はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

城ロマン:掛川3城巡り(高天神城趾1)

2018-01-31 17:41:24 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停


                            高天神城趾付近の概略図

        
                       旧大東町のMH                           水 仙

  車の通らない下小笠川の右岸を歩いていると掛川市とは絵柄の違うマンホールがある。絵柄は旧大東町時代の絵柄で、中央に
描かれているは、菊川の河口に架かる自転車歩行者専用道路の潮騒橋で、近くには日帰り温泉大東ユートピアがある所です。
絵柄の下には水仙が書かれているが、きっと旧大東町の花だったのでしょう。今もあちこちで見かけます。

  この辺りは寺巡りでも歩いているので道は結構知っている。川口鉄工所が見えたら右に曲がり、次の新しい道に入る。その道の
山側には惚け封じの確か今瀧寺があったなど、普段は頭の片隅に隠れていた記憶が浮かび上がってきます。
これならまだ今瀧寺にお参りする事はないかな、なんて思いたいがとんでもありません。近頃とみに物忘れが増えて日にちや
曜日は勿論の事、近所の家の名前を思い出せない事が時々ある。今日はせめて遠くから惚け封じの寺に一礼しておこう。

 
              高天神城趾の山                              高天神城入口(北口)

  高天神城趾の山が見えてきました。、写真の手前に見えるフェンスは工業団地の売れ残りのようです。
それにしても掛川市は大丈夫ですかね? 売れ残りがあるのに新しい工業団地を造成したりして・・・・・

  この貧弱な山が 「高天神を制する者は、遠州を制す」 と言われた高天神城のある山です。
しかしどう見てもこの山がそんな重要な位置にあったとは思えませんよね。で、高天神城の歴史を私流に復習してみました。

  高天神城が歴史上名前が出てくるのは、16世紀初頭に今川氏の家臣福島氏が城代として駐留した頃だそうです。
この福島氏は今川の家臣ですが中々の有力者で、今川家の世継ぎ騒動で有名な 「花倉の乱」 の主人公・玄広恵探(花倉殿)の
祖父でもあり、後援者でもあったのです。
この相続争いは今川家当主だった氏輝が若くして亡くなると、跡目に名乗り出たのは氏輝の義弟の恵探と弟の義元の二人でした。
氏輝や義元は氏親と正室寿慶尼の間の子供でしたが、恵探は側室の子でした。ただ惠探は義元より年長で、側室だった母親が
高天神城代の福島氏だったことから問題が複雑になりました。
  恵探は祖父を後ろ盾として義元の住む駿府今川館を急襲するもこれに失敗、自身の城・花倉城に逃げ込みました。
義元は母親の寿桂尼や重臣の支持をうけ花倉城に攻め込むと、惠探は城を捨て烏帽子形山を越して瀬戸谷に逃げ込んだしまった。
惠探は祖父のいる遠州高天神城を目指したのだが、義元の追及は厳しく惠探は瀬戸谷の普門寺で自刃してしまう。
花倉の乱が終結すると福島氏も義元に討伐され、高天神城は今川氏親の娘婿の小笠原氏に引き継がれるのでした。

  ここまでが高天神城の前置きですので、遠州を制するほどの話ではありませんでした。
時は移り今川家の当主になった義元が桶狭間で織田信長に討たれると、今川家はその子氏真が当主になるも、急速に勢力が衰退
していく。
今川の力が減少すると甲斐の武田は三河の徳川との間で駿河は武田、遠州は徳川との密約を結び武田軍は駿河に侵攻する。
これを恐れた氏真は、駿府から山路を経て掛川城に逃げ込んでしまった。
一方家康も遠州を手に入れるべく高天神所の小笠原氏を自陣営に誘い込み、掛川城の攻撃を開始する。
この戦いには高天神城の小笠原氏は徳川軍の一員として旧主君の籠る掛川城を攻撃しているのです。
しかし家康の思惑に反して掛川城は中々な落ちず、家康は和睦作戦に移行して掛川城を手に入れるのでした。

  武田信玄は駿河平定後、家康の拠点の三河・遠江方面へも手を伸ばし始め、遂には2万5千の大軍を率いて高天神城を包囲する。
だが信玄は城を包囲したものの、城を見ただけで即日撤退してしまった。
このため高天神城は 「信玄も落とせなかった難攻不落の城」 との名声を受けるようになる。
だが、実際はどうだったのでしょうか、信玄は高天神城を見て “難攻不落” とみたか “攻撃する価値もない” と見たのか。
私は後者だったと思う。遠州の片田舎にある山城を見て、信玄はその存在価値を認めず無駄な血を流す事を避けたのだと思う。 

  信玄が家康との三方原の戦い後に病死すると、後を継いだ勝頼は、偉大だった父・信元を越えるべく父が落とせなかった高天神城
攻略に信念を燃やしだした。
信玄が高天神城を包囲してから3年後、勝頼は2万の大軍をもって高天神城に攻めかかる。この時の高天神城は城主小笠原以下千名
程度で守っていた云われる。
当然小笠原は家康に援軍を求めたものの、当時家康も兵が足りない状態で援軍を送れなかった。更に城内で勝頼に内通する者も現れ、
高天神城は持ちこたえられず勝頼に降伏してしまった。これが世に云う 「第一次高天神城の戦い」 です。

  第一次高天神城の戦いに勝利した勝頼は、父信玄の無しえなかった事を成しえた事で自信を持ち、徐々に家臣の意見に耳を
貸さなくなったと言われている。この勝利が勝頼には良かったのか、それとも悪かったのかは神のみぞ知るですね。


                             高天神城想像図                        (現地案内板)

  高天神城を攻略した武田軍は城内を拡張・整備し、写真の想像図左に聳える西の丸を増強して徳川の反撃に備えていた。
更に高天神城を攻略して自信を付けた勝頼は三河への侵略を始め、長篠で織田・徳川の連合軍に戦いを挑んでいった。
この時の勢力は武田軍は1万5千で、織田・徳川軍は3万8千と倍以上だったため、武田の重臣は退却を進言したが勝頼は
聞き入れず総攻撃の命令を発してしまった。
敵地でしかも味方を倍する軍に突進した勝頼には、高天神での勝利の味が忘れられなかったかもしれない。だが所詮は連合軍の
敵ではなく、惨敗した勝頼はすごすごと甲斐に逃げ帰ったのでした。

  一方長篠の戦いで勝利した家康は、高天神城の攻略を目指し、陸からの補給路だった金谷の諏訪原城を攻め落とし、次いで
海の支援路の用宗の持舟城も落城させ、高天神城を孤立させていった。
更に家康は高天神城の周りに6ヶ所もの砦を作り、それらの砦を支援すべく海辺に本格的な横須賀城を築いていく。
準備万端整えた家康は、高天神城の周囲を包囲する兵糧攻めの策をとり、城兵の士気を衰えさす作戦に出た。
一方城内からは甲斐の勝頼に支援要請を出すものの援軍の派遣はなく、場内では餓死者や脱走兵が相次いでいた。
こうした状況にしびれを切らした武田軍は、ついに城から討って出たが徳川軍には敵わず、城代岡部元信以下兵600名余は
首を討ち取られてしまった。これが世に云う「第二次高天神城の戦い」だったのです。

  その後高天神城への援軍を送れず味方を見殺しにしてしまった勝頼は、その非情さから家臣の信頼を失い、敵に寝返る者が
出るようになり、  「人は石垣、人は城」 と団結を誇った武田軍も終焉を向かえるのでした。

 
                 掛川3城の位置                            六砦の位置(一ヶ所不明)

  先に書いた 「高天神を制する者は、遠州を制す」 だが、上の航空写真を見てください。
海岸近くの山中の場所は本当の片田舎だと一目瞭然ですよね。この地を支配しても農地は少なく年貢量も上がらないでしょう。
しかも東海道に出たくても山越えをしなければ出る事ができません。
武田信玄はここに来て、そんな高天神城の無用さを一目で見抜き、何もせずに退却したのです。
そのままなら高天神は遠州の片田舎の山城で終わったが、父親コンプレックスの強い勝頼の存在が高天神をクローズアップして
しまったのです。

  「高天神を制する者は、遠州を制す」 とは、武田と徳川が2度に渡る戦闘を繰り返したため、この地や城が重要だったとの
認識が世間に出来てしまった。と私は想像するのです。
私に言わせれば 「高天神は勝頼を生かし、勝頼を殺した」 城と言いたい。
更に言うなら高天神城は今川が造り、守り、裏切り、そして滅亡した、最初から最後まで “今川の城” だったとも言いたい。
何故なら今川の家臣福島氏が城を整備し、福島氏が跡目相続で敗れたあと城を継いだ小笠原氏は、今川を裏切り徳川方に寝返った
ものの武田に敗れてしまう。次に武田の城になった高天神に入ったのは、跡目相続で福島氏の孫の花倉殿を破った岡部氏でした。
そして岡部氏の高天神城は徳川に殲滅され落城してしまったのです。
高天神城と言えば武田と徳川だけに焦点が当たるが、裏にはこのように深く今川も絡んでいたのです。

  ダラダラ書いてしまったがまだ疑問に感じる事がある。家康は何故兵糧攻めした高天神城を降伏させずに滅ぼしてしまったのか?
飢えで体力を消耗した城兵は降伏を許されないと知り、絶望すると同時に徳川軍に激しい憎しみを覚えたでしょう。
そんな軍隊は “窮鼠猫を噛む” の例え通り、思わぬ反撃をするものです。
しかし家康は自軍の被害を無視して、城から打って出た武田兵を次々と討ってしまったのです。これは家康の性癖でしょうか?
かって家康は気賀の堀川城でも城兵や住民をなで斬りにして、その首を土手(獄門畷)に並べて曝している。
更に最近行った持舟城にも、討死した将兵の “城山烈士供養塔” が祀られ、当時の惨劇が書かれていた。

  ウイキペディアには
 「織田信長は高天神城攻めにあたり、家康に対して「高天神城の降伏を許さないように」という書状を送っている。信長は勝頼が
高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようである。」

書状の有無はともかく、勝頼失墜を狙い武田軍を惨殺した家康も信長も深慮遠謀に長けていたのでしょう。

  高天神城は落城するとそのまま廃城となり、再び歴史にその顔を出す事はなかった。(高天神は遠州を制する場所では無かった)


                             高天神城趾案内図

  高天神城想像図を見て城内の散策コースを決めようと思ったが、余りにも想像的で格好は良いが正直何処が何処か分からなかった。
仕方なく少し戻りイラスト風の案内図を見るとこれは良く分かった。
今日は城内を見た後は、またここに戻り横須賀城に向かう予定なので城内を一周したいと思っていた。そこで考え付いたのは赤線の
コースです。これなら城内を余すことなく見学できそうです。

        
                       道が終ってしまった                          階段がある

  案内板のある所は北口なので南口から登城するため舗装路を南口に向かいます。
アレー道なりに行く道は通行止めになり、舗装路は更に先に見える太めの車道に向かっている。
でもこの通行止は車両用と更に前進するが、すぐこの通りの状態に。
でも捨てる神もあれば拾う神もあるのです。こんな階段を見つけ登って行きました。

  
             神はいなかった                              やっと下りれた

  階段の上は竹藪だったが踏み跡らしきものあったので進んでいくと、倒竹が多く一足毎にバキーとかボキーとか大きな音を立てる。
踏み跡か水の流れた跡のなのか分からない凹みは、斜面の裾を円を描くように続き、のまま辿ればまた下に行ってしまいそうだ。
思い切って斜面を登ろうとするが細い真竹が密集していてとても上る状態ではなかった。

  結局凹みを辿って下に降りると、そこは舗装道路が寸断された先の部分だった。全く余計な労力を使ってしまった。

  
             また脇道がある                               車道に戻ってしまった

  山裾に続く舗装路を行くとまた階段があり、その上は平坦になり曲輪のように見えない事もない。おまけに目印のテープまである。
で、結果は又もや空振り。目印のテープと思ったのは何かを縛った紐の残骸だった。どうやら高天神は俺を拒否しているようだ。

  舗装路に戻り出た先は、何の事はなくさっき見えた太めの車道だった。こんな事なら最初から素直に車道を歩けば良かった。

 
              高天神城南口                                 南口駐車場(追手門)

  車道を進むと 「高天神城跡南口➡」 の標識が見えてきた。無駄な時間を使ってしまったが漸く入口に着いた。
先程の北口には駐車場が5カ所程あったが、ここ南口には一つしかな。道も細いので、こっちが搦手門で北口が大手門かな?
入口の表示は 「県立自然公園 高天神城趾」 とあるだけで、搦手門かどうか分からないが多分そうだろう。

城ロマン:掛川3城巡り(小笠山砦2)

2018-01-28 09:03:58 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停

 
                多聞神社の                                 多聞神社

  弓矢を地面に差し神社の境を表した物は何と呼ぶのだろう。岡部の神神社でも見かけたが名前を忘れてしまった。
名前はともかくこの弓矢の先には小笠神社ならぬ多聞神社が建っています。案内には
 「徳川の時代、笛が上手な15歳の少年が小笠山に登ったまま分からなくなってしまった。心配した母に、夢で小笠山の◯◯天と
なると告げた。病人があると夢で、薬を教えききめがあるので、ここに祀った。」
とある。
少し分かりずらいが “行方不明になった少年が仏となり、病人の夢に現れ効き目のある薬を教えた。” という事だろう。
しかし案内板の少年が化身した神の名前の下が消されていて判読できない。
だが神社の名前が “多聞” なので、病人お願いを沢山聞くという事から 「多聞天」 なのだろうと思った。
ところが多聞天を調べると 「毘沙門。常時、如来の道場を守り、法を聞くことが多いことからの名。」 と、あの有名な毘沙門天だった。
でも少年が毘沙門天ではイメージが合わないので、消えた文字は “多聞” ではないかもしれないな。

 
                展望台の四阿                                 笹峰御殿跡

  いつもは神社下の道を歩くのだが、今日は多聞神社の横にある道を稜線に出て南に下った。稜線とはいえ木の枝が邪魔で、
景色は枝越しにチラチラ見えるだけだが、その先に四阿の建った展望台がある。そこからは掛川市街が見えるのだが今日は
冬には珍しく霞んでいて写真を写すほどではなかった。多分富士山も見えると思うが分かりません。

  四阿から下る途中にベンチや椅子がある広まった所があるが、ここは曲輪だったのでしょうか? 分かりません。
登山道に出て小笠神社に向かうと、また尾根部分を平らにしたような所に二つの建物がある。一つはコンクリの箱を横に
したような物で、もう一つは使われなくなったトイレのようだった。
そのコンクリの中に凸凹になったブリキの案内板が置いてあり
 「笹峰御殿跡 徳川家康が掛川城の今川氏真を、また、高天神城を攻めた時に家康の陣屋があった所で、御殿は後に
取り拂われた。家康は浜松からここに来たのである。」
とあった。

  家康の掛川城攻めとは、武田の駿河侵攻で駿府を脱出し掛川城に逃げ込んだ氏親を、今度は家康が攻めたのです。
意気地のない氏真なら簡単に攻略できそうなものだが、家康は苦戦し掛川城を落城させることが出来なかった。
そこで作戦を変更して一転和睦戦略に舵をきる。家康に命や所領を安堵された氏真は勿論和睦に同意したのです。
その掛川城攻めの家康の本陣は天王山にあったとされるが、天王山とは今の掛川城が建つ前の場所の古掛川城だと言われます。
その古掛川城と掛川城の距離は直線で300m程しかありません。慎重居士の家康が戦闘している敵の目の前にいたとは疑問です。
かと言ってここ小笠山に陣を張っても、今度は直線距離で4km以上、しかも攻撃する道は無いのですから、陣と言っても見張台
程度の価値しかない。若し案内板の通り家康が掛川城攻略で浜松からここに来たのなら、多分 安全・保身 ためだったのでしょう。

  安全・保身は高天神城の攻撃の際でも考えられる。家康が高天神城の攻撃の時は城の周りに攻撃用砦を六ケ所設けている。
小笠山砦もその砦の一つだが、高天神城からの距離は一番遠く離れ5km弱もある。しかも砦の建つ場所は険路の上にあり防御は
しやすいが攻撃には不向きな場所だ。
そんな場所に砦を造った意味は、家康が安全を求めたからに違いない。と私の妄想的歴史観は蠢くのです。

        
                     堀 切                                   小笠山砦跡

  この堀切が小笠砦では一番大きくて場所も登山道横にあり、近くには 「小笠山砦」 の杭も建っているのすぐ分かります。
杭には 「徳川家康が掛川城と高天神城を攻めた時に作った砦である。」 と書かれている。

 
               人工地形                                   人工地形

  砦跡付近の林の中には、掘ったような跡や平らに均したような場所があちこちで見られるが、ここに砦が有った事を知らなければ
自然の地形と見逃してしまいそうです。

 
               小笠神社展望台                                 高天神はどこに

  小笠神社の社務所の展望台は南側が開けているので、高天神城を始め遠州灘方面が見えるのだが、今日は生憎な
天気でスッキリ見えません。高天神城も見えている筈ですが、どの山そうなのかはっきりしません。
多分あの山と思う山はあるのですが自信がない。毎回双眼鏡を持ってこようと思っていても、いつも忘れてしまいます。

 
                小笠神社                                   神社のリフト

  毎回お馴染みの小笠神社です。何年か前に各地の神社などに油を撒いた事件があったが、その痕跡が今も残っています。
くだらない事をする奴がいるものだと思うが、去年もまた油撒き事件が発生して中国人女性が手配された。
これが逆な立場なら中国国民はどのような行動をとるでしょうね。

 
              小笠神社の階段                               小笠神社の階段

  神社から急な階段が幾層も続いています。どうですかこんな所を馬に乗って攻撃できると思いますか。

 
                小笠神社参道入口                              小笠池

  参道入口の大きな案内板を見ていた人が 「小笠山の見所は六枚屏風と聞いたけど、どのように行くのですか?」 と聞いて来た。
一人歩きの老ハイカーを見てベテランとでも思ってくれたのだろうか。期待に添わなければと得意になって説明する私です。

  小笠池付近は大東町時代には釣りやハイキングにと手を入れていたようだが、今はその名残といった風になっている。
写真上に見える白い建物が小笠神社の展望台の所です。展望台から覗き込んだが池が見えなかったが、よく見れば見えたのかな?
最近静岡県では溜池上部が崩壊し土石流が発生する個所の調査をしていると報道されていたので、県の 「土砂災害危険マップ」 を
覗いてみたら、小笠池と小笠神社の間が “急傾斜地崩壊危険個所” に指定されていた。矢張り怖い場所なのだ。

 
                 小笠池隧道                            ここは怖かった(以前の写真)

  池の堤防を渡り崖の下を行くと小さな隧道がある。この隧道を潜って行くと県道251号脇の無線中継所に出る事ができる。
だが途中に犬戻りのような崖の上の細道がある中々恐ろしい場所です。
私も最初はここを何気なく歩いていたが、ある時六枚屏風の上で小砂利に滑り危うく崖下に落ちそうになった時がある。
その後は普段何とも思わない所でも怖さを感じて歩いていたのだから、大人しく帰れば良いものをこの道に来てしまった。
そしてこの崖の上の細道を見て震え上がってしまった。
さんざ悩んで末に勇を決して渡ったものの、渡り終わってからも怖さは抜けず、もう二度とここへは来ないと思った。
そんな事のあった後で掛川市のHPを見ると、この箇所が通行禁止なっていた。
今はどうなっているのだろう。通行禁止は解除されたのかな? でも解除されてももう歩く気はしない。
 
 
              小笠池Pの案内板                              ここを乗り越えて

  池の堤防の下は駐車場になっていて古い案内板が建っていた。崖の上の細道はと見ると、赤く印があり 「通行止め」
追記されていた。池を回る道には何も書かれていないが隧道を通るには照明器具があった方が良いでしょう。

  県道249号に合流すると歩道の無い車道の隅を歩く事になる。県道の右下には小笠池を水源とする下小笠川が流れていて、
渡る事はできないが川向うには車も通れる舗装された道が見える。
でも大丈夫です? 県道に合流してすぐの所のガードレールが切れていてロープで封鎖されている。おまけに 「関係者以外
立入禁止」
なんて書いてある。
しかし公徳心の薄い私はロープを跨いで対岸に渡るのでした。更に図々しく 「ここは歩道にすべし」 なんて思いながら。

城ロマン:掛川3城巡り(小笠山砦)

2018-01-25 11:11:19 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停

                         ハイキングコース入口から県道249号までの概略図


  今日の山道はマスラノ池上の山道入口から小笠池までが唯一の山道で、後は舗装歩きとなります。

 
                県道403号線                                与左衛門池

  県道403号のガードを潜り右折して県道の横を行くと前方に水溜りが見えた。
オッ! 今冬最初の氷かと思ったが単なる水溜まりだった。
寒さに負けて早朝出発は避けているくせに、いざ歩いていると雪や氷を期待する勝手な私です。

  農道が県道と離れると雰囲気か徐々に良くなり、最初に顔を出すのが与左衛門池。多分与左衛門さんが作った溜池でしょう。

 
                 分岐1                                      ドンドン隧道

  与左衛門池の横に標識があり “小笠神社への尾根” と山道を指している。この分岐1から山道に入っても良いのだが
今日はこのまま農道を進んで行く事にした。
わざわざ遠回りをしていく理由は農道沿いの道の雰囲気が良いから? イエ違います。短距離より平坦な道に逃げただけです。

  ドンドン隧道は案内板によれば、下にある与左衛門池を洪水から守るために明治時代に掘った隧道だとあり、更に
 「子供の頃から、遊び親しんだ。」 ともあるが、隧道の中に入って遊んだのかな?
それにしてもここは民家のある場所から大分離れているが、子供たちの家は何処だったのですかね?

 
                  分岐2                                    絶壁だが

  次に出てきた溜池の名前が 「スマラノ池」 とは何の事か想像すらできません。
池を過ぎて合流した農道を左に直進すると今度は写真の分岐2に出ます。標識には山道を指して 「小笠山」 と書いてあります。
マー小笠山には違いはないが、もう少し丁寧に言うならば 「小笠山、138度展望台」 とでも書いてくれれば満点です。
今日は私は小笠山には行くが展望台には行く気が無いので、この山道はパスします。

  農道の奥に崖が見えている。これを上から見るとゾッとするが、下からしかも写真技術の下手な私が写すとただの草叢です。

 
                 山道入口                                  稜線縦走路合流

  農道を更に進んでいくとカーブミラーある道の左右に道標が建っている。左カーブミラーの道は与左衛門池で分岐して来た道で、
右は小笠山に向かう道です。ここを登れば稜線の縦走路に出るので、138度展望台や法多山にも当然行けるが、わざわざ遠回り
することもないでしょう。逆の小笠山に行くにはどちらでも良さそうだが、楽を選ぶならこっちの道でしょう。
好きで山に登るのに、この選択は何でしょうな。楽、楽と選ぶなら歩かなければいいものをと自分でも思ってしまいます。

  稜線で合流した縦走路を右(西)に行けば、138度展望台、腹摺峠、三ツ峰、法多山、エコパ、愛野駅に向かい、左(南)に向かうと
小笠山を経由して小笠神社に行きます。今日は左の小笠山に向かいます。

 
                  犬戻り                                    犬戻りの絶壁

  稜線の道を少し行くと 「犬戻り」 に出ます。今は橋を掛けてくれてあるので不安なく通れるが、橋の無い頃は犬でも怖がって、
ここから戻ってしまったのでしょう。橋から下を覗き込むと◯◯が縮んでゾッとします。

   
            ?                           ?                          ?

  歩いていると時折ビニールで包まれた物を見かけます。以前は茶色のビニールで包まれていたが最近は透明な物も見かけます。
で、その中身はというと、木を切断した幹に何本かの切れ目を入れた物でした。何でしょうね?

 
               説明があった                               六枚屏風の分岐

  ビニールには 「さわらないでください。カシけガキクイムシ くん蒸作業中 機関29年6月13日~27日 ひふみ林業(有)」
あるが、 “カシけガキクイムシ” ってなんだ? 
兎も角ネットで “かしけがきくいむし” で検索すると 「カシノナガキクイムシ」 がヒットしました。
なん~だ~! カタカナの “ノナ” を、ひらがなの “け” と誤読してしまったのだ。で、カシノナガキクイムシとは
 「カシやシイ、ナラ類に棲息するナガキクイムシ科の昆虫である。成虫の体長は5mm程度の円筒状で、大径木の内部に穿孔して
棲息する。穿孔された樹木は急速に衰える。しばしば大量発生と衰退を繰り返す。
対策として、被害木を切り倒して燻蒸する伐倒処理があるが、被害本数が多い場合は現実的ではない。」
等とあった。
では、このビニールは害虫の駆除中なのか、それと駆除の実験中なのか、期間は大分過ぎているがどうなっているのだろう。
そう言えば 「ナラ枯れ」 なんて言葉もあるが、この虫が楢林に大量発生して多くの木を枯らす事だろう。
 (このビニールの包は小笠山の山頂にあったのですが、説明の都合で順序を早めました。)

  六枚屏風の分岐に来れば小笠山山頂はすぐです。

 
          小笠山山頂(2018年1月現在)                         小笠山山頂(2015年3月現在)

  小笠山山頂の三角点の標識を見てなんとなく違和感を感じた。標識と標石がこんなに離れていただろうか?
過去の写真を見てみると、3年前の写真には標識が標石の後ろにあったのが、今は標石の大分手前の登山道脇に建っている。
小笠山山頂は余り山頂らしくなく山頂で見落とす事もあったが、登山道脇に標識があれば三角点も山頂も見落とす事はないでしょう。

  
               山頂横の絶壁                                 山頂直下の四辻

  少し広くなった山頂広場の南側を覗き込んでください。きっとゾッとしますよ。
この山は低山で道の傾斜も緩いのだが、あちこちに断崖絶壁があります。それも岩登りには適さない土が押しつぶされたような
脆い崖で、途中には丸い河原石のような物が挟まれています。
崖を覗き込んで写真を撮るのだがゾッとするような写真が撮れないので、代わりに谷底でなく正面の崖を写しました。

  ウーンここも景色が違う。以前ここには高札場の形をした物に小笠神社の決め事が書いてあったが、今はそれも倒れたままだ。
 「定 一、車馬乗リ入ルコト 一、鳥獣等捕ルコト 一、竹木等伐ルコト 一、猥リニ火ヲ用フルコト 右條ニ於テ境内令禁止者也 
大東町入山瀬  小笠山神社」
と禁止項目が書かれていたのだが・・・・・・・・・・・・
隣に建っている鳥居は木製だったものが金属いや樹脂製? 兎も角人工の物になっていました。


                                  小笠山砦縄張                             現地案内板

  高札場の石垣に小笠山砦の縄張が立てかけられていた。以前は自立していたが杭が腐ってきたのだろう。
小笠山に砦が有った事を知らずに登ってきた人は、これを見ると一様に驚くが、何せ専門的過ぎて理解しずらい。
かく言う私もこの縄張りを見て分かる事は、尾根の上に作られた細長い砦ということだけだ。
それでもこの辺りを歩いているので、縄張の山頂から小笠神社にかけての北東斜面は断崖絶壁が続き、敵は攻めて来れないし、
また、小笠神社から南側の斜面も縄張の等高線は緩やかに見えるが、下の方は大きく崩れていて、とても集団が登れるとは
思えない。
だが、縄張はその南側が一番厳重に防御していて丸馬出さえもある。こうして見いると今は崩れて登れそうもない斜面も、当時は
崩壊が起きていず上り下りできたのかもしれない。

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 ここまで草稿を書いていたら突然ブログの簡易プレビュー機能が無くなってしまった。
そう言えば少し前から簡易プレビュー機能を廃止すると書いてあったのがこの事だろう。
写真や文字の長さは勿論、誤字脱字のチャックにも利用していたので、この機能が無くなるととても不便です。
今回の小笠山砦はまだ終わっていないが、一先ずここまでを前編として後半は追ってアップします。

城ロマン:掛川3城巡り(掛川城)

2018-01-23 10:37:27 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停
482
                                      掛川3城概略図
               

  大井川の河川敷を歩いているときラジオで 「掛川三城物語展を大須賀図書館で開催中です。」 と案内していたのを聞き
早速調べてみると、掛川三城とは掛川城と高天神城と横須賀城の事らく、展示会ではジオラマなどで詳しく案内しているようだ。
最近私は山城跡を巡っていて、旧大東町に属する高天神城と横須賀城と、それに小笠山砦とで “大東城址巡り” を歩こうと
思っていたので、それらの城跡を巡りながら展示かも覗いて見れる丁度良い機会だとコースの検討を始めた。

  掛川城から小笠山を経て高天神、横須賀に出るコースは過去3度歩こう会で歩いていたが、その時のコースは横須賀から
更に法多山に抜けてエコパから掛川城に戻る40kmを越すコースだった。
その時はただ早く遠くに歩くのが目的で、掛川城も高天神城も横断しただけだし、横須賀城に至っては城の下の道を歩いただけ
だった。勿論案内板を読む余裕もなく写真すら写す事ができないので、タイムなどは今回の観歩の参考にはならない。
それに今の私の足では横須賀まで歩けるか不安なのだから横須賀からの帰りはバスを利用するしかない。
なら、帰りは当然バスだと思い、先ず横須賀から掛川への帰りのバスの時間を調べてみた。
最初は横須賀が掛川市なので掛川駅からのバスを調べたが、そんな路線は見つからない。市役所の自主運行バスも調べて
みたが見つからないので、次は隣の袋井駅からも調べてみたが矢張りない。
しかしマピオンの地図にはバス停は表示されていて、横須賀城趾近くには西田町と七軒町の2ヶ所がはっきり出ている。
これなら多分バスはあると思うのだが、内心は心配で普段は持ち歩かない万札を懐に忍ばせることにした。
道はほぼ分かっている積りなので前日にネットで確認するだけで充分だろう。

                           掛川駅から富士見霊園下までの概略図
              

 此の辺りの道は “勝手知ったる他人の家” で適当に歩いても目的地には辿り着けます。

 
               掛川城周辺                                掛川城のジオラマ

  どうせお城に行くのなら大手門から入ろうと、駅前からの道を旧東海道を一区画東に戻り大手門に行く。
折角大手門を再現するのなら城の入口正面に再建すれば良いのにと思ったら、近くにあった番所の案内板に 「本来の大手門の
位置より北に50mの位置に再現した」
書いてある。
なら今曲ってきた信号の辺りにあったのだろう。でも本当かな? 大手門が城の正面にあれば、城が威風堂々と見えるのに・・・・・
なんてその時は思っていた。だが “掛川三城展” のジオラマを見て納得した。
ジオラマは南北を逆に写してしまったので見にくいが、このジオラマを見れば大手門の位置が納得できた。
天守正面の大手門では、敵が攻めてきた時の勢いを、そのまま弱める事も無く城内に向かわせてしまう。
それを枡形上の位置にすれば敵の勢いを少しでも弱める事ができるだろう。江戸時代の城下町でよく見かける “枡形” がここでも
利用していたのだろう。

 
               掛川城大手門                                    油山寺山門

  中々どっしりした大手門だがどこかで見た事があると思ったがすぐに思い出した。それはそうです昨年までは毎年初詣で歩いていた
遠州三山の油山寺の山門です。
油山寺の山門の案内には 「油山寺に保管されている棟札に “掛川城御玄関前二之門” とあります。」 と書かれ県の重要文化財に
指定されたいた。では、ここにある大手門はと、案内板を探したが見当たらない。と、いう事は・・・・
それにしても “玄関前二之門” の二之門とは何だろう? 一之門はどうなったのだろう? 新しい疑問が湧いてしまった。

 
                MHの掛川城                                    掛川城

  掛川のMHの蓋の絵柄は当然掛川城だが、その蓋に似た場所は大手門を出て逆川に掛かる橋の上にあった。
どうですか似ているでしょう。

 
               三日月堀                                  十露盤堀(そろばんぼり)

  三日月堀と聞くと武田流築城法だと思ってしまうが、掛川城は武田軍が入った事はない。案内板には
 「本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8mありました。」 とあるが当然武田の事は書いてない。
大体建物の周りに堀を作るとなれば、角形か丸型になるのは当り前なのだから、武田に関係ない城にも三日月型の堀があっても
何の不思議もない事だ。

  三日月堀の上には 「十露盤堀(そろばんぼり)」 があったがその間は狭く、丸馬出のように馬や兵士が整列する場所はない。
しかしここに弓部隊を配置すれば三日月堀から攻めてくる敵を狙い撃ちできるだろう。そして不利になったら本丸に逃げ込んで、
今度は上から三日月堀を制覇し十露盤堀を攻めてくる敵に立ち向かう事ができる。
それにしても十露盤堀と良く言ったもので、角ばった堀の底の岩盤がそろばんの玉に見えない事もない。案内板には
 「本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見える
ことが、その由来と考えられます。」
とあった。 エッ! 私は水の無い岩盤がそろばんの玉に見えたのに・・・・・・

それにしてもここに岩盤があるという事は掛川城は岩盤の上にあるのでしょうか?

 
                  掛川城                                    掛川城

  掛川城も御殿も開園は9時からなのでまだ開いていません。尤も開いていても先ず入場料を払って入る事はないでしょうが。
山城巡りをしている私には掛川城のような立派な城は手に負えません。ただ掛川城は今川氏親の命により築城され、孫の氏真が
武田の駿河侵攻で逃げ込んだ城で、歴史的事実には興味はあります。

  掛川城の写真を撮っていた時は気づかなかったが、掛川城は石垣が無いのですよね。その事に気づいたの横須賀城の石垣を
見ているときです。山城では石垣は無いのは当り前なので何も気づかず通り過ぎてしまいました。
でも天守閣は山之内一豊が城主の時に完成したのだから、石垣が有っても良さそうなものだが?

  ところで掛川城は平城か、それとも平山城なのか?
大崩山塊の城廻りで納得した平山城の定義は 「近くの平らな部分から標高100m以上であるか否かを基準にする。」 だったが、
掛川城の天守閣の標高は35m程度なのでとても100mにはならない。
では平城かと言えば高台に聳える天守を見ると、そうも言いずらい。因みにネットでは平山城に分類してあるものが多かった。
仕方ない私も掛川城は平山城にしておこう。

        
         掛川東高校の案内標識                          ハイキングコース入口

  掛川城を早々に退散して街中を通り小笠山のハイキングコース入口に向かいます。
東名高速のガードを潜って オットここでまた下らに事に引っかかった。
先日読んだ新聞に “アンダーパスを通り 云々” の表現があったが、今は “ガード” と言わず “アンダーパス” と言うのだろうか。
そうなると現役の頃はよく “ガード下の居酒屋で飲んだ” と言うのを、今は “アンダーパス下の居酒屋で飲んだ” と言うのか。
なんか雰囲気が出ないよな。で、アンダーパスを調べてみたら
 「立体交差で掘り下げ式になっている下の道路。くぐり抜け式通路。鉄道や道路の下を通る地下道。」  マー納得。
ではガードはというと
 「道路を跨いで架け渡した鉄道線路の通る橋。道路を跨ぐ高架橋(跨道橋)のこと。 梁(はり)を意味する英語」 でした。
つまりガードはトンネルの事ではなく、その上を通る橋の事で、アンダーパスとはトンネルそのものでした。
なので “ガードを通って” とは言わずに “ガードを潜って” となり “ガード下で飲む” になるのだろう。
そしてアンダーパスは “潜る” のでは無く “通る” になり “アンダーパスで飲む” となるのだろうが矢張り雰囲気は出ない。
ガードという言葉は何となく場末の感じがして、私の飲む場所に適して適していると思うのだが。

 オットまた脱線をしてしまった。こんな事だからダラダラ文が治らないのだ。でも分かっていても止めれないのです。
話を元に戻し、ガードを潜った先に、静岡県立掛川東高校があり、その入口に写真のような案内板があった。
何を言いたいのかって! マーよく写真を見てください。 東高校のある場所の住所は “南西郷” で 東ではない。
なのに名前が東高校ではおかしくないですか。
この学校の建っている場所は、掛川駅を中心とするなら南西方向で、城を中心とするなら南南西だ。
校名にどうしても方角の名前を付けたいなら “掛川西” か “掛川南” だろうが掛川西高校は既にある。
この掛川西の建つ場所だって城のすぐ後ろ側にあり、 “西” とはどこに対して西なのか分からない場所だ。

  どうもこの学校名の方向の基準が分かり難い。藤枝市にも東高、西高、北高、南高とあるが一番北にあるのが東校で
東にあるのが北高。南校は4校の中で一番西でかち南に建つ。そして西高はそれらの真中にあるのだから不思議です。
調べついでに掛川東高をさらに調べてみると分かりました、解決しました。
東高は2004年に掛川市掛川から移転しており、その場所はバッチリ城の東にあり、近くには今も東中学がある。
その時の校名を移転してもそのままにしたので位置関係が変になってしまったのだ。
成程な。 そう言えば掛川西高も間違いなく城の西側にある。

そうそう住所名の “南西郷” とは、国1バイパス西郷インターの上(北)の方が上西郷で、インターの下(北)が下西郷
だった。では本郷はと探すと、有るには有ったが掛川の中心地から遠く北に離れた新東名・森掛川IC近くで、掛川とは
関係ないようだ。
結局西郷の元となる本郷の場所は分らずじまいだったのが残念だが、こうして歩いていればいつかは分るかもしれない。
犬も歩けば棒に当たるだ。

  ハイキングコース入口の案内板辺りで大掛かりな造成工事が行われていた。看板を見ると工業団地を造成中だった。
今は株価は上昇し貿易収支も改善して景気は上向き傾向らしいが、私のような年金生活者には景気の動向はあまり関係ない。
いやどちらかと言えば景気が良くならない方がいいのではと思う。景気が良くなると給料が上がり物価も上がってしまう。
だが年金は減る事があっても上がる事はない。それなら物価は低い方がいいと思ってしまう。
その物価をアベノミクスと日銀は必死に上げようとしているのだから、私が与党に一票を入れないのは当然です。

仲間ウォーク:千葉山智満寺初詣

2018-01-19 10:18:44 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-14(日)
歩行時間:4時間55分   休憩時間:1時間05分   延時間:6時間00分
出発時刻:9時50分     到着時刻:15時50分
歩  数: 28、713歩(推定距離20.4km)    GPS距離18.8km
行程表
 天徳寺 1:05> 智満寺 0:55> 417m峰 0:20> 双子山 0:40> 地蔵尊 0:35> 心岳寺 1:20> 藤枝駅

                                     千葉山智満寺初詣概略図


  今年の仲間ウォークの初詣は千葉山智満寺にしました。
帰りは智満寺から眺めの良い417m峰を通って双子山に出れば雪を被った富士山も眺められるでしょう。

 
               天徳寺の参道                                 天徳寺山門

  仲間ウォークでは当たり前の出発地までのバス利用。最近はこの癖がついてしまい一人の時もバスを使うようになってしまった。
以前は “駅からハイク” とか “駅から遍路” 等と恰好を付けて言っていたが、今はその言葉は使えなくなっている。

  天徳寺で有名なものは山茶花参道ですが、果たして正月も過ぎた今咲いているでしょうか?
仲間ウォークで花を求めていく場合があるが、その多くは早かったり遅かったりで見る事ができないでいる。たまたまタイミングが
合ったのは竜爪のチャボホトトギス(矮鶏杜鵑)ぐらいの物だろうか。
尤も仲間は花や景色や名所には余り情味が無いようなので、外れでも気にしなくて済むのは有難いけどね。
今回も案の定外れで、変色した花が枝にしがみついている状態でした。

  天徳寺の山門は静岡県の文化財に指定されていますが、特段目を引く物はありません。
ただこの山門は安土桃山時代に、徳川家康が豊臣秀吉から在京賄料の一部として与えられた土地で、そこを管理した代官が
建立しています。そのため天徳寺には代官の長谷川家歴代の墳墓があります。
また、隣の尾川には長谷川一族の子孫が尾川の名主となり住んでいた長屋門が市の指定文化財になっています。

  天徳寺は島田の中心地から5km程北に入った大草地区にあり、更に北にある智満寺には県道217号(伊久美元島田線)で
行くのですが、この217号は何故か智満寺は向わず、途中で分岐した後は更に道幅を細め稜線に向かっています。
稜線には双子山と千葉山を結ぶ農道が走っていて、県道はその農道に合流すると消滅しているようです。
ネットの地図上には更に道があるようになっているが、現実には農道しかない頼りない県道です。
そんな訳で一般的には島田から智満寺に行くには県道は使わず、尾川から智満寺に向かう市道を利用するようです。
それなのに裏道が県道になったのは何でしょうね?

        
                      智満寺本堂                                 サルノコシカケ

  智満寺の本堂は国の重要文化財で、萱葺の堂々とした雰囲気を持っています。
境内の木の “サルノコシカケ” が生えていた。これは癌に効果があるらしいが寺の境内にあるので取る人もいないのだろう。
まだ小さいが年々大きくなって最後には寺の名物になる、なんて想像するのも楽しい。

          
                                  今日のお土産

  私が歩く静岡県志太地区にも幾つかの天台宗の寺がある。例えば高草山の法華寺、藤枝天王山の安楽寺、島田の東光寺、
そして島田千葉山の智満寺がある。これらの天台宗の寺の近くを歩いていて気付くのは、民家の軒策に貼られたお札です。
痩せた悪魔が黒いタイツを穿いたような姿が摺られているお札を、最初に見た時は少なからず驚いたので、早速調べてみた。
この黒い悪魔は天台宗第18代座主(最高の位)で、比叡山延暦寺の中興の祖だった。名前は良源、諡号は慈恵(じえ)大師。
しかしそんな名前より命日が正月の3日だった事から 「元三大師(がんざんだいし)」 と呼ばれで親しまれている。
そんな高僧が何故黒いタイツ姿なのかも調べてみたが良く分からない。
あれは骨と皮だけの角を持った鬼になって、疫病神を追い払った時の元三大師の姿で 「角(つの)大師」 と呼ぶらしい。
この角大師の像を摺ったお札は、魔除けの護符として民家の軒先に貼られるようになったとか。

  このお札は以前から欲しいと思っていたので今回1枚購入しました。これを玄関に貼って疫病神が近づかないようにします。
イエイエ誤解しないでください。私が特に信心深いとか縁起担ぎをすると云うわけではないが、これまでも魔除けとして般若や、
トルコの 「メドゥーサの目」、インドネシアの 「ガルーダ(伽楼羅)」 の面を玄関の隅に掛けてあります。
だからって宗教心が強いわけではありません。過去お守りを買った事はないし、お御籤を曳いた事もありません。
アッ!そうだ。お御籤と言えばあれは元三大師が考えて始めたものだって。
特許を申請していれば・・・・なんて考えるのは下種男の私だけでしょう。

  メドーサの目とガルーダの事も簡単に話しておきます。
メドーサとは宝石のように輝く目を持ち、見たものを石に変える能力を持ち、その頭髪は無数の毒蛇だったと言われています。
元々美少女であったメドーサは、海神ポセイドンと神殿で交わったため神の怒りをかい、怪物にされてしまったが、ポセイドン
との間には天馬で有名なペガサスが生まれている。
そのメドーサの目玉をあしらったトルコブルーの丸い石が、魔除けのお守りとしてトルコの観光地では盛んに売られていました。
その目の魔力に惹かれて私も一つ購入してしまったのです。

  ガルーダとはインドネシア航空の名前ですが、元々は鷲の頭と嘴、翼と爪、脚を持つ鳥人で神の乗り物だったそうです。
それが転じて飛行機会社の名前になったのだから洒落ています。
ガルーダが魔除けになるかどうか分からなかったが、その形相は般若や鬼より恐ろしく、かつ精巧に彫られてるのと、値引きに
引かれて購入してしまいました。

  これらの三つの魔除けに守られている我家に、更に黒いタイツの悪魔が加わったのですから、我が家はもう大盤石で、矢でも
鉄砲でも持ってこいです。    と、願いたいですね。


                                     417m峰から

  稜線を行く農道は雲一つない青空と、風も無い絶好なウォーキング日和でした。ジャンパーなどの防寒着を着ていないのに
陽射しに照らされて背中はポカポカして汗ばむくらいでした。
智満寺から二子山は農道歩きになるが、私には一ヶ所だけ農道から離れて歩く道があります。場所は稜線の農道が藤枝の
中山集落に下る農道との分岐点より少し智満寺寄りのピークです。
智満寺側から来て農道が右と若干左直線に分岐している所があります。気にしてなければ自然と右の平らで太目な農道を進んで
しまうが、ここを左の細くなった農道を登るとすぐ右側の視界が開け、更に進んだピークには祠に入った地蔵が祀られています。
ここではまだ東は開けていないが少し下った先には写真のような絶景が待っています。
私の多く歩くのは安倍川以西の志太の山が多いため、富士山の眺めは似たような物になってしまうが、それでもこのような景色を
見ると気分は高揚してきます。
普段はあまり写真を写さない中間も盛んにシャッターを切っていました。
ピークからの下りだすと舗装された農道は終ってしまうが、私は左に延びる広めの道らしき所を下り、林の手前で茶畑の中の
道に入ります。そして茶畑の中の小さな側溝の所を下れば中山へ分岐した農道の四辻に出ます。

        
               一生我慢                               双子山から駿河湾    

  太陽光発電設備が出来てからの二子山の広場には入りにくくなってしまった。 「私有地につき立入禁止」 なんて看板が
立ったので余計その感が強くなってしまった。
昨年暮れには芹ヶ谷峠下の高台で、半世紀振りかで 「馬鹿野郎」 呼ばわりされた事もあり、内心ドキドキしていたが仲間は
平然としたもで、 「さっきの方が眺めが良い」 なんて嬉しい事を言ってくれた。
双子山で見るのも417m峰で見る眺めも変わりはないが、双子山の方は竹や樹木が延びて邪魔をしてしまうのが難点です。

  今日は伊豆半島もはっきり見えていて、半島の先に島影も幾つか見えていた。仲間たちと 「あれは石廊崎だ」 いや 「波勝崎だ」
 「新島だ」 「神津島だ」
とうるさい事、うるさい事。

        
            双子山虚空蔵尊                              三等三角点

  何時も見慣れた双子山の虚空蔵尊だが、今日は新しい事に気が付いた。平らに均された敷地に建つお堂の前に、まるで
塚の上に建てたような三角点の標石があるが、この三角点を見るたびに “これでは標高が狂ってしまう” と思っていた。
それが仲間の一人が 「このお堂の敷地は、随分掘削をして整地したものだ。」 と言った。 「エッ?」 て聞き返すと
 「ほらお堂の横の山林の所より50cm以上低くなっている。」 成程!納得です。
確かに標石の高さが、横の山林と同じくらいの高さになっている。これはお堂の敷地を整地すとき三角点の周りに石を積んで
そこだけ残したのだろう。ただその石垣の保護が充分ではないので、標石が動いてしまっている気配はあるが・・・・

この場所は私有地だが、三角点のある場所は動かすことができないのだろうか、そういえば椿山の三角点も今は廃墟なっている
山荘の庭にあった。三角点は動かすことができないのかな?
大丈夫でした。国土地理院のHPにこんな文章が掲載されていました。
 「測量標(国家基準点)の移転請求 三角点や水準点等の測量標(国家基準点)に、き損やその他効果を害するおそれのあるときは、
その理由を明記した書面をもって都道府県知事を経由して国土地理院長に当該測量標の移転請求ができます。(測量法第24条)」

更にこんな事も書いてあった。
 「基準点の破損を見つけたら… もし、破損している基準点を発見したときは、各地の地方測量部までお知らせください。
三角点の破損や消失から守るため、是非皆さまのご協力をお願いします。」

ここの三角点は知らせるべきか、それとも・・・・・・・・・・・

 
                段の地蔵尊                           経塚山の新東名(助宗地ンネル)

  双子山から心岳寺に向かって2/3くらい行った場所に丸彫りのお地蔵さんが安置されている。この場所は若干平らになった場所
なので標識には 「段の地蔵尊」 となっている。ではこの平らな所(段)は何て呼んでいたのだろう。
例えば山犬段とか落人の段とか、段にも名前が無ければ場所を特定しずらい。この場所も地蔵が祀られる前は何と呼ばれていたか
分からないが、地蔵が安置されてからは 「地蔵の段」 とでも呼ばれていたのではないかな。
そうでないなら “◯◯段の地蔵尊” と書いてくれた方がありがたいな。

  山道が農道なって暫く下るとトンネルが見えてきた。 これは新東名経塚山の助宗トンネルです。

 
                心岳寺本堂                               心岳寺の筋塀(定規筋)

  心岳寺に来ると塀の模様が気になってならない。直線を引いた模様でこれが筋塀とか定規筋と呼ぶ事を知多半島を歩いて知った。
何でも皇室に縁のある寺のみ許された模様で、線が多いほど高貴で最高位は5本筋だとという。
それが心岳寺では最高位の5本筋なのだから余程皇室に縁が縁があるのだろう。そのあたりの事をお寺さんに聞いてみたいのだが
境内にはいつも人影は無いので聞く事ができないでいる。

心岳寺の案内には 「1504年創設され 開基は三条内大臣実望公の母」 となっているが皇室の方ではない。
そこで三条内大臣実望公を検索してみるとウイキペディアにこんな事が紹介されていた。
 「三条実望(1463‐1530) 正室は今川義忠の娘。永正の錯乱で身の危険を感じて一時妻の実家である駿河国今川氏を頼っている。
今川家では駿河山西の稲葉荘を賄領として与えた。」

今川義忠とは遠州勝間田城と横地城を攻略した凱旋での帰途、横地の残党に討たれてしまっている。その子氏親は相続争いで
焼津石脇城で旗揚げをした伊勢新九郎(北条早雲)の助けを借りて今川の当主になった。
三条実望と氏親とは義兄弟の関係なので、頼ってきた実望に稲葉の地を領地として与えたのだろう。
だがこれで皇室が最上位の関係を示す五本の定規筋を許すわけはない。
果たして真相は如何に・・・・・いつか心岳寺さんに尋ねてみたい。

  「今日は、志太の二っの寺と二つ山の初詣をしたので、言うなれば志太ニサンにニザンかな」 と仲間が言った。
確かにそれで間違いはないが何とも語呂が悪い。それに頭に志太と付くと他にもいい山や寺もありそうだ。
心岳寺から駅への帰り道はそのことで頭は一杯で、出た結論は “島田一社二寺三山” と “島田一社二山三寺” の二つだった。
寺の事を “山” と表現するのは知っていたが、神社も “山” と言うらしい。例えば出羽三山は 月山神社・出羽神社・湯殿山神社の
事で、熊野三山は 熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の事らしい。
だが、そうなると “島田一山二山三山” と全て “山” となって何とも分かり難い。そこで神社は “社” として、寺はそのまま “寺” と
してみたがどうだろう。問題は場所だが “島田一社二山三寺” なら大井神社、矢倉山、千葉山、静居寺、智満寺、天徳寺となる。
だがこのコースの欠点は景色が良くなく富士山を見る事ができない事だ。
次の “島田一社二寺三山” にすれば山に双子山が加わり寺の心岳寺が抜ける事になる。以前ならこれで問題なかったのだが
来年初詣にこのコースを歩くとなると完歩できるか自信が持てない。ウーンどうしよう? 一年かけてコースを考えてみるか。

  藤枝駅に3時50分到着で距離は約19km。なのに大分疲れてしまった。これに矢倉山が加わるとなると・・・・・・・・

MHシリーズ6

2018-01-13 10:46:44 | マンホール
                正月なら・・・・・・・                        (MHシリ-ズ)

  今回のMHシリーズは冬編を予定していたのですが、当地は暖地のため冬をイメージする “雪だるま” や “スキー” 等は
皆無でした。なら仕方なと正月のめでたさを表す “一富士二鷹三茄子”や “松竹梅” を探したが、茄子や竹がありません。
正月早々半端物を紹介するのも業腹なので、セット扱いは止めにして富士山一本で行く事にしました。
 
                                「SLと富士」
          
                              静岡県県御殿場市
  今年最初を飾るMHの写真は、わが故郷・御殿場をかっては走っていた懐かしい蒸気機関車です。
富士の雄姿をバックに、横には富士桜の花(多分)も見えています。
蒸気機関車のプレートの 「D52」 は、往時御殿場線を走っていた蒸気機関車の形式名だそうです。
この名称の最初のアルファベットは機関車の動軸数を表す印で、Bは2個、Cは3個、Dは4個となっています。
一つの動軸で対の車輪を動かすので、4つの動軸を持つD型は8輪車という事になります。

  次の数字は機関車の種類を表す形式番号で、10~49=タンク機関車、50~99=デンダー機関車です。
タンク機関車とは機関車本体に炭庫や水槽を装備した機関車で、テンダー機関車とは機関車と別に石炭および水を積載した
炭水車を接続した形式の機関車だそうです。

         
                           D5型蒸気機関車名称図
名称図中央の大きな車輪4個が動軸すなわち動輪という事でしょう。

         
                            D52型蒸気機関車

 御殿場駅前のポッポ広場にあるD52型蒸気機関車で、ネットからコピーさせてもらいました。
有名なD51型蒸気機関車とD52型の違いは、D51型を重量運搬用に改良したものがD52型で、主に貨物運搬用に
使ったそうですが、力が強いので御殿場線のような急勾配の路線でも使ったそうです。
しかしそんなD52型でも御殿場線の急勾配には敵わず、富士岡や岩波駅ではスイッチバックでした。
スイッチバックで思い出すのは、スイッチバックをする所では前進していた車両をバックさせるため当然一旦停止しました
そんな状態になる当時の悪童どもは、列車から飛び降りて駅を通らず 「薩摩守」 をしていたのです。
オット今では薩摩守では意味不明かもしれませんね。なら 「薩摩守忠度(ただのり)」 と言えば分かるでしょうか?
そんなのどかな時代では線路の横に立っていると冷たい水蒸気が当たり、水泳帰りによくこのシャワーを浴びたものです。
それが後になってあの水蒸気は、当時垂れ流しだった便所の水だと聞いてびっくりしたものです。
勿論水泳と言ってもプールではなく、川の淵を利用した天然プールでした。

                                 「金太郎と富士」
             
                                静岡県小山町
  御殿場市のお隣の小山町は足柄山の麓の町ですが、富士山須走口も小山町に属します。
だがJRの小山駅からの登山バスが出ていないので、須走口で小山町を連想する人は少ないかもしれません。
その代り小山町といえば 「足柄や~まの金太郎 ♬」 と、童謡にも歌われている 「金太郎」 の故郷です。
で、マンホールの蓋のデザインも当然金太郎で、しかも 「足柄山の金太郎 熊にまたがり相撲のけいこ♬」 と童謡
そのものの格好でした。
周りを縁取る植物は富士山の “富士アザミ” と、箱根の “熊笹” でしょうから両者に対して心配りが出来ています。

  小山町といえば他にもMHの題材になりそうな物があります。
その一つは “富士スピードウェイ” で、スポーツカーと富士山があれば小山町を思い浮かべるでしょう。
もう一つはあまり有名ではないが、足柄峠には “吹笙之石(笛吹石)” なる石があり、笙(しょう)の名手八幡太郎義家の
弟が東北に戦に行く途中、笙の奥義を伝授した場所とされています。
これだけなら大したことは無いが、この笛が牛若丸こと源義経が京の五条大橋で吹いた笛となると興味は湧いてきます。
この話は過去何回か紹介していますが、今回も概略だけ説明します。
 
  薄墨の笛で笙の奥義を伝授した八幡太郎義家の弟・森羅三郎義光は、薄墨の笛を八幡太郎の孫の源義朝(義経の父)に
譲る。義朝が平治の乱で敗れると妻の常盤御前に笛を与え都を落ち延びさせた。
しかし敵の平清盛に捕らえられた常盤御前は、我が身を将門に捧げ、我が子の助命を願い、幼き牛若丸を鞍馬寺に預けるとき
牛若丸に薄墨の笛を託した。その笛こそ成長した牛若丸が五条の橋で弁慶と戦う前に吹いていた笛となるのです。
話はさらに続き、義経が鞍馬寺を脱出し、金売り吉次と奥州を目指して東へ下る途中、三河の矢作宿で浄瑠璃姫と恋に落ち、
一夜の契りを結んだ。しかし大事な旅の途中のこと、義経は姫と別れ、その際に薄墨の笛を手渡して奥州に向け旅立った。
  駿河の国に入った義経は、海路で有度浜(清水)から狩野川の河口沼津を目指したが、激しい風雨に見舞われ、蒲原の浜に
打ち上げられてしまった。それが元に病の床に臥した義経は浄瑠璃姫に手紙を書いて蒲原に呼び寄せた。
浄瑠璃姫の必死の介護に義経の病も回復したが、またもや義経は浄瑠璃姫を置いたまま奥州を目指し旅立ってしまう。
残された浄瑠璃姫の悲しみの余りに三河へ帰る気力も失せ、蒲原の地に病に臥すと義経から譲り受けた薄墨の笛を久能山の
久能寺に預け十六歳の若き命は果ててしまう。
久能寺は武田の駿河侵攻で清水に移転させられたが、次第に寺は衰退し明治に時代に無住の荒れ寺になってしまった。
それを知った幕末の幕臣・山岡鉄舟は寺を復興し、寺号を鉄舟寺と改め、薄墨の笛は鉄舟時の寺宝として今に保存されている。

  随分長くなってしまったが、そんな数奇な運命を辿った薄墨の笛をデザインした 「石に腰掛け笛を吹く侍と富士山」 のMHの
絵柄を見たのが今年の初夢でした。なんてね。

                                 「滝と富士」
             
                                静岡県裾野市
  富士山に滝ならば当然白糸の滝でしょうが、富士宮の写真の中には有りませんでした。富士宮は過去何度も歩いていたし
白糸の滝にも4回歩きで行っている。なのに写真が無いのはそんな絵柄の蓋は無いのかしら? 分かりません。
そこで代わりの滝と言っては何ですが、御殿場の隣の裾野市の五竜の滝を紹介します。

  五竜の滝のある黄瀬川は御殿場地方を水源としているが、その水源の一つには 「箱根風雲録」 という映画にもなった
 「深良(箱根)用水」 でもあります。と、いう事は五竜の滝を流れる水は芦ノ湖からの水も流れている事にもなります。
  更に水源が御殿場なら、子供の頃の天然プールの水も流れているかというと、残念ながらそうではありません。
プールとしていた川は 「鮎沢川」 で 二宮尊徳が治水工事を行った 「酒匂川」 の上流になります。
なので御殿場の東側の川は小田原の相模湾に注ぎ、西側は沼津の駿河湾に注いでいるのです。所謂分水嶺にあたるので
しょうが、残念ながら明確に水が別れる所は知りません。若しそんな場所があったら、そこで立小便をして 「俺の分身が
東西に流れていく」
何て満足感に浸りたいものです。
下らない話はさておき、酒匂川と聞くと養老の滝と同じような謂れがありそうですが、長くなるので今回は止めましょう。
  さて話を戻してMHの蓋の滝は流れが3本見えますが、五竜の滝の語源は多分 “五流の滝” で、実際に何ヶ所からも
滝が流れ落ちています。
序に滝の横に咲く花はツツジのような花は、裾野市の市の花を調べると想像通り 「愛鷹ツツジ」 でした。
愛鷹ツツジは富士市と裾野市の境にある愛鷹連峰に咲くつつじで、特に位牌岳周辺には多く見られます。
今年は見に行こうかな、それも位牌岳でなく十里木の別荘地にある厳正群落地でお茶を濁すか迷っています。

                                  「かぐや姫」
             
                                 静岡県富士市
  富士市のかぐや姫は既に “雨” の時に紹介済みなので今回は写真だけですが、このデザインも静岡県人が見れば
一目で富士市だと分かる絵柄です。そう思わない県人はもぐりの静岡県人かな・・・・・

富士山で一番肝心なのは 「富士山浅間大社」 のある富士宮市ですが、残念ですが富士宮では富士山をデザインした
写真はまだ撮ってありません。 “鳥居に富士山”や “滝に富士山”。序に侍が決闘をしている “曽我兄弟の仇討” など
色々考えられるが、果たしてそんな蓋に出合えるかどうか、期待してせっせと歩きましょう。

                              「河口湖と富士山」
             
                                山梨県河口湖町
  静岡県内の富士山麓の写真は以上ですが、ついでに山梨県の富士山麓のMHも紹介します。
富士山麓道一周で河口湖を歩いた時の写真です。頭上に架かる大きな橋は河口湖大橋で、周りにある長い花は
ラベンダーかな?では黄色い花は何だろうと役場のHPで調べてみると 「月見草」 でした。
そんな事にも気が付かないのは老化現象が更に進んだのでしょうか気に掛かります。

  河口湖町で月見草と言えば御坂峠にある太宰治の 「富士には月見草がよく似合ふ」 ですよね。
何故月見草が富士山に似合うのか凡人の私には理解できませんが、月見草や宵待草の名前には風情を感じます。
それが一転 “マツヨイグサ” とカタカナになると、風情を失い冷たい響きになってしまう好一例だと思います。
しかしこの月見草がメキシコ原産の外来種だったと初めて知りました。

  ラベンダーは河口湖湖畔の公園では盛んに栽培されえていて、夏には “ハーブフェスティバル” も開催されています。

                              「水車小屋と富士山」
             
                                山梨県忍野村
  山梨県の富士山で思い浮かべるのは “藁葺きの水車小屋” と富士山です。勿論忍野村の風景ですがそれがありました。
忍野村のどかな風景ですが、私のイメージする忍野村はもう一つあります。
富士山の裾野には、戦後米軍海兵隊が北富士演習場と東富士演習場に常駐していました。そして現在の沖縄と同じように
演習場の返還闘争が起きていました。
中でも北富士演習場に属する忍野は、女性たちの返還闘争で盛んで、演習場に座り込むモンペ姿の女性の姿が度々報道
されていました。中でも核弾頭を搭載できるロケット砲 「オネストジョン」 を、東富士から北富士演習場を目掛けて発射する
時の演習阻止闘争は過激で、機動隊が女性たちを牛蒡抜きしている報道もあったと記憶しています。
そんな闘争が沖縄では今も続いているのですから情けない話です。私も何か意思表示したいのですが何もできないでいます。
 オネストジョンの当時私は中学生で、その発射風景を学校の屋上から見ていましたが、学校は演習場から距離もあったので
  “何だ こんな物か” と思ったような気がしたと記憶しています。

  富士山をデザインしたMHはまだまだあるので、今回は富士山の周りだけにしました。次回は続きを紹介したいと思います。
今年もこんな調子のダラダラ紀行を続けていこうと思っていますので、興味があったら覗いてみてください。

昨年の歩行記録

2018-01-03 10:00:00 | その他


  2017年の総歩行距離は1504kmで1日平均4.1kmと何とか目標の4kmを達成する事ができました。
4年前までの1日10kmと比べると半減以下になってしまい、特に一昨年は2.8kmしか歩いていません。
それを受けて昨年の目標騎距離を4kmと設定したのですが、6月末には平均2kmしかなっていませんでした。
幾ら何でもこれでは少なすぎで、趣味が “歩き” とはとても言えない状態です。
後半に何とか巻き返しを図り目標の4kmを達成することが出来ましたが中々大変でした。



  毎日の歩行距離と体重をエクセルに投入しグラフを自動表示しています。
上のグラフは2017年の旬毎の歩行距離を表したもので、一目で6月までが少ないことが分かります。



  毎日の投稿距離を四国遍路の行程に変換したものです。
多い時は三巡して四巡目に入った事もあったのですが、昨年は二巡目の土佐の途中で終わってしまいました。
せめて二巡はしたいのですが今の私には無理なようです。



  上のグラフは年間の歩行距離を集計したものです。
ピンク色の体重は歩行距離に比例するように最近では増加傾向にあります。これ以上増えないようにとは思っているのですが・・・・・・

そこで今年の目標距離は 「一日5km」 として、体重は 「62.5kg」 とします。
クリア出来るかどうか神のみぞ知るですが 「無理せず 楽せず 程々に」 やっていきたいと思います。

謹賀新年

2018-01-01 11:26:21 | その他

          

         新年明けましておめでとうございます。
         
         「山は逃げない」と申しますが、最近では 「山は逃げないが難度はあがる」 と思うようになりました。
         歳と共に今まで歩けたコースも距離を短くしたり、簡単なルートを変えたりしなければならなくってきました。
         それでも歳相応に 「無理せず 楽せず 程々に」「観歩」 続けて行きたいと想っています。


          


          初日の出は例年通り満観峰で迎えました。
          昨年・一昨年とも雲もなく風もない暖かな山頂で初日を迎える事ができました。
          山頂には約200人を越える登山者で大賑わい。甘酒のお接待もありました。

            ********************************************************

 「一年の計は元旦にあり」 と言いますが、霊場巡りで頂いた数々の教訓集には参考になるものが多いので紹介します。
先ずは健康志向の方に
 壱  少肉多菜 お肉はほどほどにして、野菜をたっぷりで健康もりもり
 弐  少塩多酢 塩分取りすぎは高血圧のもと、酢は健康のもと
 参  少糖多果 甘いものは果物から、砂糖は肥満への直通切符
 四  少食多噛 腹八分目でよく噛めば 幸せも噛みしめられる
 五  少衣多浴 薄着で風呂好きの人は 健康を身につけている人
 六  少言多行 べらべら喋っている間に 行動を開始せよ
 七  少欲多施 自分の欲望のために走らず 他人のために走れ
 八  少憂多眠 くよくよしたって同じ とっとと寝てしまう
 九  少車多歩 自動車は確かに速い 歩けば健康への近道
 十  少憤多笑 怒ったときでもニコニコしてれば 忘れてしまう
健康寿命は男性が71歳で女性は74歳だそうです。既にその年齢を通過している私としては健康に特に留意しなければなりません。
それなのに気の弱い事もあり、人間ドックも無料になった特定検診も避けています。
そんな私でもできるのは 「少車多歩」 でしょうか。

健康に留意しても襲い掛かる死神には
 還暦  60歳 とんでもないよと追い返せ
 古希  70歳 未だ末だ早いと突っ放せ
 喜寿  77歳 せくな老薬これからよ
 傘寿  80歳 なんの未だ末だ役に立つ
 米寿  88歳 もう少しお米を食べてから
 卒寿  90歳 年齢に卒業はない筈よ
 白寿  99歳 百歳のお祝いが済むまでは
 茶寿 108歳 まだまだお茶が飲み足らん
 皇寿 111歳 そろそろゆずろうか日本一
歩き回れる健康なうちは死神は追い返したいですね。

願いが叶って生き延びることが出たなら、次の 「つもりちがいの十条」 を腹に入れ、周りに 疎まれないようにしないと。
 1条  高いつもりで低いのが  教養
 2条  低いつもりで高いのは  気位
 3条  深いつもりで浅いのは  知識
 4条  浅いつもりで深いのは  欲の皮
 5条  厚いつもりで薄いのは  人情
 6条  薄いつもりで厚いのが  面の皮
 7条  強いつもりで弱いのが  根性
 8条  弱いつもりで強いのが  我
 9条  多いつもりで少ないのは 分別
10条  少ないつもりで多いのが 無駄

  死神を追い返すほどの健康で穏やかな一年になりますように・・・・・