はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

知多四国-桶狭間

2015-12-31 17:06:25 | ウォーキング
歩行記録                                                              H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分     到着時刻:15時05分
歩  数: 30、793歩(推定距離23.1km)    GPS距離22.6km
行程表
 太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅
                               桶狭間
 大高駅から東海道線沿いを南東に進み、丸根砦から桶狭間公園へ向かう比較的わかりやすい道を桶狭間に向かって歩いた。

                
                                  桶狭間神明神社
 
 地図に記載のあった桶狭間公園に着いたが、何となく公園のある雰囲気ではない。公園というより神社と思うが、ともかく地図に出
入口とある所から登ってみると、案の定そこは桶狭間神明社という神社だった。
 仕方なく次に向かったのは桶狭間古戦場公園だが、途中に長福寺の案内があり “血刀濯ぎ(ちがたなすすぎ)の池” などの説明を
見て、興味を覚えて寄ることにした。

  
       義元首検証の跡                 血刀濯ぎの池                桶狭間合戦供養塔

 長福寺の境内に入りまず目についたのが 「今川義元公首検証の跡」 の石碑。
最初に石碑を見たときは、義元の切られた首をここで調べたのかと思ったが、横のあった案内板には
 「林阿弥が、織田方に捕らえられ、今川方武将の首検証をしたと伝えられる場所」
とある。
これを最初に読んだときは、捕らえて生きている武将の人物を確認するのも “首検め” と言うのかと思ったが、再度読み直してみると
今川方の林という人物が捕らえれ、今川の武将の首検めをした事のようだった。
“て” と “た” の違いで内容が変わってしまうのだから日本語は難しい。

 「血刀濯ぎの池」 は、捕らえた今川の武将の処刑した刀を洗ったのではなく、合戦で血糊の付いた刀を洗ったようだ。
野田大坊には源美朝を切った刀を洗った “血の池” があり、その池の水が赤くなると国家の一大事が発生するとあったが、この池には
そんな言い伝えは無かった

                
                               今川義元・織田信長像

 どうやら 「桶狭間古戦場公園」 が桶狭間のメインの公園らしく、石碑や銅像、案内板なども立っていて、中でも一番金が掛かって
いそうなのが、今川義元と織田信長の銅像だった。その信長像は鎧も粗末で手にした槍も何か一兵卒の雰囲気を出していた。
一方床几に腰かけた義元像は鎧も被っている烏帽子もいかにも武将らしく見える。
桶狭間の義元は太った体で馬に乗れずに輿で移動したとの説もあるので、デブの義元かと思ったがそんなこともなく良かった。
 「近世の曙」 とあるのは、桶狭間の戦いのあと日本統一が行われ、戦国時代の幕が閉じたとをいっているのだろう。

  
      義元公戦士の地                   今川義元公                     駿公墓碣

 アレー?ここにも義元の戦死の場所や墓がある。そうなると東海道を歩いたときに見た、国指定の 「桶狭間古戦場」 にある義元の
倒れた場所に建つ墓はどうなるんだか??
写真右の 「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」 は昭和28年に発掘された物だが、案内には ”当時の村人がひっそり供養したのではないか”
と説明されていたが、どうだろう。当時のこの辺りは織田と今川の争いが頻発していて、一番迷惑をこうむっていた村人が、敵の大将を
“ひっそり供養” をするものなのか、疑問だ。しかも墓を掘り出した場所が違うとなると、更にこの地を義元戦死の地とするのは嫌だな。

 この公園には他にも 「義元公首洗いの泉」 と銘打った、石で囲まれた小さな水溜りがあったがどうなんだろう。
歴史上実際あった事象を、何の根拠もなくあたかも本当のように紹介するのは如何なものか。
そういえば東海道岡部宿に 「小野小町姿見の橋」 なるものがあるが、あれも好きではない。
どうやら私はこの種の話をユーモアとして納める度量がないようだ。

                
                                    義元本陣跡

 公園から住宅地の中を上った高台に 「今川義元本陣跡」 があった。その案内文が面白いので一部を紹介します。
 「信長公記に 「今川義元は、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」 とある山は、この地で、合戦当時は、現在より8m程高い
山であった。戦当日の午後1時頃は、大雷雨で前記の公記に、この雷雨を 「余りの事に熱田大明神の神軍かと申候なり」 と記し
ている。
 高地に着陣していた今川軍は、落雷により大混乱となっていた。武路の低地に侵入、攻撃の機を窺っていた織田軍は、好機となり
今川軍の右翼に突入した。槍を手から離して落雷を避けていた今川軍は武器を捨て、逃走した。追撃した織田軍は義元の塗輿を
発見、信長は大音声直ちに本陣攻撃を命じた。
 今川軍は旗本三百余名、義元を中に円陣体形で退却中、士気上る織田軍は果敢な攻撃を繰返した。
今川軍は四散、義元は田楽坪に追い込まれて討死。午後4時ごろ、織田軍の勝鬨、狭間に谺していた。」


 
                義元本陣跡                               香川景樹歌碑

 古戦場公園や桶狭間山のあった場所は名古屋市緑区で、これから行く桶狭間古戦場は豊明市に属している。この桶狭間の地名は
一部地域を指すのではなく 「漠とした広がりを持った地名語」なのらしい。よって古戦場や義元戦死の地も幾つか現れてしまった。

 古戦場公園から2km程北にある名鉄中京競馬場前駅の近くにある、義元の本陣跡と義元の墓のある高徳院を尋ねた。
高台にある高徳院の新しい仁王門を潜った先に本陣跡はあった。特に案内するものは無かったが、香川景樹の歌碑があり、そこには
 「あとへば 昔ののこゑたてて 松にこたふるかぜの悲しさ 景樹」 とあった。
この歌碑が高徳院下の古戦場史跡の中にも立っていたが、若干書いてある漢字が違っていた。
 「あとへば 昔のときのこゑたてて 松に答ふる風のかなしさ 景樹」 となっていた。これを素人の私が漢字をいれるならこうなる
 「 へば 昔ののこゑたてて 松にこたふるかぜの悲しさ 景樹」 となるのだが。

       
                   石仏群                                三頭石仏

 境内の林の中の石仏群。ここで多くの駿河人が戦死したのだから、このような石仏は嬉しかった(その慰霊のためではないかもしれ
ないが)。その中に初めて見る頭が三つある石仏があった。双胎なら道祖神でよく見かけるが、このように同じくらいの頭が三つもある
石仏は初めて見た。何か意味があるのだろうか。

  
        徳本名号                     義元公仏式の墓                   阿闍梨諦念墓

 高台にある広徳寺の法面の竹林に三基の石碑があった。
 徳本名号とは江戸時代の木食僧で、全国各地に “南無阿弥陀仏” 六文字の残している。ここでは戦死者の霊を弔うために建てた
ようだ。
次の墓は義元の墓だガ刻まれている文字は 「天澤寺殿四品前礼部侍郎秀峯哲公大居士」 とあるが、何のことか分からない。
実はこれは義元の戒名とかで、 “天澤寺秀峯哲公(てんたくじしゅうほうてつきん)” とは “秀でた峯は、奥深い道理を知る人、天
(ありのまま)の恩沢(めぐみ)” だとか。何だか全然分からないが注意する点は、この墓が江戸時代の万延元年に建てられたことが
はっきりしていることで、その当時から桶狭間古戦場はここで、義元はここで戦死したとされている点だ。

 阿闍梨諦念墓には何の説明もないが “悟りを開いた阿闍梨の地位の高僧の墓” なのだろう。

 
            史跡桶狭間古戦場碑                            今川治部大輔義元墓

 広徳寺のすぐ下に国指定の史跡桶狭間古戦場がある。その中で一番に気になったのは 「今川治部大輔義元墓」 である。
今までの義元の墓の中で一番大きいが、この墓にもこんなことが書かれていた。
 「以前ここは塚であったが、明治9年に地元の人が、この墓を建てた」 とか 「通りかかった旅人が塚を義元の墓と間違えて、香華を
手向けていたので義元の墓碑を作った」
とある。となるとこの墓も義元の戦死した地とは言えない。
一体義元は桶狭間のどこで討死したのだろう。今日はその場所だという所を二か所回ったが良く分からない。
気分はこの豊明市の古戦場跡で討死したと思いたいのだが、理由は桶狭間古戦場公園には血刀濯ぎの池とか眉唾の物もあるし、
一番尤もらしい駿公墓碣も他所で発掘した物を展示しているに過ぎない。
その点ここは江戸時代の墓や歌碑などあり、しかも国指定の史跡でもある。

 
           駅前のモニュメント                                使った青春18切符

 古戦場前を通る東海道を渡れば名鉄中京競馬場前駅だった。余りに近くて氷結を売っている店は無かったが、競馬場前の駅だから
きっと構内で売っていると思った。しかし残念当てが外れた。せっかく結願を迎えたのだから何としてでも乾杯をしたく、途中の乗換駅で
ホームを出てやっと買うことができた。こうなると執念です。
以上で知多四国の観歩記は終わります。

                              87番長寿寺から桶狭間への道

こんな長丁場なブログは初めてで疲れましたが、何とか年内に終わりました。
明日の元旦は初日の出が見られそうなので、満観峰の山頂は大賑わいでしょう。勿論私もその中の一員になるつもりです。

それでは良いお年をお迎えください。 

知多四国87番長寿寺

2015-12-30 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分     到着時刻:15時05分
歩  数: 30、793歩(推定距離23.1km)    GPS距離22.6km
行程表
 太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅
                               87番長寿寺(遍路道)

 
         高速道路下にペルセウス座                               道路標識

 結願の寺87番長寿寺(ちょうじゅじ)への道は、円通寺の高台を下り県道23号を北に向かい、東海道本線大高駅の手前までの
分かりやすい道だった。この辺りの道路状況は皆目わからないが、先ず立体交差になっている伊勢湾岸道路のガードを潜った。
するとそこに 「ペルセウス座」 の案内板と共に星座を表しているような置物があった。 「なにこれ?」 と思いながら上を見たが、
上に見えるのは当然高速道の底だけ。何のため、誰のためにこんな物を作ったのか意味が分からなかった。               

 次に潜ったガードは名四国道と名古屋高速3号大高線。そこの道路標識に名古屋市の市標㊇マークが見えていた。
前から㊇マークが名古屋の市標とは知っていたが、理由は尾張徳川に関係するものだろう程度だった。そこで今回調べてみると
 「尾張八郡(尾張藩政下に置かれていた愛知・春日井・知多などの八郡)のに由来する 。」 とか
 「尾張藩の先祖・八幡太郎義家のからとった。」 など色々あるようだった。
だが何れにしろこの㊇マークは、江戸時代から尾張徳川の紋として使われていてたことは確かなようだ。

        
                     ラブホテル                            ラブホテル?

 最初に見えてのは一見してラブホテルと分かったが、次にあったホテルは判断が難しかった。ビジネスホテルのように見えるし
ラブホテルとも言えなくもない。果たしてどちらだろうとジロジロ見ながら歩く生臭遍路でした。

 
                  長寿寺前景                                 鐘楼門

 東海道線と新幹線のガードを潜ると目の前が87番長寿寺の広い駐車場だった。駐車場の先には楼門が見えている。
近づいてみると2階に梵鐘が見えているので正確には鐘楼門なのだろう。
この寺にも幟旗が無かったが 「新四国八十七番長壽寺」 の石柱は立っていた。どうやら都会の大寺は幟旗は野暮臭いと感じて
立てていないようだ。マーそれならそれでも構わないが、山門近くにはせめて札所番号を書いた石柱は欲しい。

 
                 本 堂                                 西国三十三霊場石仏群

 この本堂の雰囲気は以前見た遠州引佐の初山宝林寺に似ていると思い、家に戻り宝林寺の写真を見たが、宝林寺の屋根は
萱葺で、しかも屋根の両角の鯱の飾りも無かった。でも何となくお互い日本的でない雰囲気を感じさせる。
そういえば宝林寺は黄檗宗で明朝風様式を伝えていると案内されていた。しかしここ長寿寺は同じ禅宗だが臨済宗だった。残念。

 長寿寺はもと真言宗長祐寺として開創されたが、桶狭間の戦いの前哨戦、鷲津砦の戦いで織田軍が敗れ、長祐寺も兵火により
全てが灰燼に帰した。江戸時代になり再興され長寿寺と改名、臨済宗に改宗したとある。
その鷲津砦は長寿寺の裏山なのだから、砦に攻め込んだ今川勢の焼き討ちにあうのも当然そうな場所だった。

 整然と手入れが行き届いた境内の一画に、西国三十三霊場の石仏が祀られていた。

 
                 弘法堂                                   弘法堂内陣

 これで知多四国霊場最後のお詣りになるので久し振りに般若心経を読経した。まだ他人がいると声が出なくなるが、幸い一人だった
ので声を出して読経をする事ができました。
そして無事結願を迎える事ができたことを感謝して 「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」
 
             

 私が今まで歩いた霊場巡りの順番は、最初と最後は札所番号にしていたが、途中の順番はほぼ距離優先で決めていた。
なので知多四国霊場でも結願は88番で迎えたいと思っていたが、5番札所を打っていなかったため87番を結願とするしかなかった。
そして順路は図の赤矢印の82・83・86・85・84・5・88・87となった。
さらに札所順位青矢印を入れてみたら、おかしなことに結願の場所が半島の内側に戻るようになってしまう。
そしてこれは最後に知ったのだが、知多四国霊場総奥の院が名古屋八事の興正寺だということを。そうなると私の歩いた順路なら
良いが、札所順では再度87番の方向に戻らなければならなくなる。これじぁ余りにも変だ。
だいたい総奥の院については知多四国霊場公式HPに何の記載もないし、今回購入した朱印帳にも総奥の院のページは無い。
さらに知多四国を巡拝した人のブログで総奥の院の朱印も見たが、知多四国の言葉は記入されていなかった。
何を言いたいか分かったって。そうです総奥の院は知多四国霊場開創亮山阿闍梨の時も、そして今も正式な総奥の院ではない。と。
自分が名古屋の街中を歩くのが嫌なため、強引に結論をつけたきらいはあるが、そんな訳で総奥の院へは参拝しないことにした。

 実は87番と88番の位置関係は開創時代は86番から88番への道がなく、止む無くこんな形になったと思っていたので、それを
確認するため88番で聞いてみた。
すると 「87番の長寿寺さんも昔は知多郡だった」 という返事。聞いたときはその意味が分からず追及しなかったが、あとで考え
長寿寺のある大高は名古屋市大高だが、名古屋に合併する前は知多郡の町だったのだろうと見当をつけた。それでお寺さんは
 “同じ知多郡だからどちらでもいい” と言いたかったようだ。
同じ質問を長寿寺ですると 「昔は円通寺さんに行く道はこちらからしかなかった」 と私の想像と同じだった。

 とマーそんな自慢話で知多四国霊場の遍路観歩記は終わります。

                                   88番円通寺から87番長寿寺への道

知多四国88番円通寺

2015-12-29 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分     到着時刻:15時05分
歩  数: 30、793歩(推定距離23.1km)    GPS距離22.6km
行程表
 太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅

                               88番円通寺(お札)

 地蔵寺から歩き出す道の入口が分からずウロウロしていたら “何処に行くのか” 声をかけられた。
 「県道248号に行く近道を探している」 と言うと 「この辺は県道ばかりで、県道何号線では分からない、どこへ行きたいの?」
再度聞かれた。多分言っても分からないと思ったが、円通寺の名を言うと思いもかけず
 「アー88番の円通寺さんなら・・・・・・」 と教えてくれた。四国霊場以外ではこんなことは珍しい事でラッキーでした。
入口さえ分かれば後は分かりやすい道で、広々と開墾された畑の中の88番円通寺(えんつうじ)を目指した。

  
       円通寺石柱                    200回巡拝記念碑              200回巡拝記念写真   

 本来ならこの寺を結願寺にしたかったのだが仕方ない。と幾分残念な気持ちを抱いて少々荒れている参道を上る。
寺の入口には 「新四国八十八番札所 満願霊場円通寺」 の石柱も立ちよけいの残念さが増してしまった。
でもここで疑問が生じた。
私は四国霊場を歩いた時に “結願(けちがん)” の言葉を知ってから、霊場巡りを完了する事を結願と思って使ってきた。
だがここの石柱には “満願” と書いてある。四国と知多では使い方が違うのだろうかと先ず結願の意味を調べてみた。
 「仏教用語。期間を定めて法を修する場合、その修行の完了すること、またその最終日をいう。満願とも。」
要はどっちでもいいのだ。満願でも結願でも。でも一般的な “満願成就” より “結願成就” の方が格好いいかも。

 少々荒れた感じのする境内に入り、まず目に入ったのは 「新四国巡拝二百回記念彰徳碑」 だった。
確か42番天龍寺には400回記念の納め札を奉納してあったが、あれはマイカー遍路だったらしいが、銅像のお遍路さんは
着物の遍路姿なので、明治か大正の歩き遍路なのだろう。
歩き遍路なら交通費が必要ないからお金が掛からないと思う人もいるかもしれないがそんな事はなく、交通費は掛からなくても
宿泊費が必要になる。例えば四国霊場を40日かかって回るなら40泊の宿泊費が必要で、これを車で回れば10日掛からずに
回る事ができる。歩き遍路を乞食旅行という人もいたが、経費だけとらえて言うなら大名旅行だともいえる。
実際、四国遍路の掛かった費用なら、地球の裏側のマチュピチュツアーだって行く事ができる。

 弘法堂の軒先には女性遍路の二百回記念の写真も飾られていた。やはり結願の札所だけの事はある。

 
                  本 堂                                   弘法堂

 本堂の屋根の瓦は所々剥がれているし、軒先の瓦はすでに落ちていて落下防止用のネットも張ってある。もしかして真言宗かと
思ったが曹洞宗だった。失礼しました。
 本堂と弘法堂をつなぐ渡り廊下の太鼓橋のような曲線は、寺の由緒を感じさていたが、今は使われていなのか埃が積もっていた。
本堂を再建するときは、是非この渡り廊下は復元してほしい。

円通寺は行基菩薩が馬頭観音などを刻んで安置したのが始まりとされ、その後戦乱で2度焼けたのち夢窓国師が中興開山している。
文化財も県指定の木造毘沙門天立像をはじめとして、市指定文化財も4点ある古刹である。
それが参道や境内、さらに建物全てが荒れている感じがしてならない。よく言えば山寺の風情ともいえるが矢張り手入れの状態が悪く
感じてしまう。きっと再建待ちで手を加えていないのだろうが残念な気がしてならない。ただその荒れた感じに反比例して、庫裏は
新築で洒落た建物だった。できるなら近いうちに本堂や弘法堂も再建され境内も整備される事を祈っています。
こんな感想を持つのは初めてだが、これもこの寺が結願寺だからなのだろう。

  
            錫 杖                       立弘法                     鳥彗紗摩明王

 錫杖に 「ごりやく錫杖 回してください」 とあったが、千羽鶴やリボンで握る所がない。これが四国霊場の結願寺だと、結願した
遍路が奉納した金剛杖が山ほどあった。尤も私の使った金剛杖は冥土の旅路の友にしようと家に待って帰ったが。
四国に比べここの霊場は遍路道の高低差が小さく、杖を必要とする場所もなかった。
私も今回は金剛杖も買わないしストックも持ってきていない。これでは奉納する杖がないのだから仕方ないか。

 「立弘法(たちこうぼう)」 は初めて聞く名前だが
 「“此の門をよけて通れよ風の神 とふりに姿のあらん限り” 玄関にお祀りし、家事災難、盗難等から家宅をお守りいただく有難い
弘法様です 一体二〇〇円」
とある。なら立姿のいわゆる修行大師のような大師像が、弘法堂の中に有るかと覗いてみたが分からな
かった。ネーミングは上手いが、せめて立姿の大師像が見える場所に欲しいものだ。

 「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」 が下(しも)の神さんとしてお祀りしてある寺は何か所もあったので知っていたが、ここ円通寺の
弘法堂にはあちこちに “トイレの神様” とか “便所の神様” の張り紙がしてある。で、それを見てみると
 「うすさま明王(トイレの神様)  “おんくろだのう うんじゃくそわか” トイレにお祀りして下浄を清浄へと転じ 腰から下を守っていただき
御徳を頂きます 一体二〇〇円」
 要は下の世話を人に頼らないで済む神様だが、この神様も弘法堂の中には見当たらなかった。
その代わりというか、こんな説がありました。
 「知多四国霊場一番最後=しもの札所であるため、「しも弘法」とか 「円通寺の通寺をもじって「つうじの神様」など紹介していた。
なんともうまい解釈で私も負けずに新しいお札販売に挑戦した。
円通寺にある県指定文化財の毘沙門天の奥さんは吉祥天。なのでお札の説明には
 「毘沙門天と吉祥天の御夫婦にあやかりますよう 縁が(円)がつうじ(通寺)るお札です。」としたらどうだろう。
円通寺さんどうぞこのアイデアを採用して、本堂の立て直しをしてください。 と、こんなことに影響されたのか生まれて初めてお札を
買ってしまった。
そのとき 「お札なのに何故一枚でなく一体ですか」 と聞くと 「明王様やお大師様が描かれていますので一体と言います。」
なるほどと思ったが、すぐ “そのお体を売買して罰が当たらないのか” と心で反論する臍曲がりでした。

        
                         抱地蔵                                   重軽石

 ここにも抱地蔵があったが隣はお賓頭盧様ではなく馬頭観音らしき石仏だった。そして 「重軽石」 なる物も置いてある。
これも抱き地蔵と同じように、持ってみて軽く感じたら吉というものだろう。
       
                                    5番地蔵寺から88番円通寺への道

知多四国5番地蔵時

2015-12-28 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分     到着時刻:15時05分
歩  数: 30、793歩(推定距離23.1km)    GPS距離22.6km
行程表
 太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅

                               5番地蔵寺(毘沙門天)

      
            ガソリンが安い                             東海市&大府市境

 玄猷寺から5番地蔵寺(じぞうじ)には、一度姫島交差点まで戻り、県道を東の内陸部に向かう分かりやすい道だった。
途中で知多半島道路を潜った先で東海市から大府市に入ったが、大府市は初日に2番から6番の4ヶ寺を歩いている。
知多半島には目印になるような山もないし、歩く道しか印刷してない手持ちの地図では、それらの札所がどこにあるか、どの
方向にあるのかも皆目見当がつかない。でもきっと近くにはあるのだろうと思うが。

      
                       地蔵寺前景                                  山 門

 ヤイヤイここは幟旗が林立していて先はどの玄猷寺とは大違いだ。ただよく見ると幟旗の半数は 「長草天神社」 となっている。
この長草天神社は “どぶろく祭” で有名な神社で、2月のお祭りにはどぶろくが無料で振舞われるらしい。ウーン残念だった。

 石段先の山門を潜り境内に入ると正面に本堂があり、その横には弘法堂も並んでいる。境内には色々な石仏や石塔もあり
中々いい雰囲気を醸し出している。

 
                 本 堂                                     弘法堂

 本堂の左右に立つ 「照闇」 と記された大きな常夜灯が目を引いた。
 地蔵寺は “大府七福神” に指定され毘沙門天を祭ってあるそうです。毘沙門天といえば今お参りしてきた玄猷寺で四天王の一人
 “多聞天” と同一人物だと知ったばかりだ。その多聞天は 「よく聞く者」 からきているので、優秀な人、即ち毘沙門さんの御利益は
 “学力向上” もあると思った。
そこで毘沙門天の御利益を調べてみると 「武道成就、降魔厄除、家内安全、夫婦和合」 となっていて “学力向上” は無かった。
マー神様の御利益なんてところ変われば品変わるで、吉原の毘沙門さんは銭洗池でお金を洗うと商売繁盛の御利益とされている。
なら毘沙門天の御利益は “学力向上” もあるとした私の考えも別にかまないだろう。信じる者は救われるだ。

 
              抱地蔵&お賓頭盧様                            寄贈された大師像   

 弘法堂の前には知多四国名物の抱地蔵とお賓頭盧様が祀られていた。
さらに納経所には観音寺にあった陶器の大師像も置いてある。その前には上を向いて口を開けている和製 “叫び” もあった。

  
           修行大師                     水子地蔵                      石 塔

 修行大師像は3mを越える高さだそうです。その足元には何故か鶴が2羽。
 このような石塔も層塔と呼んでもいいのだろうか。分からないときは石塔にしておけば間違いはない。
 

  
        くるま地蔵霊場                   如意輪観音                    常夜灯

 地蔵寺は “くるま六地蔵霊場” の一番札所でした。知多半島の歩き遍路では88ヶ所の霊場は多すぎるが、六ケ所では少なすぎると
思う。いいとこ33ヶ所ぐらいが丁度よいではないか。とはいえ “知多西国三十三所霊場” を回る気はないが。
 如意輪観音の石仏だと右手で頬杖をして、左手は何も持っていないのが多かったが、ここの如意輪観音は蓮の花を持っていた。
 「照闇」 とくっきり彫り込んだ常夜灯。そのものズバリの言葉だった。

                                     84番玄猷寺から5番地蔵寺への道

知多四国84番玄猷寺

2015-12-27 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分     到着時刻:15時05分
歩  数: 30、793歩(推定距離23.1km)    GPS距離22.6km
行程表
 太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅

                               85番玄猷寺(四天王)
 清水寺から85番玄猷寺(げんにゅうじ)への道は打って変わって分かりやすい道だった。
清水寺の前の道を南に下り、DCMカーマの所で合流した太い道をさらに南下する。大きな木庭橋北交差点を左折して東に
向かい、二つ目の姫島信号を南に下れば玄猷寺に出る。
歩いてきた辺りが東海市のメイン通路のなのかホテルなど大きな建物が建っていた。知多四国の遍路中の一番の通りだった。

 
                  玄猷寺                                   玄猷寺全景

 姫島交差点を曲がり少し進むと広い駐車場があった。車は全然停まっていないが観光施設のようだ。と思ったのは間違いで、
そこに立つ石塔には 「曹洞宗 瑞雲山玄猷寺」 とある。なんとここが玄猷寺だった。
 寺の全景が写る位置まで駐車場を下がり写した写真です。正面が四天王が鎮座する楼門で、その奥の屋根が本堂。
本堂の右が庫裏で、左のお堂の屋根が弘法堂だった。
それにしても何もかも新しく、入り口に建つ壮大な楼門は2011年3月に新築されたばかりとか。恐れ入りました。

       
                         楼 門                              四天王(東方持国天)

 余りに立派な楼門は少々頭でっかちに見え地震の時は大丈夫かと不安も感じさせた。
楼門に続く白塀に3本の筋が見えるが、もう定規筋の追及は止めよう。権威ある定規筋の塀なのか、それとも単なる模様なのかの
判断をつけようもない。

 楼門の中の四隅に鎮座しているは四天王は
 「仏教の守護神である帝釈天(たいしゃくてん)に仕え、仏教世界の東西南北を守る守護神」 だそうだ。

  
      四天王(南方増長天)              四天王(北方多聞天)              四天王(西方広目天)

仏教世界の東方を護る持国天(じこくてん)は、「国を支える者」
        南方を護る増長天(ぞうちょうてん)は、「成長、増大した者」
        北方を護る多聞天(たもんてん)は、「よく聞く所の者」
        西方を護る広目天(こうもくてん)は、「種々の眼をした者」・「尋常でない眼、特殊な力を持った眼」 から 「千里眼」 とも。

 この四天王の中で多聞天は単独で祀られる場合があり、その場合は毘沙門天(びしゃもんてん)と呼ばれている。
これは原語の意訳が多聞天で、音訳が毘沙門天からきているのだそうです。
 四天王の名前を聞いて何となく聞き覚えがあるのは “増長天” で、語源が “成長、増大した者” だから 「増長」 という言葉は、ここから
来ているのかと思ったが、そのような説を書いたものは無かった。

 
                 本 堂                                    手水場

 境内に入っても立派の一言。本堂もその横に建つ庫裏も新しく威風堂々としている。境内のソテツも何処からか移植したのだろうが
青々して勢いがよかった。
 ただ手水場は新しい事は新しいが、今までお参りしてきた札所の多くは屋根のある手水舎で、そこに不釣合いな程の石仏を安置して
ある場合が多かった。だが玄猷寺はそれらを止め、高価そうな自然石を刳りぬいた手水盤だけが置いてあった。
 他にも他の札所にあって玄猷寺に無いのは、知多四国の幟旗だった。今までの札所は多い少ないの違いはあるが、幟が1本もない
札所はなかった。それがここは知多四国だけでなく他も含めて幟旗自体が見事に1本もない。
幟旗は立てないのがこの寺のポリシーならよいが、霊場参拝者の納経料やお賽銭などタガが知れていると思っているなら悲しい。

 玄猷字開創について寺のHPを引用すると
 「開山は臨済宗の開祖夢窓国師で国師が後醍醐天皇の菩提の為知多に順錫した際、草庵であった当寺を本格的な寺として建設し
勅願所とした。また寺名の由来は、夢窓国師が没後に、後円融天皇から賜った 「玄猷」 という国師号がそのまま寺号とした。」

紹介されていた。

 これだけ由緒ある寺なのでさぞ文化財も多いだろうと、東海市のHPで文化財を確認したが、国も県も市も何一つ無かった。???

 
                 弘法堂                                    弘法堂内陣

 ほかの建物は新しく豪華だったが弘法堂は何となく新しいような、新しくないような気がする。これに関してもHPに記載があり
 「以前からあった弘法堂は、新本堂の隣に修復、移築された。」 そうです。使えるものは使わなくちゃぁ仏罰が当たる。
 それにしても真言宗の寺が半壊状態なのに、立直しどころか修復さえできないのに、どうすればこんな豪華の寺を建てる事が
できたのか。宝くじでも当たったのか、それとも優秀な子供がいて莫大な契約金や年俸を貰ったのか。
でないとすると、檀家の負担? イエイエ檀家ではない私がとやかく言う話ではないが維持費も大変そうだ。

 後で分かったのだが玄猷寺には紹介した以外にも、10m程の新しい涅槃像もあるそうです。境内には見当たらなかったが何処に
あったのだろう?
また、これも後で分かったことだが、86番観音寺の近くにも鎌倉の大仏より大きな “聚楽園大仏” があるそうです。
事前の調査は歩く道が主で、その他は通り一遍の事しか調べていない弊害が出てしまったが、しかし事前に大げさな説明を読んで
期待していくとそれ程でもないことが多い。それより行ってみたら素晴らしかった方が受ける感動は大きい。
マー難しいところですね。

                                     85番清水寺から84番玄猷寺への道

知多四国85番清水寺

2015-12-26 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分     到着時刻:15時05分
歩  数: 30、793歩(推定距離23.1km)    GPS距離22.6km
行程表
 太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅

                               85番清水寺(せいすい寺)
 観音寺から85番清水寺(せいすいじ)へは信号のある交差点まで戻り、そこから住宅街の道を何か所も分岐する分かりにくい道だった。
人に道を尋ねるにしても寺の名前を言って通じるのは余程の大寺で、普通の寺の名前ではなかなか分かってもらえない。
次の清水寺が大寺かどうかは分からないが、道を聞くときは近くにある平洲小学校を聞こうと思っていた。

 信号を渡り直進する道に入ったがじきに分岐が続き分からなくなってしまった。人もいないので適当に歩いていたが、どうもこの道では
なさそうだ。暫くしてようやく歩いている人を見つけ聞いてみた。
 「きよみず寺に行きたいのですが、この道でいいですか?」  「きよみず寺は知らないなぁ」
 「あっ それじゃ平洲小学校は分かります?」  「平洲小学校は分かりにくいので近くまで行くから一緒に行こう」
と言ってくれた。
フ~助かった。
道々話をして分かったのは、清水寺は “きよみずでら” ではなく “せいすいじ” だということ。これでは寺の名前じゃぁ分かる訳はない。

 
                 清水寺                                    本 堂

 寺の規模にはそぐわないような立派な石塔に 「新四国八拾八所 八拾五番札所 観音堂」 となっている。
寺の名前の清水寺ではなく観音堂となっているのは
 「元禄時代に村の庄屋の家が全焼し、これからはこの様なことがないようにと観音様を迎え観音堂を建立した」 事によるのだろう。
その観音様が 「火防せの観音様」 として清水寺の本尊として祀られている。
                           
この観音像は東海市の文化財に指定されておりHPには
 「寺伝によれば、慈覚大師の作といわれています。髪型は藤原時代の形式を残していますが、鎌倉時代の作とみられます。」
紹介されていた。

 寺の名前の “清水” は、寺の近くに清水の湧く井戸があり、霊水として宮中に献上されたという故事に由来しているという。

 
                弘法堂前                                  境内の小堂

 清水寺は知多四国霊場に四つある尼寺の一つで、境内は狭く本堂も質素であるが、狭い中にも色々な花が栽培され、花期には
色とりどりの花が咲きそうです。
境内にある小堂には役行者と地蔵尊、硝子戸の中には木製の小社と狛犬らしきもの二体が祀られていた。

 朱印の応対をしてくれた女性が気さくで話しやすかったのでこんな質問をした。
 「清水寺は浄土宗なのになぜ弘法大師を祀るのですか」
 「お大師様といえば弘法大師の事とで、どの宗派でも大事お祀りしています。」
だそうです。
この辺が私には理解できないことで、浄土宗も浄土真宗も 「 『南無阿弥陀仏』 を唱えればて、浄土へ往生できる」 とされる宗派や、
開祖同士の諍いもあった天台宗がなぜ弘法大師を祀ることができるのか、不思議です。

                                      86番観音寺から85番清水寺への道

知多四国86番観音寺

2015-12-25 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分     到着時刻:15時05分
歩  数: 30、793歩(推定距離23.1km)    GPS距離22.6km
行程表
 太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅
                               86番観音寺(即身仏)

 
               石柱門                                   境内に続く石段

 弥勒寺の仁王門からうっかり地図ではない道で太田川へ戻ってしまった。地図は川には出ず太い車道を北に向かうようになっている。
道が分かった後で考えれば、違う道に出ても何も迷うことはなかったのだが、その時は方向感覚がなくなりあちこちと歩いてしまった。
近くにあった工務店で道を聞き分かってみれば自分の判断力のなさに呆れて情けなくなる。最終日だから気を付けないといけない。

 86番観音寺(かんのんじ)の道は、東海市の市役所前の道を北に進み、富貴の台2丁目の信号の次の名前の無い信号を左折して、
八柱神社の先にある。太い車道が分かれば後は分かりやすい道だった。

     
                   境内から東海市                                 鐘 楼

 道路の先に見えた観音寺の石柱門から高台にある境内に入ると見晴らしがよく東海市の街並みが見えていた。
今日は9月になっているが太陽は燦々と射し、温度計は早くも36度を超えている。熱中症になって以来水分補給には気を付けているが
今日はさらなる注意が必要だ。札所の数は少ないが気を引き締めて歩かなければ。

     
                        本 堂                             抱き地蔵と納札箱

 どうも本堂かお堂か分からない寺が多い。ここも写真の建物に左から弘法大師、本尊の聖観世音菩薩そして薬師如来が祀られている。
良く分からないが本尊が祀られているので本堂としておきました。
弘法大師が祀られている格子の前には知多四国霊場では付き物の抱地蔵が置かれ、その下にある納札入には霊場参りを20回以上した
人の赤い納め札も見えていた。

 
                ???                                    陶製大師像

 さてこの建物は何だろう。本堂は御本尊を祭ってある建物とすると、ここは庫裏かそれとも客殿か。
今は小寺となってしまった観音寺だが、往時は後柏原天皇の勅願寺でもあり、豊臣秀吉の庇護を受け栄えた時もあった。
それが太平洋戦争末期の戦災で焼け落ちてしまったという。
この寺の宗派も真言宗。大寺と小寺の差の大きい宗派だが、直接の原因は墓地が少なく檀家が少ない事だろう。

 納経のとき聞こうと思っていた建物のことはさておいて、こんな質問をした。 「この時期の参拝者は何人くらいいますか」 と。
暫く返事がなかったので 「歩きの人はいますか」 と聞くと、今度は即答で 「夏場は歩いてあ回る人はいませんねー」 だって。
そうでしょうね、そんな物好きでバカな年寄りは私くらいの者でしょう。で、建物の名前を聞くのを忘れてしまった。

 納経所に中日新聞の切り抜きが貼ってあり “陶製の大師像を手作りして霊場巡りをしながら奉納している” とあった。
この像の中には写経した般若心経も納められているとあるので、菅笠を被った大師像なら家で祀ってもいいかなと思った。

        
                           手水舎                                 即身成仏大師

 知多四国霊場のご多分に漏れずこの札所の手水舎にも仏像が祀られている。それもお地蔵さんが三体と水かけ不動、さらには飾りの
つもりなのか水の出る竜の頭付近には大小の自然石が置かれていた。
何でも多ければ良いてもんじゃぁない。そんな感じがしないでもない。

 文字の彫も深くすっきりと境内に立っていたのは 「即身成仏大師」 とある石仏だった。
真言宗の寺で大師とあるのだから弘法大師のことだと思うが、弘法大師が即身成仏だとはいえないと思う。
即身成仏とは 「仏の教えを実践し、悟りを得てお釈迦様と同じ心の状態を獲得すること」 だそうで、高野山にあるとされる弘法大師の
ミイラは即身成仏ではなく、百歩譲っても “即身仏” くらいではないか。
所謂即身仏とは “五穀や塩を断って土の中で亡くなった人のミイラ” の事らしいが、実際には弘法大師は老衰か病気で亡くなり、
その後死体をミイラ処理をしたのではないかと思う。
イエイエ決してケチを付ける訳ではないが 「敷石敷設會 記念塔」 の文字を見ると、そんな事も言いたくなった。

                                   83番弥勒寺から86番観音寺への道

知多四国83番弥勒寺

2015-12-24 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分   休憩時間:2時間00分   延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分     到着時刻:15時05分
歩  数: 30、793歩(推定距離23.1km)    GPS距離22.6km
行程表
 太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅
                               83番弥勒寺(弥勒菩薩)
 サー今日は最後の遍路で札所の数も7寺と少なく気楽な一日になりそうだ。だがコース設定には随分悩まされ、希望は88番で
結願を迎えたあと1番にお礼参りをしたいと思っていた。だが素直に歩くと88番より南に87番があるので87番が結願寺になって
しまう。では逆に歩くと87.88となり1番にお礼回りに行けるのだが、問題はまだ5番札所を打っていないことだ。
遍路1日目に5番を打っておけば良かったが、5番だけが内陸部の88番の近くにあったので最終日に打とうとまだ残っている。
いろいろ検討した結果、結局お礼回りそのものを止めて5、88と打ち87番で結願とする距離優先のコースにすることにした。
その代り結願後に霊場以外の見所を回ることにし、初日に降りた名鉄前後駅が今川義元終焉の地・桶狭間に近かい事を知った
ので結願の後にその桶狭間を散策することにした。

 (残された問題はこのブログだ。年内には余裕をもって終わる筈だったこの遍路ブログが、今回を入れて後7回必要になる。
となると12月30日が終了日になるのだが最後に回る桶狭間のことも紹介したいので結局大晦日が最終回になりそうだ。
今までも山行記録は中止していたが今後もそれは続く。3か月連続のブログ投稿はやはり大変だ。)

        
                       太田川駅                                 王塚古墳社

 立派な太田川駅から北に向かい太田川を越した高台に83番弥勒寺(みろくじ)はあった。
途中に王塚古墳の謂れを書いた石碑の横に小さな社が祀られていた。

 
               弥勒寺石柱門                                  弥勒寺

 鬱蒼と生い茂った中の参道は古刹の趣はあるが、今の時期は蚊の攻撃に手をやく。何しろ体温が上がり汗ばんでいる皮膚は蚊を誘う
フェロモンを出し、腕まくりした手は蚊に餌場を提供しているようなものだ。
次々押し寄せる蚊にタオルや帽子を振り回しながら参拝になった。

 749年開創の弥勒寺は、往時には一山六カ寺を擁し、七堂伽藍を構える大坊であったが、関ヶ原の戦いの戦火に巻き込まれ、本尊と
仁王像以外は焼失した。その後江戸時代に尾張藩主の寄進を受け再興されたいう。 現在も地元では “大里の大坊” と呼ばれている。

 境内に入ると正面に陸屋根の角ばった建物があり、軒には 「商売繁盛、家内安全、自動車交通安全」 と書いてある。
その建物前の幟は 「御宝塔御宝前」 となっている。一見土産物売り場のように見るがお札でも打っているのだろうか。
それにしても “御宝塔” や “御宝前” とは何だろう。

 
                本 堂                                   本堂内陣

 正面に見えていた大屋根の建物とは違い小振りで一見お堂のように見えるが、ここに本尊の弥勒菩薩を祀っているので本堂だろう。
お前立と思える仏像は、王冠を被り右手は掌を正面に向け、左は蓮の花を握っているように見える。

                  
              弥勒寺の弥勒菩薩像                    広隆寺弥勒菩薩像
               東海市HP                           ネットより

しかし普通に弥勒菩薩像というと
 「椅坐して左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬杖を付いて瞑想する半跏思惟像として姿」 だと思う。
それが弥勒寺の弥勒菩薩像は、本尊もお前立も私の持つ弥勒菩薩像とは似ても似つかない像容だった。
少々ガッカリしたが 「半跏思惟像の全てが弥勒菩薩像であるとは限らない。平安時代から鎌倉時代には、半跏思惟像は見られなくなり、
立像や坐像として表されるようになる。」
とある。ここの弥勒菩薩も室町時代の作というので仕方ないかも-----
それにしても弥勒菩薩というより、釈迦如来か薬師如来に似ていると思う。

 
                弘法堂                                   弘法堂内陣

 境内の正面にあった大屋根の建物は弘法堂のようで、須弥壇には大師像が安置され、上からは弘法大師の提灯が下がっていた。
弘法殿の屋根には三つ葉葵の紋が見えるが、これで徳川家と所縁が深いことが分かる。

        
                       御宝塔(八角堂)                          御宝塔(八角堂)内陣

境内正面の角ばった建物は決して土産物屋などではなく、「お塔さま」と呼ばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が祀られていた。
建物自体は 「御宝塔」 というようで、宝篋印塔の上は透明な屋根になっていて自然光が入り明るくなっていた。
近くにあった説明には 「御宝塔「『宝きょう印塔』願い事が叶う現世利益祈願塔です。時計の針回りに右回りに三度回ってお参りください。」
とあったが、問題はこの “お塔さま” がなぜ御利益があるのかだが、そのことに触れたものは見当たらなかった。

        
                         仁王門                                  仁王像(阿)

 石柱門のあった入口と別の道を行くと仁王門があり、その境内側には古い仁王像が、門の外側には新しい仁王像が祀られていた。
この古い仁王像が関ヶ原の戦火に焼け残った仁王像だろう。
境内にあった案内板に
 「金剛力士像(市指定文化財) 阿形 くす寄木造り 像高272cm   吽形 くす一本造り 像高273cm」 となっていた。

  
         仁王像(吽)                    新仁王像(吽)                   新仁王像(唖)

                               太田川駅から83番弥勒寺への道

知多四国82番観福寺

2015-12-23 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-31(月)
歩行時間:6時間45分   休憩時間:1時間25分   延時間:8時間10分
出発時刻:8時45分     到着時刻:16時55分
歩  数: 38、240歩(推定距離28.7km)    GPS距離29.2km
行程表
 常滑駅 1:00> 66番 0:15> 67番 0:10> 68番 0:05> 69番 0:10> 70番 0:15> 71番 1:00> 72番 0:25>
  77番 0:05> 73番 0:05> 75番 0:05  74番 0:05> 76番 0:30> 78番 0:10> 79番 0:00> 開山 0:20>
  80番 0:10> 81番 0:40> 82番 0:15> 太田川駅

                               82番観福寺(疑問だらけ)

   
                    信濃川                                  観福寺脊柱門

 龍蔵寺から82番観福寺(かんぷくじ)へは一度国道155号線に戻り北へ進む。国道を少し行った所に寺本駅の入口があったが、
まだ4時前だったので、そのまま観福寺に向かって歩を進める。途中にあった川がが知多市と東海市の市境になっていたが、
その川の名前が 「信濃川」 となっていた。
信濃川? あの千曲川の訳はないが地図で信濃川の上流を辿ると、なんと水源は佐布里五ヶ寺の裏手にある “佐布里池” だった。
何故信濃などと信州の名前を付けたのだろうか、きっと面白い経緯があるのだろうが分からなかった。

 信濃川を渡り暫くして国道と別れ名鉄河和線高横須賀駅へ向かう斜めの道に入る。この先で再度国道と合流するが、多分この
斜めの道のほうが近道になるはずだ。まず名鉄常滑線を横切り北東に向かい、さらに分岐をするのだがその分岐点が分からない。
幸い道路工事をしていた人がいたので 「名鉄の横須賀駅にはどう行くのですか」 と聞くと 「ここを左に200m行けばそうだ」 と言う。
でも私の地図はこの辺りを右折するようになっていたので 「あの、こう横須賀駅ですが」  「こう横須賀? あぁたか横須賀か、でも
尾張横須賀の方が近いし電車も多いよ」
と言ってくれた。
寺巡りをしていると説明して無事高横須賀駅の道を聞き出し駅に向かう事ができた。駅の横を通り国道と合流。今度は国道を横断
して北に向かって歩いて行くと前方に立派な寺が見えてきた。でも82番観福寺はこの寺ではなく、地図では大きく拡大しないと寺の
名は出てこない小寺のようだ。

 それにしても今日の遍路は興味を誘う寺が多かった。それに最後の観福寺も地図上では小さいが、下調べをしてみると43番の
岩屋寺と61番常滑の高讃寺と並び 「知多三山」 の一つとされていた。
岩屋寺は奥の院も含めてこの遍路の中では一番見応えがあったし、高讃寺も富士登山の絵馬など興味を引く物が多かった。
なのできっと観福寺も、と思っていたのだが--------
その思いは寺の石柱門を見て脆くも崩れてしまった。

  
       仁王像の前の常夜灯                仁王像(吽)                     仁王像(阿)

 石柱門の上には茶色の陶器製の阿吽の仁王が乗っている。ここは常滑を過ぎ東海市になってしまったが多分これは常滑製だろうと
勝手に思ったが違った。なんでもこの像は瀬戸市の陶芸家の寄進だそうだ。

 
             西国33ケ所本尊石仏                              つぶらしい?

 おっとここにも訳の分からない 「つぶらしい」 って名前が有るが、これは何だ。最初は木の根元にある石仏の事かと思ったが、どう
やら木の名前のようだ。
 “つぶらしい” をネットで調べると、「ブナ科シイ属に属する常緑高木でコジイ(小椎)」 とあり椎の木の一種のようだ。さらに調べて
みると、椎にはツブラジイとスダジイの2種があり、ツブラジイは伊豆半島以南に分布しているが、ただツブラジイはスダジイに比べ
建築材でも薪炭材や椎茸の榾木としても劣り、利用価値が少ないとなっていた。
それにしても椎の木が何故東海市の保存木になっているのか、市のHPで調べてみると
 「根回りは6mほどもあり、二つの幹はそれぞれ1mほどの所から数本の大きな枝に別れています。二つに分かれた幹の間に、
大日如来の石像が祀られていて、これは大正時代からのものといわれています。枝張り東西12mほど、南北14mほどです。」

これだけでははっきりしないがツブラジイとしては大木だという事で保存木に指定したのだろう。
しかし私はツブラジイもスダジイも聞いたことはなく、ただシイの木と言っていた。

 
                 手水舎                                   本 堂

 手水舎の水盤の上に竜の頭があったので近づいてみると、案の定竜の口から水が流れ出た。この仕掛けは今回の遍路で見た
覚えがあるがどこだったろう? 忘れた。それにしても “知多三山” の古刹の一つながら新技術を導入するとは素晴らしい。

   
     十一面観音菩薩立像                本堂内宮殿                     不動明王図
                                                                      東海市HPより
 先ほどツブラジイで東海市の文化財一覧を見たのだが、そこには観福寺の物が多く指定されていた。流石古刹だけの事はある。
この本堂は県の文化財だし、中にある宮殿(くうでん)は国の指定だ。他にも不動明王図など絵画で10点、彫刻では本尊の
十一面観音菩薩立像が県、ほか3点が市、彫刻や例のツブラジイなども指定されている。さすが古刹だけのことはある。

 
              本堂?潮音堂?                               十一面観音菩薩立像

 上の写真が本堂かどうか分からなくなってしまった。扁額の字は “潮音堂” と読めるし、格子がある内陣はお堂のようでもある。
格子の中には金色の十一面観音菩薩が祀られているが、これはお前立なのか。
お前立とは平常公開されない仏像(秘仏)の厨子の前に身代りとして安置され、礼拝者にその尊容をしのばせる仏像なのだから、
本尊が木造でお前立が金属製というのも変な気がする。
要は記憶が曖昧で訳が分からなくなってしまった。

  
           弘法堂                        大師像                   お賓頭盧様

 弘法堂は間違いがない。提灯に “弘法大師” とあり、中には弘法大師像が祀られていた。
ここのお賓頭盧様は珍しく現役らしく膝や足が光っていた。

        
                                                         紅白椿

 丈の長い草の陰から本堂が見えていた。草の名前は確か 「トクサ」 だ。こんな眺めも古刹の風情を感じさせる。

 石柱門ではなく車が出入りする所から外に出ると、椿の木と 「紅白椿」 の案内板があった。
「新四国霊場開創の亮山阿闍梨お手植の開創記念樹なり 以来紅白共に桧の芽が出てきた。」
弘法大師もこのような奇跡を行っていて、遠州油山寺では大師が地面に箸を差すと、幹が松、子葉が杉の珍しい霊木になって
静岡県の天然記念物にしていされている。なので “椿から桧” もないわけではないだろうが、だがこの紅白椿は東海市の天然
記念物ではないし、折から付いていた枝先の蕾を見たが普通の椿の蕾でしかなかった。

分からに事が多かったがやはり観福寺は “知多三山” の価値はあった。

                                     81番龍蔵寺から82番観福寺への道

 観福寺から太田川駅には長源寺の前を通り名鉄河和線沿いに向かう。今日は18札所も回ってしまった。
時間も距離も丁度よいが余り回りすぎると記憶が混乱してしまうので良くないと分かっているのだが----------
しかしこれで残っているのは7寺なので、後は半日もあれば結願しそうだ。
さて今日も乾杯して帰ろう。

82番観福寺から太田川駅への道
                                    

知多四国81番龍蔵寺

2015-12-22 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-31(月)
歩行時間:6時間45分   休憩時間:1時間25分   延時間:8時間10分
出発時刻:8時45分     到着時刻:16時55分
歩  数: 38、240歩(推定距離28.7km)    GPS距離29.2km
行程表
 常滑駅 1:00> 66番 0:15> 67番 0:10> 68番 0:05> 69番 0:10> 70番 0:15> 71番 1:00> 72番 0:25>
  77番 0:05> 73番 0:05> 75番 0:05  74番 0:05> 76番 0:30> 78番 0:10> 79番 0:00> 開山 0:20>
  80番 0:10> 81番 0:40> 82番 0:15> 太田川駅

                               81番龍蔵寺(秋葉神社)

 
          龍蔵寺山門                                   無縁仏

 栖光院の仁王門から出る道が手持ちの地図と違ったため、車道に出てから方向感覚を失ってしまった。こんな時は闇雲の歩くと
余計現在地が分からなくなるので、まず地図に載っている目印を探すのだが、その “西平井公会堂” 見当たらない。
人に聞きたくても民家は道筋に連なっているが歩行者も家の外に出ている人もいなかった。
仕方なく線路がありそうな方向に向かうと “奉納 薬師如来” の幟旗が目についた。そこが地図の道だった。
後で思えば何でもないことだが、その時は結構焦るんのです。特に時間が気になっているときは。
踏切を渡り国道155号に合流したら、あとは道なりに400mも行った最初の信号機のある交差点を左折すれば81番龍蔵寺
(りゅうぞうじ)はある。
 その交差点に着くと左を差して 「龍蔵寺P」 の案内板はあったが、さらに国道を20mも行った所に幟旗が見えている。
多分あちらが山門のある正規の入り口だと行ってみると、ピンポン当たりでした。
民家に挟まれた狭い路地の少し奥に山門というのも憚るような小振りな門が建っていた。幟旗が無ければまず見落としてしまうだろう。
フ~これで連続2回幟旗に助けられた。

 境内に入ると無縁仏の石塔や石仏がピラミッド状に積み上げられている塚が目に入ってきた。

 
                 龍蔵寺本堂                               本堂の前

 その昔、龍蔵寺辺り一帯に眼病がはやり村人たちは困り果てていた。そんなとき京の公卿が当地を通りかかり、公卿が一心に
地蔵菩薩にお祈りしたところ悪病はたちまちにして治まり、村は再び平穏無事な日々を迎えることが出来たという。
喜んだ村人たちはこの恩に報いるためお堂を建て霊験あらたかなこの地蔵様を奉安したのが当寺の始まりだと伝えられている。

 須弥壇の上中央に祀られ半紙を巻いた細長いものが見えるが、これが地蔵菩薩なのだろうか? チュッと違う気がする。

 
                 弘法堂                                   弘法堂内陣

 弘法堂の柱に大きな草鞋が奉納されていた。これは何だろう?謂れが書いてないので分からないが、眼病の流行を沈めてくれた
京の公卿が無事都に戻れますようにと奉納をしたのかな。まず違うだろう。
 お堂の前に置かれた台の上は、あたかも物置台状だった。木魚が二つ、リンが三つあるがここで複数の参拝者が同時にお参り
しろということか。

      
                 秋葉神社三尺坊威徳大権現                              オガタマノキ

 秋葉神社の三尺坊は馴染みのある名前だが 「威徳大権現」 の名前は初めて聞く。調べてみると面白いことが分かった。
まず “威徳大権現” とは三尺坊の別名で、三尺坊の飛行自在の神通力を驚き恐れた衆徒が “威徳大権現” と崇め奉ったという。
この話があったのは新潟県長岡市の秋葉神社で、そこの話が面白いので紹介します。
 「平安時代、岩野蔵王堂は本宮をはじめ十二坊が立ち並ぶ、北陸きっての一大霊場を形成していました。その十二坊の一つに
三尺坊と呼ばれ住職がおりました。
三尺坊は不動明王三昧の秘法という難行に挑み、みごと大願を成就。飛行自在の神通力を得、「もし我名を呼べば、その声に
従い火災盗難を除く」
と叫び、現われた白狐にまたがって飛び立ちました。
驚き恐れた衆徒は三尺坊を「威徳大権現」と崇め奉り、社殿を建てて祀りました。
 三尺坊は白狐にまたがり栃尾を飛び立ったのち、遠州秋葉山に舞い降りて、そこを安住の地としました。この遠州の秋葉山を
中心に、秋葉信仰が広まったことから、三尺坊は秋葉三尺坊と呼ばれ、遠州秋葉山は大本山(霊山)とされてきました。
 近世に入ると、秋葉三尺坊は火伏せに効験あらたかであるということから、秋葉三尺坊の勧請を希望する寺院が方々から出て
きました。しかし、遠州の秋葉寺は全て断っていました。そこで越後栃尾の秋葉神社に勧請を依頼したところ、許可の印証を頂き
ました。怒った遠州の秋葉寺は栃尾の秋葉神社を寺社奉行に訴えたのであります。
 結果、栃尾の三尺坊は行法成就の地で 「古来の根元」、遠州の秋葉寺は布教広風の地で 「今の根元」 と裁定、いずれも本山で
あるという裁きとなったのであります。こうして栃尾の秋葉神社は 「日本二社(総本廟)秋葉大権現」 として一躍有名となり、
近郷近在から多くの参詣者が訪れ、隆盛を迎えたのであります。」


 へ~知らなかったなぁ。秋葉さんは遠州秋葉神社の他に秋葉寺や袋井の可睡斎、清水の本坊峰本院があり、いずれも本家本元を
争っていたことは知っていた。だがそれより以前の三尺坊の故郷の信州ともそんな問題があったとは。しかも「日本二社秋葉大権現」
だったとは。そこでこの言葉で調べてみたが、見つけられたのは栃尾の秋葉神社のものだけだった。それにしても 「古来の根元」 とか
「今の根元」 とは上手いことを言ったものだ。
それはともかく、ここ龍蔵寺の秋葉さんは遠州の秋葉神社の出ではなく、信州栃尾の秋葉神社の下社なのだろうか。
これが参拝の時分かっていたら龍蔵寺で確認できたものを。残念なことをした。

 その秋葉神社に覆い被さるようにあるのは知多市の保存樹に指定された 「オガタマノキ」 とイブキの木だった。
しかし写してきた写真ではイブキ以外の木の名前が分からず、ネットで龍蔵寺を検索していくと、幹に 大ガタマ 春のお彼岸頃に白い
花が咲き、秋のお彼岸の頃にサンゴ色の実をつける。」
と書かれた札のある写真を見つけた。
しかし “大ガタマ” は聞いたことがないのでネットで検索したがヒットするものは無い。
で、“オガタマ” や “オオガタマ” でやってもダメ。そして何気なく “オガタマ” とやってみたら「オガタマノキ」 という項目が現れた。
読んでみるとどうやらこの木のようだ。
 「神話の里の高千穂のご神木、オガタマノキ(招霊の木)。木の名は、神霊を招きよせる意味の招霊(おぎたま)の木が転じたものと
いわれている。天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、アメノウズメノミコト(天鈿女命)が天岩戸の前でオガタマノキの
枝を持って踊ったとも、実を振りながら踊ったともいわれています。榊の自生しない地域を中心に、神前に供える玉串として古くから
代用されたり、神木とされて神社の神域などに植栽されている例がみられる。」

多分この木に間違いなさそうだが違っていたらごめんなさい。と同時に木に付いていた札が、今もそのままあるかどうか分かりません。

                           80番栖光院から81番龍蔵寺への道