21番目 ~ 40番目 地蔵 歩行月日2013/09/23
歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分 到着時間:18時35分
歩 数: 58、500歩 GPS距離:43.4km
行程表
安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番
0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
0:30> 安倍川駅
35番目(40番) 円光院(シロバナクズ)
新光明寺から新東名の入口まで戻り新しい橋を渡った。この新東名の橋は2段式になっていて、下が一般道に
なっているのは知っていたが、その道に歩道があるのか若干の不安があった。だが心配は無用で広い歩道がつい
ていた。この橋を渡る車も少なかったが、歩道を歩くのは私だけで、涼しい風の吹き抜ける日影の道は最高だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/e5/1725ef85c281ad597ae7c7e48a817921.jpg)
新東名安倍川橋 右岸入口
安倍川を渡ると、今度は賎機山から北に続いている山脈の途中にある桜峠を越え、山脈の東側の麻機に
向かう。峠といっても桜峠は標高差の少ない峠なので、さほど気にする必要のない峠だ。
桜峠の手前の鯨ヶ池に到着。この池には過去3回ほど来ているが記憶は何も無く、池を見ても何も思い出せない。
今は釣り堀のようになっている池では、釣り人が何人か釣り糸を垂れていた。
峠を過ぎて道が下りになった分岐で、新東名の下を行く道に入る。道の両側は相変らず葛がはびこっている。
その葛の葉の中に白い花が見えた。何だろう? 葛の花は濃紺紫色なのに白い色とは。近付いて花の元も見るが
屑の蔓に繋がっている。間違いなく葛の花だ。突然変異か、それとも新しい発見か、と一瞬興奮するが周りには
白い花がチラホラ咲いている。こんなに咲いているようでは珍しい物ではなさそうだ。
家に帰り葛を調べると「葛の花色は一般的な濃紺紫色、白花のシロバナクズ、淡桃色のトキイロクズがある」が
あるそうで、特段珍しい色ではないようだった。
今年もこの屑の蔓には散々な目にあった。一番大変だったのは大崩山塊の万葉の古道の標識のある赤坂峠から
国道150線のトンネルの上を越えて小坂に出る道だった。中腹の林の中は道が無くても登れたが、日の当たる
尾根の廃茶園の所に出ると、辺り一面葛でビッシリ埋まっていて入る隙間が無い。仕方なく屑の蔓の上を行こうと
するが、年と共に柔軟性を欠いた足は、中々上まで上がらない。高々10mか20mだったが、時間と体力を奪われ
疲れ果ててしまった。
しかし今日は大丈夫。舗装された車道を快適に下って行ける。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/df/b897513a392576536f3eb12bee3cce22.jpg)
鯨ヶ池 白い葛の花
道のアップダウンが凄い。桜峠は屁でもなかったがここは疲れる。上を見上げると新東名の橋桁が高く見える。
余りに高くて不安を感じてしまう程で、若し地震が来たらこの橋桁は崩れてしまわないか、崩れなくても地震の
揺れに共振して路面は車を運転できる状態なのだろうか。高層ビルの地震の揺れは以前から言われていたので、
新しい新東名は当然対応はなされているだろう。素人の私が心配する事では無いが不安を感じてしまう。
下の方にお寺の屋根が見えていたが車道はグルリ回り込むように延びている。近道は無いかと畑の中を少し
下ったが止めにする。急な坂を下って若し道が無ければ下った坂を登り返さなければならない。急がば廻れだ。
寺の入口に「浪曲師武蔵屋嘉市の墓について」と書かれた案内板が立っていた。
「浪曲の元祖は浪花伊助だとか、桃中軒雲右衛門と言われているが、武蔵屋嘉市は雲右衛門が大成する以前に
浮れ節の大看板だった人です。嘉市の墓は伝馬町の円光院にあったが昭和45年に円光院と共に当地に移った」
桃中軒雲右衛門の名は聞いた事はあるが、武蔵屋嘉市や浪花伊助は聞いた事はない。そこで調べてみると浪花
伊助は「明治の初期、大阪の芸人浪花伊助の芸が大うけし、演者の名前から「浪花節」と名付けられた」とあった。
だが武蔵屋嘉市は適当な物がヒットしない。考えてみれば武蔵屋嘉市が元祖なら、浪花節ではなく「武蔵節」に
なっていただろう。
円光寺に着いたのは13時45分。新光明院から1時間20分掛かったが距離は6k少々なので少し遅いようだ。
まだこの先は賎機山の東裾を歩いて静岡市街まで戻らなければならない。
果たしてあと6ヵ所も回る事が出来るか増々疑問になってきた。
円光院には百地蔵の痕跡も無く、早々に退出しようとしたら本堂の扉が開いていた。中を覗いてみると
地蔵尊像と不動尊像が一緒に祀られている。この地蔵尊が百地蔵なのだろう。と勝手に解釈して出発した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/13/5c997d63073c8f60bb4fc781b1e9f382.jpg)
新東名の橋桁 円光院内部
円光院の地図
歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分 到着時間:18時35分
歩 数: 58、500歩 GPS距離:43.4km
行程表
安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番
0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
0:30> 安倍川駅
35番目(40番) 円光院(シロバナクズ)
新光明寺から新東名の入口まで戻り新しい橋を渡った。この新東名の橋は2段式になっていて、下が一般道に
なっているのは知っていたが、その道に歩道があるのか若干の不安があった。だが心配は無用で広い歩道がつい
ていた。この橋を渡る車も少なかったが、歩道を歩くのは私だけで、涼しい風の吹き抜ける日影の道は最高だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/9e/50fda7502c56792a2f0c1cdd1a561606.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/e5/1725ef85c281ad597ae7c7e48a817921.jpg)
新東名安倍川橋 右岸入口
安倍川を渡ると、今度は賎機山から北に続いている山脈の途中にある桜峠を越え、山脈の東側の麻機に
向かう。峠といっても桜峠は標高差の少ない峠なので、さほど気にする必要のない峠だ。
桜峠の手前の鯨ヶ池に到着。この池には過去3回ほど来ているが記憶は何も無く、池を見ても何も思い出せない。
今は釣り堀のようになっている池では、釣り人が何人か釣り糸を垂れていた。
峠を過ぎて道が下りになった分岐で、新東名の下を行く道に入る。道の両側は相変らず葛がはびこっている。
その葛の葉の中に白い花が見えた。何だろう? 葛の花は濃紺紫色なのに白い色とは。近付いて花の元も見るが
屑の蔓に繋がっている。間違いなく葛の花だ。突然変異か、それとも新しい発見か、と一瞬興奮するが周りには
白い花がチラホラ咲いている。こんなに咲いているようでは珍しい物ではなさそうだ。
家に帰り葛を調べると「葛の花色は一般的な濃紺紫色、白花のシロバナクズ、淡桃色のトキイロクズがある」が
あるそうで、特段珍しい色ではないようだった。
今年もこの屑の蔓には散々な目にあった。一番大変だったのは大崩山塊の万葉の古道の標識のある赤坂峠から
国道150線のトンネルの上を越えて小坂に出る道だった。中腹の林の中は道が無くても登れたが、日の当たる
尾根の廃茶園の所に出ると、辺り一面葛でビッシリ埋まっていて入る隙間が無い。仕方なく屑の蔓の上を行こうと
するが、年と共に柔軟性を欠いた足は、中々上まで上がらない。高々10mか20mだったが、時間と体力を奪われ
疲れ果ててしまった。
しかし今日は大丈夫。舗装された車道を快適に下って行ける。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/42/8f2ea74cb1c73df225ab7b5a308946c2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/df/b897513a392576536f3eb12bee3cce22.jpg)
鯨ヶ池 白い葛の花
道のアップダウンが凄い。桜峠は屁でもなかったがここは疲れる。上を見上げると新東名の橋桁が高く見える。
余りに高くて不安を感じてしまう程で、若し地震が来たらこの橋桁は崩れてしまわないか、崩れなくても地震の
揺れに共振して路面は車を運転できる状態なのだろうか。高層ビルの地震の揺れは以前から言われていたので、
新しい新東名は当然対応はなされているだろう。素人の私が心配する事では無いが不安を感じてしまう。
下の方にお寺の屋根が見えていたが車道はグルリ回り込むように延びている。近道は無いかと畑の中を少し
下ったが止めにする。急な坂を下って若し道が無ければ下った坂を登り返さなければならない。急がば廻れだ。
寺の入口に「浪曲師武蔵屋嘉市の墓について」と書かれた案内板が立っていた。
「浪曲の元祖は浪花伊助だとか、桃中軒雲右衛門と言われているが、武蔵屋嘉市は雲右衛門が大成する以前に
浮れ節の大看板だった人です。嘉市の墓は伝馬町の円光院にあったが昭和45年に円光院と共に当地に移った」
桃中軒雲右衛門の名は聞いた事はあるが、武蔵屋嘉市や浪花伊助は聞いた事はない。そこで調べてみると浪花
伊助は「明治の初期、大阪の芸人浪花伊助の芸が大うけし、演者の名前から「浪花節」と名付けられた」とあった。
だが武蔵屋嘉市は適当な物がヒットしない。考えてみれば武蔵屋嘉市が元祖なら、浪花節ではなく「武蔵節」に
なっていただろう。
円光寺に着いたのは13時45分。新光明院から1時間20分掛かったが距離は6k少々なので少し遅いようだ。
まだこの先は賎機山の東裾を歩いて静岡市街まで戻らなければならない。
果たしてあと6ヵ所も回る事が出来るか増々疑問になってきた。
円光院には百地蔵の痕跡も無く、早々に退出しようとしたら本堂の扉が開いていた。中を覗いてみると
地蔵尊像と不動尊像が一緒に祀られている。この地蔵尊が百地蔵なのだろう。と勝手に解釈して出発した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/e1/e57d304f6f0d910a15ac34e9db4ffca5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/13/5c997d63073c8f60bb4fc781b1e9f382.jpg)
新東名の橋桁 円光院内部
円光院の地図