はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え

2012-04-30 16:53:24 | ウォーキング
天城越え

 昨秋に伊豆3山を歩いたとき、次回の伊豆の道は下田街道か伊豆山稜線歩道を歩こうと決めていた。
下田街道は三嶋大社から伊豆の下田に続く道で、ハリスや吉田松陰、伊豆の踊子たちが歩いた道だ。
一方伊豆山稜線歩道とは修善寺虹の郷からから金冠山、達磨山に登り、あとは尾根伝いに天城峠まで歩く道だが、私はそこから天城山の縦走をして伊東に抜けようと思っている。
気持ちは尾根歩きに傾いていたが、ただこちらには問題があった。
一つは当然このコースは一回では歩けず三回は必要になるので、一回目は修善寺から仁科峠まで歩き、峠近くの「西天城高原 牧場の家」に泊まる予定にした。だがネットで調べるとそのHPには「牧場の家は現在休業中です」と表示されていた。この稼ぎ時のゴールデンウイークに休業では再開の見込みはなさそうだ。そうなるとコースの再検討が必要になる。
他にもこのコースの達磨山から眺める富士山は素晴らしい事で有名だが、まだ私は見た事がない。それなら当然今回見てみたいのだが、今の時季だと富士山の見える確率は最悪で、富士山を見るなら秋から冬にかけてとなると今回は時期尚早だ。
そんな訳で伊豆山稜線歩道は諦めて下田街道を歩く事にした。

 三島から伊豆の下田に延びている下田街道はハリスや吉田松陰、伊豆の踊子たちが歩いた街道で、途中にある天城トンネルは人気が高く、よくウオーキング大会も開かれている。
ただ今回私の考えている街道歩きは前回の東海道の反省を受け、街道には余り拘らず、付近にある名所旧跡に寄って見聞を広めようと思っている。と言っても所詮は歩きなので何キロも離れた場所に行くわけにはいかないで、あくまでも街道の周りにある見所だけになってしまうが。
で候補に挙げたのは 1.願成就院 2.江川邸 3.蛭が小島 4.反射炉 5.伊豆金山 6.修善寺温泉 7.浄蓮の滝 8.昭和の森 9.旧天城峠 10.七滝 11.寝姿山 12.下田公園 くらいのものだ。
しかしこれらに寄るとなると街道から大きく逸脱してしまう時もあるので、ウォーキングの名称を「下田街道」にすると若干誤解を招く恐れがある。それならいっその事「天城越え」にすれば問題は無いだろう。とどうという事もない事に迷っている私でした。

 この下田街道の距離は概算70km弱なので2回に分ければ歩けそうな距離なのも悩ましい。ただ前述の名所を寄り寄り歩くとなると35kmは、かなり厳しい距離になるだろう。
これでは東海道の反省が生かされない事になるので、今回は思い切って初回を三島・修善寺間にしてしまえば、次は天城峠を越えて一度で下田までは歩く事は出来なくなる。
よし決めた。1回目は三島から修善寺 2回目は修善寺から七滝 3回目は七滝から下田までとしよう。若干の前後は当然で臨機応変にすればよい。

と余りに杜撰な計画の元、29日に出発した。

大崩山塊・十字縦走

2012-04-28 14:53:16 | 低山歩き
大崩山塊・十字縦走

場   所:静岡県・静岡市・焼津市・
歩行月日:2012/03/29
歩行データ: コースタイム
 安倍川駅-1:00-朝鮮岩-0:50-丸子富士-0:30-満観峰-1:10-高草山-2:30-花沢山-1:10-満観峰-1:30-宇津ノ谷峠-1:50-安倍川駅

 歩行時間:10時間30分 休憩時間:1時間00分 延時間:11時間30分
 出発時間:6時00分  到着時間:17時30分
 歩数:48,365歩 GPS距離:28.0km

 この大崩の十字縦走は私にとって「海から剣ヶ峰」の試金石の山行と位置付けていて、ここが完歩出来なければ、海から富士山に登る体力が無いと判断し富士登山は中止するつもりでいる。
今年もその試金石の十字縦走を歩いてきたので紹介します。

 藤枝を一番電車に乗り安倍川駅に6時前に到着。
何ですか 多寡が満観峰や高草山に行くのに6時出発は大袈裟だって? 
イエイエ 高々500m前後の低山と大崩山塊を甘く見てはいけません。今日の予定の十字縦走は、海抜数mの地点から500mに登り、一旦下って再度登り直すコースです。
七山七峠でしたって?厳しいと評判の沼津アルプスと同等かそれ以上のハードなコースです。所要時間も足の速い人でも10時間以上は見ておいた方が無難と思います。

ではコースを概略図で説明します。

   

 安倍川駅から丸子川沿いに進み井尻橋を渡って登山道に入り、朝鮮岩、丸子富士と経て満観峰に登ります。満観峰から高草山に向かい500mも下ると蔦の細道への分岐に出るので、そこを左折して鞍掛峠に向かいます。
鞍掛峠から高草山に登ったら、下りは石脇登山口を目指して下り、途中から花沢に向かう農道に入ります。花沢の里観光駐車場の前を通り、東名、150号線、新幹線の3個のガードと東海道線の踏切を渡って小浜海岸に向かう道を行きます、尾根道に出たら左折して花沢山に向かいます。
花沢山からは日本坂峠を経由して再度満観峰に登り、午前中と同じ道を高草山に向かって下ります。蔦の細道の分岐に出たら今度は直進して蔦の細道に向かいます。3個ほどのピークを過ぎ蔦の細道の峠に出るが、そのまま直進して宇津ノ谷峠に向かいます。
宇津ノ谷峠に出たら右折して宇津ノ谷集落と通って国道1号線の道の駅に出ます。国道1号の右側の歩道を静岡方面の向って下って行き、二軒屋の所で丸子川に合流するので、橋を渡ってから右折して川沿いの遊歩道を行けば。朝歩いた井尻橋の袂に出ます。

 山道ははっきりしていて迷う所はないが、高草山の下りで花沢の里に向かう所から、小浜海岸に出る道が分かりにくいかもしれませんので、あとでもう少し詳しく案内します。

 前回歩いた「静焼アルプス」は安倍川駅から佐渡山に登り、そこから後はズート尾根歩きになります。幾つかの三角点を越え宇津ノ谷峠に出たら、十字縦走の逆コースを歩いて花沢山に出ます。花沢山から更に尾根道を完歩の宿の下まで歩き、簡保下に出たら車道を焼津駅に向かうコースです。
距離は十字縦走より短いが、アップダウンが激しいコースで結構疲れます。

 そしてまだ私も歩いた事は無く、これからも歩く自信は無いコースもあります。それは十字縦走で宇津ノ谷峠に出たら、そのまま国道1号には下らず、さらに飯間山等を目指して静焼アルプスの徳願寺側の尾根を歩いて安倍川駅に行くコースです。
まさに「大崩山塊完全縦走」と銘打ちたいコースで、安倍川駅にはそれこそ夜の10時ごろ着くのではないかと思います。
誰か挑戦して、その結果をコメントしてくれませんかね。楽しみに待っています。


追:

詳しいコース説明はゴールデンウイーク明けになってしまいそうなので、分かりにくい高草から小浜海岸の略図を添付します。



     安倍川駅北口に下車し、駅下の道を西(左)に進み、丸子川に突き当ったら道なりに右に曲がる。
     県道が上に見えたら土手に登り、県道を越して川沿いの遊歩道を行く
     駅から15分も行くと右手川越しに幼稚園が見えるので井尻橋をわたる(橋に標識あり)
     橋を渡ったら左の山側の道を直進する。
     神社や石仏を過ぎ簡易舗装の道や山道があるが、いずれの道でも朝鮮岩に行ける
     (右側の山道を行くと寺には行かず直接朝鮮岩へ行く)
     寺を過ぎれば、あとはハイキングコースを行けば良い
     朝鮮岩過ぎ、時折分岐した道があるが上に登る道を取って行けばよい
    
     高草山山頂から石脇口の標識に従い下山する。
     途中何回(3回?)か農道に出合いながらも標識に従い下山。
     4回目(?)の農道は左側が2本ある三辻になので、そこにでたら左の下に向かう農道を下山する。    
    
     農道の途中に高崎集落の分岐があるが、そちらに行かず下に行く。
     変則的な五差路に出たら東に下る太い道を花沢に向かう
     正面に常夜灯、右にトイレがある三差路を右折して花沢駐車場に向かう。     
    
     花沢駐車場の前の道を下って、東名、150号線のガードを潜り更に直進して新幹線の歩行者用ガードを潜る
     ガードを潜ったら右に曲がりると土手の道に出るので右折する
     東海道線沿いの道に出るので左折して道なりに行くと踏切がある
     踏切を渡り石仏がある辺りから道は太めの山道になる。
     舗装された農道を横断し、さらに上に進むと半分に折れた道標にでる
     そこからはハイキングコースで、そのまま進めば花沢山に行ける

     ゴールデンウイークに是非挑戦してみてください

東海道53次 まとめ

2012-04-26 10:29:48 | 低山歩き
東海道五十三次歩行データ
①東京駅-0:05-日本橋-1:50-品川宿-2:30-川崎宿-2:20-神奈川宿-1:10-保土ヶ谷宿-2:10-戸塚宿-1:50-藤沢駅
 出発時間:5:30 到着時間:18:00 歩数:70,900歩 GPS距離:52.6km

②藤沢駅-0:15-藤沢宿-3:00-平塚宿-0:40-大磯宿-3:30-小田原宿-0:20-小田原駅
 出発時間:8:40 到着時間:18:10 歩数:52,440歩 GPS距離:43.4km

③小田原駅-0:25-小田原宿-4:10-箱根宿-3:40-三嶋大社-0:15-三島駅
 出発時間:7:15 到着時間:16:45 歩数:52,440歩 GPS距離:36.5km
 
④三島駅-0:20-三島宿-1:35-沼津宿-1:30-原宿-3:00-吉原宿-2:50-蒲原宿-0:25-蒲原駅
 出発時間:7:05 到着時間:17:25 歩数:53,460歩 GPS距離:46.3km

⑤蒲原駅-0:20-由比宿-2:20-興津宿-1:10-江尻宿-2:25-府中宿-1:30-丸子宿-1:40-岡部宿-1:30-藤枝宿-0:20-藤枝駅
 出発時間:6:30 到着時間:17:10 歩数:64,050歩 GPS距離:54.0km

⑥藤枝宿-1:40-島田宿-1:20-金谷宿-1:40-日坂宿-1:35-掛川宿-2:30-袋井宿-0:10-袋井駅
 出発時間:6:45 到着時間:17:00 歩数:54,590歩 GPS距離:45.9km

⑦袋井駅-0:10-袋井宿-1:30-見付宿-4:15-浜松宿-2:50-舞阪宿-0:50-新居駅
 出発時間:6:00 到着時間:16:45 歩数:56,090歩 GPS距離:47.6km

⑧新居駅-0:10-新居宿-1:35-白須賀宿-1:40-二川宿-1:55-吉田宿-4:05-御油宿-0:20-赤坂宿-0:40-長沢駅
 出発時間:6:40 到着時間:17:15 歩数:54,270歩 GPS距離:42.3km

⑨長沢駅-2:00-藤川宿-2:20-岡崎宿-3:50-池鯉鮒(知立)宿-1:15-豊明駅
 出発時間:7:25 到着時間:17:30 歩数:50,170歩 GPS距離:40.8km

⑩豊明駅-1:40-鳴海宿-1:40-宮宿-0:15-七里の渡し-0:50-金山道標(金山駅)
 出発時間:8:10 到着時間:13:20 歩数:25,530歩 GPS距離:19.8km

 佐屋街道
 金山道標-1:40-荘内川-0:50-七宝焼道標-0:25-神森一里塚―0:55-津島駅
 出発時間:13:00 到着時間:17:15 歩数:23,140歩 GPS距離:21.2km

⑪津島駅-2:20-ふたつやの渡し-1:00-長良川河口堰-0:40-七里の渡し
 出発時間:8:30 到着時間:13:00 歩数:14,160歩 GPS距離:18.5km

 東海道
 七里の渡し-0:10-桑名宿-3:10-四日市宿-0:20-四日市駅
 出発時間:13:00 到着時間:16:50 歩数:21,570歩 GPS距離:16.1km

⑫四日市宿-2:50-石薬師宿-0:50-庄野宿-1:50-亀山宿-1:30-関宿-0:10-関駅
 出発時間:9:15 到着時間:17:05 歩数:41,650歩 GPS距離:33.9km

⑬関駅-1:30-坂下宿-2:10-土山宿-2:10-水口宿-0:05-水口石橋駅
 出発時間:10:10 到着時間:17:10 歩数:39,880歩 GPS距離:32.8km

⑭水口石橋駅-3:00-石部宿-2:30-草津宿-0:10-草津駅
 出発時間:11:10 到着時間:17:30 歩数:36,220歩 GPS距離:30.1km

⑮草津駅-0:10-草津宿-4:00-大津宿-0:10-2:30三条大橋-0:40-京都駅
 出発時間:10:15 到着時間:18:10 歩数:42,970歩 GPS距離:33.9km


東海道53次 藤沢宿

2012-04-24 10:12:15 | ウォーキング
font color="blue">東海道53次15回目-6

戸塚宿~藤沢駅
戸塚本陣跡-0:07-保土ヶ谷一里塚-0:40-境木国境-0:10-品濃一里塚-1:15-藤沢駅


 戸塚宿から藤沢宿までが約8kmなら、藤沢駅までは10km程度だろう。ならば歩行時間は約2時間強としても6時半過ぎには藤沢駅に着くだろう。予定では戸塚宿を5時に出て藤沢駅に7時半頃を予定していたので、それよりは1時間は早くなっている。これも見るべき場所を次々と止めてきた結果なので、決して速度が速かったわけではない。

 道の反対側(左)に「上方見附跡」の記念碑が見えたが、わざわざ国道を渡るのも面倒だとまたもやパス。
国道1号線のバイパス(?)と合流する辺りの地名は「大坂」となっているが、名前負けをするような坂だった。尤も名前のように大変な坂なら音を上げたかも知れないので、大した坂でなく助かった。

 柵で囲まれた記念碑がある。近づくと「お軽 勘平 戸塚山中道行の場」とある。お軽・勘平とは名前を聞いた事はあるが内容は知らなかったので家に帰り調べてみた。「お軽勘平」とは「仮名手本忠臣蔵」の中にある話で概略を説明すると
「殿様の刃傷事件のきっかけを作ってしまった軽は、恋人の早野勘平と実家のある戸塚に駆落ちをする途中、この地で疲れを癒やしていた。勘平は主君の切腹やお家取潰しという事件の最中に駆落ちする自分が情けなくなり、腹を切ってお詫びすると言い出した。お軽は必死に実家に行けば二人の生活ができるようにするとかき口説いた。勘平も気を取り直して、生きていればお詫びが叶う日も来るだろうとお軽の実家に落ち延びて行った」と言う話でした。
それにしても架空の話なのに「道行の場」の記念碑を建てしまうのだから大したものだ。そういえば駿河の岡部宿に「小野小町姿見の橋」という小さな橋があったが、あれと同じ類の物だろう。それにしてはここの記念碑は立派な物だ。
そうそうお軽勘平を調べていて分かった事を二つ紹介します。
仮名手本忠臣蔵の「仮名手本」とは、赤穂四十七士をいろは四十七字にかけて「仮名手本」とし、
「忠臣蔵」とは「忠臣大石内助」から「忠臣蔵」としたというのが一般的だそうです。

 大坂が終わったのか、道が下り坂になった所の道路の法面の上に一里塚の案内板が建っていた。
「原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って十一里目にあたっている。塚の付近に茶店などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。明治九年に里程標の杭をたてるとき一里塚は事実上不要となったので取り払われてしまい、現存していないが、一里山の名を残して、その位置を示しているのが現在地である」とあった。
案内板は古く場所も高くて見難いが、このようにここ独自の事を紹介してあるのが良い。いくら立派な案内板でも一般的な事だけでは読む気も起きなくなってしまう。

     
  お軽 勘平 戸塚山中道行の場                原宿一里塚 

 道路脇のフェンスで囲んだ中に庚申塔やら道祖神、五輪塔など幾つも置いてある場所があった。道路工事で邪魔になった石仏をここに集めたのだろう。中に庚申塔なのだろう青面金剛の石仏の下に三猿がはっきり見えていた。
それと気になったのは、何故か曲がった五輪塔(?)と、その横にはポコンと真ん中の膨らんだ石像が並べて置いてあったことだ。
それが何かは想像に任せるとしても、何故曲がったのだろう? 曲げて作ったのか、それとも後で曲がったのか?

 国道脇に日本橋から48kmの距離標識が建っていた。今までも何度も見てきた標識だが写真を撮る事はなかった。今回気が付いて写したのは良かったが、歩数やGPSの距離を見るのを忘れてしまった。気が利いたようで気が抜けている。これも疲れからなのか。
仕方ないので原宿の一里塚を参考にすると、一里塚はGPS距離が46.9kmとなっている。そこから10分歩いているので約700m加算すると47.8kmとなる。ならば標識の48kmと同じになる。偶然とはいえ嬉しい一致だ。

    
  青面金剛                五輪塔(?)        距離標識

 の名前が「影取町」になった所に漫画チックな蛇の絵に「鉄砲宿と影取池の昔話」と書いてある標識が建っていた。そこには「昔この辺りに住んでいた長者が大蛇に名前を付け飼っていた。そのうち長者の家が落ちぶれてくると大蛇は近くの池に去っていった。池に入った大蛇は腹がすくと池の畔を歩く人の影を食べて飢えをしのいでいた。ところが影を食べられた人がだんだん弱ってくるので、その池を影取池と呼んで近づかなくなってしまった。
困った村人は大蛇を鉄砲で退治しようとしたが、蛇は鉄砲を見ると池の中に隠れてしまう。そこで村人は一計を案じ、蛇の名前を呼び、蛇が長者が呼んでいると勘違いして池の中から顔を出したところを鉄砲で撃ってしまった。その猟師が住んでいた所を鉄砲宿と呼んでいる」
のだそうです。
 これを私流に解釈するなら「昔強欲な長者がこの辺りに住んでいた。村人に金を貸してはその返金を求めて強引な掛取りを行っていた。困った村人はその長者を鉄砲で打ち殺して近くの池に投込んでしまった。それからその池の事を「掛取池」と呼んでいたが、いつの間にか「影取池」になった」となる。馬鹿を言ってないで先を急ごう。

 道の反対側に一里塚の案内板が見えていた。しかし渡るにはガードレールはあるし交通量も多過ぎると諦めてたら、なんとこちら側にも一里塚の標識が建っていた。今まで歩いてきてこんな親切な標識は無かった。ありがとうございます。
日本橋から12里目の「遊行寺坂の一里塚」だった。12里なら約48kmで、先ほどの国1の距離標識の距離とも合う。

     
  鉄砲宿                          遊行寺坂の一里塚

 一里塚のの名前が遊行寺なら藤沢の遊行寺は近いだろう。遊行寺に着けば藤沢駅まで1kmもなかった筈だ。サーもう着いたも同然だと急に元気が湧いてきた。
道の反対側に遊行寺が見えてきた。もう今日は遊行寺に寄るのは止めよう。前回見るべき物は見てきた。あと小栗判官の墓が少し気になるがもう今更いいや。と藤沢駅に直行してしまった。
でも最後に反省。今日のようにパスしてばかりの街道歩きでは何のための街道歩き分からくなってしまう。私の知人に日本橋から小田原まで一日で歩いた猛者が居る。その人の話を聞くと、街道を探していると時間が掛かるので国道を歩きっぱなしだったという。また当然夜になったので景色も何も見ず歩いたと言っていた。その時そんな歩きならわざわざ東海道を歩く事は無いと思ったが、それが今日の私の歩きでもある。次回街道歩きをするときはもっと余裕をもって歩くようにしよう。

          
            遊行寺入口

 ジャスト6時に藤沢駅に到着。GPS距離52.6km、歩数70,900歩でした。

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 東海道の最後が日本橋から藤沢とは考えられない終わり方になってしまったが、これも私らしいといえば私らしい終わり方でもある。しかし何は兎も角、東海道を完歩した事は間違いない。
次回は何処を歩こう、青春18切符を使えば、かなり足を延ばすこともできる。
中山道? 西国33観音? 熊野古道? いやいや静岡県内にも天城越え、身延道、塩の道もある。サー何処にしよう。

東海道53次 戸塚宿

2012-04-23 09:46:55 | ウォーキング
font color="blue">東海道53次15回目-5

保土ヶ谷宿~戸塚宿
保土ヶ谷本陣跡-0:07-保土ヶ谷一里塚-0:40-境木国境-0:10-品濃一里塚-1:15-戸塚本陣跡


本陣跡を後にして500mも歩くと川の畔に一里塚と上方見附が再現されていた。
日本橋か八里目の「保土ヶ谷の一里塚」だった。楕円形の塚を2段の石垣が囲んだ少々貧弱な一里塚だがないよりはいい。しかしここに八里目の一里塚があるという事は、旧帷子(かたびら)橋の袂に建っていた「江戸日本橋より八里」の石碑は何だったのだろうか。
 一里塚から少し離れた所に「東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会」と仰々しい肩書の団体あが建てた案内板があり、そこには「一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方」に相当する大きさの塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、宿場時代の再現に勤めました」と書いてあった。
 この委員会も再現した一里塚を見て貧弱と感じたので、こんな言い訳を書いたのだろうが、一里塚の建っている場所の前は皐月の広い花壇で、場所の制約は余りないように見えた。五間四方は無理としても、一目で貧弱と思われない一里塚は再現出来たろう。

 車道に面白いマンホールがあった。正月に行われる箱根駅伝を描いたもので、選手が保土ヶ谷宿の帷子川(?)を走り抜けている姿だった。ではこの道は国道1号線? そう、いつの間にか国道15号線ではなく1号線になっていた。15号線は何処に行ったのだろう。保土ヶ谷から三浦半島の海の方にでも向かったのだろうか。
1号線で箱根駅伝なら「権太坂」が近いだろう。その権太坂で思い出すのは20年以上前の事だが、早稲田の櫛部選手が夢遊病のようにフラフラになりながらも次走者に襷を繋いだ事があった。あれ以来正月はTVで箱根駅でを見るのが恒例になってしまった。

  
  保土ヶ谷の一里塚                           箱根駅伝のMH

 その難所の権太坂にいよいよ挑戦する。坂の入口には東海道道路改修記念碑や案内板などが建っていて、いかにも難所に向かっていく感じだ。だが坂の勾配は何処にでもあるような感じの登りで、別にどうという事は無い。さていつから本格的な権太坂になるのだろうと陸橋を渡り、左右に学校があり、なんてしているうちに頂上らしき所に着いてしまった。
アレアレやはりそこが権太坂の最頂部で武蔵と相模の国の国境だった。権太坂の入口からここまで、20分も掛かっていない難所だった。
そうなると失敗してしまった事がある。実は権太坂の途中に「投込塚」という、行倒れの人を葬った塚のお参りしたかったのだが、難所の権太坂を離れる勇気がなく止めてしまった。かといってここから戻ってお参り気にする気にもならなかった。
 行倒れの人を葬った話は川崎宿の八丁畷にもあったが、あそこは行倒れの人を松の根元に埋め、その後道路工事などで骨が発掘されたので慰霊碑を建てたとあった。だがここの投込塚は名前こそ残酷だが、死体を集めて塚に葬ったのだからより親切な行為だ。
昔の旅人は旅先で亡くなれば、余程の身分が高い人か金持ちでなければ、現地で無縁仏になるしかなかったろう。そのためどの宿にも、これと同じような塚はあったのではないだろうか。

  
  権太坂の標識              権太坂の名前の謂れ           権太坂

 ところで今まで気になっていた武蔵と相模の国境がこれでやっと分かった。今まで江戸は武蔵で当然だが、横浜は湘南等の海のイメージが強く、てっきり相模と思っていたが間違いだった。ここが国境なら横浜は武蔵だったのだ。
イヤ待てよ。現在もこの場所は道路を挟んで北が保土ヶ谷で南が戸塚になっている。そしてその保土ヶ谷も戸塚も横浜市に所属している。ならば横浜は武蔵でもあり相模だ。それなら自分の考えは間違えではなかった事になる。

 この国境は立場の跡でもあって案内板には
「境木(さかいぎ)立場は、権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしのよい高台で西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶店で出す牡丹餅は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わっていたいうことです。中でも特に若林家には黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用したと伝えられています」とあった。

       
      武蔵・相模国境の標識             若林家(これが茶屋)

 国境からは焼餅坂の下り坂になった。登りの権太坂では苦も無く登れたのに、下りになってからの方が足に響いてきた。いつも感じる事だが下りになると傾斜が強く感じて「この坂を登るのは大変だ」と思ってしまう。いまも権太坂より焼餅坂の登りの方が大変だろうと思いながら下って行った。
途中に焼餅坂の謂れが書いてあった「旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名牡丹餅坂)と呼ばれています。この辺りには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だといわれています」
昔の旅人も峠の上り坂で体力を使い腹が減ったのだろう。それを目当てに峠の茶屋が出来たのも当然な事だ。牡丹餅とどのようなものか分からないが焼餅は食べてみたい気がする。ウーンそう言えば腹が減ってきた、どこかで補給をしないと本当にガス欠になってしまう。

 焼餅坂を下り切るとまた登りが始まった。今度の坂は「品濃(しなの)坂」と呼ぶらしい。
日本橋を歩き出してからすでに9時間以上経っているので大分疲れてきて、険しい坂でもないのにスピードが落ちてきた。腹も空いてきたが住宅が続いていて休む場所も無かった。道がようやく切通しのように両側がせりあがった所に入ってきて、休憩もしたいがそろそろ一里塚があっても良さそうだと、キョロキョロしながら歩いていた。
前方の道の右側に標識と案内板が建っている。きっとあれが一里塚だろう。
フーやっと日本橋から九里目の「品濃の一里塚」に到着。時間は2時50分、GPSの距離は38.6kmになっていた。
「ここ品濃の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。 このように、今でも道の両側の塚が、ともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年には県の史跡に指定されました」と案内板に紹介されていたが、確かに自然が残されていて感じがいい。標識の上に行けば一里塚公園があるらしいが、一先ずここで休憩しようと道の石垣の上に座り込んで栄養補給をした。そして少し休んでから出発してしまった。
 その結果、私の写した一里塚の写真は標識がメインで、塚があるのかさえ分からない状態だが、案内板には「道の両側に塚が残っている」と書いてあったし、他の人の道中記を見ても大木が根を張っている一里塚の写真が載っている。これでは街道歩きをしている意味が無いと今になって遅い反省をしなければならなかった。

  
  焼餅坂の標識                         品濃の一里塚

 休んだせいか足の運びも元に戻ったようだ。焼餅坂までと違い自然が残された中の道は日本橋を出てから初めてのような気がする。果樹園の看板もあり葉のない柿の木が見えていたり、満開の早咲きの桜も咲いていた。ただ気持のよいのは良いが、道が分かりにくくなってきた。細い道の分岐が時折あるが標識のない所もあり、普通ならその都度悩むのだろうが、私の場合は手持ちの街道マップのお蔭で難なく通り越すことができた。そして最後に急な坂を下って環状2号線を跨ぐ歩道橋を渡ると、また住宅地の中に入った。

 道は国道1号線と合流しその歩道を西に進んでいくと土手の上に大きな木が見えてきた。案内板の「益田家のモチノキ」とあり神奈川県の天然記念物に指定されているとある。モチノキ生えている土手は民家の庭を歩かなければ行けないので下から眺めるしかないが、モチノキは3本生えているようだった。
更に道の反対側には大山道標を集めた場所があると手持ちの説明書には書いてあったが見当たらなかった。見たい気もあるが探す気にはならなかった。

  
  品濃坂の果樹園の早咲きの桜                    益田家のモチノキ

 不動坂の交差点から旧道に入ると門構えの立派な旧家がある。ここは日本人によって初めてハムが作られた場所で「鎌倉ハム」発祥の地だそうです。鎌倉ハム? 聞いた事があるような無いような。

 再び国道1号線に合流した辺りは町の中に入ったような雰囲気になってきた。いよいよ戸塚宿が近いだろうと思ったのも束の間「江戸方見付跡」の記念碑と標識があった。中々立派な記念碑だが標識に書かれていたのは、ありきたりの見附の説明だけで面白くない。
この見附跡の国道の反対側には、江戸から十里目の一里塚があるらしいが見当たらない。国道をわざわざ渡っても無い物は無いだろうと諦めて先に進む。こんな感情が湧くのも先の心配があるからなので、やはり無理な行程は街道歩きには適していない。

  
  鎌倉ハム発祥の地                         江戸方見附跡

 戸塚宿について興味深い話を見つけた。「東海道開設当初は戸塚宿は無く、保土ヶ谷の次は藤沢宿だった。保土ヶ谷宿は日本橋から約八里九町(32.4km)の距離にあり、一日十里を歩いた旅人には物足りない距離だった。だが次の藤沢宿は保土ヶ谷から四里九町で日本橋・藤沢間は12里18町(49.1km)になってしまう。これでは翌日の歩きに影響するので、いつしか中間にあった戸塚の立場に泊まるようになった。これに怒った藤沢宿では幕府に取締りの強化を願い出たが、逆に幕府は正式に戸塚宿の開宿を認めた」
そんな訳で日本橋から歩き出した旅人多くは、ここ戸塚に泊まり、女性や足の弱い人は保土ヶ谷に泊まったという。かくいう私は翌日歩くわけではないので目一杯歩いて藤沢まで頑張らなければいけない。なぜならここで止めると残された距離は戸塚宿・藤沢宿間の二里(7.9km)しかなく、そのためだけに青春18切符を使いたくない。

 4時5分戸塚本陣跡に到着。日本橋からGPSで44.1kmだった。

  
                戸塚宿本陣跡

千葉山どうだん原のツツジ

2012-04-20 05:47:01 | 低山歩き
東海道53次15回目-1

場   所:静岡県島田市・藤枝市
歩行月日:2012/04/19
歩行データ: コースタイム
 島田駅-1:40-矢倉山-1:10-どうだん原-0:20-千葉山-0:15-智満寺-1:05-双子山-3:00-藤枝駅

 歩行時間:7時間30分 休憩時間:2時間50分 延時間:10時間20分
 出発時間:7時30分  到着時間:17時50分
 歩数:41,635歩 歩幅推測:0,7m 距離推測:29.1km (GPS距離:25.9km)

 ドウダンツツジの群生地で有名などうだん原に行ってきました。
昨秋にはドウダンツツジの紅葉狩りに歩いたコースですが、今回はその時の逆コースを歩いてきました。

 島田駅を7時30分出発。駅前の道を北の向って進み国1バイパスのガードを潜った所からハイキングコースは始ります。
急な農道を一気に登ると、まだ駅から左程歩いていないのに、自然林の気持ちのいい山道になります。
島田駅方面から矢倉山にはこのコース以外には、バラの丘団地経由と尾川経由とありますが、私はこのバイパスからのコースが一番好きです。理由は何と言っても車道歩きが少ない事。それに舗装されていない山道は足に優しく感じます。だだ所要時間は一番かかるかもしれません。

  
  バイパスガードの山道入口                     自然林の中の山道

バラの丘団地の道と合流し更に進むと尾川からの道と合流します。ここが矢倉山登山口となっています。
丁寧に整備された道は歩きやすく、思っていたより容易に山頂に到着。駅から1時間40分の9時10分でした。
矢倉山(311m)は視界が聞かない山頂ですが、ただ西側1分の所に見晴らし台がありますので必ず寄ってください。そこからは眼下に開通になったばかりの新東名が、まだ真っ黒な舗装面に鮮やかな白い線を見せています。今日は平日なのか走っている車が少なく採算的に合うのか心配になります。
見晴らし台からは新東名以外にも大井川の蛇行している姿も、また運が良ければ枚の原台地から離着陸する飛行機が見えるかもしれません。ただしこれは本当に運の良い時だけです。
山頂に戻り、フト見ると黄色いカタクリの花が咲いているのを見つけました。針金で柵を拵えてある所を見ると誰かが移植してくれたようです。

  
  矢倉山から新東名                          黄色のカタクリ

 矢倉山からどうだん原に行くには、登ってきた道を四辻まで戻り、そこから田代環境プラザや伊太和里の湯の方面に下っていきます。
田代環境プラザは東北の瓦礫処理で一躍全国的に名前を売ったごみ焼却施設です。登山道はその施設をグルと回るようにして太い舗装路に出ます。
出た所を右に行けば日帰り温泉施設伊太和里の湯があります。今日はそこには寄らずに直接伊太丁仏参道からどうだん原に向かいますので、太い道を左折して10mほど先で太い道とは分かれて橋を渡ります。そこには道標が建っているので見落とすことは無いでしょう。
何のために整地されたのか広い空地の上の方に伊太和里の湯が見えています。道はグングン下って着いた所が伊太丁仏参道の開始地点です。

  
  田代環境プラザ                           伊太和里の湯

 丁仏参道の入り口に庚申塔が建っていました。塔は「青面金剛(しょうめんこんごう)」ではなく庚申と文字が彫ってあります。一見してやはり駿河では塔の下に三猿の彫り物は無い、と思いつつよく見てみると。
アッ! 有りました。間違いなく三猿が彫ってありました。ウーン恥ずかしい。庚申と猿の関係は知らなくても許せるが、今まで何度も見てきた庚申塔なのに「静岡では三猿の彫り物は無い」と言い切っていた自分が恥ずかしい。
こんな山の中の庚申塔の彫ってあるくらいなら、町の庚申塔には無いわけはなさそうだ。もう謝るしかないな。
ご免なさい「静岡では三猿の彫り物は無い」と言ったのは私の誤りでした。間違いなく静岡の庚申塔にも三猿は彫ってありました。

   
  庚申塔                               庚申塔の三猿

 丁仏参道入口の標識にはどうだん原まで20分と書いてあり、登りでも案外早く着くのだと思いながら気楽に歩き出す。
伊太の丁仏参道も尾川の丁仏参道と同じように、掘割と言うか沢利用というか分からないが、同じような参道だった。生憎一昨日の降った雨が残っていたのか、沢状の道は濡れていてよく滑る。尻餅をつかないようにストッオクを取り出し注意深く登って行く。
丁目ごとにある石仏を見ると年号が「文化」と読み取れるものもある。文化とは1804年から18年まで続いた年号で間宮林蔵が樺太探検したり喜多川歌麿が亡くなってもいる。そんな古い時代の、しかも片田舎で作成された石仏が今でもはっきり見えている。それが明治時代に作成した「生麦事件之碑」は線香の煙も危ないくらい老巧化していた。これが祟りでなくして何と言うのだ。

与太話はその位にして。尾川に行く分岐に20分ほどで着いた。アレ?確か入口の案内にはどうだん原まで20分と書いてあったはずだ。デジカメで確認したが間違いなく「どうだん原20分」となっている。矢倉山に登ってきたので疲れで足が遅くなったのか、よく分からないが結局どうだん原には30分かかってしまった。中々設定時間がキツイ標識だった。

 どうだん原のドウダンツツジは、まだ三分か四分咲きの状態で見ごろは来週になりそうだ
どうだん祭りは今週末の予定だが少し淋しい花付きの中のお祭りになりそうだ。

  
  どうだん原

 ペンションに10時50分到着。少し早いが昼飯にした。遠くは霞んでいて富士山歩勿論見えていない。大崩山塊も見えるに見えるがはっきりしていない。それでも下に見える茶畑の色が濃い緑から若草色になってきているのも見える。先ほど登った矢倉山も田代焼却場も下に見えている。ペンションの近くのドウダンツツジはどうだん原より開花が遅そうだ。その代りに八重桜やシャクナゲが満開の状態だ。このような景色を見ながら昼飯を食べていると腰が中々上がらなくなるが、今日の天気予報は3時から傘マークになっていた。余りゆっくりして雨にあうのも嫌だ、そろそろ出発しよう。

  
 ペンションから

 千葉山山頂(496m)に11時40分到着。もう何度も見ている十本杉を写真に写して智満寺に向かう。智満寺は昨年から茅葺の屋根を葺きなおしていたがようやく完成していた。その姿は余りに白く綺麗過ぎて何か重みが減ったようにも感じる。中門や仁王門の屋根が古いのが一層を際立って見えた。でも本堂の屋根は格好が良かった。

   
  千葉山智満寺本堂(国重要文化財)                    仁王門の茅葺屋根(県重要文化財)

    
                                    伊太丁仏参道33番石仏

 今日は智満寺までは予定していたが、この後は特に決めてなかった。このまま尾川丁仏参道を下って島田駅に戻っても、双子山に登って藤枝駅に出ても良い。時間は12時で雨は3時頃からと言っていたが今のところその気配はない。
それではこの際双子山に登りながら蕨や蕗を取って帰ろうかと双子山に向かった。
途中の農道脇に蕨が顔を出している。覗き込んでみると放置された茶畑の中に太く蕨がポツンポツンと見える。ここで少し取っていこう。
蕨採りというと草原の中に生えている蕨を摘むようにして取ると思うでしょうが、この辺りではそんな状態で蕨が採れるのは稀だ。私の場合多くは放置された茶畑の中に潜り込んで取っている。そのため手や顔に引っ掻き傷を作るのは当たり前だ。
今もそんな風にして40分ほどかけて、そうマートの売値にすれば1000円程度の蕨が採れた。今日はこの位で止めておこう。

 双子山(436m)に1時40分に到着。ここの山頂は個人の持ち物とかで、入口には常に鎖が掛かっているが人は入っても良いようだ。その入り口には何とも風変わりな石像が設置されていて台座には「一生我慢」と彫られている。とんでもない話だ、楽しみがあるから我慢もできるが、我慢だけの一生なんて願い下げだ。
また三角点のある神社の入口には虎が桜を見上げている。この虎の横には牛の石碑もあり両方合わせて丑寅になるのか?

   
   双子山の石造                         虎と桜                     

 双子山からの帰り道は5本もある。そのうち今日は一番山道が長く藤枝駅に近い藤枝駿河台への道を歩く事に。去年この道を台風一過の日に歩いたとき、蜘蛛の巣が多く閉口したことがある。それ以来避けていたのだが久し振りに歩いてみよう。
途中にまた蕨や蕗を見つけ取っていると雨が降り出した。時計を見ると3時15分。余り当てにならない天気予報なのにこんな時には的中する。ザックカバーを付け傘を用意したがさすほどの事も無く止んでくれた。

   
 蕗の中に蕨(珍しい事だ)       収穫した蕨              収穫した蕗

 前回蜘蛛の巣が多く気持ち悪かった道は今日は快適だった。尾根から見える景色は双子山に続く道で最高ではないだろうか。次回双子山に行く時はこの道を歩く事にしよう。
   
  
  焼津方面を眺める                      大井川方面を眺める
    
 藤枝駅に想定していた時間より大分遅くなって5時50分に到着した。蕨や蕗を1時間半も取っていたのだから仕方ないな。おかげで今日は土産が出来た。 

東海道53次 保土ヶ谷宿

2012-04-18 14:31:27 | ウォーキング
東海道53次15回目-4

神奈川宿~保土ヶ谷宿
神奈川本陣跡-0:20-神奈川台関門跡-0:25-追分-0:10-旧帷子橋-0:20-保土ヶ谷本陣跡


 神奈川の語源は、「大磯に上陸した高句麗からの移住者は、大磯の傍を流れる金目川沿いに住んだ。 金目川とは「韓メ川」のことで、朝鮮人の住む集落を流れる川という意味である。その「韓メ川」が「韓川」になり「神奈川」になった」と大磯宿で知った。
だが大磯とは随分離れている、ここが何故神奈川宿なのだ。大磯が神奈川宿なら分かるが、ここが神奈川宿では私の頭では理解できない。
 
 本陣跡を過ぎて、線路を跨ぐ跨線橋を越すと「横浜駅」の道路標識が現れた。まだやっと横浜かまだ先は長いな~と少々気落ちしてきてしまった。そんな気持ちに追い打ちをかけるように、道は上り坂になってきた。考えてみれば今日最初の登りらしい登りだ。サー気を取り直して歩こう。

 坂の途中に黒塀で囲まれた料理屋風の建物があり、その前に案内板が建っている。
「神奈川宿は神奈川湊を見下ろす景勝の地でした。その神奈川宿が賑わった当時から続く、唯一の料亭田中屋の前身、旅籠櫻屋は、広重の東海道53次にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れました。また、坂本竜馬の妻おりょうは勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。英語が話せ月琴も引くことの出来たおりょうは、外国人の接待に重宝されていました」と面白い事が書いてあった。

 でも結構気になる話ですよね。まず最初の「湊を見下ろす景勝の地」とあるが、今この田中屋の横を見ても建物以外何も見えない。「東海道53次にも描かれた料亭」との事なので、広重の浮世絵を見てみると、確かに街道横の家並みの後ろには、停泊中の船や帆掛け船が描かれているので湊だったろう。その二軒目が櫻屋で屋号が書かれているらしいが、よく分からない。本当なのだろうか? でも街道は上り坂になっていて、浮世絵の題は「神奈川台の景」となっていた。たしかにここの料亭の座敷で海を見ながら一杯やったら、さぞおいしい酒になっただろうとは思う。
次に「竜馬の妻は英語が話せ月琴もひき、外国人の接待に重宝した」とあるが、英語が話せた?と気になりおりょうさんを調べてみた。
「本名は龍(りょう)。父親は勤王派の医師でお龍は裕福な家庭で育ったが、父親が安政の大獄で捕えれると、たちまち家計は困窮し家具や衣類を売って生活をするようになった」とある。
当時父親が勤王派なら、勤王攘夷を唱え、外国語の英語を習う環境ではなかったのでないか。まして成人後は料亭で働いていたのだか、さらに英語を習う機会は少なかったろう。
何を言いたいのかって。 それは英語云々は田中屋が宣伝のために流したデマだと思ったのだが、こんな事も書いてあった「田中家に伝わる話では、お龍は頑固で使い辛かった」とある。すると田中屋で流した話ではなさそうだ。本当のところはどうだったのだろう。

  
  田中屋(櫻屋)                         神奈川台の景

 坂を歩いていると高島台の名称が目に付く。若しかしてここは高島易断の発祥の地か? 高島台にあったから高島易断か、それとも高島易断があったから高島台なのかと、勝手な事を考えながら歩いていると高島易断の看板があった。やはり高島台と高島易断は関係があったのだと自己満足をしていた。
家に帰りネットの地図で、この辺りを調べてみたが高島易断の文字は見つからない。となると高島易断の看板を見たと思ったのは私の思い違いか。写真を写してくればよかった。

 坂の上に「神奈川台関門跡 袖ヶ浦見晴所」の古い写真付きの石碑が立っていた。生麦事件後設置された関門で、古い写真を見ると箱根の関所のような感じで、茅葺の屋根が連なっている。よく見ると番人らしき人が立つ横の家は煉瓦屋根だ。そこが番所なのだろう。オッとその番所の前の家の軒先には、暖簾の様な物が見えるので茶店なのだろうか。こんな写真付きの案内板は余りなかったが当時を偲ぶことができて楽しくなる。

  
  神奈川台関門跡                           神奈川台関門跡の写真

 久し振りに追分の標識があった。右に行くと八王子の向かう八王子道で案内には「横浜開港以後は八王子方面から横浜へ絹が運ばれるようになり「絹の道」とよばれています」とあった。
更に歩を進めていくと前方に人だかりがしている。お祭りなのか?と近づいていくと商店街だった。呼び込の声が聞こえる活気のある商店街だが、どの店も道路にはみ出して売り場を作っているので、道が狭くなって通りにくい。そんな中を買物客を掻き分けて進むのだが、自分が汗臭くないか気になってしまった。
チラリと棚を見るとブロッコリが3個で100円の値札が付いている。高いのか、安いのか。

 更に進んでいくと「江戸方見附跡」の看板が。これが出てくれば本陣は近い。

   
  芝生の追分(絹の道)          松原商店街                 江戸方見附跡

 どこで見たっけかな 三猿の庚申塚は。ここのは馬頭観音なのか頭が長い石仏の下に「見猿、言わ猿、聞か猿」の三猿が刻まれていた。
そうだ思い出した、あの三猿は藤沢と茅ヶ崎の境辺りにあった庚申塔だった。藤沢は相模で保土ヶ谷は武蔵と国は違うが距離は近いので同じような風習だったのだろう。

 今度は不動明王の石仏だ。この不動明王の石仏も藤沢の大山道標の上に載っていたが、その不動明王とは大分雰囲気が違う。大山道標の方はお不動さんが道標の上に足を投げ出して座っていて立体的だったが、こちらのお不動さんは石の上に胡坐をかいておとなしい感じがする。
アレー台座に「神」と言う字が彫られているが、あれは何だ?
色々ネットで調べたが、こんな小さな古仏は余り興味をもたれないのか中々ヒットしなかった。ようやく見つけ出したブログにはお不動さんの事も庚申塔の事も詳しく載っていた。

「この「神田不動尊」は、追分にあった「大山不動尊」の道標で、台座には「大山近道」と刻まれていました。その道標が近くの橘樹神社に移転されていた昭和10年頃、「神国日本」が叫ばれ、神聖な神社の境内から不浄な石仏を排除する運動が高まりをみせました。その時大山近道の文字が削り取られ「神田不動尊」と刻まれました」とありました。

 話としてはこれで理解できたが、追分といえば先ほど見てきた八王子に行く絹の道の事だろう。あそこの案内板には大山道の事は何も書かれていなかった。絹の道は維新後の話だから、それ以前は八王子より大山の方がメインではなかったろうか。その説明が無いのは何故か?
更に「神国日本」の運動で、昭和に入ってからも廃仏毀釈のような運動があった事も初めて聞いた。この運動は全国的なものだったのか、それともこの地方独特の運動だったのか?興味は尽きない。

 更に庚申塔の三猿の事も分かってきた。頭が長いから勝手に馬頭観音と言った石仏は、実は「青面金剛(しょうめんこんごう)」とのことだった。
青面金剛とは「庚申講の本尊で四手で全身を大蛇やドクロで飾った青鬼だったが、それでは礼拝の対象として相応しくなく、次第に穏やかな姿の青面金剛像になっていった。また三猿は猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多い」 なるほどね、猿の謂れは分かった。
だが静岡県の庚申塔で三猿は見た事がない。と思っていたが注意不足だったのかもしれない。これからは良く見てみよう。
おまけにもう一つ紹介すると「比叡山には四猿があり「せざる」といって股間を抑えている。また、川崎大師駅近くの若宮八幡の絵馬には、五猿の「させざる」が加えられ、尻を押さえています」とあった。

ヤーここでは勉強になった。これだから街道歩きは止められない。

    
  三猿の庚申塔                            大山(神田)不動尊

 江戸より八里と彫られた石碑のある公園に出た。しかし周りに案内板は見当たらない。しかも手持ちの地図にも資料にも、ここに一里塚があったとは書いてない。ここの前の七里目の一里塚も標識が無かったが「大網金毘羅神社」の前あたりらしかった。そこからまだ50分も経っていない。本当にここが一里塚なのか。
 その公園には橋の復元なのか、板敷きの橋と欄干が旧帷子(かたびら)橋とかで造ってある。なら一里塚も単なるモニュメントで何の意味も無いのだろう。紛らわしい事だ。

 保土ヶ谷駅の前を通り過ぎ、商店街を進んで行くと交差点の角に四基の道標がたっていた。案内板を見ると「金沢横町道標」となっている。
一番右の道標は「円海山之道」と読めるが、後の道標は読むことが出来なかった。
案内板によると右から「円海山之道 左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」。二番目は「かなさわ、かまくら道」。三番目は句碑を兼ねた道標で「程ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花」。最後が「富岡山芋大明神社の道」となっているそうです。

 以前山本一力の小説で、江戸の住民が江の島に物見遊山に行くとき、江の島への分岐の話があった。その時の追分はこの道標の事だったのだろうか? 確か小説では茶店があったと思ったが案内板にはその事には触れていない。

   
  帷子橋の?                            金沢横町道標

 本陣跡前交差点に到着。交差点の前には赤いトタン屋根の家の前に、なにやら案内板が見える。あれが本陣跡?疑問を抱きながら近づいて見ると間違いなく本陣跡だった。
倒れそうなブロック塀の後ろに、これまた倒れそうな門が杭で支えてある。保存状態は最悪で中には当然入れない。仕方ない写真を1枚写して退散しよう。
時間は13時50分。GPS距離35.1km 歩数47,130歩でした。

  
  本陣前交差点                           保土ヶ谷本陣跡

東海道53次 神奈川宿

2012-04-16 11:54:11 | ウォーキング
東海道53次15回目-3

川崎宿~神奈川宿
川崎本陣-0:25-八丁畷-0:10-市場の一里塚-1:00-生麦事件碑-0:05-滝の川(神奈川本陣跡)


 川崎で知っていることは何があるのだろう。川崎病に川崎大師、川崎球場それに工業地帯くらいのものか。
後でその間違いに気が付いた。四日市=工場=四日市喘息の伝で、川崎も川崎=工場=川崎病と思い込んでいた。それが今回調べてみると川崎病とは、その病気の発見者である川崎博士にちなんで付けられたもので、川崎市とは何ら関係が無かった。その勘違いの元の工場だが、今回東海道を歩く限りでは工場地帯と言った場所を見る事は無かった。
一方川崎大師は興味があったのだが、多摩川を渡った所で標識を見たが、あとは見る事は無かった。きっと街道から離れていたのだろう。

 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」の芭蕉の句碑が建っていた。説明板には「郷里、伊賀への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句にたくしました。同じ年の十月、大阪で「病んで夢は枯野をかけめぐる」という辞世の句をのこし51歳の生涯をとじました」と書いてあった。
芭蕉がここ川崎を立ったのが5月、京都で亡くなったのが10月と聞いてこの句を読むと、芭蕉の心境が分かるような気がする。芭蕉はこの頃は自分の不調を感じていて「溺れるもの藁をも掴む」と同じように、何の支えにもならない麦の穂を頼りにしたくなる自分の心境を詠んだのではないだろうか。俳句など素人の私の解釈は違っているかもしれないが、何か哀れを感じる句だ。
そしてその芭蕉の墓は大津の義仲寺にあった。拝観料をケチらずに入ればよかったな。


 京急の八丁畷駅の横を通る。この八丁畷の地名はこれで3回目の出現だが、八丁とは約900mの距離の事で、畷とは田圃の中の直線道路の事だ。ただこの場合の八丁は正確な距離を言っているのではなく、語呂が良いので使っているのだろう。
ようは昔この辺りは長い直線の田圃道があったのだろうが、今の景色を見ても、とてもそんな風景は想像つかない。道の両側に家が立ち並び、長さは左程感じられなくなっていて、案内板がなけれれば気が付かない程度だった。

 その八丁畷の案内板にこんな事も書いてあった。「江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか」
埋葬と書けば恰好は良いが、災害で死んだ人の死骸を松の肥料にしたと解釈すれば恐ろしい話になる。

  1
  芭蕉「麦の別れ」の句碑                   人骨慰霊碑(八丁畷)

 八丁畷の案内板を過ぎ、しばらくするとMHの蓋が横浜ベイブリッジの模様になった。標識には気づかなかったがどうやら横浜市に入ったようだ。そしてそこには日本橋から5里目の「市場の一里塚」があった。5里目とは言え日本橋から目にする最初の一里塚でもある。
日本橋から、この一里塚までGPSの距離は21.5kmで、歩数換算でも約22kmになっているので、はぼ妥当な距離と言えるだろう。そしてかかった時間は5時間だから時速4km強で、街道歩きとしては早い部類だ。これもパスが多かった結果だろう。

その一里塚に近くに双体の道祖神が祀られていた。まだ新しい道祖神なので、男女の目鼻立ちも手を取り合っている姿もはっきりしている。信州当たりの道祖神を模写して造ったのか。

   
  横浜のMHの蓋            市場の一里塚                 双体道祖神

 アーチ式で洒落た感じの鶴見川橋を渡ると、左側に「鶴見橋関門旧跡」の石碑があった。案内板によると
「鶴見橋関門旧跡 横浜開港とともに、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に、開門や番所を設けて、横浜に入る者をきびしく取り締まりました。更に文久2年生麦事件の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20か所の見張番所が設けられました」とあった。
生麦事件に驚いて川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20ヶ所以上の見張番所を設けた幕府は余程慌てたのだろう。

 国道の交差点を通り過ぎガードを潜った辺りから魚屋が多くなってきた。魚だけでなく貝の専門店もあるようだ。こんなに魚屋が多くて商売になるのだろうか、それとも横浜の人は魚はここへ買い出しに来るのか。
私の地元焼津にも魚屋の集団でもある「焼津魚センター」があるが、そこの主な客は観光客で地元の者はあまり利用していない。だがここの魚屋は観光客相手というより、個人の地元客が相手のようで比較的小さな店が多い。
昔は海に近く新鮮な魚で溢れていたのだろうが、今はどの漁港から仕入れているのだろう。まさか横浜港に漁港は無いだろうから三浦半島からか、それとも私の知らない漁港が近くにあるのだろうか。
後で知ったのだが、ここの通りは「魚河岸通り」だった。どおりで魚屋が多いわけだ。

 生麦事件の発生した現場に着いた。
「文久2年薩摩の島津久光一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人4名と遭遇。行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人1名を殺害、二人に深手を負わせました。この事件は翌年に薩英戦争を引き起こしました」その結果に慌てた幕府は、鶴見川橋袂で見た関門所を急遽作ったのだろう。
 今考えれば、何も殺すことは無いと思うが、当時日本にいた白人たちは、その特権階級意識に胡坐をかき、傍若無人な振る舞いをしたのだろう。殿様の行列の進行を妨害された家臣が、怒って刀を抜いたのも分かる気がする。
そう現在の日本でも沖縄でのアメリカ軍の治外法権振りは怒れてくる。しかし日本政府はその根本の日米安保条約の見直しはせず、運用解釈で誤魔化そうとしている。その態度はこの生麦事件に狼狽した幕府と何ら変わりない。
ところでこの生麦事件の薩摩藩士は当然罪に問われていると思ったら、お咎め無のようだった。これも薩摩藩に遠慮をしなければならなかった幕府の弱腰が見えてくる。

 生麦事件碑には新しい鞘堂がかけられ「石碑が老巧化しています。線香はご遠慮ください」と掲げてある。確かに石碑の左上の方が欠け始めているようだ。この石碑が建ったのが明治16年で今から130年前の事だ。それにしては石碑が崩れるにしては早すぎる気がする。若しかして殺されたイギリス人の怨霊か。

  
 鶴見川橋                              生麦事件碑

 日本橋からここまで歩いてきて今まで見た事のない姿を時々見かけた。それはビニール袋に入れたアルミ缶を自転車の前後の荷台一杯に載せて走っている姿だ。朝早かった日本橋付近でも見かけたので、今日集めたアルミ缶ではなさそうだが、一体これは何なんだろう。アルミ缶を集めて金に換えるのは分かるが、あのアルミ缶は何処から集めてきたのか。路上に落ちている物を拾ってもあれほどの量にはなりそうもない。では自販機横にある回収ボックスから取ってきたものか、はたまたリサイクルの回収に出したものなのか。不思議だ。
そして今日集めたのではないなら、どうしてあんなに沢山の物を持って移動するのか、置いておくと盗られてしまうのだろうか?分からない事ばかりだった。

 アルミ缶の収集と言えば私の所属していたサークルは、今でもプルタブの収集をしている。今のプルタブは缶を開けても分離しないようになっているのに何故かと質問すると、それぞれ答えが違っていて「プルタブは希少金属を使っているので売却値が高い」「福祉団体に持参すると喜んでくれる」だった。
疑り深い私は早速調べてみると、ネットで見る限りプルタブを別価格で引き取る業者は見当たらなかった。それより「輸送しにくい」とか「輸送費がかかる」「手にけがをする」など否定的意見があふれていた。
一方福祉団体は、善意として寄付される物を断るわけにはいかないだろうが、アルミ缶自体を持って行った方のが喜ぶに違いない。缶一つでプルタブの何倍かの金額になるのだから。
空き缶置き場でプルタブを無理やり外している貴方!少し考えてみませんか。

 話が脱線してしまったが脱線しついでにもう一つ。
空き缶輸送は首都圏でしか見なかったが、東海道を歩いていて同じポスターが、東京にも横浜にも静岡にも名古屋にも、それこそ何処でも見かけたが、それは何のポスターでしょう?
答えは「世界一周99万円」世界一周クルーズ旅行の宣伝ポスターです。このピースボートの主催する世界一周99万円の料金体系はしらないが、このポスターを張ることにより料金割引があるのかもしれないな。中々旨い宣伝方法だと感心してしまった。
余りに何度も見るので世界一周に魅力を感じてクル-ズ旅行の想像をしてみたが、どうも私の好む旅行とは違うようだ。料金格差の激しい船に閉じ込められ、やっと港に着けば、そこから先は別料金。なんて事にならないのだろうか。
私にには自分勝手の貧乏旅行が一番適しているようだ。

  
  アルミ缶輸送車                          世界一周99万円 

 生麦事件碑の先でまた国道15号線を歩くようになったのだが、この辺りはやけにラーメン屋が多かった。時間は丁度昼時で、どの店もそれなりに客が入っている。麺類は大好きなのでたまには寄っても良いのだが、このように街道歩きをしていると、いつ腹が減ってガス欠になるかもしれない。そこで必ず朝コンビニで御握り3個を買って持って歩いている。それに食堂に入ると待ち時間が長くて、その分歩く距離が伸びなくなってしまう。
そんなこんなで東海道の歩きでは、まだ一度も外食をしていない。そんな私を「粗食に耐える」と妻は馬鹿にするが、実際のところはただ単なるケチに過ぎないのだろうと自分では思っている。今日も握り飯を市場の一里塚で食べてきた。

 「神奈川宿歴史の道」の立派な案内板が建っている。それによると、
「●良泉寺 横浜開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快しとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる」とある。その心意気ヨシと思い境内を覗いてみた。別段どうという事も無い寺で写真1枚写して出てきた。

 手持ちの街道地図や街道の説明書に「滝の川付近に神奈川宿の本陣があった」と記載されている。その滝の川に着いたのだが何の標識も案内板も無い。気になって地図や説明書を読み返すが、間違いなく滝の川付近に本陣があったと書いてある。せめて時々見かける神奈川歴史の道の案内板を立ててくれればと恨めしく感じた。
仕方ないこの川を本陣として記録をとっておこう。時間は12時30分で日本橋から約7時間。予定より20分ほど早くなっている。宿場間距離では日本橋から神奈川まで27.5kmとなっているのでほぼ時速4kmで、街道歩きとしては通常の速さだ。これを維持していけば藤沢まで完歩出来そうだが、まだ残り25kmもあるので先は長い。

  
  良泉寺                               滝の川(神奈川本陣跡)

東海道53次 川崎宿

2012-04-15 11:15:03 | ウォーキング
東海道53次15回目-2

品川宿~川崎宿
品川本陣-0:40-鈴ヶ森-0:40-梅屋敷-0:40-六郷橋-0:05-川崎本陣跡


 聖蹟公園を出るとじきに品川橋を渡る。そこの案内板には
「品川橋の今昔 この辺りは江戸の昔、東海道五十三次 一の宿として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業も盛んな所でした。今でも神社仏閣が多く当時の面影がしのばれます」とある。橋の中ほどで大きく息を吸い込んだが磯の香はしてこなかった。

 更に西へ進んでいくと品川寺(ひんせんじ)の前に「銅造地蔵菩薩座像」があった。この地蔵は江戸の六ヵ所にあった「江戸六地蔵」の一番札所で、東京都指定有形文化財に指定されている。
この品川寺の宗派は「真言宗醍醐派」とあるが、真言宗は真言宗だけと思っていたがとんでもない事だった。ここの真言宗醍醐派・高野山真言宗・東寺真言宗・真言宗善通寺派・真言宗醍醐派・真言宗御室派等々数えきれないほどある。3人寄れば派閥ができる人世の常で、真面目かつ真剣に議論し、かつ妥協の余地のない宗教ならば、当然流派は多くなるだろう。

  
   目黒川の品川橋付近                      品川寺の地蔵菩薩座像

 京浜急行の青物横丁駅や鮫洲駅と言った何やら由来のありそうな駅を通り過ぎ、小さな川に架かる橋を渡る。この川の名前も「立会川」と何か曰くありげだ。調べてみると案の定「鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を立会川を挟んで、その親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)事から「立会川」となった」とあった。
橋の名前は浜川橋と面白味のない名前だが、別名があって、その名前は「涙橋」とも言うようだ。橋の袂に案内板がありそれには
「浜川橋は立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられ、「涙橋」とも呼ばれています。 涙橋の由来は江戸時代に鈴ヶ森に刑場が設けられ、ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親戚らが密かに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました」

 涙橋から10分も掛からない所にその鈴ヶ森の刑場があった。刑場と言えば今まで遠州の見付や浜松、それに先日も京の刑場を見た。それらは街道の近くにはあったが、通行人の目を意識したのか高台などに設けられていた。それがここ鈴ヶ森の刑場は街道のすぐ横で、火あぶりの刑ならその熱気が、磔なら罪人の血しぶきが街道を歩いている者にかかってしまいそうな距離だった。
刑場のイメージと言えば、映画の時代劇などで広場を竹矢来で区切った所で、見せしめも兼ねて見物人がいる中で行われたと思っていたが鈴ヶ森の刑場は違うのか。
「元禄8年の検地では、間口74メートル、奥行16.2メートルであったという。ここは当時の東海道の江戸の入口にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、浪人による犯罪件数も急増していたので、江戸に入る浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている」やはり広かったんだ。
現在の刑場跡は旧東海道と第一京浜国道にはさまれた狭い場所になっているが、当時は国道の方に広がっていたのだ。
私が通行人に血しぶきが掛かるなど心配した理由は、刑場跡の中に「磔台」「火炙台」が街道近くに置かれていたからだが、どもそれは杞憂だったようだ。

     
  浜川橋(涙橋)                火炙台           磔台

 鈴ヶ森史跡保存会の案内板には
「火炙台 八百屋お七を初め、火炙の処刑者は皆この石上で生きたまヽ焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て、足下に薪をつみ、縛りつけて処刑されたのである。
 磔台 丸橋忠弥を初め、罪人がこの台の上で処刑された。真中の丈余の角柱が立てられ、その上部に縛り付けて刺殺したのである」
とある。
 何とも恐ろしいし話だが、私がイメージしていた物より磔台や火炙台が意外と小さい。TVなどで、十字架に縛られた罪人が、下から槍で突かれたり、沢山の槙の上に立てられた十字架を見物人は見上げていたが、あれは誇張だったのだろうか。
それに火炙台の杭を固定する穴が丸く、磔台の穴が四角なのは一体何故だろう?

 八百屋お七や丸橋忠弥は東海道を歩いていて登場した人物だ。
「八百屋お七とは天和の大火のとき、避難した寺の小姓吉三郎と恋仲となったが。帰宅してから恋情は募り逢いたい一心で放火をする。しかしお七は放火犯で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された」 エッ!何故この話が東海道に関係しているのかって、それは島田宿の大井川川越遺跡の街道を少し入った所の、小さな庵の境内にお七の恋人だった吉三郎の墓石がある。火炙りになったお七を霊を弔う旅を続けていた吉三郎はここでで病死したといわれていた。

 一方丸橋忠弥は「宝蔵院流槍術の遣い手だったが、由井正雪と出会い、正雪の幕府転覆計画に加担する。しかし、同志の密告により幕府に計画が露見し捕縛され、鈴ヶ森刑場にて磔にされてしまった」
これも駿州駿府宿安倍川の畔に「由比正雪之墓址」があり、由比宿本陣公園の前には「由比正雪の生家」といわれる紺屋がある。

   
  鈴ヶ森五輪塔               鈴ヶ森刑場看板      鈴ヶ森の髭題目

 東海道は鈴ヶ森の刑場跡で合流した国道15号線の第一京浜国道を歩くようになる。私は東海道とは国道1号線に沿っているものと思っていたが違っていた。1号線の起点は日本橋だったが、1号線は日本橋の前ある交差点を北に右折して東海道と離れてしまう。代わりに国道15号線が東海道と付かず離れずで続いていた。その国道15線の右側に鈴ヶ森の名前の元になった神社がある。叩くと鈴の様な音がする「鈴石」がある事から鈴ヶ森の名前になったという。だがその鈴石は非公開だそうなのでパス(言い訳です)。

 平和島口の交差点の先から商店が続く細い道になる。案内板には「昭和2年、東海道は拡幅改修され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのは、この美原通りと六郷地区の一部だけとなった。旧東海道は、かって三原通りと言われた。三原とは、字名の南原、中原、北原の三原のことで、美称して美原になった」とある。
美原通りを歩いていて気付いたのは海苔を扱う店が4軒ほどあった事。今では磯の香もしないが、昔は海苔が採れたのだろう。アッ!思い出した。日本で最初に発掘された貝塚は「大森貝塚」。そしてこの辺りの地名は大森なのだから昔から海の近くだったのだろう。

アレ! こんな所に安倍川餅を売っている。駿府宿の安倍川畔の安倍川餅と同じものだろうか。しかし店の名前は静岡では聞いた事のない名前だ。若しかして鈴ヶ森で処刑された丸橋忠弥から由比正雪、由比正雪から安倍川、安倍川から安倍川餅の発想で生れた物だったりして。

 また東海道が国道15線と合流すると梅屋敷公園駅前の先に梅屋敷公園があった。そこにあった案内にはこんな事が書いてあった。
梅屋敷の由来 梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地内に、梅の木数百本を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まる」
「和中散」
はまだ覚えてますよね。近江石部宿六地蔵に国の重要文化財に指定されている和中散本舗があった。その営業所がこんな場所にあったのだ。こうしてみれば確かに江戸時代には和中散は人気薬で大いに売れ儲かったのだろう。
更にこの梅屋敷には日本橋からの里程標があったと紹介してある。「距日本橋 3里18丁」と刻まれた復元された石碑が建っていたが、こんな物を復元するくらいなら一里塚を復元してほしい。日本橋からまだ1個の一里塚を見ていない。

  
  梅屋敷(和中散売薬所跡)                     里程標

 六郷神社が出てきた。六郷神社があれば東京と神奈川の県境の多摩川は近いはずだ。そして多摩川を越せば川崎宿になる。頑張ろう。
多摩川に10時到着。日本橋を出発して約4時間30分経っている。予定では川崎宿の本陣跡に10時20分到着の予定だからマーマーの速度だろう。しかしパスする場所が多くて予定通りだから、これからもパスを続けなければならない。何とも情けない街道歩きになったものだ。

 多摩川の六郷橋から下流を見ると中州に何軒かの家が見えている。どうやら不法建設のような感じだが、屋根にはTVのアンテナはあるし、庭では家庭菜園もしているようだ。時折鶏の鳴声も聞こえてくる。新聞に寄れば東京では公園に居住するホームレスの段ボールハウスなどが撤去を強いられているようだが、この中州ハウスはどうなんだろう。このように固定化してしまうと警察も手を出しにくいのか。

 橋の中ほどに県境の標識がある。今は東京と神奈川の境だが、江戸時代はここが武蔵と相模の国境だったと思いながら歩いていたが、それは違っていて、実際には現在の川崎や横浜は武蔵の国で戸塚からが相模になるようだ。
その多摩川には現在は六郷橋が架かっていて、簡単に渡る事が出来るが、江戸時代は「六郷の渡し」で渡っていた。家康の時代には橋があったようだが、その橋が台風で流されると江戸防御のため架橋されず、渡し舟で川を越えるようになったとある。

 ここで久し振りに妄想的歴史観が湧いてきた。江戸時代初期に多摩川に橋があったとなると、江戸防御のために橋を架けなかった説は怪しくなる。徳川幕府の一番不安定な時期に防御に逆効果の橋をかけ、幕府が安定してきてから防御策と言って橋を架けないのでは矛盾をしている。まして同じ武蔵国で江戸に近い多摩川は、応援の部隊が続々と江戸に向かってきた筈だ。それこそ「いざ鎌倉」ならぬ「いざ江戸」となったろう。そして味方が渡り終えた時点で橋を落とせばよい。
ではなぜ徳川幕府は橋を架けなかったか。それは当時の技術では、川の氾濫に耐えられるような恒久的な橋を架ける事が技術的に出来なかったのではないか、そして橋が流される都度に再建する財政負担も重荷ではなかったのだろうか。「水を制する者は天下も制す! 」ではないが、水を征服できない幕府は、そのことを認めたくないため、江戸防御論を持ち出したのだろう。

  
  多摩川河川敷                          東京・神奈川県境

 六郷橋を渡り切った川崎側の橋の袂に、明治天皇が多摩川を渡ったときの様子を描いた「武州六郷船渡図」の石碑が建っている。それを見るとさすが天皇陛下だけのことはあり、川一面に船を横に並べ、その上に板を引いた橋橋を造って、そこを天皇が乗った輦が渡っている。
狭苦しい輦の中がいいのか、それとも川風を受けて船で渡った方が良かったか分からないが、身分が高すぎて自由の利かない生活も窮屈なものだったろう。

 六郷橋を渡ると東海道は国道と別れて川崎の市街に入って行く。特に気を引く物も無いまま川崎宿の本陣跡に、ほぼ予定通りの10時10分到着。
本陣の石碑の近くにある案内板を読むと「本陣は参勤交代の導入により栄えたが、江戸後期には大名の財政難や参勤交代の緩和により劣れも目立った。初代アメリカ駐在大使ハリスは本陣の荒廃ぶりを見て宿を大旅籠に変えた」とある。
大名は本陣に泊まる規約があるが、外国人のハリスは自由に宿を選択できたのだろう。自由とはいいものだ。

大分腹が減ってきたが、こんな街中では食べる事も出来ない。写真を写したので出発しよう。

   
  六郷橋の武州六郷船渡図                     川崎本陣跡

蕨取り

2012-04-13 13:02:29 | 低山歩き
今日も例年の如く大崩山塊に蕨取りに行ってきました。

一昨日雨が降り、昨日は5月上旬並みの暖かさだったので、蕨も大きくなったと思うが
ここで一呼吸を置いてしまうと誰かに取られてしまう。
何せ家庭菜園で栽培しているのではないので、他人の気配を敏感に感じなければ収穫は期待できない。

そこで午後から用事があると言われているのにかかわらず行ってきました。
収穫場所は3カ所あり、ここ数年同じ場所で取っています。

  
 今年の収穫量

今年も3カ所回るつもりが途中で休憩したら居眠りをしてしまい、目が覚めたら妻に約束した時間が迫っていた。
お蔭で蕗の生えている場所には行けず、蕗の収穫は無しになってしまった。
これで例年の2/3くらいか、蕨は発癌物質を含んでいるらしいが、この時期だけだから大丈夫だろうと思っています。

 
 重曹を振り掛けて熱湯を注いで一晩おけば灰汁は抜ける