はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

歩き納め 2

2012-12-31 15:39:08 | 低山歩き
歩き納め 2                   歩行月日2012/12/28

歩行時間:7時間00分 休憩時間:0時間35分 延時間:7時間35分
出発時間:8時50分 到着時間:16時25分
歩  数: 35、4500歩  GPS距離:27.7km

行程表
 金谷駅 0:30> 諏訪原城跡 0:25> 歩き観音 0:55> 火剣山 0:40> 小夜の中山峠 0:15>
 中山新道峠
 1:20> 安田の椎の木 0:50> 掛川坂 0:15> 観音寺 0:35> 日限地蔵 0:25>
 大井川大橋左岸 
0:50> 島田駅

 
          西行法師の歌碑               小夜の中山旧東海道
観歩記
「年たけて またこゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」
これは西行が69才になり、二度目の奥州藤原氏を訪ねていく旅の途中の歌だという。
解説は色々あるが、この歌は自分に置き換えて解釈しても十分感じるものがある。
私も来年は69才の年寄りになる。今年も色々あったが、またこうやって小夜の中山を越す事が出来た。
これも健康な体があればこそだ。まさに「命なりけり」だ。

この旧東海道をもう少し西へ行った所に芭蕉の句碑が建っている。その句碑には 
「命なり わづかの笠の 下涼み」とある。一読すると何と大袈裟なと感じたが、芭蕉は西行を尊敬
していて、西行の「命なりけり」を踏んでいると聞けば何となく納得できる。
それにしても高年芭蕉が年を取ってから、野ざらし紀行で詠んだ小夜の中山の
「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」とは大分趣が違う。

これから歩きを続けている限り、歩き納めはこの西行の歌碑にしよう。

 
   中山新道の中山峠                 中山新道より国道1号線

小夜の中山からは、国道1号線の中山トンネルに抜けるハイキングコースを歩いて、粟ヶ岳の麓に
行く事にした。春もこの道は歩いているが、その時は入口は雑草が塞いでいたが、今は雑草は枯れ
気持ち良い道だった。
ハイキングコースは一旦中山新道にでて、そこから国道に向かうようになっている。この中山新道とは
「江戸時代、小夜中山の峻険な峠は東海道の難所として知られていましたが、明治5年に、道路や橋の
建設修理工事を行った者が、かかった費用を交通料として徴収することができるという、有料道路の
建設を認める明治四年太政官布告第648号が発令すると、杉本権蔵が小夜中山を切り開いて道路を
建設しました。中山新道は全長約6.7km、人夫延数万人をかけて明治13年5月に完成しました。」

この中山新道は日本初の有料道路で、石畳は荷馬車が通行禁止だったため、荷馬車をはじめ有料でも
坂の少ない新道を歩く人が多かったと言います。
それはそうだと私も思う。いま歩いてきた小夜の中山の旧東海道から中山新道までは全て下り坂だった。
標高でいえば旧東海道は250m。中山新道は170mと80mも低い位置にあります。しかも旧東海道の
菊川の間の宿は標高100mと低いんですよね。一方の中山新道は、その低い位置まで下らず中腹を
横断して行ってます。これなら少しぐらいの料金なら払っても楽な道を選びますよね。

今年東海道を歩いて色々疑問に感じた事があったが、この小夜の中山の尾根道も納得がいかなかった。
誰が見ても楽な道ができそうなのに、大変な尾根道を歩かせた理由が分からない。
結局助郷の既得権の問題で、街道の変更はむずかしかったのではないかと考えた。更に意地の悪い
見方をするならば、日坂宿と金谷宿間の距離は6.5kmと短く、途中に難所が無ければ、大井川の
川越が心配な旅人は先の金谷へと行ってしまうので、日坂に泊まる旅人が居なくなってしまう。
そこで難所を残した。まさかな~、いくら妄想的歴史観とは言え日坂宿に失礼かな。

前回は中山新道を西に抜けたが、今日は東に行く事にした。ただ東側には「行き止まり」の看板が
建っていたが----
国道1号線バイパスの中山トンネルの上に出た。下を見れば車がひっきりなしに走っている。道は
右側なら降りて車道に出れそうだが、その先の車道は横断できそうもない。左は道は無いが無理を
すれば今は廃道となっているバイパスの取り付け道路には出れそうだが藪漕ぎは気が進まない。
結局中山新道を戻り西側に抜けて、更に粟ヶ岳の近くに行く事にした。

 
       粟ヶ岳                       茶畑

歩いた事のない道だが粟ヶ岳が見えているので位置関係はなんとなく分かる。広い農道で車は殆ど
走っていないので気持ち良く歩く事が出来るし、何ヶ所の分岐も余り上にはいかず、下にも行かず
と適当に選択していく気楽さも楽しい。
御林の製茶工場の横を通り、この辺りは粟ヶ岳の麓地区の東山ようで、粟ヶ岳の茶の字がますます
ハッキリしてきた。反対側を見れば茶畑が広がり防霜ファンも立っている。この辺りはまだ開拓して
間もないのか、空地で重機が動いているのが見える。

     
          ??                      ??

これは何だろう。別々な所にあったのだが並べると何やら怪しげな雰囲気が無いでもない。

        
       粟ヶ岳                       猪の罠

今まで左側から見ていた粟ヶ岳の茶の字が、ようやく右側から見れるようになった。ここまで来れば
もういいだろう。あとは右(東)方向の道をとって金谷に下る事にする。

 
       安田の大シイ                     安田の大シイ

静岡県指定天然記念物 安田の大シイの木の横に出た。この椎の木は根回りが18.5m、枝張が
東西26m・南北23mの巨木です。今年同じ島田市の千葉山の十本杉の一本頼朝杉が倒れてし
まったが、この椎の木なら倒れると言うよりも枝折れをしてしまいそうな感じがする。
根元から何本も枝分かれした枝は支柱で支えられていた。

ここから先は以前遠江3観音で歩いた事がある。どうせなら札所の観音寺にもお参りしていこう。

 
       茶畑                        粟ヶ岳と茶畑

牧の原台地の茶畑も広いが、ここの茶畑もそれに負けないぐらい広い。牧の原は平らな茶畑が
多いが、ここの茶畑は傾斜があるので一目でより多い茶畑を見る事が出来る。
粟ヶ岳も今日は良く見た。しかしここで台地を下り金谷に出るのでお別れになる。

 
       新東名                         古道掛川坂

台地から下り出すとようやく大井川が見えてきた。その手前には新東名が走っている。
この台地からの急な坂は掛川坂といい、慶長9年の大井川の大洪水で島田宿が流されてしまい
東海道は11年間も山側の北廻りコースになった。その時の道がこの掛川坂だと言う。
案内板があり「藤枝-東光寺-元島田-大鳥-大井川-牛尾-新宿-谷北-掛川坂―行田原-小鮒川-
御林-日坂-掛川」
とルートが書いてある。この内幾つかの地名は聞いた事があるが、道はどう
なっているのだろうか、歩けるものなら歩いてみたいが---

案内板の横の道がその古道のようだが、中々どうして塩の道の秋葉山裏参道や青崩れ下の
廃屋街道より余程もしっかりした道だ。
この古道は今は歩く人はいないが近年までは利用していたような感じだ。

  
       観音寺                         33観音像石塔

観音寺の後ろは新東名の騒音防止用の隔壁が建っているが、さぞかし観音様は喧しかろう。
静かな雰囲気が破られた損害賠償はあったのだろうか。

この境内には1枚の石に33観音像を彫った珍しい石仏がある。六地蔵なら時々見かけるが33観音を
彫った物はここでしか見た事がない。この様な状態の石碑は何と言うのだろうか?板碑?とも
ちがうのかな。チョット自信が無い。

さてここからは金谷駅に帰る予定だったが、歩行距離がが17kmしかなっていない。少なくても
30kmは歩こうと思っていたので、またまた行先変更。
これから金谷の日限地蔵によって大井川を渡り島田駅に出る事にしよう。

結局島田駅までの歩行距離は27.7kmで30kにはならなかったが打ち止めにした。

歩き納め 1

2012-12-30 18:15:11 | ウォーキング
歩き納め                   歩行月日2012/12/28

歩行時間:7時間00分 休憩時間:0時間35分 延時間:7時間35分
出発時間:8時50分 到着時間:16時25分
歩  数: 35、4500歩  GPS距離:27.7km

行程表
 金谷駅 0:30> 諏訪原城跡 0:25> 歩き観音 0:55> 火剣山 0:40> 小夜の中山峠 0:15>
 中山新道峠
 1:20> 安田の椎の木 0:50> 掛川坂 0:15> 観音寺 0:35> 日限地蔵 0:25>
 大井川大橋左岸 
0:50> 島田駅

観歩記
 今年の歩き納めは早い段階で西行法師の歌碑のある小夜の中山峠と決めてあった。
ただその前後のコースの腹積もりは無く、その時の雰囲気で歩こうと思って出かける事にしていた。

 
        長光寺の芭蕉句碑                 金谷石畳の芭蕉句碑

金谷駅を下車して旧東海道の石畳に向かう途中、いつもは無視して通り過ぎていた長光寺の句碑を
見に行く事にした。この句碑は松尾芭蕉が40歳のとき、江戸から伊賀上野への旅の俳諧紀行文
「野ざらし紀行」 の中の 「道のべの 木槿は馬に 食はれけり」 一句です。
意味は 「道端に咲いていた、むくげの花を馬がパクリと食べてしまった。ついさっきまで咲いていた
花はもう影も形もない。唐突のようでもあり、当然のような気もして、何だか瞬間に幻を見たような
思いである」 
だそうです。
この野ざらし紀行の句碑は、これから行く金谷坂の石畳の上にもある。
「馬に寝て 残夢月遠し 茶の煙」
「馬上でうとうとしながら旅を続けて、やにわに夢見心地から覚めると、有明の月が遠くに見え、
もう、村里に朝茶を炊く煙がたなびている」
 となるとか。
野ざらし紀行は紀行文でもあるので次のような記述もあった
「馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。小夜の中山に至りて忽驚。」 

ようは馬に乗ってウトウトしていた芭蕉が目を覚ましたのは小夜の中山だった。だが句碑の建っている
場所は金谷坂の途中で小夜の中山はまだまだ先だ。
マー句碑や歌碑は、その歌の雰囲気が合っていれば読んだ場所でなくても立てるようで、同じ
野ざらし紀行の「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」の句碑が箱根の西坂(三島側)と伊豆半島の
下田街道の宿場町大仁にもあった。
箱根では芭蕉が富士山を見られなくて、やせ我慢をしているとニヤリとしたが、大仁では何故ここに
と首を傾げてしまった。それに比べれば金谷坂の句碑は2.3kしか違わない場所なのだからヨシと
すべきだろ。だが石畳のゴツゴツした道では、馬の乗り心地が悪く眠気も湧かなかったろうにと同情
してしまう。

       
        三猿の庚申塔                すべらず地蔵

石畳の途中に、これも今まで寄らなかった「鶏頭塚」に寄ってみると、そこには三猿の庚申塔が
建っていた。こんな自分のお膝元に有ったのに、今まで気が付かないとは情けない。
これで県内で庚申の猿の石仏を見たのは4カ所目になった。案内板には
「良きことは大いに広め 悪しきをば 見ざる 聞かざる 言わざるが良し」 とあった。

毎度お馴染みの「すべらず地蔵」です。話も同じく「この石畳は「すべらない」という特徴から
受験や商売の願いが叶う」
と案内板に「イヤ違うだろう滑りやすい石畳でも、この地蔵を拝めば
滑らないだろう」
と言いたくなってくる。
今回このすべらず地蔵の反対側にも小さな古い地蔵が安置してあるのに気付いた。若しかしてこれが
本来のすべらず地蔵かしら?

 
       粟ヶ岳                        桜の大木

松尾芭蕉の句碑を通り過ぎた辺りで急遽行先に「松島の歩き地蔵」を追加した。
菊川坂の石畳の入口で東海道と別れて、多分大丈夫だろうと思われる林道に入る。
矢張り正解だった。正面の山は歩き地蔵のある火剣山。その右手には茶の字も鮮やかに粟ヶ岳も
見える。
山を下りきった所に大きな桜の木があった。近くに「櫻の根の保護のため車の乗り入れ禁止」
あるので地区で大事にされている桜なのだろう。


       
      歩き観音の荒れた参道                   参道の双体地蔵

松島歩き観音の参道は相変わらず折れた竹が塞いでいて、惨憺たる有様だったが不思議と歩くには
支障が無かった。蜘蛛の巣も無く時々歩いている人がいるようだ。
その参道の石仏は今までも見ていたが、今回初めて「双体地蔵」だと気が付いた。双体の道祖神は
見た事はあるが、ここの石仏は坊主頭で丸い顔をしていて通常見る道祖神とは明らかに違う。
ネットで検索したが双体地蔵は何件もあって、中には双体道祖神としているのもあった。
果たしてこの石仏は道祖神なのか地蔵なのか?聞いてみたいが誰もいない。
それと驚いたのは石仏の前に7.8枚の硬貨がお供えしてあったのだが、これが100円硬貨だった。
普通なら5円か10円なのに100円とは珍しい。増々興味を惹かれた。

       
       歩き観音堂                         歩き観音

通称「松島の歩き観音」は遠江33観音25番札所松島山岩松寺に安置してある観音様で
「山道にひっそりと立っていた観音様を見て里人は「さぞ淋しかろう」と往来の多い小夜の中山峠に
観音様を移してやった。ところが翌日里人は驚いた。確かに移した観音様が元の場所に立っていた。
足元を見ると土埃で汚れている。これはきっと観音様が自分で歩いて帰ってきたのだろうと
「歩き観音」と呼んでお参りをするようになった」
と伝えられている。

歩き観音から火剣山に向かう事にしたのだが、この道は10月の40km3Dのときダウンした場所
なので、何となく気が重い。マー今日はまだ歩き始めたばかりなのでダウンする事もあるまい
と性懲りもなく火剣山に向かった。

  
       火剣山展望台                    展望台の無縫塔

まだ寄った事のない「墓の峠展望台」なる所にも寄ってみたら、思ったより眺めが良い所で
牧の原台地や茶畑も見える。生憎今日は富士山は見えないが、晴れていれば富士山も見えるし
東側が開けているので日の出を見るのにも適している。
展望台の名前の墓とは代々の住職の墓と書いてあったが、確かに無縫塔なのだから住職の墓だろう。
だが何処の寺だ?火剣山は神社だし途中に寺は無かった。

      
        文殊菩薩            大日如来           火剣坊神社

火剣山の入口には鳥居があり、これなら神社だと思ったら、次に表れたのは文殊菩薩に大日如来
いったい神社なのか寺なのか?
境内に「火剣山略記 本尊:火剣山大権現 標高:282m  火剣山大権現は光龍寺奥の院として
建立されたもので、遠州七坊の一つとして、今から1300年余の昔行基菩薩が小庵を結び-------
秋葉三尺坊と同一の木で尊像を彫刻した。 火剣坊社務所」 

ウーン余計に分からなくなった。行基が開基なら寺だし、秋葉山で行基が彫ったのは聖観音だ。
しかも秋葉三尺坊はそれから90年も経ってから越後から来ている。この略記には大分無理がある。
これは多分神仏混淆だった寺が、明治の廃仏毀釈で仏教を分離し神社となったが、山上の小さな
施設だったので、石仏等はそのまま目こぼしになったのではないかと、妄想的歴史観は告げている。

 
     小夜の中山一里塚                   粟ヶ岳

旧東海道とは菊川坂の石畳で別れたが、また小夜の中山一里塚で合流した。ここから西行法師の
歌碑までは少し東に戻る事になる。
さっき見た粟ヶ岳が一段と近くなって見えてきた。

塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪-和田6)

2012-12-24 09:54:00 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪~和田6)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:6時間30分 休憩時間:0時間35分 延時間:7時間10分
出発時間:6時20分 到着時間:13時30分
歩  数: 30、920歩  GPS距離:20.9km

行程表
 水窪中村旅館 1:00> 賽の河原 1:30> 国道分岐 0:35> 足神神 0:25> 青崩峠入口 0:15> 青崩峠
 0:20> 林道出合 0:25> 廃屋入口 0:40> 林道出合 0:25> 兵越峠分岐  1:00> 明神前バス停

 
            国道152号の標識               兵越峠への標識
観歩記
林道に入ると気分は終盤気分になってしまい、まだ廃屋の道はあるが行く気は無くなってしまった。
後は「梁木島番所(はりのきじまばんどころ)」を見てバス停に行こう。それで今日はお終い。
この番所は大坂の陣から逃れてくる豊臣の落人を取り締まるために設けられた番所で、初めは
青崩峠の下にあったが崩壊のため現在地に移転した。東山郷が徳川の天領になると、番所は材木の
取り締まりを行うようになり、それが明治3年に番所が廃止するまで続いていた。
塩の道はこの番所の前を通っていたというので当然見る事が出来るだろう。

先程から車が全然来ないと林道だと思って歩いていたら、途中に通行止めの標識があり道路を
遮断してあった。道理で車が来ないはずだ。この林道の上流は何ヵ所も崩壊しっぱなしだし、もう
この林道は復旧する気は無いのかもしれないな。

工事の車が止まっている所に、国道152号の標識と共に幾つかの看板が立っている。
「この先6km通行不能」この看板は恒久的な看板だ。「この先崩壊のため全面通行止」 更に
「工事用道路を作っています 平成24年度三遠南信青崩工事用道路建設工事」なんてものある。
平成24年度とあるからもう工事中と思うが、ここから上では工事はやっていなかった。

そんな標識の先で、林道いや国道は分岐していた。そこの標識には左を差して「兵越峠」とある。
そして右は点線で「青崩峠・秋葉街道遊歩道」となっている。またまた新しい名前だ。ここまで
歩いてきて秋葉街道遊歩道なる道は無かったが、多分青崩峠遊歩道の事だろう。
それにしてもまたもや遊歩道とは、長野県は遊歩道の名前が好きなようだ。

兵越峠への静岡側の分岐からここまで約3時間40分かかったが、車で兵越峠越しなら30分か
40分で来てしまうだろう。しかしこれほど豊富な体験は出来ないのだから、やはり歩きは楽しい。

 
            八重河内川                  遠山郷の案内板

この辺りは「東山郷」と呼ぶようで、峠からずっと左側を流れていた川は東山川。オッと違った
この川は東山川の支流の八重河内川だった。八重河内とは廃屋の道の入口の案内板を建てて
くれた名なので、この辺りが峠に一番近いなのだろう。
案内板を見ると梁木島番所はこの先左側にありもうすぐ着きそうだ。ゴールのバス停までは
ウーンこのイラストの案内板ではよく分からないが、そう遠くなさそうだ。


                       三遠南信道看板

三遠南信道の大きな看板が建っていた。それによるとこの看板のある地点は和田バイパス
地区で、さっき兵越峠と合流した地点が小嵐バイパスで小嵐ICが出来るようだ。
その先は青崩峠道路となっていて、4.9kmのトンネルで青崩峠の西側を抜け、水窪側の草木
トンネルの下に抜けるようになっていた。
この和田バイパス地点は工事が盛んに行われていて、この三遠南信道が計画だけではない
事が分かる。

さて大分下ってしまったが梁木島番所はまだなのだろうか、ガイドブックの地図では川の向
側のような気がするが、分岐場所には 降り口不明瞭」となっている。
ここまで気を付けて歩いてきたが道標などは見当たらなかった。例の踏破研究会の白い
道標は他県に建てるのを遠慮したのか、青崩峠を最後に見ていない。研究会の協力した
塩の道ウォーキングには和田までの地図が掲載されているのだから、せめて和田まで
道標も建てて欲しかった。まさに「亡くなって知る親の有りがたさ」
 イエイエ今回は、有る時も十分有難味を感じていました。

八重河内川を渡る橋の所で、地元の人に梁木島番所の場所を聞くと、橋を渡ってから大分
戻らなければならないと言う。時間は1時半前なので余裕はあるが、何故か戻る気は無く
なってしまった。林道に出てから終盤モードでダラダラ歩きになり、余計に疲れを感じ
意欲を失くしていた。それに見所を残してこけば次回も歩く気が起きてくる。
なにしろ秋葉神社の裏参道では完全に道を間違てしまったのだから、リベンジをしなければ
面子にかかわる。
西渡から水窪間では轍跡を見なかったし、高根城も見てみたい。そして水窪・和田間では
木地師の郷西浦の観音堂を見たいし、それにここの梁木島番所が加われば、見たい所が
増えてより再挑戦する気になるだろう。と上手い言分けで自分を納得させた。

番所を聞いた後「塩の道が荒れていて大変だった」と話すと「この工事を始めてからは、
あっちの補修はやらなくなった」
と言う。
私は廃屋の道を念頭に言ったのだが林道と勘違いしているようだ。
「こんな高速道路を作って交通量が増えるのですかねー」と言うと、面白い事を言いだした。
「そだねー、車は増えないかもしれないが、この工事は例の東北地震の復旧予算が回って
来たもんで慌ててやるようになったんだ。だから静岡の衆は地震になったら救援物資が来る
ので助かるじゃないかな」
 
成程その使途が流用だと騒がれた東日本大震災の復興予算の話がこんな所にもあるのか。
それに東海地震が言われている静岡県への救援物資の搬送なら、自衛隊の風呂やエアコン、
ましては捕鯨の補助よりは筋は通るかもしれない。
しかし静岡県の、それも津波が襲われる可能背の高い焼津市に住む者としては、このような
救援物資搬送路より、津波タワーや学校の耐震などを先にやって欲しい。
予算の出どこが地方と国の違いがあるかもしれないが、それを調整するのが政治家の仕事だ。
高速道路なら大きな予算を使うため、利権を握り政治献金を集めやすいが、津波タワーでは
金が集まらない等と不埒な考えの政治家はいないと思いたいのだが------

ところでどうしても気になったのが、この兵越峠の交通量です。今日歩いていて車には余り
出合わなかった道に、自動車専用道を作る必要があるのか、疑問に感じたので調べてみた。
そして検索出来たのはウィキペディアの1件だけだったが
「24時間交通量(平成17年度道路交通センサス)静岡県浜松市天竜区水窪町大字奥領家字池島 : 240台」
とありました。東京都の猪瀬副知事なんとかなりませんかね。

 
         国道152号と418号合流           尾の島館跡石仏群

前方に青い道路標識が見えてきた。あそこが国道152号と418号の合流地点でバス停のある場所だ。
13時30分神明前バス停に到着。青崩峠から約8.4kmで3時間と廃屋の所で時間がかかった割には
予定通りの時間で着いた。
いつの日か信州側の塩の道を歩くときは、ここを出発地としよう。


    --------------------------------------------------------------------
追記:
神明前から飯田線の平岡駅行のバスは15:12と16:42の2本があった(休日は16:12の1本)が
それまで1時間半以上ある。ここにいても仕方ないので駅に向かって歩くことに。
平岡駅までの距離は約10km。途中でバスに乗る予定だが、バス停が気になって結局2時半まで
歩き、飯島と言うバス停からバスに乗ってしまった。
乗ったバスは時刻表には乗合タクシーとあったがワゴン車だった。乗客はいなかったので運転手に
話しかけたが、無愛想な返事しかけってこなかった。

バスは電車に合わせてあるのか、駅で待つ事もなく電車が来てしまった。兎も角乗ってから
先の事は考えようと電車に乗る事に。(切符は電車の中で買うシステム)
廻ってきた車掌に水窪着の時間を確認すると16時11分とのこと。それなら水窪から天竜行のバスに
間に合う。料金を聞くと320円との事。ついでに掛川までの料金も聞いてみると2940円だった。
ウー高い!水窪からバスで天竜に出て、天浜線で掛川に行けば1560円で済む。
コリャ―申し訳ないが水窪までにしよう。

水窪についてバスの時間まで2時間20分もある事が分かった。こんな事なら平岡駅にあった日帰り
温泉で時間をつぶして来れば良かったと思ったのは後の祭り。寒い駅の待合室に蹲っていました。

               
                      平岡駅と同じ建物の日帰り温泉

塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪-和田5)

2012-12-22 11:46:13 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪~和田5)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:6時間30分 休憩時間:0時間35分 延時間:7時間10分
出発時間:6時20分 到着時間:13時30分
歩  数: 30、920歩  GPS距離:20.9km

行程表
 水窪中村旅館 1:00> 賽の河原 1:30> 国道分岐 0:35> 足神神 0:25> 青崩峠入口 0:15> 青崩峠
 0:20> 林道出合 0:25> 廃屋入口 0:40> 林道出合 0:25> 兵越峠分岐  1:00> 明神前バス停

          
          倒木の下に道はある                     道といえば道だ
観歩記
倒木や枯葉が積もっているが間違いなく道はある。この道を進んで分からなくなったら上を通っている
林道に登ればよい。最悪戻っても1.6kmなら多寡が知れている。と自分を納得させ進むことにした。
道はすぐ小さな崩れで見えなくなったが、少し先に踏み跡が見える。そんな場所を何ヶ所か通り過ぎると
今度は橋のない沢に出た。対岸に踏み跡が無いかと探すが見当たらない。ならともかく沢を渡ってから
踏み跡を探そうと沢を渡ったのだが踏み跡はない。ナーニ明るい分だけ秋葉山の裏参道よりマシだと
半分自分を慰めながら、沢沿いを上下して踏み跡を探した。
そしてようやく道を見付けた場所は、沢を渡った所より大分下で、そこの対岸には道も見えていた。
どうやら小さな崩れと油断して渡った先が踏み跡ではなかったようだ。

その塩の道とおぼしき薄い道を進んで行くと、石仏なのか墓石なのか、兎も角石造物が出てきた。
これでもう安心だ。塩の道に間違いないだろう。

 
        廃 屋                           廃 屋

最初の廃屋が表れた。中に入るのは気持ち悪いので外から見るだけで通過。
2軒目の廃屋の前には井戸があり、覗き込むと少し残った水に病葉が浮いていた。
ここは周りに木が少なく明るい感じがしたが矢張りパスをする。どうやら廃屋は苦手のようだ。

           
                       松原橋

大きな岩の横にまたもや朽ちかけた橋があった。今度は壊れるというより滑りそうなので下の沢を
渡る事に。少し水が流れていたが上手い具合に石伝いに渡れて濡れないで済む。
渡り終わった所に「松原橋」の表示があった。

 
           判之木茶屋跡                   茶店の囲炉裏跡

林の中に一升瓶やウイスキーの瓶、皿や茶碗に缶殻等が捨ててある。どうやら家を出るとき処分
した残骸のようだ。枯葉などで半分埋没してきているが、これが100年200年いや1,000年後になれば
遺跡の埋蔵物として貴重品になるのかしら等と思って歩いていると、今度は今も見かけるビールや
ジュースの空缶が散乱していた。何だコリャー!何故現在のアルミ缶等が捨ててあるのだ。と上を
見ると、そこにガードレールが見えた。どうやら車から投げ捨てたようだが、何故ビール??

「今に遺る 判之木茶屋跡」と表示のある廃屋、は壁の多くが無くなっていて中がよく見えた。
如何にも茶店らしく広い土間には囲炉裏が造ってあり、天井から下げてある自在鉤には鉄鍋が吊り
下げてあった。土間には自在鉤の他にもソケットの付いた電気のコードも垂れ下がっている。
土間の奥には板の間が二部屋あり、桟の無い障子が残っている。
少々大袈裟に言えばタイムスリップをしたような感じもする廃屋だった。
その廃屋は土間側から見ると平屋だったが、裏から見ると2階屋だった。旅人を泊めたのだろうか。

 
          判之木宿跡                   護岸壁  
            
茶屋跡より少し下に「判之木宿跡」「この街道が今に遺る武田信玄騎馬軍団も通った道です」
書いた案内板が立っていた。場所は今は林の中だが、敷地を囲ったのか石垣も見える。
ガイドブックには「判之木宿は4軒あったが1軒は火災で焼失、3軒は廃屋となっている」と書いてある。
だが判之木宿の表示のあるこの場所には石垣はあるが、他には何もない。
では今まで見てきた廃屋が旅籠??

武田の騎馬軍団とは恰好がいい。でも馬に乗って峠を越す侍はいいが、槍を抱えた足軽の歩兵は
当然歩いて峠に向かった。でもそれもまだいい。万を超す軍勢が遠征するのだから、武器を初め
兵糧だって全ては現地調達は出来なかった。そうなると当然輜重兵も必要になる。
荷馬車や荷車が使える道なら良いが、ここ青崩峠にはそんな道は無い。自分が背負うか馬に背負わ
せるしかなく、歩兵の足軽や身分の軽い侍も荷を背負ったろうし、騎馬隊の馬も使われただろう。
そうなると万余の兵が峠を越えるのに17時間の計算はまだまだ甘そうだ。
しかし二つの峠を利用して山越えをした、武田の軍略は的を得ている。さすが山本寛助!

崩壊ヶ所の護岸工事の現場に出た。手前は工事は終わっているが奥の方は依然工事中のようだ。
今まで林道は少し上を通っていると思っていたが、工事部分の上を見ても林道は見えない。
これでは途中で林道へ出ようとしたら、どうなっていたか分からない。良かったなー。
安易な考えは良くないと分かっているが、どうしても自分に都合よく考えてしまう悪い癖を、
直していかないと思わぬ事故にあうと反省をした。(すぐ忘れてしまうが)

 
         石仏群                        沢を渡る

道というか微かな踏み跡は、護岸の修復ヶ所の下の方に付いていた。
日は高く明るく前方には石仏も見えている。気分的に余裕も出てきた。それにこの廃屋見学の道に
入って30分は経っている。そろそろ林道に出る筈だと思っていたら、またもや沢が前方を塞ぐ。
ともかく沢を渡ってから道を探そうと渡ったのは良いが、その道が無い。
全くもー これが案内板で誘うほどの道か。誘うなら責任を持てとイライラが始まってしまった。

 
        川沿いの白い柵                   通行禁止の表示

イライラを押さえながら、ずり落ちそうな斜面を上に行ったが道は無い。少し落ち着かなければと
斜面に座り下を見ると、何と下を流れる川の本流に沿って白い柵が続いていた。フー助かった!
柵の横には道もあり一安心。でもまたすぐにイライラが再発してしまった。

「この先へ立ち入ると転落する恐れがあり危険です。これより先へは立ち入らないようお願い致します
 国土交通省天竜川上流河川事務所 遠山川砂防出張所」
 だって。
今更何を言うか。林道からすで40分も来てから立入禁止だと。ふざけている。
イライラは募ってくるが、待て待て冷静になれ。落ち着いて考えよう。
立入禁止の看板は、今歩いてきた白い柵に沿って立っている。そしてその先には金網があって
コンクリ―の土台が川の方向に向かって伸びている。と、いう事はこの立入禁止は川に伸びる
方向に対しての注意だろう。ウンそうに違いない、と先に進もうとすると今度は張ってあった
虎ロープに引っかかってしまった。何だよーこのロープは! 正直ヤッキリしてしまった。
でも今更戻るのは嫌だ。こうなれば危険な場所を自分の目で確認してから判断しようとロープを
跨いでしまった。(さっきの反省はすでに忘れている)

さすがに川に伸びているコンクリの土台の方向に行くのは止め、金網に沿って下って行くと
またもや同じ看板が立っていた。もういい、きっと川の方には2段の堰堤でもあるのだろう。
更に先に進むと柵や金網は終わり、背丈より高い薄の中の踏み跡を進んで行った。

またまた沢になる。もうどうでもいいや、きっと対岸でまた道を探すことになるだろと半分
諦めて沢を渡る。大きな岩を捲いて林の中に入ると今度はすぐ道があった。いや踏み跡、いや
線があった。その線は林の中を斜め上に向かって延びている。線は直線で人工的なものなので
かっての道に違いない。上に向かっているからきっと林道に出る筈だと、その道を進む。
下を見ながら登って行くと、線は二つに分かれ一本は下に向かっている。
その下の方向を見ると、今までになかったような大きな家が見えた。
よし方向転換してあの家に向かおう。

 
            2階建ての廃屋                 馬小屋?

下に下ると林の中にはっきりした太目の山道があった。この道が正規の道なのだろうが何故
沢を渡ると道を見失ってしまうのだろう?
今日も3回沢を渡って3回とも道を見失い、更にそのいずれも下に道があった。
私は沢に限らず分岐先が分からない時も、先ず探すのは上の道からだ。
これは先に下を探すと間違っていたとき、登り返すのが嫌で上から探すのだが、それが癖になって
しまったのだろう。良い事なのか、悪い事なのか分からないが。

今まで見た廃屋より新しく2階建ての大きな家だった。最近まで使ってたような雰囲気もある。
別棟には納屋に続いて馬小屋のような部屋もある。馬宿かしらとガイドブックで確認したが
多分「廃屋・宮下家」なのだろう。だが馬宿とは書いてなかった。

その廃屋からは太い道が延びていて林道へと繋がっていた。
こうして「廃屋を巡る廃道の旅」は無事終わる事が出来た。
色々書いたがこの道を歩いて良かったと思っている。既に崩壊寸前の廃屋や、まだ人が退去した
ばかりで廃屋とは呼べない家も見る事ができ、お蔭で廃屋がどういう物かも知る事が出来た。
ただ願わくば、途中の何ヶ所かに目印を付けて欲しい。入口の杉の木に付いていた赤い布で充分
なので、沢の前後に付いていれば、こんなに迷う事はなかった。
入口の案内板を建ててくれた「八重河内地区住みよい村づくり」の方が、このブログを見てくれる
事を願うばかりです。

塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪-和田4)

2012-12-20 10:53:42 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪~和田4)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:6時間30分 休憩時間:0時間35分 延時間:7時間10分
出発時間:6時20分 到着時間:13時30分
歩  数: 30、920歩  GPS距離:20.9km

行程表
 水窪中村旅館 1:00> 賽の河原 1:30> 国道分岐 0:35> 足神神 0:25> 青崩峠入口 0:15> 青崩峠
 0:20> 林道出合 0:25> 廃屋入口 0:40> 林道出合 0:25> 兵越峠分岐  1:00> 明神前バス停

  
       青崩峠の石仏                 馬頭観音           観音様
観歩記
峠の石仏をお参りしながら前回の僻んだ物言いを反省しています。
色々ならんでいる峠に研究会の白い小さな道標もあった。この道標には何度か助けられたり、
不安な気持ちを救ってもらった。この先長野に入ってもこの道標はあるのだろうか、それとも
長野は長野で別の団体の道標になるのか、どちらにしても道標はあって欲しい。

青崩峠はかって秋葉神社の「遥拝鳥居」が建てられていたという。また塩の道の街道筋の分杭峠、
地蔵峠、小川路峠、谷京峠にもそれぞれ鳥居が建っていたらしいが、現在は何処の峠にも鳥居は
無いようだ。
そう言えば掛川遥拝所の一の鳥居も森町大鳥居の二の鳥居も、更には秋葉山の表参道の鳥居も
現存していなかった事を考え合わすと、鳥居は倒れやすいのだろうか。確か鳥居は不安定な格好
だが地震に強いと聞いた事があるが、それはあく迄も不安定な格好にしては強いという事なのか。
宗教心の薄くなった今は、倒れた鳥居の再建はむずかしいだろう。自治体は助けたくても宗教に
関する事なので協力も出来ないだろうし。
案内板には「この青崩峠に昔の様に鳥居が甦るのはいつの日か」と書いてあるが、その日は
永遠に来ないような気がする。


        
           信濃側の自然林                   遊歩道?

峠からの写真は、植林された森ばかりだった遠州側は撮り忘れたが、信濃側はさすがに雑木の
自然林だった。これなら紅葉も期待できるかも。でも峠でこの位という事は-------

青崩峠から道は急な下り坂になる。遠州側は石畳で整備され荷車も通れそうな道だったが、こちら
側では荷車では荷車が荷物になってしまいかねないくらいだ。それでも「青崩峠遊歩道」と名の付い
た道は、擬木の柵や階段を取り付けてくれてあった。だが傾斜もきつく遊歩道とは言い難い。
遊歩道とは辞書によると「散歩のためにつくられた道。プロムナード」とあるが、ここが散歩道?
遠州側の登山カードはオーバーだが、遊歩道では矢張り自然を過小評価しすぎだ。
イエイエ、道自身は歩きやすくて感謝さえすれ文句はありません。犬居で気田川に下る瑞雲坂より
傾斜はきついが歩きやすい道でした。

         
          峠直下の崖                           青崩神社

遊歩道の右(東)側の奥は木も少なく明るくなっていたので、道から外れてから覗いてみると、
峠の下部から始まった崖が下の方に続いていた。
青崩の名の起こりは崩落した地肌が青く見えた事で、青ガレとか青クズレと言い、後に青崩峠に
なったという。確かに今見ても何となく緑っぽくにも青っぽくにも見える。
この崖が峠まで続いているのを見ていると、この地に国道が開通できなかった理由が分かる。
しかし峠越えではなくトンネルを作ればと思うのだが-------

実はこの辺りは国内最大級の断層の「中央構造線」の真っただ中で極めて脆い地質だとか。
今まで「糸魚川静岡構造線」の事は聞いた事はあるが、この中央構造線の事は知らなかった。
中央構造線は関東から九州まで続く大断層で、明治時代には知られていたという。
その説明の中に「領家変成岩」の名前があったが、その領家とは水窪の一の名前から来て
いるとあった。確かに歩いている途中に「奥領家」の地名は見たが、それが岩石の名前になるほど
この地域は脆い地質なのか。
少々心配になり、更に「三遠南信道」について調べてみると「信濃毎日新聞」
こんな記事が掲載されていた。

「国交省が着工する飯田市―浜松市間の三遠南信道・青崩峠道路のトンネル予定ルートは、国内
最大級の断層・中央構造線の西側を通るルートで設計が進む。地質がもろい同構造線東側から
ルート変更はしたものの、同構造線近くを通過することから難工事を懸念する専門家もいる。
リニア中央新幹線は同構造線などの断層と直交させることで影響を最小限にしようとしているが、
青崩峠道路のトンネルは同構造線と並行。峠一帯が活断層である可能性を指摘する専門家もいる。
トンネルルート選定などを協議した関係者によると予定ルート一帯には同構造線の影響で小断層が
密集しており、そこに多量の水が含まれていれば難工事になると指摘する。」


オイオイ大丈夫かよと言いたくなってくる記事だ。
三遠南信道の草木トンネルは18年前に自動車専用道として完成したが、地質が脆い理由でルートは
変更され、草木トンネルは自動車専用道から現在は一般道に格下げされて現用に供されている。
その立派なトンネルの先は林道で、そのチグハグ観は拭えない。
今度の青崩道路もそうならないように願うが、公共工事は計画が失敗しても責任を負う者がいない。

話が変な方に行ってしまったので元の遊歩道に戻り歩を進めます。
階段の上に青崩神社の扁額が見えている。しかし案内板などは無さそうなのでパスすることに。

 
          朽ち始めてきた橋                林道?国道?合流

神社の下に朽ち始めてきた橋がある。こんな橋でもあると無いとでは大違いで、沢に水が無くても
助かるのだから、水が流れていたら大助かりだろう。
山道に積もった枯葉の上を歩くのは、ふんわかしたクッション付きで、ガサッガサッと伴奏もある。
これは秋の山道歩きの醍醐味で、しばし疲れを忘れのんびり歩く。

車道に合流。この道は国道なのか林道なのかどっちだろう。舗装された広い道は中々の物だ。
どうせならこの道の終点まで行けば何か分かるかもしれないと川上に向かって歩き始めた。

 
          林道終点                      終点からの紅葉

合流地点から1分も行くか行かないで終点だった。そこの「長野営林局飯田営林署」の看板に
「災害防止と緑の山づくりのため治山工事を行っています」あった。それならこの道は林道だろう。
それと看板には営林署とあるので10年以上前の古い物で、今は治山工事の気配はない。

林道終点からは今年随一の紅葉が眺められた。矢張り静岡側と違い自然林なので紅葉が綺麗だ。
尤も静岡県でも、こんな崖の多い所は植林はしないだろうが。

 
         林道の枯葉                      崩壊場所はそのまま

舗装道路の上に積もった枯葉は見た前には風情があるが、こんなに恐ろしいとは知らなかった。
何が怖いかというと、ともかく滑る。枯葉の下が土なら、枯葉がクッションになって足への当たりが
優しくなるのに、下が舗装面になると枯葉が潤滑剤になってしまい、ツルーと滑ってしまう。
まるでスケート場状態なので、なるべく枯葉が無い所、薄い所を選んで歩きました。

矢張りこの道は林道だ。途中何ヵ所も崩壊個所があったが復旧工事をやっていなかった。
いややる復旧の気配どころか、崩壊自体も最近の物では無いような個所もある。
一体この林道は何のために造ったのだろう。植林した森はないので森林伐採ではないだろう。
では先程見えた堰堤工事の為か。その為にこんな立派な林道を?
山歩きをしていると時折手入れがされていない林道や農道を見かけるが、採算はどうなっている
のだろう。疑問に感じるが、これらの工事も責任が伴わない公共工事なので作る事が目的なのか。

       
         「秋葉街道降り口」の表示                道は無い

「秋葉街道降り口 ねきの観音・松原。判之木・梅之木島等の住居跡を圣て車道に通ずる1.6k」
案内板が電柱に取り付けてあった。中々立派な案内板で中にある「住居跡を圣て」が魅力的だ。
これは是非とも行かなければと、降り口と思える場所を覗いてみるが道らしき物は無い。
遠州には有った踏破研究会の道標もない(この道標は青崩峠を最後に見ていない)。
ただ下にある杉の木に赤い布が巻いてあるのが見える。あれが塩の道の目印か?
昨日も入口は藪だったが、その先にはっきりした道があった。きっと此処もそうだろう
兎も角あの赤い布の所まで降りて下の様子を見てみようと降りる事にした。

塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪-和田3)

2012-12-18 11:46:03 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪~和田3)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:6時間30分 休憩時間:0時間35分 延時間:7時間10分
出発時間:6時20分 到着時間:13時30分
歩  数: 30、920歩  GPS距離:20.9km

行程表
 水窪中村旅館 1:00> 賽の河原 1:30> 国道分岐 0:35> 足神神 0:25> 青崩峠入口 0:15> 青崩峠
 0:20> 林道出合 0:25> 廃屋入口 0:40> 林道出合 0:25> 兵越峠分岐  1:00> 明神前バス停

                    
                           映画のポスター
観歩記
足神神社の社務所に映画のポスターが貼ってあった。「果てぬ村のミナ」と題したこのポスターは
水窪の街の中や西浦の店先でも見かけたが、こんな山の中にも貼ってあるとは何だろう。
近付いて見てみると後援や協賛に浜松市、水窪タクシー、などと共に水窪神社の名前も見える。
きっとご当地ソングならぬご当地シネマなのだろう。

     
         瑟平(しっぺい)太郎の墓           犬の石仏

神社の少し上に「瑟平(しっぺい)太郎の墓」があった。
「遠州見付の天神様では、毎年8月10日の夜、白木の箱に娘を納めてイケニエとして怪神に供える
習わしが続いていました。
ある夜、イケニエを捕りにきた怪神から「このことは信濃の早太郎にしらせるな」との声を聞いた
旅の僧がこっそり光前寺の早太郎を借りてきて、祭礼の夜、ひそかに娘の代わりに早太郎を箱に
入れて備えました。
早太郎は、怪神との大格闘の末退治し、以来イケニエの習わしは絶え、里人は大いに喜びました。
しかし、早太郎も深手を負い光前寺へ帰る途中、哀れにも、この地で息絶えてしまった。」

アレー何か変だ。祠の前の杭には瑟平太郎とあるのに案内板には早太郎と書いてある。

早速調べてみると名前以外にもこんな違いもあった。
「早太郎は化け物との戦いで傷を負いましたが、光前寺までなんとか帰り着くと、和尚さんに怪物
退治を知らせるかのように一声高く吠えて息をひきとってしまいました。」
これが光前寺説。

「戦いの翌日村人が天神へきてみると、年経た狒々が血に塗れて巨体を横たえています。
周囲を見回すと、ものすごい闘いであったかを示すように、いろいろなものが散乱していて
目をおおうようなありさまでした。その横では悉平太郎が負傷をしていましたが、幸いにも
生きていました。村人は、悉平太郎の立派な働きぶりに感謝するとともに、ていねいにお礼を
言って光前寺へ送り届けたといいます。」
これが見附天神説です。

これらの説から行けば瑟平太郎は信濃で死んだことになっている。それが何故ここに墓がある
のか。ここから猛烈に妄想的歴史観が湧いてきた。
この墓に祀られている犬の石仏を見てください。この塩の道の観歩記で西渡から水窪を歩いた
ときに紹介した、山住神社のお札に似ていませんか。
あのお札に摺られている山犬様は、この石仏と同じように左を向いて座っています。どうです
似ているでしょう。
むかし山犬信仰が盛んなこの地に山犬(狼)様の死骸が落ちていた。の人達は祟りを恐れ
石仏を刻み山犬様をお詣りをしていると。通りかかった旅の僧が
「この山犬は見付の狒々退治の瑟平太郎に違いない」
と村人たちに話した。
以後この石仏が瑟平太郎になったとさ。お粗末さまでした。

名前の違いは見附天神説の最後に
「磐田では悉平太郎と呼んでいますが、駒ヶ根地方では早太郎、疾風太郎とも呼んでいます」
とあった。ようは磐田の住民は怪物退治をした犬に、権威を付けたいため強そうな名前にした
かったのだろう。そこで同じ意味の早→疾になって、同じ音の疾→瑟になったのではないだろうか。

     
           木地師の墓                     菊の紋章?

何の変哲のない森の中に「辰之戸(たつんど)集落跡」の案内板が立っていた。
中々興味深い事が書いてあったので紹介します。
「辰とは十二支の方角では東南東を指しますが、星座では北辰、辰極など北を指し、戸は渡る
事を言います。この事から此処の地名は北へ渡る場所として、辰之戸と呼ばれたのでしょう。
江戸時代秋葉神社の参拝者の安全と国境の安全を守るために代官所から十手を託された
村人もいたようです。」

成程「辰」が北を表し、「戸」が渡るを表すのか。なら辰野は北の平野、神戸は神へ渡る場所
なので近くに神社があるのかもしれないな。一つ覚えた。

木地師の墓も何変哲もない森の中にあった。だが案内板で諸国を渡り歩いた流浪の民と書かれた
にしては立派な墓で、しかも祠や堂宇などで保護されている。
ここの墓には、皇室と同じ16弁菊花紋が彫られているとあったので早速見てみると、有る有る
確かに菊の御紋が彫られている。だが16弁かどうかは数えることは出来なかった。

ここには案内板が二つも立っていてまず石碑の案内板には
「山の木を切って轆轤(ろくろ)で椀、しゃもじ、盆や木鉢を作る人の事を木地屋とか木地師、
轆轤師とも言われていました。木地屋は権威のある職人集団で轆轤免許状や観察を持ち、
良材を求めて諸国を渡り歩き全国各所にお墓があります。」

ここで「権威のある職人集団」とあるのは、墓石の菊の御紋でも分かるように、自らを南朝の
子孫と位置付け、地元の住民との婚姻もしなかった集団もあったともいう。
また木地師は日本全国の山に勝手に入ってもよいとし、しかも山の8合目以上の木を自由に
伐ってよいとしていたそうです。それらの事を含め「権威のある職人集団」だったのでしょう。
ただ、この伐採の自由とかは自分たちが勝手に思っていただけなのか、それを裏付ける証拠は
見つかりませんでした。

一方もう一つの案内板には「山から山へ漂泊の旅を続けた木地師の本拠地は滋賀県東小椋村と
いわれる」
とあった。やっとここで小椋村が出てきた。
序に小椋姓の事も紹介してくれると嬉しかったのだが-----

 
      塩の道の石碑                    登山ポストと山道

林道を歩いていると上から4人グループが下って来た。挨拶をしていて気づいたのだが彼らは昨夜
中村旅館で一緒になった人たちだった。なぜ上から来たのか聞くと、水窪から登山口までタクシーで
行き、青崩峠から下って来たのだと言う。そういえばこのグループは、昨日は城西駅から高根城跡に
寄って水窪まで歩いたと言っていた。
私のようにひたすら街道を歩くのも良いが、興味のある所だけピックアップして歩くのも楽しそうだ。
もう少し年齢をとったら、そんな街道歩きも検討してみよう。

林道はまだ上に続いていたが林の中に塩の道のモニュメントがあり、ここから山道になるようだ。
ここまでの林道は比較的傾斜も緩く、何故国道を作る事が出来ないのか不思議なくらいだ。
      
モニュメントの後ろに旧水窪町の立てた案内板があり、そこに青崩峠の事を説明してあった。
「元亀3年10月10日武田信玄が3万の兵を率いて、三方原の決戦に向け、この峠を越した戦国の
つわもの達の夢の跡」
「昔信濃の国の製糸工場へ出稼ぎに通った、乙女たちの哀愁街道」
などと書いてある。
ウーンここで疑問を感じたが、先にヒョウ越峠の案内を紹介しておこう。
「遠州(水窪町)と信州(南信濃村)の綱引き合戦。しかしただの綱引きではない。勝利を
もぎ取れば向こう1年間、県境を1年間移動できるというもの。文字通り国取り合戦である」

この綱引き合戦は毎年TVの風物詩として放映されるので知っていが、峠の名前がヒョウ越峠と
なっているのは何だろう。
ネットでは国土地理院もヤフーの地図も兵越峠になっている。地元での書き方なのかな?
読み方は遠州では「ひょうこし」、信州では「ひょうごし」と濁るようだ。

イヤイヤそんな事はどうでもよい、もっと気になる事は、兵越峠の兵越えとは、それこそ武田軍が
遠州に侵攻したとき兵が越した峠だから兵越峠になったと思っていた。だがこの案内板では武田兵
が越したのは青崩峠となっている。一体どっちが本当なのだろうか。

ネットで調べると武田軍は兵越峠を越えたというのが多かったが、少数ながら両方の峠を越えたと
いう説もあった。中でも一番信頼できそうな説がガイドブックに載っていた。
「武田信玄の軍勢は1万5千以上の兵を率いて青崩峠とヒョー越を越えて遠州に侵攻した。
狭く険しい峠を多くの兵が通るには時間がかかる。近年50名ほどのグループで峠を越えた際には
先頭と最終尾で5分の差があった。これを当てはめると1時間に600人。1万人が越えるのに約17
時間以上を要した計算になる」

何とも説得力のある説だ。このように数字のデータまであると自然信用したくなる。

妄想的歴史観は「疾きこと風の如し」の武田の軍勢は、青崩峠でグズグズするのを嫌って、地元民
しか使っていない峠道にも軍勢振り分けて遠州に侵略したのだ。それ以後その峠は兵越峠となった。
地元の自治体の建てる案内板なのだから、兵越峠にも武田軍の事も書いたほしかった。

何だろう高山や危険な山でもないのに「登山ポスト」がある。それとも危ない場所がこれから出てくる
のかな。でもマー今日は提出しなくてもいいだろう。と無視してしまった。

             
         石畳の塩の道                  信玄の腰掛岩

林道と別れた塩の道は石畳が敷かれていた。しかし余りに整然としているところを見ると、最近
整備された石畳だろう。
旧東海道には箱根峠や小夜の中山峠、鈴鹿峠にも石畳があった。その石畳は旅人を歩き易く
するのが目的でなく、街道が雨水により流失するのを防ぐことが目的だったようだ。
ただ何回も石畳を歩いていると石畳の歩きにくいさを知り、余り好きではなくなってしまった。
その第一の理由は滑る事。濡れた石畳は油断大敵で下りは勿論、登りでもツルット滑る。転べば
硬い石の上に倒れ怪我をすること必至だ。昔の旅人は藁の草鞋だったので余り滑らなかったが、
現在のウォーキングシューズは良く滑る。化学が発達して摩擦係数が高くて滑りにくい靴底だって
出来そうなものだが、何故か滑る靴ばかりだ。
次いで石畳の歩き難いのは注意しないと足をぐらしてしまう事。平らな石の石畳はまだよいが
金谷の石畳のように丸い石を利用してある所は、注意深く足元を見て歩かないと足を痛めてしまう。
イエイエここ青崩峠の石畳は歩きやすい石畳でした。

「武田信玄公腰掛岩」の杭が立っている。座った座らないの真意は分からないが、武田信玄は
兵越峠でなく青崩峠を通って遠州に向かった事にしておこう。

 
        少し紅葉してきた                  兵越峠分岐

この辺り海抜は1,000m位あるだろうか、暖地静岡県の山でも少し紅葉で彩り始めている。
一般的に言って天竜川流域は、天竜美林と呼ばれるているのでも分かるように、谷深くまで植林が
行われているので、紅葉する雑木林が少なく紅葉の名所は少ない。
よって静岡県の最深部で、すぐ長野県になるというのに、この程度の紅葉しか見る事が出来ない。

林の中に「建次屋敷跡」の看板があり
「秋葉街道往来の盛んな当時、ここには茶屋がありました。ある夏の夜、毎日一生懸命働く夫婦の
日銭の入るのを見込んで四名の盗賊が押し入りました。盗賊は亭主を大黒柱に縛りつけ、女房には
乱暴をはたらき、最後には酒樽を亭主に投げつけ、お金を奪って逃亡したという悲しい言い伝えが
残っています。」

昔だって悪い奴はいた。まして現代では更に凶悪化してきている。西渡明光寺峠から対岸に見えた
赤い屋根の家は大丈夫なのだろうか。遠くからでも大きな屋敷で金持ちに見えた。
私は金はないが、台風や地震の天災だけでなく、人災の心配もある所には、とても住めそうもない。

オッとマった! 兵越峠へ行く分岐案内が立っている。と、いう事は武田軍の兵越峠を越した一行は
ここで青崩組みと合流したのか。
ウーンなら兵越峠は青崩峠に比べ明らかに遠回りで大変な道になる。
何しろ青崩峠の標高は1,082mで兵越峠は1,317なので、200m以上も高い所を通っている。
こうなると武田軍の本隊は青崩峠を通過し、一部の部隊が兵越峠を越したのだろう。

 
       遠州側からの青崩峠              信州側からの青崩峠

10時25分ようやく県境の青崩峠に到着。水窪から予定通りの4時間で着く事が出来た。
GPSの距離は12.5kmで時速3kを越した程度の速度だが、写真を写したり看板を見たりの
街道歩きでは妥当な速度だろう。

写真で上に伸びている階段は熊伏山に通じる登山道で、塩の道は右の看板の前を通り下っている。
峠には「青崩峠 海抜1,082米」「新・浜松自然100選」「静岡県指定史跡」「青崩峠の鳥居」などの
看板が立っているが、そのどれもが静岡県で建てた物だ。
長野県のはと探すと小さな標識が地面に置いてあった。
「青崩峠遊歩道」と書いた小さな標識は長野県の南信濃村で作った物だった。
遊歩道? 何だか違和感を感じる言葉だ。先ほど林道と別れる山道の入口には、登山ポストが設置
されていたのに、ここでは遊歩道と書いてある。
山の少ない(?)静岡県では登山だが、険しい山の多い長野県では、こんな道は遊歩道なのだろうか。
それはともかくここまでの道は、ハイキングと呼べても登山と呼ぶような道は無かったが。

峠には何体かの石仏が祀ってあり、中に馬頭観音もあった。
重き荷を負うって長き道を歩いてきた馬が行倒れになると、馬頭観音を建ててお詣りするが、同じように
家康の遺訓の如く歩んできた人間が倒れたらどうしたか。穴を掘って投げ入れたぐらいが関の山か。
他人の死よりも財産である馬の死の方が、より切実だったのだろう。
私も気を付けなければ。家には塩の道を歩いて来ると言ってあるだけだし、携帯電話は無い。
身分証明書は退職後は無いし、免許証も持ってきていない。このまま倒れたら身元が判明するまで
時間がかかってしまうだろう。行旅(こうりょ)死亡人にならないようにしなければ。
馬鹿な事を考えるのは止そう。この先は遊歩道で楽な道だが油断してはいけない。


塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪-和田2)

2012-12-16 19:32:26 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪~和田2)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:6時間30分 休憩時間:0時間35分 延時間:7時間10分
出発時間:6時20分 到着時間:13時30分
歩  数: 30、920歩  GPS距離:20.9km

行程表
 水窪中村旅館 1:00> 賽の河原 1:30> 国道分岐 0:35> 足神神 0:25> 青崩峠入口 0:15> 青崩峠
 0:20> 林道出合 0:25> 廃屋入口 0:40> 林道出合 0:25> 兵越峠分岐  1:00> 明神前バス停

 
      ガッチャンポンプ                     かまど
観歩記
馬宿を過ぎると現役の民家が出てきた。その庭先にまだ使えそうな懐かしいガッタチャンポンプが
あった。私の子供の頃は、まだこのポンプも無く、庭先にあった井戸から釣瓶(つるべ)で水を汲んで
いた。小学校も高学年になると、風呂に水を張る役目が回ってきて、釣瓶で汲んだ水をバケツに移し
風呂まで何度も運んだものだ。それが家が拡張され井戸が家の中に入ると、井戸を塞いでガッチャン
ポンプが取り付けられた。そうなると風呂水汲みも楽になり、風呂からポンプまでをブリキの樋でつな
いで、ポンプをこぐだけで風呂水を汲むことが出来た。あれは嬉しかったなー。

ポンプの近くにあった竈も懐かしい。当時はどの家庭でも、ご飯はこの竈で炊いたものだ。
でもこの竈は当時の物より進んでいる。火ぐちには風の調整用の窓があるし、周りもタイルが貼って
ある。確か家で使っていたのはセメンの打ちっぱなしだったと思うが。
上に乗っている七輪も良く使った。竈や風呂釜で出来た消炭を火消壺から取り出して、七輪で火を
おこしてトウモロコシを焼いたものだ。魚やナスなども焼いたが、焼く役目は子供だったのかな?
木の臼もあるし箕もある。アレー竈の前にあるのは何だろう。火鉢?でも足が付いたり、上の回りの
部分は鉄で黒くなっている。絵柄や取っ手も付いているので暖房用の物と思うが分からない。
余りジロジロ見ていると泥棒と間違えられたら困るので、この位にしておこう。

 
      水準点と国道152号                  小屋と蔵

剥き出しの水準点の先に国道152号線が見えている。だがそこに建っている道路標識には国道152号の
文字は無く「青崩峠 飯田 三遠南信道」とあるだけだった。
実は国道152号は青崩峠付近が未開通のため「幻の国道」とも呼ばれていて、その代替道路は青崩峠の
東側にある兵越(ひょーごえ)峠を越す兵越林道になっている。
つまり国道152号の峠越えの部分は林道なので国道でない。故に幻の国道と言うわけだ。普通の感覚な
ら林道を国道に格上げすれば済みそうだが、国道は国土交通省、林道は農林水産省で管轄しているので
役人の縄張り根性を発揮する場になってしまったのだろう。だがこの152号はそれだけでは済まず、道路
標識にある「三遠南信道」も絡んでくる。
三遠南信とは、三河・遠州・南信濃のことで、その地域を結ぶ自動車専用道を三遠南信道と呼ぶとうだ。
経路は中央道・飯田IC から愛知県を経由して新東名浜松引佐JCTに至る、総延長約100kmの高規格
幹線道路だそうだ。その三遠南信道の一部を早期着工して、兵越峠の下に「草木トンネル」が1994年に
完成していて現用に供用されている。
そのことにより、ここに建つ道路標識の飯田方面に「三遠南信道」と表示されているのだ。そのくせ農林省
の管轄する兵越峠の文字は無い。話はまだまだ続く。
18年前から使われている草木トンネルは、当初兵越峠下に掘るトンネルと接続する予定だったが、調査
の結果この辺りの地盤が脆弱なことが判明して、ルートは青崩峠より西側に変更されてしまった。
憐れ草木トンネルは、それまでの自動車専用道路から歩道のある一般道路に格下げされてしまい、制限
速度も60km/hから50km/hに下げられてしまったという。
それでも国交省は三遠南信道の字は消さず兵越峠の文字は記入してない。

この辺りは池島と言う青崩峠に一番近い集落で、何軒かの民家もあるのだが人の姿は見えない。
ガイドブックには、ここにも馬宿があったと書いてあが馬宿って何だろう。読んで字の如しで馬の宿だ
という事は分かるが、馬が泊まるなら馬方はどうなるのだ。廻りに旅籠の表示は無い。
これが西部劇なら酒場の2階が宿になっていて、馬は近くの蹄鉄屋に預けているが、どうやら日本では
馬宿とは人馬共に泊まる宿の事のようだ。だがこの馬宿にはどんな馬が泊まったのだろう?
生活物資を運ぶ馬や馬方が毎回宿に泊まるとは考えられない。それにここは水窪からまだ8km程しか来
ていないのだから尚更だ。西渡からの人馬が直接ここまで------- イエイエそれでは距離が離れすぎて
帰りに信州からの荷を積んで西渡まで帰る事が出来なくなってしまう。だから泊まった?
でもそうなると人件費が掛かって生活物資の値段が高くなってしまう。

相良からここまで歩いてきて私の塩の道のイメージは変わってきている。当初は一人が塩を背負って
相良から塩尻まで運び、塩尻で信州の物資と交換して、それを相良まで持って帰る。
それが今では荷継場から荷継場まで運ぶ駅伝方式だったのではなかったかと思うようになっている。
その考えからいくと、ここには宿は必要ではない事になる。

 
     国道との分岐4711                    少し紅葉が見えた

国道と分岐というのか三遠南信道の入口なのか、それとも兵越林道の開始点なのか分からないが、
兎も角足神神社や青崩峠への道の入口に辿りついた。ここから足神神社まで2kの5分、青崩峠
まで4kの10分とある。それなら楽で良いが実際には青崩峠まで2時間は以上はかかるだろう。
しかし峠まで行けば後は下り専科になる。頑張ろう。

この辺りで来てようやく紅葉した木々が見えだしたが、山の大部分は植林された木で覆われている
ので見ごたえは無い。これが長野県側はどうなっているか、自然林で紅葉していると良いのだが。

   
       新しいさば地蔵                古いさば地蔵(複写)

さば地蔵の標識のある新しいお地蔵さんが立っている。標識には
「魚を抱えたさば地蔵は、海ののない信州方面へ、海産物を運ぶ人々が手元に届くまでに腐らない
ように祈願して建立されたと伝えられるほか、ある日この川の一の瀬淵で釣った魚の友に「俺の
連れをとった」
と悲しい声で言われた男が、その魚を食べてすぐ死んだので、供養の為に建てた
とも言い伝えられている」

だが案内板の冒頭に「魚を抱えたさば地蔵は」とあるが、立っている地蔵は何も抱えていないが、
左手に魚?のような物を持っている。さばにしては小さすぎるので川魚なのか。
不自然に思いネットで調べると、さば地蔵は、自然石に近い舟形の光背に、大きな魚を抱えた
人物が彫られていた。その地蔵は素朴だが、如何にも大事そうに魚を抱えた姿が微笑ましい。
さらに地蔵は祠の中に入っている。という事は、シマッタな~ あの標識の辺りをよく見れば
きっと祠があったのだ。それとも新しい地蔵が出来て撤去してしまったのだろうか。
いずれにしても少々ガッカリさせる新しい地蔵さんだ。

 
       足神神社                       足神神社の社内

9時25分にようやく足神神社に到着。先ほどの分岐地点から約35分。車なら2k5分と書いてあった
から妥当な早さだろう。
この神社のお守りを下げたウオーキング仲間が何人かいるが何処で購入したのだろう。神社に
人気はなく小さな社務所もあるが閉まっている。縁日があって、そこで買ったのかな。

筆で書かれた達筆な神社の由来書を要約すると
「鎌倉時代に北条時頼の足痛を治療し全快させた、地元の庄屋・守屋辰次郎を祀った神社で、
全国でも珍しい足の神様を祭る神社。遠近各地から参詣者が多数来る」
とあり、その最後には
「健脚祈願の人々皆之無病息災の神恩功徳あり」
だって。勿論私も無病息災健脚祈願をした。

 
      奉納された絵馬                   絵馬は五百円也

祈願の効果? それは分からないが、何しろ北条時頼の足痛を治療してから、既に1250年も
経っているのに境内には驚くほど沢山の絵馬が奉納されている。
これだけ長い間、神社が廃れなかったのが効果があった証拠だろう。

 
      足型の奉納物                      この奉納物は?

絵馬は最近の奉納物だが、足の形をした自然の木や足形に細工をした物、他にも草履や
サンダルまで奉納されている。昔はきっとこんな物が奉納されただろうが、最近はもっぱら
絵馬のようだ。その理由は-----2段上右の写真がそのヒントになるんだろうな。

もう一つ訳の分からない奉納品があった。槍の先のような金具だが何だろう? 書かれた文字の
中には「昭和」とか「西浦青年団一同」など読む事が出来る物もある。
分からない、得意な妄想も湧いてこない。何だろう?そして何の為に?

塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪-和田1)

2012-12-14 11:47:29 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪~和田1)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:6時間30分 休憩時間:0時間35分 延時間:7時間10分
出発時間:6時20分 到着時間:13時30分
歩  数: 30、920歩  GPS距離:20.9km

行程表
 水窪中村旅館 1:00> 賽の河原 1:30> 国道分岐 0:35> 足神神社 0:25> 青崩峠入口
 0:15> 青崩峠 0:20> 林道出合 0:25> 廃屋入口 0:40> 林道出合 0:25> 兵越峠分岐 
 1:00> 明神前バス停

 
      早朝の水窪(夢街道?)             オートキャンプ場
観歩記
今日の予定は青崩峠まで4時間、青崩峠から和田宿の手前のバス停までが3時間で。余裕を
1時間とって8時間と計算してある。バスの時間は調べてないが、去年書かれたブログに
「中村旅館を6時半に出て、和田のバス停からバスで平岡駅に行った」とあったので、バス停に
3時頃に着けば何とかなると判断した。(知らない土地のバスの時刻を調べるのは面倒だ)
そのため中村旅館を遅くても7時は出たいと思っていた。
昨夜その旨を旅館の女将に伝えると「7時前の出発では、朝食の準備が出来ていない」との事
だったので、朝飯と昼飯の2食分を握飯で頼んでおいた。
その1食分の食べ、6時20分に旅館を出発した。

国道152線を歩いたり、道標に導かれて旧道を歩いたりして行くのだが、中には大変なだけで
意味の無いような旧道もある。だがそれも行ってみなければ分からないので歩くしかない。
国道の下に水窪オートキャンプ場が見えてきた。紅葉しやすい木を植えてあるのか、少し色づき
始めた木も見える。若しかして青崩峠の先の信州では紅葉が見られるかもと期待が湧いてきた。

 
        賽の河原                      田圃のはざかけ

国道の左側に複数の石碑が建っている。どうやらあれが「賽の河原」のようだが想像していた
情景とは全然違うものだった。
「幼い子供が命を失い 極楽浄土に行く途中の賽の河原で、別れてきた父母の供養のために、
石を積んでいると鬼が出てきて崩してしまう。それでも子供たちは何度も積ん直す。
この憐れな子ら供養のため、現世の思いやりで、ここを通る人々が石を積み上げている」

しかしわざわざ国道を横断して石を積み上げてやる気は起きなかった。

狭い土地を有効に使って田圃で稲を作っている。塩の道を歩き始めた相良でさえ、稲刈りは
すでに終わっていたが、ここではまだ稲刈りの途中だった。ここまで来ると気温が下がりコメの
生育が遅れるのだろうか。田圃には近頃珍しいはざかけで刈り取った稲を干してあった。

 
     人力ロープウェイ?                     田舎の商店

荷物を対岸に渡すロープウエイらしきものあった。まだ新しいので今も使っているようだが、
どうやって渡すのだろう? 対岸に向かい傾斜が大分あるので、下りはスピードが出過ぎるし、
登りは? 多分弛んでいる金綱があるのでこれを引っ張ってスピードを調整したり、こちらに
引き寄せたりするのだろう。
菊川の遠江33観音札所永宝寺には、人力ロープウエイの「野猿」がある。あれは籠に乗った
人が自分で綱を引っ張って渡る物で、その恰好が猿が蔓を伝わる格好に似ている事から名が
ついたという。しかしこれは人間が乗って動かすのではないので、野猿とは言わないだろう。

西浦(にしうれ)地区に入ったようで、珍しく商店があった。店先には「サル追いロケット」のチラシ
が張ってある。さっきのロープウエイは野猿では無かったが、この辺りは野猿が出没して、農作
物に被害を与えるのだろう。
ところで猿追いロケットとは、子供が打ち上げるロケット花火と同じ物なのだろうか、それとも
音を大音量にしたり改良をした物だろうか。
オッ! それともう一つ。「焼肉に南信州一番人気 遠山ジンギス」とある。遠山とは青崩峠を
越した和田宿辺りの事なので、この店は今でも信州からも仕入れているのだろう。
こんな文章を読んだことがある。「西浦や草木など水窪奥地の人達は髪油、石油、素麺、塩
などは水窪で買ったけれど、米をはじめ主な日用品は長野県側に頼る事が多かった」
とある。
この文章は水窪奥地は距離的にも信濃側に近かったと言いたいようだったが、そうだろうか。
当時水窪からは荷馬車道も通じていて歩きやすかったはずだ。一方信濃には1000mを越す
青崩峠の山道を歩かなければならない。決して信濃の方が楽だったとは思えない。
そこで私の妄想的歴史観は、水窪は物価が信州和田より高かった。と訴えている。
因みに現在の物価指数は、静岡県は全国21位で長野県が26位。最低賃金は静岡7位で長野
17位だった。オイオイ塩の道を歩いていて、何で物価指数や最低賃金が出てくるのだ。
だから私のブログはダラダラと長くなる。
長くなる序に、昨夜旅館の女将に聞いた買い物の話を。
「食料などの日用品は近所のスーパーで買い、チョとした物は車で浜北。洒落た物や大きい物は
浜松で買う。長野県側には道が悪いし用事もないので殆ど行く事はない。電車は最近乗った事
はない」
そうです。

 
      旧西浦小(廃校)                  西浦田楽の看板

西浦地区には国の重要無形民俗文化財に指定されている「西浦の田楽」が伝わっている。
養老3年(719)に、行基がこの地に観音像と仮面を観音堂に奉納したことから、西浦田楽は始
まったとされ、重要無形民俗文化財の指定も、第1回目の指定と由緒ある田楽芸能のようだ。
だが、私の興味は田楽より西浦地区が木地師の集落だった事だ。

木地師とは椀やしゃもじ、盆、曲物、木鉢などを作る人のことで、それらの材料となる良材(トチ、
ケヤキ、ブナ)を求めて全国の山野を漂泊したと言われている。
また、木地師の発祥には南朝の落人伝説もあり、彼らは南北合一後も南朝再興を夢見て後
南朝の皇子たちを匿っていたという伝話もある。

ここ西浦も麓の水窪で、後醍醐天皇の孫・由機良(ゆきよし)親王が旗揚げした伝説も残って
いる事から、西浦の先祖は南朝方の落人だったと言った話も、あながち荒唐無稽な話ではない。
また、木地師の墓には天皇家の菊のご紋を使う墓もあるらしいが、この先にある木地師の墓の
正面にも、皇室と同じ16弁菊花紋が彫られているらしい。

木地師は良材を求め、全国の山野を歩いたと言われているが、西浦の先祖も木地師だった
証拠が残っていた。
近江国(滋賀県)蛭谷にある筒井神社は、全国の木地師の発祥地とされているが、その神社の
氏子狩帳(うじこがりちょう)には、正保4年(1647)から明治15年(1882)までの236年間の、
全国の木地師の名が記録されていて、その中にここ西浦の木地師の名が残されているという。
蛭谷から発症した木地師は、良材を求め全国に散らばったが、西浦に住みついた木地師も
自らのルーツを忘れないためにも、筒井神社の氏子を抜けるこ事はなかったのだ。

ただここで気になる事がある。西浦の観音堂に行基が観音像を奉納したのが719年。
筒井神社に木地師の祖として祀られている、文徳天皇の第1皇子・惟喬(これたか)親王は、
それより100年以上遅く生まれている。
しかも神社の氏子帳は、それより800年も遅い時代に書かれた木地師の名前だ。
もう一つ後醍醐天皇の孫の由機良親王に伴う南朝の落人説だが、この話は1410年代のことで
やはり筒井神社発祥より古い話だ。

この事は何を意味しているのだろう。行基の話や南朝の落人説は伝説で、神社に名前が記録
されている木地師説が正しいという事なのか。
木地師は、筒井神社のある蛭谷が小椋郷にあるとことから、小椋姓が多いとされているが、
西浦地区に果たして小椋姓があるかどうか。興味は尽きない。

  
       石仏群            民家の軒先            御嶽神社

今日初めて国道の東側に流れている川を渡る。細くなった道を挟んで縫製の作業所があった。
丁度従業員が出てきたので、「この道は塩の道ですか」と確認すると、そうだと答える。

石仏を集めてきたような所があったとか「●●上座」「十方神鎮座」と刻まれた碑もある。
墓石に上座とあるのは、お寺の運営に協力した人の戒名と聞いた事があるが、十方神の方は
分からなかった。十方神とは何だろう? これも木地師に関係す物かな。

民家の軒先を通り森の中に入る所に、今度は「御嶽神社」の石碑が建っている。御嶽なら
木曽の御岳山を思い浮かべるが、調べてみるとこんな事が分かった。
「御嶽(みたけ)神社 =蔵王権現を祭った神社。総本社は吉野金峰山寺」
「御嶽(おんたけ)神社=木曽御嶽信仰に基づく神社。総本社は木曽御嶽山の木曽御嶽神社」

となっていた。ではこの御嶽神社はどちらの系統か? 
また木地師に拘るなら、筒井神社のある近江の隣の大和の吉野山金峰寺だろうが、
石碑には「日清開戦●大日本●国●●」と薄く見えた。

  
    森の中の塩の道          花             荷馬車が通れそう

森に入る入口は細い道だったが、中に入って行くと、かっては荷車が通ったであろうと思える
道になってきた。高根神社の近くの森の道も同じような道幅の道だったが、森の木々が古道を
守っていてくれるのだろう。車道と違い枯葉が積もった道は、足に優しく感じられた。

 
    大岩の洞に「三峰山」                  廃屋(馬宿?)

大きな岩の陰に今度は「三峯山」と彫られた石碑があった。秩父の三峯山なら行った事がある
が、木地師が材を求めて秩父まで行ったのだろうか。調べてみると木地師との関連は浮かんで
こなかったがこんな事が書いてあった。
「秩父地方にはオオカミ(大口真神)信仰があり、昔から「お犬様」として信仰されている。
また、三峯神社は日本全国のオオカミ信仰の中心地で、狛犬も山犬(狼)の姿をしています。」

成程ね、今度の共通点は木地師ならぬ山犬だった。
それより気になったのは、「熊野三山を結ぶ小辺路は、木地師や杓子屋の活動の道であった。
奥高野から吉野にかけての山域には近江国小椋村(滋賀県東近江市永源寺町)を本拠地とした
江州渡(こうしゅうわたり)木地師と呼ばれた人々が大正の頃までいたという」

若しかして三峰山とは熊野三山を指しているのか。

正確な事は分からないが、ガイドブックの地図で見ると、この廃屋が馬宿だった「佐口家」だと
思われる。外観は普通の民家より大きく、玄関先には馬頭観音もあったので多分間違いない。
しかしここが馬宿なら森の中の道は荷馬車道という事になる。
あの道を荷馬車が通れてのだろうか、疑問に感じて調べてみると、塩の道で使っていた荷車の
幅は二尺五寸と書いた物があった。これなら約1m程度で森の道でも通れただろう。
だが荷馬車の幅は分からなかったが、きっとそれほど大きい物ではなかったのだろう。
それにしても擦違う時はどうしたのか、警笛がわりに馬子唄を唄いながら歩き、相手を確認すると
退避場所で待ち合わせでもしたのだろうか。

塩の道&秋葉道Ⅴ(西渡-水窪4)

2012-12-11 17:05:10 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅴ(西渡~水窪4)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:4時間10分 休憩時間:0時間25分 延時間:4時間35分
出発時間:10時55分 到着時間:15時30分
歩  数: 21、200歩  GPS距離:15.8km

行程表
 西渡バス停 0:30> 八丁(明光寺)峠 1:20> 林道西渡線入口 0:20> 西渡発電所 0:30> 
 城西駅
 1:00> 教伝様 0:10> 次郎兵衛様 0:10> 塩の道公園 0:10> 水窪中村旅館

       
      夢街道の名前があった           向市場遺跡の案内板
観歩記
教伝様を過ぎると道は町並みの中に入っていった。右には水窪中学校、左には飯田線の向市場
駅がある。
アレーあれは何だ。すっかり忘れていたが、今日歩き初めた西渡の八丁坂に書いてあった
「夢街道」の文字が躍っている。西渡で板の道標にあった「夢街道90km」は、ここ水窪の事なのか。
でも西渡から水窪まで90kmはあり得ないし、GPSの今日の歩行距離は13kmをさしている。
アッ!そうだ、あの道標は90kmではなく、西渡~水窪の入口までを9.0kmと書くつもりだったのが、
小数点が消え、90になってしまったのだろう。そういう事にしておこう。

今度は「向市場遺跡」と書いた案内板が立っている。
「縄文時代後期から弥生時代前期までの物が重複して出土している事から、縄文時代後半の
時期に、塩の道沿いとして、かなりの集落営まれていたことが考えられます」


そうなると縄文時代から塩の道が存在していたことになる。確かに信州和田峠産の黒曜石が
遠州相良でも発掘されているので、信州と交易があったのは事実だ。だが定期的に運ばなけ
ればならない物の交易路が、縄文時代からあったとは驚きだ。

日本では岩塩が無いとされているが、山の野生動物は塩を求めて海に行く事はない。でも生きて
いるのだから、塩分は吸収しているはずだ。こんな事を書いてある物もある。
「動物の塩欲求の行動として、塩を求めて彷徨し、岩を舐め、木をかじり土を食べ、汗や尿を舐め
るようになる」。
このように岩塩は無くても塩分はあるのだ。
例えば山の温泉に行き、そのお湯を舐めると塩分でショッパイ時もある。この塩分がこずんだ所の
土には塩分が多量に含まれるはずだし、野生動物は今でもそれらをなめて生存している。

私の妄想的歴史観は、この向市場遺跡に住んでいた縄文人は、塩の道の交易者の為に、ここで
生活をしていたのではなく、水窪の川の幸と山の幸に満足して住んでいた思う。
そして塩は野生動物と同じようにして補充していたため、塩分の供給量が限られていたので、山に
は大集落が存在してなかったのではないか。
エッ!黒曜石はどうなるのだって?
それは交易のため和田峠から遠州に運んだのではなく、ごとで物々交換した物が順送りされ
伝わって来たのだと思う。そして塩も段々需要が多くなってくると、海のある地方から交換を重ね
ながら、北遠や信濃に伝わっていったのだろう。
価値(需要)のある物は、自分たちが必要なくても仕入て、必要とするに伝わって行く。
これこそ商いの初期形態でしょう。

ここ向市場にも、信濃和田の人が麦や稗、獣皮などを運び、西渡からは塩や海産物、米などが持ち
込まれ、盛んに物々交換していた姿を思い浮かべる事が出来る。
尤も縄文時代でも、私のように放浪癖や歩く事が好きな者もいて、長い距離を歩いて、直接運んだ
事もあったでしょうが。

     
   次郎兵衛様と双体道祖神の祠              次郎兵衛様

次郎兵衛様とは幾つかの言い伝えがあるようで、先ずは塩の道の起点相良に伝わる話から。
「水窪は塩の道の中継地で、ここに次郎兵衛様が祀られています。この次郎兵衛と言う人は、実は
相良の松本次郎兵衛の事でして、この次郎兵衛が相良から塩や魚を水窪に送っていました。
水窪の人達はそれを信州に運んで生業としていたので、そのご恩を慕って今もお祀りしています。
(相良塩づくり物語)」


一方水窪では相良と同じような話と同時に
「次郎兵衛様は水窪の庄屋で、過酷な年貢に抗議して死罪になった。」話も伝わっている。
どちらが正しいのか今では判断する術はないが、こんな事実もある。
相良の次郎兵衛は慶長2年(1597)に92才で亡くなっているが、一方水窪で次郎兵衛様の石仏を
造立したのは寛保2年(1740)です。この150年近い差は何を意味しているのでしょう。
また、次郎兵衛様の像には「十四人為菩薩」の文字を読む事が出来ます。この14人とは誰の事
なのか気にかかります。石仏の前にある案内板の説明は、何故か道祖神のしか無かった。


  
      双体道祖神        双体道祖神拡大         案内板

双体道祖神は、次郎兵衛様と同じ祠で肩を並べて立っている。その双体道祖神にも面白い話が
伝わっていた。
「むかし絶世の美男美女の兄妹がいた。余りに器量が良かったので、二人とも相応しい相手が
見つからなかった。そこで二人は東と西に分かれて、嫁探し、婿探しのに旅立った。
だが兄に勝る男性、妹に勝る女性には廻り逢う事が出来ず、村の入口まで戻って来ると、先方
から素晴らしい人が歩いてきた。慌ててお互いに駈け寄ると、なんと我が兄、我が妹であった。
二人はこれが運命だと思い夫婦になったという。」

この後こんな事を書いてあるのもある。
「周りの冷たい目に悲しんだ二人は、川に身を投げてしまった」

この話で伝えたい本当の意味はなんだろう。山の中の小さな村では結婚相手もなく、仕方なく
兄弟婚もあったのかもしれない。そんな事を弁明しているのだろうか。

湿っぽい話の後になんですが、道祖神の拡大写真を見てください。
裾をはだけ、足を絡ませ、握っているのは------------- 
こんな道祖神が静岡県にもあったのですね。矢張りここは信州に近い。

     
          水窪の町並み                  塩の道通り

次郎兵衛様の前にある水窪橋を渡り旧道に入ると、向市場より長い町並みが続いていた。
そんな中に温泉地にあるような階段の小路があり、そこには塩の道の大きな標識もある。
何か飲食街に行く小路かと思ったが、入って見る事に。途中で会った人に、この道は塩の道か
確認すると、そうだとの返事だった。

 
            荷車の壁絵                          飛脚(?)の壁絵

小路の途中の壁に、絵を焼きこんだタイルが嵌め込まれていた。まず1枚目は荷車に俵を積んで
かじ取り1人に後押し2人が描かれている。ウン!ここでまた疑問が。
この絵の男たちの頭には丁髷がのっている。という事は、この絵は江戸から明治の初めの頃を
描いていると思うが、この辺りに荷車道が開通したのは明治23年の事だ。なのに丁髷?
慌てて断髪令を調べると明治4年に発令されている。水窪は山間僻地で法律の適用が緩かったと
しても、明治23年に丁髷では合わないだろう。
一方人が描かれている絵は何を表したいのだろう? 初めは背負子を担いぎ杖を肩に通している
のかと思ったが違うようだ。背負っている荷も小さいのか? それとも大きいのか? いやいや荷を
背負っているのか? 見れば見るほど分からなくなる。

当時の人や馬の背で運ぶ量を調べてみた。
米だと馬が三斗俵を四表、これにつく馬方も四斗俵を一俵を背負子で背負ったという。
米1斗は約15kgとあるので4斗俵だと60kgになってしまう。
ウーン! 幾らなんでも60㎏を担いで、長距離を歩けるものだろうか?
馬が三斗俵、人が四斗俵が間違って逆になっているとしても、45㎏を背負って歩いた事になる。
塩の一斗は米より軽い?? イエイエこれも調べてみると塩の方が重かった。

結局当時の人がどれ程の重さの物を背負って歩いたかは分からなかったが、絵の人物のように
気楽に歩ける事はなさそうだ。それよりこの姿で想像できるのは、三度笠を被り、東海道を突っ
走る飛脚のようにも見えてくる。
だが江戸と京・大坂の間ならともかく、遠州と信州の間に飛脚が居たかどうか?
折角書いてくれるなら、塩の道の荷車、荷馬車、駄馬それと背負子姿を書いて欲しかった。

階段を登りきった小学校の所に「神原遺跡」の表示があった。この遺跡も縄文時代の遺跡で
向市場遺跡と同じころの物だろう。きっと向市場も神原もそれぞれの塩場を持っている小さな
集落で、塩が浜から伝わって来るまでは、その小さな集団を維持していたのだろう。
(勝手な解釈です)

 
     塩の道公園から水窪                中村旅館

水窪の街が一望できる高台に塩の道公園があった。写真に見える川は水窪川で横を走る道は
国道152線です。塩の道は更に左の山側にあるのだが、川沿いに造れば高台に登らなくて済む
ものをと思ったら「むかし川の横には大きな岩があり、塩の道はその岩を避けて高台を歩いた」
のだそうです。

道の所々にある手作りの案内板を読むと、「奥山郷(水窪)は、南北朝時代の南朝方だった
後醍醐天皇の御孫由機良(ゆきよし)親王が御旗を挙げた所で、現在の地名の小畑は御旗から
きている」
とある。
待てよ、さっき見た高根城の案内板には「伊良親王を守護のため城を築いた」とあったが、
由機良親王と伊良親王とは違う人なのか?
だが調べてみても二人の親王の名前の字が該当するものは出てこなかった。でもこんな記述を
見付けた。「後醍醐天皇第四王子宗良(むねよし)親王の第二子尹良(ゆきよし)親王」
字は違うが「ゆきよし」の読みは同じだ。古文書などの漢字は当て字が多いと聞いた事があるので
多分「由機良=尹良=伊良」なのだろう。
しかし尹良親王が水窪で旗揚げ云々の記事は、水窪関連のHPでしか読むことは出来なかった。
蛇足ながら、昨年尹良親王の父宗良親王の墓を訪ねた「湖北五山と神々の道」の記事もあります

塩の道公園から下り、再び宿場町の風情になった水窪の道を歩き、今日の宿「旅館中村館」
到着したのは15時30分だった。                      

   --------------------------------------------------------------------------
付録
到着が3時半だったので予定通り水窪民俗資料館へ向かった。
水窪川を遡る事15分。着いた資料館は閉っていた。入口の案内を見てみると開館してる日より
閉館している方が多い。どうやら週末を主に開館しているようだ。質問したいことがあったので
残念だが仕方ない。でもチョッピリ高根城跡に行かなかった事を後悔した。

中村旅館は1泊2食付きで7千円。風呂は大きく清潔でトイレは部屋にあり快適でした。
食事は大広間でしたので、塩の道を歩いている人と話しができ楽しかったです。

 
       水窪民俗資料館                   江戸時代の民家




塩の道&秋葉道Ⅴ(西渡-水窪3)

2012-12-09 17:53:38 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅴ(西渡~水窪3)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:4時間10分 休憩時間:0時間25分 延時間:4時間35分
出発時間:10時55分 到着時間:15時30分
歩  数: 21、200歩  GPS距離:15.8km

行程表
 西渡バス停 0:30> 八丁(明光寺)峠 1:20> 林道西渡線入口 0:20> 西渡発電所 0:30> 
 城西駅
 1:00> 教伝様 0:10> 次郎兵衛様 0:10> 塩の道公園 0:10> 水窪中村旅館

        
          車道と分かれて                簡易舗装された塩の道
観歩記
車道と別れて塩の道は民家の前を通り林の中に通じている。だがこの地域は林の中の細い道でも
生活道として利用しているのか簡易舗装がされているので、分かりやすく歩きやすいので気疲れを
しないですむ。前回紹介した庚申塔は、この山道の左手にあった物で、この道が旧街道だった事を
示している。
ガイドブックには、この辺りは塩の道が3ルートあり、1本は前回歩いた秋葉山神社から西渡に向か
う途中、道を見失いかけた半血沢から東の山に向かうルーで、相月道と呼ばれているとある。
途中には城跡などの歴史もあり、主要な街道だったようだが現在は利用されていないらしい。
当初はこの道を歩こうと思ったのだが、秋葉神社の下社を出て、その日の明るいうちにゴールする
場所がなく、しかもバスの便もない事もわかり諦めたルートだ。

残りの2本はこの辺りで分岐して、1本は西の山の中腹を行く山道だが「山道の古道は崩壊個所も
数ヵ所あり、通行困難。危険度非常に高い」
と注意書きがある。
それでも分岐場所が分かったら道の状態を確認する気でいたが、分岐場所は分からず自然と残り
の水窪川沿いを遡行する荷馬車道になってしまった。

この荷馬車道は当然歩きやすいが、開通したのは明治23年と遅く、歴史も浅いので遺物が少ない。
それまでは西側の山の中腹を行く山道だったので、そちらの道の方が見る物は多そうだ。
待てよ! 荷馬車が通れるようになったのが明治23年となると、西渡に陸揚げした荷物を馬や荷車
に乗せて運んだのも明治23年以後になる。では西渡が男衆や女衆で賑わったのもそれ以後の話か。
なんか訳が分からなくなってきた。
ガイドブックも西渡にあった案内板も、年代の記述がないので読む方としては自然江戸時代の事と
判断してしまう。それが明治23年から国道152号線の開通する大正12年までの短い間とは誰も思わ
ないだろう。矢張り山道を歩けばよかった。

ようやく水窪川に架かる小休戸橋の所で国道に合流した。この小休戸の地名は家康に関係があり
「小休戸は家康が敗走するとき休憩した屋敷がある事からついた地名です。
落ち武者となった家康が休んだ屋敷の主に、天下を取ったら見渡す限りの山を授けると言ったが、
落武者風情がと主が信用しないので、家康は半分にすると言い直し、約束通り山を授けた」
という話が伝わっている。
家康が負戦で逃げるとき助けられた話は、犬居城の敗戦の時にもあった。他に、前回紹介した
山犬信仰の山住神社にも
「家康が三方原の戦いで武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、山全体が鳴動し山犬の大音声が
おこり、武田勢を退散させた。以来、徳川家康の崇敬を受けた。」
話もある。
しかしこれは考えれば不自然な話で、戦場となった三方原は、家康の居城の浜松城に近く、途中
には武田軍の陣地は無い。一方山住神社は三方原から70km以上ある山の中で、しかも途中には
武田勢が支配する二俣城、犬居城などの支配地を通過しなければならない。そんな事を考えると、
ここ小休戸の家康伝説は、何時の負戦の話なのか疑問を感じる。きっと信憑性のない話だろう。


    西渡発電所ダム                切開バス停             MHの蓋

水窪川に小さな西渡発電所ダムがある。西渡発電所ダムは水窪川から取水した水をトンネルで
西渡の天竜川本流にある西渡発電所に送り、そこで発電をしている。発電用ダムと言ってもダムの
下に発電所があるのではなく、導水路でダムと発電機を結んでいるダムだった。

ガイドブックによれば、この辺りから再度山道の塩の道に通じているとあるので、注意深く歩いたの
だが、結局道標を見付ける事が出来ずに、国道歩きになってしまった。
「切開」と書かれたバス停がある。セッカイ?キリアケ?何だろうと近づいて見ると、ローマ字で
「Kiinama」とあった。さらにその先には「向皆外」「Mukaigaito」と。何とも意味不明な地名だ。
国道のマンホール蓋はダムが描かれているが、これは今西渡ダムではなく佐久間ダムだろう。
国道歩きはこんな物しか興味を引く物がない。

時間が1時半を過ぎてしまったので、民家の石段に腰掛けて握飯を食べていると、上から
「ウーキングですか」
と声が掛かった。他人の家の石段に座って食べていたので、謝りを言って
から「塩の道を歩いています」と答えると「アラ塩の道ならこの山の上に道しるべがあるのでそちら
ではないですか」
と言う。入口が分からなくて国道を来てしまったが、ここからその山道に行く事が
出来るか尋ねると「此処からは無いですね」と返ってきた。残念だがこのまま国道を進もう。
その場所から50mも行かないで城西(しろにし)駅があった。

 
     堰堤の上に道標があった             倒木の道

国道の下に製材工場が見える。地図を見れば塩の道はその工場の東側についているので、国道と
別れ製材所の横の道を歩いていた。すると「ここは家の敷地で、この先は通行止ですよ」と製材所の
人が教えてくれた。では塩の道はと聞くと「知らない」という。
仕方なく製材所まで戻り、もう1本上に伸びる道を見みると、草叢の中に研究会の道標があった。
これで一先ず安心と歩き出したが、次の道標があらぬ方向を指している。指している方向は、山の
傾斜が始り、草は茫々で背丈の低い木も生えている。ただ傾斜を登ったような跡があったので少し
登ってみると。上の方に研究会の道標が立っていた。どうやらこの道は堰堤を拵える時に壊して
そのままにしてしまったようだ。その先は倒木などあり手入れはしてないが、木々の間の道は比較
的広く荷車が通った感じもした。

山道が車道に出た所は高根城の入口の場所だった。それならこの塩の道を少し手入れをすれば、
高根城の見学者に塩の道を体験させてやる事が出来るのに勿体ない事だ。

高根城跡には、櫓などを再建してあるようなので行きたい気持ちはあるが、山城廻りは案外時間が
掛かる。それに今日は水窪に早く着いたら、歴史資料館に行く予定もあったので、案内板を読む
だけで諦める事にした。高根城の案内板には
「大永年間に城は今川氏の配下に組み入れられ、今川家が凋落傾向になると、城内で内部分裂が
勃発し城は落城した。その後武田郡が遠州侵攻を開始。武田家により本城は大改修された」

この説明の中に、徳川家康が攻めてきた記述はない。矢張り小休戸の話は信憑性が薄い。

 
           教伝様                石仏群

「むかし水窪川を渡る橋は、小さな木橋だったため、大水のたびに流されて、住民たちは困りきって
いた。ある時この辺りに住む教伝様という人が、自分の山林を全て寄付して西国巡礼に旅立たれた。
それ以後橋の費用の心配がなくなったので、住民達は深く教伝様を慕い、碑を立て今も祀っている」


どれがその教伝様の碑なのか分からないが、中央の碑には「奉納醍醐妙典経摩訶----」
後は読めなかったが、これが教伝様を慕う石碑とは思えないのだが。

教伝様の祠の横に並べられている石仏の中には庚申塔は無かったが---------

 
     庚申塔(青面金剛)              三猿

ところが教伝様らしき碑の隣にあるのは、なんと!なんと!またもや青面金剛ではないか。
それも三匹の猿は揃っているし、鶏も二羽いる。天には月と太陽があり、手は六臂で上の手は
丸い法具と三叉の物、下の手は弓と矢を持って、中央の手は印は結んでおらず剣と綱らしき物を
持っている。
私の参考書の「石仏と石塔」の冊子の青面金剛の図とそっくりで、ただ違うのは両足で邪鬼を踏
んでいない事だ。
それにしても静岡県では見かけなかった猿のいる庚申塔を、この北遠の山の中で見るとは驚きだ。
塩の道を歩くとき思ったのは、信州に近くなる北遠では、双体の道祖神は見る事が出来るかもしれ
ないと思っていた。それが道祖神ではなく三猿のいる青面金剛に対面できるとは。
この石仏も当然信州の文化の影響と思われるので、この先は庚申塔と道祖神を増々見る事が出来
るだろう。お蔭で期待が増してくる。普段お賽銭をあげない私もあげてきました。