はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

北のピークから高草山

2016-02-29 12:18:09 | 低山歩き
歩行記録                                                            H28-2-27(土)
歩行時間:6時間15分   休憩時間:1時間05分   延時間:7時間20分
出発時刻:8時40分     到着時刻:16時00分
歩  数: 19、347歩(推定距離13.8km)    GPS距離14.0km
行程
 本郷入口BS 0:15> 立石神社 1:00> 北のピーク 1:05> 富士見峠 0:25> 高草山 1:00> 池の平 0:55> 磐座
 0:25> 十輪寺 0:10> 神神社 1:00> 焼津駅  (※コースタイムは休憩が多くあまり参考になりません)

                   大崩山塊:北のピーク・高草山から朝比奈川の河津桜

                          北のピークから高草山に続く尾根

 月例となった今月の仲間とのウォークは、立石神社から北のピーク経由で高草山へ行き、帰りは岡部の三輪で神(みわ)
神社の三つ鳥居を見て、朝比奈川の河津桜の中を焼津駅まで帰る予定です。
 北のピ-クから高草山の尾根は、志太平野側からは一番目につく尾根で、しかも車で1号線を東に向かうとフロントガラスの
正面に見えてきます。これなら一緒に登る仲間が家族や友人に 「あそこのピークから、尾根伝いに高草山に登った」 と自慢話が
できるのではないかと、深い親心の発揮でコースを選択したつもりなんですが・・・・

 距離はおおよそ12-3km程度で丁度よいが、気になるのは北のピークへの道の状況です。特に3本目の農道上は昨年こそ
大分整備されていたが今年はどうだろう。これが一昨年までのように荒れていると、口の悪い仲間に、何と言われる分からない。
そんな不安を感じるコース設定です。

      
          本郷の常夜灯                           立石神社の摂社

 立石神社の階段を上り、本殿左奥にある一番奥の摂社の左横から登山道は始まる。
登山道に下りた瞬間感じたのは、道が何となく綺麗っぽくなっている事。いつもなら枯れた竹があちこちに散らかっているのに
今年はそれが無い。神社関係の人が片づけてくれたのか、何れにしてもありがたい事です。

 私はここの沢状に窪んだ道をトボトボ歩いていると、まるで遍路道を歩いているように感じて好きだったが、今日はトボトボとは
いかなかった。普段は何とも感じなかった斜面も、慣れない人には滑るではないか
 「ここで滑ったら怪我をするかな~」 と誰か言うと 「滑ってみればいいじゃんか」 と誰かが返す。
マー本当に怖ければ口もきけないだろうから、冗談が出るうちは大丈夫だろう。

  
      茶ノ木と笹薮の間の道              茶ノ木の間の道                 笹薮の間の道

 農道に出るたびに一息入れて歩くので、余り疲れを感じないで3本目の農道に合流。問題はこの先だ。
一応皆なに 「この先の林の中の道と茶畑の道は荒れているかもしれない」とことわると
 「エー じゃここまでの道は荒れてなかったの?」 とか 「この前みたいな道なき道なの?」 と言われる。

 それが林の中の急斜面の場所に出ると、昨年までは上からズルズル滑った跡を逆走していたが、今年はまごうことない道が
付いている。一部踏み跡や目印が不確かだった場所も今は何の懸念もなく歩く事ができた。
 途中にある石垣で 「何の石垣だと思う」 と聞くと山城の跡と作業小屋に意見に分かれた。
だが石垣の持つ曲線を見て 「作業小屋を作るのに、こんなにしっかり石垣を組むはずはない。」 と意見が一致した。
本当にこの石垣は “何時、誰が、何の為” に組んだのでしょうね?

 最初の難関の林の中の道はクリヤ。次は茶畑と笹薮の道だ。
それがどうした事か、今年は綺麗に整備されていて去年歩いた時よりも歩きやすかった。途中にあった新しい道標には
 “2015,01,30”と記されていたが、この頃、整備してくれたのだろうか。その標識は大崩山塊でよく見かける岡部の
Sさんの標識と似ているが感謝です。

 今回は簡単に歩けてしまった道だが、この北のピークで 「安倍山系<登山道詳細>」 の著者、松理さんに会った事がある。
松理さんは大崩山塊を安倍山系の下巻で紹介すべく調査中で、3本目の農道上の林を過ぎた藪道通過に苦労していたようだ。
その後発刊された 「安倍山系「下」」 では、立石神社から北のピークまでの道を 「がさついている、藪っぽい、一部藪あり」
紹介している。

 そんな道を平均年齢71歳の年寄りの、しかも素人軍団でも何の支障なく歩く事ができました。一度は北のピークをと思って
いる方はぜひこの時期に挑戦してみてください。静かで且つ雄大な景色に出合う事でしょう。
 そうその雄大な景色を仲間に見せようと思ったのに、今日は富士山や白銀のアルプスは勿論の事、近郊の山々も薄ボンヤリで
写真を写す気にもならなかった。でも大丈夫、私の仲間は 「富士山はいつも見ているから関係ない」 だって。
今日は助かったが、バッチリ景色が見える時は張合いが無い時もある。。

         
           北のピークの茶畑の道                            北のピーク

 遂に北のピークの北側の茶畑が放置状態になってしまった。この茶の木が伸び放題になると富士山やアルプスを眺められなくなる。
南側の茶畑は昨年は茶の収穫をしたようだが今年はどうなるか。見た感じは病葉が多く、このまま放置される気配が濃厚だ。
そうなると北のピークからの眺めは望めなくなる。
そしていつもここで思うのは、北のピークの一番高い部分は、すでに放置茶畑が覆っていて立ち入る事ができないので、その部分を
市が借り受けるなりをして、茶の木を撤去してくれないかと云う事。そうなればこのコースが人気コースになる事は請け負いです

      
       エッ 階段があったかな?                        富士見峠の展望台

 北のピークから池の平に向かう尾根道も整備されていて、市が認定しているハイキングコースと何ら見劣りはしない。
そうなると北のピークの放置茶畑が益々残念に思える。
 池の平を過ぎればハイキングコースになるのだが、ここにも変化があり、富士見峠に行くまでに階段が4か所もあった。
ここに階段があったとは覚えていないが、新しくできたのだろうか? それともアルコール性健忘症で忘れてしまったのか。
何か気持ちが悪い。

 富士見峠の上にパイプを組んだ見晴し台のような物が見える。作業していた人がいたので話をすると、地元の三輪地区の
 「ふるさとを守る会」 の人たちだった。まず目についたのが見晴らし台の材木が階段と同じだったので聞いてみると、矢張り
階段はこの人たちが設置してくれたもののだった。
序に北のピークの整備の事も聞くと、あちらは一般の人が善意でやってくれたそうだ。

 
               高草権現                                 高草山502.9mの標識

 高草山の三角点と、社のある所とどちらが高いか仲間に気にして歩いてもらうと、全員が社側が高いと言った。
実は三角点のある西峰は501mで、祠のある東峰は標識によれば502.9mなので仲間の感覚は合っている。
だが焼津市の主催した講演会の講師が
 「最近高草山は三角点のある場所より、社の方が高いと言う人がいるけど、それは間違いで、高草山の麓の関方から見れば
明らかに三角点側の方がが高い」
と言い切った。
 確かに関方方面から見ると三角点側が高く見え、私も疑問を感じてブログに書いた事がある。その時は同じ程度の高さの山は
見る位置により手前の方が高く見え、奥側が低く見えるのではないかと納得をした。
そこで今日は仲間にその確認をしてもらおうと思っていた。 序に高草権現の鳥居の方向が東を向いていることも確認してもらった。
これは矢張り講演会で 「高草山山頂の社は神神社の御神体で、神神社の三つ鳥居はこの社の方向を向いている。」 と紹介していた
からだ。
確かにこの説は一般的で私も当初はそう思っていたのだが、何度も高草山や神神社を訪れていると疑問を感じるようになっていた。
その私の疑問を仲間たちはどう感じるか、これも神神社で確認しようと思っている。

 高草山からのコースは西の谷を農道まで下り、今度は農道を歩いて富士見峠下まで行き、そこから山道に入って潮見平、時石、
神神社と下る予定だった。
それが西の谷を下って農道の所まで来たが仲間の一人が中々下ってこない。10分ほど待ったが下りてこないので迎えに行くと
道に座り込んでしきりに足を揉んでいた。足が攣って痛くて歩けないと言う。
こうなると年寄り軍団は弱い。背負ってやる事は出来ないので、できるのは口で励ますことぐらいだ。ともかく農道まで下りて、
そこでヒッチハイクをするかタクシーを呼ぶか考えよう。と農道まで下ってもらう。
ところが舗装された農道に立つと痛みが和らいだと言い歩けるようになった。アー良かった。

 しかし結局は富士見峠下からの山道は下ることはできず三輪まで農道を歩く事にした。それでも高草山は農道があり、時折車が
走っているので最悪の時は何とかなる。これで農道が遠い場所だったらどうすればよいのだ。と考えるとゾーとした。
次回からはその点も顧慮してコースを設定しないと・・・・・・

 
              池の平の水源                                池の平の溜池

 池の平の語源となった水源を久し振りにのぞき込んでみた。透明な水がたっぷり溜まっていた。この水を昔は飲用していたと
案内板にはあり、そこから流れれた水を溜めた水で作物の消毒用に使っていたらしい。

 
              池の平水源の上                             見事な色の桜が咲いていた

 だがこの水源地の上には茶畑が広がっていて一見きれいに見えるが、この茶畑を消毒した薬分が地下に染みて、この水源に
湧いていると思うと、とても飲む気にはなれない。
前回歩いた菊川の横地城趾の横に、魚の住まない “丹野池” があるが、そこも周りは茶畑だった。きっとここの水も今では飲用
にはしないだろう。

 農道下にピンクの色も爽やかな桜が見えてきた。染井吉野に比べ色が濃いので河津桜かな?
 「俺は古来の桜のように、もっと色の薄い白っぽい桜の方が好きだ。」 と誰かが言ったが、同感だったが、これはこれでいい。

 
               山の神入口                              山の神奥の院

 道の横に注連縄で張った場所に案内板がある。若しやこれはと近づいて行った。
 高草山西側の策牛(むちうし)、関方、三輪の集落では、高草山中腹に “山の神”の奥の院があり、そこで春になると矢を射って
矢の飛んだ方向でその年の豊作を占う風習がある。
その “山の神” を祀った奥の院を見たいと、西の斜面を歩くときは注意しているのだが、まだ策牛の奥の院しか見つけていない。
しかしこの注連縄はその奥の院の一つらしい。案内板には
 「山の神祭 祭日二月八日 山の神の磐座に紅白の重ね御幣を立てる。祝詞のあと竹と藤弦で作った大弓で四方に向かって
大矢を射る。これにより邪気を払い、治山治水と山の幸、野の幸の豊穣をを祈る。この山の神祭は古代祭祀の姿を現代に残す
貴重なもので、元三輪村の氏子が毎年行事をつとめる。 藤枝市教育委員会」
 とある
 確かに私の求めていた奥の院で、三輪集落の “山の神” のようだ。しかしこれは私の考えていたイメージとは違っていた。
私は以前見たブログに
 「三輪の山の神は、明らかに「神神社」の磐座で、そこは神神社の飛地社有地であり、神神社の三輪鳥居が向いている方向に
ある」
とあった。なので三輪の山の神は神神社との祭礼だと思っていた。ところが案内板には神神社の事は一言も書いてない。
では “神神社の飛地社有地” も間違っているのだろうか? (三つ鳥居の向きは怪しいが)
マーいい。ともかく奥を見てみようと、仲間に5分の猶予を貰い沢筋を遡ってみた。入口からほんの30mも行くと、注連縄張った
場所があり、細竹で作った祭壇もあった。
これが磐座? 今まで磐座と名の付く物は幾つも見たがウーン。これじゃ磐座と云うよりガレ場に過ぎない。
それに矢を射ると云っても周りは開けてないので射った矢の方向と云ってもナ~。これなら策牛の奥の院の方がよっぽど矢を
射る場所には相応しい。
オッともう止めよう。罰が当たると困る。沢はまだ上流に続いているので、この奥に本来の奥の院があるかもしれない。
今日は時間が無いが、いつかもう少し奥まで行ってみよう。

      
                   十輪寺山門                                 モクレンと山門

 足を攣った仲間も農道を歩いたので、何とかバスの走る県道まで下る事ができてバスで帰る事にした。
予定より大分遅くなったが、今日は距離が身近いので時間には余裕がある。そこでモクレン寺として知られた十輪寺に寄って
みたが、さすがにモクレンには早すぎた。
寺の貼り紙にはモクレン祭は 「3月12・13日」 に行われるそうです。十輪寺は木食上人の微笑仏が二体祀られていて自由に
拝観できるので、モクレンと合わせて見学するのもいいですね。序に神神社に寄ればもっといいでしょう。。

 
                神(みわ)神社                               三つ鳥居

 神神社の三つ鳥居の方向が、高草山山頂の高草山権現の社の方向に向いているかどうか確認するため、仲間に鳥居の向きを
覚えてもらい、山頂が見える場所から確認してもらった。すると全員が 「違う」 と言う。
一度神神社の宮司にこれらの事を聞いてみたいと思っているが、宮司さんを境内で見た事が無く実現していない。残念だなー。

 もう一つ講演会で聞いた話を確認するため、朝比奈川の堤防の手前から高草山山頂を見てもらった。この辺りから高草山を
見ると、手前の三角点のある西峰の方が高く見える。そこで仲間に実際歩いた時は社側が高いと言ったが、ここから見てどう
思うか聞いてみると、意外な返事が返ってきた。
 「山頂ではお社のある方が高いと思ったが、こうしてみるとあれは思い違いで、三角点のあった方が高い」 と言う。
わたしが 「三角点は501mで、社の横にあった標識は502.9mだった。」 と言っても納得してくれなかった。
じゃ次は社の方が高く見える場所で話を聞いてみよう。

      
                   朝比奈川の河津桜                             桜と菜の花のコラボ

 土手の河津桜は丁度満開状態だった。山で見た桜の色と比べ大分濃いが、これは光線の関係か、それとも実際に濃いのか。
これでは確かに色が濃すぎてくどく感じてしまい、染井吉野の淡いピンクの方が可憐に思える。

榛南の山城と高根山5

2016-02-26 09:32:58 | ウォーキング
歩行記録                                                              H28-2-15(月)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間05分   延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分     到着時刻:17時20分
歩  数: 49、953歩(推定距離35.5km)    GPS距離35.6km
行程
 掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
 0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋

                                   高根山
     

 今日の最終目的の高根山に向う県道は、車では何度か走っているが、歩くのは初めてだった。
途中にあった郵便局、小学校、保育園、公民館、公園、JAなどの公共機関は、頭に勝間田が付いたものが多く、しかも
県道の横を流れる川の名前も勝間田川とくれば、この辺りの地名は当然 “勝間田” だと思われる。が、しかし何故か
勝間田城址を含めたこの辺りの地名は 「勝田」 となっていた。
そういえば勝間田氏の先祖の姓は “勝田” と書いて “かつまた” と読ませていたので、ここの地名も “かつまた” かと
思ったが、近くにあった警察の駐在所は 「勝田(かった)」 と振り仮名がしてあった。

さらに勝田付近の地図を見ると、似たような名前の 「勝間(かつま)」 が勝間田川の流域にあり、また少し離れた場所には
 「勝俣(かつまた)」 と言う地名もあった。これらは勝間田と関連があるのか?

 先ず勝田のある旧榛原町の成り立ちを見ると、「昭和30年に川崎町、坂部村と勝間田村が合併して榛原町が発足」 ある。
また勝間田村は 「明治22年、勝間田川流域の勝間村、静谷村、勝田村、切山村等が合併して発足」 したとなっている。
何か釈然としないが “勝間田” の地名はその時にできたのだろうか? さらに別の方向から調べてみると
 「<かつまた>の地名は静岡県の旧榛原町(現牧之原市)の地名(静岡県牧之原市勝田)をルーツとし、以前は “勝田” と
書いて “かつまた” と読んだ。ただ、現在は “かつた”と読む。」
とか
 「<勝田郷> 平安時代に遠江国榛原郡にみられた郷名。「和名抄」遠江国榛原郡九郷の1つ。「加知末多」「加都万多」。
郷域は現在の榛原町、勝間田川流域の大字勝間・勝田・中を中心とする一帯に比定される。【角川日本地名大辞典】」

ウーン! “加知末多” 、 “加都万多” と書いたなら読みは “かつまた” だったのだろう。
 それが横地から分かれた一族が住み着くようになり、当初は “勝田(かつまた)” と名乗っていたが、徐々に “勝間田” と
表記するようになったのではないか。
だが地元は 「勝田」 の地名を変更せずきたが、いつしか “かつた” と素直な読みになったのではないか。
いやいやもっと勘ぐれば、勝田郷の村人は勝間田氏を歓迎していなかったのではないか。
勝間田氏の活躍で勝間田城も有名になってきたが、住民は頑なに “勝田(かつまた)” を名乗り、更に城が落ち勝間田氏が
居なくなっても “勝間田” を嫌い “勝田” に拘ったのだろう。

 「勝俣」 の地名については、同じ【角川日本地名大辞典】にこんな表記があった。
 「<勝俣(かつまた)>静岡県牧之原市勝俣。駿河湾に注ぐ勝間田川下流右岸に位置する。地名は当地の土豪勝間田氏の
庶流が拠ったことにちなむといわれ、往時勝俣十郎権守という者が居館を設けたという。」

 勝俣姓は勝間田氏が富士山麓に落ち延びた後に名乗った姓と思っていたが、どうやらこの地でも同じように勝俣姓を名乗って
いた人がいたようだ。
しかし残った 「勝間」 の地名のいわれは探しきれなかった。しかしいずれにしても勝田、勝間田に関連が有りそうな気はする。

 
              大ヶ谷横穴群の標識                            横穴への入口

 勝間田小東交差点を過ぎた先に 「大ヶ谷横穴群」 と書かれた案内板があった。今までは車だったので案内板には気づかず
通り過ぎていたので、今回読んでみると 「大ヶ谷横穴群は、古墳時代後期に築かれた墓で、丘陵に40基ほど点在している。」
とあった。横穴群と云えば袋井市の“菅ヶ谷横穴群” は見たことがあるが、中々見ごたえのある物だった。ならここの横穴群も
みる価値があるかもしれない。

 横穴の入口が分からずウロウロしていると、歩行機を引いた老人が来たので横穴の場所を聞くと、案内板の横の小川を少し
溯った先の丸木橋を渡った竹藪の中にあると教えてくれた。
小川を少し溯ると丸木橋ではなく小川に板を置いたようなチャチな橋があり、その先はミカンを植えた家庭菜園のような物がある。
私の後ろを来た老人が “ウンそこだ、そこだ” と云わんばかりに頷いている。菜園の中に入るのは気が引けたが地元の人が見て
いるのだから大丈夫だろうと橋を渡り竹藪に入った。

 
                  横 穴                                     横穴内部

 踏み跡は無かったが傾斜も緩く、竹も少ないので登りだすと、すぐ上に着いてしまいそうだ。横穴なのだから斜面にあるだろうと
稜線には出ずに向きを横に移動すると、ぽっかり口を開けた穴が見えていた。
中を覗き込んだが狭い穴で “菅ヶ谷横穴群” とは比較にならない。案内にはこの様な横穴が40基ほどあると書いてあったが、
周りを見ても他に穴は見当たらない。もうイイヤとすぐ下に降りてしまった。

 
          分岐から地蔵峠のトンネル                            分岐上の水道施設

 さて、いよいよ高根山です。予定したコースは地蔵峠のトンネルを越した先で、高根山への農道に入る事にしていた。
だがトンネル手前にあった分岐道を見て助平心が湧いてしまった。横地城址や勝間田城址は城址の中を西から東に通り抜けが
できたので、ならここも通り抜けられるんじゃないかと思ってしまった。
 そんな時タイミング良く軽トラが分岐道に入ってきた。慌てて呼び止め高根山への道を確認すると
 「ここを登って下った先に左に登る道があるのでそこを行けばいい。ただ道が細く軽トラがやっと通れるくらいだ。」 ラッキー!

 県道と分岐し道は太かったが、坂の上の水道施設を過ぎると徐々に細くなり普通の農道になってきた。下り始めた道の先には
民家も見えてきて一瞬焦ったが、その民家に下る道の反対側にも道があった。これが高根山への道だろう。

 
                  分 岐                                 通行止?

 今日はついている。農道を登りだすと茶畑の中で作業をしていた人がいたので道を確認すると
 「この先で道が分かれているので、そこを左の道に入るとその先に沼や採石場があるので、その縁を右に行けばいい。
右の道も行けないことは無いけど、森の中で分かりにくいと思うよ」
だって。

 何かトントン拍子に進んでしまうが、所詮高根山は標高150も超低山なのだからこの程度のものだろう。
だが分岐の左先は道に遮蔽物を置いて通れなくしてあった。ウーン!これは車にではなく人に対しての通行止のように見える。
困った! どうしよう?

 
                  ポニー                                   羊

 左の方でガサガサ物音がするので覗いてみると柵の中でポニーと羊が餌を食べていた。何故こんな場所に? と思う前に
あの道路の柵は人間用ではなく、この動物用だと都合よく判断して乗り越えて進んだ。

 だがじきに道は終わり背の高い茅などが生えた低地の上に出た。ここがさっき聞いた沼なのか。で、ここを右に巻いてと思うが
背丈より高い草でどうにも先に進む気になれない。更に上を見れば森が見えている。それならここを無理して行かなくても先程の
分岐を右行く森の中の道の方がよさそうだと、分岐まで戻り森に続く道に入る。

      
          森からの道の上流部                       先にピークがあるが・・・・・

 森への道もすぐ踏み跡程度の道に変わり、最後は枯れた沢の中を歩くようになった。それでも何となく人が歩いた気配はする。
稜線の方角を見ると空が明るく木が生えている気配はない。若しかしてあの先は茶畑か、それとも採石場か。
更に登り沢の上に出るとその先は草原、いや荒れ地に丈の低い枯れた草の広場になっていた。そしてその先には緑のピークが
ポコンと見えている。問題はこの広場とピークの間がどうなっているのかだ・・・・・・・

 
                南のピーク                              北のピ-ク(高根山)

 枯草の広場の上に立つと二つのピークが見え、南のピークは少し低いので高根山ではない。正面に見えた北のピークが、
どうやら高根山のようだ。写真では広場の先がすぐ山の付け根に見えるが実際は凸凹した台地でそんなに容易には行けない。
さらにその斜面は採石が終わった所でよく見るような、斜面が平らに均せれていて掴む物は草しかなさそうだ。
ウーン! どうしよう? 付根まで行って判断しようか、など迷ったが矢張り止めよう。
  “年寄り危うきに近寄らず” だ。


                             泥状の台地からの眺め

                           泥状の台地からの眺め(アップ)

 西側を見ると大規模な採石場が広がっている。一見簡単に行けそうに見えるが、ここも工場のある場所はズーと下で途中には
ダンプやブルトザーが動いている。歩いて行けない事は無いが注意を受けることは必至だ。
立っている場所は以前の採石場だったのだろう。表面は平らだが柔らかい部分が雨の水に流されれ、あちこちが凸凹していた。

     

 家に戻り地理院の地図で確かめたがどうもはっきりしない。だいたい上には溜池は無かったし道もなかった。ダンプの道か
薄い道が描かれているが、それは上の広場より下になる。勿論広場は崖の上だ。
そうなると私が歩いた森の道は、この地図では判断できない。採石場など現在進行形の場所は実態とは合わなくなるのだろう。

ともかくこちらかの道は駄目だ。グズグズしていると違う道から高根山に登れなくなってしまう。引き返そう。

      
           地蔵峠のトンネル                            高根山の採石場

 同じ道を地蔵峠に戻る途中、茶畑で道を教えてくれた人がいたので少し喋った。
 「悪かったねー 俺が行ったのは若い頃だったので道の状態が変わってしまったのだろう」 と謝ってくれた。
イエイエそんなことはありません。例え道を教わらなくてもあの高台までは登った事でしょうから。

 地蔵峠のトンネルは歩道の無く、時折ダンプが走ってくるので、久し振りにトンネルの怖さを味わった。
トンネルを抜けると道は下り坂になり右手に採石場が見えてきた。左の見える高根山のピークの右には、今登ってきた
広場が見えている。こうして見れば高低差がハッキリする。

 
              高根山への農道か                              六地蔵

 県道を更に下っていくと右に農道の入口があったので少し入っていくと、何と道は採石場の方に向かって行く。
ヤダ!ヤダ! また採石場に向かうなんて。と慌て引き返した。
さらに下った先で上を見ると農道が見えた。多分さっきの採石場に向かった農道が途中で方向変換したのだろう。
きっとあの農道が高根山への道だと思ったが、既に再挑戦をする気は失せていた。

 地蔵峠辺りでは地蔵尊を見る事は無かったが、坂部の集落に六地蔵を祀ってあった。
 「おん かかびさんまえい そわか」 と御真言を唱えて今日の無事に感謝した。

 
             滑走路の進入路が見えた                         進入路開始点

 そのまま真っすぐ帰ろうと思ったが尾根の上の滑走路の進入路を見て気が変わった。
高根山に登るのを止めたので私のモットーである “無理せず 楽せず 程々に” に反する事になる。
ならば最後にあの飛行機の進入路まで行って帰ろう。と牧之原台地の東から2本目の尾根に登ることにした。


                                はばたき橋の夕日

 そんな努力が実ったのか、ゴールのはばたき橋ではきれいな夕日を見る事ができた。
リベンジの高根山は、三つ葉つつじが咲くころ勝間田公園、勝間田城址、諏訪原城址と回ってみようと思っています。
 

榛南の山城と高根山4

2016-02-24 10:38:15 | ウォーキング
歩行記録                                                              H28-2-15(月)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間05分   延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分     到着時刻:17時20分
歩  数: 49、953歩(推定距離35.5km)    GPS距離35.6km
行程
 掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
 0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋

                                   勝間田城址

                                勝間田城趾案内図

 本曲輪に建っていた案内板には
 「勝間田城は、中世の代表的山城で、牧之原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ、南東部の
尾根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。
 文明八年の落城後は、この城が再び使われたとしる記録は見当たらないが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が
残っている。 静岡県指定史跡」


 今回は城の裏の急斜面を下り城に入ったが、急斜面が緩やかになった所に一騎駆と思われる細尾根があり、案内図にも
 “一騎駆” と表示されていた。更にそこは急斜面で大軍が一度には下れないと思ったが、若干防御態勢に不安を覚えた。
しかし案内板にはその斜面に備えてか、南曲輪と腰曲輪の二つの曲輪が設けてあった。中々厳重な態勢だ。
               
 先の案内板でも傾斜のある尾根を利用した曲輪の配置は分かるが、こんな立体的配置図がHP 「土の城への衝動」
あったので黙って複写しました(ごめんなさい)。 少々高低差が極端だがこの図の方が城のイメージを抱きやすい。
(上図には南・腰曲輪は描かれていない)

 
              本曲輪の土塁跡                           本曲輪下部(歌碑が見える)

 頂にある本曲輪が本丸で現在は社が祀られている。本曲輪の下には大きな土塁も残り、起伏多さが本丸への備えを感じさせる。
その本丸の下に 「下萩も かつ穂にいづる 夕露に 宿かりそむる 秋の三日月  玉葉集 巻十四雑一 藤原長清」 の歌碑がある。
歌人の藤原長清は勝間田一族の子孫で、先ほどの案内板には 「子孫の長清は『夫木(ふぼく)和歌集』を編纂している。」 とあった。

 
        東尾根曲輪から静岡空港と富士山                     東尾根曲輪から二の曲輪方向

 東尾根曲輪の東方向が開けていて、尾根の上には静岡空港の建物やその先には富士山が見えていた。
昼飯を食べていたとき上空を飛んで行った飛行機があったが、あの空港の右から左に飛び立ち、方向転回した後、城の上空から
海に抜けて行ったのだろう。空港に近いのに離陸する時の爆音に気付かなかったのは、西風が強く空港より西のこの尾根には
爆音が届かなかったのか。

 空港より少し北に目を向けると二の曲輪と三の曲輪の広場が見える。開けているので城跡と云うよりピクニック広場のようで
明るい雰囲気だ。この辺りは横地城址と大分雰囲気は違う。

           

 牧之原台地と云うと台地が一つの塊のように思われるが、南端の海岸方面は幾つかの尾根に分かれている。
台地の一番東側は大井川に沿った尾根で一番短いが、大井川に架かる蓬莱橋があるので観光客を見ることが多い。
2本目の尾根が静岡空港のある尾根で、今でこそこの尾根を走る車は多いが以前は静かな尾根だった。
3本目も静かな尾根で今でも特出する物もなく私もこの尾根は歩いたことがない。
3本目と4本目の谷は昔は東海道金谷と榛原を結ぶ街道があり、今でも県道があるので車の量は多い。この4本目の尾根が
牧之原台地のメインで、台地の上には広大な茶園が広がっている。
台地を縦断している国道473号は、4本目と5本目の尾根の間の谷を相良に向かって走っている。
5本目の尾根は3回横断をしたことがあるが特に何がある尾根ではないようだ。

 このように牧之原台地の南側は、尾根が幾つも分かれているので、台地を横断するとなると何回か峠を越さなければならない。
そのため台地が谷で分断されるこの辺りは昔からメインの街道は無く、東西を結ぶ街道は、尾根が集まったあたりの東海道と、
海岸の平地を歩く田沼街道があるくらいだ。

 
             二の曲輪と土塁                                二の曲輪の建物跡  

広場になった二の曲輪には建物跡が残っていた。案内板(概略)によれば
  <掘立柱建物> 土台を設けないで、直接地面を掘って柱を立てた簡単な建物。直接地面に柱を立てた掘立柱建物跡11棟と
礎石建物跡1棟を検出。建物の周りからは当時使われていた皿や椀、擂鉢などの食器類のかけらが沢山出てきました。特に紐に
通された20枚の銅銭(中国銭)は、当時に人々の持ち物できっと貴重品だったと思われます。」


 建物跡で数の多い堀立柱建物跡は、左程しっかりした建物ではなく簡易な物のようなので、城に常駐する兵の溜まり場か、
或いは武具や城普請用の用具の保管庫か。
 一方礎石を持つ建物は中世の山城では非常に珍しいらしいので、兵の統率者の休憩所か。否、周りに食器類があったなら
この建物には兵糧が保管されていたのかもしれない。

 いずれにしても二の曲輪は勝間田城の中では一番広い場所なので色々の用途に使われていたのだろう。
だが二の曲輪に立つと少々不自然さを感じた。現在舗装された歩道は、この二の曲輪を突っ切り、土塁の間から三の曲輪に
抜けている。歩く分には正面が入口で歩きやすいが、これでは敵の攻撃を受けた時も入られやすいのではないか。
では、三の曲輪に土塁や堀があるかと見たが、歩道は城の入口に延びているだけだ。
城の入口にあった案内図には、二の曲輪の山側に西の三の曲輪がある事になっていたが、今その境は分からない。
若しかして、この土塁の切れ目は歩道を歩きやすくするために切り開いたのではないか、と思ってしまった。

 
                三の曲輪と土塁                                城の入口

 城の入口に立つと表示は無いが石碑の前には堀切が、後ろには土塁状の物が見えている。こうしてみると中々厳重な山城に
見えてくる。案内には書いてなかったが、まさしく連郭式山城そのもので横地城よりその趣を感じさせた。
そんな城が何故簡単に落城してしまったのか。攻撃した今川勢は義忠に率いられた兵500騎だったが、たった500騎でこの
防御態勢が整った勝間田城を容易に攻め落とすことができるのか。
しかも勝間田城を攻略後は横地城も落としている。その間たったの7日間だ。

 そう考えだすとまた思考は逆戻りして、今川勢は見附城で横地と勝間田勢の主力と大将を討ち取ったあと、戦意を失くした
2城を簡単に落城させたと考えたくなる。
だが、そうなると義忠が討たれた塩買坂の位置関係が不自然になってしまう・・・・・

 待てよ、義忠の率いた500騎とは馬に乗った兵の数ではないか。当時馬に乗って戦う武将は数少なく、兵の大部分は徒歩の
歩兵だった筈だ。ならば馬上の将に10人の歩兵が付いていたなら一挙に10倍の5000人になる。
そうなれば7日間で山城二城を落とすことも可能ではないか。
果たしてこの考えが正しいかどうか分からないが、私の妄想は次第にそちらに流されていく。

 
                勝間田城の麓                         下にあったトイレと駐車場

 実は勝間田城の案内図は城址を下りきった旧道との合流部で初めて見た。今回はメインの道を上から下ってきたが、案内図には
他にも幾つかの曲輪が描かれていた。そう云えば本丸にあった案内板にも 「他の城跡では例を見ない鋸状の堀切が見事に残って
いる」
とあった。ウーン残念。城の上から下る道を歩けて喜んでいたが思わぬ落とし穴に落ちてしまった。
とは言え今更引き返す気にもなれない。次回はもっと城の事を調べてきてから歩きに来よう。

榛南の山城と高根山3

2016-02-22 10:44:35 | ウォーキング
歩行記録                                                              H28-2-15(月)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間05分   延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分     到着時刻:17時20分
歩  数: 49、953歩(推定距離35.5km)    GPS距離35.6km
行程
 掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
 0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋

                                   勝間田氏
               

 横地城址の最後の標識から快調に下りだしたのは良いが、道はズンズン下り、しかも西の方角に向かって行く。
これから行く東名牧の原ICは北西の方向だが、そこに向かう直接の道は無いので、一度東の牧之原台地に上がり、台地を北に
向かう筈だ。しかし今更下った坂を上り返す気にはならないし、道標に戻ったとしても矢張りICとは逆方向の南の道しかなかった。
仕方ない行きつくとこまで行ってみようと更に西に向かって下って行った。途中にあった見晴らしの良い場所から農道が良く見えた。
これから下る道を見ると、この先で東西を走る少し太めの道に合流する。ならその道を東に向かえば牧之原台地に上がれるだろう。
少し元気が出てきた。

 合流した道は北東に向う上り坂で、今下ってきた分だけ登り返すようだった。全く無駄歩きをしてしまったもんだ。
更に登っていくと道はカーブして東に向いだした。これでは牧之原ICに行くのに遠回りになってしまう。いやだなー。と、その
カーブの付根にタイミング良く西に向かう細い道があった。ラッキーとばかり入って行き見晴らしの良い場所から下を見ると、
その下には何本の農道も見えていた。
中でも中央辺りの太い道は時々車が走っているのが見える。ヨシあの道を行こうと、少しでも楽をするように道を見定めてから
下って行った。
太い道に出るとまた昇り返しになった。全く無駄な上り下りをしてしまった。これもWindoows10をダウンロードしたばかりに
プリンターが使えなくなったせいだ。古いプリンターだがプリンター自体は故障をしてないのに印刷できないのだから、新品を
買っても印刷できる保証がない。それで二の足を踏んでいるのだが困ったものだ。
 そんな愚痴を想いながら坂を上り、ようやく台地の上の県道に合流した。

 家に戻り今日歩いた道を地理院の地図で確認すると、横地城址を出て最初に農道に合流して、道標を見て喜んだ場所は、
実は三辻ではなく四辻だった。
道標の “神尾” に誘われて意気揚々と農道を下ってしまったが、そこを曲がらないで直進すればアップダウンも距離も少なく
牧之原台地に登る事ができたのだ。確かに前方の方には地図にあるような何棟もの建物が見えていた。
しかし今考えてみてもあの辻が四辻だったとは思えないのだが・・・・・・・



 
         何だろうこのドームは 後で調べたが?                  矢崎ものつくりセンター

 東名の跨線橋を渡り、国道と合流してすぐ矢崎の工場前の旧道を北に向かう。勝間田城址はこの矢崎を過ぎたあたりから左に
折れて農道に入り台地を下るのだが、その農道の入り口に自信が無かった。矢崎の角を曲がった先に守衛さんが立っていた。
 「すみませーん。勝間田城址に行きたいのですが、この先の何処を曲がればいいのでしょうか?」
 「勝間田城址? ウーンこの先にあるらしいけど道は知らないなー」
だって。残念。
仕方なく山勘で適当な所を右折すると少し戻ったりしたが東に下る道に出た。マーいいさ、ここを下りきれば県道と川がある。
そこまで下ればなんとかなるサ。

 ところがですよ。何と!何と!道が下り始める前に 「勝間田城址入口」の標識が立っていた。

      
                         勝間田城址入口                        土橋か一騎駆か

 しかもその道を少し行くと駐車場のような空地があり、その先は急な下りの山道になった。
昨夜見たYahoo!の地図では城址の中の道は載っていなかったので、いったん下まで下り、城址には登り返す積りでいた。
それがどうやらこの道は上から直接城址に向かっているようだ。それこそラッキー!!だった。
急な下りだが道は電光形になっていて滑らずに下る事ができる。傾斜がこれだけあれば大軍の移動は難しいだろう、等と考え
ながら下って行くと横地城と同じような一騎駆とも云える土橋が出てきた。どうやらこのここから先が勝間田城址のようだ。

 
               本曲輪への道(裏道)                              本曲輪

 分岐した道を木の根の張った高台への道へ行くと、そこは勝間田城の本曲輪の跡だった。
本曲輪には小さな祠が祀られていて、その前に建つ灯篭に 「印野親和会」 の文字があった。

 勝間田氏の始まりは、横地氏の始祖家長の次子が勝間(かつまた)次郎を名乗り榛原郡勝田庄に居館を構えた事に始まる。
その横地城と勝間田城の位置関係は、南遠の塩の権益確保によると言う説があった。それによると横地城は南遠の塩の輸送路、
すなわち塩の道の沿岸部を保護し、勝間田城は製塩が行われた相良荘を管理していたという。
確かに信州に続く塩の道は相良で製塩された塩を 「塩買(塩替)坂」 に運び、ここで掛川から来ている塩商人と売買していたので、
そこで上がる収益に運上金を賭けていればかなりの儲けになったろう。塩買坂は城から4kmと横地城からは左程遠くない。
実はこの塩買坂は、横地・勝間田城を落とされた残党が、敵将今川義忠の帰路を襲い討取った場所でもある。

 一方勝間田城は塩の産地 相良荘の守備を受け持ったとあるが、城と相良は15km近くあり、横地城と相良間より遠い距離になる。
本当に次男に塩の産地を守らせる気なら、もっと海に近い所に城を建てたろう。
この “塩の権益確保” 説は、後で塩の道の事を知った人が都合よく唱えたのだろうと私は思う。

 オッと脇道に逸れたので勝間田氏に話を戻すと、始祖以来縁戚関係にあった横地氏とは、勝間田城が滅びるまでの300年以上
同盟関係を結び、共に活動してきたようだ。だがその関係も落城と共に終わり、勝間田氏はこの地を落ちて行った。
その落ちて行った先は・・・・ 案内板に説明があったのでそれを紹介すると
 「今川義忠の猛攻の前に勝間田城はついに落城、一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられて
いる。」
 これでやっと灯篭の話に戻った。

 灯篭に刻まれた 「印野」 とは御殿場市にある地名で、「富士の原野に落ち延びた勝間田一族」 のHPには、こんな説明がしてあった。
 「勝間田城が落城すると、勝間田修理亮の身内の一部が、密に海岸から舟を漕ぎ出し、海上を沼津周辺に向かい、そこから
富士山麓へと落ち延びていった。
 そうした一族の内、印野八郎左衛門らは、山之尻から印野の奥へと住み着き、一部の者は箱根仙石原に住み着き、勝俣姓を
名乗ったと伝えられる。昭和年間に、元社会党の委員長となった勝間田清一の家系もそうした末裔の家系であった。」

これで祠の前に 「印野親和会」 の文字がある理由が分かったと思います。

 更に 「静岡県 名字の話」 (渡辺三美著)には、「横地城が落城すると甲斐に逃れた勝間田兄弟は、嫡子が甲斐で勝俣を称し、
次男が印野に移住し勝間田を、四男が仙石原に住み勝俣を名乗ったという。
 また、勝間田姓が本家筋で、勝俣、勝又、勝亦は分家筋にあたり後世に字を変えたとも伝えられている。」

 
 御殿場出身の私は勝間田姓と勝間田城の関係は知っていたが、他のかつまた姓も勝間田氏の一族だとは知らなかった。
御殿場には他にも “勝亦” 姓もあるが、このれも一族なのだろうか。

 と、勝間田一族が富士山麓に移り住んだのは事実のようだが、以前は落ち延びるのに何故敵の本拠地のある駿府を通って
行ったのか理解できなかった。塩買坂で敵将を討ち取ったら、そのまま西に逃げれば今川と敵対する斯波氏に保護されたのでは
ないかと思っていた。それが今回船に乗って逃げたと知ると何となく理解できた。
急な逃亡で大きな船は支度できず、駿河湾の外には出ることができなかったのだろう。そうなると海岸沿いに駿河湾の奥深くに
向い沼津辺りで上陸して、更に富士山の奥深い御厨(御殿場)の印野を目指したのも頷ける。

 ネットの “名字の由来” によれば、勝間田姓は全国で3049位、約4400人居るとなっていた。その中で静岡県には2800人と
約60%強が集まり、更に御殿場市には70%強の2000人が住んでいることになっている。
横地姓の多かった島根県は、勝間田姓は少ないか調査中だった。矢張り横地氏とは落城を切っ掛けに離れ離れになったのだろう

 時間は丁度12時。本曲輪の日溜りの階段に腰かけ弁当を食べていると突然爆音が空から降ってきた。
慌てて見上げた空の真上を南の海に向かう飛行機が下腹を見せて飛んでいた。どうやら静岡空港を離陸したばかりのようだが、
飛行機の向きが逆のようだ。通常静岡空港は東西の滑走路を東から西向い海に向って離陸している。ただ西風や北風が強いときは
逆方向に離陸して、上空で方向転換してから海に向かっている。
どうやら今日は西風が強いので、西に向かって離陸した飛行機がこの辺りの上空で方向転換しているのだろう。

榛南の山城と高根山2

2016-02-20 12:17:07 | ウォーキング
歩行記録                                                              H28-2-15(月)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間05分   延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分     到着時刻:17時20分
歩  数: 49、953歩(推定距離35.5km)    GPS距離35.6km
行程
 掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
 0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋

                                   横地城址
      
      県道の横地城趾入口看板                           横地一族の墓

 県道にある横地城址入口の看板を右の小路に入ると坂を上に行く城址への道があった。
小路に入ると寺跡などがあり、五輪塔や宝篋印塔、無縫塔が集めれ並べられている 「横地氏一族の墓」 がある。
山城にこんなに多く墓石があるのは珍しいが、横地城の標高は低く山裾には横地氏の菩提寺などもあったからだろう。
更に坂を上ると “隠し井戸” があり 「城主居館の水の手」 の説明がある。と云う事は横地城は単なる詰城ではなく城主の
居館と地続きの城だったのだろうか。
 次に出てきたのは “斯波氏武衛邸宅跡” とあり 「応仁の乱の西軍の雄、斯波氏武衛義廉の邸宅の跡」 と説明がある。
斯波氏武衛義廉(よしかど)とは、越前・尾張・遠江の三ヶ国の守護で、幕府の官領を務める重要人物だったようだ。
そのため遠江の経営も配下に任せていたような人物が、遠江のそれも片田舎の横地に邸宅を構えたとは信じられない。
多分斯波家の家臣が横地城を訪ねる時に泊まった屋敷なのだろう。
ただ隠し井戸も邸宅跡も藪や林の中で今は痕跡すら見る事は出来ない。

 更に進むと 「身討原」 への矢印があったのでメイン通路は外れて行ってみた。道はズンズン下り茶畑が現れてしまった。
これでは麓に下がってしまうと引き返したが、この身討原は城主の秀国が落城の際、自刃した場所らしい。

      
                一騎駆                            金玉落としの谷

 道は掘割などもなく続いているが、堀は埋められてしまったのだろうか。ようやく左右の谷が深くなってきた所に山城らしき物が
出てきた。まず 「一騎駆」「両岸が切りたった絶壁で、大軍を擁しても、通過するためには一騎づつしか通れないので、この
名が起きた。この一騎駆の両端には必ず狙い撃ちできるように構えの段が造られていた。」
となっている。
山の詰城に行くとこのような細い尾根は “土橋” と称していたが、確かに “一騎駆” の方が恰好が良い。
ただ気になるのはこのような場所は敵も一騎づつしか通れないが、味方も同じことになる。これでは籠城戦に向いているが敵が
迫った時の攻撃には向かないような気がする。

 おっと 「金玉落し」 だって。随分気になるが説明には 「城兵の訓練の場で、山上より金の玉を谷底に落とすと、兵は一斉に
谷に下って玉を探し、見つけた者には賞が出たと伝えられている。」
だって。では 「金の玉落し」 が正解だろう。

              
                井戸跡                            水が溜まっていた

 さっきは “居館の井戸跡” があったが、また “井戸跡” が出てきた。山城では水は大事であちこちに井戸を掘ったのだろう。
穴が開いていたので覗いてみたら、きれいな水が溜まっていた。

      
              横地神社                           西曲輪(二の丸)の土塁溝

 少し広くなった所があり “千畳敷” と名前が付いていたが千畳敷の説明は無かったが、 「横地城跡」「二の丸」 案内が
あったので紹介します。
 横地城跡 戦国時代の国人領主横地氏の山城です。山城の長さは1.5kmと大規模で築造形態の完成度の高い中世城郭として、
平成16年に国の重要文化財となり歴史的評価の高い史跡です。
 城は標高100m前後の山頂部を曲輪とし、東曲輪、中曲輪、西曲輪の三群から構成される連郭式山城で、東曲輪がその中心に
当たります。各曲輪を中心に、尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御をなすと共に、自然地形を利用した要塞と
なっています。」


 二の丸跡 副将級と他地域から応援に来た武将が詰め、標高95mの南(千畳敷)側は五段に形成され、前面に土塁と濠が
廻らされている。この頂上には横地氏を祭る横地神社が建てられ、その裏手からは落城当時の焼米が出土した。」


 説明を読んでから横地神社の鳥居を潜り西曲輪に登ってみた。
斜面に段が付いているのが説明にある五段の土塁と濠なのか。

 
                   土塁溝                               西曲輪(二の丸)

 今では濠は浅くなってしまい、土塁を築いた時の跡程度にしか見えないが、この防御施設が5段もあると中々攻め難いだろう。
千畳敷に続く東の斜面は緩やかだが、他の三方は更に急な斜面で自然の城壁になっている。ただ気になるのは祠のある曲輪跡が
余りに狭いことだ。ここの曲輪には副将級と応援の武将が詰めたとあったが、ここに櫓を建てても兵は余り入れないだろう。
途中の土塁濠も各段に兵を十分配置してしまうと、攻撃されて上の土塁に逃げようとしても入れなくなる恐れがある。
これでは千畳敷を敵に占領されれば、ここは最後のあがきの場所でしかないように感じた。

 西曲輪と東曲輪の間にある中曲輪と呼ぶ高台は、上部は平らになっているがここもあまり広くなかった。

 
              東曲輪(本丸)への上り                         東曲輪(金寿城・本丸)

 東曲輪は横地城の本丸なので最重要拠点だろう。ここも他の曲輪と同様ピョコンとした高台の上にあるので攻撃はし難いだろう。
横地城は東・中・西の曲輪が続く連郭式山城だそうだが、一般的連郭式なら最初の曲輪が攻撃に耐えかねれば、次の曲輪に逃げ
込む事ができる。だが横地城は私が見る限りではそれぞれの曲輪の距離は近いが、曲輪の下に敵兵がいるので次の曲輪に逃げ
込む事はできない。ただ距離が近く配置が一直線でないため、西曲輪が攻撃されれば中曲輪から弓矢で応援はできる。
これは中曲輪が攻撃されれば西と東が応援し、東が攻撃されれば中が応援できるので攻撃する側としては厄介な配置だろう。


                                横地城の掘切(現地案内板)

 横地城には上の案内板のように各曲輪を守る小型の掘割は各所にある。当然それは必要だが、城全体の防御態勢が足りない
気がする。城音痴の私が言うべきではないが、この配置では千畳敷を敵に抑えられれば各曲輪はなす術がない。
敵が長期戦の構えをを見せれば、籠城は覚悟の上とはいえ打開策は少なく落城を待つだけだろう。
また、敵が火矢の攻撃を仕掛けてくれば籠城すらできなくなる。
それならばと、私の妄想的発想は訴える。横地城の出入口に、上図のように規模の大きい三日月状の堀を三ヶ所掘りたい。
こうすれば敵に安易に千畳敷を奪われることは無い。仮に奪われたとしても各曲輪から一斉攻撃をすれば敵兵はその堀が
邪魔になり退きにくくなる。どうですかこの案は。


                                横地城の配置図(現地案内板)

 もう少し見やすい案内図です。
図には書いてないが一騎駆の狭い尾根の部分は深い掘割にして跳ね橋で結んだらどうだろうか。
こうなれば横地城は難攻不落の城となり、横地秀国は討死することは無く、遠江の歴史は大きく変わった事でしょう。

      
              東の一騎駆                          粟ヶ岳

 東曲輪の先にも一騎駆があった。今川勢がどこから横地城を攻めたか分からないが、ここは横地城の一番の弱点と思われる。
ここを突破されれば東曲輪、いわゆる本丸は目の前で他の曲輪の支援を受けにくくなる。やはりこの先に掘割を造り一騎駆も
跳ね橋にして防御態勢を固めるべきだ。

 城音痴による縄張り論議でした。

      
                      農道が見えた                           最後の城址案内板

 東の一騎駆の所に交通止と書いたウマが置いてあった。多分これは車に対しての案内だろうと勝手に判断して先に進む。
道は軽トラが走れる広さが更に狭くなり山道状になったと思ったら、すぐまた軽トラなら走れそうな広さの道になった。
実はここから先の道には自信はなく、昨夜YAHOO!の電子地図を眺めて来たが既に曲がる場所などは覚えていない。
次の行き先は勝間田城址だが、その前に東名の牧之原ICの近くを通るので分からなければ聞けばよいと思っている。
ともかく横地城址から農道に出るのが先決で多分この道を行けば農道に出るだろう。

 高台の茶畑に出ると下には農道が見えていた。矢張り城からは通り抜けできるようになっていたのだ。
ただ、この辺りは農道が有りすぎるくらい有るので、逆にその農道がどこに行くか心配になってしまう。
でも大丈夫。農道に合流し角には道標が建っていて、今来た道は横地城跡とあり、右折は大久保、左折は神尾になっていた。
大久保は分からないが神尾の地名は昨夜見た地図にあった地名だ。ラッキーとばかりに下りになった農道を歩き始めた。

榛南の山城と高根山

2016-02-19 11:34:27 | ウォーキング
歩行記録                                                              H28-2-15(月)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間05分   延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分     到着時刻:17時20分
歩  数: 49、953歩(推定距離35.5km)    GPS距離35.6km
行程
 掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
 0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋

                       榛南の山城 (横地城址・勝間田城趾)と高根山

                                ウォーキングコース

 寺社巡りの遍路ではなく、街道歩きでもないウォーキングは、何か目的が無いと歩く気が湧いてこない。今回このコースを歩く
切っ掛けになったのは、島田ハイキングクラブの会報 “やまびこ” に記載されていた 「静岡の一等三角点」 の文中に
 「高根山の山頂には一等三角点と県内にはここだけという天測点が埋設されている」 とあるのを読み、急に好奇心が湧いた。
これまで一等三角点は見た事はあるが、 “天測点” は聞いたことも無ければ見た事もない。これは話のタネに見に行かなけりゃぁ
と、出かけることにした。
 とは言え標高150mの高根山だけが目的では面白くなさすぎだと、かねてから気になっていた横地城址と勝間田城址も一緒に
回る約33kmのウォーキングコースを設定した。

 
              菊川堤防から粟ヶ岳                           菊川文化会館アエル

  観歩しながらのウォーキングで歩行距離が33kmなら概ね10時間もあれば十分だろうと、始発電車はやめて菊川駅に7時頃
着く電車に乗った。(年寄りは朝が強いと言われるけど、私はどうもまだ年寄りではないようです)

 横地城址付近は過去何度も歩いているので、城趾入口の看板のある場所までは気楽に歩ける。
途中渡った菊川から粟ヶ岳の “茶” の字が見えていた。さらに歩いていくと西洋のお城のような建物が見えてきた。
窓が極端に少ないので、これでノッペラ坊の建物ならオーム真理教のサティアンのような感じだ。でもここは塔のような凹凸が
幾つもあるのでシャトーに見えなくもない。
生憎建物の裏を歩いていて何の施設かわからなかったので家に帰り調べてみると、菊川市文化会館アエルだった。
そうだろうな。これだけの規模で、これだけユニークな建物は地方の民間では無理だろう。失敗しても個人に実害の無い役所だから
こそ建設可能な建物ともいえる。尤もそうして文化は発展していくのだろうが。

                             横地氏の豆知識
     
                                  横地城趾案内看板
 横地城に着く前に横地氏の豆知識を。
・前九年の役で源(八幡太郎)義家が奥州に安倍氏討伐に向かう途中、長雨のため遠州見附(現磐田市)に滞在した。
その折、遠州相良荘平田城主の娘との間に男子が誕生すると、その所領として城飼郡と榛原郡の大部分を与え横地村に住み、
横地と号するのを許した。これにより横地家初代当主・横地太郎家長が誕生した。
・3代太郎長宗は源義朝(知多野田大坊に墓所)に従い、平治の乱で平家に敗れ横地に隠居する。
・4代太郎長重は源頼朝の挙兵に応じ、平家追討では義経に従い、屋島、壇ノ浦で戦功をあげる。
・10代太郎家長(為長)遠州守護今川に従い都にに入り各地を転戦する。
・横地(金寿)城を築城した15代太郎(四郎)秀国の時代までに、横地氏の支族は東遠の各地に拡がり、勝間田城(牧之原市)の
勝間田氏、新野城(新御前崎市)の新野氏、西郷氏、石谷氏(掛川市)、内田氏(菊川市)等がいた。
中でも勝間田氏との関係は強く、初代横地家長の次子が勝間田氏を創設したため、横地氏草創から滅亡に至るまで常に兄弟の
如く行を共にしている。

 だが横地城が築城された頃から横地氏は滅亡の道を辿っていく。その過程には幾つかの説があり、まずは横地氏末裔の説から
 「東海地方にあっては今川氏が駿遠の守護としてその支配体制を固め、横地氏も遠州今川氏と表裏一体のような関係を築いたが、
遠江の守護職が斯波氏の手に移り、今川氏は駿河に後退して遠州今川氏も堀越氏を称して振わ無くなっていった。
寛正年間に入り遠州今川の見附城(磐田市)を斯波氏の家臣狩野が横領すると、横地・勝間田氏は狩野一族を月余に亘って攻め
滅した。この事件で横地・勝間田の勢力も中部遠州に伸びることとなった。
 その後、応仁の乱が勃発すると戦いは地方に波及し、遠江の地も今川、斯波派の争乱の巷となった。京にいた今川義忠は将軍の
命により、遠州の治安維持のため駿河に戻ることになったが、斯波氏側の抵抗にあい中々駿河には戻れないでいた。

 一方横地・勝間田氏は自立の好機と斯波氏を擁して西進、見附城を落としていた。ようやく駿河に戻った義忠は、陣容を整え
五百余騎を率いて横地域に来攻、昼夜の別なく七日の間攻めて、ついに落城させた。
城主横地四郎兵衝秀国、勝間田修理亮は城の一偶、身討原で自匁して果てたという。
帰途今川軍は南に途をとり、塩買坂にて夜中横地・勝間田の伏兵に襲撃され、義忠は流 矢に当り落命し、その従臣は殆んど討死、
その墓が残っていることから、今川方は壊滅的打撃を蒙って潰走したものであろう。
落城後横地の遺子・藤丸は居館を建て再挙を計ったがならず、子孫は城下の地に土着した。」


横地氏の末裔の説は
・横地氏は当初は守護今川家の将であったが、遠州の守護職が斯波氏に移ると次第に斯波氏側となり、最後は遠州今川の居城
見附城を落としたことで、今川の怒りを買い横地城を攻め落とされ城主は討死する。遺児の再挙はならなかったとなる。

一方ウィキペディアでは
 「横地城は今川義忠に焼き討ちされ落城。城主横地秀国が討死。遺児元国は武田信虎を頼って甲斐国へ行ったが、再興ならず」
と簡単な表記だったが、今川義忠の項ではこんな風に説明している。
 「文明8年、斯波氏に通じた横地四郎兵衛と勝間田修理亮は見付城を修復し、義忠から背いて抵抗の構えを見せた。
義忠は両名を討伐すべく、500騎を率いて出陣。勝間田城と金寿城(横地城)を囲み、両人を討ったものの、その帰途の夜 遠江
小笠郡塩買坂(現在菊川市)で横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われた。
馬上から指揮する義忠だったが、流れ矢に当たって討ち死した。なお塩見坂は金寿城から駿府へ戻る経路とは反対方向にあり、
金寿城で敗走した義忠は坂の南にあった今川方の新野城に落ち延びる途中で討たれた可能性もある。」
 となっている。

 基本的には横地氏の末裔の説と同じだが、義忠が打たれる場面では違いがある。
末裔説は横地・勝間田の残党の流れ矢、ウィキペディアでは一揆のの流れ矢となっていて、遺児のその後は地元で暮らした説と
甲斐へ落ち延びたとの違いがあった。
 しかし何よりウィキペディアで気になるのは “なお” 書きの後の 「金寿城で敗走した義忠は・・・・落ち延びる途中で討たれた」 とある
ことだ。これでは義忠の横地(金寿)城攻撃は失敗したことになってしまい、ではなぜ横地氏は滅亡したのか疑問が百出してしまう。
これは明らかにウィキペディアの誤記だと思われる。
更に 「塩見坂は金寿城から駿府へ戻る経路とは反対方向」 とあるのも疑問だが、これは後で検証する。

こうなるともう少し詳しく調べたくなり、更に遠州の古城に詳しいHPを見ると、今川と横地の関係をこう説明していた。
 「遠江では守護斯波氏が後ろ楯となり狩野氏が見付城((磐田市)を居城として中遠一帯に勢力を広げつつあった。
今川義忠は幕府から狩野氏討伐の幕命を得て、見付城の攻防戦が展開された。この戦いには横地秀国も勝間田氏と共に幕府方と
して今川の陣中にあって奮戦している。三ヵ月に及んだ攻城戦は、城主狩野が自害して終わった。
 今川の遠江侵略に危機を感じた秀国は、勝間田氏とともに斯波氏に通じて見付城を奪取して守りを固めた。それを知った義忠は、
烈火の如く怒り見付城を昼夜の別なく攻め立て、城は七日目に落ちたという。この戦闘で秀国と勝間田修理亮の両人が壮烈な討死を
遂げ、見附城が焼け落ちて終わった。手薄となっていた横地城も今川軍によって焼き払われたことであろう。

 しかし戦いはこれで終わったわけではなかった。横地・勝間田の残党は今川義忠が駿河帰陣のために塩買坂に現れたところを襲い、
不意を打たれた義忠は流れ矢を脇に受けて戦死してしまった。

 横地一族郎党は四散してそれぞれに落ち延びた。秀国の男子三人も落ち延び、一人は三河松平氏に仕えて代を重ね、十六代目を
継いだ藤丸は横地に帰農して先祖の地に住み続けた。そして落城時まだ乳呑児だった元国は追手を振り切って甲斐の武田氏に身を
寄せた。子孫は武田氏に仕え、後に徳川家康に召抱えられて旗本となった。」


 私にはこの説が一番しっくり理解できたが、それでも義忠が見附・横地・勝間田城の攻撃順序と、義忠が打たれた塩買坂の位置
関係に納得がいかない。


                            城の位置関係

 東端に位置する駿府を出陣した義忠は、どの順番で城を攻撃したか。
考えられるのは距離の近い順に勝間田、横地、見附となるが、一番防御が固く苦戦が予想される見附城攻撃を二城攻撃で疲れた
将兵を向かわせただろうか。ここは重点志向で先ずは一番重要な見附城を落とし、味方の士気を挙げ、かつ敵の気力を落とした
後で、横地・勝間田城に向かったと考えた方が妥当だと思われる。
そのとき少なくても横地秀国は見附城に出張っていたと思われる。彼とて一番重要な城が攻撃されるのを横地城でただ黙って
待っていたとは思えない。当然大将として横地城で奮戦し討死したとする方が自然だ。
そして城主を討たれた横地城は戦意を喪失し義忠の攻撃に簡単に落城してしまったのだ。これは勝間田城でも同じ事だったろう。
そうなると先に横地・勝間田城が責められ、そこで城主が “自匁して果てた” と云う末裔説とウィキペディア説は不自然になる。

 では見附城を落とした義忠は次に向かったのはどの城だろう? 横地か勝間田か。
順路から云えば横地・勝間田の順になるが、そうなると駿府に近い勝間田からわざわざ西に戻り塩買坂を通る事になる。
では見附城の次は横地を通り越して勝間田城を落城させた後に横地城に向かい、その後で塩買坂を通った説も成り立つが
でも何故か不自然に感じてしまうのですよね。

 遠州古城のHPでは、義忠が “兵五百騎を引き連れ見附城を攻撃し七日で落とした” とある見附城だが、ネットには見附城を
詳しく紹介した物が少ない。今川との三ヶ月の攻防や今回の七日の攻防、さらには今川義元の戦闘もあった筈の見付城なのに
何故だろう? しかもネットの多くは三ヶ月の攻防戦と義元の戦闘を紹介しているだけで、横地・勝間田連合軍の戦いを紹介した
ものは非常に少ない。
これは若しかして横地・勝間田連合軍の戦いの事を書いてない末裔説やウィキペディア説が正しいのではないか。と思えてきた。

 義忠は勝間田城と横地城を壊滅しただけで一旦は駿府に引き上げた。帰路は討伐が済んだばかりで勝間田勢がまだ潜んで
いる可能性のある道は避け、整備されている塩の道を通った事は十分考えられる。それが証拠に塩買坂には落城した残党が
義忠を襲ったのだから。
最後にウィキペディアでは一揆が襲撃したあるが、それは問題外だろう。武器も持たない住民が勝ち戦で意気が挙がっている
軍隊に向かって行く訳はない。結局私の考えは末裔説に近くなってしまった。


 横地城址に向かう途中 「全国横地姓のルーツ」 等と書いた看板があった。そこで “名字由来net” で調べてみた。
何時のデータか分からないが、静岡県の横地姓は県内順序で1801位で180人と少なく、その中で一番多かったのが
掛川市の70人だった。だが横地城のある菊川市は調査中で未掲載だった。これではなぁ~
 ついでに全国を見てみると横地姓の比率の多い県は、お隣の愛知県と遠く離れた島根県の2県だった。
その内の愛知県は494位で2400人で、住民の割合は不明だが三河より尾張に多いのは、三河は今川の勢力圏だった事も
関係しているのだろうか。
 島根県も見ると順位こそ653位で170人だが、その内120人は隠岐郡隠岐の島町だった。これは何を意味するのか?
まさかあんな遠くまで落ち延びて行ったとは到底思えないが、調べれば面白い結果が出るかもしれないな。
菊川市ではこれを調べ、もし横地城の横地氏と関係があるなら姉妹都市の縁を結ぶのも面白いだろう。
なんてまた勝手な妄想が湧いてきた。

志太奥4山縦走2

2016-02-13 15:03:00 | 低山歩き
歩行記録                                                                   28-2-9(火)
歩行時間:6時間15分   休憩時間:1時間20分   延時間:7時間35分
出発時間:8時25分     到着時間:16時00分
歩  数: 28、197歩(推定距離20.2km)    GPS距離18.0km
行程表
 蔵田バス停 1:10> 高尾山 0:35> 笠張山 0:30> 滝之谷峠 0:40> 菩提山 0:50> 桧峠 0:50> 椿山 1:10>
 上滝沢 0:30> 中山BS 
                      志太奥4山(高尾山・幕張山・菩提山・椿山)縦走2

      
                       新道分岐                                熊笹の急坂

 笠張山から5分で新道との分岐に着く。今まではこの間を往復していたが、これからの4山縦走では、この新道を歩く事はないだろう。
この合流地から雑木林の道になり、それを過ぎると両側が熊笹になった急な道になる。
今日は杖を忘れてきたので、下り坂で勢いが付きそうになる体を止めるため、熊笹を掴みながら下った。この場所がこの縦走の中で
一番の難所と思うが、難所と云えしれている難所だ。要は4山縦走と恰好をつけているが別段どうと云った山ではない。
道標はあるし道もはっきりしている。景色はウーン駄目だが他人には会わない静かな山で、今日も山に入ってからここまで人っ子一人
会っていない。勿論動物にもだ。過去の4回で人に会ったのは高年夫婦に1回だけだ。ともかく静かな山です。

 
                 林道合流                                  滝之谷峠

 林道に合流するころ小振りになっていた雪が霙に変わってきたので、慌ててザックカバーを付けて折り畳み傘を取り出した。
最近の低山歩きでは降水確率が30%以下の時しか歩かないので、合羽は持たなくなっている。それが習慣になると、たまに持つ
合羽が重く感じて、さらに持たなくなってしまった。今日も降水確率30%で、しかも降っても雪だったので傘があれば十分だろうと
ザックに常に付けてある折り畳み傘だけしか持っていない。
横殴りの霙はズボンを濡らし、すぐ冷たさが忍び込んできた。これでは菩提山に行かず滝之谷峠から不動峡に下ってしまおうか、
などと弱気の虫が起きてくる。

 
           菩提山入口(農道の宇津ノ谷滝之谷峠)                     菩提山山頂

 その滝之谷峠付近に来ると霙がまた雪に変わってきた。雪なら濡れ方も少ないだろうと気を取り直して菩提山に向かった。
傘を差しながらの山道になったが、それはそれで面白いと歩いていると山頂付近でその雪も止んでくれた。
山頂の風のこない所に座り込んで昼飯にした。勿論景色は見えなかった。

  
                                    桧峠への道

 この4山縦走で一番山道らしく感じるのは菩提山から桧峠の道です。

 
                桧峠の集落                                    椿 山

 まだ強そうな茶の葉の先に桧峠の集落が見えてきた。山道はここで終わり、ここから先は舗装路になる。
雪は降ったり止んだりしていたが青空が所々に見え、陽も射してきたのでもう大丈夫だろう、とザックカバーと傘をしまった。

 今日最後に登る予定の椿山が見えている。何の変哲もなく面白みのない山だが、3山を歩いた後なのであの上りが結構
きつく感じてしまう。今日のように曇っていればまだ良いが、冬とはいえ陽が射していると中々辛いものがある。なので
椿山からの眺めが無ければ、わざわざ登る事はないのだが、4山の中で一番の眺望となると無視するわけにはいかない。
結局毎年フーフー言いながら登ってしまうことになる。

 藤枝市のハイキングマップにはハイキングコースが20コース紹介されている。だが椿山はその中に入っていない。
私に言わせれば藤枝の眺望ベストⅢに入ると思っているのだが・・・・
因みに私の考える藤枝眺望ベストⅢは、1位 清水山、2位 椿山、3位 北のピーク だが、このうち紹介されているのは
清水山だけなのが淋しい気がする。尤も北のピークは登山道が整備されていなので、現状のまま紹介するには無理がある。
だが椿山なら紹介されている “菩提山コース” に加えれば済みそうだし、菩提山の難易度も “上級” になっているので、椿山を
加えても問題なさそうな気がするが。

 
 ソーソー、この難易度の基準が良く分からない。今日歩いた高尾山と笠張山、菩提山は
・高尾山コース 上級 所要時間5時間10分 距離9.7km  自然の景色を楽しみながら歩く、本格ハイキングコース
・笠張山コース 中級 所要時間5時間55分 距離14.9km ここなら山の魅力も川の魅力も味わえます
・菩提山コース 上級 所要時間5時間05分 距離12.5km 森林浴を楽しみたい人におすすめ

距離が一番長く時間もかかり、しかも “熊笹の道が難所” と私が紹介した笠張山が中級?? 分かりません。
更に不可解なのは
・つたの細道コース 上級 所要時間2時間35分 距離3.5km いと暗う細きに、つたかえでは茂り、古のロマンが香る万葉の道
とあるが、あそこなら “初級” でも良さそうだし、あそこが上級なら当然笠張山も上級だと思う。

 ケチをつけるのこの位にしないと。今も椿山の位置をこのマップで固定したのだから。

 
                 桧峠お堂                                  椿山分岐

 上滝沢へ直接下る道と椿山への分岐では、また迷っていしまった。今日の天気では椿山に行っても景色は見えそうもない。
ならこのまま下ってしまおうか、と。
でも思い出した 「無理せず、楽せず程々に」 のモットーを。ここで椿山を避けたら楽をしすぎだし、登ったとしても無理ではない。
なら行くしかない、と椿山に向かいました。

 
                晴れたと思ったら                            一転、雪になった

 桧峠では雪も霙も降っていなかったが椿山を登りだすと陽が射し青空も広がってきた。これなら景色も見えるかもと
期待をしたのも束の間、空は一転真っ暗になり、またもや横殴りの雪が降ってきた。

 
                椿山山頂標識                           三角点のある敷地

 なんか訳の分からない所にある椿山の山頂標識を横目に見ながら、三角点のある無住の別荘の敷地に入った。
ここに入るのも毎回の恒例になってしまったが今日はいつもと少し様相が違っていた。
三角点のある庭に建築資材が持ち込まれ、一部には足場が組んであった。どうやら別荘の改装をするようだ。
人が住むようになれば当然ここには入れなくなる。そうなるとこの三角点の見納めかもしれないな。


                                        椿山・開拓の碑

 ほんの僅か期待していた “開拓の礎” からの景色はこの程度でした。今日歩いてきた3山は黒いガスの中。
それでも志太の山々がボンヤリ見えていて、右隅の奥に見える大崩山塊辺りは明るくて陽が射しているようだ。
富士山? 富士山は写真左辺りに見えるのだが、今日は当然顔は出してくれない。

      
           傘を乾かしながら                          青空に映える白梅

 雪は止み陽が射してきたが傘は畳まず乾かしながら歩いた。道端の白梅もバカが居ると眺めていただろう。
上滝沢のバス停に3時25分到着。ここからゆらく行きのバスが出ているのだが平日は2本、休日は1本しか走っていない。
その2本目のバスが3時6分発なのだがもう遅い。昨年はここに2時55分に着いたので一瞬バスに乗ろうか迷ってしまった。
だが今年は迷うも何も、すでにバスは走り去っている。
いうなればここまで昨年より30分遅くなったと云う事だ。アーァ歳はとりたくないな--------

 いつも休憩する中山公園の手前に場違いな洒落た酒屋があるが、今までは気にしたことは無かった、フト自動販売機を
覗いてみると、ありました、ありました、氷結がありました。
こうなると買わずにはいられなくなり、即1本購入。中山公園で飲めばいいやと、その時は思っていた。
だが公園に着くと近くにあるバス停の時間が気になりわざわざ見に行った。すると次の藤枝行のバスは20分後にある。
なら公園で乾杯してバス停に来れば丁度良い時間になる。

アーァ折角椿山では “楽をせず” 登ったのに、ここで結局 “楽” 求めてしまった。
歳と共に足も気力も衰えてきたようです。困ったものだ。

志太奥4山縦走

2016-02-12 11:19:52 | 低山歩き
歩行記録                                                                   28-2-9(火)
歩行時間:6時間15分   休憩時間:1時間20分   延時間:7時間35分
出発時間:8時25分     到着時間:16時00分
歩  数: 28、197歩(推定距離20.2km)    GPS距離18.0km
行程表
 蔵田バス停 1:10> 高尾山 0:35> 笠張山 0:30> 滝之谷峠 0:40> 菩提山 0:50> 桧峠 0:50> 椿山 1:10>
 上滝沢 0:30> 中山BS 
                      志太奥4山(高尾山・幕張山・菩提山・椿山)縦走

 
           藤枝自主運通バス(ゆらく線)                         藤枝自主運通バス(大久保線)

 毎年この頃になると歩いている志太奥4山縦走に行ってきました。
この日の天予報は降水確率30%で、山間部では雪になるとされていたがマーそんなこと無いでしょう。

 藤枝駅から出発地蔵田には藤枝市の2本の自主運通バスを乗り継いでいきます。
1本目が藤枝駅からゆらく温泉。ここで乗換え2本目で蔵田に向かいます。料金が400円と200円で計600円。
昨年夏、知多半島の自主運行バスの安いのを経験すると、ここの600円は高く感じた。せめて通しで400円だといいのだが。
それと蔵田に行くバスは1番が8時17分着で、これは平日のみで土休日は無い。土休日の1番は9時27分と1時間以上遅く
なってしまう。これだと4山歩いて藤枝駅までは無理なので必然的にこの山を歩くときは平日になってしまう。

 2本目の大久保行のバスに幼稚園児と乗合せ 「おじさ-ん 何処へ行くの?」 と聞かれた。
 「クラタだよ。」 と答えると、その子は笑いながら他の子に 「クラタだって~」 と笑いあっていた。 ウ~ン何故? 
実は私の言った “クラタ” は平板型で、園児の言った “クラタ” は頭高音でした。

 静岡県中部地方では “ココロ(心)” や “クジラ(鯨)” 等のアクセントを頭高音で発音しているが、どうやらクラタも頭高音の
ようだ。園児たちが下りてから運転手に聞くと矢張り頭高音だった。

      
                   蔵田観光駐車場                               鼻崎の大杉と高根山

 駐車場に10台ほどの車が停まっていたが観光客なのだろうか? こんな早くから何処に行ったのだろう?
近くにある宇嶺の滝か凍っているのかと思うとどうにも気になり、遠くにゴミ出しの人が見えたのでわざわざ聴きに行った。
 「あの隅にある3台は近くの人の車で、他の車はきっと道路工事の人のだよ」 だって。なんだぁ-。
そう言えばここに初めて来たのは4年前に “若しかして宇嶺の滝が凍っていないか” と思い来たのが最初で、その時は宇嶺の滝の
氷瀑を見たあと高根山と高尾山に登る予定だった。
だが来てみると宇嶺の滝に続く東海自然歩道が崩壊で通行止めだったので、仕方なく高尾山から南に下ったのが最初だった。
それから今回で5回目。どこが気に入ったのか分からないが、毎年この時期になると足が向いてしまう。

 
              高尾山登山道入り口                           分岐点にある道標

 高根山との分岐にある鼻崎の大杉から200mも林道を歩くと高尾山の登山道の入口がある。ここから4山を縦走して上滝沢への
山道、林道、県道などあるが、要所要所にこの標識があるので、初めて歩く人でも不安なく歩く事ができる。
先ずは最初の汗流しと、林の中の急坂を上りきれば舗装されていない林道に合流。ここから先は山頂までは比較的楽な登りで済む。

 ヤイヤイ風花が舞ってきたが、これが予報で言う 「山間部は雪」 なのだろう。そう言えば今年の静岡市の初雪のとき、NHKの
お天気お姉さんが 「静岡市に風花が舞って初雪が観測されました。」 なんて言っていたが、風花なって雪なのか?
早速気象庁のHPで “初雪” を調べると 「初雪とは、寒候年(前年8月から当年7月まで)に初めて降る雪(みぞれを含む)です。」
あった。でも風花の文字は無いので風花が雪なのか、雪でないのかは判断できなかった。
そこで “風花” の定義を探したが気象庁のHPでは見つからず、Wikidataにはこんな風に説明してあった。
 「晴天時に風に乗って舞う雪の形容。あるいは山などに降り積もった雪が風によって飛ばされ、小雪がちらつく現象」 とあるが
これでも雪なのかどうかは分からない。テレビを私の聞き間違えたのか、お姉さんが言い間違えたのか疑問のままになってしまった。

今年は “大雪注意報” が発令された空振りに終わった事がある。そのとき暖国静岡と雪国とでは雪に対しての感覚が違うのに
同じ基準では変ではないかと調べると、こんなことが分かった。
                  注意報       警報
 静岡市   平地24時間   5cm      10cm       浜松市も同じ     
        山地24時間  10cm      20cm          〃
 御殿場市   24時間   10cm      20cm
静岡市と浜松市の基準値は同じで、静岡県の中でも比較的雪の降る御殿場市は、静岡・浜松の山地と同じ基準だった。
となると静岡地方の平地に大雪注意報が発令されても、御殿場では積雪予想が10cm未満だと注意報は出ないことになる。

では雪国新潟市と比較してみると
 新潟市      6時間   15cm      30cm      と大幅に多くなっていた。
要は静岡で大雪警報が出ても、同じ積雪量(10cm)では新潟では注意報も発令されないと云う事だった。

      
                       高尾山山頂                              ベンチのフクロウ

 高尾山山頂に着くころには風花は止んでいたが眺望はきかなかった。ここからは富士山が見えるのに残念。
代わりにベンチに座っているフクロウ(不苦労)をパチリ。

 
           トイレのある農道合流部                              道標を見つけた

 高尾山から中里との分岐を菩提山・滝ノ谷方面に行くと、林道に合流する。そこに歌碑やトイレがあり休憩するには丁度よいが
4山縦走して藤枝まで歩くとなると余りのんびりもできない。後ろを振り返ると高尾山のアンテナ塔が見えていた。

 次の笠張山は、ここの道標に従い林道を10分も歩いた所に笠張山入口の道標がある。なので今までは何の疑問もなく林道を
歩いていた。(右の写真の舗装道路の右下に林道を向いて道標が建っている)


                           ハイキングガイドマップの合流部

 ところが前回のビク石の帰りに藤枝駅の観光案内所で手に入れた藤枝市の 「ハイキングガイドマップ」 を見ていると、笠張山へは
林道との合流部からすぐ山道になり、しかも滝之谷への分岐にもなっていた。
合流部は広い尾根になっていて、南の方が開けているので確認のためにそちらに入ると、道が2本あり南の谷寄りの道は舗装されて
いない林道跡に見えた。林道横で真ん中の道も幅が広くて林道跡にも見えるが轍の跡は無い。その道の前方を見ると50mほど先の
林の入口に何やら標識のような物が2個見えていた。
林道とも左程離れていないので、道標でないなら林道に戻れば良いと先に進んでみた。

 矢張りそれは道標だった。しかも 「滝之谷・菩提山」「滝之谷・笠張山」 の二つの道標だ。だが、滝之谷の分岐ではない。
その滝之谷の分岐はここら更に3分も行った所にあった。

 
             笠張山の展望台                                  展望台から

 林道を行く道は山道に入ると急な斜面の上りから始まっていたが、ここの初めての道はそれほど急な道では無かった。
だがきっと山頂まではピークを幾つか越えるアップダウンの道だろう。果たしてどちらの道が楽なのかと考えながら登っていくと
林道から15分ほどで丸太のベンチがある場所に出た。
やっと一つ目のピークに着いたと開けている南の方を見ると薄い墨絵模様が広がっていた。
だが何となくベンチも景色も見覚えがあるような・・・・・・ 
まさかと思いつつベンチから先に向かうと、矢張りそこが笠張山の山頂だった。
林道から笠張山まで約15・6分で到着してしまったが、これが林道経由だと30分ほどかかっていたので随分近道になる。



 ルートを地理院の地図で確認すると、昨年まではトイレのある林道から林道を西に向かい、林道の最高部から山道に入った。
そして笠張山の西側の稜線にある菩提山との縦走路に出て、少し東に戻るようにして笠張山山頂に出ていた。
次の菩提山にはその道を合流部まで戻って菩提山に向かっていた。
それが今年はトイレのある林道からすぐ山道に入り、展望台を経由して笠張山山頂に行く道になり、しかも次の菩提山にも
同じ道を歩く事なく向かう事ができる。この方がよっぽどいいルートだ。
これならトイレのある林道の道標の後ろに 「新道経由笠張山・菩提山」 の表示があれば文句無しだが。

 
              笠張山山頂(698m?)                           雪が横なぐりに

 菩提山頂の道標は今歩いてきた方を指して 「高尾山」 になっている。これを見て昨年までは頭を傾げていたが、これで納得できた。
さらに菩提山への縦走路にある道標に、林道方向は 「笠張新道登口」 となっている事や、その道が他の道に比べ踏み跡が薄かった
ことも全て納得できた。ただこの新道への取付き付近からは富士山が見えるが、今日歩いた道からは富士山は見えないだろう。

 もう一つ笠張山では疑問が生じた。山頂の建つ山名表示に笠張山の標高が 「698m」 となっている。しかも藤枝市のマップも
同じ698mだ。しかし地理院の地図に標高が記載されているのは “681m” だけだが(マップにも記載有り)、近くにある最高点
(展望台付近と思われる場所)の標高は約690mだった。どこが698m地点なのか地図上では分からなかった。
果たして山名表示板と藤枝市のマップが誤記入か、それとも私の理解力不足なのか、どっちだろう。

 ケチばかり付ける私のに罰が当たったのか、急に暗くなって雪が横殴りに降りだした。
雪なら良いがこれが雨に変わりませんように・・・・・

ビク石周回コース探索2

2016-02-06 11:12:48 | 低山歩き
歩行記録                                                              H28-2-2(火)
歩行時間:7時間35分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間55分
出発時刻:8時10分     到着時刻:17時05分
歩  数: 35、006歩(推定距離28.3km)    GPS距離22.5km
行程
 西方バス停 0:20> 下大沢 0:45> 山道入口 0:55> 一宇戸坂峠 0:40> 天王山 0:30> 一宇戸坂峠 0:55> 農道出合
 0:15> 笹川峠 0:20> 上大沢 0:05> 下大沢 0:20> 西方バス停 0:50> 葉梨中学 0:30> 藤の里トンネル 0:40>
 勝草橋 0:30> 藤枝駅

                                   天王山~藤枝駅
                   
                                      天王山山頂

 標高350m 三等三角点 “北方” のある天王山山頂は展望が効かない。この山の中腹にある葉梨神社まで下ると葉梨を
一望できるのだが、今日の予定はここから同じ道を引き返し、地蔵の笹川峠まで行こうと思っているので無駄な体力は使いたくない。
何故そんなくだらないコースを採るかと云うと、今日歩いたコースが行きでも帰りでも支障なく歩けるか確かめるためだ。
もし問題なく歩ければ、このブログを目にした方にも歩いてもらいたいたいと思っている。

      
                       天王山                                  急な農道

 一宇戸坂峠から天王山までの上りの道は、はっきりしていて迷う所は無かったが下りはどうだろう。
上りは上に上にと歩いていけば自然とピ-クに達するが、下りはどこもが下がっているため道を見失いやすい。
だがここの下りは倒木の所でアレーと思っただけで、順調に峠まで下る事ができた。

 一宇戸坂峠からも歩いたばかりと云う事もあるが、迷う事はあっても間違える事なく “へ” の字の道標まで来れた。
今回は余裕があるせいかこの道は “大人の散歩道” ならぬ “大人の迷路” として楽しむ事ができた。
目印を見つけてはそこまで行き、次の目印を探すが無い。踏み跡を少し行き再度目印を見つけてそこに行く。
なんてやっていると楽しくなってくる。

 “へ” の字の標識の先も新しく付けた目印に誘われて、自然と縦走路の方に誘われていく。
これならこのルートも誰が歩いても、迷う事はあっても間違える事はないだろう。
目印が多すぎるのも目障りなので、この位が丁度よい感じだ。

 農道に出て少し登ると今歩いてきた天王山が見ていた。実際歩いた感想と同じように、最初はきつい上りで稜線に出てしまえば
なだらかになっている。この山だけなら年寄り仲間のハイキングでも可能かもしれない。

 フー それにしても急な農道だ。でも写真ではその急坂のイメージが出ていない。どう写せば急坂に見えるだろう?

 
          笹川峠(379mピーク側から)                         笹川峠(ビク石側から)

 地蔵の笹川峠に1時半到着。まだ時間は早いがここからビク石往復だと2時間弱は掛かってしまう。そしてここから西方までが
1時間半ぐらいか。すると西方到着は5時頃になる。
西方がゴールなら時間的には丁度よいが問題はその先で、西方から藤枝駅までの2時間半を加えると7時半になってしまう。
ウワー止めた、止めた。真っ暗な中は歩きたくない。

 岡部側の笹川と藤枝側の上大沢を結ぶこの峠の名前が分からない。
笹川に建っている古い石の道標には 「葉梨村上大澤ニ通」 とあるだけで峠名は無い。上大沢のハイキングコースの案内板には
峠の場所に 「峠の地蔵」 とあるが矢張り峠名は書いてない。
なら峠にあるお地蔵さんに書いてないかと見てみたが、矢張り 「笹川村中 大澤村中」 とはあるが峠名は無い。
ネットで調べると、この峠を固有名詞で書いてあるのは 「笹川峠」「大沢峠」 があったが、どちらかに特定できる材料は無かった。

 私は今までこの峠を “地蔵の峠” とか “地蔵のある峠” と表現してきたがこれもナ~、かと云って “地蔵峠” もナ~と思っていた。
そこでで峠名が判明するまでは、「笹川峠」 を使うことにしました。理由は単純で笹川の方が大沢より特定しやすいからです。

 
            沢コース合流(上から)                           沢コース合流(下から)

 笹川峠と上大沢の道は上りでは歩いているが下りでは初めてだった。それが思ったより傾斜がきつく、これなら峠から笹川Pに
下る道の方が歩きやすいと思う。
峠から10分ほどで沢からビク石に行く “沢コース” の道に合流した。上大沢からビク石には沢コースと尾根コースの二つがあるが
その名前が 「仙沢川初心者コース」「剣が峰 中級コース」 となっている。
何年か前に初めてここにに来た時は、剣が峰や中級者の言葉が恐ろしく、沢の初心者コースを歩いてしまった。
しかし時期が悪かったせいもあるが、雑草が生い茂り道を探すのが大変だった。
これが初心者コースなら中級コースを歩かないで良かったと思った事がある。
今はどちらのコースも何度か歩いているが、剣が峰コースの方が断然好きだ。ただ名前は “尾根コース” 十分だが。

      
              上大沢駐車場                                    上大沢の観音さん

 合流部から10分で上大沢の駐車場に到着。峠から20分ほどで着いてしまった。
これが峠から笹川駐車場だと30分は掛かるので、こちらの方が距離は短い。マーその分傾斜がきつかったので上りは笹川からの
方が楽だろう。

 
              土手の紅梅                                 大沢峡の不動尊

 前回ビク石に登った時から2週間たっているが、まだ植物に春に息吹は感じられなかった。それが葉梨川の土手の紅梅は満開で
その横に白い三椏(ミツマタ)が見えていた。だが三椏は黄色の部分が無く白一色なので蕾なのだろう。

  
                                       大沢峡

 昨年 “藤枝四不動巡り” の時に見た不動峡は、木の葉の陰に隠された部分が多かったが、今日はその葉っぱが落葉して滝が
良く見えていた。ただ道が滝から離れているので、滝が小さくしか見えないのが残念だ。

 2時25分に西方バス停に到着。次のバスは最終の16時35分なので待ち時間が多すぎる。ここから藤枝駅まで歩いても
2時間半で行けるので明るいうちに着く事ができる。ならバス代500円を浮かすために歩く事にしよう。
と、ケチな私は歩き始めました。


 今回の5回目の歩きでようやく葉梨集落からビク石の周回ルートが繋がった。
 白藤の里P-白藤の里-葉梨神社-天王山-一宇戸坂峠-玉露の里-笹川P-ビク石-笹川峠-379m峰-一宇戸坂峠-白藤の里P
近いうちに実際歩いていみる積りです。

ビク石周回コース探索

2016-02-04 10:24:58 | 低山歩き
歩行記録                                                              H28-2-2(火)
歩行時間:7時間35分   休憩時間:1時間20分   延時間:8時間55分
出発時刻:8時10分     到着時刻:17時05分
歩  数: 35、006歩(推定距離28.3km)    GPS距離22.5km
行程
 西方バス停 0:20> 下大沢 0:45> 山道入口 0:55> 一宇戸坂峠 0:40> 天王山 0:30> 一宇戸坂峠 0:55> 農道出合
 0:15> 地蔵の峠 0:20> 上大沢 0:05> 下大沢 0:20> 西方バス停 0:50> 葉梨中学 0:30> 藤の里トンネル 0:40>
 勝草橋 0:30> 藤枝駅
                             西方バス停~天王山
        

 天候次第で大崩山塊から新雪に輝く富士山を眺めに行くか、それとも景色が見えない林の中の踏み跡を探索に行くか
迷っていたが、朝、雨戸を開けると富士山は雲の中で見えていなかった。
なら前回まで4回歩いたが今だ繋がらない “ビク石・天王山周回ルート” を探しに行くことにした。

 今日の探索の出発地は、前回見つけた農道の山道入口から、一宇戸坂峠に向って歩く事にしている。
果たして踏み跡は見つかるか、そして次にもその道を迷うことなく歩けるかどうか、勝手に期待を高めているのだが。

 一宇戸坂峠から地蔵の峠までは一度歩いているが、その時は踏み跡を途中で見失い強引に林を突破して峠まで歩いている。
そして前回はそのとき迷った場所までも行きつけず引き返してしまったので、私としてはとてもルートは繋がったとは云えない。
ルートが繋がるとは、地蔵の峠から笹川駐車場までのように、何時でも誰れでも歩ける状態でなければならないと思っている。
そのため今回は目印ピンクのリボンも用意してきたので、何としてもゴール後にはルート開通の乾杯をしたいと思っている。

       
              西方バス停                         バス停前の西方八幡神社

 効率を考えて今回はバスの終点の西方までバスを利用したが、その楽な事、楽な事。
藤枝駅からここまで峠を越えて2時間半ほど掛かっていたのが、たったの30分で着いてしまった。こりゃぁこれから癖になりそうだ。
ただここまで来るバスは非常に少なく、1日3便しか無いうえ土日は運航していない。今日はゴールもここだが利用は無理のようだ。

 
               下大沢の農道入口                         農道の分岐(左へ行く)

 バスの終点から20分も歩くと下大沢集落に農道の入口がある。道の左に石仏が数体安置されている所を右に曲がり、川を
渡ると農道はかなりの坂になる。冷えていた体が温まり早速ジャンパーとトレーナーを脱いでしまった。
前回八高山に行った時は寒くてジャンパーもトレーナーも、更にダウンのベストまで終盤まで着ていたのとは大違いで、道端に
あった水桶の水も凍っていない暖かさだ。

 農道は簡易舗装されたメインの道を上に向かうので間違えやすそうな所はない。ただ最初にここを下ったとき間違えて直進した
場所があったが、今、下から登ってくると上に向かう意識があるので間違いようもなかった。

      
                      大崩山塊                                  山道入口

 右手に大崩山塊と天王山が見えてきた。全体的に曇っていてはっきりしないが、右端には駿河湾が光って見えた。
今日は富士山の眺望は無理なようなので、こちらの山に来たのは正解だった。

 この景色が見えたら一宇戸坂峠に行く山道の入口はすぐなので注意を要する。
見落とすことなく入口の目印を見つけその入口を見ると、アレー前回より入口の藪が切り払われ奥まで続く道が見えている。
前回と云っても2週間ほど前だが、その時の入口は細い枝などは折った痕があったが、奥へ延びる道は見えていなかった。
誰かが整備してくれたのだろう。ラッキー!

 
             竹林の中の縦走路                           「へ」の字の標識

 前回見つけた標識から少し下ると、中腹を左に巻く踏み跡が2ヶ所あった。どちらも直登する縦走路より踏み跡は濃い。
どうやら以前この踏み跡に入り込んで訳が分からなくなってしまったが、出口まであとほんの少しの場所だった。
早速持参してきた目印を付けて直登側に誘導するようにしておいた。

 入口から15分も行くと前回確認した “へ” 字の標識があった。上から下る分は支障なく来れたが、前回はここから先で分からなく
なってしまい、結局この標識に戻って歩き直している。しかしが結局分からないまま終わってしまった。

 今下って来た方向は “へ” の字の先からで、この道標が中心で、ここから少し右に曲がって下るようになっている。
それが前回は “へ” の字の先へ行かず、 “へ” の字の途中から右に曲がったので変だとは思ったが、しっかりした黄色の目印が
付いていたのですっかりそれを信用してしまった。1度標識まで戻り歩き直したが、その黄色の目印がすぐ目につくので結局同じ
方向に進んでしまい失敗してしまったのだ。

 
                   前回迷った原因図                              猪が食べた筍の跡

 標識の前に立ち気持ちを落ちつけて目印を探すと、まず目に入ったのは前回と同じ黄色の目印だった。次に “へ” の字の
先を見るが目印は見当たらない。場所を少し上に移動して目印を探すとようやく赤い目印が見えた。しかしここからも黄色の
目印の方がハッキリ分かる状態だった。
黄色の目印の先は少し広くなったピークのようで、道の流れとすればそちらに行く方が順当のように見える。だからわざわざ
ここに標識を付けて注意を喚起してくれたのだろう。

 持参した地図で確認すると、北東から来た縦走路を “へ” の字の標識から平坦部を東に行き、下りだして方向を北に変えた。
廃小屋まで下り今度は東に向きを変え、崩壊地を避けながら登り詰めた尾根に道を見つけ、喜び勇んで前進してしまった。
ようはあの時はお大沢側の斜面だと思っていた場所が、岡部側の斜面だったのでグルリ回って元に戻ってしまったのだ。
それが分からず出口だと思って進んでいたのが、出発地に戻っていたという狐に抓まれたような状態になった原因だった。
あのとき地形図を持っていたらどうだろう? ここまで理解して方向を変更できただろうか?
地形図で現在地が把握できない私には矢張り無理だったろう。

 ともかく迷った2ヶ所の場所も原因も分かったし、目印も付けたのでもう間違えることは無いだろう。
そうそう黄色の目印は悪い思ったが剥がしてしまいました。

 竹藪の中に浅く掘り返した跡と筍の皮が散らかっていた。猪の食事の後だろうがもう地下には筍が成長しているのかと少々驚いた。
昨日の新聞に以前は猪が筍を食い荒らし竹藪の拡散を防いでいたが、最近は猪が減り竹藪が広がってしまうので人の手で竹を伐採
しているという記事が掲載された。
でも本当かな? この辺りでは猪も増えているがそれ以上に手入れがされていない竹林が増えている。
今のうちに何とかしないと、この地方の里山は竹藪に覆いつくされてしまいかねない。と思うのは私だけか。

      
                    間違えやすそうな場所                        シダ刈り払われていた

 稜線の道が下りだすと右側に目印が幾つかと標識が付いている場所がある。ここは登るときは間違うことはないが、下りだと
つい太い踏み跡につられて目印を見落としてしまう恐れがある。
一宇戸坂峠はここを曲がって農道に出るので目印を見落とさないでください。

 前回この場所はシダが生い茂り道は見えない状態だったが、今日は綺麗にシダが刈り取られていた。
やはり誰かが整備してくれたのだ。私はただ歩くだけでなんの協力もしていないが、有難いことです。ありがとうございました。             

 
          一宇戸坂峠下から縦走路入口                        一宇戸坂峠の標識

 山道の縦走路が新しい農道に合流し、そこから農道を200mも登った所に頑丈な峠の標識がある。
その途中には地蔵の石仏もあり、また前回地元の人が 「一宇戸の道があった」 と言っていたので、ここが古くからの岡部と葉梨を
結ぶ古道だったと思われが、今はその面影はない。

      
               一宇戸坂峠から天王山入口                               入口の標識

 一宇戸坂峠から天王山の道は初めて歩くので若干の不安はあるが、距離が短いので駄目なら戻ればいいと思っている。
それにしてもこの道標があったお陰で、ここを歩く気になったので感謝! 感謝! です。
ただ、道標の先の踏み跡が薄いのは少々不安の種ですが・・・・・

   
               一宇戸坂峠上から農道                           稜線近くの岩

 踏み跡が薄かったのは入口だけで、林の中は踏み跡を探すような事は無かった。とは言え、とっつき部分が急な登りだったが簡易な
階段が設けられていたので助かった。
その階段が終わった所から下を見ると切通しになった農道の白線が円を描くように見え、その上には法面の急な斜面が見えていた。
切通ができる前はこんな急坂を上り下りせずに次のピークに行けたのだろう。

 尾根に出るまでは登りが続くが、20分も歩くと上に石垣のような物が見えてきた。近づいて見ると石垣ではなく自然の岩だった。
その石を回り込むと前方が開けやっと尾根にたどり着いた。
尾根の東側の斜面は放棄された茶畑とミカン畑で樹木が切り払われているので視界が開けていた。 

  
                               大崩山塊

 朝、山道の入口で見た大崩山塊より大きく見える場所は、日が当たり暖かそうなので天王山の帰りはここで昼飯にしよう。
放置されている木に夏みかんが見えるが、あれはいつ食べ頃になるのだろう。マー今は冬なので取るのは止めておこう。

      
                   尾根にあった道標                                  尾根道

 稜線に出た後の尾根道は快調で若干登り勾配の道が続く。
途中には一宇戸坂峠にあたった標識と同じ標識が建っていた。どこで建ててくれたか分からないが、これを設置するとき道も
整備してくれたのだろう。有難いことです。

 稜線に出てから20分ほどで、11時5分に天王山に到着した。