はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

MHシリーズ5 秋編

2017-10-22 10:07:44 | マンホール
                秋と云えば・・・・・・・                        (MH季節シリ-ズ)

  梅雨時より鬱陶しい秋の長雨が続いて、夏が終わったと思ったら一気に肌寒い初冬になってしまったようです。
さて、MHの秋には何が有るでしょうか。植物なら菊、栗、柿、それに稲等が思いつくが果たしてMHにあるだろうか。
昆虫ではトンボがいるので、これは磐田市のMHを調べてみよう。
他には食欲の秋や読書の秋もあるがこれも難しそうだが、スポーツの秋ならありそうです。
という事で今回の “MH季節シリ-ズ”は 「秋」 をテーマにしました。

  日本は瑞穂の国とも言いますが、瑞穂とはみずみずしい稲穂のことで、稲が多く取れることからきているそうです。
なら秋の最初は稲穂の茂った田圃にしたいが、米の産地でもない静岡県にあるでしょうか・・・・
ところが心配無用でした。所はわが故郷御殿場のMHに採用されていたのです。
                            「 田圃のカカシ」
          
                           静岡県御殿場市(2015.3)
  静岡県の寒冷の地、御殿場に何故稲穂のMHがあるのか疑問に感じる向きが多いと思いますが、考えてみてください。
日本の米作りの産地は新潟県を筆頭に殆どが雪国です。そのご多分に漏れず御殿場地方は県内でも珍しく毎年積雪を見る
地域です。その地位性を生かして栽培する御殿場地方の米は、毎年開かれる 「お米日本一コンテストinしずおか」 で連続
県知事賞を受賞しているそうです。そうなれば市としても更にアピールしようとMHの蓋に採用したのでしょう。

  御殿場地方の最近の特産物としては 「水かけ菜」 が有名ですが、私の子供の頃は 「とう菜」 と呼んでいました。
その語源は冬に取れるので “冬菜” とか、とう立した茎を収穫するので “薹(とう)菜” などの説があります。
個人的には洒落た感じの “水かけ菜” より “とう菜” の方が好きですが、万人受けするには水かけ菜の方が向いていそうです。
とう菜の漬物は最近土産物として販売されるようになり値段も高くなっていますが、私の子供の頃は収穫したばかりのとう菜を
茹て鰹節と醤油をかけて食べました。青臭くて嫌いでしたが、万年腹っ減らかしの当時は嫌でも食べるしかなかったのです。
今も御殿場から毎年とう菜の漬物を送ってもらっていますが、最近ではとう菜をみじん切りにしてご飯にかけて食べるのが好きに
なりました。また、酸っぱくなったとう菜を油炒めで食べるのも中々いけます。
オットまた横道にそれてしまった。閑話休題です。


  瑞穂の国が出たら次は当然日本の異称でもあった 「蜻蛉島(あきつしま)・秋津洲」 のトンボですよね。
このトンボのMHの蓋は、過去何度か歩いている磐田市の桶ヶ谷沼で見かけたことがあります。
早速貧弱な私のMHのライブラリーを見るとありました。
                               「トンボ」
          
                           静岡県磐田市(2011.4)
  トンボにも色々種類があるようで、これを見ただけでは分かりませんが、桶ヶ谷沼の代表的トンボはベッコウトンボなので
多分ベッコウトンボでしょう。
ベッコウ(鼈甲)とはウミガメの一種・タイマイの甲羅の背甲・腹甲等を磨き上げて物で、眼鏡や櫛で見た事があります。
薄い黄色の縞模様が浮かんでいる鼈甲の眼鏡のイメージは、成金不動産屋って感じでしたが、今でもあるのでしょうか。
その鼈甲の名が付いたトンボですので、きっと鼈甲色をしているのでしょうが記憶にありません。


    三重県鈴鹿市にもトンボのMHがありました。ただ鈴鹿市とトンボの関係は分かりませんでしたが、近くにある御在所岳の
 “ございしょ自然学校” のHPには、トンボの説明が詳しく載っていました。
                               「トンボ」
          
                           三重県鈴鹿市(2011.9)
 「赤トンボという名前のトンボは、存在しないことをご存知ですか? 
私ちが普段 「赤トンボ」 と呼んでいるトンボは、たいていの場合 「アキアカネ」 というトンボを指します。
赤トンボは 「アキアカネ」 以外に 「ナツアカネ」 などたくさん種類があり、それらを総称して 「赤トンボ」 と言います。
アキアカネと言えば秋をイメージする人が多いと思います。しかしアキアカネは6月頃に田んぼで羽化し7月8月の約2ヶ月間を
標高の高い涼しい場所で過ごします。
そのため、ここ御在所岳においても夏になると何千、何万ものアキアカネが飛んでくるのです。そして秋になると麓に下り、
交尾・産卵を行います。この時期に見かけることが多いので秋の虫のイメージがついたと思われます。」


  これで大分赤トンボの事は分ったと思いますが、この学校では 「アカトンボふる里さがし大作戦」 なるものを行っていて、
御在所岳で捕まえた赤トンボの翅に 「G」 とマーキングして放しているそうです。
若しこのGマークのトンボを見つけたら、ございしょ自然学校に連絡してやってください。
因みにこのトンボ、愛知県では発見されているが静岡県ではまだ見つかっていないそうです。


  “日本”続きで来たので次も日本の花で探しました。日本の花で思い浮かべるのは、先ず春の桜。そして秋なら 「菊」 ですよね。
そして探してみたら私の住む焼津市の隣町吉田町にありました。
吉田町の大井川河口に県立吉田公園があり、四季それぞれの花を咲かせています。中でも春のチューリップは有名で “チュ-
リップ祭” を毎年開催しています。しかし菊の花は聞いた事はないので早速公園のHPを見たが矢張り何も書いてありませんでした。
                                 「菊」
          
                           静岡県吉田町(2011.4)
  菊と聞けばすぐ思い出すのが皇室の “菊のご紋章” で、正確に言うと 「十六八重表菊」 です。
この御紋の菊はMHの菊とは違い小菊のようで、花弁が16枚という事は分かりますが “八重” と “表” の意味が良く分かりません。
参考に菊のご紋章と小袖の柄にデザインした八重菊を紹介します。
 
           菊のご紋章(十六八重表菊)                           小袖の八重菊の文様

  菊のご紋は皇室関係以外では使用禁止かと思っていたのに、遍路で訪ねるお寺ではよく見かけます。不思議に思い調べてみると
明治2年に菊のご紋が皇室の紋とされ、皇室以外の使用が禁止されたが、明治12年に社寺でも神殿・仏堂の装飾として使用する
ことが許されています。
廃仏毀釈が行われた明治の時代なのに仏教のお寺に許された理由は何だったのでしょうか。不思議です。


  秋編の最後は “スポーツの秋” で閉めましょう。
静岡県でスポーツと云えばサッカーです。そこで先ず調べたのがエスパルスの清水とジュビロの磐田ですが、何れの街のMHにも
写っていません。それではと少し前には “サッカーの街” で売った藤枝も調べたのですが矢張りありません。
私の写すMHは歩いているとき見つけて写すだけですので、中々全てのMHを写すわけにはいきません。若しかしたらサッカー場の
近くには有るのかもしれませんね。
ソーソー先日静岡の街を歩いていたら、50ccのバイクのナンバープレートにサッカーをしている絵が有りました。
見た時は静岡市でサッカー? と頭を捻りましたが、そうです清水市は静岡市と合併したのでした。合併してからもう何年にもなる
のに、私の頭の中にはまだ清水市が生きているようです。

  静岡県にスポーツが無いのは情けない。ならエコパ(静岡県小笠山総合運動公園)ならあるかもしれないと袋井市を見ると
有りました、有りました。エコパ内のマMHでしたが1枚だけありました。
                                 「スポーツ」
             
                               静岡県袋井市(2011.9)
  サッカー、テニス、水泳ともう一つの競技が描かれいますが、左上にあるスポーツが分かりません。
座ってバットで台の上のボールを打っている人に、それを受けるように構えている人は中腰で2本の棒を持っています。
その後ろにはゴールのような物も見えます。こんな競技があったかしら思いつきません。
さらに不思議なのはエコパには水泳場は無いのに、水泳?水球?が描いてあるのは何故でしょう?


  最後がイチャモンで終わってしまいましたが秋編は如何でしたか。食欲の秋なのにお米しか紹介できなかったのが残念です。
果物では柿は森町、栗なら掛川、葡萄の巨峰は伊豆市(旧中伊豆町)にあっても良さそうですがありませんでした。

世に登録

2017-10-17 11:58:33 | その他
  10月5日の東遠3城址を歩いて家に帰ると 「結婚記念日はいつか知っている?」 と妻に聞かれた。
 「勿論42年10月6日だよ。」 と得意になって即答した。
皆さんは自分の結婚記念日を覚えていますか? 数字を覚えるのが苦手な私ですが、結婚記念日はいつどこでも何の迷いもなく
即答できます。それは妻を愛しているからです。なんて事はなく、単なる語呂合わせで覚えているにすぎませんが。

  結婚すれば当然役所に二人の仲を届けますよね。それは夫婦であるのを世に登録した事になります。
すなわち 「世()に() 登(10)録」 で、42年10月6日と覚えているわけです。
お陰で結婚記念日は聞かれれば答える事ができるのですが、結婚記念日の日に思い出すかどうかは別問題です。
今年もその例に洩れず、妻に聞かれたから思い出す始末でした。

  今までも結婚記念日に特段の事はしていないが、今年は若干趣が違います。何しろ昭和42年を西暦に直せば1967年です。
因みに2017年-1967年=50年 となって今年50年の節目の年に当たっています。
これでは何もしないわけにはいかず、一先ず明日は妻の好きな温泉に連れていく事にしました。
これで妻の機嫌は若干治まったのですが、50年前に 「互に心を結び力を合わせて偕老同穴共に白髪生えるまで」 と誓った
神様はそれでは治まらなかったのか、わざわざ行った温泉て風邪をひいてしまいました。
お陰で2回目の村山古道も行く事ができず、布団の中でフーフーしていました。

  これ以上の罰は御免蒙りたいので、神様と山の神のご機嫌直しにと、来月月遅れのフルムーン旅行に行こうかと思います。
とは言え新幹線のグリーン車の旅ではなく、伊豆へのマイカー旅行です。
この程度の事で怒りを治めてくれるのですから、我家の山の神は大事にしなければなりません。

  こんな無駄話をしていて気が付いた事があります。
それは50年前の10月6日には宿に着いてプロレスを見た覚えがあります。その頃プロレス人気は絶大で、毎週金曜日の午後
8時からはTV放送をしていました。そして50年目の今年も10月6日は金曜日でした。(プロレス中継はありませんが)

  どのような計算式でそうなるのか考えたが分かりません。ただ1967年から10月6日が同じ曜日になるのは
11年目の1978、6年目の1984、5年目の1989、6年目の1995、11年目の2006、6年目の2012、5年目の2017で50年になります。
何か公式でも成り立つのかと思いますが、今の私の知力や忍耐力では考察する事はできず、即あきらめです。
マーそれは兎も角、結婚してから18、263日、何とか別れずに暮らしてくる事ができました。
残りは2、000日も無いでしょうが、時々は妻の作った弁当をもって歩きに出かけられるような仲を、続けていきたいと思っています。

城ロマン:東遠の3城址巡り(諏訪原城址)

2017-10-15 12:06:17 | ウォーキング
歩行記録                                                           H29-10-5(木)
歩行時間:7時間40分   休憩時間:1時間00分   延時間:8時間40分
出発時刻:7時10分     到着時刻:15時50分
歩  数: 39、463歩(推定距離28.01km)    GPS距離27.3km
行程表
 菊川駅 1:05> 横地城趾入口 1:00> 横地城趾出口 <山中彷徨>0:55><山中彷徨> 横地城趾出口 1:05>
 牧之原台地上県道合流 1:00> 勝間田城趾入口 0:20> 勝間田城趾出口 0:55> 空港入口東交差点 0:35>
 諏訪原城趾入口 0:25> 横諏訪原城趾出口 0:20> 金谷駅

                           遠江3城址(横地・勝間田・諏訪原)概略図

 
 菊川駅から横地城二の丸(横地神社)までのYahoo!の地図
 横地城址出口から勝間田城址入口までのYahoo!の地図
 勝間田城址出口から諏訪原城址入口までのYahoo!の地図

 
              勝間田城跡前を出発                             牧之原・島田市境

  勝間田城を下り終え、いよいよ再度の牧之原台地への上りです。とは云え山城一つ分の上りなので多寡が知れています。
県道233号に入りしばらく行くと牧之原市と島田市の境に 「勝間田川起点」 の標識も立っていた。
川の起点と聞けば、川の水の最初の一滴が生じる稜線近くの山奥、とのイメージを持っていたので、その標識を始めて見た時は
嬉しかったもののガッカリした事を覚えている。ここもそうだが何の風情も無い場所に、何の必要がありこの標識を建てるのか?

 
               切山大聖不動堂                                    不動尊??

  お不動さんは嫌いではないが “大聖不動” は聞いたことが無い。お堂の中を覗き込むと正面に鎮座していたのは不動尊ならぬ
穏やかな顔相の僧形の像だった。これが不動尊? まさか。
私の乏しい知識では左手に数珠、右手に金剛杵を持った僧と云えば 「弘法大師」 としか思えない。
これでは不動明王の御真言 「ナウマクサンマンダ バサラダン センダン マカロシヤダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」 を唱える
べきか 「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」 の弘法大師の御宝号を唱えるのか分からないな。
一先ず両方唱えておこう。

  家に帰り気になった “切山大聖不動” で検索してもヒットしなかったが “大日大聖不動明王” がヒットした。
見てみると何の事はない、不動明王の別名とあるだけで詳しい説明は無かった。
その代り “切山” の地名のいいわれと思われる説明を見つける事ができた。
 「切山の “キリ” は開墾の意味があります。開墾の古い用語にハリ(墾)、シバ(新発)、カイト(開土)、カイショ(開所))、シンキリ
(新切)などがあります。  切山は山すそを切り開いた場所という意味です。」

ここの切山は山裾ではないが、“山を切り開いた場所” である事は確かでしょう。

 
            やっと台地の上に出た                              空港入口東交差点

  茶畑と防霜ファンが見えてくれば台地の上は近い。
城跡を出てから約55分で “空港入口東交差点” に到着。後は平らな道を諏訪原城跡に向かうだけだ。

  静岡空港からの道を横断し、次に国道473号を横断して入った道は、県道でもないのに交通量が多かった。
牧之原台地の上に空港ができ新しい道を次々と作っているので、この道の交通量が減るかと思ったが一向に変わりがない。
前から大型車が来ると狭い側溝を跨いで茶畑の縁に逃げるようにしなければならず、小人数の歩きなら良いが、団体歩行には
適さない。ならどこを歩けば良いか考えてみた。

        



  赤線が今回歩いた道で青の点線は次回歩こうと想定した道です。
まず下の地図を見てください。空港入口東交差点を横断し直進します。途中で曲がらずに猪土居交差点まで進み横断します。
ここからは細い道になり野菜茶業研究所横を通り茶畑の中を進みます。ここはまだ歩いた事はなく実際に道があるのかどうかも
分からないので検証が必要です。
更に茶畑の中を進むと石畳の道に合流しますので、左折して西に行けば諏訪原城の入口に出ます。
ただこの道の欠点は、石畳から城の入口までを2度歩かなければならない事(個人的に同じ道はは歩かないようにしている)だが、
それは城跡の内から旧国道1号に抜ける事ができます。ただこの時は金谷坂の石畳は歩かない事になります。

マァ-そんな訳で次回歩く気になった時は、牛舎跡付近の再確認とこの道を歩いてみようと思います。

        
             上水道タンク                             富士山が見えていた

 大きな上水道のタンクに茶畑と富士山の絵が描かれていた。エェーホントかな? と思いつつ東の茶畑を見てみれば・・・・・・
何と! 何と! 富士山が見えていました。薄くぼんやりした富士山ですが富士山に間違いありません。
今日は近くの粟ヶ岳はハッキリ見えなかったのに遠い富士山が見えるとは変な日です。

 
             諏訪原城跡入口                                 諏訪原城跡標石

  「武田流築城術を駆使した壮大な山城 諏訪原城跡」 とパンフレットにあります。
パンフレットは写真の入口から入った所に置いてあり自由に取る事ができるので、これを参考にしながら歩くと便利です。

 
             整備された三日月堀                                  内 堀

  同じ山城と云っても横地城や勝間田城と違い諏訪原城は台地の上端にあるので、台地の上から入城すると起伏が無いため
平城と思えてしまいます。また横地城などは明らかに防御用の詰城の感がするが、この諏訪原城は深い堀はあるものの攻撃用の
城と云った感がします。

  堀は深く山城とは云え自然の地形ではなく明らかに掘削したもので、丸くカーブした形は一目で三日月堀と分かります。
この三日月堀と丸馬出に関して、パンフレットには 「武田流築城術の特徴で、虎口(出入口)の前に設けられた三日月堀と曲輪が
セットになった空間。防御するだけではなく、味方が出撃する場合の拠点にもなる。」
と説明していた。
 
             出入口だけの弱点                               出入口に土塁を設けると

  丁度良い機会ですので馬出の復習をしました。
城の出入口が単に堀と土塁を切断しただけだと、敵は一直線になり出入口を攻めてきます。そのとき城内から防御しようとしても
出入口付近でしか敵を迎え撃つ事しかできません。
そこで出入口の前に土塁を設けると、敵は攻撃の際に城内に向かって長い区間で身を曝さなければならなくなります。
                
  更に出入口に三日月型の堀と土塁を設けると、多くの城兵を馬出の内側にも配置でき二重の防御態勢となります。
これが三日月堀でなく直線的堀だと、正面の敵には対応できるが、側面からの攻撃の防御はしにくくなります。
この理屈は星の形の函館五稜郭や、西部劇の幌馬車隊の円陣を組むのと同じ発想だと思うのですが。

 
             二の曲輪北馬出門                             門の先には富士山が

  外堀の三日月堀の間に新しい門が出来ていた。何故こんな場所に門があるのだろうか? 門の先は自然の地形の堀があり
狭い場所です。新しいパンフレットには
 「二の曲輪北馬出門 発掘調査で確認された門の礎石から復元しました。門の形式は薬医門です。」とある。
それでも分からず更に調べると2017/3/27の静岡新聞にこんな記事が掲載されていた。
 「二の曲輪北馬出城門の復元工事が完了し、3月28日に通り初め式が開かれた。城跡整備検討委員会によると、文化庁の復元
検討委員会の許可を受けて中世の城門が復元されたのは全国初という。
 諏訪原城は1573年に武田勝頼が遠江侵攻の拠点として築城した。今回復元された門は、徳川家康が攻め落とした後の1580年頃に
建てられた。通路から攻め込んでくる敵に一斉に矢を浴びせた場所とみられる。
 高さは約3.5m、間口約2.2m。城跡北側の発掘調査で見つかった四つの礎石上に、城跡周辺のスギやクスノキを使って復元した。
事業費は約2100円。市は新たな観光資源として期待し、今後も見学路や転落防止柵などの整備を進めていく。」


  何々 “通路から攻め込んでくる敵に一斉に矢を浴びせた場所” とあるが、この門のある場所は中馬出と北馬出の間なので、味方の
通行を遮断してしまっている。
これでは馬出同士の行き来が出来なくなり、小さな北馬出は占領される恐れがある。
仮に門を造るとしたら馬出同士の延長線上の方が良さそうに、素人の私は考えるのですが、実際その場所に門の礎石があったのだし、
古城研究の専門家が設計したのだから間違がある分けはない。

        
                                諏訪原城跡案内図(新パンフレットり)

  新しい門の場所は案内図左上の★のところですが、案内図を見ていて更に疑問を感じてしまった。
この門はどちらに向いて建っているのだろう? 写真では手前に太い柱があるので外側に見えるが、それでは門の扉を閉めると
敵が門の内側になり、味方は外側で鍵を閉める事ができなくなってしまう。そんな馬鹿な!
早速薬医門を調べると更に面白い事が書いてあった。
 「公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名前がある。」
エェー! 門の扉が無いのが薬医門だって。じゃぁこの門は何のために作ったのか? 更に分からなくなってしまいました。

 
                  天守台地                                天守台地からの眺め

  天守台地とは 「諏訪原城は山城で天守閣はなく二層からなる矢倉(櫓)があり、物見が常駐してました。」 と説明している。
案内図では12番の本曲輪の場所で、現在は土塁が無いので広い広場になっています。
ここからは富士山や大井川、金谷や島田の街も眺める事ができる展望地です。ならですよ、どうせ建物を復元するなら、ここに櫓を
復元すれば良いと思うのは素人だからでしょうか。しかし見学に来る大部分は私のような素人思うのですが。
とは云え国に史跡指定されると、根拠のない建物などは建てる事が出来なくなるのでしょう。

 
             明治天皇御駐輦址碑                                芭蕉の句碑

  「輦(れん)」 とは天皇の乗る輿(こし)の事で、川越の時に乗る蓮台を豪華にして屋根がついている物らしい。
明治天皇御駐輦址碑は旧東海道を歩いていると時折目にします。
駐輦址碑の横には芭蕉の句碑 「馬に寝て残夢月遠し茶の烟」 が建っている。
私のように俳句の心得の無い者は、書いてある事にしか理解が及ばないので、この句を見れば金谷宿を出たばかりで何が残夢だとか、
石畳で馬の歩きも安定せず、さぞ寝心地は悪かっただろうなどと思ってしまう。
更にお茶を沸かす煙じゃなくて、ご飯を炊く煙だろう。なんてチョッカイも出したくなってしまう。
所詮は風流を理解しない野暮な年寄りです。

         
                       金谷坂石畳入口                               金谷坂石畳

  街道歩きでは石畳の道が人気があるようですが、東海道を歩いて感じたのは石畳は歩きにくいという事です。
その中でも特に歩きにくいのは佐夜の中山にある石畳で、更に嫌なのはここ金谷坂の石畳です。
何故嫌いかと言うと、箱根の石畳は平らな伊豆石を使っているので歩きやすいのですが、金谷の石畳は丸みある石を使って
いるせいか、石と石の間が広くて注意して歩かないと足をグラしまいます。

  そんな訳で好きではない石畳歩きですが今日は諦めて下ります。ただ幸いなのは石が濡れていないので滑らないで済む事です。
これで石が濡れていると最悪で、街道歩きの中で最悪の区間になっていしまいます。

 
                すべらず地蔵堂                               すべらず地蔵

 「長寿・すべらず地蔵尊 このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものでそす。滑らず地蔵のいわれは、
ここの石畳は 「すべらない」 という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきています。」


  ホントかよ~ ここの石畳は滑るから滑らないように 「すべらず地蔵」 を祀ったと思っていたが、この案内板には逆の意味が
書いてある。果たして滑るからすべらず地蔵か、滑らないからすべらず地蔵か。どっちだと思います?

  しかし世の中は色々で、春の受験の頃には地蔵さんにお参りする人がいると云うだから面白いものです。

 
          東海道線牧之原トンネル(菊川側)                     東海道線牧之原トンネル(金谷側)

  上の左の写真は金谷・菊川間の牧之原トンネルを菊川側から写した以前の写真です。右は同じく牧之原トンネルを金谷駅から
写したものですが違いが分かりますか?
よく見れば菊川側から写した左のトンネルには線路も架線もありません。しかし金谷で写した写真には線路も架線もあります。
全線複線の筈の東海道本線なのに何故でしょう?

 
             破棄されたトンネル(金谷側)                       牧之原トンネル(金谷側)
                 
 理由はウィキペディアに載っていました。
 「牧之原トンネルは煉瓦積みの坑口を持つ単線規格で開削され、明治22年、東海道本線新橋駅~関ヶ原駅間は、このトンネルの
開通と同時に全通した。開業当時はもっとも長いトンネルでもあった。
  その後、輸送力増強のためにトンネルが掘られるが、更に老朽化に伴い改修が必要となり、更にもう1本のトンネルが開削される。
そして3本のうち、両側2本のトンネルを代用して中1本のトンネルの改修工事を実施、完了後に北側のトンネルが破棄された。
破棄されたトンネルの坑口は、現在も残されている。」


  破棄されたトンネルの入口を見れば確かに煉瓦を積んであるのが見える。このトンネルが北側の明治22年に開通したトンネルだ。
右の写真のトンネルの入口は、模様の無いコンクリートで塗られていて、ノッペラ坊に見えるが、こちらが現役の東海道本線です。
トンネルの右が2番目に古いトンネルで、今は上り線として使用されています。
左のトンネルは昭和になって掘られた一番新しいトンネルで、現在は下り線として利用されています。

しかし2段上の左の写真では左のトンネルは使われていなかったですよね。
これは金谷駅側のトンネルは、駅である事から3本とも駅出発となっていて、一番新しい南側のトンネルは、途中で大きく南にカーブ
していて、1本だけ離れた出口になっています。
分かってみれば何でもない事だが、最初線路や架線のないトンネルを見た時にはアレーと思いました。

金谷駅到着は3時50分。牛舎跡の1時間の道迷いが無ければ3時にはゴールできたので、ほぼ予定通りでした。
見たものに勝手な妄想をしながら歩く久し振りの 「観歩」 は楽しかったです。

城ロマン:東遠の3城址巡り(勝間田城址へ)

2017-10-11 14:45:54 | ウォーキング
歩行記録                                                           H29-10-5(木)
歩行時間:7時間40分   休憩時間:1時間00分   延時間:8時間40分
出発時刻:7時10分     到着時刻:15時50分
歩  数: 39、463歩(推定距離28.01km)    GPS距離27.3km
行程表
 菊川駅 1:05> 横地城趾入口 1:00> 横地城趾出口 <山中彷徨>0:55><山中彷徨> 横地城趾出口 1:05>
 牧之原台地上県道合流 1:00> 勝間田城趾入口 0:20> 勝間田城趾出口 0:55> 空港入口東交差点 0:35>
 諏訪原城趾入口 0:25> 横諏訪原城趾出口 0:20> 金谷駅

                           遠江3城址(横地・勝間田・諏訪原)概略図


 菊川駅から横地城二の丸(横地神社)までのYahoo!の地図
 横地城址出口から勝間田城址入口までのYahoo!の地図
 勝間田城址出口から諏訪原城址入口までのYahoo!の地図

  私は歩くのは好きと云いながらも、いざ歩くとなると、より短く、より平坦を求めてしまう。
前回このコースを歩いた時も、横地城址で100m程上がった標高を下げたくなく、更に上に見えた牛舎?らしき建物への道を
選んだ。だが横地城址を出て農道に合流した地点にある筈の牛舎への道が分からなかった。
その時は諦めて北に下って最初の車道を台地に登って行ったが、その道はこれから行く勝間田城址とは反対の南に向かって
伸びていた。これでは台地の上で距離が長くなってまうと慌てて下に見える次なる車道を目指して下り、そこから台地向かう
大変なコースになってしまった。
そこで今回は事前に牛舎跡に向かう他の道も調べてあるので、安心して楽な道を歩く事ができそうです。

 
          テント製の建物が見えてきた                          人けも牛けもない牛舎

  入口が破れている大きなテントの建物が牛舎と思われる建物群の入口だった。それにしても何故破けたままなのだ?
中を覗き込むとホークリフト用のパレットや段ボールの空き箱が乱雑に置かれている。今も使っているのだろうか?
道なりに右に曲がると今度は牛舎だったと思われる建物群が出てきたが、屋根は破れ雑草は生茂り人けも牛かもない。
牛を確認したわけではないが、この大きさから言って鶏や豚ではなく矢張り牛舎跡だろう。
牛舎の先の高台には送電線の鉄塔が見えており、道はあの辺りに続いているのだろう。

 
           テントが破れ放題の工場                            高台から見た牛舎群     

  この建物は飼料でも配合していたのだろうか、上段には移動式の装置が乗っている。
道なりに右に曲がり坂を登っていくと赤錆びた牛舎群とその先には菊川病院であろう建物が見えている。
道は更に上に向かい左方向に向を変えていた。鉄塔は近くにあったと思ったが位置は思い出せない。

 
                放置されたブル                            ブルの後ろの道

  牛舎跡の高台には今も管理されている茶畑があり、その一番の上に出ると正面の道にはブルが置いてあり、左には茶畑と林の
境の細い作業道しかない。
当然ブルの先に道は続いているのだろうと覗き込むと、低い笹は生えているものの荷車が通れる位の道跡があった。

           
                日向は雑草が                            これなら快適だ

  所々の日向部分は雑草が生えていたが他は十分な広さを持った道が続いている。途中に栗の木が何本もあったが細く高いので
栗がなっているか見えない。下にもイガが落ちていなので栗ではないかもしれない。なんて余裕もあった。

        
            突然細くなり                                 湿地へ

  幅広の道は続いているので安心して歩け、途中からは下の方に農道らしきものも見えていた。ただ問題は農道の手前は沢に
なっているようだが橋なんかあるのだろうか?
幅広の道跡が突然終わってしまいその先の笹の中にはやけに細い踏み跡が延びている。人の踏み跡にしては細すぎる気もするが
マーいいでしょう続いているのだから。
笹の中の踏み跡は丸みを持った泥地のヶ所で終わっていて先はない。どうやらここが沢の最上部で泥地からは水が湧いているのか
プクンプクントと泡が出ている。泥の中にストックを差すとブスブスと10cmほど沈んでしまった。
実は今日の道は殆どが舗装道路なので靴は汚れないだろうと新品の靴を履いてきているので汚したくはない。
それにしても泥の中に動物の足跡が無いのは何故だろう? てっきり動物の水場かと思ったがどうやら違ったようだ。

 
               ここは私では登れない                             やっと農道へ

  泥の対岸に何とか最小限度の汚れで渡ると、そこには空缶やらペットボトル、雑貨などの生活用廃棄物が散らかっていた。
エ~何? と上を見ると斜面の上には石垣があり、その上には電柱が見えるので多分そこが農道だろう。
写真の斜面はやけに緩やかに見えるが、実際はもっと急で上の石垣は垂直になっていた。途中の平面に見えるのは場所は
岩か土か良く分からないが赤っぽくツルツルして滑りそうだ。とても私には手に負えそうもないので左側の林の急斜面を上った。


 
                見た覚えのあるテント                            中も同じだった

  フ~ヤレヤレ 何とか農道に出る事ができた。今の斜面を上から写そうと農道を右に登っていくと前方にテントが見えた。
若しかして先程の牛舎跡とこのテントは続いているのか。なら正規な道はもっと上にあったのかと確認することにした。
アレー さっきと同じような場所が破れているテントが見える。まさかナー! なんて思いながら中を覗いてみると、ソーです間違いなく
さっきと同じテントです。
一体何をやっているのだ牛舎跡をグルリ一周してくるなんて。印刷した手持ちの地図は例により地図の縮尺を極端に広くしてあるので
牛舎群も無いしグルリ回っている道もない。ただ自分が行きたい道を優先して印刷してあるだけなので周りの状況は分からない。
こんな地図で再度歩き直してもまた同じ事の繰り返しだろう。もう止めた。この牛舎跡には二度と来るもんかと悪態をついて戻りました。

                            横地城址出口付近の地図
        

  それでも家に戻ってから気になったので地図の尺度を狭くして牛舎付近を再確認すると、何のことはない、牛舎跡もグルリ一周する道も
載っていた。この地図を持っていれば迷う事はなかったのに残念です。ただ疑問なのは鉄塔の方に曲がる所に分岐があったかどうか
覚えていません。きっと太い道と鉄塔や見晴しを求めて確認せず歩いてしまったのでしょう。

  それともう一つは牛舎群を一周する道がもっと下の農道の分岐点に続いているのに、私はテント近くの農道に出てしまった事です。
幅広の踏み跡が突然消えた付近で引き返して道を点検すれば良かったのでしょうが、笹の中の踏み跡を見つけたのが運の付きでした。

 もう二度と牛舎跡には行かないと思ったが、ここさえ解明できれば標高を下げずに牧之原台地に行けそうです。
またいつか探し来よう。そんな気も起きてきました。

 
            横地城址からの所に戻った                             秋ですね

  横地城址からの道の合流部に戻ってきました。以前この道の左側には標識が建っていたが今は葛に覆い隠されているようです。
掛かった時間は丁度1時間で距離は約2km。草臥れ儲けの骨折り損でしたが、この程度のアクシデントは良しとしましょう。
農道の下りは焦る気は無くなり、花を見たり栗を拾ったりのんびり下りました。

 
            秋番茶の収穫                                  かなり大雑把だ

  秋番茶の収穫をしていました。春の新茶に比べ扱いが大雑把に感じるのは、このお茶はペットボトル用だと聞いたからでしょか。

 
            三浦環の母親の実家                               読む気にはならなかった

  生垣の手入れをしていた男性に牧之原台地の東名ICに抜ける道を確認すると
 「この道でもいいが、この先に菊川病院の看板が建っているので、そこを曲がり次の太い道を登って行けば車は少ないしカーブも
緩やかなので歩くには楽だ。」
と教えてくれた。序に牛舎跡付近の事を聞くと
 「牛舎から先は最近は山が荒れて入る事ができないが、上に行く道はあった。」  と言う事です。

  教えてもらった道を歩いていると左側に “三浦環・・・” と読める標識が建っていた。近づいて見ると 「日本最初の世界的プリマドンナ
三浦環生母 永田登波生誕之地」
とある。
へェー 本人の生誕の地の案内なら見た事があるが、母親の生誕の地を案内してあるのは珍しいのではないかな。
案内板は読む気も起きなかったが、この辺りは昔は小沢村だったらしい。

         
                  将軍地蔵?                               石仏兼道標

  三浦環生母生誕地の近くに馬に乗った石仏が祀られていた。馬に乗った仏さんと云えば 「将軍(勝軍)地蔵」 しか思い浮かばない
けど、多分そうでしょう。この将軍地蔵は武人の守り神であると同時に、火伏や地区内に邪悪なものの進入を防ぐ賽の神でもある。
路傍で将軍地蔵を見たのは初めてのような気もするが、袋井の可睡斎の将軍地蔵は秋葉山から遷座したものだから多分火伏が
目的だろう。
静岡市の谷津山の愛宕神社にも将軍地蔵は祀られていて、これは徳川家康が駿府の鬼門に当たる谷津山に勧請したもので、
どちらかと言えば外敵の侵入を防ぐ賽ノ神が主眼だったのだろう。
ではここの将軍地蔵は・・・・ まだ新しい将軍地蔵なので軍人の武運長久を祈願したのではなさそうだ。かと言って火伏の神なら
この辺りでは秋葉神社が幅を利かせている。
では塞ノ神なのだろうか。そういえば西部地区で道祖神を見る機会は少ないので、道祖神の代わりなのかもしれないな?
何の説明もないので妄想は次から次へと飛んでいく。

  分岐の角の馬頭観音の舟形に 「右 堀ノ内 左 ならの」 と刻まれている。石仏と道標を兼ねたもので中々いい感じです。
因みに “ならの” とは奈良野の事で、今歩いて来た道の先にある菊川病院辺りの地名で、堀ノ内とは菊川駅周辺だそうです。

 
             やっと台地上の県道に合流                         東名高速跨道橋

  教えてもらった道は確かに交通量は少なくカーブも緩やかだったので歩きやすかった。
歩きならカーブは関係ないと思っていませんか? それはとんでもない話です。車道歩きをしていて怖いのはトンネルとカーブです。
暗いトンネルや歩道のないトンネルは恐怖そのものです。四国を歩いていた時は遍路の一番の恐怖はトンネルでした。車が巻き
上げる風で菅笠は飛びそうになるし、また雨の日はポンチョが風で巻き上げられ前も見えなくなるそうです。
右側通行だと前から迫ってくる車が怖いので、あえて左側を歩き前から来る車を見ないようにする遍路もいました。
また、カーブがきついとカーブの先から運転者は歩行者を確認できず、カーブの先端に来て初めて歩行者に気が付き右にハンドルを
切る場合が多いのです。更に最近は道路の補修が行き届いていないので、路肩の雑草が車道にせり出している所があり、その分
歩行者は車道に出てしまいます。幸いここにはトンネルもきついカーブ無かったので助かりました。

  台地上の県道に合流した場所は県道242と244が合流する信号のある交差点の所でした。この交差点にも菊川病院の案内が
建っているという事は矢張り距離が短いのでしょうか。
Yahoo!の地図で道の距離を計測してみると、病院の看板から看板までで今日歩いた道は2.95kmで前の道は3.38kmでした。
たった400mなんて言うべからずです。長距離の道を歩く時は、このように楽で面白そうな道を探すのも楽しみの一つです。

 
             勝間田城址入口                                  ここから山道

  矢崎部品の工場を過ぎた所で台地上の県道と別れ台地を下り始める。と云っても道がまだ平らな状態の所で 「勝間田城跡」
看板が建っています。最初勝間田城址に来た時は、城の中を縦断したいとは思っていたがそれが可能とは思っていなかった。
前回は矢崎の工場の所から一旦台地の下まで下って、正規の勝間田城に入口から登ろうと思いながらこの道を歩いていて、この
案内を見つけた時は正に神の御加護と喜んだものです。

  脇道に入り少し行くと空地があり、ここが城跡の上の駐車場です。しかしどうせ車で来ているなら、ここから急な道を下って城跡内を
見学したあと、また急坂を上り返してここに戻るのはいただけません。矢張り下の正規の入口から入った方が良いでしょう。

 
               かなり急な坂                                本丸の高台

  台地の下りはこの山道開始点から始まります。城跡内の散策路とは趣は違い蜘蛛の巣がはびこむ完全な山道です。
かって今川義忠軍に攻められ落城した勝間田城から、必死でここを登り味方の横地城に逃げ込んだ兵もいたでしょう。
いや若しかして今川軍は下からの攻撃以上に、この裏道の上からの攻撃に主力を配置したのかもしれない。なんて妄想しながら
下って行くと本曲輪の入口に着いた。

 
             接近している本曲輪と南曲輪                             本曲輪下

  接近している本曲輪と南曲輪ですが、これなら攻めては両方の曲輪を同時に攻めないと後ろから攻撃されてしまう。
勝間田城も横地城と同じく険阻な地形を利用した攻め難く守りやすい山城だと思う。しかしこの城も簡単に落城してしまうのだから
分からいものです。私にはどう考えても落城した要因が想像できないのですが、矢張り軍師失格なのでしょう。

         
                       本丸の祠                                      城跡標

  この写真で何を言いたいのって? ハハハ当然燈篭に刻まれている 「奉納 印野親和会」 とある印野の事です。
近くに建っている案内板には
 「応仁の乱で今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に、ついに落城、一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り
住んだと伝えられている。」

これだけでは印野とは結び付かないが、実は印野とは富士山麓の東富士演習場に面した寒村の地名です。
朝鮮戦争の頃は演習場では米軍が実弾演習で行われ、その弾薬を拾う 「弾拾い」 が盛んに行われていた地区でもあります。
現在は御殿場市と合併して御殿場市印野となっています。

  御殿場地方には他にも 「勝又、勝亦、勝俣、勝股」 などの名字があるが、勝間田城の落人は 「勝間田」 とされています。

 
               二の曲輪                                     勝間城跡入口

  今日は前回と同じく勝間田城で昼飯を取る予定だったが、道迷いのお陰で1時間は遅くなってしまい、もう1時なってしまった。
でも慌てることはありません。前回はここから南下して一等三角点のある高根山を目指して挫折し、次には飛行場の末端を通って
家まで歩いて帰っている。
それが今回はここから一度は台地の上に登り返すが、その後は平らな道を諏訪原城に向かい、最後は金谷駅に下るだけだ。
前回に比べればとてもラクチンな行程です。

  横地城や諏訪原城は一応の国指定の史跡ですが勝間田城は県指定です。その違いは私には分かりませんが勝間田城は
嫌いではありません。今まで立寄った城跡は何ヶ所もあるが、記憶として上位に位置します。

 
              入口はどっしりしている                               城跡案内図

  勝間田城を下から見上げると自然の地形が城壁の役目を果たしているのが分かる。これなら城を護る兵は上から弓矢で攻撃側
狙い撃ちする事もできそうだ。これで上に物見櫓でも設ければ敵の動きは一目瞭然となる。
しつこいが何故勝間田城がたった500の軍勢に攻められて落城したのか分からない。これらの記録は残っていないのだろうか。

城ロマン:東遠の3城址巡り(横地城址へ)

2017-10-09 16:28:57 | ウォーキング
歩行記録                                                           H29-10-5(木)
歩行時間:7時間40分   休憩時間:1時間00分   延時間:8時間40分
出発時刻:7時10分     到着時刻:15時50分
歩  数: 39、463歩(推定距離28.01km)    GPS距離27.3km
行程表
 菊川駅 1:05> 横地城趾入口 1:00> 横地城趾出口 <山中彷徨>0:55><山中彷徨> 横地城趾出口 1:05>
 牧之原台地上県道合流 1:00> 勝間田城趾入口 0:20> 勝間田城趾出口 0:55> 空港入口東交差点 0:35>
 諏訪原城趾入口 0:25> 横諏訪原城趾出口 0:20> 金谷駅

                           遠江3城址(横地・勝間田・諏訪原)概略図

 
 菊川駅から横地城二の丸(横地神社)までのYahoo!の地図
 横地城址出口から勝間田城址入口までのYahoo!の地図
 勝間田城址出口から諏訪原城址入口までのYahoo!の地図

  東遠州の横地城と勝間田城を昨年の2月に歩いたが、その時は諏訪原城には行かず南にある一等三角点の高根山を目指した。
歩き終わってから考えると折角城址巡りをするなら諏訪原城址を入れて 「城ロマン 東遠3城址巡り」 なんて銘打ってウォーキングの
募集をすれば、参加者が増えるのではないか、なんてどうでもよい事に思いつき検証のために歩いてきました。
予測では朝7時頃菊川駅を出ればゴールの金谷駅には3時ごろ到着。歩行距離は大よそ25km程度としましたが果たしてどうでしょう。

 
              お茶の菊川のマンホール                         お馴染みのマンホール

  菊川駅をほぼ予定通り7時に出発しました。ここから横地城にかけては過去何度も歩いているので適当に南に向かって歩きます。
菊川のMHの蓋なら菊川出身の漫画家、小山ゆうが描いた 「ちゃこちゃん」 を思い浮かべますが、今日最初に見たのはお茶の葉と
花を描いた物でした。勿論ちゃこちゃんもすぐ顔を出して来ました。

 
              横地城址案内板                              横地城址入口の案内板

  小笠高校の入口に 「横地城跡」 の案内板があるが城跡のあるのはまだ大分先。最初に来た時はこの辺りから城が始まっていた
のかと思ったが、実際には草に隠れた部分に 「あと2.5km」 とか書いてあった。
建てた時は草が生えていなかったので下の表示も見えただろうが、こうなるとチョットいただけない。下の看板をもう少し上に移動
すればいいのにと自分は何もしないのに文句だけは一人前以上に言う困った年寄りです。

  最初の看板から約15分ほどで城址入口に着く。ここで県道と別れ左の道に入れば横地城址の入口です。
入口の横にある製茶工場がふくよかな香りを醸し出している。以前はこの香りは春にしか嗅ぐ事ができなかったが、最近はこうして
秋にも嗅ぐ事ができるようになった。と云っても主に西部地方が主で、中部の小さな製茶工場ではまだ嗅いだ事がありません。
これは最近 “秋番茶” とかいって秋にも茶葉を収穫して製茶をするところが出てきています。

 
                 横地一族の墓                              斯波家の屋敷跡

  入口の坂を登り始めるとすぐあるのは横地一族の墓。ここには小振りな宝篋印塔や五輪塔、無縫塔が並べられている。
この仏塔が建てられたのは多分横地城が落城してからだと思えるが、城跡にこれだけの仏塔があるのを見た事はない。
今日これから行く勝間城も諏訪原城にも仏塔は無い。と云う事はここの城主だった横地一族は住民に慕われていたのでしょうか。
そうそう案内板の宝篋印塔に “ほうきゅういんとう” とルビを振ってくれてあるが、正しくは “ほうきょういんとう” です。

  斯波義廉(しばよしかど)と云えば当時の遠江の守護で、遠江の地を巡って駿河の今川と争いを繰り返していたライバルです。
その館が横地城にあるという事は当然横地氏は斯波氏側だったのでしょう。しかし遠江を統治する守護代が領内の片隅、しかも敵に
近い城に館を設けるでしょうか。
私の妄想的歴史観は、これは斯波義廉の館ではなく、斯波氏が横地氏を監視する目付が住んでいた館ではなかったかと思います。

       
                           横地城鳥瞰図(ネットから拝借しました)

  横地城は東西に細長い城で、起伏のある自然の地形を生かした山城です。
本丸は東にある東丸で、中央のあたかも本丸のように見えるのは二の丸だす。こうして見ると中々難攻不落のように見えますが
今川軍のたった500の兵に7日間の防衛戦も末、落城してしまったのですから分かりません。
別に奇襲を受けたわけではなく、ここが攻撃される前には8km程東にある同じ一族が守る勝間田城が攻撃されたのです。
当然横地城では今川の攻撃を予測して戦闘準備を整えていたことででしょうし、城内の防御設備の補修は勿論、屈強な兵を配置
したり、また横地一族はこの地で400年も続いている名家ですので、当然近在から駆け付けた郷士も沢山いたでしょう。
なのにたった500の兵の攻撃に敗れてしまったのだから信じられません。

 攻撃口は東西の入口と中央の二の丸下の千畳敷がありますが、東西の入口には一騎駆が備えられ、細い道を一騎づつ攻撃
して来れば、高台から狙い撃ちする事ができます。二の丸、中の丸、本丸はそれぞれ隣接した高台になっているので、二の丸が
攻撃されれば中の丸から弓矢での攻撃が可能です。かと言って他の場所からは地形が厳しく多数の兵の移動には難しく、途中で
見つかれば全滅の可能性があります。
しかもこの地は400年も続いた横地の領土なのだから城外にも味方がいたでしょう。ならそれらと呼応して夜間今川軍を挟み撃ちに
することもできたと思う。
こうして私が妄想を膨らましても横地城が負ける要素が見つからないのは、私には軍師の能力が無いという事でしょう。

  アッ! 誰かさんは横地城の敗因を横地兵の戦う意識が低かったか、領民は横地氏に反感を持っていたと思ったでしょう。
しかしそんなこともないようです。先ず意欲の低い城兵なら、負け戦となれば “逃げるが勝ち” とばかりに逃亡してしまうでしょう。
ところが横地城の近くに “身討原” とか “千人塚” があり、そこは城から逃げてきた城兵が最早これまでと全員自決して果てた地で
今では身討原(みうちばら)と呼ぶそうです。近くにはその亡骸を葬った千人塚があるそうです。
更に横地氏に勝利した今川義忠は駿府に帰途の途中、横地城から4kmほど南にある塩の道の塩買坂で横地の残党などに討たれて
います。こうしてみれば横地の兵の戦闘意識が低かったとはとても思えません。
なら今川軍の軍勢が500は間違いで実際はもっと多かったのでしょうか。でも多ければ塩買坂では討たれなかったかもしれない。と
堂々巡りに陥ってしまいました。

  ただ情けないのは斯波一族で、せかっく味方が壊滅しながらも敵将今川義忠の首を取ったのだから、何故ここで素早い反撃に
出なかったという事。そうすれば今川家は滅亡し、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。

  そうそう今川義忠とは義元の祖父で、大河ドラマ直虎に出ている浅丘ルリ子が演じる慶寿尼の舅になります。

 
                 二の丸の斜面                             二の丸(横地神社)

  正面入口側4段の土塁と堀が施されいるが、その他の部分は忍んで登る事は可能でも、集団で攻撃しながら登る事は出来そうも
ない傾斜になっています。

 
                    休憩所                                     中の丸

  ここは 「御前崎遠州灘県立自然公園」 だそうです。へェーそんな名前があったのかって感じです。
それならここは国史跡名勝天然記念物なのだから その名前の 「菊川城館遺跡群 横地氏城館跡」  も案内してくれれば良いのに。

  中の丸の上は雑草が生茂っていました。なんか長い物を踏みそうでびくびくしながら歩きました。
 
 
                本丸登り口                                    本 丸

  二の丸と違って本丸の登り口は狭い急な道になっていて、上もそれにふさわしく狭く広場があるだけだった。どうやらこの本丸は
いざと云うときに逃げ込んだり攻撃するための砦のような役目をして、軍議などを行う館は下にある空地にあったのだろう。

 
                本丸から北の眺め                             本丸から南の眺め

 所詮は海抜100m程しかないので眺めも知れています。本来なら粟ヶ岳の “茶” の字が見えるのですが今日は見えていません。
一方南側の左下に見える農道の先は、これから向かう道でしょうか。

 
                 吾亦紅                                    ホトトギス

 本丸から東は余り人が踏み込まないようで雑草が生茂っています。でもこれでも道は簡易舗装がされていて以前は軽トラが走って
いたようです。

 
              東の一騎駆                                    農道合流

  陽が射す場所は草が茫々ですが、日陰の所はこんな感じです。この一騎駆けで撃たれた侍はいたのでしょうか。
農道と合流です。ここから先は次の勝間田城入口までは舗装路が続く筈です。

仲間ウォーク:ビク石

2017-10-03 11:47:28 | 低山歩き
歩行記録                                                           H29-9-30(土)
歩行時間:2時間35分   休憩時間:1時間00分   延時間:3時間35分
出発時刻:9時15分     到着時刻:12時50分
歩  数: 5、521歩(推定距離3.92km)    GPS距離4.1km
行程表
 笹川駐車場 0:35> 笹川峠 1:05> ビク石山頂 0:55> 笹川駐車場

                           ビク石概略図
    

  9月の仲間ウォークは藤枝の石合山通称ビク石(526m)です。
ビク石と云えば藤枝の代表的山なのに、何故か仲間ウォークでは歩いていませんでした。その理由はどのコースを登るか、
どの季節に行くかの決断がつかず有耶無耶になっていたのです。
しかしこの仲間ウォークも2013年10月に歩き始めてから早4年も経っています。当初平均年齢は辛うじて60代だったのが
今や73歳になってしまいました。先月には仲間の一人が体調が思わしくなく山歩きは出来なくなったと言ってきたので
仲間は私を含めて5人になってしまいました。
こうなると幕引きの時期は間近に迫ってきたので、せめて藤枝の代表的な山を登っておこうとビク石を歩く事にしました。

  コースは少々大変でもビク石に登るなら 「笹川八十八石」 の思いの通り、八十八石コースを歩きたいのですが、そうなると
車利用だとビク石までのピストンしかなくなる。それが嫌なら山越えして旧ビク石牧場側に下れば良いが車が使えなくなる。
バスを利用するとこんな近い山なのに1400円は掛かってしまうので余りにも高すぎる。
これが山歩きに慣れた人になら、笹川駐車場を出て笹川八十八石を登り、帰りは剣ヶ峰コースを笹川峠まで下り、林の中の
踏み跡を下って駐車場に戻るのがお進めで、過去にも何度かこのコースを紹介している。
だが、今回は素人の年寄り集団だ。果たして剣ヶ峰コースを滑らないで下る事ができるか、林の中で踏み跡を見失ったとき
不安を感じさせないようにできるか不安は尽きません。
そこで思い切って駐車場から笹川峠に登り、八十八石を下るコースにしました。こうすれば笹川峠への登りは上へ上へと
向えばよく、少々踏み跡が無くても強行突破できます。
次の剣ヶ峰コースは登りで大変にはなるが滑る心配はありません。ただこの逆コースの欠点は八十八石コースが下りになり
石に見とれて躓く怖れが出てくるが、マーそれは各自に注意してもらいましょう。


                            ビク石山頂からのダイラボウ越しの富士山

  2年振りに歩く笹川から笹川峠への道ですが、歩き始めると思わぬ歩プレゼントが待ち受けたいました。
登山道入口に中に身の詰まった栗のイガが幾つも落ちているのではありませんんか。勿論ハイキングそっちのけで拾いました。

  以前は私が先頭に立って道案内をしましたが、最近は分岐で声を掛けるだけでラストを歩く事が多くなっています。
今日もラストを歩いていると 「滑りそうだから注意して」 とトップが声を掛けている。ここでそんな場所があったかしらと思いつつ
行ってみれば、確かに左側が崩れて道が狭くなっている。しかし一人で歩いていれば気にもならない程度の場所でした。
林の上りになると私の記憶は左側から右上に登ったような気がしていたが、何故か先頭は左から右に横断していく。
 「ちょっと待って」 と声を掛けて踏み跡や目印を確認すると、確かに右に横断する踏み跡の方が太く前方には赤い目印もある。
私の記憶の左上には古く色の抜けた目印も見えているので、どちらでも行けそうですので、そのまま進んでもらった。
結果は林の中の高台にある次の林に向かう土橋風の痩せ尾根に行き着いたのですが、直登部分が多かったように感じた。
ここからは緩やかな上りで明確になった道を辿れば峠はすぐでした。

  今回のコースの案内には “剣ヶ峰コースでは色々なキノコを見る事ができる” と書いたので仲間は期待していたようです。
でも、でもです。いくら行ってもキノコが出てこない。それこそ1個も無いし残骸すらない。2年前の9月29日には沢山あったのに
何故でしょう? 
そう言えば今年の春には富士山須走口コノスジ中途道に石楠花を見に行ったときも、石楠花はただの一輪も咲いていなかった。
私が一人で行けば見られるのに仲間と行くと見れないと云う事は、仲間の中に心掛けが悪い奴がいるんじゃないかなど言いあい
ながら歩いた剣ヶ峰コースは思ったより楽に登れたようです。私以外は。
ラスト歩いていたが油断をしていると前の人との間隔があいてしまう。お陰で写真を撮る間もありませんでした。

      
           ビク石の前で                           八十八石コース(おむすび石)

  帰りの笹川八十八石コースは石の案内見ながら 「心が澄んだ人でないと見えない」 等と言い合いながら下ったので、疲れも余り
感じないでゴールの駐車場に着く事ができました。
物足りない気もするが年寄り仲間とではこの位が丁度良いのかもしれません。で、次回の仲間ウォークは山頂から見えたダイラボウに
行くことにしました。