はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江33観音5-1

2010-05-31 17:57:25 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り5-1回目        2010/05/28


    3.1k  1.5k  5.5k  0.9k  2.9k  0.9k  5.5k  4.7k  1.4k
金谷駅-26番-25番-23番-21番-20番-19番-27番-28番-菊川駅
    45   22   1:21  15   37   11   59   60  14 

 歩行距離     26.4k
 総時間      8時間07分
 歩行時間     5時間44分
 平均歩行時速   4.6k

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   26番 妙国寺へ(石畳)

 金谷駅を6時半出発。今日は予想距離が30k以下なので、もっと遅い時間でも良かったがこの時間の電車なら座れる事が分ったので5回とも同じ電車になった。

 金谷駅を出て東側に少し下った所にあるガードから旧東海道に入る。早速登り坂が始まり、まだ遍路モードになっていない身体なので、きつく感じてしまう。
前回の遍路では掛川坂があったが、ここは金谷坂と呼ぶらしい。兎も角小夜の中山周辺は坂が多い。

          

坂の途中に「中山新道・金谷側入口」と書かれた案内板がある。
(中山新道のことは以前このブログでも取り上げて、歩く積りだったが天気が悪くなって中止して、そのままになっている。この道は現在は旧国1と重なる所が多いいが、一部薮漕ぎをする場所があるようなので夏草が生茂っている夏は避け、冬になったら歩いてみようと思っている)
 看板には「中山新道とは日本最初の有料道路で、金谷宿から日坂宿までの6.7kを開通して有料道路とした。鉄道が開通するまでは利用者も多く賑ったが、開通後は利用者が減ってしまい、丸9年で有料道路は廃止され国道に編入された」と書かれている。
この看板では中山新道が必要だった理由として「公衆の便宜をはかるため」書いてあるが、実際は中山峠付近の森林の伐採で、材木の搬出に牛馬や荷車も通れる道が必要になったかららしい。
ようは近くにある旧東海道の石畳は牛馬や荷車は通行禁止だったので仕方なく新道を開通したのだろう。

 坂が終わりホッとしたのも束の間、次は石畳の坂が始まる。歩こう会でこの石畳を歩くときは皆に遅れまいと必死になって歩くので立札を読むことも写真を撮る事も出来ないが、今日は一人、周囲を見ながら歩く余裕もある。そして毎回感じる石畳への疑問を又もや感じながら歩いていた。

          
 
その石畳が終った所に「明治天皇御駐輦址」と彫った石碑が建っていた。「輦」字は読めなかったが、きっと車の事だろうと判断した。明治天皇が自家用車でここに来て景色でも眺めたのだろう思った。しかし考えてみると、それも変だ。石畳は牛馬や荷車は通行禁止なのに自家用車が通れたのか?天皇陛下の事なので禁止も何も無いだろうが、車では通れそうもない。しかし荷車の通れる中山新道や国道はここより離れている場所にある。となると「輦」とは輿のようなものなのか? 疑問は解決しないまま家に持ち帰り「輦」の字を調べてみた。
「人の手で押し、または引く小形の車。2本の柄のついた手押しの一輪車。自家用の人力車」など出ている。さらに
「牛車の通行を禁じた皇居の内郭で乗る手車」ともある。あくまでも車でもって輿ではない。そうなると天皇陛下も大変なものだ。クッションも何も無い車で石畳の上をガタガタしながら乗っていなければならないなんて。明治天皇でなくて良かった。

          

 金谷の石畳を登りきった所で東海道と別れ茶畑の中の道を行く。牧の原の大茶園はこの辺りから始まるのだが、土地が平らなので広さを実感できない。茶畑を見るなら平地より斜面の方が眺めは良い。それにしても大きい貯水タンクが幾つもあるものだ。

 今日は八寺打つ予定だがその内四寺はお堂なのか地図に載っていない。昨晩PCのヤフーの地図で調べてあるが、札所付近の道は明確ではなかった。そうなれば仕方ない、兎も角その付近に行ってお墓を探したり寺やお堂らしき屋根を見つけるしかない。それでも駄目なら誰かに聞けばよい。幸い今日は山の寺はないのでその点は気が楽だ。
寺のあるを坂の上から見るとお寺の屋根らしき物が見えた。あとはそれを目指して行って大成功。今日最初の札所は簡単に見つけることが出来た。

          

 26番妙国寺の入口に丸い黒と白の石が左右に置いてある。どちらも剥がれやすい石で先日聞いた馬蹄石かもしれない。だが聞くような人はいなかった。
境内から東海道線が見えるのんびりした札所だ。

           


    25番 岩松寺へ(歩き観音)

 今来た道を少し戻り川沿いに北に進む。並列していた東海道線の上りと下りの線路が離れだした。何だろう?と先を見るとトンネルになっていてトンネルが一つしかない。それを見て明治時代は大きなトンネルを掘る技術が無かったのだと一人納得していた。50m離れた場所にもトンネルがあった。覗いてみると穴が二つあり一つは架線が張ってなく廃線になっている。何かの理由で明治時代に掘ったトンネルの一つを止め、50m離れた所の新しくトンネルを掘りなおしたのだろう。でも何故だろう?
何でも気になる私だから、この様な遍路を飽きもせずできるのかもしれないな。

          

 川を渡りサーここからは注意して歩かないと。すぐ古い石の道標があった。25とか岩とか松の字を探すが見当たらない。関係ないか。

           

次に出てきたのが細い道。簡易な舗装はしてあるが丸石を滑り止めのように置いてある。これでは車やトラクターは通れないから人間専用の道だろう。様子を探りに入ってみる。雰囲気は良かったが、その先は草が生え木が生茂り暗い感じになっている。参道ではないかもしれないが何故か気になりそこも入ってみることに。暗いせいか草は無くなったが枯れた竹が何本も覆いかぶさっている。もうここまで来たら進むしかない。戻っても知れているだろう。

           

今日は付いている。竹薮が終ると自然石を並べた入口と古仏があった。もう間違いは無い、この道は参道だ
参道と林道と合流した所に札所があった。こう書いていると大分近道なったと思うかもしれないが実際は20mくらいでしかない。しかし距離ではなく気分の問題だ。今日は付いている!

 25番札所には「歩き観音」を祀ってあった。歩き観音とは
「山道にひっそりと立っていた観音様を見て里人は「さぞ淋しかろう」と往来の多い小夜の中山峠に観音様を移してやった。ところが翌日里人は驚いた。確かに移した観音様が元の場所に立っていた。足元を見ると土埃で汚れている。これはきっと観音様が自分で歩いて帰ってきたのだろうと「歩き観音」と呼んでお参りをするようになった」
歩き大好きな私には似合っている観音さんだ。丁寧に「延命十句観音経」あげた。

           

遠江33観音5回目

2010-05-28 18:14:42 | 寺社遍路
 遠衛33観音の5日目の遍路に行ってきました。

金谷駅を出て旧東海道の石畳を登った所から東海道と分かれて18番、17番と打ち、菊川の間宿で、また東海道と合流。
小夜の中山一里塚まで東海道を歩いてから再度別れて23番へと。
それから21,20,19,27,28と合計8札所を回ってきました。
最後は菊川駅にゴールの26.4kと最短の一日でした。
でもそれないに疲れています。

遠江33観音4-3

2010-05-26 20:23:16 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り4-4回目        2010/05/17


   3.6k   1.6k   2.3k   1.4k    7.1k    3.4k   7.1k   4.2k
川駅-新福寺-天養院-真昌寺-浄円寺-観音堂-長福寺-観音寺-金谷駅
   38    18    30    20     1:42    55    1:32   48 

 歩行距離     30.7k
 総時間      9時間10分
 歩行時間     6時間43分
 平均歩行時速   4.6k

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   22番 長福寺へ(ご朱印帳)

 山頂の神社を後にして茶店に向かった。途中麓からも見える送信所のアンテナの脇を進んでいくとベンチを置いた広場がある。そこは桜の木が何本も植わっていて景色は見えない。

          
茶屋は平日なので休業しているのか閉まっていた。その屋上に出て景色を見るが、先ほどのお堂の前の広場から見た景色の方が数段もよく感じる。こっちは桜の粟ヶ岳を売りたいのか桜を植樹してあるので、それが視界を邪魔している。あと数年も経つと桜の木は更に大きくなって視界を塞いでしまうのではないか不安に感じるほどだ。
こうなったらせめてお堂の方は桜を植えないでくれと願うばかりだ。

 昼飯を食べ林道を下り始める。次の札所は下に見える東山集落の中にある寺なので目標を付けやすい。
茶屋のすぐ下に舗装がされていない林道の分岐があった。そこは「崩壊のため車両進入禁止」となっている。舗装された林道でなく山道を歩きたい思っていたが残念ながらが諦めるしかない。

更に下ると道の壁面に写真付きの看板があった。そこには粟ヶ岳の山腹に見える「茶」の字の一画目(草冠の横棒)の終りがこの辺りだと書いてある。見ると桧の木が真直ぐ一列に植えてある。近すぎてとても字には見えないがなるほどと納得した。今までは「茶」なのだからお茶の木を植えて書いてあると思っていたが、そうではなく桧だったのだ。

          
          

 林道を山スタイルの格好が馴染んでいる中年女性が一人で登ってきた。
「東山に行きたいのですがハイキングコースはないですか」と聞いてみた。
すると驚いた事に先ほどの車両禁止の道の先にあると言う。
「でも入口に車両進入禁止と書いてありましたけど」
「車両進入禁止で人は進入禁止とは書いてなかったでしょ」だって。
分岐点で看板を確認するが、なるほど歩行者の事はいっさい書いてない。だがハイキングコースの事も書いてない。女性は「この道を行って大きな木の先に、下る道がありますよ」と教えてくれたあと登って行った。
有難うございました。今日は3人目で気持ちの良い女性にあえる事ができた。しかも「茶」の字も確認できたのだから、この通行止めの看板もハイキングコースの表示の無いの良かったと思うことにしよう。

          

 林道を歩いて行くと見たことのある場所に。なんだコリャ!先ほどお参りしたお堂の横に出た。例の竹の子取りの軽トラはこの道を来たのだと納得もした。そしてハイキングコースの入口もあった。きっとこの道は昔の参道だったのだろう。

 前方の高くなった所に寺の屋根が見える。あれが次の札所の長福寺なのだろう。地図と景色を比較しながら道の検討をつける。
「東山いっぷく処」と名のついた茶屋の横で林道と合流した。ここはバスの終点で更に茶屋の上には駐車場もある。きっと粟ヶ岳のハイキングコースの拠点は此処なのだろう。

          

 札所には先ほど検討をつけた道でバッチリ行き着くことができた。境内から粟ヶ岳の方を眺めると桧の木で書いた「茶」の字がはっきり見える。これで遠江の難所は無事通過したと思うとホッとする。休憩を兼ねてゆっくりお参りをしよう。

          

「ご朱印をなさいますか」と住職が声を掛けてきた。
「遠江33ヶ所は無住の札所が半分以上あるのでご朱印はやっていません」
「半分以上?そんなにありませんよ」少し気を悪くしたようだ。そう指折り数えてみれば1/3位が無住なのかもしれない。だが留守のような寺もあったし、管理人の場所を表示してある札所も一ヶ所もなかった。これでは歯抜けばかりの朱印帖になってしまう。
話をしていると住職が「遠江専用のご朱印帳がある」と言い出した。これには少々驚いた。今まで2ヶ所の札所でご朱印帖のことを聞いたが「無い」と言っていた。それがここでは「有る」と言う。話の流れで「では一冊譲ってください」という事になり住職が持ってきた物を見ると間違いなく遠江専用のご朱印帳だった。
前回の遍路で知人が「遠江専用のご朱印帳がある」と教えてくれたのは眉唾情報だったと決め付けてしまったがご免なさい謝ります。
値段は「定価は書いてないが一冊300円頂きたい」との事だったので、知人への謝罪の分も合わせて2冊購入した。

          

そして朱印代はというと、なんと100円だった。今まで四国や秩父そして駿河でご朱印をしてきたし、番外の寺や神社でもご朱印をした。その全ては300円だった。それがここでは100円とは安!
勿論ここでもご朱印をしてもらった。のだがウーンこれなら100円でもいいのかもしれないな。でも確かにご朱印だ。いやご朱印そのものだった。

          
          黒字は印刷済み

 今日最後の札所は一山越した大井川の流域にある金谷の観音寺だ。今日は粟ヶ岳を越してきたが、まだ元気は残っている。
この調子ならゴールの金谷駅から、歩いて島田駅まで行こうかとも思うくらい余裕が残っている。途中にあった天然記念物の「安田の大椎の木」を見にわざわざ道を離れて見にも行ってきた。

          

最後の山越えの尾根に出ると、またまた大茶園が出現した。金谷では牧の原の大茶園は有名だが、こちら側にもこんな大きな茶園があるとは知らなかった。緑茶の生産量日本一の静岡県だが、その静岡県の中でも、この辺りが一番の生産地なのだろう。

 茶畑の中の太い道をダラダラ、ダラダラ歩く。陽射しが強く頭の上にハンカチをのせ、その上から帽子を被った。こうすると首筋辺りが涼しく感じる。時折左手に大井川は見えるが下る道は無い。先ほどまであった余裕も段々しぼんできてしまった。
太い道にも飽きてきたので左に延びる細い道を歩くことにした。若しかすると下に降りる山道があるかもしれないと思いながら歩いていた。
やっと下に降りる道があった。そこは山道ではないが舗装も無く轍の間は草が伸びていて最近は車も通っていないようだ。だがよく見ると太い電柱が立っていて電線は下にも向かっている。茶畑の防霜ファン用だと途中で終わってしまう恐れがあったが、それにしては太い電柱だ。

          

道が無くなれば戻ればいいと意を決して下り始めた。少し下ると茶畑が出てきてそれが続く。急で真直ぐな坂を下って行くと道が徐々に太く良くなってくる。舗装もされてきた。もう大丈夫だ。下の何所に出るか分らないが、必ず県道にぶつかるだろう。
前の方に道が見え、時折車が走っている。どうやら尾根の上の太い道から下に降る道だろう。お陰で大分近道になったようだ。ラッキー!

道の合流した先に立札が立っていた。見てみると「東海道古道 掛川坂」と書かれている。読んでみると今歩いて来た道が慶長9年から11年間東海道として使われてきた島田の北周りコースだったと書いてある。北周りコースなど聞いた事はなかったが、何でも慶長9年におきた大井川の大洪水で島田の宿の全てが流されてしまい宿場を山側に移したらしい。結果東海道の道も山側に移動したようだ。そしてさっきあった急坂が掛川坂なのだろう。
だがここで掛川が出るのは腑に落ちないが仕方ない。

 平地に着くと大きな工場の横に出た。地図を見るとミサワホームと書いてあるが建物には何の表示も無い。正面玄関らしき所にも表示が無い。何故だろう?でもここがミサワホームなら札所はすぐ近くのはずだ。注意しながら歩いていると遠江観音の赤い幟が見えた。

 今日最後の24番観音寺は無住だが新しいお堂だった。お堂のすぐ後ろは第2東名の土留めの壁が出来ていて、これまでで一番、第2東名に近い札所だ。東名が開通したらさぞかし喧しいお堂になってしまうだろう。

          

 境内に変わった石塔があった。一列に8人それが4段あり、最上部に更に一人の像が彫ってある。合わせて8×4+1=33の仏像が彫ってある。
6番の札所では6体の像を彫った石塔があったが、ここは33体もある。
観音様は民を救うため33の姿に変身したというので、この石塔の33体は観音様のお姿なのだろう。丁寧にお参りをしておいた。

          


 お堂の縁側に管理人の案内が書いてある。朱印帳を買えばすぐご利益があるのだ。と早速行ってみたが------ 残念留守だった。

 サー後は金谷駅に帰るだけ。ここから4k程あるだろうか。駅はトンネルの手前なので山から余り離れないようにして道をとった。もうとても島田まで歩く元気はなく早く駅に着く事を願うばかりだ。

 金谷の事も少し書いておこう。金谷の町の東は大井川の右岸から始まり、西は駅のある山の手前で終っている。普通なら町の真中に駅は出来ると思うのだが、ここは登りが始まった山の手前にあり、駅のホームの先数m先はトンネルになっている。以前はその理由を大井川の洪水を避けるためと思っていたが、最近本当の理由を知った。
それは東海道本線が開通した当時の金谷駅は貨物専用の駅で主に材木の積み込みをしていたらしい。だが鉄道の便利さを知った住民は、政府に金谷駅を人も乗降出来る駅にするように陳情した結果、許可が下りて人の乗り降りもできるようになった。
その時の陳情の中に、駅の異動が入っていたかどうかは分らないが、一度に色々頼むと全てが駄目になってしまうと思い、遠慮をした可能性が強いのではないかな。
その結果、今でも金谷の住民は不便を強いられているのだろう。
勝手な想像をしながら最後の坂を登ってようやく金谷駅に16時到着。

          


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 一昨日、昨日と神道の通夜と葬儀に行ってきた。
前回仏教は死者、神道は生者の宗教だ、などとを書いた所為なのか分らないが、まるでその事に対して仏が反論してきたようなタイミングでの葬儀だった。
神道の葬儀は初めての経験だったので興味深く色々見てきたので、いつかこの時の感想も書いてみたい。

遠江33観音4-3

2010-05-24 11:53:15 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り4-3回目        2010/05/17


   3.6k   1.6k   2.3k   1.4k    7.1k    3.4k   7.1k   4.2k
川駅-新福寺-天養院-真昌寺-浄円寺-観音堂-長福寺-観音寺-金谷駅
   38    18    30    20     1:42    55    1:32   48 

 歩行距離     30.7k
 総時間      9時間10分
 歩行時間     6時間43分
 平均歩行時速   4.6k

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   粟ヶ岳山頂へ

 お参りをしていると軽トラがお堂の横に停まりお年寄りの夫婦が降りてきた。荷台から袋や鍬らしき物を取り出している。どうやらお堂の横にある竹薮の竹の子を取りにきたようだ。そのうち女性が私の方を見て「何してるの」ととがった声をあげる。
何してるって、お経をあげているのが分らないのか、と胸の中では思うがお経は止めなかった。女性は私の方に近寄ってくる気配を示したが「よせ!」の男性の声でやめたようだ。その後男性が何か言っていただが、二人とも竹薮の中に入っていった。
 現代では、お堂の前でお経をあげる行為が不審なのか?子供ならいざ知らず大の大人なのに。嫌な世の中になってきたものだ。

 嫌な世の中といえば、昔の人は信仰心が強かったのだろう。今よりグンと少ない人口なのに神社やお寺や、此処のようなお堂があちこちに立っていた。当時は勤労奉仕は勿論の事、幾許かの寄付も当然しただろう。それが現代では、ここのお堂のように由緒もあり伝説も伝わっているお堂が朽ち果てようとしているのに何の手も打たない。いや打てないのかもしれない。
掛川では駅の保存活動が動き出したようだが、駅よりもここのお堂の保存か再建の方が大事であり必要と思うのだが、それは独りよがりの考えか。
と、格好いい事を言ったが、実際寄付を求められたらどうしよう。千円出すのはもったいないし、100円では申し訳ない。ご朱印代300円に色をつけて500円位しか出せないだろうな。

 そうそう今書いた伝説の事を説明しておこう。
「今から1200年以上も前のころ、この山は修験者の道場だったそうな。その修験者の一人で弘道仙人という者が、山頂の大松の上に釣鐘を掛けてお参りをするようになったとか。その鐘には不思議な力があって、願い事をしながら鐘を打つと、その願いが叶うと信じられる様になっていったとさ。
それを聞いた村人は我先にと鐘を打ちに粟ヶ岳に登って、それまで淋しかった山も人で溢れるようになってしまった。それを見ていた寺の住職は「そんな疚しい心で富を得ても来世は必ず地獄に落ちてしまう」と、その鐘を山頂にあった井戸の中に沈めてしまったそうな。それ以来この鐘の事を無間の鐘、井戸のことを無間の井戸と呼ぶようになったとさ。
何故無間かって?それはお寺の山号の無間山からきているのではないかな。きっとその当時は粟ヶ岳のことは無間山と呼んでいたと思うよ。そうそうその井戸は今でも山頂に残っているので一度見てごらん」

          

 お参りを終えてお堂の裏手に回ると古い階段があった。その階段を登って上に行くとロープが張ってある。ロープを潜ると立看板が目に付いた。見てみると「老巧化危険!階段禁止」と書いてある。エッ!下には書いてなかったはずだが?いや書いてなかったと思うが確かではない。ただロープは張ってなかった。今更戻るわけにもいかない。ご免なさい。

          

 更に上に行くと大きな石が積み重なっている。標識には「磐座」と書いてある。これはイワクラと言って古代神様がこの岩の上に降臨したとされる岩で、簡単に言ってしまえば神様専用の座席なのだろう。この粟ヶ岳の神様は阿波比売命と言うらしいので、その神様の椅子という事だ。

          

アレー?ここで粟ヶ岳のアワが出てきた。神様の名前の阿波---と言うから山の名前もアワ山と言うのか? 神様の名前が先か、山の名前が先か。
更には神(神社)が先か仏(寺)が先か。アワ山なのか無間山なのか。無間山で無間の鐘か、無間の鐘だから無間山なのか。もう分からなくなってしまった。
因みに調べてみると神社も寺も創建は同じ頃だった。

 神社にお参りして。ウーン先ほどの朽ち始めたお堂と違ってこちらの神社は中々の物だ。

           

違いは何所にあるのだろ?私ごときには分る事ではないが、現代では寺と言うと葬式、墓など死者を連想してしまい、どちらかと言うと来世のイメージだ。一方神社は結婚式や七五三など現世利益を感じさせるので現代人にはマッチしているのかもしれない。
寺も葬式ばかり拘らず現世に目を向けて、例えばこの様な観音霊場巡りも信仰心ばかり強調するのでなく、ウォーキングによる健康維持も視野に入れるとよい。専用の納経帳をつくり、その中には札所間の地図も載せ距離や掲載すると良い。
遍路=信仰心だけでなく 遍路≒スタンプラリーととらても良いのではないか。寺に来ない人を寺に寄せる。これが仏教界復活の一歩だと思うのだがどうだろう。スタンプラリーで訪れる人が出てきたら寺側は無関心でいないでお茶の一杯も接待して話をしていれば仏教に目覚める人も出てくるかもしれない。
オットトなんだか話が都合よくなってしまった。お茶のお接待をしろなど現世利益誘導に他ならない。ずうずうしい男だ。

遠江33観音4-2

2010-05-22 16:05:32 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り4-2回目        2010/05/17


   3.6k   1.6k   2.3k   1.4k    7.1k    3.4k   7.1k   4.2k
川駅-新福寺-天養院-真昌寺-浄円寺-観音堂-長福寺-観音寺-金谷駅
   38    18    30    20     1:42    55    1:32   48 

 歩行距離     30.7k
 総時間      9時間10分
 歩行時間     6時間43分
 平均歩行時速   4.6k

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   15番 浄円寺へ(退門)

 真昌寺で詳しく聞いてきたのに道を間違ったようだ。太い道は横断して真直ぐ進むと言っていたが前に道が無い。でも今日は不思議と付いている。そこに作業した人がいたので道を聞く事が出来た。どうやらさっき左に曲る道があったが、そこを曲るようだった。太い道を左に折れて少し行くと電柱に寺の案内があった。

 この札所の浄円寺は観音堂の名前で一般には文殊寺と呼ばれている。寺の名前が文殊寺なら本尊は文殊菩薩だろうと思い本を見ると。当たり!文殊菩薩と書いてあった。更に寺の山号の五台山も中国の文殊菩薩の聖地だった。確か四国遍路の土佐の竹林寺も五台山だったはずだ。あの寺は実際五台山と言う山の上にあった感じの良い寺だったが、ここは残念ながら山の上ではない。だが昔は粟ヶ岳の方の大寺院だったらしいので当時は名前に負けない寺だったろう。(イエ今が名前負けしているわけではありませんが)
野良姿の住職が出てきて少し話をする。次は粟ヶ岳に行くと言うと、やはり「あそこは観音堂が潰れて空っぽだから行く事はない」としきりに止めるように言う。矢張り私の姿格好が不安を抱かせるのだろうか、残念だなー。

           
            寺で蝶を繁殖しているようだ

 この寺の門が一風変わっていた。道路の正面にチャチな山門が見えた。近づくと「退門」と書かれている。帰りに潜る門らしい。左手の方にも入口がありそうなので言ってみると立派な山門があった。

          

こちらが入門であちらが退門面白い表現だ。勿論帰りは退門から出た。


   23番 観音堂へ(粟ヶ岳)

 退門を出て粟ヶ岳に向かう。粟ヶ岳は掛川市東山にある標高532mの山で南東側の山頂直下にある巨大な「茶」の字は志太平野のどこからも望むことがでる。またその斜面に広がる大茶園のパノラマ風景は一見の価値があり、特に新茶の季節は若葉色の茶の葉が更に趣を増してくれる。更に景色は大茶園にとどまらず富士山、駿河湾、伊豆半島、太平洋なども臨むことができる。H21年に開港した静岡空港からも「茶」の字は眺められ、更にその宣伝効果を増したようだ。

 バスの終点の青田で倉真温泉方面の道と分かれ、いよいよ林道に入る。この林道は分岐も少なくまた分岐点には標識が立っていたので安心して歩く事が出来た。
また前回歩いた大尾山周辺の森林はよく整備されていたが、この辺りは竹と混在したり、間伐されていない林が目に付く。時々道端に青いネットを立てた物があるが、これは不法投棄防止用のネットらしい。看板も立っていて罰金とか懲役刑の文字も見える。どこにも目先の損を考えて大型ゴミを不法投棄する輩がいるらしいが、この様な輩はドシドシ逮捕して重罰を科して名前も公表すればよい。
オット話が飛んでしまった。前方に三脚に固定した望遠鏡が2台ある。
「チョット覗かして下さい」と言いながら望遠鏡に顔を近づけると
「困ります!困ります!私のではないから止めて下さい」と中年女性が駆け寄ってくる。
ウーン?と思い、目をやると昔TVでやった川口浩の探検隊のような格好をした女性だった。バードウォッチングか何か知らないがケチな奴だ。オットこれは遍路が使う言葉ではないな。

 高度が上がると西の方角の景色が見えてきた。低い山が連続していて平地は余り見えない。北よりの山には小高い山も見える。あの中に前回登った大尾山があるのだろうが分らない。植林された林が終わり山の急斜面に作られた茶畑が見え出した。斜度が50度以上あるようにも見えるので作業が大変だろう。しかし廃園になっていず新茶の目が勢いよく伸びだしている。

          

 左手に貯水タンクのある峠のような所に着いた。林道は此処より下り坂になっていくが左手にはまだ尾根が続いている。よく見ると山道が上に向かって伸びていて、その上には建物も見える。茶畑に続く道かも知れないが眺めが良さそうな道だ。標識は立っていないが山頂はもうすぐのはずだし、思い切って建物まで登ってみる事にした。

          

しっかりした道だが中々の急坂だ。だが一歩上がるごとに視界が開け茶園を臨む大パノラマが広がっていく。生憎霞がかかり富士山や太平洋は見えなかったが、それでも充分満足だった。建物の高さまで登るとその建物はトイレのような感じもした。しかし更に上には広場があってトイレやベンチもある。山頂広場なのだろうか?しかし標識は立っていない。
更に進むと木陰にお堂のような建物が見えてきた。更に近づくと古い石仏や石碑も立っている。何のことはない、ここが23番の観音堂だった。

 お堂の入口に案内板があったので確認すると、先程トイレやベンチのあった所は南平で牧の原、駿河湾、伊豆半島の眺望と書いてある。更にその先は下の段で掛川市街、小笠山、遠州地方の眺望と書いてある。ここはきっとトイレらしき建物があった所だろう。だがその下の段から林道への道は書いてない。何故だろう?あの山道は推奨できないのか?
しかし掛川側から登る時は是非この山道を歩くことをお薦めします。絶対後悔はしませんから。

           

 お堂の屋根は崩れかけ縁側も傾いでいる。周りには虎テープで立入禁止になっているため近寄る事ができない。しかし朽ちかけているのが何故か哀愁を感じさせ静寂の中にいると清々しくなってくる。大きな声でお経を唱えた。

           

遠江33観音4-1

2010-05-21 17:01:08 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り4-1回目        2010/05/17


   3.6k   1.6k   2.3k   1.4k    7.1k    3.4k   7.1k   4.2k
掛川-新福寺-天養院-真昌寺-浄円寺-観音堂-長福寺-観音寺-金谷
   38    18    30    20     1:42    55    1:32   48 

 歩行距離     30.7k
 総時間      9時間10分
 歩行時間     6時間43分
 平均歩行時速   4.6k

  --------------------------------------------------

   18番 新福寺へ

 掛川駅北口を6時50分出発。保存要請が出ている木造の駅を眺めるが、この程度の建物を何故保存しなければならないか疑問に感じる。しかし掛川を故郷にしている人にとっては懐かしい想い出の建物かも知れない。募金活動で保存をするなら余計な事を言ってはいけない。

          

 今日はJR東海道線の線路に沿って東に3k程行った場所に最初の札所がある。札所の番号は18番。前回最後に打ち終わった番号は14番なので変に思うかもしれないが、これには訳がある。
今日は標高532mの粟ヶ岳の山頂にある23番の観音堂に行くのだが、札所順に行くと登りと下りが同じ道になってしまう。折角景色の良い粟ヶ岳に登るのだから違う道を歩こうと思って打つ順番を変えたのだ。こうすれば粟ヶ岳に南の掛川から登り、東の日坂へ降りることが出来る。打つ順番は18-17-16-15-23-22-24になってしまうがマーいいだろう。

 県道37号を3kほど東に進むとゴルフの練習場が出てきた。そろそろ分岐点だろうと考えているうちに「リンナイ○△□」と書かれた工場を案内する看板があった。確か18番は工場地帯の隅にあるはずと、その道に入る。山裾を回りながら工場の近くに行くと駐車場の先の茶畑の中にお堂が見えてきた。あれに間違いは無いだろうと駐車場を横切って進む。

          

そこは無住の小さなお堂で扉には「はるばる登りてみれば 小夜の山 不二の高嶺に 雪ぞ見えける」とご詠歌を書いた紙が貼ってある。
小夜の中山?不二の高嶺?そのいずれも此処からは見えない。何だろう?
ガイドブックによると新福寺は昔は富士山の見える小夜の中山にあったと記されているが、それが何故この地に来たのか、何故ご詠歌を変えなかったのか、疑問が残る。


     17番天養院へ

 真福寺からは今日登る予定の粟ヶ岳が遥か彼方に見える。此処からは山頂にある「茶」の字は見えないが、ピョコンと膨らんだ山形は粟ヶ岳に間違いないだろう。それにしても遠く感じてしまう。

          

工場の横を歩くと出勤時間なのか制服姿の人が門に吸い込まれていく。門の脇には当番なのか腕章を付けた人が立っていて、入ってくる人に挨拶を繰り返している。まるで学校の登校風景のようだ。あの腕章を付けた人は何をしているのだろう?挨拶を教えているのか、遅刻者を入れないようにしているのか、それとも通勤状態を監視しているのか。
今日も問題意識は順調だ。くだらない問題を考えていれば一日飽きないですむだろう。

逆川を渡り国道1号線を横断すると天養院にはあっけなく着いてしまった。細い道脇の高台にあるお堂は看板が無ければ見落としてしまうところだった。

          


  16番 真昌寺へ(馬蹄石)

 国1バイパスのガードを潜り田舎道を行くと道がYの字になっている。正面に古い石の標識が立っていたので見てみると「左水垂 後東海道 右石上」と彫ってある。真昌寺は水垂なので左に行けばよいのだろう。なんと今日は快調なのだ。次から次へ案内してくれるようだ。
太い車が多い道に出た。この先はと付近を見ると電柱に真昌寺の文字が。またもや案内してくれた。太い道を横断して登り坂を歩いて行くと正面に寺の山門が。

           

 お参りをしていると住職が出てきて色々説明してくれた。
その中で境内に置いてある旧観音堂の礎石の話に興味をもった。この石は白馬蹄石で六角堂だった観音堂の心柱だったという。心柱?確か五重塔の心柱は塔を支えてはいないと聞いた事がある。それでは六角堂の心柱も重心を支えていなかったのではと礎石を見るが、真中が凹んでいて重心がかかっていたようだ。
住職の話では黒馬蹄石は森町で産出するが白馬蹄石は分からないと言う。また芯は硬いが回りは風雨にあたるとボロボロしてくるらしい。
馬蹄石をインターネットで調べると「表面に馬蹄のような形のある蒼黒色の石。庭石などに用いる」とあった。白色は珍しいようなので、この白馬蹄石も風雨対策をした方が良いかも。

          

納経帖の事も聞いてみた。しかし遠江専用の納経帖は無いと言う。その代りといって持って来てくれたのが「遠江三十三観音霊場 観音路」と名のついた小冊子だった。これは遠江の札所の歴史を書いたもので住職が去年発行した物だった。有難うございます。これからの参考にさせてもらいます。

               

次の17番への道も細かく説明してもらった。ついでに粟ヶ岳の観音堂に行くと話すと
「粟ヶ岳の観音堂は空っぽで仏さんがいない。仏さんは日坂の常現寺さんで祀っているのでそこに行けばいい。それに粟ヶ岳は大変だよ」としきりに大変を強調した。
ニコニコ笑いながら「大丈夫ですよ」と言ったが心配そうだった。
自分が思うより他人には年寄りに見えるのかな?

遠江33観音3-2

2010-05-20 10:44:24 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り3-2回目        2010/05/14


     1.5k     12.8k     16.4k     5.0k  
原田駅 - 長源庵 - 顕光寺 - 知蓮寺 - 掛川駅
     20      2:51      3:40      55 

 歩行距離     35.7k
 総時間      9時間25分
 歩行時間     7時間45分
 平均歩行時速   4.6k

  --------------------------------------------------

   14番 知蓮寺へ(穴地蔵)

 13番顕光寺まで戻ってきた。結局居尻へと下るハイキングコースの入口は見つからなかった。こうなったら寺で聞くしかない。誰か居ますようにと祈るように呼鈴を押した。
奥でチャイムが鳴っている。そして足音も聞こえる。アー良かった。
早速居尻へ下る道を確認すると
「今歩いてきたのではないですか」と聞いてきた。とんでもない慌てて
「西の谷から登ってきたのですが居尻へ行く道が分かりませんでした」
「駐車場を通ったでしょう。あの駐車場の脇から下る道があります」
「看板か何か立ってます?」
「さーそれは分からないけど行けば分かりますよ」
来る時注意してきたが案内板は分からなかった。でも場所さえ大体分かれば何とかなるだろう。お礼を言って寺を後にした。

 駐車場の南側に行くと下る道はすぐ分かった。確かに居尻から登ってくれば分かるのは当然だし、また駐車場から道が出ていると知っていれば容易に分かるだろう。だが西の谷から来て峠から寺の間に道が出ている位しか分からない者にとっては、この道を探すのは大変だ。矢張り「ハイキングコース入口」或いは「居尻→」の立札が1本欲しい。掛川市役所さん是非お願いします。

          

 整備されている山道を快調に下る。しかしこの山道はハイキングコースとして作られたのかここにも石仏はなかった。それにしてもこの寺は石仏が少ない。ガイドブックによると「海上安全、子授け、厄除けなどで信仰を集めていた」と書いてある。ならば願掛け、お礼参り、丁目石などの石碑があっても良いのだが、それが無い。何故だろう。
若しかしてこの寺はお参りする寺でなく修行する寺ではないのか。そのため顕光寺の作りも旅館風で修行僧を沢山収容できるようになっているのではないか。
思いつきは湧くが自信はない。若しかして西部の人は秋葉山の常夜灯は建てるが石仏は立てないのか? そんな疑問も湧いてきた。

          

 山道が終わり居尻のに入る。バス停がある所をみるとバスも来ているのだろう。日帰り温泉の「ならここの湯」もあった。ここで温泉に入って生ビールをグイとひっかける。ワーたまんないな。でも今日の予定はまだまだ20k近くは残っている。頑張らなければ。

          

 原野谷ダムに着いた。水量が少なく湖底も見えているが水の色は濃くて綺麗に見える。ダムの横に「防災用ダム」と書かれた杭が立っていたが、防災用とは何の為なのだろう。尤も川で防災と言えば洪水だろうが、この辺りで洪水にあった話は聞いたことが無い。気になって調べてみると、こんな事が書いてあった「原野谷ダムは洪水調節が主な仕事の防災ダムです。そのため堤体下部の洪水吐はいつもオープンです。年に数回は洪水調節をしているらしいので、運がよければダム湖をみることができます」だって。今日湖底が見えるのが珍しいのではなく、水があるのが珍しいなんて珍しいダム湖だ。

          

 原野谷と言えば今日歩いた所で原の付く地名が幾つかあった。原野谷、原田、原里、原泉と原とはとても言えそうも無い場所なのに原が付いている。これは山間部に住んでいた人の儚い夢なのかもしれない。広い耕地に憧れている人にとって、少し広い所があると「原だ。原だ」と名前を付けて自分達を慰めていたのではないだろうか。

 掛川に行く県道の分岐点が交通止めになっていた。立看板を読むとこの先で道路の法面工事をやっていると書いてある。全面通行止めと書いてあるが「路線バスは通行可」となっている。歩行者は関係ないだろうと通行止めのゲートの脇から入ると
「すみません。この先は交通規制がかかっているので通行できません」
「エッ歩行者も駄目なの? バスはいいってなっているじゃない」
「でも交通規制になっていますから」と女性の誘導員と押し問答が始まる。
この道が通行止めだとグンと大回りになって14番を打って掛川には帰れそうもなくなる。こっちも必死で勝手な言い分を続ける。そんな声が聞こえたのか男性の誘導員が現れて
「私達では判断が出来ないので現場に聞いて見ます」と言ってトランシーバーで確認を始める。話は簡単に終わり
「通れるそうですので気をつけて行ってください」と通してくれた。
有難うございました。喋っている自分が都合のいい言い分だと思いながら言っているのだから、相手はもっとそう思っただろうに本当に助かった。

 工事現場では崖になっている法面にコンクリートを吹き付けていた。谷側の車線は何も置いてなく支障なく通れたが、あのコンクリートの滓が飛んできて乗用車に付けば苦情が出るだろう。なら通行止めは仕方ないか。だが歩行者は通行可でも良さそうだ。
工事現場を過ぎると道が分岐していた。どうやらこの工事区間を迂回する道があったようだ。車の量も増えてきた。

 道の下で新しい道を作っている。トンネルも見える。何所に抜ける道だろうと地図を出してみて見ると、それは第2東名だった。しかし信じられない、片側だけの車線としても狭く見えるが、もう1車線の工事現場が見えない。何か狐につままれたようだ。

          

東名の工事現場の上に県道のトンネルもあった。長そうな感じで途中でカーブしている書いてある。こんな時のために小型の懐中電灯をザックにぶら下げてあるので早速取り出した。スイッチを入れるが点かない。何度も入れたり切ったりしたが駄目。電池や電球の所も触ってみたが駄目。付けているのはいいが点検をした事が無いのでイザという時に役に立たない。反省しなければ。
諦めてトンネルの中に入る。暗く狭く歩道も無い。車が来ると壁面に身体を寄せてやり過ごす。四国遍路以来久し振りにトンネルの恐怖を味わった。
この後日談として、夜妻がザックが光っていると言う。見てみると懐中電灯の灯りが点いていた。スイッチを押すと消え、再度押すと消える。昼間のアレは一体なんだったのだろう?

          

 テクテク、テクテク歩き続ける。緩い下り坂なので休憩もなしに歩く事が出来るのだろう。途中倉真温泉入口や法泉寺温泉入口があった。鉱泉だろうが掛川にも温泉があったんだ。
興味を引くものも無くただただ歩くのみ。やっと14番に入る石畑交差点に着いた。此処を右に曲るのだが後の細かい道は適当に歩くしかない。遠回りで良ければ県道を下って上西郷の交差点を曲っても良いのだが、今は少しでも近い方のがいい。
山裾を廻って。低い山を越えてと5万分の1の都市地図を片手に歩く。この辺りは小さな溜池が散在しているが雨が少ないのか?いやそんな事は無い。きっと大井川や天竜川の水を灌漑用水として利用できないので溜池が多いのだろう。
前方に車の交通量の多い道が見える。あれが上西郷交差点からの道だろう。近道は成功だった。

 今日の打止めの14番知蓮寺に3時半に到着。
今までもそうだったが、この寺の名前は大雲院が正規で、知蓮寺は遠江33観音での呼び名である。これは知蓮寺は以前は違う場所にあったのが無住になったので、この大雲院にご本尊の観音仏を持ってきて祀っている為だ。そのため道を聞くときは知蓮寺では通じないので大雲院と聞かなければならない。因みにこの寺は遠江では14番知蓮寺だが遠州33観音では5番大雲院となっている。

 観音堂にお参りに行くと扉が開いていた。中を覗くと参拝帖が置いてある。最初のページは今年の1月からだった。今は9ページ目なので1ヶ月で約2ページ。1ページ20名くらい書けるので40名。となると1日1人か2人と言う事になる。多いのか少ないのか分からないが、その殆どの人は遠州を回っていると思うので遠江を回る人はどの位だろうか。1ヶ月で1人か2人かしれない。となると少ないな。

          

 本堂の扉も少し開いている。大部分の寺は観音堂も本堂も閉まっていたが、この様に扉が開いているとお経を読むにも張り合いが出る。全ての寺は扉を開けろと言いたいが、そうもいかないだろう。仏像泥棒や賽銭泥棒が頻発する今の時代では。

          

 この寺には気になる物が幾つかあった。その一つは「葉書の木」。これは葉の裏面を傷つけると黒くなって字が書けるので葉書の語源になったと言う。ためしに1枚取って傷を付けてみたが-------- この葉に釈迦は経を書いたとも紹介してある。

 更に庫裏の横手に穴地蔵を祭ってあった。この地蔵は人体の穴の部分の病に霊験があり、全快したら穴のあいた自然石を奉納する慣わしらしい。同じような風習が焼津の日本坂にもあって、こちらは穴のあいた石を紐でぶら下げてあった。何故穴のあいた石?と思っていたが、ここの説明を読んで少し納得した。だが日本坂の穴地蔵は疣(イボ)神さんだったが。
ここの穴地蔵も奉納した石を紐でぶら下げれば目立つのにと思った。

          

 庫裏から作業着姿の女性が出てきて
「ご朱印をなさいますか? 今から畑に行きますので」と声を掛けてきた
「ご朱印をしたいのですが遠江の朱印帖はありますか?」と逆に聞いてみた。しかし遠江の朱印帖は見たことは無いと言う。
知人は遠江も朱印帖があって何番かの札所で売っていると言っていたが、どうやら眉唾情報のようだ。尤も朱印帖があっても、これだけ無住や留守が多いとご朱印を受けるだけで一苦労になってしまいそうだ。

 この寺は色々紹介することが多いが後一つ紹介したい。
この寺の住所は上垂木(カミダルキ)だ。地図を見ると下垂木のある。これは昔この寺に枝垂れの大松があって、そこを境に上・下垂木と呼ぶようになったとか。

 掛川駅まであと5k。ここからは地図を見なくても標識と勘で行けそうだ。途中大池、二瀬川、十九首など気になる地名を歩いたが、今日はもう長くなってしまった。またいつか紹介する時もあるだろう。掛川駅に16字45分到着。

遠江33観音3-1

2010-05-19 15:29:45 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り3-1回目        2010/05/14


     1.5k     12.8k     16.4k     5.0k  
原田駅 - 長源庵 - 顕光寺 - 知蓮寺 - 掛川駅
     20      2:51      3:40      55 

 歩行距離     35.7k
 総時間      9時間25分
 歩行時間     7時間45分
 平均歩行時速   4.6k

  --------------------------------------------------

   12番 長源庵へ

 天浜線の原田駅を降りたのは私一人だった。ワンマンカーでしかも下車駅は無人の為運転手のいるドアから降りなければならないらしい。前の駅で見ていたので慌てず降りることが出来た。

          

7時20分12番長源庵に向かって歩き出す。今日は標高661mの大尾山(おびさん)山頂にある13番を打って掛川駅まで歩く37k程のハードな行程になりそうだ。
しかも大尾山までの道も判然としないし、行きと帰りを別な道を歩こうと思っているので余計複雑になる。
行きは西側にある西の谷から大尾山の北側から登る予定だが、地図で見ると林道が何本も延びていて分岐点で迷いそうだ。下りは南側の居尻に降りるが、林道でなく山道になるようだが、その入口は何所にあるのだろう?
こういうのはいくら調べても調べきれないので現地に行くしかない。そう割り切ってここに来ている。

 歩き出すとすぐ旧道らしき道があったので県道と分かれて旧道に入る。ゴルフ場の入口がありその先に第2東名が見えてきた。予想ではその第2東名の先に12番の札所があるはずだと注意深く辺りを見ながら進んでいく。カーブした道を曲ると正面に第2東名が覆い被さっている。その額縁の枠のようになったガードの先に墓が見えている。きっとあれが長源庵だろう。

          

 
  13番 顕光寺へ(林道)
  
 県道には行かず、そのまま旧道を歩く。右手には第2東名も並んで走っていく。ここの第2東名の橋桁はカーブを描いているが、何の為なのか、重力軽減?見た目?分からないが区間ごと設計者が違うのだろうか。質実剛健だけでは面白みがないと設計者が考えたのか。

          

 橋の先の高台に学校らしき物が見える。地図では橋を渡って小学校の手前を左折して川沿いに西の谷のに行くようになっている。だが橋を渡っても西の谷への標識が無い。有るのは左に行く「明ヶ島キャンプ場」の標識だけだ。地図やガイドブックを確認するが、そんなキャンプ場の表示はない。さてどうしたものか。あの高台にある建物さえ判明すれば良いのだが。タイミング良く幼稚園児を連れた母親が来た。
「あの建物は原田小学校ですか?」
「ハイ そうです」
「ジャこの道は西の谷のへ行く道ですか?」と確認して左折して川沿いの道に入る。
標識の無いのは私が歩いてきた道は旧道だったからだろう。県道を歩いていればきっと西の谷への標識は有ったのだろう。

          

 旧道も交通量は少なかったが川沿いの道に入ると車は全然走ってこなくなった。軽い爪坂上がりの道が続き左右には茶畑や田圃が見える。茅葺の農家もあり道脇には可憐な雑草も咲いている。アレー蕨がある。大きく葉が開いてしまった蕨の横には、まだ蕾のように丸まった蕨が見える。ここにも、あすこにも、あっちにも。蕨を追いかける先にはゼンマイらしき物もみえる。あららウドもある。コリャー山菜の宝庫だ。道脇にこんなに見えるなら奥に入れば凄いだろうな。時間の余裕が有れば採って行きたいが今日はまだ先が長い。

          

鶯も鳴いている。季節は最高!のんびりした道も素敵だ。そこで一句
「ウグイスや ウドにワラビに ゼンマイも」季語が四つもあるから俳句ではないって!
ジャー「目に青葉 山ほとぎす 初鰹」だって季語が幾つもあるじゃないか。

 中西の谷のに案内板があった。ここまでは間違いなく来ている。小学校から迷う場所もなかった。この調子で行けるといいのだが。
次の標識は上西の谷の分岐地点にあった。ここは明ヶ島キャンプ場の大きな表示もあったので迷う事はない。案内板の略図を見ると此処を左折して次は田代と言う場所でキャンプ場と大尾山と別れるようだ。そこには案内板のイラストが書いてあるのできっと標識があるのだろ。更に大尾山の下から南の登り口居尻へのハイキングコースの絵も描いてある。この入口を登りのとき見つけておこう。
 案内板を見て気が楽になった。PCの地図では林道の分岐の場所が多かったが、実際は細い道が多く迷うほどでもない。太い道の分岐には、この様に案内板が立っているのだから安心だ。

          

 案内板のある分岐を過ぎると道が急に暗くなる。今までの道の両側は茶畑などが多かったが、此処からは杉や桧が植林された森の中の林道になる。だがこの辺りの森林は間伐や下枝切りが行われ手入れがされている。見るべき物も無くなり、ただ下を向いて歩くだけになった。

          
          どれが大尾山?

 道が尾根に出ると森が終わり明るくなった。茶畑が現れて家も数軒建っている。ここが田代なのかと思ったが分岐点がない。そのまま通り過ぎ5000mほど行くと分岐点に出た。主道は左側で右の少し細い道の両側には神社の幟を立てるようなコンクリートの柱が立っている。道の標識は無い。
さてどうしよう。この支柱らしきものが無ければ迷わず左の主道を行くのだが。さっきの案内板の略図では田代と言う場所で右に行くようになっていたはずだ。デジカメで写した画面を呼び出してズームにして確認をするが間違いない。先程の集落が田代なら此処を曲らなければならない。サー困った。
 悩んでいても仕方ない、集落まで戻って確認しよう。と戻り始めた。100mも戻っただろうか、すると茶畑の中から農家の人が現れた。ラッキー心掛けが良いから観音さんが味方してくれる。
「すみません。大尾山に行くにはあの道を右に行くのですか?」とさっきの分岐点を指差す。
「違う違う。右の道は茶畑に行く道で左の太い道が大尾山への道だ」更に
「大尾山の分かれ道は峠になっていて標識が立っているからすぐ分かるよ」と教えてくれた。
確認して良かった。聞かずに行けば、どちらの道を行っても、ズット不安な気分で歩かなければならなかったのだから。確認した今は清々した気分で歩ける。

          

 峠。確かに峠だった。西の谷から来た道は、此処から下り坂になってキャンプ場から川根の方面に抜けているらしい。右の尾根道が大尾山に向かっている。左にも林道があるが、鎖で通行止めになっている。峠の名前は特に付いていないようだ。
そうだ案内板の略図では、この辺りが田代となっていたが集落があるようには見えない。
休憩していると車が停まって声を掛けてきた。
「雨に降られなかったかね」エッ!雨?そういえばさっきポツンとしてきたが、
「雨ですか? 降られませんでしたよ」
「そうかね、下のでは大分降ったらしく道端に水溜りが出来ていたよ」そりゃぁ助かった。これも心掛けがいい証拠か。
その人はこの先にある田代ゆずり?とか言うだと言う。田代と言う地名が有るには有るんだ。

          

 大尾山に行く道を歩きながら居尻に下るハイキングコースの入口を見落とさないように気を付けていたが見当たらない。結局の大尾山の駐車場に着いてしまったが入口は無かった。参道の途中にでも有るのだろうか?
駐車場からは林道と分かれて顕光寺の参道になる。今まで歩いてきた林道には石仏が一つも無かったが参道に入るとすぐ石仏が出てきた。居尻からの道が昔の参道なのだろうと思ったが、それが最初で最後で寺までの間にはもう石仏は無かった。

          

 顕光寺に11時到着。犬に吼えられながらベンチで休憩した。この寺も一風変わっていて寺と言うより2階建ての昔の旅館?と言った風情か。境内にも特に気になる石塔も無い。ただ時季が遅くて花滓が少し残っただけの海棠の大きな木が目に付いただけだった。
観音堂は更に上の大尾山の山頂にあって寺の入口に立っている石灯籠の間を登っていく。人気も無く静まり返った参道を行くと杉の巨木が目に付くようになった。そこが観音堂のある山頂だった。石段の両脇には鳥居のように2本の杉の巨木が生えている。その名も鳥居杉と言うらしく静岡県の天然記念物の石碑が立っていた。

               

大きな声で経をあげてお参りしているとブルと震えがきた。感動して?イエ汗で濡れた体が冷えてきたようだ。慌ててお寺に向かって下りだした。
 
          

遠江33観音巡り2-4

2010-05-18 16:30:26 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り2-4回目        2010/05/12


   0.3k   4.5k    3.0k   10.1k   9.1k   5.8k
袋井-慈眼寺-観正寺-観音寺-清滝寺-蓮華寺-原田駅
   4     58     42    2:24   1:50   1:02 

 歩行距離     32.8k
 総時間      9時間12分
 歩行時間     7時間
 平均歩行時速   4.7k

  --------------------------------------------------

   10番 蓮華寺へ(歴史資料館)

 お堂の中には何枚かの説明板が取り付けてあった。だがどれを読んでも「清滝寺」の文字は出てこない。そう言えば11番の遍照寺も昔の名前の観音寺は出ていなかった気がする。古い観音巡りなので無住になった観音堂を移設してして、元の名前が消滅してしまうのだろう。
だがここの清滝寺は移設したようでもないのに名前が出てこないのはどうしてだろう?

          

 お堂に掲げられた説明板「敷地 岩室遺跡について」によると
「このお堂の辺りはビクニ(比丘尼)と呼ばれていた所で、磐田の国分寺の古文書には「是より北方三里に尼寺あり」と記されている。当時の岩室山は遠江の守護所として政治、宗教、文化の中心地であった。その後1546年比叡山と岩室山は本末の論議で争い比叡山から来襲した僧徒により岩室山は焼き討ちされた」となっている。
一方隣に掲げられた「岩室遺跡」には
「真言宗祖弘法大師開山の地にして七堂伽藍をはじめ数多の坊舎があった。然るに戦国のおり織田信長の攻むる所となり、堂宇伽藍悉く兵火に罹り延焼数日敷地村全部を焼尽された」と書かれている。
弘法大師が開山したなら真言宗だが、比叡山となると空海の宗敵最澄の天台宗だ。更に此処が焼かれたのは片や織田信長で片や天台宗の僧徒となっている。
どちらが正しいのか? ウーン謎だ。

 お堂の中を覗きこむと更におかしな事に葵の御紋の付いた「東照大権現 台徳院殿 崇源院殿」と書かれた位牌が置いてある。東照大権現は言わずと知れた徳川家康。台徳院殿は家康の三男で二代将軍家忠。そして崇源院は家忠の正室で浅井長政とお市方の娘である。
そんな位牌が何故此処にあるのだ。考えられるのは徳川家康が浜松城に居たとき家忠が生まれた事が関連しているのだろうか? でも何のためにここにあるのか?
比較的新しく見える位牌の横には安っぽい(失礼)仏像の横に置かれていた。そのせいか位牌も何故か私にはインチキぽく見えてしまった。

          

 お堂の前に何か異様な飾りがある。土産物屋の入口のような気もするが、こんな辺鄙な場所に店などあるはずがない。近づくと何と便所の入口だった。此処が獅ヶ鼻(獅子ではない)公園なので獅子の顔を描いたのだろうが----

          

 便所を過ぎるとすぐ民家が現れ、その先で道が分岐している。右に行けば県道で左に行けばゴルフ場の脇を通る近道だろうと判断して左の道を下っていった。途中に第2東名の下を潜るのだが、ここの支柱の高さが低く感じる。中部で見た第2東名は長い支柱で地震の心配もしたが、この位の高さならそんな心配も無いだろう。
第2東名は天浜線の園田付近でも潜ったが、そこは上りも下りも道路の巾が広くなっていた。若しかするとICかSAでも出来るのだろうか。

          

 道脇に鞘堂があった。石仏があるかと思い覗き込むが戸が閉まっていた。鍵が掛かっていなかったので開けてみると中には丸い石が置いてあるだけだった。
入口の案内板には「草ヶ谷の常夜灯について」と説明が載っていた。それによるとこの道は秋葉街道のルートで常夜灯は秋葉山に通じる道筋各所に置かれ、道者はこれを目印に通行した。と書いてある。さらに、草ヶ谷常夜灯は安政初年大工によって建てられた。となっている。不思議なことに石工のことが書かれていない。
常夜灯といえば駿河一国でも時々見たが、どれも石で出来た灯篭だとばかり思っていた。しかしどうやら違うらしい。この辺りでは石灯籠だけでなく、この様な鞘堂らしきものも常夜灯と呼んでいた様だ。
因みに得意なウィキペディアで調べてみると
「常夜灯、常夜燈(じょうやとう)とは一晩中つけておく明かりのこと。転じて街道沿いなどに設置されている建造物のことも指すようになった」とある。間違いない灯を燈すだけが常夜灯でなく目印の建造物も常夜灯なのだ。一つ憶えた。
  
               

 森町の市街に入ると案内板が整備されていて、次の蓮華寺は萩寺と書かれていた。ここ森町は萩や紫陽花、桔梗の花をメインにした寺があるが10番蓮華寺は蓮華の花ならず萩の寺として知られている。今はまだ萩の季節ではないが境内に入り萩だなと思ったのは本堂から観音堂の前の部分でしかなかった。花の時季には他でもでも咲くのだろうか?一度花の時季に来てみよう。

          

 観音堂の横に「木喰仏拝観料300円」と書いてある。エーこの寺に木喰仏があるのか、と思い早速受付に行くと。「本日の拝観は終了しました」と札がぶら下がっている。まだ午後2時なのにもう終了? 辺りを回ってみるが人気はない。どうやら終了したのではなく今日は休みのようだ。駿河一国の観光寺、番外の東光寺の定休日を思い出した。

 しかしこの寺の雰囲気は良い。階段入口のこけ脅かしの門はいただけないが、涼しげな山門、絵馬を飾った観音堂、萩の植わった境内、裏山に登ると雑草に囲まれた古仏などいずれも風情がある。萩と木喰仏を見に必ず再訪しよう。

           

 寺を出たら「森町歴史民族資料館」-無料-の看板が目に入った。今日は蓮華寺が最後なので、後は原田駅に行くだけ。時間も2時台なので寄ってみることに。

中には古い民具などが所狭しと置かれていた。この様な資料館にはよく漂っている黴のような臭いも余りしなかったので2階の資料室にも入ってみた。するとボランティアの人だろうか老人の方が横に来て説明をしてくれた。気さくな人で説明も結構面白く気楽に質問も出来たので思ったより長居をしてしまった。
話の中で記憶に残っているのは森町の地名は森なのか森町なのか聞いたところ
「昔は森町村と言っていたので森町町が本当だろうが、町が二つ続くので森町にした」との事だ。
他に森町に関係する事で、ここの殿様の土屋何某の江戸での屋敷は忠臣蔵の吉良上野介の屋敷の隣だった。赤穂浪士の討ち入りの時は高張提灯を掲げて浪士を助けた。と話してくれた。その話なら聞いた事がある。だが私の記憶では提灯を掲げた隣の屋敷は本多邸だったと記憶している。
資料室の壁には高張提灯の紋や当時の江戸の地図なども張ってあって確かに土屋家は吉良邸の隣だ。だがよく見ると吉良邸の隣には本多家もあった。
最後にもう一つ。最近家の新築工事で見つかった壷の中に古銭が7万枚以上入っていたという。その古銭の一部と壷が展示してあったが7万枚も入っていた古銭は一体現在の価格で幾ら位したのだろうか。羨ましくなってしまった。

          

 資料館を出て森町の中を歩く。今日のゴールは森町駅より二つ掛川寄りの原田駅で、そこまで歩かなければならない。予定ではあと5k以上もある。気を取り直して歩かなければ。

遠江33観音4回目

2010-05-17 18:08:04 | 寺社遍路
 4回目の遠江33観音巡りに行って来ました。
掛川を6時50分に出発して、18.17.16.15と逆打ちで掛川市内を打って粟ヶ岳の23番に。お参りした後山頂に登って丁度正午だった。
下りは麓の22番を打ってから一山越して金谷の24番で本日は打ち止め。
金谷駅に16時丁度に到着。距離もまた30k丁度でした。

 今日のコースは時季が良く、お茶の緑が冴え渡る雄大な茶畑の連続で感激しました。特に山頂下の観音堂の南側からの景色は遮る物がなく最高でした。霞んでいて富士山は勿論焼津の高草山も見えないのに、これだけ良いなら富士山が見えたらどうなってしまうのでしょう。