はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

びく石周回-Ⅲ

2015-01-31 10:37:13 | 遠江49薬師
歩行記録                                                    2015-1-25(日)
歩行時間:9時間10分   休憩時間:1時間30分   延時間:10時間40分
出発時間:7時00分    到着時間:17時40分
歩  数:  45、184歩(推定33km)   GPS距離:32.2km
行程表
 藤枝駅 1:10> 藤の里トンネル 0:50> 白藤の里 0:40> 農道終点 0:30> 撤退地点 1:20> 西方八幡宮 0:35>
 上大沢 1:15> びく石  0:45> びく石ふれあい広場 0:35> ゆらく  0:45> 中山  0:45> 稲葉小学校前バス停 

                             びく石周回 Ⅲ
 びく石山頂に着いたのは2時20分。上大沢の登山口を出たのが1時だったので1時間20分掛かってしまった。このコースの
案内板には1時間とあったのに20分も余計に掛かったとはショック。歳と共に足が遅くなった事は承知しているが、心の底には
まだ標識の標準タイム以内には歩けると思っていたのに・・・・・・・
(この事が気になり前回歩いた初心者コースの時間を調べてみた。すると私の歩いた時間は案内時間と同じ40分だった。)

 
              ダイラボウと富士山                          高草山と焼津港
 びく石山頂広場から東の方向に富士山が見えていた。富士山の下には12月に行ったダイラボウの山頂部分が剥げて見えて
いる。奥には双耳峰の竜爪が見える。アッ! あの竜爪の山頂に光っているのは何だ?
双眼鏡を取り出し覗いてみると、文珠岳の電波反射板が見えた。成程あの反射板はこっちを向いていたのか、すると竜爪から
反射された電波は何処に向かっているのだろう。
この辺りで見た事のある反射板は大崩の花沢山と掛川の八高山だが。確か花沢山の反射板はJRの物だからこんな山の中は
通らないだろうし方向も違う。八高山なら方向としては良さそうだが。しかし八高山の反射板は静岡放送の反射板と書いてあった
ような気もする。そうなると日本平に向いている筈なので竜爪では向きが違う。

視線を南に下せばお馴染みの高草山のアンテナが見える。その下には焼津港を見えていた。

 
                                   大崩連山
 高草・花沢・満観峰・丸子富士、そして朝鮮岩はあの辺りか。いつも歩いている山を遠くから眺めるのも中々いい。
近くにあった山の名前がを書いた案内板に、満観峰を 「満観岳」 とあったのはお笑いだった。

 
                山頂の巨岩                              びく石山頂
 展望の効く広場から山頂に向かうと巨岩がゴロゴロし始めた。この巨岩についてこんな説明があった。
「ダイダラボッチとびく石 日本各地に巨人伝説が伝わるダイダラボッチが、琵琶湖の土をモッコに入れて運ぶ途中、大井川を
跨ぐ時に躓いた。モッコから落ちた石ころが、びく石山頂に群れる岩石群という。」

前回これを読んだ時はフーンと思っただけだったが今回は違う。何故なら隣の山のダイラボウにも巨人伝説が伝わっていて、
その巨人の遺した足跡が山頂にあるとされていた。また、モッコから落とした石は藁科川の中州にある木枯しの森と舟山だと
説明されていた。
 この二つの話が遠く離れた場所に伝わっているなら何の不自然さも無いのだが、隣どおしの山でお互い見通せる距離にある。
それなのに同じ巨人伝説を伝えながら何故お互い無視をしあうのか。前回ダイラボウに登った時はこんな感想を持った。
「隣の山のびく石の巨人伝説と、ダイラボウの巨人伝説のどちらが早く言い出したのだろう。 多分びく石の方が先だろうが、
負けず嫌いな駿府側の住民はダイダラボッチの名前を使わずに、新しく巨人名をダイラボウと名付け、びく石の伝説を無視した
のだと、私の妄想的歴史観は訴えている。」
書いている。今日びく石に登ってもその感想は変わらない。矢張りこの巨石群を
見れば巨人伝説はびく石側が有利だと誰もが思うだろう。
そう云えば展望台にあった山名の案内板にダイラボウらしき山には山名は無く、方向違いの方にダイラボウの文字が薄く見える。
そうか、満観岳の文字も他の山より薄かったので、どちらも間違いに気づいて消したが、それが薄れて元の字が出たのだ。
そうに違いない。しかしこの案内板、富士山も紹介してないのは何故だろう?

 山頂から東海自然歩道のバイパスコースの蔵田の標識はあったが、下る予定のふれあい広場に出る道が分からない。
一旦展望の効く広場に下りたが標識は無い。仕方なく林道に出てみるとコースの案内板があった。折角案内板を建てるなら
ハイカーが上る山頂付近に欲しかった。更に言うならふれあい広場と蔵田への道は最初は同じ道を下るのだった。

          
               浪切不動尊                            不動尊入口
 山頂では人に会わなかったが、下る途中で5組10人の登山者と擦違った。中でも最後に会ったのは60代位の二人連れで
女性の靴は踵は低いが町歩き用の靴だった。時間は3時を過ぎているが大丈夫だろうか心配になる。今からでは山頂に4時に
着き、それから辺りを見て下ってくれば5時になってしまう。私なら決してやらない時間だが、分かっているのかな?

 「南無不動明王」 と書かれた幟が何枚も下がり、その先には祈祷台も見える。何だろうと振り返れば岩の上に赤い火炎に包ま
れた不動明王像が立っていた。 近くには「建立の由緒」なる 案内板も建っていたが尤もらしくて読む気になれなかった。
しかし不動明王は今日は大沢峡でも見たし、この山域の滝ノ谷不動峡には不動明王の磨崖仏がある。
他の地域で露座のお不動さんを見た覚えはないが、そうだまだある。藤枝清水寺の参道にも露座のお不動さんが祀られていた。
マテヨ! 藤枝市内に4体の露座のお不動さんがあるのなら、これを一度に巡る事ができないか。
そうだ 「藤枝露座四不動巡り」 なんてどうだ。ウーンいいな! これはやる価値がある。と歩きながら夢中になって妄想の世界に
遊んでいました。
不動尊から10分も行った所に 「金剛の滝 浪切不動尊」 の看板が立っていた。あのお不動さんは浪切不動尊と云うのか。
それにしても金剛の滝とは大袈裟すぎる。
 
 
                ゆるびく村                                 ゆらく
             ゆるびく村の地図                                 ゆらくの地図
 昔はこの辺りに 「びく石牧場」 があって子供を連れてきた覚えがある。だが今は廃業したのか牧場は無かった。
その代りかどうか分からないが 「ゆるびく村」 なる食堂があったが、余り繁盛しているようには見えなかった。
広場はどこにあったのだろうか、気が付かず過ぎてしまった。

 県道32号に出たら後は藤枝駅まで歩くだけ。ここから駅までの距離は大体15kmとすると約3時間掛かる。
今3時半だから藤枝駅には6時半到着となる。
エッ! 上大沢の登山口では5時半に駅に着くはずだったのが1時間も遅くなってしまった。何が原因だったのだろう?
びく石山頂には予定より25分遅く到着したが、出る時は遅れが10分に減った。だがびく石からの下りを30分と予定したが
45分も掛かり県道に着いたのは3時半だった。
アレー?ここまでの遅れは30分なのに何故駅に着くのが1時間遅くなるのだろう。と、県道を考えながら歩いて、ようやく気が
付いた。原因は登山口でたてた予定では、びく石から県道までを30分とみていたが、計算する時その時間を加算してなかった。
馬鹿だなー こんな簡単な計算ができないなんて、矢張りアルコール性痴呆症が始まったいる。

 冗談はともかく駅到着が6時半では遅すぎる。残りの道は車道ばかりの知った道だが逆に車が恐ろし。それに観歩を旨として
いながら、。夜道の歩きでは辺りを見る事もできない。それでは観歩ではなくなる。仕方ないバスに乗って帰ろう。
だがバス停の時刻表の次のバスは4時50分で、まだ1時間20分もある。それでは仕方ない行ける所まで行こう。

 日帰り温泉施設の 「ゆらく」 に着いたが停まっている車もなく、やけにヒッソリとしている。定休日なのかと中を覗きこむが分か
らない。と、入口にの立看板に 「3月一杯まで臨時休業」 と書いてある。理由は書いてないが何だろう? 工事をしている気配は
ないので、若しかするとレジオネラ菌でも発生したのかしら? 理由は分からなかったがともかく臨時休業中でした。
 ゆらくから藤枝駅行のバスが出ているが次のバスまで1時間30分。こんな所に1時間以上待っていれば体が冷え切ってしまう。
まだ明るいし歩く気力は十分ある。暗くなるまで歩くしかない。

 5時半を過ぎると辺りは暗くなって時計や歩数計を見るのに車のライトを利用しなければ見えなくなった。もうこれ以上歩いても
意味はないので次のバス停からバスに乗って帰ろう。そう思うと次のバス停が中々出てこないものだ。ようやく着いたバス停は
「稲葉小学校前」 時間は5時40分。次のバスは9分後だ。それなら丁度良い。

 これは今日の2回目の敗退になるが気分は中々良かった。今日歩いた事で北方から岡部の羽佐間に2月には新しい農道が
出来る事が分かった。今度はその農道を歩き岡部側からびく石に登る事ができて、びく石からの帰りのコースは椿の咲くころ
剣ヶ峰コースを下る楽しみもできた。
さらに 「藤枝露座四不動巡り」 も今年中には歩いてみたい。まだある。峠の地蔵から天守山に抜ける道もいつかは歩いてみたい。
敗退はしたけど今日の歩きは、今年の目標 「無理せず、楽せず、程々に」 に敵っているのではないかな。
倒木や夜道からは無理をせず逃げたが、歩行距離は30kmを越え楽ではなかった。こんな調子で今年は歩いて行こう。
と負け惜しみの便。

          
                               藤枝駅北口のイルミネーション
 ゆらくから稲葉小学校まで約7kmを1時か30分掛かって歩いたので、バス料金がいくら安くなるのか楽しみだった。
それが料金は200円と400円の2段階しかなく、稲葉小学校はゆらく同じで400円だった。

 藤枝の北口(正面)もイルミネーションが輝いていました。

びく石周回-Ⅱ

2015-01-29 12:10:27 | 低山歩き
歩行記録                                                    2015-1-25(日)
歩行時間:9時間10分   休憩時間:1時間30分   延時間:10時間40分
出発時間:7時00分    到着時間:17時40分
歩  数:  45、184歩(推定33km)   GPS距離:32.2km
行程表
 藤枝駅 1:10> 藤の里トンネル 0:50> 白藤の里 0:40> 農道終点 0:30> 撤退地点 1:20> 西方八幡宮 0:35>
 上大沢 1:15> びく石  0:45> びく石ふれあい広場 0:35> ゆらく  0:45> 中山  0:45> 稲葉小学校前バス停 

                             びく石周回 Ⅱ
 余りの倒木の多さに負けて撤退を決めたのが10時50分で農道終点からは30分しか経っていない。しかもその間の歩数は
たったの72歩??? その所為もあってか疲れを感じていないので不安感もなく冷静に撤退を決断できた。
多分農道終点からは100mに満たない距離だったのだろう。帰りの歩数計も104歩だった。

 農道を戻るとき新しい農道を建設中の分岐点では一瞬迷った。先ほどのバイクの人は 「羽佐間までは通り抜けれない」
言っていたが、彼はバイクだから通れないのであって私のように歩きなら通れるかもしれない。などと思いだした。
しかし若し通れなかったらまた引返さなければならない。その時はびく石に登る体力は残っていないかもしれない。
それでは今日の目標が達成できないのえ、この新しい道を歩くのは工事が終わった2月20日過ぎにしようと決断した。

  
        西方八幡宮                   大沢峡                      不動尊
        西方八幡宮の地図
 西方八幡宮に着いたのが12時20分で白藤の里を出てから2時間45分過ぎている。直接ここに向かえば2kmもなく20分も
あれば着いただろうから2時間も余計に掛かっている事になる。
だがそれより時間が12時を過ぎていた事に驚いた。いつもの歩きなら昼前に腹が減り昼飯は12時前に食べていた。それが
今日は12時を過ぎているのに空腹感を感じず、しかも記録を書くため何度も時計を見ていたのに昼に気が付かなかった。
倒木の中では冷静だったつもりだったが、実際は不安に慄いていたのだろうか・・・・・・

 八幡さんのベンチに座り昼飯を食べていると近くに家の人がプランターの花壇の手入れをしている。丁度良いのでここから
岡部に抜ける道が無いか聞いてみた。するとその方は
「岡部に抜けるにはズート下った新東名のICの道しかないね。ここから上になると、そうだ歩きなら剣ヶ峰コースのお地蔵さんの
所から笹川に行く道があったはずだ。でも今は歩く人がいないから通れるかなぁ」
と教えてくれた。更に話をしていくと
「この時期なら剣ヶ峰コースには椿が咲いていると思うよ。チョット大変だけどね。」
そんな話を聞けば当然剣ヶ峰コースを歩きたくなる。それに前回ここに来た時は駅から歩いたので剣ヶ峰コースは敬遠して
楽なコースを歩いていたので丁度良い。

 西方八幡宮から大沢集落に向かう道は車はたまにしか通らず、歩いている人は勿論、人影も話し声も聞こえてこない静かな
道だった。道の横を流れる葉梨川の水は透き通っていて、川底がハッキリ見えている。
更に歩いて行くと 「大沢峡」 の小さな看板がガードレールに縛り付けてあり、下を覗きこむと4段の滝が見えていた。
道の反対側には不動明王像が安置されていた。

          
                      上大沢                                 観音像
           上大沢の地図
 びく石大沢ルートの登山口 「上大沢」 に着いたのは13時丁度だった。昔はバスの終点だったと思わせるような広場と建物が
あるが今は人気も無い。
広場の隅にベールを被ったマリア様のような像が見えたので近づいて見ると観音さんだった。何観音か分からないが襞の衣の
部分は黄色で、衣の袖口と襟首は青く色づけされている。ベールと思った物は近付いてみると頭巾のような感じで少々違和感が
あった。右手に持つのは四角い箱状な物。これは何だ今まで見た事のない持物だが、薬箱? いや薬なら薬壺でつぼの筈だ。
四角い箱状の物の上には賽銭の積りなのか1円玉が幾つか見える。ウーン何だろう?
アッ!そうだ。広場にある建物の壁に 「休憩所 電話 アイス こんにゃく みかん」 と書いてある。そのこんにゃくを観音さんは
手にしているのだ。
 この様な山の中では栽培される物も限られているので、蒟蒻は貴重な産物の一つだったに違ない。その蒟蒻の豊作と住民や
登山者の無事を祈ってここの観音様を安置したに違いない。 「蒟蒻観音」 と名付けて。
きっとそうだ。そう云う事にしておこう。

    
                        上大沢にあるびく石ハイキングコース沢案内板
 旧休憩所だった建物の壁に掲げられている 「びく石ハイキングコース」 の案内板には、ここは 「バス停終点」 と書いてある。
やはり昔はここまでバスが来ていたのだ。今のバスは昼飯を食べた西方八幡宮までしか走っていないようだが。

 ハイキングコースはこの広場を右折して “うしもどし” と云う所で初心者コースと中級者コースと別れ、中級者コースはそこを
右折して “峠の地蔵” を経由してびく石に延びている。所要時間は60分とあり山頂付近には 「剣ヶ峰コース」 の表記もあるから
最後は急なピ-クがあるのだろう。
一方初心者コースの所要時間は40分とあり、中級コースより20分も短くなっている。どうやら剣ヶ峰コースは大分険しい道と
思える。でも大丈夫! まだ空元気はあるし、案内板の上級コースには花の絵が描いてある。あれはきっと椿の花なのだから
それを見なければ。

 今日これからの予定を考えた。今1時なのでびく石には案内通り1時間で登り2時に着く。30分ほど休憩見学して藤枝側の
登山口に30分。そこから藤枝駅まで3時間として5時半には藤枝駅には着くだろう。それなら上等だ。

 上大沢の広場を右折してかっての民家の前を登って行く。12・3軒あっただろうか、でもどの家も済んでいる気配は感じられ
なかった。バスが無い、店も無い、医者も居ないこんな場所では、現代の人間は暮してはいけないのだ。
更に家の後ろに聳え立つ山は、台風や大雨、地震のたびに山崩れの恐怖を感じなければならない。
以前塩の道を歩いた時、青崩峠の先の長野県側に廃屋が何軒か残っている道があった。ここも後20年もすればあのように
なってしまうのか。とても見る気にはなれない。(大丈夫です。その頃は私はこの世に存在しないから)

 
                 三椏(ミツマタ)                              分岐
 所々にある三椏が蕾を付けていた。これもかっての住民が植えた物なのだろう。
初心者コースと中級者コースの分岐に来た。ここは 「うしもどし」 とあったが、此処までに牛が戻ってしまうほどの坂は無かった。
中級コースは写真の右の道で、一見荒れているように見えるが、そんな事はなく迷いようのない道が山頂まで続いていた。

         
                        峠                             峠の地蔵尊

 赤い祠がある峠に到着。ここが八幡宮の所で聞いた 「お地蔵さんのある所」 なのだろう。そして 「そこから岡部の笹川に道が
あった」
場所なのだ。
先ずお地蔵さんに手を合わせてから舟型の文字を見ると 「安政元年 笹川村村中 大澤村中」 とある。安政元年(1854)は
今から160年前になるが、石仏の文字はハッキリ読めるし地蔵も崩れていない。これはこの地蔵像が昔から祠の中で大事に
されてきた証拠だろう。という事は当然ここは大澤村と笹川村を結ぶ峠道だったのだ。
峠の道は、いま歩いて来た大澤からの道と、左にはびく石に延びる尾根道。反対の右にも尾根に沿って道が延びている。
この道が笹川に下り道なのだろう。
しかしここから岡部側に道が延びていても私の考えるコースでは利用価値はないが、笹川に車を置いて登る人には格好の
周回コースになるのではないか。もっと利用されてもいいように思うが。
 峠付近を見ていて手製の標識を見つけた。そしてその標識には右の尾根道の先は何と 「天王山」 と書いてある。
天王山とは白藤の滝や安楽寺を中腹に擁した白藤の里の右にそびえる山だ。その山からここに通じた道があるという事は、
今日挫折した倒木の沢の上に見えていた乗越の部分や、以前歩いた農道新設工事の場所を通過している事になる。
本当かなと疑問に感じ家で調べてみると、確かにびく石から天応山に尾根は続いていた(前回の地図参照)。
ウーンそうなると大沢までの車道を歩かなくても、周回ルートは設定できるのだ。
俄然歩いてみた気が湧いてきたが時間は既に1時半になっているし、疲れも大分出てきている。それにさっきの様な倒木帯が
現れたら引返すのも大変だ。ここは我慢我慢。家でもっと詳しく調べてから歩く事にしよう。

  
                  尾根道                   椿の幹                 落椿
 峠からの道は快適な尾根道が続いていて、椿や樒(しきみ)を含む低木の照葉樹が何種か生えている。椿の花は・・・・・
ウーン何輪かの花は地上に落ちていたが咲いている花は無く蕾も見当たらなかった。椿っていつ咲くのかな、冬?春?
そう云えば 「寒椿」 の言葉がある位だから春の花なのか。ヨシ!今年は椿の咲く頃歩いてみよう」。
尾根道は一部瘠尾根と云うか馬の背と云うか、危険は余り感じないが落ちれば上がるには苦労しそうな場所が続いていた。
そうだこの山には危険な猪が多いと聞いたが、ここで出合ったらどうしよう。猪だってこの斜面を登ったり下ったりは出来そうも
ない。そうなると猪が引返してくれない限りは・・・・・・・・ でも大丈夫だろう。猪だって食料の無い固く踏まれた尾根道を来る事は
ない。そう思おう。

 剣ヶ峰コースの名前で少し警戒したが、特に急坂のピ-クも無く初心者コースと合流した。
合流して10分ほどでびく石に到着。

びく石周回

2015-01-27 17:52:07 | 低山歩き
歩行記録                                                    2015-1-25(日)
歩行時間:9時間10分   休憩時間:1時間30分   延時間:10時間40分
出発時間:7時00分    到着時間:17時40分
歩  数:  45、184歩(推定33km)   GPS距離:32.2km
行程表
 藤枝駅 1:10> 藤の里トンネル 0:50> 白藤の里 0:40> 農道終点 0:30> 撤退地点 1:20> 西方八幡宮 0:35>
 上大沢 1:15> びく石  0:45> びく石ふれあい広場 0:35> ゆらく  0:45> 中山  0:45> 稲葉小学校前バス停 

                             びく石周回 Ⅰ
    

 びく石には5年前に葉梨の大沢一般ルートからびく石に登り、帰りは岡部側に下り藤枝駅まで戻った事がある。
その時びく石に登るなら岡部から登った方のが巨石を堪能できると感じた。
そこで今回は岡部側から登る事にしたのだが、岡部の笹川までの道を朝比奈川経由ではなく葉梨の北方からととした。
理由は藤枝駅から朝比奈川経由でびく石となると片道20kmを越すうえ、朝比奈川の道は何度も歩いているので新しい道を
歩きたかったからだ。
更に葉梨から岡部の朝比奈川の上流に抜ける道があれば 「びく石周回コース」 も設定でき、白藤の咲く頃なら白藤の滝から
玉露の里に抜け、びく石に登り、大沢ルートを葉梨に下る周回ルートが設定できる。、更に大回りを望むならびく石から藤枝側の
「びく石ふれあい広場」 に下り、県道歩きになるが途中に石仏のある隧道を通り葉梨に抜けるルートも設定できる。

        

 ただ、この周回ルートでの問題点は、葉梨から岡部の朝比奈川に抜ける道が分からない事で(これではどうしょうもないが)
前にも道を探しながら歩いたが見付ける事ができなかった。今回も道を探しながら歩こうと目を付けているルートは、藤枝市
北方から岡部羽佐間に抜けるルートで、地理院の地図を見ると北方の農道先から山道が2本も羽佐間に延びている。
前回は沢を途中で離れて尾根に向かう農道を歩いたが、尾根近くでは新しい農道を建設していたが山道は見つからずミカン畑
などの急斜面を強引に下った。なんとか羽佐間の出る事は出来たが、とてもハイキングコースにはなりえないルートだった。
そこで今回は沢を遡る農道を行き、農道終点から山道を探して羽佐間に抜けようと思っている。

 私がこの朝比奈川と藤枝を結ぶ道に拘るのは、周回ルートも然ることながら、車の無い時代は朝比奈川上流と藤枝の街とを
結ぶ交流路があったはずだと思っているからだ。
当時朝比奈川上流で収穫された茶や椎茸等の山の幸は、朝比奈川下流にある岡部宿に運ばれていただろうが、それ以外にも
ダイラボウの麓の富厚里峠や西又峠を越えて駿府の街にも運んでいし、藤枝にも運んでいたと考えられる。
しかし距離の短い岡部宿は小さな宿場で産物を商う量も少なかったろう。一方駿河の府中である駿府は規模は大きいが途中に
藁科川と安倍川の大河を越えなければならない。で藤枝宿となると岡部宿を越えた先にあり距離が長くなってしまう。
そこで足の丈夫な昔の人なら標高差200m程度の山を越すのは左程苦ではなかったと考え、交流路はここにあったと自信を
持っているのだが、果たしてどうか・・・・・・・

            
               瀬戸川沿いの音羽延命地蔵尊                       川中島八兵衛碑
              延命地蔵尊の地図
 前段が長くなってしまったが観歩記に入ります。
桜の蕾もまだ小さい瀬戸川の桜トンネルを抜け金吹橋に来ると道の先に祠が見える。実は昨日島田の栃山川を散歩していて
「川中島八兵衛」 の碑を見つけた。
川中島八兵衛については、今までも何回も紹介しているので簡単に説明すると、川中島八兵衛は紀州の生まれで、元禄のころ
志太(島田・藤枝・焼津)地方にきたが、当時の志太地方は大井川の氾濫等で疫病が蔓延することが多く、人々は困っていた。
その時とった八兵衛の行動には色々の説があるようで
 1・「自分の死後に祀ってくれれば、川の氾濫を防ぎ疫病がおきないようにする」との言葉を信じ石碑を建てた。
 2・疫病発生の折、八兵衛の薬により助けられた人々の感謝の念が供養塔建立につながった。
 3・大井川の堤防構築のとき八兵衛が人柱になった。  などの説ががある。
この八兵衛の碑が志太地方に60基もあるそうなので、その所在地を調べてHPで紹介したいと思っていた。
今迄でに15基以上見つけてあるが久し振りに昨日見つけたので、今日も若しやと思い道を横断して祠に行く事にした。
「音羽延命地蔵尊」 の扁額を見て八兵衛さんは諦めたが、石仏の間にある墓石が気になり文字を読んでみると
、「紀伊国 小長井八兵衛之墓 川中島」とある。ラッキー! 今日はいい事がありそうだ。新しい道は見つかるだろう。
そうそう小長井とは八兵衛さんが養子にはいいた家の名字で、石碑には小長井姓を使っているものもある。

 
               藤の里トンネル先の擁壁                         大沢峡先の擁壁
 藤の里トンネルを過ぎた道路の法面擁壁のブロックの先端が大砲の砲身のように突き出ている。これを見るといつも気に
なるのだが、この砲身の様な尖がりは何の為に有るのだろう。ここにある尖がりは短くて先端に黒いキャップを被せてあるが
その意味も分からない。他で見る尖がりはここの尖がりより長いので、正に砲身のようにみえる。コンクリで固めてあるので
水抜きでもないし、擁壁を設置する時のクレーンの玉掛用の取っ手なのか。
その長い砲身の擁壁を大沢峡を過ぎた所で見つけたので写真をアップしておきます。一体何ですかね?

 
         新東名と飯間山の後ろに富士山                中央の尖った山がびく石(?)で右手前が天王山

 トンネルを下った所で山影から少しだけ富士山が顔を出していた。この分だとびく石山頂からは綺麗な富士山を拝めそうだ。
途中で出合った葉梨川を遡り 「白藤の滝」 の分岐を右に行くと、前方が開け北の方角の山が見えるようになった。
右に大きく見えるのが中腹に安楽寺のある天王山で、左の平に見える中央の尖がりが、どうやらびく石のようだ。一見天王山の
方が高そうだが天王山の標高は350mでびく石は526mもある。(このびく石から天王山の尾根に道があるらしいと後で知った)

 
               白藤の里                                最初の農道分岐
       最初の農道分岐の地図
 県道81号と合流し白藤の滝は右折するのだが、今日は滝は行かず県道を直進して 「白ふじの里」 に出る。
ここは手作り体験工房とかで地元産の農作物販売のほか、そば打ち体験や味噌作り体験などの体験業務を行っているらしい。
果たして繁盛しているかどうか・・・・・ 
前項で紹介したびく石周回ルートは、この施設に車を置くと丁度良く、白藤の滝にも近いので、余裕があれば周回ルートに滝や
寺を加えれば更に変化のコースになるだろう。
この辺りの地名は 「北方(きたかた)」 で、葉梨川を挟んだ西は 「西方」 と呼ぶようだ。地図を見る限りでは北方と呼ぶより、
東方の方が適しているように感じる。さらに北方の道を北方向に行くと、今度は 「中部」 と付いた建物が出てくる。きっと中部も
字名なのだろう。西、北、中とか、上、中、下と付く地名は多いが何を基準にしてあるのか知らないと錯覚してしまう事もある。
 
 その中部の集落が終わり農道に入ると工事の看板が立つ分岐に出る。この分岐を以前右に行ったが車道が終わった先には
山道は無かった。工事の看板を見ると 「羽佐間にぬける農道を作っています」 とある。工事期間は 「平成27年2月20日」
なっている。ピンポン!! 当たりだ。今日はツイテいるゾ。
工事完了が1ケ月先なら工事はほぼ終わっているだろう。これで周回コースは完成だ。

 
             2ヶ所目の農道分岐                              農道終点
農道の上からオートバイが下って来たので道路の状況を聞こうと手を挙げて停まってもらった。
「新しい農道は羽佐間までいけますか?」 すると
「私も気になって見に来たけど、まだ山頂付近までしかできてなく、今日も作業をしているので行けなかった。まだ当分羽佐間
までは行けないと思うよ」
 だって。
ショック! 看板を見て喜んだがどうやら糠喜びだったらしい。山頂部分が工事中と言っていたが、前回来た時もそこは工事を
していた。進展していないのだろうか。 さてどうしよう、駄目を承知で山頂の工事現場に行くか、それとも沢沿いの初めて歩く
農道を遡ってみるか。サーどうしよう。
 結局好奇心には勝てず、多分昔の交易路だったと考えられる沢沿いの農道を歩く事にした。
2回目の農道分岐では、新しい農道に行く道は工事車両が通るので轍の跡がハッキリついている。一方沢沿いの道は苔や
枯葉でいかにも寂れた道のように見える。10分ほどその寂れた農道を行くと終点に着いてしまった。サー勝負はここからだ。

          
                農道終点からの山道                            小さな滝
              農道終点の地図
 「案ずるより産むが易し」 で農道終点の先にはハッキリとした道があり、嬉々として山道に入ると小さな滝があった。
この滝があった所為で農道が終わってしまったのだろうか。など考えながら余裕タップリの歩きだった。

  
                 倒木の連続                                     目印があった
 滝を過ぎるると沢の道は一変した。最初の倒木をやり過ごすと前方の沢は倒木が乱立いや乱倒していて見る影もない。
沢を避けて中腹を歩きたくても傾斜もきつく土砂があちこち崩れている。道はある事はあるが倒木や崩壊で途切れ途切れだ。
尤もこれを道と言うなればだが。それでも前方を覗き込むと余り高くない所に青空が見えている。これはきっと稜線までが
低いに違いないと勇気が湧いてくる。そんな事を繰返しながら進んで行くと、やっと道らしい道を見つけた。ホッとして見た先には
黄色の目印のテープがあった。ウンこの道で間違いないと勇気が湧きだす。

          
                      廃屋                               廃屋の中
 しかし次の光景を見て湧き出した勇気が一瞬で萎んでしまった。道の先には崩れ出している作業小屋が建っていた。
この道はこの作業小屋に続く道だったのか。ではあの目印は一体何だと云うのだ。疑心暗鬼で一杯になってきた。
気持ち悪さを押さえて小屋の中を覗きこむとトロ箱が散らかっている。こんな奥でミカン畑? チョット考え難い。
では茶畑か、でもお茶にトロ箱は必要ないだろう。小屋の中を通らず小屋の上流に行くとモノラックのレールが沢の右側の
竹林の中に向かっていた。どうやらここは竹林だったようだ。それが放置されてこの有様だ。

    
                            またまた倒木のオンパレード
 小屋を過ぎると倒木の数が倍加した。倒木はここからは木だけでなく竹が多くなり、もう倒木の無い所は無い状態になった。
ある時は倒木を跨ぎ、ある時は潜り抜け、またある時は倒木の上を渡って行く。
最近股関節が硬くなってきたのか以前より足が広がらないし、上らくなってきている。また腰が曲がって潜るのは楽かと云うと、
そんな事はなく余り低くは屈めないので、時折ザックが倒木に引っ掛かりバランスを崩したりした。
さらに不恰好なのは倒木の上を渡るときで、バランスを取るのが下手になったのかオッカナビックリのへっぴり腰で、きっと見て
いた人はいたなら噴出してしまっただろう。
倒竹も困りもので古い竹は上に乗るとグシャと砕けてしまうので宙に浮いている竹を踏むのは要注意だった。また手掛りにしようと
掴んだ竹がポコンと折れてしまう事があるので余り力はいれれない。本当に面倒だった。

 微かな道も小屋を過ぎると更に判別しにくくなり、踏み跡だと思えば踏み跡で、踏み跡ではないと思えば踏み跡ではなく感じる
状態になってしまった。しかし上を覗き込めば青空はさっきより低い位置に見えるで不安感は無いのだが、進んでも進んでも続く
倒木に嫌気がさしてきた。それに仮に今日ここを通り抜けたとしても、こんな状態ではとても周回ルートとしては使えない。
それではここで苦労する意味が無い。
一度弱気の虫が起きるともう駄目で終いには、ここで足を滑らし骨折でもしたら里山遭難になってしまう。
家にはびく石に行くと言ってきただけなので、この場所を見つける事も大変だ。すると救援費用も掛かってしまう。
アー止めた、止めた。ここで引き返そう。

大井川の川底から大きな構造物が出現

2015-01-24 11:51:35 | その他
 大井川谷口橋付近で昨年から川底を浚渫する工事が始まっている。
ほぼ毎日工事現場の横のマラソンコースを歩いていて、最近川底から大きな箱状のコンクリートが出現したので紹介します。
     
           下流部から。上流の橋は谷口橋
     
           横から
     
           上から
 近くに立っている案内板には
        「平成24年度 大井川サイホン撤去工事」
(大井川を横断している旧サイホン(水路)の撤去工事と護岸補強工事を行っています)

と書いてあるが 「サイホン」 ってなんだ?

 

 案内板にサイホンの構造図も書いてあるが、管が2本見えるだけで意味は不明だった。
隣の施工断面図には管が土手を越す様子が書いてあるので、水が土手を越すのにサイホンの原理を使っているらしい。

 「大井川 サイホン」 で検索したウイキペディアに
 「大井川サイホン(榛南幹線) 榛南(島田市初倉地区、吉田町、牧之原市)への供給のため、島田市道悦島から同市谷口に
かけて、大井川の下を通るサイホン。」
とある。ついでに 「サイホン」 を調べてみると
 「液体をある地点から目的地まで、途中出発地点より高い地点を通って導く装置」
 それは理解できるが川底には箱状の構造物が連続して幾つもある。平らな場所なのにサイホンが必要なのか?
サイホンが必要と思われる堤防の掘削は行われていない。

 工事現場の写真を撮りながら興味深めに案内板を眺めている私に、作業員の人がチラシをくれた。
       
 1月30日(土)午前10時~12時30分に現地説明会が開催されるので、詳しくは 「静岡河川事務所のHP」を見てください。
現地には駐車場も準備してあるようですが、事前申し込みはメールかFAXで送る必要があるようです。

 矢口橋の地図  

安倍七観音2-10

2015-01-23 08:51:19 | 寺社遍路
歩行記録                                       2014-10-4(土)
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間20分   延時間:11時間05分
出発時間:6時05分   到着時間:17時10分
歩  数:  42、893歩   GPS距離30.9km
行程表
 静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺 2:00>
 霊山寺 0:25> 帆掛山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅 

 
                          草薙駅へ(下山道)
          
                                      一本松公園帆掛山
              帆掛山の地図
 海抜304mの山頂に到着。実はこの山頂にある冠木門(かぶきもん)には 「一本松公園」 と書かれているだけで山の名前は
書かれていない。山に登り山名表示に山とか岳、峰、嶺などが付かず、ここのように公園等とあると説明がしにくくなる。
静岡中部地区でも安倍城址(435m)とか花倉城跡(297m)と聞くと、山のイメージではなく文字通りの城跡で楽な雰囲気になる。
とは言え、ダイラボウとかビク石なら山名だと言われれば、そうかとも思えるから不思議だ。
一本松公園の山頂には山の名称は書いてなかったが、ネットで検索すると 「帆掛山」 と表示してあるものが目に付いた。
ならばここは帆掛山の一本松公園とした方が素直ではないだろうか。
因みに山頂にあった二等三角点の名称は「大内村」で参考にはならなかった。

 
                          帆掛山から清水市街と日本平
 霊山寺からの登りは、やけにきつく感じ、バテバテで着いた山頂では、ぼんやりした景色を眺めて30分も休憩してしまった。
今日も大分疲れれが出てきたが、それでも前回歩いた安倍七観音の時感じた腰の違和感は無く、真っ直ぐ歩るけている。
これならアップダウンの無い梶原山までなら大丈夫だろうと、予定通り最終目的地の梶原山に向かう。
その途中で目に付いたのは 「桃林寺」 への道標だった。
以前にもこの道標は見ていたが寺の名前を失念していて、思わぬ藪漕ぎを強いられた事があった。
オットとその話に入る前に梶原山の写真を紹介します。

 
            梶原景時終焉之地石碑                           静岡市街を
 梶原山の山頂も芝生や東屋、ベンチなどが設置され公園の様な雰囲気だ。だがこちら山名は飽く迄も梶原山。アー良かった。
「鎌倉本體の武士 梶原景時終焉之地」とは、鎌倉幕府の御家人だった梶原景時は、寵愛を受けていた源頼朝の死後、有力
御家人たちと対立したのを受け、一族を率いて京に向かった。しかし清水の狐ヶ崎辺りで地元の郷士と戦闘になり、景時は
梶原山まで逃げてきたが山上にて自害した。石碑に刻まれた 「鎌倉本體の武士」 とは 「鎌倉殿頼朝の第一の家来の意味」
の事だそうです。

 景色は相変わらず薄ボンヤリしていてはっきり見えないので早々に出発する事に。だがどちらに下ろう? 静岡側の瀬名か
それとも先ほど見かけた清水側の桃林寺か。瀬名へは2回歩いているので道は覚えていが、下りてから駅までが遠くなる。
桃林寺の道は初めての道だが麓から駅までは瀬名に比べ大分近くなるだろう。時間は3時45分。疲れはウン!大丈夫。
ヨシ初めての道で桃林寺に下ってみようと、今来た道を戻る事にした。

  
            桃林寺への登山道入口                          途中の案内板
 尾根から別れた道は、想像していた東に向かうのではなく南に向かう道だった。しかし傾斜は緩く道はハッキリしていて、しかも
途中には案内板もある道だった。これなら霊山寺の岩の多い道より歩きやすいなどと思いながら下って行った。

 実は3年前に梶原山から竜爪山までの縦走に挑戦した事がある。当然駅から駅のコースで、出発は梶原山の取付地点に近い
草薙駅とした。そして登り口は以前道標を見た事のある 「大福寺」 とした。
だが大福寺に着いたが登り口が分からず、折よく出会った地元の人に聞いた九十九折の舗装路から梶原山を目指した。
だがその舗装路の先は放置されたミカン畑と茶畑で尾根道に出るまで悪戦苦闘してしまった。このため梶原山までで体力を大分
使ってしまったのが後々に響き、ゴールの草薙駅に着いたのは暗くなった6時半過ぎだった。

 今歩いている道はその大福寺ではなく桃林寺への道だが、昔見た大福寺への道標は桃林寺の間違いだったのか?
今回改めて 「安倍山系」 で調べてみると、桃林寺の道はあったが大福寺からの道は紹介されてなかった。
どうやら私の記憶違いのようだが今でも何となく腑に落ちない。

          
                 途中にあったベンチ                           急な坂
 快調に下れたのは屋根のあるベンチの所までだった。ここまでは林の中の道で視界は効かないが緩やかな傾斜だったが、
ベンチから下は見晴らしは良いが急な斜面の雑草の道になっていた。だその雑草は除草されていて道や丸太の階段も見えて
いたので不安なく下れた。辺りを見ると除草された草があちこちに散乱していて、その綿毛が辺り一面に漂っていた。
どうやら最近除草したばかりのようだが、もし除草前にここに来たらどうだったろう。背丈の高い雑草に覆われ、登山道や階段が
見えない状態でここを下ったら・・・・・ ウーンチョット怖い気がする。道はともかく丸太の階段の隅を踏んだら滑って転倒するのは
確実だ。今が除草後だったのは安倍七観音をお詣りしたご利益が出たのだろう。 (そう云う事にしておこう)

 
                 桃林寺                           仕事場の中を行く登山道
          桃林寺の地図
 下に寺が見えてきた。あれが桃林寺なのだろう。急な道の登山道は最後に仕事場の様な中に入り、鉄板を置いた橋を渡り
寺の前に出た。
この登山道を登りに利用する時は、桃林寺に向かって左側にある仕事場の中を通るのだが、国土地理院やマピオンの地図、
そして安倍山系でも、桃林寺の右側に道がある事になっている。
帆掛山と梶原山の間の尾根道には、今私が歩いた道しか道標は無かったが、どうなっているのだろ? 分からない。

 
                梶原堂?                                梶原景時一族の墓
       梶原堂の地図
 住宅地の中にある 「梶原堂」 は、梶原景時の子孫が矢崎山山腹に寺を開山したが火災が起き、この時は梶原氏と縁故の
ある米沢藩上杉家により再興されました。その後明治の廃仏毀釈により寺は廃寺となり 梶原堂だけが残っていた。
さらに昭和37年に矢崎山が開削されたため、現在地に移動したそうです。
 写真の手前の茶色の建物に 「梶原堂」 の扁額が掛かっているが、案内板を読むとどうやら後ろに見える白い鉄筋の建物が
本来の梶原堂で、その中には景時と頼朝の位牌が収められているそうです。

  
                 梶原堂                             矢筈の紋
 建物入口に 「矢筈(やはず)」 の紋が書かれているので、これが梶原家の家紋だと思われるが、色々な説がありハッキリしな
かった。更に梶原家と上杉家の縁故関係についても、ネットではこの梶原堂関連の記事には記されているが、他の場面での
記載は見つからなかった。

 17時10分草薙駅に到着。駅の横のコンビニで氷結を買い、安倍七観音の結願を祝い独り乾杯する。

北のピークと大崩3山 Ⅱ

2015-01-21 10:08:24 | 低山歩き
                                                    2015-1-18(日)
歩行時間:6時間55分   休憩時間:1時間40分   延時間:8時間35分
出発時間:7時45分    到着時間:16時20分
歩  数:  24、314歩(推定18km)   GPS距離:14.5km
行程表
 本郷バス停 0:15> 立石神社 1:05> 北のピーク 0:45> 富士見峠 0:15> 高草山 0:35> 鞍掛峠
 0:30> 満観峰 0:40> 日本坂峠  0:30> 花沢山 0:55> 道標  0:55> カンポ下  0:30> 焼津駅 

                           北のピークと大崩3山観歩記 Ⅱ
 
                 満観峰山頂                               満観峰より

 確かに満観峰の山頂は凄い人だかりだ。静岡勤労者山岳会?だかがマイクを使って各地区の活動案内をしていた。
この団体だけで7・80人いたから全て合わせると150人くらいいただろう。初日の出のときより多かった。
その内マイクは 「暮は仙丈岳と地蔵岳にいた」 とか自慢話になってくると、案内盤の上の土足で上って話をし始めた。
案内盤は山に登ってきた人が見たいのに、自分たちが占領するのはまだしも登山靴を履いたまま上がるなんて少々頂けないな。
と、次の女性が 「私は山を始めて30年になりますが…」 また自慢話かと思ったら 「初めて満観峰に登り一遍に満観峰が好きに
なりました。この次は春にまた来ます。」
これを聞いて彼らの無礼が許せる気になった。
 確かにここからの富士山の眺めは素晴らしい。特に富士山の下に広がる静岡市街がアクセントを付けている。
昨年末「 富士山眺望比べ」 と称して徳願寺下の丸山展望台と芹ヶ谷峠、朝鮮岩と歩いたが、それぞれに違った良さがあり
一概に何処が一番とは言い難い。しかしここからの富士山も矢張り特出物だろう。


                       大崩山塊ハイキングコース・タイム表
 実は満観峰に来た理由がもう一つあった。初日の出の時に自作 「大崩山塊ハイキングコース・タイム表」 を山頂ポストに
30部ほど入れてきたのだ。その結果が知りたくて山頂ポスト開けたのだが・・・・・ 残念!タイム表は20部ほど残っていた。
折角補給しようと思って持ってきた分は花沢山の山頂ポストに入れておこう。
それにして利用されたのが、いや持って行ってくれたのがたった10部とは情けない。このタイム表を見れば、ここにきている
殆どの人は興味を示すと思ったのに・・・・ どうやら私の思い込みによる独り善がりだったようだ。
 
 
               花沢山中腹から                            花沢山中腹から
 意気消沈して最後の目的地花沢山に向かう。あれほど多かったハイカーもこの花沢山に向かう尾根に入ると少なくなった。
会ったのは自転車の人を入れて4人と追抜いて行った1人だけだった。以前は満観峰から日本坂峠をを周遊するのが主だった
と思うが、最近は鞍掛峠から往復する人が増えている。それでも日本坂峠には4人の人が休んでいた。

 花沢山の山頂近くに丸太のベンチを置いた見晴台があるが、ここから見た焼津港の眺めは満観峰から花沢山のルートの中で
一番だろう。そのベンチから5・6分行くと、今度は富士山の見えるポイントがある。満観峰から眺めた景色と変わり映えはしないが、
視角が狭まった感じがする分、少し落ちるかな。
ここまで来れば山頂は近い。5分も歩けば東西に建っている反射板の間を通り抜け山頂になる。

 山頂ポストにタイム表を入れたが、満観峰より登山者の少ない花沢山なので利用してくれる人がいるか疑問だ。でも折角印刷
して持って来たのだから入れて置くしかない。ケチな私がマートに行って100枚も刷ったのだから無駄にはできない。
このタイム表は大崩山塊で私が歩いた登山道で公的標識のある道の全てと、目印のあるマイナーな道の大部分(?)のタイムを
紹介してあります。ただ目印があっても余りにも分かりにくかったり(徳願寺尾根・飯間山西沢、簡保の尾根・道了権現巻道等)、
そのルートが近道でも周遊にもならず景観も無い道(満観峰南の三角点から鞍掛峠、農道から花沢山直登)は記載してありません。
他に徳願寺尾根の北側の道は歓昌院坂以外も私にとってメリットがないので歩いていません。ただ徳願寺尾根の大鈩山から
丸子二軒屋の大鈩不動尊の道は、いつか歩こうと思っていたがそのままになってしまったので今年中には歩こうと思っています。
このタイム表の載せたルート紹介は私のHPで紹介してありますので参考にしてください。

 
               道了権現裏より                            ワサビ平(?)より
 花沢山に登れば今日の目標は一応クリヤしたことになるが、このコースはここからの下りが中々大変だ。水車小屋や鉄道
遺跡の分岐点の石部峠までは下りオンリーなのでまだ良いが、峠の先から始まるアップダウンが疲れた体には響いてくる。
今日はまだ高草山からだからそれ程の負担は感じないが、これが徳願寺尾根から縦走する静焼アルプスだと疲れが倍加する。
その思いが染み込んでいるので、ここに来ると余計に疲労感を感じてしまうようだ。
ところが今日は中々順調に歩けていて遊びに行った後遺症は残っていないようだ。何しろ昨年は6月末の遊びから帰ってから
睡眠障害に陥り、体調を崩して念願の 「古稀に海から富士山」 を達成できなかった。これは私の残り少ない人生の悔恨として
残るに違いないと思っている。そのため今年の遊びは行先にも注意したので睡眠障害は起きなかった。

 道了権現の後ろ(少し下)からカンポの尾根で唯一富士山が見える場所がある。カンポ下から登った時は、ここから富士山が
見えれば満観峰からの眺めに期待を抱き、見えなければ諦める材料にしている。今日は2時半を過ぎたのに富士山が見えていた。
こんな日は珍しい事で、それだけ今日は景色を眺める条件が良かったのだろう。

 砂張屋の道標までくればカンポの尾根も半分以上終ったと思いたいのだが、ここからも最後のダメ押しのように小さなアップ
ダウンが続くいやらしい道になる。

         

 山の神の先が開けていて伊豆半島と駿河湾が見えている。ここは春になると蕨が生え、条件さえ合えば簡単に味噌汁1・2
回分の収穫ができる。よって一先ず 「ワラビ平」 と名付けよう。
 オヤ?伊豆半島の先に薄く島が見えている。先日静岡空港で見た島の形と同じようだが薄くてはっきりしない。あの島の事を
地元の人が 「大島」 と呼んでいたが私は納得できない。では何島かと聞かれると答えられないが上の図でも大島でないことは
確かだ。大島や利島は明らかに伊豆半島に隠れていて焼津辺りからは見えない筈だ。
島影は伊豆半島の先端から大分離れた海の中に浮かんでいる孤島で、方位磁石の角度では南60°の方向に見える。
では新島や式根島でも無さそうだ。すると残されたのは神津島だがこれにも疑問がある。何しろ見えているのは大海に浮かぶ
孤島で周りには他に島影は見えていない。だが地図では神津島の近くには式根島などが見える筈なのだが・・・・
今日は双眼鏡を持参してきていたので島の周囲を眺めたが他には島影は見えなかった。
結局今日も島の名前は分からなかった。

 
                 松風閣                                カンポ下登山道入口
 松風閣が見えれば長かった今日の行程も終わりに近い。
カンポ下の登山道入口の看板を見て思いだした。“砂張屋道標~カンポ下 通行禁止”だった事を。
規約破りはしたくはないが、余りに異常なく、と云うより完全に平常状態で崩壊の兆しなどは全くない。しかし登山道の地下では
崩壊が進んでいるのだろうか? それはともかく注意して歩きますので許してください。

 瀬戸川に架かる当目大橋から後ろを振り返れば大崩山塊の山並が見える。今日はここから見える山の尾根を全て歩いて
来たのだと思うと満足感が湧いてくる。そして焼津駅ではその満足感にしたりながら乾杯をしました。 

北のピークと大崩3山

2015-01-19 12:20:20 | 低山歩き
                                                    2015-1-18(日)
歩行時間:6時間55分   休憩時間:1時間40分   延時間:8時間35分
出発時間:7時45分    到着時間:16時20分
歩  数:  24、314歩(推定18km)   GPS距離:14.5km
行程表
 本郷バス停 0:15> 立石神社 1:05> 北のピーク 0:45> 富士見峠 0:15> 高草山 0:35> 鞍掛峠
 0:30> 満観峰 0:40> 日本坂峠  0:30> 花沢山 0:55> 道標  0:55> カンポ下  0:30> 焼津駅 

                           北のピークと大崩3山観歩記
 北のピークはこの時期に登るのが一番適している。特に立石神社の最後の農道から北のピークまでの間は、時期を外すと
雑草、茶、笹が生茂り道の判別が難しくなる。おまけにセンダンや蜘蛛の巣までが服や顔にひっつき嫌な思いをしなければ
ならない。それが今の時期だと雑草が枯れて道の判断は付けやすく蜘蛛の巣も張っていない。更に良いのは空気が澄んで
景色がハッキリする事だ。特に富士山はこの時期が一番の眺めだと思う。
そこで飲んで食っての旅行の贅肉を削ぎ落そうと、焼津側から見える大崩山塊の尾根をグルリと歩く事にした。

       
               本郷から見た北のピーク                      立石神社
             立石神社の地図
 いつもなら焼津駅から歩いて登山道に向かうのだが、今日は寒波が来ていて一番の冷え込みだと聞くと朝比奈川の堤防の
上を歩く気がしなくなった。そこで焼津駅から立石神社の入口にある本郷までバスに乗って行く事にした。これも歳のせいか?

  
       登山道を塞ぐ竹                 笹の間の道                 茶の間の道
 立石神社の奥から入る沢状の登山道は、枯葉が積り柔らかな感触がして歩きやすい。所々斜面が急になった所は右や左に
避けて行くが、目印が付いているので迷う事はない。途中農道に3回で合うが、ここまではどうと云う事も無く登れるだろう。
問題は3本目の農道を横断してコンクリの斜面を登り林の中に入ってからだ。最初この林の中に来た時はグジュグジュした土と
目印の少なさに往生したが、今は目印の量も増え、立止って探せば必ず目に入ってくるから困る事はない。柔らかい土も雨の後
ならともかく、急な斜面だが滑る事がないので登りやすく感じるようになった。
 石垣の横を抜け林を出ると放置茶畑が現れる。いつもなら苦労の本番はここから始まるのだが、何と何と今年は茶の木や笹が
刈り取られていて、何の苦労もなく歩く事ができた。これは多分岡部の澤口さんが整備してくれたのだろう。感謝!感謝!です。

 
            北のピークから                           北のピークから南アルプス
 初めて北のピークに来た時は素晴しい景色に感激して興奮したが、いつの間にか当たり前になり興奮度は下がってしまった。
でもどうですか中々の富士山でしょう? 富士山の右奥は愛鷹山。左下は高山。その更に左は竜爪山のようです。
昨年末に登った安倍城址やダイダラボッチを探したが判断付かなかった。

 
             北のピークの物見石                         北のピーク
 北のピークの一番高い所は放置された茶の木で登れないので、手前にある石の上に登って景色を見る事にしている。
ここの茶畑もいつまで栽培してくれるのやら、最初に来た時に比べ放置された茶畑が増えてきている。茶畑が放置されると、
先ず茶園の周りに雑草が生え道を隠してしまう。次に茶の枝が延びて道を塞いでしまう。それでもここまでは雑草や道の周囲の
茶の枝を切取れば済むが、一番困るのは茶の木が成長して背丈ほどになり視界を閉ざしてしまう事だ。そうなると道の周囲だけ
切取っても景色を眺める事ができなくなる。今登ってきた茶畑の中の道も、以前は景色が見えていたが今は何も見えない。
ここは一番、藤枝市で北のピークの最頂部に展望台でも作ってくれれば・・・・・・・・・・・・・


                               北のピークから志太平野
 上の写真は北のピークから少し南側から写した写真だが、北のピークの最頂部からもこの様な景色を見る事ができる筈だ。
若しそこに展望台(台でなくても空間があれば)があれば、東に富士山、北に南アルプス、西に志太平野。そして南には
高草山が眺められる藤枝市随一の展望台になると思うのだが・・・・・・・・・・・・・・

 
                  池の平                               富士見峠から
                池の平の地図
 北のピークから池の平の間は一般的なコースではないが、普通の尾根道でどうと云う事はない。そのため北のピークから
立石神社に下らずに池の平から往復する人もいるようだが、池の平の降口にある公的標識に北のピークが書かれていなので
歩く人はまれな状態で、私も人に会ったのは昨年 「安倍山系」 の著者・松理さんに会っただけです。

 富士見峠からは満観峰の上に富士山が見えています。しかしそのためが富士山の下部が見えないので眺めとして今一です。

 
                高草山から                                 鞍掛峠 
 高草山からは標高が高くなったせいで近くの山が下に見え、富士山の下には静岡の市街も一部見えるようになります。
でも見える範囲はこれだけで左右の広がりが無いのがつまらない。
 高草直下の満観峰の分岐に入ると後ろからチリンチリンと鈴の音が聞こえてきた。後ろを振り返ると自転車に乗った人が
下ってきた。何だよ― こんな山の道を自転車で・・・・、避けてやり過ごしたが、階段では人は降りて階段、自転車は階段横の
斜面をブレ-キをかけて引きずっている。邪魔は邪魔だし道が荒れないか心配になる。隣には農道があるのだからそちらを
走ればいいのに。少々イラついた。
この自転車は鞍掛峠から花沢への山道を下って行ったので別れたが、次に満観峰の先で別の自転車に遭遇。なんだかこんな
のが流行り出したのか。山道を走るトレランならまだ我慢もするが、自転車は嬉しくないな。

 鞍掛峠からは次々と下ってくる人たちと擦違うなかで
「山頂は人込みで凄いですよ」 と声を掛けてきた女性がいた。歳の頃はウーン分からない。しかし中高年の高年の方だ。
私も 「今年の初日の出でも100人位の人がいましたよ」 と返し少し話をした。その話の中で
「最近猪にあう事が多いけど、猪が増えたのかしら?」 それを聞き俄然興味を覚えた私は、何処であったか聞くと
「鞍掛峠から高草の登山道と簡保の尾根で夕方あった。」 と言う。鈴や笛を持っていないので離れた場所で声を出すと
猪は藪の中に入って行くそうだ。それにしても怖かっただろうな。このか弱そうな女性が一人でしかも山の中で猪と対面したとは。
私は熊は嫌だが猪や鹿やカモシカは会いたいと思っている。だがこの大崩山塊では一度もあった事がないので、本当に猪や鹿が
増えているのか疑わしいと思っていた。しかしどうやらその認識は間違っていたようだ。きっとどこかで遭遇するだろう。

 
                 満観峰山頂                               満観峰より

のんびり法多山詣

2015-01-11 09:25:49 | ウォーキング
                                                 2015-1-10(土)
歩行時間:4時間00分   休憩時間:0時間55分   延時間:4時間55分
出発時間:8時55分    到着時間:13時50分
歩  数:  18、062歩   GPS距離:11.4km
行程表
 掛川駅 0:35> 富士見霊園 0:30> 138°展望台 0:20> 腹摺峠 0:10> 腹摺峠 0:35> 三角点
 0:35> 奥の院 0:10> 法多山 0:45> エコパ 0:20> 愛野駅

 今日は近所の人とのんびり法多山まで歩いてきました。私は先週遠州三山の初詣は済んでいますが、友人たちは初詣だった
ようです。コースは先週と同じですが、ゴールが愛野駅になる超短縮版にしてあります。これは山歩きに慣れていない仲間との
歩きですので、腹摺峠からの緊張の連続が疲労度を増すのではないかと考え短くしました。
で、先週と変わった話題だけ紹介します。


                             富士山・粟ヶ岳・掛川市街


                             掛川市街・袋井市街

 前回138°展望台で綺麗な富士山を見た事がないと言ったら、今日はこんな素敵な景色に出合いました。
初めて来た仲間たちの感想は・・・・・ 特に無し

      
                   腹摺峠                      境界見出標

 腹摺峠も人が写っていると、その大きさが実感できますね。峠から10分で往復できるので是非立寄ってください。
一方もう一枚の写真は、三角点の分岐にあった東京営林署の 「境界見出標」 。見事に木の幹に食い込んでいるが、何年くらい
経っているのだろうか。もう少しで 「営」 とか 「標」が見えなくなりそうだが これからはここを歩く度に写真に写して確認しよう。
果たして私が歩ける間に変化が起きるかどうか・・・・

        
                              断崖絶壁
 「山道の右側が断崖絶壁になった場所があちこちにあるから、安全は自己責任ですよ。」 と出発前に宣言した。
初めは 「大袈裟な」 の気持ちがありありだった仲間も、次々現れる断崖に息をのみ 「スゲー!」 の声も聞こえてきた。
フーやっと感想が聞けた。歳を取ってくると感情の起伏が少なくなるのか、余り感激しない仲間が感激してくれた。

 法多山の初詣客は4日の日の半分くらいの人出かな。
駐車場が料金が、参道近くから 500円→300円→200円→100円になっていた。前回は100円は無かった筈だが。

 エコパは相変わらず閑古鳥が鳴いていて、誰もが 「勿体ない」 と口にしていた。

今日はノンビリ歩いてこの時間です。是非一度 「法多山奥の院から初詣」 に挑戦してみてください。


    ***********************************************************************
 今日はこれから女房孝行の6日間の旅行に行ってきます。
昨年はこの旅行の後から睡眠障害を伴う体調不良になったため、行きたくはないのだけど・・・・・・・・
毎回の歩きには気持ちよく弁当を作ってもらっているし、これからも仲良くしていきたいので諦めて行ってきます。

遠州三山初詣ウォーク3

2015-01-09 11:52:57 | ウォーキング
                                                    2015-1-4(日)
歩行時間:7時間10分   休憩時間:1時間00分   延時間:9時間20分
出発時間:7時10分    到着時間:16時30分
歩  数:  42、050歩   GPS距離:27.7km
行程表
 掛川駅 1:00> 138°展望台 0:20> 腹摺峠 1:10> 法多山 1:00> 愛野駅 1:00> (菅ヶ谷横穴)
 0:40> 油山寺本堂 
1:00> 可睡斎  1:00> 袋井駅 

 ※1 腹摺峠と可睡斎で合わせて1時間周囲を散策しました。
 ※2 菅ヶ谷横穴は現地には行けませんでした。
 ※3 油山寺から可睡斎は未知確認のため通常コースより長くなっています。


2015 遠州三山初詣ウォーク観歩記3
 油山寺へ来た道を少し戻り津島神社の所を右折する。直進すれば千鳥が池経由の道になるが、今日は遠江48観音の
リベンジなのであえて知らない道を歩く事にしている。   津島神社の地図
 次の村松西の交差にあるハイキングコースの標識は、右折も直進も可睡斎と書いてあるが今日は直進する。そして次の
交差点で右折するのだが、そこにある標識は左折のみに可睡斎となっていて右折側は表示が無かった。

          
             手掘りのトンネル         手掘りのトンネルの地図 
 右折して300mも進むとトンネルともガードともとれるような物が前方に出てきた。トンネルの上が平らになっているので以前
歩いた、東海道草津にあった天井川の潜るトンネルのようにも思えた。どうやらこの上がYAMAHAのテストロードらしい。
そのトンネルを潜りぬけると左に手掘りらしきトンネルがあった。遠江49薬師の西楽寺はこのトンネルを潜って行けば良さそうだ。
そちらの道は分かったが、そこには他に気になる道が2本あった。1本は手掘りのトンネルの上に行く道で、その入口にはハイ
キングコースの標識があり、可睡斎と書いてある。さっきあった標識にはこちらの方向は案内していなかったが?
もう1本は車道の反対側にある太めの山道で、こちらには標識はないので行先は分からないが、若しかして手掘りのトンネルの
上の道と繋がっていて油山寺に行く道ではないかと思った。だってそうとも考えなければポツンと標識が立つ意味が分からない。
 タイミングよく犬を連れた人がきたので、可睡斎の道を聞くと即答してくれた。だが手掘りのトンネルの先も、山道の先も
「行った事がないので知らない」 そうだ。




 しかし山道の方が気になるので家に帰り地図で確認すると、山道は今はテストロードで遮られているが、その先には油山寺の
奥の院や本堂がある。それに今歩いて来た道は車道なら仕方ないが、昔の人ならもっと直線的に歩いただろう。きっとyamahaが
進出してきた時に、かっての道はズタズタにされてしまったのだろう。

 一先ず手掘りらしきトンネルを潜ると、その先にはすぐ民家があり細いが舗装された道が続いていた。その道を10分も歩くと
見覚えのある景色となり、遠江48薬師の道に合流した。南の高台には塔か像か判別しにくいが何か立っている。あれがきっと
可睡斎だろうと判断したが、一度歩いた団地の中の道を歩くのに興味が無くなり、戻ってトンネルの上の道を歩く気になった。
ホント好きですよね、自分でも呆れてしまうが仕方ない興味を覚えてしまったのだから。

 手掘りのトンネルまで戻るとトンネルの上から尾根までホンの数mしかなかった。その数mの事でわざわざ昔の人はトンネルを
掘っただろうか? またまた疑問が湧いてきた。人や牛馬の移動なら、これ位の尾根越えはどうと言う事はない。多分これは荷物
の運搬を車で行うようになってから掘ったのではないかな。
そう云えば小笠丘陵の腹摺峠の新しい道も、腹摺りの個所は車が通れないので、切通しで新しい道を作ったのではないかな。

 トンネルの上の尾根道は舗装されている普通の道で、その左側はテストロードなのかフェンスが張り巡らされ、その法面には
木が生えていて中を見る事ができない。途中には 「撮影禁止」 の表示もある。
以前に梶山季之の 「黒の試走車」 という小説があった。新車の開発で凌ぎを削っていたメーカーは、産業スパイの目を避ける
ためにテスト車に黒い覆面を被せてテストロードを走らせたとか。ここのテストロードはバイクなのでそこまではしないと思うが。
そう云えば先日話題になったのが、トヨタが燃料電池車の特許を無償提供するニュースだった。時代が変わってきたのだろうが
一社だけが先行しても世の中のインフラがついて行かず、結局電池車が普及しないと踏んだのだろう。それにしても英断だと思う。
今日はテスト車は走っていないのかバイクの音は聞こえなかった。

 
                可睡斎の裏口                                   渡り廊下
               可睡斎の裏口の地図
 トンネルから15分程度で思ったより簡単に可睡斎の横に着いてしまった。こうしてみるとこの道が油山寺への参道だった事は
十分考えられる。yamahaのテストロードが出来なければ山伝いの道で可睡斎と油山寺が往復できたと思うと残念な気がする。
でも本当に道があったのだろうか、次回油山寺でのご朱印の時に聞いてみよう。

 可睡斎の横は 「可睡百合の園」 の正門だった。しかし道々気になっていたのは可睡斎の横から境内に入る道があるかと云う
事だった。若し道が無ければ山門まで下らなければならない。だがそれは心配無用だった。百合園の正面道路脇に 「可睡斎 
参拝者近道」
の立札が立っていた。アー良かった。遠回りしないで済んで。

 
                 可睡斎本堂                                出世大黒
 近道の階段を登り一段高くなった渡り廊下の下を潜ると本堂前の境内に出た。なんか随分近道をして得をした気分になった。
この可睡斎は安倍七観音の増善寺の項で詳しく紹介したが、ここでも簡単に紹介します。
「増善寺の住職の等膳和尚は徳川家康が幼くして人質だった事を憐れみ、先祖の墓参りのため密かに用宗港から故郷岡崎に
送り墓参をさせた。この事に感謝した家康は、後に遠江・三河を平定して浜松城主になると、等膳和尚に「可睡」和尚の名と、
萬松山可睡斎の寺領を与え、更に駿河、遠江、三河、伊豆の曹洞宗寺院の僧録司(統括)の地位を贈った。」

この様に増善寺側では詳しく紹介されているが可睡斎側は
「11代目の住職等膳和尚は、幼い家康とその父を戦乱の中から救い出しかくまいました。その後、浜松城主になられた家康は、
和尚を招いて旧恩を謝し、その席上で居眠りをする和尚を見て家康は「和尚、眠るべし」と申されました。それ以来等膳和尚は
「可睡和尚」と称せられ、後に寺号も「可睡齋」と改めた。
また家康公の帰依を受けて、天正11年(1583)に東海4ケ国(駿河、遠江、三河、伊豆)の僧録司となりました。」

と可睡斎のHPに紹介されている。
 若干雰囲気の違いはあるが、似たりよったりで等膳和尚が可睡和尚となり僧録司となったことは確かだろう。
ただ気になるのは、可睡斎のHPでは等膳和尚が駿河増善寺出身だった事に触れていない事で、家康のお蔭で大寺になった
可睡斎は、徳川の敵となった今川に縁のある事は触れないようにしたのだろうか?

 以上が安倍七観音で紹介した可睡斎の抜粋だが、少々不自然な事に気が付いた。それは等膳和尚が家康を助けた件で、
可睡斎では 「幼い家康とその父を戦乱の中から救い出し匿った。」 とあるが、
増善寺では 「人質だった家康を墓参りのため密かに岡崎まで送ってやった。」 とある。
可睡斎の説だと家康が父親と一緒にいたのは人質になる6歳より前の話で、当然駿府ではなく岡崎の出来事になる。となると
等膳和尚が増善寺の住職になる前の話になってしまう。
果たしてどちらが正しいのか、今では知る術は無い。

 徳川家康の出世にあやかりたい方は 「出世大黒」 をお詣り下さい。

           
                     秋葉総本殿                             出世六の字穴
 黄金の扁額には 「秋葉総本殿」 の文字が見える。これぞ徳川家康の恩お蔭だろう。参道の階段までが金色に輝いていた。
「出世六の字穴」 とは徳川家康が武田信玄との戦に敗れた際に身を隠したとの言い伝えが残される穴で、穴の内部は数字の
「9」 ような空間があると言う。ならなぜ六の字かと云えば、「六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の世間から解脱する
ことにある」
とか、よく分からない。ともかく家康が隠れたから 「出世」 なのだろ。
 
 久し振りに奥の院まで行ってみた。ここの奥の院は奥の院と云っても普通の寺の本堂のようで趣を感じられない。法多山の
奥の院は祠に毛が生えたような物に比べれば大したものだが。
そう云えば油山寺は本堂が奥の院の様な感じの場所にあるので、特に奥の院の事は考えていなかった。それが今回地図を
見てみると本堂とは違った場所に奥の院がある事を知った。次回は訪ねてみよう。

          
                護国塔                         酒塚観音?
 今日はまだ余力が残っていて、いつもは廻らない所を歩いてみた。奥の院から車道を下ると稲荷神社や弁天像があり、その
坂道を登った所には白亜の 「護国塔」  あった。どうやらこの塔が手掘りのトンネルの先で見た山の上の建造物なのだろう。
案内板によると 「この塔は高さ17.1mの鉄筋コンクリート造り人造石洗い出し仕上げの円形ドームで、明治44年に建立。
インドのガンダーラ様式を取り入れてある。護国塔は、日露戦争の戦死者の例を祀ってある。」
そうです。

 護国塔から下ると、今度は 「酒塚観音」 の紅白の幟が見えた。これは寄らなければならないと近づいたが、溶岩の上に石碑が
あるだけのようだった。これでは面白くないと止めにしたのだが、家に帰りネットで見ると石碑とは別に観音像があるようだ。
それで写真には?を付けておきました。

          
               静橋の彫刻                      新装された袋井駅
 原野谷川に架かる静橋の彫刻の後ろに小笠丘陵が見ている。歩き終わった場所を眺めるのは好きだが、もう少し大きく見え
て欲しい。でも袋井駅到着のコースでこの橋の上まで来るとホッとする。今日も無事完歩出来たと。

 新装された袋井駅には初めて入る。今までの駅の売店にはアルコール類の販売はしていなかったので、既にコンビニで氷結を
購入して乾杯も終わっていたが、新しい売店でも氷結を売っていた。次回からは利用できそうだ。

         
                              藤枝駅南口のイルミネーション 

遠州三山 初詣ウォーク2

2015-01-08 09:45:02 | ウォーキング
                                                    2015-1-4(日)
歩行時間:7時間10分   休憩時間:1時間00分   延時間:9時間20分
出発時間:7時10分    到着時間:16時30分
歩  数:  42、050歩   GPS距離:27.7km
行程表
 掛川駅 1:00> 138°展望台 0:20> 腹摺峠 1:10> 法多山 1:00> 愛野駅 1:00> (菅ヶ谷横穴)
 0:40> 油山寺本堂 
1:00> 可睡斎  1:00> 袋井駅 

 ※1 腹摺峠と可睡斎で合わせて1時間周囲を散策しました。
 ※2 菅ヶ谷横穴は現地には行けませんでした。
 ※3 油山寺から可睡斎は未知確認のため通常コースより長くなっています。


2015 遠州三山初詣ウォーク観歩記2
 愛野駅から逆川と原野谷川を渡り、堤防の道を国道1号の同心橋に向かって歩く。吹さらしになるこの道は冬歩くのは嫌いが
車の往来の激しい道よりマシだし、油山寺の道標のあるのも嬉しく毎年寒い寒いと思いながらも歩いている。

     
        可睡斎道標                 油山寺道標1                 油山寺道標2
        花茣蓙公園の地図            油山寺道標1の地図           油山寺道標2の地図
 国1の手前に 「花茣蓙公園」 と書かれた小公園があり、公園内には秋葉山常夜燈の鞘堂と可睡斎の道標が建っていた。
道標には 「従是西東海道御本躰可睡三尺坊大権現」 とあるが、知らない人が見れば単なる可睡斎の道標としか思えない。
しかしこの道標は火伏の神、秋葉山三尺坊を祀った可睡斎を案内した物で、明治時代袋井の住民が建てたものだと言う。
マー今でいう町興しみたいなものだろう。
この火伏の神、三尺坊の話は少々入り組んでいるので簡単に説明すると、当初火伏の神の三尺坊大権現をお祀りしていたのは
秋葉山にあった山岳宗教の 「大登山 秋葉寺」 だったが、江戸時代に内部対立が生じ、当時の住職が 「萬松山 可睡斎」 に助け
を求め、寺社奉行の裁定により可睡斎側が勝った。これ以降秋葉寺は可睡斎の末寺となってしまう。
更に明治の廃仏毀釈により秋葉寺は廃寺になり秋葉神社に併合されたが、この時仏像仏具は本寺である可睡斎に引き渡され、
ご本尊の三尺坊も可睡斎に移された。このため可睡斎は 「秋葉山総本殿」 と称して現在に至っている。
廃寺となった秋葉寺は明治16年信者の要望により 「秋葉山 秋葉寺」 として再建された。
 現在一般的に 「秋葉さん」 と思われているのは秋葉山にある秋葉神社だが、ご本尊は可睡斎にあり、秋葉寺は発祥の寺だ。
更に、清水市には 「 秋葉山本坊 峰本院」 があるのだから紛らわしい。

 国1バイパスのガードを潜ると、いよいよ油山寺の参道になる。まず最初の分岐に 「従是油山道」 の道標が現れる。この道標は
文化7年(1837)とあるから今から180年ほど前の物だ。さすがに崩壊は見られるが、筆太で彫の深い文字は今でもハッキリ読む
ことができる。
次の角には 「右あぶら山道」 の道標がある 。こちらの道標は一変して自然石に仮名で書かれた優雅な物だが、仮名の為か彫が
浅いのでいずれは判読不能になるだろう。そうそう道標に 「あぶら山」 とあるのは、油山寺の 「ゆさん」 を単に訓読みしただけとも
取れるが、油山寺の山から昔は油が出ていたので 「あぶらやま」 と呼ばれていて、寺のことも 「あぶらやま」 と呼んでいるようです。

 道は軽い登りになりゴルフ場の横の道に出る。このゴルフ場の中には 「菅ヶ谷横穴」 と呼ぶ横穴式古墳があるが、その入口の
扉には鍵が掛かっていた。去年は入れたのに残念だが仕方ない諦めよう。

 
             油山寺山門                               油山寺宝生殿
           油山寺の地図
 前回遠江49薬師で訪れた時は真っ暗だったが今日は新築された宝生殿を見る事ができた。その遠江49薬師の時、ご朱印を
受けなかったので今日貰おうと思ったが初詣客で込んでいるのに安いご朱印では申し訳ないと朱印帳は持ってこなかった。
だが初詣客は法多山に比べ1/100程度と言っても大袈裟ではない位で、受付の人も手持無沙汰の感じだった。
そして思いだした、その遠江49観音の観歩記が完結していないことを。以前satoさんからコメントを頂き 「アップする」 と約束を
しておきながら最終日がそのままになってしまっている。遍路の観歩記は資料を見ながらなので、書くのに時間が掛かってしまい
どうしても後回しになってしまう。行程を大分忘れてきているが約束は約束なので何とかしなければ。
それと安倍七観音の最終回も終わっていない。こちらも早くしないといけないな。

      
         るりの滝                  天井白龍の画                   三重塔
 行基菩薩が 「るりの滝」 の水を汲み、孝謙天皇に献じたところ、天皇の眼病が治癒したといわれる滝で。当時この滝の水は
油であったとされ 「あぶら山」 の謂れもここからきたとされている。また、この滝の水は眼病だけでなく頭の病いにも効くとか。
私のアルコール性健忘症にも効くのかな?・・・・・・・・・・

 るりの滝の前の建物の天井に 「白龍」 が描かれている。案内板によれば 「昭和48年山主本四国88所霊場托鉢修行の折、
第21番札所太龍寺山中にて雷鳴とどろく嵐に遭う。渓谷より渦を巻き上昇する白雲を正に天に昇る白龍の如く体感、天井の
画とする。」
とある。山主って油山寺の住職の事か? 私には絵心が無いので詳しい事は分からないが、この龍の絵は素人
離れしているように見えるが・・・・・。流石住職ともなると大したものだ。

 国の重要文化財に指定されている三重塔は、建久元年(1190)源頼朝が眼病全快のお礼として建立。その後、武田・今川の兵
火にあい焼失、天正2年(1574)久野城最期の城主の援助により再建した。桃山時代完成の日本三大名塔の一つで、内陣には
弘法大師作と伝えられる大日如来を安置。塔の高さは凡そ23mあるそうだ。

 本堂内に祀られている軍善坊大権現は、足腰に利益があり 「健足の神」 とされているので、先ずは 「南無大師遍照金剛」
お詣りしてからベンチに腰掛け昼飯にした。奉納されいる絵馬が風に揺られ鳴子のように音を出していた。