はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

東海道53次 大津宿

2012-03-30 10:25:37 | ウォーキング
東海道53次14回目ー2

建部大社~大津宿
 建部神社-0:15-瀬田の唐橋-1:35-大津宿


 日本武尊とは東海道歩いていると所々にその痕跡が残っている。この建部大社もその一つで
「伊吹山の神に敗れた日本武尊は大和に戻ろうと杖を突いて坂を上り、血を止めながら足が三重になっても歩き続けた。やがて能褒野の地で大和を懐かしみながら息が絶えた。それを知った天皇(父)は日本武尊の氏を憐れみ、建部氏を名代としてその功名を伝えんとして建部神社を建立した」らしい。

 さすが歴史を感じさせる古社だけの事はある。本殿もさることながら左右に四棟づつ並んだ境内社も小さいながら趣がる。この神社が旧官幣大社で近江国一宮だというのもうなずける感じだ。
さて日本武尊のお参りは済んだ。これから瀬田の唐橋に向かうことにしよう。

 
  建部大社拝殿と三本杉                          建部大社境内社

 瀬田の唐橋は建部神社から500m程度しかなくすぐ着く事が出来た。
唐橋は宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされているので楽しみしていたのだが、工事中でネットが張ってありその全容を見る事が出来なかった。唐橋というからには中国風な宝珠でも付いているのだろうか。
唐橋といえば俵籐太の百足退治が有名だが、その案内板が唐橋の東西の橋の袂に取り付けてあった。それによると

「豪傑の誉れの高い藤原秀郷は、大蛇が横たわり近寄る人もいなかった瀬田橋の大蛇を踏みつけて渡ってしまった。すると大蛇は爺さんに姿を変えて、三上山に住む大百足が夜な夜な琵琶湖に現れて、琵琶湖の魚を食い尽くしてしまい住民が困っている。しかし余りに凶暴な百足を恐れて退治出来ないでいる。話を聞いた秀郷は快く大百足退治を引き受けて矢で百足の眉間を打ち抜くと大百足は消えてしまった。
秀郷は爺さんからお礼として食べきれないほどの米俵を貰い、それ以後名前を俵籐太と名付けられた」


 中々面白い話だ。話の中に出てくる三上山とは、前回歩いた石部宿で見た近江富士の事だろう。あの山を七回り半する大百足とは大きく出たものだが、七回り半という半端な数は何か意味するのだろうか? それに食べきれないほどの米俵をどうして運んだのだろうか? 
ある説によると俵籐太とは田原に住む藤原家の長男で藤原秀郷の別名だとも書いてあった。米俵を貰ったから俵ではなさそうだ。
更にこの伝説の背景には、関東で起きた平将門の乱平定があるともあった。これは大百足が平将門で、その平定に効のあった藤原秀郷が別名田原(俵)だったので彼を主人にしたのではないか。

  
  ネットに覆われた瀬田の唐橋                       俵籐太の大百足退治

 橋の途中から琵琶湖が見ていた。その湖の向こうには山頂が薄く白くなった山も見える。あれは比叡山なのだろうか? でも方角が違うかな? それに琵琶湖の手前に見える橋は国道1号線の瀬田大橋なのか。あのまま国1を歩き続けたらあの橋に行ってしまったのだろう。引返して良かった。

 唐橋は京の都の防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。その唐橋の攻防戦の案内もあった。「壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、木曽義仲の乱、承久の乱、本能寺の変」などその度に唐橋は焼かれている。なのにまた唐橋は架けられている。
これは徳川幕府が江戸に近い、遠州より東の川に橋を架けなかった政策より、庶民の生活を優遇しているように感じる。帝は民の暮らしを見守ってくれたのだろうか。

  
  瀬田の唐橋から琵琶湖                           俵籐太の大百足退治

 サー1時を過ぎた先を急ごう。
唐橋を渡ると町の中に入り、あっちに曲がったり、こっちに曲がったりで道が分かりにくくなった。今度間違えたら京都に着くのが遅くなってしまうと慎重にかつ素早く地図と通りを見比べながら進む。道々由緒のありそうな神社や寺もあるが無視、膳所(ぜぜ)城などと刻まれた石碑もあるがこれも無視して先を急ぐ。
だが「義仲寺(ぎちゅうじ)」はちょっと無視するには惜しいと中を覗き込む。 
「義仲寺は、近くで討死した木曽義仲を憐れんで村人たちが義仲の墓を造って数年後、尼僧が墓の側に草庵を結び墓の供養を始めた。人が名を尋ねると「名は捨てました」と言う。後に村人は彼女が巴御前と知り、没後に草庵を「無名庵(むみょうあん)」と呼び始めた。草庵の名は巴寺、木曾塚、木曾寺と移り行き、100年後には「義仲寺」となった」
しかしこの伝説にも無理はある。巴御前は義仲亡き後は鎌倉方に捕えられたあと、頼朝の命により鎌倉武士に娶われて子をなしたとあった。

 正面に見えるのは義仲の墓のようだ。ではその近くにあるのは芭蕉の墓なのか。入ろうと思ったが受付があって拝観料を取るようだ。なら止めた。見てみたいが時間と金が惜しい。このまま先を急ごう。
でも気になるなー「木曽殿と背中合せの寒さかな」の句ではないが、義仲と芭蕉の墓が背中合わせにあるなんて。しかもそれは芭蕉の遺言で実現したのだから尚更だ。
芭蕉ほどの男が、何故死後に義仲の墓の隣に埋めてくれと遺言までしたのか、その気持が理解できない。私の知らない義仲を芭蕉見ていたのだろう。
ところでこの句は以前は芭蕉の句だと思っていた。だが実際には芭蕉の友人が、芭蕉が義仲寺に滞在しているとき訪れて詠んだ句だとか。それでは「隣り合わせ」とは墓同士でない事になる。知らなかったなー。確かめと来ればよかった。

  
  義仲寺                                  義仲寺境内

 時間はすでに2時10分を過ぎてしまった。予定では大津の本陣跡を1時半には出発することになっているのに、すでに40分も過ぎてしまった。
歩きながら歩行手帳で水口から草津の時間を調べてみると、今日は同じ距離を歩いているのに1時間弱余計にかかっている。どうも今日はペースが遅いようだ。自分では同じように歩いているつもりでも一昨日の藤沢小田原間43kmの疲れが残っているのだろうか。しかしそんな事は言っていられない。すでに御所や二条城の見学は諦めたが、鈍行の最終列車は京都駅を7時1分発だ。それには何としても間に合わせなければ。

 午後になっているのに道路脇のゴミがそのままになっている。よく見るとゴミ袋の中を新聞紙やチラシを広げて中が見えないようにしてある。なんだろうこれは?不潔なものを見せないためなのか。
私の住む焼津市では、こんなことをしたらゴミ袋を収集してくれない。再生可能の紙類はたとえ小さな紙屑でも雑紙として別に保管して月一度の収集日に出している。所変われば品変わるだろうが、リサイクル品は何処へ行ってもリサイクル品だと思うのだが。

 オッと今度は軒先に粽?いや藁納豆のようなものをブル下げてある。近づいて見てみると「曳山元祖 西行櫻狸山」とある。なんだろう?
尋ねる人もいず、そのまま帰ってネットで調べてみると、ありました。これは西行櫻狸山(さいぎょうざくら たぬきやま)という大津市のお祭りだった。軒先に吊るしてあった物は、やはり粽で祭りの山車(曳山)の上から撒いたものを拾って、厄除けに軒先に吊るそうです。でも粽だから食べないのだろうか?
そして西行櫻とは、西行法師のカラクリ人形が、桜の花の中から現れた仙人と問答することをいうようです。その模様をカラクリで表現をするのかな。
また、狸山とは余りよく分からないが、山車の上の唐様の屋根の事を山と呼び、その上に狸の人形を立てるかららしいのです。何故狸かはわかりませんでしたが。

  
  新聞紙で目隠しをしてあるごみ袋                      軒先の厄除け粽

 左手に滋賀県庁が現れた。大体何故滋賀と呼ぶんだろう? 調べてみると滋賀とは「石の多いところ」を意味する「シカ(石処)」に由来するという。そういえば歩いている途中にも「石山」とか「石場」と言った駅があったが、付近の山を見る限り岩山のような山は見えなかった。
また滋賀県の国名は近江国で略称は「江州(ごうしゅう)」だとか。遠江が遠州だから、こちっはきっと近江だと思っていたが外れだった。
 
 県庁を過ぎたあたりから電信柱に東海道の表示が出てきた。前にも有ったのかどうか断言できないが、クネクネ曲がっていた道のあたりでは無かったような気がする。このような表示があるとありがたい、地図で確認しなくてもズンズン歩ける。
国道161号の京町1丁目交差点に出た。持っている地図にはこの交差点の札の辻標識を左折となっている。だが交差点名は合っているが札の辻の標識は無い。
多分ここを右折と思うのだが困ったことに、前方に直進した道にある電信柱に東海道の字が見える。
ここで間違ったら最終電車に間にあわなくなってしまう、と慎重になって交差点を横切り確認に行って見た。間違いない確かに東海道と書いてある。もう一度交差点を渡り左の電信柱を確認するが、こちらには東海道の表示は無い。
さて困った。誰かに聞いてみよう。
「済みません。東海道を歩いているのですが、どちらに行けば良いのでしょうか」
「エー分からない、意味が分からない」
「江戸時代の東海道を歩いているのですが」
「それなら向うの道だよ。表示が見えない?アハハ」
と笑って走って行った。馬鹿にしているのかな?
こんな事で腹を立てても仕方ない。でもあの道に行くのは気が進まないなー。そうだ地図には本陣跡の近くに郵便局のマークがある。今度は郵便局を聞いてみよう。
すると「郵便局ならこの先にありますよ」と教えてくれたのは交差点を左折する方角だった。それなら本陣跡を確認してから方向を決めよう。

 何の事は無い100mも行くと郵便局はあった。そしてその少し先に本陣跡の標識が。アー良かった。
江戸から53番目の最後の宿、大津本陣跡に2時40分着。予定より1時間40分遅れになってしまった。ここで休憩をしないで出れば1時間10分遅れで済む。それなら出るしかないな。

  
  滋賀県庁                                 大津本陣跡

 それにしても京町1丁目の先の東海道の標識は何だったろうか。
気になって調べてみたら、あの道は逢坂越えのもう1本の道「小関越」の道だった。そのために東海道の標識が?それなら「逢坂越」のこちら側にも標識が欲しかった。
大津市は観光場所が多く、余り金を落とさない人が歩く東海道等は力を入れないのかな?

大崩山塊・十字縦走

2012-03-29 21:47:19 | 低山歩き
毎年「海から剣ヶ峰」への小手調べで当選している、大崩山塊の十字縦走に今日挑戦してきました。
朝6時に出発して 
安倍川駅-朝鮮岩-丸子富士-満観峰-高草山-小浜峠-花沢山-満観峰-蔦の細道-宇津ノ谷峠-安倍川駅
と歩き夕方5時半に到着しました。

歩数=48,000歩 GPS距離=28.0km と一昨昨日歩いた日本橋~藤沢の 70,900歩 52.6kmには及びもつかないが疲れ方は今日の方が断然上です。何故かな? 東海道の疲れが残っていたのか、それともあと数日で68才になる加齢現象か。どちらにしてもありがたい話ではありません。
しかしともかく完歩したので今年も「海から剣ヶ峰」挑戦しようと考えています。

東海道53次 建部大社

2012-03-28 10:58:12 | ウォーキング
東海道53次14回目ー1

場   所:滋賀県草津市・大津市・京都府京都市
歩行月日:2012/03/21
歩行データ: コースタイム
 草津駅-0:10-草津宿-2:10-建部神社-1:50-大津宿-0:10-2:30三条大橋-0:40-京都駅

 歩行時間:7時間05分 休憩時間:0時間50分 延時間:7時間55分
 出発時間:10時15分  到着時間:18時10分
 歩数:42,970歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:33.0km (GPS距離 33.9km)

草津駅~建部大社
 草津駅-0:10-草津宿-0:50-弁天池-1:20-建部神社


            
             草津駅(階上駅だった)

 草津駅から本陣までは既に前回歩いているので迷わずに行ける。アーケードの先に草津川の隧道が見えてきた。今日はあの隧道の上の状態を見てみようと思っていたので隧道を潜って堤防の上に向かった。さすが繁華街の近くのこの辺りでは、水のない川の中も綺麗に整地されていた。
前回草津川に水の無い事を知ったのでネットで調べてみると
「草津川は典型的な天井川であり度重なる災害をもたらしていたが、2002年7月、治水事業として中流域から琵琶湖にかけての草津川放水路が開削されたため、天井川を成していた旧河道は廃川となった。
天井川の歴史は、それほど古くはないく、古文書から約200年前までは天井川であったことを確認できず、江戸時代初期には低い堤防があり、内側の川幅が現在より広くとられていたものが、江戸時代中期頃に礫土砂の堆積などにより川床が年々高くなり、川浚えすることにより徐々に堤防が築かれ、江戸時代後期には現在の天井川の形となった」
とあった。

 堤防から川の上流を見ても大きな山は見えていないのに、100年足らずでこのように高い天井川になるのは、大量に流出される土砂と共に、その川浚えの方法が問題あったとしか思えない。江戸初期には川幅が広く低い堤防だったとあるので余計そう思えてならない。せめて川幅を広いままで浚渫した土砂を他の場所で利用していれば、このような天井川にはならなかっただろう。
もう一つ気になったのが放水路が出来て10年経つのに、この廃川になった草津川の再利用がされていない事だ。どうやら草津の住民は昔も今も川の利用を間違っているようだ。(失礼)

  
  廃川になった草津川                    正面=東海道江戸へ 右東海道京へ 左中仙道
 
 草津宿本陣は資料館として公開されているのが、生憎今日は月曜日で公共施設の休館日だった。残念というか良かったというべきか少々複雑な気もする。それというのも東海道で現存している本陣は、二川、土山とここ草津の3ケ所で、予約が必要な土山は見なかったが、二川本陣を見学して街道の色々な知識を得る事がでた。それでこの草津でも覗いてみたい気はするのだが、今日は何と言ってもゴールが京の三条大橋で見所の多い京が控えている。それに三条大橋の近くには京都御所や二条城もあるので、こちらも覗いてみたいと思っている。
ただ今日の行程は前回の水口から草津までと同じような距離だが、出発時間が1時間早くなっているので急げば京の街の見学ができるかもしれない。そのため草津本陣の見学を悩んでいたのだが、これで決心がついた。少し速度を上げて京都見物をしよう。

  
  草津宿本陣                           草津宿脇本陣

 菰樽を積んだ造り酒屋が見える。暖簾に「道灌蔵」とあり菰樽は「道灌」となっている。しかも「太田酒造」とも書いてある。ならあの江戸城を築城した太田道灌と縁のある酒蔵なのだろうか。後日調べてみたが分からなかった。

 今度は赤い鳥居の下に鹿の銅像がある。舞阪宿の近くの春日神社にも狛犬ならぬ狛鹿があったが、ここも春日神社の系列の神社なのかもしれない確かめてみよう。
神社の名前は「立木神社」で神社の由緒書を読むと、祭神は「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」と聞いた事のない神様で、神社名の由来は「命が旅立つとき、手にしていた柿の杖を地に挿し「この杖が生えたなら大和の春日大社に鎮まらん」と言って旅立った。すると不思議な事に杖は生えて枝葉繁茂したので、この地に社を建て立木神社と称した」そうです。
余り理解はできないが要は春日大社の元になる神社なのだう。だが春日大社のHPを見たが立木神社の事は書いてなかった。ただ春日大社の祭神は立木神社と同じ「武甕槌命」で、命が鹿に乗って来たと書いてあった。

  
  菰樽「道灌」                          立木神社(狛犬ならぬ狛鹿?)

 道脇に石仏を祀った小さな社が目に付いた。覗いてみると簡単に彫った石仏にマジックで仏の顔を線どりしてあり、唇は赤く塗ってある。石仏自体は新しい物で一昨日藤沢の宿で見た「おしゃれ地蔵」は古い双体の道祖神の頬や唇を赤く塗ってあり、それとも違う感じだ。
こんな石仏が京に着くまで何体か目にしたし、新しい石仏だが目鼻が刻まれていない物も何体もあった。何か意味があるのだろうか?

  
  線描きしてある石仏                       藤沢宿の「おしゃれ地蔵」 

 何か先を急いでいるのに次々と気になる物が現れる。今度は大きな道標が建っていて、そこには「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」と書いてあるらしい。
ここから対岸の大津へと琵琶湖を渡る「矢橋の渡し」へ行く矢橋道が分岐していて、その「矢倉立場」を説明した浮世絵と案内板もついている。それによると
「俗謡に「瀬田に廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の姥が餅」と詠まれ、旅人は、ここで東海道を瀬田の唐橋まわりで行くか、矢橋港から舟で大津へ渡るかを思案した。そこから諺の諺の「急がば廻れ」の語源になった所でもある。
近道であっても湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら遠回りしても着実な方法をとる方が良いことを指南したものである」
とある。他にも
「立場とは、昔旅人が杖を立てて休んだことから付いた名で」とか「ここの茶店で草津名物の姥が餅を売っていた」ともあり、小さな案内板にしては、しっかりと情報が詰まっていた。

そうそう前回の草津の土産に買った姥が餅は、小さく丸めた餅を漉し餡で包み、その上に乳首の替りなのか白い小さな餅をのせてあった。一口で食べられる大きさで、辛党の渡しでも一度の何個か食べれるものでした。私は餅がプチプチと弾力があり、甘い餡子とマッチして美味しく感じたが、妻は「餅は美味しいが餡は法多山の団子の方が上」と中々厳しい批評をした。

      
  矢橋道標                          矢倉立場の案内板

 今日最初の一里塚の「野路の一里塚」にようやく着いた。この前の一里塚は草津宿の手前にあった目川の一里塚で、ここまでの距離は約4.3kmだから見落としは無かった。こんな調子で最後まで行くとよいが。

 民家の塀の上に「清宗塚」を説明した案内板があった。立派な門構えの家で、恐る恐る中を覗いてみると、庭の中には拝観の順序を示す立札も立っている。なら入っても大丈夫だろうと、それでもソット入って行った。
石塔の横にある案内板によると、清宗とは「壇ノ浦で敗れた平家の総大将平清宗の長男で、壇ノ浦で源義経に捕らわれ、鎌倉に送られたが義経の頼朝の仲違いで鎌倉には入れず京へ引き返す途中、ここで清宗(17才)は首を刎ねられた」
どこかで聞いたような話だ。そうだ伊豆で見た「中将さん」も似たような話だったが------
でも中将さんは平清盛の五男で名前は平重衛。清宗は清盛の孫で父親は清盛の三男でした。つまり叔父甥の関係ですね。
それにしても平家一族は哀れな末期を送ってしまった。案内板は
「夢幻泡影、有為転変は世の習い、所業無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか」と締めてあった

 溜池が見えてきた。あの溜池は弁天池と呼び、池の中にある小さな島の社に日本左衛門が隠れたらしい。なら寄って確認しなければと。
日本左衛門はこれまで遠州金谷宿で愛人が刑場から盗み出した首を葬った首塚を見て、見付宿では晒されていた刑場を見た。更に見付には何故か日本左衛門の墓もあり、これも見てきた。なら隠れていた場所も見てみたい。
行ってみれば何の事はない、こんな小さな島に隠れる悪人は居ない。こんな所に隠れたら余計人の目を引くだろうし、江戸時代隠れる場所は他にも一杯あっただろうと、次々と否定的な感想が浮かぶ。
多分日本左衛門をモデルにした白波五人男の中の弁天小僧から湧いた発想で、私と同じような妄想的歴史観の持ち主が言い出したのだろう。でも自分の発想が世間が面白く感じられたなんて羨ましいな。
 
  
   清宗塚                           弁天池

 日本橋か119里目の「月輪池の一里塚」とも無事遭遇。道も西に向かう道を道なりに進む箇所が多く分かりやすい。そんな油断があったのか出合う筈のない国道1号線に出てしまった。地図で確認すると「大江三丁目の信号を左折」となっていた交差点を直進してしまったようだ。だがこのまま国道を進んでも、また街道と合流すると判断して、そのまま国道を歩く事にした。
そして大分歩いて出てきた道路標識を見ると、この国道は瀬田川では瀬田川大橋を渡るようになっている。私の渡りたのは「瀬田の唐橋」で大橋ではない。これには焦ってしまった。
それに瀬田の唐橋の前に日本武尊を祀った「建部大社(たけべ)」にも寄って行こうと思っていたのだがどうしよう。しかしどうすることもできない。
持っている地図は東海道の道だけしか掲載されていず、1本道が違えば見当もつかなくなる代物だ。街道に立って次の道を探すには非常に役に立つが、今のように街道を離れてしまうと何の役にも立たなくなる。周りに人の気配はない。国道はあきらに間違いだからこれ以上進むのは嫌だ。それならと田圃の間にある舗装道路に入って行った。
前の方でT字路の下の方から女性が歩いてくる、ヨシ!あの人に確認しよう。
「こんにちは。東海道を歩いているのですが道が割らなくなってしまいタテベ神社にはどう行けばよいのでしょうか?」
「あら、この道なら丁度良かった。あと少し登った先の道路を横断すればタケベさんはすぐですよ。私も同じ方向だから一緒に行きましょう」
と言ってくれた。
そして太い道路に出ると「そこの森がたけべさんで、この太い道を行ってもよいけど遠回りになるから川沿いに行けば早いですよ」と言って別れた。アー本当に助かった。ありがとうございました。
高橋川という川の遊歩道を行くと途中に森の中に行く歩行道路が何本かあった。グット誘惑に耐え遊歩道を行くと森が終わってしまった。アレ?なんだよ。大社の森が終わったのではどう行けば良いのだ。とまた不安が湧いてくる。タイミングよく前方からウオーキング中らしい男性が下ってきた。
「済みません。たけべさんに行くには、どう行けば良いでしょう?」と聞くと男性は頭を捻って「たけべさんですね。いま下から来たでしょう。これでは来過ぎですよ。この下の太い道を左に行けば突き当りの左が建部さんで、右か唐橋ですよ」と言う。
「ジャーこの上からは行けないのですか?」
「行けない事は無いが細い道を何カ所も曲がり分かりずらいし遠回りですよ」
だって。
途中の森の道も確認したが「あの道が建部さんまで続いているかどうかは知らない」そうです。
仕方ない戻るしかないか、あーあこれで20分はロスしてしまった。草津本陣が休館で浮いた20分がこれで消えてしまった。

 ようやく神領交差点に到着。「神領」とは建部大社の領土だった名残なのだろう。交差点から左を見るとタケベ大社の大きな石碑が建っていた。
予定では大津宿へ着くのが1時ごろと思っていた。だが今はすでに12時40分。今から建部大社へ寄って瀬戸の唐橋を見ていれば1時過ぎにはなってしまいそうだ。そこから大津の本陣跡まで30分は掛かるだろうから、予定より30分は遅くなりそうだ。一瞬建部大社へ寄るのを躊躇したが、30分ぐらいの遅れなら休憩時間を短くすれば何とか挽回できる時間だと思い直して、予定通り建部大社を見学して行くことにした。

  
  月輪池の一里塚                          建部大社の鳥居

 家に帰り迷った辺りを地図で確認すると、二度目で道を聞いて引返した場所を更に進んでいくと建部大社に続く道があった。

東海道

2012-03-27 09:46:17 | ウォーキング
昨日(26日)東海道の街道歩きで、残っている日本橋から藤沢に挑戦してきました。

ところで今回の街道歩きは、最後が何とも不自然な行程になってしまいました。
12回目 水口宿~草津宿
13回目 藤沢宿~小田原宿
14回目 草津宿~京三条大橋
15回目 日本橋~藤沢

といった具合で最初と最後が隣り合わせになる、何とも不自然な形で、しかもスタート地点が最後になってしまいました。
これと言うのも当初は地元の静岡県の東海道だけ歩こうと思い、小田原から歩き始めたのが原因です。
歩いているうちに街道歩きが面白くなり、そのまま京まで継続することにして、昨年夏の青春切符で水口宿まで終了。
そして今回の春の青春18切符で残りを歩く事にしました。
順番は初めに日本橋から小田原まで歩いて、最後に水口から京まで歩く予定でした。
ところが日本橋に向かう夜行列車のムーライト長良の運行が3月24日からで、しかも全席座席指定の指定が取れたのが26日だったのです。
これでは京方面の日程が遅れてしまい青春18の有効期限が気になります。しかも春の京方面は桜の開花や学生たちの京見学で、鈍行列車は満員となり座る事も出来ないなど、気になる情報も入ってきました。
そんなあれやこれやの要因が重なり合って、不自然な日程になってしまいました。

そして残された日本橋・藤沢の微妙な距離。しかも箱根駅伝で有名になった権太坂が待ち受けているコースが果たして完歩できたかどうか?
それは後日のお楽しみに。

東海道53次 草津宿

2012-03-24 13:47:14 | ウォーキング
東海道53次12回目-3
石部宿~草津宿

 石部宿-0:55-和中散本舗-0:03-六地蔵一里塚-0:25-東経135度-0:25-目川一里塚
 -0:25-草津川-0:05-草津追分-0:10-草津駅


 「いしべ宿驛」の壁に東海道の宿場間の距離と歩数が掲示してあった。因みに水口から石部までは14kmで2万歩になっている。では自分の歩数はというと、歩数は19,700歩、GPSの距離は16.3kmになっている。歩幅を計算すると表の歩幅は70cmで私のは82cm。これでは歩幅が広すぎてとても10k余も歩き続けれない。どうも平地だとGPSの距離は長めに出るようだ。

 いしべ宿驛を出るとすぐ本陣跡の表示が明治天皇聖跡聖蹟と一緒の場所にあった。明治天皇がこの本陣に泊まったという事だろう。
宿場の枡形なのかクランク状になった所に田楽茶屋があった。田楽なる物を食べた事がないので一度食べてみたいが時間に追われる身としては、ここでのんびりするわけにもいかない諦める事としよう。

 ところで田楽とおでんの違いは、煮込んだものが「おでん」で、焼いたものが「田楽」ですよね。でも私の好きな蒟蒻を焼いたらどうなるのだろうか?チョット想像がつかない。
最近静岡地方ではB級グルメの「静岡おでん」が有名になっているが、これは醤油の黒い汁で串に刺した具を煮込み、それに魚を削った「だし粉」を付けて食べる物です。具には黒はんぺんをはじめ竹輪や蒟蒻など色々あります。
でも私の一番好きなおでんは何と言っても味噌おでん。ゆでた蒟蒻に薄く溶かした味噌タレを付けて食べる奴です。子供の頃は縁日は勿論、駄菓子屋でも売っていたが今はどうなんだろう。

 オット寄り道をしていると明るいうちに草津宿に着けなくなる。先を急ごう。
右側にお椀を伏せたような山が近づいてきた。この山は石部宿に入る前から気が付き、まるで讃岐とそっくりな山だと思っていた。讃岐の山は確か讃岐富士とか呼んでいたが、その伝でいくとこの山は「近江富士」とでも名付けようか、など勝手な空想をしていた。それが帰りに野洲駅で乗換たさい、そこのパンフレットを手に取ると、なんとこの山が近江富士(山上山)と書いてあった。私の空想力も捨てたものではないなと一人ほくそ笑んでしまった。

  
  石部宿の田楽茶屋                           近江富士(山上山)

 地名表示が六地蔵の所に「国宝地蔵尊」と石碑の建つお寺の前に来た。国宝や地名になるくらいならさず立派なお地蔵さんだろう。それにお地蔵さんなら本堂の中でなく境内にありそうだ。ヨシ一目お目にかかって行こうと思ったら寺の門は閉まっていた。
宗教施設で昼間から門が閉まっているなんて怪しげな新興宗教のようだ。思い出した箱根の東坂の途中、簾のような布を垂らした寺の門を覗いたら注意されたっけ。ここは大丈夫だろうが止めておこう。

 寺からすぐの所に大きな古い建物が見えてきた。立派な門もあるので本陣だろうか。でもここは草津ではないので間の宿か。近づいて案内板を読むと「国指定 大角家庭園」とあり庭園の構成を書いてあるだけだ。次の石碑を見ると「和中散本舗」とある。
これでは大角家と和中散本舗とどんな関係があるのか、また和中散とは何かなど全然理解できない。後で調べてみると「話中散本舗」とは
「六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る「ぜさいや」の本舗として栄えました。薬を売るだけでなく、草津宿と石部宿の「間の宿」として、公家・大名などの休憩所も務めたといいます。和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられた名前といいます。店舗のほか、製薬場・台所・居間と玄関及び屋敷・正門・隠居所などが、国の重要文化財に、そして住宅全体が国の史跡に指定されています。平成13年には、新たに小堀遠州作という言い伝えがある池泉鑑賞式庭園庭園が国の名勝に指定されました」
これで理解できた。門前に立つ案内板もネットのHPも同じ滋賀県が作成したものだが随分違いがあるものだ。

  
   国宝地蔵尊の石碑                            和中散本舗

 久々の一里塚に出た。最後に見た泉の入り塚より既に15kmも来てしまった。途中に二っは一里塚があったはずなのに見落としている。後でHPを作るとき一里塚の写真と距離の一覧表を作ろうと思っているだけに残念だ。見落としたのか、それとも表示自体が無かったのか。

立派な石碑には、この辺りが六地蔵間の宿で梅木立場のあった所と紹介してある。ではここは「六地蔵の一里塚」と呼ぶのか「梅木の一里塚」と呼んでいたのか分からない。石碑に次の西の一里塚は「目川一里塚」と紹介しているのに勿体ない。
さらに梅木立場を説明には「”ぜさい”を名のる道中薬、腹薬の”和中散”を商うことで京、大阪、江戸までに知れ渡っていた」とある。これはどう解釈すべきだろう。「ぜさい」とは道中薬で「話中散」は腹薬? では道中薬とは何だろう?理解できない。先ほどの滋賀県のHPには「和中散という薬を売る「ぜさいや」の本舗として栄えました」とあった。ならこの石碑もそう書けばよいのに。

 明治天皇の石碑の前に手のひらを形どったベンチがあった。お釈迦様の手のひらなのかしら、それにしては後ろは稲荷神社だった。犬に似た狐が守り本尊のお稲荷さんの前では孫悟空はオチオチ休んではいられないな。何しろ犬猿の仲だから。

  
  六地蔵(?)一里塚                             手のひらベンチ
 
 「東経136度 子午線 太陽南中時刻 午前11時56分」の石碑が建っていた。静岡県の小笠山の展望台は「138度展望台」だから、たった2度の違いで随分距離があるものだ。ネットで小笠山ここの間の距離を測ると185kmと出た。すると経度1度の違いは93kmになるのだが、現実には経度 1度は約111km程度だそうです。

 正面に堤防が見えてきた。先ほども室町幕府九代将軍足利義尚の碑の後ろに堤防があったので、天井川かと思い登って見ると溜池だった。この正面の堤防も溜池なのかと思ったが街道はその堤防沿いに続いていく。
これでは溜池でなく川の堤防だろうが先ほどあった天井川の堤防より随分高い。登って見たいが登り口も見つからず堤防沿いの道を歩いて行くと、日本橋112里目の「目川の一里塚」標識があった。
一里塚を過ぎると今度は「田楽発祥の地」の碑がある。
さらに進むと「史蹟労牛馬養生所阯」の看板が。労牛馬養生所とは案内板によると「庄屋の長右衛門が牛馬の打ちはぎをしている様子見て、その残酷さに驚き、以後生きている間は打ちはぎを禁止して、老牛馬の療養所を設立した」とあった。「打ちはぎ」とは何だろう?打ち殺して皮を剥ぐの事なのか? 待てよ!この辺りは栗東市。ならサラブレットの療養施設があったはずだ。以前TVで馬が風呂だかプールに入っているのを見た事がある。その施設もこの療養所が発展した物なのか。それとも牛馬を労わる風習がこの地にはあり、施設の設立に名乗りを挙げたのか。

  
  田楽発祥の碑                          史蹟労牛馬養生所阯の碑

 オッ!東海道が堤防の上に延びている。やっと念願かなって堤防の上に行けると喜んだのも束の間、見えた景色は水の無い川に雑草やら家庭菜園らしき野菜畑がある光景だった。ここは天井川には間違いないのだが最近は水が流れた気配が無い。今は乾季だから水が無いのか、梅雨時は水が流れるのか。しかしそうなるとあの家庭菜園はどうなるだろう?冬の間だけの畑?そんな馬鹿な~。
この天井川は途中で見た大沙川や由良谷川と違い川幅が広い。さっき私は「住民のエゴで天井川になった」と言ったが、これは訂正しなければいけない。こんなに太い天井川ができる所を見ると、上流からの土砂が絶えず流れ込んでいた所為なのだろう。

 川を渡ると常夜灯が建っている。案内板には「火袋付石造道標。 草津宿の江戸方の入口に建ち、竿には「右金勝寺志がらき道 左東海道いせ道」と刻んである」となっていた。だが川の名前は分からないままだ。それでもいよいよ草津宿だ。

  
  草津川                             草津川堤防の火袋付石造道標

 川の西側の堤防沿いに進んでいくと前方に交通量の多い道が見てきた。どうやらあそこが草津の追分のようだ。やれやれやっと着いたかと内心ほっとすると同時に時間が気になる。今5時15分で明るさはまだ明るい。次回の行程を考えるともう少し頑張って次の南草津駅までは歩きたいのだが、そうなるとまだ4kmあり1時間以上はかかるだろう。電車は南草津を6時43分なので何とか間にあいそうだがどうしよう。行くべきか止めるべきか。
なーに心は決まっている。たとえ電車に間にあっても乾杯をする余裕があるかどうかわからない。今日は出発が11時で30kを6時程で歩いている。よく歩いたし、途中は寒くて殆ど水は飲まなかったので今は喉がカラカラだ。早く喉を水ではなく氷結で潤わしたい。そんな訳で草津をゴールとする事に。

 追分で最初に目に入ったのは「草津川隧道の由来」の案内板だった。そうかあの水のない天井川は草津川というんだ。やっと納得。
案内板には隧道が中山道の交通の便を図るため明治にできた事が説明してあったが、水のない事は書いてなかった。
草津追分には色々な標識があるがある。まずは「草津超道路原標」「水準点」「火袋付石造道標」「高札場」「書状集箱」などなど。更に道路のマンホールの蓋も道しるべの役を果たしている賑やかな追分だった。

  
  石造道標(右東海道いせみち 左中仙道みの路)          草津川隧道(正面中山道 右東海道)

         
    マンホールの蓋の道標                   マンホールの蓋の道標

 隧道の中仙道を通り草津駅に向かうと、隧道を潜った先はアケードの賑やかな通りが続いていた。草津といえば群馬県の草津温泉のイメージが強く、滋賀県の草津市は何の知識も無かった。それが今歩いてみると思っていたより大きな町で、私の地元の藤枝や焼津よりよっぽども都会だった。
階上駅の草津駅に5時半到着。構内をフラフラ、駅前までフラフラするがコンビニもキヨスクも無い。そんな馬鹿な。これでは早めにゴールした甲斐が無い。諦めきれないが諦めるしかない。代わりに「姥が餅」を購入。たまには女房孝行をしなければ。

東海道

2012-03-22 11:01:01 | ウォーキング
昨日(21日)草津~三条大橋を歩いてきました。
そのゴールは「嬉しさも 中くらいなり おらが京」または「嬉しさも 中くらいなり 今日の京」といった感じで、ゴールの三条大橋に到着しても期待した感動は湧いてきませんでした。
それもその筈で京へゴールはしたが、まだ東海道の出発点、日本橋~藤沢が残っています。しかもその残った距離は50kmと微妙な距離が残ってしまってます。
普通のウォーキングなら完歩する自信が距離ですが、街道歩きは寄り道が多く、案内板を読んだり写真を撮ったりで結構時間を使ってしまいます。
今まで歩いた東海道で一番距離が伸びたのが、蒲原駅からから藤枝駅の54km(GPS)でしたが、しかしここは慣れ親しんでいる道で見学に時間を費やすことが無かったからでした。でも54kmがOKだったなら何とかなるかとも思えるのですが--------
兎も角2回になるなら残り10kmなどと、次回歩く意欲が湧かなくなるような距離は残さないようにしないと、と考えています。

今日はこれから日帰り温泉に行って疲れを癒やしてきます。




東海道53次 石部宿

2012-03-20 09:56:01 | ウォーキング
東海道53次12回目-2
横田の渡し~石部宿

 横田の渡し(東岸)-0:20-横田の渡し(西岸)-0:03-天保義民之碑-0:10-大沙川-0:25-由良谷川-0:45-石部宿

 横田の渡しから踏切を渡った先に「天保義民之碑」があるそうだ。遠回りになるがここまで来たついでだ行ってみよう。
碑への道は今日初めての上り坂だったが、その上り坂もすぐ終わり高台にある石碑の前に到着。その案内板には
「天保13年、幕府の新たな検地に反対して近江天保一揆が起こった。付近の農民4万人が検地役人の本陣を取り囲み、その日のうちに検地を10万日日延ばす証文を書かせることに成功した。しかしその後の幕府の報復は凄まじく、一揆を主導した者は殆ど獄死を遂げたが、この一揆の後、二度と検地は行われることは無かった」そうです。
100,000日とは274年と途方もない期間だから、実質検地は中止という事だろう。しかしそんな大事な証文を一揆当日に、しかも出先の検地役人が書いたとしても有効だったのだろうか、現在なら「法律的権限のない者の署名で無効」となり、改めて堅固な護衛の元で検地を再度行う事だろう。それが江戸時代の徳川幕府は首謀者は厳罰に処したが約束は守っている。なんか物悲しいけど嬉しくなる。

 駿河の国の日坂宿でもスケールは比較にならないが義民がいた。慶長年間は幕府や大名の支払いは3年後払いが習慣だった。そのため生活に窮する者が続出し、それを見かねた本陣の当主が江戸幕府に直訴した。結果当主は死罪になったが日坂宿には年間560俵の米が毎年支給されるようになった。それ以来当主のことを「五百六十俵様」と呼んで敬うようになったという。
ここでも徳川幕府は住民の訴えは聞き入れたが、直訴した者は死罪にしている。直訴=死罪は本当だったのだ。

 高台から野洲川方面を見れば、東西両岸の常夜灯の位置が確認できるかと楽しみにしていたが、残念な事に木の影で見る事が出来なかった。

 分岐の先に3個の石碑が建っている「立志神社」「萬里小路藤房卿古跡」「←田川ふっごう道」と読めるが内容は分からない。写真を撮り無意識に石碑の前を進み踏切を渡った所で気が付いた。
今日は横田の渡しまでは西に向かう道が続いていて、野洲川を渡るのに少しクネクネ曲がったが、三雲駅からまた西に延びる道になった。それが今歩き出した道は南に向かっている。これは変だ!慌てて地図で確認して石碑の分岐まで戻って西に向かう道に戻った。
考えてみれば東海道以外の道標は、東海道から離れるから目印が必要なので、東海道の旅人はそれに引きずられてはダメだ。
まだ疲れて判断力が低下するには早すぎる。気を締めて行こう。

  
  天保義民之碑                             分岐にあった道標

 前方にガードが見えてきた。その最初のガードを越して25分も歩くと、また同じようなガードが出てきた。
何のガードと思いますか?普通ならガードの上には線路があって電車が走っていると思いますよね。でもガードの上には架線が無い。ディーゼル? イエ違うんです。ガードの上は線路でなく川が流れているそうです。
ガードの上を川が流れているなら疎水か何かで水を引き込んでいるのだろうと思いますよね。でもまた違かった。この大沙川は天上川で川床が高くなっているため、その川底にトンネルを掘って道路を通してあるのだそうです。エー!マサカ~! ですよね。「天井川とは上流から流れ出る土砂のため、川底が周辺の土地より高くなっている河川」とは知っていました。だけでこれほど高く巾が狭い天井川があるとは驚きだ。

  
  大沙川のガード                        由良谷川のガード

 興味を覚え早速土手の上に上がって見ると、なんとその川は小川のように狭い川だった。そんな馬鹿な。こんな小川なら山から運んでくる土砂だって多寡が知れている。川底を広げて流れ込んできた土砂を取り除いていれば決してこんな高い川にはならなかったはずだ。
更に興味を覚えて帰ってから何故近江に天井川が多いか調べてみると「近江の山は奈良や京で寺院を建立するために木材が伐り出され、そのためハゲ山になってしまい土砂の流出が多くなった。また地質が花崗岩質の砂が多い事も天井川になる要因とされる」とあった。
これでハゲ山になった理由は分かったが、何故花崗岩の砂だと天井川になりやすいのか分からなかった。こんな事を書いてあるのもあった。
「もともと普通の川だったのを、川底にたまった土砂を掘削して川の両側に積み上げて堤とした。さらに土砂がたまると取除き堤にする事をを繰返すうちに、高く積みあがった堤防の上を川が流れる現在の地形になった」
マーいろいろ理由はあるかもしれないが、堤の上に登って見た感じでは、これは明らかに人為的で対処の仕方を間違ったとしか言いようがない。
理由? それは川の流域に住民は川幅を広げて自分の田畑が減るのを拒んだり、たまった土砂を受入れるのを嫌がったからだろう。そのせいで後世の子孫たちは川の決壊を恐れなければならなくなった。因果応報因だとまた妄想的歴史解釈が始まってしまった。
(現在滋賀県では天井川解消するため河川改良工事を行っているそうです)

      
     大沙川の流れと弘法杉                 弘法杉の謂われ

 堤防の上には弘法杉なるものがあった。案内によるとこの弘法杉は「樹齢750年の大杉は、弘法大師がここで食事をしたあと残されていた杉箸を挿したら芽を出した。その後、倒れたが地元の人が再び植えた」そうです。
なんだ面白くない。この杉の木が洪水を防いだとか、人命を救ったのではなかったのか。それに弘法大師が死んでから1150年以上経っているのに樹齢750年とはと突っ込みを入れようと思ったら、ちゃんと「植え返した」と書いてあった。

 やっと石部宿の高札場跡が出てきた。もうこうなれば宿場の中心地本陣跡は近いだろう。だが待てよ、泉の一里塚から石部宿までGPSでは10kmは歩いている。なのに一里塚は見当たらなかった。見落としたのだろうか、それとも一里塚の標識は無かったのか。だから嫌になるのだ。(大沙川と由良谷川の間の夏目の一里塚を見落としていた)

 「いしべ宿驛」の看板の掛かった所のベンチで一休み。石部の読みが「いしべ」なのか「せきべ」なのか分からなかったがこれではっきりした。この前の水口も「みなぐち」「みずくち」か不明だったが、こちらは「みなくち」」と読むらしい。そうそうもう一つ「甲賀」「KOKA」でした。

今2時40分だから歩き始めて3時間30分経っているので腹も減りだした。
今日は歩行時間が長く取れないので電車の中で握り飯を食べ、少しでも歩く時間を増やすようにした。事前にたてた計画では石部宿に2時30分に着いて50分には出発することになっている。10分ほど遅れているが休憩を短くすれば予定通りになる。時間も無いのでバナナを1本食べて出発しよう。

  
  石部宿の高札場跡                       いしべ宿驛


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 昨日(19日)藤沢から小田原を歩いてきました。

東海道53次 横田の渡し

2012-03-18 15:06:14 | ウォーキング
場   所:滋賀県甲賀市・湖南市・栗東市・草津市
歩行月日:2012/03/13
歩行データ: コースタイム
 水口石橋駅-0:25-水口石橋駅-3:00-石部宿-2:30-草津宿-0:10-草津駅

 歩行時間:5時間20分 休憩時間:1時間00分 延時間:6時間20分
 出発時間:11時10分  到着時間:17時30分
 歩数:36,220歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:28.0km (GPS距離 30.1km)

水口石橋駅~石部宿
 水口石橋-0:25-水口石橋-0:17-林口の一里塚-0:38-泉の一里塚-0:03-横田の渡し


            
             水口石橋駅(倉庫のようだった)

 水口石橋駅を降りると雪だった。
四日市あたりから時折風花が舞っていて柘植付近では近くの山の木に雪が被さっている。民家の屋根や道路脇にも白く見えていた。
それが水口で電車を降りた途端に、横殴りの冷たい風に煽られた雪が顔にあたる。
今日は既に3月中旬で雪の心配などこれっぽちも考えていなかった。だがここは滋賀県の山の中、雪が降っても当然なのか。
しかし今降っている雪は少しおかしい。粉雪のように細かく小さくなく、牡丹雪のように固まってはいない。大きな雪は何かから剥がされたように薄っぺらで軽そうで、小さな雪も乾いていて降るというより舞う感じがする。
若しかしてこれは雪が降っているのではなく風花が舞っている? 暖地に住む私には判断できなかった。

 水口宿は本陣跡から京側の道が三筋に分かれていて、この水口石橋駅付近で三筋の道は再び一つになり西に向かっている。
前回は真ん中を通る中の道を歩いたので、今日は南の道と北の道を歩く事にしている。
だが前回歩いた中の道もそうだったが、南も北の道にも余り興味を引くものは無く、三筋の道が一本になった所にあるカラクリ時計が目を引いたくらいの物だった。

 そんな中で感心したのは町内ごとに設置されている祠と常夜灯だ。他でも見てきた道端にポツンと設置していあるのではなく、石垣や鎖などで囲いをして祀ってあった。

  
  水口宿カラクリ時計                               水口宿北の道

 ここにも「力石」があった。確か桑名と四日市の間の力石は、その石で力比べをしたあったが、ここの力石の説明にはそんな事は書いて無く「江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳の錦絵の題にもとっている」とあっただけだった。
持ち上げて力比べをしない石が、なぜ力石なのだろうか?

 今日最初の一里塚で日本橋から112里目の「林口の一里塚」は神社の角にあった。このように簡単に見つける事が出来ると楽なのだが、そうばかりではないのが残念だ。今日の歩きの概算距離は26km程度で、計算上は6ヶ所の一里塚を尋ねることになるが果たしてどうだろう。東海道に力を入れている町ばかりではないので見られるのは4個程度だろうか。

  
  力石                                      林口一里塚

 一里塚を過ぎ西見付跡の交差点を曲がると道は直線になり、真っ直ぐ西に伸びている分かりやすい道だ。松並木も見えてきた。と言っても片側だけのまだ若い松だったが、その松並木入口に案内板があり
「東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道の事で、東海道の整備に伴い曲がりくねっていた道を、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる」と説明してあった。
畷はここまで来るうちに袋井の木原畷、浜松と宮の八丁畷があったが、ここの「なわて」の表示は「縄手」になっている。どう違うんだろう? 
それと畷とは「田の中の真っ直ぐな道」と辞書には合ったが、ここの説明では「田の中の道」と説明している。では縄手は真っ直ぐでなくてもいのか? だが説明の終わりには「見通しの良い道路としたことにちなむと」と書いてある。という事は縄手も「田の中の真っ直ぐな道」なのだろう。

 いつの間にか雪は止んで、時折青空になるが冷たい風は相変わらずだ。だがすぐ空一面が雪雲で覆われたりするのおかしな天気が続く。今日の天気予報は晴で降水確率も20%と低かったのに全くあてにはならない。だが思い出した。そう、昨日TVで見た天気予報は大阪の予報で滋賀県の予報ではなかった。静岡か見ると滋賀も大阪も近畿地方だが、雪の多い滋賀県と暖かい大阪では天気予報も当然違うだろう。マアーそれでも曇っても雨さえ降らなければいいが。
日本橋から113里目の「泉の一里塚」に到着。


  
  北脇縄手                                   泉の一里塚

泉の一里塚は何の変哲もない一里塚だったが、その横にあった墓地が一風変わっていた。まず写真を見てください。

  
  砂を盛り上げただけの墓                            細長い盛土の墓

 墓ごとの区切りは無く墓穴を掘って出た砂を盛り上げただけの素朴な墓で、死体に合わせたような細長い墓が多かった。
中には丸く盛土をした上に墓石を建てた墓もあるが、あれで墓石は倒れないのだろうか心配になる。墓の周りの土は土と言うより砂で、それも白い色の砂だ。綺麗に掃かれた砂は箒の目まで入っている。この砂は他所から運んだ物なのか、それともここの砂なのか分からなかった。
小さな墓地なのに無縁仏の数は多い。それも整然と並べられていいて、これだけ見れば大きな墓地のようにも感じる。狭い墓地なので新しく墓石を建てる時には古くなった墓石を撤去してここに並べるのだろうか。何とも疑問の多い墓地だった。

   
  丸い盛土の墓                                無縁仏

 一里塚を過ぎると正面に鏑木門が見えてきた。その横には大きな常夜灯も見える。どうやら野洲川を渡る「横田の渡し」のようだ。案内板によると横田の渡しとは「東海道十三渡しの一つで、三月がら九月の間は四艘の船による船渡しとし、十月がら翌二月までは土橋架けて通行していた」とある。
東海道十三渡しとは何だ?初めて聞く言葉だ。調べてみたがヒットしたのはこの横田の渡ししかない。小田原からここまで歩いてきて渡しがあったのは興津の興津川、見付の天竜川、新居の今切の渡し、宮の七里の渡し程度しか覚えていない。他にもあったのだろうか?
それと「土橋」の表現も以前から気になっていた。少し前に藤枝の花沢城址に行ったとき、土橋とは痩せ尾根のような状態で水の抜ける穴は無かった。しかし山城の土橋は空堀と空堀の間なので水は無く問題ないが、普通の川は水抜けを作らず土で固めたらダムになってしまう。で調べてみると「土橋とは、一般には木の橋の一種で、丸太を隙間なく並べた橋面では歩きにくいので、橋面の上に土をかけてならした橋である。城における土橋はこれと異なり、堀を横断する通路として設けられる土の堤である」だそうです。街道歩きをすると物知りになるな。

 ここの常夜灯は高さは10mもある立派なもので東海道で一番大きいとの事だ。ならば鈴鹿峠にあった「万人講常夜灯」より大きいのだろう。造りはここの常夜灯は石材をきちんと切断加工研磨してあるが、鈴鹿峠の常夜灯は自然石を利用した雰囲気だった。

 渡しの無い現在、この野洲川を渡るには1kほど下流にある国道1号線の横田橋を渡るようになっている。その横田橋を渡り三雲駅前に出ると、西側にも渡し跡に常夜灯が建っていると案内があった。時間も気になるが行って見る事に。
三雲駅から上流に向かって歩き出すとすぐ渡しの常夜灯が建っていた。すぐあった事は嬉しいがこれでは先ほど見た東側の常夜灯から900mは下流になる。西に来る船は楽で良いが東に向かう船は上流に向かって漕がなければならない。何かこうする理由でもあったのだろうか?その辺の説明は無かった。

  
  横田の渡し(東岸)                           横田の渡し(西岸)

東海道再開

2012-03-16 10:41:03 | ウォーキング
去年歩き始めた東海道は小田原宿から水口宿までが終わっているが、前(日本橋~小田原)と後ろ(水口~京)が残された状態になっている。
最後に歩いた11回目の関宿~水口宿が9月10日で、あれから半年経ってしまっている。おかげで東海道の街道歩きの熱が冷めてしまい中々旅立つ気にはならない。
そこで「江戸の街道を辿る」を購入して、街道熱を再度起こすべく読んでいるのだが---------
それなら最後の手段と売り出された春の青春18切符を購入。これならケチな私ゆえ嫌でも歩き始めるだろう。

残っている日程をみると
日本橋・品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原 82km
水口・石部・草津・大津・京 52km     となっている。

日本橋から小田原まで82kmなら早朝出発できれば2回で完歩できる距離だ。
問題は電車の時間だが調べてみると鈍行列車利用で東京駅に一番早く到着するのは9時21分だった。これではとても明るいうちに40km歩くのは無理だろう。
ならば走っているのかいないのかはっきりしない、夜行のムーンライト長良をJR東海のHPで調べてみると、春の臨時列車は3/24から4/1までの運行期間で全席座席指定だという事が分かった。(ヤフーの路線や駅から時刻表などのサイトには未記載)
そこで青春18切符を購入するとき、駅で予約状況を確認すると「土日は満席で、平日も近くなると満席の可能性がある」との事だった。それならと3/26の座席指定(¥510)を購入した。

ムーンライト長良は東京駅に5:05に到着するが、その日の日の出時間は5:38とか。日本橋周辺は見所も多く写真も写したいので歩き始めは6:00頃になるだろう。そして40km先の宿場は戸塚で42km、藤沢で49km。そのどちらかまでは行きたい。
だが次の行程が戸塚~小田原になると40kmほど歩かなければならない。戸塚への一番列車は8:42着。それから歩き出し明るいうちに小田原に着けるかどうか、それに小田原では城も見学したい気もある。
それなら日本橋からは藤沢までの49mを歩き、残りを33kにする。これなら明るいうちに小田原に着き、お城も見る事が出来る。

京都側は余り悩まなかった。ともかく出発は滋賀県の水口宿にある近江鉄道の水口石橋駅なので、その駅に一番早く着く電車で行くしかない。でも乗るのが鈍行列車のみなので到着時間は必然的に遅くなり、水口石橋駅の到着時間は11:08だった。

水口~京間は52kmで2回で歩くしかないが、水口を11:10分に出て明るいうちに着くには25k前後か。そうなると草津宿までが26kmで、次の京までは27kmになり丁度良い距離になる。だが最後の京は街の中を歩きたいので、少しでも早く三条大橋に到着したい。
となると水口~草津間は草津で終わらず、さらに足を延ばしてJRの駅が街道近くにある南草津か瀬田まで頑張れる所まで頑張ればよい。
こうして東海道の再開計画は決まった。

歩く順序は京の三条大橋を最後にしたいが、ムーンライト長良の予約は26日と少々遅い。そうなると京都方面は青春18切符の利用者が増えて電車で座れない恐れがある。ならば順序は関係なく気が向いた時に歩く事にしよう。と歩き始めた。

3月13日(火) 水口 - 石部 - 草津
を歩いてきました。詳細は後日紹介します。

そして今日16日に 藤沢 - 平塚 - 大磯 - 小田原 を歩く予定でした。
ところが朝4時起床の予定が目が覚めたのは5時半。これではどうしょうもなく諦めるしかありません。
仕方ないので奥様孝行で河津桜を見て日帰り温泉にでも行って来ようかと思っています。

静焼アルプス・まとめ

2012-03-15 09:49:09 | 低山歩き
静焼アルプスの歩行データを他のコースと比較してみました。

★浜名湖一周(全て平地でゆっくり歩いた)
 ・延時間10:40 歩行時間8:50 歩行数66,500歩 GPS距離53.4km

★海から富士山(海岸から十里木までは長い車道)
 田子の浦海岸~富士宮6合目
 ・延時間13:10 歩行時間10:30 歩数41,000歩 GPS距離30.9km

 富士宮6合目~剣ヶ峰~富士宮5合目
 ・延時間12:20 歩行時間07:00 歩数20,000歩 GPS距離9.3km

★静焼アルプス
 ・延時間12:00 歩行時間10:10 歩数45,400歩 GPS距離24.8km


★大崩十字縦走(宇津ノ谷集落から安倍川駅まで長い車道)
 ・延時間11:40 歩行時間10:40 歩数43,700歩 GPS距離28.2km

★富士眺望トレイイン
 籠坂峠~駿河小山駅
 ・延時間08:00 歩行時間07:10 歩数38,400歩 GPS距離26.9km

 駿河小山駅~金時山~裾野駅(湖尻峠から裾野駅まで長い下りの車道))
 ・延時間08:15 歩行時間07:10 歩数38,200歩 GPS距離26.7km

 裾野駅~箱根峠~三島駅(裾野駅~湖尻まで長い登りの車道。箱根峠~三島まで長い下りの車道)
 ・延時間09:20 歩行時間08:00 歩数43,600歩 GPS距離31.0km

★伊豆3山
 ・延時間05:40 歩行時間04:40 歩数20,900歩 GPS距離12.8km

★沼津アルプス
 ・延時間06:15 歩行時間05:10 歩数21,000歩 GPS距離12.7km

このように比較すると一目瞭然で沼津アルププスと伊豆3山の歩行時間と歩数が少ないのが分かる。
だが、だからと言ってそのコースが楽な事は決してない。葛城山(3山)や横山(沼津)の急な登りの時はギブアップ寸前だし
歩き終わればホッとして足腰が痛くなってくる。
このように全てのコースで歩いている時は辛く感じているのが現実です。でも歩けてしまうのですよね。不思議と

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