駅からウォーク 「静岡の東海道」4回目-1 2011/3/2
藤枝駅 ― 島田宿 ― 大井川 ― 金谷宿 ― 菊川間の宿 ― 小夜の中山 ―
6:50 8:25 9:10 10:00 11:00 11:30
8.9k 12.5k 16.4k 19.4k 20.8k
日坂宿 ― 事任神社 ― 掛川宿 ― 妙日寺 ― 袋井宿 ― 袋井駅
12:05 12:20 14:05 16:05 16:50 17:22
23.8k 24.6k 32.8k 42.1k 45.3k 46.0k
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/9d/be8d5d8ca0999245e9686684df959800.jpg)
4回目の歩行予定は藤枝駅から磐田駅を歩きたい。だが3回目のように暗くなっても歩く
のでは史跡も見るとことができないし、写真も写せない。
ならば朝早い出発しかないと家を出たのだが--------
今回のゴールを磐田に拘った理由は、4回目の今回磐田まで行きつければ、次回は磐田
から愛知県の二川宿まで歩けるとふんでいる。それが今回磐田の手前の袋井でゴールに
なると、袋井~二川では50kmを優に越えてしまい、静岡県の東海道は6回での完歩に
なってしまう。
他人から見れば意味の無い拘りだが、私としては無視できない目標でもある。
今回はコースは越すに越されぬ大井川を渡り、東海道三大難所の一つ小夜の中山峠を越え
て行くのだが、マー何とかなるだろう。それよりも車道歩きばかりで、嫌にならないかの
方が心配だ。何はともかく磐田まで頑張るぞ!
島田宿へ(七つ立ち)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/ce/b907a23977d001466ff6fc989fa06b89.jpg)
自転車を藤枝駅に預け歩き出したのは6時5分と、早朝出発の新記録になった。
「昔の旅人は朝6時なんて早い出発はしない」って?
とんでもない、昔の人の朝は早かったようですよ。
「お江戸日本橋七つ立ち、初上がり」と歌われて、日本橋を七つどきに出発するのは有名
でよね。あの「七つ」とは現在の午前4時頃を指すそうですので驚きです。
確か山本一力の小説の中に江戸時代の旅の鉄則は「早立ち、早着」が必須条件だったと
書いてあったが、その通りだと思う。その中でも特に大名行列の出発は早かったという。
理由は当時の街道は道が細く、先を行く遅い大名行列を宿場以外では、越すに越されぬ
状態になってしまうらしい。そのため朝4時出発になってしまったようだ。
さらにこんな事も書いてある。「七つ立ちが出来たのは大名行列だけで、一般庶民は町内の
木戸の門が開く六どき(6時)だった」と。
安藤広重の東海道53次の日本橋の浮世絵を見ると、橋を渡っている大名行列の前には天秤棒
を担いだ魚屋が描かれています。さらにその前には木戸の門が開いているのも見えます。
というの事はこの浮世絵は七どき頃の絵ではなく、六どきの頃の絵なのかとも想像できます。
何はともかく朝6時出発が異常な早さではない事は納得してくれましたね。
そうそう藤枝の宿場の木戸も朝の六どきから夕方の六どきが開門時間だったようです。
駅前を通りを旧東海道まで進む。それでは街道地図を首から下げようと、ザックの中を
探すが見当たらない。しまった!昨夜街道の最終確認をした後ザックにしまうのを忘れて
しまったのだ。サー困った。どうしよう。家に戻るのでは遅くなりすぎだ。
家に電話して地図を持ってきてもらうにしても、辺りに公衆電話は見当たらない。
何故最近は公衆電話が減ってしまったのだと、段々八つ当たりしたくなってきた。
確かこの先に24時間営業の大型スーパーがある筈なので、そこまで行って考えよう。
幸いそのスパーには公衆電話があったので、家に電話を掛けて地図を持ってきてもらう事に。
受け渡し場所は、この先の旧東海道を歩いているので、そこで受け取るようにした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/4e/93a22695942d6e1c76dbef5204ceffa0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/dd/2647f34cf9d1438ccce67b77ea2a4417.jpg)
六地蔵を祀ってある鏡池堂に少し変わった六地蔵があった。今まで見たお地蔵さんはそれぞれ
が独立した立像だったが、ここの六地蔵は一つの石碑に六体の地蔵を刻んである。それでも
小さいながらお地蔵さんの持ち物や形が違いは良く分かる。これならコンパクトで場所も取らず
経費も少なくて済むだろ。町なかのお地蔵さんには打ってつけだ。
だが野原や峠道の地蔵さんは、従来のような立像の方のが似合っていると思うな。
追分の説明板もある。中世の頃はこの付近は湿地帯だったので、東海道は山の中を通っていた
が、開拓が進んでから、この街道になったとある。
看板の案内に「千貫堤」や「染飯(そめい)茶屋蹟」の文字が見えた。
千貫堤とは右側(北)の山から、左(南)の小山にかけて堤防を設置して、大井川の洪水から藤枝の
宿場を守った堤防の事だ。千貫(一貫は1000文)の費用がかかったことから、千貫堤と呼ばれて
いた。今はその堤防は殆ど消滅してしまい、わずかに残っているだけだった。
千貫といえば三島の宿にも千貫樋があったが、昔は千貫が沢山とか大金を表す単位だったのだ
ろうか。現在で言うなら「億ション」とか「億万長者」と言うように。
現在の大井川はここより9km程西にあるのに、昔はこんな離れた場所にも堤防を作らなければ
ならないほど大井川は暴れ川だったのだろう。と思っていたが家に帰り地図を見ると
この千貫堤より大井川の渡しの場所は9k弱あるが、そのあと大井川は蛇行していて
川からここまでの直線距離は2k程しかなかった。これなら堤防も必要だったろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/b6/b27f6366b998f34141a5b9db1dfd6902.jpg)
染飯とは梔子の実で黄色く染めた強飯を型にはめて固めた物で、この辺りの茶店で売られて
いたようです。地元の私ですが食べた事も見た事もありません。
旧街道には松が所々に残っているが特に保護している気配はない。この松が枯れればそれで
終いになってしまうのだろう。
そんな場所に江戸から49里目の上青島一里塚跡があった。
ここまで家からの車を待ったが来る気配が無い。仕方ないもう少し歩こう。
旧国道1号に合流する一里山交差点に着いてしまった。この先は道も太くなり交通量も増えて
歩道を歩いている歩行者を探すのは難しくなる。仕方が無いのでここで待つ事にしよう。
だが10分待っても20分待っても来る気配はない。どうやらスーパーから旧街道まで歩いている
間に、車は先に旧街道に来てしまったようだ。ただここから先には行くとは思えないが、
居ないものはどうしょうもない。待つ事だけしかできない。
かれこれ30分以上待ったころ、案の定旧国1の方から来る我家の車が見えた。早速
「何やってんだ 旧東海道で会うと言ったじゃないか」と怒鳴り声を上げてしまった。
「だって、ここで大分待ったけど来なかったので、先に行ったと思ってしまい---」
謝り顔で妻が言う。アッそうだ 謝るのはこちらの方だったと気付いて、慌てて感謝の言葉を。
全く困ったもので妻に対しては少しでも気に食わない事があると、すぐ声を荒げてしまう癖が
私にはある。気を付けようとしているのだが---。お詫びに今日は土産を買って帰ろう。
そんな訳で早朝出発の積りが遅くなってしまった。果たして磐田まで辿り着けるか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/28/edf0eb399338d87bcb1073650b3c7929.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/5e/5589dd8f627dcd1bf458d0f4ade16756.jpg)
島田の市内に入るとマンホールの蓋が可愛い帯祭りの絵になった。
帯祭りとは日本三大奇祭の一つで、島田に嫁いで来た花嫁の披露を兼ねて、花嫁の帯を大奴の
持った二本の太刀の先に飾り、練り歩くものです。
祭りは大名行列に続き大奴が登場します。大奴の両脇に挿した太刀に披露の帯を下げ、蛇の目傘
をさしながら、ゆったり舞うように練り歩きます。
ただこの祭りは見物に動いて疲れるのではなく、行列を待ちくたびれて疲れたと記憶してます。
江戸から50番目の一里塚があった。沼津宿では一里塚は宿場の中には作らないと書いてあったが
ここ島田宿はどうだったのだろう。東の木戸跡は気付かなかったが、本陣はもうすぐだ。因みに
GPSの距離計では49里目と50里目の一里塚の距離は4.4kmと出ているので距離には不足はない。
一里塚の案内板を読むとこんな事が書いてあった。
「島田宿の一里塚は、天保年間に描かれた最古の東海道絵図の中で、北側の塚しか描かれていま
せん」ウーンこれは一里塚を宿場の中に作ったが、さすが両側にあっては邪魔になるので片側だけ
にしたのだろう。と勝手に解釈した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/57/1148f6d3efe170a304bc18db847017f8.jpg)
本陣跡は帯通りと名付けられ綺麗に整備されていた。本陣跡の看板と一緒にからくり時計もあった
が、生憎中途半端な時間でからくり人形の出番は見ることができなかった。
近くに鬼が屋根の上から睨みを利かせている若竹酒造があります。ここの酒は「鬼ころし」とか
「おんな泣かせ」とか変わった名前が付いています。
一度は女泣かせと言われてみたいものだが、悲しいかなそんな経験は無い。そのせいか女泣かせを
飲んだ事は無いが、一升4000円以上すると聞くと、どうやら縁の無いまま終ってしまいそうだ。
藤枝駅 ― 島田宿 ― 大井川 ― 金谷宿 ― 菊川間の宿 ― 小夜の中山 ―
6:50 8:25 9:10 10:00 11:00 11:30
8.9k 12.5k 16.4k 19.4k 20.8k
日坂宿 ― 事任神社 ― 掛川宿 ― 妙日寺 ― 袋井宿 ― 袋井駅
12:05 12:20 14:05 16:05 16:50 17:22
23.8k 24.6k 32.8k 42.1k 45.3k 46.0k
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/9d/be8d5d8ca0999245e9686684df959800.jpg)
4回目の歩行予定は藤枝駅から磐田駅を歩きたい。だが3回目のように暗くなっても歩く
のでは史跡も見るとことができないし、写真も写せない。
ならば朝早い出発しかないと家を出たのだが--------
今回のゴールを磐田に拘った理由は、4回目の今回磐田まで行きつければ、次回は磐田
から愛知県の二川宿まで歩けるとふんでいる。それが今回磐田の手前の袋井でゴールに
なると、袋井~二川では50kmを優に越えてしまい、静岡県の東海道は6回での完歩に
なってしまう。
他人から見れば意味の無い拘りだが、私としては無視できない目標でもある。
今回はコースは越すに越されぬ大井川を渡り、東海道三大難所の一つ小夜の中山峠を越え
て行くのだが、マー何とかなるだろう。それよりも車道歩きばかりで、嫌にならないかの
方が心配だ。何はともかく磐田まで頑張るぞ!
島田宿へ(七つ立ち)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/ce/b907a23977d001466ff6fc989fa06b89.jpg)
自転車を藤枝駅に預け歩き出したのは6時5分と、早朝出発の新記録になった。
「昔の旅人は朝6時なんて早い出発はしない」って?
とんでもない、昔の人の朝は早かったようですよ。
「お江戸日本橋七つ立ち、初上がり」と歌われて、日本橋を七つどきに出発するのは有名
でよね。あの「七つ」とは現在の午前4時頃を指すそうですので驚きです。
確か山本一力の小説の中に江戸時代の旅の鉄則は「早立ち、早着」が必須条件だったと
書いてあったが、その通りだと思う。その中でも特に大名行列の出発は早かったという。
理由は当時の街道は道が細く、先を行く遅い大名行列を宿場以外では、越すに越されぬ
状態になってしまうらしい。そのため朝4時出発になってしまったようだ。
さらにこんな事も書いてある。「七つ立ちが出来たのは大名行列だけで、一般庶民は町内の
木戸の門が開く六どき(6時)だった」と。
安藤広重の東海道53次の日本橋の浮世絵を見ると、橋を渡っている大名行列の前には天秤棒
を担いだ魚屋が描かれています。さらにその前には木戸の門が開いているのも見えます。
というの事はこの浮世絵は七どき頃の絵ではなく、六どきの頃の絵なのかとも想像できます。
何はともかく朝6時出発が異常な早さではない事は納得してくれましたね。
そうそう藤枝の宿場の木戸も朝の六どきから夕方の六どきが開門時間だったようです。
駅前を通りを旧東海道まで進む。それでは街道地図を首から下げようと、ザックの中を
探すが見当たらない。しまった!昨夜街道の最終確認をした後ザックにしまうのを忘れて
しまったのだ。サー困った。どうしよう。家に戻るのでは遅くなりすぎだ。
家に電話して地図を持ってきてもらうにしても、辺りに公衆電話は見当たらない。
何故最近は公衆電話が減ってしまったのだと、段々八つ当たりしたくなってきた。
確かこの先に24時間営業の大型スーパーがある筈なので、そこまで行って考えよう。
幸いそのスパーには公衆電話があったので、家に電話を掛けて地図を持ってきてもらう事に。
受け渡し場所は、この先の旧東海道を歩いているので、そこで受け取るようにした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/4e/93a22695942d6e1c76dbef5204ceffa0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/dd/2647f34cf9d1438ccce67b77ea2a4417.jpg)
六地蔵を祀ってある鏡池堂に少し変わった六地蔵があった。今まで見たお地蔵さんはそれぞれ
が独立した立像だったが、ここの六地蔵は一つの石碑に六体の地蔵を刻んである。それでも
小さいながらお地蔵さんの持ち物や形が違いは良く分かる。これならコンパクトで場所も取らず
経費も少なくて済むだろ。町なかのお地蔵さんには打ってつけだ。
だが野原や峠道の地蔵さんは、従来のような立像の方のが似合っていると思うな。
追分の説明板もある。中世の頃はこの付近は湿地帯だったので、東海道は山の中を通っていた
が、開拓が進んでから、この街道になったとある。
看板の案内に「千貫堤」や「染飯(そめい)茶屋蹟」の文字が見えた。
千貫堤とは右側(北)の山から、左(南)の小山にかけて堤防を設置して、大井川の洪水から藤枝の
宿場を守った堤防の事だ。千貫(一貫は1000文)の費用がかかったことから、千貫堤と呼ばれて
いた。今はその堤防は殆ど消滅してしまい、わずかに残っているだけだった。
千貫といえば三島の宿にも千貫樋があったが、昔は千貫が沢山とか大金を表す単位だったのだ
ろうか。現在で言うなら「億ション」とか「億万長者」と言うように。
現在の大井川はここより9km程西にあるのに、昔はこんな離れた場所にも堤防を作らなければ
ならないほど大井川は暴れ川だったのだろう。と思っていたが家に帰り地図を見ると
この千貫堤より大井川の渡しの場所は9k弱あるが、そのあと大井川は蛇行していて
川からここまでの直線距離は2k程しかなかった。これなら堤防も必要だったろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/b6/b27f6366b998f34141a5b9db1dfd6902.jpg)
染飯とは梔子の実で黄色く染めた強飯を型にはめて固めた物で、この辺りの茶店で売られて
いたようです。地元の私ですが食べた事も見た事もありません。
旧街道には松が所々に残っているが特に保護している気配はない。この松が枯れればそれで
終いになってしまうのだろう。
そんな場所に江戸から49里目の上青島一里塚跡があった。
ここまで家からの車を待ったが来る気配が無い。仕方ないもう少し歩こう。
旧国道1号に合流する一里山交差点に着いてしまった。この先は道も太くなり交通量も増えて
歩道を歩いている歩行者を探すのは難しくなる。仕方が無いのでここで待つ事にしよう。
だが10分待っても20分待っても来る気配はない。どうやらスーパーから旧街道まで歩いている
間に、車は先に旧街道に来てしまったようだ。ただここから先には行くとは思えないが、
居ないものはどうしょうもない。待つ事だけしかできない。
かれこれ30分以上待ったころ、案の定旧国1の方から来る我家の車が見えた。早速
「何やってんだ 旧東海道で会うと言ったじゃないか」と怒鳴り声を上げてしまった。
「だって、ここで大分待ったけど来なかったので、先に行ったと思ってしまい---」
謝り顔で妻が言う。アッそうだ 謝るのはこちらの方だったと気付いて、慌てて感謝の言葉を。
全く困ったもので妻に対しては少しでも気に食わない事があると、すぐ声を荒げてしまう癖が
私にはある。気を付けようとしているのだが---。お詫びに今日は土産を買って帰ろう。
そんな訳で早朝出発の積りが遅くなってしまった。果たして磐田まで辿り着けるか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/28/edf0eb399338d87bcb1073650b3c7929.jpg)
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島田の市内に入るとマンホールの蓋が可愛い帯祭りの絵になった。
帯祭りとは日本三大奇祭の一つで、島田に嫁いで来た花嫁の披露を兼ねて、花嫁の帯を大奴の
持った二本の太刀の先に飾り、練り歩くものです。
祭りは大名行列に続き大奴が登場します。大奴の両脇に挿した太刀に披露の帯を下げ、蛇の目傘
をさしながら、ゆったり舞うように練り歩きます。
ただこの祭りは見物に動いて疲れるのではなく、行列を待ちくたびれて疲れたと記憶してます。
江戸から50番目の一里塚があった。沼津宿では一里塚は宿場の中には作らないと書いてあったが
ここ島田宿はどうだったのだろう。東の木戸跡は気付かなかったが、本陣はもうすぐだ。因みに
GPSの距離計では49里目と50里目の一里塚の距離は4.4kmと出ているので距離には不足はない。
一里塚の案内板を読むとこんな事が書いてあった。
「島田宿の一里塚は、天保年間に描かれた最古の東海道絵図の中で、北側の塚しか描かれていま
せん」ウーンこれは一里塚を宿場の中に作ったが、さすが両側にあっては邪魔になるので片側だけ
にしたのだろう。と勝手に解釈した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/c0/21739678f7d83c91435ba720b73e6f91.jpg)
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本陣跡は帯通りと名付けられ綺麗に整備されていた。本陣跡の看板と一緒にからくり時計もあった
が、生憎中途半端な時間でからくり人形の出番は見ることができなかった。
近くに鬼が屋根の上から睨みを利かせている若竹酒造があります。ここの酒は「鬼ころし」とか
「おんな泣かせ」とか変わった名前が付いています。
一度は女泣かせと言われてみたいものだが、悲しいかなそんな経験は無い。そのせいか女泣かせを
飲んだ事は無いが、一升4000円以上すると聞くと、どうやら縁の無いまま終ってしまいそうだ。