はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

静岡県の東海道6-2

2011-04-28 09:23:44 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」6回目-2  2011/4/7

新居駅 ― 新居宿 ― 御宿白須賀 ― 白須賀宿 ― 境川 ― 二川宿 ― 寿泉寺
 6:40      6:50       8:15       8:35     8:55     10:20    12:10
         0.6k       7.5k       8.7k     10.1k     15.7k     22.6k
 
― 吉田宿 ― 伊那一里塚 ― 御油宿 ― 赤坂宿 ― 赤坂一里塚 ― 名鉄長沢駅
   12:55     14:45       16:05     16:25     16:55         17:15
   24.8k     31.9k       37.7k     99.2k     41.3k         42.3k

                       二川宿へ(暖簾)



潮見坂の入口から今日最初の坂が始る。上り坂らしい上り坂は前回の見付宿への磐田台地の登り
以来だ。坂になればどの坂も辛いが、それでも一度の登りで終る坂は気が楽だ。この潮見坂も
登りが一度あるだけで台地の上に出れるので案外容易に感じる。



坂の途中で後ろを振り返って見たが残念ながら広重の絵のような景色は見えない。それでも
坂の下の方のバイパスの高架の先に微かに海は見えるが、この海を誇張して描いたのだろうか。
いや広重の絵は大名行列が坂を下る、その向こうに広々とした海が見えている。
残念ながらそのような構図になる場所は見当たらなかった。

潮見坂を登りきった所にある、学校の前の公園から海が見える展望台もあったが、ここなら少し
浮世絵の構図に似ていなくもない。しかし街道とは方角が違い大名行列が歩く道は無い。



潮見坂を登りきった台地の上に出ると、白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」の建物がある。
無料で開放されていて白須賀宿の資料などが展示されているらしい。
それなら白須賀宿が海辺にあったときは元町宿と呼んでいたのかとか、浮世絵はどの位置から
描いたか等を聞いてみたい。
時間は今8時15分。駄目だろうなと思いつつも玄関前に建つ。しかしドアは開かなかった。

白須賀宿の枡形らしき場所に立札がある。ここも棒鼻の案内なのかと近づいて見ると
「曲尺手(かねんて) 曲尺手は直角に曲げられた道のことで、軍事的役割のほか大名行列同士が
かち合わないようにする役割も持ってた」
ヘーここのクランクの道は枡形とも棒鼻との言わず「かねんて」と言うのだ。しかも軍事的役割で
なく大名行列がかち合わないようにするとなっている。立札には更に
「格式の違う大名行列がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶をするしきたり
だった。しかし主君を駕籠から降ろすことは、臣下としては一番の失態になる。そこで斥侯を
行列が見えない曲尺手の先に出して様子を窺わせ、かち合いそうなら休息を装い行列を付近の
寺に緊急避難した」となっていた。
成程とも思うが、それでは曲尺手がない街道ではどうしていたのだろ?街道では駕籠から降り
なくてもよかったのか、それとも街道は端から諦めていたのだろうか。
それにしても棒鼻の行列の整列、曲尺手の様子見など、どの宿場でもありえる事だが、枡形と
表示した宿場では、このような事は書いてなかったと思う。説明してあったのは軍事的役割の
事が主だったような気がするが、私の見過ごしだったのだろうか。



白須賀宿の中は古い民家もあるが、今でも住民が住んでいて見学などはできない。
本陣や脇本陣の場所は、残念ながらその面影すらない。
左の写真は「東傳馬」の看板があるが何の建物だろう? 郵便局はその先にあるし、運送屋なら
少しはそれらしき物もあるだろうが何も無い。貼られているポスターは「消防団員募集」と
「指名手配書」だった。役場関係?見当が付かなかった。

左の写真は並木跡ではありません。火防のため植えられた槙の木です。
低地から高台に移り津波の心配はなくなったが、強い西風で何回か大火にみまわれた。
そのため火に強い槙の木を植えて延焼防止に役立てたとあった。

白須賀宿が終る辺りに来たら"白須賀宿の加宿、境宿 三枡屋"の立札があった。
白須賀宿は勿論理解できるし、境宿も遠江と三河の境の宿として言いそうな名前だ。
だが加宿とは何を意味するのだろう。加えた宿? 移った宿で移宿なら分るが。



白須賀を出るとすぐに国道に合流して、その路肩を歩く。前方に県境の標識が見えてきた。
やっと静岡県の東海道を歩き終わる事になる。それにしても愛知県に近づいたと途端に国道歩き
とは余りゾッとしない話だ。

遠江と三河の境はちっぽな川だった。名前は一応境川で橋の名前も境橋という。
まだ時間は9時。当然三河に向かう。今日は三河の3番目の宿、御油までは歩かなければ。



三河最初の細谷の一里塚の場所が分からない。街道マップには塚が現存していると書いてあるが
塚らしい物が見当たらない。ただ林の手前に秋葉山のらしい鞘堂と石仏はあったが一里塚はない。
道を何度か行き来したが、一里塚がありそうな場所は、この鞘堂付近しか考えられない。
仕方なくザックからガイドブックを取り出して調べてみると
「細谷の一里塚は木が生茂り過ぎていて塚の形が分らない」と書いてある。そして写真は鞘堂を
写してあった。なんだ一里塚の標識は無いのかと一瞬思ったが、よく見ると鞘堂前の歩道の土手に
標識が埋め込んであった。ご免なさい豊橋市さん。(左写真の石垣上部のの四角の物)

鞘堂か常夜灯か分らないので、失礼して中を覗きこんでみた。中には小さな社の他に秋葉神社と
津嶋神社と書かれた紙が貼ってあった。しかし灯を燈すような物は見えない。
それではこれは常夜灯ではない。と言って鞘堂?とも言いづらい。
社?祠?でも中に社があるのだから矢張り鞘堂か?



先ほど感じた不安が的中してしまった。国道の歩道をただテクテク歩くのみ。興味を引くような
物も無く、ただ右手に見える岩山が気になるだけで、救いは道が緩い下り坂だという事だけだ。
そんな道も国道の二川ガード南交差点で新幹線線のガードを潜るとガラリ変わった。
川の両岸には桜が咲き、その根元には黄色い菜の花も咲いている。やはり旧道はいい。

二川の一里塚はすぐ分かった。二川宿に入った初っ端のお店の角に標識があった。
二川も白須賀と同じように古い民家が沢山残っているが、いずれも人が住んでいる。
だが白須賀と違って綺麗っぽく感じるのは何故だろう。埃が少ないのかなー、しかし二川の
街道は狭いくせに交通量が多いので、排気ガスを浴びる量も多そうだが。



本陣跡が資料館になっていたので大枚400両を払って見学をすることにした。
本陣や旅籠の建物には余り興味がないので専ら街道を解説したもの読んでいた。
元が本陣だったせいか本陣のことが詳しく解説されていて、その中に本陣の経営は、二川宿が
小規模で休憩が多くて経営は苦しく、副業でどうにか本陣を経営している状態だったとある。
しかし袋井宿で書いてあったような、料金が殿様の絵や書だったような事は書いてない。

次に気になったのは助郷制度の事だ。
助郷とは徳川幕府が街道や宿場の保護、及び人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に
課した夫役(労働課役)のことで、一つに宿場に「百匹百人」と言って、馬百頭に人足百人を
常時置いて、大名や旅人の食料や荷物を運ぶ役割をしていたとある。
助郷以外にも宿場周辺の村落には「掃除丁場」という街道の維持整備すする役目も荷なされた。
このため宿場や街道から遠い村の人々は馬を引き連れ往復に2日、そして助郷に1日を合わせると
3日間の日数を必要とした。更にその間の食事や宿泊代も自分たちで出さなければならなかった。
助郷制度は年々人数や招集の回数が多くなり、農民は農業ができず離散者が増えていった。

そうなんだ。宿場や街道を維持する為には、近郷の村人は大変な苦役をやらなければならず、
その持ち場も決まっていたのだろう。そのため街道や宿場の位置が変わるとなると、その持ち場
の変更が起こり、今まで比較的な楽な持ち場が大変な持ち場になったり、また逆の場合も起きた
だろう。だから一度決めた宿場や街道の位置を変えるには、例え幕府と言えども容易な事では
なかったかと想像できる。
日坂の小夜の中山峠や見付の池田近道など、本来なら楽な道、近い道にしたかったろうが、この
助郷制度のため変える事ができなかったのではなかったのか。
今まで腑に落ちなかった事が、何となく納得できた。



本陣資料館の横には高札場が再現されていた。そしてその横の常夜灯には時計が付いていた。
本来の高札場の所に少し風変りな常夜灯と天竜川西岸の中野町にもあった道路元票があった。
そこには「二川町道路元票」と書かれていたが、中野町のそれと比べ石碑の形が少し違うように
感じた。



二川宿は今まで歩いてきたどの宿場よりも風情を感じることができた。古い町並みに格子が
マッチした民家。それに統一された暖簾も雰囲気を盛上げてくれた。最近は屋号の看板を下げた
宿場があるが、それよりこの暖簾の方が感じが良い。

静岡県の東海道6-1

2011-04-27 09:54:45 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」6回目-1  2011/4/7

新居駅 ― 新居宿 ― 御宿白須賀 ― 白須賀宿 ― 境川 ― 二川宿 ― 寿泉寺
 6:40      6:50       8:15       8:35     8:55     10:20    12:10
         0.6k       7.5k       8.7k     10.1k     15.7k     22.6k
 
― 吉田宿 ― 伊那一里塚 ― 御油宿 ― 赤坂宿 ― 赤坂一里塚 ― 名鉄長沢駅
   12:55     14:45       16:05     16:25     16:55         17:15
   24.8k     31.9k       37.7k     99.2k     41.3k         42.3k

                       元町宿(?)へ(移転)

   

今日が静岡県最後の東海道だ。
新居駅を出発して三河の最初の宿場の二川までは当然として、少なくとも御油宿までは歩きたい。
理由は勿論姫街道が見付から御油まで続いているからで、今回御油まで歩けば、姫街道を歩いた
とき東海道との比較ができる。そんな気持ちが湧いている。
歩行ルート図の浜名湖上部から国道362号線が、おおよその姫街道のルートですが、これで見ると
東海道より距離は短くなりそうですね。

歩いている時も感じたのだが、東海道は新居から海側に出たあと真っ直ぐ北西に向かっている。
それなら新幹線の線路と同じルートで二川へ向かった方のが距離が短くなるように感じていた。
歩行ルートで見ても、そのように見えるが、街道ができない理由でもあったのだろうか。



藤枝を5時20分の始発で来ても、新居駅には6時34分着。随分遠くまで来たものだ。
新居駅の構内に「水のまんなかの道がまっすぐ」の山頭火の句碑が建っている。
どうもこの人の句は分らない(他の人の句も分らないが)。この言葉を私が句として
投稿したら採用されるかな?駄目だろうな。山頭火だから句となり句碑も建てられる。
だが無名な者が詠んだら馬鹿にされて笑われるのがオチちだろう。

歩道にはめ込まれたタイルに、手筒花火を描いた図柄がある。そこに「荒井」の文字が。
そういえば広重の浮世絵も「荒井」になっている。サー困った。
浜名湖は波も無く今切の渡しは安全だったと主張したい私にとっては困った名前だ。
だが調べてみると荒井とは、こんな理由で名前が付いたとあった。
「荒井の名前は、地震による津波や台風による水害が多く、"荒"を台風等を意味し"井"が浜名湖や
遠州灘を表す事から、"荒井"と呼ばれる様になった」とある。
それなら普段は波も静かで穏やかな海だったのか?少なくてもその可能性はありそうだ。
地震や台風のときは何所の海でも荒れることは当り前の事だ。あー良かった。



新井の関所は当然閉まっている。色々読みたいことや聞きたい事もあったので残念だ。
関所の横に当時の船着場が発掘されいる(写真右)。公園にある案内図ではこの船着場から右は
海だったとあるので、いま駅から歩いて来た所は埋立地だったのだ。
すると弁天島から関所までは随分広い海峡だったので、強い海流は考えにくくなる。
なんか自己弁護になってしまったが「荒井」の漢字は気になった。

舞阪と違い、ここの関所の船着場には雁木の階段が見えないが、舟は何所に着いたのだろうか。
東海道中膝栗毛では、新居関所の渡しを、こんな風に紹介している。
「サァサお関所前でござる。笠を取りなさい、膝を低くなさい」これは渡し舟が関所に着いた
時の先導の言葉で、このあと舟は新居の浜に着いて「ヤレヤレとどこりなく着いて、めでたい、
めでたい」と浜に上がっていく。
何とも簡単な関所改めで、集団でしかも舟に乗ったままで通過している。ただこの膝栗毛の
現代文の訳者はこんな注釈もつけていた。
「新居の関所は、全て箱根より緩やかだったが、舟に女性が乗っていると、関所手形を調べ
られた」とある。それにしても厳しい女改めの持つイメージとは雲泥の差だ。これでは長閑な
船旅の情景のようだ。

膝栗毛は享和2年(1802)に初版本が出ている。一方姫街道に通行禁止令が出たのが宝永7年
(1710)と約100年の開きがある。この100年の間に関所の女改めは変化したのか?
私の推理いや妄想では宝永時代は徳川幕府は大名達を信頼していなかった。そのため人質として
江戸に留め置いた大名の奥方が領地に逃げる事を警戒していた。それが100年も経つと幕府の
たがも緩むと同時に、幕府に反抗する大名もいなくなったなったのではないだろうか。
いやそれも不自然だ。宝永の前の年は元禄時代、まさに江戸文化が花開いた頃だ。そんな時代に
幕府に抵抗する大名がいるとは、幕府も関所の役人も考えなかったろうに。



旅籠の紀伊国屋でも内部を公開しているそうだが、今は当然閉まっている。
枡形なのか直角に道が曲った角に本陣跡がある。この辺りが新居の宿の中心地だったらしいが
今はその面影は無い。
南に向かう街道沿いには寄馬跡や秋葉山の常夜灯、一里塚跡などが散在している。
一里塚の先の道がクランクに曲った所に案内板があるので枡形の説明かと思い近づくと
「棒鼻跡 ここは新居宿の西境で、大勢の人が通行できないように土塁が突出て枡形を
なしていた」ならここは今まで枡形と呼んでいたはずだ。なのにここでは棒鼻? 
更に書いてある「棒鼻とは、駕籠の棒先の意味があるが、大名行列が宿場に入るとき、この
場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになった」??
ようは大名行列は、ここで列待ちをして行列を整えてから威厳を正して宿場に入ったのだろう。
そしてその場所を棒鼻と呼んだということなのか。
行列を整えるのは新居宿だけの事ではなさそうだが、今までの枡形にはそんな説明が無かった。
この新居は関所があるので大名行列も特に威儀を正したのだろうか?

街道が国1と合流するところでまた直角に道は曲り、今度は西に向かって行く。
この辺りは新居の旧宿場があった場所で橋本宿と呼んでいた。それが津波で流され、ここより
北の現在の場所に宿場は移っていった。そのため新しい宿場の名前は新居になった。
そう今までは思っていたが荒井が出てきたので戸惑ってしまう。いつ荒井から新居になったのか
調べてみると明治以降になって荒井から新居になったとあった。
勝手な思い込みは止めなければ。



国1と別れ旧道に入ると「紅葉寺跡」の看板があった。室町時代の足利将軍が紅葉狩に訪れた
寺とあったので階段を登ってみたが、今は寺も無く石仏があるだけだった。

橋本地区は昔の宿場だけあって古い民家も残されている。だがこれらの建物も津波で流された
後で再建した建物だろう。軒に紐で縛った長い柱があるが、何に使うのだろうか?太いほうの
下部には穴が開いているので、お祭りのとき神社の入口に立てる幟の支柱なのだろうか?



「明治天皇の御野立所址」の石碑に「明治元年10月1日、明治天皇が豊橋から新居に向かう際に
休憩した所。明治天皇はその後、新居宿の飯田本陣に宿泊して、東京には10月13日に着いた」
とある。なら豊橋から東京に13日で着いた事になる。対照はしずらいが、私の区切り区切りの
旅では豊橋から東京までは8日で行けそうだ。一日で10里歩いたという江戸時代の旅人なら
江戸から吉田までは74里弱なのだから矢張り8日で歩いた事になる。
天皇ともなると、各地の有力者の拝謁などを受けながら行くので、どうしてもユックリになる
のだろう。明治天皇はこうした旅が楽しかったのだろうか、それとも苦痛だったのだろうか。

街道から海の方角を見ると国1の先に松林があり、その先の上にはバイパスの高架が続いている。
江戸時代はこの辺りは白砂の砂丘だったという。そのため地名が白須賀になったとか。
須賀については以前調べたことがあり、簡単に言えば「砂浜、砂丘、砂州」のことらしい。
だから白い砂浜で白須賀。成程ね。
静岡県には他にも横須賀や大須賀あるが、それは脇に砂浜があるかのは横須賀で、大きな砂浜が
あるから大須賀だそうです。

   

神明神社の隣に長屋門がある。この辺りが旧の白須賀宿で今では元町と呼んでいる。
橋本宿が津波で流されて北の方向の新居宿に移動したように、ここ白須賀宿も津波で壊滅的被害
を受けた。そのため宿場は西の山の手に移動したが、宿の名称は白須賀を継承している。
この津波の犠牲者の慰霊を祀った潮見観音が蔵法寺の境内にあるのので寄って行く。
案内板に面白いことが書いてあった。
「宝永4年に起きた大津波により、一瞬のうちに元町宿は悉く波に呑まれて大被害を受けました。
その時坂の上に逃れ、その地に現在も住んでいる住民が多数います。---」
元町宿?では白須賀宿は津波の前はこの地で本町宿と名乗っていたのか?
ネットで「元町宿」を検索したがしたがヒットしなかった。しかし浜から山の手に移転してから
白須賀(白い砂丘)と名乗るのは少々不自然な気がする。案内板は現在の地名元町にたまたま宿を
付けて元町宿にしただけなのだろうか?

それにしても東日本大震災の後に、このような場所を歩くと色々考えてしまう。
津波に流された地に再び戻って生活せざるをえない人は、必ずでてくるだろうが、その場合は
必ず逃げ道を確保してから住むようににしてほしい。高台のある場所は高台に行く逃げ道を作り
それも共通の避難路だけでなく、近所の家数軒ごとで逃げ道を確保して欲しい。
ここ元宿では北側が高台になっているので、逃げる場所は確保できそうだが、そこに続く
避難路を再検討する必要がありそうだ。

姫街道

2011-04-26 04:22:53 | ウォーキング
姫街道に行ってきます。
昨日大尾山を少し歩いたが足首は痛くなかった。家で時折痛いときがあるが余り気にしても
仕方ないので出かけることにする。
天気予報は明日の夜から下り坂で、明後日の降水確率は60%になっている。
今のうちに歩いておかないと、その後は予定が詰まっているので姫街道を歩く日がなくなって
しまいそうな不安がある。

予定は藤枝の始発に乗って磐田駅で下車。前回の東海道で寄れなかった府八幡宮や国分寺跡、
日本座衛門の墓があると云う見性寺に寄ってから姫街道の入口に行く。
姫街道は池田の近道を歩き、池田の渡し跡に行き、そこから東海道と同じ道で天竜川を渡る。
次は天竜川の西岸の中野町の安間の一里塚から再度姫街道に入る。
ゴールは気賀駅の予定だが距離は30kmいかないだろう。
しかし気賀宿には気賀の関所があるのでそこを見学したり、関所を通らず村の人たちが通った
「犬潜り」という道もあるそうなので、その道も歩く予定だ。

姫街道自体が60km程度なので、初回に余り無理をしても意味が無い。そんな訳でゴールは
気賀駅とした。
(本当は三ケ日まで歩く予定だったが、藤枝より遠くなり旅費が余分になるので気賀にした)

では云ってきます。


大尾山の海棠と静居寺の牡丹

2011-04-25 17:06:30 | 寺社遍路
今日は姫街道を歩こうと思っていたが、蕨取から帰ってきてから左足首が痛くなってしまった。
塗薬や貼薬を貼ったりしたが一向に痛みが取れない。捻挫をした憶えはないが不安定な場所で
踏ん張ったりした後遺症なのか? 
痛みがあるのに無理をして歩いて悪化したら元も子もない、ここは姫街道は延期して、たまには
女房孝行をしようと掛川の山奥にある大尾山に海棠を見に行く事にした。

昨年5月遠江33観音13番札所大尾山顕光寺に行ったとき、境内に大きな海棠の木があった。
その時は既に花は咲き終わり、僅かに残骸が数輪へばりついているような状態だった。
それを思い出し急遽行ってみる気になった。

遍路で歩いた道を車で通ると、よくまーこんなに歩いたものだと感心してしまう。
その日は天浜線の原田駅から大尾山を打って掛川駅までの行程だったが、車で走った後には
歩く気が無くなりそうな道だった。

        

海棠はご覧のように丁度満開だった。いや蕾がまだあるから8分か9分咲きか? 
見学者は平日だったので、私たち以外に1組いただけだったので静かに見ることができた。



境内には海棠以外にも石楠花も咲いている。入口にある高い背の桜は御衣黄桜か。
普段余り目にしない花に女房はご満悦。若しかしたら今晩一杯飲ませてくれるかもしれないナ。

奥の院に向かう参道の右手にある広場に登ってみた。そこは馬酔木が満開で大きな木に白い花を
たわわに付けていた。良く見ると馬酔木以外にも白い花のドウダンツツジも咲いている。
山桜の花吹雪の中で弁当を広げる。この後は奥の院まで行って女房に杉の巨木を見せてやる予定だ。
ところが昼食が終る頃から北の空が俄に暗くなってきた。今迄は風も無く穏やかだったのに風も
吹きだした。これはヤバイ雨が降ると、慌てて弁当を片付け500m下の駐車場に向かう。途中から
大粒の雨がポツリポツリ、少し濡れただけで何とか車に到着。途端に雨がザー。

    

雨は大尾山の麓に着かぬ間に止んで青空が出てきた。奥の院に行かなかったので時間早い。
どこかに寄ろうかと考えて昨日ネットでみた島田の静居寺の牡丹を思いでした。
場所も帰りの道の途中にあるし丁度良い。

静居寺は国1バイパスの島田の旗指ICを下りて、最初の信号手前の道を左折。更に左折して
バイパスの高架下を潜って北へ進めばすぐ山門が見えてくる。
この山門は潜らないで左の道を行けば寺の駐車場がある。

この寺は牡丹もさることながら建物が良い。惣門脇にある説明書を見ると
「正面と背面の妻入り部分に唐破風があるが、このような建築様式を向唐門(むかいからもん)
といい、静岡県内の寺院では極めて珍しいものです」とあった。
そう確かに今まで見た唐門は正面だけで裏にはなかった。成程これで知識が一つ増えた。

さらにこの寺には珍しい物がある。本堂裏に八角堂があるが、これは経蔵でその中には
回転する輪蔵があった。
これも私は静岡県では見たことがない。そこで格子の隙間から写真を写してみた。

この輪蔵は回転させると経典を読誦したのと同じ功徳が得られると云われているが、
この輪蔵の大元はチベットにあるマニ車ではないだろうか。
マニ車も回転させることによりご利益が得られるらしいし。
チョット待った。私はマニ車の中に経本が入っているのかもしらないし、見た事もないのに
勝手な御託は言わないほうがいい。





蕨&拭取り

2011-04-22 16:11:07 | その他
毎年行っている蕨取だが、今年はどうしてか遅くなってしまった。
そろそろ行かないと時季を逸してしまいそうだが、明日は雨の予報が出ているから駄目。
日曜日は用事があって行けないとなると、月曜日には取られた後になってしまう。
それでは今日しかないと急遽出かけることにした。

大崩山塊のいつもの所に行くと、取ったばかりのようで折られた蕨の茎から汁が出ている。
毎年ここで充分な量を取れるのに、今年は両手一杯ほどしか取れなかった。
これでは味噌汁や天麩羅、おしたしと蕨のフルコースを味合えない。もっと欲しい。
そこで何年前に茶畑の回りで取れた場所に行ったのだが。
茶畑は放置されていて荒れ放題。半分諦めながら茶の木の下から覗いて見ると、
あった! お茶の木の畝に沿ってポツンポツンと蕨が見える。それも小さな蕨ではなく
かなり大きい蕨が。よし、ここで取ろう。

ところで蕨取りといえば、草原に生えている蕨を摘んでいくと思うでしょうが、ここは違う。
背丈より大きくなった茶の木の間に潜って行く、当然立っては入れないので膝をつき
四つん這いになって這うようにして進む。
この様な場所の蕨は少しでも陽の光りを浴びようとするのか、すらりと高く伸びている。
日陰のため少し遅い位でも葉が開いていない。
成功!成功! 大きいのは1mほど延びているのもある。尤も下の方は硬くて食べれないので
ポキット自然に折れる位置で取るのだが、それでも30cmほどはあるだろう。
手や顔に引掻き傷を作って奮戦した。

サーもう蕨はいい。次は蕗だ。
蕗は毎年行く所が決まっている。放置されている夏蜜柑畑のほんの一角だが、ここで充分。
我家の蕗は葉を取って筋を取る蕗ではなく、小さな葉が付いた柔らかそうな蕗を取る。
これを葉や筋が付いたまま水洗いをして、5cmほどに切って醤油、みりん、だし汁で煮込む
だけ。これが好きなんだな、朝食はこれだけでご飯が食べれるくらいだ。

さーて、これから料理の手伝いをしよう。




湖北五山

2011-04-21 10:33:48 | 寺社遍路
浜名湖の湖北五山を歩いてきました。
天竜浜名湖線の金指駅を出発し宝林寺、龍潭寺、方広寺、大福寺、摩訶耶寺の五寺を廻り三ヶ日駅に
ゴールの約29kmの行程です。
コース上には五寺の他にも実相寺、井伊谷宮、天白磐座遺跡、只木遺跡(三ケ日人)、浜名惣社などの
見所もある面白いコースでした。

姫街道が歩き終わったら紹介します。

湖北五山

2011-04-20 05:23:08 | 寺社遍路
今日は浜名湖北岸の湖北五山に行ってきます。
湖北五山とは昨年開創されたばかりの霊場で
宝林寺・龍潭寺・方広寺・摩訶耶寺・大福寺の五寺で構成されています。
どの寺も国の重要文化財がありますが、いずれも拝観料を支払わなければ見ることができません。

道は昨日PCでなるべく県道や国道は避け交通量の少なそうな道を選びました。
出発地は天竜浜名湖鉄道の金指駅でゴールは同じく三ヶ日駅になります。
距離は25kmから30km位になるのではないかと想定しています。
少々短いので他にも寄る所があれば寄って来ようかなとも思っています。


何故姫街道ではないのかって?
そう姫街道は自分で歩く道を作れないので、道の調査に手間取っています。
来週辺りに行けるかどうか、といった具合です。

だは行ってきます。

静岡県の東海道5-6

2011-04-18 09:18:38 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」5回目-6  2011/3/30

袋井駅 ― 袋井宿 ― 木原一里塚 ― 見付宿 ― 宮之下一里塚 ― 天竜渡船場
 6:00      6:10       9:42       7:45      9:16        10:08
         0.6k       2.9k       8.5k      13.4k        17.1k
 
― 中野町 ― 浜松宿 ― 八丁畷 ― 春日神社 ― 舞阪宿 ― 新居町駅
  11:15     12:42      13:38     15:13     15:50    16:43
  21.1k     28.7k      31.1k     40.5k     42.9k    47.6k

                       新居宿へ(今切)



舞阪の脇本寺を出ると街道は浜名湖にぶつかる。そこが舞阪・新居宿を結ぶ今切の渡しの
船着場の跡だった。
説明板には、この船着場を本雁木跡として「雁木(がんげ)とは渡船場のことで、ここは東海道を
旅する人が一番多く利用した本雁木という」更に
「季節で多少変わるが、関所の関係で一番は朝4時から、最終は夕4時までやっていた」
ここでも朝4時が出てきた。昔の旅人は途轍もなく朝が早かった事が分るる。
だが泊るたびに女遊びをしようとする弥次さん喜多さん。飯盛女を準備していた旅籠。
この時代の人は現代人よりよっぽど元気だったのだろうか。
ただし、この舞阪宿には「此宿 めしもりなし」と記録があるそうだ。

本雁木より少し北側には北雁木の跡があった。此処の渡船場は大名や幕府公用役人が利用した
雁木で北雁木というらしい。雁木とは階段状になった船着場との説明があるが、石垣の中は海に
向かい傾斜を持った石畳が続いていて、階段は海水の中なのか判別できなかった。

むかし舟を海岸に着けるには、舟を海岸に乗り上げるか、海中に桟橋を建て船を横付けする
方法だったと思うが、雁木とはこのどちらの方法でもないらしい。
図で説明して無いので勝手に想像するしかないが、雁木とは海中から段々に石を積み上げ、
どんな海水の位置でも海岸に対し、水平に乗り降りする場所ができるのが雁木?
本当かな?? 自分で言って、自分で信じていない。誰か教えてください。

街道の常夜灯より一回り高い海用の常夜灯が建っている。これが昔の灯台なのだろう。
確か澪つくしと言うのではなかったか。確信は無いが。
それと石垣の石が赤っぽいのにも気付いた。舞阪の見附の石垣も同じ石だったし、途中の
民家でも赤っぽい石垣があった。去年遠州33観音を歩いているとき気になって地元の人に
聞いたら、この付近の山から取れる石だった。
普通の単色の石より斑模様になって風情がある。

さて、ここから新居まではどうしよう。今は今切の渡しは行われていないので、弁天島から
新居まで電車で移動するか、歩くしかない。
私? 当然歩き組です。



最初の橋を渡って弁天島に向かう。昔弁天島は舞阪と陸続きだったが地震で分断されたという。
ただそれは東海道ができる前で、今切口ができた地震より前の話だ。

舞阪・新居間は今切の渡しで移動していたので弁天島には昔の東海道は無い。なら何所を
歩いても同じ事だと割切り、国道を離れ海側の公園沿いに歩いた。
そこから見る南側には、国道1号の浜名湖バイパスの浜名大橋が良く見えた。
この浜名大橋の下の辺りが明応7年(1498)に起きた大地震と津波により決壊した今切口である。
この決壊でそれまで淡水湖だったのが汽水湖になったとされている。

1498年とは室町時代の後期で、その時代の人物では徳川家康より少し歳の多い、美濃の斉藤道三
がいる。この地震以前の東海道は陸続きだった今切れ口付近を歩いて通っていたらしい。
更に前には浜名湖は現在道路や鉄道が走っている付近から南は陸地だったが、地震や津波に
より浜名湖になったという説もある。
じゃー浜名湖の水はというと、現在の3本目の新居側の橋のあたりから、南西に川が流れて
いて、東海道はその川に橋を架けて通っていた。川の名前は浜名川で橋は浜名橋だった。
そして明応の地震で決壊した今切口に橋を架けることができず、一時は姫街道を歩いていたが
そのうち浜名湖の両岸に近い所を渡す、今切の渡しができて旅人はまた東海道に戻ってきた。

まだ終らない。更に宝永4年(1707)発生した宝永地震では、新居宿や白須賀宿は宿場が全滅する
被害を受けた。そのため今切の渡しも運行できずに、また旅人は姫街道へと移っていった。
そしてまた宿場が復興し、今切の渡しも安定してくると、旅人はまた東海道へと戻ってきた。

普通ならこれで納得してしまうだろうが、偏屈な私には引っ掛かるものがある。
一番引っ掛かるのは姫街道に関するもので、今切の渡しが安定してくると東海道に旅人が
戻ったと書いたが、実際は違うらしい。渡しが復活しても旅人は東海道に戻って来なかった。
そのため幕府は大名や武士達に姫街道通行禁止令を出したと言う。
では何故幕府が姫街道の禁止令を出すほど姫街道は人気があったのか?
しかも女性に人気があり、旅人も女性が多かったとなると納得できなくなってしまう。
実際は禁止令で男性が東海道に戻ったため、相対的に女性が目立つようになったのでは
ないかと思うのだが。

姫街道の名前は女性たちの多くが歩いたので姫街道になったという説では、
その根拠として
1.「今切」の名前が縁起が悪いので女性が嫌った。
2.今切れの渡しは波が荒く危険だった。
3.新居関所は女改めが厳しい。  をあげている。

だがこれらの根拠は姫街道を女性が好んだと言うより、東海道を嫌った根拠でしかない。
しかもこの根拠にさえ私は反論したい。
1.今切口ができて渡しが運行してから宝永時代までには200年余の時代が過ぎている。
 それを急に今切の名前だ縁起悪いと言い出すものなのか? 仮にそうだとしても何にも
 今切の名前に拘る必要はないのだから、渡しの名前を新居の渡し、弁天の渡し、或いは
 瀞一里(浜名湖の渡しは静かだ協調する為)など変更すればよい事だ。
 地名の変更など、この当時はでは 日常茶飯事に行われていたのだから。

2.現在の浜名湖を知っている人なら浜名湖が波が強いと聞いたら驚いてしまうだろ。
 当然同じような形状の浜名湖なら宝永時代も波は静かだったと思う。
 ただ気になるのは弁天島と新居間の海峡(?)が潮の流れが速い時があるそうだ。
 しかしこれも今は埋立てが進み、開口部が非常に狭くなったため起きる現象ではないか。
 もし昔から流れが速かったなら、舞阪の宿を弁天島の南側には造らず、流れの少ない
 北側に造っただろう。

3.新居の関所は女改めが厳しかったという説は良く聞く。だがそれなら気賀の関は女改めが
 緩かったのか。同じ幕府の管轄あって、しかも幕府が姫街道通行禁止令まで出したのに
 女改めの実態を、その幕府が知らなかったわけはない。
 知れば新居関の女改めを緩くするか、気賀の関の女改めを厳しくすれば済む事だ。
 
何をクドクド書いたのだろう。ようは私は姫街道は女性の旅人が多かった説に納得できない
と云うことだ。姫街道を豊川から気賀まで歩いた経験からいっても、二つの峠越えがある
姫街道の方が断然大変だと思っているから、余計にそう思う。
いやいやまだ姫街道を通しで歩いていないので断言してはいけない。東海道と姫街道、両方
歩き終わってから結論を出そう。

左の写真は弁天島の大型ホテルだが人影は見えなかった。
右はJRの東海道線と新幹線の鉄橋。丁度新幹線が走ってきた。下の海を見たが流れも無く
静かな水面だった。



新居駅に着いたのは5時前だったが、関所は既にしまっているだろう。
自分の妄想が少しは当っているか確認したかったが諦めるしかない。次回の東海道も
当然朝が早いので関所はしまっているだろう。妄想は妄想のままでいくしかない。

先日島田の郷土博物館に行ってきました。
そこで金谷の石畳の事を係員に聞いたのですが--------- 

静岡県の東海道5-5

2011-04-15 09:56:55 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」5回目-5  2011/3/30

袋井駅 ― 袋井宿 ― 木原一里塚 ― 見付宿 ― 宮之下一里塚 ― 天竜渡船場
 6:00      6:10       9:42       7:45      9:16        10:08
         0.6k       2.9k       8.5k      13.4k        17.1k
 
― 中野町 ― 浜松宿 ― 八丁畷 ― 春日神社 ― 舞阪宿 ― 新居町駅
  11:15     12:42      13:38     15:13     15:50    16:43
  21.1k     28.7k      31.1k     4.05k     42.9k    47.6k

                       舞阪宿へ(堀江県)



橋の袂に「鎧橋」の案内板があった。この橋に徳川家康が鎧でも掛けたのかと思い呼んで見ると
「平安時代末期に比叡山の僧兵が地元の鴨江寺を攻めてきて、ここで戦った」とある。
待てよ比叡山の僧兵は確か見付(磐田)の山奥にある岩村廃寺にも攻めてきたはずだ。家に帰り
調べてみると遠江33観音の札所の前身の岩室廃寺を1546年に叡山の僧兵が攻めてきて全山を
焼き滅ぼしている。理由は「本末の詮議の争い」となっていた。
1546年では室町時代で平安時代末期ではない。若しかして岩村廃寺の戦いと関連があるのかと
思った勘は見事に外れだった。
ちなみに鴨江寺とは平安時代は300余の末寺を持つ真言宗の大寺だったとある。
待てよ、岩村廃寺も同じく真言宗。比叡山延暦寺は天台宗で最澄が開祖だ。すると天台宗の開祖
空海とは仲が悪かったはずだ。それで二度も遠州に攻めてきたのか。だがそれなら高野山の僧兵
は何をしていたのか、援軍は出さなかったのか? 勝手な想像が湧き出してしまった。

この辺りの街道のことを「八丁畷(なわて)」と言うらしい。真っ直ぐな道が続いているから
らしいが、今朝歩いた袋井の古戦場は「木原畷」と呼んでいた。だがそこはこの様に真っ直ぐな
道は無かった。
辞書で調べてみると畷(なわて)とは「田の間の道。あぜ道」と「まっすぐな長い道」といった
意味があった。今日は、たまたま二つの畷(なわて)を経験したと言うことだろう。

62(66)里目の一里塚があった。案内板には一里塚の名前が書いてないが若林の一里塚という
らしい。61里目の馬込の一里塚は探せなかったので、その前の安間の一里塚からの距離を見ると
丁度10kになっていた。2区間の一里塚の間の距離が10kとは長すぎる、宿場が近くにあるわけ
ではないのに何故だろう。GPSの距離が間違いなのか、一里塚が遠過ぎるのか、それとも歩いた
ルートが間違っていたのか。



若林の一里塚を過ぎて暫く行くと、街道を挟んで右と左にお堂がある「二つ御堂」の前に出る。
二つお堂とは、平安時代末期に京に居た奥州平泉の藤原秀衛を追って、愛妾がこの地を通った
とき、秀衛の死を聞いた。その秀衛の菩提を弔う為に建てたお堂だったが、自身もここで死んで
しまった。その御堂が道の右手にある北堂だったという。
だがその死の連絡は誤報で、その後ここを通った秀衛が、その話を聞いて感激して建てたのが
道の左側にある南堂だそうです。

諏訪神社が過ぎた辺りに浜松領界石や堀江領界石跡があるらしいが見当たらなかった。
掛川藩と浜松藩の領界石も分らなかった。注意深く歩いている積りでも疲れからか見落としが
多くなってしまうようだ。

ところで堀江藩という名前は余り聞いた事がない。しかも堀江は藩だけではなく、明治維新の
廃藩置県では堀江県にもなった云う。早速調べてみると面白い話があった。
堀江県の元となった堀江領は、浜名湖の舘山寺に拠点を置く大沢氏の所領地だった。
永禄12年(1569)徳川家康の遠州侵攻時には、堀江城は今川方として家康に頑強に抵抗した。
手を焼いた家康は大沢氏に本領安堵の誓書を与え和睦を結んだ。その後大沢氏は表高3500石、
実高5500石の高家筆頭として幕末になるのだが、ここから話は面白くなる。

1万石以下は大名になれないので、維新の混乱期に大沢氏は浜名湖を埋め立てたとして1万6石と
虚偽の申告をした。混乱していた新政府は調査もせずに大沢氏の家格を華族に昇格し大名に取り
立て堀江藩が誕生した。その結果明治2年(1869年)の版籍奉還で大沢氏は堀江藩知事に。
明治4年4月の廃藩置県では堀江県となり、大沢氏は堀江県知事に任じられる。
しかし、申告した開墾領地はいまだ浜名湖上であることが発覚。堀江県知事大沢基寿は士族への
格下げ及び禁錮1年の処罰受けた。
そして明治4年11月の新県設置によって堀江県は浜松県に合併されてしまい、浜名湖北部の
超ミニ藩、超ミニ県も超短い幕を閉じた。

だが一つ私には腑に落ちない事がある(また始まった)。
明治4年7月の廃藩置県の時点では、現在の静岡県には韮山県(伊豆)と静岡県(駿河・遠江)、
堀江県(浜名湖北部)の3県があった。
同年11月遠州に新たに浜松県を誕生させ堀江県を廃止したとある。不思議なのは浜松のような
大きな藩を静岡と一緒にさせながら、誕生したばかりの小さな堀江藩がなぜ単独で堀江県に
なれたかだ。高家筆頭の大沢氏の権力それほど強かったとのか。
ならば虚偽申告がばれても、禁固1年の実刑を受けることもなかったのではないかと思う。
若しかして出世城の浜松藩は事の他、薩長の新政府役人に嫌われていたのではないか?

そうそう、その後の静岡県は明治9年に足柄県廃止に伴い旧伊豆の国が静岡県と合併し、
同年8月に浜松県と静岡県が合併したことにより、現在の静岡県が生まれました



日本橋から63(67)里目の篠原の一里塚跡がある。標識はあるのだが、この標識自体が古く
「一里塚標識跡」と名付けたいくらいだ。読む気にもならなくて写真1枚でパス。

この辺りに道の左側に秋葉山の常夜灯がよく目につく。堂の中を覗いてみる中には石の常夜灯が
立っていた。これこそ鞘堂と思うのだが、中に石灯籠の無いお堂を何故鞘堂と云うのか分らない。
地元では鞘堂も常夜灯も深く考えず適宜呼んでいるのだろうか。
それにしても丈夫な石造りの灯篭を、何故木製の立派な鞘堂で保護するのだろう。しかも石灯籠に
灯を燈しても暗いのに、鞘堂に入れたら更に暗くなる。これで常夜灯の役目は果たせたのだろうか。
もっとも常夜灯は足元を照らすというより、常夜灯の場所を知らせるのが目的のようだから、薄暗く
ても、その存在が分ればよかったのだろう。



春日神社の境内で休憩をする。この境内にも蛙の置物が。袋井の許禰(こね)神社には6匹の蛙で
「○○を六蛙(迎える)」だった。ではこの神社には2匹の蛙がいたが、果たしてどういう意味か?
答えは書いてなかったが「○○二蛙(に帰る)」ではないかな。マーそういう事にしておこう。

この神社には珍しい狛犬が、いや犬でなく鹿だったので狛鹿があった。奈良の春日神社には鹿が
野放しになっているのは知っているが、矢張り狛犬ならぬ狛鹿か鎮座しているのか?



舞阪の松並木は約700mにわたって330本ほどの松が並んだ見事な並木道だった。並木の途中に
バス停や信号機のある交差点もあり、今でも一般道路としての役目も担っている道でもある。
余り街道の保存に力を入れていない浜松市だが、この松並木は是非後世にも伝えていって
欲しい。100年後200年後にも街道歩きをする人の憩いの場所にしていてほしい。

松並木が終った所に太鼓を叩いている子供の像がある。昔地引網にかかった子供が
「海が荒れるときは太鼓を叩いて知らせますので、どうか助けてください」と命乞いをしたので
漁師は子供を海に帰してやった。それ以後この地には海が荒れる前に太鼓の音が聞こえてくる
ようになったとさ。小僧さんの名前は「波小僧」だった。
静岡県は東海地震がいつ起きてもおかしくないと言われてから久しい。是非津波の前には
波小僧さんは太鼓を叩いて知らせてはほしい。



舞阪宿の見附跡には、まだ石垣が残っている。横に立っている案内板には
「この石垣は舞阪宿の東の入口にある見附で見張り所の役目を果たしていた」とある。
石垣で敵を防いだというのでなく、見附の印として石垣を組んだのだろう。それにしても
この舞阪宿には枡形が見当たらない。これでは敵が勢い良く宿場の中に入ってしまう。

更に64(68)里目の舞阪の一里塚は見附の内側にあった。これも一里塚は宿場の中に作らない
と書いてあった場所(沼津)とも違う。きっと小さな宿場は命令を融通無碍に解釈してもお咎めは
なかったのだろう。

            

舞阪の脇本陣は現存していて無料公開されている。当初見学をする予定だったが何故か舞阪に
着いたのは、予定より1時間も遅れて4時近くになっていた。公開時間は4時までなので諦める
しかない。未練がましく玄関間から中を覗いていると、係りの女性(お婆さん)が気さくに声を掛けて
パンフレットを手渡してくれた。
私は今までこの脇本陣は昔の建物がそのまま残っていた物と思っていたが、どうやら違うようだ。
パンフレットによれば「上段の間があった書院棟が残されていたので、建物を再現した」とある。
それではこの玄関は再現された新しい建物なのだろう。
別にそれでどうというわけではないが、フーンそうなんだといった感じになった。
パンフレットを読んで一つ憶えた。本陣は平屋で門、玄関、上段の間がある。
脇本陣は大旅籠を改造した物が多く、そのため2階建てが少なくない。本陣と同様に門、玄関の
両方か、あるいは一方を構えた。また、平常は旅籠を営んでいた」となっていた。
そのため舞阪の脇本陣は唐風な玄関はあるが門が無いのだ。納得。

静岡県の東海道5-4

2011-04-14 10:58:25 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」5回目-4  2011/3/30

袋井駅 ― 袋井宿 ― 木原一里塚 ― 見付宿 ― 宮之下一里塚 ― 天竜渡船場
 6:00      6:10       9:42       7:45      9:16        10:08
         0.6k       2.9k       8.5k      13.4k        17.1k
 
― 中野町 ― 浜松宿 ― 八丁畷 ― 春日神社 ― 舞阪宿 ― 新居町駅
  11:15     12:42      13:38     15:13     15:50    16:43
  21.1k     28.7k      31.1k     4.05k     42.9k    47.6k

                       浜松宿へ(中野町)

天竜川を渡るのに苦労してしまった。
3本ある橋の何所に歩道があるか分らず、まず池田の渡船場から下ってきて、最初の
国1バイパスの上り線の上に土手を登って出たが歩道は無い。
次に隣の下り側はと見るが、よく見えない。横断したくても道は分断されているので歩く
事が出来ない。仕方なく土手を降りガードを潜って今度は旧国1の土手を登ってみたが、
やはり歩道は無い。だがその先のバイパス下り線の横に歩道が見えた。
しかしここは横断禁止になっていた。でもガードレールは足の短い私でも跨げそうだ。
車の流れを見計らって強引に横断するか----
止めましょう横断禁止の所を渡るのは。ならどう行くのか。分ってしまえば簡単で、
池田からの堤防を下ってきて、最初に堤防を降りる車道を道なりに下る。次にある
バイパスの信号を渡り右折すれば橋に続く歩道がある。
では私はどうしたかったて? 当然有視界歩行をしてしまいました。ご免なさい。
でも私のような方法を取った街道歩きの人は多かっただろうな。

長い橋を渡る。渡りきった橋の袂に案内板が立っていた。読んでみると
「江戸の日本橋と京の三条大橋を結ぶ東海道五十三次は全長500kmの道のりですが、中野町
は丁度その中間にある事から、江戸と京の真中の道「なかのまち」と名付けられました」
またまたありました「まん中」が。なんか嬉しくなってしまう。元祖争いならぬ「まん中」争い。
果たして、いずれが真実か?

中野町にはの入口の立札にも、こんな紹介があった。
「十辺舎一九の東海道中膝栗毛には「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸よりも
六十里、京へも六十里にて、ふり分けの所なれば中の町といえるよし」と記されている」
60里となれば60番目の一里塚も近くにあるはずだ。見付では59里目(63)の一里塚を過ぎて
来たので、もうそろそろある頃だ。どんな一里塚だろう。きっと復元されているだろうな。
期待をしたくなってきた。こうなると元祖争いは中野町を応援したくなる。

だが元祖争いはいずれも静岡の町同士だ。ここはお互いに花を持たせて、こうしよう。
・掛川の中道寺は歩いた時間のまん中で(京と江戸を同時に出発して出会った場所)
・袋井宿は宿場の数のどまん中(54÷2=27)
・中野町は距離から押した真ん中だ(60番目の一里塚)



天竜川を南に少し下った所に神社がある。そこに明治天皇の記念碑が立っていた。今まで
あった記念碑は、明治元年に明治天皇が初めて江戸に向かう東下りのときの記念碑だった。
だがここの記念碑は明治11年北陸東海御巡幸の記念となっていた。
明治11年といえば、天竜川に通しの木橋「天竜橋」が完成した年だ。
きっと明治天皇はその木橋を渡ったのだろう。
それにしても此処の記念碑は大袈裟な名前が付いている。「玉座迹」とか「明治大帝御聖跡」
案内板も「明治天皇玉座迹の碑」となっていた。

堤防を降りて神社の横には先ほど紹介した立札が立っている。その立札の下には「中野町道路
元標」の石碑がある。説明によると道路元標とは「市町村の道路の起点終点を示した物です。
大正九年施工の旧道路法により、各市町村に一ヶ所の設置が定められていた」とある。
だが道路の起点や終点がない中間の村はどうしたのだろう? 更にこんな表現も
「ここにある中ノ町道路元標は中ノ町村の起点を示すもので、当時の規格に忠実に作られてい
ます」何々道の基点ではなく村の基点? 更に忠実に作られていると云う事は複製品なのか?
まだ書いてある「市町村の数と同じ12244基が設置され、現存する物は全国で1600基ほど、
静岡県内では、おそらく唯一の、たいへん貴重なものです」となると本物か?
短い説明だったが幾つもの?を感じてしまった。

家に帰り中野町の道路元標を調べたが、本物かどうかハッキリしなかった。
だがこんな事も書いてあった。
「中ノ町道路元標となってるが、正しくは中ノ町村のようです」-------

             

立派な門構えの家は金原明善の生家で道の反対側には記念館もある。
金原明善とは天竜川の二宮金次郎と言うべき人で、天竜川の洪水を何度も経験した事から、
私財を投げうって堤防の補強に努めた。また洪水を防ぐには山に植林する事だとして、天竜川
上流の植林にも励んだ。これは現代の「緑のダム」の先がけだと云えそうですね。
また現在天竜美林と賞賛されているのは、この時の植林の成果だそうです。

明善は他にも天竜川最初の木橋「天竜橋」の完成にも寄与しています。
それにしても私財を投げうって堤防整備に力を注いだ割には立派な家だ。

ここまで大きな川は富士川、安倍川、大井川、天竜川と渡ってきたが、それぞれ堤防はあった。
それは当然なことで富士川の雁堤は延宝2年(1674)、安倍川の薩摩土手は慶長11年(1606)、
大井川の天正の瀬替えは天正18(1590)に大きな改修工事を行っている。
だが何故かこの天竜川の堤防だけが明治時代と新しい。
浜松と言えば家康も住んでいた浜松城もあるのに?

面白い話を見つけた。浜松城は別名出世城。家康は元より藩政260年の間に25代の城主が誕生
して幕府の要職に就いた者も多く、老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人などを輩出した。
だがこの城主たちは自分の出世の事しか興味がなく、浜松藩内の内政には目もくれない。
当然莫大な経費がかかり即効性の無い堤防整備などに一顧だにしなかった。
そのため天竜川の本格的な河川改修は金原明善の時代にまで遅れてしまった。

現代でもそうですよね。警察や税務署などのキャリアたちが、若く何の経験も無いのに署長に
なり、在任中はただ失敗をしないように前例主義に徹しいる。こんな悪癖がこの時代から、ズート
引継がれてきたのかと思うと情けなくなってくる。



金原明善の生家より少し西の右側に、姫街道の起点の案内板があった。この露地は昔の道標
では「従是鳳来寺」となっていたが、姫街道の入口で安間口だったと書いてある。
となると姫街道は東海道と同じく池田の渡しで天竜川の西岸に渡り、この安間口から姫街道に
入ったのか?
姫街道を歩き出す前に調べておかないといけないな。

期待していた60里目の一里塚の所在が分からず地元の人に聞いてみた。しかし「ある事は
知っているが何所にあるかは分らない」とつれない返事。しかし諦めるにしては惜しすぎる。
すると「おーい! ここにあるよ」と先ほどの人が手招きしている。
戻ってみると ありました。ありました。写真のような案内杭が1本だけ。

誰だ!立派な一里塚が復元されているかもしれないなんて期待した奴は。
アーア折角応援したくなったのに、そんな気持ちは一遍にしぼんでしまった。
十辺舎一九も「ふり分けの所なれば中の町といえるよし」とわざわざ書いた甲斐が無いだろう。
ガッカリしついでに文句も言ってしまえ。
中野町と中の町では意味が違う。ここは中野町になった時点で宿場町競争に負けたのだ。

    

JR天竜川駅の入口の所にお宮の松の説明板があった。イエイエ紹介する程のことは無い。
ただお宮さんの境内に大きな松があったという事だけ。金色夜叉のお宮の松とは、縁もゆかりも
なかった。
それより神社の入口にあった秋葉山の常夜灯。ここでは鞘堂と説明している。
石灯籠と常夜灯の違いはさておき、常夜灯と鞘堂の違いは何だ。外観は袋井や磐田にあった
常夜灯となんら違いは無い。中を覗いてみると灯篭はなく神棚が見えた。
鞘堂とは建物を風雨から保護するため、外側から覆うように建てた建築物で、中尊寺金色堂が
有名だ。ではここの鞘堂は何を保護しているのか、神棚か?

中野町を過ぎてから面白くない道が続いている。東海道筋の都市は何所も戦災で焼けてしまって
いるので仕方ないが、矢張りこれでは面白くない。面白くないので疲れも出てくる。袋井から
ここ琵琶橋まで既に25kmも歩いている。見付宿からだって16kは歩いているのに、まだ本陣には
着いていない。全く嫌になる。しかも浜松警察署の近くにあるはずの馬込一里塚跡の標識も
見当たらなかった。全く泣き面に蜂だ。

馬込川の橋を渡る。この馬込川はむかし天竜川が流れていた跡とのことだ。
こんな町中を暴れ天竜が流れるようでは浜松に国府ができなかったはずだ。
左側に高いアクトタワーが見えてきた。浜松は県庁所在地の静岡より人口も多く、このタワーが
できる頃は完全に静岡を凌駕する勢いがあった。
だが最近はその勢いがすたれアクトタワーには空室が目立ち、駅前のデパート跡は幽霊ビルに
なっているという。いま行われている統一地方選挙でも浜松は政令都市で初めて無投票で市長が
決まってしまった。何とも情けないことだ。
浜松人の持つ「やらまいか精神」で是非勢いを取り戻して欲しい。

             

連尺町の交差点を右折するとやっと本陣跡に辿り着いた。
場所はビル街の一角で面白くも何と無いが、ともかく浜松宿に付いた。余りにも長く感じたので
見付からの距離をGPSで見てみると16.5kmとなっている。では江戸時代の里程標はというと
四町七里で、なんとGPSと同じく約16.5kmだった。
余りにもドンピシャリで驚いたが、これはたまたまの偶然だろう。それにしてもこの宿場の
間には天竜川があるのに長すぎないか、大井川も安倍川も川の近くに宿場があり、富士川には
間の宿があった。それがここでは東岸には長森の立場と池田の渡し。西側は中ノ町があったが
いずれも宿は無いようだ。
これでは天竜川の川止めのときはどうしたのだろう。折角川辺まで行ったのに、また見付や
浜松まで戻らなければならなかったのか。そんな馬鹿な!旅人は怒ってしまうだろう。
若しかして池田や中ノ町でも内緒で旅人を止めていたのではないだろうか。

後で調べると見付・浜松間は宿場間の距離が東海道で一番長かった。