はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場4-5

2015-03-03 10:10:16 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                               48番 西光寺(樟・楠)
 
               西光寺表門                                西光寺本堂
             西光寺の地図
 福王寺から西に下り今之浦川と加茂川を渡ったら、今度は北の方角にある見付方面に向かう。国道1号の加茂川交差点を
渡ると48番西光寺は左側にあった。
前後に参道も無く周囲を駐車場に囲まれポツンと建っている山門は、何か場違いの感がしないでもなかった。だがこの山門は
山門とは呼ばず 「表門」 と呼ぶようだ。その表門の横に立つ案内板には
「この表門は、徳川家康が別荘として中泉村( 磐田駅南側)に築かせた中泉御殿の表門を移築したものと伝えられています。」
と、云う事は家康もこの門を潜った事があるのだと、感慨を持って門を潜ったが・・・・・・・・

西光寺の山号は 「東福山」 だが、これにも謂れがあった。
「徳川二代将軍秀忠と正室江の五女和子姫が後水尾天皇の皇后となり東福門院と称された。この和子姫が嫁入りの為に京へ
上る途中、西光寺に立寄り七堂伽藍の建立、東福山の山号、阿弥陀三尊仏と地蔵尊を賜わりました。」

成程NHKの大河ドラマ 「江〜姫たちの戦国」 で一躍有名になった、織田信長の妹・お市の方の娘の 「江」 の娘にあやかろうと
して立てた看板が目立つのか。
だがチョット腑に落ちなくて調べてみた。何故って女が結婚する前から東福院なる院号を名乗るなんて不自然じゃないのかな。
で、分かったのは 「後水尾天皇が譲位し、娘に内親王宣下が下された年に院号宣下があり、東福門院の号を賜る。」 となって
いた。マー大して違いはないから問題はないが正確ではなかった。

 若い僧侶にご朱印を依頼して朱印帳を手渡したのだが中々戻ってこない。たかが3個の印を押すだけなのに何をやっている
のだ。とイライラし始めたとき別の僧が来たので催促をした。その僧も奥に行ったがすぐ戻ってきた 「今書いてます」 と云う。
書く? 押すの間違いではと思ったが黙っていた。10分ほどして朱印帳を手にした僧が戻り 「空いている場所が1ヶ所しか
なかったので、そこに書いておきました。」
と云う。またしても 「書く」 が出てきたので、慌てて納経帳を確認すると、西光寺の
ページに朱印は打ってなかった。そして最後のペ-ジをめくると、なんとそこに 「薬師如来西光寺」 の筆文字が・・・・
どうやらこの僧は遠江四十九薬師霊場会制定の朱印帳を知らないようだ。仕方ないこれで良しとするか、でも今後の事もある
ので朱印を打つ場所は知らせておこうと、西光寺のページを広げて 「ここに朱印を押すだけでいいようですよ」 と言った。
それを聞いた僧は平謝りになって 「打ってきます」 とまた奥に走って行きました。

      
           楼門?                     薙の木                      大樟
 この門の正式名称は何だろう? 山門とおぼしき物が表門だったので、ならこれは山門か、案内板が無いので一先ず楼門と
しておけば間違いないだろう。
その楼門を潜ると右には楠の大木と薙の木が聳えている。それぞれに案内板があり、薙の木には
「ナギの木は葉は楕円形、縦の方向だけに多数の葉脈があり、横には切れにくくなっている事から、縁結びの印とされています」
フーンそうなんだ。ナギの木が縁結びの木とは知っていたが葉が切れにくいのが謂れの元なのか。一つ物知りになった。
もう1本の楠には 「西光寺の大樟 鐘楼堂(山門)をくぐると」 アッ!ここに楼門の名前があった。矢張りこの楼門は福王寺と
同じように山門と呼ぶのだ。この様に山門らしき物が複数あると、寺により呼び名が違うので分からなくて面倒だ。
「推定樹齢500年の老大樹です。最近は、縁結びのパワースポットの木として有名になり、沢山の人達に参拝されています。」
それ以外にも 「恋愛成就隠れパワースポット」 の看板があり、そこに縁切りの方法も書いてあった。
「悪縁を切りたい時は、ナギの木が(大楠に隠れて)見えない場所から、大楠に向かって願い事を念じ、そのあとナギの木に
同じ願い事を念じてください。」
とある。
ただ、ここで注意しなければならないのは、縁結びの願いはナギの木に念じてから、楠に念じるとと成就するので、念じる順番を
間違えると縁結びが縁切りになってしまう。これからお参りしようと思っている方はくれぐれもご注意を。

 ところで楠の案内板に 「楠」 ではなく、わざわざ 「樟」 と書いてあるが、樟と楠は違うものだろうか? 
また興味を感じて調べてみた。
「クスノキ(樟、楠)とは、ともにクスノキ科ニッケイ属の常緑高木のことである。一般的にクスノキに使われる「楠」という字は
本来は中国のタブノキを指す字である。
クスノキは各部全体から「樟脳」の香りがする。樟脳とは、すなわちクスノキの枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体のことで、
防虫剤や医薬品等に使用される。このため、クスノキに「樟」という字が使われる。クスノキの葉をちぎると、ツンとする 「樟脳」 の
香りがする。クスノキは独特な芳香をもつ事から 「臭し(くすし)木」 が語源です。」


こうしてみると漢字表記の時は 「樟」 の方に軍配は上がりそうだ。よって西光寺の案内板は正しかった。
でも、でもですよ。調べている過程でこんな事も書いてあった。
「クスノキの葉脈の付け根にはダニ部屋と呼ばれる1mmはどのふくらみがあり、そこにダニ(フシダニ)が棲んでいます。」
エッー! 待ってよ。クスノキは防虫剤に使われているのに、何故ダニが棲んでいるのだ。わけが分からなくなった。
しかし 「ダニ部屋」 本当なら、ナギの葉とクスノキの葉を間違って拾うと、ダニを飼う事になってしまう。これは大変だ!


                             49番 慈恩院(坂の多い街)
 
                慈恩院の山門                            慈恩院本堂
             慈恩院の地図
 磐田の街中は坂が多いが、神戸や熱海のように海に向かう一方向の坂ではなく、登ったり下ったりの坂が多い。
以前東海道を歩いた時は、この先に坂があると思うと事前に身構え準備したものだ。県内なら箱根西坂、薩埵峠、宇津ノ谷峠、
小夜の中山日坂峠、塩見坂などがそうだが、これらの坂に近づくと “どの位の坂なのだ” と挑戦する気になったものだ。
その所為か案外容易に坂を乗り越える事ができた。
一方予備知識が無く現れる坂には案外手こずる事がある。その代表がここ磐田の坂だった。
見付宿の東の袋井宿を出て標高9mの太田川を渡ると磐田原台地の登りになる。台地の上の標高は45mだが、またすぐ
下りになる。今度は17mまで下って次は鈴ヶ森の刑場跡への登りになる。刑場跡の30mに来るとまた下りとなり見付宿を
流れる標高5mの今之浦川を渡る。
いえ、これで終わりではなく次は姫街道の分岐のある西木戸までの軽い登り、そこから西光時の国道1号までの下り、さらに
国分寺跡への登りとアップダウンは続く。
一つ一つの坂は大した事は無いが、幾つも続くアップダウンは疲れた足には案外響いた。

 このように磐田の街中に上り下りの多いのは、ここが台地の上とは云え、台地の外れ部分なので土地の起伏があり故に坂が
多くなるのだ。今は台地の南下には広い平野が広がっているが、かってはそこに湾や湖がある湿地地帯で、街道や役所などを
建設することができなかったのだろう。でもなぜこんなに起伏が多い所が国府になったのか疑問は残る。

 薬師霊場最後の札所、慈恩院はそんな見付宿の路地の奥にあった。
その山門の前に立ち、まず目を引いたのは 「半僧坊」 の石碑だった。半僧坊と云えば浜松市引佐にある奥山方広寺が有名だが
この慈恩院とは何か関係があるのだろうか? 山門に掛かった額には 「臨済宗妙心寺派」 となっている。確か方広寺は 「臨済宗
方広寺派」
の本山だったはずだ。そして半僧坊とは方広寺を火事から守った守護神だった筈だ。
ご朱印を受ける際に住職に 「何故半僧坊の石碑が有るのですか?」 と聞いてみた。
しかし住職は 「私も興味があったので、先代に聞こうと思っていたが聞き忘れてしまった」との事でした。
この方は僧侶と云うより会社員風で気さくに話ができた。でも僧侶の仕事にはまだ慣れていないのか、ご朱印を頼むと
「判だけならいいけど書くことは出来ない」 と言った。48番西光寺もそうだったが49薬師の納経帳を見た事がないのだろうか。
霊場巡りも最後になると途中で諦めてしまう人が多く、ここまで来る人はいないのだろうか?

 半僧坊が気になり調べてみると
「半僧坊信仰が全国に広まったのは明治時代で、方広寺の山火事の際、円明大師(無文元選禅師)の墓と方広寺の鎮守 「半僧坊」
が類焼を免れたことから、半僧坊の威徳によるものという評判が広まり、半僧坊の信仰が全国に広がった。」
そうです。
そうか 「半僧坊」 とは方広寺だけの守り神ではなく、宗派にかかわらず寺の守護神になっているのか。
そう云えば藤枝の奥にある曹洞宗の盤脚院でも半僧坊を祀っていた。

 49番を打ち終り、これで遠江薬師の札所49寺と番外、客番2寺、合わせて51寺全てを打ち終り結願(けちがん)を迎える事ができた。
しかしどうと云う感激は湧いてこない。初めて霊場巡りをしたのは10年ほど前に、マイカーで四国88カ所を10日ほどで廻ったのだが、
その時は88番大窪寺で感激して涙ぐんでしまった。
翌年今度は歩き遍路で36日掛けて廻ったのだが、その時の感激は期待に反して薄いものだった。信仰心の薄い私は霊場巡りを
スタンプラリーのようにして廻っているので、仏様が感激と云うご利益を私には授けてくれなくなったのだろう。
でも、でもですよ、今回の約霊場巡りでは、般若心経だけでなく 「延命十句観音経」 を唱えていたら、いつの間にか暗唱できるように
なっていた。これが今回のご利益と思えば仏様はまだ私を見放してはいない。

「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法相縁。常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心。」
(かんぜおん、なむぶつ、よぶつういん、よぶつうえん、ぶっぽうそうえん、じょうらくがじょう、ちょうねんかんぜおん、
ぼねんかんぜおん、ねんねんじゅうしんき、ねんねんふりしん)
「南無大慈大悲観世音菩薩、種々重罪、五逆消滅、自他平等、即身成仏」
(なむだいじだいひかんぜおんぼさつ、しゅじゅじゅうざい、ごぎゃくしょうめつ、じたびょうどう、そくしんじょうぶつ)

意味? 私は門前の小僧と同じですので無理な事は聞かないでください。

    *************** ================  ******************
 satoさん、まだこのブログを見てくれているのでしょうか。
satoさんに催促されたのは去年の4月ですから、1年がかりで約束を果たした事になります。
遍路の観歩記を再開した時は、当時の事を覚えているか心配でしたが、写真やメモや地図を見ると不思議に思いだすものですね。
これなら今現在私には認知症の恐れはないと思いますが、時々日にちや曜日を忘れることが・・・・・・
しかし今日が何日で何曜日も関係ないオールサンデーの年金生活者にとっては、不要なデータで仕方ないかも。 

遠江四十九薬師霊場4-4

2015-02-24 15:57:03 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              47番 東昌寺(貝塚)
 
              47番東昌寺
           東昌寺の地図
 47番東昌寺は医王寺から西へ1km程で、医王寺では新幹線が寺の後ろを走っていたが、東昌寺は新幹線は前に、後ろには
東海道本線が走っていた。地図上では煩そうな所と感じるが実際歩くと特に騒々しいとは思わなかった。どちらかと云えば畑に
囲まれた静かな住宅地と言った感じがした。
 寺の前のバス停が 「東貝塚」 で地名も東貝塚。そう云えば遠州33観音で磐田のを歩いた時は 「西貝塚」 の地名もあった。
となればこの台地の下には矢張り蜆の取れる大きな湖があったのだろう。
尤も貝が蜆ではなくアサリなら海あるいは塩分が混じった汽水湖だったかもしれない。以前聞いた説で徳川家康が磐田に城を
築こうとしたが、井戸に塩水が湧き真水を得る事ができなかった。仕方なく磐田での築城を諦めて浜松に築城した云う。
その城普請をした場所の地名は 「城之崎」 とか。上手く纏めた話で成程と頷けてしまった。
だが若し家康が磐田市に城を築いていたら三方原の戦いは行われず、家康は負戦をしないで済んだ。となると日本の歴史は
変わったものになっていただろう。

   

  東昌寺では遠江49薬師の全てのご朱印を預かっており、ここで無住の寺などのご朱印を受けられるという。私もここまでに
48寺廻ってきたが9寺のご朱印を受けてない。この際無住らしき寺のご朱印は貰ってしまおうと思ってその旨を申し出ると。
「今はご朱印は預かっていません。今は油山寺さんが全ての寺のご朱印を持っています。」 だって。

                              客番 福王寺(名刹)
 
                 総門(山門)                             山門(鐘楼)
             福王寺の地図
 福王寺は寺名だけでなく山号も含めて 「風祭山福王寺」 と書くと寺のイメージが湧いてくる。この 「風祭山」 と称する謂われは
永観2年(984)の寺の開創当時、遠州一帯を暴風が来襲した。そのとき諸国行脚で福王寺に逗留していた陰陽師安倍晴明が、
風雨鎮めのご祈祷を行い、暴風を鎮めて多くの人々を救った。これ以後福王寺の山号を 「風祭山」 と称するようになった。

 福王寺は43番松秀寺と同じように49薬師だけでなく、33観音と七福神の札所なので既に何回も来ている。外にも歩こう会でも
来ているので磐田地区では一番馴染みのある寺だ。しかしいつも迷うのが寺の門の呼称だ。普通なら寺の入口にある門を山門と
呼び、次の門は鐘をのせているので鐘楼と呼びたい。だがその鐘楼には寺の案内板があり、そこには 「山門」 と紹介している。
では入口の門は総門なのか? 門の外に立つ仁王像が門の中なら仁王門だがなー。そこには寺の説明は見当たらなかった。

 
                  本堂                                万両園(庭園)
 福王寺は現在は曹洞宗だが開創当時は真言宗だったと云う。静岡県の寺では良くある例で驚く事は無いが、福王寺の前に
寄った東昌寺も曹洞宗だった。今はそれに不思議さは感じないが、福王寺が真言宗だった頃はどうだろう。
東西に真言宗の大きな寺に挟まれた寺が別の宗派でやっていけたのだろうか。一般的にはどちらかの寺の末寺だったのでは
ないかと考えてしまう。だいたい寺の宗派はそれほど厳密な物ではなく、変更に際しては一般檀家の思惑など考慮せず有力な
檀家や時の住職の考えで宗派を変えた様だ。例えば伊豆修善寺にある修禅寺は、真言宗の空海により開創されたが途中で
臨済宗に宗旨替えをし、更に今では曹洞宗である。寺の名前の 「禅」 が町の名前の 「善」 と違うのも禅宗の臨済宗になって
から変えたのではないかと私は感じている。
話しを元に戻して東昌寺だが、今曹洞宗である事を考えると、寺の開創当初は福王寺の末寺の真言宗で、福王寺が曹洞宗に
なるのに合わせて、東昌寺も曹洞宗に宗旨替えさせられたのではないかと想像している。   

           
                観音堂                              江月堂
 山門の入口には 「本尊聖観世音菩薩」 の大きな看板が下がっていたが、これは遠州三十三観音霊場のご本尊の方で、
49薬師は境内にあるお堂の前に 「客番札所 遠江四十九薬師霊場」 の看板が立っていた。
お堂の中を覗きこむと沙弥壇の上には扉の開いた厨子が安置されていたが、格子が邪魔をして良く見えなかった。
多分これが薬師観音なのだろうと思ったが、私の注意は本尊より手前に置かれている2体の木彫りの動物に引かれた。
ライオン? 獅子? 狛犬のように座ってはいないで4本の足で歩いている形だ。だが口は阿吽のように一匹は口を結び、
一匹は開いている状態だ。矢張り狛犬としてここに安置したのだろうが、何となくこの場にはそぐわない様に感じた。 

 雰囲気が金閣寺を思い起こさせるような建物 「江月堂」 は、安政期から明治初期まで開かれていた寺子屋があった所に
あり、今は1階に寺宝展示、2階は図書文庫として利用されているようだ。
何回も福王寺は来ているが、この建物の中には入った事がない。今日も入口をチラリと見ただけで素通りをする。

 
                 晴明堂                                安倍晴明祈祷跡      
 福王寺で忘れてはならないのは、平安時代に活躍?暗躍?した 「陰陽師安倍晴明」 だ。その晴明を祀ったのが 「清明堂」 で、
扁額には 「晴明大権現」 とあり、お堂の幔幕やガラス戸の桟にも 「晴明紋」 がある。
晴明紋とは 「五芒星」 といわれる形をしているのだが、これにもう一つ角を増やせば 「六芒星」「ダビデの星」 と同じになる。
若しかして安倍晴明は世界に散ったユダヤ民族の末裔か。とまたもや妄想が蠢きだした。
境内には晴明が祈祷したと場所 「晴明塚」 もある。

           
                      石仏群                            今川範国の墓
 屋根の下にある石仏は余り傷んではいない。医王寺の六地蔵は表面が崩壊し始めていたが、ここの六地蔵は江戸時代の
文化9年(1813)と200年以上前の物だが傷みは無く剥がれてくる兆しも無い。それは他の石仏も同じで屋根が有るか無い
かで、こうも違うのかと驚いてしまう。尤も石の材質による方のが影響が有るのだろうが。

 一般の墓地の後ろに、駿河今川家の初代当主で今川氏の礎を築いた 「今川範国」 の墓がある。駿河の守護代の墓が何故
遠州のここに有るのか、以前から疑問に感じていたので調べてみたがよく分からなかった。
範国は後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕の元弘の乱でも戦い、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏に従い、北朝方として活躍する。
その功績により遠州の守護職、次いで駿河の守護職になる。その後守護職を子の範氏に渡し、本人は足利幕府の出仕する。
1384年に死去し、当初菩提寺は磐田市岩井の東光寺だったが、廃寺となったことで五輪塔は福王寺に移されたとある。
だがこの時代の今川は駿河守護代と云っても、まだ駿府には入る事ができず、2代目範氏は島田市大草の山城にいて、墓も
その地にある。そうしてみると範国の亡くなった頃は駿河守護代と云ってもその勢力は弱く、駿河に墓を築くよりも遠州の方が
無難だったのかもしれない。

  

遠江四十九薬師霊場4-3

2015-02-20 15:20:11 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 
0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              44番 寿正寺(大之浦)
 
              44番寿正寺                                   観音堂
            寿正寺の地図
 番外を打ち終れば後は進路を北に変え磐田市のオールドタウン見付に向かって北上する。札所も残りは6寺だが、客番とお礼
参りの1番を入れると8寺となる。数は多いが皆狭い範囲内にあるので何とか今日中に結願を迎えたい。いや残ってしまうと後が
面倒になるので是非とも今日中に結願する。
 平らで変化の少ない田圃の間の道を歩くのは面白くないので勝手な妄想が湧いてくる。
遠江の語源は 「遠津淡海(とおつあわうみ)」 で、近江が都に近い琵琶湖なのに対し、そこより遠い所にある淡水湖を指していた。
今ではその湖は浜名湖だったと云う説が有力だが、実はここにあった 「大之浦」 と云う湖だったという説もある。
その証拠には遠江の国府は見付にあり、国分寺や国分尼寺も見付にある。仮に浜名湖が遠津淡海だったら、国府は浜松の西部に
置かれたのではないかと云う。
どちらの説が正しいか判断はできないが、磐田付近を歩いていると狭い台地の上の凹凸のある地が何故国府なのだと疑問が湧く。
台地の南下にあるもっと広く開いた土地があるのにと思うが、だがそこは当時大きな大之浦があり周辺は湿地帯になっていた。
では台地の東側と云うと、そこは太田川が流れ桶ヶ沼や鶴ヶ池もある湿地帯だった。
更に台地の西には天竜川が流れ大雨のたびに流域を変え暴れまくっていた。となるとこの辺りで国府を造るとなると台地の上しかない。
そんな理由で遠江の国府は台地の上になったのだろう。
よって私は遠江は浜名湖ではなく、ここ磐田にあった「大之浦」 に軍配を揚げたい。

 
              寿正寺の白木蓮                             寿正寺の????
 寿正寺の山門は山門と云うより民家の門のようで、本堂も入口の間口が広いので、寺と言えば寺だが住職のいる感じのしない
建物だ。境内を歩いても人気は無く案の定無住の寺だった。
だが無住で適度に荒れた境内には、大きく育った白木蓮や雪柳の花木が花をつけていた。公園の整理された花壇ではなく自由に
枝を伸ばした花木は無住の寺には合うようだ。

                              45番 全久院(役行者) 
  
              45番全久院                                山門扁額
 全久院の山門の横には六地蔵ならぬ四体の地蔵が祀られ、その横には案内板のあるお堂が建っていた。
これが薬師堂かと思い近寄り案内板を読んでみると珍しく役行者の来歴が記されていた。

役行者(鍬陰の行事由来) 舒明天王の御代、大和国葛上郡葦原に生まれました。幼少の頃から聡明で、あらゆる典籍を読破し
大和や熊野の山で苦行を重ね神の業を現すに至りました。その後は修験道を開き悪魔悪病の退散を祈り霊験を現しました。
鍬陰では、ある時期疫病が流行り、天地の異変も加わって苦難の年が続きました。村人は挙って山の上に役行者のお堂を造り
村の平安を祈りました。お堂は明治期に移転し平成16年に修復工事を行いました。役行者奉賛会」


 静岡県内を歩いていると行基や弘法大師の逸話や二人が彫ったとされる仏像は多い。だが役行者に関連した話は少なく覚えて
いるのは掛川市本郷にある 「長福寺」 に伝わっている話だけです。
「むかし、掛川の長福寺に旅の僧が立ち寄り 「大和の国まで行くのだが、少しお金を恵んでくだされ」 と頼むと、 長福寺の和尚は
自慢の大鐘を指差して 「金ならあそこに吊してある。あれでよければ持っていけ」 とからかった。
旅の僧は釣鐘堂にあった鐘を軽々と下におろし、ふわりと肩に担ぎあげて 「和尚、もらっていくぞ!」 と叫び西の空に飛んで行って
しまいました。
その夜のこと、役の行者尊を祀った大和の国の大峰山では、ひどい嵐が吹き荒れました。翌朝、村人が外に出てみると険しい
岩山の松に大きなつり鐘がかかっています。不思議になって、やっとの思いで近づいてみると、その鐘には 「遠江国佐野郡原田郷
長福寺鐘」
と彫ってありました。
旅の僧が役行者尊の化身だったと気づいた村人たちは、長福寺の裏山にお堂を建立して、行者尊を祀りました。
けれどそれ以来、何度つり鐘を造っても、その鐘の音は寺の外には聞こえなかったそうです」


 今に残る言い伝えとは、こんな風に逸話を含めて残っているものが多いのに、ここの鍬掛行事の由来案内は単に役行者の履歴と、
疫病が流行って困り役行者のお堂を建てたと云う事実だけだ。
これでは鍬陰の行事とは何か分からないし、何をするのかも分からない。仕方なくネットで鍬陰を検索したがヒットしなかった。

 
              全久院本堂                                 お堂の内部
 ここの本堂の屋根は一見イスラム教的雰囲気のあると思いませんか。遍路をしていると時折こんな屋根の寺を見かける事が
あるが私にはどうもしっくりこない。ここの屋根も実際は何をデザインしたのだろう? 蓮の花を逆さにしたものか、合掌した掌の
形なのかよく分からないな。
 だが全久院は屋根の形こそ斬新的だがその歴史は古く、開創は670年頃の天部天皇の時代だったという。当時は虚空蔵
菩薩を祀る寺で明星山虚空蔵寺と呼ばれていたが、923年頃には 「蔵前山虚空蔵寺」 と改めている。
その山号の蔵前とは、寺の裏手に七つの蔵があり、そこから米を舟で伊勢まで運んでいたから付けられた名前だと云う。当時の
ここの地名は 「船戸」 と呼ばれていたと云う。
なら太田川利用した水運はここが発着点だったのか。云われてみれば寺の後ろ辺りから磐田原台地への登りが始まっていた。

 現在全久院の山号は 「護国山」 。折角歴史を感じさせる山号だったのに改名は惜しい気がする。
そして今の地名は鎌田だが蔵前山の山号を使った頃の823年頃では舟戸で、役行者のお堂を建てた1754年は鍬陰だった。
地名の変換は仕方ない事だが、その謂れが残っていれば郷土史に更に興味も湧いてくのだが。

 境内に新しいお堂が建っていた。その正面には扁額の代わりに天狗のお面が飾ってある。何のお堂だろうと中を覗いて見ると、
沙弥壇上の正面には社の様な形の物が置かれ、その左右には十二神将ならぬ十二支の置物と人形の置物が飾られていた。
一体何のお堂だろう?

                              46番 医王寺(古刹)
 46番医王寺は既に磐田原台地への登りが始まる台地の最南端の地にある。この寺の歴史も古く天平16年(744)行基が
聖武天皇の勅命でこの地を訪れ、薬師如来の霊験ありとし、山内の木で薬師如来像を彫り、伽藍を造って祀ったのが始まりと
伝えられている。寺の正式名称は 「鎌田山金剛院醫王寺」 だが、今迄遍路をしていて行基が本尊の仏像を彫り、その仏像を
祀った寺は多かったが、行基自身が開基と云う寺は少なかった。
否、記憶に無いくらいだ。そこで興味を覚えて調べてみると医王寺のHPを見つけた。以下はそのHPからの受売りです。
 
 平安時代(810~822)に嵯峨天皇の厚い帰依を受け、七堂伽藍が整い、真言密教の根本道場となりました。
当時の山容は、広大な境内に本堂、金堂、講堂、五重塔、三重塔、鐘楼堂、仁王門、三十六ヶ坊の末寺などが配置されて
いましたが、戦国時代に武田信玄勢の兵火にかかり寺塔ことごとく灰燼に帰したのでした。
 のちに徳川家康は兵火による焼失をいたく惜しまれ、家康自ら浄財を出してその再興を援助されましたが、ついに旧観に
復帰させることが出来ませんでした。
 三代将軍徳川家光からは、祖父徳川家康のかつて与えた 「黒印」 を改めて、石高135石の 「朱印」 を与えられます。
おかげで寺運は大いに振るい、江戸時代末期まで代々135石を領していました。
 当時の本寺金剛院は、多くの塔頭を擁していました。医王寺はその塔頭の一つで、鎌田薬師の名称で親しまれていました。
しかし本寺の金剛院が明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の嵐により寺運がゆらいだため、明治8年医王寺を再興する形で
法灯を守ったのです。この時三十六ヶ坊のほとんどが廃寺になっています。

 
             石垣の寺の入口                              山門への道
         医王寺の地図
 寺の入口にある石垣は、小さなめな河原石を積んだ脆そうな石垣だった。HPによれば、この石垣は 「百姓積みの石垣」 とか。
意味の説明は無かったが、きっと鎌田薬師に参拝する百姓が、畑や田圃から出た石を持ってきて奉納したのだろう。
島田の大井神社にも同じような風習があり、川越人夫が大井神社に参拝する時は、石垣用の石を大井川から持っていったとか。

 山門に続く参道の左右は、杉苔が生茂り緑の絨毯のようになっていて、厳かな気分にさせてくれる。

 
                山門                                     山門
 海鼠壁を左右に張りだした四足門の山門は、折から咲き出した桜の花にも彩られ、厳かな気分の中に期待感も抱かせてくれる。
この山門は建立から160余年を経っているが、昭和19年の東南海地震では、大きな被害を受けた。左右にある海鼠壁は崩れ
落ち、山門だけがかろうじて建っている状態になってしまった。
それから60年近く経った平成14年に、大規模な工事を行い、以前のように海鼠壁を持つ山門に修復されました。

 
               山門の彫刻                               山門の彫刻
 山門の各所には種々の彫刻が彫られていて、中でも目を引いたのは番の鶏が餌を啄ばむ姿だった。色彩が施されていない
ので地味な感じがする彫物で威圧感は無い。山門と云えば阿吽の仁王がそれこそ仁王立ちして、不審者を睨みつけているのに
ここの 「鶏」 は何を意味しているのだろ?

 
                 客殿                                   庫裏
 山門を潜った境内は杉苔が一面に生茂っていて厳かな感じを醸し出している。その先にある建物は本堂と見えるがHPに
依れば客殿となっている。しかし元々は客殿として使われていたが、明治に入ってからは普通の寺院にある本堂と同じような
用途で使用しているそうだ。

 庫裏の建物も本堂と思えるような堂々とした建物だった。ご朱印を貰うべき入った庫裏の天井は、黒光りをした太い梁が幾重
にも重なっていて伊豆長岡の江川邸より立派だと思えた。そして座敷へ上がる板の間も磨きが掛けられ黒く光っていた。
こんなに立派な建物も明治に入ると荒廃し、一時は無住の時もあったというのが信じられないほど綺麗にされていた。。
明治の新政府の行った廃仏毀釈運動は、今ならさしずめアフガニスタンのタリバンがやったバーミヤン渓谷の仏像破壊に等しい
愚行だったと思う。しかし当時の一部の輩は、日本古来の神道を敬い、東洋伝来の仏教を破壊することが正義とする流行病に
罹っていた患者だったのだろう。

 
                 薬師堂                                 旧薬師堂
 現在の薬師堂はどこにでも見られような小振りのお堂だが、昭和19年に起こった東南海地震までは、右の写真のように
風格のある薬師堂だった。だが地震により薬師堂の棟瓦は全てすべり落ち、薬師堂内一面に雨漏りするようになってしまった。
しかし戦時中の貧しい中では、物資も人出も不足し改修工事もままならず、雨漏りの応急処置すら出来ぬまま歳月が流れた。
 戦争の末期に同じ真言宗の浜松鴨江寺は米軍の艦砲射撃と焼夷弾による浜松空襲で、寺の諸堂伽藍すべてが灰燼に帰して
いた。そんな時、医王寺の薬師堂を鴨江寺に移築し、鴨江寺の末寺の小寺を医王寺の薬師堂にする案が浮上した。金の無い
医王寺としては薬師堂をこのまま朽ちさせるよりは、鴨江寺との両替案に賛同した方がベターとして建替えを行った。
 
 医王寺のHPには
「薬師堂は多くの参詣者に親しまれるお堂として今現在も、鴨江寺にて大切にされ、その法灯は脈々と受け継がれています。」

書かれている。だが、鴨江寺のHPにはその件の案内は一切無かった。

     
               鎮守堂                               大師堂
 小高く積れた石垣の上に一見社とも見える建物がある。両脇には常夜灯や狛犬も供えているが案内板も無かった
のでただ見るだけで済ましてしまったが、後でHPを確認すると 「鎮守堂」 とあり、白山権現、八王子権現、熊野権現の
三体を祀る三部権現との説明が有った。
この鎮守堂は名前の通り、医王寺に降りかかる災い事を鎮めることを目的に、天保7年(1837)に建立されたともあるが、
今思い出してもお堂の向きが客殿とは逆の方向を向いて、医王寺を見守っているようには見えなかったが・・・・・・ 
次回訪ねた時に確認しよう。

 大師堂と云えば弘法大師を思い浮かべるが、ここの大師堂には行基菩薩、弘法大師、興教(こうぎょう)大師の3人の
祖師をお詣りしている。元々は 「三祖御影堂」 と呼んでいたが、現在は便宜上大師堂と呼んでいるそうです。
御影堂(みえいどう)の名は余り聞かないが、祖師堂とか開山堂と同じものなのだろう。
ここのHPでまた面白い記述を見つけた。そこには 「医王寺は遠州二十一大師の第二十一番札所です。」 とあった。
遠州、駿河の霊場巡りも底をついて、次回は何処を歩くか迷うこの頃なので恰好の題材だ

  
              2墓制による墓                               古い石仏
 大師堂の裏に無縫塔の墓が何体もある。どれもが古い石塔で現在の物は見当たらない。いつもなら住職の墓か、と思うだけで
終わってしまうのだが、これにHPには面白い紹介がなされていた。
「医王寺周辺の地域では、古くからの風習で2墓制による先祖祀りが行われていました。亡くなったご先祖さまのご遺骨を納める
墳墓と、その家系の大先祖さまをお祀りする墓碑の2種類であり、墓碑は、信仰していたお大師さま(弘法大師空海)の近くに
建てることで、お大師さまの徳と、慈悲を授かれるようにしたのでした。  
大先祖さまを祀るということから、その家系の本家すじにあたる者しか、大師堂の近くに墓碑を持つことが出来ませんでした。」

初めて聞く風習だった。

 大師堂の近くには古い石仏群が安置されている。どの石仏も崩壊しているが、六地蔵の下部は石の表面が剥がれ落ちていて
痛みが一番激しい。隣の青面金剛(だと思う)の足元には踏みつけられた邪鬼や鶏も見える。
ほかの観音像もそれぞれ彫り出し部分が高く、それだけに惜しまれる感じの石仏群だった。
               
     
     行基作薬師如来像               御前立ち薬師如来像           薬師如来像
 御前立ち(おまえだち)とは、秘仏の本尊の替りに、本尊が安置されている厨子前に置かれた仏像の事です。なので私は今迄
本尊を模した仏像が御前立ちだと思っていた。ところが医王寺の御前立ち釈迦如来は座像で本尊は立像の釈迦如来だった。

 医王寺はこれ以外にも枯山水の庭園等があるが、時間が気になり今回は見学をしなかった。
医王寺はは今まで多くの寺院を参拝した中でも五指に残る寺だと思う。是非近いうちにもう一度お参りに来たい。
その時は時間の余裕を持って参詣しよう。

遠江四十九薬師霊場4-2

2015-02-17 10:19:39 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              42番 長溝院(いぼ薬師)
 
                長溝院                              薬師堂の中
              長溝院の地図
 41番心宋院から県道255号を1.5kmほど南に下った長溝(ながみぞ)の地名の所に42番長溝院(ちょうこういん)はあった。
現在の寺は原野谷川の東にあるが、昔は太田川の西にあったという。原野谷川と太田川の違う川の名前だが、実はこの二つの
川はここで合流している。かってはこの二つの川が一つになったり合体したり長い溝のようになっていたのだろう。
この二つの川に挟まれた地域からは、集落跡などの遺跡が幾つか発掘されている。これはかってここは遠州国府の見付への
海の入口だった事を現していないか。
今でこそ無住の寺となっているが、いにしえの長溝院は相当な寺だったかもしれない。
 
 薬師堂の中を覗き込むと 「いぼ薬師如来」 の文字が見えた。お薬師さんが疣神さんなんて何とも庶民的なお薬師さんだが
きっとご利益があるのだろう。
                              43番 松秀寺(健康重訓)
           
           東照堂と火の見櫓                      東照薬師観音堂内部
 43番松秀寺は遠州33観音霊場と遠州49薬師観音霊場にも指定されていて、ご本尊は33観音は聖観音、49薬師は当然
薬師観音である。その薬師観音は元から松秀寺で祀られていたのではなく、近くの平福寺の東照堂で祀られていたのを明治の
廃仏毀釈により無住になった東照堂から松秀寺に移転したのだという。
その東照堂が松秀寺に行く途中の火の見櫓の近くにあった。一見作業小屋の見えるが内部は整理され掃除が行き届いている。
正面の須弥壇の上にある黒い厨子は扉が締っていて薬師如来は見えないが、本当にあの厨子の中に薬師如来を安置してある
のか? 明治に松秀寺に移したという話はどうなるのだろう。

 
            松秀寺門前の蓮池                             朝観音の草鞋 
          松秀寺の地図
 東照堂のお詣りを済ませ松秀寺に向かう。この寺は二つの観音霊場以外にも遠州七福神にも指定されているので私がここを
訪れるのも3回目になる。
門前にある大きな蓮池は当然今は花は咲いていないが花の時期に一度は訪れてみたい感じがする池だ。
ここで問題です。この松秀寺に祀られている七福神は誰でしょう? 
七福神を見ただけでは分からないが、一度でも七福神巡りをした人はすぐ分かりますよね。答えは 「弁財天」 です。
ヒントは 「池」 です。ここからは受売りになりますが、弁財天とは元々は水の神様だとか。因みに 「日本三大弁才」 といわれる
竹生島(滋賀県、琵琶湖)、江ノ島(神奈川県)、厳島(広島県)などはいずれも水辺に祀られています。
また、お金を洗うと倍になる 「銭洗弁天」 は、弁財天の 「財」 の蓄財の神様と水の神が合体した生じた風習なのだそうです。
他にも水の流れる音が音楽を奏でるようだと音楽の女神にも、さらには 「弁才天」 と書いてその 「弁才」 から、言葉(弁)の
才に優れた神ともなり、弁舌、学芸、智恵の女神として信仰されているのだそうです。

 色々なお寺巡りをしていると七福神に指定されていなくても境内の池に弁天さんを祀ってある寺が多い。
ただ 「焼津七福神」 に指定されている寺に池が有ったか無かったか? 未確認なのでいつか確認したいと思っている。

 松秀寺の山門横の格子にミニ草鞋が沢山奉納されている。これはここの観音さんは早朝に参拝すると足が丈夫になると
云われる 「朝観音」 で、草鞋は朝観音の功徳を授かった人がお礼に奉納したものだそうです。
格子の中には幾つもの石仏が安置されていて、どれが朝観音なのか分からない。
中央に座像の石仏があるが、座っている石仏が足腰の神と云うのも変だし・・・・・・・

 遠州33観音巡りで松秀寺で貰った 「つもりちがいの十条」 が中々良くて以前にもブログに掲載したが再度紹介します。
 1条  高いつもりで低いのが  教養
 2条  低いつもりで高いのは  気位
 3条  深いつもりで浅いのは  知識
 4条  浅いつもりで深いのは  欲の皮
 5条  厚いつもりで薄いのは  人情
 6条  薄いつもりで厚いのが  面の皮
 7条  強いつもりで弱いのが  根性
 8条  弱いつもりで強いのが  我
 9条  多いつもりで少ないのは 分別
10条  少ないつもりで多いのが 無駄
どれもこれもごもっとも。特に4条から後は私のための格言のようだ。

 次に七福神巡りで貰った 「人の世は山坂多い旅の道、年齢60に迎えがきたら」
還暦 60歳 とんでもないよと追い返せ
古希 70歳 未だ末だ早いと突っ放せ
喜寿 77歳 せくな老薬これからよ
傘寿 80歳 なんの未だ末だ役に立つ
米寿 88歳 もう少しお米を食べてから
卒寿 90歳 年齢に卒業はない筈よ
白寿 99歳 百歳のお祝いが済むまでは
茶寿108歳 まだまだお茶が飲み足らん
皇寿111歳 そろそろゆずろうか日本一
そうですね、まだ早いと死神は追い返したいな。せめて喜寿の歳に、おっと不言実行だった。

 そして今回の 「健康重訓」
 「健康は嬉しい美しい素晴らしい 何はなくとも やっぱり健康」
壱 少肉多菜 お肉はほどほどにして、野菜をたっぷりで健康もりもり
弐 少塩多酢 塩分取りすぎは高血圧のもと、酢は健康のもと
参 少糖多果 甘いものは果物から、砂糖は肥満への直通切符
四 少食多噛 腹八分目でよく噛めば 幸せも噛みしめられる
五 少衣多浴 薄着で風呂好きの人は 健康を身につけている人
六 少言多行 べらべら喋っている間に 行動を開始せよ
七 少欲多施 自分の欲望のために走らず 他人のために走れ
八 少憂多眠 くよくよしたって同じ とっとと寝てしまう
九 少車多歩 自動車は確かに速い 歩けば健康への近道
十 少憤多笑 怒ったときでもニコニコしてれば 忘れてしまう
第4項の少言多行が心に重い。「古稀に海から富士登山」と公言していたのに挫折するとは・・・・

                              番外 長泉寺(別珍)
 
               旧福田町の繊維工場                       太田川と原野谷川合流地点
 松秀寺を出て南に向かうと繊維工場が見えてきた。この辺りで繊維と云えば旧福田町のコールテンや別珍が有名だが、太田川を
渡らないのにもう旧福田町(現磐田市)に入ったらしい。
別珍とコールテンの違いは分からないが、ここ福田で日本の生産量の90%以上を織っているという。そう云われても工場が左程
多いとは思えないので、日本では別珍やコールテンの消費自体が少ないのだろう。
しかし何故こんな田舎が特殊な織物の産地になったのか気になり調べてみた。
 福田の東隣にある横須賀城は、徳川家康が高天神城攻略のため建てた城だが、遠州灘の海上の押さえや南遠州の要の位置に
あった事から横須賀藩の城として明治維新まで続いていた。その横須賀城は築城当初は遠州灘から直接城の堀に船が接岸できる
城として海上輸送の起点となっていた。それが宝永の大地震による地盤隆起より、海が後退し港として機能しなくなると近くにあった
福田港に海上輸送を任せるようになった。そのため港として栄えるようになった福田港には船の帆布が多く作られるようになった。
この帆の厚い布を織る技術を、後の別珍やコールテンの生産に利用出来たのが、日本有数な産地になった大きな理由だそうです。

 豊浜橋を渡り太田川左(西)岸に渡るのだが、その前にこの先にあるらしい 「命山」 に寄って行きたいと思っていた。
命山とは高台の無い地方の津波の避難所で、平地に土を高く盛った高台の事で昔からあったそうです。
東日本大震災後では各地に 「津波タワー」 が作られているが、命山はまだ見た事がないので、丁度良い機会だと実際に登って
雰囲気を感じようと思っていた。
だが豊浜橋まで来ると、命山の場所も明白でなく明らかに遠回りになると思い急に行く気を失くしてしまった。

 
                  番外長泉寺                            地震で歪んだ墓
               長泉寺の地図
 次の長泉寺は番外の札所で私の持っている遠江四十九薬師奉賛会の 「薬師のある ふるさと遠江」 には記載が無い。
しかし、同じ奉賛会のHPには番外として掲載されている。それでは行かないと禍根を残すと、少し遠回りだが寄る事にした。
若しかしたら最近になってわざわざ番外に指定したのなら、何か貴重な物でもあるのではと期待もあったが。
しかし長泉寺の境内にも本堂の中にも特段目を引くような物は無かった。ただ墓場に目をやると石碑や墓石の土台が歪んで
見える所があり、中でも写真の墓は土台の石垣が崩れ、周りの手摺も斜めになっている。
いつの地震にやられたのだろう? 静岡県で最近地震の被害が出たのは2009年8月の地震で、あの地震では我家の団地でも
瓦屋根の家では被害が出た。確か震源は御前崎沖だったと思うが、その地震でやられたのかしら? しかしあれから4年以上も
経っているのだから一つの墓石だけでなく何ヵ所も直してないとは考えにくい。それとも私の住む焼津では余り揺れなかったが
地盤が悪いと云われている袋井地区では揺れが大きかったのか?
遠州国府見付の水上輸送を担った太田川や原野谷川は、上流からの泥が堆積して下流地域の地盤を弱めてしまったのだろう。

遠江四十九薬師霊場4-1

2015-02-15 10:27:51 | 遠江49薬師
歩行記録                                                      26-3-19(日)
歩行時間:6時間12分   休憩時間:3時間28分   延時間:9時間40分
出発時間:7時25分     到着時間:17時05分
歩  数:  43、646歩    GPS距離32.6km
行程表
 袋井駅 0:17> 40番 0:28> 39番 1:05> 41番 0:20> 42番 0:30> 43番 0:52> 番外 0:30> 44番 0:30>
 45番 0:15> 46番 0:08> 47番 0:25> 客番 0:20> 48番 0:07> 49番 0:15> 1番 0:10> 磐田駅

                              40番 宋円寺(妻薬師)
 4回目の今回で遠江四十九薬師の遍路も結願を迎える事ができる。前回は開始時の岩水寺の受付時間に合わせたため
出発が遅くなり、最後の油山寺に着いた時は既に暗闇だった。それに懲りて今日は歩き初めを一時間早めたが札所の数が
14寺と前回より3寺多いので、果たして明るいうちに結願できるかどうか・・・・・

 袋井駅の北に流れる原野谷川には3本の橋が架かっている。東からそれぞれ 「和・静・睦」 と一文字の名前だ。
橋の名目の由来は知らないが、この三つの名前から感じるのは平和な家族を象徴しているように思う。家族が和み、睦あって
静かに暮らす。そんな思いで名付けたのかな。
更に袋井市の愛野駅の近くの原野谷川に架かる橋は 「曙橋」 の名前が付いているがこれはどう解釈しよう。 仮に「明るい」
すれば 「睦あい静かに暮せば家庭は和み明るくなる」 きっとそんな思いでつけたのだろう。そう云う事にしておこう。
 今日はその橋の中の一番西に架かる睦橋を渡って最初の札所・宋円寺に向かう。

 
              宋円寺                                 宋円寺薬師堂内
          宋円寺の地図
 宋円寺は旧古道1号線沿いにある変わり映えのしない寺だった。境内に建つ案内板によると 「宋円寺の鉄造の薬師如来像は、
鎌倉末期の仏像で県下唯一の鉄仏として貴重なものであり、地域の人に 「川井妻薬師」 と親しまれている。」
と書かれていた。
妻薬師? どこかで聞いた名前だと考え、前回歩いた34番建福寺の薬師如来も確か妻如来だったと思い出した。案内本には
「建福寺の薬師様は、またの名を妻薬師ともいい、縁談を祈願すると、ご利益がてきめんに現れます。」 と紹介されていた。
一方ここ宋円寺の妻薬師は 「縁結びの妻薬師とて有名で、遠くからお参りに来る方も絶えません。お堂には可愛い紅白の枕が
沢山下げられているが、これは良縁を得た方々から奉納されたものです。」
と紹介されている。

二つの妻薬師は似たような御利益だが、他にも類似している事に気が付いた。それはどちらの寺も 「かわい」 と云う地名に
ある事で、宋円寺が袋井市川井で建福寺が袋井市川会だった。
地形もどちらも川が合流する場所で当初は 「川合」 だったのではないか。川の出合う所は人の出合う所。そこで愛が芽生え
夫婦となり 「静に睦あう和みのある明る家庭」 になるのだろう。ウン上手く纏まった。
それにしてもお礼の品が枕とは、随分露骨だと思いお堂の中を覗きこんだが枕は見当たらなかった。

          
      境内の千手観音               宋円寺ご朱印              建福寺ご朱印

                              39番 鶴松院(観音堂)
 
                鶴松院                                 鶴松院薬師堂
             鶴松院の地図
 お詣りする順番が39番と40番が入れ替わってしまった。これは前回38番油山寺の次に39番40番と打って袋井駅に戻る
予定だったが、38番で夜になってしまい駅に帰ってしまった。そして今日は駅の近い寺から回ったので順番が逆になったのだ。
39番は40番の宋円寺から更に北に行った東名高速道路の取付道路沿いにあり、近くには袋井ICもある。このICが無ければ
淋しそうな所だがICのお蔭で開発されて大型店等も建っていた。

 鶴松院の薬師堂は遠江四十九薬師の赤い幟が林立していて遠くからでも一目で分かった。鶴松院とは何とも縁起が良さそうな
名前で山号も「献壽山」と、こちらも縁起がいい。名前の謂れはハッキリしないが鶴松院の住所の袋井市山科は、昔は山科村と
呼び、別名鶴松村と呼んでいたとか。そこから鶴松院になったらしいが、何故鶴松村と言ったのかが分からなかった。

 観音堂はまだ新しくお参りに来ていた地元の人に聞くと「あの高台にあったのを下ろしてきた。」そうだ。
本来なら山上にあったものは山上でお祀りするのが筋だが、僧侶や信者が高齢化して誰もお詣りしないのでは意味が無い。
ここの観音堂のように山上から麓に下して、お詣りの人が絶えない方のが時代に合っているのだろう。

観音堂の入口に 「當国 三十九番 釈迦如来 安政四巳年」 の石碑が建っている。きっと観音堂と一緒に高台から下してきた物
だろうが、安政四年の文字で嬉しくなる。今から160年ほど前から私と同じように薬師遍路をしていた人がいるなんて・・・・・
鶴松堂に境内には 「鶴松庚申堂」 の扁額の架かる祠もあり、地元がお寺を大切にしている感じが伝わってくる。

        
                       釈迦如来石碑                            鶴松庚申堂

                              41番 心宋院(お礼回り)
 袋井駅から北に向かって40番39番と打ったが、41番は一転して南に向かう。
今日の予定はこれから東名、国1バイパス、東海道本線、新幹線を越して南に入ると、今度は西に向かい磐田駅の東側の札所を
廻り、最後の49番は見付宿にある慈恩院で結願する予定だ。
今回の49薬師の順路はほぼ順番通り廻る事ができ、しかも磐田を出発して磐田に終わるようになっているので歩きやすい。
その順路を簡単に説明すると、磐田駅近くの1番国分寺を振り出しに2番3番と線路沿いに西に向かうのだが、4番はとんでも
なく離れた場所にある。これは旧4番少林寺が廃寺となり、新しい札所が宗安寺になったからで、とても順路通りには歩く気には
なれない。宗安寺自体は三重塔もあり札所として適しているが場所が離れ過ぎだ。(順路に拘らなければ何ともないが)
5番から磐田の西の札所を廻り天竜川を渡る。東海道線沿いの札所を廻りながら、一番西にある高塚駅近くの15番まで行き、
ここから少し東に戻る。次は浜松の街に入る手前から北に向かって天竜二俣駅近くの29番栄林寺まで北に向かって歩く。
29番からは山奥の寺30・31番と打ったら南下し、袋井の北側にある札所を打って一番東にある油山寺を打ち袋井駅に出る。
ここからが4日目の今日のコースになるのだが、今日最後の49番が出発時の1番の近くなのでお礼回りができるのが嬉しい。
今回1番のお詣りが早朝だったためご朱印を受けてなかったので更に丁度良いと思っている。

 考えてみると今まで歩いた霊場は幾つかあるが、その殆どは1番と最後の結願の寺が近くにある事が多い。四国遍路の1番
霊山寺と88番大窪寺は、県は違うが1日で歩ける範囲内にあり、お礼回りする人も多い。
秩父34観音は1番四萬部寺と34番水潜寺とは12kmで、これもお礼回り可能だ。静岡県内の霊場では一番古い遠江33観音
は4kmほど、遠州33観音が6km。この遠江49薬師が1.2kmしかない。
こうしてみると霊場巡りは円を描くよう設定されていて、悟りを得られない者は再度遍路を続けるように出来ているのか。
(それだと私は永久に回り続けなければならないが)
しかし駿河一国33観音はその例に入らない。1番清水山は藤枝にあり33番潮音寺は沼津と三島の境、黄瀬川近くにある。
その距離は80kmを超えている。これではとてもお礼回りなど考えられない距離で実際誰もやらないだろう。これは駿河国の
海岸線と山との距離が狭い地形が影響したのだろう。この様に例外はあるが霊場は円を描いている方のが歩き甲斐がある。

 
                      心宋院                         薬師堂内部
                 心宋院の地図
 心宋院の観音堂の中を見ると厨子は閉じられていて薬師如来は見えないが、厨子の横には十二神将が並んでいた。
だが、日光・月光菩薩は厨子の中なのか見当たらなかった。
境内に古い石仏が安置されていて左が寛政3年の如意輪観音で、右が安永5年の弘法大師像だとある。どちらも古い石仏だが
祠の中に安置されているので細部まで確認できる。しかし心宋院は曹洞宗なのに真言宗開祖の弘法大師像? 
きっと心宋院の開創当時は真言宗だったのだろ。そうしておこう。

 
       如意輪観世音菩薩・南無大師遍照金剛                    五輪塔・宝篋印塔

 もう一つの祠には鎌倉時代の五輪塔と室町時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並んでいる。だが五輪塔を数えると4段し
かない。五輪塔の下に丸い石が見えるが、あれは塔の一番上に乗る 「空輪」 ではないか? 落ちたのだろうか? 
それにしては石の色が違うが。

 宝篋印塔とは 「呪文を収めた塔。日本では供養塔や墓碑塔として建てられた。」 そうです。
私流に解釈するなら「宝(呪文・教文)を収めた箱(篋)型の塔」となるのだが 「印」 の解釈が出来ない。
どこか印を結んだ手の格好があればもっと分かりやすいのだが。
それにしてもこの宝篋印塔は古くて崩れかけているので、上の相輪が無ければ宝篋印塔とは思えない。
          

びく石周回-Ⅲ

2015-01-31 10:37:13 | 遠江49薬師
歩行記録                                                    2015-1-25(日)
歩行時間:9時間10分   休憩時間:1時間30分   延時間:10時間40分
出発時間:7時00分    到着時間:17時40分
歩  数:  45、184歩(推定33km)   GPS距離:32.2km
行程表
 藤枝駅 1:10> 藤の里トンネル 0:50> 白藤の里 0:40> 農道終点 0:30> 撤退地点 1:20> 西方八幡宮 0:35>
 上大沢 1:15> びく石  0:45> びく石ふれあい広場 0:35> ゆらく  0:45> 中山  0:45> 稲葉小学校前バス停 

                             びく石周回 Ⅲ
 びく石山頂に着いたのは2時20分。上大沢の登山口を出たのが1時だったので1時間20分掛かってしまった。このコースの
案内板には1時間とあったのに20分も余計に掛かったとはショック。歳と共に足が遅くなった事は承知しているが、心の底には
まだ標識の標準タイム以内には歩けると思っていたのに・・・・・・・
(この事が気になり前回歩いた初心者コースの時間を調べてみた。すると私の歩いた時間は案内時間と同じ40分だった。)

 
              ダイラボウと富士山                          高草山と焼津港
 びく石山頂広場から東の方向に富士山が見えていた。富士山の下には12月に行ったダイラボウの山頂部分が剥げて見えて
いる。奥には双耳峰の竜爪が見える。アッ! あの竜爪の山頂に光っているのは何だ?
双眼鏡を取り出し覗いてみると、文珠岳の電波反射板が見えた。成程あの反射板はこっちを向いていたのか、すると竜爪から
反射された電波は何処に向かっているのだろう。
この辺りで見た事のある反射板は大崩の花沢山と掛川の八高山だが。確か花沢山の反射板はJRの物だからこんな山の中は
通らないだろうし方向も違う。八高山なら方向としては良さそうだが。しかし八高山の反射板は静岡放送の反射板と書いてあった
ような気もする。そうなると日本平に向いている筈なので竜爪では向きが違う。

視線を南に下せばお馴染みの高草山のアンテナが見える。その下には焼津港を見えていた。

 
                                   大崩連山
 高草・花沢・満観峰・丸子富士、そして朝鮮岩はあの辺りか。いつも歩いている山を遠くから眺めるのも中々いい。
近くにあった山の名前がを書いた案内板に、満観峰を 「満観岳」 とあったのはお笑いだった。

 
                山頂の巨岩                              びく石山頂
 展望の効く広場から山頂に向かうと巨岩がゴロゴロし始めた。この巨岩についてこんな説明があった。
「ダイダラボッチとびく石 日本各地に巨人伝説が伝わるダイダラボッチが、琵琶湖の土をモッコに入れて運ぶ途中、大井川を
跨ぐ時に躓いた。モッコから落ちた石ころが、びく石山頂に群れる岩石群という。」

前回これを読んだ時はフーンと思っただけだったが今回は違う。何故なら隣の山のダイラボウにも巨人伝説が伝わっていて、
その巨人の遺した足跡が山頂にあるとされていた。また、モッコから落とした石は藁科川の中州にある木枯しの森と舟山だと
説明されていた。
 この二つの話が遠く離れた場所に伝わっているなら何の不自然さも無いのだが、隣どおしの山でお互い見通せる距離にある。
それなのに同じ巨人伝説を伝えながら何故お互い無視をしあうのか。前回ダイラボウに登った時はこんな感想を持った。
「隣の山のびく石の巨人伝説と、ダイラボウの巨人伝説のどちらが早く言い出したのだろう。 多分びく石の方が先だろうが、
負けず嫌いな駿府側の住民はダイダラボッチの名前を使わずに、新しく巨人名をダイラボウと名付け、びく石の伝説を無視した
のだと、私の妄想的歴史観は訴えている。」
書いている。今日びく石に登ってもその感想は変わらない。矢張りこの巨石群を
見れば巨人伝説はびく石側が有利だと誰もが思うだろう。
そう云えば展望台にあった山名の案内板にダイラボウらしき山には山名は無く、方向違いの方にダイラボウの文字が薄く見える。
そうか、満観岳の文字も他の山より薄かったので、どちらも間違いに気づいて消したが、それが薄れて元の字が出たのだ。
そうに違いない。しかしこの案内板、富士山も紹介してないのは何故だろう?

 山頂から東海自然歩道のバイパスコースの蔵田の標識はあったが、下る予定のふれあい広場に出る道が分からない。
一旦展望の効く広場に下りたが標識は無い。仕方なく林道に出てみるとコースの案内板があった。折角案内板を建てるなら
ハイカーが上る山頂付近に欲しかった。更に言うならふれあい広場と蔵田への道は最初は同じ道を下るのだった。

          
               浪切不動尊                            不動尊入口
 山頂では人に会わなかったが、下る途中で5組10人の登山者と擦違った。中でも最後に会ったのは60代位の二人連れで
女性の靴は踵は低いが町歩き用の靴だった。時間は3時を過ぎているが大丈夫だろうか心配になる。今からでは山頂に4時に
着き、それから辺りを見て下ってくれば5時になってしまう。私なら決してやらない時間だが、分かっているのかな?

 「南無不動明王」 と書かれた幟が何枚も下がり、その先には祈祷台も見える。何だろうと振り返れば岩の上に赤い火炎に包ま
れた不動明王像が立っていた。 近くには「建立の由緒」なる 案内板も建っていたが尤もらしくて読む気になれなかった。
しかし不動明王は今日は大沢峡でも見たし、この山域の滝ノ谷不動峡には不動明王の磨崖仏がある。
他の地域で露座のお不動さんを見た覚えはないが、そうだまだある。藤枝清水寺の参道にも露座のお不動さんが祀られていた。
マテヨ! 藤枝市内に4体の露座のお不動さんがあるのなら、これを一度に巡る事ができないか。
そうだ 「藤枝露座四不動巡り」 なんてどうだ。ウーンいいな! これはやる価値がある。と歩きながら夢中になって妄想の世界に
遊んでいました。
不動尊から10分も行った所に 「金剛の滝 浪切不動尊」 の看板が立っていた。あのお不動さんは浪切不動尊と云うのか。
それにしても金剛の滝とは大袈裟すぎる。
 
 
                ゆるびく村                                 ゆらく
             ゆるびく村の地図                                 ゆらくの地図
 昔はこの辺りに 「びく石牧場」 があって子供を連れてきた覚えがある。だが今は廃業したのか牧場は無かった。
その代りかどうか分からないが 「ゆるびく村」 なる食堂があったが、余り繁盛しているようには見えなかった。
広場はどこにあったのだろうか、気が付かず過ぎてしまった。

 県道32号に出たら後は藤枝駅まで歩くだけ。ここから駅までの距離は大体15kmとすると約3時間掛かる。
今3時半だから藤枝駅には6時半到着となる。
エッ! 上大沢の登山口では5時半に駅に着くはずだったのが1時間も遅くなってしまった。何が原因だったのだろう?
びく石山頂には予定より25分遅く到着したが、出る時は遅れが10分に減った。だがびく石からの下りを30分と予定したが
45分も掛かり県道に着いたのは3時半だった。
アレー?ここまでの遅れは30分なのに何故駅に着くのが1時間遅くなるのだろう。と、県道を考えながら歩いて、ようやく気が
付いた。原因は登山口でたてた予定では、びく石から県道までを30分とみていたが、計算する時その時間を加算してなかった。
馬鹿だなー こんな簡単な計算ができないなんて、矢張りアルコール性痴呆症が始まったいる。

 冗談はともかく駅到着が6時半では遅すぎる。残りの道は車道ばかりの知った道だが逆に車が恐ろし。それに観歩を旨として
いながら、。夜道の歩きでは辺りを見る事もできない。それでは観歩ではなくなる。仕方ないバスに乗って帰ろう。
だがバス停の時刻表の次のバスは4時50分で、まだ1時間20分もある。それでは仕方ない行ける所まで行こう。

 日帰り温泉施設の 「ゆらく」 に着いたが停まっている車もなく、やけにヒッソリとしている。定休日なのかと中を覗きこむが分か
らない。と、入口にの立看板に 「3月一杯まで臨時休業」 と書いてある。理由は書いてないが何だろう? 工事をしている気配は
ないので、若しかするとレジオネラ菌でも発生したのかしら? 理由は分からなかったがともかく臨時休業中でした。
 ゆらくから藤枝駅行のバスが出ているが次のバスまで1時間30分。こんな所に1時間以上待っていれば体が冷え切ってしまう。
まだ明るいし歩く気力は十分ある。暗くなるまで歩くしかない。

 5時半を過ぎると辺りは暗くなって時計や歩数計を見るのに車のライトを利用しなければ見えなくなった。もうこれ以上歩いても
意味はないので次のバス停からバスに乗って帰ろう。そう思うと次のバス停が中々出てこないものだ。ようやく着いたバス停は
「稲葉小学校前」 時間は5時40分。次のバスは9分後だ。それなら丁度良い。

 これは今日の2回目の敗退になるが気分は中々良かった。今日歩いた事で北方から岡部の羽佐間に2月には新しい農道が
出来る事が分かった。今度はその農道を歩き岡部側からびく石に登る事ができて、びく石からの帰りのコースは椿の咲くころ
剣ヶ峰コースを下る楽しみもできた。
さらに 「藤枝露座四不動巡り」 も今年中には歩いてみたい。まだある。峠の地蔵から天守山に抜ける道もいつかは歩いてみたい。
敗退はしたけど今日の歩きは、今年の目標 「無理せず、楽せず、程々に」 に敵っているのではないかな。
倒木や夜道からは無理をせず逃げたが、歩行距離は30kmを越え楽ではなかった。こんな調子で今年は歩いて行こう。
と負け惜しみの便。

          
                               藤枝駅北口のイルミネーション
 ゆらくから稲葉小学校まで約7kmを1時か30分掛かって歩いたので、バス料金がいくら安くなるのか楽しみだった。
それが料金は200円と400円の2段階しかなく、稲葉小学校はゆらく同じで400円だった。

 藤枝の北口(正面)もイルミネーションが輝いていました。

遠江四十九薬師霊場3-6

2014-09-30 12:08:20 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅


                         37番 西楽寺(やまなし)
 
             西楽寺本堂                      本堂横のお堂
 西楽寺の場所

 太田川の右岸を少し遡った深山橋を渡り山梨地区に入る。山梨は遠江33観音や遠州33観音でも歩いたが、
最初来たとき山梨の元の名が「月見里」と知って驚いてしまった。それも慣れてしまえば特段の感想も湧かなく
なってしまったので、今回は少々手抜だが初めて来た時のブログを引用してしまおう。

 『8番札所に近づいてくると「山梨」の字が目に付くようになった。下山梨、上山梨、沖山梨などの地名もある。
この辺りは今は袋井市になっているが以前は周智郡山梨町だった。その所為で山梨が多いのは分かるが何故
山梨と呼ぶようになったのか、面白い説を聞いたので紹介したい。
子供の頃「山が有っても山なし県」「痛くなくても大いた県」とか言って遊んだ経験は無いだろうか。ここの山梨は
その言葉通り「山が無くて山なし」なのだ。
 むかし地名を付けるとき、この辺りの地形は低い岡はあっても視界を遮るような高い山が無かった。そこで
「山なし」
と思ったが、これではチョット芸が無さ過ぎ面白くない。トンチの利いた昔の人はもう一捻りした。
近くに山が無いのなら月見に適している。そこで「月見里」と書いて「やまなし」と呼ぶようになった。
嘘? いえ嘘ではなさそうですよ、その証拠として苗字の 「月見里」 はやまなしさんだし 「月見里神社 」
やまなし神社と読むらしいですよ。
 なら山梨県は本来は月見里県なのか思いたくなりますよね、ウィキペディアにはこんな事が書いてありました。
”山梨郡の名前の由来は 「旧春日居町の山梨岡神社の裏山に有名な梨の古木があり、そのためこの地域は
いつしか山梨と呼ばれるようになった」 
という伝説が存在しているため、果物のヤマナシに由来していると思われ
がちである。しかし風土記には 「山無瀬」「夜萬奈之」 と記されており、語源としては 「山平らす(やまならす)」
つまり甲府盆地の高低の少ない平坦な様子を表す言葉が次第に「やまなし」へ転化したとみるのが妥当である。
そして 「梨園」 などの言葉に見られる一種の優雅さを感じさせる「梨」という好字を当てて 「山梨」 と呼ぶように
なったといわれている。”
月見里が出てこないので面白くないが、山梨県は本来なら山無で、恰好を付けて山梨と書くようになったようだ。』

 信州街道の県道58号を横断して行くと、前方の丘の上に西楽寺の大きな看板が見えてきた。
エッ!月見里なら山は無い筈ではないかって?でも山梨の東から北に掛けては丘陵が連続していて、とても
山が無いなど言えそうもない景色です。
考えてみれば平野の中に山無しとか月見里では余りに当り前過ぎて面白くもなく、場所の特定も出来ませんよね。
それが山を幾つか越してきて、やっと平地に出ると何処にある月でも眺められるようになる。そうなればその地が
月見里になるのは必然的なことだとも思います。その後の山無しの読みは昔の人のユーモアのセンスでしょう。

 丘の上にあった西楽寺は、寺と言うより大きなお堂と言った方のが相応しい優雅で落ち着いた感じの建物だった。
辺りに人気は無く無住のようで庫裏などは近くには見当たらなかった。
これまで静岡県内の寺はかなりお詣りをしているが、これ程の建物は余り無い。ここ西楽寺と次に寄る油山寺、
そして島田千葉山の智満寺くらいのものではないか。

  
      真言宗西楽寺 入母屋造柿葺 県指定文化財

  
      真言宗油山寺 入母屋造茅葺型銅板 県指定文化財

 
      天台宗智満寺 入母屋造茅葺 国指定重要文化財 

 上の写真を比べてみると、お堂の形はどれも正方形に見えるが、これは宝(方)形造りとも言うらしい。
違いのあるのは屋根の形で、油山寺と智満寺は似ているが、西楽寺向拝(本屋根の庇の部分・参詣人が礼拝
する所)の形が単なる庇ではなく、唐門のように丸みを持って盛り上がっている。
更に屋根の素材も西楽寺はこけら葺(木を薄く削って葺いた屋根・板葺)で、油山寺は茅葺の上を銅板で覆って
ある。一方智満寺の屋根は茅葺で厚みと柔らか味を感じさせる。
こうしてみると智満寺が国指定の文化財なのは分かるが、西楽寺もそれに劣ってないように感じるのだが-------

 (蛇足:こけら葺の「杮」は果物の「柿」とは違うんですよね。「杮・柿」何となく違うのは分かりますよね。
エクセルで拡大するとこけらとカキです。
 因みにこけらとは木屑のことで「こけら落とし」とは木屑を落として完成する事だそうです)

境内の立札には 「西楽寺本堂 江戸時代中期に建築された禅宗様式の五間堂。入母屋造柿葺の屋根や、
豪壮な組物に260年前の歴史を偲ぶことができます。 静岡県文化財指定 」
 とありました。

      
               西楽寺本坊入口                  案合図

 時間があればユックリ眺めたいが、もうすぐ5時になる。隣に建っている薬師堂と思われるお堂をお詣りして
早々に階段を下った。ご朱印を求めて庫裏のありそうなお堂正面の太い道を下ると、山勘は見事に当たり
右手に「真言宗安養山西楽寺本坊」の看板と「遠江49薬師」の看板が立っていた。案内板もあり、そこには
「西楽寺は奈良時代に僧行基により開かれ、真言霊場として大いに栄えた。境内には多くの御堂や塔が立ち
並び、最盛期には十二坊もありました。明治維新には官軍総大将が江戸へ向かう途中、西楽寺の不動明王に
戦勝祈願のご祈祷を行いました」
 
確かに本堂からここの本坊までの間は、坊が幾つかあっても不思議はなそうに感じる。それにしてもまたまた
行基さんの出現。こう幾つもあると本当に行基がこの地を訪れたのかと思いたくなる。

 
               新しい薬師堂                         薬師三尊

 境内に入り最初に目に入ったのは、真新しいお堂だった。入口には何の表示も無いが、覗き込んでみると
正面に座像の薬師如来が、左右に日光・月光菩薩の脇侍(きょうじ)が立っている。
でも、アレー? 今まで見てきた薬師三尊は、主役の薬師如来が大きく脇役の二菩薩は小振りだった。
それがこの薬師三尊は脇侍の菩薩の方が大きいとは。例え座像と立像の違いはあるにしても不自然に感じる。
何か謂れでもあるのだろうか聞いてみたいのだが、アーアもう5時になってしまった。
まだこの先油山寺に行かなければならないし、更に油山寺から袋井駅までもかなりの距離がある。ここで
ゆっくりするわけにはいかないと朱印も受けないで西楽寺を後にした。またいつか来てみよう。



遠江四十九薬師霊場3-5

2014-09-25 17:04:05 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅


                         34番 建福寺(二俣街道)
        
          二俣街道                      34番建福寺
 建福寺の場所
 34番建福寺は龍源寺方面から流れてくる敷地川と、遠州一宮の小国神社から流れてくる一宮川の合流部の
川会(かわえ)にあった。一宮川は昨年の遠州七福神で、磐田桶ヶ沼から森町の紫陽花寺のとき歩いている。

 龍源寺を出て手持ちの地図は県道61号を歩くようになっていたが、適当に判断して天浜線の線路に沿って南下
して行くと、踏切が無いのに少しづつ線路は向きを変えてきた。これは拙いと線路を強引に横切って田圃の中の
道に入り県道を目指した。県道に出れば後は地図通りで順調に建福寺に到着。
 寺の入口にあった石碑の正面に 「旧二俣街道」 とあり、横には 「是ヨリ二俣 二里十丁」 と刻まれていた。
現在の二俣街道は浜松から天竜二俣を通り、長野県に抜ける国道152号線の浜松・天竜間を指してる。
だがこの石碑にある二俣街道は、袋井から二俣に抜けるローカルな街道の事で、きっと街道の名前も地元の人だけ
にしか通じない名前なのだろう。
更に石碑には二俣までの距離は書いてあるが道標とは言い難く、街道の名前の上に「旧」と付いている位だらから
近年に建てられた石碑と思われる。また近くには、秋葉神社の常夜燈も建っているところを見ると、秋葉神社に
参拝する人達は、秋葉道とも呼んでいたかもしれないな。
 二俣までの距離の二町十丁(町)は約9kmになるが、今日私が二俣の栄林寺からここまで歩いた距離は約
19.2kmになる。一雲斎など方向違いの所も行ったので10kmの大回りになったのだろうが、それにしても遍路とは
倍の道のりになるのだからご苦労な事だ。

  
           観音堂                観音堂内部             知恵観音?

 建福寺も静かな感じの小振りな寺だった。本堂の横に庫裏らしき民家があるが留守のようで返事が無い。
ご朱印は諦めて観音堂に入ると薬瓶を手にした木彫りの薬師如来のが祀られていた。これがここの本尊かと
一応お詣りして格子の中を覗いてみると、中には薬師三尊と十二神将が祀られていた。ではこの仏像は?
ガイドブックにこんな紹介がしてある。 「建福寺の薬師様は行基菩薩の作で、12年に一度御開帳される
秘仏です。薬師様は、またの名を妻薬師ともいい、縁談を祈願すると、ご利益がてきめんに現れます。」

エー! 薬師観音なのに縁結びの神、イヤ仏様?  マー49もあるなら色々の薬師様もあって当然だが。
でもどうせなら惚れ薬でも作り、最近の心霊スポットのようなブームの乗れば、もう少し人が集まっただろうに。
そうだ、ご本尊の観音様は12年に一度しかご開帳しないので、その身代わりとして仏壇の外に、この仏像を
安置してあるのかな、きっとそうだ。 でもチョット安--------- 「南無大師観世音菩薩」
 建福寺にはそれ以外にも観音様が祀られていた。名前は「知恵観音」残念ながら謂れは書いてない。
縁結びの観音様に縁を取り持ってもらい、子供ができたら知恵観音に知識を授けてもらう。で丁度良いのにな。

 伝説を信じるなら弘法大師と行基菩薩もこの地を歩いている。この二人は日本中のあちこちを歩いて、その距離は
とても人の一生では歩ききれない距離だと思う。しかも不思議な事は二人が彫った仏像等が、文化財に指定されて
いるものが少ない事で、それは二人が仏師としての腕がなかったのか、それとも言い伝えは嘘八百なのか。
とはいえ今日最初に寄った岩水寺は、行基菩薩が薬師如来像を刻み開創した寺で、弘法大師作と伝わる国宝の
厄除子安地蔵尊も安置されていた。なのであながち嘘八百とは言い切れないが、せめて 「伝行基作 」や「伝弘法
大師作」
と頭に 「伝」 を付けた方が良さそうな物が多い事も確かだ。

                         35番 蔵泉寺(転勤)
 
              34番蔵泉寺                          薬師堂
 蔵泉寺の場所
 建福寺から河畔に出た所が丁度敷地川と一宮川の合流部で、ここからの川の名前は敷地川となり南に流れ
ていく。更に下流では遠州森町から流れてくる太田川と、更に下流で原野谷川と合流する。この原野谷川の
源流は今年の春に歩いた八高山だ。こうしてみるとこの辺りは結構歩いている事になる。
 去年遠江七福神では敷地川の左岸を歩いたので、今回は次の蔵泉寺が右岸に有る事から右岸を歩く事にした。
とは云え昨年の記憶は殆どなく、新しい道を歩くのと同じで、右岸でも左岸でも変わりはなかったが。
 川の畔を歩いていると下校途中の小学生たちに会った。 「おじさん何処に行くの?」 と気軽に声を掛けてきた。
最近では知らない人と話をしないようにと教えるところが多いようだが、まだ田舎を歩いていると挨拶をしてくれる
子供は多い。だが挨拶以外に話しかけてくる子は少ない。
「蔵泉寺というお寺に行くのだけけど、まだ遠いの」 と聞くと
「蔵泉寺ならこの子のうちがそうだよ」 と女の子を指す。するとその子は
「お父さんが袋井の大きなお寺に変わったから今は蔵泉寺には泊まってなくて、お母さんに迎えに来てもらう」
「それじゃ今はお寺に誰も居ないの?」
「ウーンう。お婆ちゃんが片づけに来ている。」
それを聞いてご朱印を貰えるとホッとした。

 今まで寺の相続は、比叡山延暦寺とか高野山金剛峯寺等の大本山は別として、大部分の寺は実子相続が
主で、寺に後継ぎが居なければ養子縁組をしたりして、その名跡を継いでいると思っていた。尤もどうしても
後継ぎが無く無住になった寺は、その宗派の本部から僧侶が派遣されるのかもしれないが。
 蔵泉寺の住職はこの寺から、より大きな寺に行くらしいが、その寺と蔵泉寺とは特別な関係があるのか。
子供の話では大きな寺に行く事を喜んでいるようにみえるが、祖父や親戚の寺との話はなかった。
仮に蔵泉寺が住職の先祖代々からの寺としたら、この移動を引き受けてだろうか。色々と疑問が湧く。
考えられるのは蔵泉寺も移動先の寺も本部管理の寺で、ここの住職は寺付住職ではなく派遣住職だったのでは
ないか。と勝手な解釈をした。
 それにしても住職の転勤となると普通の会社員の転勤とは違い、究極の 「職住近接」 になる。他にこんな職業は
と考えて思いついたのは、田舎の駐在さんがだった。
警察の駐在所は家族と一緒に駐在所と同じ建物に住むし、妻は夫が留守の間は受付などの仕事を手伝うだろう。
その点、寺の奥さんも寺の雑務を引き受けざるを得ないだろう。   何か話が変な方に行ってしまった。

 蔵泉寺に着くと寺の子供がお婆さんを呼んできてきくれたのでご朱印をお願いした。雑巾片手で何か忙しそうだった
ので、余計な話はしないでお詣りだけにした。

                            36番 長楽寺()

               36番長楽寺                         観音堂
 長楽寺の場所
 35番蔵泉寺は敷地川の袂にあり、次の長楽寺は東に流れる太田川の畔にある。その間は田園地帯で田圃が
主だがメロンを栽培している温室も所々にある。
今日は浜松市浜北区を出発し、天竜区、磐田市、そしていつの間にかメロンの袋井市に入っていたようだ。
ミカンやカキ程度なら土産にしても良いのだが、メロンとなると荷が重すぎる。そう懐にも肩にも。
 新しそうな寺の屋根が見えてきた、あれが長楽寺だろう。蔵泉寺からは20分も掛からず着いてしまった。
出発からは既に28kmを越してしまったが、平らな道だったので余裕を持って歩く事ができた。
この先もこうでありますように。
 
 庫裏とおぼしき所は鍵が掛かり開かなかったので、左手にあった薬師堂も中に入れず堂前でお詣りを済ませた。
観音堂の前に案内板にはこんな事が。
「昔、この辺りの深見村に熱病が流行し、医者にかかったり神仏に祈願したが一向に熱病の勢いは衰えず、村の
庄屋たちは久能城のお殿様に村の窮状を訴えた。お殿様は「城内に祀ってある薬師如来を貸すので、日夜病魔
退散を祈願しなさい」
と諭された。村人たちは薬師如来の像に、身を清め心を清めひたすら薬師如来のご加護を
お祈りした。その甲斐あって病勢もやっと治まり人々は安堵した。そして村人は「薬師如来像を永久に、ここに
奉安し如来の遺徳と領主の大恩を子孫に伝えたい。」
と、殿様に嘆願すると願いは聞き取られ、薬師如来の尊像は
深見村に賜った。
 御本尊薬師如来像は、聖武天皇の御代に僧行基が、一本の樹から油山寺の薬師如来像と共に作ったものと伝え
られている。像は袋井市の指定文化財になっている。」

オッ! ここにも行基が出てきた。しかも私の意に反して文化財にも指定されている。これは調べなければと
早速油山寺のHPを見ると、
「油山寺は行基大士が本尊薬師如来を奉安、開山された真言宗の古刹であります。」とあっただけで文化財の事も
長楽寺の事も書いてない。ただ薬師如来の厨子は今川義元の寄進で、国指定の文化財になっていた。
では国や県の指定ではなく袋井市の指定かと、袋井市のHPを覗いたが文化財の一覧表に辿り着けなかった。
長楽寺の薬師如来は、行基作と伝えられているから市の指定文化財なのか、それとも美術的価値があったので
指定されたのか、チョット知りたいな。



遠江四十九薬師霊場3-4

2014-09-24 10:01:57 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅


                         32番 蓮台寺(弘法井戸)
 
               新平山遺跡                             弘法の井戸

 県道まで戻り更に県道を豊岡支所の信号まで戻って、今度は袋井方面に向けて南下するのだが手持ちの地図は
メイン道路でなく最短距離の道を指示している。手持ちの地図は、地図と云っても指示された道を中心に印刷して
あるだけなので、一度道を見失うと中々元に戻れなくなる。今回も地図の指示通り、風力発電の近くの「新平山遺跡」
までは無事着いた。
この平山遺跡は縄文時代から弥生、古墳時代にわたる遺跡で案内板には 
「この古墳は、規模、副葬品共に遠州地方後期の古墳の中では際立ったものであり、国造層級の古墳とみることが
できます。」
 しかし案内板の中にはこんな記述も 「石室は盗掘によって、極端な破壊を受けていました。」
なのに”国造層級の際立ったもの”が残されていたのだろうか?

 遺跡の横の1車線の道を登って行くと2車線の道に合流。地図はその道を横断して直進すように指示しているが、
前には道が無い。さて困った。民家は右の下にあるが家の外には人の姿は見えない。
正面に道が無ければ、合流した道を左折して東に向かえば良さそうだが、途中にあった工業団地に向かっているよう
にも思える。暫く悩んでいたが決断がつかない。嫌だが仕方ない民家の呼鈴を押して聞いてみよう。
 遍路歩きや街道歩きで道を尋ねるのは慣れているが、走っている車や民家を尋ねて道を聞くのは好きではない。
走っている車の場合はヒッチハイクと誤解されるし、態々呼鈴を押すのも不審者や押売りと間違えられそうだ。
でも今日は先を急いでいるので嫌だが呼鈴を押した。幸いな事にお年寄りの男性が出てきたので、蓮台寺の場所を
聞くが、そんな寺は聞いた事はないと言う。遺跡から登ってきて正面の道を聞いても無いと言う。では袋井方面の
道はと聞くと、前の道を東に道なりに行けばグルット回って袋井に行くと言う。でもその道は工業団地に行くのでは?
工業団地への道は途中で別れている。そうだ。
 こうなれば地図にあった正面の道は諦めて2車線の道を行くしかない。とお礼を言って歩き出した。
「チョットチョットあんたは歩いているのかね。歩いているなら遺跡からの道の先に細い道があるので、その道を
行けば近道になるよ。」
 どうやら私の聞き方が悪く、車の道を聞いていると思ったらしい。
 コンクリートの法面の横に歩行者用の道があった。今回の遍路はここまで車道歩きばかりで山道が無かったため、
ここでも無意識に車道を探してしまい山道を見落としてしまったのだ。反省!
後で地図を確認すると車道はU字にカーブしていて、その付根に山道が付いていた。手持ちの地図は歩く道を太く
塗りつぶしてあるので、車道も歩道も区別がつかない。こんな事は百も承知していたのに情けない。

 下りになった車道を歩いていると祠と井戸のような物が見え案内板もある。
史蹟・弘法の井戸 弘法大師が諸国遍歴の際、この地で一杯の水を所望した。里人はここには水が無いからと山の
下まで水を汲みに行き、その水を差しだした。大師は大いに喜び里人の誠実と純朴さを愛して、畑の中に持っていた
杖で円を記して、ここを掘ってみなされ、必ず水が出るからと言い残され旅立たれた。そこで里人たちが皆で掘った
ところ、渾々と水が溢れる立派な井戸が出来上がった。以後里人は、この井戸を「弘法井戸」と言うようになりました。」

 あちこちにある弘法伝説の一つだが、ここの里人は「水は無い」と断らなくて良かった。どうも弘法大師は執念深い。
自分の願いが聞き入れられないと意趣返しをしてくる。若し里人が断っていたら山の下の水は涸らせてしまったろう。
アッ!余計な事を言いました。「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」

       
                蓮台寺山門                         32番蓮台寺
  蓮台寺の場所
 32番蓮台寺は車道を右に入った所にあった。山門には小振りな仁王様が鎮座しているのも大仰でなく感じが良い。
境内に四十九薬師の赤い幟があるので寺と分かるが、雰囲気として無住のような感じがする。庫裏と思われる入口は
鍵が掛かり開かない。勿論本堂らしき入口も閉まっていた。仕方ない朱印は諦めてお詣りだけにしよう。

                         33番 龍源院(接待)
 
                  山田薬師の案内板                      33番龍源寺
 龍源寺の場所
 蓮台寺から更に車道を下り県道61号に合流したのも束の間、その県道とも別れ茶畑や田圃の中の道を進む。
さっきのような間違いはしたくないないと思いながら歩いていると 「山田薬師」 の大きな看板が現れた。
山田薬師? は聞いた事がないが龍源寺とは違うのか? 
看板に近づくと「遠江四十九薬師霊場 第三十三番札所 龍源寺」とある。今回は迷わず無事到着できそうだ。
その看板に「双龍鳴天井」とも書いてある。これは楽しみだ必ず鳴らしてみよう。

 大きな看板の割には素朴な佇まいの山門に、菅笠に貧乏徳利を持った狸の瀬戸物が置いてあった。正面に
見える本堂も山寺の風情で、400年前には七堂伽藍を持った大寺が建っていとはとても想像できない。

        
                  薬師堂                         縁石

 ご朱印の前に扉の開いている薬師堂に向かうと、入口に「不思議なご縁石」と書いた石が台座の上に置いてあった。
石の前には賽銭も置いてある。何だろう? 案内板を読むと「石を叩く事で不思議な力を授かった」とあり、その力とは
「一つ打てば 勇気が湧き 二つ打てば 己に目醒め 三つ打てば 知恵が授かる」 らしい。
さらに 「家宝は信仰心によって異なる」 とあるのはご愛嬌か。
 薬師堂の中は「山田薬師瑠璃光如来」の赤いの幟を祭壇に周囲に所狭しと貼り、紫色の幔幕や提灯などで派手で
賑やかな感じを出している。肝心の薬師如来の厨子は閉じられていた。

 庫裏に入ると住職が私が来るのを待っていたのか、すぐお茶とお菓子の接待をしてくれた。この様な札所は余り
ないので感激しながら雑談を交わす。私が今日は38番油山寺までお詣りする予定だと話すと、
「油山寺さんまで行くと暗くなってしまうから、36番の長楽寺さんから袋井に行った方が楽ですよ」と教えてくれた。
そのコースも考えないではなかったが、36番で止めると後1回で終わりそうな今回の遍路が、後2回歩かなければ
ならなくなるし、そのうち1回は距離が極端に短くなってしまう。それも嫌なので油山寺まで頑張ろうと思っている。
住職が「菜箸にでも使ってください」と参拝記念と書かれた細長い袋を差し出した。
「拝見して良いですか」と聞いて袋を開けると、中には塗箸が入っていた。これでは菜箸には使えない、かといって
日常の箸として使うのも何となく恐れ多い。仏壇に上げるご飯用の箸なら良いだろうが、わが家に仏壇は無い。

 住職にお礼をして寺を出て思い出した。双龍鳴天井を見るのを。
今から戻るのも嫌なので諦めたが、茶菓子で接待され気が緩んだのだろうか、目的の一つを忘れるなんて----- 
それに山田薬師の効用も聞くのを忘れていた。




遠江四十九薬師霊場3-3

2014-09-21 11:15:25 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅


                         31番 一雲斎(三斉)
 
                天竜川飛龍大橋                    一雲斎入口付近の風力発電

 30番玖延寺を打ち終り来た道を県道まで戻る。次の31番一雲斎入口までは、この県道と天浜線と付かず離れず
の状態で進んで行くのだが距離は大分ありそうだ。まだ疲れは出ていないがゴールを袋井駅とするともっとピッチを
あげなければと思うが、一人歩きだとどうしても自分ペースに戻ってしまう。
それも仕方ないだろう、その速さが自分にとっては一番疲れない速度なのだから。

 天竜川を浜北方面に渡る飛龍大橋の入口に出る。この橋は私には渡るメリットが無くて、まだ一度も渡った事はない。
だがこの橋が出来たお蔭で、狭い谷(や)の間にある玖延寺下にも分譲団地が出来たのだろう。
 県道は天竜川の左岸を少し下った所で堤防上の磐田方面に行く道と、袋井掛川方面の道と別れる。次の一雲斎は
袋井方面の堤防の下の細い県道40号を行くのだが、車の多くは堤防の道を直進していくので歩きにくくはなさそうだ。

 旧道の豊岡市所前で丁度で目があった人がいたので一雲斎の道を尋ねると
「あそこまで歩くの? まだまだズート先だよ。それに寺の入口の道が分かるかなー、目印が無かったと思うけど」
「エー? ガイドブックには入口に寺の看板があると書いてありますけど?」
「ウーン チョット待ってね」
と云って近くの店に入り、そこの主人を連れてきた。店の主人は
「寺の看板は以前はあったけど今は建ってないよ。一雲斎さんの入口は、この道が県道に出たら左折していくと
風力発電の塔の近に寺の入口があるけど分かるかなー。そうだあそこには川があった。あの川は一雲斎さんに
続いていて道も川に沿ってあるよ。こちらからなら川を渡らず、川の手前を山に入って行けば一雲斎があるよ。
そこからも大分あるけどお寺は大きくて行けばすぐ分かるよ。ともかく橋を渡らず手前の道に入らなきゃダメだよ。」
分かりやすい説明ありがとうございました。

      
                 電柱名                    屋台置場

 県道に入る前から風力発電の3本の塔が見えてきた。搭はまだ大分先だが、後は橋に気を付けていればいい
だけで気は楽だ。
前方に橋が架かっているのが見え風力発電の塔も近くにある。橋の手前には北に向かう道もあり間違いはなさそ
うだ。だがここで道を間違えたら無駄足になってしまう。慎重に判断しなければと、電柱の札に目をやると。そこに
あった電柱の名前は「大楽寺支」となっていた。何?大楽寺? 確か一雲斎は大きな寺だと云っていたが、それなら
「一雲斎支」だろう。それが何で大楽寺支なんだ。
さっきの人の案内は一雲斎でなく大楽寺を案内してくれたのではないかと不安になってしまった。時間的余裕がある
ならこのまま進んでも良いが、袋井まで行くとなったら無駄足は踏みたくない。
悩んでいるとトラックが県道から曲がってきた。早速手を挙げて「この道は一雲斉に行く道ですか?」と聞くと
「アー そうだよ」と云って走り去ってしまった。
 この道で間違いない事は分かったが疑問は残ったままだ。気になって歩いていると畑仕事をしている人がいた。
「済みません。ここの地名は何て言うんですか」「大楽だよ」
「大楽と云うお寺があるのですか?」「イヤそんな寺はないが、ここは昔から大楽だよ」

よく理解できないが地元の人がそう言うなら仕方ないと歩き出すと、今度は屋台置き場があった。そしてその名前は
「大楽地屋台置場」となっていた。となるとここの地名は大楽地で電柱名が間違っていいるのだろうか???。

 
                  31番 一雲斎                     六地蔵          
      一雲斎の場所
 集落が途絶えた所に「涙橋」と名の付いたコンクリートの橋があり、ガイドブックにこんな話が載っていた。
「徳川家康の命により、一雲斎の仏像を可睡斎に移そうとしたところ、山門まで来ると仏像は動かなくなってしまい
ました。そこで山門を焼払い移そうとしたのですが、今度は門前の丸木橋の所で再び動かなくなってしまいました。
しかも仏像の両眼からは涙が流れていたばかりか、いつの間にか人の手も借りずに本堂の中に戻ってしまいました。
それからその丸木橋のことを涙橋と呼ぶようになりました。」

移動した仏さんがいつの間にか元の場所に戻ってしまう話は、金谷の「松島歩き観音」もそうだった。きっと仏像の
移転に反対する人がいて、移転できなかったが、それを反対派の所為にもできないので、仏像の自らの意思で動か
なかったとした方がお互い無難だったから、こんな話ができたのだろう。

 涙橋を過ぎ左手に紅梅などが咲く土手を過ぎると、広い駐車場の先に土塀の続く山門、その奥には本堂や庫裏、
左手には薬師堂が立つ堂々たる寺院が見えた
30番の玖延寺もそうだったがこんな場所にこんな大寺が、と驚いてしまった。一雲斎の謂れを見ると
「室町時代後期、川僧禅師により開創。川僧禅師は時の天皇が重病に陥ったとき宮廷に召され回復祈願したところ、
天皇はみごと平癒した。それ以来川僧禅師の名は全国に知れ渡り、信徒や諸国の大名の喜捨により、本堂は三層、
山門は間口十一間(20m)、奥行六間(11m)の二層で門弟は700人を超えていた。」
そうです。
今見てもその言い伝えが大袈裟ではないと思えるような堂々としたお寺だった。
 だがそれにしてもこの寺の名前は変わっている。まるで人の名前のようだ。お寺で変わった名前ですぐ思い出すのは
袋井の可睡斎や藤枝の盤脚院があるが、そのどちらの寺の名前も徳川家康が付けた名前だと云われている。
この一雲斎も徳川家康が命名したのかな?

 
                     一雲斎本堂                 お接待

 庫裏でご朱印を頼むとき、気になっていた寺の名前の事を聞いてみた。
「いえそんな話は伝えられていませんし、人の名前とも聞いていません。ただ袋井可睡斎と豊田の智恩斉、そして
ここの一雲斎で「遠州三斉」とは呼ばれています」

「遠州三斉」? 初めて聞く名前だが、ここ一雲斎と可睡斎は徳川家康と関連がある。ならば智恩斉も家康と何か
関係があるのではないかと、早速ネットを検索すると
「家康が信玄との戦いに敗れ、浜松城に敗走したが武田軍に追いつかれてしまい、戦況不利とみた家康が近くに
あった観音様に勝利を祈願した。この観音は、一生に一度しかも一言だけ願いを叶えてくれると伝えられており、
徳川軍は戦いには敗れたが、無事浜松城への退却に成功した。その後、この観音様は「一言観音」と呼ばれるよう
になり現在では智恩斎の山門脇に奉られている。」

ウーン! これで家康が観音様を智恩斉に移転させ褒賞を与えたなら、家康と智恩斉の関係が成立つのだが-------
 ついでに一言坂の戦いの有名な話も紹介しておきます。
「一言坂の戦いで徳川軍の本多平八郎忠勝は、得意の蜻蛉切の大槍を振り回し一人奮戦し、見方の軍を無事退却
さた。敵軍の武田軍から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と、その武勇を讃えられた。」

この中で出てくる「蜻蛉切」とは、刃長43.8cmの大身槍で、穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという
逸話もあり、天下三名槍の一つに数えられている。
さらに「唐のかしら」とは、家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指すそうです。
もう一つ寺の入口の看板の事を聞くと、以前にはあったが腐って倒れてしまったの止めたそうです。
 一雲斎では寺名の入った光背と、寺の紋所入りの菓子をお接待された。ありがとうございました。

 
                薬師堂                          薬師堂

 紅梅の咲く境内にある薬師堂に入り、一人お詣りをする。十二神将は見る事ができたが、薬師三尊の厨子の扉は
閉じられていた。