はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え 湯ヶ島

2012-05-31 16:07:40 | ウォーキング
天城越え2-2

湯ヶ島
 左側に元の湯ヶ島町の役場で現在は伊豆市の天城湯ヶ島支所になった建物が見える。でも同じ敷地内の建物の半分は民間の会社のような看板や旗が建っている。看板には「TOKYO RUSK IZUFACTORY」と書いてある。東京ラスク?知らないな。ラスクってあのパンを薄く切って油で揚げたやつ? まさかこんな場所でそんな物を売ったとしてもやっていけるわけはない。
それより驚いたのは役所だった建物を民間会社と共同で使っている事だ。平成の大合併の目的の一つに、幾つもあった自治体が一つになれば、その集中益で物も人も少なくて済む。という説明もあった。だが合併後本当に物や金が少なくなったのか一般住民にはわかりにくい状態だ。しかしこの民間とシェアしている湯ヶ島支所を見れば、伊豆市民は合併の効果を感じる事ができるだろう。上手い方法だと感心した。いや皮肉でなく本心からそう思う。

 街道歩きをしていると、人気の少ない商店街を歩く事は多い。シャッターが降りていたり、店内ががらんどうの店も見かける。その中で立派な建物なのに空き家になっているNTTの電話局を見かける事がある。あの建物もここと同じように民間に貸し出したらどうだろう。そしてその利益を、最近激減している公衆電話の歯止めに使ってくれると無携帯の私は助かるのだが。
 そうそう家に帰り東京ラスクの話をしたら妻は知らなかったが、娘は知っていた。あの建物は東京ラスクの伊豆工場だそうだが、何故輸送に不便な湯ヶ島に工場を建てたのだろうか?

  
  東京ラスク伊豆工場                     湯ヶ島市山の旧道 

 右手に旧道らしき道が伸びている。さっき狩野川を渡ったのだから、右に行くぶんなら間違ってもたかが知れていると入って行った。太い道の割には車は走ってなく、いかにも田舎の道になった。
正面に山が見えるが天城峠はどのあたりだろう等と考えながら歩く。道の高台には時折石仏があるがとても登って見る気にはならない。と思っていると今度は道脇に常夜灯と例の単座像の石仏が並んでいた。その石仏の後ろの崖に穴が空いていた。何だろうと覗き込んでみると箒が入れてあった。なんだ。
いや違う、今は掃除道具を入れてあるだけの穴だが、昔はこの穴の奥にイエスキリストを祀ってあった隠れキリシタンの聖地だった。その目隠しに石仏を置いたのだった。なんてくだらない事でも空想しないと飽きてきてしまう。

 旧道はまた国道と合流する。国道先の道には警官が何人か立っている。物陰には止まれの旗を持った警官もいる。スピード違反の取締り中のようだ。警察もゴールデンウイークの最中なのにえげつない事をするものだ。ここで捕まった観光客は二度と伊豆には来なくなるだろうに。それにしても捕まった人は可哀そうだ。これで9000円以上は盗られてしまう。近づいて見ると捕まっている車は2台で、いずれも伊豆ナンバーだった。

 取り調べをしている横を顔は神妙だが心の中でニヤニヤしながら通り過ぎる。
上り坂の道が右にカーブして小さな住宅に向かっている。いやこの道では無い。ともう1本あった山と住宅地を遮蔽しているフェンスの横の道に入ったのだが------
矢張りこの道が街道であるわけは無い。と思ったがはっきりする所まで歩いてみようと先に進んだ。じきにフェンスと道は終わり川にぶつかってしまった。仕方ないこれでは引返すしかないと住宅地の方に下り、庭作業をしていた人に聞いてみた。すると
「あそこは道じゃなくて土砂崩れを防ぐフェンスの土台で、下田街道は下の国道だ」そうです。
人の不幸をニヤニヤした罰が当たったのだろう。戻る途中立っていた警官に「街道かと思ったけど、この道は行き止まりでした」と言うと「そうですよ」と返ってきた。

   
  市山の石仏              警察の鼠取り             道が終わってしまった

 また左側に道があるが今度は入るのは止めよう。さっき間違えたのは街道と狩野川の間なら大丈夫の鉄則を忘れて、国道から山の方に入ったからだ。同じ失敗は二度はしないと通り過ぎようとしたのだが、案内板に気になる貼紙がある。「しろばんばの里」とある。
なに! しろばんばの里! それなら是非とも歩かなければならない。しかも貼紙には。「洪作少年が歩い道」ともある。イラスト化された観光地図の貼紙で現在位置を確かめて、行いきたい所を頭に入れてサー出発だ。

 最初に目に付いたのは「しろばんばの文学碑」の看板が立った公園だった。公園の奥にある文学碑にはしろばんばの冒頭が刻まれいた。
「その頃の、と言っても大正四、五年のことで、今から四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々に「しろばんば、しろばんば」と叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮遊している白い小さな生きものを追いかけて遊んだ。
素手でそれを掴み取ろうとして飛び上がったり、ひばの小枝を折ったものを手にして、その葉にしろばんばを引っかけようとして、その小枝を空中に振り廻したりした。
しろばんばというのは、゛白い老婆゛ということなのであろう。子供達はそれがどこからやって来るか知らなかったが、夕方になると、その白い虫がどこからともなく現れて来ることを、さして不審にもおもっていなかった」


 しろばんばを知らないって? しろばんばとは伊豆地方の呼び方で一般的には雪虫と呼ぶらしい。私の住んでいた御殿場地方では雪虫とかシロッコと呼んでいたような記憶がある。飛ぶと言うよりフワフワ舞っているような状態で勢いよく捕まえようとすると、その風の勢いでかスーと横に逸れてしまったりする。飛んでくるのは寒くなる前でこの虫が現れると寒くなると言った記憶がある。
最近では去年の11月に富士眺望トレインの明神山を歩いているとき何年振りかに見る事ができたのでチョット覗いてみてください。
 
 エッ!虫のしろばんばではなく小説のしろばんばを知らないって? ウーンあの小説は話の筋という筋は無く、親の都合で母親の実家に預けられた少年の目を通して、大正時代の湯ヶ島が描いている話です。更にこの小説で特異だったのは、少年を預かり一緒に生活した人が曾祖父の妾で、住んだ家が倉だったことで、これが話に膨らみを与え面白くしています。
この小説は井上靖の自伝的小説といわれ、後年になって自分一人を実家に預けた母親との心の葛藤を描いた「わが母の記」が現在映画化され評判を呼んでいます。

 話を元に戻して、その文学碑のある所は洪作少年とお婆さんの住んだ倉の家があったそうです。現在その倉は無く文学碑が建っているだけのようでした。
 公園の前には祖父母が住んでいた「上の家」あります。現在ある上の家は玄関の周囲はナマコ壁になっているが、さほど大きい家ではなく建物の造りも普通の家の感じだ。これではとても医者の邸には見えなかったが建てなおしたのだろうか? 井上靖の父親は軍医で母親の実家は湯ヶ島で医者をやっていたそうなので、もとっと立派で大きい家を想像していたのだが。

   
  文学碑のある公園              文学碑             上の家

 洪作の友達がいた雑貨屋の店、転校生がいた御料局など見ながら歩いていく。この先に小学校があるようだが現役の学校のようなのでパスしよう。そろそろ街道に戻ろうかと思った四辻の上の方に寺が見える。時間は10時40だが朝が早く腹が減ってきた、あの寺の境内で昼飯にしようと山門の階段を登って行った。
 左に石を組み合わせたような記念碑があったので近づいて見ると「亜米■賀使■泊」と書いてあるらしいが正確には読む事ができなかった。ただ最初の不明文字の旁が「里」なので多分「亜米利加」だ。次の不明の文字の冠が草冠のようだが分からない。
分からないまま更に記念碑に近づくと文章が彫ってあった。そこには

「湯ヶ島の村を通って、宿所の寺院へ向かう途中、その道路から私は右へそれた。そして、その瞬間、私は始めて富士山を見た。それは名状することの出来ない偉大な景観であった。(中略)その荘厳な孤高の姿は、私が1855年1月に見たヒマラヤ山脈の有名なドヴァルギリよりも目ざましいとさえ思われた。湯ヶ島の寺も梨本の寺と同様に、私を迎える準備をしていることを私は知った。アメリカ初代駐日総領事 タウゼント・ハリス「日本滞在記」岩波文庫」と刻まれていた。

そうか、ハリスは下田街道を歩いたのだから、どこかに泊まっている筈で、そのうちの一ヶ所がこの寺だったのか。なら先ほどの文字は使節団の節ではないか。となればあれは「亜米利加使節泊」と読めばいいのだろう。多分。

 ハリスと聞いて最初に思い出すのは「唐人お吉」のことだ。当時後進国だった日本に来た西洋人ハリスは当然の如く妾を要求し、下田芸者お吉を囲った。だが江戸に向かう時にお吉を捨てて行った。残ったお吉は皆に唐人お吉と後ろ指を指されて自殺してしまう。そんなイメージを持つハリスには余り良い感じは持っていなかった。
だがハリスが初めて富士山を見たときの感想を読んで、「偉大な景観で、その荘厳な孤高の姿」とか、さらには「ヒマラヤ山脈よりも目ざましい」とさえも言ってくれている。こんな感受性豊かな人が好色漢で非道な男とは思えない。どちらのハリスが本物なのだろう? 疑問に感じてしまった。
因みにハリスをネットで調べてみたら
「敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。下田の駐日領事時代に、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせるため、ハリスに芸者のお吉を派遣した。ハリスは大変怒り、お吉をすぐに解雇している」ちょっと待てよ、それでは今までのイメージが180度変わってしまう。しかしこれだけで判断しては片手落ちになりそうだ。続きは下田に行って、実際にお吉の墓などを見てから結論を出そう。

 お吉はともかく、その荘厳な富士山は見えるかと思い回りを見まわしたが富士山は見えなかった。この後、境内に上がって見えた富士山は-----

   
 亜米利加使節泊の記念碑                   弘道寺からの富士山

 天城山弘道寺の境内でまず目を引いたのは石灯籠だった。石灯篭の基壇は石垣で、その上の基礎の部分は2段になり、下段は文字、上段は植物(?)が彫られている。その上の反花も2段だが上に乗っている中台が変わっている。四方の面にはそれぞれ彫刻が施され、二体の仏に狛犬とか、彫の入った扉の所もあった。またその角の4カ所には彫貫された仏の立像がある。
石灯籠の主体である火袋は、これはただ四方をくり抜いただけの火袋だったが、その上に乗っている笠の軒先には桟のような模様も彫ってある。ただ笠の上の模様や宝珠は高すぎて見る事ができない。
今まで何個かの石灯籠を見てきたが、このように中台の部分に仏の立像があるのは初めて見た。きっと由緒のある石灯籠なのだろう。

 寺の裏山は墓なのだろうか、一番下は赤い前掛けをした地蔵のようだが、その上は古い墓石らしき物が何基も見えるが新しい物は見当てらない。墓が少なく山間地にある寺なら真言宗なのだらうか、雰囲気の良い寺でのんびり昼飯を取らせてもらった。
帰りがけ「弘道寺の文化財」と書かれた案内板があり眺めてみると、伊豆市指定の文化財として「ハリス宿泊時の看板と床几」とあるだけで、私が感心した石灯籠は書かれてなかった。やはり私には古美術などを鑑賞する目は無かったようだ。
そうそう寺の宗派真言宗ではなく曹洞宗だった。どうも雰囲気の良い寺はすぐ真言宗と思ってしまう癖があるようだ。

   
  天城山弘道寺                石灯篭            裏山の古い墓

 弘道寺を出て街道に戻る。左折して両側に家に並んだ街道を行くと四つ角に出た。確かこの角を右折して行けば、しろばんばの洪作が従姉弟と一緒に入った共同風呂もあるはずだが、どうしよう、見たい気もするし時間も気になる。今時間は11時10分で頭で計画した時間では湯ヶ島を11時は出るとなっていた。今から共同風呂を見て帰ってくれば小1時間は掛かるだろうから出発が12時になってしまう。止めた、止めた。どうせ風呂を見ても入ることは出来ないのだから。

天城越え 湯ヶ島

2012-05-27 18:36:58 | ウォーキング
天城越え2-1

場   所:静岡県伊豆市・河津町
歩行月日:2012/05/05
歩行データ: コースタイム
 修善寺駅-1:30-青羽根-1:30-湯ヶ島-0:50-浄蓮の滝-0:50-昭和の森-1:30-天城トンネル-2:00-水垂バス停

 歩行時間:8時間10分 休憩時間:2時間00分 延時間:10時間10分
 出発時間:7時50分  到着時間:17時00分
 歩数:43,570歩 GPS距離:33.5km

修善寺駅~湯ヶ島
 5月5日の子供の日の7時50分に修善寺駅を出発。
駿豆線にはザックを背負った人が10人ほどいたが皆バス停に向かっていった。どうやら下田街道を歩くのは私一人のようで、何故か山に向かう人たちを羨ましく感じてしまった。
 修善寺橋を渡り横目で愛童将軍地蔵を見ながら進むのだが、矢張り地蔵さんの名前がスッキリしない。昔は笠冠地蔵と呼んだらしいが、その方がピッタリする感じだ。
でも待てよ!笠冠地蔵と書くことは出来るが、実際は何と呼んでいたのだろう?カサカン、リュウカン、それともカサカブリなのか? そうなるとこちらもピンと来なくなる。カサ地蔵ではおとぎ話のようで、今一この将軍地蔵の雰囲気と一致しない。
仕方ない愛童将軍地蔵で納得しよう。

 天城越えの一回目は源氏の歴史がが主流だったが、二回目の今日は文学(?)が主流になりそうだ。
その兆しは横瀬の交差点を旧道の下田街道に入る所から始まる。修善寺の温泉地を流れ狩野川へ流れ込む桂川に架かる湯川橋は、伊豆の踊子と主人公の一高生の出合いの場所で、そこの案内板に紹介されている伊豆の踊子の一節には
「私はそれまでにこの踊り子たちを、二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島に来る途中修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った」とあり、ここが20歳の一高生と14歳の踊子の出会いの場所だ。
その一高生より50近くも年の多い私も、橋の袂の木の切り株の中にあった、まだ新しいお地蔵さんに「今日は素晴らしい出会いがありますように」と願掛けをして湯川橋を渡った。

  
  踊り子との出会った湯川橋                   橋の袂の石仏

 一回目で下って来た道と出合う場所の高台に「水神社」がある。登って見ると「満月坊由来碑」や他にも石碑があったが特に気になる物も無く、水神社はさらの上に登った所にあるようなのでパスすることに。
街道に戻り、前回渡った橋まで行くと橋の正面の家の看板に「紅粉屋」と書いてあるのを見つけた。紅粉といえば白粉の事だろうが、修善寺温泉の街の中ならいざ知らず、何故こんな場所に化粧品屋があるのだろう? 不思議にに感じていた。後でネットで調べてみたらなんと菓子屋だった。店を見る限り営業をしているようには見えないが、ネットでは現在も営業しているように書いてあった。
紅粉!べにこ! あっそうか子供のころ家で餅を搗いて紅白の餅を作るとき、母は小さなガラス瓶に入った赤い塗料を振り掛けていた。たしかあの塗料の事を「べにこ」と言ったはずだ。なら紅粉屋が菓子屋でも不自然ではない。でもこんな寂れた場所で商売になったのだろうか?

  
  水神社                             紅粉屋

 木立野と風情のある名前のには道祖神が幾つも祀ってあった。そのどれもが単座総髪で笏を持っている道祖神だった。
道が国道136号に合流し、そこから喧しい国道歩きになる。
道路標識には「天城湯ヶ島7km 下田46km」とある。ここから下田まで46kmなら1回目のとき江川邸や修善寺温泉に寄らず街道だけを歩いて行けば、湯ヶ島まで歩けただろう。そうなれば2回目は湯ヶ島から下田までの39kmとなるので2回で完歩できる計算になる。でもそれでは東海道日本橋の二の舞になって、ただ歩くだけで後であれを見ればよかった後悔してしまうだろう。今回は3回で正解だと自分を納得させながら歩いていた。

   
  木立野の道祖神

 「狩野城跡」とあまり聞いた事のない城の看板が見えてきた。知らない城の割には大きな看板で「室町~江戸時代の日本画壇の本流 狩野派発祥の地」とも書いてある。看板にある写真には城跡が公園のように整備されているように映っている。ここから500mとの表示もあるがどうしよう。500mで城跡に着くなら良いが、この看板は車用なので500m先に駐車場があるという事だろう。そこからどのくらい歩くのか、随分迷ったが今日はこれから天城峠を越さなければならない。先がもっとはっきりするまでは時間のかかる寄り道は我慢しよう。

 アラアラまた狩野城跡が誘ってくる。今度は「狩野城跡遊歩道入口」の看板が建っていた。これでは行くしかないと遊歩道入口の階段を登って行く。少し登ると眼下に狩野川と国道136号が見えてきた。これはまさに城の見晴らし場所としては最適そうな場所だった。だがここの城は何の目的に作ったのだろう。修善寺側からの防御か、あるいは西伊豆方面から来る海賊への防御か、それとも下田方面からの敵を考えたのか。所詮考えたところで分かるはずもないのだが、やはり登って良かったと思いながら石垣のある道を上に向かう。
「狩野城跡生活環境保全林」と書かれた看板があり、その横の標識に「本郭25分」と書いてある。ここから本丸まで25分もかかるという事は見学時間を含めると1時間以上必要になる。こりゃぁ駄目だと慌てて引返すことにした。

 狩野城について少し知らべてみた。
「狩野城は平安末期狩野氏によって築かれた。 狩野氏は平安時代からの伊豆の実力派土豪であり、鎌倉・室町両幕府に仕えた。 明応2年からの北条早雲の伊豆侵攻の折、狩野氏は足利方に付き戦ったが敗れて開城した。その後、一族は小田原に移り、北条氏に仕えた」とあった。
一方日本画壇の本流の狩野派を調べてみたが、余り芳しい情報は無かった。フリー百科のウィキペディアによると
「伊豆狩野氏の末裔との伝承がありがあるが、これは一つの伝承や逸話の域を出る物ではない。一方下野(しもつけ)出身説は種々の資料を見ても有力である」とあった。
もうこうなると私の妄想力も追いつかないが、狩野派の出身が伊豆ならば何故(かの)でなく(かのう)なのだろうとは感じる。

  
  国道沿いの狩野城入口                     狩野城入口から狩野川と国道

 這う這うの体で国道に引換し湯ヶ島に向かうとじきに青羽根に入った。このにある日帰り温泉施設「湯の国会館」は伊豆の日帰り温泉の先駆けのような温泉で、日帰り温泉の数が少ない時代は大儲けをした部類に入るだろう。今日も大型の観光バスが2台も停まっているので今も繁盛しているようだ。

 出口の交差点を通過するたびに思うのは、この地名はここが人間界の出口であって、ここから先は魔物の世界すなわち山賊、海賊の領分となる証ではないだろうか。そして出口名物「出口の黒玉」は魔物にぶつけた石が飴玉になった。と考えると面白いのだが。
 
 国道の道路標識が「天城温泉郷5k 下田42k」となった。50分前に見た標識は天城湯ヶ島は7kで下田が46kとなっていた。それがここでは天城までは2k減り、下田は4k減った事になる。道路標識は目的地が遠い所では、目的地の代表的な物までの距離で、近くなると具体的な場所になるという。それなら最初にあった天城湯ヶ島は湯ヶ島の旧役場を指して、天城温泉郷はその先にある落合楼などがある場所なのだろう。
いずれにしろ修善寺駅を出て1時間30分でGPSの郷里は6.1kになっている。時速約4kmは見学をしなかった割にはユックリペースだ。これは天城に向かって道が上り坂になっているせいなのだろうか。余計な計算をして疲れが増してしまった。

 国道を歩くのも煩くて嫌になってきた。丁度左側に旧道と思しき道の入口があるので入って行った。国道は湯ヶ島の手前で狩野川を渡るので、この辺りは国道と狩野川の間を歩く限り問題は無いだろう。尤もその道が途中で終わってしまったら困ってしまうが。
旧道に入ると車はなくなり突然静かになる。道脇の小川は透き通った水を勢いよく流していて、すでに盛りを過ぎた石楠花が寂しげに咲いていた。
今日はこれから行く昭和の森で石楠花を見る事も考えていたが、この分では標高の高い昭和の森ならまだ十分見頃のはずだ。頑張って歩こう

  
  湯の国会館                         石楠花

 旧道のMHの蓋が石楠花と伊豆の踊子になっていた。ならこの辺りは旧湯ヶ島町なのだろうか。そのマンホールの先に何とも不思議な石が建っていた。縦長の石には土台が付いているので当然石仏なのだろう。しかし石仏の知識の無い私には何の仏か分からない。縦に長いからお地蔵さんなのかと思えるが、石の膨らみ具合など見ると像の鼻のようにも思える。丁度近所の屋根で作業をしていた人がいたので「これは何を彫ってあるのですか?」と石碑を指さして聞くと
「何もしてないよ」と答える。意味が通じてないかと思い再度聞いてみたが答えは同じだった。本当にそうだろうか???だ。
この後も湯ヶ島に入ってから、例の単座総髪で笏を持っている石仏の名前を聞いみた。お年寄りだったが
「事故か何かあって役所が付けたもので名前は知らない」だって。今日は聞く人を間違えているようだ。
 
   
   MHの蓋                   不思議な石造物(正面)     側面

 何か分からない石造物を過ぎると国道の「吉奈入口」交差点と合流した。吉奈温泉なのだろう。今日歩いてきた途中にあった地名は感じ良いものが多かった。木立野、松ヶ瀬、青羽根、月ヶ瀬、吉奈、嵯峨沢とどれもが雰囲気のある地名だ。昔の人は地名も地域に合わせて付けたのだろうが、最近の地名は役所が適当にに付けている感じがする。私の住む「つつじ平」もツツジは公園にあるくらいの物で、昔ツツジが多かったわけではない。これでは地名に愛着が湧いてこなくても仕方ないと思うのだが、そんな事を考えるのは私ぐらいなのか。

ようやく狩野川を渡り市山交差点に着いた。この交差点を右折すれば狩野川の右岸を下って修善寺まで行く事ができる。その道の方が車も少なく歩きやすいそうだったが、そうなると下田街道を歩かないで湯ヶ島まで来てしまう。それも何か淋しい感じがして止めたのだが-----
それにしてもこの右岸の道を修善寺から更に下って行くと大仁の大仁橋に着く。あの橋の袂の水晶山が通り抜けられれば下田街道は一度も狩野川を渡らず三島まで行ける。今では何の支障も無い水晶山も当時は越すに越せない理由があったのだろうか。

週末情報

2012-05-25 10:13:19 | ウォーキング
 先日静岡空港の展望広場の紹介で、飛行機の発着時の姿を下から見る事が出来ると書きましたが、自分で確認してないので少々気になっていました。そこで昨日車でその検証をしてきました。

   
    着陸時

  
   離陸時

 展望広場には大砲レンズを構えた人もいましたので、飛行機を見るポイントとしては良さそうです。
しかし何せ発着の回数が少ないので、飛行機の時間を確認してから行った方のが無難です。
(11時20分から12時ごろにかけてが一番発着が多いようです)


 ついでに棚田の状態も見てきました。

 
 
 下段にある棚田には水も入り田植えを待つばかりの状態でしたが、上の方はご覧のとおり畔の草刈りも終えてない状態です。
今日明日中に草刈りをするのかどうか? 棚田の公式HPを見ても分かりませんでした。
 

 

天城越え 指月殿

2012-05-23 17:34:55 | ウォーキング
天城越え1-9

修善寺駅
 独鈷の湯は現在は足湯になっているのか、温泉の塀の隙間からは服を着た人たちがしゃがんでいるのが見える。その入口にはそれに入る人達が並んでいた。ただ案内板には「独鈷の湯は、観光施設として管理されており、入浴はお断りしています」と書いてあった。
そしてその独鈷の湯からすぐの所に「河原湯」と名前の付いた足湯があった。5・6人入れば一杯になるような細長い小さな足湯だったが、こちらは年配の人たちが利用していた。
足湯が二つあればこんな使い分けもでき、中々気が利いていると感じたが、先程の「入浴はお断りしています」が気になった。足湯に入るのは入浴とは言わないのだろうか? 
因みに伊豆市や伊豆市観光協会のHPの足湯紹介には、河原湯はあるが独鈷の湯は無い。しかも独鈷の湯を紹介しているブログの中には「足湯としても利用できない」としている物もあった。
一体独鈷の湯は足湯として利用して良いのか、悪いのか、どっちだろう。今日見た感じでは年代により上手に使い分けができていたので、当然二つあった方が良いと私は感じたが。。
どっちにしても伊豆市はもっと明確にすべきだ。駄目なら独鈷の湯に「入湯禁止」の貼紙をすべきだし、足湯がOKならHPなどで足湯として紹介すべきだ。もちろん案内板も変更した方が良い。

 桂川を渡り「竹林の小径」なる場所を通り更に上流に遡る。この辺りまでは散策する観光客が多かったが、再度桂川を渡ると観光客の姿は見えなくなった。この先には源範頼(のりより)の墓があるのだが普通の観光客は興味を感じないようだ。私だって修善寺には何度も来ていたが、今までここには来たかことが無かった。

 車道を横断し高台への道の先に源範頼の墓があった。源範頼は先ほど寄った日枝神社に幽閉されていた人物だが、それ以外の知識は無かったが案内板には
「源範頼は頼朝や義経と兄弟で、義経とは共に木曽義仲や平家を破った。頼朝と義経の中が険悪化し、頼朝が義経討伐を範頼に命じたが応じず、そのため頼朝に疑われるようになった。
その後、曽我兄弟の仇討の際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子に「範頼がいる限りご安心を」と慰めため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は必死に弁明に努めたが、遂に修善寺に幽閉され、更に梶原景時に攻められ、日枝神社したにて自害した」
となっていた。
 こうして読むと頼朝とは随分疑り深い性格なのかと感じてしまう。中国地方の武将の毛利元就ではないが、頼朝兄弟の父義朝が「三本の矢」を子供に教えていれば日本の歴史は随分変わっただろう。

   
  独鈷の湯                         源範頼の墓 

 源範頼の墓より上流には修善寺の奥の院があるようだが、時間も4時を過ぎてしまったので今日は止めよう。
帰り道に桂川の右岸を下って行くと今度は源頼家の墓の標識があった。ここまで来たならもう寄るしかないと路地に入り階段を登って行く。
鎌倉幕府二代将軍でしかも地元では愛童将軍と慕われていたのだから、さぞかし立派な墓だろうと想像したが、その期待は見事に外れた。先ほど寄った源範頼の墓よりも粗末で、しかも最初に墓と思ったのは供養塔で、墓はその後ろに隠れるようにある五輪塔だという。
その供養塔には「征夷大将軍左源頼家尊霊」と誇らしい名前が刻まれているが、その割には小さな石碑で名前とバランスを欠き余計淋しげだった。

   
  鎌倉二代将軍源頼家の供養塔                   頼家の墓

 頼家の事をもう少し紹介したい。
源頼朝と北条政子の嫡男として生まれ、二代将軍になった頼家は、次第に乳母の実家の影響を受けるようになった。そのため母政子の父、北条時政の顰蹙をかってしまい、時政は孫の頼家を修善寺に幽閉しってしまった。その時の事を横瀬の愛童将軍地蔵の案内板では「鬼よりも尚残酷たり鎌倉執権時政に、孫の頼家将軍を伊豆修善寺の山の家に出家となして押し込めてたり」と紹介している。
 ちょっと待って!この鬼より残酷な時政は、地元伊豆の出身ではないか。それなのにこんなにアクドク言われる理由は何故だろう。普通なら地元贔屓で全国的には悪人でも、地元では名君とされ慕われるケースが多いと思う。例えば忠臣蔵の吉良良上野介や賄賂政治を行った田沼意次などがそうだ。なのに時政は地元でも嫌われている。
大体静岡県出身の歴史上に人物というと、北条時政と政子親娘、今川義元、山田長政、由比正雪ぐらいの者か。源頼朝は数年伊豆に居ただけで、徳川は三河の人。となると時政は初代鎌倉幕府執権で、政子は尼将軍として日本の歴史に影響を与えている。それこそ伊豆いや静岡の代表選手だ。なのに嫌われている理由は何か?

 時政は孫の頼家を抹殺し、三代将軍に頼家の弟の実朝を将軍にしている。その時実朝は12才で実権は執権時政が握っていた。これで終わっていれば時政も「鬼より残酷」とは言われなかったのだが、時政は若い後妻の甘言に誘われ、孫の将軍実朝朝を殺害し、娘婿を新将軍として擁立しようとした。しかしそのことを政子に知られ陰謀は失敗する。結局時政は出家させられ伊豆の北条へ隠居させられた。
まだある。だがここから先は憶測にすぎないが------
時政の陰謀から逃れた実朝だったが、1219年正月、鎌倉鶴岡八幡宮で正月の祝賀を行い御所に帰る途中、大公孫樹の陰に隠れて「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ、二代将軍頼家の子供公暁に襲われ落命した。
さてここで気になるのが「親の敵はかく討つぞ」と叫んだ言葉だ。この言葉は後世の作文かもしれないが、下手人の公暁としては父親が殺され、次に将軍になった実朝を親の敵と思ったのかもしれない。だが実朝が将軍になったのは12歳の時で実朝に陰謀を謀ることが無理なのは誰が考えても分かる事だ。なのに公暁は実朝を親の敵と思っていた。
その理由として、将軍実朝が邪魔になった時政が、頼家の子、公暁に「お前の親を殺したのは実朝だ」とそそのかしたとも言われている。だがこの説は眉唾だ。時政は実朝が暗殺されるより4年も前に伊豆で死んでいる。
叔父の三代将軍実朝を暗殺した公暁は、その場で捕えられ殺されてしまった。これで源氏の血筋は途絶えてしまい、四代将軍は京の藤原家から迎えるしかなかった。浅はかといえば浅はかな公暁の行為だった。

 小さな五輪塔の頼家の墓の近くには、母親の北条政子が我が子のために建立した「指月殿」や、頼家の家臣の「十三士の墓」があり、ヒッソリ眠る頼家にとってせめてもの慰めに感じた。
 
  
  指月殿                            十三士の墓

 桂川の橋を渡れば来た道に戻るのだが、それでは面白くないとそのまま川の右岸側の道を行く事にする。
「ホテル桂川」の横から道は上り坂になってきたが多分大丈夫だろう。道は太いし最悪遠回りになったとしても下田に向かう国道に出るはずだとそのまま直進した。
 「修善寺ハリスト正教会」が建っていた。案内板には明治に建てた教会で静岡県の文化財になっていて、中には見事な聖器物があると紹介しているが教会内部には入れないようになっていた。

 行に歩いた道が随分下に見えてきて、少々不安を感じてきたときジョギングの人が近づいてきた
「済みません。この道は修善寺駅に行きますか?」と聞くと
「この先で国道に出るので、左に行けば国道沿いに駅に行くし、右のトンネルを通ってその先で下に行けば旧道経由で駅に行きます」よしそれならトンネル経由で行こう。


    
   ハリスト正教会                        越路トンネル

 トンネルを潜ると狭間というバス停の所から下る道があった。多分ここを下れば下田街道に出るのだろ。しかしその下田街道は次回歩くので今日はなるべく歩きたくない。そこで途中から脇道に入る事にした。
道路脇の祠の中に髪は総髪で後ろに流し、手には笏を持っている今日何回も見た石仏が座っていた。まだ新しく近代的な面立ちをしている。多分賽の神だろうと思ったが正確には分からない。たまたま近くにおばあさんが草取りをしていたので
「この石仏は道祖神ですか。それとも賽の神ですか」と聞いてみた。
「このへんでは道祖神と呼んでますよ」と返事が返ってきた。
ウーンこれが道祖神か、なら賽の神はどのような形だろう?と改めて疑問が深くなっててしまった。
ネットの紀行文を読むと、賽の神とか道祖神を言い切っているものがあるが、その根拠は何なんだろう? 私の拙い知識では文字で賽の神とか道祖神と書いてないと判断できない。だが道祖神と書いた石碑は良く見かけたが、賽の神と書いた物は見た事がない。ウーン分からない。

 道が狩野川沿いの下田街道に出たが、少し右に狩野川の橋が見えていた。このまま街道を左に下って行けば修善寺駅方面に行くのだが、そこは次回歩く予定になっている。それならあの橋を渡って狩野川の右岸を行こうと橋を渡って行った。
勘は見事に当たり途中からは狩野川沿いの遊歩道になり横瀬の交差点の所にある修善寺橋に出る事が出来た。

5時30分修善寺駅到着。駅の近くのコンビニで氷結を購入。1回目の天城越えの完歩を祝う。
それにしても1回の歩きの報告に9回も掛けるなんて、幾らなんでも遅すぎだ。次回はもう少し簡潔にしなければ。

  
  道祖神                          修善寺橋

週末情報

2012-05-21 12:07:40 | ウォーキング
 昨年紹介した牧の原倉沢千框の棚田の田植えが始まる次期が近づいてきました。
棚田の見ごろは田植えの前後の田に水が入り、稲が大きくならないうちが良いと思います。
そこで案内です。今年の田植は6月上旬となっていますが、詳細は棚田の公式HPで確認してください。
それと私の昨年の紹介ブログです。

 距離は12km程度と短いですが、天気次第では枚の原公園から富士山や大井川、志太平野が一望できます。
また、お茶の里では新茶の試飲もできますし、牧の原の大茶園の中も歩きます。
棚田を見学した後は旧東海道の石畳を歩いたり、深い空堀が残っている諏訪城跡も見学できます。
見所の多いコースですので、きっと満足してくれると思います。是非歩いてみてください。

天城越え 修善寺温泉

2012-05-20 11:27:47 | ウォーキング
天城越え1-8

修善寺温泉

 横瀬の交差点から下田街道は国道を離れて狩野川沿いの道になる。
しかし今は修善寺温泉に向かうので、街道には向かわずそのまま国道を進んで行く。

 石屋の前にちょっと変わったものが置いてあった。臼のように丸くくりぬいた石の穴の中に、色の付いた大理石の様な真丸な石を置いてある。その石は表面に水が付いて濡れていて、クルクル回っている。触ると手が濡れてきた。
ウーンこれは最新式な手水鉢なのだろううか? 回りに誰もいないので聞く事が出来なかった。
それにしてもなぜ石が水に浮き回っているのだろう? その時は水の勢いで回るのだろうと納得したが、後で考えてみると腑に落ちなくなってしまった。丸い色の付いた石は重そうなので、その重みで下の穴の開いた石から浮くはずがない。では何故回っていたのか?
疲れから何か勘違いしていたのかもしれないし、そもそも手水鉢ではないかもしれない。知っている方がいたら教えてください。

 国道の反対側に「脩善寺道」と彫られた石碑が見える。脩善寺道??修善寺の事だろうが脩善寺とも書いていたのか。いや若しかしたら寺の名前が脩善寺かと思い調べたが、そんな事も無かった。
写真を拡大すると石碑の上の方に「SHUZENNJI」と英語が書かれているので古い石碑ではない。「修」の字を行書で書くと「脩」に似てくるのか? これも意味不明で分からないままになってしまった。

  
  手水鉢??                           脩善寺道?

 「桂谷第二十九番 千手観音 四国摩尼山国分寺」と彫られていて、中央に僧の姿のある石碑が建っていた。
このように図形が入った石碑は珍しいが一体何の石碑か。その隣の案内板には「桂谷八十八ヶ所 第二十九番 本尊千手観音菩薩」とあり、その後に和歌が書かれていた。
これは時々お寺で見かける四国の写し霊場なのだろうか、調べてみると四国の二十九番は間違いなく摩尼山国分寺だった。
この桂谷八十八ヶ所の石碑は、この後も所々で目にした。気になって家で調べると
「昭和5年、修禅寺38世丘球学老師は四国八十八ヶ所の全霊場の土を持ち帰り、その土を修善寺温泉周辺の八十八ヶ所に分けて移しました。そして自らの筆になる弘法大師の像と四国札所本尊の梵字、名号を刻んだ石碑を建立し「桂谷八十八ヶ所」を開きました」となっていた。なるほどあの石碑の僧は弘法大師だったのだ。

    
  桂谷八十八ヶ所第二十九番                     第二十八番

 温泉地に入ったようで道の両側に家が立ち並ぶようになった。小さな町なのに畳屋が近い所に2軒もあったが、これは旅館からの需要が多いからだろう。しかし旅館も徐々に洋風化されてきているので、いつまで2軒で営業できるやら。世知辛い世の中になったものだ。
狭くなった道の両側に旅館やホテルが出始めると、だんだん温泉地の雰囲気になってきた。今日はゴールデンウイークの初日だが江川邸や反射炉は閑古鳥が鳴いていたが、ここ修善寺温泉は観光客の姿も多く頑張っているようだった。

 右手に狭い参道の割に大きな木がある「日枝(ひえ)神社」に着いた。今までも何回か修善寺温泉には来ているが寄った事のあるのは、お寺と独鈷の湯だけだったので今日は覗いて行こう。
案内によるとこの神社は「源範頼(のりより)が幽閉されていた場所」と書いてあるが、源範頼って誰の事ななのだ? さっき横瀬にあった愛童将軍地蔵は源頼家だったが今度は範頼ときた。似たような名前で訳が分からなくなってくる。
境内には浴衣に丹前を羽織った若いカップルが「子宝の杉」の間を手をつないで渡っていた。

 案内板には他にも気になる事が書いてあった「日枝神社は修善寺の鬼門にあたり、弘法大師の建立といわている。元は修善寺の山王社(鎮守)であった」とある。
待てよ!。以前島田の山中にある天台宗の古刹智満寺に行ったとき、その境内に「日吉神社」があったので何故だろうと思い調べた事がある。その結果日吉神社や日枝神社は天台宗の守護神で山王はその別名。また日枝神社の日枝は比叡山の比叡から来ているともあった。
その何が気になるのかって? だって弘法大師は高野山の真言宗で、比叡山延暦寺の天台宗の最澄とは宗敵ではなかったのか。その敵の本拠の守護神の日枝神社を、自分の寺の守護とするだろうか。私には納得いかなかった。

    
  日枝神社参道        子宝の杉              一位樫

 修善寺に3時50分到着。横瀬から40分かかっているが日枝神社に寄ったりしているから妥当な時間だろう。
修善寺の階段を登り境内に入ると境内の中はフリ-マーケット開催中で、何だコリャアって感じだった。だがそんな事よりここでも気になる事が発生した。
修善寺の正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」略して修禅寺と呼んでいるらしい。だがその宗派は何と何と曹洞宗だった。まさにそんな馬鹿な!だ。
ここに来る途中にも修善寺の住職の開いた四国霊場桂谷八十八ヶ所もあったし、寺の前には弘法大師が発見した独鈷の湯もある。なのに真言宗でなく曹洞宗とは恐れ入った。一体なぜだろう?
分かったのは、勿論開基は弘法大師だったので当初は真言宗だった。それが鎌倉時代に中国の僧が寺に軟禁された後、臨済宗に変わって、さらに室町時代に入り伊豆韮山の城主になった北条早雲が曹洞宗にしていた事だった。
宗教といえども、いや生産性のない宗教だからこそ継続していくには時の権力者の庇護が必要だったろう。先の大戦でも日本の宗教者の多くは戦争賛美をしたという。これも生き延びるためには仕方ない事だったろうが何か淋しい。

 修善寺といえば温泉、寺、独鈷の湯そして岡本胡堂の修善寺物語が有名だ。「修善寺物語」は読んだことはないが何となく知っていたが、丁度良い機会だと思い調べてみた。
「源頼家は父頼朝の死後二代将軍となったが、叔父の執権北条時政により修善寺に幽閉されていた。そのころ伊豆修善寺桂川の畔に夜叉王という面作りの名人が、二人の娘と暮してた。夜叉王の名声を聞いた頼家は自分の顔を後世に残すべく、夜叉王に命じて面を注文した。だが夜叉王が幾度打ち直しても頼家の面から死相が消えない。催促する頼家、それを拒む夜叉王の間に入り娘は父親に無断で面を頼家に渡してしまった。しかしその夜に頼家は北条の討手に襲われ殺されてしまった」と。細部を省略すればこんな粗筋です。

 修善寺の境内は幽玄に満ちた物語とは裏腹に、喧騒に包まれいて長居をする雰囲気ではない、先を急ごう。

  
  修善寺山門                       修善寺境内

週末情報

2012-05-18 09:12:08 | その他
先週末「浜名湖ガーデンパーク」に行ってきました。
イエ今回は歩きでなく車で女房孝行です。

色々な花が見ごろで妻は大感激。入場料・駐車場は無料ですので元手いらずの儲けものでした。

日ごろは自分の歩きばかりしている貴方! 私を見習ってくださいよ。

 
(旧)モネの庭には水連が数輪                蔓薔薇の通り抜けもあった

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5月13日に富士山静岡空港に行ってきました。ハイこれは歩きです。

以前から飛行機が離着陸をするところを下から見たいと思っていて
開港当時に金谷寄りの滑走路に入り込み空港職員に退去させらた経験があります。
(滑走路とはいえ空港連絡の高台のフェンスの所です)
その時「空港トンネルの所に公園があり、そこからなら飛行機を下から見られる」と教わりました。
その後2回ほど空港トンネルを調べに行ったのですが、そのような公園は見つかりませんでした。

そして今回は、ともかく海側(吉田)から農道を上に登って見ようと出かけました。
その道を簡単に説明します

国道150線の富士見橋を渡り、県道79号に入り西に向かう。
神戸の交差点を過ぎ、共同醤油の辺りから登りになり、その頂点近くにある信号を右折する。
あとは北西に向かう舗装道路を上に上にと登って行く。
途中にある吉田町のリサイクルセンタを通り過ぎると滑走路の誘導灯が見えてくる。
更に上に向かっていくと道が左へと大きく曲がりこみ、先には滑走路が見えてくる。
その回り込んだところに「富士山飛行場展望広場」ある。
広場には東屋やトイレも設置されています。
帰りは先ほどの道を下って行くと坂部と飛行場を結ぶ県道73号に出ます。
以上の道は普通車なら支障なく通れます。

 
 滑走路入口                        展望広場

距離 富士見橋-展望広場 7.6km 約1時間40分
    展望広場-飛行場  6.0km 約1時間10分

歩きの時は神戸交差点の先にある自彊小学校の裏の道を行った方のが距離が短くなりそうです。

注:富士山空港はなにせ発着する飛行機が少ない。
  そのため展望広場に11時20分ころに着くようにした方がベターです。
  私は広場に9時に着いたため、次の離着陸は1時間半後になってしまい諦めてしまいました。

 
  飛行場に行く道                     飛行場下にある石雲院山門

 
  富士山静岡空港                     牧の原台地から大井川

天城越え 修善寺

2012-05-17 15:47:19 | 低山歩き
天城越え1-7

大仁橋~修善寺橋
 広瀬神社を出ると大仁の中心街なのか狭い道の割には車の量が多く歩きづらかった。そんな道の横に案内板と庚申塔が並んでいる。
東海道で相模の国を歩いていて、庚申塔に「三猿」が彫られているのを見てから、必ず庚申塔の台座も見ろようにしている。だが今日はここまで歩いてきて庚申塔は幾つか見たが、そのどの塔にも三猿は無かった。伊豆地方は三猿を掘る習慣は無かったのか? 案内板には
「庚申さんは、猿田彦と結びついており、十二支の中の申を動物の猿になぞらえてもので、さらに猿田彦を刻む庚申塔が道祖神・賽の神として発展した」と書いてある。
これで庚申が猿に関係していることは分かるが「庚申塔に猿田彦を刻む」とはどういう事なのだろう。庚申塔に刻まれているのは、手が何本もあり、その手に仏具等を持った「青面金剛」だと勉強した。だがここには猿田彦が彫られているとある。
猿田彦は鼻が高く、祭りの行列の先頭を歩く天狗が猿田彦なのだから、伊豆の庚申塔は天狗が彫られているのだろうか。それなら興味深いのだが。
だが案内板の横に並ぶ庚申塔は、文字が刻まれているだけで天狗も青面金剛も彫られていなかった。

猿田彦を後で調べてみると、こんな表記もあった。
「天孫降臨の際に道案内をしたことから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が猿田彦神として祀られている。さらに江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられた」となると庚申塔に鼻の高い姿の仏が刻まれていても、あながちおかしい事ではなさそうだ。

 車が多くせせっこましい道路には似合わない物があった。それには「霧時雨 富士を見ぬ日ぞ おもしろき」と彫られている。
そう芭蕉の句碑です。この句は東海道箱根の西坂を下ってきた所にも立っていたので覚えていたのだが、こんな場所にもあるなんて少々ビックリした。
箱根では富士山を望む場所に建っていたので、富士山が霧で見えなかった事に「おもしろき」なんて負け惜しみを言っている芭蕉にニヤリとしてしまったが、この街中ではそんな感興は起きてこない。そのせいか句碑も汚れて文字もはっきりしていなかった。

  
  大仁の庚申塔                          芭蕉の句碑

 道が右に曲がった踏切の先に赤いアーチの大仁橋が見えてきた。下田街道はここで狩野川を渡り左岸を遡るようになるのだが少し違和感を覚えた。今まで歩いてきた右岸の先には支障となるような山は無く、線路も道路も平坦のまま先に伸びている。なら何もここで狩野川を渡らなくても、そのまま右岸を遡れば楽だったと思うのだが? ただ橋の袂にはとんがり帽子の様な山(水晶山)があるのが気にはなるが。

 大仁橋の袂には幾つかの案内板があり、その中の「大仁の歴史」の中にこんな記述があった。
「明治33年 伊豆長岡~大仁間の豆相線開通。大正8年 駿豆鉄道全線電化 三島~大仁間 大正13年 大仁~修善寺間開通」となると大仁から修善寺までの間は、大仁に駅が出来てから25年も後の事になる。となれば大仁・修善寺間に線路を敷設するのに何か不具合があったとしか考えられない。とするとそれは狩野川が邪魔をして鉄橋を架ける事が出来なかったからに違いない。
では何故鉄橋が必要か、それは川の縁にある水晶山と、現在北側に続いている山とが繋がっていたからだと思う。そのためトンネルを掘るか橋を架けるにしても金がかかるので、25年もの間修善寺には線路が伸びなかったのだろう。とまたまた妄想的歴史観が働いた。
それにしても線路の所が山だったとは今見るととても考えられないが。

 案内板の記述にまた引っかかった。それはこの鉄道が開通当初は「豆相線」と呼んだことだ。豆は伊豆、相は相模の略だから伊豆と相模を結んでいることになる。しかし三島は伊豆で相模に行くには箱根を越えなければならない。では何故豆相線と呼んだのだろうか? これは調べたが分からなかった。 ただ妄想的歴史観は、鉄道敷設当初は伊豆と小田原まで結ぶ構想があったといっている。

 更に大正8年の全線電化時は「豆相線」「駿豆鉄道」に変わっている。これは明治39年に沼津停車場前~三島広小路間を駿豆鉄道が開業し、その駿豆鉄道が豆相鉄道を買収したからのようだ。これで駿河の沼津と接続して線路の名称としては違和感は無くなった。
ただ現在は修善寺と三島だけで沼津には伸びていない。だから正確には伊豆線か三修線と呼ぶべきだろう。

 現在大仁橋が架けられている水晶山は、江戸時代は渡し船の乗り場として賑わっていただけでなく、材木の集積場としても賑わっていたようです。
狩野川の上流の天城山中から切り出された木材は、原木のまま狩野川に流され、この水晶山の麓で集めて筏に組み、ここからは筏師により下流の沼津まで運んでいたようです。その筏を岩につないだ穴が今でもあるそうですが、残念ながら表示が無いので分からなかった。

 そうだ水運となると韮山の反射炉で鋳造した、使い物にならなかった大砲は、どうやって品川のお台場まで運んだのだろう。調べてみるとやはり狩野川を利用して沼津まで運んでいたことが分かりました。

   
  踏切の先に大仁橋が                         水晶山の慰霊碑

 大仁橋から狩野川を眺めると釣り人の姿が見えるが何を釣っているのだろう。鮎にしては早すぎる気もするが、鮎の試し釣りなのかもしれれないな。川の流れの穏やかな時はのどかに見えるこの光景も、台風ともなると一変して地獄図になってしまうのだろう。特に橋の所は橋桁に上流からの流出物が溜まり、ダムのようになってしまうようだ。それにより左右の堤防を越えて水がを襲い、さらに増えた水は橋を押し流して、溜まっていた大量の水を土砂と共に一気に下流に押し出してしまう。
先ほど見た大仁橋の案内板には、流された大仁橋の写真もあった。きっと狩野川台風の被害はこの辺りでも出たのだろうが、まだその慰霊塔は見ていない。水晶山の慰霊碑は大正時代の慰霊碑だった。

 狩野川を渡った正面の高台に「大仁金山」の看板が見える。あの金山は「天正年間に発見され、金山奉行大久保長安により開発され、最盛期は慶長年間でだったが後に休山」と先程の案内板に書いてあった。でも以前にここを車で通った時は、金山の看板と同時に建物も有った記憶がある。さらに金山が潰れて後は「帝産??」とかいって遊園地をやっていたと思う。
案内板の「その後休山は」昭和の事か? それとも江戸時代の事なのか??

 大久保長安の名前が出てきたので、またここでチョット脱線する。
大久保長安は初め甲斐の武田家の家臣だったが、長篠の戦で武田が敗れた後、徳川家康の家臣となった。東海道を歩いていて一里塚の看板に何度かこの長安の名前が出てきたが、長安は鉱山開発だけでなく一里塚などの交通網の整備もしたらしい。佐渡金山をはじめ石見銀山、土肥金山、大仁金山などを手掛けた長安は家康に気に入られ、その権力は巨大なものになっていた。
だが全国鉱山からの金銀採掘量の低下すると家康の寵愛を失い、役職を次々と罷免されてしまった。そして失意のうち慶長18年卒中のために69才で死去した。
この後が面白い。長安の死後、生前に不正蓄財をしていたという理由で、長安の男児は全員処刑されてしまった。さらに家康は長安の墓を暴き半ば腐敗していた遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で晒し首にしたといわれているている。
これぞまさに盛者必衰の見本のようなものだ。

 私は権力などいらないが、ほんの少しでも金は欲しい。昔の金山は砂金があった事で見つけたようだが、最初に砂金を見付けた人は何故内緒にしなかったのだろう。私なら決して口外せずに砂金を貯めこんで、離れた場所で少しづつ使うのに------
静岡県はこの大仁金山や土肥金山、それに安倍奥の日影沢金山などの金山があるので金が多いのかもしれない。こうして静岡県内をあちこち歩いているのだから、たまには嬉しい事にぶつからないかしら。
エッ!それには街道歩きや低山歩きでは駄目で沢登りをやらなきゃダメだって。そうなんですよね、でもこの齢で沢登りはさすがきつすぎます。

 街道を離れて金山跡の下まで行ってみたが、中には入れそうもないので、また街道に戻りました。

  
  大仁橋から狩野川                          大仁金山跡

 立派な「南無阿弥陀仏」の石碑が建っているが、これもどうやら唯念名号塔らしい。この名号塔は彫がはっきりしていて「天下泰平 国土安穏」とか「元治元年」とか読み取れた。横には行くもの石仏があったが、こちらは名号塔より古い感じがした。
 更に街道を進むと黒塗りの長屋門があった。いつの時代の長屋門なのか分からないが、案内板がない所を見ると最近の物なのかもしれない。だが石垣の上にのった長屋門は中々見ごたえがあり、昔の金山に関係していた邸かとも思ってしまった。
 
    
  唯念名号塔              瓜生野の石仏 

 静かな雰囲気だった街道が国道と合流すると俄かに喧しくなった。修善寺の横瀬の交差点が渋滞しているのか、伊豆に向かう車が長い列を作っている。昔はこの信号が渋滞のネックだったが、最近は修善寺道路が開通したので、渋滞は解消したと思っていたがそうでもないようだ。たった5km程度走るだけで200円は高いと感じる人がいるのだろう。これを100円にすれば大概の車は修善寺道路を通ると思うが。

 横瀬の信号の川寄りに笠を被りカラフルな毛糸のケープを掛けた大きなお地蔵さんが建っていて、その下には緑色の毛糸の帽子を被り桃色の涎掛けを掛けた小さなお地蔵さんが六体もある。またその地蔵の横には「南無阿弥陀仏 天下泰平 国土安穏」と刻まれた唯念名号塔と思しきものも建っていた。
その塚の外に「鎌倉二代将軍源頼家公尊像 愛童将軍地蔵再建記念」の石塔がある。ならこの大きな笠を被った地蔵は源頼家なのだろうか、地蔵の横に案内板があるが、小さな字で一杯書いてあるので読んでいられない。で家に帰りデジカメで写した案内を読んでみたので、地蔵に関する所だけ概略を紹介します。
「横瀬愛童将軍地蔵
鬼よりも残酷な鎌倉執権時政は、孫の頼家将軍を伊豆修善寺の山の寺に出家させた。子煩悩な頼家公は鎌倉に残してきた愛児のことを忘れられず、里の童を集めて遊んでいた。元久元年七月、頼家公は鎌倉の討手により捕えられ、裸のまま縛られて23才で無残な最期を遂げた。
 如何に武運が尽きたとしても将軍を斬り刻んだ姿は誰が見ても哀れだった。里人これを聞き、怒りを含んで浄財を集め、石の地蔵尊を狩野川の月見ヶ丘に安置した」
という事だそうです。

ネットにはこんな事も書いてあった。「修善寺橋たもとの西側にある小山を月見ケ丘といい、頼家が修善寺で幽閉された折り、この丘に登り身の不運をなげき、月見をしたといわれている。この小山の中腹に、頭に石をのせた地蔵があり、笠冠地蔵といったが、今は移され、愛童将軍地蔵として橋のたもとにまつられている。高さ2メートル近い大きさの地蔵像である」
笠冠地蔵か、その名前の方がピッタリくる感じだ。

  
  瓜生野の長屋門                          横瀬愛童将軍地蔵

 横瀬の交差点は修善寺駅と修善寺温泉の分岐点で、ここを左折して修善寺橋を渡れば修善寺駅に行く。
今時間は15時10分で時間的には余裕があるが、ここから温泉まで4km以上なら今日は温泉に行くのは止めようと思っていた。
4kmだと行に1時間、帰りに1時間そして見学とかで30分以上かかるだろうから、駅に着くのが6時ごろになってしまうからだ。
だが本当は今日はダラダラ歩いたせいか少し疲れてきていて、歩く気は無くなっていた。しかし道路標識を見ると修善寺温泉までは2kmとなっていた。
残念!それでは温泉まで歩かなければならない。萎えた気分を振り払い温泉に向かって歩き出した。

天城越え 広瀬神社

2012-05-15 18:10:14 | 低山歩き
天城越え1-6

大仁
 反射炉から下田街道に戻る。 この辺りは右側に狩野川が流れているはずなのだが、手前に国道が走っていて川は見る事が出来ない。狩野川は見えないが狩野川の対岸にある葛城山と城山が間近に迫って見えている。葛城山の山頂にはアンテナやケーブルカーの鉄塔も見えていて、その城山が真横に見えるようになれば大仁の町になるのだが、それにはまだ時間が掛かるだろう。

 街道の左手に石碑が2基見えている。近づいて見ると一基は「南無妙法蓮華経」と刻まれた髭題目で、もう一基の方は句碑のようだがよく分からなかった。しかしこんな古い石塔があるからにはこの道は旧街道に間違いないだろう。
暫く道なりに進んで行くと分岐化が何ヵ所もあらわれ、どの道が街道か分からなくなってしまった。しかし今回の街道歩きは道筋には左程拘っていないので気楽に勘に任せて進んでいった。それでも事前路調べた情報では、確かこの辺りで隋応寺という寺の近くを右に曲がり、線路や国道を越すはずなのだと寺を注意して歩いていた。

    
  狩野川越しに城山と葛城山                    横山坂の髭題目

 左側に「萬霊等」と太く彫られた石碑のあるお寺を見付けた。今まで「三界萬霊等」は見た事はあったが、上の萬霊等だけで下の三界の無いのは初めて見る。調べてみるとどちらも同じ意味で、しかも「等」「塔」と同じだとあった。
因みに「三界萬霊等」の事は、東海道三島宿で書いたが再度紹介すると、
「三界とは生れ変り、死に変わりする世界のことであり。万霊とはありとあらゆる精霊のことである。 故に三界万霊とはこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである」とか
「三界とは欲界、色界、無色界をいい、万霊とは欲、色、無色界の精霊の全てをさしている」 それらを供養することが三界萬霊塔だそうです。

 余計な事に気を取られてから寺の名前を探したが何処にも書いてない。こういう寺も珍しいなと思ってフト白い小さな看板を見ると「墓地分譲中 隋応寺」とてあった。オッ!今日は前世の私が憑いていてくれているのか勘が冴えている。

 寺の次の分岐を右折することにした。間違いなければその先には六角堂跡の御門区集会所があるはずだが、今日はツイテいるので大丈夫だろう。
線路を渡り国道を横断して葛城山に向かうように歩いていくと、前方に何個かの石碑が見えてきた。やはり今日はツイテいた。案の定六角堂跡の集会場だった。そこの案内板には
「六角堂は奈良仏教の倶舎、誠実、律、法相、三輪、華厳の象徴として建てられもので、伊豆半島には六角堂と称されるものは二堂しかない」とあった。余りよく分からない、いや全然理解できないが珍しい六角堂が建っていた跡地だと思っておこう。

 その案内板の横に見にくい御門地区の案内図があり、この先に供養塔が建っているとある。何の供養塔かわからないが狩野川の近くなので狩野川台風の供養塔かもしれないと寄ってみる事にした。
 あの分かりにくい案内図で良く辿りつけるものだと自分でも感心してしまったが、迷いもせず供養塔らしき場所に到着。そこには
「頼朝(らいちょう)塚(経塚) 頼朝坊が全国を回って法華経を収めてきたが、その最後にこの地で大供養を行い経を収めた」とあり、小高くなった塚にはいくつかの石碑がが建っていた。これが供養塔? ちょっと疑問だったがこれで良しとしよう。それにしても頼朝塚は仮名が振って無ければ源頼朝と勘違いしてしまいそうな名前だった。
頼朝塚からの帰りは慎重を期して六角堂跡まで同じ道を戻りました。

    
  隋応寺の萬霊等               頼朝塚の石仏

 再度国道を横断し田京駅の手前の踏切を渡り、暫く行くと左側の田京幼稚園の先に石碑が見えてきた。近づいて見ると今度は間違いなく狩野川の洪水の供養塔だった。「田中村洪水殉難者供養塔」とあるが、田中村??聞いた事がない。石碑の側面に「大正9年9月30日26名溺没」と書かれている。大正か、それなら私が知っている狩野川台風よりズート前の話だ。
狩野川は過去何度も洪水に襲われているが、私の知っているのは昭和33年の台風22号の狩野川台風だ。この台風により発生した被害は死者1000名を超えたという。その頃中学生で同じ静岡県東部に住んでいた私も、新聞などを読んで胸を痛めた記憶がある。今日は慰霊碑があったらお詣りをしたいと思っていたが、大正も昭和も犠牲になったのは同じことだと、手を合わせ心の中で般若心経を唱えた。

    
  田中村洪水殉難者供養塔                     広瀬神社(裏入口)

  「縣社 広瀬神社」の石碑が建った神社の鳥居を潜って入った神社の由緒書を読むと、こんな事が書かれていた。
「社伝によれば、そのむかし三嶋大社は下田の白浜からこの地に移り、後に三島に遷祀した」とある。となると三嶋大社は下田の白浜神社が元で、次いでこの広瀬神社に遷宮して、さらに三島へと移って行った事になる。本当かしら? 興味を覚えて家に戻り調べて見ると白浜神社には面白い伝説が伝わっていた。

「三島大明神はその昔、南から海を渡ってこの伊豆に来て、白浜が美しいこの地に着かれました。白浜に着いた三島大神は、この伊豆の地主の富士山の神様に会って伊豆の土地を譲っていただきました。しかし伊豆の土地があまりに狭かったため島造りを始めました。
初めて造った島なので初島と名付け、次に神々が集まって相談する島神集島(現在の神津島)、次に大きな島の大島、次に海の塩を盛って白く造った新島、次に三人の御子の家を造った三宅島、次に三島大神の蔵を置くための御蔵島等で、最後に10番目の島は十島(現在の利島)をつくりました。
7日で10の島を造りあげた三島大神は、その島々に后を置き、子供をつくりました(この后々や子供達は、現在でも伊豆の各島々に式内社として祭られています) 三島大神は、后達やその子供達を大変愛していましたが、その中でも伊古奈比命は特に愛され、三宅島に宮を造りいつも一緒にいました。その後最愛の后である伊古奈比命(いこなひめのみこと)を連れて再び白浜に帰って来ました。そしてこの白浜に大きな社をつくり末長くこの美しい白浜で暮らしました。それが、この伊古奈比命神社(白浜神社)です」
更にその後「国府のある三島に遷座した」そうです。

 そうなると広瀬神社の由緒書に書いてある「三嶋大社は広瀬神社から遷祀した」もあながち作り話ではなさそうだ。そうなると三島の地名は三嶋大社があるから三島であって、三島にあるから三嶋大社ではなさそうだ。さらに穿った見方をするなら三島大明神の名前は三宅島に住んだことがあるから三島大明神になったのではないだろうか? と想像をたくましくしていたのだが、こんな説もあった「三嶋大明神は安志我良(あしがら)、珠流河(するが)、賀茂(かも)の三つの洲(島)の神である」エッ!駿河の神様だった??? こうなると何が何だか分からなくなる。神々の話は難しすぎるのでもう止めよう。

 広瀬神社の境内には古社らしくご神木の楠木もあり、その根元の洞には祠が置かれていた。また神社入口にある狛犬は毬を手にした形で製造は昭和11年と新しかった。八坂神社であったように古い狛犬を展示してくれてあるとありがたいのだが、そんな気配は無かった。と思っていたら新しい鳥居の前には、更に新しい狛犬が鎮座していた。

 神社に古い広瀬神社の絵があったが、そこには城山や葛城山も描かれていた。さらには富士山も書かれていたが、今日は霞んいでいて実際に富士山が見えるかどうか確かめることは出来ない。このような場所に展示される絵は、浮世絵のように誇張された絵よりも、このように写実的な絵の方が、実際の風景と照らし合わせる事が出来るので余計親しみが湧いてくる。
広瀬神社も絵に描かれたものと写真のものと比べて似ていると思いませんか。
 
 
 ご神木の楠木     広瀬神社の古絵           広瀬神社    

天城越え 反射炉

2012-05-10 18:13:38 | ウォーキング
天城越え1-5

江川邸~反射炉
 江川邸に昼には入場料200円が必要だ。靴を脱いで座敷に上がる気はないが、中庭の特別公開をしているとの看板に誘われて入る事にした。
この江川邸は確か中学のバス旅行で来たはずだが覚えているのは土間に籠が吊るしてあった事と、大黒柱に生きている木を使っている事ぐらいだった。それが今ではどうなっているのだろう。

 邸に中に一歩はいると、天井が無く梁の構造がそのまま見える広い土間になる。そこには想像した通り籠が吊り下げられていたが思ったより小さく粗末な籠だった。私が中学時代といえばすでに半世紀以上前の話で、当然何もかも古くなっていて当たり前だ。
生き柱も煤で黒くなり、それが徐々に剥がれかけていてあまり綺麗には見えない。中学時代は生き柱の話を素直に信じたので、今でも覚えていたのだが人生の汚濁に染まって50年。すっかりへそは曲り、頑固爺になってしまった今は、生き柱の話は素直に頭に入ってこない。
「江川氏がこの地に移り住んできた時、生えていた欅の木をそのまま柱として利用したとされる柱。現在の主屋よりさらに古い、前身となる建物の柱だったと考えられる」と紹介されていた。
だが江川氏がこの地に来たのは「保元の乱(1156年)に敗れてこの伊豆に落ち延びてきた」とある。なら今から850年以上前で、欅が生きていれば凄く太くたくなっている筈だ。とここまで書いて気が付いた。生き柱とは木を生かしたまま使うのではなく、生きた木を柱に使うが、当然木は幹の上部を切られて死んでしまう。
馬鹿だな~ こんな当然な事も分からず、生きている木を柱に使っていると50年も信じていたなんて。自分で思うほど私は偏屈では無いのかもしれないな。

 土間から出ると欅の葉が陽を受け、明るい淡緑の景色を見せていた。

   
  江川邸玄関         土間の生き柱                米蔵

 座敷には上がらず特別公開の裏庭に入る。特別何があるわけでもないが新緑に木々や竹林、池などが配置された庭を散策するのは気持ちが良い。その中で目を引いたのは「韮山竹」だった。竹に吊るした案内によると
「太閤秀吉が小田原を攻めたとき、側近の千利休が竹の花入れを作った。その花入れは竹にひび割れがあるところから、園城寺の割鐘に見立てて「園城寺」と名付けた。その竹はこの韮山竹が使われた」とある。
白いテープで印のしてある竹の根元を見ると確かにひびが入っている。マーこれで花入れを作ったのだから水は漏れなかったのだろうが、わざわざ傷物を使い、それを珍重する侘び寂の心は私には理解不能だ。もし貰える物ならこんな竹でなく黄金で造った花入れの方がよっぽどかも嬉しいのだが。

 「パン祖 江川坦庵先生邸」の生き看板(?)が建っていた。江川太郎左衛門は日本で最初にパンを作ったのは知っていたが、どのようなパンを作ったのか調べている途中に面白い記事を見付けた。
「江川がパンを作ったのは天保13年(1842)頃で兵糧食・非常食として乾パンを作ったようです。でも実はパンは戦国時代にポルトガルが持ち込んでおり、当時にも兵糧食として使われたそうです。鎖国後も長崎出島でパン製作は続けられていました。
そうなると「パン祖」という呼称は何でしょう、江川研究家の仲田正之氏によれば「江戸で評価を得なければ、何事も完成と認められぬという風潮」があり、江川が「パン祖」と呼ばれることになったのだそうです」
なるほどな~。

   
  韮山竹              裏庭             パン祖の看板 

 江川邸から反射炉に行くには先ほど出合った県道を南に行くようだが、昨夜地図を見る限り山越えをしても行けそうに感じていた。そこで江川邸の受付の人に「反射炉に歩いて行くのに、山越えの道はありませんか?」と聞いてみた。
すると「この受付の前の道を行けば山越えが出来ます。車も通らず静かな道で所々に案内板もありますよ」だって。これで決まった。
実はここ韮山には江川邸と反射炉以外にも寄りたい場所として、頼朝が流刑された蛭が小島と北条氏の氏寺の願成就院があった。しかしこの山道を行くとそのどちらからも遠く離れてしまう事になる。ウーンどうしよう、行きたいけど行きたくない。困ったものだ。
そこで行かない言分け材料として蛭が小島は何も無い所に石碑と銅像があるだけ。それに現在の願成就院もただのお寺だと考えた。
でも行きたくない本当の気持ちは、ここから願成就院に行くには西に2km行って、また2km戻って反射炉に行かなければならなくなる。これが億劫だったのだ。時間の余裕はあるが同じような道を行ったり来たりするのはどうも気が進まない。ヨシこのまま山越えをしよう。

 山越えと言っても舗装された道で大型車以外なら通れそうな道だった。それでも行き交う車も人もいず今日初めて静かな道になった。
道の横の高台には蕗がや蕨が一杯生えている。だが私が地元で採るような廃茶畑の中とか、山の斜面でなく平らな草地に生えている。これなら取り放題で、すぐザック一杯になるだろう。
そこで思い出した。先日の新聞で「伊豆で山菜泥棒を逮捕」の見出しで「伊豆の山菜畑から蕨を無断で採ったとして5名逮捕。多い人は4k程度の蕨を持っていた。中には「自然に生えてくるのを何故とって悪いのだ」と抗弁する者や、素直に謝罪する者もいた」と載っていた。
私がもし地元で逮捕されたら「何故悪い」と居直るだろう。それは採る場所が廃茶園で人の手は入っていないからだ。だが今見えるここの蕨や蕗は自然に出てきたというより栽培している感じがする。それを採るとなるとやはり泥棒だろうな。
それにしても暇な警察だ。山菜泥棒を捕まえるために山に張り込んでいたのだろうか? それとも農家の人が捕まえて警察に突き出したのだろうか?

  
  高台の石仏                         峠の石仏

 峠と思しき所に石仏があった。やはりこの道は古くから使われていた道なのだ。特に反射炉が出来てからは、代官所の役人が反射炉へ行く道として使い、時には代官や供回りの者が馬を走らせたりしたことだろう。想像しただけで嬉しくなってくる。
峠越えの道は要所要所に標識もあり迷う事は無かった。ただ反射炉の近くで東西に延びる道に合流したとき、その場所の標識が反射炉は東の方向で、江川邸は西の方向を指していた。今歩いてきたのは北からだったので違和感を覚えてたがそのまま標識通りに東に向かった。
反射炉が右下に見えてきたが道は一向に下る気配が無い。だが何とかなるだろうと、そのまま進んだが結局反射炉へ下る道は出てこなかった。下に見える反射炉に強引に下るにはフェンスがあって下れない。諦めて戻るしかないようだ。
間違って登った道の先に背の高い銅像が見えた。江川太郎左衛門の銅像か? 侍が刀を杖に建っている姿だが、のっぺりした長い顔は何故か威厳を感じられない。一体誰の銅像だろう? 標識も無いが上に公園でもあるのだろうか?
行って確認したい気もあったがネットで調べればわかるだろうと諦めて元来た道を戻った。だが家に帰りネットで検索したがこの銅像の事を書いたものはヒットしなかった。あーあ行って確認すればよかった!

     
    反射炉の裏道から         誰の銅像?

 戻る途中、虎ロープを張り「関係者以外立入禁止」の貼紙の処から下を覗きこむと、な~だ、スロープの下には反射炉の駐車場が見えた。何の事はない、ここを下れば反射炉なんだとロープを跨いでスロープを下って行った。
「立入禁止」じゃないかって? だってあれは車向けの表示であって歩行者は関係ないよと思う事にしたのです。
それにしてもさっき有った標識は何故違う方向を指していたのだろうか? きっと標識が動いて方向違いを指すようになってしまったのだろうが、直さないと私のように間違える人がでて来るだろうな。それともズンズン登って行くのは私ぐらいで、普通なら下も確認してから歩いていくので大丈夫かな。

 下にある大きな駐車場は入口も虎ロープを張って駐車している車は1台も無い。このゴールデンウイークの最中というのに観光客は少ないようだ。そういえば先ほどの江川邸も見学している人は少なかった。このような歴史遺産は人気が無いのだろうか?
考えてみれば地元の静岡県に住む私でさえ50年ぶりの見学になるのだから、何度も来てみたくなる観光地では無い事は確かなのだろう。

 何々「反射炉世界遺産に」の幟が立っている。正直に言って反射炉だけでなく江川邸、蛭が小島をセットにしても世界遺産なんて無理な話だと思う。仮にここが世界遺産になって外国からの観光客が来たら、皆ガッカリして帰る事になるだろうな。
仮にも世界遺産ですよ。国内の観光客さえまばらで人気のない場所なのに何が世界遺産だ。只々話題を呼んで人を集めたいだけなのだろう。

 1回目の天城越えを終えた翌日の5月6日の新聞に「伊豆の国市の市長が記者会見を開き、同市にある国史跡「韮山反射炉」のユネスコ世界文化遺産登録に向けて、取り組んでいくことを明らかにした。
韮山反射炉は、大砲などを鋳造するために幕末に建設された反射炉としては、世界で唯一現存する施設で、昨年世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の30ある構成資産の一つに選ばれている」
とあった。
まんざらゼスチャだけではないようだが、前途多難というより私と同じような誇大妄想の気があるような構想だ。そんな背伸びをする前に、現在の観光客やリピターを増やす方策を地道に考えるべきだろう。

 因みに反射炉とはウィキペディアの受け売りだが「燃焼室で発生した熱を天井や壁で反射、側方の炉床に熱を集中させて金属の精錬を行う」事だそうです。
また、この反射炉の建造を手掛けた江川太郎左衛門は、反射炉の完成前に死亡しているそうです。そして作った大砲は、これまた江川太郎左衛門や大場に久八が築いたお台場に設置されたが、射程距離は黒船の大砲より短く、使い物にならなかったそうです。

江反射炉の入場料は100円だったが所詮は反射炉を近くで見るだけだ。今日は止めておこう。

   
  江川太郎左衛門と反射炉    単語節句の日の反射炉          反射炉