿を見てみたい気がする。

日本坂峠入口から3分ほどで鞍掛峠入口になり思ったより近い距離で少し驚いた。この短い農道の間に
花沢の里と焼津の街が見える場所があった。ここでお互いにコースを変えて農道を歩けば、この景色を
見る事が出来る。

 
           見晴台                   見晴台からの景色

前回歩いた送電線の鉄塔の入口で、自分の付けた赤いテープを確認してニヤリとする。これならブログを
見て歩く気になった人が来ても見落とす事はないだろう。
そこを過ぎると見晴台になる。見晴台と態々名前を付け、標識まである割には景色は良くない。この程度の
見晴しなら他にも一杯あるし、これ以上の眺めも数えきれないだろう。
以前ここを歩いたとき地元の人が「昔はここで酒を飲んだものだ」と話していたが、地元の人はこの場所の
眺めが良くて酒を飲んだのか? いやそれだけではないと思う。きっと岡部に続く遍路道の横で便が良く、
そこそこの見晴らしがあったのでここで酒盛りをしたのだろう。それが町興しで花沢の里を売り込むため
ここに見晴台と名前を付け桜や藤などの花木を植えて整備したのだろう。その町興しの熱が冷めると、今や
ここに見晴台がある事も忘れ、訪れる人いなくなった。勿体ない事だ。

 
            猪の罠                  高草山への標識の場所            

見晴台か7分ほどで高草山への標識の場所に到着。途中に猪の罠が設置されていた。

方の上城跡

2013-02-18 17:42:09 | 低山歩き
方の上城跡                        歩行月日2013/02/10

出発時間:7時35分 到着時間:16時35分
歩  数: 33、326歩  GPS距離:20.7km

焼津駅 - 須賀神社 - 砂張屋道標 - 旧国道150 - 高草山 - 方の上城跡 - 焼津駅

  

 観歩記 
前回と同じように石脇口の風口坂から、道標の「右ハ大くづれふちう道」方面に下る。
今日は前回と違う道を下ったのだが、結局は前回と同じ鳴沢不動尊のお宮に通じる道に出てしまった。

 
          須賀神社                      塩釜神社

そこからは先ず野秋の須賀神社に向かった。着いた須賀神社の境内の縁起書には
「日本武尊がこの地において野火の難にあわれたため、かっての村名を野焼村といい、社号を野焼神社と
称したいう。実際、諸郡神階帳に「正四位下 野焼神社」とある。
しかし疫病が流行し、民家もたびたび焼失したため、焼という字を改めて村名を野秋とし現在の社号にした」

とあった。
日本武尊が草薙剣で野火に対抗したかどうかはともかくとして、大井川を渡り、スルガに入ってからは、
次々と襲ってくる東夷がいた事は確かだろう。

次に寄った「塩釜神社」は集会場に鳥居を付けたような神社で、今までは気にもしてなかった神社だが、
塩の道を歩いてきて塩釜の名前に興味を感じた。塩釜とは海水を煮つめた釜の事で、野秋では昔は
製塩を行ったいたのではないかと思ったのだ。調べてみると面白い事が分かった。
「当社は山の東海岸に鎮祭されていたが、狂濤のため浦浜が崩壊して海となり、天正十二年夏、山を越えて
現在地に奉還した。 永正二年創立」

製塩は野秋ではなかったが小浜海岸で行われていたのだ。それで分かった。小さな海辺の小浜集落への峠に、
あのような立派な道標があった理由が。あれは小浜海岸で作った塩を駿府に運ぶための道しるべだったのだ。
峠から野秋に下り日本坂峠を越えて駿府に向かう塩と、海岸線の尾根伝いに用宗に出て久能山に向かう塩。
その分岐点があの道標が立っている場所だったのだ。(私の妄想的歴史観です)
立ち寄った塩釜神社には何の案内板も無かった。

 
          馬頭観音                      地蔵菩薩

今日は東名、国道150号線、新幹線のガードを潜ってここまで来ている。そして最後に東海道線のガードを
潜ると道標への山道となった。入口には馬頭観音やお地蔵さんも安置されていて、その道がかっての古道の
感じを醸し出している。
この道を歩くハイカーは余りいないと思われるが道は良く整備されていて歩き易い。先程の石仏にも生花が
供えられていたが、道標の上にある大日堂へお詣りする人がいるのだろう。
兎沢古墳に向かう農道を横断して更に山道を登ると砂張屋孫右衛門の道標に出る

    
    砂張屋孫右衛門の道標前                 砂張屋孫右衛門の名前

ここの道標は石材が良いのか彫が深いのか、全ての面の文字がハッキリしている。惜しむらくは半分に
折れていて、折れた部分が読めない事だ。今回は道標の裏面を紹介すると
「文政十年亥●月吉日 府中江川町 砂張屋孫右衛門建之 世話人小濱村中」となっている。
文政十年は1828年で今から185年目の道標という事になる。また駿府江川町とは現在の静岡市追手町に
ある交差点に江川町の名前を残している。
今でも静岡市の中心地だが江戸時代も東海道に面した繁華街だったようだ。
江川町の江川とは伊豆韮山の代官江川太郎左衛門の屋敷があった事で名付いたとも言われている。

  
       大日堂             手水鉢                  大日如来

余談はさておき1枚目の写真で道標の場所は尾根の一番低い場所にある事がわかるが、そこから大日堂
までが急な坂になっている。そして大日堂から道了権現までも急な坂が続く。
簡保の尾根全体を見ると大日堂は小さな尖がりに過ぎないが、野秋から見るとの裏にドンと
座った如何にも守り神の様な感じの山だった。
この大日堂に関して「江戸時代、駿府と焼津を繋ぐ尾根道を歩いた桑原藤泰という人が、小浜に通じる
切通しの所に大日堂がある」
と書いてある記事があったが、それを証拠つけるような物があった。
それはお堂の前におかれた小さな手水鉢で、その正面には
「奉納 大日如来」「天保」「遠●群●田村 石屋 幸吉」等の文字が読み取れる。道標の建立が文政で
天保はその次の年号なので江戸時代にこの尾根を人が歩いていたのは確かだろう。
お堂の中には二体の座像の大日如来と、もう一体の様式の違う大日如来が(写真)安置されていた。

 
         大日堂横の切通し                  切通しから小浜海岸

江戸時代と同じように大日堂の横は切通しになっている。その切通しを抜けると視界は開け海が見えてた。
下を見ると樹間を通して小浜海岸も見える。小さく狭い海岸で砂浜は無く砂利ばかりだ。こんな海岸で
どうやって塩を作っていたか新しい疑問も湧いてきてしまった。

再々度北のピーク2

2013-02-15 10:14:53 | 低山歩き
再々度北のピークへ                        歩行月日2013/02/10

歩行時間:6時間55分 休憩時間:1時間20分 延時間:8時間15分
出発時間:8時15分 到着時間:16時30分
歩  数: 36、476歩  GPS距離:24.4km
行程表
 焼津駅 0:30> 石脇口 0:50> 兎沢遺跡 0:50> 花沢の里 0:35> 登山道出合 0:35>
 高草山 0:40> 北のピーク 0:35> 立石神社 2:20> 藤枝駅

 
              鉄塔の右が山道の入口                  山道
 観歩記
 法華寺の道標を見てから農道を進むと、鞍掛峠に向かうハイキングコースの入口がある。
それを横目に見ながら更に大きくカーブした農道を行き、二つ目のヘヤピンカーブの所で先程で別れた
農道に合流する。カーブの先には送電線の鉄塔が見え、その鉄塔の右側が山道の出発点だ。

今日の目印は前回のリボンが終わってしまったので、赤いビニールテープを2巻持ってきている。
早速目印を山道の入口付けたので、これで入口を見落とす事はないだろう。
遍路道のような道に入れば迷う事はないが、目印をツイツイ付けすぎてしまう。余り多すぎても目障りに
なるので注意しないと。
だが登山道が農道を横断する所は、案外出入口が分かりずらいの、農道に出た所では登り口にも降口にも
赤テープをしっかり付けておいた。
この出合った農道は東(右)に行けば鞍掛峠に向かい、西(左)に行けばやきつべの道の花沢城址に出るので、
石脇口から直接満観峰に行く時は、この農道を利用すれば花沢を通らずに行くことが出来ます。

 
      尾根の出合場所              花沢山と簡保の尾根(伊豆半島は霞んで見えなかった)

法華寺を11時に出て尾根のハイキングコースに出たのは11時35分だった。法華寺から鞍掛峠までは
約30分程度で歩けるので、こちらの方が5分程余計に掛かっている。だが今日は目印のテープを付けながら
来ているので実質的には変わりはないだろう。
ここの合流部と鞍掛峠の標高を新しく見つけた地図の「マピオン」で見てみると、ここの尾根の出合場所の標高は
278mで鞍掛峠は289mだった。10m程の違いはどうという事ではないが、尾根筋の一番低い場所なので、ここが
以前の峠だったことは十分に考えられる。
それに出合場所から岡部までの距離も、鞍掛峠からより若干近いので、きっとここが峠だったに違いない。
しかしこの道の利用となると今では余り考え付かないが、石脇から岡部に向かう時は鞍掛峠経由より大分短くなる
ことは確かだ。それと石脇口から周遊で高草山に登るときも利用できる。マーそんなものだろう。

新しく見つけたマピオンの地図だが、ヤフーやグーグルの地図より農道などの細い道も出ているので、今回の様に
農道が張り巡らされている山を歩く時は便利だ。それに標高もカーソルを地図の中心点に合わせるだけで計測
できるのも良い。これは国土地理院の標高線を数える方法より余程も簡単で正確だろう。
更に送電線の表示は無いが、鉄塔の表示があるのも場所を特定しやすくて嬉しい、ただ距離の測定が道に沿って
ではなく直線距離なのは珠に傷だ。(使いこなしてないだけかも)

  
                           高草山から焼津港

高草山に12時10分到着。
高草山は双耳峰で三角点は西峰にあり標高は501mとなっている。だが東峰から西峰に行くには下ってから
少し登るのだが、その下りの方がキツイ感じがする。
要は東峰の方が高いと思えるのだが、国土地理院の地形図では両峰とも500mから510mの中に入っていて
正確には分からないでいた。そこでマピオンで標高を調べてみると------- 
ナンダ―面白くない両峰とも同じ501mだった。
ついでに満観峰と花沢山も比較してみると、マピオンも国土地理院も同じ標高になった。
これなら使えそうだ。それならと気になっていた古代大崩山塊越えに使われた、日本坂峠と蔦の細道それに
宇津ノ谷峠を比較してみた。
一番古い日本坂峠が301m、次いで万葉時代使われた蔦の細道は196m、江戸時代の宇津ノ谷峠は164mと
時代と共に標高が下がり歩き易くなったのがはっきりわかった。
一度マピオンの地図で利用してみてください。

少々脱線したが、高草山で休憩するハイカーたちは、三角点のある西峰には余り行かず、高草権現の祠のある
東峰周辺で休憩している人が多い。そんな中、西峰に向かって歩き出した私に若い二人連れが
「そっちにも下る道があるのですか?」と声を掛けてきた。
待ってましたとばかりに得意になった私は
「ありますよ。富士見峠や池の平からも下る道はあるし、更にその先には眺めのいい北のピークがありますよ」
「北のピーク? 聞いた事がないな~」
それはそうでしょう、北のピークは私が勝手に言っているのだからと
思ったが、それは口に出さなかった。結局一部道が悪い事を伝えて同行することに。

   
          北のピークから富士山                北のピークから南ア

北のピークへ13時10分に到着。今日は若い同行者がいたので少しピッチを上げた積りだったが、前回歩いた時と
同じタイムの40分で違いはなかった。
北のピークのからの景色は、今日も清々していなかったが、それはそれで
「満観峰は富士山は見えるが志太平野は見えない。高草山は志太平野は見えるが富士山は見えない。
だが北のピークからは富士山も志太平野もそして南アルプスも見える」
と盛んに宣伝をしてしまった。

北のピークから立石神社の間にも赤いテープを付けながら下っていると
「道を知っているのに何故テープを付けるのですか?」と聞かれた。
「貴方が次回ここに来たいと思ったとき、この目印があれば歩けると思うでしょう」と言うと納得してくれた。
流石にブログでコースを紹介したのでとは言えなかった。

そうそうもう一つ、林の中の荒れた道にある立派(?)な石垣を見て一人が
「今川の隠し砦ではないの」と言ったのを聞き、自分と同じ感想だったので何となく嬉しくなった。

立石神社に13時50分到着。そこで二人と別れたが、さて帰りの道はどうしよう? 岡部の山辺の道は
歩いたばかりだし、それなら久し振りに旧東海道を歩いてみようと岡部の街に向かった。
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私の勧める北のピークのコース
 焼津駅 0:40> 石脇口 1:10> 高草山 0:50> 北のピーク 0:40> 立石神社 0:40> (山辺の道) >
 十輪寺 0:10> 神神社 1:00> (朝比奈川堤防) > 焼津駅

※ 2月には朝比奈川堤防の河津桜が、3月中・下旬には十輪寺の木蓮が見頃です。
  十輪寺の木蓮祭りのときは、木喰仏(微笑仏)も自由に参拝できますので一度歩いてみてください。







再々度の北のピーク

2013-02-13 12:50:59 | 低山歩き
再々度北のピークへ                        歩行月日2013/02/10

歩行時間:6時間55分 休憩時間:1時間20分 延時間:8時間15分
出発時間:8時15分 到着時間:16時30分
歩  数: 36、476歩  GPS距離:24.4km
行程表
 焼津駅 0:30> 石脇口 0:50> 兎沢遺跡 0:50> 花沢の里 0:35> 登山道出合 0:35>
 高草山 0:40> 北のピーク 0:35> 立石神社 2:20> 藤枝駅

 観歩記
富士山が見えるのを確認してから家を出る。
本来なら早いうちに北のピークで景色を眺めたかったが、朝一番から平地を1時間半も歩くのが
億劫だし、バスに乗ると歩行距離が稼げないと石脇口から登る事にした。
その石脇口の風口坂の峠には、古い道標が立っていて

   
              風口坂の道標               道標拡大

右ハ大くづれふちう道 左ハ成沢くあんおん日本坂府中道 
高崎風口坂 文政4年9月 成沢せわ人 直右エ門」と彫られているようだ。
尤も私には青く表示した部分しか読めなかったが、それでも道標の大意は分かる。
この道を直進(左)すれば日本坂を経由して府中(静岡)に抜ける事が出来、右に行けば大崩経由で
府中に行けるという事だろう。ウーンでも不思議な話がある物だ。
大崩海岸から簡保の尾根を越える所に「砂張屋孫右衛門」の道標があり、その道標の正面には
「右小はま村 ふちゅ道」裏面には「右 ふちゅみち 久能山道」とある。
私はその意味を、内陸部にある今の小浜から日本坂峠経由で府中に行く道を指していると
思っていた。だがここ風口坂に道標は大崩経由府中道を案内している。ではあの簡保の尾根から
府中へ行く道が実際には有ったのだろうか。これは確かめる必要がある。
ヨシ今日はこの道標から下の部分を歩いてみようと車道を離れて山道に入る事に。


             下には東名が走っていた         兎沢遺跡への農道入口

道は少し登りになった山道と、コンクリを打った下りとに分かれていた。当然登りの山道を歩いた
のだが----、結論を言うと山道は東名高速にぶつかり消えてしまった。仕方なく竹林の中を強引に
下って出た車道は、鳴沢不動尊のお宮に通じる道だった。

車道の南側にある東名のガードを潜ると、その先には簡保の尾根の山が近くに見える。
風口坂からもう一本ある花沢に向かうやきつべの道は、高草山の中腹にあり結構起伏がある道だ。
それに比べ平地に降りて平らな道を簡保の尾根に向うこの道は確かに楽だった。
次回の大崩山塊はこの道から砂張屋の道標に行き、日本坂峠に出ないで府中に抜ける道を探して
みよう。色々湧いてきた疑問はそれまで封印しておく事にする。

今日は前回見つけた宇津ノ谷の坂下地蔵に参詣する遍路道らしき道と、北のピークから立石神社に
抜ける道に目印を付けるのが目的なのだが、タイミングよくブログの「静岡遺跡・古墳・城跡ガイド」
花沢山中腹にある「兎沢遺跡群」の記事が載っていた。
そんな古墳がある事は知っていたが、ブログに「国内唯一の壁画(線刻画)がある横穴式石室」
紹介されていたので興味を覚え立ち寄って見る事にしていた。

何時もなら花沢の里観光駐車場に向かう交差点だが、ブログにこの交差点で東名に沿った農道に
入ると紹介されていた。しかし交差点には遺跡を案内する標識は無く、少し不安も感じたが遺跡が
なくても、この農道は花沢には通じているだろうと歩き出した。
農道はじきに東名高速の日本坂トンネルの入口になり、トンネルの排煙施設が出てくる。その農道は
太いが中々急な坂が続き、途中で下を覗きこむと歩いてきた農道が九十九折れになって見えていた。
農道入口から20分ほど歩いて焼津の街が見えてきた辺りに「兎沢古墳群」の標識があった。

      
             兎沢遺跡群の標識               6号墳

標識の斜面を登ると最初の古墳があり案内板が立っている。それによるとこの古墳群は
「今から1700年~1300年前の古墳時代後半の物で、石を積み上げ入口(羨道)と部屋(玄室)を
つくり、その上の土を盛った「横穴式石室」と呼ばれる構造を持っている。兎沢遺跡群は8基の
古墳群で、道路より下に4基、道路より上に4基のあり、上の4基は石室が露出しており、その
姿を見る事が出来ます。また9号墳には奥壁に線刻画があります」


      
          7号墳                      8号墳

今まで古墳はどちらかと言えば平らな所にあると思っていたが、ここの古墳は山の傾斜面に
造られている。こんな場所でよいなら大崩山塊のどこでも古墳は作れそうだ。
9号墳は古墳を保護するため覆屋が建てられていました。

 
             9号墳の覆屋                  9号墳

9号墳の奥壁には線刻画あると書かれていたが、私の写真技術では判別不能なため、案内板に
載っていた写真を紹介します。
この古墳について詳しい事が知りたい方は、先に紹介した「静岡遺跡・古墳・城跡ガイド」
線刻画も含め掲載されていますので参照してください。

  
            全体図                    部分図

          
              9号墳奥壁             9号墳からの景色

古墳を見る事に夢中になっていて景色を見ていなかったが、9号墳から下を見て驚いた。
樹間の間から駿河湾や焼津の街が見え、すぐ下には新幹線や東名高速も見えている。
古墳を造るころは当然海以外は無かったし、その海も今よりズート内陸まできていて、入江を
作っていたと思われる。だから奈良時代の東海道(やきつべの道)は高草山の中腹を通って
いたのだと納得もできた。
以前高草山の笛吹段や筧沢(ひよさわ)遺跡を見て、高草山周辺の古代人は墓地の選定に
眺めの良さも条件に加えていたのではないかと思ったが、ここもまさにその条件に合致する
場所だった。

遺跡見学を終え農道を更に登って行くと更に眺めがよくなった。私ならこの辺りに墓を作る
のにと思いながらフト下を見ると、何とすぐ下に先ほどの9号墳の覆屋の屋根が見えていた。
農道は傾斜を緩くするためにグル―と遠回りしているが、直線にすれば短い距離なのだ。
この農道の周辺には古墳の奥壁が作れるような大きな石や、側壁に積み上げる小型な石も、
そこらに顔を出している。しかも景色は良いと来ているので、この斜面の中を探せば古墳を
見付ける事が出来そうな気もしてきた。若し魚群探知機や金属探知機のように古墳探知機が
あれば、それをぶら下げてこの辺りを歩きまわってみたいな。

中々歩きでのある農道で、高度も簡保の尾根より高くなって尾根越しに海も見えてきた。
予定はこんな筈ではなくて、もっと簡単に農道を歩き終わると思っていたのだが------
ようやく道が下り坂になると正面に高草山が見えてきて、それに連なる尾根には今日歩く予定の
茶畑や鉄塔が見えている。こうして見ると茶畑の辺りが一番低くいようで、尾根越えには適して
いるように見えるのだが。

 

更に農道を下って行くと、やっと花沢山の入口になった。この山道は数年前までは殆ど歩く人が
いなかったが、最近尾根に手作りの標識が付けられたり、途中に二輪草が咲いている事も知られて
きて、花沢山の山頂ノートには多くの感想が書いてある。

今回私は花沢観光駐車場から兎沢古墳を見て、ここから花沢山を目指すルートが良いと思ったが
農道が想定以上に大変だった。それなら花沢山の帰りに、ここから遺跡に向かった方が楽だろう。
まだ兎沢古墳を見た事のない人は一度歩いてみてください。

 

農道の分岐に標識があり正面は見晴台となっている。その見晴台方面の道を行けば、途中で
法華寺から日本坂峠や鞍掛峠に向かうハイキングコースとも合流している。
だが今日はここから花沢の里に下って、法華寺の入口の道標から見晴台に向かう事にしている。
無駄な事だが法華寺から見晴台の鉄塔までどの位で歩けるか計っておきたいので仕方ない。

10時50分に法華寺に到着。石脇口から真っ直ぐここに向かえば40分も掛からずに来れたのが、
兎沢古墳経由だと1時間半も掛かってしまった。


 青線=歩行ルート 赤線=市境

農道がしっかり出ている地図を見つかましたので再度UPします。
右下の農道入口を出発して兎沢古墳に行き、その後グルグルと農道を辿って法華寺へ。
法華寺から送電線の鉄塔までは農道を歩き、鉄塔からは山道になります。その山道は地図を
よく見ると山道の線が書かれています。以前はハイキングコースだったのか、それと私が想像する
遍路道なのか分からないが、道であった事は間違いなさそうです。
更に岡部の坂下地蔵に行く今の道は、法華寺から鞍掛峠に登り、随分大回りになった農道を
市境と表示した方に下ります。それなら鉄塔から道の方が距離も短いですよね。
問題は鞍掛峠と鉄塔上の尾根の標高がどうかという事ですが、それは次回説明します。