はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

湖北五山と神々の里-6

2011-05-19 15:17:39 | 寺社遍路
駅からウォーク
                「湖北五山と神々の里ウォーク」

金指駅 ― 宝林寺 ― 実相寺 ― 龍潭寺 ― 井伊谷宮 ― 天白磐座遺跡 ― 方広寺
 8:40     8:50      9:20     9:55      10:20       10:35       12:00
  0k     1.3k      3.0k     5.1k      5.8k        6.8k        13k
  
 ― 風越峠 ― 只木遺跡 ― 大福寺 ― 摩訶耶寺 ― 浜名惣社 ― 三ヶ日駅
    13:30     14:10      14:50     1520      15:40      16:00
    18.5k     21.5k      25.2k     26.5k      27.4k      28.6k

4、摩訶耶寺から浜名惣社と三ケ日へ


◎道案内
浜名惣社へ
①摩訶耶寺を出て先ほど来た道を南西の方に進む。
②右に菓子の製造会社(グリコ?)の前に神社の看板があるので、そこから入る。
三ヶ日駅へ
①浜名惣社の鳥居を潜り南西に行くと別所街道と出会うので左折する。
 右を見るとコンビニや県道が見える。
②古い大きな店の前を通り過ぎると信号のある四辻交差点になる。
 浜松行きのバスはこの交差点を左折すると三ケ日バス停がある。
 天浜線三ヶ日駅は交差点を直進する。
③信号のある西天王町の交差点を左折して、次の角を右に曲れば駅に出る。

◎道中記
     
                
               
                      神社パンフレットより

浜名惣社神明宮本殿の説明をそのまま書くと
「切妻造・茅葺の神明造建物である。厚板を立てて井桁に組み上げた壁をもつ板倉造の建物で、
屋根には神明造の特色のある千本(ちぎ)と鰹魚木(かつおぎ)がのり、妻は外側につく棟特柱で
支えれている」そうです。
難しい事は分らないが、古色蒼然とした階段の上にある社は、さすが国指定の文化財の雰囲気を
もっていました。



本殿階段の下には「天羽槌雄命社」(あめのはづちをのみことしゃ)と立札があり、養蚕や機織の
神様だと書いてある。機織の神様というと去年駿河一国33観音巡りで歩いたとき、富士宮の神社も
たしか機織や製紙の神様を祀ってあったはずだ。
調べてみると富士宮の倭文神社では織物や製紙の神である健羽雷神を奉っていた。

養蚕や機織と織物や製紙と表現は少し違うが同じような物だと思うが、奉ってある神様は天羽槌雄命と
健羽雷神と違っている。果たしてどちらの神様の方がご利益はあったか。
現在井の国といわれたこの奥浜名地方で繊維や製紙産業があるとは聞いた事がない。
一方雷神が居た富士郡は、今でも製紙産業が栄えている。
となると倭文神社の健羽雷神の方がご利益があったという事になるのかな。

灯篭の立並ぶ境内から拝殿を眺めると、その屋根の後ろには神々しい本殿が見えていて、何とも
云えない雰囲気を醸し出している。境内の入口には常夜灯の鞘堂が建っているが、その鞘堂も見事な
造りだった。東海道を歩いて鞘堂は何ヶ所も見たが、その中で「竜灯」と名付けられていた磐田の
鞘堂もあったが、そのどれよりも立派だと思う。なにせ、この鞘堂の屋根には鯱が乗っていた。

奥浜名に、こんな立派な神社があるとは知らなかったし、浜名惣社の名前も聞いた事が無かった。
まだまだ私は歩き足りないという事だろう。もっと歩かなければ。

境内の入口に立っていた神社の縁起書に嬉しい事が書いてあった。
「三種の神器を奉じて大和の国より伊賀・伊勢・美濃・尾張の地を経て御鎮座の地を定めよとの
思召しによって太田命の御先導で御船にてこの地に行幸になられて四十余日御行宮の後、
更に御神託によって勢州渡会の五十鈴川の辺に移御なされた」と書いてある。
そう私の空想どおり昔の浜名湖は湾だったのだ。だから三種の神器の一行も舟でこの地(三ケ日)
に着いたのだろう。

              

道案内で別所街道を左折すると書いたが、別所街道の別所とはどこにあるのだろうか?
まさか信州の別所温泉に続く街道なのか?まさかな。
YAHOOの地図で三ケ日から北に向かって辿ってみました。
三ケ日―宇利峠―新城―長篠―大野―湯谷温泉―東栄町―新野峠まで続き、そこからは
遠州街道と名前を変えて更に北に続いています。だが途中に別所と書かれた地名は見当ら
なかったので、今度は地図ではなく別所街道を検索すると、こんな表現をしたブログが
引っ掛かった。
「別所街道は、愛知県豊橋市から東栄町(昔の別所)までを結ぶ道です」
次に三ケ日から南の方向に地図を辿ろうとすると、別所街道の表示は三ケ日バス停の
あった三ケ日四辻の交差点で終っていた。
それでは遠江の別所街道は三ケ日から東栄町に続く街道だったのだろう。
街道の名前は行き先が同じなら出発地が違っても街道の名前は同じになるのだろ。
ただ気になったのはYAHOOの地図では豊橋から東栄町に行く道は伊那街道になっていた。

三ケ日の町に入り少し行くと左に古くて頑丈そうで大きな建物があった。現在その建物には
3軒ほどの店が入っているが昔は何の商売だったのだろう。2階を見ると旅籠だったような
感じもするが分らない。
こんな東海道から離れた片田舎にしては立派過ぎる程の商家だった。
昔、三ケ日が繁栄していた頃の名残を残しているようだ。

三ヶ日駅に16時ゴール。
今回の歩きは思いのほか楽しかった。奥浜名のこの辺りを井の国と呼ぶ事も初めて知ったし、
その井の国に見るべき物が沢山ある事も分った。今日は湖北五山をメインにしたが他にも
銅鐸の谷や古墳めぐり、幡教寺廃寺跡を初めとした廃寺跡散策。更には南北朝時代の古城跡
も幾つかある。そして極めつけは木喰上人の微笑仏まであるとなると、これで終りには出来ない。

ヨシ!この秋には井の国彷徨とでもして、何回かこの地を歩いてみよう。

   -----------------------------------------------------------------------

今回歩いたコースを私の所属する掛川歩こう会の例会で歩く予定です。
実施日はH23年7月24日(日)  集合は天浜線金指駅 8時40分です
コースは今回紹介した所を寄る予定ですが、拝観料を支払う場所に入る時間はありません。
詳しい事は7月になったら掛川歩こう会のHPで確認してください。

湖北五山と神々の里-5

2011-05-18 10:25:16 | 寺社遍路
駅からウォーク
                「湖北五山と神々の里ウォーク」

金指駅 ― 宝林寺 ― 実相寺 ― 龍潭寺 ― 井伊谷宮 ― 天白磐座遺跡 ― 方広寺
 8:40     8:50      9:20     9:55      10:20       10:35       12:00
  0k     1.3k      3.0k     5.1k      5.8k        6.8k        13k
  
 ― 風越峠 ― 只木遺跡 ― 大福寺 ― 摩訶耶寺 ― 浜名惣社 ― 三ヶ日駅
    13:30     14:10      14:50     1520      15:40      16:00
    18.5k     21.5k      25.2k     26.5k      27.4k      28.6k

  4、只木遺跡から大福寺・摩訶耶寺へ
  

◎道案内
大福寺へ
 ①遺跡より出て、もと来た道を西へと向かう。300m程で橋を渡り県道68号と合流したら右に進む。
 ②右に曲り2kmほど行くと県道308と交差する交差点になるので、そこを右折する。
  右に大福寺公民館、左に消防車の車庫がある。
 ③県道308を少し行き左の分岐道に入る。大福寺の仁王門を潜り北に進めば大福寺に到る。
摩訶耶寺へ
 ③大福寺の仁王門まで戻り、そのまま直進して東名の横の県道を南下する。
 ④東名のガードを潜る県道と別れ、左に曲り東に進む。
 ⑤川を渡りT路路を右折すれば摩訶耶寺に入る

◎道中記

県道68号を歩いていると左側に「みかんの里資料館」があった。さすが三ケ日蜜柑の産地だけの事は
ある。少し覗いてみようと近づいたが、どうも開いている気配はない。平日でしかもミカンの無いこの
時季に開いているわけはないと諦めて先に進む。

写真の都合で話が前後してしまうが、大福寺の仁王門から参道を行くと、掘割になった工事中の
道路の上を歩く。下を見ると中々立派な道路だが愛知県に抜ける道なのか?家に帰り大福寺のHPを
見ると「第2東名が参道下を横切る」と書いてあったが、第2東名にしては片側1車線しかなく狭すぎる。
きっと東名と第2東名の取付道路なのだろう。



大福寺の仁王門は杉木立も何も無い所にデンと建っていた。昔からこうだったのだろうかと疑問を
感じるほど殺風景だった。でも仁王門自体は県指定の文化財だった。



本堂に続く階段の両側には丸彫りと厚肉彫りの石仏がセットになり幾つも置いてある。
近づいてみると、その台座には「第一番」などと番号を彫ってあった。ならこれはきっと四国か
西国の霊場巡りを模した物だろうと思い案内板を見てみると、矢張り四国霊場の札所番号だった。
今まで何ヶ所かで、このような簡易霊場(?)は見たことはあるが、ここのように二体がセットに
なった石仏を安置してある寺は見た事は無い。
石仏の事は何も分からないが丸彫りの石仏はみな坊主頭で坐像になっている。頭には毛糸の
帽子を被せ、顎の下には涎掛けを掛けている。ならこの石仏はお地蔵様なのか?でもお地蔵様は
すぐどこへでも出かけれるように立像が多いとも読んだことがある。
右側の石仏は光背が付いていて像の形も少しづつ違うようだが、私には何と言う仏様かの見当が
つかない。だが四国霊場の一番札所は霊山寺、そしてご本尊は釈迦如来なのだから、この石仏も
釈迦如来なのか? しかし頭の格好からいっても違うようだ。



本堂をお参りして隣にあったお堂に行く。そのお堂の中には三人のお婆さんが座っていて、私が
賽銭を入れ、口の中で高祖寶号を唱えて帰ろうとすると
「お参りご苦労さんでした。 これはお接待です」と言って菓子の詰合せの小袋とティッシュを
差し出してくれた。「ありがとうございます。ところで今日はなんの日ですか」と聞くと
「1年に1度の大師様のご開帳の日です」ウワッ!儲け!ついていた。
堂内の扉が開いている仏壇の中には、坊主頭の博多人形のように白い仏像が安置されている。
「大師様と言うと弘法大師の事ですか?」と聞くとそうだと言う。ならこれが弘法大師かと思い
では「大福寺は真言宗ですか?」と確認すると間違いなく真言宗だった。
それなら階段にあった坊主頭の石仏は弘法大師なのか??



大福寺には国指定の重要文化財が幾つかあるが、それより一般的にはもっと有名な物がある。
それは浜納豆と呼ばれている納豆で、普通の納豆と違い糸を引くような粘りがなく、とても塩辛い
のが特徴です。外見は"ウサギの糞”と云えばドンピシャリな物です。
昔は浜名納豆と言っていたのが言い易い「浜納豆」に変化したいわれています。
また、大福寺で製造した浜納豆は大福寺納豆と呼び区別するようになったらしいです。

奥山で大餡巻を買い損ねたので、ここの浜納豆を土産に買っていこうと門(写真)の中に入る。
だが受付には誰も居ず、少し待ったが人の気配がしないので諦めて帰ってしまった。
じゃー写真の浜納豆はなんだ!と怒らないでください。あれは三ケ日の町の中に入り、例により
完歩の乾杯用に氷結を買いに入った酒屋で500円で購入した物です。
店の人の話ではこの浜納豆は大福寺製だという事でしたが、大福寺のHPでは1包700円となって
いたが、これは500円なので大福寺製かどうか真偽の程は分りません。
ただ初めての人は量の少ない方が無難かもしれませんね。ともかくショッパイですから。

   

大福寺の仁王門まで戻り、道を南下し始めると交差点の角に古めかしい時計台が建っていた。
時計には「贈 モロカジ時計店」と書かれている。台座には何か格言の様なものが彫られていて
「昭和五年一月」となっていた。
これと同じような時計台は、東海道のサッタ峠の下の倉沢間宿でも見たが、中々風情があって
いいものだ。時間もほぼ合っているし、今でも利用価値は充分ありそうだ。

湖北五山の最後の寺、摩訶耶寺に3時20分に到着。この寺には国の重要文化財の仏像や、
県指定の庭園があるが、どちらも拝観料を払わなければ見ることが出来ない。
今日の目的は湖北五山を一日で歩いて回れるかの実証が主のため、ここまで拝観料を払って
入った寺はなかった(ケチを隠すための理由付けか)。
しかしそれなりに見るものが有り満足してここまで来たが、ここの摩訶耶寺には見るものが
何も無い。今更お金を払うのも嫌なので境内にある石仏や神社を見ながら休憩をした。

湖北五山と神々の里-4

2011-05-16 17:52:20 | 寺社遍路
駅からウォーク
                「湖北五山と神々の里ウォーク」

金指駅 ― 宝林寺 ― 実相寺 ― 龍潭寺 ― 井伊谷宮 ― 天白磐座遺跡 ― 方広寺
 8:40     8:50      9:20     9:55      10:20       10:35       12:00
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 ― 風越峠 ― 只木遺跡 ― 大福寺 ― 摩訶耶寺 ― 浜名惣社 ― 三ヶ日駅
    13:30     14:10      14:50     1520      15:40      16:00
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4、磐座遺跡から奥山方広寺へ

◎道案内
①岩座遺跡から神社の横に下ったら、川沿いに西北に延びる道を行く。
②道が二手に別れているので、下に橋が見える左の道を下り学校の裏を進む。
③左より狭い橋から来る道と合流するので右折してその道を道なりに進む。
④県道303号に出たら県道を横断して竜ヶ岩洞入口の看板の指示方向に進む


⑤竜ヶ岩洞入口にはトイレがある。道はそのまま直進する。
⑥寺の前を通り道なりに進んで行くと、人家出てきて山の方に進む道があるがあるが
 その道には入らず、その道の袂に細い道が西に延びているので、その道を登る。
 (分りにくければ点線のように県道を横断しても合流する)
⑦奥山神社を過ぎて信号で県道を横断する。


⑧川を渡り合流した道を右折して川を右に見ながら進む。
⑨会社の所で橋を渡り県道に合流したら県道を横断する。左折して商店の前を進む。
⑩少し行った所に半僧坊の道標があるので、それに従い右の道を登る。
⑪道なりに行けば方広寺に続く県道に出る。途中にあるバスの駐車場に行けばトイレもある。
⑫県道を道なりに進むと右に鳥居があり、参道の店屋街を通っていけば方広寺の総門に出る。
 更に進むと山門になるが、その先に料金所がある。

◎道中記
磐座から下って川沿いの道を北に向かう。森の中の道には所々に大きな石が転がっていて、
その先には川の渕が覗ける風情のある道だ。
古代人がここに磐座の岩を運んだとは思わないが、ここの磐座は磐座があったから井の国が
出来たのか、それとも井の国が出来てから磐座を指定したのか。

鍾乳洞で有名な竜ヶ岩洞の入口に来た。鍾乳洞はここを右折していくのだが今日は中に入る
気はないので素通りにする。時間は11時10分、昼にはまだ早いが少しお腹が空いてきた。
しかしトイレはあるが日陰が無い。もう少し先まで頑張ろう。

正法寺の前を通り人家が出てきた。手持ちの地図ではこの辺りで右に曲り県道の北を歩くように
なっている。折りよく右に道があったが、この道は今来た道を戻るように北に向かっている。
この道では無さそうだ、とその道の入口を見ると畑に続くような細い道があった。まさかと
思ったが試しに登ってみると道は先に延び県道が下に見える。多分この道だろうと進んで行くと
石仏や神社もあり、この道が街道だったことがわかった。

奥山のバスターミナルを過ぎて方広寺の行く県道に出た。今日はここで大餡巻を土産に買っていく
予定だ。以前歩こう会で来たとき土産に買って帰ると「餡が沢山だがサッパリしていて美味しい」
と妻が言っていたので、今日は点数稼ぎの意味で買って帰る予定だ。
だが似合わないことは出来ないもので、お店は定休日だった。



方広寺の総門を潜り境内に入ると大きな案内板が立っている。読んでみるとここも後醍醐天皇が
関係していた。
「後醍醐天皇の皇子、無文元選禅師を開山と仰ぎ建徳2(1371)年に建立した寺」とある
井伊谷宮の宗良親王は1338年に井伊谷に来ているので30年の差がある事になる。
だがその後50年も宗良親王は井伊谷を本拠に活躍したのなら、兄弟がこの地で何度か再会していた
かもしれない。ただ気になるのは方広寺は臨済宗で、宗良親王は天台宗の座主に2回もなった事だ。
兄弟で宗派の違う座主や開山になるという事は、本人の知識や能力でその地位に着いたのではなく
天皇の皇子という、親の七光りに過ぎなかったのだろう。(不敬罪になるかな)
もう一つ気になるのは宗良親王が天台宗の座主だったのにも係わらず、龍潭寺は臨済宗だ。
しかも引佐、細江、三ケ日の井の国は天台宗の寺は一軒もない。これは何を意味するのだろう。
言われているほど宗良親王は力が無かったのか、活躍しなかったのか、それとも宗教には興味が
無かったのか。いや若しかすると宗良親王の南朝方が敗北したため、後難を恐れた井の国の天台宗
の寺は宗旨変をしたのだろうか。

一方方広寺の無文元選禅師(満良親王)はそれなりの実績をあげている。禅師の徳を慕って付いてきた
半僧坊(大権現)や方広寺を臨済宗方広寺派総本山にするなどの実績がある。
となると井伊谷宮の栞に書いてあった宗良親王の「井伊谷で50年の活躍」は眉唾だろう。



朱塗りの山門は戦後に再建された物で、ここまでは無料で拝観できる。
また方広寺の名物五百羅漢もその一部を見ることが出来た。


4、奥山方広寺から只木遺跡へ

◎道案内
①方広寺から出たら広場を越し一番左にある県道68号を南西の方向に進む。
 あとは風越峠まで68号を歩く分りやすい道が続く。


①風超し峠を少し西に行った所で県道と別れて左の車道に入る。分りやすい道を道なりに下る。
②県道308号に合流したら右折して下っていく。
③最初の右側への分岐に出たら、舗装の無い(?)細いミカン畑の道を下る。
 左前方には湾曲した県道が見えるので 遠回りになるが県道を歩いても良い。
④ミカン畑の道で左に分岐する道(途中で消えていない)があったら左折して行けば県道に合流する
 左折しなくて直進しても県道に合流するので、好きな道を行けばよい。
⑤道が太くなった左側に公衆便所がある。そこが只木遺跡の入口で遺跡は20mほど中に入る。

◎道中記
方広寺をでて県道に入ると道は下り坂になり、これで登りは終ったかとホッとする。
だが下に流れている川の流れは反対だ。と言う事はまだ登りがあるのだろうか。
その期待にたがわず富幕公民館を過ぎて暫く行った辺りから登り道が始まった。車道なので
直登はしていないがヘアピンカーブが何ヶ所かある。それでも車は殆ど走っておらず植林された
木が陽射しを遮ってくれるので歩きやすい。フーフー言いながらやっと風越峠に着いた。
句碑が立っていて「涼しさや 休む風越し 富士をみて」とある。
ウーン確かに涼しい。だがここから富士山が見える? 一度見てみたいものだ。



県道脇のトイレに着いたのが時2過ぎ、距離は21.5kとまだ少ないが、只木遺跡はここから
どの位先にあるのだろう。余り遠いと嫌だなと少々弱気になった。それでも三ケ日原人の遺跡は
以前から見たかったものだ。思い切って入口を進むと。
何だここがそうかと思わず拍子抜けする程の近くに遺跡はあった。

昭和33年ここで2万年ぐらい前の洪積世人類のものと思われる骨片が、洪積世に生息していた
獣骨と共に発見されて、発見場所の地名を取って「三ケ日原人」と命名された。
その後平成12年に入り新しい鑑定法で計測すると、その人骨は縄文時代のものと判明し
三ケ日原人は三ケ日人に格下げになってしまった。
昭和33年というと私は中学生の頃だが、勉強嫌いの癖に何故か三ケ日原人が発見された
ニュースは覚えている。

遺跡内にある案内板を見ても原人とは書いてないが、原人が縄文人になった経緯も書いてない。
地元としては格下げはショックだったか知れないが、これは書いた方のが良いと思う。
三ケ日原人と一時は呼んでいた事は恥ではないし、権威が下がることでもないと思うのだが。

それにしても小さな穴だ。ここの発見のきっかけは石灰岩の採掘だったとあるが、この穴は
その採掘時に開けたのか、それともこの穴の中に人骨があったのだろうか?
余りに浅く小さな穴なので雨風も入ってしまい骨などは溶けて無くなってしまいそうだ。

それともう一つの疑問は人骨と同時に発見された、洪積世に生息していたアオモリゾウの牙、
トラ、オオツノジカ、オオカミなどの獣骨はどうして同じ場所にあったのだろうか。
時代が違うのだから当然三ケ日人が狩をしたわけではない。たまたま偶然に同じ場所にあった
だけなのだろうか。
その辺の説明があるとこの只木遺跡はもっと面白くなるのだが。

湖北五山と神々の道-3

2011-05-13 08:49:20 | 寺社遍路
駅からウォーク
                「湖北五山と神々の里ウォーク」

金指駅 ― 宝林寺 ― 実相寺 ― 龍潭寺 ― 井伊谷宮 ― 天白磐座遺跡 ― 方広寺
 8:40     8:50      9:20     9:55      10:20       10:35       12:00
  0k     1.3k      3.0k     5.1k      5.8k        6.8k        13k
  
 ― 風越峠 ― 只木遺跡 ― 大福寺 ― 摩訶耶寺 ― 浜名惣社 ― 三ヶ日駅
    13:30     14:10      14:50     1520      15:40      16:00
    18.5k     21.5k      25.2k     26.5k      27.4k      28.6k

2、実相寺から龍潭寺、井伊谷宮へ
      

◎道案内
・実相寺から出たら今来た道を北に向かって進む。
・奥山半僧坊の道標のある最初の交差点を左折する。(左奥に墓が見える)
・墓の北側の下り坂の道を行く。
・道なりに進むと石仏と道標があり、そこから北西の方向に井伊谷宮の森や橋が見える。
 そこに行く道も見えるので国道を北に向かい、コンビニを通り過ぎて太い道を行くも良し、
 私のように田圃道を行ってもよい。橋の名前は禊橋だった。
・禊橋を渡ったら北西向かう斜めの小道が龍潭寺への近道。
・龍潭寺の井伊家歴代の墓を通り過ぎれば井伊谷宮の宗良皇子の御陵の前に出る(案内板有)
・井伊谷宮の参拝が済んだら鳥居を潜り県道に出る。

◎道中記

     

実相寺を出て北に向かうとすぐ奥山半僧坊の道標がある。「左 奥山半僧坊エ貮里四町」と
なっている。さっきの道標より六町近くなっていた。
途中にあった橋の名前が禊橋となっていたが、昔はここで川の水身を清めてから井伊谷宮へ参拝
したのだろう。橋の正面に見える森が神社の森だ。



実相寺から龍潭寺までは思っていたより近く35分ほどで着いてしまった。寺の入口に「井の国」に
ついての案内があったので読んでみた。
「ここ遠州井伊谷は、古代井の国と呼ばれていました。清らかな水が豊に湧き出る土地でした。
古墳時代には前方後円墳などが造られていて、古代井の国には井の国王が住んでいたことを
物語っています」
アレー井の国は細江、引佐、三ケ日の3町に跨っていたのではなかったのか。この案内では
井伊谷が井の国といっている。
ここが井の国なら「井」とは浜名湖を指しているのではない事なる。ところで「井」とは「い」と
読むんでしょうね? 「井」は他にも「せい」とか「しょう」とも読むけど、井の国にルビが振って
ないので正確な事はわからない。いやルビが無いから「いの国」だと思うのだが。
「井」の意味には、水の出る所に人や家が集る所(市井)とか、四角に区切られた場所などがある。
仮に水の出る場所を浜名湖にするなら、旧3町が井の国を構成していた事になるのだが。



龍潭寺の仁王門は正面に仁王像、裏に阿吽の狛犬が安置されていました。
生憎寺は工事中で本堂などはH23年9月頃までは拝観できないようなので、そのまま素通り。
案内板の井伊谷宮に誘導され井伊家歴代の墓所に行くと、そこの案内板には井伊谷宮が書いて
ない。折りよくいた墓参りの人に井伊谷宮への行く道を尋ねると県道に戻ってから井伊谷宮に
行くと言う。失礼だと思ったが「もう少し奥に行ってみます」と言っておくに進むと。
なんだ、すぐ井伊谷宮の陵墓に出た。



宗良(むねなが)親王の陵墓の前には、宮内庁の案内板があり
「後醍醐天皇皇子 宗良親王墓 一、みだりに域内に立ち入らぬこと 一、魚鳥を取らぬこと
一、竹木等を切らぬこと 宮内庁」
だって。なんだ詰まらない。屋根付きの立派な表示板に似合わず中身が無さ過ぎだ。

井伊谷宮の栞によると、宗良親王は後醍醐天皇の第四皇子(文化財探訪では第八皇子)で
井伊谷宮を本拠に50年南朝のために活躍したとある。しかし実際は1338年に東北に行く途中
船が座礁して遠江国に漂着し、井伊谷の井伊家に身を寄せる。
その2年後の1340年北朝方に攻められ、井伊谷城は落城し宗良親王は信州や越後方面に逃亡
している。それからも井伊谷には訪れた事はあるが、とても50年も本拠地として井伊谷に
住んでいたわけでは無さそうだ。なのに墓があるのだから歴史は面白い。
それにしても信州や越後にも宗良親王の墓はあるのだろうか。

神社を見ていると先ほどの墓参りの人が
「お墓から井伊谷宮に抜けられたのですね。何十年もお墓参りをしていたが知らなかった」
と感謝されてしまった。

2、井伊谷宮から天城磐座遺跡へ


◎道案内
・井伊谷宮の正面から県道に出る。県道を北に向かい神宮寺交差点の信号を左折する。
 (最初の信号を①のように団地の中を歩いてもよい)
・②の鰻屋の前で左折し、少し南下したらお寺の北(上)側の道を西に向かう。
・渭伊神社の境内に入り、神社の左側に2本の道があるので、その1本目の道を上に登ると
 すぐ磐座遺跡がある。

◎道中記



渭伊神社。今度の「イ」は「井」ではなく「渭」となっている。きっと古くはこの地は渭伊谷と書いて
いたのだろう。「渭」に何か意味があるのかと思い調べたが良く分からなかった。

磐座(いわくら)とは何か。
私は磐座とは「神様が降臨する岩場」と理解していました。依って東海道などに良くある「家康の
腰掛岩」とかと同じような物のだが、何しろ座る相手は神様ですので、何でもない石が一つあって
磐座とするわけにはいきません。
そこで深山奥深い鬱蒼と繁った森の中にある岩場などが、磐座になると思っていました。
ところがここの磐座はどうでしょう。住宅地から左程離れていず、高さも丘と呼ぶ程度の高さで
簡単に行けてしまいます。これでは降臨した神様も余りに俗世界に近くて驚くことでしょう。
だがこの天白磐座は案内板によると
「約40m四方にわたって群在する巨石群を神の磐座とした我国屈指の規模をもつ古代祭祀遺跡」
となっていた。確かにここ磐座は町に近いのに、それなりの雰囲気は持っていました。

湖北五山と神々の里 -2

2011-05-12 10:47:43 | 寺社遍路
駅からウォーク
                「湖北五山と神々の里ウォーク」

金指駅 ― 宝林寺 ― 実相寺 ― 龍潭寺 ― 井伊谷宮 ― 天白磐座遺跡 ― 方広寺
 8:40     8:50      9:20     9:55      10:20       10:35       12:00
  0k     1.3k      3.0k     5.1k      5.8k        6.8k        13k
  
 ― 風越峠 ― 只木遺跡 ― 大福寺 ― 摩訶耶寺 ― 浜名惣社 ― 三ヶ日駅
    13:30     14:10      14:50     1520      15:40      16:00
    18.5k     21.5k      25.2k     26.5k      27.4k      28.6k

今回の案内は自分よがりの感想や妄想は極力避けて、道案内に専念しようと思います。
何故? このコースは車道歩きですが車も少なく、また見るものも沢山あるので興味が尽きません。
是非このブログを見ている人にも、歩いてもらいたいと感じたからです。

           このルート図はスタートからゴールを表示した物です。
   

1、金指駅から初山宝林寺と実相寺へ


◎道案内
・天浜線金指駅前から国道362号に出て東に向かう。10分ほど歩くと左側に「初山宝林寺」の看板がある。
・実相寺には今歩いてきた国道を西に戻り、最初の信号を右折して登り道に入る。
・最初の西に向かう道を右折して暫く直進する。
・道がT路でぶつかったら右折して北に向かう。
・最初の角を左折して西に向かう。引佐赤十字病院の前を通りすぎ、交差点を直進する。
・次の交差点で右折する。歯医者の前を通り、道なりに進む。
・突き当たった道を右折して暫く行くと左側に実相寺がある。


◎道中記

黄檗宗?見たことのない宗派だし、だいたい何て読むのだろう。
「おうばくしゅう」やはり聞いた事はない。Wikipediaには次のように解説してあった。
「江戸時代初期に中国から招聘された中国臨済宗の隠元禅師により始まる。当初、正統派の
臨済禅を伝えるという意味で「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」を名乗っていた。
明治に入り禅宗を臨済、曹洞の二宗と定められ、強引に臨済宗黄檗派に改称させられたが、
明治9年黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった」そうです。

国道から見ると階段の上に山門が見える。山門の上には金色で書かれた「初山(しょさん)」の
文字がくっきりと浮き出るように見える。この扁額は日本にインゲン豆を伝えた隠元禅師の書だという。

正面に見える本堂はここでは仏殿と呼んでいて、中国風建築様式を伝えていると案内には書いてあるが、
私の目には茅葺の屋根のせいもあり、どちらかというと純和風の寺にしか見えない。
しかしどっしり落着いた感じで、さすが国の重要文化財のことはある。



いま8時50分。まだ料金所は開いておらず誰も居ない。さてどうしよう。
よし!少し境内を見させてもらおう、と勝手に境内の中に入ってしまった(ご免なさい)。
仏殿の横手に回ると、これもまたどっしり構えた農村の庄屋のように見える建物があった。
屋根は茅葺で、しかも軒に反りがなく和風の物にしか私には見えない。
この建物は方丈と呼び住職の起居堂だという。これも国の重要文化財とのことだった。

方丈手前横の阿弥陀三石仏の前に「金鳴石」が置いてある。説明を読むと
「「支那金鳴石初山永宝」と彫りこまれ独湛禅師が中国から持ってきた摩訶不思議な石。
叩くと澄んだ音がなることから「金鳴石」とよばれ、商売繁盛の石「お金の成る石」としてお参りが絶える
ことがない。まず、龍文さまに願い事をして金鳴石を叩くとその願い事が叶うと云う。」
そこで置いてあった石で金鳴石をそっと叩いてみると、確かにカーンと澄んだ音がした。
早速願い事をしたのだが、説明には「龍文さまに願い事をして」と書いてある。龍文様とは何だ?
阿弥陀三石仏の事なのか。いやどうも違うようだ。だが周りにはそれらしき物は無い。
これでは今の願い事は叶わないだろうな。手順も踏んでないし、しかも拝観料も払っていないのだから。

      

実相寺に続く道は奥山方広寺の遍路道だったのだろうか「奥山半僧坊大権現へ三里」と彫った
道標がある。この道標を辿って方広寺まで行けたら面白い遍路道が出来そうだが、この道標は
今日予定してあるルート上に果たして幾つあるだろうか。

道脇に頑丈そうな民家があった。2階の格子も太く普通の民家の格子とは違う。お蔵とも違いそうだし
何に使っていたのだろう。



国道から大分登ったのだろう実相寺の山門横からは金指の町が下に見えた。
この辺りを含めた旧引佐、細江、三ヶ日の三町の事を昔は井の国と称していたらしい。
「井」とは現在の浜名湖の事を指すのだろうが、古代には浜名湖南部は海か湖、または湿地帯が
多く、人の移動は浜名湖の北部の、この地方に限られていたのだろう。
そのためこの井の国は遺跡が多いのかな。

実相寺は湖北五山ではないが、立派な鐘楼門や庭園もある寺で、宗派は臨済宗方広寺派だった。
ではこの寺は半僧坊への遍路道に建てたのか、それとも寺があるから遍路道になったのか。



本堂正面にある扁額は宝林寺を開山した禅師の揮毫だとか。すると宝林寺の扁額は黄檗宗の宗祖
隠元禅師で、実相寺は宝林寺の開山した禅師ということになる。だが宗派が違うのに何故だろう。
少し気になりパンフレットを読んで理解できた。
実相寺の開山は1387年と宝林寺の開山より300年ほど早い。だがこの本堂を再建したのが1678年で
宝林寺が開山(1664)してからの事になる。その当時の宝林寺は「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」
と名乗っていたが臨済宗の寺だった。その臨済宗の誼で、明の国から渡来した独湛禅師に揮毫を
依頼したのだろう。そう考えれば辻褄は合う。 アースッキリした。

実相寺の庭園は、平成6年に枯山水庭園の石組みを発見した事で修復されたと書いてある。
それが今では静岡県指定名称庭園になっている。
では石組みが発見される前の、この庭園はどうなっていたのだろうか。
石はバラバラで築山は潰されていた。なんて事は無いですよね。
それにしても当時を知る人に聞いてみたい気がする。

湖北五山と神々の里 -1

2011-05-11 10:49:36 | 寺社遍路
駅からウォーク
                「湖北五山と神々の里ウォーク」

湖北五山とは浜名湖北岸の旧細江町の宝林寺。旧引佐町の龍潭寺、方広寺。旧三ヶ日町の
大福寺、摩訶耶寺の五か寺のことです。
湖北五山の名称は以前は聞いた事はありませんでしたが、最近になり五山のパンフレットを
駅で見かけるようになりました。そこでパンフレットを手に取り眺めて見るとなにやら1日で
歩けそうな雰囲気です。しかもスタートとゴール地点には天竜浜名湖線が走っています。
早速家でコースの概略を決め距離を計測すると30Km程度で収まります。
これでは歩かないわけにはいかないと細かなコースの検討に入りました。

手元にあった浜松市発行の「奥浜名湖文化財探訪」を開いてみると奥浜名湖は遺跡の宝庫で
旧石器時代から中近世に至る多くの遺跡が残されているようです。
中でも我国に初の旧石器時代の三ケ日(原)人の人骨発掘遺跡や銅鐸の谷などがある。

色々検討した結果、湖北五山に5箇所の遺跡を含めて次のようなルートにしました。
金指駅 ― 宝林寺 ― 実相寺 ― 龍潭寺 ― 井伊谷宮 ― 天白磐座遺跡 ― 方広寺
 ― 只木遺跡 ― 大福寺 ― 摩訶耶寺 ― 浜名惣社 ― 三ヶ日駅

これ以外にも銅鐸の谷など立寄りたい場所はあったが、一日の歩きコースでは無理でした。
今回五山以外の立寄り個所は全て五山遍路のルート上にあり、歩行距離は当初の30kmに変わり
ありません。
尤も立寄り個所とは、そのものズバリで立寄るだけで中の見学などはしません。
湖北五山の寺は全て有料の施設がありますが、今回は料金所より奥には入りません。
見たい所があれば後日再度訪れる事になります。

湖北五山案内
                    初山宝林寺(しょさんほうりんじ)
            
1664(寛文4)年、日本にインゲン豆を伝えた隠元禅師の弟子の独湛禅師によって開創された
黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院です。仏殿、方丈などの建物は国の重要文化財に指定されて
いる中国明朝風の異国情緒のある建築様式でます。
時間:9:00~17:00 無休     料金:中学生以上300円/小学生150円


                    龍潭寺(りょうたんじ)
            

733(天平5)年、行基菩薩の開山した古刹。小堀遠州作の庭園は国指定名勝。井伊谷は彦根藩
井伊家の出身地で龍潭寺には井伊家歴代のお位牌を祀ってある。臨済宗妙心寺派。
時間:9:00~16:30 休館日:8月15日、12月22日~27日 料金:大人400円/小人150円


                    方広寺(ほうこうじ)
            

開基1371(建徳2)年。禅宗臨済宗方広寺派の大本山で、寺の鎮守の神である半僧坊の信仰は
全国に広がっている。境内に数多く安置される五百羅漢が有名。
時間:9:00~17:00 無休 料金:中学生以上300円/小学生150円


                    大福寺(だいふくじ)
            

開基貞観17(875)年。国指定重要文化財の普賢十羅刹女像や池を配した回遊式の庭園が有名。
ここで作られる大福寺納豆(浜名納豆)は足利や徳川将軍家に献上された歴史を持つっている。
時間:9:00~17:00 無休 料金:大人500円(庭園のみ100円)


                    摩訶耶寺(まかやじ)
            

奈良時代開基の真言宗の古刹。鎌倉時代の庭園や国の重要文化財の千手観音像や木造不動明王像
がある。時間:9:00~16:00(8月10日休み)料金:大人300円、中学校200円、小学生100円


その他案内


                    実相寺(じっそうじ)
            

嘉慶元年(1387)開基の臨済宗方広寺はの古刹。県指定の枯山水庭園は無料で拝観できます。


                    井伊谷宮(いいのやぐう)
            

祭神は後醍醐天皇の第四皇子宗良親王。南北朝時代この地を本拠に南朝のために約50年間活躍
し、墓は本殿背後に西向きに建てられており宮内庁の所管地です。


                    天白磐座遺跡(てんぱくいわくらいせき)
            

渭伊神社の背後にある古墳時代(5世紀代)の巨岩祭祀遺跡。古墳時代の祭祀場は山の頂など
自然環境が厳しい所が多いが「井の国」といわれたこの地の祭祀場は容易に見学出る所にある。


                    只木遺跡(ただきいせき)
            

只木遺跡からは「日本を代表する旧石器時代の人骨、三ケ日原人の出土地として、脚光を浴たが
その後の調査により三ケ日原人は旧石器時代ではなく縄文時代早期の人骨と判明した」
現在は発見当時の面影を残す石灰岩採掘跡は整備されている。


                 浜名惣社神明宮(はまなそうしゃしんめいぐう)
            

ご祭神が天照大神の浜名惣社神明宮は国指定文化財で、延喜式にも載る古社です。拝殿背後の
石段の上に板垣に囲まれた本殿は、伊勢神宮と同じ古い神社建築様式を伝えている。


以上10ヶ所に立寄り、1日で30kmを歩いてきます。

静岡県の東海道 まとめ

2011-05-09 11:04:51 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」まとめ

小田原宿~赤坂宿 行程表

1回目(歩行距離36.5kM 延時間9:30)
小田原駅 ― 小田原宿 ― 箱根宿 ― 三嶋大社 ― 三島駅
  7:15                                16:45
2回目(歩行距離46.3kM 延時間10:20)
三島駅 ― 三島宿 ― 沼津宿 ― 原宿 ― 吉原宿 ― 蒲原宿 ― 蒲原駅
  7:05                                          17:25
3回目(歩行距離54.0kM 延時間12:40)
蒲原宿 ― 由比宿 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 府中宿 ― 丸子宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
  6:30                                                   19:10
4回目(歩行距離45.9kM 延時間10:40)
藤枝駅 ― 島田宿 ― 金谷宿 ― 日坂宿 ― 掛川宿 ― 袋井宿 ― 袋井駅
  6:40                                           17:20
5回目(歩行距離47.6kM 延時間10:40)
袋井駅 ― 袋井宿 ― 見付宿 ― 池田の渡し ― 浜松宿 ― 舞阪宿 ― 新居駅
  6:00                                             16:40
6回目(歩行距離42.3kM 延時間10:30)
新居駅 ― 新居宿 ― 白須賀宿 ― 二川宿 ― 吉田宿 ― 御油宿 ― 赤坂宿 ― 長沢駅
  6:40                                                     17:10

小田原宿~赤坂宿 宿場間距離&時間

小田原宿 ― 箱根宿 ― 三島宿 ― 沼津宿 ― 原宿 ― 吉原宿 ― 蒲原宿 ―
      19.3     15.4      7.4      7.4    15.0     12.8      4.5     
      5:00     6:00      1:30     1:30    3:20     3:00      0:40

由比宿 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 府中宿 ― 丸子宿 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ―  
     9.6      5.7      12.3      6.9      8.6     6.9      9.2
     2:30     1:10      2:50      1:10     1:40    1:30      2:00

島田宿 ― 金谷宿 ― 日坂宿 ― 掛川宿 ― 袋井宿 ― 見付宿 ― 浜松宿 ―
     7.0      7.2      8.8      12.5      7.9     20.2     14.2
     1:30     2:00     1:40      2:30      1:30     4:30     3:20

舞阪宿 ― 新居宿 ― 白須賀宿 ― 二川宿 ― 吉田宿 ― 御油宿 ― 赤坂宿
     5.5      7.9        7.0      9.1     12.9      1.5
     1:00     1:30       1:40      2:00     3:00     0:20

注:距離や時間には休憩時間および立寄区間も含みます。
  距離はGPSを利用した測定器で計測しましたが100%の信頼はおけません。


お薦めコース:東海道の全てを歩くのではなく、楽しい歩ける場所をピックアップしました、

1回目(歩行距離約36kM )
◎小田原駅 ― 小田原宿 ― 箱根宿 ― 三島宿 ― 三島駅
箱根八里を体験するためにも小田原三島間を通しで歩きたい。山道が多く距離が35kを越えるので
早朝出発が望ましく、静岡県の人なら三島出発の方が早立ちが出来る。

2回目(歩行距離22kM)
◎富士川 ― 岩淵間の宿 ― 蒲原宿 ― 由比宿 ― 興津宿 ― 興津駅
サッタ峠から見る富士山を是非見て欲しい。そのためこのコースも西の興津出発にした方が
富士山に向かって歩く事が出来る。岩淵間の宿では一里塚とやはり富士山を見て欲しい。

3回目(歩行距離23kM)
◎島田駅 ― 島田宿 ― 金谷宿 ― 日坂宿 ― 掛川宿 ― 掛川駅
このコースでは島田の川越遺跡や中山峠の石畳を体験してもらいたい。

4回目(歩行距離24km)
◎掛川駅 ― 袋井宿 ― 見付宿 ― 磐田駅
東海道に力を入れている東海道のどまん中袋井宿を歩いて欲しい。余力があれば見付宿から
池田近道を通り直接天竜川に向かう。池田の渡しからは下流にある豊田町駅に出る。(31km)

5回目(歩行距離24kM)
舞阪駅 ― 舞阪宿 ― 新居宿 ― 白須賀宿 ― 二川宿 ― 二川駅
舞阪の松並木を是非歩いてもらいたい。白須賀二川間は国道の歩道歩きになるが二川宿は
私が一番気に入った宿場町。

箱根を除けば25Km以下の距離で誰でも歩けると思います。箱根は駅からウオークには
反しますが、箱根までバスを使い2回に分ければ楽勝でしょう。
街道歩きをしたいが排気ガスが嫌だという人も、このコースなら我慢の範囲内と思います。
是非一度東海道を歩いてみてください。

静岡県の東海道6-5

2011-05-05 10:45:43 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」6回目-5  2011/4/7

新居駅 ― 新居宿 ― 御宿白須賀 ― 白須賀宿 ― 境川 ― 二川宿 ― 寿泉寺
 6:40      6:50       8:15       8:35     8:55     10:20    12:10
         0.6k       7.5k       8.7k     10.1k     15.7k     22.6k
 
― 吉田宿 ― 伊那一里塚 ― 御油宿 ― 赤坂宿 ― 赤坂一里塚 ― 名鉄長沢駅
   12:55     14:45       16:05     16:25     16:55         17:15
   24.8k     31.9k       37.7k     39.2k     41.3k         42.3k

                       赤坂宿へ(高札)



松並木が終ると赤坂宿の入口だった。何故こんな短い間隔で宿場ができたのだろうか、
色々理由を探したが分らなかった。
宿の入口にある関川神社に芭蕉の句碑がある。「夏の月 御油より出でて 赤坂や」
御油と赤坂の間が近いので、すぐ着いてしまう。それを夏の月の沈むのが早いのにかけた
のかと思ったが、こんな解釈もあるらしい。
「夏の月はお湯から上がってきたようにボーっと出て、明け方に赤くなって消えていく」
これも赤坂、御油の遊女遊びに引っ掛けたものだというが良く分からない。
尤もこの句の本来の意味はもっと高尚で、私には更に理解できないものだった。
芭蕉さんの名誉の為に云っておくが、この句は駄作でなく芭蕉33歳の句としては名句だとあった。

安藤広重の東海道53次赤坂宿の浮世絵を見てください。矢張り遊女を描いています。
では好色漢の野次さん喜多さんは赤坂宿ではどうしたかと言うと、
松並木で狐に化かされた野次さんは遊ぶ気にもならなかったが、隣室に新婚初夜の夫婦が泊る
と聞いて、早速スケベ心を起した二人は隣室を覗き見をするのだが、
余りに夢中になり過ぎて唐紙を倒してしまう失敗をしている。

それにしても赤坂、御油の風俗営業は有名だったのだ。



本陣跡の案内板の横に、本陣の門を復元した物らしい門が建っていた。ただこの門には表札や
電灯が付いていているので、果たして本陣の門を復元した物なのかどうか分からない。
案内板を見てもその事には触れていなかった。

その点、赤坂宿場公園の高札場には興味を引かれた。
復元された高札には当時の触書が掲げれていて、それが中々面白い。少し紹介すると。
「きりしたん宗門禁制」に項には、切支丹を密告すれば褒美を出すとして、
ばてれん 銀500枚、いるまん 銀300枚、などと書いてある。更にこれらの者を匿ったりしたら
名主は元より五人組、一族共に罪科を問うと書いてある。まさに住民による相互監視の推奨だ。
ただイルマンとは何だろう?聞いた事はあるが分らなかったので調べてみると
「宣教師の称号の一つ。助修士。平修道士。イルマンが司祭職に叙階されると伴天連となる」
なるほど、それで伴天連に比べ銀200枚も少なかったのだ。

放火についての触書には、やはり放火犯を見た者は申し出ろとあり、他にも火事場で金銀を
拾った場合は申し出る事。隠した時は「その罪重かるばし」。とあるのは火事場泥棒を防ぐ
意味があるのだろう。
火事場泥棒は罪が重いとは聞いた事があったが、現在の法律はどうなっているのだろう。
人が災難にあい困っている時に、弱みに付けこむなどもっての他だ。
東日本大震災で火事場泥棒がいたとしたら重罪にすべきだ。

当時の貨幣価値を想像できる物もある。
西隣にある藤川宿まで馬一頭の料金が107文、人足一人が51文になっている。
木賃宿の料金は 主人35文 召使17文 馬一匹35文となっている。
馬一匹と主人の宿泊料が同じとは面白いが、召使がその半額とは可哀想な気もする。
ただこの時代は一般の宿泊施設は旅籠と木賃宿があり、旅籠は一泊二食付きで、木賃宿は
素泊りだったという。ここの高札は「木賃銭」とあるが多分旅籠の料金だろう。
木賃宿のいわれは、炊事に必要な薪代を支払った事で、泊る場所は畳などはなく、雨露が
凌げればそれで良しとしていたらしい。
ここに書いてあるような、主人と召使が泊るような宿ではなかったろう。

そしてかの有名な遊女の料金はというと「比宿、めしもり五百文也」だそうです。
随分高いけど同じ江戸時代でも時代が違っていたのか、それとも遊興費は昔も今も高いという
ことなのだろうか。
注意: 飯盛女の料金は高札には書いてありません。別の資料から検索しました。
本当は高札に書いてあると面白いが、教育上良くないのだろうな。



旅籠だった大橋屋は現在も営業をしているという。頼めば中を見せてくれるらしいが今回は遠慮しよう。
そのかわりこの先にある無料の休憩施設「御休処よらまんかい」で休んでいこうと思っていた。

だがそこは子供の遊び場と化していて、入口を開けたり閉めたり、中からボールが飛び出したりで
ユックリ出来そうもない。管理人の居ない施設では、こうなっても仕方ないのかもしれないが。

 

御油宿も赤坂宿も近いせいもあるが民家の造りは同じようだった。1階も2階も街道側は格子が
入っていて綺麗っぽく見えるが、あの格子を掃除するのは大変だろう。1本1本拭かないと埃が
溜まってしまいそうだ。

日本橋より73(77)里目の長沢一里塚跡の標柱があった。いま時間は5時だが日が延びたせいで随分
明るい。次の宿場は藤川宿だが、そこまで行くには本宿と藤川の一里塚を越さなければならない。
となると後8kもあるという事だ。それでは到着が6時半は過ぎてしまうだろう。距離も50km近く
になり疲れも倍増しそうだ。止めよう。今日は、いや今回の東海道はここで打ち止めにしよう。

ところでこの付近に駅はあるだろうか。さっき赤坂宿場公園の所には名鉄の赤坂駅入口の表示が
あったが、ここはどうだろう。
街道マップを見るとタイミングよく、一里塚より500mほど西に名鉄長沢駅があった。
矢張りここで止めろという事だ。しかも更に神様は「そうしなさい」と云わんばかりに、駅の入口の
角には小さな酒屋まであった。これを無視しては申し訳ないと、乾杯用の氷結を買う。
誰も居ない無人駅で、見た目は一人淋しいけど満足感一杯で、静岡県の東海道の無事完歩を
祝って祝杯をあげました。 「乾杯!」

    ********************************************************************

先日NHKの世界遺産の放送で出演していた女優が、旅の楽しみについて
「色々自分なりに推理しながらする旅が一番の楽しい」と言っていた。
私の場合も推理というか空想と言うか、いや妄想かもしれないが、矢張り色々考えながら
歩くことが出来た東海道は楽しかった。
お陰で今回自分なり分った事があるし、石畳のように益々疑問が増した物もある。
それも更に歩き続ければ解明できるかもしれない。
そうなると次に東海道を歩くのは何時にしよう。
江戸から小田原まで2日、赤坂から宮宿まで2日。後4日もあれば尾張までは完歩出来そうだ。
そうだ青春18切符が発売される時季がいいだろう。そして桑名から京まではその後で考える事に
しよう。



姫街道

2011-05-04 04:19:45 | ウォーキング
今日は姫街道の2回目を歩いてきます。
行程は気賀から御油までで35km程度になりそうです。途中に引佐峠や本坂峠の難所が
控えているので結構きつい行程になるのではと予想しています。
しかし江戸時代は、この街道が女性に人気があったとの事、本当かどうか実際に
歩いて確認してきます。

静岡県の東海道6-4

2011-05-03 10:04:30 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」6回目-4  2011/4/7

新居駅 ― 新居宿 ― 御宿白須賀 ― 白須賀宿 ― 境川 ― 二川宿 ― 寿泉寺
 6:40      6:50       8:15       8:35     8:55     10:20    12:10
         0.6k       7.5k       8.7k     10.1k     15.7k     22.6k
 
― 吉田宿 ― 伊那一里塚 ― 御油宿 ― 赤坂宿 ― 赤坂一里塚 ― 名鉄長沢駅
   12:55     14:45       16:05     16:25     16:55         17:15
   24.8k     31.9k       37.7k     99.2k     41.3k         42.3k

                       御油へ(遊女)



豊川放水路の必要性は地図を見るとよく分かる。豊川稲荷の南東の辺りから川は急に曲り
豊橋市内を湾曲しながら海へと向かっている。宝水路はその曲がり始めた所から直線で海に
向け造られている。これなら大水の時は効果絶大だろう。
今も方水路には水が流れている所をみると、この放水路は普段から水を流しているようだ。
静岡県にも狩野川に放水路があるが普段は水を流していない。そのため本流の水量が増えた
とき放水をすると、川に溜まった汚濁が海に流れ込み、生簀などの漁をしている漁師の反対を
受けるそうだ。それでは何のための放水路なのか分らないと思うのだが。

放水路を渡ると"こだが橋"の石碑がある。案内板を読むと
「この先にある兎足(うたり)神社には人身御供があり、春の大祭の初日に、この街道を最初に
通る若い女性を生贄にする習慣があった。ある年のこと贄狩をする村人の前を若い娘が通った。
よく見るとわが子である。村人は苦しんだが「子だが止むを得ん」と、生贄として神に奉った。
現在兎足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている」

同じような生贄伝説は原宿と吉原宿の間にもあったが、そこでは生贄を大蛇に奉げるとあった。
ここの子だか橋には生贄の理由が書いてなかったが、兎足神社にこんな表記があった。
「平安時代頃までは神社の前は大小の洲がある広大な入江だった」となると生贄は水鎮のため
のものだったのだろうか。だけど雀十二羽はどこから出てきたのだろう。
アレアレ「昔は猪を生贄にしていたが、今は雀十二羽---」とも書いてある。どこで若い娘が
猪に替わってしまったのだ。それとも若い娘→猪→雀十二羽になったのだろうか。

実は兎足神社を調べていて自分の勘違いに気付いた事がある。
前回豊川に架かっている橋なら何故豊川橋にならなかったのだろうと書いたが。実際には豊川に
架かっているから豊橋でなく、豊橋があるから豊川になったようだ。
古代には豊川は飽海川(あくみがわ)と呼んでいたようだ。その後、室町時代に吉田川となり
明治維新で吉田を豊橋と改めた後、川の呼称も豊川となった。とでていた。



明光寺山門に洒落た事を(文句和忘れた)書いた紙が貼ってあったので中に入ってみた。
別に変わり映えのしない境内を眺めて外に出ようとしたとき案内板に気が付いた。
近寄ってみると案内板より先に目に入ったのは首の落ちた石仏だった。
風化して首が落ちてしまったのだろうか?案内板を読むと
「地境争いと五輪塔 これは五輪塔の下の部分です。この地は川筋のことて度々争いがありました。
当時その地境に五輪塔があり、両方で奪い合ったというこです。現在五輪塔の上の部分は隣村に
あります」となっている。

私の目に入ったのは五輪等より首の無い石仏で、こちらの方が気になった。説明には無いが
この石仏も争いに巻き込まれた首を取られてしまったのか。
タイのアユタヤにやはり首の無い仏像が何体かあり、その首が木の根に挟まれているのを見た
事があるがある。たしかあれはヒンズー教と仏教の争いで仏教の石仏の首を落とした物だった。
宗教が違えばそのような事もありと思えるが、同じ民族で同じ仏教。例え宗派は違っても仏には
変わりがないはずだ。それなのに石仏の首を切るなんて、尾張の人間はなんて野蛮な奴らだ。
そうだ、そういえば尾張の織田信長も比叡山の焼き討ちをやっている。
尾張人にはそんな残酷な血が流れているのか。と一人興奮してきた。
戦国時代は寺の焼き討ちなどは、ざらにあったことだと思うが、一般人が仏の首を落とすのとは
次元が違うと思う。かたや敵を降伏させる為の手段で、もう一方は仏の首を落とすことが目的だ。
これは同じ日本人として悲しくなってくる。と少々ショックだった。

家に帰りこの件で色々検索したがヒットした物はなかった。
今これを書いていてフト気が付いたのだが、あの案内板には石仏の事は何も書いてなかった。
若しかして、あの石仏は、たまた風化して首が落ちた石仏をあそこに置いたのか。
そうであって欲しいが、そうなると紛らわしい置き方だ。



伊奈の立場跡と伊奈一里塚跡です。
伊奈が何故こんな場所にあるのだ。伊奈は木曾谷のある長野県なのに、こんな場所に同じ
地名がある。変だなと思っていたが家で調べると、いな谷のいなは伊那だった。なんだ馬鹿みたい。

一里塚の後ろの商店は太鼓屋で、大きな太鼓が置いてあった。太鼓の専門店など初めて見たが
それだけで商売できるのだから、この地方はお祭りが盛んなのだろう。

    

オット、今度は一風変わった常夜灯が建っている。左は「半僧坊 大権現」と書いてある。
よく見るとこれは常夜灯ではなく石柱の上に神棚が乗っけてあるものだった。
半僧坊といえば浜松市引佐の山奥にある方広寺が有名で、そこの半僧坊は方広寺を開山した僧と
寺を守った半僧半俗の人を半僧坊と呼び、その人を祀った半僧坊真殿がある。
この半僧坊は、その奥山半僧坊を祀ったものなのか、案内が無いので分らない。

秋葉山の常夜灯が建っていた。円筒状の中台には彫り跡が深く、遠くからでもはっきり秋葉山と
読むことができた。案内板には寛政12(1800)年に村中安全のために国府村民が造ったとある。
国府村民? それではこの辺りは三河の国府だった場所なのか。三河の国府なら豊川か豊橋に
ありそうなものだが、ここにあるという事は、先ほど通過した兎足神社の東には、広大な入江が
広がっていたからなのだろう。ここなら豊川の氾濫の被害も受けないから国府に適していたのか。

国府の名前に「こう」とカナを振ってある所があった。それで思い出したが何年か前に愛知県代表で
甲子園に国府高校が出場した事があった。そのとき国府高校はヒラガナで書くと「こうこうこう」。
略すと「こうこう」で珍しい名前だ思ったことがある。
だが考えてみたら国府を「こう」と読む例は他にもあった。御殿場線が神奈川県で東海道線と接続
する国府津駅は「こうづ」と子供の頃から読めていた。それが津がなくなると「こくふ」としか読めな
かった。年と共に頭の回転が鈍くなってきているのだろう。亀の甲より年の功とは行かないらしい。
でもこれからは間違いなく「こう」と読める。



御油の一里塚跡は植え込みの中にあった。この辺りに姫街道の合流する追分があるはずだ。
東に向かう街道の追分だから西から見てY字になっているのだろうと余計な事を考えていたせいか
追分が分らなかった。あったのは新しい道のY字交差点で、どうも姫街道の追分ではなさそうだ。
マーいいか。姫街道を歩いてくれば嫌でも、この東海道と合流するのだから。その場所が追分だ。
戻って追分を探す気力もなくなってしまい、言い訳を考えて通過してしまった。

音羽川にかかる御油橋を渡ると御油宿に入る。橋から見える土手の桜は満開で丁度身頃だった。
街道歩きも低山歩きも一年を通じて、この時季が一番好きだ。気温も丁度良いし、陽も一日一日と
延びてくるのでのんびり歩く事ができる。兼好法師だったろうか「願わくば 花の下にて春死なん
その如月の望月のころ」と歌ったのは。まさにそんな気分にもなってくる。



御油宿は前後の吉田、赤坂宿と並んで遊女が多かったらしい。色々な狂歌にも謳われ
「御油に赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い」(参勤交代の武士)
「御油や赤坂吉田が無けりゃ 親に勘当うけやせぬ」(近郷の放蕩息子)等がある。
また「宿には遊女多し、御油は賎し、赤坂よろし」とあるのは吉田の遊女の方が綺麗だったのか。
そういえば膝栗毛の中で野次さんが一人御油宿を歩いていると、両側の宿からできた遊女たちは
いずれもお面をかぶったようにお白粉を塗りたてたのが、袖を引いたとある。
御油宿と赤坂宿の間は十六町(2km)しかなく、とりわけ客の争奪戦が激しかったようだ。
その延長線上で遊女が登場したのだろ。

しかし現在の御油宿はご覧の通り、私のスケベ心は簡単に萎んでしまった。

本陣跡の場所に「イチビキ」の工場がある。イチビキ醤油は聞いた事があるがその工場なのか。



御油の松並木は東海道では舞阪の松並木と並んで有名だが、果たしてどちらが風情があるか。
左の松並木は細めの松が土手の上に植えられ、支柱に支えられている。どちらかと言うと成長過程の
松並木にも見える。
その点、右側の松並木は太さもあり真っ直ぐ延びた松は風格もある。ただ余りにも整然としすぎていて
面白みが少なく感じる。
膝栗毛で野次さんは御油の松並木で狐に化かされたのだが、さて狐の出そうな並木は----

左が御油の松並木で、右が舞阪の松並木です。貴方はどちらに風情を感じますか。

三河黒松は樹皮が亀甲状に割れるのが特徴とあったが分りませんでした。