はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

富士山静岡空港(オオキンケイギク)

2018-05-29 09:25:36 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-5-25(金)
歩行時間:5時間55分   休憩時間:1時間15分   延時間:7時間10分
出発時刻:7時40分     到着時刻:14時50分
歩  数: 34、913歩(推定距離24.09km)    GPS距離
行程表
 自宅 1:15> 島田大橋 0:20> 中條像 0:45> 養勝寺 0:40> 静岡空港 0:40> 坂口展望台 0:40> 東展望台
 1:15> はばたき橋 0:20> 自宅

  週末には富士山にもう一つあるパノラマ台の明神山に行く予定をたてていたが、野暮用が出来て急遽中止。
仕方なく金曜日に家から歩いて行ける静岡空港一周ウォークに行ってきました。


                              牧之原台地概略図

  牧之原台地上にある静岡空港には当然台地に上がらなければならないが、一度台地に上がれば良いと云うものでもない。
今回のコースは北東の大井川から歩いたので、先ずは中條像のある台地に上がり、一度台地を下って空港のある次の台地に
登らなければならなかった。
  概略図で説明すると牧之原台地は古代の大井川の扇状地が隆起したものと云われ、東は大井川、西は菊川に挟まれている。
台地は南北に広く延びているが、川の浸食により台地の南側は幾条かの支脈に分かれ海に向かっている。
そのため牧之原台地を東西に横断しようとすれば何回となく台地への上り下りを繰り返さなければならないが、台地の元となる
諏訪原城付近では、菊川と大井川間は一度の上り下りで済んでしまう。そこに東海道があるのだから昔の人は大したものです。

 
            大井川マラソンコース「リバティ」                      新幹線下のゲートボール場

  家を出て700mも歩けば大井川マラソンコース 「リバティ」 に出ます。この平坦な道を脚力維持のため毎日のように歩いて
いるのですが、その為か山の上りも下りも最近は苦手になってきています。
  コースの右半分が赤茶色は膝に優しいウレタン舗装らしいのですが、どうでしょう? 私にはその感触は分かりません。

  ウレタン舗装の赤茶が終る6kポスト先でと藤枝市に入ります。前方には新幹線の鉄橋が見えてきて、その手前にまだ8時前
だというのに車が沢山止めてあります。ここは藤枝市営のグランドゴルフ場で半日200円と安いせいか連日賑わっています。

  手前に見える空地は平成27年度に藤枝市防災広場として作られたが、その後一切使われていない空地です。
当時の藤枝市のHPには
 「都市防災総合推進事業と一体となって防災関係機関集結地として大井川河川敷防災広場を整備し、集積された物資を
防災備蓄倉庫に円滑に供給し安全安心な生活の実現を。
大井川河川敷防災広場の整備5,300万円 物資の供給や人的救助活動の拠点として整備」
となっていた。
大雨が予想されるときは河川軸にある四阿やトイレは一々対策を取る場所なのに、防災広場や防災倉庫を作って大丈夫なのか
疑問を感じた。その不安が的中したのか完成後3年経っても何も使われていません。 当時のブログです

 
                東海道53次「日本橋」                          「三島宿」と島田大橋

  全長18.9kmのマラソンコースのうち焼津市が6km強、藤枝市は2km強、残りの10km余りは島田市に入ります。
その為かコースに力を入れるのは島田市が一番で、島田市に入る8.5km付近からは東海道53次の宿場のモニュメントが
設置されています。勿論最初は日本橋ですが何とも中途半端な場所に建っています。
しかもコースの左側に設置されている石碑は、最終地点に行っても京には着かず、終点から折り返して右側に変わります。
マラソンコースに東海道53次の石碑を設置するなら、0kポストを日本橋にして終点を京の三条大橋にすれば納まりがいいし、
更に宿場間の距離の割合で石碑を建てれば、昔の東海道の距離感も湧くのではないか。なんて考えるのは私だけだろうか。

  10.5kポスト先にある三島宿の石碑の先に見える島田大橋を渡って牧之原台地に向かいます。、

 
                島田大橋                                  中條像から

  橋の先に見える高台が最初の牧之原台地です。この辺りの台地は台地の初め(終わり)なのか標高は低く容易に登ることが
できます。また台地は左の海側に向かって少し傾斜しています。
  台地の上には牧之原の開拓を始動した中條金之助の像があり、そこから眺める茶畑、大井川、富士山の眺めは好きですが
生憎今日は黄砂が舞っているのか、霞んでいて景色は良くありませんでした。

  
            中條金之助像                              蓬莱橋

  中條金之助の像にあった略歴によれば、
 「金之助は15代将軍慶喜の護衛のために精鋭隊を編成して隊長に就任。慶喜に随行して駿府(静岡)に移住する。
その後、勝海舟らの勧めにより牧之原開拓頭取に就任して隊員を引き連れて開拓に従事する。
明治4年廃藩置県の際に神奈川県令を拝命したが固辞し、終生官職には就かず牧之原開拓と士族殖産のために身を捧げた。」

素晴らしい人生ですよね。
牧之原開拓に携わった人の中に 「今井信郎(のぶお)」 と云う人がいます。今井は地元初倉村の村長を務めているが、
これだけではどうと云った事は無いが 「坂本龍馬を切った男」 と云ったらどうでしょう。興味を覚えた方は以前の記事ににどうぞ

  本来なら島田大橋の上流にある蓬莱橋を渡って中條像まで来たかったが、賃取橋を渡るのが勿体なく感じるケチな男です。

 
                 三角点                                太陽発電と茶畑

  茶畑の中にある三角点は三等三角点で点名は地獄沢となっています。何とも恐ろしい名前だが何処から付いた名前だろう。
周りは台地の茶畑ばかりで当然沢などは見当たらない。強いて言うなら中條像からここに来る途中に大井川に向けて急な斜面が
見えていたがそこの事だろうか? 三角点の設置場所は “沼伏原” となっていたが、これも意味不明です。

  本来なら隙間なく設置される太陽光パネルが、ここでは間隔を取っで設置されパネルの下には茶の苗木が植えてある。
これなら茶畑に寒冷紗を敷く事なく高級茶が収穫できそうです。おまけに茶の上では発電が行われていて一挙両得のように感じ
ます。でもこの方式は他でも見た事がるが余り広がらないところをみると虻蜂取らずなのでしょうか。

 
                 大茶園                                     大茶園

  台地の上から見る茶畑は高低差が無いため平面的で好きではありません。
まして茶摘みが終った今の時期は、茶畑の荒刈が行われているので更に見る影もありません。
お茶は一般的に1年に2・3回収穫をするが、新茶のあと2番茶を収穫しない茶畑は、緑の葉が残らないくらい深く刈込ます。
こうして茶の木の樹形を整えながら大きさも押さえるのだとか。こんなに深く刈っても2番茶は採れないものの秋番茶の収穫は
出来るそうです。尤も秋番茶は収穫しない茶畑が殆どですが。

 
                オオキンケイギク                                養勝寺

  最初の台地を湯日川の流れる低地に向かって下ります。途中の林の中にはドクダミの白い花が、日向にはオオキンケイギクが
咲いています。このオオキンケイギクは特定外来生物に指定され、栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されています。
栽培が禁止される理由は “強靱な性質のため在来生態系に被害を与える” かららしく、個体に毒が含まれていて危険であるなどの
報告は現在のところはないそうです。

  オオキンケイギクについては以前にも取り上げたが、今回は各市の対策を市のHPで調べてみました。
しかし島田市も藤枝市は市役所のHPのカスタム検索でオオキンケイギクを検索してもヒットするものはなく、焼津市は市議会の
議事録等とても見る気も湧かない文章が出てきました。
それではHPとは別に “〇〇市 オオキンケイギク” で検索すると、藤枝市HPの中のオオキンケイギクの防除の対策のファイルが
開きました。何故HPからこのファイルに行きつかないのかは不明ですが、兎も角藤枝市は対策を取っているようです。

  試しに静岡市を調べてみると、静岡市はオオキンケイギクの駆除には積極的に取り組んでいるようで幾つもの記事がありました。
中には単に駆除するだけではなく、駆除した根を使った紙を作っていました。
また、HP上に “オオキンケイギクを見かけた方は、ぜひ静岡市まで発見情報をお寄せください。” ともありました。

  今日歩いた河川敷のマラソンコースでは、島田市で数本のオオキンケイギクを見かけただけだが、河川敷上の堤防道路には
蓬莱橋を中心として、まるで植えこんだように群落を作って咲いています。
これを放置していてカワラナデシコなどの在来植物に影響はないのでしょうか。

  空港のある二つ目の台地に登るには “空港入口島田” の信号から車道を行くか、養勝寺の墓地を通って行く方法があります。
日陰の無い車道より、当然日陰の多い墓地経由がお進めですが、何しろ墓地の中を歩くのだから大人数では気が引けます。
でも一人なら余り気にせず通ることができるので、今日は養勝寺を参拝しながら墓地経由で行く事にします。

  養勝寺の境内の小さな祠の中に、三体の石仏と共に 「新四国八十八ヶ所一番札所」 と書かれた札が掲げられていた。
 「今から凡そ百年前信心堅固な尼僧が弘法大師像八十八軆を造り恭敬供養に努めた。尼僧と養勝寺住職が対談したおり、
地域の住民の安全と繁栄を祈念して、地域の高閑清絶の地に大師像をお祀りした。」

  どうもこのような話には弱く、すぐその気になってしまいます。確か去年仲間と行った榛原の高根山で同じような祠を見ている。
ならばこの八十八ヶ所を探しながら歩くのも面白そうだと、直ぐ新しい宿題を作ろうとする。
マ~この辺りなら家からも近いし、後期高齢者になったら考えてみるのも良いでしょう。とは云えそれは来年の事だが。

 
              静岡空港太陽光発電所                            空港メイン道路

  養勝寺の墓地の上はすぐ太陽光発電なので大分近道になった気がする。日向の車道を歩くよりズート楽に感じます。

  信号 “富士山静岡空港” を左折すれば空港へのメイン通路になるのだが何とも淋しい限りです。
車も余り走っていず空港をイメージする物もない。左側には桜が植えられているが見頃になるには後数年はかかりそうです。
一昨年は左の斜面には除草用の羊が放たれていたが今はいない。どうしたのでしょう?管理が大変だったのかな。

 
              原子力防災センター標識                          原子力防災センター

  新しい標識に 「⇚原子力防災センター」 とあり、左を見ると窓の見えないサティアンのような建物が建っていた。
これが原子力防災センターなのだろうが一体何をする建物だろうとネットで検索をした。
 「平成24年9月、国はオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)の要件について、原子力発電所から5~30km
圏内に立地することなどの見直しを行った。
これにより、旧オフサイトセンター(御前崎市)は、浜岡原子力発電所から2.3kmの地点に立地しており、立地場所の要件に
抵触するため移転が必要となった。
また、環境放射線監視センターは、原子力発電所から2kmの位置にあり、原子力災害時の活動拠点として適当ではないこと、
施設の老朽化から大規模な修繕が必要であること等から、オフサイトセンターと環境放射線監視センターを一体的に整備する
こととし、原子力発電所から19.6kmにある富士山静岡空港隣接地に新庁舎を建設した。」

  成程、放射能を監視する施設と放射能漏れの対策を取る施設を合体させた施設なのか、それはそれで必要な事だと思う。
だが、この施設は浜岡原発が無ければ不要な施設なのに何故静岡県の税金を使って建てる必要があるのだろう。
確かに原発がある以上このような対策は必要なので防災センターも建てなけれなならない。
しかしこのような施設は放射能漏れによって、災害を発生させる可能性のある浜岡原子力発電所、即ち中部電力が負担すべき
ではないだろうか。一歩譲って原子力発電を国策として推進してきた国にも責任はあると思う。
だが県はそのような瑕疵は無いのだから、この施設を県民税を使い建設するのは筋が通らないと思います。

 
                  静岡空港                             石雲院展望台(以前写したもの)

  静岡空港正面玄関に10時40分に到着。昼飯には少し早いがここで昼飯にします。
静岡空港では最近国内線ターミナルを増設したと報道されていたが余り興味は湧かないので、そのまま石雲院デッキに向かい
そこで昼飯にする。
今日はここからデッキの展望写真を参考に、山の名前を確認しようと双眼鏡を持ってきたが生憎の黄砂で景色がハッキリしない。
次回仲間ウォークで歩く予定の竜爪横にある高山を確認したくてもハッキリしなかった。
わざわざ双眼鏡を持ってくればこんなもんです。

  デッキで昼飯を食べ休憩をした30分間に1機の飛行機も発着しなかった。これもこんなもんです。

三方分山縦走(城山)

2018-05-21 10:47:09 | 低山歩き
歩行記録                                                           H30-5-11(金)
歩行時間:3時間55分   休憩時間:1時間05分   延時間:6時間40分
出発時刻:6時35分     到着時刻:13時15分
歩  数: 21、536歩(推定距離14.86km)    GPS距離
行程表
 精進湖:他手合浜駐車場 0:45>  0:10> 諏訪神社 0:25> 女坂峠 0:25> 三方分山 0:25> 精進山 1:00>
 富士山展望(1) 0:30> 富士山展望  0:05> 精進峠(三ツ沢峠) 0:25> 南ア展望 1:00> 根子峠(?)
 0:30> パノラマ台 0:05> 烏帽子岳 0:25> 城山 1:00> パノラマ台下 0:30> 他手合浜駐車場


                                  観光用案内図

 
               薄くなった踏み跡                              気持のよい林

  工事作業の邪魔にならないように烏帽子岳を早々に退却して西湖の見える西に下りだすと、道はすぐ向きを南東に変え林の
中へと入って行く。
烏帽子岳までの登山道は何処もがハッキリしていて見落とす心配はなかったが、ここの道に入った途端に道は細くなり林の中は
踏み跡も薄くなっていた。でも大丈夫です。ここまでのハッキリした道と比べてですから、気にするほどのことはありません。
そう言えば麓にあった案内板の地図にはコースタイムが書いてあったが、それも烏帽子岳まででその先は書いてなかった。
この道は余り利用されている道ではないようだが、標識も建ったのでこれからは利用者も増える事でしょう。

  移動手段が主に公共交通機関の私が、コースを設定をする時は、スタートとゴールは別の場合が多くなります。
その所為か山行形態は縦走が多く同じ道を歩く事は少ない。
それは車利用になっても同じで、極力ピストンは避け、なるべく周回ルートになるように設定している。
今回のコースも一般的には女坂峠からパノラマ台までを縦走して、パノラマ台から根子峠まで戻って精進湖に戻ることが多い
らしいが、それでは私の美学(?)に反するので、パノラマ台からは城山周りの周回ルートにしました。
お陰で城山に向かう道は自然林の気持ちのいい道で大成功でした。ここなら仲間ウォークで皆と一緒に歩けそうです。

  
                                 稜線の細道

  細くなった尾根道もあり所々注意をしなけれならない場所も出てきた。
少し前までなら気にもかけないような岩場も、今は注意して歩かないと躓いてしまいかねない。
  昨年久し振りに年に一度の特定検診(健康診断)を受診した。そのときの老化現象把握アンケートに
⦿階段を降りるとき手摺を使う ⦿時々転ぶときがある ⦿日にちや曜日を忘れる事がある ⦿知人の名前が出てこない
などの質問事項があった。 
そう言えば最近では家の階段を降りるとき、必ず手摺に掴まるようになったが、これは自分の平衡感覚が鈍ってきた事を
無意識に感じとっているのだろう。
その影響か山では少しの岩場でも立って下らずしゃがみ込むようになっている。そのため足の間隔が狭くなり、かえって下り
にくくなってしまっている。
また、以前は山でも転ぶ事は殆ど無かったのが、最近では山では時々転ぶ時もある。矢張りこれも老化してきたためなのだろう。
その後の日にちや曜日は、曜日が無縁なオールサンデー生活になったのだから仕方ない、と反論したいが、これとて記憶力が
低下したことに間違いないでしょう。
てなわけで平均年齢74歳の山慣れしない仲間ウォークのコースとしては、ここは失格です。

  
                                 本栖城趾

  烏帽子山から殆ど下り状態で本栖城址に着いてしまった。
一応城跡があったかのように尾根の部分は平らに広くなっているが、案内板が無ければ城跡とは思えない場所です。
 「烏帽子岳より青木ヶ原樹海にせり出した城山山頂の主郭を中心に、南北に細長い稜線の尾根を数ヶ所切って竪堀を設け、
自然の地形を利用して郭を築き、防備を固めた中世山城の形態が残っている。
郭の周囲には麓の樹海の溶岩によって石垣が築かれている。
 城には国境警備のための武士が詰めていた考えられる。また伝承では、狼煙台といわれているが、中世・戦国時代の軍事上
重要な中道往還が山麓を通過しており、監視の役目を果たしていた砦であったことが地形や周囲の遺構、土塁、石塁などから
推定される。」

  ここの城跡を歩いて感じるのは、敵は烏帽子岳側からは攻めてこないということです。鎧兜で身を固めた武者の集団が
小さいとはいえ、何ヶ所もの難所を越えるのは大変だったでしょう。まして軍馬を伴うなど無理な話です。
また城の補給路としても烏帽子岳側から無理なので、きっとこの先の樹海方面に城の出入口があったと思われます。
よってこの先には難所は無いでしょう。

 
                              城址にあった案内図

  案内文の下の周辺地図です。この地図によれば狼煙台は既に過ぎてしまったようだが、案内板に気が付きませんでした。
これから先にも竪堀があるようですが果たして案内板はあるでしょうか? 何しろ人口か自然地形か判断できない私ですので。
  この地図で一番気になったのは城跡ではなく、地図右上の中道往還にある 「信玄築石」 と、地図中央下の 「石塁」 です。
だいたい石塁と築石の違いも分からないので調べてみました。
  「石塁(せきるい):石を積み上げて作った防御用の土手。また,それをめぐらした砦」
 「築石(つきいし):石垣を築くのに用いる石」
だそうです。
なら、信玄築石とは、武田信玄が石塁を築くための石材を集めた場所でしょうか? 納得できないな。

 今日は城山を下った後は樹海の中の東海自然歩道を歩く予定だったが、この築石のある中道往還を歩く方が面白そうです。
良しそこを歩こう。こんな時は一人歩きは気ままなもので、すぐルートを変える事ができます。

    
                              本栖城縄張図                 日本100廃城より

  家に戻ってから本栖城址を検索したら、こんな縄張図がありました。
本栖城であげた狼煙は、本栖城➜三方分山➜左右口峠➜躑躅崎館(甲府)と中継したそうですが本当でしょうか。
そうなると三方分山にも兵士が常駐しなければならないし、更にここ城山から駿河勢が侵略してくのが見えたのでしょうか?
私は狼煙による伝達方法は、風や雲などの天候状態でできないなど不確かな場合が多く、以前から疑問を感じています。

  この縄張図を見たのは山行の後だったが、これを見てもう一度本栖城付近を歩きたくなってしまいました。

 
                      鹿よけ?                                    アップ

  植林された杉の木の根元を白いプラスチック状の物で囲んでいるが、あれは何だろう?
鹿の皮剥ぎ対策対策? にしては根元の部分だけなので上の部分は剥がされてしまいそうだ。
では杉の木の成長調査? にしては面倒すぎる。
なら蔓の巻付き防止対策? エッ!どうやって蔓を防ぐかって?蔓が巻きつきたくてもプラスチックで滑って巻き付けない。
それじゃぁプラスチックの部分が狭すぎるよ。      何でしょう、分かりません。

 
                 自然歩道に合流                             城山登山口

  予想していた通り城山からの下りには難所は無く簡単に下ることができた。
山を降りきった所には 「武田最前線史跡公園 城山跡登山口」 の看板もあったが、史跡公園と名乗るなら、もう少し案内標識を
立てて欲しいところです。

 
                  樹海入口                               茶色の樹海

  城山登山口の場所は東海自然歩道上にあり、自然歩道はここで国道139号線の地下道を潜って樹海の中に入ります。
この時点では信玄築石のある中道往還を行こうと思っていたので、地下道を行かず国道に出る道を探したがありません。
別に道が無くても簡単に国道には出る事はできるが、城跡の案内板にあった信玄築石の案内が無いのは変です。
それに昨夜見た地理院の地図には国道から精進湖へ出る道は車道しか書いてなかった。
さて、どうしましょう。国道でしかも歩道の無い道を歩いてみるか? それか緑の苔むした樹海の中を歩くか?
答えは簡単です。不確かな車道を行くより自然の多い樹海に決まってますよね。

  樹海の中は鬱蒼と茂った大木に苔一杯の緑の世界と思っていませんか。以前の私の頭の中はそんなイメージでした。
ですが富士山一周で樹海を歩くとそのイメージは一変してしまいました。時期が秋だった事もあってか緑の世界ではなく茶色の
世界でした。苔は枯葉に隠され、太いとはいえない木々の間から陽は射し、国道を走る車の排気音が常に聞こえている。
救いは溶岩が見えたくらいだったでしょうか。

  更にその後、須山口登山道や村山古道の苔ワールドの世界を見てからは、樹海のイメージは増々廃れてしまいました。
そして案の定でした。今は春なので緑の苔が顔を出しているかと期待したのですが、相変わらずの景色でした。

 
               緑になってきた樹海                              陥没した溶岩

  それでも樹海の中に入るにつれ苔の緑は増えてきました。
溶岩が丸く陥没した所にはシダ類も生えていました。樹海も奥に入れば苔ワールドの世界を見られるのかな。

 
                 民宿村入口                                国道横断

  この眺めもイメージに良くない。折角の樹海の雰囲気が一変に醒めてしまう感じです。これが西湖のいやしの里や忍野八海の
ような萱葺の建物だったらと思います。

  国道は芝桜見物の車で本栖湖方面が渋滞していた。渋滞は樹海に入る地下道の所でもしていたが、まさかこんな方まで続いて
いるとは思わなかった。これでは一度渋滞の列を出たら戻るのが大変そうです。
パノラマ台ではゴールした後に竜ヶ岳の入口を調べようと思っていが、信玄築石のことを知ってからはそちらに行こうと思った。
だが道が不確かだったためそれも諦め、また竜ヶ岳が復活した。しかし樹海に入る時この渋滞を見てまたまた考えが変る。
渋滞に戻るのも大変だが、渋滞が長いと帰り時間も遅くなってしまう。エーイそれなら真っすぐ家に帰ろう。と。

 
              女坂峠入口が見える                             パノラマ台下

  終盤モードにスイッチが切り替わると歩行速度は遅くなり、しかも寄道をしながらの歩きになってしまいます。
精進湖の先に見える建物はホテルで、その右に白く見える所が女坂峠の入口です。そこからほぼ真っすぐ沢を登った先の鞍部が
女坂峠でしょう。そこから左に尾根を行った頂が三方分山と思われるが自信はありません。

  信玄築石がある中道往還の出口を探しながら歩いたが、それらしき道は見当たりませんでした。あったのは林道らしき道が
1本で、その林道の先は急な斜面になっていました。少し回れば湖畔の平らな道が出来るのに、わざわざ急斜面を登る道にする
必要性を感じません。なら中道往還らしき道は分りませんでした。
湖畔から城山や烏帽子岳、パノラマ台が見えること思ったが、余りにも道が山の付根で、見えるのは手近な高台だけでした。

  パノラマ台下です。ここを登れば根子峠で稜線の道に合流するようです。峠までは50分、峠からパノラマ台までは15分と
なっています。この道がパノラマ台に一番近い道のようです。
尤も案内板に根子峠の名称は書いてありませんでした。

   
                              精進湖の子抱富士

  これが精進湖の子抱き富士の一般的眺めです。条件が良ければ逆さ富士も見えるのですが、今日はさざ波が立っています。   

   
                               精進湖駐車場

  朝出る時は霧で景色が見えなかったが、こんな風に富士山が見えていたのですね。

   
                                展望地かな?

  湖と反対側の山を写した写真を拡大してみたら、山上で写真を撮った展望地らしき岩場が見えていました。
右の縦に長い岩は展望地1から覗き込んだ岩のように見えるが、右は展望地1なのか2なのか分かりません
パノラマ写真を写しておけばよかったと後悔しました。

   
                              山名の紹介は止めた

  一番左端は城山だとは思うが自信のない事は止めましょう。ともかくあの稜線を縦走してきた事は確かです。
車が国道139号に出る赤池交差点は渋滞していなくてスムーズに合流できた。
渋滞の列は先程より縮まり、城山登山口の辺りから始まり芝桜祭の会場までは続いていた。
先日のネモフィラの丘や足利植物園の渋滞を経験している身には、この位の渋滞は何でもない。とは言いません。
乗せてもらっている渋滞と、運転している渋滞では、矢張り感じる度合いが違いますね。
朝は新東名で来たが帰りはバイパスで1,500円の節約です。

    
                           以前あったハイキングコース案内板

  家に戻って信玄築石を調べるにつれ今回見落としたことが残念になってきた。
 「武田信玄が敵の攻撃に備える為、青木ケ原樹海内に溶岩で築いた防壁。 石塁は高さ2m位で約2キロほど続いている。」
なんて紹介してあるのも読むと増々行きたくなってしまった。だがどうせ行くなら富士山が見え、しかも冠雪した時に行きたい。
コースは精進湖の今回と同じ駐車場に車を止め、三ッ沢(精進)峠に直登し精進湖越しの子抱富士を見る。
次はパノラマ台に向かい子抱富士を見てから西に尾根を下り、中之倉峠から本栖湖越しの富士山を眺める。
こうすれば三者三様の富士山を眺め比較する事ができる。
中之倉峠から本栖湖湖畔に下り東海自然歩道石塁を見ながら城山登山道に出る。登山口付近では点在している石塁を見学
して、その時点で余裕があれば城山に上り竪堀や狼煙台を確認するのもいいだろう。
そして最後は国道を歩いて中道往還に行き信玄築石を見る。なんてコースはどうだろう。
コースとしては面白そうだが問題は精進湖から三ッ沢(精進)峠に直登する道の入口が分かるかどうかだ。
しかし案ずるより産むが易しで古い案内板を紹介しているブログがありました。それによれば三ッ沢(精進)峠の登り口は今回
車を停めた駐車場にあるようです。なら簡単に登り口は見つかるでしょう。

  私の場合、山に行くと宿題が減るのではなく、宿題が増えてしまうのは問題でが、好奇心が湧くのは青春の証拠だとか。
なら私はまだ青春真っ只中。加齢症状を気にせず青春を謳歌しなければ。     晩秋に行ってみます。

三方分山縦走(展望地)

2018-05-17 11:58:06 | 低山歩き
歩行記録                                                           H30-5-11(金)
歩行時間:3時間55分   休憩時間:1時間05分   延時間:6時間40分
出発時刻:6時35分     到着時刻:13時15分
歩  数: 21、536歩(推定距離14.86km)    GPS距離
行程表
 精進湖:他手合浜駐車場 0:45>  0:10> 諏訪神社 0:25> 女坂峠 0:25> 三方分山 0:25> 精進山 1:00>
 富士山展望(1) 0:30> 富士山展望  0:05> 精進峠(三ツ沢峠) 0:25> 南ア展望 1:00> 根子峠(?)
 0:30> パノラマ台 0:05> 烏帽子岳 0:25> 城山 1:00> パノラマ台下 0:30> 他手合浜駐車場

     
                          三方分山周回ルート概略図

 
               ピークにあった鉄の社                              三角点

  三方分山を少し下り、ほんの少し登った所の岩の上に、鉄製の屋根の形が社に似た物がボルトで固定されていた。
扉や窓は無いが一円玉が2枚供えられているのをみると矢張り社なのだろうか。
社を置くだけならともかく、コンクリやボルトを使って固定までする事が許されるのか。一体誰が何のために遣ったのだろう。

  社の写真を写して登山道に戻ると、目の前に三角点の標石が目に入った。何と何と! ここが精進山のようです。
三角点が有るとはいえ、三方分山から10分も掛からず、標高差はたった13m程しかない場所です。
山頂標も無く、ピークとは言え誰も気が付かずに通り過ぎてしまいそうな場所です。
では三角点の点名は何なのだろうと地理院の地図で確認すると、 「西ノ入 三等三角点 標高1404.88m」 となっていた。
さらに三角点の住所と私有地かどうかを点の記で調べようと思ったが、点の記は作成されていなかった。
 
              富士山展望地(1)入口                            富士山展望地(1)

  この尾根から期待の富士山を見たいと、左(東)側に入る踏み跡はないかと注意しながら下って行くが踏み跡はなく富士山も
樹間の隙間からチラチラ見えるだけだ。どうやら勝手な期待を掛け過ぎたかなと思い出した頃、ありました踏み跡が。
精進山(三角点)から約15・6分でしょうか、明らかに人の踏み跡が左に付いている。
踏み跡は下って行く登山道をほんの1m登り、左に続いているが、その先は木が無く開けて状態になっている。
正にピンポン! です。


                             富士山展望地(1)から

  厳密に言えば、富士山と大室山と精進湖が一直線ではないがこれなら我慢の範囲内です。
富士山の麓に大室山を配置した眺めを 「子抱き富士」 とよぶようだが、撮影スポットとしては精進湖湖畔から写したものが多い。
それはそれで良いだが、どうですかこんな眺めの子抱き富士は。

 
                 駐車場アップ                                横にあった岩

  精進湖に手前に駐車場が見えているので、カメラでアップしてみると私の車も見えている。
あの駐車場が今朝車を置いた 「他手合浜駐車場」 でした。

  狭い展望地なので私は怖くて立って写真を写せなかったが、ふと横を覗くと細く立った岩が見えた。あの岩なら駐車場から
確認できるかもしれないと恐々写しておきました。

  一昨年本栖湖周回の時、本栖湖の西岸にある中之倉峠から西の方角に南アルプスが見えたのを思い出した。
あそこで見えたのだから、ここからでも西側に南アルプスが見えるだろうと、今度は道の右側を注意して歩く事にした。

 
                また踏み跡があった                            標識が見える

  精進山からの下りの道は順調に歩けているが、まだ時刻は午前9時。このままでは本当に午前中にゴールしてしまうかも
なんて思い出したが、その時はその時だ。何なら竜ヶ岳へ行ってもいい。なんて調子のよい考えも浮かんでいた。
しかし右側には踏み跡が出てきません。南アは見えないのかなと思い出した時に、またもや左(東)に踏み跡があった。
登山道にデンと居座った岩の横から左へと踏み跡は延びている。登山道は岩の下に続いていて、下には標識が見えている。
若しかしたらあそこは精進峠なのか? ならこの踏み跡は精進湖に行く道か? だが標識も目印も無い。

 
                ここも展望地だ                              三方分山かな

  既に富士山の眺めは満足していたが、どうせならこの踏み跡の先も確認してみようと踏み跡を辿り左に入る。
さっきはすぐ展望地に出たが、ここは踏み跡が先に延びていて、10mか20mも行って前方が開けた場所に出た。
正面にはさっき見た景色と同じ景色が広がっているが、イヤさっきの展望地より視界は広く、左(北)側には三方分山らしき
山から、右にはこれから行く城山らしきピークもも見える。
更にこの展望地は広々としていて、安心して写真を写す事ができるので、さっきの展望地より撮影には適しています。

  三方分山と思われるピークの奥には一段と高く尖ったピークも見えるが、あの山は?????
家に戻ってネット地図で調べるが、三方分山の北には三方分山より低い釈迦ケ岳くらいしかない。と、結局分からなかった。
それでも三方分山が写真に表示した通りなら、その稜線を右に行った先は女坂峠と五湖山だろう。
何年か前に富士山の麓を一周した時に、五湖台との別名のある足和田山に登った事がある。当然山頂からは富士五湖が全て
見えるだろうと思ったが私には確認できなかった。
果たしてあの五湖山から富士五湖の全てが見えるだろうか、逃がした魚がだんだん大きくなってくる。


                             富士山展望地(2)から

  展望地1と同じ構図だが、見る位置が南に移動したので、撮影地と精進湖と富士山が少しずれてしまった。
1と2のどちらからの富士山が良いか? ウーン微妙ですね。

 
               標識(後ろを振り返る)                             リボンの標識

  岩のある登山道に戻り、1分も掛からず標識のある鞍部に到着。写真の右上の高台が展望地2です。
標識は稜線の方向の行先は書いてないが、稜線から西に下ると身延町、東に下れば精進湖畔となっていた。
ただ現在地名は書いてないが、標識の隣の木の幹に蒔いたリボンには、現在地を 「精進峠」 と書いてあります。
だが待てよ、リボンには今来た方角を “精進湖山” と書いてあるが精進山ではなかったのか? 信用できないかな。

  精進山は兎も角、三方分山の標識には “精進峠45分” と書いてあり、ここまで展望地での写真撮影を含めて48分で来ている。
ならこの峠が 「精進峠」 で間違いは無さそうだ。どうせ標識を建てるなら現在地も書いてくれれば助かるのだが。

 
                  崩壊地                                アセビが多くなった

  峠を少し登った右側が崩れていて、ロープが張ってあるが登山道はなんの危険もありません。
怖がりな癖に、こんな場所があると怖いもの見たさですぐ覗いてみたくなってしまいます。
ここは今日何ヶ所かあった崩壊地の中でも最大で、上の方まで崩れていたので上を通る時はなるべく左に寄って歩いてしまった。

  これまでは小さなアセビが多かったが、この辺りは奇怪な形状になった幹のアセビが多かった。
それと同時に、道は白い小砂利が覆っていたが、これは崩壊場所で見た岩の色と同じでした。
石と言えば女坂峠を付近の石は割れた角がどれもが尖っていて、古代なら少し加工すれば包丁代わりにもなりそうだった。

 
                 三ッ沢峠の標識                             西への踏み跡

  精進峠から20分程の所に 「⇦パノラマ台 三ッ沢峠➩」 のに標識が立っていた。
三ッ沢峠? さっきの峠は精進峠だったのに、三ッ沢峠とはどこにあった峠だろう? 
さっき私が精進峠と判断した所の峠名はリボンに書いてあっただけだが、本当は三ッ沢峠だったのだろうか?
すると精進峠は???

  峠名がハッキリしなかったので家に戻ってから調べてみると、三ッ沢峠も精進峠も同じ峠だと云う事が分りました。
三ッ沢とは峠の先の身延にある集落名で、精進湖側から身延に行く人は三ッ沢峠と呼び、、逆に身延から精進湖に行く人は
精進峠と呼んでいたのだろう。
一般的に峠名は利用する者が多い方の名前が残るらしい。ならここは身延参りに行く人の方が多いと思われる精進湖側からの方が
多かっただろうから、峠名は “三ッ沢峠”と呼んでいたと思う。
それが富士五湖への観光客が増えてきた近年は、誰も知らない三ッ沢峠より精進峠が分かりやすいだろうとなったのでしょう。
若しかして三方分山下の精進山も最近付けた名前かもしれないな。三角点の名前も違うのだから。

  南アルプスの展望地の事を諦めた分けではなく、道の右側は注意しながら歩いていた。
標識のあった場所から10分位、峠からなら30分位行った道の右側に、上に延びている踏み跡を見つけた。
OK! これが南アルプスの展望地に間違いないでしょう。


                               南アルプス遠望

  展望地には違いないだろうが思っていたよりスケールは小さくガッカリしてしまいました。
たが、兎も角南アの一部は見えた事は確かです。

 
            根子峠?(振り返って見る)                             分岐の標識

  又もや標識と左に下る道も見えてきた。正規の標識はさっきと同じ 「⇦パノラマ台 三ッ沢峠➩」 となっていたが、その下の
リボンには現在地を 「根子峠」 と書いてある。麓にあった観光者用の案内図にはパノラマ台から精進湖の
パノラマ台に抜ける道は描いてあるが、峠名は書いてない。また現地にも現在位名は書いてなかった。
どうもここの標識は中途半端が多い。ハイカーを呼びたいなら、もう少ししっかり表示して欲しいものだ。
峠から下に下る道は広く、多くの人が歩かれているようです。


                          麓にあった観光用地図案内板

  麓にあった観光用地図の案内板です。登山用ではなく観光客用なのだから山道の案内は程々でいいでしょうが、ここで気に
なるのは、精進峠に見晴らしポイントのマークがあることです。
この案内地図を見て精進峠に登ったとして、一体何人の人が見晴らしポイントに行けたでしょうか。
折角地図で案内したのですから、現地にも案内標識を建てるべきだと思います。
更に現地には精進湖への標識があるのだから、その道も観光地図にも書いた方が親切だと思います。 

 
                  御料局                                小砂利の発生源

  道にあった標石に刻まれた文字を見ると 「御料局」 と読める。御料局の標石は三方分山の山頂にもあり、明治時代には
この辺りの
山は皇室の土地だったのでしょう。
待てよ! この辺りが御料局の土地だったなら、精進山は現在は国有地の筈だ。ならあの鉄の社は不法建物だったりして。

  精進峠の上は白い小砂利が道の上にあったが、この辺りは他の山でもよく見かける黒い小さな砂利が道を覆っていた。
イヤ~! その発生源を見つけました。黒曜石とまでは行かないが地面に埋まった黒い石の表面が四分五裂に砕けている。
その砕け散った小砂利が流れ落ちて道を覆うようだ。
こんな小砂利の道を下るときは注意が必要です。疲れが出てくる後半には、足の踏ん張りが効かずに転ぶ事もあります。
歳は取りたくありません。

 
                 中之倉峠分岐                              パノラマ台

  根子峠から15分程で千円札の逆さ富士の見える中之倉峠への分岐に出た。
一昨年はパノラマ台からここを下り本栖湖周辺を歩いて一周した道です。

  分岐から富士山が見えるパノラマ台には5分もかからず到着。
パノラマ台には若い人10名ほどが写真を写していた。話している言葉が日本語ではない。
中国語か韓国語か分からないまま 「中国からですか?」 と声を掛けると 「イエ韓国です。」 と返ってきた。
へー外国からわざわざ日本に来てこんな山に登るのかと思ったが、考えてみれば自分だって外国では、名も無いような山や道を
歩いていた。
余り大変でなく、しかも富士山が見えるならここは十分満足できる山だろう。

  日本語で今日のコースを聞くと、本栖湖の中之倉峠からパノラマ台に来て精進湖に下るコースだと言う。
そうか中之倉峠で本栖湖の先に見える富士山を見て、パノラマ台からは樹海や朝霧高原の先に添える富士山を見る。
中々いいコース設定です。でも今の私なら折角精進湖に行くなら根子峠を下るのではなく、その先の精進峠まで足を延ばし
精進湖と子抱富士が合わせて見える景色も見せてやりたな。


                               パノラマ台から

  さてどこから見た富士山の眺めが一番良いか。個人的には精進湖が入った方が良く感じるのですがね。


                                 三湖と富士山

  河口湖と西湖そして精進湖が見えている。地図では本栖湖も近くにあるのだが見えていない。パノラマ台と本栖湖の間には
高台も無いから樹木を伐採すれば本栖湖が見えるのだろうか。若し見えるなら伐採して欲しいな。
伐採が駄目なら足和田山(五湖山)のように見晴らし台を建ててくれてもいい。
折角外国からのお客が来るのだから、それ位のお接待をしなければ・・・・・・・・

 
           富士三湖                              三方分山?

  「お元気ですか」 と韓国女性が富士山に向かって叫んでいる。何かで聞いたフレーズだが思い出せない。
家に戻り調べてみると
 「日本語が分からない韓国人でも知っている「お元気ですか」という日本語は、映画「Love Letter」の名台詞だ。
雪原で今はこの世にいない婚約者に「お元気ですか」と叫ぶ女性の姿は21年前、多くの韓国の観客の心を掴んだ。
そして「Love Letter」は多くの韓国人の心に冬、雪、初恋を代表する映画として刻まれている。」
のだそうです。

  「Love Letter」なる映画は見た事はないが、山で聞いた 「お元気ですか」 の言葉は憂いを含んでいた。
あの女性は親しいを知人を亡くしたのだろうか。

  案内板の後ろに見える双耳峰の山が三方分山らしい。そうなると展望地2で見た三方分山の形とは全然違う。
矢張り私は地図を読む力は無さそうです。よって私が写真で案内する山名は当てにならないということです。ご免なさい。

 
                   烏帽子岳                               烏帽子岳の標識

  韓国グループを置いて烏帽子岳に向かって下る。まだこの先には烏帽子岳があるのだから余り下らないで欲しいのだが
樹間に湖の水面が見える辺りまで下り、今度は上りが始まる。
と、言葉で言えばそうなるが、実際は15・6分しかかからない楽な道です。

  何やらこの山頂も人の気配を感じる。団体でもいるのだろうか山頂に行くと作業服にヘルメット姿の人が10人ほどいた。
富士山の見える方角にはヘリコプターで釣り下したような大きな荷が幾つも見える。
聞いてみるとアンテナの増設工事だとか。邪魔にならないように隅に座り昼飯にした。

  山頂にはパノラマ台、本栖湖、城山の三方を指す標識が建っているが、一昨年来た時にはこの標識は無かった。
あの時は富士山が南に見える事が納得できず、三辻となったこの山頂で、パノラマ台はどの道を行くのか迷ってしまった。
西湖が見える西に延びる急な下りと、北に行く緩やかな下りの道。あの時は地図を頭に思い浮かべると余計こんがらがるので、
兎も角 “俺は西湖と反対の方向に行くのだ” と、北に延びる道を選択した。
そんな私のブログ見て標識を建ててくれたのではないだろうが、こうして標識があれば誰もが安心して歩けます。
標識の手前に見えているのは三等三角点の 「烏帽子ヶ岳」 です。


                               烏帽子岳からの富士山

  烏帽子岳は作業中でしかも大きな荷物があり遠慮しいしい写真を写したので、余り芳しい出来ではありません。

三方分山縦走(中道往還)

2018-05-15 09:00:05 | 低山歩き
歩行記録                                                           H30-5-11(金)
歩行時間:3時間55分   休憩時間:1時間05分   延時間:6時間40分
出発時刻:6時35分     到着時刻:13時15分
歩  数: 21、536歩(推定距離14.86km)    GPS距離
行程表
 精進湖:他手合浜駐車場 0:45>  0:10> 諏訪神社 0:25> 女坂峠 0:25> 三方分山 0:25> 精進山 1:00>
 富士山展望(1) 0:30> 富士山展望  0:05> 精進峠(三ツ沢峠) 0:25> 南ア展望 1:00> 根子峠(?)
 0:30> パノラマ台 0:05> 烏帽子岳 0:25> 城山 1:00> パノラマ台下 0:30> 他手合浜駐車場

     
                            三方分山周回ルート概略図

  一昨年の11月に本栖湖周回の縦走をしたとき、あやさんからのコメントに
 「精進湖の無料の駐車場を起点に、三方分山~パノラマ台を歩くコースはハイキングクラブ御用達ルートなので、みなさん
そちらからですよ。
でも、このコースだと午前中で終わってしまうので、はぐれさんには物足りないと思うけれど、仲間ウォークにはオススメかも。」

と書いてくれました。これに対し私は
 「三方分山の名は標識にも出ていました。コースを調べてみたら、中々面白そうなコースがとれそうです。富士山が白くなった
頃に歩くのも良さそうですね。」
と返信していたがすっかり忘れていました。
その事を思い出し、行くなら早く行かないと雪が無くなってしまうと、富士山が見えるそうな機会を窺っていました。
我家の2階からも富士山は見えるが、何しろ80km近く離れているので、この時期になると毎日富士山方面は霞んでいて
見えない日が多くなってしまいます。
しかし富士山の麓の精進湖からなら雲さえ無ければ見えるだろうと、天気予報が晴マーク一色になったらと思っていました。

  コースはあやさんのコースに、パノラマ台から烏帽子山、城山を加え、更に樹海の中を歩いて帰るコースにしました。
これなら “ハイキングクラブ御用達ルート” と言われないでしょうから。

 
                  他手合浜駐車場                             他手合浜

  山梨県に入った辺りから霧が出てきて、精進湖に着いた時が一番濃かった頃でした。
しかしこの霧は不安を抱くような霧ではなく、朝霧のような感じで今日の晴天を確約してくれるような霧でした。
事前に駐車場の場所を地図で調べたが良く分かりませんでした。仕方なくインフォメーションの i マークの所に車を乗り
入れてみると、どうやらそこが無料駐車場のようでした。

 
                旧上九一色村のMH                            中道往還入口

  湖畔の道路にミミズクの絵柄のMHが目についた。ミミズクの顔の横には “九上” とデザインされた文字も見えます。
これは上九一色村(現河口湖町)の村章で、鳥は村の鳥コノハズクだそうです。
上九一色村で思い出すのは何と言ってもオウム真理教のサティアンですが、サティアンの建っていた場所はもっと南側の静岡県
境に近い場所で、一時ガリバー王国なるテーマパークができ、それも潰れ今は公園になっているそうです。

  湖畔の車道から何処かで左に入らなければならないが、きっと標識が立っていると安心して歩いていました。
オット危ない、危ない! 霧のせいでもないが、橋の欄干の上にある2枚の標識を見落とすところでした。
標識には “精進の大杉” と “諏訪神社” とあるが “三方分山” や “女坂峠” は無い。
しかし昨夜確認した地理院の地図には “精進の大杉” を通って女坂峠に向かっていたので間違いないでしょう。

  左折した道の両側には湖畔には無かった民家が建ち並んでいた。そして案内板も。
どうやらこの道は 「中道(なかみち)往還」 と呼ぶ古道で、案内板には
 旧中道往還と居村集落 中道往還とは、古代から開かれていたと云われ、甲斐と駿河を結ぶ三つの街道のうち若彦道、
富士川街道の間を通る路であることから 「中道」 と呼ばれるようになったと 「甲斐国志」 に書かれている。
  戦国時代には武田信玄、織田信長、徳川家康等の武将が往来した軍用道と使われた。
  江戸時代の居村集落では、海産物の荷駄賃稼や下駄、天秤棒、鍬の柄、角箸などの細工物で生計をたてていた。」


 分かりやすい説明で大筋理解できたが、三つの街道の位置関係が良く分からない。
今朝、私は西の焼津方面から富士川(街道)を渡ってここに来ている。なので真中に中道往還があるなら、若彦道は
更に東にあることになる。
古道は兎も角、現在の道路でなら静岡県から山梨県に行く道で、ここより東となると富士山の向こう側の御殿場から
富士五湖に抜ける道しかない。
では興津から身延を抜けて甲府に抜ける通称身延路はどうなるのだろう? 疑問が湧いてくる。

家に戻り調べてみました。以下ウイキペディアより抜粋します。
 「中道往還のルート 甲府-左右口-精進-本栖-人穴-大宮(富士宮)-吉原湊
甲斐と駿河を最短距離で結んでいたこともあって、主に海産物の輸送路として利用され、この峠道を馬の背に揺られ甲府へ
運ばれたアワビの醤油漬けが、現在山梨県の名産品となっている鮑の煮貝である。」

 「富士川街道 別名:駿州往還、甲州往還、河内路(かわうちじ)、身延路。
ルート 甲府-市川大門-鰍沢-身延-南部-万沢-宍原-興津
日本三大急流と呼ばれる富士川と連なる山地の間を通っていたことから、幾つもの難所があった。
駿州往還の険しさから、甲斐から駿河へ下る場合は富士川水運を使い街道を歩く者はいないと記している。」

 「若彦路 若彦の呼称は日本武尊の子に由来するといわれ、甲州と駿河を結ぶ官道であったという。
若彦路の道筋は甲府盆地から鳥坂峠を経て芦川村(笛吹市)に至り、富士北西麓を駿河国富士郡上井出村(富士宮市)に
達するルートが想定されているが、他にも色々説がある。」


  三つの街道の西からの順番は富士川街道(身延路)、中道往還、若彦路で、甲斐側の出発地は甲府だが、駿河側は
富士川街道が興津、由比、岩淵で、中道往還と若彦路は吉原湊だったようです。
では富士山東麓の山中湖から御殿場(御厨)に抜ける道は無かったのでしょうか。
イエイエ当時の御殿場方面は駿河ではなく相模だったので、数に入れなかったのではないのかな。

  この類の話となるとくどくなる癖は歳を取っても直りません。

 
                     龍泉寺                                   諏訪神社と大杉

  精進の大杉は幹回りが12.6m、樹高が40mあり、国の天然記念物に指定されています。
龍泉寺、諏訪神社とも萱葺の屋根で落ち着いた風情を感じます。
精進湖に来た時は濃かった霧も大分薄れてきたので、上からの富士山の眺めは期待できそうです。

 
                 居村の民家                              民家の解体

  街道沿いに間口が狭く奥に長い建物が何棟か建っていたが、街道風景を写すのを忘れたしまいました。
この民家は今は空家のような雰囲気ですが、低い2階には窓がありません。養蚕でもしたのでしょうか。
他の民家も似たような造りが多く、中には2階がもう少し高くて窓のある家もあります。
ただどの家も奥行きの割には間口が狭いのは、京都のように間口税を取られたからでしょうか。
イエイエそんな事はありませんよね。多分湖から山地がすぐで、何軒も家を建てる土地が無かったからでしょう。

  住宅の案内板に気になる事が書いてありました。
 「この地域は武田氏に仕えた九一色衆に属し、諸商売役免許を与えられた。」 とあります。
私の気になったのは 「九一色」 の言葉ですが、以前から上九一色村の語源に興味を感じていたので調べてみました。
例によりウイキペディアからの引用です。
 「中世には甲駿間を結ぶ中道往還が通じ、九一色郷に九一色衆と呼ばれる在郷の武士団が住み、戦功により
武田氏から諸役免除の朱印状を受けた。明治入り精進村は近郷の村と合併し九一色村となる。
明治22年の町村制により、九一色村の一部が上九一色村となり、残部は下九一色村となる。」


  残念ながら九一色の語源は分らなかったが、一般的に “一色” とは、荘園制の時代には税として租(穀物)・庸(労役)・
調(繊維)があり、一色とはその内のどれか一つを納めればよいとされていました。
となると最初の “九” が分かりません。もしかするとここは狭い土地でなので穀物の生産は少なく、九種類の木工製品を
納めたのかな。例えば案内板にあった “下駄、天秤棒、鍬の柄、角箸” など九種類を。多分そんな事はないでしょう。

  民家の解体が行われていたが、町で見るような乱暴な解体方法ではなく丁寧に解体されていた。
きっとどこかで再生されるのでしょう。

 
             気持のいい自然林の道                                堰 堤

  何時も静岡の低山を歩いているので、山への登り出しは茶畑とか植林された林の中が多い。
ところが山梨を歩くと最初から自然林の中の道が始まり気持ちよく歩けます。
この道は古道の中道往還なのだが、街道の面影はなく山道そのものの感じがする。

  二つ目の大きな堰堤の巻道は堰堤より大分上まで登るので、このまま沢筋と離れるのかと思ったら、また道は沢へと
下っていた。

 
              いつの石積みだろう                               九十九折

  堰堤を巻いて上に出ると、道は九十九折となり古い石積みが所々に出てきて、何となく古道の面影を醸しだす。
この石積みは何時頃積まれた物だろうか? 道は源流部に続く沢筋に付いているし、下には大きな堰堤もある。
大雨が降れば水も出そうな地形だが道は流されないのだろうか。
気にはなるが石垣が残っているのを見れば、水が出ても知れているのでしょう。

 
              女坂峠(阿難坂)                              女坂峠(阿難坂)

  女坂峠の標高は1210mもある。私の普段歩く大崩山塊の山は500m程度の低山ばかりです。
なので1000mを越すと、良く歩いたと嬉しくなってきます。
しかしここは麓の大杉からは30分も掛かっていません。何しろ麓の大杉の標高が910mもあるので、峠との標高差は
300mしかありません。これでは楽なはずです。

  女坂峠は古道らしく峠には石仏もあり名前の謂れも紹介されていた。
 「中道往還には二つの峠があり阿難坂(女坂)はその一つである。阿難坂の “難” という字が示すように中道往還の
中でも難所に一つである。 “峠” と “坂” は同じ意味を持ち古い道では多くみられる。
  女坂という別名は、身重な女性が道中で出産後、母子ともに亡くなり、埋葬され供養のため、子を抱いた石地蔵を建て、
この石地蔵が女石と名付けられたことから女坂と呼ばれるようになった。」


  初め “女坂峠” と聞いた時は近くにもっと険しい “男坂峠” があるのかと思ったが、近くには峠は無かった。
私は山寺などにある急な男坂に対して、なだらかな女坂をイメージしたが、ここの峠の女は女性そのものでした。
静岡県には身重の女性が山賊に襲われて、子供産んで亡くなった無念さに、夜ごと泣いて石になった “夜泣石” がある。
だがこの峠では石の地蔵を祀ったのはいいが、それを “女石” と呼ぶなんて風情が無さすぎだ。
せめて坂の名前は “無念坂” とか “子抱坂” にして欲しかったな。エッ! 女坂より悪いですか・・・・・

  坂は峠と同じ意味を持つとの説明に納得できた。と云っても全ての坂が峠とは思わないが。
大崩山塊に “歓昌院坂” と名の付いた峠道がある。この峠は古くは東海道とも、安倍川の川止の際の抜道でもあったと
される道です。この峠をブログで紹介するとき、歓昌院坂と書くと峠への上り下りの道を想像されてしまいそうで
 “歓昌院坂峠” などと書いていたが、これでは重複語になってしまうのですね。
これと同じような表現で “道” もある。旧東海道の山越えで “蔦の細道” があるが、ここも峠を表したいときは
 “蔦の細道峠” と書いています。どちらも書きずらいのですが諦めて書いています。

  標識の 「五湖山3000m」 を見て、気づくと同時に驚いた。
何を気づいたかと言うと、あやさんのコメントに五湖山が三方分山の前に書かれていたが、五湖台なら知っているが
五湖山は名前も聞いたことは無いし、場所も分からなかったのでパスしてしまった。
それがこの先にあるなんて、驚くと同時にガッカリしてしまった。何故かと言えば今回のコースも精進湖を一周したかったが
一周するコースを思いつかず周回コースではあるが、精進湖は半周しかしていない。
残念! もっと早く気づけば良かった

  驚いたと云ってもこれは自分の早合点で、標識の “3000m” を標高と思ってしまったのです。

 
                 崩壊場所                                 崩壊場所

  峠から登りだすと北側の斜面が太く抉られ沢のように下に走っている。そんな場所が3ヶ所か4ヶ所もあったが登山道を歩く
限り何の危険性もありません。どうやら北側の斜面は東側に比べ急のようで、中道往還は女坂峠から北の方が難所のようです。
中道往還と平行に走っている国道358号(精進ブルーライン)を車で甲府に向かって走っても、山が深く次の集落の古関町
までは大分走った気がします。

  道脇に岩の割れ目から幹を伸ばしている木があった。幹の太さが今は割れ目と同じだが、これから気が成長するにつれ
割れ目はどうなっていくのだろう。割れ目が広がるのか、それとも幹の形が太くならずに扁平になって成長するのか。
その結果が分かるのは何年後でしょう? 当然私は見り事は出来ません。

   
          根性△△                                 ヤマツツジ

  道脇に岩の割れ目から幹を伸ばしている木があった。幹の太さが今は割れ目と同じだが、これから木が成長するにつれ
割れ目はどうなっていくのだろう。割れ目が広がるのか、それとも幹の形が太くならずに扁平になって成長するのか。
その結果が分かるのは何年後でしょう? 当然私は見る事は出来ません。

  山に入って初めて見る花です。ヤマツツジはこの後も時々見かけたが、他の花はマムシグサが咲いていたくらいでした。
この辺りの山は花が少ないのですかね。

    
                     三方分山山頂                                    三方分山の標識

  上りが終り緩やかになった先が三方分山山頂だった。
あやさんのコメントに 「三方分山」 と書かれていたが、その読み方が分からず “みかたぶんざん” とか “さんぽうぶんざん” なのかと
思っていました。正しい読みは 「さんぽうぶんざん」 でした。
そうなるとその意味が気になる悪い癖が起きてきます。素直に読めば “三方を分ける山” となるので、山頂の地図を見てみると
確かに尾根筋によって三つに分かれています。更にその尾根は市町村の境界にもなっています。
試しに国土地理院の地図でそれぞれの場所をクリックすると、見事に 「河口湖町精進」 、 「甲府市古関町」 、 「身延町八坂」
別れました。多分この集落を分ける山ということで三方分山になったのでしょう。

  
                                  三方分山山頂

  女坂峠から上る尾根途中からも樹間越しに富士山は見えていたので、山頂からも富士山は見えるとは思っていました。
しかし山頂から見えた富士山は私の期待していた姿ではありません。
今回の山行では富士山と大室山と精進湖が一直線に並んだ姿を期待していたが、これでは見える範囲も狭く、精進湖は小さく、
大室山は右に偏ってい過ぎる。
これがパノラマ台まで行ってしまうと、視界は広がるが精進湖は見えなくなり、大室山は今度は左になってしまう。
あとの期待はパノラマ台まで行く途中の尾根筋からだが、果たしてそんな景色が見えるかどうかです。

仲間ウォーク:粟ヶ岳

2018-05-09 09:58:08 | 低山歩き
歩行記録                                                           H30-5-5(土)
歩行時間:3時間55分   休憩時間:1時間05分   延時間:5時間00分
出発時刻:9時20分     到着時刻:14時20分
歩  数: 17、368歩(推定距離11.98km)    GPS距離10.8km
行程表
 倉真温泉バス停(駐車場)0:45> 県道・滝入口 0:10> 松葉(不動)の滝 0:10> 直登分岐 0:25> 林道合流 0:25> 東山道合流
 0:25> 粟ヶ岳 1:00> 榎辻 0:30> 宝殿神社  0:05> 倉真温泉バス停(駐車場)


                             粟ヶ岳周回ルート概略図

  5月の仲間ウォークは、今年寒波襲来の日に氷瀑を見たくて歩いた倉真温泉から粟ヶ岳周回ルートにしました。
滝の上から山頂へ直登するか林道経由にするかは、そのときの仲間の様子を見てから決める予定です。

 
               松葉城址入口                                アカショウビンの巣?

  前回と同じ倉真温泉の有料駐車場(¥200)に車を置いて出発したのは9時20分と遅かった。
これは粟ヶ岳の山頂で昼飯にしたいためだが、朝余裕があり過ぎると気分がだらけるようでどうも調子が出ません。

  松葉城跡は前回入口に進入禁止のロープがあったが、今はロープも無いので進入禁止は解除されたようです。
一人ならこれ幸いと行くところですがここはグッと我慢です。

  蜂の空家にアカショウビンは居るでしょうか?  残念ながら巣の入口に動く気配はありません。

 
                県道との分岐                                松葉のカヤ

  県道と云っても殆ど車が走っていない道から、更に車に出合う確率の低い林道に入ります。
その入口には掛川市指定の 「松葉のカヤ」 が見えています。樹高は14m程ですが周りに邪魔をするものが無く四方に清々と
枝を伸ばしています。このカヤは雌株なので6月ごろには実を付けるそうです。

              
                夫婦滝?女滝?                     松葉(不動)の滝

  松葉の滝駐車場を過ぎると左側から水が落ちる音が聞こえてきます。覗き込むと木の間から滝が見えてきます。
前回は冬の渇水期で滝に水はなかったが今日はかなりあります。
この滝は夫婦滝でしょうか、それとも女滝でしょうか、パンフレットには書いてあるが案内板が無いので分かりません。

  案内板と云えば松葉の滝に滝の案内板が立っていたが、前回は無かったと思う。更に滝から沢を渡り上に道に
行く近道の分岐にも標識が立っていたが、これも前回は無かったと思います。有難い事です。
松葉の滝も水量が多く中々見応えがあります。

              
                滝にある不動尊                       滝の不動尊?

  案内板にこんな事が書いてあります。
 「村人が滝に行ってみると・・・・滝に中腹に一体の石像があるのが目に留まりました。これが石に刻まれた立派な
不動尊であることが分かると誰と云うとなく、この滝を不動の滝と呼ぶようになりました。」

小さな祠に祀られた石仏がその不動尊なのか、それとも滝の中に見えている(心が清くなければ見えません)のが
不動尊なのか、さてどちらでしょう。

  不動尊の話がいつの間にかユネスコの世界文化遺産に推薦された 「長崎の潜伏キリシタン」 の話になった。
私はこのニュースをNHKTVで見て “潜伏キリシタン” に違和感を感じて、手元にある電子手帳で調べたが
 “かくれキリシタン” はあるものの潜伏キリシタンは載っていなかった。
翌日の新聞にもこのニュースは載っていて、その中の図表に 潜伏キリシタンの下に明治以降キリスト教に戻った信者と
キリスト教に戻らなかった かくれキリシタン の2種類があるようになっていた。
ついでに得意のウィキペディアを見てみると
 『隠れキリシタンとは一般的には
1・強制改宗により仏教を信仰していると見せかけ、キリスト教を偽装棄教した信者。
2・明治に禁教令が解かれ潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない信者。
がいるが、敢えて両者を区別する場合、1・は 「潜伏キリシタン」 、2・は 「カクレキリシタン」 と呼ぶ。』

何となく理解はできたが、すると世界遺産に推薦されたのは、江戸時代の禁教令から明治のそれが解除されるまでの間の
文化が推薦されたのであって、禁教令からの教えを今でも守っている信者(隠れキリシタン)の文化は指定外なのだろうか。
何だか欧米のキリスト教文化の人たちがキリスト教に戻らなかった信者を無視したように感じるのは私の僻みでしょうか。
後日新聞の川柳欄にこんな句が掲載されました。
 「知らなんだ 隠れキリシタンと 思っていた」

 仲間の誰もが潜伏キリシタンを知らなかったが、どうやらこれからはカクレキリシタンより潜伏キリシタンなる言葉が
幅を利かせそうです。
話は滝の中の岩がキリストかマリア様に見えるだったが、平均年齢74歳で世間の汚濁に染まり切っている仲間の誰もが、
滝の中にキリスト教の神は見る事ができませんでした。

        
       モリアオガエルの卵(水中)                      モリアオガエルの卵(木の上)

  沢を渡り近道の急斜面を登って粟ヶ岳山頂への直登入口に着いた。ここで直登ルートか林道ルートか決めなければ
ならないが、中間の一人が 「今の登りより急なの?」 と聞くので 「今のはジグザクだったけど、ここは真っすぐで手を
使う場所もある」
と云うと 「じゃぁ林道コースの方がいい」 と言った。
それでも私が 「直登コースは林道コースに比べて距離も時間も半分以下」 と言ったが、最初に言った言葉に反論する
人は無く林道コースを行く事になった。

  前回は大きな石を投げ入れても割れなかった溜池に、モリアオガエルの卵が浮いていて、近くの木の葉の先端には
まだ水に落ちていない卵が幾つも付いていました。

 
     モリアオガエルの産卵(Hondaキャンプより)                      ヤマアジサイ

これを見た仲間の一人が 「蛙はあの枝先に卵を産むのだろうか?」 と疑問を投げかけた。
私は 「あんな細い所では蛙は行けないので、上で産んだ卵が徐々にずれ落ちてくる。」 と言い、ある者は
 「いや少し離れた所から勢いをつけて産み付ける。」 とか 「蛙は軽いから先端に行って産む。」 の意見が出た。
その場で結論が出なかったので後で調べると、どうやら蛙が葉の先端に行って生むが正解のようでした。

  アジサイは 「藍色が集まった」 を意味する 「集真藍(あずさい)」 から訛ったものという説が一般的らしいですが、
漢字表記の 「紫陽花」 は、唐の詩人白居易が別の花に付けた名が、平安時代に誤ってアジサイにこの漢字を当てた事で
広まったようです。フーン知らなかったな。
  
 
              「茶」の字の下で一服                             霞んでいた景色

  東山からの道に合流するまでは日陰で緩やかな道だったが、東山からの道になると坂は急になり陽を浴びるようになった。
生憎今日は遠くは、いや近くも霞んでいて景色は良くなかった。
 “茶” の字の案内の下で一服しながらの記念撮影。

  前回山頂にあった茶草で作った戌の置物は撤去されていたが、今日は5月5日の子供の日で山頂付近は賑わっていた。
茶屋の中も満員でだったが、これは我々には関係なく、昼飯は茶屋の外に座り込んで食べた。

       
                   阿波々神社に参拝                             粟ヶ岳山頂

    阿波々(あわわ)神社に参拝して無限の井戸や粟ヶ岳の山頂標識、磐座等を回りながら南平に向かう。
磐座は仲間ウォークでは昨年の直虎ブームで行った、引佐の天白磐座遺跡に次いでの見学です。特に感想も無かったので
 「磐座より上に神社があるのは不自然だ。」 と持論をぶってしまいました。

 
                 南平から                                  茶草場

  当然南平からの眺めも霞んでいてよくありません。
注意しながら茶草場の斜面を下れば、後は緩やかな下りが続く道ばかり。時間も予定通りなので自然とのんびりした歩きに
なってしまいます。
そんなとき中年の男性と女性の二人連れが登ってきたが、女性の方は大分疲れたようで杖にすがって歩いている。
 「頂上まで後どのくらいですか?」 と聞かれ、女性の歩き方から 「そうですね1時間以上はかかるでしょう」 と答えると
 「さっき道を間違えてしまって、途中で仕事をしていた人に聞いたら 「逆に歩いているよ」 と言われてしまって
引き返してきたけど、それが1時間ぐらいだったので間違えてなければもう頂上だったのに」
と妬ましげに言う。
何処で間違えたのか聞くと、倉真温泉から登ってきて、榎平で掛川方面に間違えて下ってしまったようだった。

 
                  榎 平                                 見晴しの丘

  榎平に着いてさっきの夫婦は何故間違えたのだろうと標識を見ると、前回は紙の標識だったのが、今回はプラスチックの
標識になっていた。表示は 「尾根ルート ⇦➩」 となっていて、確かに左矢印の方向が掛川方面に下る道を指している。
これでは事前調査をしない標識頼りのハイカーでは間違う可能性がある。
折角つけてくれた標識だが、ここのような四辻ではそれぞれの行先を書いた標識の方が分かりやすいと思う。
標識の向きを少し動かそうと思ったが、標識の “尾根ルート” とは何処を指してているのか考えてしまった。
粟ヶ岳に向かう林道は山の中腹を切り開いた道で、掛川に下る道は地図を見れば尾根道ともいえる。ならば標識の向きは
今のままで良さそうです。ウーン! これは再考の余地ある標識だ。

       
                    9号鉄塔                               けやきとぶなの夫婦木

  前回はハイキングコースと離れて展望台となっている9号鉄塔に登ったが、今回は私一人平らなハイキングコースを歩き
仲間だけ展望台回りにした。エヘヘ楽をしちゃった。

  前回気になった 「けやきとぶなの夫婦木」 に到着。今日は私の植物の師匠も来ているので早速聞いてみた。
 「ケヤキは合っているが、ブナの方はシイだと思う。シイはブナ科なのでブナと書いたのかな」 だそうです。

  最後に期待していたのはサンコウチョウだったが、姿はおろか鳴き声も聞こえませんでした。
ゴールの駐車場に2時20分に到着。ゆっくり歩いた5時間の行程でしたが何故か疲れます。
以前と違い短い距離でも歩き終わると結構疲れを感じ、翌日もその疲れが残ってしまうようになりました。
これが一時的な体調不良だといいんですが。

ネモフィラと藤(藤)

2018-05-06 11:40:04 | その他
  ひたち海浜公園を2時に出て、“東水戸道路” ひたちなかICで高速に入ります。何故か同じ路線なのに途中で “北関東道” に
名前が変わり栃木都賀JCT “東北道” に合流します。
ただこの東北道の上り線は大渋滞していて、JCTの大分手前からバスは少し進んでは停まりの繰り返しでした。
大渋滞の東北道を岩舟JCTで脱出して再び北関東道に入ると渋滞はなくなりホッとしました。
しかし次の渋滞は北関東道を佐野ラーメンで有名な佐野田沼ICで下りて、しばらく走った足利フラワーパーク近くになると
また始まりました。
  フラワーパーク近くになると道の両側には田圃を潰した無料駐車場が続いているが、空いていても入る気配は無い。
時刻は既に4時半を過ぎているので帰る車があるのだろうと、少しでも入口に近い駐車場を利用する気なのだろう。
結局ひたち海浜公園を2時に出て足利フラワーパークに着いたのは17時過ぎでした。

 

  足利と聞けば誰もが思い浮かべるのは 「足利幕府」 ですよね。ではその足利幕府から復習しました。
まず足利市のHPならきっと幕府の事を紹介しているだろうと見てみたが何の記述もありません。
で、足利幕府をネットで検索するとヒットするのは 「室町幕府」 ばかりです。
そうでした、そうでした。昔の歴史の授業では鎌倉の次の幕府は室町幕府と習った事を思い出しました。
そして室町とは足利氏が幕府を開いていた場所が “京都北小路室町” だったことからなんですよね。

とは言え、ここ足利は室町幕府とは関係ないのではなく、室町幕府の創始者・足利尊氏はここ足利市の生まれとする説も
ありますが、この説は傍証資料に乏しく最近では概ね否定されているようです。
しかし足利氏の出身地はここ足利市に間違いないようです。

     
         足利市の市票              足利(今川)氏の二つ引紋           鹿児島市の市票

  足利氏の紋は丸に十の字ならぬ、丸に二の字の “足利二つ引” です。この紋は駿府の今川氏の紋と同じなのは
今川氏が足利氏の分家に当るからのようです。
ではこの紋が現在の足利市の市標に使われていないかと思い、調べてみたら面白い事が分かりました。
足利市の市標は丸に二の字ではなく、丸(?)に足の字でしたが、この謂れについて足利氏のHPには
 「外側の線せんは古い鏡の形をあらわし、その中に『足』の字があります。日本で一番古い本、古事記に出てくる、倭建命
(やまとたけるのみこと)の子、『足鏡別王(あしかがみわけのきみ)』が足利市の地を治めていたという言い伝えから
この形ができました。」

成程、足利の元は “足鏡(あしかがみ)” だったのでそれが市標になり、地名は “あしかがみ” が訛って “あしかが” に
なったのか。納得。
しかし “足鏡別王” とは初めて聞く名前なので探してみると
 「ヤマトタケルの息子の一人である仲哀天皇が父を忍んで池で白鳥を飼おうとして、各国に白鳥を求めました。
越国から4羽の白鳥が献上されたのですが、これを宇治川で足鏡別王が白鳥を奪ってしまった。
怒った仲哀天皇は足鏡別王を誅殺してしまいます。これは実質異腹兄弟の争いで、兄の天皇が集めた租税の穀物(白鳥は米の穀物霊)を
弟の足鏡別王が奪ってしまった事だと思われる。」


  紋と云えば今流行りの “丸に十の字” の紋は、ご存知鹿児島藩の紋章です。
では現在の鹿児島市の市標はと調べてみると、矢張り丸に十の字をデザインした市標でした。

 

  栃木県も茨木県と同じように私には馴染みが薄く、栃木で思い浮かぶのは “日光” ぐらいの物でしょうか。
県名も茨木と同じように “栃の木が多い土地” から付いた、田舎の県と思っていました。
栃木より気になったのは県の古称である 「下野(しもつけ)」 です。
下野国はかって鬼怒川(毛野川)流域にあった 「毛野国(けのくに)」 が “下毛野国” と “上毛野国(かみつけのくに)” となり、
更に “諸地名好字二字” の一環で、下野国(しもつけのくに)と上野国(こうずけのくに)と改称したが、この時 “毛” の字は
消えたものの “け” の読みは残ったそうです。

  ついでに何故毛野国なったかと云う面白い説を紹介します。
 『毛の国に住んでいた「蝦夷」 の人の事を、古くは 「毛人」 と記したことから 「毛の国」 とする。』
確かにアイヌの人は毛深いイメージがありますが本当でしょうかね。

  足利フラワーパーク正面ゲートの横にはJR両毛線のあしかがフラワーパーク駅があります。両毛線とは栃木県小山駅と
群馬県前橋駅を結ぶ鉄道ですが、何故 “両毛線” なのか分かりませんでした。
それが今回の “毛野国” を知ったことでスッキリ理解できました。下毛野国+上毛野国だったのでした。


                               大 藤

  正面ゲート前のバス専用駐車場に着いたのは5時を過ぎていたが、チケット売場はまだ列が続いていた。
夜間はライトアップもされるようでそれを目当てに入る人も多いらしい。
これから1時間の自由散策になるが、先ず貰ったパンフレットで当園最大の目玉の大藤を見に行く。
樹齢150年の600畳敷きの藤棚とか、CNN(Cable News Network)に “世界の夢の旅行先10ヶ所” に日本で唯一
選ばれたとか、死ぬ前にもう一度再訪したい場所とか、は頭の中には色々な宣伝文句が蠢いています。
更に以前この大藤を移植した樹木医で浜松フラワーパークで理事長の塚本こなみ氏に、移植についての苦労話を聞いたことも
あり、ネモフィラの丘と同じように私も一度は見てみたかった場所です。


                                大長藤

  そして初印象は。マーこんな物でしょう。ガッカリもしないが感激もしない。多分豊田の “熊野の長藤” を見た事のある
人ならそんな感じになるでしょう。特に長藤に関して言えば熊野の方がもっと長い気がします。
広さはこちらの方が広いが、何しろ人が多くゆっくり感慨に浸るなんて訳にはいきませんでした。


                             白藤のトンネル

  藤と云えば香りが付き物だが、何故か余り匂ってこない。理由は大勢の人波による体臭や人いきれのせいなのか?
早咲きと云われる白藤のトンネルは隙間はあるもののまだまだ見頃だ。


                                白藤の滝

  名前が藤園ではなくフラワーパークと云うだけあって藤だけでなく色々の花が植えられていた。
ここには藤の他にテッセン、ツツジ、シャクナゲが咲いていた。


                             紫藤のスクリーン

  紫藤と書いてあるものの花は無く葉だけのスクリーンだった。既に咲き終わったのか? これから咲くのか?
どちらにしても花の気配が何も無いのは不自然に感じる。


                             きばな藤

  遅咲きのきばな藤が咲いていたがまだ少し早すぎるようだ。
黄色の藤は初めて見たのでネットの植物図鑑を見ると、別名 「金鎖(キングサリ)」 と紹介されていて、属名も藤はフジ属で、
きばな藤はキングサリ属と別だった。


                            池に浮かぶ花壇

  この植物園は狭いながらも水辺が多くあり変化を感じさせる。
ここではサフィニアを植栽した花壇を浮かべていた。


                             モネの庭?

  太鼓橋にもう少し丸みを付け、池の睡蓮を増やせば 「モネの庭」 にそっくりになる。
尤も “モネ” の名を冠すると多額の使用料を払うらしいので、見る人の感性に任せておけばよいが。


                            高台のツツジの海

  ツツジの海と名付けられた場所は少し高台にあり、ツツジの花越しに植物園を眺める事ができる。
ただ残念なことにツツジは既に最盛期を過ぎて萎れかかっていたが、それでも写真を写す気になるくらいは咲いていた。
1時間の散策時間だったが狭い場所の割には見るものが多く、時間が足りない状態でした。

  あしかがフラワーパークを18時に出て一路帰路に向かいます。
コースは北関東道・佐野田沼ICから高速に入り、岩船ICTで東北道に合流するのですが、渋滞がJCTの手前から
始まり、圏央道に入る久喜白岡JCTまで続いていました。
尤も渋滞と云ってもこちらはただ乗っている身で、やる事も無ければ悩み事も無く、居眠りしたり数独をやったりとのんびり
過ごしました。本来なら一杯やりたいところですが、焼津駅から運転をしなければならないのでここは自重します。

  結局焼津駅に戻ったのは予定の1時間遅れの11時50分でしたので、足利から約6時間掛かっています。
今回は朝約6時から夜12時までの約18時間の旅でしたが、散策時間はネモフィラの丘の2時間と藤園の1時間の計
3時間
だけで、残りの15時間はズートバスの中でシートベルトに縛られた状態でした。
しかしこのコースを自分で運手する気にはならないが、バスだと思った以上に楽に感じ、又どこかへ行きたくもなります。
と、久々のゴールデンウイークの旅行でした。

ネモフィラと藤

2018-05-02 10:11:24 | その他
  妻に 「ひたちなか海浜公園のネモフィラと足利の大藤に連れてって」 と頼まれたが、花の時季が大型連休に重なるので
 「渋滞するから嫌だ。」 と断っていた。
すると妻は 「車で行くのが嫌でしょうがツアーならいいでしょう」 と言って本当に申し込んでしまった。
日にちは4月30日とゴールデンウイークの真っ盛りだったが、自分で運転するのでなければマーいいでしょう。
ツアー間近になって送られてきたパンフレットを見ると、出発時間が朝5時50分で解散は夜の10時50分だった。
しかもその予定は大型連休以外も同じ工程なので、大型連休の最中では帰って来る事ができるか疑問だった。

  兎も角4月30日午前5時50分に焼津駅を一路茨木県に向かって出発した。
コースは焼津駅を出て静岡駅と清水駅で客を乗せ、清水から東名に乗り首都高に向かった。途中海老名SAでトイレ休憩を
して、渋滞が予想されていた首都高に入ったが、添乗員曰く 「こんなに空いている首都高は初めてです。」 というくらい
車の少ない首都高を快適に走り、常磐道から北関東道、東水戸道路を乗り継いで “ひたちなかIC” を降りた。
一般的にはその先の “ひたち海浜公園” で降りるのだが、一つ手前で降りた方が空いているとの判断だったが、ICを
降りて少し進むと渋滞は始まり、結局海浜公園翼のゲート駐車場まで渋滞は続いていた。

  あまり縁の無い茨木県に来たのですから茨木県について少し勉強をしましょう。
まず県名の茨木の謂れについては種々あったが、茨城の古くは “茨木” とも記されたことから “茨(いばら)の生えた地域” と
する説が妥当だと思われた。要は田舎だったんですよね茨城は。
と馬鹿にしたが、人口は全国11位で静岡県の次でした。イヤ~これにはビックリしたがさらに驚いたのは、静岡県の面積は
全国13位で茨城県は24位となっているのに、可住地面積(面積から林野と湖沼の面積を差し引いたもの)は茨木県は堂々の
4位だが静岡県は18位と大きく差を付けれれている。
これは茨木県は平地が多く(65%)住む場所が広いのに対し、静岡県は山岳地帯が多く済む場所が狭い(35%)からでしょう。
これではどちらが田舎なのか分からなくなりますよね。
ただ似ているの赤字空港がある事で茨城空港は2010年開港で、静岡空港は2009年とほぼ同じころです。
両空港とも首都圏に近いので、ドル箱の東京への便は無いので苦戦を強いられているのも同じです。

そうそう前々回のNHK朝ドラ “ひよっこ” の主人公が茨木県出身で、ドラマの中で 「イバラギではなくイバラキです。」
強調していたが、私もついつい “イバラギ” と言ってしまいます。

  県が終ったので次は市に行きましょう。
 「ひたちなか」 市はひらがな表記ですが、漢字では 「常陸那珂」 と書きます。
勿論 “常陸” は昔の “常陸国”からきているのですが、那珂は “常陸国那珂郡” からきているようです。
それより興味を持ったのは茨木県には “常陸那珂市” に “日立市” と “那珂市” がある事です。
中でも一番気になったのは日立市で、私は今まで日立製作所の企業城下町なので日立市だったとばかり思っていました。
ところがウイキペディアにはこんな話が紹介されていました。
 「1939年(昭和14年)に、旧日立町と旧助川町が対等合併したが、対等合併のためどちらの町名を使うわけにいかず、
日立鉱山が調停案として新市名に「常陸市」を提案するも協議不調になり、新市名は茨城県に一任されることとなった。
県はすでに日立鉱山と日立製作所が全国的に知られていることを理由に、新市名を日立市に決定した。
  日立製作所の成立以前から「日立村」という自治体は存在しており「日立」の地名は、徳川光圀によって名付けられたと
されるのが定説になっている。」
 
私は愛知県の豊田市と同じようように、企業城主に迎合した市名だったのかと思っていたが違っていました。

  そろそろ海浜公園に入ります。
公園の正式名は 「国営ひたち海浜公園」 と全国17ヶ所ある国営公園の一つです。
戦前は陸軍の飛行場に利用され、敗戦後は米軍射爆撃場として使われていたが1973年(昭和48年)に返還されました。
その後、首都圏整備計画の一環として国営公園として整備され現在に至っています。
当初は公園の砂質土に適した水仙やチューリップを栽培していたが、平成14年公共工事の建設残土を積み上げて造成した
丘に、他では見られなかった景観を演出しようと、ライトブルーのネモフィラを導入し “みはらしの丘” と名付けた。
これが大当たりして今では茨城県民の “県民が自慢したい話題” の1位に選ばれるほどになったそうです。

  ネモフィラってどんな花かって?


  和名のルリカラクサ(瑠璃唐草)は花色が瑠璃色で葉が唐草模様に似ているところから付いたそうです。
最近では白花や花弁の先に斑点あるもの、芯が黒くなったものも見かけるが、矢張り瑠璃色と云うか空色と云うか青い色の
ネモフィラが好きです。
この見晴らしの丘一面に植えられているネモフィラは全てこの空色のネモフィラですが、一部色抜けした白花も混じっていた。



  青い丘の上の青い空。カタカナで言うならライトブルーとスカイブルーの融合なんてものや、更に海のマリンブルーが
加わった青色の競演を見たかったのだが、今日の空は抜けるような青空ではなく、海もどんよりとした黒っぽかったのが
残念でした。



  我家の小さな花壇では毎年ネモフィラを植えていました。何しろこのネモフィラは栽培が容易で、種からでも簡単に苗が
作れるのが魅力でした。このネモフィラと矢張り種から蒔けるアリッサムが我家の庭の定番でした。



  ここひたち海浜公園は非常に広くて、大きく分けて森林エリア、みはらしエリア、草原エリア、砂丘エリア等に分かれていたが
自由時間の1時間50分で見学できたのは、みはらしエリアだけでした。
とは言え見学時間をこれ以上増やされてもとても歩いて回る気にはなれませんでしたが。

  焼津駅を5時50分に出て海浜公園着が12時頃でしたが、昼飯はバスの中での自由食です。
さらに出発が2時と中々忙しい行程です。