はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

静岡県の東海道4-1

2011-03-31 11:27:02 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」4回目-1  2011/3/2

藤枝駅 ― 島田宿 ― 大井川 ― 金谷宿 ― 菊川間の宿 ― 小夜の中山 ―
 6:50      8:25     9:10     10:00      11:00       11:30
         8.9k     12.5k     16.4k      19.4k        20.8k
 
日坂宿 ― 事任神社 ― 掛川宿 ― 妙日寺 ― 袋井宿 ― 袋井駅
 12:05     12:20      14:05    16:05     16:50    17:22
 23.8k     24.6k      32.8k    42.1k     45.3k    46.0k



4回目の歩行予定は藤枝駅から磐田駅を歩きたい。だが3回目のように暗くなっても歩く
のでは史跡も見るとことができないし、写真も写せない。
ならば朝早い出発しかないと家を出たのだが--------

今回のゴールを磐田に拘った理由は、4回目の今回磐田まで行きつければ、次回は磐田
から愛知県の二川宿まで歩けるとふんでいる。それが今回磐田の手前の袋井でゴールに
なると、袋井~二川では50kmを優に越えてしまい、静岡県の東海道は6回での完歩に
なってしまう。
他人から見れば意味の無い拘りだが、私としては無視できない目標でもある。

今回はコースは越すに越されぬ大井川を渡り、東海道三大難所の一つ小夜の中山峠を越え
て行くのだが、マー何とかなるだろう。それよりも車道歩きばかりで、嫌にならないかの
方が心配だ。何はともかく磐田まで頑張るぞ!

                       島田宿へ(七つ立ち)

   

自転車を藤枝駅に預け歩き出したのは6時5分と、早朝出発の新記録になった。
「昔の旅人は朝6時なんて早い出発はしない」って? 
とんでもない、昔の人の朝は早かったようですよ。

「お江戸日本橋七つ立ち、初上がり」と歌われて、日本橋を七つどきに出発するのは有名
でよね。あの「七つ」とは現在の午前4時頃を指すそうですので驚きです。
確か山本一力の小説の中に江戸時代の旅の鉄則は「早立ち、早着」が必須条件だったと
書いてあったが、その通りだと思う。その中でも特に大名行列の出発は早かったという。
理由は当時の街道は道が細く、先を行く遅い大名行列を宿場以外では、越すに越されぬ
状態になってしまうらしい。そのため朝4時出発になってしまったようだ。

さらにこんな事も書いてある。「七つ立ちが出来たのは大名行列だけで、一般庶民は町内の
木戸の門が開く六どき(6時)だった」と。

安藤広重の東海道53次の日本橋の浮世絵を見ると、橋を渡っている大名行列の前には天秤棒
を担いだ魚屋が描かれています。さらにその前には木戸の門が開いているのも見えます。
というの事はこの浮世絵は七どき頃の絵ではなく、六どきの頃の絵なのかとも想像できます。
何はともかく朝6時出発が異常な早さではない事は納得してくれましたね。
そうそう藤枝の宿場の木戸も朝の六どきから夕方の六どきが開門時間だったようです。

駅前を通りを旧東海道まで進む。それでは街道地図を首から下げようと、ザックの中を
探すが見当たらない。しまった!昨夜街道の最終確認をした後ザックにしまうのを忘れて
しまったのだ。サー困った。どうしよう。家に戻るのでは遅くなりすぎだ。

家に電話して地図を持ってきてもらうにしても、辺りに公衆電話は見当たらない。
何故最近は公衆電話が減ってしまったのだと、段々八つ当たりしたくなってきた。
確かこの先に24時間営業の大型スーパーがある筈なので、そこまで行って考えよう。

幸いそのスパーには公衆電話があったので、家に電話を掛けて地図を持ってきてもらう事に。
受け渡し場所は、この先の旧東海道を歩いているので、そこで受け取るようにした。



六地蔵を祀ってある鏡池堂に少し変わった六地蔵があった。今まで見たお地蔵さんはそれぞれ
が独立した立像だったが、ここの六地蔵は一つの石碑に六体の地蔵を刻んである。それでも
小さいながらお地蔵さんの持ち物や形が違いは良く分かる。これならコンパクトで場所も取らず
経費も少なくて済むだろ。町なかのお地蔵さんには打ってつけだ。
だが野原や峠道の地蔵さんは、従来のような立像の方のが似合っていると思うな。

追分の説明板もある。中世の頃はこの付近は湿地帯だったので、東海道は山の中を通っていた
が、開拓が進んでから、この街道になったとある。

看板の案内に「千貫堤」や「染飯(そめい)茶屋蹟」の文字が見えた。
千貫堤とは右側(北)の山から、左(南)の小山にかけて堤防を設置して、大井川の洪水から藤枝の
宿場を守った堤防の事だ。千貫(一貫は1000文)の費用がかかったことから、千貫堤と呼ばれて
いた。今はその堤防は殆ど消滅してしまい、わずかに残っているだけだった。

千貫といえば三島の宿にも千貫樋があったが、昔は千貫が沢山とか大金を表す単位だったのだ
ろうか。現在で言うなら「億ション」とか「億万長者」と言うように。

現在の大井川はここより9km程西にあるのに、昔はこんな離れた場所にも堤防を作らなければ
ならないほど大井川は暴れ川だったのだろう。と思っていたが家に帰り地図を見ると
この千貫堤より大井川の渡しの場所は9k弱あるが、そのあと大井川は蛇行していて
川からここまでの直線距離は2k程しかなかった。これなら堤防も必要だったろう。

        

染飯とは梔子の実で黄色く染めた強飯を型にはめて固めた物で、この辺りの茶店で売られて
いたようです。地元の私ですが食べた事も見た事もありません。

旧街道には松が所々に残っているが特に保護している気配はない。この松が枯れればそれで
終いになってしまうのだろう。
そんな場所に江戸から49里目の上青島一里塚跡があった。
ここまで家からの車を待ったが来る気配が無い。仕方ないもう少し歩こう。

旧国道1号に合流する一里山交差点に着いてしまった。この先は道も太くなり交通量も増えて
歩道を歩いている歩行者を探すのは難しくなる。仕方が無いのでここで待つ事にしよう。
だが10分待っても20分待っても来る気配はない。どうやらスーパーから旧街道まで歩いている
間に、車は先に旧街道に来てしまったようだ。ただここから先には行くとは思えないが、
居ないものはどうしょうもない。待つ事だけしかできない。

かれこれ30分以上待ったころ、案の定旧国1の方から来る我家の車が見えた。早速
「何やってんだ 旧東海道で会うと言ったじゃないか」と怒鳴り声を上げてしまった。
「だって、ここで大分待ったけど来なかったので、先に行ったと思ってしまい---」
謝り顔で妻が言う。アッそうだ 謝るのはこちらの方だったと気付いて、慌てて感謝の言葉を。
全く困ったもので妻に対しては少しでも気に食わない事があると、すぐ声を荒げてしまう癖が
私にはある。気を付けようとしているのだが---。お詫びに今日は土産を買って帰ろう。

そんな訳で早朝出発の積りが遅くなってしまった。果たして磐田まで辿り着けるか。



島田の市内に入るとマンホールの蓋が可愛い帯祭りの絵になった。
帯祭りとは日本三大奇祭の一つで、島田に嫁いで来た花嫁の披露を兼ねて、花嫁の帯を大奴の
持った二本の太刀の先に飾り、練り歩くものです。
祭りは大名行列に続き大奴が登場します。大奴の両脇に挿した太刀に披露の帯を下げ、蛇の目傘
をさしながら、ゆったり舞うように練り歩きます。
ただこの祭りは見物に動いて疲れるのではなく、行列を待ちくたびれて疲れたと記憶してます。

江戸から50番目の一里塚があった。沼津宿では一里塚は宿場の中には作らないと書いてあったが
ここ島田宿はどうだったのだろう。東の木戸跡は気付かなかったが、本陣はもうすぐだ。因みに
GPSの距離計では49里目と50里目の一里塚の距離は4.4kmと出ているので距離には不足はない。

一里塚の案内板を読むとこんな事が書いてあった。
「島田宿の一里塚は、天保年間に描かれた最古の東海道絵図の中で、北側の塚しか描かれていま
せん」ウーンこれは一里塚を宿場の中に作ったが、さすが両側にあっては邪魔になるので片側だけ
にしたのだろう。と勝手に解釈した。

  

本陣跡は帯通りと名付けられ綺麗に整備されていた。本陣跡の看板と一緒にからくり時計もあった
が、生憎中途半端な時間でからくり人形の出番は見ることができなかった。

近くに鬼が屋根の上から睨みを利かせている若竹酒造があります。ここの酒は「鬼ころし」とか
「おんな泣かせ」とか変わった名前が付いています。
一度は女泣かせと言われてみたいものだが、悲しいかなそんな経験は無い。そのせいか女泣かせを
飲んだ事は無いが、一升4000円以上すると聞くと、どうやら縁の無いまま終ってしまいそうだ。

静岡県の東海道

2011-03-30 22:40:05 | ウォーキング
16時30分無事我家に到着。ゴールは予定通り新居駅になりました。

ところがゴールは予定通りだったが距離と到着時間が大幅に違ってしまった。
概算距離は40kだったのに、実際に歩いたら48kmもあった。当然到着時間も大幅に遅れた。
舞阪の脇本陣や新居の関所を見学する積りだったが、見学時間は過ぎていて駄目だった。

詳しい事は、また後日報告します。
早く休んで日曜日のビックウォーク55kに備えないと。


静岡県の東海道

2011-03-30 04:23:25 | ウォーキング
久し振りの街道歩きに出かける事にしました。
予定は袋井か歩き出し舞阪か新居までだが舞阪まで34km程度、新居は40km位か。
更にその先は愛知県二川となり距離は55kを越えてしまいそうだ。

普通なら駄目元と挑戦をする距離だが、次の3日の日曜日は所属する歩こう会の最大のイベント
「浜名湖一周ビックウォーク55k」を歩く積もりでいる。
そのため事前に無理をして、当日疲れが残っていて、完歩できないと悔いが残ってしまう。
ここはおとなしく40k以下で押さえておいたほうが良さそうだと割切りました。

電車は始発に乗って袋井へ5時53分着。初めての「七つ立ち」になりそうです。





静岡県の東海道3-7

2011-03-29 11:29:42 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」3回目-7  2011/2/22

蒲原駅 ― 由比宿 ― 薩埵峠 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 草薙一里塚 ― 府中宿
 6:30      6:50     8:05     9:20     10:35      11:40      13:25
         1.8k     6.7k     11.4k     17.1k       20.8k      29.4k
 
― 安倍川 ― 丸子宿 ― 宇津ノ谷峠 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
   14:00     15:03      16:00      16:50     18:30    19:00
   32.2k     36.3k      41.5k      44.9k     51.0k    54.0k


                       藤枝宿へ(御所車)

      

旧国1と別れて街道に入ると木製の傍示標が立っている。「従是西巌村領」と記されている。
巌村領とは余り聞きかないが、説明を読むと、ここ岡部の横内地区は江戸時代、美濃の岩村藩
の飛地だった所だとある。岩村藩の事は知らないが、東海道筋に飛地があれば便利だったろう。
参勤交代の時も助かるし、情報の収集にも活用できる。手間が掛かっても手放しはしなかった
ろう。だが、辺鄙な場所に飛地があったらどうしていたのか? 手間が掛かっても持ち続けて
いたのか、それとも近隣の藩に売ってしまったか。
尤も幕府がそれを許したかどうかは知らない。

朝比奈川の袂に風変りなものが立っている。これは「あげんだい」とか「とうろん」とか呼ば
れている松明の親分のような物です。

10メ-トルもある孟宗竹の先に、竹で作った籠を取り付け、中に燃えやすい松葉、籾殻など
と一緒に花火を入れてある。これを海岸や川辺に立て、下から火を投げ入れて籠に火をつける
そう運動会の玉入れと同じ様に。
籠の中に火が燃え移ると、篝火の様になった籠からは、ヒューヒューと音を発てて花火が飛び
出してくる。中には籠の中から五色の火を噴出している物や、あちこちに飛んでいく物もある。
きっとドラゴンや流星などの花火を入れてあるのだろう。
この行事はお盆が終わり先祖が黄泉の国へ帰るための送り火で、この地域の伝承行事です。

何故詳しいのかって。それは私の住んでいる地域でも、この行事を「とうろん」と呼んで行っ
ています。尤も私は新興団地住まいですので、見るだけで参加した事はありませんが。

もう夕焼けも終って辺りは暗くなってしまった。藤枝はまだ遠い。

(これから以後の写真は後日藤枝のみ再度歩いて写してきたものです)


岩村藩の西の傍示標の所で旧国1と合流する。歩道橋から東を見て、右の太い道路が国1で
左は旧街道になる。その分岐点にも岩村藩の傍示標が立っていた。
歩道橋を降りると次に田中藩の傍示石がある。こちらは立派な石造りで「従是西田中領」と
彫られている。隣の説明を読むと、この字は藩内の”書風よろしき者”に書かせたらしい。
本物は近くの学校の校庭にあり、ここにあるのは復元した物だと書いてあった。

田中藩は聞いた事はありますか?マー無いでしょうね。この近くにある田中藩の城は田中城
と言って、知る人ぞ知るといったお城です。
晩年を駿府に住んだ徳川家康は、鷹狩りを好んでいて、この田中城にも時々来ていたようだ。
ある時この城で鯛の天ぷらを食べた家康は、腹痛に襲われ治療の甲斐もなく死んでしまった。
その死因を作ったのがこの城だったのです。
またこの城は円形をした珍しい城でもあるようだが、現在の城跡を歩いてみても、それは
分らなかった。
街道から田中城までは大分距離があるので今日は当然パスとなる。

         

須賀神社の大きなクスの木が見えてきた。クスの木は樹齢500年の古木で静岡県の天然記念物に
指定されている。
この辺りは丁度で区画整理の工事が行われていて、道が分かりにくくなっている。
従来は松並木の街道が斜めに旧国1と合流して、国道を横断すれば、その先には旧街道が延び
ていた。だが今は斜めの旧街道は横断禁止になっているので、その手前の信号を横断する。
そして旧街道の入口に行くと、ここも工事中で進入禁止。
工事が終れば分りやすくなるだろうが、今は分りにくかった。

秋葉神社の木製の常夜灯があった。通り一遍の石の常夜灯より風情を感じた。



千葉の成田山新勝寺藤枝分院の新護寺で寺の看板を読んでいると、こんな事が書いてあった。
「今から750年前の鎌倉時代、京都の公家が御所車で鎌倉に向かうおり、当地で左車輪が折れて
しまった。公家は修理のためここに暫く滞在して修復後鎌倉を目指して行った。地元では残さ
れた左輪や車軸を埋めて、そこに左車神社を建立し、併せて地名も差車に変更した」とある。
別にどうという事のない話かもしれないが、私には気になる事がある。
「御所車で鎌倉に」とか「左車輪が折れた」と書いてある以上、その車は京都から藤枝までは
間違いなく車を引いて来たことになる。足柄峠や薩埵峠・宇津ノ谷峠はまだだが、少なくとも
日坂や鈴鹿峠は越えてきている。ではその時代、石畳の上をどうやって御所車を動かしたのか。
あのゴツゴツした日坂の石畳など、とても車を引いて動かす事など出来そうもない。
では石畳はなかったのか。確かに箱根の石畳は江戸時代に敷設したとあったが、他の石畳は
どうだったのだろう。あったとしても宇津ノ谷で聞いたような平らな石畳だったのか。
疑問は深まるばかりだ。江戸時代にも公家が江戸に行く事だってあっただろうが、御所車には
乗らなかったのか。

皇女和宮の例を調べてみると、和宮は3万人の行列で中山道を御輿で下向したとある。
「御輿」おみこしは輿(こし)なのだから肩に担ぐ乗物か?それなら車輪がないので石畳でも
支障はない。
結局頭の中は整理できなかったが鎌倉時代の東海道は御所車が通れたという事だけは分った。

左車神社の近くに古い3階建ての蔵があった。壁が大分剥がれ落ちているが、元は立派な蔵
だったように見える。手入れさえ良ければ文化財に指定しても良さそうに感じた。

          

白子商店街のアーケードの下に徳川家康の大きな肖像画が見えた。近寄ってみると紙芝居の
ように何枚かの絵で、ここ白子の謂れを説明してあった。
徳川家康が本能寺の変の直後、泉州堺から伊賀を越えて伊勢に逃れた話は有名だ。
ここの話はそこから先の話で、伊勢の白子の浜に逃れてきた家康を、三河まで舟に乗せて
助けた者が、この看板の前にある小川眼科の先祖だと書いてある。
その功績により、この地に住居を構へ税を免除され地名も白子と改めた。
そして現在もその子孫はここに住んでいる。

         

露地の間から大きな松の木が見える。これは日蓮宗大慶寺にある久遠の松で日蓮聖人手植え
だといわれている。ところでこの久遠という言葉は日蓮宗に縁があるのかな。日蓮宗の総本山
も久遠寺と言ったはずだ。
この寺には松の他にも田沼意次の居城だった相良城の御殿を移築した庫裏もあった。

藤枝はサッカーの町だ。街路灯もサッカーボールの形をしているし、サッカーの町藤枝と書いた
プレートも付いている。又街道沿にはサッカー最中を売っているいの和菓子屋もあった。
最近の静岡県でサッカーといえば、エスパレスの清水、またはジュビロの磐田を思い浮かべるで
しょうが、サッカーの大元はここ藤枝なのです。それはこの街道から程近い所にある藤枝東高校
の活躍に感激して市民総出の応援になったからです。何しろ全国大会での優勝は10回もして
いるのですから大したものです。
ただ最近は元気なく全国優勝は平成10年のユースの大会を最後に遠ざかっています。



本陣跡の目印は標識ではなく歩道の踏石にあった。最初は気付かず通ってしまったので2回目は
注意深く歩いてやっと見つけた。図柄は同じで下と上の字だけが違うだけの淋しい目印だった。



18時30分ようやく瀬戸川に架かる勝草橋に出た。
この川にも橋が無かったので旅人は歩いて渡渉したのだろうが、例の公家の乗った御所車は
どうやって渡ったのだろう。
公家さんに降りてもらい、空身の御所車を牛に引かせたのか。マー大変な事だったろう。

橋の袂に志太一里塚跡の説明板と秋葉山の常夜灯があった。ここまで江戸から48里目とか、
まだ東京から200kmを越していない事になる。
それでもここまで来れば静岡県の東海道の行程は半分以上終った。

この一里塚の前で時間や距離をノートに記入していると、中年男性に話しかけれた。
この方も何年か前に東海道を歩かれたそうで、その時の話を色々してくれる。
時間?でも大丈夫!ここからならゴール予定の藤枝駅はもうすぐだ。
駅からは自転車で家に帰ればよい。ユックリ話をしてから駅に向かった。

静岡県の東海道3-6

2011-03-28 12:12:43 | ウォーキング
風邪で体調を崩しているとき、あの地震に遭遇した。
当地では揺れは大した事はなく、揺れる時間が長く感じた程度だった。
TVをつけると静岡県にも津波注意報が出ていたが、例により大袈裟情報だろうと
思ってしまった。
それがTVを見ていると段々被害の情報が伝えられてきた。静岡県の警報も格上げ
され津波警報に変わった。
更にTVは深刻な映像を流し始めた。車が走っている所に津波が押し寄せてきた。
あの車には人が乗っているのに!何故すぐ逃げなかったのだ!
静岡県の警報は更に大津波警報に格上げされた。

心身ともに快調とはいえない日が続き、ブログも街道歩きもやる気が起きなかった。
あれから半月余り経った。咳も治まり体調も元に戻った。
何時までもダラダラしていても、どうなるわけではない。
今週から元の生活に戻ろう。
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駅からウォーク 「静岡の東海道」3回目-6  2011/2/22

蒲原駅 ― 由比宿 ― 薩埵峠 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 草薙一里塚 ― 府中宿
 6:30      6:50     8:05     9:20     10:35      11:40      13:25
         1.8k     6.7k     11.4k     17.1k       20.8k      29.4k
 
― 安倍川 ― 丸子宿 ― 宇津ノ谷峠 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
   14:00     15:03      16:00      16:50     18:30    19:00
   32.2k     36.3k      41.5k      44.9k     51.0k    54.0k


                     岡部宿へ(宇津ノ谷)



国道横の爪先上がりの歩道をただただ歩く。こんな道が一番詰まらないがあと少し辛抱
すれば、今日唯一の山道のある宇津ノ谷峠は近い。
前方にトンネルが二つ見えてきた。これは国道1号の宇津ノ谷トンネルで、上り線と下り
線に分れている。宇津ノ谷には4つのトンネルがあり、明治、大正、昭和、平成トンネルと
呼ばれていて、写真の右が昭和トンネルで左が平成トンネルになる。
更に宇津ノ谷を越えるのには2本の峠道がある。1本は平安時代の蔦の細道。あと1本は
江戸時代の宇津ノ谷峠越えの道になる。今日は当然宇津ノ谷峠を歩くことになる。

トンネル手前の歩道橋を渡って集落に向かうと、道が分岐している場所に出た。
右は大正トンネルに向かう道で、左が宇津ノ谷集落を通る東海道になる。



宇津ノ谷集落は丸子宿と岡部宿の間にある間の宿だったところで、狭い街道の両側には屋号
を書いた看板が下がっていた。中でも目を引いたのは「お羽織屋」の看板で、これはこの家
の先祖が豊臣秀吉の小田原征伐の際、機知の効いた返答をした褒美に秀吉から羽織を与えら
れたことによる。その羽織は今でもこの家に伝わり有料で見ることが出来るそうだ。

集落の道はインターロッキングと言うのだろうか、レンガ状のブロックを引き詰めてある。
傾斜がきつい所は道の真中だけ階段にしてあり、これなら車も通れて便利だろう。
老人が縁側に腰掛けこちらを見ている。挨拶をした後、気になっていた道の事を聞いてみた。
「この道は元は石畳だったのですか?」
「石畳と言うほど大げさじゃなかったが、入口からトンネルまでの間に9ヶ所平らな石を
敷いてあったな。平だから馬力もカタンカタン音はするけど支障なく通れたし、土留めの
役もしていた。昔の人の知恵だな。今の道は国から予算が出て県が造ったのだが、住民は
綺麗で水捌けもいいから暮しやすくなったが、あんたら街道を歩くもんには味気ない道に
なってしまった。工事のとき1ヶ所か2ヶ所石畳を残すように言ったが駄目だった。」
そのあと少し県の役人の悪口が入り、更にこんな話もしてくれた。
「あんたは国道の排気塔がどこにあるか知ってるかね?」
「エー知ってます。トンネルの上の山の頂上にありました」
「そう、あれも県の土木の奴らは、この山の中腹に作る予定だったんだ。ここからすぐそ
こだから排気ガスが年柄年中、の中に漂ってしまう。ここは小さい盆地で風通しが悪
いから、たまったもんじゃない。俺達に一生排気ガスを吸えって事だ」段々興奮してきた。
「土木部長にそう言ってやったら、ここは東の風が多いから山頂に排気塔を建てると、
今度は岡部の人が排気ガスを吸うことになる。と抜かしやがった。馬鹿言え岡部はここと
違って広いから排気ガスは拡散してしまうと言ってやったら、もう何も言えなくなってさ、
お陰で排気塔は山頂に建ったが、金が何億だか余計に掛かって土木部長は左遷させられて
しまったよ」
聞いていると面白く、もっと色々な話を聞きたかったが時間が気になる。仕方ない出発す
るか。ただ山頂の排気塔への取付け道路ができたため、岡部側の旧東海道の一部が消えて
しまってはいるが。



集落からの坂を登りきって出合った道を、右に行けば東海道の宇津ノ谷峠に、左は明治ト
ンネルに続いている。
明治トンネルは明治9(1877)年に日本発の有料トンネルとして開通した。長さは203mと
長くはないがトンネルの中には照明も付いていて、中々風情がある。
どちらかと言えば伊豆の天城トンネルの小型版と言った感じのトンネルだ。

そうそうこのトンネル、岡部側と宇津ノ谷側から掘り出したのはいいが、少し食い違って
しまい、開通した時は「く」の字の状態だったそうです。
当時の測量技術では仕方なかったとも言えるが、箱根芦ノ湖にある深良用水はそれより
200年も前に完成し、長さも1280mあった。だが殆ど食い違わなかった言われている。
その違いは何だろう。
分岐点から明治トンネルまでは20mもない位です。



チャチナ標識の入口から宇津ノ谷の峠道は始まる。
今まで宇津ノ谷峠が難所なら、いたる所が難所になってしまう思っていた。
だが既に40km以上歩いている足には中々きついものがあった。まだかまだかと峠に着く
のが待ちどうしかった。やっと峠に到着。景観も何もない淋しい峠だ。

この細い峠道を大名行列が通ったのだから、当時はもっと広かったのだろう。
地形から見て峠はここにしか出来そうもない。となると現在の峠は両側の山から土砂が
崩れてきて狭くなったのか?

宇津ノ谷の「うつ」とは渓谷を意味している言葉と言うが、どこを指しているのだろう。
それらしき物はどこにも無い。



先にも書いたが宇津ノ谷は鎌倉時代以前は宇津ノ谷峠でなく、ここより南側の蔦の細道と
言われている峠を越えていた。しかし標高の高い蔦の細道は道も細く大変だったので、
当時集落と集落を結んでいた小路を改修して東海道とした。

更に前の奈良時代は、ここよりズート南の海に近いやきつべの道から日本坂峠を越えて
安倍川に出ていた。しかし日本坂峠は蔦の細道より標高が高い難所だったため、こちらに
移ってきた経緯がある。勿論道だけの条件ではなく、宿場の位置も移った条件に入るだろ
うが、昔だって今だって歩きにくいのは嫌に決まっている。歩き易い道に移るのは当然だ。

写真の左は宇津ノ谷峠への道で、右は蔦の細道に行く道の分岐点です。
蔦の細道で思い出すは、伊勢物語の中で在原業平が詠んだ
『駿河なる うつの山辺の うつつにも 夢にも人に 逢わぬなりけり』です。
この歌の中の「うつ」が宇津ノ谷の語源とか。そして「うつ」とは渓谷を意味していた言葉
らしい。ならば蔦の細道には渓谷があるかというと----
残念ながらありません。ただ峠道が合流した地点は蔦の細道公園として整備されていて、
そこを流れている小川があったけど。



岡部の宿にやっと入った。左側の大きな古風な建物が大旅籠柏屋だ。ここは一般公開され
ていて資料館は有料だが他は無料なので、いつもはここで休んで無料のお茶を貰っていた。
だが今日は既に閉まっていたのでそのまま通過し、大旅籠の先の本陣跡の標識のある公園
で一休みをした。辺りは少しづく暗さを増してきている。急がなければ。



旧国道と別れ街道に入る。特に何があるわけではない家並みが続いた先の、小さな側溝の
ような川の橋に案内板があった。
そこには「小野小町姿見の橋」となっていて、小野小町が晩年東国に下る途中、この川に
姿を映して老いの身を嘆き悲しんだと説明してある。
小田原からここまで歩いてきたが、こんな史跡(?)は初めてだ。新しい橋に、姿など映り
そうもない川。そんな物からも千年以上前の人の立ち止った場所が分かるとは、岡部の
人は素晴らしい洞察力の持ち主だ。

右の古くて新しそうな家はサッカーの中山ゴン選手の実家です。
建物は最近の物だそうです。



枡形を右に出た旧国1は、電線の地中化を図った広い道で空が広く感じる。
ただ清々はしているが宿場町としてはどうだろうか。広い道で左右の家並みが分断され
行き来が出来なくなってしまっている。これでは観光客はそぞろ歩きをする気も起きない。
観光客誘致のためにお金を使うなら、旧街道の狭い町並みに手を加えて方のが良かった。
と思いたくなる。

観光案内所の場所が御智如来公園になっている。トイレはと探すと鍵か掛かっていて中に
入れない。時間を見ると17時5分。案内所が5時までなのでトイレも5時で終了のようだ。
せめてトイレだけは何時でも入れると助かるのだが。
そうそう文句ばかりでなく五智如来の説明をしなければ。
五智如来とは釈迦、阿閦(あしゅく)、阿弥陀、大日、宝生の五人の如来様の事で、この如来
を五体纏めて祀るのが五智如来らしい。ようは五体纏めてあれば、色々なお願いが一ヶ所で
済んでしまう、誠に便利は仏様のようだ。私も今日の無事をお祈りしよう。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」

           

ここの松並木は綺麗に整備されていたが何か風情が無い。街道と言うより公園の趣が強い。
宇津ノ谷で聞いた話ではないが、国か県の予選が付いたので、慌てて計画を立て綺麗にする
事が主眼になってしまったのではないか。

静岡の東海道

2011-03-09 10:17:56 | ウォーキング
5回目の街道歩きを目指して朝4時に起床。
今日の予定は袋井から新居の予定だ。

布団から出るとウォー!寒い。ゾクゾクと悪寒がする。
そういえば夜寝ているとき、夢か現か喉が痛かったような気がする。
試しに唾を飲み込んでみると、やはり痛い。
これでは今日は駄目かな?無理して行って途中で挫折するより中止すべきか。
体温を測ってみると37.5度 今日の街道歩きは止めにする。


静岡県の東海道3-5

2011-03-08 19:26:46 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」3回目-5  2011/2/22

蒲原駅 ― 由比宿 ― 薩埵峠 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 草薙一里塚 ― 府中宿
 6:30      6:50     8:05     9:20     10:35      11:40      13:25
         1.8k     6.7k     11.4k     17.1k       20.8k      29.4k
 
― 安倍川 ― 丸子宿 ― 宇津ノ谷峠 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
   14:00     15:03      16:00      16:50     18:30    19:00
   32.2k     36.3k      41.5k      44.9k     51.0k    54.0k


                     丸子宿へ(お灸)
                

まだ1時30分。ここで今日の行程を止めるにしては早すぎる。といって次の宿場の丸子と
岡部には東海道線の駅が近くにはない。その次の藤枝までとなると20k以上はある。
しかも宇津ノ谷の峠越えもしなければならない。
写真を写しながら歩くと、時速4k程度の速度になってしまうので、あと5時間は掛かる。
とすると藤枝到着は6時30分は過ぎてしまうだろう。どうしたら良いだろう。

と迷った振りをしたが心は決まっている。今回の静岡の東海道を計画した当初から、5回
を最短と踏んでいたので、それを途中で諦める性格ではない。
今日の行程を駿府で終るとなると、その5回踏破が出来なくなってしまう。
そうなると次の宿場を目指すしかない。

札の辻から安倍川に行く途中に二丁町という元遊郭の町があるらしい。当初は一番から
七番まであった大きな遊郭だったが、江戸の町並みの開発に伴い三番から七番までは幕府
の命令で江戸の吉原に移転した。残った二丁が駿府の遊郭街だったそうだ。
尤も一丁の単位が分らないので町の大きさは想像できないが、一丁を角から角としても
かなりの広さだっただろう。それにしても今まであった7割方の廓が移転してしまったの
だから、当時の府中の遊び人はさぞかし困っただろう。

道の両側に建ち並んだ廓の中の綺麗どころから「お兄さん寄ってらっやいよ」と声を
かけられる。ウッ堪らないな。これは是が非でも二丁町に寄っていかなければ。

幸か不幸か二丁町の存在は分らなかった。
まさか通行人に「遊郭の場所はどこでしょう」などと尋ねるわけにはいかない。

安倍川の手前にある弥勒緑地には幾つかの石碑が立っている。中に「由比正雪公之墓址」
があった。これは倒幕の陰謀を企てた由比正雪が、府中の旅籠で幕府の追っ手の包囲を受
けて自害してしまった。その墓の跡なのだろう。



静岡県の東海道の道標の横に見える黄色の案内板。書いてあった字が消えてしまったのか、
元々書いてなかったのか、ともかく何も書いてなかった。
二丁町もそうだが駿府には他にも見るものが多いのと思うが、案内板が少なかった。
もう少し散策する人が興味を抱くような案内をして欲しいな。

安倍川の畔には名物安倍川餅を売る茶店が三軒軒を並べている。安倍川餅と言えば以前は
黄粉をまぶした餅だったが、最近は餡子をまぶした餅とセットで売っている。
妻への土産と一瞬閃いたが止めにする。年金生活になってから小遣が厳しくなってしまった
のでケチに徹するしかない。

ケチといえば茶店の横に安倍川義夫の碑が立っている。
これは紀州の漁師が安倍川を渡るとき、渡し賃を節約しようと自分で歩いて渡った。
そのとき虎の子の150両を落としてしまったが気が付かず丸子宿に向かってしまった。
たまたまその財布に気がついた川越人足が、旅人の後を追って150両を届けた。
感激した旅人が礼金を出したが、人足は受け取らなかったとさ。
ケチな自分には考えられないな。少なくとも礼金は貰った。いや財布を拾ったとき他に
目撃者がいなければネコババしてしまったかもしれない。

ところでこの美談に腑に落ちない点が二つある。一つは紀州の漁師は西の丸子宿に向かった
のなら紀州に帰ることになる。なのに150両の大金を何故持っていたのだろう。
江戸で魚を売った金? そうかもしれないが、それなら船で帰るだろう。
もう一つは150両とはどの程度の重さなのだろう。軽ければ落としても気が付かないだろうが
重ければ気付くはずだ。
そこで調べてみると、小判1枚の重さは現在の500円硬貨2枚強の重さと分った。
とすると500円玉300枚になる。これを落として気付かないか?



安倍川も例に漏れず橋がなかった。旅人は蓮台に乗ったり、川越人足に背負われて渡った
のだろう。中には紀州の漁師のように自分で歩いて渡った旅人も当然いただろうな。
浮世絵の安倍川の水は人足の肩の辺りまであるが、現在の水量はそんなに多くない。鮎釣り
の人を見ると腰程度の深さだと思う。安倍川は今でも上流にダムが無いので江戸時代と
左程水量は違っていないと思う。

水の流れている所を写したかったが、河原に下りないとバックの山が入らない。
今日は時間が無いので諦めよう。
バックの山は浮世絵も写真も似ていますね。この山は駿府の古刹のある徳願寺山と言います。

安倍川を渡ると手越のに入る。この手越の地名は中々有名で私も幼い頃から知っていた。
それはここ手越にはお灸をするお寺があり、その寺は地方の寺に出張治療をしていた。
私の住んでいた静岡県のはずれでも近くの寺に来ていた。そのお灸が来ると宣伝の「手越灸」
の貼紙が溢れたものだ。今でも出張治療はやっているのかな。
昔は「駿河の人で その灸の痕 無きものは無し」と謳われていたそうです。

街道の左手にそのお灸の寺、高林寺があった。門前の石碑に「官許元祖手越名灸所」とある。
境内に入ったが他にお灸に関する物は見当たらなかった。もうお灸はやっていないのかな?
高林寺を出て少し行った所に「元祖手越の灸 東林寺」と書かれた看板があった。
似たような寺の名前だったので一瞬同じ寺と勘違いしたが、高と東が違っている。
よく名物の競争で「元祖」があると、それに対抗して「本家」とかがあるが、ここでは
両方とも元祖だった。はたして本当の元祖はどちらだろう。

街道には松が何本か残っていて、この道が東海道であった事を証明しているかのようだ。
国道1号に合流すると右側に山が迫ってくる。この山が安倍川から見えた徳願寺山の外れ
で江戸時代以前には、この山の中腹にある「手児の呼坂」を越して安倍川に出ていたと
言われています。
ただこの辺りの旧道は情報が錯綜していて良く分りません。一度自分なりの解釈で検証
して歩いてみたいと思っています。



江戸から46里目の丸子の一里塚碑には「一りづかあと」と書かれているが、その碑
自体がそのうち「一里塚跡の記念碑」と紹介さそうな程の年代物だった。
丸子宿は小さいながらも本陣跡も残っているし、高札所跡も復元されている。紀州藩の
「お七里役所」の表示もあった。地元で保存に力を入れているのだろう。
ただここの街道は道巾が狭く、車も走っていたので歩きにくかった。



だがなんと言っても丸子宿を有名にしたのは
芭蕉の”梅若菜 丸子の宿の とろろ汁”だろう。この名句にちなんでか国道沿いには
丸子梅園も造られている。だがこの梅園は今年(H23)から暫く休園するらしい。梅の種類
が多いことで知られていたのに残念だ。



浮世絵と写真と似ていた場所は数少ないけど、ここはどうでしょう?
例え人工物と云えど似ていますよね。も少し後ろの山を入れれば良かったと反省はして
いますが。
この茶屋はとろろ汁を商う丁子屋で、創業は慶長元年、今から415年も前だそうです。
使われている芋は自然薯だそうですが、畑で栽培されているのに自然薯?とも思いますが

丸子川を渡りラブホテルがある道を行く。このようなラブホテルは江戸時代は出会茶屋と
呼んだらしい。何となく優雅に感じるがやることは同じだ。失礼!
川を挟んだ右手に山が近づいてきた。この山は今川一族が築城した丸子城で、今川義元も
相続する前はこの城にいたという。今でも三日月堀の跡が残っている。



この辺りは何度となく歩いているので知らない物はない筈なのに、こんな看板を見つけた。
「日本の紅茶発祥の地 丸子紅茶」とある。ここの赤目ヶ谷は周りを山に囲まれた
狭い所で茶畑も多くはない。それが紅茶の発祥の地? チョット信じがたい。家に帰り
ネットで調べると間違いなく赤目ヶ谷が日本紅茶発祥の地だった。
何でも徳川慶喜の家来だった多田何某が、インドから持ち帰った紅茶の原木を赤目ヶ谷で
栽培して日本発の紅茶を製造したとある。
多田の墓やお茶の原木は近くの長源寺にあるとなっていた。
何とももったいない話だ。これを町興しに使えば効果がありそうだが。

しかし赤目ヶ谷の裏山は凄い事になっている。既に取り除かれた山もあるが、今も盛んに
土砂の採掘をしていて、赤裸になった山肌を無様に晒している。
これでは町興しには使えないな。
多田のお墓は写真に写っている墓地にある。

静岡県の東海道3-4

2011-03-07 11:59:50 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」3回目-4  2011/2/22

蒲原駅 ― 由比宿 ― 薩埵峠 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 草薙一里塚 ― 府中宿
 6:30      6:50     8:05     9:20     10:35      11:40      13:25
         1.8k     6.7k     11.4k     17.1k       20.8k      29.4k
 
― 安倍川 ― 丸子宿 ― 宇津ノ谷峠 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
   14:00     15:03      16:00      16:50     18:30    19:00
   32.2k     36.3k      41.5k      44.9k     51.0k    54.0k


                    府中宿へ(閻魔様)
                

道脇に「閻王寺と閻魔坂」の立札がある。それによると昔この地に閻王寺という寺が
あり、閻魔大王を敬えば極楽にいけ現世も幸せになる伝えられ、多くの人の信仰を
集めていた。それが明治に入ると、何の理由なのか廃寺になってしまったとある。
私が想像するに、案内にある"多くの信仰を集めた"が誇張でないとしたら、現世に
やりたいことをやっても、閻魔さんさへ拝めば極楽に行けるなら、私のような怠け者
には都合がいい話だ。そんな考えの横着者が増えてしまったので、困った役所は寺を
潰してしまったのかもね。

案内板には更に、閻王寺の前の坂は閻魔坂と呼ばた傾斜が強い坂で、馬から落ちる
者がが多く東海道の難所であった。これは馬に乗ったまま此処を通り過ぎることに、
閻魔大王が怒って落馬させたのだと言われていた。その祟りを恐れた旅人は馬から
下り、また参勤交代の大名も馬から下りて寺の前を通過したとあった。

現在の坂は難所なんてとんでもない。何と言う事も無い坂だった。
どうやら案内板が誇張過ぎるようだ。

閻魔坂の案内板の近くに白い立ち姿の幽霊のような物が立っている。
近づいて見ると達磨大師の立像だった。白い大理石なのだろうか普通の石像とは
少し変わった感じを受ける。だがこれが年数が経って汚れてきたらどうなるのか、
深みを増すのか、それとも薄汚れて見えるのか。少々心配になる白い石仏だった。

          

静岡鉄道の県立運動場前辺りに来ると道が分りにくくなってくる。地域開発が進んで
街道マップに指示された道も、とても江戸時代からの道とは思えない感じだった。
遂に街道は東海道線の線路にぶつかった。そこには立派な「旧東海道記念碑」が建って
いた。本当にここが街道だった? それとも開発で消えてしまった街道の罪滅ぼしに
場違いな場所に場違いに立派な記念碑を建てたのだろうか。こんな立派な記念碑は
いらないから、もっと街道を案内する立札が多いほうのがいい。

記念碑の横から東海道線を潜るガードがあり、そのガードを潜った先も相変わらず
同じように何の風情も無いような道が続いた。
それでも途中に長沼の一里塚跡の小さな石碑が立っているところを見ると、旧東海道
には違いないのだろう。

          

静岡県護国神社の前に出た。するとこの付近にJRの東静岡駅があるはずだ。いまそこ
には巨大ガンダムの立像が立っているので見てみたい。
街道が国道1号に出合った交差点から駅の方向を覗いてみると。あった!あった!
ガンダムが見える。はるか彼方だが確かにガンダムは見えた。写真を撮ったが300mは
離れているので豆粒にしか見えない。仕方ない証拠写真を撮りに行ってこよう。

静岡は今ではプラモデルでが有名だが家具や雛具も日本一のシェアを誇っている。
これは徳川3代将軍家光が浅間神社や久能山東照宮を造営するに当たり、優れた職人達を
全国から集めたことを契機に、温暖な駿府に永住した名工たちの技術と伝統が現在の礎に
なっている。特に雛具は江戸時代から生産が行われ、現在では全国シェア9割を占めるほど
である。プラモデル製作も江戸時代集められた職人の血が現在に引継がれているのだろう。



府中の宿は江戸から19番目の宿場だと言うが、私はどうも意味の無い数字に弱い。
この19番目も府中を通り過ぎてしまえば忘れてしまうだろう。
だが大丈夫!もう決して府中の宿が19番目と言う事を忘れない方法があった。
東海道中膝栗毛の作者。ご存知ですよね。あの十辺舎一九は府中の生まれで、名前は
府中宿が東海道で19番目だったのに因んでいるそうです。
どうです。これで府中宿が東海道で19番目の宿場だという事は忘れないで済みますね。

ところで駿府の宿場の名前が府中だとは、今回歩いて初めて知った。それまではてっきり
駿府だと思っていた。だいたい府中とは国府の所在地の呼称なのだから、駿河の府中なら
駿府と言うべきだ。この宿を駿河の人だけが使うならよいが、他国の人も歩く街道で使う
のはおかしい。矢張りこの場合は駿府宿が正しいと思う。

では何故府中宿になったのか?
東海道が出来たのは、徳川家康が大御所として駿府に住んでいた頃で、当時の駿府は江戸
より権威が上だった。そこで駿河の人達はここを駿河の府中という感覚でなく、日本の
府中だと思い上がっていたのだろう。だから府中といえば此処しかないとして、宿の名前
を府中とした。他国の人は家康の権威に文句も言えず黙って従った。

どうでしょう私の解釈は? 強引過ぎる? そうですよね、でも去年地元の歴史講座に
参加した時、講師だった大学の名誉教授がこんな話をしてくれた。

「焼津の語源は"焼けた津"で日本武尊が草薙の剣を振るって草原に火を放ったからとか、
川辺に温泉が湧き上がっていて、焼けたようになっていたからだと思っている人が大部分
だと思います。でも私は違います。焼津は焼けた水辺ではなく、伊豆の国を賛美する
「弥伊豆」ではなかったかと想像します。
焼津の海岸に立って駿河湾越しに見えるのは伊豆半島ですよね。昔はここ焼津と伊豆とは
海運で結ばれていました。その証拠として焼津の中には伊豆と同じ地名の所があります。
他にも伊豆に伝わっていた鰹節が焼津ににもあります。
この様に伊豆との結びつきが強かった"ヤイズ"は土地の名前を「弥伊豆」としました」

他の話は忘れてしまったが、この話には興味を覚えた。俄かには信じがたい説でも根拠を
付けて説明し、更に事実と照合して行くうちに、その説が主力となる事もあるのだろう。
尤も私の説は屁理屈はあっても、事実との照合が無いのが致命的欠点だが------



府中の本陣跡は静岡市の繁華街の中にあった。この辺りの地名は伝馬町となっているが
いかにも宿場町の名前だ。地図を見ると他にも古風な名称が目についた。
音羽町・日吉町・鷹匠・追手町・御幸町・呉服町・紺屋町・研屋町・あげていったらきり
が無い。他にも金座町・銭座町・両替町などもある。さすが家康のお膝元だけの事はある。

左の写真は呉服町から見た静岡市役所のドームです。



県庁前の通りで、呉服町と七軒町が出合う交差点に「札の辻」の標識が立っていた。
札の辻とは、江戸時代人通りの多い四つ角にあった高札場の事だろうが、この場所は
今でも静岡で一番の繁華街になっている。

札の辻から東を見ると駿府城の外堀の中にある静岡県庁の正面が見えました。

静岡県の東海道3-3

2011-03-04 18:43:53 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」3回目-3  2011/2/22

蒲原駅 ― 由比宿 ― 薩埵峠 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 草薙一里塚 ― 府中宿
 6:30      6:50     8:05     9:20     10:35      11:40      13:25
         1.8k     6.7k     11.4k     17.1k       20.8k      29.4k
 
― 安倍川 ― 丸子宿 ― 宇津ノ谷峠 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
   14:00     15:03      16:00      16:50     18:30    19:00
   32.2k     36.3k      41.5k      44.9k     51.0k    54.0k


                    草薙へ(追分)



興津から江尻まだは余り見るものも無くつまらない道が続いたが、ようやく前方に
記念碑らしき物が見えてきた。小さな松が1本後ろの壁に映えて綺麗に見えている。
近づくと「細井の松原」とあり、2代将軍秀忠のとき、この付近の海岸に松を植え
たとある。その松は太平洋戦争のとき、松の根から取る松根油(航空燃料)の原料と
して伐採されて現在は無い。

私は海岸にある松原は昔から自生していた物と思っていたが、どうやら違うらしい。
前回歩いた原宿の千本松原も植林したとあったし、ここにあった松原もそうだった。
防風や潮除けのため植えた松が、いつの間にか自然と調和して白砂青松なる言葉も
生み出したのだろうか。

そうだ。ここからは白砂青松で名高い三保の松原も近い。
写真にある右に行く道は東海道だが、左の道は三保の松原に続く道だ。
最近新聞で三保の松原の羽衣の松が枯れてそうなので、三代目の松を指定したとか
読んだ覚えがあるが、今はどうなっているのかな。
この三保の松原や羽衣の松も人が植えたとなると、羽衣伝説が色褪せて聞こえる。

細井の松の横に「無縁さんの碑」が建っている。説明では松根油を取るとき大量の
人骨が出てきたので、その骨を集めてここに埋葬したとある。
説明の中にその人骨は東海道で倒れた旅人とあったが本当だろうか。確かにここまで
歩いてきて無縁仏の石碑はあったが、この平地で難所でもない場所に大量の旅人の
人骨となると不自然さを感じてしまう。
そこでまたまた私の推理が始まるのだが、この大量の人骨は旅人なのではなく、この
地を襲った津波の被害者の人骨ではなかったのだろうか。
そうなれば大量も納得できる。きっと松を植林する前に村を襲った津波の被害者を
この辺りに埋葬したのだろう。その後江戸幕府の命令で松の植林をしたため、いつの
間にか埋葬した歴史も埋もれてしまった。

宿場の中に不思議なモニュメントを見つけた。
鯨?鯱?モニュメントの周りを一周したが何も書いてない。清水に鯨?聞いた事は
無い。これは私の推理力をしても理解できなかった。



オット!今度は河童のお出ましだ。稚児橋の欄干の隅の4ヶ所に河童が乗っている。
何故河童なのか、今度は謂れが河童の下に書いてあった。
それによると。この橋の渡り初めの儀式のとき、川の中から一人の童子が現れて
橋を渡って去っていった。それを見た住民達は河童が童子になって渡ったのだと
噂をするようになり、橋の名前も童子橋と言うようになった。それが何時しか
現在の稚児橋に変わったとある。
成程ね。河童が童子に化けたから童子橋、それが稚児橋か。それなら初めから河童橋
と言った方が素直ののような気もするが。
それに4ヶ所とも河童でなく2ヶ所は童子の姿のが良いような気がするな。

羊羹で有名な追分に着いた。だがここは自分が思っていた追分とは違う場所だった。
私は国道1号を清水から静岡に向けて走って行くと大曲交差点に出る。そこは右が
静岡で左が三保や久能に行く別れ道になっている。そしてそこにも追分羊羹を売る
大きな店もあるので、そこがてっきり追分とばかり思っていた。
だが本家本元の追分は追分と呼ぶより、小さな辻のような感じだった。
そこには道標が立っていて「是より志ミづ(清水)道」と刻まれており、ここから
清水港までの短い道の始まりだという。
私の今までの認識では、追分はY字路で、辻は十字路だと思っていた。しかし
どうやら追分も辻も明確な分類はないのかもしれないと、ここに立つとそう思える。
この清水道は駿府から来た旅人の為の道なのだろう。そう思えばそちら側から見ると
Yの字の追分のような気もする。



「清水湊の名物は お茶の香りに男伊達」と歌われた清水の次郎長だが、生憎街道
沿いには何の案内も無かった。その代りと言うか、ここ追分の街道沿いに、次郎長に
殺された都鳥吉兵衛の五輪塔が建っていた。
浪曲や講談が好きな人なら都鳥吉兵衛の話は聞いた事があるだろうが、知らない人の
ために簡単に紹介すると

次郎長の子分、森に石松は次郎長の命令で四国の金比羅代参さんに行った帰り道、
遠州都田の都鳥一家に草鞋をぬいだ。そのとき金の貸し借りの争いで石松は殺されて
しまった。次郎長の子分を殺してしまった都鳥一家は、報復を恐れて各地を逃げ回って
いた。そんなある日、清水一家が河豚の毒に当たった話を聞いた都鳥一家は、この時
とばかりに清水に乗り込んできたのだが、哀れにも清水一家にり討ちにあってしまった
というお話です。
我町のヒーローを殺しに来たヤクザの供養塔を建てるとは、清水の人はなんと心が優し
いのだろう。供養塔の案内にはこんな事が書いてあった。
「都鳥の吉兵衛を ここ追分で討った その是非は論ずべきも無いが 吉兵衛の塔堤を
弔う人も稀なのを憐み 里人が供養塔を最期の地に建立して 侠客の霊を慰む」

江戸から41里目の草薙の一里塚には狸も一緒に立っている。
狸は右手に大福帳、左手には徳利を持った狸は、私と同じようなアルコール依存症なのか
ところで狸の持っている大福帳は、私が子供の頃は確か「いきかえ帳」とか言っていた
気がするがどうだろう。字はきっと「行返帳」とでも書いたのだろうか。
ようは客が買物の時、その帳面持参して購入した金額を記入して貰い家に持帰る。
そして月に一度とかに清算をしていたのだろう。この様に店と客の間を行ったり来たりした
から行き返り帳だったのだろう。

一方左手に持った徳利には、酒屋の名前などが入っていてような記憶がある。
何故貧乏徳利なのか? きっと貧乏人は一升瓶などでは買えず、計り売りの酒を買って、
この徳利に入れてもらっていたので貧乏徳利。違うかな?



日本武尊を祀った草薙神社の大鳥居の前に着いが、神社はここから更に南1.3k位の所
なので今日はパス。

東征中の日本武尊が賊に襲われ草原に火を放たれとき、持っていた剣で草をなぎ倒して
迎え火を焚いて助かった話はご存知ですよね。
それと似た話は薩捶峠の倉沢にもありましたが、ここが草薙がその神話の第一本命の場所
だと私は思っています。
昨年の2月に駿河一国33観音廻りで草薙神社に参拝したとき、貰った神社の縁起書には
日本武尊が死んだのち、父親の天皇が当地に来て、神社を建立し、そのとき草薙の剣を
奉納したと書いてあった。その後、時の天皇の勅命により草薙の剣は尾張の熱田神宮に
奉祀させられたとなっていた。
しかしそれほど由緒がある神社の割には、草薙神社の規模は大きくなかった。
勿論駿河の一宮でもない。それに神社の縁起書には、そのように書いてあったが、これを
裏付ける様な資料は、他には出てこなかった。
では何故それでも、ここが草薙の剣の第一御本命だと思う根拠は、もう一つの候補地焼津
の地名にある。焼津の地名は、日本武尊が賊に襲われ草原で火を放って、焼いた浜辺だから
焼津。それに焼津にも日本武尊を祀った焼津神社がある。
だが焼津には、この地方では珍しく温泉が湧いていて、昔は海辺の近くで湧く熱湯は付近
の葦などを立枯れにしてしまい、まるで焼いたように見たので焼津と名付けた。と言う
説もある。
どっちもどっちだが、私としては余り根拠は無いが、草薙に軍配を挙げたい感じがする。

街道の右(北)側に低い山並みが見える。この山並みの一番に西の山は梶原山といって
鎌倉時代の頼朝の武将だった梶原景時が討ち死にした山として知られている。
景時は頼朝にある事無い事を讒言したとして、鎌倉武将に嫌われていたらしい。そのため
頼朝の死後、身の危険を感じた景時は、一族郎党を引き連れて、京を目指して鎌倉を逃げ
出した。だが景時が駿河のこの辺りまで来たとき、地元の郷士団に襲われて梶原山で討ち
取られるた。
その時の討ち取られた梶原一族の中には、箱根の芦ノ湖で身代わり地蔵に助けれれた藤原
景秀も入っていた。一度は地蔵さんに助けられた景秀も、ここでは身代わりになってくれる
者がいなかったらしい。

静岡県の東海道3-2

2011-03-03 12:02:50 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」3回目-2  2011/2/22

蒲原駅 ― 由比宿 ― 薩埵峠 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 草薙一里塚 ― 府中宿
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― 安倍川 ― 丸子宿 ― 宇津ノ谷峠 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
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                    興津宿へ(女体の森)

          

旧清水市の峠の石碑からは下り坂になり、あとは下るだけだ。
途中にある案内板に薩埵峠の歴史を書いた物があった。
それによると由比から、この先の興津宿までには、上道、中道、下道と三本の道があり
上道は峠を下った所から北に向かい、その先で興津川に合流する。
中道は逆に海岸に向かってから興津川に出る。
さらに下道は峠には登らず、海岸の波打ち際を、波の合間を見はからって、岩間を渡る
「親不知、子不知」となっていた。

勿論この下道が一番古い道で、当時は東海道の難所といわれていたが、1655年
(明暦元年)朝鮮通信使の来朝にあたり、峠道が開かれたとある。
更に道は大名行列が通ったので巾4mあったと書いてある。しかし今歩いている道は
山道で50cmあるだろうかと思えるほど狭い。ただ案内板には"畑の奥には今も石積みの
跡がある"と書いてあるので、ミカン畑を開墾するとき道巾を削減してしまったのだろう。

巾4mで納得した事もある。薩埵峠から下を見ると海岸は大分下に見える。人が通れる
程の道なら、こんなに高いところへ造らなくてもよいのに思っていたが、大名行列が
通る道では、ある程度傾斜が緩くなければならない。そこで登りは大変になるが海岸から
離れた緩斜面の、この高い位置が峠になったのだろう。

余談だがネットで東海道の三大難所を検索すると、箱根峠と鈴鹿峠はいずれにも入って
いるが、残りの一つは薩埵峠と小夜の中山峠のどちらかに分れている。
実際に歩いてみると薩埵峠より小夜の中山の方がアップダウンもあり、しかも坂の傾斜が
きついので断然難所と思うのだが-------
若しかすると昔の親不知の頃の三大難所の表現を見た人で、ここしか歩いたことの無い
人が、そのままその表現を転用してしまっているのだろうか?

この薩埵峠は何回も歩いているが、いつも距離が短い中道を歩いていた。
今日初めて上道を歩いたのだが、遠回りするだけで現代では何の為にこの道があったのか
理解出来なかった。だが当時は興津川の渡渉箇所などの問題もあったのだろう。
(写真 薩埵峠へは墓地の中を通って行く。上道と下道の分離はこの下にある)



興津川は渇水期で水が少なく、河原は葦が生茂っていた。
浮世絵の先には海が見えているが、現在は東名、国道、JRの鉄橋が遮っていて見えない。
写真は興津川の上流を写したものです。

興津川渡り国道52号線を横断すると、何とも怪しげな名前の石碑が建っていた。
「女体の森 宗像神社」となると、街道から奥まっていても行かねばならない。
神社の縁起書は余り理解できなかったが、宗像神社は九州福岡の宗像大社より勧請した
神社で、祭神は3人の女神となっている。その女神の一人奥津島比売命(おくつしまひめの
みこと)の名前から興津となったとある。
また女体の森については、昔から興津の舟人の灯台代わりにした森とあるだけだった。

でもこっちの興味は何故女体の森なのかだから、この説明では満足しない。
ならば想像するしかない。
海から見ると、神社のある丘が女体に見え、森が○○に見えたので女体の森。
まさか。では何だろう?
アッそうだ!この神社の祭神が女性だったのだから、その森は女神社の森と言った。
だがそれでは言いにくいので女体の森と言うようになった---------少々強引か。
でもそれなら姫の森とかの表現の方が合っていそうだ。
いやいや興津の住民は女体と言う文学的表現?を使うほど高尚だったのだろう。



身延道入口の石碑がある。ここから身延まで3里、南部3里、万沢3里となっている。
エッ身延まで3里?それでは12kmしかない事になる。更に横に書いてあるある南部も
万沢も身延へ行く途中の村なのに、みな3里になっている。そんな馬鹿な!
石碑を手で触り感触で確かめると、小さな字で「江」と彫られていた。これは身延へという
意味だろう。他には何も彫られていない。
さっき国道52号線の道路標識には身延までは46kmと出ていたと思うが。
この石碑の「三里」は何を意味しているのか?分らなかった。

奥に建っている高い石碑には「南無妙法蓮華経」と彫ってあるらしい。
これは題目碑といわれていて、法華経の多い静岡県東部では、良く見かける石碑だ。
また文字の横線が髭のように長く延びていることから「髭題目」とも言われている。

壁の長い建物は興津宿の脇本陣の水口屋だった。私がウォーキングを始める前に持って
いた興津の知識と言うと、五百羅漢の清見寺、格式の高い旅館の水口屋、それと綺麗に
拭かれた窓ガラス程度しかなかった。
その三つの事柄を知った理由は、昔バス旅行をすると行く先々でバスガイドが案内を
してくれた。そんなときバスが興津の町に入るとガイドは名調子で
「興津は最後の元老と言われました西園寺公望侯が住んでいた町でした。その西園寺侯を
尋ねて興津詣でをする政治家達が泊った宿が、ここ水口屋でした」

「興津のお嫁さんはとても早起きです。そのわけは自分の家の窓ガラスが隣の家のより
汚いと、お姑さんに叱られてしまいます。そこで隣の家より早く起きて窓拭きをする
ようになりました。どうですかガラスが綺麗でしょ?」
そんな説明を聞くと何故か窓ガラスが綺麗に見えたものです。

前置きが長くなってしまったが、だから興津宿の本陣はてっきり水口屋ばかりと思い込ん
でいた。それが今説明板を読むと水口屋は脇本陣となっている。
では本陣はというと小さな標識に「本陣跡」とあるだけだ。
その違いは何だったのだろうか。



興津の清見寺は五百羅漢で有名な寺だが、最近では朝鮮通信使が泊った寺でも知られる
ようにもなっている。
この寺は山門と本堂の間がJR東海道線の線路で分断されている事でも知られているが、
由緒ある古刹がよく線路敷設に同意したものだと感心する。
そのせいかどうか興津駅は宿場の中にあり、住民が駅を排斥した気配を感じられない。
古刹の寺が受け入れた以上、住民も協力せざるを得なかったのだろうか。
いや若しかして西園寺公望が口利した結果でこうなったのか??
(写真の東海名區の扁額の掛かっている山門と、後ろの寺の間に線路がある)

清見寺の入口には清見関跡が残っている。今は基石が二つあるだけだが地形的に見て
ここの関所は理にかなっていると思う。
前は海、後ろは急峻な山。しかも賊のいる東方面は薩埵峠のある山で、当時は波間を
渡る親不知しかなかった。味方のいる西は平地になり応援部隊はすぐにも来る事が
出来るだろう。
この場所を押さえておけば敵の大群は充分阻止できそうに感じられる。

日本武尊は東征に出発して焼津、草薙、倉沢、相模のどこかで蝦夷の焼き討ちに
あったらしいが、その時代は西暦100年頃。この清見関があったのが680年頃となると
駿河から東は蝦夷が跋扈していて、どこで襲撃を受けてもおかしくなかったのだろう。
それにしても日本武尊が蝦夷を征伐した500年後も、関所を作らなければならないほど
蝦夷の勢力はこの地方には残っていたことになる。
そうなると神話にでてるより、日本武尊の活躍は小さかった事になる

        

写真は西園寺公望の別荘「座魚荘」です。
別荘は清水区が管理していて見学は無料になっています。
ここの庭園からの清見潟の眺めは素晴らしかったらしいが、今では見る影も無い。
海岸は埋め立てられ、道路や工場が立ち並んでいて、面影すら残っていない。
この景色を西園寺が見たらどう感じるのだろうか。聞いてみたい気もする。