はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

富士山静岡空港(東展望台)

2018-06-02 16:28:57 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-5-25(金)
歩行時間:5時間55分   休憩時間:1時間15分   延時間:7時間10分
出発時刻:7時40分     到着時刻:14時50分
歩  数: 34、913歩(推定距離24.09km)    GPS距離
行程表
 自宅 1:15> 島田大橋 0:20> 中條像 0:45> 養勝寺 0:40> 静岡空港 0:40> 坂口展望台 0:40> 東展望台
 1:15> はばたき橋 0:20> 自宅

  
                              石雲院の大木

  飛行場が出来るまでは大木が鬱蒼と茂った森だったのでしょう。今でも遊歩道脇にはアチコチに大木が。

 
                 石雲院山門                           石雲院総門

  石雲院の山号が、龍門山なのか高尾山なのか疑問を感じていたが、前回お寺さんに確認したところ
 「寺院としての届けは “龍門山” で、通称は “高尾山” です。今は飛行場が出来てなくなってしまったけど、この山は
昔は “高尾山” と呼ばれていたので、地元の人は通称 “高尾山” と呼んでいます。」
だそうです。
山内には “高尾稲荷” や “高尾観音” も祀られています。

  開山当初の石雲院には 「石雲院七哲」 と呼ばれた優れた弟子七人もおり、その中の一人 「賢仲繁哲(けんちゅうはんてつ)
禅師」
は、今年春に歩いた島田静居寺や焼津の林叟院を開いています。

  本堂の前に建つ山門は八脚門の総ケヤキ造りで日光の陽明門を模したと伝えられ、牧之原市の文化財に指定されています。
山門下にある総門は静居寺の住職が輪住した時に建てたもので、これも牧之原市の文化財に指定されています。
この外にも石雲院には山号の “龍文” に因んだ 「龍文の滝」 の彫刻が本堂玄関横にあるそうですがまだ見た事がありません。

  
                  お股木さん                                夫婦くす

  石雲院にあるような、子宝杉、お股木さん、夫婦くすなど子孫繁栄に関するシンボルは、他の寺でも神社でも時々見かける。
お股木さん程度ならニヤで済むが、中には写実的に彫刻した物を祀ってある神社もあり、目のやり場に困ることもある。
これは古来日本民族は性におおらかで、神話には性に関する事柄もある事などが影響しているのではないか。
一方仏教と云うと、明治前は表面的には妻帯は禁止されていて、性は宗教内ではタブーな事だった筈だ。
それが信者に対しては子孫繁栄をを唱え、境内に怪しげな物に名前を付けて鎮座させたのは、現世利益を求める信者の獲得策
だったのだろう。こんな風習は明治時代以前にも行われていたのだろうか?
尤も “坊さん簪買うを見た” 類で、妻は娶らなくても色々な方法で性を発散していた僧には、性に関して庶民と同じ感触だった
のかもしれないな。

  最近キリスト教カトリック教会の少年への性的虐待が騒がれているが、これもカトリックの神父は妻帯が許さておらず、かと
言って庶民の性に対しての許容度が日本より厳しいとなると、教会内部の権力による性的虐待が起こるのは当たり前な気がする。
同じキリスト教のプロテスタントの牧師は、妻帯が許されているので、このような事件は報道されていない。

 
             南西側から見た空港高台                         三つ目の台地

  後ろを振り返れば、今歩いて来た飛行場滑走路の平坦な地が見えるが、相変わらず飛行機の爆音は聞こえない。
前方には次の台地が見えてくるが、この台地は茶畑より工業団地が目立ちまだ歩いた事は無い。
ただ台地の終点にある一等三角点の高根山の斜面には茶畑が多く何度か歩いています。

 
                坂口神社の女坂?                            坂口神社

  坂口神社は階段を上る参道からしか歩いていないが、今日は車道を行く事にする。表示は無いが階段の男坂に対し、車道は
女坂といえるだろう。実際歩いてみても階段よりも距離も短くなるのでだいぶ楽になります。

  坂口神社は南北朝時代前の正中2年(1325)に坂口郷高尾村くまのだんに勧請された歴史のある神社です。
“くまのだん” が “熊の段” なら、この辺りの700年前は、熊が相撲でも取っていた場所なのでしょうかね。
そして祭神が 「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」 と聞くとまた余計なことを考えてしまいます。
神話には、イザナギの妻で妹でもあるイザナミノミコト(伊邪那美命)は、火の神を産んで陰部に火傷を負って死んでしまう
話がおおらかに語られています。
そう言えば最近の話で、都会議員が中学校の性教育の授業に
 『授業で避妊、性交など学習指導要領には示されていない文言が盛り込まれていたことから 「不適切な指導が中学校で
行われているのではないか」 と発言した。』
と報じられていたが、保守派を任じる発言者は神話を知っているだろうか?
授業内容にイチャモンを付けるのではなく、学習指導要領を改定すよう働きかけをするのが議員の仕事と思うが・・・・・

  
                  神社裏の道                                展望台への階段

  私の話すぐ脇に飛んでしまうので元に戻しましょう。
神社の裏に出ると道は上に延びているが鎖で遮断されている。この先は静岡空港の土地で云わば県有地になるが、鎖手前に
小さな空地があり、展望台からの写真を目的な人は、ここに車を置いているようです。
舗装された道はフェンスの壁で仕切られ扉は鍵が掛けられている所に出る。
ここから先は空港のイベントの時に解放される 「空の道」 だが、ここが常時開放されれば石雲院の展望デッキから空の道の
展望台に出て、このフェンスを潜って神社の展望台に来る事ができる。更に足を延ばせばビオトープ経由で東展望台に行く事もできる。
何とかここを開放して欲しく、空港事務所に投書したが、けんもほろろに断られてしまいました。

  今日最後の急な階段を登れば展望台だが、まだ飛行機の爆音を聞いていないので期待が持てそうです。

 
                滑走路                                  離陸した飛行機

  階段で汗をかいたので日陰の無い展望台は暑すぎます。爆音が聞こえないなら飛行機は諦めようと思ったら聞こえてきました
爆音が。
このチャンスを物にしようと、カメラを事前に拡大して構えていたら・・・・ 肝心の飛行機はファインダーに入らなかった。
何とか写した写真は、滑走路も遠景の山も写っていない惨めな写真になってしまいました。

 
               草に覆われた道                            標識はあるのだが

  飛行機は次の東展望台に望みを託して歩き出した先は、今日一番の心配していた場所です。
雑草の無い頃に来ればなだらかな尾根に沿った草地の広場だが、除草されていない時は背よりも高くなった雑草に道は隠され
道は皆目見当がつかなくなります。
雑草の中には熊とは思えないが、猪らしき獣がザッザッザと草をかき分け遁走したりしていました。
アーァ 今日は除草されいますようにの願いもむなしく広場は雑草の海でした。それでも救いは踏み跡部分の雑草がまだ小さく
完全には隠されていない事です。

  こんな標識に誘われてここに初めて来た人は驚くでしょうが、この雑草地を踏破するコツがあります。
道は高台側の林に沿ってあるので、例え踏み跡は見えなくて高台から下に行かないようにすれば、でこぼこした場所も無く
案外容易に通過できます。仮に一旦下がざるを得なくても、また高台に戻ることが肝心です。
尤も雑草の何処を歩いても展望台には辿りつけるので、冒険心のある人は適当に歩いてみてください。蛇がいるかも!

 
                林入口                                  何の目印だろう

  林の入口近くに来れば雑草は少なくなりハイキングコースがハッキリしてきます。
林の中の道は雑草はなく快適な道が下っています。

  以前にも数本立っていたが今日は15本余りも立っていました。空港で立てたと思われるが何でしょうかね?

 
                 千頭ヶ池                                釣られたヘラブナ

  ビオトープの下にある溜池では釣り人が糸を垂れていた。その竿の一本が弓なりにしなりだした。
ゆっくり時間をかけソロリソロリ引上げた竿の先には体長30cmほどのヘラブナが見えてきた。
釣り人はヘラブナを手元に引き寄せ、口元を揺すってやると魚は池の中に戻って行った。
 「体長とか重さを測らないのですか」 と聞くと
 「大会でないので測らない。」 と仰る。
へーそんなもんなんだ太公望とは。私には到底理解できない境地です。

  溜池の上には滑走路の延長線上にある誘導灯の橋が見えている。誘導灯はあの橋を渡って、東展望台の横から再度
橋になっている。なのでこちら側にはもう滑走路を延長する事はできそうもない。
将来静岡空港が発展しても、こちら東側は発展しそうもないので、ここの自然は残されそうです。

 
              とても入る気にならない                         此処なら入れるが

  東展望台には農道経由と山道があるが、その山道の入口は見るも無残に雑草に覆われいる。
ここを突破すれば林の中の道は快適で、上の入口にある標識には 農道10分、山道5分となっている近道です。
でもね、ここの雑草地帯はほんの10mもない長さだが、茨のある草も生えているので中々手強い場所です。
で、今日は遠回りの農道歩きとします。

  林の上の入口は草もないので、標識の “近道” の言葉に誘われて入りたくなります。
でも多分出口で痛い思いをするでしょう。気を付けて。

 
               東展望台                                離陸しない飛行機

  私は以前からここを東展望台と呼んでいるが、改めて案内板を見ると 「富士山静岡空港 展望広場」 とあるだけで “東” の
文字は無い。私が勝手に “東” を付けてしまったのか、何かを見て書いたのか忘れてしまったが、兎も角ただ展望台だけでは
場所の特定ができない。よって今後もこの展望台は東展望台の名でいこうと思います。

 車が4台も停まっているが広場に人の気配が無いのは車の中で待っているのか。
こちらは坂道を歩いて来たので体は熱くなっているが、動かないで待つ人は風が涼し過ぎるのか。
一先ず四阿で休憩していると離陸するような爆音が聞こえてくる。さっきの写真は失敗したので今度は旨く写そうとなるべく
飛行機の下に来る場所に陣取って待った。しかし爆音は徐々に大きくなるが一向に飛び立った機影は見えない。
その内にアレー何だ! とばかりに飛行機の横っ腹が見えてきた。それも空中でなく滑走路上で。
どうやら風向きが変わり離陸する飛行機は西から海のある東に向けてではなく、東の海から西の山に向けて離陸するようです。
そうなるとこの東展望台からは離陸する飛行機も着陸する飛行機も見えません。
それではここに長居をする必要もなくすぐ出発するしかありません。

  静岡空港を海に向かって離陸する飛行機は、左側に富士山が見えるので左の席の方が良いのだが、時折風向きによって
今回のように山に向かって離陸するときは、左右関係なく富士山を見る事ができます。
それは東から滑走して離陸すときは富士山は右に見えるが、飛行機が上空に上がるとUターンして向きを海に向けます。
すると当然富士山は左側に見えるので乗客は思わぬプレゼントを貰うことになります。
尤も富士山が見えればですので、これから当分は左右の席とも無念さを味あう事でしょう。

 
                誘導路                                八兵衛さん

  帰り道は誘導灯の横を下って行きます。この位置から着陸する飛行機を写したいが一向に写す事ができません
車道を避けて途中から脇道を下ると、新しい 「八兵衛さん(川中島八兵衛)」 の石碑の前を通ります。
近所に人は八兵衛さんは 「道中安全の神様」 として祀っているそうです。

 
              新四国21番札所                              大井川

  ありました!今日初めて気が付いた 「新四国霊場」 の21番の祠が。1番の祠に書いてあった 「高閑清絶の地」 に祠を
立てたとあったが “高閑清絶” の意味は分からないものの、高台の見晴しが良い所と解釈すれば、ここは何とかそんな感じが
しないでもない場所だ。こりゃぁどうしても88ヶ所探し当てて巡ってみたいな。
大よその場所は1番があった養勝寺で聞けば概略は分るだろう。

  はばたき橋まで来れば我家は近い。本来この橋からの眺めも良いのだが、今日は今になっても霞んでいた。

富士山静岡空港(オオキンケイギク)

2018-05-29 09:25:36 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-5-25(金)
歩行時間:5時間55分   休憩時間:1時間15分   延時間:7時間10分
出発時刻:7時40分     到着時刻:14時50分
歩  数: 34、913歩(推定距離24.09km)    GPS距離
行程表
 自宅 1:15> 島田大橋 0:20> 中條像 0:45> 養勝寺 0:40> 静岡空港 0:40> 坂口展望台 0:40> 東展望台
 1:15> はばたき橋 0:20> 自宅

  週末には富士山にもう一つあるパノラマ台の明神山に行く予定をたてていたが、野暮用が出来て急遽中止。
仕方なく金曜日に家から歩いて行ける静岡空港一周ウォークに行ってきました。


                              牧之原台地概略図

  牧之原台地上にある静岡空港には当然台地に上がらなければならないが、一度台地に上がれば良いと云うものでもない。
今回のコースは北東の大井川から歩いたので、先ずは中條像のある台地に上がり、一度台地を下って空港のある次の台地に
登らなければならなかった。
  概略図で説明すると牧之原台地は古代の大井川の扇状地が隆起したものと云われ、東は大井川、西は菊川に挟まれている。
台地は南北に広く延びているが、川の浸食により台地の南側は幾条かの支脈に分かれ海に向かっている。
そのため牧之原台地を東西に横断しようとすれば何回となく台地への上り下りを繰り返さなければならないが、台地の元となる
諏訪原城付近では、菊川と大井川間は一度の上り下りで済んでしまう。そこに東海道があるのだから昔の人は大したものです。

 
            大井川マラソンコース「リバティ」                      新幹線下のゲートボール場

  家を出て700mも歩けば大井川マラソンコース 「リバティ」 に出ます。この平坦な道を脚力維持のため毎日のように歩いて
いるのですが、その為か山の上りも下りも最近は苦手になってきています。
  コースの右半分が赤茶色は膝に優しいウレタン舗装らしいのですが、どうでしょう? 私にはその感触は分かりません。

  ウレタン舗装の赤茶が終る6kポスト先でと藤枝市に入ります。前方には新幹線の鉄橋が見えてきて、その手前にまだ8時前
だというのに車が沢山止めてあります。ここは藤枝市営のグランドゴルフ場で半日200円と安いせいか連日賑わっています。

  手前に見える空地は平成27年度に藤枝市防災広場として作られたが、その後一切使われていない空地です。
当時の藤枝市のHPには
 「都市防災総合推進事業と一体となって防災関係機関集結地として大井川河川敷防災広場を整備し、集積された物資を
防災備蓄倉庫に円滑に供給し安全安心な生活の実現を。
大井川河川敷防災広場の整備5,300万円 物資の供給や人的救助活動の拠点として整備」
となっていた。
大雨が予想されるときは河川軸にある四阿やトイレは一々対策を取る場所なのに、防災広場や防災倉庫を作って大丈夫なのか
疑問を感じた。その不安が的中したのか完成後3年経っても何も使われていません。 当時のブログです

 
                東海道53次「日本橋」                          「三島宿」と島田大橋

  全長18.9kmのマラソンコースのうち焼津市が6km強、藤枝市は2km強、残りの10km余りは島田市に入ります。
その為かコースに力を入れるのは島田市が一番で、島田市に入る8.5km付近からは東海道53次の宿場のモニュメントが
設置されています。勿論最初は日本橋ですが何とも中途半端な場所に建っています。
しかもコースの左側に設置されている石碑は、最終地点に行っても京には着かず、終点から折り返して右側に変わります。
マラソンコースに東海道53次の石碑を設置するなら、0kポストを日本橋にして終点を京の三条大橋にすれば納まりがいいし、
更に宿場間の距離の割合で石碑を建てれば、昔の東海道の距離感も湧くのではないか。なんて考えるのは私だけだろうか。

  10.5kポスト先にある三島宿の石碑の先に見える島田大橋を渡って牧之原台地に向かいます。、

 
                島田大橋                                  中條像から

  橋の先に見える高台が最初の牧之原台地です。この辺りの台地は台地の初め(終わり)なのか標高は低く容易に登ることが
できます。また台地は左の海側に向かって少し傾斜しています。
  台地の上には牧之原の開拓を始動した中條金之助の像があり、そこから眺める茶畑、大井川、富士山の眺めは好きですが
生憎今日は黄砂が舞っているのか、霞んでいて景色は良くありませんでした。

  
            中條金之助像                              蓬莱橋

  中條金之助の像にあった略歴によれば、
 「金之助は15代将軍慶喜の護衛のために精鋭隊を編成して隊長に就任。慶喜に随行して駿府(静岡)に移住する。
その後、勝海舟らの勧めにより牧之原開拓頭取に就任して隊員を引き連れて開拓に従事する。
明治4年廃藩置県の際に神奈川県令を拝命したが固辞し、終生官職には就かず牧之原開拓と士族殖産のために身を捧げた。」

素晴らしい人生ですよね。
牧之原開拓に携わった人の中に 「今井信郎(のぶお)」 と云う人がいます。今井は地元初倉村の村長を務めているが、
これだけではどうと云った事は無いが 「坂本龍馬を切った男」 と云ったらどうでしょう。興味を覚えた方は以前の記事ににどうぞ

  本来なら島田大橋の上流にある蓬莱橋を渡って中條像まで来たかったが、賃取橋を渡るのが勿体なく感じるケチな男です。

 
                 三角点                                太陽発電と茶畑

  茶畑の中にある三角点は三等三角点で点名は地獄沢となっています。何とも恐ろしい名前だが何処から付いた名前だろう。
周りは台地の茶畑ばかりで当然沢などは見当たらない。強いて言うなら中條像からここに来る途中に大井川に向けて急な斜面が
見えていたがそこの事だろうか? 三角点の設置場所は “沼伏原” となっていたが、これも意味不明です。

  本来なら隙間なく設置される太陽光パネルが、ここでは間隔を取っで設置されパネルの下には茶の苗木が植えてある。
これなら茶畑に寒冷紗を敷く事なく高級茶が収穫できそうです。おまけに茶の上では発電が行われていて一挙両得のように感じ
ます。でもこの方式は他でも見た事がるが余り広がらないところをみると虻蜂取らずなのでしょうか。

 
                 大茶園                                     大茶園

  台地の上から見る茶畑は高低差が無いため平面的で好きではありません。
まして茶摘みが終った今の時期は、茶畑の荒刈が行われているので更に見る影もありません。
お茶は一般的に1年に2・3回収穫をするが、新茶のあと2番茶を収穫しない茶畑は、緑の葉が残らないくらい深く刈込ます。
こうして茶の木の樹形を整えながら大きさも押さえるのだとか。こんなに深く刈っても2番茶は採れないものの秋番茶の収穫は
出来るそうです。尤も秋番茶は収穫しない茶畑が殆どですが。

 
                オオキンケイギク                                養勝寺

  最初の台地を湯日川の流れる低地に向かって下ります。途中の林の中にはドクダミの白い花が、日向にはオオキンケイギクが
咲いています。このオオキンケイギクは特定外来生物に指定され、栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されています。
栽培が禁止される理由は “強靱な性質のため在来生態系に被害を与える” かららしく、個体に毒が含まれていて危険であるなどの
報告は現在のところはないそうです。

  オオキンケイギクについては以前にも取り上げたが、今回は各市の対策を市のHPで調べてみました。
しかし島田市も藤枝市は市役所のHPのカスタム検索でオオキンケイギクを検索してもヒットするものはなく、焼津市は市議会の
議事録等とても見る気も湧かない文章が出てきました。
それではHPとは別に “〇〇市 オオキンケイギク” で検索すると、藤枝市HPの中のオオキンケイギクの防除の対策のファイルが
開きました。何故HPからこのファイルに行きつかないのかは不明ですが、兎も角藤枝市は対策を取っているようです。

  試しに静岡市を調べてみると、静岡市はオオキンケイギクの駆除には積極的に取り組んでいるようで幾つもの記事がありました。
中には単に駆除するだけではなく、駆除した根を使った紙を作っていました。
また、HP上に “オオキンケイギクを見かけた方は、ぜひ静岡市まで発見情報をお寄せください。” ともありました。

  今日歩いた河川敷のマラソンコースでは、島田市で数本のオオキンケイギクを見かけただけだが、河川敷上の堤防道路には
蓬莱橋を中心として、まるで植えこんだように群落を作って咲いています。
これを放置していてカワラナデシコなどの在来植物に影響はないのでしょうか。

  空港のある二つ目の台地に登るには “空港入口島田” の信号から車道を行くか、養勝寺の墓地を通って行く方法があります。
日陰の無い車道より、当然日陰の多い墓地経由がお進めですが、何しろ墓地の中を歩くのだから大人数では気が引けます。
でも一人なら余り気にせず通ることができるので、今日は養勝寺を参拝しながら墓地経由で行く事にします。

  養勝寺の境内の小さな祠の中に、三体の石仏と共に 「新四国八十八ヶ所一番札所」 と書かれた札が掲げられていた。
 「今から凡そ百年前信心堅固な尼僧が弘法大師像八十八軆を造り恭敬供養に努めた。尼僧と養勝寺住職が対談したおり、
地域の住民の安全と繁栄を祈念して、地域の高閑清絶の地に大師像をお祀りした。」

  どうもこのような話には弱く、すぐその気になってしまいます。確か去年仲間と行った榛原の高根山で同じような祠を見ている。
ならばこの八十八ヶ所を探しながら歩くのも面白そうだと、直ぐ新しい宿題を作ろうとする。
マ~この辺りなら家からも近いし、後期高齢者になったら考えてみるのも良いでしょう。とは云えそれは来年の事だが。

 
              静岡空港太陽光発電所                            空港メイン道路

  養勝寺の墓地の上はすぐ太陽光発電なので大分近道になった気がする。日向の車道を歩くよりズート楽に感じます。

  信号 “富士山静岡空港” を左折すれば空港へのメイン通路になるのだが何とも淋しい限りです。
車も余り走っていず空港をイメージする物もない。左側には桜が植えられているが見頃になるには後数年はかかりそうです。
一昨年は左の斜面には除草用の羊が放たれていたが今はいない。どうしたのでしょう?管理が大変だったのかな。

 
              原子力防災センター標識                          原子力防災センター

  新しい標識に 「⇚原子力防災センター」 とあり、左を見ると窓の見えないサティアンのような建物が建っていた。
これが原子力防災センターなのだろうが一体何をする建物だろうとネットで検索をした。
 「平成24年9月、国はオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)の要件について、原子力発電所から5~30km
圏内に立地することなどの見直しを行った。
これにより、旧オフサイトセンター(御前崎市)は、浜岡原子力発電所から2.3kmの地点に立地しており、立地場所の要件に
抵触するため移転が必要となった。
また、環境放射線監視センターは、原子力発電所から2kmの位置にあり、原子力災害時の活動拠点として適当ではないこと、
施設の老朽化から大規模な修繕が必要であること等から、オフサイトセンターと環境放射線監視センターを一体的に整備する
こととし、原子力発電所から19.6kmにある富士山静岡空港隣接地に新庁舎を建設した。」

  成程、放射能を監視する施設と放射能漏れの対策を取る施設を合体させた施設なのか、それはそれで必要な事だと思う。
だが、この施設は浜岡原発が無ければ不要な施設なのに何故静岡県の税金を使って建てる必要があるのだろう。
確かに原発がある以上このような対策は必要なので防災センターも建てなけれなならない。
しかしこのような施設は放射能漏れによって、災害を発生させる可能性のある浜岡原子力発電所、即ち中部電力が負担すべき
ではないだろうか。一歩譲って原子力発電を国策として推進してきた国にも責任はあると思う。
だが県はそのような瑕疵は無いのだから、この施設を県民税を使い建設するのは筋が通らないと思います。

 
                  静岡空港                             石雲院展望台(以前写したもの)

  静岡空港正面玄関に10時40分に到着。昼飯には少し早いがここで昼飯にします。
静岡空港では最近国内線ターミナルを増設したと報道されていたが余り興味は湧かないので、そのまま石雲院デッキに向かい
そこで昼飯にする。
今日はここからデッキの展望写真を参考に、山の名前を確認しようと双眼鏡を持ってきたが生憎の黄砂で景色がハッキリしない。
次回仲間ウォークで歩く予定の竜爪横にある高山を確認したくてもハッキリしなかった。
わざわざ双眼鏡を持ってくればこんなもんです。

  デッキで昼飯を食べ休憩をした30分間に1機の飛行機も発着しなかった。これもこんなもんです。

城ロマン:藤枝3城廻り(朝日山城址)

2018-04-12 16:00:00 | ウォーキング
font color="red">歩行記録                                                       H30-3-25(日)
歩行時間:5時間50分   休憩時間:1時間20分   延時間:7時間10分
出発時刻:6時30分     到着時刻:13時40分
歩  数: 29、058歩(推定距離20.05km)    GPS距離km
行程表
 西焼津駅 0:20> 田中城下屋敷 0:20> 田中城本丸跡 0:50> 青山八幡宮 0:30> 潮山登山口 0:25> 潮山 0:40>
 朝日山城趾 0:30> 新東名岡部IC 1:20> 龍勢発射場 0:05> 玉露の里 0:20> 朝比奈城趾 0:30> 玉露の里BS

 
               新東名藤枝IC                            朝比奈川遊歩道

  朝日山城址を下れば後は朝比奈城址の入口までは車道歩きになる。道は後半部分は知っているが、ここから途中までは
初めての道なので昨夜下調べをしてきてある。
その時は一応分かった積りになるが、所詮は後期高齢者目前の私のことで、現地に来ればあやふやになる。
でも道を尋ねる事は地元の人と話すきっかけになるの苦ではない。いや好きな方です。
しかしそれも人と出会わなければどうしょうもないのだが、このような道では歩いている人はまずいない。畑で作業をしていれば
ラッキーだが今日はそんな人もいなかった。仕方なく勘に勘を働かせて何とか交通量の多い道に出たが、そこが何処かは分らない。
だが玉露の里は北の方角だし、右手にある筈の朝比奈川もまだ出てこない。ならここは右に行くしかない。

  アッ! ありました見覚えのある新東名藤枝ICの入口が、なら右側にはグランドがある筈だと右を見れば、間違いなく
グランドがあった。ここから先はよく知っているので後は余裕を持って歩ける。

  グランドの先の公園の所からは朝比奈川堤防が遊歩道になっていてのんびり歩ける。
桜はもう大分ほころんでいて七分咲き程度だろうか。今年の桜は異常に早く、桜トンネルを歩く仲間ウォークの4月1日まで
もってくれるか心配になってしまう。

 
               ヤマブキ                                谷川峠の入口か

  ロンショウからダイラボウへの道の途中にある谷川峠に続く道の入口だと思う。
この奥にある 谷川山梅林院 は今川時代に制定された 「駿河一国33観音霊場」 の札所で、当然今川時代にあった筈だ。
それから私の妄想が始まり、ここが今川方の丸子城の脱出路ではなかったと思い出した。
丸子城は義元の父親氏親が相続争いの最中に住んだこともある城で、今川にとっては重要な城だった。
その城が攻撃された時の脱出路として、丸子城の後ろの尾根を登り、稜線に出たら何処かを下り谷川峠に出る。
その峠からここの出れば後は今川の駿河の拠点となった花倉城は近い。当然通路にある梅林院は今川の砦の役もしていたと思う。
そんな妄想を抱いたのだが、的外れでしょうか?

    
                  お地蔵さん                                龍勢発射場

  遊歩道が終った後もなるべく現役の車道を離れ朝比奈川沿いの旧道を歩いた。
鉄骨造りの立派な龍勢発射台の案内には
 「朝比奈城、朝日山城又駿府城の位置関係から山城間の戦略の一手段として使われた 『狼煙』 であるという説が有力である。」
今日は朝日山城址や潮山から朝比奈城址方面が見えるか確認する予定だったが、どちらからも木が邪魔で確認できなかった。
それにしても駿府城とここで狼煙が連絡手段とは中々納得できないが、龍勢は300mの高さまで上がるので朝比奈城の標高170mを
加えれば見えないと決めつける事もできないのかもしれない。
何れにしても一回は見てみたと思っています。

 
               玉露の里道の駅                           ハイキングコース入口

  フ~余り見どころのない車道歩きがようやく終わった。何故ここが道の駅は判断に苦しむが、昼飯を食べるには丁度良い。
石垣の隅に座って昼飯を食べていると観光バスが入り観光客がゾロゾロ降りてきた。喋っている言葉が日本語ではなく中国語の
ようだ。エッ! こんな所に外国人が観光に来るの? わざわざお金を出して日本に来て、こんな場所で一体見て何をやるのだろうか。
当の中国人観光客は満足をしているのだろうか。こんな事をしていては中国人に 「静岡は面白くない」 と云われかねない。
と云って中部地方で外国の観光客が満足するような場所は日本平か焼津さかなセンターくらいの物か。
これで外国人を静岡中部地方に泊まらせようとしても中々大変だろう。

 
               標識の多い道                               朝比奈城趾

  朝比奈城趾は藤枝市のハイキングコースに指定されているので、入口さえ分かれば後は標識に従えばよい。
その入口も道の駅を少し戻った萬年寺の入口で標識もあるのですぐ分かります。

  城跡と云っても曲輪や堀の案内も無いので、城跡の標識建つ場所には入口から20分程で着いてしまった。
 「朝比奈城跡 戦国時代岡部氏と並ぶ武将朝比奈氏は今川、武田氏に仕え特に信置という人物は武功を挙げ 「止駄郡殿村に
あり今川家の功臣朝比奈某の築く所にして永禄年中まで朝比奈家代々の居城なり」 とある山頂に土塁や空堀を作り居館を麓に
作ったことからいわゆる 「根小屋」 の城塞といえる 教育委員会」


余り興味も湧かない内容だが、朝比奈氏と云えば今川を支えた重臣でもあり、掛川城を築き代々城代をつとめ武田の駿河侵攻で
今川の当主氏真が掛川城に逃げ込んできた時は氏真を保護した事でも知られている。
また、持舟城は今川➡武田➡徳川➡武田➡徳川・廃城と変遷しているが、案内板にある朝比奈信置が武田方の城代として
持舟城にいたのは最後の時で、そのとき徳川に責められ降参し久能城に逃げこんだされている。
一方そのころ朝比奈信置は武田方の蒲原城主も務めていて、徳川家康が蒲原城を攻撃したおりに矢張り朝比奈信置は降伏した
という説もある。
どちらが正しいか分からないが、持舟城の落城は天正10(1582)年2月23日で、蒲原城の開城は天正10年3月4日だとか。
随分忙しい日程になるが可能性はある事はある。だが何れにしても信置は降伏後に子供と共に切腹をさせられてしまう。

  そうそう桶狭間の戦いで鳴海城の城代は同郷朝日山城の岡部氏で、近郷の鷲津砦を落城させたのが朝比奈氏でした。
この二人が手を結ば義元の首を取って油断していた信長を討ち取る事ができたかもしれなかったと思うと残念な気がします。
色々朝比奈氏が出てきましたが掛川城や鷲津砦の朝比奈氏は同族ですが遠州朝比奈氏で、蒲原城や持舟城は駿河朝比奈氏
だそうです。

 
                四 阿                                もう麓の集落が見えた

  朝比奈城址の標識の所は木が伐採され広くなっているが、その北側も林だが平らな地形だ。多分ここにも曲輪はあったのだろう。
四阿がある辺りから下りになり堀切のような地形もあったが正確な事は分かりません。
城跡表示から10分も歩けばもう麓の集落が見えてきました。

 
                ビク石?                           墓地の先に県道が見える

  正面の山はビク石でしょうか、多分違うでしょうね。
アラアラもう県道が見えている。何とも歩き甲斐のないハイキングコースだ。
ここを歩くためだけではとても来る気にはならず、今まで来てなかったが矢張り想像していたように張合いの無い道だった。
それでも藤枝市のハイキングコースを紹介しているので、一度は歩かなければならないがこれで責任を果たせた。
これからコースの紹介記事を書かなければならないが、城跡も見るべきものも無かったので苦労しそうです。

 
               新舟バス停                               玉露の里道の駅

  ハイキングコース終点の新舟バス停です。入口からここまで40分程度でした。これじゃぁ老人の仲間ウォークでも軽すぎます。
道の駅でバスの時間を調べると2分もすればバスが来る。もうこうなるとここから先を歩く気はなくなり慌てて準備をする私です。

城ロマン:藤枝3城廻り(朝日山城)

2018-04-09 16:00:00 | ウォーキング
font color="red">歩行記録                                                       H30-3-25(日)
歩行時間:5時間50分   休憩時間:1時間20分   延時間:7時間10分
出発時刻:6時30分     到着時刻:13時40分
歩  数: 29、058歩(推定距離20.05km)    GPS距離km
行程表
 西焼津駅 0:20> 田中城下屋敷 0:20> 田中城本丸跡 0:50> 青山八幡宮 0:30> 潮山登山口 0:25> 潮山 0:40>
 朝日山城趾 0:30> 新東名岡部IC 1:20> 龍勢発射場 0:05> 玉露の里 0:20> 朝比奈城趾 0:30>
 玉露の里BS


                          潮山遠景(十輪寺高台から)

  潮山を東にある三輪の十輪寺の高台から写した写真です。
バイパスのトンネルの横から潮山に登り、稜線や中腹を北(右)に向かって朝日山城に行きました。


                         朝日山城跡の曲輪(推定)           現地案内板

  朝日山城の現地案内板に3枚の絵が出ていたので紹介します。
例により山城の復元図は “白髪三千丈”で、恰好は素晴らしいが現実的ではありません。
勿論朝日山城も復元図のような断崖絶壁ではないが、一応山の上の3段くらいの断層の上に一ノ曲輪跡はありました。

   
                       朝日山城とその周辺(推定)            現地案内板

  朝日山城と周辺を描いたものですが残念ながらこの図も推定と書いてありました。
この図が昔の図なら色々判明するのですが惜しい事です。
特に潮城が湖?池?の畔に書かれているのは、この作者は潮城は朝日山城の出城だったと判断しているからでしょう。
それと気になったのは朝日山城があった山が “牛伏山” となっている事です。朝日山にあるから朝日山城と思っていたが
実際は牛伏山だったのですね。


                          山西勝地真景                 現地案内板

  3枚目は推定ではなく文化11年(1814)に朝日山から見た山西地方を書いたものです。
山西地方とは今川時代に駿府から見て山(大崩山塊)の西の地域、即ち志太地域を指した言葉です。
早速気になる山の名前を見てみると、今の虚空蔵山が遠目山となっています。これはこの地域の地名は今でこそ 当目” ですが、
昔は “遠くが見える” ことから “遠目”と書いていたようです。
遠目山から尾根を左に行くと今度は “小〇山” とあるが、丸の部分が判読できません。サンズイが分かるので若しかしたら
 “小浜山” かもしれません。場所は多分簡保の尾根の道了権現のピーク辺りだと思います。

  次の花沢山は今も昔も花沢山のようです。その次に日本坂峠や満観峰が書いてあれば嬉しかったのですが残念ながらありません。
次は “高〇伏” で多分高草山の事でしょう。高草山は近代になって名付けた山と思ったのですが、この地の古文書には高草山の
山頂部は草地になっていて、その伐採の権利を巡って度々縄張争いが起きていたようです。
その裁定願が何通も残っていますが、山の名前は “高草山” になっているそうです。
こんな風に昔の名称が書かれていると何でもないような絵でも興味が湧いてきます。他の城址でもやって欲しい事です。

 
              城址の入口                          稲荷神社の鳥居(三ノ曲輪跡) 

  前置きはさておき、潮山からの農道はこの鎖で遮断された道に通じています。
左の小径は遊歩道となっていたが入っても何もありません。正面の太い道は後になって作られた運搬用の道です。
右の小径を行くと朝日山城の見所とされる竪堀を上から見る事ができます。とは言え凹んだ場所に木が生えているだけで
堀? 自然の地形? と言った感じで素人の私には区別がつきません。

  麓の大手口からの道に合流して階段を登った鳥居が三ノ曲輪跡だそうです。横には四阿がありそこに最初に紹介した案内が
展示されています。

 
                 朝日稲荷神社(二ノ曲輪跡)                 一ノ曲輪は神社の後ろ

  稲荷神社のある所も平らになっていてそこが二ノ曲輪跡です。
神社の案内板には稲荷神社の謂れが分かりやすく紹介されていました。
 「神社の祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) の宇迦とは、食べ物を意味し日本人の主食である生の生育をお守りする神です。
 “イナリ” とは稲成、稲生が訛ったもので、やはり稲が立派に実る様を云い、これが即ち “稲荷” と云う字があてられたと云われます。
赤鳥居と狐は稲荷様の独特の風景ですが、赤い色は “豊” を象徴する色とされ、鳥居は “通る” と云う言葉に似ている所から、願いが
通ると云う意味があるようです。」


  お稲荷さんって商売の神様だと思っていたが元は農業の神様だったのか。知りませんでした。
まして赤い色が豊かで、鳥居が通るとは面白い。これから神社に行ったら必ず鳥居を潜らなければ御利益が貰えないな。
これで稲荷神社が赤い鳥居になったのは理解できたが、一般の神社の鳥居が赤くないのは何故なんでしょうね。

 
               一ノ曲輪跡                                 土塁跡

  神社の裏は一段高くなった広場がありそこが一ノ曲輪跡だった。曲輪の周りが少し高くなっているのが土塁の跡のようです。
ただこの朝日山は単純な単独峰のため、複雑な曲輪の配置や堀も掘る事ができなかったのか単純な縄張だったようです。
城址の案内板もあったのでそれに沿って紹介します。
 「朝日山城は潮山の支峰 朝日山(110m)頂上部を中心に増築された山城である。この山裾には土豪の岡部氏の本拠地で
あったので、岡部氏が今川氏の庇護の下、自領を護るため築いたとされている。
このように山頂に築城し、山麓に城主の居館地を伴う場合の城を根古屋式(詰城)と称し中世城郭の典型となっている。
 今川氏に関係する城の多くは未完のまま残され、このうち重要な位置(海岸・街道・峠・国境)を占めるものは後に武田・徳川両氏の
手により修復されている。」


 案内板にあった根古屋式と云う言葉は初めて聞いた言葉で、しかもそれが詰城との事。一応調べてみました。
 「中世後期山城の麓にあった城主の館やその周辺の屋敷地。後に集落の地名となって根古屋などと書かれることもある。
城主が平時は麓に居住し、戦時に山城に詰めるという形は中世後期に全国的に共通していたので、根小屋の用語の使われなかった
地方も含め、このようなタイプの城郭を根小屋式と形容することがある。」

なるほどと思うが、根古屋とは城主の居住地で、根古屋式は山城と麓の居住地の事だと言っている。なら山城はやはり詰城なのだ。
因みに静岡の久能山の麓に根古屋という地名があります。これは久能山に武田信玄が城を築き、麓に居住地を設けたからでしょうね。

  城のことは凡そ分かったが城主だった岡部氏の事があまり触れられていないので補足しておきます。
最近訪れた城では岡部氏の名前が時々出てきました。例えば焼津の方ノ上城や藤枝の花倉城。
そして遠州高天神城でも岡部氏の名前がありました。それも重要人物として。
まず方ノ上城と花倉城は今川家の跡目相続で起こった花倉の乱の舞台です。この話は何度も書いているので超簡単にしておきます。
今川義元の父親(氏親)が亡くなり、後を継いだ兄もすぐ亡くなったので、次の跡目に名を挙げたのが弟の義元と氏親の庶子の玄広恵探
の2人だった。氏親の正室など今川家の重臣たちが推した義元が優勢とみた惠探は、突如義元が住む駿府の館を襲うものの義元を
討つ事ができなかった。諦めた惠探は自分の城の花倉に引き上げ詰城の花倉城に籠った。
そのとき義元側だった岡部氏が唯一惠探側だった焼津の方の上城を撃破し、その勢いのまま花倉城も攻め落としてしまった。
間一髪城から逃れて遠州に逃げようとしたものの、惠探は瀬戸川を越えた瀬戸谷にて討ち取られてしまった。
これで名を挙げた岡部氏は今川家の主要な武将として重んじられるようになる。

  次に岡部氏の名が出たのは、桶狭間で織田勢に打ち取られた義元の首を駿府に持ち帰った時です。
桶狭間の戦いの当時、岡部氏は尾張における今川の牙城も云える鳴海城の城将となっていたが、義元が桶狭間で信長の奇襲を
受けているときの岡部氏の行動には説は分れていた。
ある説は鳴海城にいた岡部氏の部隊は義元が討ち取られた時は無傷だったのに動かずいたが、この時岡部氏が行動していれば
義元は討取られても、痛手を受けていた織田勢を蹴散らし、信長の首印を挙げることができたはずだと云う。
またある説は、信長は鳴海城の岡部勢からの支援を恐れた信長は、手勢の一部に鳴海城を攻撃させ、岡部勢を城に釘付けに
させとも云われている。
何れにしても桶狭間の戦い後も鳴海城にいた岡部氏は、織田方と交渉して鳴海城と引き換えに義元の首を駿府に持ち帰っていた。

 桶狭間の戦いでは鳴海城の近くに大高城と鷲頭城もあり、ここにも今川方の武将徳川家康と朝比奈氏がいた。どちらの城の兵も
無傷だったが打倒信長には動きませんでした。
これは今川方では義元の存在が大きく、義元が討たれた報で足がすくんでしまったのか、織田軍の勢力を過大評価した結果なのか
分かりませんが、この時3人の誰かが動いていれば日本の歴史は変わった事でしょう。
中でも徳川家康はこれを機会に駿府には戻らないで岡崎城に戻ったままで、織田方と手を結んで最後には天下を取るのですから
分からないものです。

  今川が衰退し駿河に武田が侵攻してくると、真っ先に駿府を逃げ出したのが今川の当主となった氏真でした。
そのとき岡部氏は氏真には従わず、駿府に残り後始末をしたのち武田に降伏して武田信玄に仕えるようになる。
その後信玄が死去した後は、嗣子の勝頼に仕え、勝頼が遠江高天神城を落とすとその城将に任命された。
そうです。そうして徳川家康の高天神城攻めが行われ、最後に討死覚悟に城を打って出て討死してしまったのです。

  長くなったのでこの辺で止めましょう。そんな勇将が多く育った岡部郷ですが、江戸時代になるとその一部は美濃岩村藩の
飛び地になってしまいます。その岩村藩がまた面白く興味が湧く所で一度は訪れてみたいと思っています。
長くなったと言いながらももう少しお付き合いをしてください。
  時は戦国時代、美濃で武田と織田が争っていた頃です。岩村城は武田と織田の要衝にあったため、信長は城主に美人の叔母を
妻として娶らせ、一門として遇していました。
城主が後継ぎが無いまま病いで亡くなったため、未亡人となった信長の叔母は実質的に女城主となっていた。
その後信長の実子を後継ぎとして貰ったが、武田方に城を包囲されると敵将からの条件であった、敵将との婚姻を認めて開城し
信長の実子は人質として甲斐へ送ってしまった。
怒った信長は長篠の戦いで勝利すると岩村城に攻め入り、武田方城主を捕らえ逆さ磔の極刑に処してしまう。
更に信長は叔母のや城兵全員までをも処刑している。信長の凄まじい怒りが虐殺という形で現われたのでした。

ネッ! 面白そうでしょう。岩井三四二の「霧の城」を読んで一度は岩村城を訪れてみたくなりました。

    
               これが竪堀?                            竪堀の下

  竪堀の案内板にはこんな説明が書いてあります。
 「空堀跡(竪堀) この堀は朝日山城の中で、最も規模が大きく長いもの(全長約110m)です。山の斜面を通って敵が侵入するのを
妨げるためのものですが、このように山の斜面に竪に掘った堀を竪堀(たてぼり)といいます。」

確かに案内板の建っている先は凹んで抉れた状態になっている。だがそれが人工的に作ったものなのか、自然の地形なのは私には
判断できなかった。イエどちらかと云えば自然の地形ではないかとさえ思ってしまった。
私がこの城の縄張りをするなら、このような斜面を上から下に掘る竪堀よりも、斜面を遮断する堀切の方が効果が有ると思うのだが。
マーそれも素人判断ですが。

 
                朝日山城跡                            朝日稲荷神社

  朝日山城は上から下への直線的で余り見る所もなく下ってしまったが、これ以外にも遊歩道や堀切もあるようです。
せめて見どころの配置図があればと、田中城址と同じ感想を持ちました。  

城ロマン:藤枝3城廻り(田中城趾)

2018-04-03 16:00:00 | ウォーキング
歩行記録                                                       H30-3-25(日)
歩行時間:5時間45分   休憩時間:1時間25分   延時間:7時間10分
出発時刻:6時30分     到着時刻:13時40分
歩  数: 29、058歩(推定距離20.05km)    GPS距離km
行程表
 西焼津駅 0:20> 田中城下屋敷 0:20> 田中城本丸跡 0:50> 青山八幡宮 0:30> 潮山登山口 0:20> 潮山 0:40>
 朝日山城趾 0:30> 新東名岡部IC 1:20> 龍勢発射場 0:05> 玉露の里 0:20> 朝比奈城趾 0:30>
 玉露の里BS
345
   
                              藤枝3城概略図

  久し振りの城址廻りは地元藤枝の城跡を訪ねてきました。
藤枝市内の城址には今回の田中城、朝日山城、朝比奈城の他に今川の跡目相続で落城した葉梨城もあるが
一度に回るのは私にはきつ過ぎるので今回は3城址廻りにしました。

その内の田中城趾は過去何度も歩いていて概要は知っていますが、余り私の興味が湧く遺構は残っていません。
しかも住宅地の中の平城ですのでウォーキングや低山歩きの楽しみもなく、ただ回るだけとなりそうです。

一方、朝日山城と朝比奈城はまだ一度も歩いたこともなく、しかも山城ですので興味津々です。
朝日山城のある潮山は志太地区では目立つ山ですので、見るたびに行かなければと思うのですが、超低山で歩く人の
少ない道は虫や蜘蛛の巣に覆われていると思うと中々行く気になりませんでした。
朝比奈城も超低山ですが、こちらは藤枝市のハイキングコースに認定されていて、その全コース紹介しようと思っている
私としては必ず歩かなければならないコースです。なので今回の城址廻りは丁度良い機会になりました。

  因みに藤枝市のハイキングコースの紹介は、全20コースの内の17コースは紹介済みです。
このハイキングコースに興味がある方は一度覗いてみてください。
利用は方法は 本ブログの 「カテゴリー」 欄の 「メニュー」 を開き、 「藤枝市認定ハイキングコース」 開いてください。

 
              西焼津駅                                    潮 山

  山が近くに無い西焼津駅に下車したのは今回が初めてです。これで静岡から浜松の間の駅でウォーキングや低山歩きで
乗り降りした事のない駅は天竜川駅だけになりました。

  前方にはこれから行く潮山が見えています。潮山の山頂には無線のアンテナがあるので、山頂部分だけ樹木を伐採して
あって、歯抜けのような形ですのですぐ見分けがつきます。
今回初めて登る潮山ですが、多分アンテナの保守用の道がしっかり付いているのではないかと思っています。

 
                田中城下屋敷                               六間川

  田中城の下屋敷前に来たが冠木門はしっかり閉じられています。それもその筈で時間はまだ7時前でした。
潔く下屋敷は諦めて次に向かいます。しかし次と云っても順路が表示されているわけではないので適当に歩くしかありません。
9時を過ぎて下屋敷が開門していれば、案内図が載っているパンフレットを貰えるようですが仕方ありません。

  下屋敷の北に流れている六間川は、水源を国道1号線の藤枝警察署横の青池に取り、瀬戸川と朝比奈川が合流する地点まで
幅6間の運河を開通させ堀と水運に利用したようです。

          
                    田中城の様子(藤枝市郷土博物館『田中城絵図』より)

  ここで少し田中城の来歴の説明をしておきます。
田中城は瀬戸川に沿った微高地上に築城されており、四重の堀に囲まれ、「亀城」「亀甲城」 とも呼ばれる直径約600mの
円形の縄張りは全国的にも類例がないそうです。
上の図を見れば亀城などの名前の意味は一目で分かりますが縄張以外にも田中城には高い建物が無く、低い城郭だった
ことから亀の甲羅のようだと亀城と呼ぶようになったと聞いた事もあります。
更にこの地域は微高地以外は湿地帯が多く、四重の堀に加え湿地帯が亀(城)を守ってくれたのでしょう。

  城は今川氏の命を受けた土地の土豪が築城したのが初めで、その後今川義元が桶狭間で敗れて今川家が衰退すると
駿河に手を伸ばしてきたのが甲斐の武田信玄です。
信玄は義元が討死し勢いを失った駿河の田中城や持舟城、丸子城、花沢城など駿河の城を次々と攻略してしまいます。
田中城は武田方が攻略後大幅に手を加えたのも東海道の要所にある事や防御に適していたからではないでしょうか。
だが一時は駿河で勢力をふるった武田勢も、信玄が病没し長篠の戦いで敗れるとその勢いを失っていきます。
遠州高天神城が家康に攻撃されても既に援軍を送る力を失った武田は、打つ手も無く高天神を見殺しにしてしまった。
これで完全に武田は駿河での力を失い、各城で敗北を繰返して甲斐に去って行きました。

  武田が去った後も徳川も田中城を重要地点と捉え、田中藩を設置して明治になるまで存続させました。
そんな田中城ですが日本史に残る事件も発生しています。
元和2年(1616)徳川家康は田中城に立ち寄った際、焼津で獲れた鯛の天ぷらを食べて死んだとされています。
そのため江戸城内ではテンプラ料理は禁止された等の話もあるようですが、家康が死亡したのは1月の夕食に食べて、
死去したのは4月だったことから食中毒ではなく胃癌が死因だったという説もあるようです。
地元の住民としてはテンプラ死亡説の方が面白いのですがね。

    
               小学校の田中城模型                           小学校の田中城模型

  田中城の本丸跡は現在は藤枝市立西益津小学校になっています。その校庭の中には田中城の模型が設置されているので
関係者ではないですが清々と開いた校門を入り写真を写させてもらいました。
堀を幾重にも廻らわせた中に天守閣が建っています。オッとこれでは田中城には高い建物が無かったことで亀城と呼んで
いた根拠が無くなってしまいます。
どちらが正しいのか調べてみると、ウイキペディアにこんなことが紹介されていました。
  「田中城には天守閣は無く、2層2階の物見櫓が建っていたが、明治時代に払い下げ移築して住居として利用されいたが、
寄贈され、史跡田中城下屋敷の整備にあわせ移築された。」

へーそうなると最初に見た下屋敷の建物が天守閣代わりの物見櫓だったのか。初めて知りました。

    
               三日月堀標識                               三日月堀

  武田流築城術の特徴というか代名詞の丸馬出と三日月堀の跡もありますが、素人の私には余り魅力を感じられません。

    
               大手二の丸跡                               三日月堀

  大手二の門跡の案内はあるがこちらも面白味を感じません。ここには堀の一部や復元された橋もあるのですがね。

 
               家老屋敷跡                                土 塁

  住宅地の中に遺跡が残っている場所も、たんなる空地や土手としか見えません。
どうやら私が好きなのは山城であって平城は理解の範囲外のようです。
その山城も歩く事が主であって、遺跡はあくまでも従の関係ですが。

    
             青山八幡宮と潮山                        須賀神社の大クスノキ                           
  そんな田中城址にはサッサと別れて次の潮山に向かいます。
道は適当に北の方角に見える潮山を目指すのですが、潮山に近づくにつれ手前の山が大きくなってきます。
この低い山は旧国道1号の所ある八幡神社だろうと見当をつけて先ずはそこに行ってみる事にします。

  旧東海道に合流し 「史跡 鐙ヶ淵」 に寄ります。
ここには何が有るというわけではないが、十返舎一九の東海道中膝栗毛のなかで
 「ここもとは鞍の鐙が淵なれば」 と詠んだことで知られています。
鐙ヶ淵とは東に流れていた葉梨川が、ここで90度近く向きを北に変えているため、その恰好が馬に乗るときの鐙に似ている
事から付いたのでしょう。
この様に川が急に向きを変えれば当然大水の時は氾濫したので、この辺りの地名は 「水守」 です。
少ない貴重の水をお守りした 水守 に対し、ここでは川から水が出ないように水を守ったなんて説は強引すぎますかね。

  淵から東海道を少し行くと須賀神社の大クスノキがある。推定樹齢500年とかで中々立派です。

  
        東海道脇の鳥居                    葉梨川                  青山八幡宮の鳥居

  須賀神社の先に鳥居が立っているが神社は見えない。ただ鳥居の先には八幡宮がある山が見えていますが、ここから
200mはあるでしょうか。途中には葉梨川があり旧国道1号も走っています。
東海道から離れているのに直線で参道をこしらえるほど由緒のある神社なのか、鳥居横の縁起書を読んでみました。

 
               青山八幡宮拝殿                               青山八幡宮本殿

  「源頼義、義家親子が奥羽征討祈願のため勧請した社で、源氏が五里毎に八幡の社を建てた五里八幡の一社という。
創立当時の神領千石との口碑があるが定かではない。豊臣秀吉公は百七十石五斗の神領を寄せ、徳川幕府も亦これにならった。
武門の守護神として田中城主の崇敬篤く、神器具その他が寄進された。」

  まず驚いたのが創建当時の神領が千石もあったとの事。のちの江戸時代でも1万石で小大名で千石でも高級旗本とか、
それが鎌倉時代ならもっと価値があっただろう。マ~ “口碑だけで定かではない” と断ってあるのでいいでしょう。

次に気になったのは今回初めて聞く 「五里八幡」 と言う言葉。鎌倉時代に一里塚のような物があったのかと調べてみると
 「源頼義が勅を奉じ、奥州の安倍一族平定の時、通行する街道筋に鎌倉の鶴岡八幡宮を起点として五里毎に石清水八幡宮を
勧請したことによる。」
とか 「鎌倉鶴岡八幡宮を起点として陸奥に向かって五里ごとに八幡を創建した。」 等が出てきた。
いずれも鎌倉を起点として陸奥に向かって八幡宮を建ててとなっていて、逆の京に向っての記述は出てこない。

疑っては悪いが本当の話なのでしょうか、今後八幡宮に寄った時は縁起書で “五里八幡” を注意したいと思います。
それは兎角、青山八幡宮は武家の信仰が厚く田中城の城主も度々参詣しているようだが、この山に登って辺りを見渡せば
田中城の物見櫓から見張るより、ここのが東・西・南が一望できることは一目瞭然な事です。
ならばここに見張台を設け、城と手旗信号なり狼煙などで連絡を取りあえるようにしなかったのでしょうか?
 (ネットに八幡山砦なる記事も載っているが真偽のほどは分かりません。)

  神社の裏は今は急な斜面で下にある小道に下っているが、少し前までは潮山からの山脈に繋がっていたという。
新幹線か東名高速の盛土に使うため掘削をしたと何かで読んだ記憶があったので、今回探したが分からなかった。
それでも若しかして道が残っているかと思い、神社裏に立ち入ってみたが踏み跡らしき物すら無かった。

            
                ウラシマソウ                       ウラシマソウの葉

  マムシグサが咲いていると何気なく下なく見ると、アレ~釣り糸がある。
慌ててしゃがみ込んで確認すると、苞の中から黒い蔓が延びている。2年ぶりのウラシマソウとの再会です。
同種のマムシグサはどの山に行っても目にするが、ウラシマソウは花沢山で一度見ただけです。
今後は葉を見ただけで判別できるように写真を写しておきました。

  青山八幡宮では思わぬ拾い物を幾つかした。これだから観歩は楽しい。

城ロマン:掛川3城廻り(横須賀城趾)

2018-02-09 17:33:53 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停


                        高天神城址から横須賀城址までの概略図

        
             県道249号線                        旧大須賀町MH

  県道249号に合流した後の南への道は、緩やかな傾斜の下り道で歩き易いのだが、見る物がないのでつまらない。
両側に見えている山並が終らなければ横須賀街道には出ないのだが、まだまだ終わる気配は無く山並は続いている。
因みに横須賀街道とは、相良城から横須賀城を結ぶ街道とのイメージはあるのが、正確な事は知らなかった。
で、調べてみたがネットでヒットするのは “遠州横須賀街道ちっちゃな文化展” ばかり。
漸く探し当てたのはネットではなく5年前に歩いた遠州七福神の自分で写した写真の中でした。

 「通称横須賀街道遺跡 横須賀街道の名は徳川家康の第十一子頼宣が、駿府から横須賀に移封に決まったが、在府のまま
横須賀領を治める為に駿府、横須賀間の街道を整備し、駿府、相良間に馬次を開いたことに始まると言われています。
(中略)明治二十二年東海道線が開通し、堀之内(現菊川駅)が開設され、それに伴う県道が整備されるにつれて横須賀街道の
名は次第に薄れていきました。」


  成程と終わりたいが、文中で気になるのは “駿府、横須賀間の街道を整備し” です。この頃は既に駿府の東西には東海道は
開設整備されていました。そうなると東海道の何処から横須賀街道は分岐していたのでしょう?
ヒントは “駿府、相良間に馬次場を開いた” だと思うが、相良と聞けば思いつくのは 「田沼街道」 です。
その田沼街道とは江戸時代中頃、幕府の老中だったが賄賂政治を行い失脚した田沼意次から付いた名前です。
相良城主になった田沼意次は権力を使い、海寄りの藤枝から相良を結ぶ地点に、渡渉禁止にもかかわらず街道を造って
しまったと言われています。
尤も大井川の渡渉禁止は、東海道の島田・金谷間では厳しかったが、上流や下流の住民は大井川を渡って行き来をしていた
ようです。

  しかし田沼意次が相良城主になる以前の、徳川頼宣(よりのぶ)が横須賀城主になった頃は田沼街道はありませんでした。
そうなると横須賀街道の分岐点で考えられるのは、駿府藩の巡検使が相良に向かって歩いた 「巡検使の道」 です。
巡検使の道は駿府から東海道を金谷宿まで行き、金谷からは牧の原台地を下って相良に向かっています。
今ではどちらの道が頼信が整備した横須賀街道か分かりませんが、何れにしろ江戸時代初期から横須賀街道はあったようです。

  何も興味を引く物も無く、飽き飽きしながら歩く県道ですが今までと絵柄の違うMHが出てきました。
MHに書かれている 「大須賀町」 の文字を見て気が付きました。
そうだ! 横須賀は大東町ではなく大須賀町だったと。これでは当初考えていたウォーキング名の “大東 城廻り” の名前は成立
しませんね。イヤイヤ採用した 「掛川3城廻り」 が正しかったとは、掛川市の “掛川3城ものがたり展” のお陰です。
それとこのMHには私の苦手な英語が使われていて 「WE LOVE OSUKA」 なんて書いてある。
意味兎も角 “OSUKA” では “オスカ” とも取れますよね。街中で見かける “KOBA”も “コバン” と読んでしまうが、マー今回は
ヘボン式の疑問については過去何度も書いているので止めておきましょう。

  MHには似顔絵もあるが、顎の部分は遠州灘の波を表し、頭は小笠山を表現しているのかな? これが大須賀町のシンボル?
でもどうせなら町外の人も知っている横須賀城や三熊野神社祭の山車の方が大須賀町と分かりやすいと思うのだが。
それにしても大須賀とか横須賀と共に 「須賀」 が付いて紛らわしいが、須賀という言葉の意味は「砂浜、砂丘、砂州」の事
らしいです。
なので大須賀には “大きな砂浜” があり、その隣にある小振りな砂丘は、横の砂浜、即ちち “横須賀” になったと思う。
そう言えば東海道の遠州に白須賀宿もあるが、ここは砂浜は白かった事から付いたとか。今なら “白浜” かな。

 
               遠鉄横須賀営業所                               大須賀番所跡

  横須賀街道に出たが先ず駅に戻るバスの確認をしなければなりません。期待半分いや期待も不安も八分づつでバス停の標識を
探しながら県道69号となった横須賀街道を歩きます。
そんな不安を直ぐ解消すべくバス停の標識がありました。しかもバスの本数は平日1時間に2本、土日でも1本ありました。
これなら安心です。ただ行先は掛川駅ではなく袋井駅しかありません。ここは掛川市なのにどうした事でしょう。
多分掛川から横須賀までは小笠山の山中のため乗降者が少ないのでバス路線は無く、平地で住宅地の多い袋井駅に路線が出来た
のでしょう。暫く歩いて行くと道の左右には遠鉄バスの横須賀営業所があり、バスも数台停まっていました。

  大須賀番所跡だそうです。番所は元は横須賀城の追手門の外の街道脇にあり、城に出入りする人を見張っていたそうです。
一寸見は民家にも見えるが、一時は民家として使われていたと案内されています。

  
               大須賀図書館                                徳川家康着用の甲冑

  番所の傍には支所と公民館と図書館があるが、今日の目的の 「掛川三城ものがたり展」 が何処で開催されているか忘れてしまった。
先ずは番所に近い大須賀公民館に行ったが外れで、聞いた職員は 「知らない」 と言う。
一瞬焦ったが奥にいた職員の 「図書館でやっていますよ。」 の声で一安心でした。

  物語展を行っている2階に行くと中央に3城のジオラマが並び、周囲には縄張を含めた印刷物が貼ってある。
中で一番風変わりなのは甲冑だった。この甲冑は徳川家康が関ヶ原の戦いで着用した物を模写したそうです。
名前は 「大黒頭巾兜 歯朶具足」 だそうですが “大黒頭巾兜” は理解できるが “歯朶具足” は分かりません。
具足は脛を守る物としても “歯朶” は何でしょう。よく見ると口の周りが黒く覆われているが、そのことを云うのでしょうか?
見当がつかないのでネットで調べると大外れでした。
まず知っていると思っていた具足は、足の脛の保護など全然関係なく甲冑そのものの事でした。更に歯朶(しだ)も歯なぞ関係なく
 “羊歯(しだ)” の事で、鎧の上の飾り(前立てと云うらしい)が羊歯の葉を図案化した物を指すそうです。
よって歯朶具足とは、 「歯朶の前立てが添えられている甲冑」 という事のようです。


                              高天神城趾ジオラマ

  今、歩いてきた高天神城のジオラマがありました。このように立体的に見ると理解がしやすくなります。
これを見ると今日行かなかった二の丸や三の丸を増々見たくなります。そして甚五郎の抜道も気になります。
近いうちに再訪したい気がますます強くなってきました。

  ものがたり展はそれなりに収穫はあったが、どうしてもバスの時間が気になります。折角ビデオで3城物語が放映されていたが
見ずじまい。印刷物も読まない。で、写真に写して来ました。

 
               横須賀街道八百甚                             旧郵便局

  県道と別れて古い町並みの残る横須賀街道に入ります。ここ横須賀地区では秋になると 「遠州横須賀街道ちっちゃな文化展」
行われる事が有名です。これは普段生活している家の軒先や部屋、土間にバラエティ豊かな芸術作品が飾られます。
私も一度行ったのですが中々のアイデアで、住民が一体となって協力している事が感じられました

  街並みに入り三熊野(みくまの)神社は鳥居の外から眺めてパス。どうしてもバスに時間が気になります。
ここを通るときは必ず写す八百甚をパチリ。次は造り酒屋だったと言うが、玄関の屋根瓦には郵便局の 「🏣」 があるので
大元は郵便局だったのでしょう。そこもパチリ。
オッ! そこには 「凧揚げ まつり」 のポスターが貼ってある。そう言えばここ横須賀には 「横須賀凧」 があり、猿回しの猿が舌を
出している凧が有名だ。
そうだ! ここのMHの絵柄は、この凧がピッタリだ。横須賀凧の絵柄なら多くの人は横須賀を思い出すだろう。

  それにしても歩いていて 「大須賀」 の名称は役所関係の支所、公民館、図書館ぐらいで、後はみんな 「横須賀」 だ。
チョッと気になり旧大須賀町を調べてみると、何と!何と! 大須賀町は昭和31年に大浜村と横須賀村が合併して誕生した町名だ
そうです。なら大砂丘の横の砂丘だから横須賀との私の説は、大須賀と大浜の違いはあるものの一応正解かな。

  今日の土産は横須賀の愛宕羊羹と決めてあったが、ついつい街道を歩いて通り過ぎてしまいパス。
めったに土産を買わない私ですが、ここ横須賀の愛宕羊羹、森町の梅衣、奥山方広寺の大餡巻、三ケ日の浜納豆は必ず買ってます。
でも今日は気づいてもバスの事が気になり戻って買う気は起りませんでした。


                               横須賀城縄張1

  ものがたり展にあった横須賀城の縄張です。
最近歩いた山城と比べ如何にも城の縄張の感じがしますが、この縄張で気になる事があります。
まず縄張の中央には城の絵が描かれ 「天守閣」 となっています。山城には無かった天守閣がこの城には建っていたようです。
天守閣と云えば頑丈な物見櫓とか、権威を誇示するための建物ですが、しかし横須賀城は物見台が必要なら、近くには標高の
高い場所が無数にあります。なので城内にわざわざ頑丈な物見櫓を建てる必要はない。となるとここを建てた人物を象徴する
ための天守閣だったのでしょう。

物語展にあった資料を抜粋してみます。
 「高天神城が武田の奪われると現在の大東町付近から東は武田氏の勢力下に入った。
高天神城の奪回を目論む家康は、遠州平野の東は小笠山の北にある掛川城を陸の大動脈東海道の押さえとし、南の海上交通の
押さえとなる横須賀には、高天神城奪還の拠点とし地元の家臣大須賀氏に築城を命じた。
横須賀城の築城の場所は、小笠山南西部の沖積平野に深く入り込み、小笠山の支脈が長く延びて三方が入り江と沼や深田に
囲まれた要害の地で、入り江には横須賀湊もあり物資の補給地点としても有利な地点でした。」

この時点で家康は横須賀城を高天神城奪還するためだけの砦としてででなく、城を奪還後の遠州経営も考慮していたと思いたい。

気になるとと言えば横須賀城築城を命じられた “大須賀氏” の姓も気になりますよね。大須賀町は大浜村と横須賀村が合併して
誕生した町でしたが、この地に大須賀氏が存在してたという事は、当時は大須賀の地名があった事は十分考えられます。
何しろ武将の姓は地元の地名を名乗ることが多いのですから。という事は大浜村とは、地名だった大須賀を時代に合わせ大浜と
改名したとも考えられ、私の横須賀の地名説は大正解という事になります。

  オット天守閣の事を忘れていました。横須賀城に天守閣が建ったのは高天神城奪還後の豊臣方の武将が城主となった時です。
当時掛川城も豊臣方の山内一豊が城主となり天守閣を完成させています。これは豊臣とは縁の無かった遠州の住民に豊臣の力を
鼓舞する意味があったのでしょう。


                               横須賀絵図

  縄張で一番気になるのは縄張下に書いてある 「入り江」 です。
横須賀絵図を見てください。ここには “内海” とか “塩田” とも書いてありますが、運河に塩田があったとは思えません。
掛川市のHPにはこの横須賀城と掛川城の関係をこんな風に書いてあります。
 「横須賀城築城当時、この入り江は同じ市内にある掛川城の外堀となっている逆川の河口だったと考えられており、当時、
横須賀城と掛川城は船で直接行き来することができたと考えられています。」

何とも大胆な説で、今の逆川は途中で太田川と合流し、ずっと西の福田漁港に注いでいます。その川が7km東を流れていたとは。
しかしその大胆な説も、横須賀湊があった場所が、地震の隆起で海から2kmも内陸に入ってしまい、湊としての機能を失った
のですから十分考えられる説です。
この原因となった地震とは江戸時代中期に起きた宝永地震で、横須賀地区では土地が隆起して海退が起こったようです。
それでも横須賀城は太田川河口から運河を拓き、海上輸送を細々と続けていたようです。

 -- この海退は前回訪れた持舟城のある用宗でも起きていて、城の下にあった持舟湊が使えなくなっていました。
    一方焼津地区では海退とは逆の海進が起きていて、高草山の麓にある林叟院の元の場所は今では海の中だそうです。 --

        
            横須賀城水堀                                    玉石の城壁

  山城の堀は空堀で水が無いが横須賀城の堀には水があったものの、現在残っている堀はこの狭い範囲だけです。
横須賀城の特徴は、普通一つしかない大手門が東西にあり 「両頭の城」 といわれていた事です。
私が登場した場所は大手門の一つ 「東大手門」 側からでした。

  東大手門跡を入りまず目につくのは 「玉石積み」 と呼ばれる河原石を用いた石垣です。
これもこの城の特徴の一つとしてあげられているが、私にはこの石垣の玉石積みが最大の特徴ではないかと思えます。
城の石垣といえば巨石を組み合わせた石垣を思い浮かべるが、横須賀城の石垣は丸い河原石を積み重ねたように見えます。
それもそのはずでこの丸石は天竜川の石を船で横須賀湊まで運んだそうです。

 
               天守閣跡                                 城址から南方の眺め

  石垣の上は天守閣跡の広場になっています。山城と違い清々とした感じがしますね。
南の方を見ても海は見えません。海が遠くなった事もあるのでしょうが、城の標高が高くない事もあるでしょう。


                                玉石の城壁

  まさしく玉石の城ですね。この城壁に座って絵になるのは誰でしょう? 
勿論私のような年寄りではありません。私の頭の中にはセラー服姿の女生徒と学生服の男子が頭に浮かびます。
流れるバックミュージックは “わたしの城下町” や “古城” ではなく、梶光夫の“青春の城下町” です。
 “♬ ああ 青春の思い出は わが故郷の城下町 ♬” エッ!知らない? そんなー!
そうか あれから既に50年 半世紀以上前の流行歌を知っている人は少ないですよね。

  そんな空想が湧いてくるのは、城の空が広く明るく、地面は芝で公園の趣がするからでしょう。
それだけではなく横須賀城は過去一度も城内での戦は無く、戦死者も出ていない事も関係すのかもしれない。
何しろ今まで歩いた他の山城の全ては、多かれ少なかれ城内で戦闘が行われ戦死者が出ていました。
中には持舟城や高天神城のように城兵の多くが惨殺された城もあり、そんな城には戦死者の怨念が漂い空気を
重くしているのかもしれません。

  明るい爽やかな城壁を見ていると、まだ見た事はないが沖縄の城と似ているのではないかと感じます。
沖縄の城のイメージは、木も無い広場に建つ城壁だけの城って感じですが、横須賀城もスケールこそ小さいが似ていると感じます。
しかし沖縄の城は江戸時代の昔ではなく、そう私が生まれた後にも戦死者が出ていたのですから空気は重いかもしれません。

 
               玉石の城壁                                 バス停

  横須賀城が明るい理由がもう一つ有りました。普通古い石垣には苔が生え重みを増してきます。だがここの石垣は河原の玉石の
せいか、表面がツルツルしていた苔が生えていません。一方階段に使われている平らな石は黒くなっています。
玉石の城壁は重厚さは感じないものの明るい清潔感がいつまでも保たれるようです。

  西大手門跡か退出しバス停を求めて来た道を戻ります。
バスは1時間に1本あるのに何故か気が焦り、中途半端な見学に終わってしまいました。
次回は高天神城と横須賀城の2城を時間を掛けて見学したいと思っています。

城ロマン:掛川3城廻り(高天神城趾2)

2018-02-04 10:27:32 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停


                           高天神城内の想像図

  地理院の地形図に高天神城の史跡の場所を記入してみましたが、あくまでは私の想像ですので間違いは許してください。

        
             南口(大手門)入口                        大手門址

  無駄な労力を使ってしまったが、いざ高天神城へ登城!
有名な城の割には貧弱な鳥居を潜ると 「追手門」 と書かれた杭が建っていた。
エッ!こっちが大手門? と思ったが、兎も角案内板を見ると、 「追手門(大手門ノ址)」 とあった。
大手門、追手門の何方が書かれていれば気にならないが、このように二つが同時に書いてあると、その違いが気になり調べてみた。
 「追手とは城の裏側から兵を出し、敵を正面に追い込むことを意味する。この追手が大手に転化した。」
ウッ! 良く分からない。敵が攻めてきたら裏門から兵を出し、敵を正面の門に追い込む? 納得できず他を探したが適当な物は無い。
得意のウイキペディアには
 「大手門とは、日本の城郭における内部の曲輪へ通じる大手城門。正門にあたる。元は追手門(おうてもん)と書かれていた。」
違いについては書いてなかったが仕方ない、追手門とは大手門と同じと理解しておこう。
それにしてはこの大手門の場所は斜面の途中で、とても城の正門があった所は思えない。これなら北口の方が大手門に相応しそうだが。

        
                倒木で進めない                        こちらも通行止

  メイン通路から外れた道があったので這入りこんででみたが、倒木の隙間に何とか跡と書いた杭は建っているものの読む事ができない。
当然進む事も出来ないのでメイン通路に戻るが、今度は “土砂崩れのため立入禁止” となっていた。復旧する気はないのかな?
この通行止の先は 「二の丸・高天神神社」 となっていて、メイン通路は 「三の丸・本丸」 となっていた。

  次の標識は二の丸方面に行く道と、三の丸・本丸への道と別れていて、更にその先は三の丸と本丸に行く道が分かれていた。
何か違和感を感じる。私のつたない城の知識では本丸の近くには二の丸があり、次いで三の丸があった。
敵は本丸を攻めるには二の丸や三の丸を壊滅してから本丸に向かわなければならなかった。
それが高天神城は本丸の横に三の丸があり二の丸は遠く離れている。まだそれは良いとしても、それぞれの曲輪の下に2本の通路が
あるのは理解しずらい。これでは敵は三の丸が強そうならそこを避け、本丸や二の丸に取りつく等、自由に選ぶ事ができる。
戦闘状態でなければ通路があった方が便利だが、山城は戦闘のための施設なのだから普段は不便でも防御を固めるべきだ。

 
               お前曲輪跡                                 お前曲輪跡から

  先ずは本丸からと、本丸に上がり一瞥して三の丸に向かった。で、最初に眼に入ったのは鎧姿の侍と奥女中風の顔出しパネルだった。
観光地でもあるまいものを、何でこんな物を・・・・・・
横には 「高天神戦国ロマンの里 大東町 城主・小笠原与八郎長忠 奥方」 と裏切者の小笠原の名が書いてあった。
前回紹介したが小笠原とは今川氏親の娘を貰い、義元と義兄弟になった縁で高天神城主になっている。それなのに徳川家康の甘い
誘惑にのり今川を裏切り、主君でもある今川氏真が籠る掛川城を攻撃までした裏切り者だ。
しかも彼は武田勝頼との第一次高天神城の戦いで敗れ、高天神城を武田の手に渡した張本人だ。
そんな男の顔出しパネルを作るなんて大東町の歴史感が分からない。

  まだ腹がたつことがった。パネルの横に立つ案内国は、ここは 「お前曲輪跡」 となっている。ここは三の丸だろ。何故 “三の丸” と
書かないのだ。おまけに “お前曲輪” の “お前” とは何のことだ。解説でもしておけ。なんて八つ当たり気味。

  パネルの後ろにコンクリの土台は 「昭和9年に地元出身の軍医少将が、故郷を偲び2層の模擬天守閣を建てられました。
残念なことに昭和20年落雷によって焼失(一説には陸軍が駐屯していたので目につきやすい事から自ら爆破させたとも)・・・? 」

何が故郷を偲びだ!。偲ぶなら派遣された先に建てればいい。地元に建てるという事は、立身出世した己の見せびらかせたいだけだ。
もうイライラの焔は消えそうもありませ。。

  お前曲輪の一部から東方面の景色が見えていた。
ここが437年前に武田と徳川が死闘を演じた戦場ととても思えないのどか風景でした。
実はこの時はてっきりお前曲輪が三の丸だと思い込んでいたので、そのまま本丸の方に移動してしまったのです。
ところが後で資料を見てその勘違いに気付いたが、その時は後の祭りで宿題を残してしまいました。

 
               元天神社                               本丸址

  お前曲輪と本丸の間には元天神社が祀られています。この神社は神社本庁の由緒によれば
 「創建年代詳ならず、(中略)今川了俊当山に城郭を築き、筑紫太宰府の天満宮を御同殿に斎き奉り、城中守護の神となす。
元亀天正の頃戦場と化し、古記類等失亡して往古を知る由もないが、慶長6年(1601)横須賀城主大須賀出羽守忠政武運長久を祈り、
霊験をもって新たに6石の地を寄進し社殿を造営す。」
とあります。
更に現在地元で行われる高天神神社の祭は、東峰の社に神様が里帰りされる行事として行われているそうです。
と、いう事は高天神で激しい戦闘があった頃は、この神社しかなかったのでしょう。

  本丸跡は中々広く周りには土塁も残っています。西南戦争や日清戦争の慰霊碑もいくつもある。
本丸の案内板は高天神城の三つの戦いを列記したものだったのでここでは省略。
高天神城の決死の突撃については、地元大東公民館の案内板に “あやうし高天神” と突撃前夜の哀しい話が書いてあったので、
いつか紹介したいと思います。

 
                石窟跡                              鏡曲輪跡?

  本丸を下り罪人を押し込めていた石牢があるとの標識があったので見に行きました。
 「大河内幽閉の石風呂(石窟)」 とあり、第一次高天神城の戦いで徳川方の軍監大河内何某が武田勢に捕らえられ、この石窟に
8年も閉じ込めれていた。第二次高天神の戦いで徳川が勝利して漸く石窟から救出されが、足掛け8年も石窟に押し込まれて
いたため歩行困難がだった。と案内していた。
今は牢内は土砂で埋まったのか内部は見えず、石窟と云うより土牢の方が相応しい感じです。

  石窟から弓矢の訓練をしたという “的場曲輪” を通り、北口(ここの案内板には搦手門とある)に抜ける場所に出ます。
今は三辻だがかっては北に下れば搦手門、西に登れば二の丸や西丸、北に上れば今歩いて来た本丸。更に南に下れば大手門に
通じる重要な場所だったようです。今は南に下る大手門の道は土砂崩れで通行止になっています。

 
                井戸曲輪跡                             かな井戸

  広くなっている四辻の上は井戸曲輪で城内の飲料水を供給した井戸があった場所だという。
井戸の中はどうなっているか覗いてみたいが、進入禁止の垣根があって中に入れない。それにしても井戸がある場所の北も南も
急斜面の尾根筋なのに、よく水が湧くと分かったものだです。
ここでまた失敗をしてしまった。正面に見える白い板には “二の丸” と書いてあったのに、下の文字に気を取られ二の丸を見逃して
しまった。これも家に戻ってから気が付く後の祭りで、こうなったらもう一度高天神には来なければならないな。

 
              高天神城合戦将士英魂碑                       井戸曲輪を上から

  高天神城の戦死者の慰霊碑です。この慰霊碑の他に旧大東町には “千人塚” でも戦死者の慰霊をしているそうです。

  2枚目の写真は井戸曲輪を上から見ています。こんな尾根筋の井戸で千人もの飲料水を賄う事ができたとはとても思えません。
多分戦時以外は麓の水場から水を運んでいたのでしょう。

        
                   西の丸址(社務所)                              堀 切

  一段目の階段を登った場所には今は社務所が建ってるが、昔は西の丸だったという。確か第一次の戦いでは武田軍に西の丸を
破られ落城したとあったが、今こうして歩いてみても、本丸付近には幾つかの曲輪があるが、西の丸は井戸曲輪しかない。
武田軍はこの手薄の西側を破ってから本丸攻撃をしたのだろう。高天神を占領後武田軍は弱点である城の西側を補強したという。

  社務所の前の杭に 「堀切 この社務所の裏尾根伝い」 と書いてあったので、社務所の裏に行ったが堀切は無く、山道が
尾根伝いに延びている。ここまで無駄な時間を使っているので迷ったが、今日はまだ堀切を見てないので行ってみる事にした。
3分ほど歩いたが何もなく引き返すか悩みだしたときに、右に下る道と分岐した。下れば上らなければならないので当然直進する
平らの道を行くと、すぐとても下れそうもない急斜面になってしまった。諦めて下を見ると “堀切” と書いた白い杭が見えている。
そこは尾根の鞍部を更に深くした形跡も見えるが、とても下る気は起きないので、上から写真を写して引き返した。
堀切から先にも道は延びていが何処に続く道だろう。ハイキングコースかな?

 
                 馬場平                              馬場平から
 
  堀切を確認して西の丸まで戻り、更に階段を登り高天神神社の前に出る。で、またここでミスをした。何と神社の写真を撮るのを
忘れてしまったのだ。どうも高天神城とは相性が悪いようだ。
神社の裏の浅い堀切を渡ると馬場平に出た。馬場平の名前から想像すると馬の訓練場所と思えるが、それにしては狭すぎるので
馬を飼育していた場所かと思った。
だが、ここは城の南部を見張る見張台があった場所だという。確かに南側が開けていて見張台になりそうだ。

 
                甚五郎抜道                             三日月井戸

  高天神城では第二次高天神の戦いで、城が落城した事を甲斐の武田に知らせるため、城から脱出した話を聞いたことがある。
その 「甚五郎抜け道」 が馬場平にあった。案内板には
 「天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より
西方約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言う。」

こういう説明を聞くとすぐイチャモンを付けたくなる悪い癖。

犬戻りは今日小笠山で、犬戻りの上の橋を歩いて来たし、小笠池の上の細い道も写真で紹介したので怖い場所だとは分かります。
では、猿戻りとはどんな道だろう? 身軽な猿させ戻るのだから犬戻りよりもっと怖い場所ではないか。そんな場所を馬が駆け抜ける?
いや通れることが出来るだろうか。
それと “信州を経て甲州へ” ともあるが、私なら大井川に抜けて井川から安倍川に出て、更に安倍峠を越えて甲斐に行く。
それが信州経由だと徳川の領地を通り天竜川に出て、塩の道をから信州に行く遠回りの道となる。
脱出した兵が徳川兵ならその道でも分かるが、抜け出したのは武田兵だ。それなら武田の勢力の残る大井川に出、武田の金山が
あった井川・梅ヶ島の道を行くだろう。
まだある。確か北口の案内板には甚五郎抜道から北口に戻る道があったが、ここには “西方約一千米の尾根続きの険路を辿って”
なんて書いてある。と、いう事は北口には行かず、そのまま小笠山に通じる尾根に延びてしまうのか。
この後、横須賀城に行くには西に見える尾根を越していくのだから、何処かでこの抜道に出合うかもしれない。だがそんな不確かな
事でまた無駄な労力を使うわけには行かない。それに犬戻り猿戻りも恐ろしい。と、引き返してしまいました。

  接近しすぎていて全体が分からない写真ですが、井戸ではありません。これは水溜まりです。と云っても良いような井戸です。
アッ! チョッと待ってください。杭に上にある案内には
 「この水は、飲料用ではないようです。武田方が領した時、几水の事から作ったと言われており、岩から水がしみ出ています。
飲料の井戸は城の中頃辺に確保されている。」

そうだろうな、こんな水溜りの水は非常のときは兎も角、通常の時は飲む気にはなれない。
それにしても “几水” って何だ? 調べてみたが分からない。 “几” という文字は机とかひじ掛けの意味らしいが、それに水で
何を意味するのだろうか? 折角の案内板なのに意味が不明では意味がない。
そうそう几水を調べていたら三日月井戸の古い画像があり、そこに写っていた案内板にはこんな事が書かれていた。
 「天正二年七月より篭城した武田勢は飲料水に恵まれるようにと水乞いの祈願をこめて、井戸を造った。今も極わずかながらも岸壁から
しみ出る垂れ水が絶えることが無い。」

ご免なさい、古い話を持ち出して。これも “几水” の意味を説明さえしてくれてあれば調べなかったのですが・・・

 
                 地 層                              搦手門址

  小笠山の地層は小石交じりの物が多いが、ここの地層はシッカリした岩盤に見える。さっき見た石窟も本当に石だったのかも。
大手門の道を倍する太さの道にようやく 「搦手門址」 の案内があった。矢張り城は南口、北口より、大手(追手)門、搦手門の
方が雰囲気がでる。高天神の地図の案内板はなぜ南口、北口にしたのでしょうか。
案内板には 「搦手門 城の裏門に当り、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。(後略)」
 “城南” の意味は分からないが、この搦手門の解釈は初めて聞いた。一般的にはこれとは逆で
 「搦め手とは余り注意が向けられていない箇所を指す場合にも用いられる。転じて、裏技を用いるといった意味合いで用いられる
場合もある。 搦手門は有事の際には、領主などはここから城外や外郭へ逃げられるようになっていた。」


 
               高天神城の山                               通行止だった

  手間取った高天神城がようやく終わり、次の目的地の横須賀城に向かう。
高天神では色々ケチを付けてしまったが、決して高天神が面白くなかったのではありません。イエどちらかと言えば見る物が多く
楽しくさえあった。それなのに入口探しで無駄骨を折ってしまったため嫌味を垂れ流してしまったのです。
いつまで経っても子供ですが、見残しの多い高天神城には近いうちにもう一度来ようと思っています。

  高天神城を出て西に向かう車道を行けば横須賀に向かう県道に合流するはずです。若しかすれば途中で甚五郎抜道と合流する
かも知れない。など考えながら気軽に歩いてました。
ところがなんていう事だ。道の前は掛川水道局の入口で、その門は閉まっている。門の中を覗き込んでも上に行く道は見えない。
そんな馬鹿な~。今から高天神まで戻って南の海岸方向に向かうのでは、とんでもなく遠回りになってしまう。困った。
今でさえ想定していた時間より遅れているのだから、これ以上遅れてしまったら横須賀から東海道線の駅まではどうしよう。
若しバスが無かったらタクシーとは思っていたが、それは最悪の状態で心の中では掛川駅は無理でも愛野駅までなら何とか歩けると
思っていた。だがこんなに無駄な事に時間ばかりかけてしまうとそれさえも無理だ。
ウーンどうしよう。悩んでいても仕方ない、戻るしかない。

        
                    この道でいいのかな?                          大城隧道

  こうなったら横須賀城趾は諦めて高天神まで戻って掛川に帰ろう、なんて考えながら来た道を下って行くと、今歩いている
道より大分細めだが舗装された道が西の尾根に向かって延びていた。若しかしてこの道?
よく見れば入口には掛川市の 「凍結注意!」 の貼紙もある。若しこの道が農道ならこんな貼紙をしないだろう。それに電線も先に
延びている。マーいいか。例え農道で道が途中で行止りだったら引き返して掛川に戻るだけだ。と細めの道を前進することに。

  途中で電柱は無くなってしまったが、道はそれなりに交通量がある感じで雑草や落葉も積もっていず続いている。
だが車が1台も通らない事に若干の不安はあったものの、前方のトンネルを見て安心した。もうこれで100%大丈夫!

 
               県道合流                                    ??池

  トンネルを出てからは思ったより早く県道に出た。合流した先は溜池もあり、横須賀にはこの道を下るだけだ。

城ロマン:掛川3城巡り(高天神城趾1)

2018-01-31 17:41:24 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停


                            高天神城趾付近の概略図

        
                       旧大東町のMH                           水 仙

  車の通らない下小笠川の右岸を歩いていると掛川市とは絵柄の違うマンホールがある。絵柄は旧大東町時代の絵柄で、中央に
描かれているは、菊川の河口に架かる自転車歩行者専用道路の潮騒橋で、近くには日帰り温泉大東ユートピアがある所です。
絵柄の下には水仙が書かれているが、きっと旧大東町の花だったのでしょう。今もあちこちで見かけます。

  この辺りは寺巡りでも歩いているので道は結構知っている。川口鉄工所が見えたら右に曲がり、次の新しい道に入る。その道の
山側には惚け封じの確か今瀧寺があったなど、普段は頭の片隅に隠れていた記憶が浮かび上がってきます。
これならまだ今瀧寺にお参りする事はないかな、なんて思いたいがとんでもありません。近頃とみに物忘れが増えて日にちや
曜日は勿論の事、近所の家の名前を思い出せない事が時々ある。今日はせめて遠くから惚け封じの寺に一礼しておこう。

 
              高天神城趾の山                              高天神城入口(北口)

  高天神城趾の山が見えてきました。、写真の手前に見えるフェンスは工業団地の売れ残りのようです。
それにしても掛川市は大丈夫ですかね? 売れ残りがあるのに新しい工業団地を造成したりして・・・・・

  この貧弱な山が 「高天神を制する者は、遠州を制す」 と言われた高天神城のある山です。
しかしどう見てもこの山がそんな重要な位置にあったとは思えませんよね。で、高天神城の歴史を私流に復習してみました。

  高天神城が歴史上名前が出てくるのは、16世紀初頭に今川氏の家臣福島氏が城代として駐留した頃だそうです。
この福島氏は今川の家臣ですが中々の有力者で、今川家の世継ぎ騒動で有名な 「花倉の乱」 の主人公・玄広恵探(花倉殿)の
祖父でもあり、後援者でもあったのです。
この相続争いは今川家当主だった氏輝が若くして亡くなると、跡目に名乗り出たのは氏輝の義弟の恵探と弟の義元の二人でした。
氏輝や義元は氏親と正室寿慶尼の間の子供でしたが、恵探は側室の子でした。ただ惠探は義元より年長で、側室だった母親が
高天神城代の福島氏だったことから問題が複雑になりました。
  恵探は祖父を後ろ盾として義元の住む駿府今川館を急襲するもこれに失敗、自身の城・花倉城に逃げ込みました。
義元は母親の寿桂尼や重臣の支持をうけ花倉城に攻め込むと、惠探は城を捨て烏帽子形山を越して瀬戸谷に逃げ込んだしまった。
惠探は祖父のいる遠州高天神城を目指したのだが、義元の追及は厳しく惠探は瀬戸谷の普門寺で自刃してしまう。
花倉の乱が終結すると福島氏も義元に討伐され、高天神城は今川氏親の娘婿の小笠原氏に引き継がれるのでした。

  ここまでが高天神城の前置きですので、遠州を制するほどの話ではありませんでした。
時は移り今川家の当主になった義元が桶狭間で織田信長に討たれると、今川家はその子氏真が当主になるも、急速に勢力が衰退
していく。
今川の力が減少すると甲斐の武田は三河の徳川との間で駿河は武田、遠州は徳川との密約を結び武田軍は駿河に侵攻する。
これを恐れた氏真は、駿府から山路を経て掛川城に逃げ込んでしまった。
一方家康も遠州を手に入れるべく高天神所の小笠原氏を自陣営に誘い込み、掛川城の攻撃を開始する。
この戦いには高天神城の小笠原氏は徳川軍の一員として旧主君の籠る掛川城を攻撃しているのです。
しかし家康の思惑に反して掛川城は中々な落ちず、家康は和睦作戦に移行して掛川城を手に入れるのでした。

  武田信玄は駿河平定後、家康の拠点の三河・遠江方面へも手を伸ばし始め、遂には2万5千の大軍を率いて高天神城を包囲する。
だが信玄は城を包囲したものの、城を見ただけで即日撤退してしまった。
このため高天神城は 「信玄も落とせなかった難攻不落の城」 との名声を受けるようになる。
だが、実際はどうだったのでしょうか、信玄は高天神城を見て “難攻不落” とみたか “攻撃する価値もない” と見たのか。
私は後者だったと思う。遠州の片田舎にある山城を見て、信玄はその存在価値を認めず無駄な血を流す事を避けたのだと思う。 

  信玄が家康との三方原の戦い後に病死すると、後を継いだ勝頼は、偉大だった父・信元を越えるべく父が落とせなかった高天神城
攻略に信念を燃やしだした。
信玄が高天神城を包囲してから3年後、勝頼は2万の大軍をもって高天神城に攻めかかる。この時の高天神城は城主小笠原以下千名
程度で守っていた云われる。
当然小笠原は家康に援軍を求めたものの、当時家康も兵が足りない状態で援軍を送れなかった。更に城内で勝頼に内通する者も現れ、
高天神城は持ちこたえられず勝頼に降伏してしまった。これが世に云う 「第一次高天神城の戦い」 です。

  第一次高天神城の戦いに勝利した勝頼は、父信玄の無しえなかった事を成しえた事で自信を持ち、徐々に家臣の意見に耳を
貸さなくなったと言われている。この勝利が勝頼には良かったのか、それとも悪かったのかは神のみぞ知るですね。


                             高天神城想像図                        (現地案内板)

  高天神城を攻略した武田軍は城内を拡張・整備し、写真の想像図左に聳える西の丸を増強して徳川の反撃に備えていた。
更に高天神城を攻略して自信を付けた勝頼は三河への侵略を始め、長篠で織田・徳川の連合軍に戦いを挑んでいった。
この時の勢力は武田軍は1万5千で、織田・徳川軍は3万8千と倍以上だったため、武田の重臣は退却を進言したが勝頼は
聞き入れず総攻撃の命令を発してしまった。
敵地でしかも味方を倍する軍に突進した勝頼には、高天神での勝利の味が忘れられなかったかもしれない。だが所詮は連合軍の
敵ではなく、惨敗した勝頼はすごすごと甲斐に逃げ帰ったのでした。

  一方長篠の戦いで勝利した家康は、高天神城の攻略を目指し、陸からの補給路だった金谷の諏訪原城を攻め落とし、次いで
海の支援路の用宗の持舟城も落城させ、高天神城を孤立させていった。
更に家康は高天神城の周りに6ヶ所もの砦を作り、それらの砦を支援すべく海辺に本格的な横須賀城を築いていく。
準備万端整えた家康は、高天神城の周囲を包囲する兵糧攻めの策をとり、城兵の士気を衰えさす作戦に出た。
一方城内からは甲斐の勝頼に支援要請を出すものの援軍の派遣はなく、場内では餓死者や脱走兵が相次いでいた。
こうした状況にしびれを切らした武田軍は、ついに城から討って出たが徳川軍には敵わず、城代岡部元信以下兵600名余は
首を討ち取られてしまった。これが世に云う「第二次高天神城の戦い」だったのです。

  その後高天神城への援軍を送れず味方を見殺しにしてしまった勝頼は、その非情さから家臣の信頼を失い、敵に寝返る者が
出るようになり、  「人は石垣、人は城」 と団結を誇った武田軍も終焉を向かえるのでした。

 
                 掛川3城の位置                            六砦の位置(一ヶ所不明)

  先に書いた 「高天神を制する者は、遠州を制す」 だが、上の航空写真を見てください。
海岸近くの山中の場所は本当の片田舎だと一目瞭然ですよね。この地を支配しても農地は少なく年貢量も上がらないでしょう。
しかも東海道に出たくても山越えをしなければ出る事ができません。
武田信玄はここに来て、そんな高天神城の無用さを一目で見抜き、何もせずに退却したのです。
そのままなら高天神は遠州の片田舎の山城で終わったが、父親コンプレックスの強い勝頼の存在が高天神をクローズアップして
しまったのです。

  「高天神を制する者は、遠州を制す」 とは、武田と徳川が2度に渡る戦闘を繰り返したため、この地や城が重要だったとの
認識が世間に出来てしまった。と私は想像するのです。
私に言わせれば 「高天神は勝頼を生かし、勝頼を殺した」 城と言いたい。
更に言うなら高天神城は今川が造り、守り、裏切り、そして滅亡した、最初から最後まで “今川の城” だったとも言いたい。
何故なら今川の家臣福島氏が城を整備し、福島氏が跡目相続で敗れたあと城を継いだ小笠原氏は、今川を裏切り徳川方に寝返った
ものの武田に敗れてしまう。次に武田の城になった高天神に入ったのは、跡目相続で福島氏の孫の花倉殿を破った岡部氏でした。
そして岡部氏の高天神城は徳川に殲滅され落城してしまったのです。
高天神城と言えば武田と徳川だけに焦点が当たるが、裏にはこのように深く今川も絡んでいたのです。

  ダラダラ書いてしまったがまだ疑問に感じる事がある。家康は何故兵糧攻めした高天神城を降伏させずに滅ぼしてしまったのか?
飢えで体力を消耗した城兵は降伏を許されないと知り、絶望すると同時に徳川軍に激しい憎しみを覚えたでしょう。
そんな軍隊は “窮鼠猫を噛む” の例え通り、思わぬ反撃をするものです。
しかし家康は自軍の被害を無視して、城から打って出た武田兵を次々と討ってしまったのです。これは家康の性癖でしょうか?
かって家康は気賀の堀川城でも城兵や住民をなで斬りにして、その首を土手(獄門畷)に並べて曝している。
更に最近行った持舟城にも、討死した将兵の “城山烈士供養塔” が祀られ、当時の惨劇が書かれていた。

  ウイキペディアには
 「織田信長は高天神城攻めにあたり、家康に対して「高天神城の降伏を許さないように」という書状を送っている。信長は勝頼が
高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようである。」

書状の有無はともかく、勝頼失墜を狙い武田軍を惨殺した家康も信長も深慮遠謀に長けていたのでしょう。

  高天神城は落城するとそのまま廃城となり、再び歴史にその顔を出す事はなかった。(高天神は遠州を制する場所では無かった)


                             高天神城趾案内図

  高天神城想像図を見て城内の散策コースを決めようと思ったが、余りにも想像的で格好は良いが正直何処が何処か分からなかった。
仕方なく少し戻りイラスト風の案内図を見るとこれは良く分かった。
今日は城内を見た後は、またここに戻り横須賀城に向かう予定なので城内を一周したいと思っていた。そこで考え付いたのは赤線の
コースです。これなら城内を余すことなく見学できそうです。

        
                       道が終ってしまった                          階段がある

  案内板のある所は北口なので南口から登城するため舗装路を南口に向かいます。
アレー道なりに行く道は通行止めになり、舗装路は更に先に見える太めの車道に向かっている。
でもこの通行止は車両用と更に前進するが、すぐこの通りの状態に。
でも捨てる神もあれば拾う神もあるのです。こんな階段を見つけ登って行きました。

  
             神はいなかった                              やっと下りれた

  階段の上は竹藪だったが踏み跡らしきものあったので進んでいくと、倒竹が多く一足毎にバキーとかボキーとか大きな音を立てる。
踏み跡か水の流れた跡のなのか分からない凹みは、斜面の裾を円を描くように続き、のまま辿ればまた下に行ってしまいそうだ。
思い切って斜面を登ろうとするが細い真竹が密集していてとても上る状態ではなかった。

  結局凹みを辿って下に降りると、そこは舗装道路が寸断された先の部分だった。全く余計な労力を使ってしまった。

  
             また脇道がある                               車道に戻ってしまった

  山裾に続く舗装路を行くとまた階段があり、その上は平坦になり曲輪のように見えない事もない。おまけに目印のテープまである。
で、結果は又もや空振り。目印のテープと思ったのは何かを縛った紐の残骸だった。どうやら高天神は俺を拒否しているようだ。

  舗装路に戻り出た先は、何の事はなくさっき見えた太めの車道だった。こんな事なら最初から素直に車道を歩けば良かった。

 
              高天神城南口                                 南口駐車場(追手門)

  車道を進むと 「高天神城跡南口➡」 の標識が見えてきた。無駄な時間を使ってしまったが漸く入口に着いた。
先程の北口には駐車場が5カ所程あったが、ここ南口には一つしかな。道も細いので、こっちが搦手門で北口が大手門かな?
入口の表示は 「県立自然公園 高天神城趾」 とあるだけで、搦手門かどうか分からないが多分そうだろう。

城ロマン:掛川3城巡り(小笠山砦2)

2018-01-28 09:03:58 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停

 
                多聞神社の                                 多聞神社

  弓矢を地面に差し神社の境を表した物は何と呼ぶのだろう。岡部の神神社でも見かけたが名前を忘れてしまった。
名前はともかくこの弓矢の先には小笠神社ならぬ多聞神社が建っています。案内には
 「徳川の時代、笛が上手な15歳の少年が小笠山に登ったまま分からなくなってしまった。心配した母に、夢で小笠山の◯◯天と
なると告げた。病人があると夢で、薬を教えききめがあるので、ここに祀った。」
とある。
少し分かりずらいが “行方不明になった少年が仏となり、病人の夢に現れ効き目のある薬を教えた。” という事だろう。
しかし案内板の少年が化身した神の名前の下が消されていて判読できない。
だが神社の名前が “多聞” なので、病人お願いを沢山聞くという事から 「多聞天」 なのだろうと思った。
ところが多聞天を調べると 「毘沙門。常時、如来の道場を守り、法を聞くことが多いことからの名。」 と、あの有名な毘沙門天だった。
でも少年が毘沙門天ではイメージが合わないので、消えた文字は “多聞” ではないかもしれないな。

 
                展望台の四阿                                 笹峰御殿跡

  いつもは神社下の道を歩くのだが、今日は多聞神社の横にある道を稜線に出て南に下った。稜線とはいえ木の枝が邪魔で、
景色は枝越しにチラチラ見えるだけだが、その先に四阿の建った展望台がある。そこからは掛川市街が見えるのだが今日は
冬には珍しく霞んでいて写真を写すほどではなかった。多分富士山も見えると思うが分かりません。

  四阿から下る途中にベンチや椅子がある広まった所があるが、ここは曲輪だったのでしょうか? 分かりません。
登山道に出て小笠神社に向かうと、また尾根部分を平らにしたような所に二つの建物がある。一つはコンクリの箱を横に
したような物で、もう一つは使われなくなったトイレのようだった。
そのコンクリの中に凸凹になったブリキの案内板が置いてあり
 「笹峰御殿跡 徳川家康が掛川城の今川氏真を、また、高天神城を攻めた時に家康の陣屋があった所で、御殿は後に
取り拂われた。家康は浜松からここに来たのである。」
とあった。

  家康の掛川城攻めとは、武田の駿河侵攻で駿府を脱出し掛川城に逃げ込んだ氏親を、今度は家康が攻めたのです。
意気地のない氏真なら簡単に攻略できそうなものだが、家康は苦戦し掛川城を落城させることが出来なかった。
そこで作戦を変更して一転和睦戦略に舵をきる。家康に命や所領を安堵された氏真は勿論和睦に同意したのです。
その掛川城攻めの家康の本陣は天王山にあったとされるが、天王山とは今の掛川城が建つ前の場所の古掛川城だと言われます。
その古掛川城と掛川城の距離は直線で300m程しかありません。慎重居士の家康が戦闘している敵の目の前にいたとは疑問です。
かと言ってここ小笠山に陣を張っても、今度は直線距離で4km以上、しかも攻撃する道は無いのですから、陣と言っても見張台
程度の価値しかない。若し案内板の通り家康が掛川城攻略で浜松からここに来たのなら、多分 安全・保身 ためだったのでしょう。

  安全・保身は高天神城の攻撃の際でも考えられる。家康が高天神城の攻撃の時は城の周りに攻撃用砦を六ケ所設けている。
小笠山砦もその砦の一つだが、高天神城からの距離は一番遠く離れ5km弱もある。しかも砦の建つ場所は険路の上にあり防御は
しやすいが攻撃には不向きな場所だ。
そんな場所に砦を造った意味は、家康が安全を求めたからに違いない。と私の妄想的歴史観は蠢くのです。

        
                     堀 切                                   小笠山砦跡

  この堀切が小笠砦では一番大きくて場所も登山道横にあり、近くには 「小笠山砦」 の杭も建っているのすぐ分かります。
杭には 「徳川家康が掛川城と高天神城を攻めた時に作った砦である。」 と書かれている。

 
               人工地形                                   人工地形

  砦跡付近の林の中には、掘ったような跡や平らに均したような場所があちこちで見られるが、ここに砦が有った事を知らなければ
自然の地形と見逃してしまいそうです。

 
               小笠神社展望台                                 高天神はどこに

  小笠神社の社務所の展望台は南側が開けているので、高天神城を始め遠州灘方面が見えるのだが、今日は生憎な
天気でスッキリ見えません。高天神城も見えている筈ですが、どの山そうなのかはっきりしません。
多分あの山と思う山はあるのですが自信がない。毎回双眼鏡を持ってこようと思っていても、いつも忘れてしまいます。

 
                小笠神社                                   神社のリフト

  毎回お馴染みの小笠神社です。何年か前に各地の神社などに油を撒いた事件があったが、その痕跡が今も残っています。
くだらない事をする奴がいるものだと思うが、去年もまた油撒き事件が発生して中国人女性が手配された。
これが逆な立場なら中国国民はどのような行動をとるでしょうね。

 
              小笠神社の階段                               小笠神社の階段

  神社から急な階段が幾層も続いています。どうですかこんな所を馬に乗って攻撃できると思いますか。

 
                小笠神社参道入口                              小笠池

  参道入口の大きな案内板を見ていた人が 「小笠山の見所は六枚屏風と聞いたけど、どのように行くのですか?」 と聞いて来た。
一人歩きの老ハイカーを見てベテランとでも思ってくれたのだろうか。期待に添わなければと得意になって説明する私です。

  小笠池付近は大東町時代には釣りやハイキングにと手を入れていたようだが、今はその名残といった風になっている。
写真上に見える白い建物が小笠神社の展望台の所です。展望台から覗き込んだが池が見えなかったが、よく見れば見えたのかな?
最近静岡県では溜池上部が崩壊し土石流が発生する個所の調査をしていると報道されていたので、県の 「土砂災害危険マップ」 を
覗いてみたら、小笠池と小笠神社の間が “急傾斜地崩壊危険個所” に指定されていた。矢張り怖い場所なのだ。

 
                 小笠池隧道                            ここは怖かった(以前の写真)

  池の堤防を渡り崖の下を行くと小さな隧道がある。この隧道を潜って行くと県道251号脇の無線中継所に出る事ができる。
だが途中に犬戻りのような崖の上の細道がある中々恐ろしい場所です。
私も最初はここを何気なく歩いていたが、ある時六枚屏風の上で小砂利に滑り危うく崖下に落ちそうになった時がある。
その後は普段何とも思わない所でも怖さを感じて歩いていたのだから、大人しく帰れば良いものをこの道に来てしまった。
そしてこの崖の上の細道を見て震え上がってしまった。
さんざ悩んで末に勇を決して渡ったものの、渡り終わってからも怖さは抜けず、もう二度とここへは来ないと思った。
そんな事のあった後で掛川市のHPを見ると、この箇所が通行禁止なっていた。
今はどうなっているのだろう。通行禁止は解除されたのかな? でも解除されてももう歩く気はしない。
 
 
              小笠池Pの案内板                              ここを乗り越えて

  池の堤防の下は駐車場になっていて古い案内板が建っていた。崖の上の細道はと見ると、赤く印があり 「通行止め」
追記されていた。池を回る道には何も書かれていないが隧道を通るには照明器具があった方が良いでしょう。

  県道249号に合流すると歩道の無い車道の隅を歩く事になる。県道の右下には小笠池を水源とする下小笠川が流れていて、
渡る事はできないが川向うには車も通れる舗装された道が見える。
でも大丈夫です? 県道に合流してすぐの所のガードレールが切れていてロープで封鎖されている。おまけに 「関係者以外
立入禁止」
なんて書いてある。
しかし公徳心の薄い私はロープを跨いで対岸に渡るのでした。更に図々しく 「ここは歩道にすべし」 なんて思いながら。

城ロマン:掛川3城巡り(小笠山砦)

2018-01-25 11:11:19 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停

                         ハイキングコース入口から県道249号までの概略図


  今日の山道はマスラノ池上の山道入口から小笠池までが唯一の山道で、後は舗装歩きとなります。

 
                県道403号線                                与左衛門池

  県道403号のガードを潜り右折して県道の横を行くと前方に水溜りが見えた。
オッ! 今冬最初の氷かと思ったが単なる水溜まりだった。
寒さに負けて早朝出発は避けているくせに、いざ歩いていると雪や氷を期待する勝手な私です。

  農道が県道と離れると雰囲気か徐々に良くなり、最初に顔を出すのが与左衛門池。多分与左衛門さんが作った溜池でしょう。

 
                 分岐1                                      ドンドン隧道

  与左衛門池の横に標識があり “小笠神社への尾根” と山道を指している。この分岐1から山道に入っても良いのだが
今日はこのまま農道を進んで行く事にした。
わざわざ遠回りをしていく理由は農道沿いの道の雰囲気が良いから? イエ違います。短距離より平坦な道に逃げただけです。

  ドンドン隧道は案内板によれば、下にある与左衛門池を洪水から守るために明治時代に掘った隧道だとあり、更に
 「子供の頃から、遊び親しんだ。」 ともあるが、隧道の中に入って遊んだのかな?
それにしてもここは民家のある場所から大分離れているが、子供たちの家は何処だったのですかね?

 
                  分岐2                                    絶壁だが

  次に出てきた溜池の名前が 「スマラノ池」 とは何の事か想像すらできません。
池を過ぎて合流した農道を左に直進すると今度は写真の分岐2に出ます。標識には山道を指して 「小笠山」 と書いてあります。
マー小笠山には違いはないが、もう少し丁寧に言うならば 「小笠山、138度展望台」 とでも書いてくれれば満点です。
今日は私は小笠山には行くが展望台には行く気が無いので、この山道はパスします。

  農道の奥に崖が見えている。これを上から見るとゾッとするが、下からしかも写真技術の下手な私が写すとただの草叢です。

 
                 山道入口                                  稜線縦走路合流

  農道を更に進んでいくとカーブミラーある道の左右に道標が建っている。左カーブミラーの道は与左衛門池で分岐して来た道で、
右は小笠山に向かう道です。ここを登れば稜線の縦走路に出るので、138度展望台や法多山にも当然行けるが、わざわざ遠回り
することもないでしょう。逆の小笠山に行くにはどちらでも良さそうだが、楽を選ぶならこっちの道でしょう。
好きで山に登るのに、この選択は何でしょうな。楽、楽と選ぶなら歩かなければいいものをと自分でも思ってしまいます。

  稜線で合流した縦走路を右(西)に行けば、138度展望台、腹摺峠、三ツ峰、法多山、エコパ、愛野駅に向かい、左(南)に向かうと
小笠山を経由して小笠神社に行きます。今日は左の小笠山に向かいます。

 
                  犬戻り                                    犬戻りの絶壁

  稜線の道を少し行くと 「犬戻り」 に出ます。今は橋を掛けてくれてあるので不安なく通れるが、橋の無い頃は犬でも怖がって、
ここから戻ってしまったのでしょう。橋から下を覗き込むと◯◯が縮んでゾッとします。

   
            ?                           ?                          ?

  歩いていると時折ビニールで包まれた物を見かけます。以前は茶色のビニールで包まれていたが最近は透明な物も見かけます。
で、その中身はというと、木を切断した幹に何本かの切れ目を入れた物でした。何でしょうね?

 
               説明があった                               六枚屏風の分岐

  ビニールには 「さわらないでください。カシけガキクイムシ くん蒸作業中 機関29年6月13日~27日 ひふみ林業(有)」
あるが、 “カシけガキクイムシ” ってなんだ? 
兎も角ネットで “かしけがきくいむし” で検索すると 「カシノナガキクイムシ」 がヒットしました。
なん~だ~! カタカナの “ノナ” を、ひらがなの “け” と誤読してしまったのだ。で、カシノナガキクイムシとは
 「カシやシイ、ナラ類に棲息するナガキクイムシ科の昆虫である。成虫の体長は5mm程度の円筒状で、大径木の内部に穿孔して
棲息する。穿孔された樹木は急速に衰える。しばしば大量発生と衰退を繰り返す。
対策として、被害木を切り倒して燻蒸する伐倒処理があるが、被害本数が多い場合は現実的ではない。」
等とあった。
では、このビニールは害虫の駆除中なのか、それと駆除の実験中なのか、期間は大分過ぎているがどうなっているのだろう。
そう言えば 「ナラ枯れ」 なんて言葉もあるが、この虫が楢林に大量発生して多くの木を枯らす事だろう。
 (このビニールの包は小笠山の山頂にあったのですが、説明の都合で順序を早めました。)

  六枚屏風の分岐に来れば小笠山山頂はすぐです。

 
          小笠山山頂(2018年1月現在)                         小笠山山頂(2015年3月現在)

  小笠山山頂の三角点の標識を見てなんとなく違和感を感じた。標識と標石がこんなに離れていただろうか?
過去の写真を見てみると、3年前の写真には標識が標石の後ろにあったのが、今は標石の大分手前の登山道脇に建っている。
小笠山山頂は余り山頂らしくなく山頂で見落とす事もあったが、登山道脇に標識があれば三角点も山頂も見落とす事はないでしょう。

  
               山頂横の絶壁                                 山頂直下の四辻

  少し広くなった山頂広場の南側を覗き込んでください。きっとゾッとしますよ。
この山は低山で道の傾斜も緩いのだが、あちこちに断崖絶壁があります。それも岩登りには適さない土が押しつぶされたような
脆い崖で、途中には丸い河原石のような物が挟まれています。
崖を覗き込んで写真を撮るのだがゾッとするような写真が撮れないので、代わりに谷底でなく正面の崖を写しました。

  ウーンここも景色が違う。以前ここには高札場の形をした物に小笠神社の決め事が書いてあったが、今はそれも倒れたままだ。
 「定 一、車馬乗リ入ルコト 一、鳥獣等捕ルコト 一、竹木等伐ルコト 一、猥リニ火ヲ用フルコト 右條ニ於テ境内令禁止者也 
大東町入山瀬  小笠山神社」
と禁止項目が書かれていたのだが・・・・・・・・・・・・
隣に建っている鳥居は木製だったものが金属いや樹脂製? 兎も角人工の物になっていました。


                                  小笠山砦縄張                             現地案内板

  高札場の石垣に小笠山砦の縄張が立てかけられていた。以前は自立していたが杭が腐ってきたのだろう。
小笠山に砦が有った事を知らずに登ってきた人は、これを見ると一様に驚くが、何せ専門的過ぎて理解しずらい。
かく言う私もこの縄張りを見て分かる事は、尾根の上に作られた細長い砦ということだけだ。
それでもこの辺りを歩いているので、縄張の山頂から小笠神社にかけての北東斜面は断崖絶壁が続き、敵は攻めて来れないし、
また、小笠神社から南側の斜面も縄張の等高線は緩やかに見えるが、下の方は大きく崩れていて、とても集団が登れるとは
思えない。
だが、縄張はその南側が一番厳重に防御していて丸馬出さえもある。こうして見いると今は崩れて登れそうもない斜面も、当時は
崩壊が起きていず上り下りできたのかもしれない。

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 ここまで草稿を書いていたら突然ブログの簡易プレビュー機能が無くなってしまった。
そう言えば少し前から簡易プレビュー機能を廃止すると書いてあったのがこの事だろう。
写真や文字の長さは勿論、誤字脱字のチャックにも利用していたので、この機能が無くなるととても不便です。
今回の小笠山砦はまだ終わっていないが、一先ずここまでを前編として後半は追ってアップします。