はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場3-6

2014-09-30 12:08:20 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅

                         37番 西楽寺(やまなし)
 
             西楽寺本堂                      本堂横のお堂
 西楽寺の場所

 太田川の右岸を少し遡った深山橋を渡り山梨地区に入る。山梨は遠江33観音や遠州33観音でも歩いたが、
最初来たとき山梨の元の名が「月見里」と知って驚いてしまった。それも慣れてしまえば特段の感想も湧かなく
なってしまったので、今回は少々手抜だが初めて来た時のブログを引用してしまおう。

 『8番札所に近づいてくると「山梨」の字が目に付くようになった。下山梨、上山梨、沖山梨などの地名もある。
この辺りは今は袋井市になっているが以前は周智郡山梨町だった。その所為で山梨が多いのは分かるが何故
山梨と呼ぶようになったのか、面白い説を聞いたので紹介したい。
子供の頃「山が有っても山なし県」「痛くなくても大いた県」とか言って遊んだ経験は無いだろうか。ここの山梨は
その言葉通り「山が無くて山なし」なのだ。
 むかし地名を付けるとき、この辺りの地形は低い岡はあっても視界を遮るような高い山が無かった。そこで
「山なし」
と思ったが、これではチョット芸が無さ過ぎ面白くない。トンチの利いた昔の人はもう一捻りした。
近くに山が無いのなら月見に適している。そこで「月見里」と書いて「やまなし」と呼ぶようになった。
嘘? いえ嘘ではなさそうですよ、その証拠として苗字の 「月見里」 はやまなしさんだし 「月見里神社 」
やまなし神社と読むらしいですよ。
 なら山梨県は本来は月見里県なのか思いたくなりますよね、ウィキペディアにはこんな事が書いてありました。
”山梨郡の名前の由来は 「旧春日居町の山梨岡神社の裏山に有名な梨の古木があり、そのためこの地域は
いつしか山梨と呼ばれるようになった」 
という伝説が存在しているため、果物のヤマナシに由来していると思われ
がちである。しかし風土記には 「山無瀬」「夜萬奈之」 と記されており、語源としては 「山平らす(やまならす)」
つまり甲府盆地の高低の少ない平坦な様子を表す言葉が次第に「やまなし」へ転化したとみるのが妥当である。
そして 「梨園」 などの言葉に見られる一種の優雅さを感じさせる「梨」という好字を当てて 「山梨」 と呼ぶように
なったといわれている。”
月見里が出てこないので面白くないが、山梨県は本来なら山無で、恰好を付けて山梨と書くようになったようだ。』

 信州街道の県道58号を横断して行くと、前方の丘の上に西楽寺の大きな看板が見えてきた。
エッ!月見里なら山は無い筈ではないかって?でも山梨の東から北に掛けては丘陵が連続していて、とても
山が無いなど言えそうもない景色です。
考えてみれば平野の中に山無しとか月見里では余りに当り前過ぎて面白くもなく、場所の特定も出来ませんよね。
それが山を幾つか越してきて、やっと平地に出ると何処にある月でも眺められるようになる。そうなればその地が
月見里になるのは必然的なことだとも思います。その後の山無しの読みは昔の人のユーモアのセンスでしょう。

 丘の上にあった西楽寺は、寺と言うより大きなお堂と言った方のが相応しい優雅で落ち着いた感じの建物だった。
辺りに人気は無く無住のようで庫裏などは近くには見当たらなかった。
これまで静岡県内の寺はかなりお詣りをしているが、これ程の建物は余り無い。ここ西楽寺と次に寄る油山寺、
そして島田千葉山の智満寺くらいのものではないか。

  
      真言宗西楽寺 入母屋造柿葺 県指定文化財

  
      真言宗油山寺 入母屋造茅葺型銅板 県指定文化財

 
      天台宗智満寺 入母屋造茅葺 国指定重要文化財 

 上の写真を比べてみると、お堂の形はどれも正方形に見えるが、これは宝(方)形造りとも言うらしい。
違いのあるのは屋根の形で、油山寺と智満寺は似ているが、西楽寺向拝(本屋根の庇の部分・参詣人が礼拝
する所)の形が単なる庇ではなく、唐門のように丸みを持って盛り上がっている。
更に屋根の素材も西楽寺はこけら葺(木を薄く削って葺いた屋根・板葺)で、油山寺は茅葺の上を銅板で覆って
ある。一方智満寺の屋根は茅葺で厚みと柔らか味を感じさせる。
こうしてみると智満寺が国指定の文化財なのは分かるが、西楽寺もそれに劣ってないように感じるのだが-------

 (蛇足:こけら葺の「杮」は果物の「柿」とは違うんですよね。「杮・柿」何となく違うのは分かりますよね。
エクセルで拡大するとこけらとカキです。
 因みにこけらとは木屑のことで「こけら落とし」とは木屑を落として完成する事だそうです)

境内の立札には 「西楽寺本堂 江戸時代中期に建築された禅宗様式の五間堂。入母屋造柿葺の屋根や、
豪壮な組物に260年前の歴史を偲ぶことができます。 静岡県文化財指定 」
 とありました。

      
               西楽寺本坊入口                  案合図

 時間があればユックリ眺めたいが、もうすぐ5時になる。隣に建っている薬師堂と思われるお堂をお詣りして
早々に階段を下った。ご朱印を求めて庫裏のありそうなお堂正面の太い道を下ると、山勘は見事に当たり
右手に「真言宗安養山西楽寺本坊」の看板と「遠江49薬師」の看板が立っていた。案内板もあり、そこには
「西楽寺は奈良時代に僧行基により開かれ、真言霊場として大いに栄えた。境内には多くの御堂や塔が立ち
並び、最盛期には十二坊もありました。明治維新には官軍総大将が江戸へ向かう途中、西楽寺の不動明王に
戦勝祈願のご祈祷を行いました」
 
確かに本堂からここの本坊までの間は、坊が幾つかあっても不思議はなそうに感じる。それにしてもまたまた
行基さんの出現。こう幾つもあると本当に行基がこの地を訪れたのかと思いたくなる。

 
               新しい薬師堂                         薬師三尊

 境内に入り最初に目に入ったのは、真新しいお堂だった。入口には何の表示も無いが、覗き込んでみると
正面に座像の薬師如来が、左右に日光・月光菩薩の脇侍(きょうじ)が立っている。
でも、アレー? 今まで見てきた薬師三尊は、主役の薬師如来が大きく脇役の二菩薩は小振りだった。
それがこの薬師三尊は脇侍の菩薩の方が大きいとは。例え座像と立像の違いはあるにしても不自然に感じる。
何か謂れでもあるのだろうか聞いてみたいのだが、アーアもう5時になってしまった。
まだこの先油山寺に行かなければならないし、更に油山寺から袋井駅までもかなりの距離がある。ここで
ゆっくりするわけにはいかないと朱印も受けないで西楽寺を後にした。またいつか来てみよう。



安倍七観音

2014-09-28 10:48:25 | 寺社遍路
 昨日(27日)阿部七観音の1回目を歩いてきました。
コースは 安倍川駅 - 徳願寺 - 建穂寺 - 増善寺 - 法明寺 - 静岡駅 でした。
2回目は 静岡駅 - 平沢寺 - 鉄舟寺 - 霊山寺 - 草薙駅 の予定です。

   

 安倍七観音とは、行基菩薩が法明寺の楠木の大木から、七体の千手観音菩薩を彫り、これを7つお寺に
安置した事が始まりと云われています。
 今回この遍路を始めるきっかけは、遠江四十九薬師で行基作と言い伝えられている薬師に何度か出合い
その気になった。という分けではありません。
実は4年前に駿河一国三十三霊場遍路のとき、法明寺のご朱印を受け損ねていて、何時か貰いに行かねばと
思っていました。でもその法明寺は静岡の駅から片道14kmある山奥のお寺です。ご朱印を貰う目的だけでは
とても歩く気にはなりませんでした。

 安倍七観音の事は以前から知ってはいたのですが、その七寺全部が駿河一国三十三観音に属していたので
歩き気は湧いてきません。とはいえ車では行く気にもなれず、このまま放っておけばご朱印は貰わずじまいに
なりそうです。それではいけないとようやく歩く事にしました。
 体調は依然不調のまま。でも道は分かっているし、バスの便もある。疲れたら帰りはバスだ、とようやく昨日
歩いてきました。

遠江四十九薬師霊場3-5

2014-09-25 17:04:05 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅

                         34番 建福寺(二俣街道)
        
          二俣街道                      34番建福寺
 建福寺の場所
 34番建福寺は龍源寺方面から流れてくる敷地川と、遠州一宮の小国神社から流れてくる一宮川の合流部の
川会(かわえ)にあった。一宮川は昨年の遠州七福神で、磐田桶ヶ沼から森町の紫陽花寺のとき歩いている。

 龍源寺を出て手持ちの地図は県道61号を歩くようになっていたが、適当に判断して天浜線の線路に沿って南下
して行くと、踏切が無いのに少しづつ線路は向きを変えてきた。これは拙いと線路を強引に横切って田圃の中の
道に入り県道を目指した。県道に出れば後は地図通りで順調に建福寺に到着。
 寺の入口にあった石碑の正面に 「旧二俣街道」 とあり、横には 「是ヨリ二俣 二里十丁」 と刻まれていた。
現在の二俣街道は浜松から天竜二俣を通り、長野県に抜ける国道152号線の浜松・天竜間を指してる。
だがこの石碑にある二俣街道は、袋井から二俣に抜けるローカルな街道の事で、きっと街道の名前も地元の人だけ
にしか通じない名前なのだろう。
更に石碑には二俣までの距離は書いてあるが道標とは言い難く、街道の名前の上に「旧」と付いている位だらから
近年に建てられた石碑と思われる。また近くには、秋葉神社の常夜燈も建っているところを見ると、秋葉神社に
参拝する人達は、秋葉道とも呼んでいたかもしれないな。
 二俣までの距離の二町十丁(町)は約9kmになるが、今日私が二俣の栄林寺からここまで歩いた距離は約
19.2kmになる。一雲斎など方向違いの所も行ったので10kmの大回りになったのだろうが、それにしても遍路とは
倍の道のりになるのだからご苦労な事だ。

  
           観音堂                観音堂内部             知恵観音?

 建福寺も静かな感じの小振りな寺だった。本堂の横に庫裏らしき民家があるが留守のようで返事が無い。
ご朱印は諦めて観音堂に入ると薬瓶を手にした木彫りの薬師如来のが祀られていた。これがここの本尊かと
一応お詣りして格子の中を覗いてみると、中には薬師三尊と十二神将が祀られていた。ではこの仏像は?
ガイドブックにこんな紹介がしてある。 「建福寺の薬師様は行基菩薩の作で、12年に一度御開帳される
秘仏です。薬師様は、またの名を妻薬師ともいい、縁談を祈願すると、ご利益がてきめんに現れます。」

エー! 薬師観音なのに縁結びの神、イヤ仏様?  マー49もあるなら色々の薬師様もあって当然だが。
でもどうせなら惚れ薬でも作り、最近の心霊スポットのようなブームの乗れば、もう少し人が集まっただろうに。
そうだ、ご本尊の観音様は12年に一度しかご開帳しないので、その身代わりとして仏壇の外に、この仏像を
安置してあるのかな、きっとそうだ。 でもチョット安--------- 「南無大師観世音菩薩」
 建福寺にはそれ以外にも観音様が祀られていた。名前は「知恵観音」残念ながら謂れは書いてない。
縁結びの観音様に縁を取り持ってもらい、子供ができたら知恵観音に知識を授けてもらう。で丁度良いのにな。

 伝説を信じるなら弘法大師と行基菩薩もこの地を歩いている。この二人は日本中のあちこちを歩いて、その距離は
とても人の一生では歩ききれない距離だと思う。しかも不思議な事は二人が彫った仏像等が、文化財に指定されて
いるものが少ない事で、それは二人が仏師としての腕がなかったのか、それとも言い伝えは嘘八百なのか。
とはいえ今日最初に寄った岩水寺は、行基菩薩が薬師如来像を刻み開創した寺で、弘法大師作と伝わる国宝の
厄除子安地蔵尊も安置されていた。なのであながち嘘八百とは言い切れないが、せめて 「伝行基作 」や「伝弘法
大師作」
と頭に 「伝」 を付けた方が良さそうな物が多い事も確かだ。

                         35番 蔵泉寺(転勤)
 
              34番蔵泉寺                          薬師堂
 蔵泉寺の場所
 建福寺から河畔に出た所が丁度敷地川と一宮川の合流部で、ここからの川の名前は敷地川となり南に流れ
ていく。更に下流では遠州森町から流れてくる太田川と、更に下流で原野谷川と合流する。この原野谷川の
源流は今年の春に歩いた八高山だ。こうしてみるとこの辺りは結構歩いている事になる。
 去年遠江七福神では敷地川の左岸を歩いたので、今回は次の蔵泉寺が右岸に有る事から右岸を歩く事にした。
とは云え昨年の記憶は殆どなく、新しい道を歩くのと同じで、右岸でも左岸でも変わりはなかったが。
 川の畔を歩いていると下校途中の小学生たちに会った。 「おじさん何処に行くの?」 と気軽に声を掛けてきた。
最近では知らない人と話をしないようにと教えるところが多いようだが、まだ田舎を歩いていると挨拶をしてくれる
子供は多い。だが挨拶以外に話しかけてくる子は少ない。
「蔵泉寺というお寺に行くのだけけど、まだ遠いの」 と聞くと
「蔵泉寺ならこの子のうちがそうだよ」 と女の子を指す。するとその子は
「お父さんが袋井の大きなお寺に変わったから今は蔵泉寺には泊まってなくて、お母さんに迎えに来てもらう」
「それじゃ今はお寺に誰も居ないの?」
「ウーンう。お婆ちゃんが片づけに来ている。」
それを聞いてご朱印を貰えるとホッとした。

 今まで寺の相続は、比叡山延暦寺とか高野山金剛峯寺等の大本山は別として、大部分の寺は実子相続が
主で、寺に後継ぎが居なければ養子縁組をしたりして、その名跡を継いでいると思っていた。尤もどうしても
後継ぎが無く無住になった寺は、その宗派の本部から僧侶が派遣されるのかもしれないが。
 蔵泉寺の住職はこの寺から、より大きな寺に行くらしいが、その寺と蔵泉寺とは特別な関係があるのか。
子供の話では大きな寺に行く事を喜んでいるようにみえるが、祖父や親戚の寺との話はなかった。
仮に蔵泉寺が住職の先祖代々からの寺としたら、この移動を引き受けてだろうか。色々と疑問が湧く。
考えられるのは蔵泉寺も移動先の寺も本部管理の寺で、ここの住職は寺付住職ではなく派遣住職だったのでは
ないか。と勝手な解釈をした。
 それにしても住職の転勤となると普通の会社員の転勤とは違い、究極の 「職住近接」 になる。他にこんな職業は
と考えて思いついたのは、田舎の駐在さんがだった。
警察の駐在所は家族と一緒に駐在所と同じ建物に住むし、妻は夫が留守の間は受付などの仕事を手伝うだろう。
その点、寺の奥さんも寺の雑務を引き受けざるを得ないだろう。   何か話が変な方に行ってしまった。

 蔵泉寺に着くと寺の子供がお婆さんを呼んできてきくれたのでご朱印をお願いした。雑巾片手で何か忙しそうだった
ので、余計な話はしないでお詣りだけにした。

                            36番 長楽寺()

               36番長楽寺                         観音堂
 長楽寺の場所
 35番蔵泉寺は敷地川の袂にあり、次の長楽寺は東に流れる太田川の畔にある。その間は田園地帯で田圃が
主だがメロンを栽培している温室も所々にある。
今日は浜松市浜北区を出発し、天竜区、磐田市、そしていつの間にかメロンの袋井市に入っていたようだ。
ミカンやカキ程度なら土産にしても良いのだが、メロンとなると荷が重すぎる。そう懐にも肩にも。
 新しそうな寺の屋根が見えてきた、あれが長楽寺だろう。蔵泉寺からは20分も掛からず着いてしまった。
出発からは既に28kmを越してしまったが、平らな道だったので余裕を持って歩く事ができた。
この先もこうでありますように。
 
 庫裏とおぼしき所は鍵が掛かり開かなかったので、左手にあった薬師堂も中に入れず堂前でお詣りを済ませた。
観音堂の前に案内板にはこんな事が。
「昔、この辺りの深見村に熱病が流行し、医者にかかったり神仏に祈願したが一向に熱病の勢いは衰えず、村の
庄屋たちは久能城のお殿様に村の窮状を訴えた。お殿様は「城内に祀ってある薬師如来を貸すので、日夜病魔
退散を祈願しなさい」
と諭された。村人たちは薬師如来の像に、身を清め心を清めひたすら薬師如来のご加護を
お祈りした。その甲斐あって病勢もやっと治まり人々は安堵した。そして村人は「薬師如来像を永久に、ここに
奉安し如来の遺徳と領主の大恩を子孫に伝えたい。」
と、殿様に嘆願すると願いは聞き取られ、薬師如来の尊像は
深見村に賜った。
 御本尊薬師如来像は、聖武天皇の御代に僧行基が、一本の樹から油山寺の薬師如来像と共に作ったものと伝え
られている。像は袋井市の指定文化財になっている。」

オッ! ここにも行基が出てきた。しかも私の意に反して文化財にも指定されている。これは調べなければと
早速油山寺のHPを見ると、
「油山寺は行基大士が本尊薬師如来を奉安、開山された真言宗の古刹であります。」とあっただけで文化財の事も
長楽寺の事も書いてない。ただ薬師如来の厨子は今川義元の寄進で、国指定の文化財になっていた。
では国や県の指定ではなく袋井市の指定かと、袋井市のHPを覗いたが文化財の一覧表に辿り着けなかった。
長楽寺の薬師如来は、行基作と伝えられているから市の指定文化財なのか、それとも美術的価値があったので
指定されたのか、チョット知りたいな。



遠江四十九薬師霊場3-4

2014-09-24 10:01:57 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅

                         32番 蓮台寺(弘法井戸)
 
               新平山遺跡                             弘法の井戸

 県道まで戻り更に県道を豊岡支所の信号まで戻って、今度は袋井方面に向けて南下するのだが手持ちの地図は
メイン道路でなく最短距離の道を指示している。手持ちの地図は、地図と云っても指示された道を中心に印刷して
あるだけなので、一度道を見失うと中々元に戻れなくなる。今回も地図の指示通り、風力発電の近くの「新平山遺跡」
までは無事着いた。
この平山遺跡は縄文時代から弥生、古墳時代にわたる遺跡で案内板には 
「この古墳は、規模、副葬品共に遠州地方後期の古墳の中では際立ったものであり、国造層級の古墳とみることが
できます。」
 しかし案内板の中にはこんな記述も 「石室は盗掘によって、極端な破壊を受けていました。」
なのに”国造層級の際立ったもの”が残されていたのだろうか?

 遺跡の横の1車線の道を登って行くと2車線の道に合流。地図はその道を横断して直進すように指示しているが、
前には道が無い。さて困った。民家は右の下にあるが家の外には人の姿は見えない。
正面に道が無ければ、合流した道を左折して東に向かえば良さそうだが、途中にあった工業団地に向かっているよう
にも思える。暫く悩んでいたが決断がつかない。嫌だが仕方ない民家の呼鈴を押して聞いてみよう。
 遍路歩きや街道歩きで道を尋ねるのは慣れているが、走っている車や民家を尋ねて道を聞くのは好きではない。
走っている車の場合はヒッチハイクと誤解されるし、態々呼鈴を押すのも不審者や押売りと間違えられそうだ。
でも今日は先を急いでいるので嫌だが呼鈴を押した。幸いな事にお年寄りの男性が出てきたので、蓮台寺の場所を
聞くが、そんな寺は聞いた事はないと言う。遺跡から登ってきて正面の道を聞いても無いと言う。では袋井方面の
道はと聞くと、前の道を東に道なりに行けばグルット回って袋井に行くと言う。でもその道は工業団地に行くのでは?
工業団地への道は途中で別れている。そうだ。
 こうなれば地図にあった正面の道は諦めて2車線の道を行くしかない。とお礼を言って歩き出した。
「チョットチョットあんたは歩いているのかね。歩いているなら遺跡からの道の先に細い道があるので、その道を
行けば近道になるよ。」
 どうやら私の聞き方が悪く、車の道を聞いていると思ったらしい。
 コンクリートの法面の横に歩行者用の道があった。今回の遍路はここまで車道歩きばかりで山道が無かったため、
ここでも無意識に車道を探してしまい山道を見落としてしまったのだ。反省!
後で地図を確認すると車道はU字にカーブしていて、その付根に山道が付いていた。手持ちの地図は歩く道を太く
塗りつぶしてあるので、車道も歩道も区別がつかない。こんな事は百も承知していたのに情けない。

 下りになった車道を歩いていると祠と井戸のような物が見え案内板もある。
史蹟・弘法の井戸 弘法大師が諸国遍歴の際、この地で一杯の水を所望した。里人はここには水が無いからと山の
下まで水を汲みに行き、その水を差しだした。大師は大いに喜び里人の誠実と純朴さを愛して、畑の中に持っていた
杖で円を記して、ここを掘ってみなされ、必ず水が出るからと言い残され旅立たれた。そこで里人たちが皆で掘った
ところ、渾々と水が溢れる立派な井戸が出来上がった。以後里人は、この井戸を「弘法井戸」と言うようになりました。」

 あちこちにある弘法伝説の一つだが、ここの里人は「水は無い」と断らなくて良かった。どうも弘法大師は執念深い。
自分の願いが聞き入れられないと意趣返しをしてくる。若し里人が断っていたら山の下の水は涸らせてしまったろう。
アッ!余計な事を言いました。「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」

       
                蓮台寺山門                         32番蓮台寺
  蓮台寺の場所
 32番蓮台寺は車道を右に入った所にあった。山門には小振りな仁王様が鎮座しているのも大仰でなく感じが良い。
境内に四十九薬師の赤い幟があるので寺と分かるが、雰囲気として無住のような感じがする。庫裏と思われる入口は
鍵が掛かり開かない。勿論本堂らしき入口も閉まっていた。仕方ない朱印は諦めてお詣りだけにしよう。

                         33番 龍源院(接待)
 
                  山田薬師の案内板                      33番龍源寺
 龍源寺の場所
 蓮台寺から更に車道を下り県道61号に合流したのも束の間、その県道とも別れ茶畑や田圃の中の道を進む。
さっきのような間違いはしたくないないと思いながら歩いていると 「山田薬師」 の大きな看板が現れた。
山田薬師? は聞いた事がないが龍源寺とは違うのか? 
看板に近づくと「遠江四十九薬師霊場 第三十三番札所 龍源寺」とある。今回は迷わず無事到着できそうだ。
その看板に「双龍鳴天井」とも書いてある。これは楽しみだ必ず鳴らしてみよう。

 大きな看板の割には素朴な佇まいの山門に、菅笠に貧乏徳利を持った狸の瀬戸物が置いてあった。正面に
見える本堂も山寺の風情で、400年前には七堂伽藍を持った大寺が建っていとはとても想像できない。

        
                  薬師堂                         縁石

 ご朱印の前に扉の開いている薬師堂に向かうと、入口に「不思議なご縁石」と書いた石が台座の上に置いてあった。
石の前には賽銭も置いてある。何だろう? 案内板を読むと「石を叩く事で不思議な力を授かった」とあり、その力とは
「一つ打てば 勇気が湧き 二つ打てば 己に目醒め 三つ打てば 知恵が授かる」 らしい。
さらに 「家宝は信仰心によって異なる」 とあるのはご愛嬌か。
 薬師堂の中は「山田薬師瑠璃光如来」の赤いの幟を祭壇に周囲に所狭しと貼り、紫色の幔幕や提灯などで派手で
賑やかな感じを出している。肝心の薬師如来の厨子は閉じられていた。

 庫裏に入ると住職が私が来るのを待っていたのか、すぐお茶とお菓子の接待をしてくれた。この様な札所は余り
ないので感激しながら雑談を交わす。私が今日は38番油山寺までお詣りする予定だと話すと、
「油山寺さんまで行くと暗くなってしまうから、36番の長楽寺さんから袋井に行った方が楽ですよ」と教えてくれた。
そのコースも考えないではなかったが、36番で止めると後1回で終わりそうな今回の遍路が、後2回歩かなければ
ならなくなるし、そのうち1回は距離が極端に短くなってしまう。それも嫌なので油山寺まで頑張ろうと思っている。
住職が「菜箸にでも使ってください」と参拝記念と書かれた細長い袋を差し出した。
「拝見して良いですか」と聞いて袋を開けると、中には塗箸が入っていた。これでは菜箸には使えない、かといって
日常の箸として使うのも何となく恐れ多い。仏壇に上げるご飯用の箸なら良いだろうが、わが家に仏壇は無い。

 住職にお礼をして寺を出て思い出した。双龍鳴天井を見るのを。
今から戻るのも嫌なので諦めたが、茶菓子で接待され気が緩んだのだろうか、目的の一つを忘れるなんて----- 
それに山田薬師の効用も聞くのを忘れていた。




大崩:旧石部隧道坑門跡

2014-09-22 11:20:17 | 低山歩き
                                         歩行月日 H26年9月20日(土)
 近所の人と用宗駅から大崩海岸にある旧石部隧道坑門跡を見学して、カンポ尾根の石部峠からカンポ下経由で
焼津駅まで歩いてきました。
どんよりとした曇り空で富士山は薄っすら否ボンヤリ見えるか見えないの程度の日でした。

 今年の春来た時は何の表示も無かった旧石部隧道鉄道遺跡の旧150線の入口にこんな看板が立っていた。
         
  地元の石部地区の鉄道愛好会が立ててくれた看板で「旧石部隧道坑門跡」となっている。
今までここの呼名はHPにより色々あり、私も勝手に大崩鉄道遺跡と云っていた。だがこれからはこの看板の
旧石部隧道坑門跡を使う事にしよう。でも書く時はいいが、喋るときはチョット長過ぎて言いにくそうだ。
看板には英語表記もあり、こちらは「Historical Site OLD SEKIBE Raiway TONNEL」と書いてある。
直訳すれば「旧石部・鉄道トンネル史蹟」となりそうだが、こちらの方が言いやすいし聞きやすい気がする。

 坑門跡の入口になるガードレールの間に、何故かロープを張ってあった。きっと入口の目印だろうと勝手に解釈して
道替わりの水路を下る。春にはこの水路にはロープがあったが今は無い。古かったので撤去したのだろう。

         

 海岸に降りる梯子は健在だったが、春には笹や雑草が生茂っていて通れなかった所が、すっきり除草され歩ける
ようになっていた。これで容易に坑門まで行く事ができる。

         

 トンネルの中も以前は足の踏み場もないほど散らかっていた残骸も、トンネルの脇に整理されていた。
これらも鉄道愛好会の人達がやってくれたのだろう。
マー、後は春見た時と同じ景色だったので詳しい事は こちら をご覧ください。

 旧150号線から石部峠の山道は夏の間は余り人が歩かなったのか、春より大分荒れていた。
それでもこの道は森の中の暗っぽい道なので雑草が少ないので助かる。その代り蜘蛛の巣は勿論、蚊の襲撃を
受けなければならないが。

 
                 クズ(葛)                          クサギ(臭木)

 石部峠に着いてしまえばカンポ下までは先週と特に変わった事はない。
しいて言えばクズやクサギの花が盛りを迎えていた事ぐらいか。
そうそうクサギの名前の元になった臭いを嗅いでみようと、葉を揉んで嗅いでみたが、植物辞典で言うほど嫌な
臭いではなかった。尤も決して良い香りではないが。

 今回は距離は短く速度も遅かったので何の支障もなく焼津駅に到着。
まだ前回の学習知能が残っていたので乾杯はしませんでした。







遠江四十九薬師霊場3-3

2014-09-21 11:15:25 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅

                         31番 一雲斎(三斉)
 
                天竜川飛龍大橋                    一雲斎入口付近の風力発電

 30番玖延寺を打ち終り来た道を県道まで戻る。次の31番一雲斎入口までは、この県道と天浜線と付かず離れず
の状態で進んで行くのだが距離は大分ありそうだ。まだ疲れは出ていないがゴールを袋井駅とするともっとピッチを
あげなければと思うが、一人歩きだとどうしても自分ペースに戻ってしまう。
それも仕方ないだろう、その速さが自分にとっては一番疲れない速度なのだから。

 天竜川を浜北方面に渡る飛龍大橋の入口に出る。この橋は私には渡るメリットが無くて、まだ一度も渡った事はない。
だがこの橋が出来たお蔭で、狭い谷(や)の間にある玖延寺下にも分譲団地が出来たのだろう。
 県道は天竜川の左岸を少し下った所で堤防上の磐田方面に行く道と、袋井掛川方面の道と別れる。次の一雲斎は
袋井方面の堤防の下の細い県道40号を行くのだが、車の多くは堤防の道を直進していくので歩きにくくはなさそうだ。

 旧道の豊岡市所前で丁度で目があった人がいたので一雲斎の道を尋ねると
「あそこまで歩くの? まだまだズート先だよ。それに寺の入口の道が分かるかなー、目印が無かったと思うけど」
「エー? ガイドブックには入口に寺の看板があると書いてありますけど?」
「ウーン チョット待ってね」
と云って近くの店に入り、そこの主人を連れてきた。店の主人は
「寺の看板は以前はあったけど今は建ってないよ。一雲斎さんの入口は、この道が県道に出たら左折していくと
風力発電の塔の近に寺の入口があるけど分かるかなー。そうだあそこには川があった。あの川は一雲斎さんに
続いていて道も川に沿ってあるよ。こちらからなら川を渡らず、川の手前を山に入って行けば一雲斎があるよ。
そこからも大分あるけどお寺は大きくて行けばすぐ分かるよ。ともかく橋を渡らず手前の道に入らなきゃダメだよ。」
分かりやすい説明ありがとうございました。

      
                 電柱名                    屋台置場

 県道に入る前から風力発電の3本の塔が見えてきた。搭はまだ大分先だが、後は橋に気を付けていればいい
だけで気は楽だ。
前方に橋が架かっているのが見え風力発電の塔も近くにある。橋の手前には北に向かう道もあり間違いはなさそ
うだ。だがここで道を間違えたら無駄足になってしまう。慎重に判断しなければと、電柱の札に目をやると。そこに
あった電柱の名前は「大楽寺支」となっていた。何?大楽寺? 確か一雲斎は大きな寺だと云っていたが、それなら
「一雲斎支」だろう。それが何で大楽寺支なんだ。
さっきの人の案内は一雲斎でなく大楽寺を案内してくれたのではないかと不安になってしまった。時間的余裕がある
ならこのまま進んでも良いが、袋井まで行くとなったら無駄足は踏みたくない。
悩んでいるとトラックが県道から曲がってきた。早速手を挙げて「この道は一雲斉に行く道ですか?」と聞くと
「アー そうだよ」と云って走り去ってしまった。
 この道で間違いない事は分かったが疑問は残ったままだ。気になって歩いていると畑仕事をしている人がいた。
「済みません。ここの地名は何て言うんですか」「大楽だよ」
「大楽と云うお寺があるのですか?」「イヤそんな寺はないが、ここは昔から大楽だよ」

よく理解できないが地元の人がそう言うなら仕方ないと歩き出すと、今度は屋台置き場があった。そしてその名前は
「大楽地屋台置場」となっていた。となるとここの地名は大楽地で電柱名が間違っていいるのだろうか???。

 
                  31番 一雲斎                     六地蔵          
      一雲斎の場所
 集落が途絶えた所に「涙橋」と名の付いたコンクリートの橋があり、ガイドブックにこんな話が載っていた。
「徳川家康の命により、一雲斎の仏像を可睡斎に移そうとしたところ、山門まで来ると仏像は動かなくなってしまい
ました。そこで山門を焼払い移そうとしたのですが、今度は門前の丸木橋の所で再び動かなくなってしまいました。
しかも仏像の両眼からは涙が流れていたばかりか、いつの間にか人の手も借りずに本堂の中に戻ってしまいました。
それからその丸木橋のことを涙橋と呼ぶようになりました。」

移動した仏さんがいつの間にか元の場所に戻ってしまう話は、金谷の「松島歩き観音」もそうだった。きっと仏像の
移転に反対する人がいて、移転できなかったが、それを反対派の所為にもできないので、仏像の自らの意思で動か
なかったとした方がお互い無難だったから、こんな話ができたのだろう。

 涙橋を過ぎ左手に紅梅などが咲く土手を過ぎると、広い駐車場の先に土塀の続く山門、その奥には本堂や庫裏、
左手には薬師堂が立つ堂々たる寺院が見えた
30番の玖延寺もそうだったがこんな場所にこんな大寺が、と驚いてしまった。一雲斎の謂れを見ると
「室町時代後期、川僧禅師により開創。川僧禅師は時の天皇が重病に陥ったとき宮廷に召され回復祈願したところ、
天皇はみごと平癒した。それ以来川僧禅師の名は全国に知れ渡り、信徒や諸国の大名の喜捨により、本堂は三層、
山門は間口十一間(20m)、奥行六間(11m)の二層で門弟は700人を超えていた。」
そうです。
今見てもその言い伝えが大袈裟ではないと思えるような堂々としたお寺だった。
 だがそれにしてもこの寺の名前は変わっている。まるで人の名前のようだ。お寺で変わった名前ですぐ思い出すのは
袋井の可睡斎や藤枝の盤脚院があるが、そのどちらの寺の名前も徳川家康が付けた名前だと云われている。
この一雲斎も徳川家康が命名したのかな?

 
                     一雲斎本堂                 お接待

 庫裏でご朱印を頼むとき、気になっていた寺の名前の事を聞いてみた。
「いえそんな話は伝えられていませんし、人の名前とも聞いていません。ただ袋井可睡斎と豊田の智恩斉、そして
ここの一雲斎で「遠州三斉」とは呼ばれています」

「遠州三斉」? 初めて聞く名前だが、ここ一雲斎と可睡斎は徳川家康と関連がある。ならば智恩斉も家康と何か
関係があるのではないかと、早速ネットを検索すると
「家康が信玄との戦いに敗れ、浜松城に敗走したが武田軍に追いつかれてしまい、戦況不利とみた家康が近くに
あった観音様に勝利を祈願した。この観音は、一生に一度しかも一言だけ願いを叶えてくれると伝えられており、
徳川軍は戦いには敗れたが、無事浜松城への退却に成功した。その後、この観音様は「一言観音」と呼ばれるよう
になり現在では智恩斎の山門脇に奉られている。」

ウーン! これで家康が観音様を智恩斉に移転させ褒賞を与えたなら、家康と智恩斉の関係が成立つのだが-------
 ついでに一言坂の戦いの有名な話も紹介しておきます。
「一言坂の戦いで徳川軍の本多平八郎忠勝は、得意の蜻蛉切の大槍を振り回し一人奮戦し、見方の軍を無事退却
さた。敵軍の武田軍から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と、その武勇を讃えられた。」

この中で出てくる「蜻蛉切」とは、刃長43.8cmの大身槍で、穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという
逸話もあり、天下三名槍の一つに数えられている。
さらに「唐のかしら」とは、家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指すそうです。
もう一つ寺の入口の看板の事を聞くと、以前にはあったが腐って倒れてしまったの止めたそうです。
 一雲斎では寺名の入った光背と、寺の紋所入りの菓子をお接待された。ありがとうございました。

 
                薬師堂                          薬師堂

 紅梅の咲く境内にある薬師堂に入り、一人お詣りをする。十二神将は見る事ができたが、薬師三尊の厨子の扉は
閉じられていた。






遠江四十九薬師霊場3-2

2014-09-17 14:51:27 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅


                         29番 栄林寺(二俣)
        
              天竜川沿いの鰻屋                        金貸し水神

 次の29番栄林寺は旧天竜市(現浜松市天竜区)二俣町二俣にある。
その二俣には、徳川家康が長男の信康を自刃させた悲劇の城、二俣城があります。本来なら今日は城も見学
したいのだが何せ行程の先が明白でない。ゴールが天浜線の敷地駅までなら城見学の時間はあるが、
ゴールが袋井駅だとそんな余裕はない。今は一応袋井駅を目指しているので城見学はパス。
 
 岩水寺から国道に出ず天竜川に向かって行くと、道の正面に大きく「うなぎ」の看板が見えた。
浜松は鰻で有名だがその代表は浜名湖の養殖ウナギ。だが天竜川では天然のウナギも獲れると聞いた事も
あるのでここのウナギは天然ウナギだろうか? 今はウナギの稚魚のシラスが不漁でウナギの蒲焼が高値に
なり中々食べれなくなってしまっている。

 鰻屋の少し下流に小さな祠と案内板があった。案内板には「病気を担保に金を貸す 金貸し水神様」とある。
興味を覚えて更に読んでいくと 「水神宮病気証文の由来 むかし天竜川が氾濫し、鹿島村の河岸に祀って
あった水神様が流れ出してしまった。それを見た地元の船頭・権三郎が激流に飛び込み、水神様をお救いて
現在地にお祀りしました。権三郎は水の冷えで持病が再発して重体に陥ったある夜、水神様が夢枕に立ち
「そちの病気はこのたびの功により速やかに全快させてやる。他に病気で苦しんでいる者があれば、病気を
質として借金証文を上げさせよ、期限までに必ず全快させよう」
 と、お告げがあり権三郎の病気も不思議と
全快しました。それ以来、病気の水神様として人々の信仰厚く、遠近からお札参りや祈願される人が現れる
ようになったそうです」


 ウー? 病気を担保に金を貸す? ではその金を治療費に使えてという事か?
イヤイヤそうではないだろう。きっと病気が治ったら何々をします。とか、一両献金しますから病気を治して
下さいとかの証文を書いて祠に奉納祈願したのだろう。きっとそうに違いない。と、勝手に結論を下した。
祠の中の賽銭箱は証文箱と一体化していました。

 
             金原明善の胸像                        天竜川の鹿島橋

 金貸し地蔵の下には金原明善の胸像が建っていた。金原明善はこの遠江49薬師の最初の回で、生家の
記念館の前を通っている。過去に何回も生家の前は通っていたが一度も入った事はない。どうも金を払って入る
のが嫌いな性分(単なるケチ)なのだろうが、後で後悔することが多い。なるべく入ろうと思っているのだが-------
 金原明善の功績は、天竜奥地の植林と天竜川の護岸工事により「暴れ天竜」と云われた天竜川の氾濫を抑え
地元を救った治山治水の先駆者だった。
 その暴れ天竜も今日は水量も少なく穏やかに流れていた。

 
            天竜川の写真地図                   鳥羽山下のトンネル

 地図で見ると二俣の町は天竜川の左岸(東岸)にあるが、直接天竜川とは接していない。町と川の間には低い
丘陵が自然の堤防のように囲んでいる。この丘陵の一部に悲劇の城二俣城はある。
さらに「二俣」の地名の謂れは、地元鉄道天浜線のHPでは 「二俣は道の二股ではなく、天竜川と阿多古川の
二股のデルタ地帯を意味しいる」
 と紹介している。
 まず写真地図を見てください。デルタを形成したという阿多古川は写真の左側にあり、その川と天竜川の間には
デルタなどの平地は存在しない。近くにある平地は天竜川が蛇行した内側にある二俣町だが、ここが阿多古川の
影響で出来たとは考えにくい。写真地図をよく見ると町の中を縦断している川が見える。この川の名が二俣川。
この二俣川は昔は天竜川が増水して水位が上がると、二俣川は水の行く手が塞がれ、幾度となく洪水を起こして
いたらしい。それに二俣の地名が川の二俣から来ているのなら、その二股に関係の無い川に二俣の名前を付ける
のも変だ。
またまた妄想的歴史観が湧いてきた。「天竜区二俣の地名の謂れは、天竜川と二俣川の合流部から発生した」
どうでしょう今回の妄想的歴史観は。

 天竜川に架かる鹿島橋を渡ると丘陵の下に「筏問屋 田代家」と云う展示場を兼ねた保存家屋があった。
平日のうえ時間も早いので人の気配はない。仕方ない案内板だけで我慢しよう。
「田代家は徳川家康の遠州経略に協力して、天竜川の筏川下げと緒役免除の特権が与えられました。
江戸時代には北鹿島の名主と、渡船場船越頭を勤める一方、天竜川筏の受け継ぎ問屋も経営していた旧家です」
 
この地方には家康が自分に協力した地元民にお礼をした話が多数残っている。天竜川上流の西渡では家康が
負戦で落武者となり、敗走するとき家康を匿った者に 「天下を取ったら見渡す限りの山を授ける」 と言ってその
通りにしたとか、中には人間だけでなく山犬にもお礼をしている。秋葉神社の近くに山犬信仰の山住神社には
「家康が三方原の戦いで武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、山全体が鳴動し山犬の大音声がおこり、武田勢を
退散させた。お礼に二振りの刀剣が奉納され徳川家の崇敬を受けた。」
 話もある。
 三河出身で幼いころから駿河で人質の生活を送った家康は、馴染みの薄い遠江の住民を手なずけるためには、
協力した住民を積極的に褒賞したのだろう。

 田代家の横の丘陵を貫くトンネルを通り二俣の町に入る。このトンネルの上の丘陵には二俣城址や鳥羽山城跡が
あるが今日は寄っていれない。更にこの町の山奥には火伏で有名な秋葉神社と水防の光明寺がある。
江戸時代には 「ついで参り」 と称して火の秋葉山と水の光明寺山の両方をお参りしていたようだ。
私もいつかついで参りをしたいと思っているが何時になることやら。そうそう現在の二俣にある光明寺は、昭和6年の
光明寺山の火事で山にあった光明寺が焼失したため麓に移転したそうです。

     
                 29番栄林寺
   栄林寺の場所

 地名の元になったにしては小さな二俣川を渡り、川沿いの道を少し行くと29番栄林寺が見えた。広くはない
境内だが手入れが良く行き届いている。雰囲気のある穴地蔵の石仏や境内の花や木に名札が付いているのも嬉しい。
ご朱印をお願いして本堂左側の瑠璃殿でお詣りしていると、寺の奥さんが朱印帳と寺のパンフレットを持ってきて
くれた。そのパンフレットを見て思いだした事があった。この栄林寺は15mは越す大きなハクモクレン(白木蓮)の
木がある事を。だが今境内から入ってきたがハクモクレンには気が付かなかった。奥さんに尋ねると最近樹勢が衰えて
花を余りつけなくなったと言う。理由は境内に水道管を敷設するとき木蓮の根元を掘って根を痛めたのが原因らしい。
瑠璃殿から出て眺めると確かに蕾や葉の数が少なくしかも小さかった。
早くパンフレットに紹介されているような見事なハクモクレンに回復して欲しい。

                         30番 玖延寺(フウ)
 
             二俣川(下流の山は鳥羽山か)           玖遠寺とアメリカフウの実

 二俣川沿いの道を県道40号まで戻る。この県道は天竜二俣から磐田や袋井、掛川に抜ける道で、過去に車では
何度も走っている。その時のイメージでは歩きにはあまり適していないように感じていた。そこで今日は県道は
なるべく避けて旧道等を主に歩こうと思っている。
 今も県道に出る前に左折して細い川沿いの道を行く。時折見える県道側を見ると天浜線の天竜二俣駅が見えた。
その先で東に向かっていた県道は向を右にカーブして南に変える。だが次の30番玖延寺は県道とは逆に北に延びる
道に入る。更に山奥に入るのだと思っていたら、何の事はない分譲団地が現れた。車道が整備され来たので二俣町内に
住むより、少し離れているが静かで地価の安い所のが良いのだろう。しかし日の出は遅く、日の入りは早そうだ。

 団地が過ぎると正面の広い広場に石碑が建ち 「玖遠寺」とあった。30番札所に案外容易に着く事ができた。
アレーチョット待った! 車道の上に点々と木の実が落ちている。ピンポン玉より小さめなで丸い茶色のイガが実の
回りを覆っている。何の実だろう? 近くには親と思われる樹高の高い木が新芽もなく枯れ木の状態で何本もある。
ブナ(橅)の実もこんな感じの実だったが、まさかブナの木を街路樹風に植えては無いだろう。寺で聞いてみよう。

 
              玖延寺山門                趣のある石仏群
      玖延寺の場所
 「生かさるゝ いのち尊し 今朝の春  中村久子」 寺の山門には珍しく俳句の扁額が掲げられていた。
私も生かされているお蔭で、こうして歩き遍路をする事も出来る。まだ朝の陽射しが残っているとき、石仏を眺めて
いると心も落着き感謝の念が湧いてくる。 ナンテ言っちゃってね-------
それでも普段より深く一礼をして山門を入った。

 後で作者の中村久子さんの事を調べると
「中村久子さんは、1897年、飛騨の高山で誕生し、三歳のとき突発性脱疽に罹り、両手両足を無くされた。
中村さんはその障害の事実を真正面に引き受けて、人権意識が未成熟で障害者への差別の厳しい、生きて
いくのも非常に困難な時代を、女性として、母として、そして何よりも一人の人間として72年の生涯を生き
抜かれた。」
 と紹介されていました。

 
              境内から玖延寺                   薬師堂

 山門の扁額の句の所為ではないが、広い境内を持つ玖延寺は、落ち着いた静かな雰囲気の寺だった。
庫裏に入り早速広場にあったイガの実の事を尋ねると「あれはアメリカフウの実です。あの実をクリスマス
リースの飾りにすると云って拾っていく人がいますよ」
 との事。
アメリカフウ? 何の事か再度聞くと「私も詳しくないがアメリカの楓の事らしいですよ」 
あの実が楓? クドクド聞いては申し訳ないので後で調べる事にした。
「フウは「楓」と書かれるが、カエデはムクロジ目に属し翼果をつけるのに対し、フウ属は雌花の花序が球形で
垂れ下がるので区別できる。まっすぐに伸びる樹形は美しく、また秋の紅もが美しく落葉後は長く枝に残る実も
風情があり街路樹や公園樹としてよく利用される。一般家庭の庭には大きすぎて庭木としての利用はあまりない」

何々楓がふう? 恥ずかしながら「楓」が「ふう」と読むことは知らなかった。確かに木偏を取れば風だから
「ふう」とも読むだろうが、一応確認のため漢字辞典で確認したが間違いは無かった。
そうか「アメリカフウ」は、言い換えれば「アメリカカエデ」なのだと納得。

 少し寺の事も紹介しなければ----
玖延寺の開祖は駿河慈悲尾(しいのう)にある増善寺の和尚によるのだそうです。
増善寺といえば今川七代目当主で今川中興の祖とも云われている今川氏親(うじちか)の墓所のある寺です。
増善寺は駿河一国33霊場の札所なので当然お詣りしています。人里離れた山の寺だったが本堂は新しく改築され
ていて、少々趣を欠いていたと記憶している。しかし知っていいる寺の名前を聞くと余計に親近感が湧いてくる。

    
                     薬師瑠璃光如来・日光・月光菩薩・十二神将 

「薬師堂は自由にお詣りください」 と云う事なので清々声を出して般若心経と延命十句観音経を唱えた。
この二つの経は般若心経は四国遍路のとき、延命十句観音経は駿河一国観音霊場のときに暗唱できるようになった。
ただ私の場合は「門前の小僧、習わぬ経を読む」と違い、耳からではなく目(文字)から覚えたので、息継ぎの場所や
調子(アクセント)のつけ方が自己流のため実際のお経とは大分違っている。言うなれば隠れキリシタンのオラショの
ようになっている。たまに般若心境のCDでも買って正当般若心経を聞いてみようか、など思うときもあるが------

 玖延寺薬師堂の須弥壇の上は薬師瑠璃光如来・日光菩薩・月光菩薩・十二神将が揃って祀られていた。
この薬師如来は檜材割矧造りで鎌倉中期の阿闍梨暹咸作。長年秘仏とされていたが昭和60年に修理をしたのち
薬師堂に安置され、誰でも拝見できるようになったのだそうです。

                  

遠江四十九薬師霊場3-1

2014-09-15 11:49:52 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅


***** 体調が回復しない日が続いていて、厄払いでもしなければと考えて思いだした事がある。
    今年3月に歩いた「遠江四十九薬師」の遍路日誌が中断したままになっていた。
    「さわらぬ神に祟り無し」と云うが、医薬の仏様である薬師様に一度は触れてしまったのに
    途中で投げぱっなしにしたため神罰が当たっているのかもしれない。
    てなわけで遠江四十九薬師の遍路日誌を再開します。 *****


                         28番岩水寺(続・竜神)
 想定外で終わってしまった2回目の霊場巡りのつけが、3回目に早速出てしまった。駅から駅への遍路を
目標にしているので、今日のゴールも鉄道の駅にしたい。そうなるとJRの袋井駅か天浜線の敷地駅の
どちらかしかなかった。しかし袋井駅だと推定距離は40kmを越えてしまい、実質距離が45km以上になって
しまう恐れがある。かと言って敷地駅だと15km程度で、歩きが午前中には終わってしまいそうだ。
更に都合の悪いのは岩水寺は8時半からの受付なので、その前に行くとご朱印がもらえない事も分かった。
ウーン困った。しかしここは考えても仕方ない。ともかく岩水寺でご朱印を受けて、袋井駅を目指すしかない。

 岩水寺駅に8時13分に到着。前回歩いた道を岩水寺に向かう。今日は風は強いが暖かなので出発時から
トレーナーは脱いでいた。前回のように冷たい風が強すぎるのも困るが、余り暑くなると歩く速度落ちてしまう
のでこれも困る。でもまだ3月14日なので、そこまで暑くはならないだろう。

 前方に何とも味気ない入口が見えてきた。この様な施設を造る寺は金持の真言宗かと思ったら、まさに
その通りで真言宗高野山派の所属だった。しかしそんな思いを感じたのはその時だけだった。
山門手前の鐘楼に 「合掌して一礼し、一回心静かにおつき下さい」 との表示を見て鐘を突いてみた。
「グォ~ン」と重く余韻のある音が響き渡る。鐘の音は良いものだが、これも四六時中鳴っていれば煩く感じる。
四国でバス遍路の団体が、鐘の余韻も終わらないうち次々と鳴らしていたが、あれは頂けなかった。
ところで鐘は参拝のどこで突くか知っていますか? 四国遍路の心得として 「戻り鐘はつかない」 とあり
参拝の帰りに鐘は突かない事となっています。理由は神社の鰐口や鈴と同じで「これからお詣りします」
神様、仏様に合図をするためだそうです。いわば一般家庭の呼鈴のような物なのでしょう。

 赤い幟を見て遠江49薬師の幟かと思ったが違った。幟には 「天竜川竜神化身 厄除子安地蔵尊」 
なっている。オット!早速竜神様の登場だ。
 
 
            岩水寺入口                              岩水寺
               岩水寺の地図
 岩水寺の入口に額に入った幽霊のような写真が飾ってあるが、一体何なのだろう? 一見すると能か歌舞伎の
衣装のように見えるし、服装は男と云うより女性のようで幽霊のようにも見える。
岩水寺のHPを見ると
「高野山真言宗別格本山である龍宮山岩水寺は、神亀2年(725)行基菩薩が薬師如来の尊像を刻み開創され
ました。その後延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂公東征時、天竜川の龍神様(蛇神様)が薬師如来の功徳に
より、玉袖姫という美しい女性に変身され、将軍様と恋に落ちました。
 その後お子様である坂上田村麻呂俊光将軍は、人々の救済を願い、お母様(龍神様)の魂が刻まれた、
厄除子安地蔵様(国重文:伝弘法大師作)を岩水寺に安置されました。
 昔から”家をまもるは岩水寺”と言われております。これは厄除子安地蔵様(龍神様)が母であり、実際に
子供を産んでいる女性が神仏になったという、非常に珍しい仏様であるからです。」


 ヘエー!、あの幽霊が弘法大師が彫った厄除子安地蔵だったとは、とてもお地蔵さんには見えないな。
そうなると弘法大師は坂上田村麻呂か子供の俊光から赤蛇(竜神)の話を聞いて、地蔵を彫った事になるが、
時代は合っているのだろうか。調べてみると坂上田村麻呂は758-811年で、弘法大師は774年生まれだった。
これなら年代的には誤謬は生じていない。

 何となく地蔵尊の由来は理解できた。ではHPでは竜神の話はどのように書いてあるのだろう。
「坂上田村麻呂将軍は勅命で東征の折、船岡山に到着した。当時はそれより先の天竜川は岩田の海と呼ばれる
程広く、荒れる事も多くて地元の人々を困らせていました。
 そこで田村将軍は船岡山から鬼門(北東)にある岩水寺に参拝し、御祈願されました。すると寺のすぐ東側にある
天竜川の袖ヶ浦の荒れ狂う波の中から、美しい玉袖と名乗る姫が現れました。
 将軍の愛人いなった玉袖は、やがて身重となり、いよいよ出産のとき「決してこの中を覗かれないで下さい。」と、
将軍に堅く言いおいて産屋へ入りました。それから七日経ちましたが一向に出る気配がありません。外は大嵐となり、
心配になった将軍が産屋の節穴より覗いてみると、中には大蛇が赤子を舐めていました。
 驚いた将軍が産屋の中に入ると、大蛇は玉袖姫の変身して
「自分はこの海に住む蛇です。本来の姿を見られたからにはお別れしなくてはなりません。ただこの子はどうか
立派な武将にお育て下さいませ。」
と2つの宝珠を渡して岩水寺の赤池(閼伽池)へ消えて行きました。
 それから八年の年月が経ち、将軍は一子赤蛇丸(俊光)を同行してこの地に来ました。そして荒れ狂う岩田の海に
水干の玉を投げ入れました。すると海はたちまち汐が引き広々とした陸地になりました。水が干上がった時赤蛇は
岩水寺の赤池に隠れ、そこから奥の洞穴(鍾乳洞)に入り、その後鹿島の椎ケ渕へ入られました。
現在の浜松市天竜区の椎ケ脇神社は将軍がこの赤蛇を祀ったものです。またその玉が奉じられているのが浜松市
東区の有玉神社です。また鍾乳洞は信州(長野県)の諏訪湖に繋がっていると云われております。」


ウン!中々面白い話だ。船岡山も岩田の海、袖ヶ浦、椎ケ脇渕等の地名も全て出てきているので説得力もある。
ただ最後の岩水寺の鍾乳洞が信州の諏訪湖に通じている話は、御前崎市佐倉の桜ヶ池の竜神伝説と同じだ。
マーどちらにしろ遠州は天竜川を介して諏訪湖とは繋がっていたので、そんな話が出来ても不思議ではない。

 話はまだ続いていて次に幽霊の正体が分かる。
「成長した俊光は母の姿を知らない事を悲しく思い、母を地蔵菩薩として崇めたい旨を天子に奏上しました。
父が寵愛の頃の姿を現し給えと一七日間参籠し、満願の夜、雷鳴轟く豪雨の中に母が現れ
「玉袖のかわく間もなし ここに来て われ母ならば 子安をぞいのる」といいつつ姿を消しました。
 かくて俊光は衆生済度法悦楽土を築く為に母玉袖の姿をお比丘尼如来像とし、弘法大師一刀三礼の地蔵尊を
銘「子安地蔵大菩薩」(国指定重要文化財)として岩水寺に安置されました。そして父田村将軍の守り本尊の
十一面観世音菩薩を岩水寺鬼門の守り神としました 。また田村将軍は岩水寺に寺領を寄付され、寺の名前を
龍宮山龍池院と名付けられました。」


ここまできてやっと幽霊の正体が分かった。初めは弘法大師の地蔵菩薩が幽霊かと思ったが、どうやらそうでは
なく、母玉袖の姿を写した比丘尼如来像が幽霊の正体のようだ。
尤もこれも私が勝手に解釈しただけで間違っているのかもしれないが。
山号の竜宮山にも面白い言い伝えがあったが、先を急ぐのでそれは次回の話としよう。

      
             本堂の玄関                  竜神化身厄除地蔵(HPより)

 岩水寺の本堂は朝の掃除の最中だった。近くで掃除をしている僧にご朱印を頼むと気持ち良く受けてくれて、
「よかったら上がってお詣りしてください」「見学者立入禁止」と書かれた本堂に誘ってくれた。
 本堂のお詣りを済ませ薬師堂に向かう途中、弁天さんをお祀りしている所に池があった。その名前が「赤池」
この小さくチャチな池が赤蛇が隠れた赤池なのか、これなら赤池など無い方が伝説が尤もらしく聞こえる。
これで分かった。御前崎市の桜ヶ池の竜神伝説が有名なのは、桜ヶ池が如何にも竜神が住んでいそうな池に
対して、この赤池は良いところ青大将がいる程度の池だからだ。
 薬師堂の前にも赤い幟があり、こちらの幟も竜神化身の厄除地蔵の幟だった。ただ山門には遠江49薬師の
白い大きな看板はあった。

 
             本堂の沙弥壇                      薬師堂の山門
  
                    
 

焼津3山縦走(高草山・満観峰・花沢山)2

2014-09-13 16:07:36 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年9月10日(水)
歩行時間: 6時間10分 休憩時間:1時間40分  延時間:7時間50分
出発時間: 6時40分  到着時間:14時30分
歩   数:  25、986歩   GPS距離:14.7km
行程表
 焼津駅 0:30> 石脇口 1:10> 高草山 0:35> 鞍掛峠 0:35> 満観峰 0:40> 日本坂峠 0:25>
 花沢山 
0:15> 石部峠 0:35> 砂張屋道標 0:50> カンポ下 0:35> 焼津駅 
観歩記2
 春には満観峰山頂の東側にはマツバウンラン(松葉海蘭)の群落が、小さな花を風に揺らしていたが
今はその痕跡も無い。

  
         昨年夏             今年春                 9/10

 痕跡が無いと云えば昨年の夏には三角点付近に咲いていた多分ササユリと思われるユリが見当たらない。
今年の春には茎も延び葉も付いていたので楽しみにしていたのだが -----------
尤もユリの時季はとうに終わっているので、花は期待していなかったが茎は残っていると思っていた。それが
何も無いとはもしや盗掘にあったのか。いやそんな事はない既に枯れたのだろう---------

 日本坂峠の穴地蔵の中に新しい地蔵が納められていた。穴地蔵は以前と違い登山道からも良く見えるので掌を
合わせる人が増えたのだろう。
 峠で一休みをしてポカリスエットを飲んだ。次に水を飲もうと思ったが水のペットボトルが無い。満観峰では
間違いなく飲んだのだがザックには入っていない。どうやら満観峰でポカリは仕舞ったのに水は仕舞うのを忘れて
しまったようだ。ストックを持ってこなかったのに次いで今日二つ目のチョンボだった。
 ポカリを飲めば水などいらないではないか?って。
ソー普通はそうですよね。でもポカリを飲むと、その甘さがいつまでも口に残ってしまうので、ポカリの後は真水で
口直しをしています。では水だけにすれば---- 私も心の中ではそう思っているのですが、昨年の夏から妻に
「水だけでは汗で出てしまい熱中症になる。」と脅され強制的にポカリを持たされています。しかしポカリだけだと
1回の歩きで500mℓのポカリが半分は残ってしまうので、最近では水道水をボトルに入れて両方持つようになりました。
なので水のペットボトルを落としてもどうという事はないのですが、加齢性健忘症が気にかかります。

  
                      ヤブミョウガ(藪茗荷)

 今日歩いていて腑に落ちない事ができてしまった。それは大崩山塊にはあちこちに咲いているヤブミョウガ
(藪茗荷)の事で、どれがヤブミョウガなのか分からなくなってしまった。
写真の花は植物辞典で調べてもヤブミョウガに間違いが無いと思うが、の花と同じように茗荷に似た葉の
植物があった。
  
          緑の実(9/10)           花の状態(5/24)         蕾の状態(5/24)

 実がなっている今見れば明らかに実の形や大きさが違うものがあった。
春に歩いたときは写真の花をヤブミョウガとして、何の疑いもなくHPでも紹介してしまった。
だが実がなった今見ると、上の写真のヤブミョウガは葉を付けた茎の先端に白い花を咲かせている。中には
その花が実に変化する状態の物もあった。実の色は黒い物や薄茶色のもの、中には青色の実もあった。

 それに比べ下の写真は実だけの茎を葉の根元から伸ばし、緑の実を付けている。大きさもヤブミョウガより
大分大きくて明らかにヤブミョウガとは違う。この実の同じと思われる葉の植物は春には写真のような花を
咲かせていた。
 自分の知識の無さをブログの題材にするなど情けないが、どうしても調べ切りません。誰かご存知の方が
おりましたらご教授願います。

   
        白いミズヒキ状の花                葉に八の字が残る花

 知らないついでにミズヒキの疑問も紹介します。
高草山でミズヒキとは、葉に八の字があり赤いミズヒキ状の花が咲き、葉に八の字の無い白い花は別の名前
ではないかと想定してしまった。ところが花沢山山頂のベンチの下に、葉に痕跡が無く白いミズヒキ状の花と、
葉に八の字の模様がある白いミズヒキ状の花を見つけた。
明らかに想定ミスだが、私の考えをグダグダ書く前に植物辞典の内容を紹介します。
植物園にようこそ」 
 「熨斗などに懸ける紅白の水引が名前の由来です。上から見ると赤,下から見ると白というわけです。」
小さな園芸館
 「花は細く長い花序にまばらにつき、上側が赤く下側が白く見える。 花びらは赤く、花の内側が白っぽい」
季節の花300
 「上から見ると赤く見え、下から見ると白く見える花を、紅白の水引に見立てた。特徴のある葉っぱに    
  ギザギザ模様がなんとも不思議。秋の花の季節になると、この模様は薄くなるようです。」
インターネット生物図鑑
 「葉の中央部にV字形の黒斑があることが多く、花が無くても識別しやすい。上から見ると赤いが下から見ると
  白い。名はこれを水引に見立てたもの。白花タイプもある

 インターネットって便利ですよね。辞典も買わずにこんなことまで分かるのですから。
結局ミズヒキの結論は「葉に八の字模様のある物も無い物もある。花は白花と赤花の両方がある」と云う事で
今まで見たのは全てミズヒキだったのでした。ただ「上から見ると赤,下から見ると白」は気が付かなかったので
次回は確認したいと思います。

 
          ヨウシュヤマゴボウ                   ヨウシュヤマゴボウ

 花沢山から長い階段を下り、ほぼ順調に石部峠に到着。ここまで来れば今日の3山縦走は完歩出来るだろう。
尾根の日当たりの良い場所にヨウシュヤマゴボウ(洋種ヤマゴボウ)が実を付けていた。まだ未熟で実にも
なっていない状態の物から、赤っぽい軸に黒い実を付けたブドウに似たもの、すでに盛りを過ぎ全体が黒く
しなびた物など色々あった。この花も花沢山や高草山では良く見かける花だ。

 
           カンポ下の標識                     人工の穴

 石部峠から階段を下った所にある公的標識のすぐ左下に、今年3月に付けられた「カンポ下」の標識がある。
踏み跡もあり入口付近にはテープが何本も垂れ下がっていてテープの数は前回より多くなった感じがする。
実はこの道を標識が付いてから2回歩いているのだが、2回とも大変な目にあった。
最初この標識に気づいたのは3月28日で標識の日付から6日後だった。その時は静焼アルプスの終盤部分で
疲れ果てていたためその道は歩くのを止めた。
次は4月6日の十字縦走でここを逆コースで歩いたとき、多分ここが標識の出口だと思われる道了尊下の分岐から
入り込んだ。
最初シッカリした道はじきに細くなったが、以前ここがハイキングコースだった事を示す公的標識や擬木の階段、
土留めなどがあった。これなら近道になると喜んだのも束の間、道と云うより踏み跡はミカン畑にぶつかり進め
なくなってしまった。何度かやり直すが高い場所まで続いているミカン畑を避ける事ができない。ミカン畑の周りを
歩こうと踏み跡を探したが無かった。
結局道探しは諦めて斜面を強引に尾根まで登り、ハイキングコースに出た。とんだくたびれ儲けだった。
 次は6月4日に石部峠から来たとき標識のある所から踏み跡に入った。こちらも最初は快調に踏み跡があり、
公的標識もあった。だが踏み跡はそこまででその先は背丈より高い雑草が生い茂っている。ただ下に下る方は草が
少ないのだが、ここで下ってしまえばミカン畑になってしまうと思い、背丈より高い雑草の中に分け入った。
顔や腕に切り傷を何ヵ所も作り何とかミカン畑の上に出た。だがそこからも雑草を掻き分け、ようやく前回歩いた
踏み跡に出る事ができた。幸い葛の蔓が無かったので進むことができたが、もう二度と歩きたくない道だった。
 こんな道に標識を付けていいものだろうかとその時は疑問に感じたが、今日また来てみると前回より踏み跡は
濃くなっているし、目印も多くなっている。こうなると前回私は道を間違えたのかと思えてくる。
だが今日は止めよう。体調の様子見の歩きに馬鹿な事をしてはいけないと自重した。
でも気になるのですよね。誰か歩いてみてくれないかな、そしてその結果を知りたいな。

 道了尊の下に以前から気になっている四角い穴の開いた石がある。穴は真四角なので人工的に開けたものだが
この石を何に使っていたのだろうと疑問を感じていた。それが今日来てみると四角い穴の横の石にも、同じような
穴が開いた石があった。今まで左の穴には泥が詰まり落葉が積もっていたので穴の存在が分からなかったが、
このように左右にあるなら石の存在理由は明白だろう。それはこの石から続く階段の参道の上には道了尊が祀ら
れているので、この石は道了尊の祭典のとき幟旗を建てる穴に違いない。

   
             蕨と彼岸花                       ノカンゾウ

 砂張屋の道標に12時45分到着。大分疲れが出てきた。特に石部峠からは風も無く蒸し暑さも加わりペースも
落ちてきた。余り疲れ過ぎてはと、道標の土台に腰を下ろそうと思ったら、蚊がブーンと耳元に飛んできた。
ヤバイ!デング熱にやられると慌てて汗で湿ったタオルを振り回した。
この辺りは山とはいえ標高は150mくらいしかなく、しかも竹藪があちこちにあり蚊の生育条件に適している。
ヒトスジシマ蚊かどうか分からないが刺されるのは嫌だと休憩は止めて歩く事にした。
 
 砂張屋の道標を過ぎると暫く無かった蜘蛛の巣がまた出始めた、左手で蜘蛛払いを回し、右手は時折タオルを
振り回して蚊を追っ払いながらの歩いた。でもこんなに努力をしたのに腕に3ヶ所と耳たぶを刺されてしまった
そう云えば先月TVが浜松で毒蜘蛛のセアカゴケ蜘蛛が見つかったと放送していた。TVに写った蜘蛛は名前の
如く背中が赤かった。この辺りの蜘蛛は背中は赤くないので毒蜘蛛ではないが、顔に巣がつけば気持ちが悪い。
 毒と云えば去年は毒ダニも報道されていた。マダニと云うどこにでもいるダニなのに、このダニに噛まれるとウイ
ルスに感染し発熱や嘔吐、下痢などの症状を起こすとか。特に草むらや森などに生息しているので、草むらに入る
ときは長袖・長ズボンをはいて肌を露出をしないことと云っていた。
そんな事を云っても山歩きでは草むらや森は付き物だし、暑いのでどうしても腕まくりはしてしまう。藪漕ぎをした
後は腕に擦り傷や引っ掻き傷、それにかぶれたのか噛まれたのか分からないがブツブツができる事もある。
そんな事がダメとは全く面倒な世の中になったものだ。これも温暖化の現象なのか-------- 
そのうちに毒蛇のハブも出るかもしれないな。

 山の神の祠の先で今年の春、蕨を採った場所に、蕨と彼岸花が生えていた。エー!信じられない。
葉の大きく開いた蕨ならともかく、まだ食べれそうな蕨が生えているなんて。しかも近くに彼岸花が-------
これは温暖化の影響じゃないよな。

 海側から重機の音が聞こえてきた。この音は旧150号の道路崩壊の復旧作業の音なのか? 少し前の
新聞には道路復旧の目途がたたないので崩壊部分はトンネルにするとか載っていたがどうなったのだろう。
車道が開通しないとこのハイキングコースの通行禁止も解除されないのか。今日も砂張屋の道標の所に
通行禁止の貼紙があったが無視をしてしまった。本当はそんな事はしたくないのだが--------

 左にバラ線があり「危険注意」の板もついている。ここをカンポ下に向かうときは、この注意書きを見る
たびに腹が立つ。疲れもピークになっているせいもあるが「危険」とはバラ線がか。
それならバラ線を撤去すればいい。

 
        ボタンズルかセンニンソウ                     クサギ?

このバラ線からがこのコースの最後の登りになる。しかし登りはともかくピークから簡保下までの下りが長く感じる。
今日も下りになると足がガクガクして尻餅をついてしまった。
 道脇にノカンゾウ(野萱草)が咲いていた。たった2本しかなく、しかもどちらも一輪しか花を付けていなかった。
次にあったのは白い十字の花(萼かもしれない)に雄蕊か雌蕊が長く目立っている。
辞典にはボタンヅル(牡丹蔓)は葉が牡丹に似ていて、センニンソウ(仙人草)は花後に仙人のような長い髭が出る
となっていた。今の段階では私にはどちらか判断できないのでもう少したったら来てみよう。
 次の花はクサギ(臭木)? これも自信が無いので次回は葉の臭いを嗅いでみよう・

 13時40分ようやくカンポ下に到着。何とか完歩出来たが大分疲れた。でもこれなら低山歩きはユックリ歩けば
大丈夫そうだ。これからは訓練などと思わず疲れを残さないような楽な歩きにしよう。そうすれば何とかなる。
カンポ下から焼津駅までの車道は陽が射していて気温も30度あった。山より疲れる感じだったが焼津駅で着いて
早速氷結で乾杯。グイと飲むと、アレーなんか変! 疲れがドット出て気分まで悪くなってしまった。
気持ち悪いのを押さえて家に帰りシャワーを浴びて何とか回復。
様子見の低山歩きなのに調子にのって乾杯などと。矢張り私は老人性痴呆症の前期なのだろう。
注意する事ばかり多くなり、注意しきれなくなってしまった自分が情けない。

焼津3山縦走(高草山・満観峰・花沢山)

2014-09-11 12:35:32 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年9月10日(水)
歩行時間: 6時間10分 休憩時間:1時間40分  延時間:7時間50分
出発時間: 6時40分  到着時間:14時30分
歩   数:  25、986歩   GPS距離:14.7km
行程表
 焼津駅 0:30> 石脇口 1:10> 高草山 0:35> 鞍掛峠 0:35> 満観峰 0:40> 日本坂峠 0:25>
 花沢山 
0:15> 石部峠 0:35> 砂張屋道標 0:50> カンポ下 0:35> 焼津駅 
観歩記
 大崩の低山歩きは3か月ぶりで、今日は小手調べならぬ小足調べ(?)が主な目的なので完歩は二の次だ。
このコースなら普通なら7~8時間のコースだが。今の体調なら10時間以上掛かるかもしれない。、
仮に10時間以上掛かると途中で判断したら中止するし、途中でも体調が良くなければ止める積りでいる。
そのため離脱ヶ所が何ヵ所もあるこのコースは様子見のコースとしては最適かもしれない。

 

 今日は曇り空で陽射しが無いぶん楽に歩ける。お蔭で順調に石脇口を経て山道に入ると、今年初めて見る彼岸花が
咲いていた。彼岸花は律儀な花で毎年お彼岸近くなると咲きだしてくるが、そう云えば今年もお彼岸が近付いている。
 早朝登山の多い高草山は7時台でも下ってくる人がいる。その人がストックを付いているの見て私も杖を出そうと
したが無い。そうだ久し振りの歩きで、すっかりストックの事は忘れたいた。
1週間前の富士山挑戦はストックではなく四国遍路で使った金剛杖を持っていった。この杖は富士山には必ず利用して
いて、既に6回は剣ヶ峰の岩を突いている。
四国遍路の出発点で購入した杖は、八十八ヶ所の遍路が終わった時は15cmも短くなっていたが、それから6回も
富士山に登ったのだから更に短くなっただろう。この杖は私の冥途の杖にするつもりです。。

    

 放棄茶園の一角にムラサキシキブが紫の実をたわわに付けている。奥の方にはまだ緑の小さな実も見えていた。
この木は自然に繁殖したのでなく誰かが植えたのだろうが、この実を鳥が食べてこの辺り一面にムラサキシキブが
繁殖したら面白そうだが、自然系を壊したと言われるだろうか。

 天気は相変わらずの曇り空なので、何時もなら日当たりが良すぎて苦労する石脇口も今日は歩きやすい。
お蔭で高草山山頂にもマーマーのタイムで登る事ができた。
久し振りに見た高草山の山頂標識の下に石が置いてある。よく見るとハートの形をしているので誰かが置いて
くれたのだろう。前回は無かったような気がするが?

 このコースは過去何度も歩いているので特に気を引くような物は無い。そこで今日は最近興味を持ちだした
植物の事をメインに紹介します。

 
       5/24のコアジサイ                 9/10のコアジサイ

 ブログではアップしなかったが、今年の春2回ほど花を探してこの山の中を歩いていた。その時高草山の
鞍掛ルートでコアジサイ(小紫陽花)の花とミズヒキ(水引)の葉っぱを見た。
コアジサイは丁度花が咲き始めた時で、薄紫色の小花が密集して集まっているさまは、一目で紫陽花の
仲間だと見分ける事ができた。葉はアジサイと云うよりシソ(紫蘇)に似ていた。
それが今日見ると既に蕾を一杯つけているように見える。花が枯れた残骸?でもない。それではこの蕾が冬を
越して来年の春に咲くのか、それにしては期間が長すぎるような気がするが。植物図鑑を調べても、どれにも
コアジサイの蕾の期間に触れたものは無かった。これからもう一度咲くのかな?そんな馬鹿な。

          
                       ミズヒキ(水引)の葉(5/24)

 春にコアジサイの近くで別名「八の字草」と呼ばれているミズヒキの葉っぱを見つけた。
名前の如く一目見ただけで八の字クサと判断できる、八の模様がクッキリ浮き出ている草だった。
そのミズヒキが今の時季は花を付けているらしいので、それを見つけるのも楽しみだった。

  
           白いミズヒキ                     赤いミズヒキ

 初めに見つけたのは白いミズヒキだった。だが葉には八の字の模様が無い。次にあったのは赤いミズヒキで
こちらの葉には八の字の模様が残っている。これを見て白いのはミズヒキではなく別名があるのではないかと
思い、帰ったら植物辞典を調べてみようとおもった。それが花沢山の山頂で間違いだったと気がついたが、
それは花沢山で紹介します。。

 何かやけに蜘蛛の巣に引っ掛かる。この道は高草山から満観峰の銀座コースで、縦走する人は必ず歩くので
今までここで蜘蛛の巣に掛かった事はないのに何故だろう? 時刻は9時前なので私が今日最初の歩行者か。
近く笹を取って蜘蛛の巣払いにした。
蜘蛛の巣は鞍掛峠までで、鞍掛から満観峰までは無かった。矢張り最初の歩行者のようだ。それでも笹を手に
したまま満観峰に行くと、同じように笹を手にした登山者とあった。お互い
「蜘蛛巣が多くて」と顔を見合わせて苦笑いをした。

  

 先程はコアジサイの蕾らしき物を見たが、今度はタマアジサイ(玉紫陽花)の蕾と花の両方を見る事ができた。
このアジサイは名前の如く蕾が丸い事から名前が付き、花期の長い事が特徴だ。
大崩山塊の中では時折見かける花だが、丸い蕾が付いていないと普通のガクアジサイと勘違いしてしまう。

9時50分に満観峰到着。思っていたより快調に歩けている。この分では予定通り3山縦走は完歩出来そうだ。