駅からウォーク 「静岡の東海道」6回目-2 2011/4/7
新居駅 ― 新居宿 ― 御宿白須賀 ― 白須賀宿 ― 境川 ― 二川宿 ― 寿泉寺
6:40 6:50 8:15 8:35 8:55 10:20 12:10
0.6k 7.5k 8.7k 10.1k 15.7k 22.6k
― 吉田宿 ― 伊那一里塚 ― 御油宿 ― 赤坂宿 ― 赤坂一里塚 ― 名鉄長沢駅
12:55 14:45 16:05 16:25 16:55 17:15
24.8k 31.9k 37.7k 99.2k 41.3k 42.3k
二川宿へ(暖簾)
潮見坂の入口から今日最初の坂が始る。上り坂らしい上り坂は前回の見付宿への磐田台地の登り
以来だ。坂になればどの坂も辛いが、それでも一度の登りで終る坂は気が楽だ。この潮見坂も
登りが一度あるだけで台地の上に出れるので案外容易に感じる。
坂の途中で後ろを振り返って見たが残念ながら広重の絵のような景色は見えない。それでも
坂の下の方のバイパスの高架の先に微かに海は見えるが、この海を誇張して描いたのだろうか。
いや広重の絵は大名行列が坂を下る、その向こうに広々とした海が見えている。
残念ながらそのような構図になる場所は見当たらなかった。
潮見坂を登りきった所にある、学校の前の公園から海が見える展望台もあったが、ここなら少し
浮世絵の構図に似ていなくもない。しかし街道とは方角が違い大名行列が歩く道は無い。
潮見坂を登りきった台地の上に出ると、白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」の建物がある。
無料で開放されていて白須賀宿の資料などが展示されているらしい。
それなら白須賀宿が海辺にあったときは元町宿と呼んでいたのかとか、浮世絵はどの位置から
描いたか等を聞いてみたい。
時間は今8時15分。駄目だろうなと思いつつも玄関前に建つ。しかしドアは開かなかった。
白須賀宿の枡形らしき場所に立札がある。ここも棒鼻の案内なのかと近づいて見ると
「曲尺手(かねんて) 曲尺手は直角に曲げられた道のことで、軍事的役割のほか大名行列同士が
かち合わないようにする役割も持ってた」
ヘーここのクランクの道は枡形とも棒鼻との言わず「かねんて」と言うのだ。しかも軍事的役割で
なく大名行列がかち合わないようにするとなっている。立札には更に
「格式の違う大名行列がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶をするしきたり
だった。しかし主君を駕籠から降ろすことは、臣下としては一番の失態になる。そこで斥侯を
行列が見えない曲尺手の先に出して様子を窺わせ、かち合いそうなら休息を装い行列を付近の
寺に緊急避難した」となっていた。
成程とも思うが、それでは曲尺手がない街道ではどうしていたのだろ?街道では駕籠から降り
なくてもよかったのか、それとも街道は端から諦めていたのだろうか。
それにしても棒鼻の行列の整列、曲尺手の様子見など、どの宿場でもありえる事だが、枡形と
表示した宿場では、このような事は書いてなかったと思う。説明してあったのは軍事的役割の
事が主だったような気がするが、私の見過ごしだったのだろうか。
白須賀宿の中は古い民家もあるが、今でも住民が住んでいて見学などはできない。
本陣や脇本陣の場所は、残念ながらその面影すらない。
左の写真は「東傳馬」の看板があるが何の建物だろう? 郵便局はその先にあるし、運送屋なら
少しはそれらしき物もあるだろうが何も無い。貼られているポスターは「消防団員募集」と
「指名手配書」だった。役場関係?見当が付かなかった。
左の写真は並木跡ではありません。火防のため植えられた槙の木です。
低地から高台に移り津波の心配はなくなったが、強い西風で何回か大火にみまわれた。
そのため火に強い槙の木を植えて延焼防止に役立てたとあった。
白須賀宿が終る辺りに来たら"白須賀宿の加宿、境宿 三枡屋"の立札があった。
白須賀宿は勿論理解できるし、境宿も遠江と三河の境の宿として言いそうな名前だ。
だが加宿とは何を意味するのだろう。加えた宿? 移った宿で移宿なら分るが。
白須賀を出るとすぐに国道に合流して、その路肩を歩く。前方に県境の標識が見えてきた。
やっと静岡県の東海道を歩き終わる事になる。それにしても愛知県に近づいたと途端に国道歩き
とは余りゾッとしない話だ。
遠江と三河の境はちっぽな川だった。名前は一応境川で橋の名前も境橋という。
まだ時間は9時。当然三河に向かう。今日は三河の3番目の宿、御油までは歩かなければ。
三河最初の細谷の一里塚の場所が分からない。街道マップには塚が現存していると書いてあるが
塚らしい物が見当たらない。ただ林の手前に秋葉山のらしい鞘堂と石仏はあったが一里塚はない。
道を何度か行き来したが、一里塚がありそうな場所は、この鞘堂付近しか考えられない。
仕方なくザックからガイドブックを取り出して調べてみると
「細谷の一里塚は木が生茂り過ぎていて塚の形が分らない」と書いてある。そして写真は鞘堂を
写してあった。なんだ一里塚の標識は無いのかと一瞬思ったが、よく見ると鞘堂前の歩道の土手に
標識が埋め込んであった。ご免なさい豊橋市さん。(左写真の石垣上部のの四角の物)
鞘堂か常夜灯か分らないので、失礼して中を覗きこんでみた。中には小さな社の他に秋葉神社と
津嶋神社と書かれた紙が貼ってあった。しかし灯を燈すような物は見えない。
それではこれは常夜灯ではない。と言って鞘堂?とも言いづらい。
社?祠?でも中に社があるのだから矢張り鞘堂か?
先ほど感じた不安が的中してしまった。国道の歩道をただテクテク歩くのみ。興味を引くような
物も無く、ただ右手に見える岩山が気になるだけで、救いは道が緩い下り坂だという事だけだ。
そんな道も国道の二川ガード南交差点で新幹線線のガードを潜るとガラリ変わった。
川の両岸には桜が咲き、その根元には黄色い菜の花も咲いている。やはり旧道はいい。
二川の一里塚はすぐ分かった。二川宿に入った初っ端のお店の角に標識があった。
二川も白須賀と同じように古い民家が沢山残っているが、いずれも人が住んでいる。
だが白須賀と違って綺麗っぽく感じるのは何故だろう。埃が少ないのかなー、しかし二川の
街道は狭いくせに交通量が多いので、排気ガスを浴びる量も多そうだが。
本陣跡が資料館になっていたので大枚400両を払って見学をすることにした。
本陣や旅籠の建物には余り興味がないので専ら街道を解説したもの読んでいた。
元が本陣だったせいか本陣のことが詳しく解説されていて、その中に本陣の経営は、二川宿が
小規模で休憩が多くて経営は苦しく、副業でどうにか本陣を経営している状態だったとある。
しかし袋井宿で書いてあったような、料金が殿様の絵や書だったような事は書いてない。
次に気になったのは助郷制度の事だ。
助郷とは徳川幕府が街道や宿場の保護、及び人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に
課した夫役(労働課役)のことで、一つに宿場に「百匹百人」と言って、馬百頭に人足百人を
常時置いて、大名や旅人の食料や荷物を運ぶ役割をしていたとある。
助郷以外にも宿場周辺の村落には「掃除丁場」という街道の維持整備すする役目も荷なされた。
このため宿場や街道から遠い村の人々は馬を引き連れ往復に2日、そして助郷に1日を合わせると
3日間の日数を必要とした。更にその間の食事や宿泊代も自分たちで出さなければならなかった。
助郷制度は年々人数や招集の回数が多くなり、農民は農業ができず離散者が増えていった。
そうなんだ。宿場や街道を維持する為には、近郷の村人は大変な苦役をやらなければならず、
その持ち場も決まっていたのだろう。そのため街道や宿場の位置が変わるとなると、その持ち場
の変更が起こり、今まで比較的な楽な持ち場が大変な持ち場になったり、また逆の場合も起きた
だろう。だから一度決めた宿場や街道の位置を変えるには、例え幕府と言えども容易な事では
なかったかと想像できる。
日坂の小夜の中山峠や見付の池田近道など、本来なら楽な道、近い道にしたかったろうが、この
助郷制度のため変える事ができなかったのではなかったのか。
今まで腑に落ちなかった事が、何となく納得できた。
本陣資料館の横には高札場が再現されていた。そしてその横の常夜灯には時計が付いていた。
本来の高札場の所に少し風変りな常夜灯と天竜川西岸の中野町にもあった道路元票があった。
そこには「二川町道路元票」と書かれていたが、中野町のそれと比べ石碑の形が少し違うように
感じた。
二川宿は今まで歩いてきたどの宿場よりも風情を感じることができた。古い町並みに格子が
マッチした民家。それに統一された暖簾も雰囲気を盛上げてくれた。最近は屋号の看板を下げた
宿場があるが、それよりこの暖簾の方が感じが良い。
新居駅 ― 新居宿 ― 御宿白須賀 ― 白須賀宿 ― 境川 ― 二川宿 ― 寿泉寺
6:40 6:50 8:15 8:35 8:55 10:20 12:10
0.6k 7.5k 8.7k 10.1k 15.7k 22.6k
― 吉田宿 ― 伊那一里塚 ― 御油宿 ― 赤坂宿 ― 赤坂一里塚 ― 名鉄長沢駅
12:55 14:45 16:05 16:25 16:55 17:15
24.8k 31.9k 37.7k 99.2k 41.3k 42.3k
二川宿へ(暖簾)
潮見坂の入口から今日最初の坂が始る。上り坂らしい上り坂は前回の見付宿への磐田台地の登り
以来だ。坂になればどの坂も辛いが、それでも一度の登りで終る坂は気が楽だ。この潮見坂も
登りが一度あるだけで台地の上に出れるので案外容易に感じる。
坂の途中で後ろを振り返って見たが残念ながら広重の絵のような景色は見えない。それでも
坂の下の方のバイパスの高架の先に微かに海は見えるが、この海を誇張して描いたのだろうか。
いや広重の絵は大名行列が坂を下る、その向こうに広々とした海が見えている。
残念ながらそのような構図になる場所は見当たらなかった。
潮見坂を登りきった所にある、学校の前の公園から海が見える展望台もあったが、ここなら少し
浮世絵の構図に似ていなくもない。しかし街道とは方角が違い大名行列が歩く道は無い。
潮見坂を登りきった台地の上に出ると、白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」の建物がある。
無料で開放されていて白須賀宿の資料などが展示されているらしい。
それなら白須賀宿が海辺にあったときは元町宿と呼んでいたのかとか、浮世絵はどの位置から
描いたか等を聞いてみたい。
時間は今8時15分。駄目だろうなと思いつつも玄関前に建つ。しかしドアは開かなかった。
白須賀宿の枡形らしき場所に立札がある。ここも棒鼻の案内なのかと近づいて見ると
「曲尺手(かねんて) 曲尺手は直角に曲げられた道のことで、軍事的役割のほか大名行列同士が
かち合わないようにする役割も持ってた」
ヘーここのクランクの道は枡形とも棒鼻との言わず「かねんて」と言うのだ。しかも軍事的役割で
なく大名行列がかち合わないようにするとなっている。立札には更に
「格式の違う大名行列がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶をするしきたり
だった。しかし主君を駕籠から降ろすことは、臣下としては一番の失態になる。そこで斥侯を
行列が見えない曲尺手の先に出して様子を窺わせ、かち合いそうなら休息を装い行列を付近の
寺に緊急避難した」となっていた。
成程とも思うが、それでは曲尺手がない街道ではどうしていたのだろ?街道では駕籠から降り
なくてもよかったのか、それとも街道は端から諦めていたのだろうか。
それにしても棒鼻の行列の整列、曲尺手の様子見など、どの宿場でもありえる事だが、枡形と
表示した宿場では、このような事は書いてなかったと思う。説明してあったのは軍事的役割の
事が主だったような気がするが、私の見過ごしだったのだろうか。
白須賀宿の中は古い民家もあるが、今でも住民が住んでいて見学などはできない。
本陣や脇本陣の場所は、残念ながらその面影すらない。
左の写真は「東傳馬」の看板があるが何の建物だろう? 郵便局はその先にあるし、運送屋なら
少しはそれらしき物もあるだろうが何も無い。貼られているポスターは「消防団員募集」と
「指名手配書」だった。役場関係?見当が付かなかった。
左の写真は並木跡ではありません。火防のため植えられた槙の木です。
低地から高台に移り津波の心配はなくなったが、強い西風で何回か大火にみまわれた。
そのため火に強い槙の木を植えて延焼防止に役立てたとあった。
白須賀宿が終る辺りに来たら"白須賀宿の加宿、境宿 三枡屋"の立札があった。
白須賀宿は勿論理解できるし、境宿も遠江と三河の境の宿として言いそうな名前だ。
だが加宿とは何を意味するのだろう。加えた宿? 移った宿で移宿なら分るが。
白須賀を出るとすぐに国道に合流して、その路肩を歩く。前方に県境の標識が見えてきた。
やっと静岡県の東海道を歩き終わる事になる。それにしても愛知県に近づいたと途端に国道歩き
とは余りゾッとしない話だ。
遠江と三河の境はちっぽな川だった。名前は一応境川で橋の名前も境橋という。
まだ時間は9時。当然三河に向かう。今日は三河の3番目の宿、御油までは歩かなければ。
三河最初の細谷の一里塚の場所が分からない。街道マップには塚が現存していると書いてあるが
塚らしい物が見当たらない。ただ林の手前に秋葉山のらしい鞘堂と石仏はあったが一里塚はない。
道を何度か行き来したが、一里塚がありそうな場所は、この鞘堂付近しか考えられない。
仕方なくザックからガイドブックを取り出して調べてみると
「細谷の一里塚は木が生茂り過ぎていて塚の形が分らない」と書いてある。そして写真は鞘堂を
写してあった。なんだ一里塚の標識は無いのかと一瞬思ったが、よく見ると鞘堂前の歩道の土手に
標識が埋め込んであった。ご免なさい豊橋市さん。(左写真の石垣上部のの四角の物)
鞘堂か常夜灯か分らないので、失礼して中を覗きこんでみた。中には小さな社の他に秋葉神社と
津嶋神社と書かれた紙が貼ってあった。しかし灯を燈すような物は見えない。
それではこれは常夜灯ではない。と言って鞘堂?とも言いづらい。
社?祠?でも中に社があるのだから矢張り鞘堂か?
先ほど感じた不安が的中してしまった。国道の歩道をただテクテク歩くのみ。興味を引くような
物も無く、ただ右手に見える岩山が気になるだけで、救いは道が緩い下り坂だという事だけだ。
そんな道も国道の二川ガード南交差点で新幹線線のガードを潜るとガラリ変わった。
川の両岸には桜が咲き、その根元には黄色い菜の花も咲いている。やはり旧道はいい。
二川の一里塚はすぐ分かった。二川宿に入った初っ端のお店の角に標識があった。
二川も白須賀と同じように古い民家が沢山残っているが、いずれも人が住んでいる。
だが白須賀と違って綺麗っぽく感じるのは何故だろう。埃が少ないのかなー、しかし二川の
街道は狭いくせに交通量が多いので、排気ガスを浴びる量も多そうだが。
本陣跡が資料館になっていたので大枚400両を払って見学をすることにした。
本陣や旅籠の建物には余り興味がないので専ら街道を解説したもの読んでいた。
元が本陣だったせいか本陣のことが詳しく解説されていて、その中に本陣の経営は、二川宿が
小規模で休憩が多くて経営は苦しく、副業でどうにか本陣を経営している状態だったとある。
しかし袋井宿で書いてあったような、料金が殿様の絵や書だったような事は書いてない。
次に気になったのは助郷制度の事だ。
助郷とは徳川幕府が街道や宿場の保護、及び人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に
課した夫役(労働課役)のことで、一つに宿場に「百匹百人」と言って、馬百頭に人足百人を
常時置いて、大名や旅人の食料や荷物を運ぶ役割をしていたとある。
助郷以外にも宿場周辺の村落には「掃除丁場」という街道の維持整備すする役目も荷なされた。
このため宿場や街道から遠い村の人々は馬を引き連れ往復に2日、そして助郷に1日を合わせると
3日間の日数を必要とした。更にその間の食事や宿泊代も自分たちで出さなければならなかった。
助郷制度は年々人数や招集の回数が多くなり、農民は農業ができず離散者が増えていった。
そうなんだ。宿場や街道を維持する為には、近郷の村人は大変な苦役をやらなければならず、
その持ち場も決まっていたのだろう。そのため街道や宿場の位置が変わるとなると、その持ち場
の変更が起こり、今まで比較的な楽な持ち場が大変な持ち場になったり、また逆の場合も起きた
だろう。だから一度決めた宿場や街道の位置を変えるには、例え幕府と言えども容易な事では
なかったかと想像できる。
日坂の小夜の中山峠や見付の池田近道など、本来なら楽な道、近い道にしたかったろうが、この
助郷制度のため変える事ができなかったのではなかったのか。
今まで腑に落ちなかった事が、何となく納得できた。
本陣資料館の横には高札場が再現されていた。そしてその横の常夜灯には時計が付いていた。
本来の高札場の所に少し風変りな常夜灯と天竜川西岸の中野町にもあった道路元票があった。
そこには「二川町道路元票」と書かれていたが、中野町のそれと比べ石碑の形が少し違うように
感じた。
二川宿は今まで歩いてきたどの宿場よりも風情を感じることができた。古い町並みに格子が
マッチした民家。それに統一された暖簾も雰囲気を盛上げてくれた。最近は屋号の看板を下げた
宿場があるが、それよりこの暖簾の方が感じが良い。