はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵3回目-10

2013-10-30 11:13:49 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              35番目(40番) 円光院(シロバナクズ)
 新光明寺から新東名の入口まで戻り新しい橋を渡った。この新東名の橋は2段式になっていて、下が一般道に
なっているのは知っていたが、その道に歩道があるのか若干の不安があった。だが心配は無用で広い歩道がつい
ていた。この橋を渡る車も少なかったが、歩道を歩くのは私だけで、涼しい風の吹き抜ける日影の道は最高だった。

 
               新東名安倍川橋                            右岸入口

 安倍川を渡ると、今度は賎機山から北に続いている山脈の途中にある桜峠を越え、山脈の東側の麻機に
向かう。峠といっても桜峠は標高差の少ない峠なので、さほど気にする必要のない峠だ。
 桜峠の手前の鯨ヶ池に到着。この池には過去3回ほど来ているが記憶は何も無く、池を見ても何も思い出せない。
今は釣り堀のようになっている池では、釣り人が何人か釣り糸を垂れていた。

 峠を過ぎて道が下りになった分岐で、新東名の下を行く道に入る。道の両側は相変らず葛がはびこっている。
その葛の葉の中に白い花が見えた。何だろう? 葛の花は濃紺紫色なのに白い色とは。近付いて花の元も見るが
屑の蔓に繋がっている。間違いなく葛の花だ。突然変異か、それとも新しい発見か、と一瞬興奮するが周りには
白い花がチラホラ咲いている。こんなに咲いているようでは珍しい物ではなさそうだ。
家に帰り葛を調べると「葛の花色は一般的な濃紺紫色、白花のシロバナクズ、淡桃色のトキイロクズがある」
あるそうで、特段珍しい色ではないようだった。
 今年もこの屑の蔓には散々な目にあった。一番大変だったのは大崩山塊の万葉の古道の標識のある赤坂峠から
国道150線のトンネルの上を越えて小坂に出る道だった。中腹の林の中は道が無くても登れたが、日の当たる
尾根の廃茶園の所に出ると、辺り一面葛でビッシリ埋まっていて入る隙間が無い。仕方なく屑の蔓の上を行こうと
するが、年と共に柔軟性を欠いた足は、中々上まで上がらない。高々10mか20mだったが、時間と体力を奪われ
疲れ果ててしまった。
しかし今日は大丈夫。舗装された車道を快適に下って行ける。

 
               鯨ヶ池                                白い葛の花

 道のアップダウンが凄い。桜峠は屁でもなかったがここは疲れる。上を見上げると新東名の橋桁が高く見える。
余りに高くて不安を感じてしまう程で、若し地震が来たらこの橋桁は崩れてしまわないか、崩れなくても地震の
揺れに共振して路面は車を運転できる状態なのだろうか。高層ビルの地震の揺れは以前から言われていたので、
新しい新東名は当然対応はなされているだろう。素人の私が心配する事では無いが不安を感じてしまう。

 下の方にお寺の屋根が見えていたが車道はグルリ回り込むように延びている。近道は無いかと畑の中を少し
下ったが止めにする。急な坂を下って若し道が無ければ下った坂を登り返さなければならない。急がば廻れだ。
 寺の入口に「浪曲師武蔵屋嘉市の墓について」と書かれた案内板が立っていた。
「浪曲の元祖は浪花伊助だとか、桃中軒雲右衛門と言われているが、武蔵屋嘉市は雲右衛門が大成する以前に
浮れ節の大看板だった人です。嘉市の墓は伝馬町の円光院にあったが昭和45年に円光院と共に当地に移った」

桃中軒雲右衛門の名は聞いた事はあるが、武蔵屋嘉市や浪花伊助は聞いた事はない。そこで調べてみると浪花
伊助は「明治の初期、大阪の芸人浪花伊助の芸が大うけし、演者の名前から「浪花節」と名付けられた」とあった。
だが武蔵屋嘉市は適当な物がヒットしない。考えてみれば武蔵屋嘉市が元祖なら、浪花節ではなく「武蔵節」
なっていただろう。

 円光寺に着いたのは13時45分。新光明院から1時間20分掛かったが距離は6k少々なので少し遅いようだ。
まだこの先は賎機山の東裾を歩いて静岡市街まで戻らなければならない。
果たしてあと6ヵ所も回る事が出来るか増々疑問になってきた。
 円光院には百地蔵の痕跡も無く、早々に退出しようとしたら本堂の扉が開いていた。中を覗いてみると
地蔵尊像と不動尊像が一緒に祀られている。この地蔵尊が百地蔵なのだろう。と勝手に解釈して出発した。

       
            新東名の橋桁                      円光院内部
      円光院の地図

駿河百地蔵3回目-9

2013-10-29 12:09:48 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              34番目(57番)新光明寺(茶祖)
 次の札所の新光明寺は足久保口組にある。この足久保とは安倍川の支流、足久保川の流域にあるで、
安倍川の合流部の入口を足久保口組、上流を足久保奥組と呼んでいる。口組は奥組より手前になるが、それでも
長栄寺から9kmほど距離はある。
 予定では梅ヶ島に向かう安倍街道を横断し、安倍川に架かる狩野橋(ここにも狩野が出てきた)を渡ったら美和
街道を北上する予定だった。だが安倍川を渡り堤防の道を見ると、直線で如何にも無駄が無く距離が短く感じた。
だが堤防の上の道は前が見え過ぎて良くない。遠くに安倍口団地の建物が見え、その遥か彼方には新東名安倍川橋
が見ている。そこまでだって遠いのに新光明寺は更にその先になる。
堤防の上は陽射しを遮る物も無く、気温は40℃を越え余計に遠く感じ、道の選択を間違ったと反省してしまった。

 安倍口団地は歩いてきた堤防の道より川側にあり、団地の川側には別の堤防があった。ようは団地は堤防の間に
挟まれた状態になっていた。その堤防の間の8棟ほどのアパートは取り壊しなのか無人で人が住んでいる気配はない。
 堤防の道は、いつしか砂利のある団地の中の道になり、歩きづらくなった。これなら暑くても堤防の上の道のが
良いと、美和小学校の所から、また堤防の上の道を歩く事にする。
 新東名安倍川橋に近づいてくると、2階建ての橋の構造が見えてきた。安倍川の左岸は新東名の新静岡ICなの
だろう、高速道路の本線の高架から下に下っている道が見える。さらに安倍川を渡る新東名の橋の中段には、横に
延びている物が見えるが、あれが一般道だろう。新光明寺の帰りにはその道の歩道を通り安倍川を渡る予定だ。

 
           安倍川堤防の道                             新東名安倍川橋

 新東名の下を通り抜けた所が、足久保川と安倍川の合流地点で、新光明寺はここを左折して足久保川の上流に
向かう。その合流部近くに新しいレンガ造りの水門があった。興味を覚え近づいて見ると水門は足久保川ではなく、
その支流の川に造られていた。そしてその水門の内側には団地があり、新しい一戸建ての家が建っている。
新しい水門に新しい団地。若し水が出てこの水門を閉めたらどうなるだろうか?きっと団地は浸水してしまうだろう。
なのに団地の住民は水門を造るのを許可したのか?考えながら歩いたが私に思いつくのは、大雨の時に安倍川が
増水しそれ以上安倍川の水を増やしたくない時などは、この水門を閉めて安倍川決壊を防ぐのだろう。
だが水門を閉めれば、その内側は水が溢れ団地は浸水してしまう。それでいいのかな?
疲れてきている私の頭では、これ以上の事は考え付かなかった。それが家で写真を整理しているときフト気が付いた。
あの水門は足久保川に水を流さないのではなく、足久保川の水を逆流させないためではないかと。
安倍川が大雨により増水して水位が上がると、合流する足久保川に安倍川の水が逆流する。すると足久保川に注ぐ
小さなこの川にも足久保川の水が流れこんでくる。その逆流を防ぐために水門があるのだ。
正解なのか分からないが、これでスッキリした。矢張り疲れてくると足だけでなく頭の回転も落ちてくる。

 
                安倍口団地配置図                         水門

 新光明寺に2時に到着。想定ではここに1時ごろとしていたので1時間遅れている。これも小野薬師寺から芹ヶ谷峠
を歩いたせいだが今更仕方ない。こうなれば成るようにしか成らないと諦めるしかなかった。
 新光明寺は元は静岡市内の伝馬町にあった寺だが、安政大地震(1954)、明治の伝馬町火災(1876)、昭和15年の
靜岡大火、昭和20年の空襲など、相次ぐ火災で類焼してきた。その後昭和47年に当地へ移転した寺だという。
 当初新光明寺の名前を見た時、再建した新しい寺に「新」を付けるなど、随分安易な命名だと思ったが、案内板に
「新光明寺の「新」は、新しいという現代の意味と異なり、沈滞を意味する「古」に対し、発展する「新」である」と説明
してあった。成程な、と思う反面、私のように思う人がいるので、わざわざ案内しているのだろう。

 緑に溢れた木漏れ日の中の参道は涼しく気持ち良かったが、本堂前の境内は一面に砂利を敷詰てあり、照り返しも
強く暑っ苦しかった。折角広い敷地なのだから、もっと緑があった方がいいなと感じた。

 
                新光明寺参道                           新光明寺
      新光明寺の地図

 一昨年歩いた駿河一国33観音の時は、札所がさらに奥になる足久保奥組にあった。その時は札所の近くにある
「狐石」という日本一大きな句碑を見てみたいと思っていた。その句碑には「駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」
と芭蕉の句が刻まれているが、その時は疲れ果てていて見に行く事ができなかった。今日も折角足久保まで歩くなら
見てみたいと最初は思ったが、とても20ヶ所の寺を廻っては行けそうもない、と予定を組んでいる段階で諦めた。
何故こんな山奥に日本一大きな句碑があるのかというと。
日本の茶祖といえば栄西禅師で、栄西は宋から臨済宗を伝えると共に、茶の種子を持ち帰り九州で蒔きながら、
一方でお茶の効用からお茶の製法などについて「喫茶養生記」を著し茶の普及に努めた。
だが足久保のお茶はそのお茶ではなく、栄西から40年くらい経った後に、今度は駿河出身の聖一国司が宋から
茶の種を持ち帰ってきた。それを故郷に近い足久保に蒔いたのが静岡のお茶の始まりと言われている。
そのため芭蕉のお茶の句を日本一大きな碑で足久保に建てたらしい。

 では静岡の茶祖は聖一国師かというとそうでもなさそうです。足久保のお茶は「本山(ほんやま)茶」という銘茶が
有名ですが、静岡県の西部には茶の一大産地の牧之原があります。そこの牧之原公園には大きな栄西禅師の
銅像が立っています。こうしてみると聖一国師を茶祖とするのは、現在の静岡市周辺だけかもしれない。

 目的の百地蔵は見つからなかったが、苔の中に置かれた石仏が涼しそうだった。
 
     
       五輪塔              お地蔵さんか?             双体道祖神      


駿河百地蔵3回目-8

2013-10-28 15:27:54 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              32番目(57番)松樹院

 安西地蔵尊からは、賎機山の西の山裾にある2ヶ所の百地蔵を訪ねた後、安倍川を渡り右岸を北上する。
そして今日の中で一番遠い百地蔵に行った後、再度安倍川を渡って、賎機山の東側の山裾に点在する百地蔵を
7ヶ所も訪ねて廻る予定だ。
果たして予定通り回れるか怪しくなってきているが、行ける所までは行こう。

 安西地蔵堂から松樹院へ向かう途中で道を見失ってしまった。手持ちの地図は縮尺が大きすぎ、現在地を見失うと
もう探すことが出来なくなってしまう。ただ今回は松樹院が賎機山の下にある事は分かっていたので、時折民家の
屋根の影から見える、賎機山を目指せば大きな間違いはないと思っていた。
そして賎機山の東側を通る、梅が島温泉に向かう旧道に出ると、なんと松樹院の入口の正面だった。
今回の百地蔵は不思議と道に迷わないで済んでいる。これが最後まで続きますように。

 松樹院の墓地の入口から入ると、すぐに子安地蔵尊(水子地蔵尊かも)が立ち、周りに小さな地蔵が何体か置いて
あるのが目に入った。これが百地蔵なのか分からないが、他の地蔵尊は境内には見当たらない。
本堂の入口が開いていたので、中を見ると沙弥壇の上には阿弥陀如来(多分)の立像が祀られていた。

 
                 松樹院                      子安地蔵
      松樹院の地図

              33番目(58番)長栄寺(案内板)

 次の長栄寺は賎機山の西側の裾を北に辿った所にあった。
この寺には案内板が何枚も立っていて、その内の1枚にはこんな説明が書いてあった。
井戸出現観音の由来(聖観音菩薩様) 永禄10年(1568)武田信玄が駿河に侵攻し、今川家七代目氏親が滅ぼ
された。その折り賤機山の砦にいた姫君が、狩野城麓の菩提寺 慈悲山増善寺に庇護を求めて当地に降りてきた。
しかし、昔は賎機山と対岸の慈悲尾の間は、全て安倍川の河川敷だったため家宝を持って渡れなかった。
そこで姫君は家宝の聖観音像を、この井戸に投入したが、幸いにも後年観音様は井戸より発見されて
「井戸出現観音」
として、御本尊として深く信仰されています」


 今までの私だったら、この案内板を読んでも「そうなんだ」と思っただけだろう。だが最近の観歩のお蔭で色々
無駄なな知識が付いてきている。そんな知識を元に案内板を読むと、まず「武田信玄が駿河に侵攻し、今川家
七代目氏親が滅ぼされた。」
に合点いかない。今川家中興の祖と呼ばれる氏親は9代目当主で、しかも彼は
武田が駿河に攻めてきた、所謂「駿河進攻」の時は、すでに死んでから40年余も経っている。
更に「狩野城麓の菩提寺慈悲山増善寺」とあるが、増減寺は氏親の菩提寺ではあるが、その背後にある城は
狩野城ではなく「安倍城」だ。狩野城となると私の知識では、伊豆修善寺近くにある狩野城しかない。
ただ安倍城の城主は狩野氏である事から、狩野城と呼んだ時期があったのかもしれないが----
その安倍城は今川7代目範忠に滅ぼされている。
では賎機城が攻められたのはいつか。以前立寄った賎機城跡に立つ案内板には
「賎機山城は南北朝の動乱期に、北朝方の今川氏が安倍川西岸の安倍城に陣取る南朝方の狩野氏に備えて
築き、 南北朝期以後は今川館の詰城としての役割を果たしたと考えられている。
永禄11年(1568)には武田信玄の駿府進攻によってその支配に降り、その後徳川家康の駿府入りにより廃城
となった」
とあるので、やはり駿河進攻の時の話なのか。しかしその時安倍城はあったのだろうか?
若しかすると、この井戸出現観音の話は----  止めよう仏罰が当たり迷子になると困る。

 
             長栄寺                            井戸出現観音の案内板
      長栄寺の地図

 本堂の前の案内板には「当山本堂に安置されているご本尊は、聖観世音菩薩でございます」とある。
成程さっきの案内板の姫君が井戸に投込んだ聖観音が、寺の本尊になったのだ。しかし案内板の最後の方には
「井戸の中から現れた千手観音様をまつる観音堂が山裾にあります」と書いてある。
ここでは姫君が井戸に投込んだ観音は千手観音に変わっていた。どうもよく分からない案内板だ。

 観音様の話はこの位にして百地蔵の話に移ろう。百地蔵の事は案内板には
「駿河一国札所のお地蔵がまつられています」と書いてあるが、何の地蔵か、何処にあるのかは書いてない。
丁度先程から石仏を一つ一つお詣りしている女性が、こちらに来たので百地蔵の事を聞いてみた。すると
「私はこの寺に何十年もお詣りに来ているが、お地蔵さんの事は聞いた事がない」と言う。
そこで案内板の文を指さすと「ではお寺さんに聞いてくる」と言って本堂に入って行った。しばらくして
「お地蔵さんは井戸観音の所にあるらしいが、私は見た事がない。もうちょっと待って、また聞いて来るから」
今度は庫裏に入って行った。少し時間が掛かってから出てくると
「さっきのは間違いで、お地蔵さんは本堂の奥に祀ってある」のだそうだ。
案内板の今川氏親の事もあったので、少し疑い深くなって聞いた私でした。

駿河百地蔵3回目-7

2013-10-26 16:48:02 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              30番目(59番)大林寺

 30番目の百地蔵大林寺は、薩摩通りと安西通りが交差する安西交番前交差点の近くにあった。
大林寺の仁王門は、表側に阿吽の仁王像、内側には風神雷神像を安置してある珍しい山門だった。
仁王像は寺を外敵から守る役目のため、寺の入口にあるのは当然だが、その裏側に風神雷神像を安置したのは
意味があるのだろうか? 理由は分からなかったが、寺の縁起書には「開基より現在まで5回の兵火に遭っている。
また、寺の所在も4回変わっている」
とあるのを見ると、仁王さんだけででは頼りが無いので、風神雷神にも自然の
災から寺を守って欲しいのかな。

   
 閉口吽形(うんぎょう)     開口阿形(あぎょう)       風神           雷神

 この寺にも量産型の六地蔵を祀ってあったが、百地蔵らしきお地蔵さんは見当たらない。
山門近くの祠の中に、厨子に入った小さな地蔵らしき仏像があったので、それで良しとしよう。

  
              大林寺                   山門横の祠             祠の中
      大林寺の地図

              31番目(59番)安西地蔵堂

 大林寺から安西通りを西に向かい安倍川に架かる安西橋の袂に安西地蔵堂はあった。その境内には
静岡市の有形民俗文化財に指定されている嘉永元年(1848)に建立された秋葉神社の常夜燈も建っている。
常夜灯の建つ安西通りは、以前は駿府から秋葉神社に行く、所謂秋葉街道だった道で、往時は道の要所要所に
常夜燈が立っていたが、道路の拡幅や第2次世界大戦の空襲などで、その殆どが姿を消してしまい、残っている
のは僅か2ヶ所に過ぎないらしい。
 ここの秋葉街道は、安倍川渡ると藁科、清沢、川根を経て、春野の秋葉神社に行く山側の道で、現在の道では
距離は84kmほどある。一方東海道を歩いて秋葉神社の行く道だと距離は約83kで若干短く、しかも道は整備され
宿などの心配も無い。なのに何故この道で秋葉神社にお参りに行ったのだろう? 昔の人の気持ちが分からない。
ただ気になるのは、この安西通りを東に向かい、駿府城に出た所で接している北街道を東に行くと、そこには
春野の秋葉神社と本院争いをした清水の秋葉山本坊峰本院があることだ。
若しかして本院争いをする前は、春野と清水の秋葉神社は交流があって、この道は修験僧が通った修行の道か
とも思えてくる。機会があったら一度歩いてみたい道だ。

 百地蔵はお堂の中の3体ある地蔵尊の中央にある地蔵で「川除延命地蔵」とされている。
これは安倍川の度重なる氾濫に苦しめられた地元の人々は、この地蔵に川除け、水害除けの祈願を行うと同時に、
秋葉神社へ参詣する旅の途中で倒れたり、安倍川を渡る途中で流されて命を落とした人を弔うために祀られたと
いわれている。
 川除延命地蔵の右横の地蔵尊は、昭和20年の空襲の際に、この近くに墜落して死亡したB29の搭乗員を弔う
ためのものだという。その空襲の際には地蔵堂も地蔵尊も焼失してしまい、現在祀られている地蔵尊はその後再建
されたである。

 
            安西地蔵堂内部                           秋葉山常夜燈
      安西地蔵堂の地図

駿河百地蔵3回目-6

2013-10-25 10:52:05 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              28番目(63番)興禅寺

 万葉時代安倍川の中継点だった舟山の写真は、安倍川橋や走る車が邪魔で上手く撮れなかった。
次の百地蔵のある興禅寺は、安倍川橋を渡り下流の国1に架かる駿河大橋の土手の下にある。

 
                 安倍川の中州にある舟山                      安倍川橋

 土手を適当に下ると興禅寺はあった。境内からは何とも場違いな、国道事務所の時計塔? いやアンテナ塔
が見えていた。国道1号を西から安倍川に向かうと、駿河大橋から富士山が正面に見えてくる。だが富士山の
横にはこの無粋で目立つアンテナが建っていて景観を損ねている。わざわざ取付けたであろうアンテナ周りの
青白の化粧板は、アンテナの存在を浮かび上がらせて、富士山の姿を弱めてしまっている。却って化粧板など
無い方が、ここの景色にはマッチしていると思うのだが。

 境内の左側に御影石で作った「駿河一国百地蔵尊第63番 子育地蔵尊霊場」と彫られた石碑がある。
その横の自然石を浮き彫りにして子供を抱いた地蔵が、百地蔵の子育地蔵なのだろう。
子育て地蔵と並んで矢張り自然石を浮彫にした六地蔵もあるが、最近多い量産型の六地蔵と違い、
より落ち着いた風情を感じさせている。あの量産型の石仏も年月と共に深みを増してくるのだろうか
それとも風雨にあたってボロボロ崩れてしまうのだろうか。

 
                 興禅寺                   子育地蔵と六地蔵
     興禅寺の地図

              29番目(3番)浄元寺(盤脚院)

 浄元寺に行く途中、安倍川橋手前の弥勒交差点に小さな緑地があり、幾つか石碑が建っている。
その中に「由比正雪公之墓址」と彫られた石碑がある。
由比正雪は江戸幕府を転覆させようと、丸橋忠弥などの浪人達とクーデターを謀ったが、途中で露見して、
滞在中だった駿府の旅籠で自決している。その正雪の首が晒された場所がここだという。
多分百地蔵の遍路でも、由比にある正雪の生家の前は通るだろう。

 浄元寺は静岡の町を東西に貫く、本通りの1本北側に入った細い通りにあった。
興禅寺からはわずか1.2km程の距離だったのに、百地蔵の番号は興禅寺は63番で浄元寺は3番だった。
3番は多分百地蔵の出発点1番の顕光院に近づいたからなのだろうが、近くにる興禅寺がが63番とは
理解しづらい。マー今回は札所番号は一切無視して歩いているので何番であろうが関係ないが。

 浄元寺には、興禅寺で貶した量産型の六地蔵と、矢張り量産型の厄除け地蔵を祀ってあった。
百地蔵の名前も何処にあるかも分からないが、これで良しとしよう。
 寺の案内板には、「家康が猟に出かけた藤枝の葉梨盤脚院では、和尚の禅話を聞き、囲碁を楽しんだ。
老僧が駿府の往復に悩むを見て、家康は東海道の一里塚のそばに一宇を建立して、和尚の隠居所とした。
その寺の名前を一里山浄元寺と号した」

この案内板には盤脚院の名前の謂れは書いてないが、盤脚院の名前で気になっていることを紹介します。
盤脚院のHPによると「徳川家康が田中城に居城した折、当地に度々鷹狩に来訪し、その度に盤脚院に立寄り
和尚と囲碁を楽しみました。駿河に隠居した後も和尚を駿府城に招き親交を深めたため、この庵を碁盤の脚に
因み「盤脚院」と命名したとの説もあります」
 と寺に名前の謂れを、随分弱気に説明している。
 家康が関係した寺の名前で有名なのは遠州可睡斎で、この寺は家康に「和尚 、眠るべし」と許可された事
から可睡斎になったといわれている。また、ここの盤脚院も家康と囲碁を打った碁盤から、寺号が起こったと
思っていた。なのに盤脚院のHPは「説もある」と弱気に書いてある。
じつはこの弱気の原因らしき物を見つけたのです。
京都五山の僧で、漢詩文の大家でもあった「万里集九」の紀行詩文集「梅花無尽蔵」に、文明17年(1485)
太田道潅に招かれて江戸に下る途中、盤脚寺(盤脚院)に寄った様子が書かれている。
「20日、黎明に袖浦を出で、午時葉梨庄日遣山盤脚寺に入る。(中略)今朝蓐食盤脚に入り、豪光老主人に
対面す。盤脚和尚は桃圓山定輪寺永富禅師の法弟なり」

この紀行文が書かれたのが1485年で、徳川家康の生まれたのは1543年。家康が生まれる前に盤脚院は存在
していたのでした。

 浄元寺の山号になった、東海道駿府の一里塚跡が近くの本通りにある。また駿府に盤脚院の和尚の宿泊所を
建てた事も頷ける。盤脚院のある葉梨は、現在の距離でも20KM弱はあるし、宇津ノ谷越えをしなければならない。
老僧の身にとっては、その往復は辛い事だったろう。そうそう今でも浄元寺は盤脚院の末寺だという。

 
                 浄元寺                          厄除け地蔵と六地蔵
      浄元寺の地図

駿河百地蔵3回目-5

2013-10-24 10:06:17 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              27番目(4番)心光院(千手の前)

 今日の行程で楽しみにしていたのが、次の心光院の隣にある「少将井神社」だった。オッとその前に百地蔵の安置
してある心光院の話をしなければ。
旧東海道の安倍川の土手への登りが始まる所に、心光院の入口への小路があった。その奥の山門から境内に入ると、
本堂の中で座卓を囲んだ人たちが茶菓子をつまんでいる。法事なのか墓参りの人なのか、全員が私の方を見る。
少し入りにくかったが、折角来たのだからと境内に入り百地蔵の質問をした。すると中の一人が
「うちは百地蔵の札所ですが、お地蔵さんは本堂のにあります」とそっけなく言った。これでは後が続かなく
「お邪魔しました」と言って引き下がるしかなかった。

           
                 心光院の扁額と百地蔵のご詠歌
     心光院と少将井神社の地図

 心光院の隣にある少将井神社の前に建つと、烏帽子を姿の銅像が目に入る。これこそが今日一番の楽しみの
「先手の前」の舞姿だった。像の横に立つ先手の前の案内には
「源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉で憂愁の日々を過ごす副大将平重衡(たいらのしげひら)を慰めるようにと、
源頼朝は白拍子千手の前を遣わしました。
和歌・琴・書に秀でた千手の前の優にやさしい世話に、重衡も心を通わせ、互いに想い会う仲になりました。
先に、東大寺を焼いた重衡を、奈良の僧は重い仏罰だとして引渡しを強要し、再び京都へ護送する途次に殺してし
まったのです。嘆き悲しんだ千手の前は、尼となって重衡の菩提を弔いつつ生涯を閉じました。
少将井神社は、手越長者の館跡と推定され、重衡と千手前との哀切の情愛を主題とする謡曲「千手」の生誕の地と
伝えられています。  <謡曲史跡保存会>


 
             千手の前像                           千手の前

 平重衡については、以前沼津アルプスを歩いているときに、小鷲頭山山頂の手前に「本三位中将 平重衡 
終焉切腹乃場」
の立札を見た事がある。その切腹の場所の下には重衡が隠れ住んだという岩屋があり
「平重衡(清盛の5男)は一の谷の戦いで源氏に捕えられ、伊豆の狩野で幽閉されていた時、自分が処断される
事を知った重衡は、いち早く狩野を逃げ出して鷲頭山の洞窟に逃げ込んだ。しかし追っ手に見つかり小鷲頭山で
切腹自害して果ててしまった」
と案内してあった。

    
                  沼津アルプス小鷲頭山の重衡が隠れていた岩屋

手越と沼津アルプスの案内板では、平重衡の最期の場所が違っていたので、さらに調べてみると
「駿河国手越長者の娘とされ、器量が良く温和な性格だった千手は、源頼朝の官女で後に北条政子の女房となった。
一ノ谷の戦いで平氏軍は源氏に大敗し、重衡が捕らえられ鎌倉に護送されると、千手が重衡の身の回りを世話をする
ことになり、二人はやがて恋に落ちてしまう。
だが、二人の生活は長くは続かず。重衡は京に護送される途中の木津川畔にて斬首される。 
 3年後、千手は亡き重衡を慕い、悲しみのあまり病になってしまい24歳の若さで死去した。
 重衡と千手との鎌倉での関わりは「平家物語」の一節となり、これをもとにした能の演目に「千手」がある。」


 どうやら重衡は沼津アルプスの小鷲頭山で切腹したのではなく、京都に護送中斬首されたとする方が正しそうだ。
だが、先手の前の最期も幾つかの説があった。
24歳で亡くなった説は「吾妻鏡」説で、「平家物語」では「千手は出家して信濃国善光寺に入り、重衡の菩提を弔った」
となっている。さらに静岡県磐田市にはこんな言い伝えも残っていた。

「千手は、源氏の大将源頼朝が12人の美女を揃えたという記録の中に「一番は千手の前・・・」とあるように、日本一の
美女でした。長者の娘として、現在の静岡市手越で生まれた千手は、千手寺(磐田市千手堂)の千手観音にお参りして
恵まれた子という事で、「千手」と名付けられましたが、地元では いつの頃からか、千寿と呼ぶようになりました。
源氏の捕虜となった平重衡との恋物語は「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」などに登場し、能や浪曲、詩や歌に
語り継がれています。重衡が処刑されて後、尼となり、白拍子村(現在の磐田市野箱)で24年の生涯を閉じるまで重衡の
菩提を弔ったという事です。千手の墓は「傾城塚」と呼ばれ、磐田市野箱で地域の人たちから大切に守られております」


 面白いですね、先手の前は鎌倉時代のミスコンの覇者だったり、地元(手越)では「千寿」と呼ばれていたなど
新説が続々。そういえば「千寿」という酒があったが、あれは静岡か磐田の酒なのか---- 残念違かった。
近いうちに千手の墓があるという磐田市の「傾城塚」に行ってみよう。

 千手の前の像から少将井神社にお詣りをしたあと、神社の由緒書きを読む。
「当神社の祭神は素盞鳴命(すさのうのみこと)で、建久4年(1193年)源頼朝が鎌倉幕府を開いた翌年に当たり、
有名な富士の巻狩り、曽我兄弟の仇討ちがあった年である。
その後、東海道の要衝安倍川の渡しの宿場町として繁栄した手越の産土神として尊崇され、曽我物語にある工藤祐経
の遊君少将君の名と共に、往昔東海道を往来する旅人にもその名を知られ、当地の名社として今日に至ります」
とある。
これでは私のような素人には、何故ここが少将井神社になのかさっぱり分からない。そこでネットから引っ張り出した
情報を追加すると
「鎌倉時代初期、手越の少将は大磯の虎御前、黄瀬川の亀鶴とならぶ海道一の遊女といわれていた。
その後、手越の少将は工藤祐経の愛人となったが、祐経が曾我兄弟に討たれたのちは「生死無常のはかなさ」を感じて
出家した。」
となる。これで少将が、手越に庵を建て工藤祐経の菩提を弔った。となれば文句ないのだが、
その少将の出家後を、こんな風に書いた説もあった。
「大磯の虎御前は、曽我兄弟の兄、祐成の妾となるが、祐成が仇討の際に斬殺されると出家して、手越しの少将と
二人で善光寺に赴いたのち、虎御前と共に大磯の高麗寺に入る。70歳ほどで他界したという。」

本来敵だった愛人を持つ二人が、善光寺に一緒にお詣りに行ったり、同じ寺で菩提を弔うなど、中々できる事ではない。
ただ虎御前については、こんな記述もあった。
「兄弟の仇討ち後、事件は盲目の語り部である瞽女(ごぜ)たちによって「語り」として伝えられていった。
「曽我物語」でも、兄弟の霊を慰めるため大磯の遊女虎御前が、人々に念仏を勧める場面が最後に書かれている」

盲目の語り部の瞽女は、虎御前に語りの指導を受けたという。だがここには手越の少将の話はない。

 あちこち歩いていると色々な情報が頭に入ってくる。黄瀬川の亀鶴姫の墓は駿河一国33観音の33番札所潮音寺にあり
また、大磯の虎御前が化粧した井戸は、神奈川県の大磯にあった。これは東海道を歩いていて見たのだが、その時は
二人が共に住んだという、高麗寺がある高麗山も見る事ができた。
問題は幾ら見ても、見た事を忘れてしまうことだが、今時点はその全ては覚えてはいないが、一部が頭に残っているので、
それをきっかけに思い出したり、調べたりする事ができる。こんな状態が続けば良いのだが-----

 黄瀬川の亀鶴姫の話は
「源頼朝が富士の巻狩りのおり、美人の誉れの高い地元の亀鶴姫を酒宴に招いたが、亀鶴姫はそれを拒んでしまう。
頼朝の再度のお召しにも姫は応ぜず、黄瀬川に身を投げてしまう悲しい伝説のヒロインです。地元の人達は亀鶴姫を偲び、
観音さんを作って供養して、いつしかその観音さんを亀鶴観音と呼ぶようになった」
だった。

 
            虎御前の化粧井戸                            亀鶴姫の墓     

 そろそろ次の百地蔵に行かないと時間が足りなくなってしまう。
だが、ここ少将井神社では一つの疑問が頭から離れかった。それは神社の名前が、何故「少将井」なのかだ。
今、記録を読めば、少将より先手の前の方が謡曲に取り上げられていて有名だと思う。しかも方や白拍子に対し
此方長者の温厚な娘。少将は海道一の遊女に対して、先手の前は当時のミス日本一だったときている。
まだある、二人の相手方も少将は曽我兄弟の仇討の敵役の工藤祐経。一方先手の前は悲劇の平家の公達
平重衡だ。こう並べば一方的に千手の前の方が悲しく美しく清らかだ。なのに地元では少将を祀っている。何故だ!

 私の妄想的歴史観が蠢きだした。千手の父親の長者は、娘を祀った神社を建てたかったが、鎌倉幕府の敵将を
弔いながらが死んだ娘なので、頼朝にあらぬ嫌疑をかけられる恐れがある。
そこで長者は、同じ頃に死んだ手越出身の白拍子少将の名前を借りて少将神社を建てる事にした。少将なら頼朝の
お気に入りの家来なので疑われる事はない。
だが、少将神社では余りに娘が不憫だと、近くにあった手越水神鎮座の水神社を合祀して少将井神社とした。
これなら少将と水神様の神社となり、少将だけの神社ではなくなるので娘も浮かばれるだろう。
 こうして長者は娘の先手の前を少将井神社に祀ったのだが、年と共に、その事実は忘れられ、神社の名前の
少将だけが住民に引き継がれていった。そのため今では神社の由緒書きにも先手の前の名前は無い。

               
                        少将井神社

富士山・御殿庭と双子山4

2013-10-22 11:27:51 | 低山歩き
       富士山・御殿庭の黄葉と双子山                              歩行月日2013/10/17

歩行時間:5時間30分 休憩時間:0時間50分 延時間:6時間20分
出発時間:7時20分   到着時間:13時40分
歩  数:  20、319歩   GPS距離:
行程表
 御殿場口新5合目 0:55> 幕岩 1:00> 御殿庭入口 1:10> 山体観測装置 0:45> 御殿庭入口 0:40>
 下双子山 0:25> 上双子山 0:35> 御殿場口新5合目

  四辻 ~ 御殿場口新5合目

 四辻には12時15分に着いた。ここから先は双子山に登っても1時間半もあれば充分だ。時間に余裕のある
歩きは楽しいのだが、いつも先を見据えて急いでしまう。分かっていても止めれないのは性分のせいだろう。
もうこの齢になっては治りそうもないな。
 四辻の標識から双子山が見えていたが、どちらも大したことはなさそうだ。印刷してきた案内図には下双子山の
時間しか載っていないので、上双子山への道は無いのだろう。しかしここから見ても20分もあれば登れそうな山に
見える。適当に登ってみるか、と思ったが止めよう、何かあったら「年寄りが」と非難されてしまう。

 
                  四辻から下双子山                      四辻から上双子山

 四辻を出た頃からガスが出てきて周辺が霞んできた。前方から大勢の子供の声が聞こえてきて、そのうち標識も
見えてきた。十字路のような分岐に標識が立っていたので、ここが下双子山へ登り口かと思ったが、子供たちの声は
まだ先の方から聞こえてくる。右側の道を少し登り前方を透かして見ると、霧の中に登山者の姿がシルエットのように
なって見えた。あの行列の中を登るのも気が進まないなー、よしそれならこの道らしき所を登ってみよう。駄目なら
戻っても多寡がしれている。
歩き出して5分も経ったか経たないうちに、ケルンのある山頂に着いてしまった。ガスも薄くなってきて、まだ先の方に
鳥居や石碑らしき物が見えている。その周りには人の姿も見えていた。どうやらあちらが正規の山頂のようだ。
どうやら先ほどの標識は登り口の標識ではなかったようだ。しかしあの標識からここに登り、正規の登り口に出た方のが
同じ道を歩かないで済むので楽しそうだ。

 
           下双子山の登り口と見間違った標識                 下双子山のケルン

 石碑の周りには高校生たちが昼飯を食べたり写真を写したりしている。ガスがタイミングよく晴れたので私も仲間に
なって写真を写した。石碑には「伊邪那岐(イザナギの神)と伊邪那美(イザナミの神)」と書いてある。
富士山なのに何故「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」ではないのだろう? 止めよう前に進まなくなってしまう。
 
 もう一つの石碑には「二ツ塚下塚(下双子山)1804m」となっていた。私は今までこの山は双子山と呼んでいたが、
正式には二ツ塚というらしい。確かに山とは言うより塚の方が形状を正しく表現をしている。
標高1804mというと、今日登った最高地点の山体観測装置が2352mだったので500mも下った事になる。そしてさっき
下双子山に登り始めた標識は1776m。エッ!それではたった28mしかないことになる。道理で簡単に登れたはずだ。

      
           下双子山の石碑                          下双子山の標識

 ガスが晴れているうちに上の方の写真を撮ろうと、上双子山を見て気が付いた。こちらも道なのか黒く見える筋が、
標識の所から山頂まで延びている。それに右の方にも黒い筋が見えている。
ウン! これなら上双子山にも登れそうだ。コースはここから先ほどの標識まで戻り、そこから上を目指す。
帰りは右に見える筋を下ってみよう。
(写真の左の白線の下に標識があり、右の点線の下は下双子山の登り口だった。)

  
                         上双子山歩行ルート

 標識から登り口は、まるで車の轍のような感じの道だ。まさか普通の車は来ないので冬に雪上車でも走ったのか、
そんな感じの道だった。ガスは薄くなったり濃くなったりを繰返している。下双子山は人のシルエットが見えていたので
不安はなかったが、こちら人の姿も声も聞こえない。
登りは、道が無くても傾斜の強い所を上に向かえば、必ず山頂に着くので安心だが、下りはそうはいかない。
真っ直ぐ下ったつもりでも左右にずれてしまう場合が多い。
そこで方位磁石を取り出して、山頂とおぼしき方を北西と確認した。帰りはこの反対を下ればいい。

 後で確認すると上双子山の標高は1929mだったので、標識の場所との差は153mあった。その所為か思ったより
時間がかかり25分も掛かってしまった。きっと慎重に歩いたからなのだろう。
山頂から景色は見えなかったが、近くのケルンははっきりしていた。だがそれも時間と共にぼんやりしてしまい、少し
待てばガスが晴れるかと思ったが、一向にガスは晴れてこない。我慢できず景色を見る事なく下る事にした。

 
                 上双子山のケルン                      上双子山のケルン

 サー何処から登って来たのだろう。と下り口を探すが分からない。さっき登って来た時ケルンを見て、下り口を
確認しないままケルンのそばに行ってしまったのだ。今はそのケルンも見えない。サー困った。

 ともかく方位磁石で北西を確認して、その反対側を下りだしたが、どうも上手くいかない。
しかし大体の方向はこれで分かったので、後は道らしき黒い所を下るしかない。注意することは決して右(南)側に
行き過ぎない事だ。右は四辻方面で荒野が広がっている。若しそちらに下りてしまったらどうしょうもなくなる。
どちらかといえば左側よりに下れば、両双子山の間に下りるので、地形でも判断できるし道もある。
(口にするとこんな状態だったが、実際は左に行けば大丈夫と思っていたので余裕はあった)
だいぶ下がった所で黒い太い道らしき所に出て一安心。それにガスも薄くなってきていて下には標識が見えた。

 一苦労したが、一先ず最初の標識まで戻り、次の下双子山への分岐に到着。
ついているのかどうか、ガスは晴れて両双子山の山頂が見えてきた。下双子山の方向には標識があり黒く太い道が
上に延びている。一方上双子山側は標識は無いが、何やら踏跡はある。きっとここからでも山頂に行けるだろう。
それなら次回四辻側から双子山に来た時は、標識の所から先ず上双子山に登り、山頂からこの分岐に下りてくる。
次はこの正規の下双子山の登り口から山頂に登り、先程の標識に下る。そうすれば両双子山を制覇した事になるし
同じ道は歩かないで済む。ヨシいいルートだ。次回はそうしよう。

 
                 下双子山登山口(分岐)                    分岐から上双子山を

 写真を撮っているうちに、またガスが掛かってきた。サー急いで新5合目に下ろう。
チョット待った! これはヤバいぞ、ガスがどんどん濃くなってきた。視界は何mあるだろう20m?30?
霧の中の写真を写している内に、更にガスは濃くなり視界は10mか20mになった。幸い足元にはロープが張ってある
ので行先は分かるが、次の杭は見えない。若しこれでロープが無くなったらどうしよう。どちらに向かえばよいのだ。
御殿場口の砂走り下部は、新5合目のバス停に向けて真っ直ぐ下っているが、双子山からの道は双子山が下山道の
南にあるため真っ直ぐ下らず斜めに下っている。この斜め具合は目印が無ければ分かりそうにない。
踏跡は何処を見ても、あるような無いような気がするばかりだ。
それでは引返す事はできるのか。きっと四辻までは戻れても、その先はここと同じ状態だろう。
イエこれは冗談ではなく、真剣に考えながらロープだけを頼りに下っていました。

アー!ロープが無い。双子山からズート続いてきたロープが無くなってしまった。いや無くなったのではなく下山道に
近付いたのでロープの目印は終わったのかもしれない、と左の方向を透かすように見るが何も見えない。
せめて杭だけでも見えないかと思うのだがこれも見えない。サーテ最悪の想像が現実になってしまった。
この先どうしよう。待っていればガスは薄くなるかもしれないが、もっと濃くなるかもしれない。サー困った。
戻るのは却って危なそうなので、ともかく前に行くしかない。今朝新5合目の駐車場は南側の樹林帯の横にあった。
ならばこの火山灰の中を真っ直ぐ下って行けば、樹林帯か駐車場にに出るはずだ。もし樹林帯だったら、その脇を
下って行けば駐車場に出る。
あるいはここから少し斜め加減に北に向かえば下山道に出合う筈だ。ただその下山道が判別できるかどうかだ。
もし下山道に気づかず横切ってしまったら、それこそ須走口の方まで続く荒野になってしまう。
決断が付かぬまま、後ろの杭を見失わないように振り返りながら、少しづつ下り始めた。
やいやい、これ以上下ると後ろの杭が見えなくなってしまう。でも立止っていても仕方ないしー
アッ好い事を思いついた。ストックで線を引きながら前に行こう。ある程度行っても道が分からなければ、線を
辿ってここまで戻り方向を変えればいい。
線を引き出して5mも行かないうちに、前方に杭とロープが浮かび上がってきた。フー助かった。
杭に気づいた場所は杭より大分北側になっていた。これは内心、近くにある筈の下山道を探していたからなのだろう。

 ロープの無い区間は何mあったのだろう。50mか30mか。そんなに長い距離ではなかったが苦労してしまった。
落ち着いているつもりだったが、ロープの無い区間の写真や時間を見るのを忘れていたのは、緊張していた証拠だ。

        
           霧の中のロープの目印                       徐々に霧が濃くなる

 再度ロープを見つけてから、どのくらい歩いたのか、ようやく左側に風よけフェンスのような物が見えて来た。
きっと御殿場口の下山道だろう。やっと下山道と合流して新5合目上の大石茶屋に着いたのは1時40分だった。
途中でロープが無くなりグズグズしていたのに、双子山分岐を出てから、たった20分しか経っていない。
案内ではこの区間は30分と書いてある。何故だ?よく分からないがロープのあった所は、不安を抱えて必死に
なって歩いていたのだろうか。
 大石茶屋の辺りはガスが薄れてきて、離れている杭も見えるようになった。さらに新5合目に下って行くに従い
ガスは薄くなってくる。これは標高が下がったから薄くなったのか、それとも風でガスが流されたのか分かないが
いずれにしても、あのロープが無くなった所で、ガスが晴れるのを待っていても、晴れる確約は無かった。
今だってあの辺りはガスが濃いかもしれない。何は兎も角ロープ様々だった。

 御殿場口新5合目登山口封鎖地点の出た。ロープのお世話になっていながら苦情を言うのも気が引けるが、最近の
静岡県の富士山に対する対応には不満を感じてしまう。
この封鎖だって何のためにやるのだろう。たとえここを封鎖しても、この広大な富士の麓には幾らでも入口はある。
現にここも頑丈そうに封鎖はしてあるが、その横は出入り自由の状態になっている。
県は登山者の良心に訴えるための封鎖で、無謀な登山が減ればよいとしているのだろうが、当初は完全封鎖を考えて
いたが、山梨県と話し合いが付かず現在のような封鎖になったようだ。
どうも静岡県は富士山登山を夏山の登山だけと思っているようで、それ以外の期間は誰も登らせたくないらしい。
それでは夏の入山料を取るためと勘繰られても仕方ない。
いや県は安全対策のためと反論するだろう。確かに今年の山開きでは、富士宮口に雪が無いのに係らず通行禁止にした。
県はこれも安全のためというが、現地のボランティアは「責任逃れ」と言っていた。
静岡県には富士山以外にも南アルプスも抱えている。だがそこは封鎖はしていないのは安全が確保されているからか。
 後で気づいたのだが、あの封鎖ヵ所に登山ポストはあったのだろうか。県は封鎖してあるので登山者はいないのだから
登山ポストは必要ない、としているのかもしれない。だが現に自由に出入りしている状態なのだから遭難が起らないとは
限らない。その時救援に向かう情報が無くて、救助が遅れるなんて事が起きなければよいが。

 
             大石茶屋の標識                     新5合目の封鎖地点

 駐車場は既に霧は無く車を運転するにも支障はない。とんだお騒がせもあったが楽しい1日だった。
出発時に「御殿場市は幕岩・御殿庭・双子山のハイキングコースを上手にアピールしろ」と書いたが訂正します。
このコースは魅力は充分あるが、アピールする前にやって欲しい事がある。そうロープが無い部分にロープを
設置するのは勿論だが、火山灰地帯は全コースにロープを敷設しては欲しい。
富士山に霧は付き物で、霧が出ない日の方が少ないだろう。その為には誰もが安心して歩けるようにロープの
布設は不可欠だ。それが終わってから景観・植生など、このコース独自の魅力と併せて、安全を強調すれば
多くの人が歩きたくなること間違いなし。甘いかな。
 
 
             御殿場口登山道入口                   BOAC慰霊碑

富士山・御殿庭と双子山3

2013-10-21 09:42:32 | 低山歩き
       富士山・御殿庭の黄葉と双子山                              歩行月日2013/10/17

歩行時間:5時間30分 休憩時間:0時間50分 延時間:6時間20分
出発時間:7時20分   到着時間:13時40分
歩  数:  20、319歩   GPS距離:
行程表
 御殿場口新5合目 0:55> 幕岩 1:00> 御殿庭入口 1:10> 山体観測装置 0:45> 御殿庭入口 0:40>
 下双子山 0:25> 上双子山 0:35> 御殿場口新5合目

  山体観測装置 ~ 四辻
 山体観測装置の標識に10時20分到着。御殿庭上からは35分で、これも案内の時間通りだった。
上方には山頂は見えなかったが、宝永山の第1火口に下る分岐点や、富士宮口6合目の小屋も見えていた。
そうだ富士宮口の登山道の閉鎖ヶ所は、6合目の横にあると聞いている。その抜道は宝永山寄りにあるらしい。
ならそれを見に行ってみるか。
止めよう!止めよう! こんな景色を見ると、すぐ高い所に行きたがる悪い癖が出てしまう。今日はまだ双子山に
登る予定があるのだから自重しなければ。

 ここの標識に着いてどうしても分からない事があった。標識には間違いなく「山体観測装置」と書いてある。
なのにその装置が無いのだ。見落とすような小さな物ではないし、今年7月に来た時には間違いなくあった。
それが今は無い。標識と装置の場所が違うのかと下を見ても装置は見えない。勿論上にも見えない。
山体観測装置は宝永山の上にもあり、これは今年の8月に見ている。それと砂走りの2合8勺にも装置らしき物は
あったが、これは壊れていた。ここの装置も撤去されてしまったのか、それとも場所が違うのか。

 家に戻り「海から富士山」の時の写真を確認すると、間違いなく観測装置は映っていたが、ピ-クではなく斜面の
途中に写っていた。そしてその写真の1分後に標識の写真が写っている。ということは標識の少し下に有る筈なのに、
下を見た時は気づかなかった。見落としかそれとも撤去か、来年の海から富士山の時に確認しよう。

 
            山体観測装置の標識                        第1火口への稜線

 宝永山の火口は3個ある事は知識としては知っていたが、3個目が何処にあるのかは知らなかった。
今日は麓から、ここの第2火口の上にまで来たが、第3火口と思える孔はなかった。
一体第3火口は何処のあるのだろう? 

 下の写真を見てください。第3火口は第2火口のすぐ下にあり、火口の下は緑の樹林帯になっている。
ということは今日のコースは、第3火口の中を歩いて来たことになる。
さらに国土地理院の地図の登山道を写真に記入してみたら、なんと御殿庭上は第3火口の下部にあたり、
トラバスした斜面は火口の中の道だった。
しかし今日歩いた所に火口らしき孔はなかった。確かにトラバスした斜面は、孔の底に向かうような傾斜だった。
若しそこが火口だったなら、御殿庭上の標識は「御殿庭上(第3火口)」とした方のが、親切だと思う。
そんな事は余計なお世話か、こんな事に興味を示すのは俺ぐらいしかいないだろう。

 写真の御殿庭入口の上を見てください。クッキリした沢状の区切りが見え、樹林帯の境は崖があるように見る。
そこは樹林帯と火山灰の沢とが、くっきり分かれていた所で、壊れた標識が有った場所でもあります。
こうして航空写真で見ると、私が想定した雪崩や水流で土壌や標識が流された、という説も満更ではないですね。

          
                             国交省富士砂防事務所資料
 国土地理院の地図で見れば、御殿庭上から登山道が第3火口を登っているのが良く分かる。
そして御殿庭上から御殿庭中に行く道は火口の下部を歩く事になっている。
ところが残念な事に、そこを歩いている時は火口の底だとは気が付かず、石がゴロゴロした場所だと思っただけだった。

      

 風が吹きっ晒しのピークの上は寒い。特に陽が陰ると寒くて仕方がない。どうせ上に行かないのなら早く下ろう。
でもここからどの道を下ろう。来た道を御殿庭上に下るか、それとも水ヶ塚からの道を御殿庭中に下ろうか。
普段なら同じ道を下る事はないのだが、今日は来た道を下る事にした。そして御殿庭上から御殿庭中に出て御殿庭下に
下る。更にそこから方向を変えて御殿庭入口に抜けよう。そうすれば御殿庭周辺の道はほぼ歩いた事になる。
何しろ知らない道はすぐ歩きたくなる方だし、それにこの辺りの道は霧さえ出ていなければ危険な事はないのだから。

 観測装置の標識から御殿庭上までは寒い事もあり15分で下ってしまった。それでも体は温まらない。ジャンパーを
着ようかと思ったが、それも面倒なので我慢をしてしまう。
お蔭で宝永山下のカラマツを見ると更に寒さが増してくるようだった。

 

 御殿庭上から御殿庭中への道は石がゴロゴロしていて、大きい石には白ペンキで目印を付けてくれてある。
お蔭で踏跡や標識は無かったが迷わずに済んだ。ガラガラ道を底まで下ると次は樹林帯の中の登りになる。
この道は余り歩かれていないのか、道の周辺から原生林の雰囲気が残っていて中々良かった。
10分も歩かないうちに御殿庭中に到着。丁度陽が射して来たので、風のこない所で昼食にした。

 御殿庭から御殿庭下の道は、いつもはハーハーしながら登っているが、今日は快適そのものだった。
ここは今日の行程の中で、一番人が多いはずなのに誰とも擦違わない。黄葉の時季なのにどうしたのだろう。
昨日の早朝までの台風の影響なのか? マー貸切の山は好きだからいいけど。

 
               原生林の雰囲気のある林                    御殿庭下

 御殿庭下からは初めての道を御殿庭入口まで歩く。ここも余り人が入っていないようで、さっきの道と同じような
感じだが、こちらは下草が少ない。少し標高が下がってきたので広葉樹が増えて、鹿が下草を食ってしまったのか。
 垂直になった土手に茸が生えていた。笠の部分は平らで、竿の部分がグイッと曲がっていた。ここの道は若干下り
気味な道で、さっきの御殿庭上から中の道は登り気味だった。マーどちらの道も距離も短く大した事はなかった。

 
                御殿庭入口への林                      茸があった

 御殿庭入口から三辻に戻り、三辻からは草原いや荒野の道を四辻に向かう。このような道は霧が出ていると不安を
覚えるが、今日のように前方が見えていれば気楽なものだ。
アレー 今までは枯れたフジアザミしかなかったのに、今度はピンクのアザミがあった。フジアザミの花期は8月下旬から
9月中旬になのに狂い咲か。
 フジアザミは日本のアザミの中では、最も大きな花を咲かせる種類で、高さは20–100cmくらいあるという。このアザミは
草丈は左程高くなく30cm位か。花の大きさはゴルフボールより大きく、テニスボールより小さいくらいだ。
フジアザミの先に見えている小山は上双子山だが、富士山に咲くフジアザミも、ここ双子山の周辺が一番多いらしい。
たしかに8月下旬にここを歩いた時は、あちこちに咲いていて驚いてしまった。
 アザミの花は下を向いているので上を向かそうとしたが、棘が痛そうなので止めてカメラを下にして写してみた。
まるでシャワーの蛇口から水が滴るように、ピンクの管が垂れ下がっていた。この管が枯れると綿毛になり種を空に
飛ばすのだろう。
 アザミを調べていたらこんな事も載っていた。
「スコットランドの国歌のタイトルにもなっている「スコットランドの花」はアザミを指している。昔ヴァイキングが、
夜の闇に紛れて、スコットランドを攻撃しようと裸足で進軍していたとき、アザミのとげを踏み抜いてしまい、その痛さに
思わず声をあげたことによって、スコットランドの人々が侵略の危険を察知した」
という言い伝えがあった。

 
                フジアザミ                           フジアザミ    

富士山・御殿庭と双子山2

2013-10-20 11:18:26 | 低山歩き
       富士山・御殿庭の黄葉と双子山                              歩行月日2013/10/17

歩行時間:5時間30分 休憩時間:0時間50分 延時間:6時間20分
出発時間:7時20分   到着時間:13時40分
歩  数:  20、319歩   GPS距離:
行程表
 御殿場口新5合目 0:55> 幕岩 1:00> 御殿庭入口 1:10> 山体観測装置 0:45> 御殿庭入口 0:40>
 下双子山 0:25> 上双子山 0:35> 御殿場口新5合目

  幕岩 ~ 山体観測装置 
 幕岩からは右岸にある道を登り「幕岩上」に出る。
この辺りに来ると周りの木の種類は広葉樹から針葉樹に変ってきている。名前は? ウーン多分カラマツだ。
カラマツなら秋には紅葉して落葉するが、この辺りの木も何となく黄色っぽくなってきているのは紅葉の始まりか。

 幕岩上の分岐点に出る。ここは前回宝永山の帰りに2合8勺下って来た道だ。今日はこの分岐を左に取り
三辻へロ向かう。
周りは次第に背丈の高くないカラマツ林になり明るい感じがしてきた。下草も少ないのでまるで公園のようだ。

 
             幕岩上の分岐                        背の低いカラマツ林

 三辻に8時30分に到着。新5合目を出て1時間半は予定以上の速さだ。
三辻の標識の上は、もう2・3本の木があるだけで、あとは荒涼とした火山灰が宝永山に続いている。その稜線を下に
辿って行くと双子山が見えた。今日は下に見える低い方の下双子山を登る予定だが、本当は両方とも登りたい。
だがパンフレットなどには下双子山の案内しかないので、上双子山には道は無いのだろうか?

 これから行く御殿庭は双子山とは反対方向の左の富士宮口の方に登って行く。そちらはまだまだ上の方まで樹林帯は
続いている。

 
            三辻の分岐                         上双子山と下双子山

 宝永山に登った時はピンクの綺麗な色だったフジアザミも茶色く枯れている。フジアザミの綿毛は大きく固そうな額の
下に隠れてしまうので派手さが無い。これがチングルマのように上を向いていれば、綿毛が強調され可愛いのに。
 小さなカラマツの下に白い苔が生えていた。夏に海から富士山に登った時は、この苔は上の木の枝から落ちた苔だと
思ったが、引っ張てみたら根が付いていた。ここの苔は上から落ちたにしては唐松が小さすぎるし、矢張り苔には根が
張っていた。
 今回調べてみて分かったのだが、木から垂れ下がった苔状の物は、「サルオガセ(猿尾枷、猿麻桛)は、樹皮に付着して
懸垂する糸状の地衣。霧藻、蘿衣ともいう」
で、苔ではなく地衣類だった。
一方根の付いた苔は、「ミヤマハナゴケ」と言うようで、「ハナゴケは名前に苔と付いているが、地衣類で痩せ地の指標種で
ある。この群落が発達している場所は、針葉樹が主体で広葉樹はごく少ないく、その林は亜高木林にとどまっていることが
多い」
確かにその通りだ。

 
            枯れたフジアザミ                          ミヤマハナゴケの群落

 前方にまるで伐採地のように見える倒木地帯が見えてきた。道は幸いその中には入らず、上の方に続いている。
フー助かった。倒木を跨いだり、潜ったりすると倍以上疲れてしまう。まだ先は長いので体力は温存しておきたい。

 富士山の頂上が薄っすらと見える。今日は新5合目でははっきり見えていた山頂だが、樹林帯に入り見えなくなっていた。
一時は雨がポツポツしたが、それも幕岩付近だけで今は心配ない。樹林帯を抜けて景色が見えるようになったが、
ガスの影響で見えたり見えなかったりしている。
今日1日こんな天気が続きそうだが、一時でも景色が見えれば良しとしよう。

 
             倒木地帯                             山頂が見えた

 倒木地帯の上で火山灰の沢から樹林帯に入る。それも低い木から高い木に徐々になるのではなく、沢を境に
一気に林になる。その境に建っていた標識の案内部分がもぎ取られていた。
支柱は真っ直ぐ、しっかり立っているが、案内の袖木の部分がもぎ取られていて無くなっている。
とても人間業とも思えないが、猪や鹿がやったとも思えない。熊?
熊だってこれをもぎ取るには、自分もダメージを受けるだろうし、そんな意味の無い事をやるとも思えない。
では雪崩か、いや雪崩だったら根こそぎやられるので支柱だって倒れてしまう。
では? ソーダ表層雪崩かもしれない。
支柱が根雪に2/3くらい埋まっているとき、新雪が降り上の部分も埋めてしまう。その時に表層雪崩が起きて、
上の案内部分の板をもぎ取ってしまう。ウンそれに違いない。
反論のある人は現地に行って見てきてください。見れば納得してくれるかもしれないので。
こんな事を考えているから、一人で歩いていても寂しくならないのだろうナ。

 火山灰の沢を渡ると「御殿庭入口」だった。三辻から30分だったので案内の時間通りだ。
どうやら当初よりピッチが落ちてきたようだが、まだ焦る必要はない。楽しみながら歩こう。
御殿庭入口から上に続く道は、火山灰と樹林帯との境を登って行く。
写真では分からないが、実際には道の横は崖になっていて、下は黒い火山灰の沢になっていた。
何故こんな明確に地層が分かれたのだろう? 宝永山が噴火する前は、同じような樹林帯だった所に、噴火で
火山灰が落ちてきた。その灰の量は御殿場側多く富士宮側は少なかったので、火山灰の多い御殿場側は木が
枯れて、灰が少なくなる富士宮側は徐々に樹木は大きくなっていった。
それなら樹林帯の境は、このように急激な変化はしなかっただろう。
だがここは丁度低地だったため、水が流れたり雪崩が発生したりして、樹木を育てる土壌が流出してしまった。
そこに上から流れ落ちてきた火山灰が沢を覆ってしまった。
ウンそうなら先ほどの壊れていた標識の解釈も成立する。今日は冴えているな。

 
             壊れている標識                          樹林帯の境を行く道

 カラマツの背が低くなってきた辺りから道に石ころが多くなってきた。その中の大きい石は苔で白っぽくなっている。
と思っていたが、白くなっている石がやけに多い。ペンキ? 
だが前回宝永山から幕岩に抜ける道で、離れた所に白くなった石を見つけ、わざわざ近くに行ったが道は無かった
その経験があるので、すぐペンキとは思えない。ところがしばらくすると明らかに→と思える印もある。
ウンこれならこの白っぽい石は目印なのだろう。

 木の背丈が低いので風がまともに当たり寒くなってきた。服装は新5合目を出た時と同じだが、冷たい強い風で休んで
いると寒くなる。それと手袋を持ってくるのを忘れたため手が冷たい。
例え昨日の夕方急遽登る決断をしたとしても、もう少し準備の見直しをしなければいけないと反省する。
 樹林帯を抜け「御殿庭上」に着くと、前面の景色が今までと一変した。
標識の上に見える宝永山の山頂の右は、斜面になって下っていて双子山に延びている。
一方左側山頂の下からは、平らな土手のようになっていて、その向こうには高いピ-ク見えている。その間からガスが
湧き出ているのをみると、あそこは火口になっているのだろう。
 
 カメラの向きを変えてもう1枚撮ると、宝永山から平らに見えた土手はかなりの傾斜していて、その傾斜を辿って
行くと、今度は登りになった先に丸いピークが見えている。そのピークをよく見ると、何やら標識のような物が立っている。
きっとあれが山体観測装置のあるピークと思うのだが、標識らしき物は見えるが装置そのものは見えない。
そこに向かう道は、写真下にある白い印の石(「ごてんにわ」と書いてあった)の横を通り標識に向かう。
その先は斜面をトラバスするように道が、土手の上の緑の草が見える所に続いていた。何かワクワクしてきた。

 実は今日の予定は、ここ御殿庭上から観測装置までは登らず、御殿庭中へ抜ける道を予定していた。
理由は観測装置下のあのズルズル下がる道を登るのが嫌だったのだが、前に見える道は斜め続く道なので、左程
大変そうではない。それに今日は海から富士山と違い、疲れの度合いが全然違う。
今の時間は9時40分で予定より1時間ほど早くなっている。ここから観測装置の往復は約1時間。
それならあそこまで行ってきても予定時間内におさまる。もうこうなると我慢できなかった。

 
             御殿庭上                                 宝永山第3火口壁?

 斜面を横切る道の脇にイタドリかオンタデなのか分からないが、葉が紅葉し今にも枯れそうな群落が幾つもある。
トラバスの道はズルズルせず快調に歩けたので、思ったより早く水平に見えた土手の上に着いた。
そしてその壁の向こう側は大きな穴の開いた火口になっていた。
宝永山の第2火口なのだろうか、その火口の中には紅葉した草の群落が幾つも見えていた。

 
           草の黄葉                                   宝永山第2火口

 左側を見ると火口の稜線が山体観測装置のピークまで続いている。途中には所々に草もあり歩き易そうにみえる。
休みを取る事もなく観測装置に向かう。途中で振り返ると、宝永山から火口に沿った稜線が見えていた。
御殿庭上からの道は、この稜線の草の終わった所に出ていた。

 山体観測装置まではあと一息だ、頑張ろう。

 
          山体観測装置のピ-ク                           宝永山と第2火口                   

富士山・御殿庭と双子山

2013-10-18 11:17:45 | 低山歩き
  富士山・御殿庭の黄葉と双子山                              歩行月日2013/10/17

歩行時間:5時間30分 休憩時間:0時間50分 延時間:6時間20分
出発時間:7時20分   到着時間:13時40分
歩  数:  20、319歩   GPS距離:
行程表
 御殿場口新5合目 0:55> 幕岩 1:00> 御殿庭入口 1:10> 山体観測装置 0:45> 御殿庭入口 0:40>
 下双子山 0:25> 上双子山 0:35> 御殿場口新5合目

 御殿場口新5合目に着いたのは6時50分だった。途中国1バイパスで積荷の落下事故の渋滞にはまり40分程停滞
したが、家を早く出たお蔭で予定通りの出発ができる。早起きは三文の得だ。
 新5合の駐車場には3台の車が停まっていて、その1台から大きなザックを担いだ若者が2人、丁度出発する
ところだった。今ここを出て明るい内に戻って来れるのは無理そうだが、ザックにはテントらしき物は見えない。
山小屋は全て閉まっているが、どんな予定なのか聞いてみたくなる。
 
 寒い!今日の格好は半袖の肌着に長袖のシャツを着ていて、薄手の防風ジャンパーとダウンのジャンパーを持って
きている。早速薄手のジャンパーを着たがそれでも寒い。
気温は何度あるのだろうと温度計を見ようとして気が付いた。今日は合羽やジャンパーが有ったので町歩きの小さな
ザックを大き目なザックに変えてきた。その小さなザックの方に温度計やGPSの距離計が付いている。失敗だ。

 幕岩の入口は第1駐車場の富士山に向かって左側にある。入口には大きな看板で「幕岩・二ツ塚(双子山)入口」
あるのですぐ分かった。
その看板の後ろ上に、鉄と鎖で道を封鎖してある入口があるが脇から簡単に入れる。何のための封鎖か?多分車の
進入禁止の為だろう。そう思えば気が軽い。
天気は上々、予報通りの行楽日和で景色も堪能できそうだと気分は良好。

 
          御殿場口新5合目・幕岩入口                幕岩への道が遮断されていた         

 入口から5分で樹林帯の中の道になる、道の後ろを振り返れば火山灰の道の向こうは背丈の低い草がある。
御殿場口は新5合目が森林限界地で、歩き出す所から火山灰の道になる。しかも標高は1450mで富士宮口の2400mに
比べれば950mも低いのだから登山者が少ないのもうなずける。御殿場も登山者や下山者を増やすだけでなく、この
眺めの良い駐車場や幕岩・双子山のハイキングコースを上手にアピールしたらどうだろう。ここなら7・8月の夏山
シーズンだけでなく、冬以外は利用できるのだから。
今日はご来光の時間に間に合わなかったが、ここからの日の出だって魅力の一つになるのではないか。

 枯草の向こうの雲の合間から「天使の梯子」が見えるが、あれは今日の吉兆のサインか。

 
       幕岩ハイキングコース入口                     火山灰の登山道と天使の梯子    

 林の中は快適な爪先上がりの道が続き、周りの木は紅葉には少し早すぎたのか、余りイヤ殆ど紅葉していない。
時折御殿場市で付けてくれた木の名前の看板に「ナナカマド」があったが、それさえも青いままだ。
前回宝永山の帰りに歩いた、須山御胎内周辺も気持ちの良い森の中の道だったが、ここも負けていない。
ほら! こんなに雰囲気のある橋もあるのだから。

        
          林の中の道                           雰囲気のある橋

 出発する7時丁度に大砲の音がし始めてズーット続いている。先程の木の橋を渡った先で、木の間から大砲の弾が
着弾したのか噴煙が見えた。小さいながらもきのこ雲の様相を示している。
更に行くと今度は噴煙が横一列に上がっていたが、風に流されすぐ消えてしまう。こちらは大砲ではなさそうなので
機関銃か? しかし機関銃なら着弾しても噴煙は出ないだろう。よく分からない。
この演習の音は8時になるとピタリと止んだので1時間制か、それならこんな朝早くから、やらなければよいのにと思う。
御殿場市民は苦情を言わないのだろうか、それとも慣らされてしまったのか。
砲弾の音は10時なると再開し11時まで続いていた。

 静岡県は、富士山が世界文化遺産に登録されてから、「信仰の山・富士山の自然は大切」に、と言っているが
こんな音や砲弾の噴煙を見ると、逆に反発を覚えてしまうのは私だけだろうか。

 前方に川床が岩になっている沢が出てきた。これが幕岩に続く沢なら思ったより早く着いた。
実は今日の心配の一つに、幕岩の沢に水が出ていたらどうしょうと思っていた。一昨日の台風は大島の大きな爪痕を
残したが、富士山にも大雨を降らせている。その水がまだ残っていたら------
TVで地質の専門家が「大雨が降ると72時間は地中に大量の水が溜まっているので注意が必要だ。だが火山灰土壌の
所はそれより早く排出される」
と説明していた。
昨日の午前6時頃雨は止んだので、すでに25時間以上経っている。72時間より短いが、ここは完全な火山灰で傾斜も
強いので、雨水はすぐ排出されてしまうだろう。
何とも都合の良い解釈だが、沢の岩の上には水分は何も無く、川岸の砂にも湿り気さえなかった、
この沢に水が流れるのは雪解けの頃か、須走口には雪解けの頃出現する「幻の滝」があるが、ここもそうだろうか、
聞いた事はないが水が流れれば滝になる。そうなればここもアピールの一つになるかもしれないな。

       
            大砲の噴煙                          岩の川床 

 幕岩正面の岩の上から、雪解け水が滝になって落ちてくれば、確かに見栄えはするだろう。その水は岩床の上に
落ち、滑川のように流れていく。確かに一度は見てみたい景色だ。だが岸壁の植物の状態を見ると毎年流れの強い
川の流れに晒されているようには見えない。

 新5合目から幕岩までは55分で着いてしまった。チラシの標準時間は90分になっているで、他の場所もこうだと
随分早いゴールになってしまう。慌てずに歩こう。
前回もそうだったが、今日も幕岩に着いたら雨がポツポツしてきた。それは無いよな。昨夜の天気予報のポイント
情報では御殿場市や富士市では、雲は一つも無く、太陽と星のマークだけだったのに。
雨は合羽は勿論、傘を出す必要も無いくらいだが、それが降ったり止んだりする。

 
               幕岩                             幕岩の看板

 それでは前回も紹介した地図で、今日の行程を説明します。

 今日の行程は、右端にある御殿場口新5合目から灰色の太い線を辿ってください。
新5合目から下側の線で幕岩に行きます。幕岩のすぐ上のある幕岩上から左の道を三辻に行きます。
三辻からは小天狗塚、御殿庭入口と行き、そこからは御殿庭の右側の道を御殿庭上、山体観測装置まで登ります。
この山体観測装置の上下の道は水ヶ塚からの直線コースです。
帰りのコースは薄ピンクの線で表してあります。
まず山体観測装置からは同じ道を御殿庭上まで戻り、そこから御殿庭中へ方向を変えます。
御殿庭中から御殿庭下に向かい、そこでまた向きを御殿庭入口に変えます。
御殿庭入口からは行きに通った道を三辻まで戻り、四辻、下双子山、上双子山の山頂を歩いて新5合目に帰ります。



 突然ですが、今妻から声が掛かった。これから温泉に行ってきます。