はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河一国33ヶ所巡り4-3

2010-01-30 16:50:52 | 寺社遍路
川沿いの農道を進むと時期に民家は無くなり坂道になる。管理人の人が心配するような雰囲気はなく、何所にでもあるような農道が続いていた。
30分も歩くと前方に大きな石碑がある。何だろうと見るとこの農道(林道?)の開通記念の石碑だった。例により地元の国会議員が揮毫した文字を深々と彫ってあり、何のために、何の必要があってこんな大きな記念碑が必要なのか疑問を感じてしまう代物だった。

 こうして山間部に来ると農道を歩く事が多くなる。初日の清水山や千葉山の農道、3日目の高草山、そして今日も3回目の農道を歩いている。今ではこの農道が無ければ低山歩きなど出来なくなってしまっているだろう。しかしこの道はなにも山歩き用の道ではなく、作業用の道のはずなのに農作業用の車に合うことは少ない。今日も農道を歩いていて1台も車に合っていない。確かに今は農閑期だから仕方ない面もあるが農繁期でも作業車に合う事は少ない。だいたい農道横にある茶畑が放置され荒れ放題になっている所も、いたる所で目にする。

 何故こんな農道が出来たのか、それは地元の農家が山の畑への行き来や収穫物の搬出が大変なので、農協等を通じて地元の国会議員に農道建設を陳情したのだろう。国会議員は名前を売るいい機会とばかりに役所に圧力をかける。役所は農道の利用価値など録に調査もせず農道を作り代議士先生に恩を売る。こんなパターンであちこちに利用度の低い農道が出来てしまったのだろう。

 ただチョット疑問なのは高速道路など受益者負担の法則にのっとり通行料を支払っている。では農道は利益を受ける農家は通行料を支払うのか-----そんな事は聞いた事は無い。
民主党に政権が移り費用対効果が言われている今なら、この様な農道は議論の端にも上らないだろう。
常にお世話になっている農道なのに、余りの場違いで立派な記念碑を見て反骨心が湧いてしまった。

          
                慈悲尾農道から

 記念碑の先は切通しなっていて、いよいよ安倍川の流域の谷に入る。
また農道の事で申し訳ないが、建穂側に比べ交通量が更に少ないのか舗装の上に土が溜まり雑草が生えている状態だ。それも暫くで遂に舗装は終わりガタガタ道になってしまった。
そう言えば、さっきの記念碑に「慈悲尾農道」となっていたが、慈悲尾とはこれから行くなので、この農道は建穂から慈悲尾に行くのが主の農道というか、建穂から峠まで道が欲しかった建穂の住民の主動で作ったのかもしれないなどと考えながら歩いた。

 農道が一般道に出会い無意識のまま下り方向に道をとり、暫く下ると神社があった。神社の名前が「椎乃尾神社」とある。アレここの地名は慈悲尾と書いてシイノオと読ませる変わった地名のはずなのに神社は椎乃尾となっている。どちらが元の字なのだろう。
私の考えは服織や建穂と同じように慈悲尾も帰化人が命名したものだ思っていた。それがこの神社は日本流の椎の尾となっている。分からなくなってしまった。

 椎乃尾神社を地図で確認して驚いた。さっき農道の出口を無意識に道を下ってしまったが増善寺はもっと上だった。慌てて引き返したが椎乃尾神社に気がついて良かった。

           
                 増善寺

 増善寺は大寺だった。ただ本堂は建て替えられていてコンクリート製の趣が無い建物になっている。
この増善寺は今川家時代は今川家の官寺で大伽藍のある大寺だったとか。そんな雰囲気を今でも漂わせている所もある。
墓地の上に小さなお堂があった。行って見ると「今川家霊廟」と書かれている。更にお墓の中には苔むしたと言うより、更に古く苔が白く枯れているようなお墓が何基もある。確かに由緒ありそうなお寺だ。

 本堂にお参りして気づいたことがある。本堂に掲げれた寺名が「慈悲(ジヒ)山 増善寺」になっているが、私の手元の資料では「慈悲尾(シイノオ)山」になっている。これは明らかに資料の間違えだが、若しこの地が慈悲なら尾の着いた慈悲尾はここより離れた場所を指すのではないのか。だがジヒが何故シイに変わったのか?
足は忙しい遍路でも頭は暇なので、妄想はあっちこっちに飛交ってしまい纏まりが付かなくなってしまった。
分かっている人がいたら教えてください。

          
                増善寺の古い墓

 ご朱印を受けに入った所に中国の寒山寺のあの有名な「鳥が啼き----」の拓本を飾ってある。もしやこの寺の開組は中国の人かと聞いてみると
「檀家の人に頂いたので飾ってあります」だって。ガッカリ。

 今日はここ増善寺から静岡市街に戻り清水寺を打って終わる予定だが、実はこの寺のもっと奥に17番法名寺がある。ここ増善寺から約10k、静岡の市街から約15kの足久保にある法名寺は遠すぎるため次回に回したのだが、まだ時間は1時前、チョット未練が出てきた。そこでまた聞いてしまった。
「今日は安倍川駅から3回山越えをしてきたけど、次の法名寺に行く山越えの道はありますか」建穂寺で要らぬ心配をかけてしまったので健脚であると匂わせて聞いてみた
「アラー建穂から山越えで来たのですか。それは大変でしたね。道が悪いと聞いていたけどどうでした?」と先に行く道でなく逆に前の道の事を聞いてきた。
「建穂から峠まではしっかりした農道で、峠からここ慈悲尾までは舗装はされていないけど太い農道で間違える心配はありませんでした」
「エー!建穂まで農道が繋がっているの? 知らなかったなぁー」と吃驚していたが、こっちも驚いた。慈悲尾農道の出口にあるお寺の人が、その農道の存在を知らないなんて----
やはりあの農道は建穂の農家の主張で作ったのだと再認識した。
ところでこの先の山越えの道はと確認すると
「観音堂の前から元の観音堂の横を通っていくと峠に出るから、それを下れば西ヶ谷の運動場に出る。あとは足久保に向かって県道を歩けば行けますよ。ここを下って安倍川を回るより大分近くなりますよ」と教えてくれた。

 私の計算ではここから法名寺まで10kで2時間位と踏んでいた。それが山越えの近道をしても9k位にはなるが時間は余り変わらないだろう。となると今は1時。法名寺には3時過ぎには着く、そこでお参りをして3時半に出発して静岡駅までの15kを3時間で歩くとして6時半前後には駅には着きそうだ。どうしよう。
いまここで静岡に戻ると、また同じ道を歩かなければならなくなる。ここで頑張れば約一日弱の日程を縮る事ができる。しかも今なら山越えの道を歩く事ができる。サーどうしよう。足は今は大丈夫だ。

 一見思案しているようだが山道の事を聞いた時点で心の底は決まっていた。
山越えの道があるなら歩くほかはない。と意を決して観音堂の前を出発した。

 観音堂の前でサーどう行こう?
先ずはお堂の横を通りお墓の中を進んでみる、お墓の先に道は無かった。失敗!
次はお堂の前を通ってお墓の中に。アレーこの道は今川家の霊廟に続く道だ。また失敗!
さてと観音堂に戻り辺りを見るが、もう道はない。初めに道を間違えたらとんでもない所に行ってしまいそうなので、仕方なくお寺に戻り聞き返す。
今度はお寺の人がついて来てくれて道を教えてくれた。
そこはお堂の前と言うより本堂の後ろと言ったほうが良いような微妙な場所だった。

 サー今度こそ出発だ。時間は1時10分。

駿河一国33ヶ所巡り4-3

2010-01-29 17:10:42 | 寺社遍路
14番耕雲寺の辺りは牧ヶ谷と言って昔の馬の牧場があった所らしい。三方を山に囲まれて出口を閉めればそのまま牧場になったのかもしれない。
冷たい風は山の上を通り過ぎ、ここまでは降りてこない。陽の当たった境内はポカポカしてのんびりした気分になってくる。
 耕雲寺の裏山には、かってこの地域で盛んだった養蚕機織にかかわる豪族の古墳が幾つか発見されている。それと言うのも、この先の藁科川の対岸は「服織(ハトリ)」と言う地名だ。更に先には「麻機(アサバタ)」と言う地名もある。万葉時代に朝鮮半島から来た技術集団は、ここ駿河に根を下ろし蚕の養殖や機織に明け暮れたのだろう。
しかしその名残は今の静岡市には無いようだ。

          
               耕雲寺

 耕雲寺のご朱印は別紙に書かれたものだった。それはいいが日付も入っていない。無住の寺の持ち回りの人でも日付が入っていない事に恐縮していたのに、ここでは当たり前のように手渡す。
オット、イライラしてはいけない。何のための遍路旅か。
あとで考え四国の札所は何所も日付が入っていない事を思い出した。日付は無くて当然。入っていれば特をしたと考える事にしよう。
ご朱印を受け境内に立って前方を見ると観昌院で見たと同じ形の山が正面に見える。若しかしてと地図を見ると間違いなく観昌院の裏山だ。とすると観昌院と耕雲寺は裏山を挟んで直線上にある事になる。これに何か意味があるのだろうか? あの山の頂に奥の院があったとか、由緒ある仏像を埋めてあるとか----- 誇大妄想が始まってしまった。

 藁科川の堤防に立つと木枯しの森が目の前にある。
木枯しの森は藁科川の中州にある川中島で古今和歌六帖には
「人知れぬ おもひするがの国にこそ 身はこがらしの森は ありけれ」と謳われている。
また清少納言の枕草子には
「森は うへ木の森、石田の森、木枯の森・・・」と書かれている。

          
               木枯しの森

 受け売りはこのくらいにして----- 
実際の木枯しの森は、ただの中洲にある小島に過ぎない。万葉人が何故こんな小島に風流を感じたのか皆目検討がつかない。川を覗きこむと森の左右には水の流れがある。これでは足を濡らさなければ森には行けない。ホッとして次の建穂寺にと進む。

 電信柱にある地名が「羽鳥」になっている。私の知識では「服織(ハトリ)」のはずなのに。地図を見てみると確かに地名は羽鳥だ。しかし中学校や小学校は服織だ。郵便局も服織だ。何故だろう服織ではハトリと読みにくいので羽鳥に変えた? そんな馬鹿な 幾らなんでもそんな事は無いだろう。よし次の建穂寺で聞いてみよう。

 「はとり」と何回か書いていて気がついた事がある。ハトリに「ッ」を入れれば「ハットリ(服部)」になる。服部は古代機織りをしていた職業の名前だと聞いた事がある。
今まで服部を何故ハットリと読むのか分からなかったが、これで分かった。
昔服織りのことをハトリと言っていた頃、職業別の「部」に分類する必要が出てきた。そこで漢字は「服部」と書き、読みは従来どうり「ハトリ」とした。それがいつしか訛って「ハットリ」になったのではないだろうか。当たり!!だと思う-----
更に言えば朝鮮ではその当時、服を織る事を「ハトリ」と言っていたのではないだろうか。朝鮮語の分からない私には何とも言えないが 若しかして と考えたくなってきた。

 電柱の地名が「建穂」になってきた。建穂と書いて何と読むと思いますか? きっと読める人は少ないと思う。これで「タキョウ」と読むそうだ。この地名も何となく帰化人が付けたといえば、そんな風にも感じる名前ですね。
建穂寺(タキョウジ)は江戸時代までは21の塔頭をもつ駿府有数の大寺だったが、明治の廃仏毀釈と明治3年の火事により全てが消失したと言う。
現在の建穂寺は小さな観音堂だけの無住の寺になっている。観音堂の中には火事から焼け残った仏像が所狭しと置かれていた。

          
                建穂寺

 無住のため管理している家に行かなければならない。張り紙はあるが名前と電話番号が書いてあるだけで地図は無い。さてっと、何所へ行こう と思案しながら境内に立っていると、「管理人は そこの家だよ」と犬と散歩中の老人が寺の斜め前の家を指してくれた。ラッキー! 今日最初の幸運だ。これで今日の不運は終わりだろう。

 管理人と一緒にお堂の中に入る。少しかび臭い臭いがしたが、それより仏像の多さに驚いた。飾ってあると言うのでなく、置いてある状態だ。どの仏像も彩色が取れ白っぽく変色している物が多い。文化財の指定は?とあたりを見回すが何も書いてない。境内の入口に立っていた看板にも書いてなかった。火事で損傷している為に指定を受けれないのか。
仏像音痴の私には千葉山のご開帳の仏像も、ここの林立している仏像もどちらもありがたく見えた。

          
               建穂寺の仏像

 管理人が「若し宜しかったら署名してください」とノート差し出した。
見ると参詣者の住所氏名が書いてある。今年に入って何人来ているのだろうと数えてみると私は9組目だった。この人達は歩きだったかどうか聞いてみたが分からないと言う。
この様に記帳するのは嬉しい。次回来たとき自分の署名を見つければ懐かしく感じるだろう。
そういえば四国の1番でも記帳があったのに私は知らずに歩き出してしまった。お礼参りで1番に戻ったとき、それを知って非常に残念な思いをしたことがあった。

 次の16番増善寺は、また山の向こうになる。地図では尾根の途中までしか道は延びていない。だが昔の遍路が平坦な道を遠回りしたとは考えずらい。そこで管理の人に聞いてみた。
「道はあるにはあるが安倍川まで戻ったほうが無難ですよ」と言う。
「あるにはある」と聞いてもう私の心は決まってしまった。
「その道は前の川伝いに行くのですか?」
「マーそうだが、道が荒れているかも知れないし--」何となく歯切れが悪く行かせたくないようだ。きっと私の白髪頭と皺くちゃの顔を見て「老人が一人で」と不安がっているのだろ。
「ともかく行ってみます」
「そうかね、それじゃー気をつけて」

サー今日3度目の山越えの開始だ。
そんな事で地名の羽鳥と服織の関係を聞くのを忘れてしまった。


駿河一国33ヶ所巡り4-2

2010-01-28 23:13:07 | 寺社遍路
 吐月峰紫屋寺の裏手に13番観昌院の観音堂がある。さらに道を登ると、とろろ汁で有名な待月楼の前に観昌院はあった。
待月楼には昔きた事があるが、その前にお寺があったことなど覚えていない。当時はそんな事に興味を覚えなかったのだろう。いや今だってそうだ。こうして歩いていても札所のお寺にはお参りするが、それ以外のお寺は無視の状態だ。スタンプラリーのポイント箇所しか寄らないのと同じで、昔と何も変わりはなく進歩をしていない証拠だろう。

              
                 観昌院

 観昌院の裏山は茶碗にご飯をよそったような山だったので、それを写真に撮っていて、アレー手袋が無い。慌てて付近を捜すが見当たらない。いつ落としたのだろう?紫屋寺? 丁子屋? それとも梅園? 分からない。歩いているとき手袋をしていたかどうかも分からない。それでは探しようも無い。諦めるしかないのか!
まさしく今日は三隣亡だ。この後なにが起きるのか心配になってきた。
(手袋をなくした事は妻には内緒にしよう。なにせ買ったばかりなのだから)

 観昌院の次のお寺はこの裏山の向こうになる。直線にすれば僅か2k程度だが、安倍川に戻って再度登りなおすと7kはありそうだ。地図を見ると観昌院の横から農道が尾根の下まで延びている。山の向こうも農道は尾根までは延びていない。
ただ気になったのは尾根に「観昌院坂」と書いてあることだ。若しかしてこの坂は昔の遍路道の名残ではないのだろうか。どうしても期待を抱いてしまう。
ご朱印を受けるとき聞いてみた。
「耕雲寺に行きたいのですが山越えは出来ますか?」
「はい出来ますよ。最近は誰か知らないけど道を整備してくれるので歩きやすいですよ」
といとも簡単に答えてくれた。心配する事は無かったのだ。
「最初は農道を行きますか、それとも山道を行きますか?」と聞いてきた。勿論山道を希望すると
「山道はお墓の中の道を行って山道に入ってください。農道に出たら立札が立ってます」と教えてくれた。これで4kは短くなるだろう。

 お墓を越えて入った山道は特に整備してあるとは思えないが道は分かるし、立派な標識も立っていた。思ったより簡単に農道に出ると、その正面には登った跡もあるし道も続いているようだ。農道脇の放置されたミカンがあったので早速失敬し頂く事に。形はは小さく器量が悪いが食べてみると中々美味しかった。
それではと農道を乗り越え山道に入ると、道の脇にはモノレールの線路が走っている。その横を10mも行かないうちに前方は草や小さな木が道に覆いかぶさっていて、とても前にはいけそうも無い。
ウヘー!今度は四隣亡かとガックリしてしまった。
しかし待てよ。確かお寺では「道は整備されていて立札もある」と言っていた。それではこの道ではないのではないか。慌てて農道まで引き返した。農道の前方を見ると、直ぐそこで農道は終わっている。ではと振り返ると、あるある立札が。
ミカンに気を取られて、辺りをしっかり見回さなっかたのだろう、一目で立札が分かった。

          
               観昌院坂(峠)

 確かに道は整備され、うるさいくらい(ご免なさい)立札もある。お寺で「誰か分からない」と言っていたが、偽木など無く確かに自治体が整備したようには見えない。
峠は十字路になっていて東はさっきお参りした徳願寺。西は駿河一国の3回目に行った谷川山梅林寺の方向に向かうようだ。北はこれから行く耕雲寺のある牧ヶ谷を示している。
峠を下りだすと急な下り坂になったが、いたる所にロープが設置してあり子供でも不安はなさそうだ。
ただ気になるのは、この道を整備した人は、このルートを「木枯し街道」と呼んでいることだ。確かにこの先にある藁科川の中洲には、万葉時代から名所とされている木枯しの森がある。だからと言って昔の人がこの道を木枯し街道と呼んだのだろうか?
そんな事は無いはずだ。この道は「観昌院坂」と言われていたように、主に駿河一国の遍路の歩いた道だったと思う。

 山道が農道に変わる所に立札が立っていて、こんな事が書いてあった。
「新風土気記や古事記に見られる「倭建命(日本武尊)の東征」で歌われ------全ての旅人はこの道を歩き木枯しの森の河原を渡った事は本当である」と。
木枯しの森のことは次回紹介するが、日本武尊や全ての旅人がこの道を歩いたとはとても承服できない。
なぜなら前回歩いた最古の東海道と言われる日本坂峠を越し井尻峠を越して出てきた場所はからは、平坦な道を2kも歩けば安倍川でその先には府中の町がある。
それなのに、この道を通る為には山の中に3k以上さかのぼり、それから峠を越え、更に何kも歩かなければ府中には着かない。確かに一部風流な者が木枯しの森に行きたくて歩く事はあっただろうが、目的のある一般の旅人が歩いたとはとても思えない。
矢張りこの道は駿河一国の遍路道で一部の数寄者が歩いた道と考えたるほうが自然だと思うが。
なんかムキになってしまったが、この立札だけでなく駿河一国巡りを紹介した本にも「東海道の間道」と紹介してあった。だが実際にこうして歩いてみると更に疑問は膨れ上がってしまった。

 耕雲寺が左手の山裾に見えてきた。寺の前は開けていて木が無く明い感じのお寺だ。

           
                  耕雲寺

駿河一国33ヶ所巡り4-1

2010-01-27 23:06:52 | 寺社遍路
 4回目の駿河一国33ヶ所巡り4回目(1月26日)

安倍川駅-2.9k45分-12徳願寺-3.9k48-13観昌院-3.4k50-14耕雲寺-3.1k40-15建穂寺-4.4k155-16増善寺-10.6k2:12-17法名寺-13.9k2:40-静岡駅

   歩行距離42.2k 歩行時間8時間50分 総時間11時間20分

 4回目の遍路は旧静岡市の西部方面の山間部巡りになった。ここのコースは札所と札所の間に山が立ちふさがっているため、その山を避けるには一度安倍川まで戻り、再度次の札所まで逆登らなければならない。おかげで距離ばかり延びてしまう、きついコース設定を組まなければならなかった。
そのため予定では16番増善寺を打ったあと、一度静岡市内に戻り、市街地にある清水寺を打って終わる予定にして、一番山奥の法明寺は次回に回す予定にしていた。
しかし車道を歩くより山道の峠越えの方がはるかに気持ちよく歩きやすい。しかも距離も短くなりそうだ。それで地図に載っていなくても現地で聞けば山越えの道があるかもしれないと淡い期待をもっての出発になった。

 午前7時5分、安倍川駅を出発。今日は天気は良いが強風注意報がでていて冷たい風が手を凍えさせる。自然急ぎ足になり前回の道を丸子まで戻る。
今日最初のお寺の12番徳願寺は安倍川の横の山の中腹にある寺で、結構名が知られているお寺でもある。地図で見ると農道らしき道が2本寺まで続いている。そのうち寺の正面に直接延びている道を登る事にした。
国道1号線を横断すると道は急に狭くなったが、その割りに交通量が多く歩きにくい道になった。山へ登るのだから山裾の道でも良いが参道の入口を見落とすといけないと思い、狭い道を車を避けながら進んだ。
簡易信号?細長い信号に「交差車両接近」と出ている。その下の塀に違う寺の案内がある。先ほどから山の中腹に石仏らしき物が見え隠れしているのでチョット心配になってきた。人に聞こうと思うのだが車は多いが通行人は少ない。信号の下で待っていたが誰も来ないので左に曲ってみる事に。すると少し行った所に徳願寺の案内が。アー良かった。
この道は正しく徳願寺の表参道で丁目石もある。今日は感が冴えていると満足して歩いていると視界の開けた場所についた。先日井尻峠から見た時と同じ前景をもった富士山がデンと聳えている。眼下には安倍川が間近に見える。その景色を写真に撮り終わると、デジカメに赤い表示が。エッ!電池が無い!しまった。前回は表示が出てなかったので充電してこなかったのが原因だ。今日は無駄な写真は撮らないようにしないといけない。それにしてもついていない。

          
               徳願寺からの富士山

 徳願寺の謂れを読むと、この寺には今川家七代の今川氏親の生母、北川殿(北条早雲の妹)と関係があると書いてある。北条早雲といえば前回歩いた「やきつべの道」にあった花沢城は今川の客将、北条早雲が住んでいたと書いてあった。なるほど北条早雲は妹の引きで素浪人の伊勢新九郎が今川の客将になれたのだ。
今まで回った寺は、何所も今川か徳川に関係あり、看板を読んでも、こんがらがって皆忘れてしまう。今回のように、すでに知っていた人物の事となると興味を覚えて忘れないで済むのかもしれない。

 お参りもすみご朱印をもらうべくチャイムを押す。一度、二度、三度。応答が無い。耳を澄ますが何も聞こえてこない。裏に回って様子を見ると車が2台置いてある。離れの新しい建物には人の気配がするような、しないような。でもこちらにはチャイムがない。今時間は丁度8時、寝ている時間ではないと思うが遠慮して、また庫裏に戻る。再度チャイムを押すが応答はなかった。
ついていない。無住の寺ならともかく有名な徳願寺でご朱印をもらえないなんて、今日は厄日で三隣亡かもしれないな。気をつけないと。

 徳願寺から次の丸子にある13番観昌院に行くには登ってきた参道を下らず、農道伝いに尾根を歩いて分岐を西に下りると丸子に行く事ができる。この農道は手持ちの地図にも載っているので不安はない。少し行くと案の定、西側の集落に下りる道の分岐がでてきた。

 農道が国道1号線に出て国1を西に向かう。旧東海道は50mほど南側に走っているが今は国1を歩く。いつか東海道を歩く時のため残しておきたい気持ちが強く、それに観昌院から次の寺に山越えが出来なければ、そのとき東海道を歩こうと決めていた。

 山の中腹が花で白く見える。丸子梅園だろう。丸子梅園は開園は古くないが梅の品種が多い事で知られている梅園だ。しかし何故梅園は入場料を取るのだろう。他県のことは知らないが静岡県の梅園は入場料を取るところが多い。1年の一時期のために1年世話をするのだから入場料は当然とっても当然だが、では何故桜は無料か。桜とて世話をするのは同じだと思うが。桜は公有地、梅は私有地に多いせいなのか?

          
                丸子梅園

 丸子梅園と国1を隔てた側にとろろ汁で有名な丁子屋がある。店先の写真を撮ろうとわざわざ国1を横断する。芭蕉の詠んだ「梅若菜 鞠子の宿の とろろ汁」で有名になった丁子屋は店構えを江戸時代の茶店風にして更に評判を取っている店だ。
個人的に言えば自然薯のとろろ汁は大好きだが、少々高すぎる。本来田舎の素朴な食べ物が高級料理とは言わないが高い金を取るようになってしまった。
そうそう今、自然薯と書いたが、この山芋、今では全て栽培した物で自然薯とは名乗るのは片腹痛い。

          
                 丁子屋
 
 国1と別れ、道を吐月峰紫屋寺の方角に進む。この道は以前は紫屋寺ととろろ汁の待月楼しかなかった道だが歩いて驚いた。駿府匠宿とかいうイベント施設から食堂、料理屋、ラブホテルが何軒もある。素朴な田舎道が一大変化だが余り繁盛しているようには見えなかった。

 ところで「吐月峰」て知ってます? これは知る人ぞ知る有名品でキセル煙草の当時の「灰吹き」だったそうです。
灰吹き?簡単に言うとキセルに残った煙草の吸殻をキセルの雁首を竹筒に叩いて捨てる言わば灰皿だったようです。
その竹筒に吐月峰と名前を付けて売り出し、日本中にその名を知らしめた、ここの庵主の宗長さんは、なかなかの知恵者であったようですね。

          
                吐月峰紫屋寺

 ところで雁首草を覚えています? 以前このブログで紹介した高草山に咲いていた花のことす。キセルの雁首に似ているからついたと言われる花ですが、高草山は、ここ吐月峰と同じ大崩山塊に属しています。まさかこの雁首草の名前を宗長さんが付けたなんてことは無いですよね。

 吐月峰に関してもう一つ。吐月峰が灰吹きだった事は紹介しましたが、本来の吐月峰とは月見の名所だった紫屋寺から見た、月の出る山の名前だったのではないのでしょうか。そしてその山と言うと「丸子富士」だと思うのです。

 ○○富士と名付けた山は各地で聞きますが、それは富士山の見えない地方で三角錐の山を、きっと富士山もこんな形だろうと想像して付けたと思うと微笑ましくもなります。
だが丸子富士は違います。付近の山に登れば正真正銘の富士山が見えるのに恥ずかしげもなく丸子富士などとよく付けたものです。
吐月峰と言う立派な名前がありながら何故こんな安っぽい名前になってしまったのか疑問です。

          
              中央の三角が丸子富士

 どうですか、この三角形の山が丸子富士です。ガッカリしませんか。
もっとも吐月峰という奥ゆかしい名前が似合うとも思いませんが。

 ご朱印を貰えなかったせいで拗ねてしまったようだ。でもともかく今日一つ目の山(岡)越えは終わった。

駿河33ヶ所巡り3-3

2010-01-26 21:02:12 | 寺社遍路
 花沢の里を歩いていて気がついたことがある。初日にお参りした3番智満寺で売られていた厄除けのお札で、悪魔が黒いタイツを穿いたような風変わりなお札があった。それと同じお札が花沢の民家の入口に張ってある。それを見て、この辺りの人はわざわざ島田の山奥の寺まで行ってお札を貰ってくるのかと感心していた。
 それが10番法華寺に着いて原因が分かった。法華寺でも同じお札が売られていた。
花沢の人は何も島田の智満寺で買ったのではなく法華寺のお札を貼っていたのだった。

              
                  元三大師のお札

 法華寺のお札を見ていて「元三大師」と刷られているのに気がついた。たしか智満寺の木像の説明で命日が正月の3日であることから、元三大師(がんさんだいし)と呼ばれていて厄除け大師とも言われていると聞いた覚えがある。慌てて手持ちの資料を見ると、納得、どちらの寺も天台宗の寺だった。

 法華寺の観音堂の造りを何と言うか知らないが、今までお参りしたお寺にはない造りだった。お堂の前1/3くらいが板の間になっていて、その奥に祭壇がある。板の間では催事が出来そうな感じもする。所謂舞台になっているのだがこれが舞台造り??
山門は焼津市文化財になっているが観音堂は指定は受けていない。素人の私には、この観音堂の方が価値があるように見えた。

          
               法華寺の観音堂

 法華寺から先は山道になる。この山道は平安時代の最古の東海同道で峠には日本武尊が賊に追われて逃げ込んだと言われる穴地蔵がある(この道はHPで紹介してあります)。峠の名前は日本坂峠と言い、日本武尊の「日本」から名付けたと思われる。
また峠から更に登ると富士山の景勝の地と知られている満観峰があり、週末ともなるとハイキングの人で賑う道でもある(HPで紹介しています)。

 峠に着いて驚いた事があった。それは法華寺から日本坂峠まで一度も立ち止らずに22分で着いてしまった事だ。今まで何度も歩いたが25分はかかっていたのだから大したものだ。
「3分くらい大したことはない」って。
とんでもない今日は21k歩いてきた後での3分短縮なのだから価値がある3分だ。
段々足が強くなってきているのを感じて嬉しくなる。

 11番安養寺は日本坂峠を下って静岡側の小坂集落にある。だがこの寺の観音堂は寺よりずっと手前の山中にあるので気をつけないといけない。峠を下り山道が農道になり暫く進むと分岐した道の中央に石仏が見える。お寺は正面の道を下るが、観音堂はそこを左折して山に向かっている農道を進む。5・6分も歩くと右手の石段の上に観音堂、左に滝のあるお不動さんが見えてくる。誰もいない山の観音堂の前で声をあげて経を唱えるのも気持ちのいいものだ。

 安養寺では徳川家康お手植えのミカンのお接待を頂く。まさか本当に家康が植えたミカンではなく、その何代目かのミカンだろうが、何となく価値があるミカンのように感じてしまう。小振りで種も入っていたが甘く、温州みかんと言うよりポンカンのようなバタ臭い甘味に感じた。
そうそう、そう言えば昨日歩いた掛川城の中にも家康お手植えのミカンと書かれた小さなミカン木ががあったが、一体どこのミカンを植えた事やら。駿府城内にある家康お手植えミカンかそれとも、ここ安養寺のミカンか、はたまた適当に名前を付けただけなのか。

          
               大和田のお堂

 今日のお参りの予定は安養寺でお終いで用宗駅も近いのだが、まだこの先の道で心積もりがあった。
今歩いてきた日本坂から小坂に通じる最古の東海道が、この先で井尻峠を越して安倍川近くの手越に出ていたらしい。そこで
「井尻峠を歩きたいのですが、道はどうなっていますか?」と聞いてみた。
「聞いた事はあるけど、昔の道は今は殆ど廃道になっているからねー」と、あやふやな答え。
仕方ないので小坂側の峠の入口になる大和田のに行ってみる事にした。地図で見ると中学校の北の山の付根が大和田のになっていたので、山よりの道を適当に歩いて行くと、ありました、ありました。お堂と石碑、それに「万葉の古道 井尻峠」と書かれた立札が立っている。この道で間違いはない。安心して辺りの風景を眺めて疑問を感じた。さっき地図を見ると中学の横の道を真っ直ぐ行けば山を登らず安倍川にいける。それなのに何故峠越えをしなければならないのか? 万葉人は私と同じように峠越えが好きなのか? そんな事はない。当時の人は趣味で歩いているのでなく生活のために歩いていたのだから、より短く、より楽な道を歩いたと思うのだが。

 峠の入口を示す案内板に導かれて山道に入る。ハイキングコースと言うより、山の畑に行く道として利用していそうな道だ。峠にはあっけなく着いてしまった。視界の利かない峠で立ち止る事もなく下り始める。道はミカン畑の中に入ると、急に視界が開け、オッ!右の方に静岡の市街が見える。更に進むと、富士山が!。
万葉人はこの富士山を見たくて峠を登ったのかと思うくらいの富士山が見えている。
西から歩いてきた旅人は、これまで何度も富士山を眺めただろうが、これほど大きく雄大な富士山は見たことは無いだろう。この富士山を見てどんな感慨を覚えたのか聞いてみたい気がする。

          
               井尻峠から
     
 峠を下りれば江戸時代の東海道だ。そして今日の最終地安倍川駅も近い。


   -------------------------------------------
   4回目の駿河一国巡りに行ってきました。
   朝7時から夕方6時半まで42k。みっちり歩きました。
   疲れ果ててのご帰還。

駿河33ヶ所巡り3-2

2010-01-25 16:20:44 | 寺社遍路
           
          8番梅林寺観音堂 この中に木喰仏がある

 8番梅林寺は大きな寺なのに庫裏の入口に「御用の方は記入願います」と書かれた用紙が置いてある。だがここに名前を書いても仕方ないのでチャイムを鳴らしてみる。2・3回鳴らして諦めたころ奥から坊主頭に毛糸の帽子を被ったの人が出てきた。「なんだ」と言う目でこちらを見る。慌てて「ご朱印をお願いします」と納経帳を差し出した。おかげで谷川山のことを聞くのを忘れてしまった。

 ご朱印をうけ案内板を見ていると、この寺には2体の木喰仏(もくじきぶつ)が安置されていると書いてあった。木喰仏とは江戸時代中期の木喰上人が全国を行脚しながら彫った1000体の木彫りの仏像の事で、ここ岡部にも2ヶ月滞在して6体の木像を残したとある。
私が木喰仏の事を知ったのはの岐阜の飛騨に円空仏を見に行った時で、円空仏の荒削りで荒々しい木像に対し、対照的な優しい表情の別名「微笑仏」といわれる木喰仏を紹介していた。
当時は円空仏に魅力を感じていたので木喰仏に興味は起きなかったが、こんな近くにあったとは知らなかった。是非見てみたいと思ったが、さっきの人をまた呼び出して頼むのも気が重いので諦めよう。
家に帰りネットで調べると木喰上人は山梨県下部の生まれで下部に記念館もあった。ヨシまずそこに行って木喰仏を見てみよう。

 次の10番法華寺は南の海の方角ある。道は先ほど歩いた岡部まで戻り、高草山の裾を南に向かってダラダラと歩く。そして最古の東海道と言われている「やきつべの道」を日本坂峠に向かう山裾に法華寺はある。

 岡部へは行きと道を変えて県道210を歩き岡部の宿の静岡側に出ることにした。
途中のあった第2東名は工事は終わっているのか足場はない。巨大な橋桁の上に乗る本線が狭く感じるほど高い場所にある。
 去年の8月静岡県を久々に襲った震度6弱の地震は、東名高速の盛土部分が崩壊し、東名は5日間の通行止めになった。その時の地震のマグニチュードは6.5だったが、明日起きても不思議でないとされる東海沖地震はマグニチュード8クラスだと言う。その時この巨大な橋桁は大丈夫なのか。阪神淡路大震災では高速道路が倒壊し横倒しになった写真を見たが、あのような事は絶対起きないと断言できるのか。この橋桁の下に立つと不安に感じてしまうのは私だけではないだろう。ではどうするか? 私には分からないが-----

          
               第2東名

 道は岡部の宿の東の入口辺りで旧東海道に出る。ここを東に行けば駿府(静岡)右に行けば岡部の宿の繁華街(?)に向かう場所で、更に火の見櫓の下の道を左に取ると旧道になる。この辺りの町並みは本道と離れているせいか整備が行われていないので若干の古さは感じるが------ 
 途中に小野小町の姿見の橋があった。下水の上の新しい橋。説明文には
「橋の下の水面に映った我身を見て、過ぎし日の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだ」とある。
思わず失笑してしまったた。この説明文を書いた人は本当にこの場所がそうだと信じたのか? それともただ観光客のご機嫌取りに書いたのか----- 

          
               姿見の橋

 東海道と離れ道は高草山の裾を焼津の海に向かって進む。6kほど歩き疲れてきた頃、三輪地区の案内図が立っていた。そこにはこの地区にある神(みわ)神社には変わった形の鳥居(三つ鳥居)があるとして
「現在では大神(みわ)神社とここにしかないない鳥居で、人界と神界を区切る所で潜ってはいけない鳥居」と書いてあった。
神神社とは名前を見ただけででも何か謂れがありそうに感じる。チョット興味を覚え休憩がてら寄る事にした。

 境内の説明には「644年東国の疫病退治に大和の国三輪山の神を迎え神社を創設。神社には本殿が無く、三つ鳥居の奥が古代の斎庭であった」とあるがよく分からない。
だが神社の裏手に廻り塀越しに見える三つ鳥居は厳かさを感じさせる雰囲気があった。

          
               神神社の三つ鳥居
 
 家に帰り調べて少し理解できた。
説明の中に「大和の国三輪山の神」とあるのは現在の奈良県桜井市三輪にある大神(おおみわ)神社のことで、この大神神社は日本最古級の神社で本殿は無く三つ鳥居の先にある三輪山を神体として崇めた古代信仰の形態を残しているとある。
 ここの神神社は奈良の大神神社と同じ神を迎え入れて、同じ三つ鳥居の先の高草山を神体として崇め悪病退治を祈ったのだろう。そして神社のあるも大神神社の場所と同じ「三輪」と名付けたのだろう。
ただこの様な神社の形態は全国にあり、三つ鳥居も大神神社と此処だけの物ではないようだ。

 しかし腑に落ちないのは、高草山が三輪山ではないことと、高草山の山頂に祭ってある祠が「高草山大権現」となっていることだ。高草山とは如何にも現代的な名前にも感じるが、三輪から高草に改名したのか? それともご神体は高草山ではなく、もっと北側の山なのか? 疑問は残ったままだった。

 神神社で休憩をとって、また県道213に戻る。この辺りの道は高草山の登山口が各所にあり何度か歩いた事がある。ただその時は視線は山に向いていたので周囲の景色を余り見ていなかったようだ。
 所々にある地域の旧名の標識が立っている中に「東海道」と書かれた標識があった。の名前が東海道とは、これまた不思議だが平安時代の東海道で「やきつべの道」と言われた所なのだろう。そのやきつべの道を辿り花沢の里に向かう。ミカン畑に囲まれたのんびりした道の下には東名高速が見え車が疾走しているのも見える。

          
               花沢の里

 道が登り坂になり黒塗りの長戸門や水車などが出てくれば10番法華寺はもう直ぐだ。

戦国伝説ツーデーマーチ2

2010-01-24 16:06:08 | 低山歩き
 戦国伝説ツーデーマーチの2日目18kを歩いてきました。

今日は妻だけでなく、小5の孫も一緒に連れての初ウォーク。
妻は孫の事を心配していたが、歩き出せば立場は逆転、逆に気を使って貰っていました。

ただ何が戦国伝説なのだろう? スタート、ゴールが掛川城と言うだけで戦国時代に関係する場所は他に無かった。

 詳しい報告は後日。


駿河一国33ヶ所巡り3-1

2010-01-22 12:10:14 | 寺社遍路
駿河一国33ヶ所観音巡り三日目

6万願寺-2.4k30分-9観音寺-7.1k1:30-8梅林寺-11.6k1:35-10法華寺-3.3k1:00-安養寺-5k1:10-安倍川駅

   歩行時間29.4k 歩行距離6時間40分

 今日は西焼津駅から歩く予定だったが、妻に車で万願寺まで送ってもらいお寺からの出発になった。
天気予報は今日は気温が上がると報じていたが、夜明け直後のこの時間はまだ寒い。二重にした手袋の先の指先が冷たい。
 国道1号線を静岡に向かって歩き旧東海道と出合った所から東海道に入る。そこは通学路なのか学校に行く子供達が歩いている。中には素手で大きな氷を投げっこしている子もいて見ているだけで指先が凍えてくる。大体ここら辺りで手で持てる程の氷が張るのは珍しい事で今朝は大分冷え込んだのだろう。どうりで寒いはずだ。

 子供達は校門に入っていく。私はそのまま進んで行くと校庭の先にお寺があった。
今日の最初の寺は9番観音寺。このお寺も無住でご朱印は電話するようにと張紙がしてあった。サー困った万願寺では電話番号と地図が書いてあったので困らなかったが、ここは電話番号だけ。携帯電話は無いし公衆電話があるような場所ではない。
一先ずお参りを済ませ辺りの様子を覗う。お寺の周りの民家は新しく新住民だろう。ではと学校の方に戻り以前から済んでいそうな家はと探していると庭に人がいた。ご朱印のことを聞くと、その家の裏のうちが世話人宅だった。アー助かった。
世話人の家は予想に反して新しい家で、私の判断基準では新住民に分類してしまう家だった。

 世話人の方が寺まで来てくれて、すでに記入してあるご朱印を渡してくれたが
「日付が入ってないがどうする?ボールペンで書こうか?」と聞いてきた。
ウーンどうしよう、折角墨書してあるご朱印にボールペンで書かれても----- と言って空白なのも----- 
結局これはこれで思い出になると空白のままにしてもらった。
そして500円玉を出してご朱印代を払おうとすると
「困ったなー、お釣りがない」と言い出した。私の財布の中には200円あったが、まさかまけろとも言えない。
「アッいいですよ。お賽銭として取っといてください」と度量の広いところを見せる私でした。

 寺を出て歩き出してから気になりだした。今のお寺は普通に読むならカンノンジだろうが、何と読むのだろう。お寺の名前となるとカンオンジかも知れない。理由は四国遍路のとき16番と69番の札所が観音寺でこれをカンオンジと呼んでいた。きっと観世音菩薩(カンゼオン)のカンとオンを取ってカンオンとしたのだと思った。では観音さんは何故カンノンさんか、こちらは庶民が口にすることが多く、カンオンよりカンノンのが言いやすかったのだろう。但しこれは私の勝手な解釈で正しいかどうかは関知しない。
そうすると此処の観音寺は何と呼んでいるのだろう?気になってきた。納経のとき確認すればよかった。

 このような簡単な字の名字で「海野」がある。普通ならこれはウンノさんだろうが、私の知人はウミノさんだ。またこの志太地域では「池谷」と書いてイケガヤさんと呼んでいる。簡単な文字でも読み方が何通りもあり漢字は難しい。
そう言えば子供の頃鞍馬天狗の作家の大仏次郎のことをダイブツジロウと思っていたり、丹羽文雄をタンバフミオと読んでいた。
名字でさえこうなのだから名前にいたっては更に分からない。しかも現代の子の名前は漢字を流行や格好で選んで読みは好き勝手につけている。それでは読めるはずもない。
極端に言えば○○利口と書いて○○バカと呼んでもいいらしい。それは出生届にカナを振らないので、漢字さえ常用漢字や人名漢字にあればいいらしいのだ。
以前自分の子の名前を悪魔と付けようとした親が問題になったことがあるが、常識では考えられない親が増えてきているので、漢字と全然関係ない読みの子が現れるかもしれないな。
そうそう2・3日前の新聞で韓国の名前は5文字以内に制限されていると載っていた。理由は韓国版「寿限無」がでてきて、余り長い名前は不便だという事らしい。
遍路と関係ない話が続いてしまった。先を急ごう。

 寺の後ろにある人と自転車専用の橋を渡り、また東海道に出る。この先にある岡部の宿まではもう直ぐだ。

          
               あげんだい

朝比奈川を渡ると休憩所があり、そこに「あげんだい」があった。
あげんだいとは、此処志太地域に伝わる旧盆の送り火に使うもので、孟宗竹の先を割って籠を作り、その中に燃えやすい藁や松葉、竹筒、最近では花火などを入れておく。それに下から松明(たいまつ)を投げ入れて火をつける行事で、あげんだいが複数あるときは、火のつく早さを競ったりする。いわば松明による玉入のようなものです。

          
               一新した岡部宿

 岡部は国1のバイパスが出来るまでは、国道沿いの誇りっぽく騒々しい町だったが、バイパス開通後は一変した。道や家並みを一新し、電線の地中化を図ったので明るい通りになっていたが、宿場町としては清々し過ぎの感がなくもない。
8番梅林寺はこの岡部宿の途中から県道81号に入る。
県道は沢山あってよく変わるので名前を覚えていられないが、道はいつのまにか210号になっていた。前方にまた第2東名の建設現場が見えてきた。例により巨大な橋桁が目に付くが、それに取り付く工事用の足場が見えない。この辺りは工事の進捗が良いのだろう。よく見ると高い場所の本線から下ってくる高架(?)も見える。若しかして此処はICが出来るのだろうか?

          
                第2東名 IC?

 県道と別れ第2東名沿いの道に入る。暫く行くと道の両側に石柱が立っていた。その一つに「谷川山」と書いてある。谷川山?どこかで聞いた事がある。何所だっただろう。群馬県の谷川岳ではないし、どこだろう?
考えながら歩いていて思い出した。岡部と丸子の宿の間にある宇津ノ谷峠で見たことがあった。そこは江戸時代の東海道の宇津ノ谷峠の一番高い所で南に行けば蔦の細道、北に行けば確か谷川山と書いてあったはずだ。となるとこの道を行けば宇津ノ谷峠に行けるのかもしれない、それならまだ先と思っていた13番観昌院は直ぐそこになる。
ご朱印のときに聞いてみよう。

 8番谷川山梅林寺に9時40分到着

駿河一国33ヶ所巡り2-2

2010-01-21 14:55:44 | 寺社遍路
          
                 清林寺の無縁塚

4番清竹寺を打ち終り、次の5番洞雲寺に向かう途中、JR東海道線の高架の上から西の方角の山の頂にタンクが見えた。あれは初日に歩いた清水寺の上にあったタンクだろう。山の上の目印を覚えると場所を判断するのに助かる。これから行く洞雲寺はあの山の東の果てにあるのだからと、これから行く道のおよその見当がつく。
東の方角には高草山がデンと居座り視界を遮っている。次回のコースは、あの高草山の北の端から南の端まで歩き、更に隣の花沢山と鞍部にある日本坂峠を越して静岡市向かう予定だ。

 洞雲寺の手前に飽波(あくなみ)神社があった。この神社は地元では飽波さんと呼ばれ親しまれているのでチョットお参りをして行こう。
社伝を読むと昔この辺りは瀬戸川の伏流水が湧いていて、その「沸波(水が沸く)」が転じて飽波郷(旧藤枝)と呼ばれていたらしい。飽波神社はその当時から建っていて志太平野で最も古い神社ということだ。
お参りの記念にご朱印も貰い洞雲寺に。

 神社を出て山の方を見ると交差点越しに大きな寺の屋根や、山裾にはお墓が見えてきた。それが洞雲寺だった。生憎お寺は工事中で本堂の中は床も無く仏壇も片付けれていた。それでも般若心経と観音経を唱えてお参りをする。
近くには工事の人も作業をしているのに声を出して唱える事ができた。四国の遍路を始めた頃は、辺りに人がいなくても声を出す事ができなかったのに随分変化したものだ。ただ毎日一人で唱えているので、お経の節と言うか強弱と言うか音程が自己流になってきている。時々でる法事や葬式で聞くプロの般若心経とはかけ離れた般若心経になってしまっている。
九州の隠れキリシタンが外界と接しないで祭事を行っていたので本来のキリストとは違った様式になったというが、それと同じだろう。
だがプロのお経も宗派によって大分違っている。同じ般若心経でも超快速や快速、それに普通の速さと色々あった。ようは形式でなく唱えることが大事と思っていれば左程恥ずかしくは無い。
観音経は今回の遍路が駿河一国観音巡りだったので唱えだしたのだが、これこそ自己流で四国で購入した経本に「延命十句観音経」とあったのを棒読みしているに過ぎない。それこそこれを聞く観音さんは驚いている事だろう。

 洞雲寺から出て山裾沿いに歩くと直ぐ蓮華寺池公園に出た。ここは初日清水寺から山越えをしたとき、標識に「清水山~蓮華寺池公園ハイキングコースと」書かれていた公園だ。
この公園、桜や藤の時季になると市民が大勢花見に来る人気スポットでもあります。
今日は寒い風の吹く中、一人湖畔のベンチで握り飯を頬張っている年寄りの姿は、他人にはどう写っていたのだろう-------

          
               蓮華寺池公園

 6番万願寺は1号線脇にある無住のお寺だが、小さい割にはしっかりした建物で雰囲気を感じた。ただ無住の為か国道脇のせいか誇りっぽく感じられたのは残念だった。
ご朱印は無住のため、今来た蓮華寺池の方に200m程戻った所のお店で貰う事が出来た。アー良かった。
これで今日の予定は終わったが、まだ時間は1時10分。歩行距離も23.7kで30k行っていない。もう一つ打っても良いと計画表を見ると次の9番観音寺は3k先、距離的には丁度良いが帰りのコースも、またここに戻って西焼津の駅に行かなければならない。更に次回9番の次に行くにも同じ道を歩く事になりそうだ。迷ったが結局中止。今日は6番万願寺で打ち止めにする。

          
               無住の6番万願寺

 万願寺の隣に田中神社があった。この神社は近くにある田中城の築城のおり武田信玄が建立したと言われている。もっとも田中城と言っても知らない人が多いだろうが、徳川家康がタイの天ぷらを食べて死んだ城と言えば思い出す人もいるだろう。その田中城を見ながら西焼津駅に向かおう。
住宅地の一角に三日月堀跡とか○○門跡とか標識は建っているが面影は何も無い。それでも小学校の隣にあった二の堀は堀らしく水は溜まっていたが、ただそれだけ。
門外漢の私には興味のわくものはなかった。ただ小学校の校庭の中に田中城の模型らしき物があったが、校門には「関係者以外の立ち入りは禁止します」の立札が立っている。嫌な世の中になったものだ。

 西焼津の駅に2時前に到着。歩行距離も30k行っていない。よしこれなら家まで歩いて帰ろう。
3時30分家に到着。歩行距離34.5k。やはり疲れた

駿河一国33ヶ所巡り2-1

2010-01-20 17:17:27 | 低山歩き
1月16日(土)駿河一国33ヶ所観音巡りの2日目

今回から実際歩いた行程を最初に紹介します。

島田駅-5.6k65分-2東光寺-12.1k120-4清林寺-3.9k40-5洞雲寺-2.1k20-6万願寺-3.5k55-西焼津駅

 歩行時間27.2k 歩行距離5時間

 2番の東光寺に行くには島田駅より隣の六合駅からのが距離は短いのだが、この駿河一国を始める前に決断した事がある。それは札所を点々と歩くのではなく、四国と同じように一本の線で結べたらと考えていた。そのためには前回終わった18番慶寿寺から島田駅の間から出発したかった。つまり2回目を六合駅で始めると島田と六合間が途絶えてしまい一本の線にならない。これでは全て歩いた事にはならないような気がするので、今日はわざわざ距離の遠い島田駅からの出発になった。

「羹に懲りて膾を吹く」の例えではないが、1回目がの朝の出だしが遅くて後悔したので今日は予定距離は短いが7時から歩くようにした。
島田の駅前も歩いている人がやけに少ない。不況の影響なのかと考えていたが今日が土曜日だという事を思い出した。道理で歩行者が少ない訳だ。
リタイヤ後、日にちや曜日感覚が薄れてしまい今日が何日で何曜日か分からない事が時々ある。認知症の判断では、曜日や日付を聞く事があるそうだが、私は引っ掛かってしまうだろ。
外にも私は若い頃から右と左を勘違いする事が多く、自分は左のつもりが右と言ってしまったりする事がある。今でも左右を判断するとき幼児のように箸を持つ手は右と右手を見てしまったりする。
このブログで右側とか左折とか書くときは必ず手を見て判断するようにしているが間違っていたら許してください。

 駅前からの道が国道1号にぶつかる。おっと標識は県道381になっている。この県道を次の信号まで歩き、そこを左折して市民病院の方に進む。道は?アレーこの交差点から先は1号線になっている。そして左折側の道も1号線だ。どうも静岡県の国道1号線の呼び名は紛らわしい。国1バイパスと国道1号線。それに県道に格下げになった国1、更に古い国道1号の旧国1、また昔の東海道とある。それらが別々だったり一緒になったりしているので地元の者でも説明がしづらくなる。島田市民の大部分は駅前通りがぶつかった道は国1と思っているだろう。

 2番東光寺には一昨日、慶寿寺の帰りに歩いた大津小学校の前の交差点を右折する予定だった。しかし歩いているうちに気が変わった。地図を見るとわざわざ小学校まで行かなくても右手の山の裾を辿って行けば近道になる事に気がついたのだ。そこで国1のバイパスを過ぎ、橋を渡った所で脇道を歩き出した。ようは山の裾を廻っていけば小学校からの道に出会うはずだ。しばらく歩くと案の定太い道に出会った。この道が小学校からの道だろうと判断して東に進む。
これから行く東光寺は、ここから一つ低い山を越した所にあるのだが、注意しなければならないのは太い道沿いに行くと、また島田の町に戻ってしまう恐れがある事だ。そこを注意すれば後は間違えそうな所は無い。
道が大きくカーブして正面にも農道が延びている交差点に出た。工場やお寺があるがまだ人の気配がしてない。農道の先に何やら小さな立札が立っているのに気づき近づいて見ると「大谷の池」と書かれていた。確かこれは地図に載っていたはずと地図で確認して農道を進む。池は小さな溜池で池の縁は薄氷が張っていた。

 道ががまたT字になった。正面に立札があり左の登り坂は「双子山 虚空蔵尊」と書いてある。だが東光寺の名前はない。ここで間違えたら百年目。と思う間もなく犬の鳴声が聞こえてきた。鳴声はと林を透かしてみれば、その先に民家が何軒か見える。これなら大丈夫、あの先にお寺はあるだろうと右の道を下っていった。程なく太い道に出会うと東光寺の看板があった。

 東光寺は昔、今川家の保護を受けた大寺で最盛期には25の塔頭(小寺)があり僧兵も居たらしい。それが甲斐の武田勢との戦いんの兵火にあい焼失したという。現在はそんな面影は無く田舎の古寺といった佇まいでしかない。

          
               東光寺

 東光寺でご朱印を受けて次は藤枝市内にある4番清林寺だ。道は来た道をバイパスの東光寺IC向かって戻る。ICを過ぎたら太い道から離れ東光寺川沿いの細い道に入る。川が山から離れだしたら今度は山裾の道を取った。
初めて歩く道だがこの先の南の方角には国1が走っいて、藤枝は東の方向になる。更に南東に延びている山は国1の間際まで迫っているところがある。なので山に沿っていけば自然国1にぶつかることになる。
今日は先日と違い頭が冴えているのか道に迷う事はない。と言うよりこの辺りの細かい道は知らないが、大体の地形が頭に入っているので迷いが少ないのだ。要はこう言うのを土地勘があると言うのだろう。

 想定どおり国1の交差点に出た。国道の先には旧東海道の松が見えている。ここからは旧東海道を歩くことにしよう。

          
               旧東海道の松

時折道脇に松が残っているだけで旧東海道の面影は無い。それでもいつか東海道を歩いてみたいと思っているが決断がつかない。その理由の一つに、この様な車道を、いやもっと通行量の多い道を延々と歩くと思うと迷ってしまうのが現状だ。

 旧東海道と別れ藤枝駅に向かう。10時到着
駅の中を通り抜け南口から4番清林寺へ向かう。工場の横を右折し少し行くと新幹線のガードの先にお寺の屋根が見えてきた。あれが4番清林寺だろう。