はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

宝永山2

2013-08-30 12:56:10 | 低山歩き
 水ヶ塚からの始発の2台のシャトルバスには、ほぼ満員の80人位の登山者が乗っていたが、バスを降りると
すぐ登山を開始する人、トイレに行く人、ラジオ体操を始める団体などでバラバラになる。
広い富士山の事なので私が5合目の標識を歩く時は周りに人はいなかった。

 
  火口縁から山頂方面                           火口縁から宝永山

 最初はユックリと歩こうと意識したが、この齢になるとユックリしか歩けない。それでも海から登った時より
広い歩幅で6合目までは立止らずに歩く事ができた。
6合目から宝永火口入口(宝永第一火口縁)までは若干の下り坂で、さらに火口底までも楽な下りだった。
しかしこの先からは私の苦手とするダラダラ・ズルズルの火山礫の道になる。

私は宝永山の底には何回も来ているが、いつも御殿場側からの下りばかりだった。その理由はルート設定上
仕方ないと思っていたが、心の奥にはこの火山礫の道に恐れを抱いていた事もある。
海から剣ヶ峰も樹林帯の中の御殿庭までは、ある程度快調に歩けるが、その上の火山礫の道で体力を消耗してしまい
6合目にはやっと到着する状態なので火山礫の道は嫌いだった。

 

 火口の底にある標識に「宝永第一火口 標高2420m」とある。バス終点の5合目が2400mで6合目は2490m
そしてこの火口底は2420mだから多寡が知れた高低差だ。
だがこの先の宝永山の標高は2693mで一気に273mを登ることになる。イヤダナー!
もう一つの標識には「富士宮6合目15分 宝永山50分」となっているが、果たして1時間で登れるだろうか? 

 バスのエコボランティアの人が「昨夜は富士山や富士宮は強い雨が降っていた」と云っていたが、その所為か
火山礫は色は黒く湿っていて、締まっているように感じる。お蔭でダラダラ・ズルズルが思ったより少なく楽に感じた。

 
  火口壁                              むかし攀った恐竜の背鰭のような溶岩壁

 御殿場側に近づくにつれ火口壁が良く見るようになった。火口壁の一番上は2・30mほどの絶壁になっていて、
その下は垂直に立った溶岩壁が何列か見えている。
この溶岩壁は近づくとまるで恐竜の背鰭のような感じで、昔この垂直面は登ることは出来なかったが背鰭の上の
瘠せ尾根のような所は登る事ができた。
今ではあの場所に行く元気も、例え行けたとしてもあそこを攀じ登る元気は無い。
それが今から52年前に御殿場口7合5勺砂走館でアルバイトをしたときは、時々一人で行ったり、知人が山小屋に
泊まったときは案内までしていた。
だが今はどうだろう? 山開きの間は登山道以外なので当然立入禁止だろうが、それ以外は自己責任で行っても
いいのかな? 山頂のお鉢も冬季はスキーで滑り降りる人もいるらしいのだから。

 もう一つ隠していた良くない思い出があるが、50年以上も前の事だから既に時効と云うことで白状します。
山小屋が暇になる下山客が途絶えた夕暮れ時になると、小屋から容易に行ける火口の上部にはよく行った。
最初は景色や火口の中を眺めるだけだったが、そのうち溶岩を火口の中に落とすようになった。
だが小さな溶岩だと火口に落ちても、砂のような火山礫の抵抗を受け一瞬砂埃を上げるだけですぐ停まってしまう。
これでは面白くないと、落とす岩はだんだん大きくなり、最後に落とした溶岩は私のヘソ辺りまである丸みある岩だった。
当然持ち上げる事は出来ないので、転がすように押していくと突然抵抗が無くなり、たたらを踏むような感じになった。
何とか体制を整え危うきを免れて火口を覗き込むと、大岩は「ドスン」と音を出して着地した後、砂埃を上げながら落下していく。
ヤバイ! このまま落下していくと登山道まで達してしまう。
登山者がいない事を確認して落としたのだが一瞬ひやりとした。
なんとか岩は登山道の大分上で停まってくれたので助かったが、それ以来落石ごっこは止めた。
その大岩はその年は判別できたが、翌年になると分からなくなってしまった。きっと火山礫が埋めてしまったのだろう。

          
       登山道に薄い影が見える                      宝永山と馬の背の分岐

 今日はガスの流れが速く山頂が見えたと思っていると一瞬のうちに見えなくなってしまう。だがガスの上は
青空で太陽が出ているので自分の影が薄っすら見えている。
この影の先が雲海ならブロッケンの怪になるのかな? イヤ頭の先が虹や光で包まれていないのでそれは無理だ。

 御殿場側の火口縁の馬の背と宝永山への分岐点に到着。
少し前までは宝永山に行く道はほんの踏み跡に過ぎなかったが、今や本道に負けないくらい太くなっている。

 

 宝永山に8時10分に到着。火口底からは標識に書いてあった通りの50分掛かってしまった。
標識の通りなのだから標準と云うかもしれないが、正直これにはショックだった。口では「歳には敵わない」等と
言っているが、腹の底には「まだまだ負けない」という気持ちが残っている。
少し前までなら標識のタイムの7割か8割の時間で歩けたので、50分なら少なくとも40分以下で歩いていた。
ここでも口では1時間とか言っていたが、実際は50分を少しでも短縮しようと思っていた。
これから山行の計画をたてる時は十分注意しないとゴール前に暗くなってしまう。気を付けよう。

 6合目を出てから宝永山までは周りに人影の無い貸切の山だった。いつもならこの宝永山も休憩する人がいて
登山者を入れないで標識を写すのは大変なのだが、今日はこの通り何処を写しても人影はない。
そうだ標識に書いてある宝永山の標高の覚え方を知人から聞いたので紹介します。
宝永山の標高は「2693m」これを富士山剣ヶ峰の「付録の山」つまり「2(フ)6(ろ)9(く)3(さん)」と
とすれば覚えやすい。なるほどね。

ところで剣ヶ峰の「3776m」の覚え方は、私は「皆南無」山で「3(ミ)7(ナ)7(ナ)6(ム)」山と覚えてきた。
だが妻に言わせると、富士山のように「皆なろう」だと云う。これは「3(ミ)7(ナ)7(ナ)6(ロウ)」となる。
ウーンどうもこちらの方が説得力があるな。さらにもっと素敵な覚え方もある。
それは「皆な和む」で「3(ミ)7(ナ)7(ナ)5(ご)6(ム)」で、これなら3775.6mと10㎝単位まで覚える
事ができる。ウン!これが一番だ。

     

だがチョット待った! 剣ヶ峰の写真の三角点の位置より、左側に見える岩の方が高く見えますよね。
三角点は必ず山の一番高い所にあるのではないので、この3775.6mは真の富士山の高さでなく富士山の
二等三角点の高さです。
では富士山の一番高い所の標高は(写真の岩より高い所があるらしい)3776.2mだそうです。
そのどちらも四捨五入すると3776mになるので、一般的に富士山の標高は37776mだそうです。

と、なると知ったか振りをして「皆和む」などと云っては、突っ込まれるかもしれませんね。
矢張り富士山は「皆なろう」で宝永山は「付録山」と覚えた方が良さそうです。

宝永山

2013-08-28 09:42:23 | 低山歩き
余りの猛暑続きで遠出する気にもなれず近回り専門でしたが、そろそろ夏休みも終盤なので孫を連れて
富士山の御殿庭を歩いてこようと孫に声を掛けました。
ところが「夏休みの宿題がまだ終わっていない」とつれなく母親である娘に断られてしまいました。
一人で行くとなると御殿庭だけではもったない。それでは水ヶ塚まで車で行って、そこからシャトルバスで
富士宮新5合目まで行く、その後は
富士宮新5合目 - 宝永山 - 大砂走り - 御殿場2合8勺 - 御殿庭 - 幕岩 - 御胎内
-水ヶ塚 と、水ヶ塚から5合目までシャトルバスが出ているこの時季ならではの計画をたてました。

27日午前3時に家を出て十里木経由で水ヶ塚に着いたのが5時10分。5合目行の始発のシャトルバスは
6時なのに随分早い到着になってしまった。
駐車場は広くて把握しにくいが、駐車場の中は1/4か1/5しか車は停まっていなかった。
駐車代金は24時間で千円。我が藤枝駅前の駐車場は24時間で800円程度。こんな山の中で千円とは
安いのか高いのか? 
バスは6時の始発のあとは30分間隔で最終が22時。料金は片道1120円で往復だと1300円と随分割安と
なっている。これはきっと行きは急な登り坂で燃費が掛かるので高くなっている。と思ったが、いや違う。
3年前の海から剣ヶ峰で新5合目から水ヶ塚までバスに乗ったが、その時の片道料金も高かった。
バス料金は国交省の認可が必要だろうが、こんなに格差があってよく認可されたものだと腹が立つ。
もっともこの腹立ちは、往復券を買う時は儲かったとほくそ笑む程度の腹立ちだったが。

バスの中で富士山エコボランティアの人が富士登山の注意事項を説明してくれた。
・ゴミは捨てない。物は落とさない忘れない。
・登山は登り優先だが渋滞するヶ所ではお互い譲り合って。
・登山道外に出ない。・トイレは有料トイレを利用する。
など常識的なものが多かったが、初めて登山する人もいるので良い試みだと思った。
その中でこんな話もあった。
・最近は金剛杖でなくストックを使う人が多くなったが、ストックの先には必ずゴムを付けてください。
 年間30万人も登る富士山は、あの尖った金属で突っつかれ悲鳴をあげています。
私は富士山は四国遍路のとき使った金剛杖を使用しているが(今日はストック)低山歩きではストックを
使っている。以前ストックの先のゴムが無くなり、尖った金属剥き出しで使った事があるが、
その尖った先が土の中に刺さってしまい、抜くのが面倒だったり、舗装道路では「カツ・カツ」と音がして
うるさかったのを覚えている。
なのにゴムを付けないでストック使っている人は、何のメリットを感じているのだろう?
岩場で狭い窪みに差し込むことができるからなのか?

6時30分に5合目に到着。水ヶ塚から歩けば4時間以上かかるのに、たったの30分。
1120円は高くはなかった。かな。

 新5合目にある「富士山総合指導センター」の前に係員が立っていたので
「今年の富士宮口の登山者は多いのですか」と聞いてみると
「今年は非常に多いですよ」と意外な返事が返ってきた。
実は今年の富士登山者数について7月に朝日新聞ではこんな風に報道をしていた。
「世界遺産効果 静岡側登山口に」として、例年より登山者が増えた割合が一番多かったのが
須走口で、次いで御殿場口、富士宮口となり吉田口の増加率は一番少なかった。
記事ではその原因として「混雑をする吉田口が敬遠された模様」と書いてあった。

それが最近掲載された「富士山探訪」という登山家のコラムには「平日の朝はガラガラ」の大見出しで
「「水ヶ塚駐車場はガラガラで、朝一番のシャトルバスの乗客もまばらです。
「今年は、登山客は少ないですよ」と5合目の富士山総合指導センターの係員から聞きました。
増えているのはご来光を望む夜間登山で、東京から近い吉田口に集中しているのかもしれません」

と書いてあった。
記事とコラムでは違うのかもしれないが、同じ新聞紙上に載せるならもう少し検証すべきだと感じた。

それが同じ富士山総合指導センターの係員が今度は「多い」と言っている。
質問の仕方が悪かったと思い、新聞に掲載されていた事を説明すると今度は
「まだ集計は出ていないが、この5合目に観光バスなどで訪れる観光客は増加しました。
だけど山小屋の人の話では登山者数は減ったと言っている」
との事だった。
これは勘ぐれば、7月に出た「世界遺産効果 静岡側登山口に」の記事で、吉田口を避けた
登山者が、また吉田口に戻ったのではないのだろうか。
だが最近の記事で「今年の夏山シーズンに、山梨県側の富士山6合目以上に登った人が23日20万人を
突破した。これは昨年より2日遅く、過去最多の登山者数だった2010年より3日遅い」
と載っていた。
こうなると何が本当なのか分からなくなる。

係員との話題が入山料になり、私が「来年から宝永山も入山料を払うのですか」と聞くと
「まだ何も決まっていないが、宝永山や5合目に来た人からは貰わない案もある」 と言う。
この話は海から剣ヶ峰で泊まった時の山小屋の人も心配していて
「県は山頂に登る人からだけ入山料を取るらしい」と言っていた。それに対し私は
「じゃ8合目に登ると言って山頂に行った人や、山頂に行く予定で途中で断念した人はどうなるの、
だいたい8合目から上は県のものではなく浅間大社のものなのに、そこに入ったからといって入場料を
取る資格が県には有るのかな」
などと言ってしまった。
実はこの話を海から剣ヶ峰では紹介しなかったのは、幾らなんでもこれは山小屋の人の勘違いだと
思ったからだが、いまこのセンター人の話を聞くと満更山小屋の人の勘違いでもなさそうだ。

私の個人的考えでは入山料は富士山スカイライの登山区間以上に入る人からは全て取るべきと思う。
登山区間の道路の維持管理費、あるいは道路沿いで起きる風倒木の対策費も必要だし、私のように
御殿庭を歩く場合でも山道の維持費が必要だ。
ただ問題はどのようにして入山料を徴収するかの問題はあるが----
いずれにしろ入山料は取る事は決まっているが、まだその方法などは白紙の状態なのだから、一部の
人間で決めるのではなく、広く意見を求めるべきだと思う。
そうそう意見と言えば「静岡と山梨県民は県民税を払い、登山道などの保全をしてきたのだから
入山料は無料にすべきだ」
と言う意見を聞いた時は、思わずニヤリとしてしまった。
確かに一理はある意見だと思った。

 
      5合目の看板                    雨だったせいか植物が勢いよく見える

まだ歩き出す前からダラダラ長くなってしまった。
明方まで残っていた雨も今はすっかり晴れて気持ちの良い登山日和になりそうだ。



大井川・はばたき橋開通

2013-08-11 11:55:45 | ウォーキング
8月3日(土)大井川に新しい橋「はばたき橋」が開通しました。
名前からも判断できるよう、この橋は富士山静岡空港の焼津・藤枝側の入口になる橋だが、島田側の土地の
収用問題がこじれ、空港開港から4年も経ってようやく開通した橋です。
空港本体も県の不手際で色々揉めた末に開港したが、どうもこの空港は最初からケチの付き通しだ。
県民の反対を押し切り、約1900億円の巨費を投じて建設した空港も、今でも県の役員以外の予測した通り
毎年赤字を発生させている。
お蔭で、はばたき橋の開通が遅れても搭乗者に対しては特段の支障はなかったようだ。

それでも地元でははばたき橋の開通により、橋より1.7km下流にある国道150号線の富士見橋の渋滞緩和に
役立つと感じているようです。

はばたき橋の地図
(地図では橋は掲載されていないが、日清食品の横から島田のあじかん横に橋があります)

 今日のウォーキングは、はばたき橋から静岡空港の東展望台までのルートを探してみようと思います。

 
       焼津側から                          はばたき橋から大井川河川敷

 はばたき橋は開通2日目の早朝と云うこともあり交通量は少なかった。橋の上から下を見ると私のホームコース
大井川リバティマラソンコースの赤いウレタン舗装が見えている。下流に見える橋は東名高速の大井川橋で、
はばたき橋はこの東名と新幹線の鉄橋の間に位置している。

 はばたき橋の看板の下に橋の竣工年月のプレートが嵌め込まれていて、そこには「平成22年1月完成」
なっている。でも開通したのは昨日の平成25年8月3日。すでに3年以上経ってしまっている。
これは土地買収が済んだ焼津側から橋を造っていき、橋は大井川を渡り島田の堤防の上まで出来たが、
その先は土地が未収用で工事がストップしてしまった。
それから3年間この橋はただ風雨に晒されていたに過ぎない。一時は歩行者が通行止の柵の横から橋に
立入りできたので時々散歩コースにしていたのだが、いつの間にかそれも禁止になり頑丈な柵になってしまった。
理由は「危険なため」と書いてあったが、車も走らない立派な道が何故危険なのか分からず、橋を管轄している
島田土木事務所に理由を聞こうとさえ思った。
マー聞いたところで本音は、お役人の責任逃れと分かっているので止めにしたが。

 
                                      島田側のはばたき橋

 竣工プレートと云えば島田側の堤防の先の中河橋には「平成25年4月完成」のプレートがあった。
これで3年間のブランクは分かるのだが、この橋の事情を知らない人が2枚のプレートを見たらどう思うだろうか?
思わずニヤリとしてしまった。

 

 はばたき橋を渡り、そのまま県道を直進し井口交差点を更に直進すると「初倉茶産地」の看板がある。
そこを右折して高台の八幡神社を目指したのだが、今回は道の説明は図だけにして、後は初めて知った事を紹介したい。

その1番目は「川中島八兵衛」碑について。
川中島八兵衛は紀州の生まれで、元禄のころ志太(島田・藤枝・焼津)地方に訪れたが、当時、志太地方は
大井川の氾濫で疫病が蔓延することが多く人々は困っていた。
その時八兵衛の行動には色々の説があるようで
1・「自分の死後に祀ってくれれば、川の氾濫を防ぎ疫病がおきないようにする」と言って集落を回った。
2・疫病発生の折、八兵衛の薬により助けられた人々の感謝の念が供養塔建立につながった。
3・大井川の堤防構築のとき八兵衛が人柱になった。  などがある。
この八兵衛の碑が志太地方に60基もあるそうなので、興味を覚え資料を図書館で調べたり、歩きながら石碑があると
確認したりしている。
ここ島田市船木の八兵衛碑は前回の飛行場ウォークで見付けたんだが、図書館の資料には
「大井川の西には島田市の谷口辻にある1基だけ」
となっていた。
そこで今日は地元の人に話を聞いて確認しようと思っている。

 
       八兵衛碑                         沢川と八兵衛碑

 タイミング良く八兵衛碑の前の家の庭に人がいた。図々しく声を掛けて色々聞く事ができた。
1・ここは島田市船木南原で谷口辻とは方向が違う。
  (それでは此処に有る碑は資料以外の八兵衛碑なので新発見だ)
2・八兵衛さんは以前は丘の上にあったが崖崩れで埋まってしまったので新しく立直した。
  (八兵衛碑の多くは川の堤防や寺の中が多いとあったが丘の上にもあるとは)
3・八兵衛さんは水害防止と道中の安全を守ってもらうため、組内で毎月お詣りをしている。
  (道中安全と云っても、ここは街道もない山の中、何の道中なのか?)
4・この辺りは高台なので水に浸かる事はないが、沢川の下流の八幡神社下は土地も低くよく浸水した。等々
  (沢川は小さな川で、とても水害など発生しないように見えるが、下流にある八幡神社の下で他の川と
   合流しているのが略図でも分かる。これで氾濫したのかもしれないな)

それにしてもこの地区の人は信心深い。自分たちの地区の為でなく下流の地区のため八兵衛碑を新築し、更に
今日も碑の前には新鮮な生花が供えられている。道中安全とも言っていたがもっと深く話を聞くべきだった。

こんな調査をしていけば、何時かHPに「川中島八兵衛」と名付けたページを開設できるだろう。
完成の目途は何時になるか分からないが、これなら古稀を過ぎても歩きながらの調査ができる。

 船木の八兵衛碑からは谷口橋からのルートと同じ道を東展望台まで歩きます。因みに
はばたき橋 ~ 東展望台までは 約7km 1時間30分
谷口橋   ~    〃       約8km 1時間50分
富士見橋  ~    〃       約7km 1時間30分

どの橋からも大差は無いが、距離は若干長いが交通量の少ない谷口橋からの道がお勧めです。
さて、東展望台に着いたのが8時50分。次の飛行機は11時5分に福岡からの到着便になる。
2時間以上ここのいるのも馬鹿らしいが、どの道で帰ろうか?
そうだ橋やJRの駅からのウォーキングコースは紹介したが、飛行場を一周するコースは紹介してない。
一周するコースがあればターミナルや東展望台に車を置いてウォーキングができる。
ヨシ!今日はその下調べをしよう。
と、来た道を八兵衛碑まで引返し、そこからゴルフ場の方向に行き「静岡空港入口島田」交差点から
直線の急坂の続く県道を「富士山静岡空港」交差点まで歩きます。
ザックの背に吊るした温度計がナント45℃を指していましたが本当でしょうか? 幾ら直射日光が当たる
背中とは云えども45℃は信じられなかった。それでも熱中症におならず無事静岡空港に到着。



 赤線のルートが今回歩いた道で、本当はゴルフ場の内側を歩きたかったが見付けられませんでした。
略図下の青線は坂口神社からビオトープにある溜池まで山道になります。しかし道が滑走路のすぐ横に
あるので着陸や離陸する寸前の飛行機を見る事ができるのでお勧めです。
この一周コースは空港から坂口神社の山道経由東展望台までが約1時間10分。東展望台から八兵衛碑経由で
2時間です。合わせて3時間10分ですが、休憩時間を入れてないので適宜加算してください。

志太地方ウォーキングコースもいつかHPにアップする予定ですが、果たしていつになる事やら------

何度も歩いている道ですが今回初めて見た物を紹介します。
場所は略図の上の方の丁度新幹線と交差する場所にある「東泉寺」です。
この寺の裏に「畑の谷の貝化石」の看板があるのは以前から知っていたのですが、余り人通りが無い
道で確認してありませんでした。それが今日は寺の境内に人の気配がしたので早速聞いてみました。
「畑の谷の貝化石は、看板のある細い農道を登って行くと狭い沢がある。その沢の石に貝の化石が付いて
いて子供の頃は良く拾ったものだ。今でも行けばあるかもしれないが最近は行った事がないので分からない」

と寺の大黒さんらしき70代年配の女性が話してくれた。さらに
「以前寺の踏み石にしていたので汚くなっているが、これが貝の化石だ」と植込みの下の石を指さした。
確かに黒っぽくて、あまり明確ではないがシジミかアサリのような小さな二枚貝が幾つか見える。
以前島田の蓬莱橋で見た貝の化石とは比べ物にならないが貝の化石に間違いないだろう。
瞬間拾いに行ってみるかと思ったが今回は止めた。夏草が生茂り湿った所の好きな蛇がウヨウヨしていると
困る。いつか冬に来たとき確認しよう。

   

今日の歩行距離はJPSで35.4km。歩数計で32.5kmでした。



大崩山塊・虚空蔵山5

2013-08-07 11:40:43 | 寺社遍路
 那閉神社の境内社の一つに「須藤左門が眠る青木神社」という祠が祀られていた。そこの案内に
「戦国時代の駿河では、たびたび武田と徳川の合戦が繰返されていました。天正9(1581)年、浜当目近くの
青木の森(現サッポロビール近く)付近で、用宗(持舟)城にいる武田勢と徳川勢とで争いが起きました。
そのとき武田の武将として名高い須藤左門は、次々と徳川勢を打倒し、徳川勢の石川という将兵と槍を
あわせました。
この石川と云う武将は初陣の若者であるため、須藤には勝てるはずもなく、あっさりと組み敷かれてしまいました。
須藤は石川の首を取ろうとしたが、石川の余りの若さに故郷の息子たちの顔と重なり、そのまま背を向けたとき
後から討たれてしまいました。
 須藤を討ち取った手柄から石川家は旗本の身分に出世をしました。しかし何代後かの石川家の当主が、
駿府城に行くたびに急死をするので、須藤左門の怒りを鎮めるため石祠を造り、青木の森に祀りました。」

と紹介されている。

この話は以前「焼津の昔話」で読んだ事がある。その昔話は、ここの案内と少し違うので紹介しておきます。
「今から四百年ほど前のお話です。
天正6(1578)年から10年ごろにかけて、当目山の麓で、武田軍と徳川軍が、何回となく戦いを繰りひろげました。
そんな戦いのおり、武田の家来の中に須藤左門という強い侍さむらいがいました。この日も40騎ばかりの敵を討ちとり、
続いて石川右京という武将と戦いはじめました。
逃げる右京を青木の森に追いつめたとき、左門は木の根っこにつまづき、ドーッとばかり倒れてしまいました。
右京がこれ幸いとばかりに切りかかろうとすると、左門は、「汝、武士の情けがあるならば、われ起き上がってのちに
堂々と戦え」
と叫びました。右京はこれを聞き入れず、ついに左門を討ちとってしまいました。
右京はこの手柄により、駿府城の守りをする役につき、しばしば東海道を往来することがありました。
ところが、いつも岡部宿あたりまでくると、なにか胸さわぎがするのです。心配になって岡部宿の易者に占ってもらうと
「先に討ちとった左門の霊がたたっている。三輪石(岡部の三輪)で碑をつくり、当目の寄鼻という所に祀れば
許されるであろう。」
と言われました。
右京は、さっそく三輪石で高さ70cmぐらいの祠をつくり、寄鼻に運ぶことにしました。人夫に担がせ、青木の森まで
来たときです。不思議なことに急に祠が重くなり、一歩も進むことができなくなってしまいました。
しかたなく右京は、祠を森の中に建てることにしました。きっとここが左門の最後の地だったのでしょう。
今では青木の森もなくなってしまい、石祠も浜当目の那閉神社の境内に移されています。そして「青木さん」とよばれ、
赤ちゃんの夜泣き、ひきつけに効きめがあるということで、近くの人々がおまいりに来るようです」

どうです少し雰囲気が違いますよね。
これらの話以外にも、徳川軍が詭計を謀り、少人数で用宗城を攻めると、調子に乗った武田軍を青木の森に
おびき寄せて討ち取ったなどの話もあった。

果たしてどの話が史実か。
文政3(1820)年に駿河全郡の詳細な実地調査を繰り返し、丹念に考証した地誌「駿河記」には
「須藤が石川を組敷いたが、所以あって、彼を許しその場を去ろうとする時、不覚にも石につまずいて転んでしまった。
そこに石川がやってきて容赦なく槍で左門を討ち取ってしまった」
 と記されている。
「所以あって」の所以とは、若い石川を見て、須藤左門が故郷の子供のことを思い出したのか?
と、なると案内板と焼津の昔話を合わせれば駿河記の話に近くなるな。

 石川家は駿河加番4千石となったが、6代目、7代目と不慮、不遇の早死にをした。8代目石川右京が
「早死にするのは須藤左門の祟り」と思い込むようになり、青木の森に石宮を勧請した。  
それは1581年の戦から173年後の1754年のことだった。
更に青木の森から那閉神社に祠が移されたのは明治の初めころと云う。

 虚空蔵山の帰りに青木の森があったサッポロビールの焼津工場に行ってみた。
広い敷地の周りをグルリ歩いて行くと、工場の東側(焼津側)で150線に近い場所に神社があった。
だが神社は高い金網に仕切られた工場の中なので近くには行けない。
多分そこが須藤左門が討ち取られた所で、祠があった場所なのだろう。

 しかしその場所に立つと少し疑問が湧いてきた。ここから直線で北東1.8kmの所には花沢城。東に1kmほどの所には
当目砦があった。そのどちらも武田側の城だった。なのにその目の下の所で徳川勢にやられるとは----
調べてみると花沢城は永禄13(1570)年武田勢が今川の支城だった花沢城を攻撃し開城させている。ただその後
武田が花沢城を改修した史料はない。また当目砦は元亀元年(1570年)武田氏によって築かれたと云われている。
青木の森の戦いのあったのは、それより10年後の1581年だから、花沢城や当目砦に果たして武田軍が駐留していたか
どうかは分からない。

 

 祠の大きさが70cmとあったが実際の祠はその半分程度の大きさだったと思う。また祠が青木の森に建てられて、
この那閉神社に移されるまでの約100年以上は、風雨に晒されていたのだろうが、その割に痛みは無い。
この祠は本当に8代目石川左京が建てた祠なのだろうか?

 那閉神社の先はすぐ海岸だった。海から切立った崖の上の当目山は遠くからでも良く目立つ。
標高126mしかないのに海から立ち上がっている単独峰なので、志太平野や牧の原台地など西からは一目で判別できる。
そうそう静岡空港に最近できた石雲院展望デッキの展望写真には、大崩山塊としては高草山と虚空蔵山(当目山)の
二つの山名が書かれている。それほど小さいながらも自己主張の強い山だ。

この虚空蔵山の最初の紹介で、当目山の名前は「遠くが見えるから」遠目山=当目山と書いたが、これはこれで合って
いるようで、昔、焼津では捕鯨も行われていた古文書もあるとか。またイルカ漁の盛んだった伊豆にも近いので焼津でも
イルカ漁も行われていただろう。そのため当目山から鯨やイルカの接近を監視していた見晴小屋もあっただろう。
しかし「遠くから見える」事も確かで、それから当(遠)目山になったという説にも頷ける。
多分焼津の住民は遠くが見える当目山。近郷の住民は遠くから見えるの当目山と呼んだのだろう。

 海岸に黄色ぽい大きな岩が撤去もされずにある。大崩山塊は太古の昔に海底火山の噴火により隆起したと
読んだ事がある。火山の噴火により海底にあった玄武岩質溶岩が噴出すると、その表面は海水に急冷されて袋状になり、
ゴロゴロと枕を積み重ねたような枕状溶岩となるそうです。
でもこの黄色の岩は枕状溶岩かしら?

     

 切立った崖の横に30mほど沖に向かった突堤がある。その突堤から崖を見てみると何やら穴らしき物が見える。
あれが「御座穴」かしら? となると今立っている突堤は沖にあった「神の岩」に続く砂洲のあった場所なのか?
御座穴らしき所まではとても行けないが、崖に近づいて見ると丸い感じの岩があった。これが枕状溶岩?
これも分からない。御座穴も枕状溶岩も違うから案内表示が無いのか、それとも元々案内をする気が無いのか
一応市民税を納税している市民としては不満の一言も言いたくなる。

       

 本来ならこの海の先にある日本平の上には富士山が見えるのだが、今日は見えていない。
2時間にもならない散策だったが、色々興味を惹かれる物が多かった。これだから初めての所、知らない所に
行って見たくなるのだ。さて次は何処に行こう、近回りは大分歩き回ってしまったが。

虚空蔵山の最後に、ここ海の伝説を紹介します。

「昔、虚空蔵山で山崩れがあり香集寺の鐘が海中に落ちて失われてしまいました。そのため鐘が落ちた海を
「鐘ヶ淵」と呼び禁漁区としました。
ただ、もし1年間不漁が続いて、本当に困ったときは、大晦日に網を入れる事が許されていました。
そんな年は鐘ヶ淵に網を入れると、必ず大漁となって正月の餅代になりました。
それからはこの漁場を「餅米代」と云うようになりました」

   

大崩山塊・虚空蔵山4

2013-08-06 09:52:57 | 寺社遍路
 山頂にあった香集寺の本寺が海側にあるので寄ってきた。
幼稚園を併設した曹洞宗「恵目山 弘徳院(けいもくさん こうとくいん)」はこじんまりした寺だった。
山頂の香集寺は弘法大師が開基なので当然真言宗の寺だったが、天正9(1581)年、徳川軍と武田軍の衝突の際の
兵火にかかり香集寺は全焼してしまった。幸い本尊のみは難を逃れたため弘徳院の和尚が曹洞宗寺院として再興した。
その名残なのだろうか境内に虚空蔵山を見上げている弘法大師の像が建っている。
それにしても曹洞宗の寺に真言宗の開祖の像があっても???

 本堂の裏には昭和27(1954)年アメリカ軍の水素爆弾実験による死の灰を浴びて亡くなった、第五福竜丸の無線長
久保山愛吉さんのお墓があった。ニュースでは読んだり見たりしていたが此処だったのだと手を合わせる。

        

 弘徳院の横に「那閉(なへ)神社」と初めて聞く神社があった。
御祭神は大國主(オオクニヌシ)命と事代主(コトシロヌシ )命で、継体天皇3(509)年に物部氏が当目山・山上に
勧請されたと伝えられ、平安時代中期に編纂された「延喜式(えんぎしき)」神名帳にも記されている古い神社だ。
この神社には色々な説があり、一節には那閉神社は元々は社殿が無く、岡部の神(みわ)神社と同じように
山(当目山)を御神体として祀っていたともいわれている。
また、ある説では海から来た神は、最初当目山の沖合にあった「神の岩(かんのいわ)」に遷座して、砂洲で
繋がっていた当目山の下の洞窟「御座穴」に籠ったとも考えられた。しかし神の岩が大波を受けて岩が崩壊
したため、現在地に奉遷されたという。
してみると神の岩は海辺版の磐座で、天から神の岩に降りた神は砂洲を御神渡りして洞窟に御座したと思えば
ストリーが繋がる。さらに洞窟のあった当目山を御神体にして祀ったのだろう。
そうそう、那閉という聞き慣れない言葉は「波邊」であるという説もあった。

    

 通常なら狛犬がある場所に那閉神社の祭神「大国主大臣」「事代主大神」が迎えてくれる。
これにも面白い話があった。大国主命と事代主命は親子の関係で、親の大国主命は「大国=大黒」で大黒様。
ならば大黒様の子供は恵比寿様になるというのだが、そのこじつけはよく分からない。
しかし大黒様は豊作の神様、恵比寿様は漁の神様で、二人あわせて豊饒の神となって丁度良い。
こうして恵比寿・大黒の民間信仰は生まれたのだろうが、これだけでは那閉神社との関連が分からない。
実は恵比寿様にはこんな話もあった。
「恵比寿さまは伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子供の蛭子尊(ひるこのみこと)が元になっているとされ、足が不自由
だった蛭子尊は、幼少時に親の伊弉諾尊に葦の船に乗せられ海に捨てられてしまい、漂着した地で海の神様として
祀らた。「蛭子」がエビスと読めることから現在の恵比寿様になったといいます
」だそうだ。
してみると神の岩に降神(漂着)したのは蛭子尊になるのだが、蛭子尊だけを祀ってもネームバリューが小さい。
そこで蛭子尊の親の解釈を伊弉諾尊から恵比寿の親の大黒様(大国主)にして宣伝したのだ。
これなら海と山の幸を願う地域の住民にも受け入れられ信仰されたのだと、私の妄想的歴史観は訴えている。

 境内に焼津市の有形文化財に指定された常夜燈がある。高さ3m50cmある市内で一番規模の大きい常夜燈とある。
この燈籠は文政5(1822)年に信州高遠の石工により製作されたもので、元は浜当目村の郷倉の前にあったが
大正時代にここに移転している。
待てよ、信州の石工が作ったとなると信州で作ってから運んだのか? それとも石工が焼津に来て制作したのか?
香集寺の常夜燈には石材が「当目石」とあったが、ここには何の記載もない。
しかし石製の重い常夜燈を信州からわざわざ塩の道(?)を運んできたとは思えない。きっと当目石で作ったのだろう。
折角案内板を建てるのだから、その辺も書いては欲しかった。

       


大崩山塊・虚空蔵山3

2013-08-02 11:30:37 | 寺社遍路
 山頂を見終わり来た道を仁王門まで下って行くと「ホテル→」と書かれた標識が。
若しや----- と思いその道を行く。(若しやの中身は秘密です)
イヤー!大成功でした。若しやの期待は外れたが、山頂では見る事ができなかった展望が開けていた。
手前に見えるホテルが焼津グランドホテルで奥が松風閣。この両ホテルは風呂から富士山が見えるのを売りに
している位だから、今立っている所からも富士山が見えていた。ただ生憎雲が出ているので肉眼では見えても
写真では分かりずらいが日本平の上に薄っすら見えている。

 ホテルの上の稜線が簡保の尾根で一番奥の山が花沢山だ。
左の写真の波打際はかっては「東海の親知らず子知らず」と云われた難所、大崩で、写真の一番出っ張っている
所が小浜集落のある大崩海岸になる。
海岸線の上に見える道は旧国道150号で、今見ても断崖の中腹にある道だと見て取れる。
土木機械の無かった昔では、この中腹に道を作るのは難しく、海岸沿いか尾根道を行くしかなかったと思えた。

 

 焼津から駿府への道を考えると、最初は海岸沿いの道で、それこそ波の合間を走り抜ける「親知らず子知らず」
だっただろう。今では絶壁の下はすぐ海になり、とても海岸沿いには歩けそうもないが、昔の焼津の海岸線は
今よりもっと沖にあったという。それが何度もの地震による地盤沈下で海岸線が後退してしまった。
 現在花沢山の麓にある林叟院は、明応(足利時代)の頃には小川漁港の沖合300m程にあったという。
あるとき老僧が林叟院を訪ねてきて「近々天変地変が起こり、この地は海に没するだろう」と予言した。
それを聞いた人々は半信半疑ながらも林叟院を海から離れた花沢山の麓に移転した。
その翌年の明応7(1498)年この地を襲った大地震は東海地方に大被害を与えた明応地震だった。
焼津付近の被害は大きく「林叟院記録」には「而溺死者大凡二萬六千人也、林叟之旧地忽変巨海也」とある。
26000人死亡の真偽はともかくにしても、8mの津波は堤防も無い時代の焼津には想像を絶する被害となったろう。

 ここから話は私の妄想的歴史観になる。
地盤沈下により親知らず子知らずの道が通行できなくなると、山道として利用していた簡保の尾根道が
焼津と駿府を繋ぐ街道として利用されるようになった。
だが余りにも起伏が多いうえ、花沢山の登りは荷駄を背負って歩く街道としては不適だった。
そこで花沢山に登らず鞍部を通る道が開拓される。それが現在の日本坂峠で、奈良時代には京の都と当国を
結ぶ官道にも指定された。と、思っていた。
だが最近になり、旧林叟院が水没した地震は奈良時代よりズート後の室町時代後期だった事を知った。
また、江戸時代に入っても簡保の尾根の道は駿府と焼津・榛原への近道として利用されていて、その道が
崩壊したとき、焼津の住民は駿府藩に対し援助の申し入れをした古文書も残っている事も知った。
更に海岸伝いの道も昭和の初めになっても利用していたという。
ここまで知れば私の妄想の時代錯誤は明らかで、この三本の道は明治を過ぎても利用されていたのだ。、
海沿いの道は荷物のない地元の人が干潮のときに利用し、簡保の尾根道は静岡の海沿いにある石部や久能
などの人が焼津側の海沿いの小浜や当目と交流するのに利用していたのだろう。
そしてそれ以外の人は日本坂峠を越えて小坂から府中に向かったと考えるべきだと思う。

 今まで簡保の尾根にある砂張屋の道標が花沢山方面に対し「久能山道」となっているのが理解できなかった。
日本坂峠があるのにわざわざ起伏の多い花沢山を越える利点が思い浮かばなかったのだ。いや今でも
その疑問が無くなったわけではない。花沢山の山頂には神社や寺が有る分けでもないので、わざわざ山頂
経由にする必要もない。なら現在の石部峠あたりから、花沢山の中腹を捲く道がある方が自然だ。
今年の春に石部峠から海岸に下る道を歩いたが、峠からほぼ直線に海に下る道で、出た所は入江もない
海岸だった。石部のはまだ大崩の絶壁の下の道を歩かなければならない。
ならこの峠道は昔の道では無いだろう。と、なると山頂越えしかないのか?
でも私の妄想的歴史観は捲き道があった筈と訴えている。

 

 展望台からホテルに向かって下って行くと二つのホテルが間近に見てきた。しかし「これより先 緊急時以外の
立入はご遠慮ください」
の貼紙ですごすごと来た道を仁王門まで引返す事になった。

 「四丁目」の丁目石の所でまた北に向かう広い道があった。少し下るとトイレがあり更に道は下って行く。
若しやこの道は昔の「当目峠」に向かう道なのか、と一瞬思ったが、すぐ期待は裏切られた。
またもやホテルの立札が立ち「これより先は当ホテルのご宿泊のお客様以外はご遠慮くださいませ。支配人」とあった。

 香集寺の入口に戻ったが当目峠が気になって仕方なく、当目山の北側の道を歩いてい見た。
だが簡保の宿は大きく見えるのだが、そこへ行く道は分からなかった。