はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

八兵衛さんを探して

2015-03-09 17:10:28 | 八兵衛さん
 志太地方を歩いていると時折 ○○八兵衛」 と刻んだ石碑を見かける。これはこの地方にのみ伝わる信仰で、元禄時代に
川の氾濫で疫病が流行り苦しんでいると、通りかかった旅の僧が持っていた薬で疫病を完治させ 「私を祀れば悪病には罹ら
ない」
と言い残したと伝えられている。その僧の名が 「八兵衛」 さんと云い、彼の名を記した石碑が73基も存在するという。

 今まで歩いていて20基ほどの八兵衛さんを見かけ、40基位になったらHPで写真と位置地図を紹介したいと思っていた。
だが街中を歩く機会は少なく中々件数が増えないでいたのが、最近になって2ヶ所の新しい八兵衛さんを見つける事ができた
これでHP化する意欲が再燃してきたが、闇雲に歩いても見つける可能性は少ない。そこで大井川図書館で 「川中島八兵衛
見聞の記 所在地一覧 」川村辰己著
を借り受け、それを元にして八兵衛さん探索ウォークをすることにした。

 その1回目探索は藤枝市内の西部地区とした。
1・旧国道三叉路鏡池堂(瀬戸新屋)「川中島 八兵衛之墓」 昭和36年再建
 鏡池堂は旧国道でもあるが旧東海道と言った方のが分かりは良く、鏡池堂も何度も寄った事のある場所だった。
しかしそこでは新旧の六地蔵の板碑はあったが八兵衛さんの石碑は見た事がない。不思議に思いながら鏡池堂に行くが
矢張り八兵衛さんはいなかった。それでもそれらしき石碑の写真は写して家に帰り拡大して見ると、微かに 右端に「川中島」
文字が見える。中央にも何か書いてあるが判読は出来なかった。
見聞記によればこの石碑には 「川中島 八兵衛之墓」 と刻まれているとあったが、白く苔むした石碑は、川中島(赤字)しか
読むことは出来ませんでした。

          
                     鏡池堂の石碑類                         苔むした八兵衛さん
             八兵衛さんの場所

2・青島中学校前 南へ50m(青葉町2丁目)「紀伊國 川中島 小長谷八兵衛」 大正5年
 事前に地図で青島中学の前から南に行く道を探しておいたので、容易に八兵衛さんを見つける事ができた。
小川の横にある祠の中の石碑の文字は、ハッキリしていて全て読むことができたが、建造年月は彫られていなかった。
見落としたのだろうか? 先程の鏡池堂の石碑は昭和36年で判読できなかったが、ここのは大正5年製。45年以上前に
造られているのに、これ程石碑がしっかりしているのは祠の中に祀られているせいか。
石碑の前には香花や団子が捧げられ蝋燭もあるのを見ると地元で大事に祀られているのだろう。

          
                     青島中学前の祠                          八兵衛さん
               八兵衛さんの場所

3・県立藤枝養護学校 東堤防上(高丘町)「川中島八兵衛」 建立不明
 藤枝養護学校の横に栃山川が流れているので、養護学校の東側になる川の右岸を探したが無い。行ったり来たりしたが
小さな石碑すらなかった。諦めかけたとき対岸を見ると何やら祠のような物が見える。堤防上の道を県道まで戻り青洲橋を
渡り、今度は栃山川の左岸を下って行くと 「川中島八兵衛」 と書いた杭が立っていた。
 ここの八兵衛さんも地元の人に大事にされているようで線香なども用意されている。
石碑の文字は見聞記には川中島八兵衛となっているが 「西國川中」 は読めるが後の文字は判読できない。指でなぞって
みたが私の指感覚では所詮は何も分からなかった。何か良い方法がないものだろうか。

          
             後ろが栃山川と養護学校                              八兵衛さん
            八兵衛さんの場所
 私が祠の前に長いこと居たので近所の人が不審に思ったのか 「何をしているの?」 と声を掛けてきた。
「石碑に何て書いてあるか見ていたのだけど分かります?」 と逆に聞き返した。
「古いからねぇ。その案内板に書いてある事しか知らないよ」 だそうです。案内板には

「川中島の八兵衛さん 今から300年程前の元禄年間に紀の国日高郡川中島(現在の和歌山県御坊市藤田町吉田)に
生まれ、若い時から仏心を起こし、諸国を回って疫病に苦しむ人々を助けた。
 川の水が生活に使われていた当時は、河川に沿って流行した伝染病を人々は大変恐れていた。
 焼津市大島の小長谷家に婿養子となり、亡くなる時の遺言で 「自分が死んだ後もなお疫病除けになってやろう」 と誓願を
起こし亡くなったという。
 大井川水系、特に栃山川沿いの島田、藤枝、焼津の河川のほとりの72ヶ所の地で祀られている。
 ここ高岡では毎年8月16日に供養がおこなわれている」
とありました。

案内板の中で気になったのは 「栃山川沿いに72ヶ所祀られている。」 と書かれている事で、見聞記では志太地方で73ヶ所と
なっていた。果たしてどちらが正しいのか、これからの楽しみが増えた。

     
                              案内板

※下青島川原組(青葉町2丁目))「紀伊國 川中島 小長谷八兵衛」 明治3年
 青島中学前の八兵衛さんと同じ青島2丁目で、下青島をヒントに探したが、バス停の下青島はあったが八兵衛さんは見つから
なかった。