はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

大崩・岡部-高草山-満観峰-岡部周遊コース2

2014-01-30 10:49:55 | 低山歩き
歩行時間:6時間35分   休憩時間:1時間25分   延時間:8時間00分
出発時間:8時00分   到着時間:16時00分
歩  数:  27、754歩   GPS距離19.2km

行程表(2014-1-19(日)
 宇津ノ谷道の駅(岡部) 0:35> 林道分岐 0:10> 山道開始点 0:25> 28号峰 0:30> 富士見峠
 0:15> 高草山 0:35> 鞍掛峠 0:10> 尾根合流 0:15> 三角点 0:25> 満観峰 0:20> 444峰
 0:50> 蔦の細道 0:20> 宇津ノ谷峠 0:20> 宇津ノ谷道の駅(静岡) 1:25> 安倍川駅


大崩・岡部-高草山-満観峰-岡部周遊コース
                             宇津ノ谷へ
 高草山の山頂には犬を連れたハイカーが3組もいた。最近低山を歩いていると犬を連れた人に良く出会うが、
犬は喜んでいるのか、それとも嫌がっているのか? 
昨年富士山で赤ん坊をおぶっていると思ったら、赤ん坊ではなく犬だった。こうなると犬はとても喜んでいるよう
には見えず、一体何の為に連れてきたのか理解できなかった。
 普通の山での犬の排泄物は、放置しておいても樹木の肥料になるぐらいで咎める事もないと思うが、木の無い
富士山ではどうだろう。人間の小便も大便も有料の富士山では、犬もそのままという分けにはいかないと思うが。

 鞍掛峠に11時10分に到着。今日の予定はバス停を8時頃出発し、4時間程で満観峰に着くので、そこで昼飯に
する予定だった。ここ鞍掛峠から満観峰までは40分あれば行けるので完全に予定通りに来ている。
だが予定はそこまでで、満観峰から先はコースだけは決めてあったが時間のことは考えてなかった。
コースは満観峰から鞍掛峠の道を少し戻り、444峰経由で蔦の細道・宇津ノ谷峠に行き、峠からは岡部側の道の
駅に下って周遊コースを完結させる予定だ。
時間は満観峰から宇津ノ谷峠まで約2時間あれば行く事ができるので2時半にはゴールしてしまうことになる。
それでは余りにも早いゴールで完歩の乾杯がやりづらくなっていしまう。
そこでいい案を思いついた。鞍掛峠から直接満観峰に向かうのではなく、一旦日本坂峠の尾根に出て、三角点を
越えて満観峰に向かう。そうすれば30分は余計に掛かるだろう。それに鞍掛峠から直接満観峰に行くと満観峰から
444峰に向かう時と同じ道を300mほど歩かなければならなくなる。それが三角点経由なら同じ道を歩かなくて済む
これこそ完全周遊だ。ヨシ! このコースにしよう。

 鞍掛峠から日本坂峠の尾根に抜ける道は以前は歩く人は少なかった。10年以上前になるが、この道を初めて
歩いた時は踏み跡を間違えて登ってしまい、途中からは林の中を上に上にと歩いて、三角点のある山頂に直接
出てしまった事がある。その日は尾根から下りの道も歩いてみたが、途中の道は砂が覆っていて一部判読不能な
所があった。
 それが昨年春歩いてみたら道は見事に整備されていて間違いないような道になっていた。先週鞍掛峠に来た時も
この道を歩く人が何組かいたので最近は大いに利用されているようだ。
だが私にはこの道の利用方法がよく分からない。今日の私のようなコースは物好きだけが取るコースだろうし、
景色の良い満観峰に寄らず日本坂峠に行く気持ちも分からない。ただ日本坂峠から満観峰に向かう途中疲れて
緊急避難的にこの道を下る事はあるかもしれない。その程度の利用方法しか考えられない道だった。

        
                  鞍掛峠                     日本坂峠の尾根に                 
          鞍掛峠の地図

 鞍掛峠から尾根の合流部までは、ゆるかな上り坂で10分程で着いてしまった。イエイエこれなら蔦の細道の
分岐経由より楽だなどと思わないでください。こちらの道はこれからが大変で、合流した鞍部から左を見れば
三角点のあるピ-クへ階段が続き、右を見れば水分大神の石碑のピ-クへの階段が見えている。(写真技術が
無いため水分大神側が楽に見えますが、実際は三角点側の方が大変です)

            
           三角点への尾根道              水分大神への尾根道

 この付近の地図を見てください。黄色で表示したのがハイキングコースのメインルートで、各所に公的標識が
設置されています。
青色は今回歩いたルートで、青色だけの部分は私製の標識が少し付いているルートです。
こうして地図で見てみると鞍掛峠から尾根までの距離が近いのに驚きました。これなら10分で着くはずです。
地図では鞍掛峠から直接三角点に道が延びていますが、10年前に迷い込んだ道はこの道だったかもしれません。
また、鞍掛峠と尾根の合流部から林道への道も地図には有りますが、実際には見当たりません。
国土地理院の地図の山道は、このように地図にはあっても実際には道が無いケースが多いので注意が必要です。

     
                       鞍掛峠付近の地図

 満観峰には12時5分に到着。蔦の細道分岐経由なら11時50分には着いただろうから、15分余計に掛かった
事になる。それでも思ったより早く着いたが、矢張り三角点経由は大変だった。
満観峰山頂には10人位が昼飯を食べていて、私も簡易ベンチに腰かけて富士山を見ながらの昼飯を取る。
陽射しも暖かく風も無く暑い位で、温度計を見ると18℃だった。朝は0℃だったので18度も上がったのだから
暑いわけだ。富士山は霞んでいて肉眼では見えるが、写真技術の無い私には薄くしか写らない。

 444峰近くなると後ろに満観峰が見えてくる。大崩山塊の山はそれぞれ特徴があって遠くから見ても案外判別
しやすい。満観峰は写真のように山頂部分の南側に木が無く、山頂の2か所に高い木がある。高草山は山頂に
アンテナがあるので分かるし、花沢山は一番海側のこんもりした山で、よく見ると山頂部分の木が一部欠けて
いるように見える。これは山頂の反射板の全面の木伐採してあるからで、その花沢山の海側にある小さな小山は
虚空蔵山です。
尤もこれらは大崩山塊の西側から見た景色で、東の静岡側からは虚空蔵山は花沢山に隠れて見えないし
満観峰は後ろの高草山や、前の丸子富士と重なり判別しにくなってしまう。
でも富士山からも花沢山と高草山は判別できました。

 444峰付近からの南アルプスの眺めは大崩山塊の中では一番だと思う。満観峰や花沢山の途中から見えるが
正面に見えないが、ここからだと南アルプスが正面に見える。今日も写真を写したが手前のススキにピントが
あってしまい白銀の山はボケてしまった。
この南アルプスの山が見える場所は、蔦の細道の分岐から444峰方面に10分ほどの北の方角が開けた所に、
右側に入る踏み跡があります。縦走路だけを歩いていると南アは見えないで通り過ぎてしまいます。

 
             満観峰から富士山             444峰付近から満観峰と富士山

 山に名前が無いと、その山の標高をとって444峰など言う場合が多いが、数字を覚える事が苦手な私はこれに
弱い。例えば北のピークは311峰、28号峰は318峰などと云われても分けが分からくなってしまう。ここの444峰の
ようにゾロ目で覚えやすければ良いのだが--------

 444峰は平坦な林の中の山頂で視界はきかない。道はここまで西に向かっていたが、ここから北に向う。
暫く行くと放置茶畑の所から西の方角が開け、今日歩いて来た28号峰や富士見峠が見えていた。
28号峰の傾斜の急な場所も見えていたが、写真に写したら左程の傾斜には見えなくなってしまった。
それにしても28号峰は低かった。これでは林道から25分程度で尾根まで登れるわけだ。

 この茶畑が西側の斜面にあるという事は、茶畑は廻沢集落の農家の人の茶畑なのだろう。なら廻沢林道に
下る道が有る筈だと思ったが。止めよう、ここに道があっても、ここから下って朝歩いた林道に出るでは
周遊コースとしては面白くない。このまま宇津ノ谷峠まで行き、道の駅に下った方のが完全な周遊コースだ。

 
               444峰から28号峰と北のピークの尾根

 以前の蔦の細道の峠は静岡側は林が邪魔をして何も見えなかった。それが昨年峠の下の樹木を伐採した
お蔭で視界が開け、嬉しい事に富士山が見えるようになった。今日も標識の杭の上に富士山は見えていたが
残念ながらブログの小さな写真では判別不能になってしまった。
ここから更に尾根道を宇津ノ谷峠に向かう。数年前までは倒木もあり踏み跡も薄くて、一度は宇津ノ谷峠からの
下りで道を見失い、慌てて踏み跡がはっきりしている所まで戻って事なきを得た事があった。
 鞍掛峠の上では道を見失ったのに強引に先に進み、ここで戻って再度歩き直している。その違いは------
鞍掛峠の上の尾根には尾根道が通っていて、上に上にと向かえば必ず尾根道に出る確信があったし、上を
目指せば焦点も定まり山頂に出るからです。その時も最終的に出た場所は三角点のあるピークでした。
それに比べ下りは焦点が絞りにくく、角度を少したがえただけで何処に出るかわからない。そのため元に
戻ってやり直したのでした。

 宇津ノ谷は伊勢物語の「駿河なる 宇津の山辺のうつつにも 夢にも人に逢はぬなりけり」の前段に
「宇津の山にいたりて わが入らむとする道はいと暗う細きに つたかえでは茂り 物心ぼそく -----」とあるそうだ。
これをみても昔は「宇津山」「宇津の山」はあったと思われる。
その山の場所を歩きながら考えてみた。場所は蔦の細道の峠から宇津ノ谷峠の間としたら、その間には
標高228mと226mのピークがある。どちらも似たような感じで、視界はきかない平らな林の中の山頂だ。
それでもどちらかかにするなら私は226mの宇津ノ谷峠側のピークにしたい。そこの山頂は平らなうえに木や
背丈の高い雑草も少なく、のんびりした頂だ。山頂表示は無いが送電線の点検路の標識が建っている。
こんな事を考えながら歩いているので、うつつにも夢にも人に逢はない山を歩いていても怖くも寂しくもない。

 1号線宇津ノ谷トンネルの排煙施設まで来た。ここから先も上に行く道があるが私はここからは農道を歩いて
いる。以前2回上の道を歩いたが茶畑の中の道しかなかったので------

 
               蔦の細道峠                      1号線宇津ノ谷トンネルの排煙施設

 排煙施設から農道を2・3分も下ると右側の木の目印が目に付く。宇津ノ谷峠に下る目印だが、この目印
からは下らず、少し先の手製の標識から下った方のが楽に下る事が出来る。それでも峠に降りる最後の
2・3mは今日の周遊コースの最後難関の滑り台が待っていて、立って下ると転びそうで、座った姿勢で下る
しかない。それでも今日はそれこそ滑り台を滑る格好で上手く下る事が出来た。
 ここを一度下って懲りた人は、農道を下って行けば宇津ノ谷峠からの道に合流します。、更に下れば蔦の
細道公園や岡部の道の駅に出る事が出来ます。
 
       
               宇津ノ谷峠への山道入口          宇津ノ谷峠の滑り台状の道

 宇津ノ谷峠に着いたのが14時10分。このまま岡部側に下れば一周コースの完結だが余りにも早すぎる。
距離もGPSでは10.4kしか歩いてないし--------
そこでいつも歩く丸子川の遊歩道を安倍川駅に行く事にした。
途中で「最古の東海道 万葉の道 谷津峠」の標識を見た時は一瞬迷ったが結局ヤメタ。
この道は何時か歩こうと常に思っているのだから、今日のように時間もあり体力も残っている時は絶好の
チャンスだが、あの藪漕ぎを思うと意欲が無くなってしまった。

 安倍川駅に16時丁度に到着。宇津ノ谷峠から2時間弱で距離は8.8km。電車賃を見たら安倍川・藤枝間は
320円だった。これが道の駅・藤枝だと520円だから200円の出費減。果たして儲かったのか、くたびれ損なのか。
尤もこの200円で乾杯の氷結を買った私の場合は儲かった事になるのかな--------------

大崩・岡部-高草山-満観峰-岡部周遊コース

2014-01-28 09:34:40 | 低山歩き
歩行時間:6時間35分   休憩時間:1時間25分   延時間:8時間00分
出発時間:8時00分   到着時間:16時00分
歩  数:  27、754歩   GPS距離19.2km

行程表(2014-1-19(日)
 宇津ノ谷道の駅(岡部) 0:35> 林道分岐 0:10> 山道開始点 0:25> 28号峰 0:30> 富士見峠
 0:15> 高草山 0:35> 鞍掛峠 0:10> 尾根合流 0:15> 三角点 0:25> 満観峰 0:20> 444峰
 0:50> 蔦の細道 0:20> 宇津ノ谷峠 0:20> 宇津ノ谷道の駅(静岡) 1:25> 安倍川駅


大崩・岡部-高草山-満観峰-岡部周遊コース
                             高草山へ
 バスを降りると吐く息が真っ白で驚いた。気温は0℃で今冬最低の中の歩きだが、風も無く陽が射して
いるので歩き出すとすぐ暖かくなった。それに伴い息の白さは消えてしまった。
気温は同じなのに何故なんだと考えながら歩き、多分バスから降りた時は体が暖まっていたので、吐く息も
暖かく、冷たい外気温んで白くなったのだろう。それが暫くたつと体が冷えてきて、吐く息の温度も下がり
白くなくなったのだと思った。だが歩いて体は温まったのだから、息だって暖かく白いはずなのに?
何しろ当地は温暖な地で、氷が張るのも珍しいし雪が積もる事は無い。息が白く出るのもたまにしかないので
こんな事も分からないのだ。

 廻沢集落から送電線の鉄塔が4本見えてきた。多分一番左が28号塔で29、30号と続くのだろう。
残りの1本はこの時点では分からなかったが、後で富士見峠に行ったとき高草山よりに建っていた鉄塔が
31号塔だと分かった。
今まで山を歩いて送電線の鉄塔や送電線は何度も見ているが、今回ほど気にする事はなかった。理由は
今日歩く尾根に鉄塔が3本立っているからで、そのため送電線が載っている2万5千分の1の地図を持って
きているからだ。尤も持ってきた地図は焼津市が発行したハイキングマップに過ぎないが、早速今日登る
山が分かった。

 
         国道1号線を跨ぐ歩道橋を南に渡る               廻沢集落から28号塔
          廻沢入口の地図
 集落を過ぎ最初の林道分岐の橋を渡り、杉の葉の積もった林道を行く。正面に酒屋の名前を書いた建物が
現れたが、何故こんな山の中に倉庫を建てたのだろう。理解不能だ。

 
            林道突き当りを右の通行止めの林道へ            こんな山の中に酒屋の倉庫か?
          林道分岐の地図
 先週初めてここへ来た時は「山が覆い被さっている」などと大げさな表現をしてしまったが、2回目の今日は
それ程の傾斜には感じなかった。送電線の点検路の標識の先の道は、かっての段々畑の石垣が崩れている。
傾斜がきつく1段1段が狭い畑で何を栽培していたのだろうか。お茶? それともミカン? その残骸すら残って
いない古い畑だ。
 上に延びる道は畑跡の左側の林沿いにあり、道はガレ場状態になっている個所が多い。いや正確に言うなら
全てガレ場状態だと言っても過言ではない状態だ。しかし富士山の火山灰の道と比べれば、ズルズルーの
戻りが少ない事と、30分もしないでガレ場が終わる事もあってそれ程苦痛には感じない。
 
       
             橋を渡り書面の斜面を登る            斜面の崩れかけた石垣

 またまた枕状溶岩らしき物の紹介です。左の写真は全体像で、こんな状態でゴツゴツしています。
真ん中の写真は大岩から別れて石になるところで、大岩にはまるで石垣のように網目ができていた。
さらに右の写真は、中央の写真の石と違い、ピョコンと岩から分離している。この石がもっと丸ければ
相良(現牧之原市)の「子生まれ石」と似ていると言いたいところだが、とてもあんなに真丸ではないし
神秘性も無い。

 この岩場の上にも3段ほどの低い石垣を組んだ所があった。入口にあった段々畑の石垣はとうに終わっていて、
途中は林にになっている。それなのにこんな場所の石垣は何のためなのか? 分からない事が多い道だ。

    
                        枕状溶岩??

 地図には28号鉄塔のピ-クを標高318mと書いてあったので、それを確認しようと、鉄塔の下を潜り、鉄塔の
後ろのピークに登ってみた。ピークと言っても鉄塔の基礎より数m高いだけだが、低木が生茂り、こんな時季で
なければ登るのも大変そうな場所だ。途中棘のある木に刺され痛い思いをしながら岩のゴツゴツしたピークに到着。
 実は今日はアナログの高度計を持ってきているので、高度を確認すると、何と250m辺りを指している。
そんな馬鹿ナ! いくら精度の低い高度計でも60mも差が出るなんてひどすぎる。
 地図には送電線の線は引かれているが塔自体の場所は表示されていない。では28号塔と思っている場所が
違うのか? 地図と磁石と景色を見比べて現在地を推定するが、この場所は318峰に間違いなさそうだ。
だから安物の高度計は嫌いだ。今朝だって出がけに自宅の標高23mに合わせてきたのに本当に使い物ならない。

 ピ-クから前回確認できなかった高草山のアンテナが確認できた。それに廻沢集落も前回よりよく見えている。
集落の中で確認した送電線の鉄塔に来ているのかと思うと、何となく嬉しい気分になるのだから子供だ。

       
              28号峰から高草山のアンテナ           28号峰から廻沢集落

 西に目をやれば前回確認できなかった北のピークの場所が分かった。左の写真の尾根が終わる場所の少し左の
高台に茶畑がみえている。あの茶畑が北のピークにある茶畑に違いない。
 では満観峰はと地図で指す方を見るが、生憎木が邪魔をして見えない。いやその前側に蔦の細道の尾根にある
444峰が邪魔をして見えないようだ。富士山もきっとあの444峰の向側にあるに違いない。

 
              28号峰から北のピーク               28号峰から雪山

 富士見峠から28号峰の尾根道は前回も書いたが、しっかりした道で結構歩かれているように見える。
だがわざわざ富士見峠から28号峰を往復するメリットは考えられなし、途中に畑が有る分けではない。
これも分からない事の一つだ。
 富士見峠からの富士山は今日は少し霞みがかかり前回よりはっきりしていなかった。
そうそう廻沢集落で見て分からなかった送電線は、31号塔で富士見峠から少し高草山よりの所に建っていた。
こうして送電線の場所を覚えていくと場所の特定がしやすくなるな。

         
            28号峰からの尾根道                  富士見峠から富士山

 歩き慣れている高草山への道は、珍しい物や気になる物も無いまま高草山の三角点に到着。この三角点の
標高は地図では501.4mとなっているが高度計は---- アレー? 高度計は505m位を指している。
何故なんだ。さっき28号峰では60mも差があったのに、ここでは4m程の違いに過ぎない。
全くなんなんだろうな嫌になってくる。

 今日高度計を持ってきたのは、28号峰の場所の特定と、高草山の三角点のあるピークと、社のあるピークの
どちらの標高が高いか確認するためだった。
 一般的に高草山の標高は501mと云われていて、マピオンの地図の標高ではどちらも501mと表示される。
だが登った感じは社のある山頂の方が高く感じるので、高度計がどちらが高く指すか確認する積りだった。

 三角点から社のに向かう途中、いつもは閉まっているNTTのアンテナ塔の門扉が開いていたので写真を1枚。
三角点から社へは、一旦下った後で登りになって社側の山頂になるのだが、こうして歩いていても社側の坂の方が
高く感じる。オヤ? 社の手前に「高草山 海抜502.9m」と書いた杭に気が付いた。今まで気付かなかった杭だが、
高度計を見ると510m位を指していて、明らかに三角点より高い。
しかしここで502.9mと新しい標高が出てきてしまったので、家に帰り国土地理院のWeb地図で調べてみた。
すると三角点の場所では499.4m。祠側のピークでは502.3mとなった。所詮はWeb上でやっているのでドンピシャの
数値にはならないが、高草山は社側のピークが高い事は確かな事が分かった。だがこれから高草山の標高を
人から聞かれた時は何と答えればいいのだろう。従来通りの「501m」か、それとも新しい山名表示の「502m」か、
イヤイヤ四捨五入して「503m」なのか。困ってしまうな。それにしても502.9mはどうやって調べたのだろう。

 この山名表示の杭は今日初めて気が付いたが、いつ建ったのだろう。見慣れている場所なので注意がいかず、
今まで気が付かなったのか。それとも最近建ったのか。

         
               高草山のアンテナ塔                新しい山名表示杭

大崩・方ノ上城址

2014-01-26 12:06:49 | 低山歩き
                           方ノ上城跡              歩行月日 H25-1-19(日)
 富士見峠に初めてきた時、峠なのに先に道が無いのは、峠ではなく富士見台だ。などと悪態をついてしまった。
だが今日廻沢林道から富士見峠を歩いて、その認識が間違ていたことが分かったので、当時のブログかHPで
文句を行った事を誤ります。
 昔、廻沢から花沢や焼津湊に行くには高草山と満観峰の間の廻沢峠を抜ければよい。また岡部方面に
行くには山の西側を迂回して岡部川沿いの東海道がある。だが岡部と焼津湊の中間点にある三輪や関方地区は
どちらの道も大回りになってしまう。そこで高草山の西の尾根の鞍部を通る道があってもおかしくはない。
今は送電線の点検路になっているが、この道は昔からあった道だとすれば富士見峠の名称は正しい事になる。
それにしても急登な道だったが。

 今日の予定では富士見峠から池の平に行き、下りの道に目印を付ける予定だったが、足は自然に下りの
潮見平に向かっていた。途中で気が付いたが最早登り返す気も起きず、まして今日は目印のテープを忘れて
きて持っていないのだから行っても仕方ない。と、簡単に妥協してそのまま下り続ける。

 富士見峠から潮見平までは、岡部の三輪と焼津の関方へ下る道と同じで、この潮見平で分かれている。
農道を横断し直進する山道が関方への道で、農道を右(北)に曲り、30mも下った所の階段を降りて行くのが
三輪への道になっている。そのため三輪へ下る予定だった人が、いつの間にか関方へ下ってしまった話を
よく聞いたことがある。。
 その潮見平に旧岡部町で建てたと思われる「ここは白帆見平」の石碑が最近建ったが、これも三輪方向を
表示してないので、間違える人は相変わらず出そうだ。
 それが今回来てみると今度は焼津側で建てた道標もあった。こちらは山道方面を指して「関方バス停」
書いてあるので、増々関方側へ下ってしまう人が増えてしまいそうだ。
 何故岡部側が中途半端な石碑を建てたのか想像するに、岡部三輪にあるハイキングコースの案内板には
美和-時石-潮見平-富士見峠-高草山を登山道とし、高草山-富士見峠-池の平-時石-三輪を下山道と
紹介してある。そのため途中に建っている道標は、一方通行の方向の案内しかしていないヶ所が多くなっている。
ここ潮見平にも一方通行の先の富士見峠を指す標識はあるので、下りは必要ないと判断したのだろう。
今日目印を付ける予定だった池の平-時石間は、下山道のため、登りの時の山道の入口が分かりにくいので
目印を付けようと思っていたのだ。
 それと私はこの場所を潮見平と書いているが、岡部側で最近建てた石碑には白帆見平となっている。
これについて以前から潮見平にある岡部側の案内板には
潮見平(シラミ平) 三輪地区から登ると最初に海が見える平らな所と言うことで潮見平と云われている。
焼津関方地区では、海に浮かぶ船の白帆が見えるので白帆見平と云い、それが訛ってシラミ平と通称言われて
います。 潮見平、白帆見平、シラミ平など、いろいろな呼び名がありますが、おそらく海が見える平らな所として
潮見平があっているのではないかと思います。」
 と紹介している。
それなのに岡部側で建てた新しい石碑は「白帆見平」になっているは理解できない。
因みに麓の三輪地区にある大きな案内板は「潮見平」。焼津関方の案内板は「しらみ平(潮見平)」となっている。
シオミにしろシラミにしろ漢字表記は「潮見平」が正しいような気がするが。

 潮見平には他にも最近焼津側で付けた「高草山」への標識も付いていたが、方ノ上城への標識は無かった。
だが昨夜地図で調べた限りでは、この農道を南に下って行けば城址の入口に着きそうだった。だだ地図には
城址の場所が表示されていないので若干の不安はあったが。

 
                 潮見平                 方の城跡と思われる山
           潮見平の地図
 潮見平から農道を10分も下ってい行くと、方ノ上城跡の案内板の場所に出た。
方ノ上城址・狼煙台 方ノ上城は狼煙台を備えた山城で、南北朝の初期に阿部城主・狩野介貞長により築城
されたと伝えられています。明応2(1493)年今川氏親により改修され、今川軍の遠江国へ進撃する連絡拠点と
して、監視や警備を行っていたといわれています。山頂付近には曲輪、堀切、土塁など当時の遺構を見る事が
出来ます。(以下略)」


 方ノ上城は前回紹介した今川家の相続争いだった「花倉の乱」に登場した城です。
ここの案内板にも名前が出ている今川氏親は、相続争いをした今川義元と玄広恵探の父親で、氏親亡きあと
後を継いだ嫡男の氏輝が若くして死んだため、義元の異母兄の恵探が家督相続を狙って乱を起こした。その恵探が
花倉城以外に方ノ上城も支配したが、この城が落城することにより勢いを失くし花倉城も落城したといわれている。

 城跡に入り最初にあるのが「幻の池」。一見したところ池にも沼にも見えないようなただの水溜り。この辺りは
回りが高くなった平地で城の本丸でもあったのか、そしてこの幻の池は井戸の跡っだたりして----
 幻の池から高台に上ると細い道になる。花倉城の土橋に当たる部分なのか。その一部が掘られた場所に
「掘割」の表示がある。してみると、掘割とは進入路の一部を掘り下げて敵が通りにくくするものか。そして
普段は仮橋を設けていて、いざという時はその橋を外したのかもしれないな。
その掘割の左右はかなり深く削られているが、これも人工的に削ったものなのか、自然を利用したのか。
分からない事ばかりだが一番分からないのは本丸の場所だ。さっき幻の池があった地点はこの掘割より低い
場所にあるのだから、敵の攻撃には守りにくいと思うのだが。それともこの先が本丸だったのか。

           
                    幻の池                           掘割
          方ノ上城跡入口の地図
 掘割の表示の次は「曲輪(くるわ)」だった。曲輪とは「城の防御陣地・建造物を建てる敷地・兵の駐屯施設
として城郭の最重要施設である。」
 それならこちらが本丸側だとなると、幻の池は井戸ではない事になる。
だって敵が攻めてきたとき、堀の外側に水源があったら、すぐ占領され城内は水不足に陥るのだから。
しかし兵の駐屯施設にしては余りにも狭すぎるし、斜面なので建物など建っていた形跡もない。

 曲輪から少し行くと木が伐採された高台に「方ノ上城跡 石合山頂上(230m)」の標識が建っていた。
しかしここに本丸なり何なりの建物が建っていたなら、もっと平らで広いはずなのに、平地は狭かった。
こんな狭い山城が花倉城の命運を分けた城だったとは情けない。花倉城主の玄広恵探は所詮は今川家の
家督を相続する器ではなかったのだろう。

 
           高台にあった標識                       高台から焼津市街

高台の標識の建つ場所には石で周りを囲んだ「経塚」がある。高台の一番上の平らな部分にあるので、この
経塚は方ノ上城が落城してから戦死者を悼んで造ったのか。
 高台から西の斜面を10mも下った所に狼煙台があった。自然石を組み合わせたような、自然のままのような
どちらともとれる感じがする岩場で、狼煙台と言っても高さはなく、岩と岩の間の穴の中で火を燃した感じがする。
この狼煙台が方ノ上城跡の中で一番ハッキリして遺物だった、というか狼煙台だけだった気がする。
そこで妄想が湧きだした。この方ノ上城跡と云われている場所は山城ではなく見張所を兼ねた狼煙台だったのだ。
花倉の乱で落城した方ノ上城は、この麓の平地にあったに違いない。花倉の乱では今川勢と戦い玄広恵探側の
敗戦の端緒になったのだから、少なくとも100名か200名以上の兵はいただろう。となれば兵の駐屯地は狭い山の
上には造れず麓に建てるしかない。どうですか今回の妄想的歴史観は。

 
           経塚跡                           狼煙台

 さて今日の目的も最後の方ノ上城跡から関方までの山道を探すだけになった。探す根拠は前回城址に
来た帰り道で地元の人に「昔は狼煙台から関方への山道があった」と聞いただけなので、更々探せる自信は
無かった。それでも時間はまだ3時なので余裕はある。それが狼煙台を下り始めると、すぐに林の入口の木に
目印が付いているのが見えた。これでやる気にスイッチが入って林の中に入って行った。
ここの林も明るい感じで石部峠のような感じではない。それに入口から少し下っただけで「古墳」の標識が
建っていたので気分も明るい。マー古墳と言っても岩がずれて出来たような穴だけだったが。
マテヨ!さっきの狼煙台も若しかして古墳の後だったのではないか。古墳の岩を利用して狼煙台にした。
そう考えられないか。妄想的歴史観は増々快調だ。

 林の中には目印のテープが所々に付いていて迷う事はなくミカン畑の横に出た。そこには「方ノ上城跡・
狼煙台」
の標識が建っていた。なーんだ。この道は方ノ上城跡に行くハイキングコースだったのだ。
しかしそれならこの標識の書き方は余り良くない。お世話になったのにチョビチョビが始まってしまった。
イエ!文句ではなく、ここまでの標識を建ててくれた「山の手未来の会」の方に提案です。

 現在潮見平には高草山とバス停への標識が2枚設置されていますが、ここに「方ノ上城址 10分」の標識を
付けてください。いや時間は書かず「方ノ上城跡・関方バス停」とした方が良いかな。
次に城址入口の案内板の横に、城址からバス停に道があると分かるように「方ノ上城跡・関方バス停」も必要です。
狼煙台の下の林の入口には「関方バス停」の標識があれば安心します。この3枚の案内板を付ければ方ノ上城跡に
寄る人は倍増するでしょう。未来の会さん如何でしょうか。

 
          狼煙台跡の下の林に目印が                   古墳跡

 ミカン畑の横の急な道を下りきれば緩やかな道になり農道に出合う。山道の入口の斜面には標識が建って
いるので下から登って来ても迷う事はないだろう。
さてこの農道は何処に出るのか楽しみにして歩いて行くと、農道が出た場所は見知った所だった。
そこは古墳から「六鈴鏡」が発見された「猪の谷神社」の下の道だった。
ところがここの建っている標識の意味が分からない。今下って来た道を指して「狼煙台」。神社側の道を指して
「方ノ上城跡」 この違いは何なんだ? マーいい。その合流部を神社と反対側に左折すると関本バス停だった。

 狼煙台からバス停まで約25分で関方バス停に着いた。前回は方ノ上城跡の入口から農道経由でバス停まで
35分だったので随分近道になっていた。
 潮見平から直接関方に下っても、途中には見所も無くただ下るだけの道だ。それなら少し時間が掛かるが
方ノ上城経由で下った方が変化もあり楽しいと思う。若干下りの急な所もあるが遊歩道ではなくハイキングと
思えば何ともない。是非一度歩いてみてください。

  
           猪の谷神社の下の合流部                    関方バス停の案内板

 関方バス停から朝比奈川の堤防を目指して歩いていると前方に見慣れない景色が。
アッ!あれはロータリー式交差点だ。
イエイエこの呼び名は間違いで正式には「ラウンドアバウト(円形交差点)」と呼ぶらしい。
その交差点がこんな場所に出来たとは知らなかった。まだ新しく交差点でガードマン2名が指導している。
この形式の交差点は、以前ニュージーランドをドライブ旅行をしたとき何度も走っていたのでルールは知っていた。
自分の右側にいる車が優先、つまり円形部分を走っている車が優先なので、交差点に入るには円形部分の右側に
車が居ない事を確認して侵入し、円形部分から出るときは左のウインカーを出して出る。だから例え直進する
場合でも円形部分から出るときは左の信号を出す事になる。
 見ていると殆どの車のウインカーの出し方は出鱈目で、直進する車は信号を出さず、右折する車は最初から
右の信号を、左折も同じく最初から左の信号を出している。なのにガードマンはその種の指導はしておらず、
ただ一旦停止を促すだけだった。
交差点の近くに色々案内板は建っていたが、ウインカーの出し方を説明したものは見当たらない、不思議に思い
家でこの交差点を調べてみたら焼津市HPでこんな説明が載っていた。
 ・車両は交差点に進入する前に必ず一時停止をします。
 ・交差点内を走行する車両が優先です。交差点内へ入る前に安全確認を十分行ってください。
 ・交差点内は時計回り(右回り)の一方通行です。反対回りや駐車・停車、バックはできません。

矢張りウインカーの事には触れていない。これでいいのかな? 右側の円形の中を走っている車が交差点を出るとき
信号を出さないと-------  アッそうかウインカーが出ていなければ、待っている車は交差点の中には入らない。
若干交差点の中に入るのが遅くなるが安全度は増す。また円形部分を回っているとき、前の車が交差点を出るとき
信号を出さなくても特に支障はないのか。それでウインカーの事は書いてないのだろう。
だが、それにしても右折や左折の車が、従来のようにウインカーを出すのは良くないと思うが。

この円形交差点は、車がいないのに赤信号で待つイライラが生じないので、慣れてくればメリットがありますね。

         
                      ラウンドアバウト(円形交差点)

 朝比奈川堤防の早咲きの河津桜は、蕾も硬く当分は咲きそうもなかった。

大崩・廻沢林道から富士見峠へ

2014-01-22 19:47:48 | 低山歩き
                           鞍掛峠へ              歩行月日 H25-1-19(日)
 鉄道遺跡は諦めて石部峠に向かう事にし、以前は旧国道で現在県道416号の標識の所から林の中に入る。
林に入ると踏み跡があり、少し行くと見慣れた岡部のSさんの標識を見つけて一安心する。が一安心も束の間少々
越え難い倒木が現れる。前回はこの倒木は潜ったと思っていたが、今見ればとても潜ることは出来ず跨ぐしか
なかった。倒木の上に座るまでは良かったが、次に行くのに掴む所が無く苦労した。
少し前まではこれ位の倒木は何でも無かったのに、体が硬くなってきた今はこんな事でも手間取ってしまう。
歳は取りたくないものだ。

 
         旧国道の石部峠入口                         倒木

 この道は目印のテープやリボンが少なく、踏み跡の分からなくなる場所があるので、今回もテープを付けようと
思っていた。何しろ前回は下りで目印を付けながら歩いたのに、同じ日に登り返す時には結構悩みながら歩く
はめになった。そこで今日も目印を付ける積りでテープを購入したのに持ってくるのを忘れてしまった。
何とも情けない話だ。

 今日歩いて分かったが、この道は道を見失っても無理に踏み跡を探さなくても、分からなくなった時は、沢に
降りて踏み跡や目印を探しながら登って行けばよいし、そのまま沢を遡っても良い。
とはいえ目印を目にすれば心強い事は確かで、今日も前回自分の付けた目印を見つけて何回かホッとした。
ただ沢は途中で一ヶ所分岐していたので注意が必要で、そこは右側のメイン左の沢を進んでください。
また、ここを下る時は、沢を下へ下へと下れば、自然に車道に出てしまいまいます。

 峠までの途中に小屋が3軒とタンクがあるが、それらの建造物が全て右に見ながら歩きます。
そして3軒目の小屋まで来れば峠は目の前だ。

  
               小屋を右に見て行く                3件目の小屋

 大崩山塊にある公的標識のあるコースは全て歩いているが、そのうち3ヶ所だけは一往復しかしていない。
場所は全て花沢山に延びる簡保の尾根で、砂張屋の道標から元小浜の大崩海岸に下る道。花沢山から
用宗駅の道。そしてこの石部峠から旧国道への道だ。このうち花沢山と用宗駅の道は東海自然歩道のバイパス
コースになっているので歩く人は結構いる。
ただ私にとっては、用宗駅から花沢山に行くにしても、下るにしてもメリットが無い。途中は景色は見えないし
駅も藤枝駅から遠くなってしまう。それなら花沢山から簡保の尾根を歩き、焼津駅に出た方が変化もあり電車賃も
安くなるので、つい毎回そちらを歩いてしまう
 次に道標から大崩海岸は、周遊ルートができないので往復しなければならない。尤も今日のように旧国道を
歩けば良いが、今まではそんな発想がなかった。それに蛇を踏みそうになった事が潜在的に拒否感を生んでいる
ようだ。そしてあと一つはこの石部峠がから旧国道に出る道で、周遊ルートができないし、下っても何も見る物も無く
そのまま登り返さなければならなくて面白くない道だと思っていた。
それが旧国道下に鉄道遺跡があるなら話が変わってくる。そんな思いで今日は行ってみたのだが、自分の調査
不足で空振りに終わってしまった。

 石部峠から旧国道に下る標識は、手製の標識と焼津市の建てた標識と場所が違った所にある。手製の標識は
鞍部のあたる場所にあり、南は旧国道、北は花沢の水車小屋、東は花沢山、西は簡保下(焼津)の分岐の場所だ。
だが焼津市の標識の石部(旧国道)方面は、踏み跡の無いような林の中を指している。以前は踏み跡があったのか
知れないが、今は手製の標識に従って歩く人が多いようだ。私も一度焼津市の標識に従って歩いてみようと思って
いるが、いざその場所に来ると、くだらないと感じて歩いていない。

 石部峠から花沢に下る道は峠に標識が付いてから歩く人が多くなった。特に春には二輪草の咲く場所もあるので
歩く人が多くなってきた。

 峠を下り最初の農道を鞍掛峠の入口まで歩く。ここまで今日は一人の登山者にも会っていなかったが、流石
鞍掛峠は満観峰の銀座通りだ。幼児から年寄りまで、上る人も下る人も結構歩いていた。

 鞍掛峠で時間をメモしている間に、日本坂峠方面行く裏道から3組が下りてきて、1組が登って行った。
珍しい事だ。この道は知る人ぞ知る道で、今までここを歩いている人を見た事がない。何かあるのかな、
近々歩いてみなければ。

 
                 石部峠                              鞍掛峠

                          富士見峠へ
 鞍掛峠からは廻沢林道を下る。こっちに来る人はいないのでまた一人旅になる。
高草山の山頂に行く林道の分岐を過ぎ、鞍掛峠から25分も歩くと次の林道分岐にでた。
通行止めの標識の先の林道は枯葉が積り、最近は利用されていないようだ。
 橋の手前左に中部電力の送電線監視路の標識が見える。確か28号への標識のはずだが、と近づいて
確かめると間違いなく28号の標識だった。

 次に注意しなければならないのは、林道から山道に入る監視路の標識を見落とさない事だ。
最近車が走ったような形跡のない林道を5分も行くと、コンクリの壊れかけた橋の向こうに次の標識が見えた。
標識の行く手を見ると、傾斜が強い斜面で、まるで山が押し被さってくるような感じがする。しかし上に見える
山頂とおぼしき尾根は余り高くない。
あれが富士見峠の尾根? それにしては低いし近すぎる。きっとあそこまで行けば次の高台が見えてくのだろう。

 
                送電線28号鉄塔への分岐                28号への標識

 傾斜は急だが、道というか踏み跡は電光系にギザギザに付いているので助かる。所々には送電線の監視路で
見かける黒いプラスチックの土留めで道の補修が行われていた。
フト見ると杉の木に岡部のSさんの「高草山へ」の標識が目に付いた。ウンこれで安心だ。この標識には今まで
裏切られた事はない。ここまで若干あった不安も解消した。それにしてもSさんは凄い。この大崩山塊の裏道の
殆どにSさんの標識は付いているのではないだろうか。標識だけでなく山頂には山頂ノートを設置したり、山道の
補修までしてくれている。大崩山塊をホームにしている私は一番その恩恵を受けているのかもしれないな。

 そうだ思い出した、昨年暮れに島田千葉山の尾川丁仏参道を歩いているときも、このSさんの標識を見た。
間違いかと思ったが見れば見るほどSさんと同じ形態の標識だった。大崩だけでなく千葉山の方まで手を伸ばした
のだろうか。

 高度が上がり尾根に近付いてきた所に岩があった。その岩を見ると枕のように丸い形に膨らんでいるのが見える。
まさかこれが枕状溶岩か、とよく見ると丸い河原石と土砂が強い圧力で圧縮されて一体化したようにも見える。
となると安倍川の川床が隆起したのか。どちらにしても素人の私に分かる筈はないか・・・・・・

 それにしても急な登りだ、これではここを下るときは一苦労になるだろう。次にここを歩く時は上りに使った方が
良さそうだ。救いは立木が少なく明るい事で、石部峠のように暗くじめじめしていると歩いていても気分が沈む。
その点ここは坂は急だが明るいので、一歩一歩高度が上る感じ分かり歩き甲斐がある。
 先程から道が崩れ黒い土が出ている所に靴の足跡がある。クッキリした足跡で杖の先で触るとすぐ崩れる。
どうやら最近ここを歩いた人がいるようだ。これで増々安心する。

     
         中電の土留め補修              Sさんの標識              枕状溶岩?

 急な山道に入って25分で28号鉄塔のある尾根の下に出た。ここが富士見峠の尾根では少々早すぎるので、上に
行けば次なる尾根が控えているのだろう。それで尾根に鉄塔が見えた時はワクワクした。若しかして富士見峠と
池の平の間の尾根道かもしれないと。
アレー?尾根の上に出たが、出合った道は覚えがなかった。それは良いとしても、この尾根の先は谷があり次なる
尾根はその谷の向うにある。そんな馬鹿な、高草山から富士見峠の尾根の東側の尾根は、満観峰の444峰から
蔦の細道への尾根の筈だ。なのに有る筈のない尾根に出てしまった。
先入観なしに考えるなら、富士見峠のある尾根と、蔦の細道に続く尾根の間に、もう一つこの尾根が派生していてる
事になる。と正面に見える送電線のある尾根が富士見峠や北のピークの尾根で、反対側の樹間越しに見える尾根が
蔦の細道の尾根という事だ。合点はいかないがそれしか考えられない。

 
                尾根に鉄塔が見えた                 正面に見えた尾根は?

 北の谷底には集落の屋根が見える。あれは廻沢の集落なのだろう。北の山越しには南アルプスの白銀も見えている。
東側は満観峰や富士山が見える筈だが木が邪魔ををして良く見えない。南の方角は高草山になる筈だが、尾根が南に
向かっていて鉄塔が2基見えているだけで、高草山も山頂のアンテナも見えなかった。

  
                廻沢集落                      南アルプス

 鉄塔下で少し休憩し尾根を次の29号鉄塔に向かう。尾根の道は斜面の急な道と違い、最近手入れをしたかの
ように太い道が延びている。大崩山塊の中にまだこんな尾根道があった事が嬉しくなる。
29号鉄塔まで行くと南アの雪山がより一層見えてきた。こんな道を紹介してくれた松理さんに感謝だ。

 30号鉄塔まで来ると点検路の標識はあったが壊れていて、次の点検路の方角が分からない。ここで焦っては
駄目だと鉄塔の周りを一回りすると、登って来た所の対の方向に踏み跡があった。向きは変わるが道があればいい。
その道に入ると放置された茶の木が背丈より大きくなっていて、コンクリの水溜もある。
サー何処か分からないが廃茶畑があるという事は、いよいよ富士見峠付近に近づいてきた証拠だ。だが何故こんな
所に茶畑があるのか分からない。富士見峠に続く尾根の東側の傾斜は急で、今まで茶畑を見た事がないのだが。
マーいいや何処でもいいから富士見峠の尾根に早く出たい。

 
            30号鉄塔と壊れている標識               尾根道出合の道標

 木の枝に邪魔をされ写真のピントが合わなかったが高草山のアンテナも見えてきた。オッと今度は岡部のSさんの
標識もあった。富士見峠の尾根の何処に出るのか興味津々で足取りも軽くなる。30号鉄塔から3分も歩くと前方に
点検路の標識が見え、左右に延びる道も見えてきた。さてここは何処だ!
ウーン残念。出合った尾根道に岡部ライオンズクラブの石の道標があり、そこの「←池の平 富士見峠→」が目に
入ってしまった。もっと考えて当てたかったのに残念だ。それに標識につられて左側を見ると、そこは見知った
場所だった。
そう富士見峠から池の平向かう最初の登りの所で、少し移動して下を見れば富士見峠の標識が見えてきた。

 
               富士見峠                     富士見峠から満観峰越しの富士山

 峠に座り込み志太平野を眺めながら今歩いてきた尾根の事を考えた。
高草山を入れた周遊ルートは焼津側は簡単に出来るが、静岡側は同じ道を歩くようになってしまう。
だが今歩いて来た道を使えば綺麗に周遊ルートが出来る。
宇津ノ谷道の駅 - 廻沢林道 - 28号鉄塔 - 富士見峠 - 高草山 - 鞍掛峠 - 満観峰 - 
蔦の細道 - 宇津ノ谷峠 - 宇津ノ谷道の駅
どうですかこれなら余り無理なコースではないでしょう。でも他人に紹介するなら自分が歩いてみないといけないな。
何だかすぐにでも歩きたくなってきた。ヨシ!来週はこのコースを歩いてみよう。てな考えが湧きだした。


                       富士見峠から志太平野

 28号鉄塔付近の拡大図です。黄色が尾根を表していて、富士見峠から北に向かって延びている短い尾根があります。
その尾根の上には送電線も走っています。
28号の標識の所から尾根に掛けては等高線は狭くなっていて、如何にも急な登りかが分かります。
また鉄塔から見えた集落も廻り沢集落に間違いありません。鉄塔から正面に見えた尾根も高草山から北の-ピークに
延びる尾根に間違いなく、その尾根の上には鉄塔があるのも分かります。

              

大崩鉄道遺跡

2014-01-21 11:56:07 | 低山歩き
今日の山行の目的は
1.大崩海岸から富士山の撮影し旧150号線を鉄道遺跡まで歩く
2.鉄道遺跡確認
3.廻り沢林道から富士見峠の踏破
4.池の平から時石までの目印取付
5.潮見平から方上城跡の農道確認
6.方上城から麓の関方までの山道確認
 と6項目もある。この内ほぼ駄目そうなのは6番目の方上城から麓までの道があるかの確認で、これは前回
方上城跡に行ったとき地元のお年寄りが
「昔は城跡から関方まで道はあったが、今では歩かないからのぅ」と言っていたので、微かな期待を抱いて
確認するに過ぎない。
そして不安な項目は、3番目の廻り沢から富士見峠の道で、これは以前松理さんがコメントに
「高草山関連で廻沢集落方面から富士見峠へのものが未調査だと思われます。」 と教えてくれた道だ。
その松理さんに昨年暮れに、北のピ-クで偶然お会いした時に
「廻り沢林道の入口は古い林道への分岐で、入口に中電の28号送電線の点検路の標識がある。
だけど歩いたのは何年か前で、今は道が荒れているかもしれないが」
 と言っていた。
確か池の平付近の点検路は倒木が多かったが---- マーいい。駄目なら戻ればいい。

 他の4項目は行けばいいだけの事でどうという事はない。

                           大崩海岸へ            歩行月日H26-1-19(日)
 簡保の下から簡保の尾根の道は崩壊のため通行止めのため、砂張屋の道標のある峠に直接登る事にした。
簡保下への入口と、前回歩いた農道の入口を通過して、東海道線のガードの所で花沢観光駐車場からの
道と合流する。ここまでは平坦な車道だったので結果的には楽な道を歩いた事になる。
山道の入口のお地蔵さんの祠の横に、焼津市の建てた、簡保下の通行止のお知らせがあった。この通行止も
何時になったら解除になるのやら。静焼アルプス縦走や十字縦走の4月上旬には解除して欲しいのだが。

 この砂張屋の道標の道は、古道の趣のある道で、大崩山塊の中でも好きな部類に入る。中でも春に歩くと
二輪草や雪の下が咲くので、楽しみは倍加する。

 道標の横にある馬頭観音の前に、竹を加工した供え物があった。同じ物が途中の庚申塔の前にもあったので
新年の供え物だろうが、謂れは何だろうか。

         
               地蔵さんと通行止の案内               馬頭観音の供え物
          道標登り口の地図
 気持ちの良い道は砂張屋の道標までで、海岸に下る「遊歩道」になると落葉などが溜まり滑りやすくなり気が
抜けなくなる。以前雑草のはびこる頃に歩いたが、その時草の中にいた蛇を踏みそうになってしまった。
それ以来この道は嫌いになり歩いていないが、草の無い今歩いても「何が遊歩道だ」と文句を言いたくなる。
これがハイキングコースと表示されているなら、文句の云いようは無いが------
遊歩道で思い出した。以前塩の道で遠州と信州の国境の青崩峠を歩いた時、遠州側の峠の入口には登山カード
のポストが設置されていたのに、信州側の表示は遊歩道だった。
余りに静岡県と長野県の山に対する対応の違い、に驚いてしまった事がある。

 遊歩道を少し下ると大崩海岸にある元小浜の集落が見えてきた。駿河湾の波は静かそうだ。
更に下ると海越しに日本平や愛鷹連峰も見えてきた。この分だと富士山もばっちしだろう。

 
              元小浜集落                    日本平と愛鷹連峰

 海岸の入口には鎖がしてあり、こんな表示もしてある。
「私有地-無断で入るな! 無断進入禁止 500円 つり、その他一人500円」
「つり・散歩・ロッククライミング ご用の方必ずTELして下さい-080-000   」

なんだこれは、ここに入ると本当に金を取るのか? 500円も払うのは癪だが、ここまで来てしまった以上は
仕方ない。文句を言われてから払えばいいと鎖を跨いで中に入った。
犬が盛んに吠えたが人は出てこなかった。アー良かった。

 駐車場の先の海岸は地主のプライベートビーチなのか。そう云えば農道歩きをしていた時、ミカン畑で地元の
人が「小浜海岸の島は個人の物」と言っていたが、この地主の事だろう。
だがチョット待った。海岸にある堤防や沖のテトラポットは地主が個人でやったのか。とてもそんな風には
みえない。自分の土地を守るのは公共にしてもらっているのだから、駐車料金は取っても散歩や釣りぐらいは
無料にすべきだ。それともこの看板は脅しのためなのか?

 突堤で釣りをしている人が見える。あそこに行けば富士山が見えそうだが靴が濡れないで行けるだろうか。
ともかく行ける所まで行ってみよう。
ウーン! 突堤は目の前だがこれ以上行くと靴が濡れてしまいそうだ。上手く波を避けられれば良いが、下手を
して海に落ちるのはもっと嫌だ。今日はまだ先が長い諦めよう。

 
                   突堤で釣りをしている              これ以上行けない
    
 垂直にそそりたった岸壁は、よく見ると岩登りに使ったのか、捨て縄や埋め込みボルトがみえる。尤も
金属部分は真っ赤にさびて、とても命を託す状態ではなく、最近の物ではない。これもあの立札の影響か。
海岸には黄色味を帯びた岩があるが、これと同じ岩が焼津の那閉神社の海岸にもあったが何と言う岩だろう。
大崩海岸には海底火山で噴出した玄武岩質溶岩が、表面は海水に急冷されて袋状になり、ゴロゴロと枕を
積み重ねたような枕状溶岩があるらしいが、これとは違うだろうか。余り枕の様ではないが。

    
         大崩海岸の絶壁         岩登りの跡か             なに岩?
          大崩海岸の地図
 後ろを振り返ると絶壁の上に立つホテルが見える。ホテルの左に見える島のように見える小山は虚空蔵山で
山頂には弘法大師が開いたといわれる集香寺や、船舶無線発祥の記念碑が建っている。

 立入禁止の鎖の所に戻ると釣り人が女性にお金を渡していた。きっと駐車料金なのだろう。
しかしその車は鎖の中ではなく道路の横の空地だ。ここでも金を取るのかと眺めていると車が1台きて
「金を取るんだ」と言って引返してしまった。
鎖の中の駐車場なら仕方ないが、こんな場所でも金を取るなんて観光地より厳しい。こんな事をやっていると
増々ここに来る人はいなくなってしまうのに悲しい事だ。
オッとチョビチョビしていると私まで金を請求されてしまう。静かにしていよう。

「さっき突堤まで来ませんでしたね」と料金を払っていた人が声を掛けてきた。
「エー靴を濡らすのが嫌だったので諦めました」
「今が満潮の頃で潮が満ちていたからね。今日は日の出前から来ていたが潮が動かなくて釣れなかった」

気さくに話しかけるが、こっちは金を請求されるか気が気ではなく、いつもは話好きな私だが早々に切り上げ
てしまった。
           
                      ホテル松風閣と虚空蔵山

                           鉄道遺跡

 富士山は諦めて次なる目標の鉄道遺跡に旧国道150号を歩いて行く。普段ならカーブが多く見晴らしの良い
この道は怖くて歩く気にならないが、今は土砂崩壊のため元小浜集落と焼津間は通行止めになっている。
そのため元小浜には静岡側からしか車はこないので交通量は殆どないだろうと今日の大崩車道歩きになった。
その目論みは当って途中出合った車は3台だけだった。

 静岡市の標識の所から富士山が見えてきた。ガードレールの下を覗き込むと、先ほど行くのを諦めた突堤が
見えてる。
大正の頃まではこの断崖の下には磯が出ていて、焼津と用宗は歩いて行き気が出来たという。今はご覧の通り
とても磯伝いに歩ける状態ではない。これは海水面が上昇して海岸線が陸側へ前進する海進をしたからだろう。
焼津ではこの海進の話がよく出てくる。例えば那閉神社の御神体は海岸の沖合にあった「神(かん)の岩」
遷座して、砂洲で繋がっていた虚空蔵山の洞窟「御座穴」に籠っていたが、その神の岩は今は海の中だという。
他にも今は高草山の山中にある林叟院は、明応(足利時代)の頃には小川漁港の沖合300m程にあったという。
それが明応7(1498)年この地を襲った明応地震で海中に没してしまった。また、この地震について林叟院の
記録には「而溺死者大凡二萬六千人也、林叟之旧地忽変巨海也」とある。
 日本武尊を祀ってある焼津神社も、かつてはもっと南東の現在の海の中に鎮座していたが、次第に海に変じ
たため、現在地に遷座したと伝えられる。

 こんな風に焼津付近の海は海進が進んでいるが、遠州地方はこの逆の現象は起きている。
小笠町旧大須賀町(現掛川市)の横須賀城は築城当初は港が城に隣接してあったと云われているが、
現在の海岸線は城より2.3kmも離れてしまっている。
 磐田市の今之浦地区では徳川家康が築城しようとしたが、井戸を掘ると塩分が強いので諦めている。
また、この付近は海岸線より6.7kも離れた場所なのに貝塚が発見され地名にもなっている。
 隣の静岡市の安倍川右岸にある大和田や佐渡も昔は大和田浦とか佐渡浦と呼ばれていたらしい。
その大和田は行く道に「最古の東海道 万葉の道 大崩街道-赤坂峠」の標識がある。場所はこの大崩の
絶壁が終わり、新幹線のトンネルの辺りにあるが、最初この標識を見て嘘だ!と思った。
何故なら一般的には奈良時代の万葉の道は、大崩海岸から一山内陸の日本坂峠を通っている。それが海岸に
行く道を指しているなんておかしいと思ったからだ。
だが、今こうして大崩海岸に来て、昔この磯を歩く事が出来たなら、きっと赤坂峠を通って駿府に行っていた
のだろうと思えてきた。

それにしても焼津地区だけ何故海が押し寄せてきたのだろう--------

 
            旧150号線から富士山            大崩海岸の突堤

 道が大きくカーブしている海側に、今は使われていそうもない処理場の入口があるが門は閉じられていて
「部外者 立入禁止」の看板が建っている。以前鉄道遺跡の場所を検索したと時の地図に、カーブした道の
内側から太い道が海岸に向かって延びていた。それならここに違いないと処理場の中を見れば、舗装された
車道が下に向かっている。
多分ここが入り口だろうと思ったが、念のため更に先に車道を進み海岸に降りる道を探す事にした。
カーブの一番内側の「急カーブ注意」の看板の場所は覚えがある。ここから山に入れば石部峠の道になる。
さらに車道を進むと前方に家が見えてきた。これ以上行っても下に降りる道は無いだろうし、鉄道遺跡の
トンネルが民家の下にはないだろう。

 
               処理場入口                    この先に民家が見えた
          処理場入口の地図
 処理場入口まで戻り、ご免なさい悪い事はしませんから、と塀を乗り越えて中に入る。
急な舗装路を下って行くと平らな場所に出た。だがトンネルらしき物は無かった。
鉄道遺跡の写真はみなトンネルの左側が山になっているので、方向としては静岡方向に向かった山にトンネルは
有る筈だ。広場の付近をウロウロするが何も無い。静岡方面というと先程見えた民家の下になってしまう。
まさかこの家の下にトンネルが有る分けが無い。一段下にも平地があるがそこに下っても同じだろう。
だいたい事前調査をやらな過ぎだ。この鉄道遺跡の事は去年の2月に調べて、海岸に下る道を見つけて
ヨシとしてしまった。1年前のその記憶だけで来るのだからアホと云うか自信過剰過ぎる。
今更反省しても遅いが鉄道遺跡は私を嫌っているのかな。

 
               海岸に降りる道                 海岸上の平地から

 こんなわけで予定していた2項目は失敗してしまいました。ただ旧150号線は想像していたより距離は短く
1.3km程度でしたので、交通量が増えても左程怖くはなさそうです。
問題は鉄道遺跡への降口だが、誰かご存知の方がおりました教えてください。

藤枝七福神3

2014-01-18 17:37:23 | 寺社遍路
歩行時間:5時間50分   休憩時間:2時間50分   延時間:8時間40分
出発時間:7時55分   到着時間:16時35分
歩  数:  42、394歩   GPS距離:-.-km

行程表(2014-1-12
 藤枝駅 0:25> 志太郡衙跡 0:50> 心岳寺 0:45> 藤枝総合運動場 0:20> 清水寺 0:35> 偏照寺
 0:55> 花倉城跡 0:45> 盤脚院 1:15> 藤枝駅


藤枝七福神と花倉城跡ウォーク観歩記
                             盤脚寺
 折角花倉城跡に来たので、この城が舞台になった「花倉の乱」の事も紹介します。
桶狭間で織田信長勢に斬殺された今川義元は、今川中興の祖と云われる今川氏親の正室・寿桂尼の三男
(今川家としては五男)として駿府で誕生した。
氏親には跡継ぎがいたため4歳で仏門に入り、富士郡(現富士市)の寺に預けられ、教育係の太原雪斎と共に
京都に上り学識を深めた。
氏親が無くなると嫡子氏輝が14歳で家督を相続したが、若年であったため母の寿桂尼が後見人として補佐した。
その事から寿桂尼は「女戦国大名・尼御台」と呼ばれるようになった。
氏輝は24歳で死去したが、同じ日に氏輝の後継的立場にあった次弟の彦五郎も死去している。このため氏輝は
病弱であったものの、彦五郎と同日に死去した突然死には諸説があり、毒殺説・自殺説などが疑われている。
嫡子のいない氏輝の死後は、出家していた弟の義元と、側室の子で義元の異母兄の玄広恵探(げんこう えたん)
の間で家督を巡る花倉の乱が発生した。
玄広恵探は当寺は花倉の偏照寺の住職をしていたが、母親の実家である遠州高天神の城主福島氏の一族の
後盾で後継争いに名乗りを挙げて花倉城を拠点に兵を挙げた。
この後継争いは義元側に岡部・瀬名・孕石氏といった有力豪族がなびき、恵探側にも朝比奈・篠原・斎藤氏の
豪族がこぞって推す今川家を二分する争いになってしまった。
恵探側は事を起こさなければ、駿府今川館に居住する寿桂尼側に有利になってしまうので、今川館を襲撃したが、
今川館の守りが堅く襲撃が失敗してしまう。この時の襲撃について二つの説があった。
1、花倉城から近い焼津の方上城を占拠してから、駿府の今川館を攻めたが寿桂尼を久能山へ逃がしてしまった。
2、久能山で挙兵して今川館を襲撃するが襲撃が失敗すると、方ノ上城や花倉城を拠点として抵抗した。
私としてはどちらかと云えば1説に近いが、それでも不満がある。焼津の方上城は高草山の中腹にある狼煙場の
ある砦のような山城で、この城を占拠しても戦況に変わりはなさそうだ。
それより花倉から駿府に行くには、東海道を通って行くのが一般的な道で、その途中には丸子城がある。この城を
占拠しなければ襲撃の際に背後を窺われる恐れもあり、襲撃に失敗して後退する時に逆に襲われてしまう。
恵探側の手勢が少なく丸子城を攻撃する兵がいないようでは、今川館の襲撃に成功しても、所詮は跡目相続は
叶わなかったと思われる。
結局恵探は花倉城に立て籠もり、一時は遠江などで同調するものも現れたが、相模の北条氏の支援を受けた
義元側が花倉城を一斉攻撃をすると、恵探は支えきれずに城から逃亡し瀬戸谷の普門寺で自刃してしまった。

以上が花倉の乱の概略だが、この話に出てくる義元の母親寿桂尼に興味を覚えた。
今川中興の祖氏親に嫁ぎ、今川家滅亡させた孫の氏真までの栄枯盛衰を見ていたのだ。そして今川家の再興を
願い遠江33観音霊場や駿河一国33観音霊所を制定してもいる。寿桂尼は死後も今川家を守るべく、今川館の
鬼門の方角の東北にある、沓谷の竜雲寺に埋葬されているという。百地蔵の時に沓谷付近を歩いたので寄りた
かったが、疲れと到着時間の心配で省略してしまった事が今になると悔やまれる。次回は必ず寄ってみよう。

 花倉城跡の案内板の建っている入口を入ると「土橋」と標識のある場所があるが、私の眼には小規模な馬の
背のような山道としか見えない。だいたい土橋とは丸太を隙間なく並べて橋面を作り、歩き易くするため土を
掛けて平にした橋の事だが、ここの土橋の下には川や堀が有る分けではないのになぜ橋なのか?
「城に設けられる土橋は橋ではなく堤で、堀をめぐらす中で、出入りのための通路を細い土手として残したもの」
だそうだ。そうなるとこの土橋の左右は堀なのか、とてもそんな風には見えない。知識の無い私には敵の攻撃を
遅らせるために自然の地形を利用した細い道としか見えなかった。

          
                   花倉城跡の案内板                      土橋

 城跡の中に入って標識を見ても具体的なイメージは湧いてこない。それでもここが花倉の乱の終結を迎えた
場所と思うと感慨も湧く。
天文5(1536)年3月17日に今川家当主の氏輝と弟の彦五郎が不審な急死して、その2か月後の5月25日に、
玄広恵探は今川館を襲撃している。だがその1か月後には花倉城は落城し、6月28日玄広恵探は自刃して
しまう。僅か3ヶ月余りの抵抗だったが、それにしても恵探側の戦略は無謀だった。私が軍師なら一か八かの
今川館の襲撃は行わないし、仮に襲撃して失敗しても花倉城は死守はしない。
何故なら恵探を押す勢力は花倉城の西の遠州に広がっていて、その遠州への道は、花倉城から山伝いに
延びているのだ。恵探もそれを知っていて西に脱出したが、時すでに遅く花沢城の西の脱出口には敵が待ち
構えていて、恵探は自刃するしか術はなかった。
恵探がもっと早く花倉城を脱出していれば義元の跡目相続もどうなっていたか分からない。
そうなると桶狭間の戦いも無く、信長の活躍も無ければ日本の歴史は変わっていた。なーんて

 
                本丸跡                      標識はあるのだが-----

 花倉城址から盤脚院には登って来たなだらかな尾根から、直接東の下に見える集落に下る。距離は短いが
急な下り坂で仲間の一人の足が攣ってしまった。薬などは携行していないので我慢してもらうしかない。
何とか盤脚院に2時5分に到着。ここまで来れば路線バスがあるのでどうとでもなる。アー良かった。

 盤脚院については百地蔵でも紹介したが、この寺の名前の起こりは盤脚院の和尚が徳川家康と囲碁を打った
ことから名前が付いたと流布されているが、どうやらその説は眉唾で家康が生まれる前から盤脚院だったようだ。
ただ家康と和尚とは親交があったようで、駿府城に行く和尚の為に駿府に浄元寺を建てている。その浄元寺は
今でも盤脚院の末寺となっている。

 盤脚院の本堂左側にあるお堂に半僧坊を祀ってある。この半僧坊は明治中期に村内に病気が流行したため、
遠州引佐の奥山半僧坊(方広寺)より分身し、病魔退散平癒のために建立されたものだそうだ。
ここで分からないのは盤脚院は曹洞宗、奥山方広寺は臨済宗方広寺派の大本山だ。しかも半僧坊は奥山方広寺の
鎮守の神様、「奥山半僧坊大権現」ときている。そりゃ権現様だから病気平癒の力もあるだろが、他宗派の仏の
力を借りなければならない曹洞宗もだらしがない。イヤイヤ良い物や効果のある物は何でも取り入れる前向きの
姿勢なのだろう。それに日本の仏教は住職や檀家の都合で簡単に宗派を変えてきたのだから仕方ないか。

        
                盤脚院                        布袋

 バスで帰る足を攣った仲間と別れて藤の花トンネル経由で藤枝駅に帰る。前回一人で藤枝七福神を歩いた時は
ここから残りの七福神を廻っのだが今日は連れがいるのでそうもいかなかった。それでも藤枝駅に着いた時は
30kmを越していたので、仲間の一人は「初めて30km以上歩いた」と喜んでいた。

 そうそう藤の花トンネルの運動場側出口から、清水山ハイキングコースに出る道は「私有地につき立入禁止」
で封鎖されていました。

藤枝七福神2

2014-01-16 11:17:12 | 寺社遍路
歩行時間:5時間50分   休憩時間:2時間50分   延時間:8時間40分
出発時間:7時55分   到着時間:16時35分
歩  数:  42、394歩   GPS距離:-.-km

行程表(2014-1-12
 藤枝駅 0:25> 志太郡衙跡 0:50> 心岳寺 0:45> 藤枝総合運動場 0:20> 清水寺 0:35> 偏照寺
 0:55> 花倉城跡 0:45> 盤脚院 1:15> 藤枝駅

藤枝七福神と花倉城跡ウォーク観歩記
                             花倉城跡
 清水寺の横の農道を登って行くと清水山経由で蓮華寺池公園に向かうハイキングコースの分岐に出る。
今日はハイキングコースには行かずに左の助宗に向かう農道を行く。この道は現在は農道だが路傍の
古い石仏があるの見ると、かっては清水寺の参道ではなかったかと思わせる雰囲気のある道だ。
 次の分岐の道標は、左は助宗で右は何も書かれていないが、下にある古い石の道標には「左助宗 右花倉」
と彫られている。以前駿河一国33観音霊場巡りで清水寺から花倉の補陀落寺に向かう時、右の花倉への道を
歩いたが少し進んだ先で道らしい道は無くなり、微かにある踏み跡を辿って行くと清水山のハイキングコースに
出てしまった。後で清水寺の人に話したところ「以前は道があったが新東名の工事で遮断されしまった」のだ
そうだ。本来なら新しい道を作る以上、古い道もそのまま維持するべきだと思うが、島田市野田のバラの丘公園
から島田二中に抜ける国1バイパスを越す山道を歩いた事で、そんな意見は言い辛くなってしまった。何故なら
そのバイパスを越す歩道橋のために、何のためなのか分からないが手摺のあるジグザクな道を造ってある。
それでもこの道が歩かれているなら文句は無いが、私が歩いた時は雑草や落葉で余り歩いた形跡は無かった。
これも地元の要望で作ったのだろうが余りに我田引水な行いだと思ったものだ。(その歩道橋の地図
それに比べれば、ここの道が廃道になるのは仕方ない事かもしれない。少し遠回りすれば済むのだから。

  
  清水寺の裏道にある石仏         花倉八幡宮の常夜燈          角度のある馬頭観音

 新東名からは藤枝PAに出る新しい道を歩いてみると、予定いていた道より随分近道で花倉に抜ける事が
出来た。ただこのPAへの道はPAへ寄ると遠回りになるので、途中からガードを潜って花倉に行く方がよい。

 花倉は東西に尾根が通った南北に広がる細長い平地で、花倉城はその北の突き当りの山の上にある。
その花倉の谷の西の入口には、今川家が駿河に進出してきた当時創建された偏照寺(へんしょうじ)があり
東側には今川氏が制定した駿河一国33観音霊場の札所補陀落寺もある。
花倉城の里にあった今川館は偏照寺前にある水田のあたりが居館跡とされ、 かつては土塁が残っていたと
いうが現在は遺構は残っていない。また居館跡の東側に馬場という地形が残っていたと書いてあるものも
あるが、その場所が何処か私は特定できていない。 当時の花倉城への登城路は、城に入口等を考えると
東の尾根を辿ったと思われるのだが、ここで一つ疑問が湧く。
今川家は本拠を花倉から駿府に移した後も、偏照寺の住職は代々今川家の一族が務め、駿府の西の守りとして
いた。その要の今川館は偏照寺の前にあったとされる。ようは寺と館は一体化されていたのだろう。
山上の詰城と麓の館の関係は、一般的には麓の館を当初の防衛施設とし、最終拠点は詰城で、支城に対する
本城に関係だと思う。
詰まり敵が攻めてきた時の最初の防御は麓の今川館で行い、敵わないとなったら館の後ろから詰城の花倉城に
移動(逃亡)して最終戦を行う。
だが花蔵の今川館の位置は、そんな作戦が成立しない場所にある。西の尾根の下にある偏照寺の前に今川館が
有ったとなると、敵は館の前の東側から攻めて来るので、いざ詰城に逃げようとすると前面の敵の中を通り
東の尾根に登らなければならなくなる。これでは逃げ場のない背水の陣になってしまうし、まだ前哨戦の段階で
こんな作戦を取る分けはない。
そうなると私の妄想的歴史観が蠢きだす。花倉の今川館の建っていた場所は偏照寺の前は前だが、ずっと前の
東の尾根の麓にあったのだ。そうなれば南から攻めてきた敵を偏照寺と今川館で挟み撃ちに出来る。さらの
形勢不利となっても館の後ろから詰城に逃げ込むことも容易だ。どうですかこの説は。

私にとって興味津々の花倉の里だが、連れは興味が無さそうなのでパス。花倉城跡の登りに向かう。

    
           偏照寺の地図
 
 東の尾根に登る途中に、以前から気にしていた石仏の舟型部分が尖った馬頭観音がある。前回歩いた百地蔵
では、この形の石仏は静岡県中部の岡部地方を中心に分布して、比較的新しい物が多かったが、ここの石仏も
昭和11年作成の物だった。これで信州高遠の石工のように石仏に名前が彫ってあればハッキリするのだが。

 この付近には他にも古く苔むした石仏や、一体化した小さな五輪塔もあるので、かってこの道が花倉城に登城
する道だったと思われる。その道も今はミカン畑になっていて、年が明けた今もまだ収穫していない畑もある。
西側には偏照寺から続く尾根が見えている。こちらの尾根は東の尾根に比べ、長く急峻で三角山や烏帽子形山を
辿って花倉城に向かわなければならない。
偏照寺で戦い敗れた僧兵は、この険しい道を辿って花倉城の裏門に逃げ込む事ができても、大所帯の兵では
移動もままならず、追撃してくる敵兵の弓矢に倒されてしまうだろう。

          
              五輪塔                       花倉城址のある山
          花倉城跡に地図

藤枝七福神1

2014-01-14 11:50:10 | 寺社遍路
歩行時間:5時間50分   休憩時間:2時間50分   延時間:8時間40分
出発時間:7時55分   到着時間:16時35分
歩  数:  42、394歩   GPS距離:-.-km

行程表(2014-1-12
 藤枝駅 0:25> 志太郡衙跡 0:50> 心岳寺 0:45> 藤枝総合運動場 0:20> 清水寺 0:35> 偏照寺
 0:55> 花倉城跡 0:45> 盤脚院 1:15> 藤枝駅

藤枝七福神と花倉城跡ウォーク観歩記
                             心岳寺
 昨年から初めた近所の人と一緒に歩くウォーキングも今回で4回目になりました。一人歩きが好きな私が
近所の人と歩くようになった切っ掛けは、近所の人の顔は知っていて挨拶はするが話などは殆どしません。
防災訓練などがあっても挨拶をしたあとは消火訓練などを見ながら時間が経つのを待っている状態でした。
これでは一人歩きができなくなった老後は、引き籠りになってしまいそうです。そこで大井川河川敷を歩いて
いていて、顔を合わす人にウォーキングに誘ってみたところ二つ返事で快諾してくれました。それでも二人で
歩くのも間が持てなくなりそうなので、数人に声を掛け今は4~5人で月に1回歩いています。

 そして今日は今年最初の例会なので、初詣を兼ね藤枝七福神と山城の花倉城跡を歩く事にしました。
尤も藤枝七福神といっても今日歩くのは、その内の三寺で残りの四寺は希望があれば次回歩く事にします。

 朝8時に藤枝駅を出発計画だが、今は団地から藤枝駅までのバス路線が廃止され、車か自転車で行くしか
ない。寒波が襲来している寒い朝に、年寄りを自転車に乗せるなら、せめてもう1時間遅い出発にすれば
良かった、と早速後悔してしまった。

 最初に寄った国の史蹟に指定されている「志太郡衙(ぐんが)跡」は、地元でもあまり知られていない遺跡で、
案の定今日一緒に歩いた仲間の誰一人として知っていなかった。
郡衙とは、奈良・平安時代に全国の郡ごとに置かれた古代の役所で、志太郡衙は現在の藤枝市と島田市に
かけての地域を管轄していたと考えられている。当時、全国には600ヶ所程の郡衙が置かれていたようだが、
現在ではその場所は殆ど分からなくなっているなか、郡名や郡司の官職名を食器に書き込んだ「墨書土器
(ぼくしょどき)」
が数多く発見された志太郡衙跡は全国的にも貴重な遺跡らしい。
資料館もあるがが9時から開館で入ることは出来ず、皆も余り興味が無いようなので早々に次に向かう。

              
                            志太郡衙跡復元施設
          志太郡衙跡の地図
 七福神の福禄寿を祀る心岳寺は、古道1号線バイパス谷稲葉ICより北西に行った山に囲まれた静かな所に
ある寺で、途中には「ホタルの郷」の案内もあった。寺への古い参道の両側には山茶花?椿?かな、それに
しては蕾も花も無いので茶の木だろうか?、滑らかの幹の上の方にだけ葉を付けていた木が並んでいた。

 一緒に来た仲間は、どうやら寺や石仏には興味が無いようなので、ここも来たという事だけで出発した。

        
                       心岳寺                      福禄寿
          心岳寺の地図
                  清水寺(絵馬)
 次の清水寺の途中にある藤枝総合運動場は、初詣で寄った静岡県小笠山総合運動場(エコパ)の小型版で
メインはサッカー場になっている。かっては全国に名を馳せた藤枝東高校も今では過日の勢いは無い。
久し振りに出場した全国大会も1回戦負けを喫してしまうし、プロサッカーは藤枝MYFCがJ3にいるが
ここの運動場を満員にする力はどうだろうか。
それでもエコパに比べ利用料金が安いのか、サッカー場では小学生が試合を行い、それぞれのグランドでも
練習をしている姿が見えるのは好い事だ。完成してしまったいじょう使わなければ宝の持ち腐れになる。

            
                             藤枝総合運動場
           藤枝総合運動場の地図
 清水神社には過去何度も参詣しブログにも紹介してきたので、今回は観音堂に奉納されている絵馬を紹介
します。下の絵馬の写真は「成田山・日光山・善光寺 参拝記念」の絵馬で、和服姿の19人の男女の姿が
描かれている。その内男性は15名で全員和服で帽子を被り、マント状の物を羽織っている。足元は黒足袋を
履き、草鞋なのか草履なのか鼻緒が見える。
一方4人の女性は日本髪を結い、和装で着物を着て上には長い道行を羽織っている。足元は白足袋で草履の
ような平らなものでなく、高さがあるように見えるので下駄を履いているようだ。
持っている物は女性は巾着のような袋物を一つだけ。男は小さなバックだけの人が多いが、中には振り分け
荷物にして担いでいる者もいるが、それとて小さなものだ。それと殆どの人物は、片方の手にコーモリ傘を杖
代わりのように突いている。
絵馬の日付は「大正12年4月3日」となっており、汽車による旅行なので、荷物は宿に置いてきたのだろう。
人物の後ろには成田山、日光、善光寺、苅萱堂と書かれた寺院の絵が描かれているが、刈萱堂って高野山に
ある刈萱堂なのだろうか。それにしたら随分強引な工程を組んだものだ。交通網の発達した現代だって私なら
こんなコースは設定しない。
参加者全員が藤枝の人で、女性4人の内2人は男性と同じ苗字なので夫婦なのか。残りの2人は独身か。
いずれにしても全員金には困らない、裕福な人たちだったのだろう。

  
                   「成田山・日光山・善光寺 参拝記念」絵馬

 もう一枚紹介する絵馬は「当国三十三所巡拝記念」と表題の付いて4人の女性が書かれている。
この当国三十三所とは、ここ駿河三十三所の事で、清水寺が一番で始まる「駿河一国三十三観音霊場」
の事だろう。その証拠に絵馬に描かれている寺は「壱番清水寺」と書かれている。

この絵馬の時代は先程より少し早い大正6年で、こちらの服装はいかにも巡礼らしく和服の上は白衣を着ている。
そして着物の裾は歩き易くするため裾を絡げていて手甲脚絆も付けている。足元は白足袋に草鞋のようだ。
手には金剛杖、頭には平らな三度笠と如何にも巡礼の格好だ。ただ荷物は斜めに背中に背負った風呂敷包
一つで、これだけで遍路をしたのだろうか。
 江戸時代も含めて昔の旅人の荷物は少な過ぎると感じていた。郷土史館などで振り分け荷物の中身を見た
事があるが着替えなどは無く、小物類ばかりだった。必要な物は現地で購入したらしいが、そうなると沢山の
路銀が必要になる。
だが追剥やごまの蠅がウヨウヨいる中を大金を持っていけば猫に鰹節だ。そのため手形を何枚も持参して
現地で現金に換えたとか。その現金も一ヶ所に保管せず何ヵ所にも分けて持っていたらしい。まるで現代の
海外旅行と一緒だ。いやいや海外旅行だけでなく、期間が40日前後になる四国遍路も同じで、現金は途中の
銀行や郵便局で下しながら遍路をしていた。ここ駿河一国の遍路は10日程度だが、絵馬の女性たちもそんな
苦労をしながら遍路をしたのだろう。
この女性達も藤枝町に住んでいたようだが、遍路日誌等は書かなかったのだろうか。そんな苦労話などを是非
読んでみたい。

        
                   「当国三十三所巡拝記念」絵馬

 清水寺の七福神は大黒天。その社の前の案内には「三面六臂大黒天」とあった。だが石像の顔は一つで
腕は二本だ。それなのに三面六臂と書いてある。
だいたい大黒さんで顔が三つで腕が6本もある物は見た事がないし、右手には打ち出の小槌を持ち、左手は
背中に背負った袋を支えている。これ以外に何を持つというのだろう。
これは調べる必要があると思って調べ出したが、中々複雑だったので、先ず一般的な大黒さんは、昨年歩いた
遠州七福神の大黒天で紹介した記事から引用する。

大黒天は中々ユニークな神様だと思う。大黒さんと聞いて思いうかべるのは米俵の上に乗って大きな袋を背負い
打出の小槌を振りながら満面な笑みを浮かべている。頭にはベレー帽を平たく長くしたような帽子を被った
大黒さんがお馴染みだが、あの像を後から見ると、とんでもない形に見えるらしい。
頭の帽子は亀頭で体が陰茎、そして俵は陰嚢だという。私は確認していないので確かではないが。
大黒天は元々ヒンドゥー教のシヴァ神の化身のマハーカーラで、マハーは大、カーラは黒の意味から、大黒天と
名付けられたので、その起源のシヴァ神と同様に、大黒天も性的な性格を持つ仏でもあるらしい。
また大黒天が台所の神と言われるのは、天台宗寺院で台所に大黒天を守護神として祀るようになった事からで、
昔の家は土間と座敷の間に、中心となる柱を立て、その柱が台所にも隣接していたので、そこに大黒様を祀り、
その柱のことを「大黒柱」とも呼ぶようになっていった。
さらに台所の主はその家の主婦だったので、寺の主婦の事を「大黒さん」と呼ぶようになったともある。
尤もこの呼称は幕末期まで、真宗以外は寺には主婦は居なかったのだから、最初は隠語として寺にいた女性
(隠し妻)の事を大黒と言っていたのかもしれないな。 

以上が遠州七福神で紹介した文で、内容は一般的な大黒天で終わっている。では三面六臂大黒天とは
「大黒天は密教の伝来とともに伝わり、本来は軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、中国において財福を
強調して祀られたものが、日本に伝えられた。日本においては最澄が毘沙門天・弁才天と合体した三面大黒を
比叡山延暦寺の台所の守護神として祀ったのが始まりという。
 本来の像容は、一面二臂の黒色で忿怒の相で表現されるが、毘沙門天・弁才天と合体した三面六臂の大黒天も
作られた。室町時代以降は「大国主命」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代に
なると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の
小槌を持った微笑の長者形で表される。」

分かったようで分からない説明で申し訳ないが、三面の形や六臂の持ち物についての説明は見つからなかった。

  
    清水寺の大黒天            憤怒の三面六臂大黒天       俵に乗った三面六臂大黒天
           清水寺の地図

遠州三山初詣3

2014-01-10 13:37:40 | 低山歩き
歩行時間:8時間10分   休憩時間:1時間40分   延時間:9時間50分
出発時間:7時15分   到着時間:17時05分
歩  数:  43、418歩   GPS距離:29.5km

行程表(2014-1-4
 掛川駅 1:25> 138°展望台 0:20> 腹摺り峠 1:10> 法多山 2:20> 菅ヶ谷横穴 0:35> 油山寺
 0:25> 千鳥ヶ池  1:00> 可睡斎  0:55> 袋井駅 

遠州三山初詣ウォーク観歩記
                  可睡斎へ(標識)
 油山寺を出て、来た道を戻る。途中にある津島神社の分岐を右に曲がれば、昨年初詣で歩いた車道の可睡斎
への道だが、今年はその車道を避けて千鳥ヶ池経由で可睡斎に向かおうと思っている。
実は去年も千鳥ヶ池を廻って油山寺に行く予定だったが、何故か車道をばかり歩いて津島神社に出てしまった。
何処かで標識を見落としてしまったので、今年は逆に歩いてその見落とした場所を見つけようと思っていた。

 千鳥ヶ池の入口は以前はラドン温泉の看板があって分かり易かったが、今はその看板は撤去されてしまった。
だが右(西)側の山が終わる辺りの右に作業小屋、左に標識があるので見落とす事はないだろう。そこを右に
曲がればじきと千鳥ヶ池の入口に到着する。
池の周りの散策路は特に何があるというわけではないが、水面を見ながらのんびり歩くにはお勧めだ。今日は
風が無くさざ波もたっていないので、これで水鳥が浮かんでいれば水面にその姿が写り綺麗だろう。だが今は
3時を過ぎてしまった。急がないと袋井駅に5時を過ぎてしまう。(それなら池の周遊路を歩かなければよいのに
急ぎ足でも歩くのだから我ながらアホたれてしまう)

 千鳥が池や中峰山展望台を過ぎて右(西)に墓地がある。可睡斎はこの右の方向に有る筈だと思いながら
行くと、次にあった標識は左に曲がる方向が可睡斎になっている。
???何故だろう標識を見直しても間違いなく左が可睡斎だし、標識が動いた気配も無い。マー何とかなる
だろうと左の道を下って行くと、広場の中に猪の罠が設置してあった。檻の中には例により子糠を撒いてあり
他に大きな薩摩芋が2個置いてある。猪の好物はミミズだと聞いていたが最近テレビで「猪はミミズは食べれる
から食べるが、薩摩芋とかジャガイモの方が好きだ」
と話していた。それからいけば薩摩芋は正解だと思うが
こんな広々として猪が身を隠す場所の無い所に檻を設置して猪は近づくのだろうか?

       
                千鳥ヶ池                       猪の罠

 道に疑問を感じながらも好奇心が湧く余裕はある。写真を1枚写して下の細い舗装路に出る場所にまた
標識が建っていた。標識は下って来た山道から鋭角に舗装路を戻る方を指していて、その先には手掘りの
トンネルが見えていた。これを見て思い出した。以前このトンネルを歩いた事を。
トンネルを抜けると火の見櫓や標識の建っている太い車道に合流し、可睡斎の方向は細めの舗装道路を直進
するようになっていた。だが油山寺の方向は今来た手掘りのトンネルの方向ではなく、北に向かう車道の方向
だった。
 分かった。去年千鳥が池に行けなかったのは、この標識が原因だったのだ。ここを北に向かう車道を歩いた
ため津島神社に直接出てしまったのだ。
しかしこの標識通り歩いても油山寺に行けないわけではないので決して間違いではない。
でも腑に落ちないのは、この標識にない方向にある手掘りのトンネルの所に同じ標識がある事。それに標識の
支柱には同じように「袋井ハイキングコース」と書いてある事だ。
でも標識は標識で決して間違いではないので、もし可睡斎から千鳥が池経由で油山寺向かうときは、火の見櫓や
標識のある村松西公会堂の交差点は直進する事です。
写真は公会堂前で写したもので標識は前の車道を左に行くようになっているが、車道を横断して直進します。
その後は次々と標識はあるので千鳥が池経由で油山寺に行く事が出来ます。

アーこれで清々した。一年越しの悩みが解決した。これで次回逆コースを歩いても千鳥が池には行けるだろう。

 
                手掘りのトンネル                      村松西交差点

 可睡斎に着いたのは4時丁度。想定していたより1時間は遅くなってしまった。これも脚力が弱くなったせいかも
知れないが嘆いても仕方ない。それよりここまで歩けたことで満足しよう。
 さすが参拝客は少なくなっていて露店も店じまいの準備をしていた。境内の中も人はまばらで写真を写しても
参拝者の姿は入らないで済む。私も何となく落ち着けない感じで早々に退散してしまった。

 
                 可睡斎山門                        秋葉総本殿可睡斎

 可睡斎の前の信号のある交差点に大きな地図の案内板があった。
さっきの村松西公会堂の場所はどうなっているの見てみると、ハイキングコース案内として
「田圃の中の道を真っすぐ東へ進むと火の見櫓があり、更に直進するとトンネルがある。トンネルを抜け、
折り返すとなだらかな山道になり、5~6分で中峰山に到着する。」
 となっていた。

 袋井駅に5時5分に到着。途中のコンビニで氷結を買い、駅前のベンチに腰かけて今年最初の乾杯を。
ウーン満足。これがあるから駅からウォークは止められない。


遠州三山初詣ウォーク2

2014-01-08 14:22:20 | 低山歩き
歩行時間:8時間10分   休憩時間:1時間40分   延時間:9時間50分
出発時間:7時15分   到着時間:17時05分
歩  数:  43、418歩   GPS距離:29.5km

行程表(2014-1-4
 掛川駅 1:25> 138°展望台 0:20> 腹摺り峠 1:10> 法多山 2:20> 菅ヶ谷横穴 0:35> 油山寺
 0:25> 千鳥ヶ池  1:00> 可睡斎  0:55> 袋井駅 

遠州三山初詣ウォーク観歩記
                  油山寺へ(遠江49薬師霊場)
 法多山の厄除け団子¥500を二箱購入。ここの団子は普通の団子の形と違い、長方形の柔らかい餅を五等分
にし、浅い切れ目をつけ串で挿してある。串を挿す位置が逆なら団子になるかもしれないが、分離した状態では
団子には見えない。そう蒲鉾を長方形に切り、串を挿したと思えばよいだろう。その片面にのし餡を塗ってあり、
味は伊勢名物赤福に似ていると思う。
この団子は中々人気で、初詣の人の多くは団子を手にして参道を下っていた。

            
                             法多山の厄除け団子

 仁王門を出ると両側に露店が出ていて道が狭くなり、賑やかな初詣風情になると、ストックを突きザックを肩に
した姿は、周りに違和感を感じさせないか心配になる。それに周りは厚着をしているのに私一人だけはジャンパーも
着ないで歩いている。自意識過剰な私はこのような場所はどうも苦手だ。

 今年は車道に出たらエコパを通り愛野駅に向かう裏道のコースにしたが、この裏道も臨時の駐車場ができていて
盛んに呼び込みをしていた。

 初詣客で賑わっていた法多山と違い、エコパはヒッソリとしていた。2002 FIFAワールドカップの試合会場と
して建設され、J1のジュビロとエスパルス擁する静岡県のとしては利用度が高い予定だったろうが、案に相違し
閑古鳥が鳴いている。今年はさらにジュビロがJ2に降格してしまいエコパで試合をする事はないだろう。
なにもワールドカップの3試合のために、こんな立派なサッカー場を作らなくても良かったに思ってしまう。
因みにエコパと「小笠山に近いことから「山彦」を意味する「Echo」と、友達・仲間、地域・自然との共生を図る
という意味合いを込めて「友」を意味する「Pal」から合成した造語である。」
そうだ。私はてっきり
「エコロジー:環境を意味する『エコ』とパーク:公園を意味する『パ』を組み合わせた名前」だと思っていた。
尤も小笠山の自然を造成して作った施設では、余り大きな声では「エコ」とは言えないな。

 エコパから愛野駅に続く坂に自動のエスカレータが設置されている。この屋外のエスカレータは時々稼働して
いない時もあるが、果たして今日はどうだろう。OK! 動きました。階段を下るより数段気持ちが良く楽でいい。
これに味をしめて愛野駅でも自動のエスカレータに乗ってしまった。これでウォーキングに来ているのだろうか。

 
静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパ)                    自動エスカレータ

 愛野公園から少し遠回りになるが川沿いの道を旧東街道の同心橋に向かう。この橋の袂に花茣蓙公園があるが
これは江戸時代この辺りでは、鮮やかな柄を茣蓙に編み込む花茣蓙が街道の名物だったという。
国1バイパスのガードを潜ると、いよいよ油山寺の参道になる。まず最初の分岐に「従是油山道」の道標が現れ
次の角には「右あぶら山道」の道標がある。ただここの右の道を行くと標高差40m程の岡を越えて行かなければ
ならない。坂が嫌なら最初の道標を西に2kmも向かえば平坦な畷のように真っ直ぐな参道がある。
昔の人は半里の遠回りをするなら岡越えの道を選んだのだろう。今日は私もその真似をする。

     
             花茣蓙公園              従是油山道           右あぶら山道

 岡の上の永源寺で少し休憩をする。実は今朝起きた時、寝違えたのか左肩甲骨の後ろに痛みを感じた。それが
今は大きく息をすったり、胸を広げたりするだけで痛くなってきた。さらに近頃慢性になってしまった左足首も
疼いてきている。背中の痛みは一過性なものなので心配はないが足の痛いのは困る。最近は平らな河川敷を
歩いても痛みが出てしまうが、慢性疲労による痛みなのか、それとも疲労骨折? どちらにしても困ったものだ。

 永源寺を出て袋井ゴルフ場の金網の横を歩く。実はこのゴルフ場の中には飛鳥時代の共同墓地である「菅ヶ谷
横穴群」
遺跡がある。昨年はゴルフ場の金網の門が閉まっていて見る事が出来なかったが今年はどうだろう。
オッ!ラッキー金網の入口が開いている。中を覗くとコースの間に舗装された道も延びていた。ここに違いないと
ゴルフ場に入ったがチョット変だ。道はコースの途中を横断しているのでプレーヤを確認しなければ危なくて
進むことができな。前にここに連れて来てもらった時はこんな注意はしなかったはずだが。
 安全を確認してコースを横断すると道は分岐していた。確か下った先に横穴はあったはずだと下りの道を行く。
無い! それどころかまた道は分岐している。また下りのコースと平行の道を進んだが、どうもおかしい。
さっきからカートの横に立っている人が私をジロジロ見ている。弁解を兼ねて
「済みません。ここに横穴の古墳があると聞いてきたのですが----」
「おじさん ここが何処か知ってるの、ゴルフ場の中だよ。古墳なんか有る分けが無い」
「ゴルフ場の中にあるときて来たんだけど。諦めます。すいませんでした」

ゴルファーが機嫌悪くなるのは当たり前だ。彼らはプレー費を払って楽しんでいるのに、そこにザックを背負った
年寄りがウロウロしてたのでは、リッチな雰囲気が壊れてしまう。すみませんでした。

 今年も横穴群を見るのを諦めて油山寺に向かって歩いていると、金網の下にゴルフボールが層になって埋まって
いる所があった。これが千年後かに発掘されたらその時代の人は何と解釈するのだろう。いやその頃にはゴルフ
ボールは溶けてなくなっているのかも。

 オヤ?また金網の入口が開いている。中を見ると先ほどの入口と同じように舗装路が延びていて、道の左右は
グリ-ンとティーグラウンドに別れている。そーだ横穴群への道はここだ。
フト金網の上に目をやると、何の事はない「菅ヶ谷横穴群」の案内板が建っていた。この看板の事を覚えていれば
さっきのような間違いはしなかったのに歳は取りたくない。

 入口からコースと離れた下りの道を3分も行くと右側に横穴群が見えてきた。

        
                ゴルフボールの層                   菅ヶ谷横穴群入口

 横穴は八ヵ所ほどあり手前の穴は大きいが、奥には小さな穴もある。横穴は飛鳥時代の共同墓地だというが、
穴は個人用だったのか、それとも共同だったのか。大きな横穴の間に二段の供物台らしき物がある。その上に
何やら数字らしき物が刻まれていて「1976 48 ??」と読めるような気がする。飛鳥時代にアラビア数字を
使うわけがないので近代に入ってから彫られたのだろう。ただ悪戯にしては本格的だし、これだけ彫るには
時間も掛かっただろう。
若しかしてこの横穴を発見した時の年号か。「西暦1976年 昭和48年」だが昭和の年号に25を足せば西暦に
なるのだが48+25=73で1973年となり3年合わない。何だろうなー 気になるが分からない。

 
                     菅ヶ谷横穴群                  横穴入口の文様
           菅ヶ谷の横穴群の地図

 案内板には「菅ヶ谷横穴群は16支群94基が確認されており、1群は2~3基の単位で構成されている。玄室の一番
奥に一段高く祭壇上に遺骸を安置するように作られている。」
とある。
中に入ってみると確かに奥の壁に四角く掘られている。ここに遺骸を安置した? 待てよ、こんな小さな穴に人間の
遺体を置けたのだろうか? 遺骨なら分かるが遺骸とは意外だ。

 前回は案内板の前を左奥に行ったが今日はここから引き返す事にする。もう1時半を過ぎているのにまだ油山寺
にも着いていない。先を急ごう。
ゴルフ場の金網に戻ると入り口横に小振りな送電線の鉄塔が建っていた。これも入口の目印になるだろう。

 
                     横穴内部                    横穴から外を

 丘の上の車道を北に進む。去年の初詣ウォークはこの道を逆に歩いたが、交差する道は鋭角に戻る状態だった
ので迷わず永源寺に行く事が出来た。しかし今日は出合う分岐はY字状になっているので、その度に悩んでしまう。
それでも油山寺はこの岡の左側に下りさえすれば、下の参道に出るから安心していられる。最後の分岐は右側を
北に向かう道の方が太くメインのような感じだったが、左に下る電線の続く道を降り無事下の参道に合流した。
それにしても入口にあった古い道標はその後は出てこなかったが、道が違うのか、それとも昔は一本道だった
ので道標は必要なかったのだろうか。

 下のメイン参道を走っている車は少なく初詣客は少なそうだ。
遠州三山とはいえ法多山は厄除け、可睡斎は火伏、油山寺は眼病平癒として知られている。
だが眼病平癒だけでは参拝客は限られてしまうのか参拝客は少ない。折角油山寺の山号は「医王山薬王院」
医薬に関しているので眼病だけでなく、病気全般の平癒と病気自体を遠ざける病除け、それに守護神の「軍善坊
大権現」
は、足・腰に霊験あらたかといわれているのでこれをアピールしても良い。
やりようによっては参拝者が増えるじゃぁ-ないかな。

 油山寺も何回となく来ているので既にブログで色々紹介してしまってある。掛川城の大手二の門を移築した
山門も、門前にある御霊(みたま)杉も以前に紹介した事がある。
書く事がなく困ってしまうがマー写真だけでも見てください。寺の山門というより城門。杉の幹というより
確かに松の幹に近い御霊杉。どちらもフーンと思ってしまいます。御霊杉とは
「弘法大師が幼児の命を助けると、感謝した父親が松で、母親が杉で一膳の箸を大師に捧げた。大師が旅立つとき
その箸を大地に挿していくと、あら不思議、幹が松、葉が杉の珍しい霊木になった」
 のだそうだ。
この杉は植物学上何に分類されるのだろう。静岡県指定の天然記念物ならそんな説明があっても良さそうだが。

 境内に入るとここにも茶祖栄西禅師像があるようだが高台に登らなければならない。今日は止めておこう。

 
                    油山寺山門                       御霊杉

 通常私たちが本堂と思っている「宝生殿」は、祈祷や大護摩供秘法修法の道場、あるいは御法話等の宗教儀式に
用いられている建物だそうだ。(それなら本堂と思うのだが)その建物が新しくなっていた。
今日は油山寺で買い物がある。イエ病除け団子ではなく「遠江四十九薬師観音霊場」巡りの朱印帳を札所でもある
油山寺で購入しようと思っていた。納経所で声を掛けるとA4版の大きな朱印帳と、霊場案内の「薬師のあるふるさと
遠江」
の2冊を持ってきてくれた。値段を聞くと納経帳は1100円だと言う。
ウ!タカ!でも買わなければ霊場巡りの時に、寺の人との話ができなく聞きたい事も聞けなくなる。
それにこの帳面さえあればご朱印料金は100円になるのではと思う。通常ならご朱印代は300円なので1100円でも
安い買い物だ。尤もご朱印代が100円になるかどうかは確信は持てないが、遠州・遠江33観音霊場巡りでは100円
だったので多分100円だろう。霊場案内は1000円だったが、これが一冊あれば、あちこちネットで検索しないで済む
ので時間の節約になる。

 突然遠江四十九薬師観音霊場巡りの話だが、昨年暮れにあるブログに、この薬師巡りを二回結願した記事を
読んで急に歩いてみたくなった。遠州の霊場巡りは遠江と遠州の33観音巡りと遠州七福神は廻っているので、
この遠江薬師巡りも重複した寺が多いかもしれない。しかしここを結願すれば遠州の主な霊場巡りは終わった事に
なる。とそんなわけで急に思い立ち、春には結願したいと思っています。

 奥の院いや正確には本堂に向かう参道に国指定の重要文化財で静岡県の最古の三重塔が建っている。

       
                    宝生殿                          三重塔

 三重塔の前に大師堂があり、いつもは扉は閉まったいるのだが今日は開いていた。中を見ると正面に黄緑色の
服に青い袈裟を付けた弘法大師の座像。
その周りには茶色の僧衣を纏った像が三段に何列も並んでいた。大師像の横には赤子を抱いた女性の像もあるが、
あの赤子は弘法大師なのか。

 本堂に入り本尊の薬師如来にお詣りし、その横に祀られている軍善坊大権現にも足首痛が早く治るように祈願した。
困った時の神頼みだが、次回遠江薬師巡りでお詣りする時は、今日のお詣りの効果で痛みが収まっていますように。