川沿いの農道を進むと時期に民家は無くなり坂道になる。管理人の人が心配するような雰囲気はなく、何所にでもあるような農道が続いていた。
30分も歩くと前方に大きな石碑がある。何だろうと見るとこの農道(林道?)の開通記念の石碑だった。例により地元の国会議員が揮毫した文字を深々と彫ってあり、何のために、何の必要があってこんな大きな記念碑が必要なのか疑問を感じてしまう代物だった。
こうして山間部に来ると農道を歩く事が多くなる。初日の清水山や千葉山の農道、3日目の高草山、そして今日も3回目の農道を歩いている。今ではこの農道が無ければ低山歩きなど出来なくなってしまっているだろう。しかしこの道はなにも山歩き用の道ではなく、作業用の道のはずなのに農作業用の車に合うことは少ない。今日も農道を歩いていて1台も車に合っていない。確かに今は農閑期だから仕方ない面もあるが農繁期でも作業車に合う事は少ない。だいたい農道横にある茶畑が放置され荒れ放題になっている所も、いたる所で目にする。
何故こんな農道が出来たのか、それは地元の農家が山の畑への行き来や収穫物の搬出が大変なので、農協等を通じて地元の国会議員に農道建設を陳情したのだろう。国会議員は名前を売るいい機会とばかりに役所に圧力をかける。役所は農道の利用価値など録に調査もせず農道を作り代議士先生に恩を売る。こんなパターンであちこちに利用度の低い農道が出来てしまったのだろう。
ただチョット疑問なのは高速道路など受益者負担の法則にのっとり通行料を支払っている。では農道は利益を受ける農家は通行料を支払うのか-----そんな事は聞いた事は無い。
民主党に政権が移り費用対効果が言われている今なら、この様な農道は議論の端にも上らないだろう。
常にお世話になっている農道なのに、余りの場違いで立派な記念碑を見て反骨心が湧いてしまった。
慈悲尾農道から
記念碑の先は切通しなっていて、いよいよ安倍川の流域の谷に入る。
また農道の事で申し訳ないが、建穂側に比べ交通量が更に少ないのか舗装の上に土が溜まり雑草が生えている状態だ。それも暫くで遂に舗装は終わりガタガタ道になってしまった。
そう言えば、さっきの記念碑に「慈悲尾農道」となっていたが、慈悲尾とはこれから行くなので、この農道は建穂から慈悲尾に行くのが主の農道というか、建穂から峠まで道が欲しかった建穂の住民の主動で作ったのかもしれないなどと考えながら歩いた。
農道が一般道に出会い無意識のまま下り方向に道をとり、暫く下ると神社があった。神社の名前が「椎乃尾神社」とある。アレここの地名は慈悲尾と書いてシイノオと読ませる変わった地名のはずなのに神社は椎乃尾となっている。どちらが元の字なのだろう。
私の考えは服織や建穂と同じように慈悲尾も帰化人が命名したものだ思っていた。それがこの神社は日本流の椎の尾となっている。分からなくなってしまった。
椎乃尾神社を地図で確認して驚いた。さっき農道の出口を無意識に道を下ってしまったが増善寺はもっと上だった。慌てて引き返したが椎乃尾神社に気がついて良かった。
増善寺
増善寺は大寺だった。ただ本堂は建て替えられていてコンクリート製の趣が無い建物になっている。
この増善寺は今川家時代は今川家の官寺で大伽藍のある大寺だったとか。そんな雰囲気を今でも漂わせている所もある。
墓地の上に小さなお堂があった。行って見ると「今川家霊廟」と書かれている。更にお墓の中には苔むしたと言うより、更に古く苔が白く枯れているようなお墓が何基もある。確かに由緒ありそうなお寺だ。
本堂にお参りして気づいたことがある。本堂に掲げれた寺名が「慈悲(ジヒ)山 増善寺」になっているが、私の手元の資料では「慈悲尾(シイノオ)山」になっている。これは明らかに資料の間違えだが、若しこの地が慈悲なら尾の着いた慈悲尾はここより離れた場所を指すのではないのか。だがジヒが何故シイに変わったのか?
足は忙しい遍路でも頭は暇なので、妄想はあっちこっちに飛交ってしまい纏まりが付かなくなってしまった。
分かっている人がいたら教えてください。
増善寺の古い墓
ご朱印を受けに入った所に中国の寒山寺のあの有名な「鳥が啼き----」の拓本を飾ってある。もしやこの寺の開組は中国の人かと聞いてみると
「檀家の人に頂いたので飾ってあります」だって。ガッカリ。
今日はここ増善寺から静岡市街に戻り清水寺を打って終わる予定だが、実はこの寺のもっと奥に17番法名寺がある。ここ増善寺から約10k、静岡の市街から約15kの足久保にある法名寺は遠すぎるため次回に回したのだが、まだ時間は1時前、チョット未練が出てきた。そこでまた聞いてしまった。
「今日は安倍川駅から3回山越えをしてきたけど、次の法名寺に行く山越えの道はありますか」建穂寺で要らぬ心配をかけてしまったので健脚であると匂わせて聞いてみた
「アラー建穂から山越えで来たのですか。それは大変でしたね。道が悪いと聞いていたけどどうでした?」と先に行く道でなく逆に前の道の事を聞いてきた。
「建穂から峠まではしっかりした農道で、峠からここ慈悲尾までは舗装はされていないけど太い農道で間違える心配はありませんでした」
「エー!建穂まで農道が繋がっているの? 知らなかったなぁー」と吃驚していたが、こっちも驚いた。慈悲尾農道の出口にあるお寺の人が、その農道の存在を知らないなんて----
やはりあの農道は建穂の農家の主張で作ったのだと再認識した。
ところでこの先の山越えの道はと確認すると
「観音堂の前から元の観音堂の横を通っていくと峠に出るから、それを下れば西ヶ谷の運動場に出る。あとは足久保に向かって県道を歩けば行けますよ。ここを下って安倍川を回るより大分近くなりますよ」と教えてくれた。
私の計算ではここから法名寺まで10kで2時間位と踏んでいた。それが山越えの近道をしても9k位にはなるが時間は余り変わらないだろう。となると今は1時。法名寺には3時過ぎには着く、そこでお参りをして3時半に出発して静岡駅までの15kを3時間で歩くとして6時半前後には駅には着きそうだ。どうしよう。
いまここで静岡に戻ると、また同じ道を歩かなければならなくなる。ここで頑張れば約一日弱の日程を縮る事ができる。しかも今なら山越えの道を歩く事ができる。サーどうしよう。足は今は大丈夫だ。
一見思案しているようだが山道の事を聞いた時点で心の底は決まっていた。
山越えの道があるなら歩くほかはない。と意を決して観音堂の前を出発した。
観音堂の前でサーどう行こう?
先ずはお堂の横を通りお墓の中を進んでみる、お墓の先に道は無かった。失敗!
次はお堂の前を通ってお墓の中に。アレーこの道は今川家の霊廟に続く道だ。また失敗!
さてと観音堂に戻り辺りを見るが、もう道はない。初めに道を間違えたらとんでもない所に行ってしまいそうなので、仕方なくお寺に戻り聞き返す。
今度はお寺の人がついて来てくれて道を教えてくれた。
そこはお堂の前と言うより本堂の後ろと言ったほうが良いような微妙な場所だった。
サー今度こそ出発だ。時間は1時10分。
30分も歩くと前方に大きな石碑がある。何だろうと見るとこの農道(林道?)の開通記念の石碑だった。例により地元の国会議員が揮毫した文字を深々と彫ってあり、何のために、何の必要があってこんな大きな記念碑が必要なのか疑問を感じてしまう代物だった。
こうして山間部に来ると農道を歩く事が多くなる。初日の清水山や千葉山の農道、3日目の高草山、そして今日も3回目の農道を歩いている。今ではこの農道が無ければ低山歩きなど出来なくなってしまっているだろう。しかしこの道はなにも山歩き用の道ではなく、作業用の道のはずなのに農作業用の車に合うことは少ない。今日も農道を歩いていて1台も車に合っていない。確かに今は農閑期だから仕方ない面もあるが農繁期でも作業車に合う事は少ない。だいたい農道横にある茶畑が放置され荒れ放題になっている所も、いたる所で目にする。
何故こんな農道が出来たのか、それは地元の農家が山の畑への行き来や収穫物の搬出が大変なので、農協等を通じて地元の国会議員に農道建設を陳情したのだろう。国会議員は名前を売るいい機会とばかりに役所に圧力をかける。役所は農道の利用価値など録に調査もせず農道を作り代議士先生に恩を売る。こんなパターンであちこちに利用度の低い農道が出来てしまったのだろう。
ただチョット疑問なのは高速道路など受益者負担の法則にのっとり通行料を支払っている。では農道は利益を受ける農家は通行料を支払うのか-----そんな事は聞いた事は無い。
民主党に政権が移り費用対効果が言われている今なら、この様な農道は議論の端にも上らないだろう。
常にお世話になっている農道なのに、余りの場違いで立派な記念碑を見て反骨心が湧いてしまった。
慈悲尾農道から
記念碑の先は切通しなっていて、いよいよ安倍川の流域の谷に入る。
また農道の事で申し訳ないが、建穂側に比べ交通量が更に少ないのか舗装の上に土が溜まり雑草が生えている状態だ。それも暫くで遂に舗装は終わりガタガタ道になってしまった。
そう言えば、さっきの記念碑に「慈悲尾農道」となっていたが、慈悲尾とはこれから行くなので、この農道は建穂から慈悲尾に行くのが主の農道というか、建穂から峠まで道が欲しかった建穂の住民の主動で作ったのかもしれないなどと考えながら歩いた。
農道が一般道に出会い無意識のまま下り方向に道をとり、暫く下ると神社があった。神社の名前が「椎乃尾神社」とある。アレここの地名は慈悲尾と書いてシイノオと読ませる変わった地名のはずなのに神社は椎乃尾となっている。どちらが元の字なのだろう。
私の考えは服織や建穂と同じように慈悲尾も帰化人が命名したものだ思っていた。それがこの神社は日本流の椎の尾となっている。分からなくなってしまった。
椎乃尾神社を地図で確認して驚いた。さっき農道の出口を無意識に道を下ってしまったが増善寺はもっと上だった。慌てて引き返したが椎乃尾神社に気がついて良かった。
増善寺
増善寺は大寺だった。ただ本堂は建て替えられていてコンクリート製の趣が無い建物になっている。
この増善寺は今川家時代は今川家の官寺で大伽藍のある大寺だったとか。そんな雰囲気を今でも漂わせている所もある。
墓地の上に小さなお堂があった。行って見ると「今川家霊廟」と書かれている。更にお墓の中には苔むしたと言うより、更に古く苔が白く枯れているようなお墓が何基もある。確かに由緒ありそうなお寺だ。
本堂にお参りして気づいたことがある。本堂に掲げれた寺名が「慈悲(ジヒ)山 増善寺」になっているが、私の手元の資料では「慈悲尾(シイノオ)山」になっている。これは明らかに資料の間違えだが、若しこの地が慈悲なら尾の着いた慈悲尾はここより離れた場所を指すのではないのか。だがジヒが何故シイに変わったのか?
足は忙しい遍路でも頭は暇なので、妄想はあっちこっちに飛交ってしまい纏まりが付かなくなってしまった。
分かっている人がいたら教えてください。
増善寺の古い墓
ご朱印を受けに入った所に中国の寒山寺のあの有名な「鳥が啼き----」の拓本を飾ってある。もしやこの寺の開組は中国の人かと聞いてみると
「檀家の人に頂いたので飾ってあります」だって。ガッカリ。
今日はここ増善寺から静岡市街に戻り清水寺を打って終わる予定だが、実はこの寺のもっと奥に17番法名寺がある。ここ増善寺から約10k、静岡の市街から約15kの足久保にある法名寺は遠すぎるため次回に回したのだが、まだ時間は1時前、チョット未練が出てきた。そこでまた聞いてしまった。
「今日は安倍川駅から3回山越えをしてきたけど、次の法名寺に行く山越えの道はありますか」建穂寺で要らぬ心配をかけてしまったので健脚であると匂わせて聞いてみた
「アラー建穂から山越えで来たのですか。それは大変でしたね。道が悪いと聞いていたけどどうでした?」と先に行く道でなく逆に前の道の事を聞いてきた。
「建穂から峠まではしっかりした農道で、峠からここ慈悲尾までは舗装はされていないけど太い農道で間違える心配はありませんでした」
「エー!建穂まで農道が繋がっているの? 知らなかったなぁー」と吃驚していたが、こっちも驚いた。慈悲尾農道の出口にあるお寺の人が、その農道の存在を知らないなんて----
やはりあの農道は建穂の農家の主張で作ったのだと再認識した。
ところでこの先の山越えの道はと確認すると
「観音堂の前から元の観音堂の横を通っていくと峠に出るから、それを下れば西ヶ谷の運動場に出る。あとは足久保に向かって県道を歩けば行けますよ。ここを下って安倍川を回るより大分近くなりますよ」と教えてくれた。
私の計算ではここから法名寺まで10kで2時間位と踏んでいた。それが山越えの近道をしても9k位にはなるが時間は余り変わらないだろう。となると今は1時。法名寺には3時過ぎには着く、そこでお参りをして3時半に出発して静岡駅までの15kを3時間で歩くとして6時半前後には駅には着きそうだ。どうしよう。
いまここで静岡に戻ると、また同じ道を歩かなければならなくなる。ここで頑張れば約一日弱の日程を縮る事ができる。しかも今なら山越えの道を歩く事ができる。サーどうしよう。足は今は大丈夫だ。
一見思案しているようだが山道の事を聞いた時点で心の底は決まっていた。
山越えの道があるなら歩くほかはない。と意を決して観音堂の前を出発した。
観音堂の前でサーどう行こう?
先ずはお堂の横を通りお墓の中を進んでみる、お墓の先に道は無かった。失敗!
次はお堂の前を通ってお墓の中に。アレーこの道は今川家の霊廟に続く道だ。また失敗!
さてと観音堂に戻り辺りを見るが、もう道はない。初めに道を間違えたらとんでもない所に行ってしまいそうなので、仕方なくお寺に戻り聞き返す。
今度はお寺の人がついて来てくれて道を教えてくれた。
そこはお堂の前と言うより本堂の後ろと言ったほうが良いような微妙な場所だった。
サー今度こそ出発だ。時間は1時10分。